DVD名画劇場 詩人ジャン・コクトーの美しき世界

ジャン・コクトー

1889年フランス生まれ。
20歳の時に詩集を自費出版する。
ニジンスキーらバレエ関連人脈との出会い、モジリアーニらモンパルナスの画家との交流、シュルレアリストらと対立などの20年代を過ごす。
以降、映画、舞台、小説、脚本、評論などの活動を行う。

コクトーが映画に関わった契機の一つとして、30年代のトーキー初期に演劇界から、マルセル・パニョルとサッシャ・ギトリという二人が映画製作に乗り出した歴史があった。
コクトー自身は32年に「詩人の血」の脚本・監督で映画デヴューしている。
コクトーにとって、トーキー技術を獲得し日の出の勢いの映画は、芸術表現としても商業活動としても時代の先端を行くもので、その出会いは必然だったのだろう。

1943年にはジャン・ドラノワ監督の「悲恋」の原作・脚本で、44年にはロベール・ブレッソン監督の「ブローニュの森の貴婦人たち」の台詞で映画とかかわった。
そして46年には自らの初の商業映画監督作として「美女と野獣」を発表する。

ジャン・コクトー

コクトーは「美女と野獣」の製作に当たり、当時の人気スターで、彼が愛するジャン・マレーのために構想を練り、「画家フェルメールの光の使い方」で撮ることをカメラマンのアンリ・アルカンに要求し、美女と野獣の豪華な衣装と神秘的な古城の舞台装置を画家でファッションデザイナーのクリスチャン・ベラール、衣装担当のピエール・カルダンに委嘱した。
終戦直後の時代の観客を美しい別世界へ誘うことを制作動機として。

「美女と野獣」はフランス国内で大ヒットするとともに、46年度のルイ・デリュック賞を受賞し、コクトーの代表作となっただけでなく、次作以降の「双頭の鷲」(48年)、「恐るべき親たち」(48年)、「オルフェ」(50年)などとともにコクトー映画というジャンルを作り出した。

「美女と野獣」は、1948年1月、戦後初めてのフランス映画として日本で公開され、荒廃した当時の観客に大きな影響をもたらした。

コクトーの映画製作上のバックボーンは、20年代のアバンギャルド時代に培われた感性だったといわれる。

コクトーは俳優のジャン・マレーと終生の愛情で結ばれており、映画製作においてもマレーを主人公としたのだった。

「美女と野獣」  1946年  ジャン・コクトー監督  フランス

デイズニーアニメとしても再映画化され、一般名詞化さえしている名作のこれが映像化の原典。
もともとの出典はギリシャ神話をモチーフにした童話とのこと。

コクトー自ら出演するタイトルバック。
黒板に自ら主演者名・タイトルを板書し、『さあ童話の始まりです。開けゴマ…』と自筆のプロローグで物語は始まる。

「美女と野獣」オリジナルポスター

主人公は破産した船主一家の末娘・ベル。
二人のわがままな姉たちに仕え、エプロン姿で床などを拭いている。
シンデレラのような設定だ。
ただしシンデレラと違うのは、ベルには言い寄る男(ジャン・マレー)がいること。
いきなり画面に現れ、ベルにキスを迫る男。
カメラは男を避けるベルと、その豊かな胸元をさりげなくとらえる。

男(ジャン・マレー)の突然の求婚を避けるベル

ベル役に抜擢されたジョゼット・デエはこのとき実年齢32歳。
子役時代から舞台踊り子になり、18歳で舞台の大御所の愛人だったというから根っからのフランス女にして女優。
玄人そのものの経歴なのだが、くせのない美人顔もさることながら、身のこなしのあでやかさ、大事な場面での成熟した色気で、コクトーの起用に応える。

古城で野獣の供応を受ける着飾ったベル

「おとぎ話」に徹したこの作品は、ベルの実家の親兄弟の大げさな衣装や大げさな演技、また俗物性豊かで類型的な人物描写にその寓話性が強調される。

ただしこの映画の真骨頂は、ベルの父親が野獣の暮らす古城へ迷い込んでからの場面に訪れる。
壁やテーブルから腕が生え、燭台を支え、顔が暖炉の一部になっている。
これは古城の召使たちを表現したものらしい。

行く先々で自然に開く扉。
呪文を唱えると客を古城に案内する白馬。
「おとぎ話」らしい映画的表現だ。

古城で一晩過ごしたベルの父親が、ベルとの約束を思い出し、庭のばらを一輪もいだ瞬間、古城の主の野獣が現れ、見るものを驚かす。
野獣は理不尽にも、父親の身代わりをよこすか、それとも彼自身の死を迫るという唐突な展開!
「おとぎ話」的急転回である。
話を聞いたベルは父親の代わりに古城へ向かう、野獣がよこした白馬に乗って。

ベルが白馬に乗って古城に向かう場面。
黒いマントに身を包んだベルが白馬に横すわりに乗り込む。
白馬が歩み始めると敷地の柵が自然と開く。
黒いマントを馬上に垂らして横すわりで行くヨーロッパ婦人のシルエットは、ベルイマンの「処女の泉」を思い出させる。
霧にけぶったヨーロッパの森の静寂、幻想的な神秘性、その中で決然と己を運命にゆだねる娘の凛々しさ。
BGMはこの場面の勇敢さをたたえるかのように勇ましい。

コクトーの幻想的な場面創出はほかにもある。
たとえば古城の廊下をベルが歩くシーンでは、風を受けた長いレースカーテンがはためく長い廊下を、ドレス姿で舞うように歩を進めるベルをスローモーション。
古城の一室を抜けると、ベルの黒い地味なドレスが白い華やかなものに変ってゆくシーンもある。

ちょっとしたリアクションでベルが魅せる、手の動き、体のねじりがもたらす女性の「しな」。
バレエにもパントマイムにも似たその動きがもたらす何ともいえぬアクセント。

息も絶え絶えの野獣に手のひらで掬った水を飲ませるベル

ジャン・マレー(2役目)が扮する野獣のマスク越しの目の演技がいい。
野獣のマスクが、素の表情による演技を抑制し、野獣の目が持つただならぬ繊細さが際立つ。

ベルの驚いた眼差しが野獣を傷つけ、彼女の愛に満ちた眼差しが野獣を救う。
コクトーが崇拝するジャン・マレーに捧げた芸術家の魂だ。

ジョゼット・デエは、ラストで人間の王子(ジャン・マレー3役目)に戻った野獣を見つめる。
その目は、それまでに誰にも見せなかった、色っぽい流し目で、まさに恋を駆け引きする女の目だった。
これがコクトーの意図したものだとすると、開巻直ぐのマレーに迫られる胸元豊かなカットとの整合がつく。
ベルはただの孝行娘というだけではなく、恋を楽しむ健康的で肉感的な女性そのものだったのだ。
「おとぎ話」のヒロインを逸脱しかねない人間性をコクトーは描いたのか。

野獣は単なる高圧的な暴君ではなく、唐突で自己中心的だが、とてつもなく繊細で傷つきやすく、美的感覚に優れた存在だった。
コクトーが自身に、そしてジャン・マレーに重ねる理想像がそこにはある。

戦前のフランス映画というと、相手役を正面から見つめ、朗々と名セリフを吐く主人公のイメージがある。
対して、コクトーの主人公(野獣)は伏し目がちに愛をささやくイメージである。
そして愛をささやかれた美女は、最後にその流し目で主人公の愛に応えるのだ。

子供っぽく、繊細で純粋で明るさもある作品。

いわゆるフランス映画の黄金時代、クレール、フェデー、デュビビエらの流れとは別系統に、こういった芸術家の意匠あふれる作品が生まれるのがフランス映画の奥深さだ。

終戦直後の1946年に待っていたかのようにこういった作品を作るコクトーには敬意しかない。

「双頭の鷲」  1947年  ジャン・コクトー監督   フランス

コクトーの商業映画第2弾。
脚本もコクトー。

「双頭の鷲」オリジナルポスター

19世紀のヨーロッパの王国。
10年前に国王が暗殺され、王妃(エドウィジュ・フィエール)が後を継いでいる。
王妃は国民に慕われているが、反政府のアナキストや、それらを陰で操る警視総監一派が暗躍している。

王妃は国王の死以降、公の場ではベールをかぶったままで過ごし、舞踏会などにも顔を出さないことが多い。
心許すのは黒人の召使だけ。
その王妃が新任の朗読係と王宮の別宅へやってくる場面から映画は始まる。

王妃が欠席する盛り上がらない舞踏会、敵なのか味方なのかわからない新任の朗読係。
自室で死んだ国王と夕餉の食卓を囲む王妃の部屋に、けがをした若者・スタニスラフ(ジャン・マレー)がなだれ込む。
彼は反体制派のアナキスト詩人で、王妃の暗殺を企てていた。
そして何より死んだ国王に瓜二つだった。

王妃の自室に現れた傷だらけの暗殺者

馬で野山を駆け回り、射撃の腕も確かな王妃だが、スタニスラフを見た瞬間、反撃せず思わずその傷をナフキンで拭う。
突然現れた賊に、「武闘派」の王妃として毅然とふるまいながら、内心の動揺は隠せない。
やがて王妃はスタニスラフに国王の残した服を着せ、新しい朗読係としてそばに置き始める。
スタニスラフの存在は周囲に知れ始める。
スタニスラフは陰でクーデターを企む警視総監が放った刺客だった。
警視総監の戦略ミスは、王妃とアナキストの若き詩人が出合った瞬間に恋に落ちたことだった。

王妃とアナキスト詩人の恋、とはまるで学生演劇のようなシチュエーション。
それを臆面もなく、脚色・演出するのがコクトー。
期待通りの演技を見せるのがジャン・マレー。
このコンビは最高だ。
マレーの登場シーンにはコクトーの思い入れとこだわりが炸裂している。

ヒロインはフランス演劇界の重鎮。
若き日の舞台「椿姫」からベテランになっての本作など、品性ある熟年美人の貫禄を見せる。
演劇での実績、品性ある真の強さ。
「美女と野獣」のジョゼット・デエとの共通性を感じる。
コクトーの女優の好みなのだろうか。

「フロウ氏の犯罪」(1936年)出演時の若きエドウイジュ・フィエール

スタニスラフと出会って王妃は過去を振り返る。
国王が死んでからは孤独と暗殺の恐怖の、死を覚悟した10年間だったと。
そして彼女は自覚する。
愛するスタニスラフと出会ってからは、死を賭けてでも己の信ずる道を行くことを。

エドウイジュ・フィエールとジャン・マレー

「二人(王妃とスタニスラフ)の共通の敵は警察」、「二人は追いつめられた(ただの)男と女」、「二人は対等な関係」、と二人は確かめ合う。
二人は「双頭の鷲」として天国に行っても対等に愛し合おうと誓う。

ベールを脱いだ王妃は、警視総監との対決を決意し、軍服に身を固めて近衛軍とともに都へ進軍する覚悟を決める。スタニスラフとの愛も隠さない。
軍事力で進軍を阻まれたり、あるいはスタニスラフとの関係が国民に受け入れられ無かったら、死ぬまでだ。
不義密通で死罪を言い渡され毅然と引かれてゆく心中ものの吹っ切れた潔さに通ずる。
そこまでいかなくても、夫に死に別れた普通の夫人がいい意味で別な人生を歩み始める、という真理にもつながる。

二人はしかし現生での栄達には至らず、スタニスラフの服毒と王妃の道連れへと結末する。
愛する二人は永遠の愛を得る。

『政治は愛の前に無力だ』ラストのモノローグがこの作品を物語っている。

「オルフェ」  1950年  ジャン・コクトー監督  フランス

「美女と野獣」から4年を経て、すっかり商業映画らしい出だし。
町はずれのカフェに集う若き詩人たち。
カメラがパンしてゆくとジャン・マレーがいる。
コクトー満を持してのジャン・マレー登場シーン、ではない。
ジャン・マレーは、大向こうを張る主役でも、ピカピカの王子様役でもなく、狂言回しのような醒めた現代人の役だ。

「オルフェ」オリジナルポスター

ギリシャ神話「オルフェウス」を現代に翻訳したコクトーの脚本。
死の世界と地上の世界を行き来して物語は進む。

先のカフェに、若い売れっ子詩人を連れて、黒ずくめの女王(マリア・カザレス)が現れる。
オートバイの二人組が現れて詩人をひき殺す。
黒い車に死体を乗せて、ついでに居合わせたこれも詩人のオルフェ(ジャン・マレー)を呼び込んで、車は走り去る。
着いた建物で、女王とオートバイの二人組は鏡をすり抜けてどこかへ去る。
おいてゆかれたオルフェは困惑し、自宅に帰ってからも妻のユリデイス(マリー・デア)の心配も上の空、自分が見てきた世界が忘れられない。

マリア・カザレス

オルフェを自宅に送り届けた、死の国の運転手ウルトビース(フランソワ・ペリエ)がユリデイスを慰める。
コーヒーで接待しようとしてお湯を吹きこぼしてしまうユリデイスの仕草に、ウルトビースの好意を受け止める人妻の心情が表れる。

一方でオルフェは死の国の女王が忘れられない。
ガレージにこもってカーラジオから流れる死の国からの信号の受信に没頭し、懐妊したユリデイスのことも、彼女の友人の助言も無視する。
女王もオルフェを愛しており死の国への到着を待つ。
女王はオルフェを誘い出そうと、ユリデイスを死の国に連れてくることにする。

自転車で出かけて、例のオートバイ二人組に跳ね飛ばされて死んだユリデイスを追って、オルフェはウルトビースに頼み込み死の国へ向かう。
手袋をはめ、鏡を通り抜けて死の国へ入る。
ウルトビースはオルフェに「死の国で会いたいのは、ユリデイスか女王か」と問われ、逡巡した挙句、「両方だ」と答えるが、見抜かれている。

死の国では査問会が開かれている。
女王、ウルトビースら死の国の使者たちが使命を果たしているか、違反を犯していないか。
女王とウルトビースは地上での越権行為の疑いをもたれている。
越権行為とは、女王がオルフェを愛して呼び寄せようとしたり、またウルトビースがユリデイスに対する好意を原因としてオルフェを死の国に案内したことだった。
査問会はオルフェに対し、ユリデイスの姿を決して見ないことを条件に地上への復活を認める。

さて自宅に帰ってきた二人だったが、ついてきたウルトビースの手助け無くては一瞬も暮らせない。
決してユリデイスを見てはいけないのだから。
オルフェの心には女王への愛着が占めている。
果たして二人の運命は・・・、そして愛に悩む死の国の女王はどうなるのか・・・。

日本版ポスター

「美女と野獣」「双頭の鷲」の豪華絢爛なコスチュームプレイは、マリア・カザレスの衣装の豪華さはあるものの、舞台は50年当時の現代。
もっとも、コクトーが本当の舞台としたのは「死の国」であり、「死の国」と現代を結ぶ「鏡」に象徴される境目である。

死の国の女王であっても現代の詩人を愛し、死の国の運転手であっても心優しい人妻に好意を持つ。
女王は、査問会の厳罰を受ける覚悟で、愛する詩人の現世的幸せを実現させる。
これは、自然な人間性を賛美するコクトーらしさであり、また人間の尊厳に対するコクトーの己の存在をかけたリスペクトである。

鏡を通り抜けたり、フィルムの逆回しによる生き返りを表現したり、幻想シーンの演出はこれまでのコクトー作品のように思いきっている。

この作品ではまたコクトーの余裕を感じることができる。
例えばオルフェが警察署へ向かう何気ない場面で路上で遊ぶ少女をフレームに一瞬出入りさせたり、ユリデイスの友人に長い黒髪を何気なく振り上げさせる「しな」をつけたり、死の国へ向かう途中の冥界に「鏡売りの男」を登場させたり、コクトーらしい「遊び」の演出があったことである。

マリア・カザレスの黒いマントを引きずる場面の物々しさ、オルフェの死を願う場面でのカザレスの目(瞼に絵で描いた目を貼り付けている)、ユリデイスを死の国に連れてきたときに黒いドレスから白に変る場面(「美女と野獣」でベルが古城の部屋に入る時にドレスが変わる場面と同様)。
カザレスの起用はコクトーにとって、強く、毅然として尊厳に満ちた女性像の到達地点なのだろう。

ユリデイス役のマリー・デア。
シュトロハイムと共演した40年代のサスペンス作品では、おとり捜査に協力する女子大生役で出演し、活発な演技を見せたことがった。
題名は忘れてしまったが、軟弱な変態役のシュトロハイムともども印象に残った。
活発な女子大生役だったマリーさんが、貞淑で理性的な若妻役に成長して元気な姿を見せていたのもうれしかった。

DVD名画劇場 戦前ドイツ映画の栄光VOL.2 レニ・リーフェンシュタール〈後編〉

ベルリンオリンピックとレニ・リューフェンシュタール

第11回オリンピック・ベルリン大会は1936年に開催された。

当時はナチス党がドイツの政権を握り、首相はヒトラーだった。
ドイツ国内のユダヤ人迫害は始まっており、国際社会(アメリカのオリンピック協会やユダヤ系の有力選手ら)は、ベルリン大会のボイコットも示唆しながらドイツのユダヤ人政策に抗議した中での開催だった。

ドイツはオリンピックを国威発揚の場ととらえ、ヒトラーはベルリン大会の準備を、ドイツ政府のスポーツ・レクレーション委員会幹事を務めてきたカール・デイーム博士に委任した。
博士は前回のロサンゼルスオリンピックを参考にさらに最先端の技術を用いた。
新式の得点表示器、トラック競技の写真判定装置、フェンシングの電気審判器などだった。

また、博士は4000人の選手村の設置も監督し、フィンランドの選手用にサウナ、日本選手団のために畳、アメリカ用にアメリカ式マットレスなどを用意した。

大会の規模、技術的進歩、大衆化などで、近代オリンピックのエポックメイキングとなったのがベルリン大会だった。
映画という媒体に記録され、拡散したことでも画期的な大会となった。

ドイツ政府は、ベルリン大会の記録映画の撮影をレニ・リューフェンシュタールに委嘱し、そのための映画会社(オリンピック映画会社)の設立を認めた。
リーフェンシュタールは、オリンピック映画会社を通じて予算獲得など映画製作を行った形を取ったが、同社の予算は全額がドイツ政府の出資によるものであり、製作準備、撮影なども政府の特別の便宜に基づいていた。

『彼女(リーフェンシュタールは)できるだけ様々な視点から、できるだけ多くの撮影を試みなくてはならなかった。』(「ドイツ映画の偉大な時代』1981年クルト・リース著 フィルムアート社刊 P475より)

「レニ・リーフェンシュタール」リブロポート社刊
同・奥付き

リーフェンシュタールは、撮影に臨んで競技日程、場所などを把握し、綿密なスケジュールを立てた。
メインクルーに6人のプロカメラマンを用意し、ほかに10人のアマチュアカメラマンを観客席に放って観客らの反応を捉えた。
トラック沿いにカタパルト式の移動レールを設置してランナーをカメラでとらえ、風船にカメラを乗せて飛ばした。また、飛込競技を捉えるために水中カメラを開発した。
前もってIOCから、撮影上の様々な規制を受けながらも、フィールドに穴を掘り、選手の感情を捉えるべく肉薄したり、ドラマチックな盛り上げの再現のために実際の選手と役員に競技を再現させたりした。

『彼女(リーフェンシュタール)は、いつも黒いコート姿のアシスタントたちに囲まれて、その白いコートを際立たせていた』(「レニ・リーフェンシュタール 芸術と政治のはざまに』1981年 グレン・B・インフィールド著 リブリポート社刊 P222より)

「ドイツ映画の偉大な時代」フィルムアート社刊
同・奥付き

編集に18か月をかけ、400,000メートルの撮影済みフィルムを、前後編合わせて約6000メートルにまとめて、「オリンピア」は1938年2月に完成した。

「オリンピア第一部・民族の祭典」  1938年  レニ・リューフェンシュタール監督  ドイツ

前後編に分かれて編集された「オリンピア」の前編。
開会式と陸上競技が収められる。

開会式に至る映画のプロローグ。
「意志の勝利」ではユンカースの飛行から、メルセデスオープンカーのパレードまで会場に至るプロローグを流れるようにまとめ上げたリーフェンシュタールは、オリンピックの開会に合わせて、古代ギリシャの彫像から、競技に挑む若者、神に踊りをささげる女性にオーバーラップさせ、成果の点灯からベルリンまでのランナーを象徴的に演出する。
ベルリン大会から始まった、ギリシャ・オリンピアから開催地までの聖火ランナー。
地図上でルートを追い、町々の様子を捉える。
夕暮れの海岸を一人走り続けるランナーは神々に火を届けようとする神話の一場面のようだ。
大会の主宰者・ドイツと記録者・リーフェンシュタールの意志と狙いが一致した場面だ。
ドイツにおけるベルリンオリンピックは当時の政権の権勢発揚だけではなく、国の歴史と尊厳をかけての催しだたことがわかる。

海岸を走る聖火ランナー

聖火ランナーがベルリンのスタジアムに到着した場面。
塔上のファンファーレはともかく、聖火ランナーの背後からスタジアムの門と満員の場内を捉えるカメラは、臨場感がたっぷりに観客らの高揚感が捉えられている。
この場面は撮り直しではないだろうからリーフェンシュタールら撮影クルーの周到な準備と、当日の果敢な撮影が行われたことがわかる。

選手入場はトップのギリシャをはじめ、オーストリア、イタリアなどの友好国がナチス式の敬礼で行進。
意外なのはフランスの選手もナチス式の敬礼だったこと。
軍隊帽をかぶった日本選手団は一般式の敬礼だった。

演出するリーフェンシュタール

いよいよ競技開始。
映画は、円盤投げ、ハンマー投げ、やり投げ、高跳びなどのフィールド競技やトラックの各種目を順々に捉えてゆく。
この時代のオリンピック陸上種目の上位選手は北欧、西欧、北米の白人選手だったことがわかる。
ドイツ、イタリア、イギリス、アメリカ、カナダなどの白人選手が活躍し、スタンドは盛り上がる。
欧米にとって平和で活気ある時代だったことだろう。
日本選手も友好国ドイツの大会だからか大規模な選手団を派遣しており、中距離走や跳躍競技に有力選手が出場している。

フィールドに穴を掘って撮影

日本選手がらみの「撮り直し」場面は、棒高跳びの場面で使われる。
優勝決定まで8時間を経過し、日没後に決着を迎えた棒高跳び。
西田選手と大江選手が2位、3位に入賞、優勝はアメリカの選手となるが、優勝を争った西田とアメリカ選手の跳躍前の様子と、暗闇での跳躍場面、決着後の握手などは撮り直された映像だった。
この「撮り直し」、のちの日本でのリーフェンシュタールらと西田選手らの幸福感に満ちた再会の写真を見ても、必ずしも選手らに負担ばかりを負わせたものではなく、むしろ彼らをして映画の「出演者」としての達成感や充実感のようなものをもたらしたのではないかと思われる。
リーフェンシュタールの「演出者」としての満足感はもちろんのことだったはずだ。

棒高跳びの撮り直しシーン

「民族の祭典」において、別の意味でリーフェンシュタールの興味を引き、完成した作品で多くを割いたのは、当時100メートルの世界記録者、オーエンスの躍動する肉体と、意外だがマラソンの孫の死力を尽くした極限の姿で、特にオーエンスについては競技の様子はもちろん、その前の緊張感やオフのリラックスした姿などが時間をかけて捉えられている。
当時のナチス政府は、黒人などを差別する政策だったが、リーフェンシュタールはヒトラーの好みより芸術家としての自分の好みを優先したことになる。

当時の様子として、走高跳が男女とも鋏飛びであったこと、短距離走ではスタートブロックは使われず、トラックに穴を掘って足場にしていたこと、やり投げのフォームは現在とほとんど変わっていなかったこと、マラソンではjタウを脱ぎ上半身裸で走る選手がいたこと、棒高跳びの着地点が平板な砂だったこと、などなど興味深い歴史的記録でもあった。

当時の観客が見れば、遠い異国のオリンピックという興味のほかにも、手に汗握る競技のスリルと盛り上がりを堪能したのだろうと思われる。

「オリンピア第二部・美の祭典」  1938年  レニ・リューフェンシュタール監督  ドイツ

前編と同時に撮影・編集された「オリンピア」後編は、陸上競技以外の模様が収められている。
といってもスタジアムで行われた十種競技(トラック、フィールドの代表競技の総合種目)がそれなりの尺で収められおり、ベルリンオリンピックの、何よりリーフェンシュタールの関心が圧倒的にスタジアムの陸上競技にあったことがわかる。

「美の祭典」としてまとめられた競技には、球技、水泳、馬術、自転車などがあるが、「民族の祭典」の描写よりどこか淡々としている。
むしろリーフェンシュタールの関心は作品の中にわかりやすいほどに表われており、それは飛び込み、馬術などにおける人間の(特に男性の)肉体美と躍動、危険なスリルなどである。

撮影するリーフェンシュタール

「美の祭典」は選手村の朝のシーンから始まる。
水面に反射する光、木洩れ日、鳥のさえずり。
夢のような田園のごとき選手村の朝。
裸で湖水に飛び込み、サウナで汗を流す男子選手たち。
フィンランド選手団をモチーフとしたようだが、どうみてもスケッチ的な描写ではなく、ねっとりとした己の美学に基づいて演出されたこのシーン。
ゲルマン神話的なリーフェンシュタールの、そして当時のドイツ権力者たちの理想に基づく場面だ。
「民族の祭典」では、古代ギリシャ神話を題材とした導入シーンを持ってきたリーフェンシュタールが、ここでも自分のこだわりに忠実なプロローグシーンを作りだしている。

「美の祭典」にはスタジアム競技がほぼ出てこないからか、観戦するヒトラーなど権力者たちは写っていない。
そこにいるのは馬術競技の審判・運営の軍服姿のドイツ軍人だったり、ヨット競技でのドイツ軍艦のスタートの号砲だったり水兵の姿だったりする。
彼等は必ずしもナチスではなく、国防軍だったりするのだろうが、競技の現場で目立つ軍服姿は時世を嫌が上でも感じさせる。
リーフェンシュタールは得意げに、また必要以上に軍人の姿を強調している。

リーフェンシュタールが好んだのが飛込競技で、これでもかと繰り返される。
太陽をバックにシルエットに塗りつぶされて空中を舞う選手のシルエット。
当時の飛び込みは空中姿勢が重要だったようで、筋肉隆々の選手たちが、空中姿勢を誇りながら、派手なしぶきを立ててザッパーンと飛び込む。
現在はいかに静かに入水するかを競うのであろうが、当時のスタイルの方がリーフェンシュタールの好みにアピールしたことが想像できる。

飛び込みのワンシーン

馬術のワイルドさが現在からは想像もつかないことも衝撃的だ。
谷に向かって障害が置かれたコースに次々と落馬する選手たち。
そもそも障害のコースが今のように整備された馬場でなく、野原や林を縫って設定されている。
障害には大きな池も設定されてもおり、人馬ともどもずぶ濡れになる。
騎手が振り落とされ、馬が怖がって動かず、馬ごと転倒する。
その荒っぽさがリーフェンシュタールの琴線に触れたのであろうか、馬術競技の尺も長い。

「日本版」には存在するという水泳女子200メートルの前畑選手の場面はない。
本作品が「オリジナルドイツ語版」だからだろう。

『政府の目的は、ナチ・ドイツとヒトラーのためのプロパガンダ製作にあった。そしてリーフェンシュタールは、意識的にせよ無意識にせよ、この目的を申し分なく見事に達成したのだった』(「レニ・リーフェンシュタール 芸術と政治のはざまに』1981年 グレン・B・インフィールド著 リブリポート社刊 P263より)

DVD名画劇場 戦前ドイツ映画の栄光VOL.2 レニ・リーフェンシュタール〈前編〉

レニ・リーフェンシュタール

1902年ベルリン生まれ。
マレーネ・デートリヒの1つ年下。
裕福な両親の元幼少からダンスに熱中し、一時は国内でダンサーとして有名になるがケガで挫折する。

1924年ベルリンで「運命の山」という山岳映画に出会い感銘を受け、主演のルイス・トレンカーに会いにドロミテ地方という山岳地へ。
後日、ベルリンで監督のアーノルド・ファンクと会い、次作「聖山」の出演契約を結ぶ。
山岳経験もスキーも初心者だったが、撮影と並行して習得に努力し、その後ファンクの作品に出演していった間に、登山、スキーなどに関して熟達していった。

ファンク作品に出演しいて学んだのは、山岳のすばらしさと映画製作、特に編集について習得したことだった。

編集するリーフェンシュタール

この間、「嘆きの天使」キャステイングと撮影のためにドイツを訪れた、ジョセフ=フォン・スタンバークの元にも売り込みに出かけるが、スタンバークは無名のマレーネ・デートリッヒに決めており、不発だった。

1932年には、当時政権を握る直前だったナチス党のヒトラーの演説を聞き感銘を受け、手紙を書く。
後日ヒトラーから面談の申し出があり、その後の「意志の勝利」「オリンピア」の製作につながる。

以上は、「ナチの女神か?20世紀最高の映像作家か?(20世紀映像論のために)レニ・リーフェンシュタール」(平井正著 1999年晶文社刊)からの要約です。

本著表紙
本著奥付
本著カバーより

ここまでのリーフェンシュタールの半生は、目立ちたがりというか自分の欲望達成のためには直情径行、最大限の努力を払い、目指すところ(ファンク、スタンバーク、ヒトラー)に直談判を辞さず直行するという特性を見せています。
それに付随して登山、スキー技術、編集技術など、必要な技術習得に努力を惜しまず、それぞれ最高レベルのものを習得しています。
それは、山岳のすばらしさ、編集の要諦などに必要な感性を、彼女が備えていたことを示します。

平井正の著書もそうですが、ナチスとともにリーフェンシュタールを完全否定するのが、マスコミに限らずのお約束になっています。

ですが、同著113ページの写真を見る限り、リーフェンシュタールの卓越した記憶力と「オリンピア」で記録された演者(アスリートたち)の間の幸福に満ちた関係性を認識せざるを得ないのです。
1977年に74歳で来日したリーフェンシュタールに「オリンピア」の出演者でメダリストの田島直人(64歳)と西田修平(67歳)が駆け付けた際、彼女は二人に「ニシダ?タジマ?」と呼びかけ、元アスリートらは「レニさんいつまでも若いなあ」と応じたというのです。
これは旧作名画の監督と出演者が後日再開したときのような光景ではないでしょうか。

又、当時日本人として金メダルを受賞し、戦後韓国に戻った(自身の受賞記録を日本から韓国に変更させた)マラソンの孫基赬も、ソウルからリーフェンシュタールに会いに駆け付けたというのです。

本著P113より

青の光  1932年  レニ・リーフェンシュタール監督  ドイツ

滝が流れ落ち、牛が遊ぶ山岳地方サンタマリア。
ドイツ領からイタリアへ入ったあたりの山間の村。

山の放牧小屋で、牧童の少年と暮らすユンタ(レニ・リーフェンシュタール)をめぐる物語。

19世紀になるころ、馬車で村にやってきた絵描きがいた。
村の居酒屋に水晶や珍しい木の実を売りに来たユンタという娘を見掛ける。
裸足でボロボロのスカートを身に着けた姿。
村人は、里から離れ、だれとも交わろうとしないユンタを蔑視(畏怖)している。
ユンタが、訳アリの存在(非常民、異民族、異教徒など)でまた、山岳に象徴される自然と交流できる存在であることがわかる。
村の若者は自分たち「常民」の外の存在であるユンタに、常民同志ではしない卑猥な誘いをかけることもある。

「青の光」のレニ・リーフェンシュタール

これまでアーノルド・ファンクの山岳映画で鍛えられてきたリーフェンシュタールの山との親和性が見事。
ロングショットで、身一つで岩山を上り下りする彼女の姿が捉えられる。
この映画のもう一つの主人公がアルプスにつながる山岳そのものであることがわかる。
そのうえで、破れたスカートの裾から素足を太腿まで出して動き回るユンタに、泰然とした自然に対比する人間の女性の生命、生々しさを表現するリーフェンシュタールの自作自演が際立つ。

劇中、岩山をよじ登るリーフェンシュタールを捉えるロングショット

村には「満月の夜、山が青い光に包まれ、若者が山に引き込まれて転落死する」という言い伝えがある。
その原因がユンタにあるとして村人が彼女を追いかける。

一方、画家はユンタに興味を持ち、山の放牧小屋にたどりつき、ユンタと少年と小屋に逗留する。
画家に対してはユンタも心を開く。
が、画家は村に帰って水晶の場所を村人に教えてしまい、挙句収奪された水晶で貧しい村はバブルってしまい、ユンタは絶望し死んでしまう。

後年、自動車でサンタマリアにやってきた旅行者は村の少女にユンタの写真をイコンにした土産を売りつけられ、少女の説明により彼女の伝説に接するのであった。

本作はリーフェンシュタールがそれまでのキャリアとしてきた山岳映画を舞台に、自らの主演で伝説のヒロインを描き上げたもの。
一筋縄でいかないのは、舞台の山岳そのものに十分なリスペクトを表現していること、またのちのドキュメンタリスト・リーフェンシュタールの面目躍如?なのか、サンタマリアという村そのものに民俗学的とでもいうべき興味を示していること。
実際の村人を採用し、その表情を捉えるカットには芝居では表現できない深さがあった。
決してリーフェンシュタールが自らの悲劇のヒロイン性にのみ酔った作品ではなかった。

サンタマリア村の住民役にはロケ地に村人が出演した

ただ、リーフェンシュタールが一番描きたかったのが、ユンタという女性像だったのは事実。
破れたスカートから太腿をむき出し、岩山をよじ登る。
その生命と動きを表現したかった。
実年齢が29歳のリーフェンシュタールはユンタにはややトウが立ってはいたが、余人をもって代えがたし。

ユンタに扮するリーフェンシュタール

リーフェンシュタールの表現者としての意欲、欲望が前面に出た作品ではあるが、一方で余白を彩る様々な視点の豊かさが、余韻をもたらした作品でもあった。

「意志の勝利」  1935年  レニ・リーフェンシュタール監督  ドイツ

1934年、ドイツ・ニュールンベルグで開かれたナチス党大会を記録した作品。

当時のドイツは、第一次大戦敗戦の天文学的な賠償金支払いによるハイパーインフレと心理的ダメージにより国民の閉そく感が広がっていた。
一方、ヒトラーが率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)は、国民の閉そく感打破の期待のせいか、1932年の選挙で第一党となり、やがてヒトラーが首相指名された。
翌年の第6回ナチス党大会は党大会と称しながら、国家による国威発揚を掲げてのものと区別がつかないものとなった。

「青の光」に感銘を受けたヒトラー以下ナチスの首脳部は、一方で映画を重要なプロパガンダ装置と認識し、利用しようとしていた。
1942年から44年にかけてのドイツ国内の映画人口は10億人を超えており、ナチス首脳によるプロパガンダとしての映画の位置づけは的を得ていた。

そういった背景にあって、自らの欲望に忠実で、映画界の権力者に一直線で取り入る行動力を持つリーフェンシュタールとナチスの出会いは必然であった。

ドイツ国民の空気が「労働者重視、積極的な公共投資(アウトバーン建設など)、減税、農業重視、若者優遇」を高らかに謳うナチスに現状打破の期待を持っていたことは事実だった。
一方で過激な反共、反ユダヤ金融主義を掲げ、挙句は国会放火など直接暴力に訴える野蛮さへの忌避反応があったことも事実だが、ドイツ国民が過半数には満たぬまでも選挙で第一党にナチス党を選んだこともまた、事実だった。

ドイツ人の映画監督(兼女優)として売り出し中だった、目端の利くリーフェンシュタールが、ドイツ国民の救世主として時流に乗っていたナチスに「一枚かんで出世して権力者になって」やろうと思わない方が不思議だ。
そのためにリーフェンシュタールはナチスの協力者として生涯の烙印を押されることになったが。

ナチス党というよりヒトラー個人に支持されたリーフェンシュタールは、党大会の記録映画に着手した。
120人のスタッフ、16人のカメラマン、30台のカメラ、各チームの録音、照明スタッフ、22台の撮影用自動車が動員され、38メートルの高さを上下する撮影用エレバーター、20メートルの移動レールなどが準備された。

移動車で撮影するリーフェンシュタールら

一方、党大会そのものの準備には、アルバート・シュペアーという建築家による会場設計と式典の演出があった。
ニュールンベルグのツェッペリン飛行場を会場に、ベルガモ神殿を模した巨大な建造物を建て、ドイツの象徴・金色の鷲を頂き、巨大な柱からはハーケンクロイツの旗を何本も垂らした。
ベルガモは古代ローマ時代に発展した文化で、その遺跡をドイツが発掘したという因縁があった。
リーフェンシュタールはヒトラーの全面協力の元、これら大時代的なセットの上部、側面に撮影用機材を取りつけ縦横無尽にカメラを回した。
時にはカメラマンにローラースケートを履かせて撮影した。

ナチスの大物たちは、会場を思うがままに動き回るリーフェンシュタールを妨害した。
カメラマンを締めだし、移動レールを解体し、投光器を消した。
「撮影しているリーフェンシュタールを見にニュールンベルグへ来たわけではない」というわけだった。

だがもともとがナチスの政策上の事柄を何も知らず、関心もなかったリーフェンシュタールにとっての最大の関心事は、演説と行進にまみれた素材からどうやって退屈ではない映像を編集できるか、にあった。
そのためには、行事の時間的順序を入れ替え、気に入らなかった場面はスタジオで撮り直しさえした。

巨大な鷲の象徴とリーフェンシュタール

ヒトラーが乗ったユンカース輸送機がニュールンベルグを目指す開巻シーン。
空中からユンカースを捉える晴れやかでスピード感豊かな空中撮影。
機影が町をかすめるカット。
リーフェンシュタールがファンクの映画(「SOS氷山」)で体験した影響がみられる。

飛行場から会場までのパレード。
ヒトラーが乗ったメルセデスのオープンカーを捉える移動ショット、ヒトラーの肩越しに沿道の群集を捉えるショット、遥か上空から車列を捉える俯瞰ショット、の流れるような編集。
その合間には熱狂して迎える市民たちの表情がカットインされる。
それほど関心を示さない、貧しい庶民の顔もはさまる。
ハーケンクロイツの旗の下にたたずむ猫の姿も。
ドイツ映画の理論的な伝統の上に、リーフェンシュタールの個人的眼差しを加味したカットも挟まった編集がテンポよい。

ニュールンベルグ上空に到着したヒトラー専用機・ユンカース
ニュールンベルグの街中を行くベンツオープンカーのパレード

会場に集まった党員なのか、国家的動員なのか、若者たちのテント村が整然と並ぶ。
朝になり身支度して、薪を炊事場に運ぶ。
給食、レクレーションまでの整然とし、はつらつとした動きは新生ドイツの未来を表す!

同時に、教会の鐘の音、民家の煙突から立ち上る煙の描写もある。
新生ドイツは働く庶民の味方である!

アルプス地方の様々な民族衣装を着た女性らが来賓に集まる。
新生ドイツは国内の民族融合を目指す!

ヒトラーとゲッペルスに挟まれるリーフェンシュタール

副総裁ルドルフ・ヘスの開会宣言から大会は始まる。
日本代表の姿もある。
来賓の挨拶。
ヒトラーの演説。
どれもカンペを見ずに勢いよい。
皆、労働の大切さ、農業(自給自足)の大切さ、若者への期待を謳いあげる。

大会は夜も続く。
夜にクライマックスを持ってくるように、サーチライト、松明、花火などで演出したのも、全体の設計者シュペアーとのこと。
参加者の活力に驚く。

ヒトラーはハーケンクロイツの腕章を巻いているが、胸にはドイツ国防軍の印である鉄十字のワッペンをつけている。
首相になり、国軍を指揮する立場となったことを示している。
演説でも再三にわたり「一つのドイツ」のフレーズが出てくる。
ドイツが様々な地方の歴史と地理的区分をもった連邦国家であることがわかる。
ドイツ国家全体の指導者としての立場をヒトラー自身が意識していることも。(大会の直前に、ヒトラーは盟友の突撃隊長レームを銃殺している。ライバルの粛清であり、またナチス党を主義者のみのものから、国全体のものにしようという政治的判断である。)

「神殿」に軍勢が勢ぞろいする大会のクライマックス

後半の行進(ナチス党員の行進なのか、一般民兵の行進か)のシーンでは、鉄十字をつけた国防軍の将校がナチス式ではなく、一般軍人式の敬礼をするカットも収められている。(ドイツ国防軍がナチス党大会に初めて参加した年だったという)。

ハーケンクロイツの巨大な旗を支える柱の途中に、撮影用のエレベータが上下しているのが見えるカットもある。

路上でカメラを据えるスタッフとリーフェンシュタール

約1週間の大会の最終日、見ているこちらも疲れ切っている。
ヒトラーの閉会演説、内容は変わらないのだがカンペに目を再三落としながらしゃべっている。
これでは最近の日本の政治家と変わらない。
威勢のいいことを言って陰で利権をむさぼっているだけではないか政治家は、との疑念は・・・当時の庶民はそこまで疑わないか。
まあ、ヒトラーは象徴として存在していることは空気感で伝わっているが。

DVDパッケージ表

壮大な舞台装置と一糸乱れぬ大衆行動を主軸とした国家プロバガンダ大会は、その様式のみが、ソ連、中共、北朝鮮などの国家、創価学会などの新興宗教に換骨奪胎して受け継がれた。
その表面的模倣には歴史の学びも、ポリシーも感じられないが。

またリーフェンシュタールが示したドキュメンタリーの手法は、記録映画などに一般的手法として受け継がれ、定着している。

新生ローマ時代からの歴史を持つニュールンベルグでは、戦後、戦勝国よる軍事裁判が開かれた。
この場所が、ドイツの戦犯を裁く地として選ばれたのは、戦勝国による見せしめ、意趣返しによるものであることは明らかだった。

DVDパッケージ裏

上田映劇と「ルノワール・新しい波」

山小舎開きの後、久しぶりに上田映劇の情報を検索すると、ジャン・ルノワールの晩年の2作品「コルドリエ博士の遺言」と「捕らえられた伍長」を上映しているので駆け付けた。

特集上映のパンフ表紙
特集上映のパンフより

2作品は1960年前後に製作され、公開時に本国でヒットしなかったこともあり、日本では劇場未公開だったり、上映機会が少ないもの。
4Kレストア版の本作を配給したのは、株式会社アイ・ヴィー・シー。
生涯映画を愛し語った、淀川長治氏の理念に基づき、映画の配給、販売を行う会社だという。

昨年1年は訪れることのなかった上田映劇はいつも通りに営業していましたが、建物全体の活力というか現役感がさらに少なくなったような気がしました。
モギリ、映写にかかる人員が、支配人ともう一人のお兄さんだけで、ロビーは常に人気がないというのも例年通りながら、寂しさがより極まっている気がしました。

この日の上田映劇前

「コルドリエ博士の遺言」  1959年  ジャン・ルノワール監督  フランス

戦時中アメリカに亡命し、ハリウッドで5作品を撮った後、アメリカを離れ、インドで「河」(51年)、イタリアで「黄金の馬車」(53年)を撮ったルノワールは、本国に帰還して「フレンチ・カンカン」(54年)を撮った。
が、その後の「恋多き女」(56年)から「コルドリエ博士の遺言」(59年)、「草の上の昼食」(59年)、長編劇映画の遺作となる「捕らえられた伍長」(61年)に至るまで、商業的にも作品の評価的にもに恵まれず、失意のまま映画界を離れることになった。

本作「コルドリエ博士の遺言」は、ルノワールがフランス国営放送のスタジオに入り、作品の解説を語り始める場面で始まる。
劇場公開とテレビ放送が同時に行われるという、方法的にも実験的な背景を持った作品だった。

複数のカメラで同時撮影するというテレビ的な手法で作られたこの作品。
なるほど、大掛かりな移動撮影もなく、スタジオの芝居を平板に捉えたり、アップが多かったり、テレビ的な画面が多い。
と同時に、芝居を途切れずに撮るテレビの撮影方法は、俳優の気持ちや流れが途切れることなく捉えることができ、この作品に貢献している。

俳優の芝居の『途切れなさ』でいうと、この「ジキル博士とハイド氏」を下敷きにした作品の見どころでもある、別人格のハイド氏の変身ぶりについては、主人公ジャン=ルイ・バローのメイクと独特の動きに一番表れている。

バローが人格者のコルドリエ博士から、変態怪人・オパ-ルに変身した際の動き!
まるで人格が解放され、子供に戻り、常識から自由になったかのようなうれしさに溢れた姿。
舗道をステッキを振り回し、首を突き出し、きょろきょろと飛び跳ねながら、少女の首を絞め、障碍者の杖を突き飛ばす。
たばこを吸い散らかしながら、あらゆる屁理屈をまき散らし、追及者をけむに巻く。
こんな人物、実在しないか?

「吸血鬼ノスフェラトウ」(1922年 FW・ムルナウ)の吸血鬼、「カリガリ博士」(1920年)のチェザーレなど、かつてスクリーンに跳梁した怪物たちは、どこか愛嬌があったり、人間社会に接点を持ちたがったりした。
現代のパリに表れ、真昼の舗道で人間にちょろちょろちょっかいを出すオパールは、ルノワール版の愛嬌を持つ怪物なのだった。

オパールにメイクで変身するバロー。ルノワールが覗いている

ルノワールらしさは、魂への影響というコルドリエ博士の研究を真っ向から批判する、ライバルの精神医学博士の描写にも表われている。
ひっきりなしにタバコを吸い時間と面会者に追われ、秘書や面会者を怒鳴りつける現代の犠牲者のようなこの博士は、ジャック・タチの「僕の伯父さん」に出てくるすべてが自動電化製品に支配された暮らしを送る、俗物性の塊のっような人物(ユロ氏の義弟)のようだ。

オパールの解放された人間性(凶悪さ、残忍さを含め)を、常識という価値で判断していないところがルノワール。
それよりも、現代人に特有のグネグネとし、背中が丸まった、多動的なオパールの動きを60年も前に予言していたかのようなバローが衝撃的だった。

「恋多き女」以来脚本家としてまた芸術観衆として協力してきたジャン・セルジュは証言したという。
『「コルドリエ博士の遺言」の編集に立ち会ったが、撮影されたフィルムの内容に愕然となった。演劇なのか、テレビなのか、映画なのかわからない代物が出来上がっていた。ジャン=ルイ・バローのやりすぎのせいで、つなぎようのない写真になってしまっていた。実験的な映画だったが、結果は失敗だった。』(「ジャン・ルノワール越境する映画」2001年青土社刊P183)

65歳にして、仲間内からでさえこういった評価を受ける作品を撮るルノワール。
最後まで彼らしいではないか。

特集上映のパンフより

[捕らえられた伍長」  1961年  ジャン・ルノワール監督   フランス

第二次大戦でフランスがドイツの侵攻を受け、休戦を申し入れるあたりの記録映像で始まる。
ドイツが応じ、休戦協定が結ばれる。
休戦とは聞こえがいいが実態はフランスの一方的な負けであり、ドイツは実力でパリに進駐する。

このころの捕虜キャンプ。
本降りの雨の中、大きなトランクを引きずりながら「俺がいなきゃ牛の世話はどうなる?女房が一人で大変だ」とフランス兵の捕虜がキャンプを出て行こうとしてドイツ兵に止められる。
雨の中、簡単なテントの中で、軍靴から雨水を開け乍ら、三々五々過ごすフランス兵たち。
「休戦なのになんで我々が捕虜なんだ?」

この作品の登場人物は、自宅のことが心配でキャンプを勝手に出て行こうとしたり、戦争に負けた捕虜の自覚がなかったり、かといって本気で占領軍に抵抗する気などさらさらなかったり。
フランス人らしいというか、ルノワール的人物たちというか。

「捕らわれた伍長」撮影風景

ジャン=ピエール・カッセル扮する主人公の伍長には唯一無二の友情に元ずく仲間がいる。
ことあるごとにその友情を最優先する。
脱走を試みて、当然に友人を誘う。
友人はメガネを落としたことにして、脱走からエスケープする。

のちに友人は通訳としてキャンプで物資に恵まれた生活を送るが、再会した伍長に自身の弱さを吐露する。
伍長は落胆はするが責めはしない。

伍長はその後も再三にわたって脱走を繰り返す。
脱走はドアを開けるとガチョウが部屋に乱入してきたり、同行者(最初のシーンで牛と女房の心配をしていた中年の捕虜)がガラクタの入ったトランクをぶちまけたりして失敗する。

ルノワールの捕虜脱走ものといえば「大いなる幻影」だが、ここにはそのスリルも、祖国に対する忠誠も、荘厳なプライドも全くない。
あるのは、フランス兵たちの平時の職業のあたりまえさだったり、兵士としての使命より個人の感心だったり。

最後に脱走に成功してパリで伍長と別れる捕虜は「戦争時代の方が、身分格差がなくてよかった。パリに戻るとまた格差の世界に戻る」と話す。

最後の脱走の途中、伍長たちはフランスと国境地帯の農村を通る。
そこにはフランス語を話す農夫と、ドイツ語を話す農婦が暮らしていた。
独仏で領土問題を抱えた地域で暮らしているのだろう。
「農婦の夫はソ連兵に殺された。いずれは結婚するつもりだ」と農夫は話し、国境への道を伍長に示す。

緊張感などさらさらない。
ドイツ軍の将校は自転車に乗って捕虜の前に現れる。
ドイツに対する余裕を持ったカリカチュア。

友情、庶民性、自由、人間の弱さ、各自のてんでに向いた価値観に対する尊重、泰然としたユーモア、国境・国籍を凌駕した本当の意味でのグローバル。
これらが満載した映画。
ルノワールの世界。

牛と女房を心配し、トランクを引きずってキャンプを出ようとした中年兵はのちに「女房が若い男と家を出た」との知らせを受ける。
いろんなことがあるもんだ。

特集上映のパンフより

ルノワールは夫人デイド宛の手紙で『大変満足しています。(中略)質の高い、そして僕を買ってくれる何人かの友人たちを失望させないだけの一風変わった作品を生み出すことができたと思ています』(「ジャン・ルノワール越境する映画」2001年青土社刊P190)と書き残している。

この作品に対する一番の評価ではないか。

ラピュタ阿佐ヶ谷「東映現代劇の名手 村山新治を再発見」より 佐久間良子を「再発見」

さて、名画座ラピュタ阿佐ヶ谷の「東映現代劇の名手・村山新治を再発見」特集もいよいよ佳境。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフ表紙

村山新治監督は「警視庁物語」シリーズが有名だが、そのほかにも三国廉太郎と組んでの諸作など、現代劇で力を発揮していた。

「警視庁物語」捜査一課の面々。神田隆主任、堀雄三刑事ほか。右端は千葉真一

なかでも佐久間良子の出演作を撮る機会が多く、今特集では初期の貴重な主演作品に接することができた。

佐久間良子

1939年東京生まれ。
57年、題4期東映ニューフェイス、同期に水木襄、山城新伍ら。
58年「美しき姉妹の物語・悶える春」でデヴュー。
早くから東映東京撮影所のホープ女優として注目される。

佐久間良子

今特集での上映作「故郷は緑なりき」はデヴュー以来50本以上の出演作を数えた時点の作品。
それまでのキャリアは3年ほどながら、京都撮影所での時代劇で千恵蔵、右太衛門の両御大とも共演し、アクション映画にも出演。
のちの愛人である鶴田浩二とも「砂漠を渡る太陽」(60年)で共演、というか出会いを果たしていた。

60年代は佐久間が大女優へのキャリアをスタートさせる時期となり、演技開眼といわれた「人生劇場飛車角」(63年 沢島忠監督)での鶴田浩二との情感あふれる濡れ場から、代表作となった「五番町夕霧楼」(63年 田坂具隆監督)、「越後つついし親不知」(64年 今井正監督)など水上勉の描く薄幸な女性像に挑戦するなど、東映の看板女優として活躍、作品の高評価と合わせ各女優賞を受賞した。

「人生劇場 飛車角」
「五番町夕霧楼」のセットで、原作者の水上勉と
「越後つついし親不知」

60年代中盤からは映画を離れ、舞台・テレビで活躍。
1983年には「細雪」(市川崑監督)の次女役で久々に銀幕へ復活。
2012年には日経新聞の「私の履歴書」に自伝を連載した。

「故郷は緑なりき」  1961年  村山新治監督   ニュー東映

佐久間良子23歳になる年の作品。
自身で映画化を望んだというから、そろそろ東映も佐久間主演の作品をと考えていた頃なのだろう。

モノクロで地方ロケそれも北陸、スターの出演も少なく低予算、監督は東京撮影所の警視庁物語でデヴューした職人派。
いつでも「撤退」できる態勢での制作だった。
配給が2年もたずに解消した東映の第二配給網・ニュー東映上映館への提供作品だったというのもこの作品の背景を表している。

オリジナルポスター

原作は思春期小説で有名な宮島武夫、脚本は木下恵介の妹の楠田芳子。
設定は昭和25年前後の新潟柏崎と長岡。

ヒロインに電報で呼ばれ、列車で東京から長岡に帰る主人公(水木襄)の回想シーンから物語が始まる。

当時の柏崎と長岡のロケによる駅や街の様子が貴重だ。
ロケ当時の1961年は、舞台設定の1950年とそう大きくは変わっていないであろう柏崎のローカルな駅の風景と、人の気配で賑わっている長岡駅前。
昭和の時代は、戦後のどさくさと貧しさが地方には残る一方、中核都市は人で賑わい、個人商店が軒を連ねていた時代だった。
列車の乗客も多かった。

毎朝同じ列車で見かける高校生同士(旧学制だから中学生と女学校か?)。
混んだ列車のデッキに迎え入れてから仲良くなり、毎日同じ列車で帰るようになる。
美人だが友人のいない長岡在住の少女と柏崎のあばら家に住む親を失った少年。
二人はお互いの家を行き来し、写真を交換するようになる。
少女に横恋慕する不良学生がいたり、そもそも当時の校則は男女交際を禁止していたり・・・。

「故郷は緑なりき」撮影風景

佐久間良子のセーラー服姿にまずはノックアウトだ。
駅にたたずみ、土手を歩き、草原に座る。
夏は浴衣姿で少年の家に現れたりする。
佐久間の顔はこのころから、後年まで変わっていない!
もちろん年齢相当に若いが、すでに女優として完成している。
可憐なセーラー服姿から、終盤の恋に悩み、決然とし、妖艶でもある表情まで、一人の少女の芽生えと惑いと成長を表現している。

ひょっとしてこの少女の存在は幻ではないか?
「雨月物語」に出てくる姫のように、男を惑わす魔性なのではないか?
あるいは少年の思春が作り出した幻想なのかもしれない?
そう思う程、はかなく幻の存在。
次々に少年の前に現れては彼を惑わす。
そういえば、長岡の少女の実家へ少年が訪問するシーンでは、少女の実家の実感のなさが印象的だった。
父親は留守だといって現れないし。
この場面は「雨月物語」の魔性の姫が、荒涼とした草原を屋敷だとだまして男を幻惑し虜にするあの場面に相対したものか?

そうでないのは少女の姉(大川恵子)が茶菓でもてなし、その彼女の存在が、美人ではあるが、極めて実存的に描かれていることでもわかる。
作品はファンタジーではなかったのだ。
佐久間良子の姿が観客にとっての「ファンタジー」ということなのだ。
主人公の姉のキャステイング、東映京都撮影所の三人娘・大川恵子が特に呼ばれての出演だが、この物語の少女の姉役として、浮世離れした美人ぶりが適役だった。

大川恵子

佐久間良子の一途で恋に悩む表情。
幼いラブシーンで醸し出す情感。
それらはすでに彼女がこの後すぐに「人生劇場飛車角」「五番町夕霧楼」などでブレークする準備が整っていたことを示していた。

オリジナルポスター
ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

「草の実」  1962年   村山新治監督   ニュー東映

戦後の小豆島が舞台、家同士の確執と溝の深さがテーマ。
壷井栄の原作を「故郷は緑なりき」の脚本楠田芳子と監督村山新治が、佐久間良子、水木襄のコンビで映画化。
単に悲恋メロドラマにしなかったのは、原作の重みなのか、脚本家と監督の真面目さなのか。
ある意味衝撃的なラストでした。

オリジナルポスター

親戚筋だという隣り合った二つの家、母屋と新屋。
母屋の主婦は教師として働く杉村春子。
新屋の祖母は気丈な浪花千栄子。
この二人が両家の確執の象徴を演じる。

実情は一人息子の水木襄に甘甘で、縁談に一生懸命な杉村だったり、孫娘(佐久間良子)に愛情を注ぐしっかり者の浪花なのだが、お互いのこととなると決して相いれない溝がある。

一方で両家の息子と娘は、好意を持ち、将来の約束をしている。
二人の代で対立を解消しようと思っている。

プレスシート

お互いの家族や村の目を気にしながらのデート。
それでも絶対に交際を許さないお互いの家族。
水木の縁談が進められていると知って島を出る佐久間が乗ったフェリーに水木が乗ってきて、一晩、改めて互いの気持ちを確認する。
しかし本人たちの気持ちを無視して進められる縁談。
味方と思っていた、水木の父親(宮口精二)や佐久間の父親(神田隆)までがいざというと、家同士の縁談に賛同したり、お互いをあきらめるように諭す・・・。

映画は両家の根深い日常的な対立の様子を丁寧に描写する。
水くみの仕方や、表面上の挨拶に隠れた互いの陰口など。
大学卒業間近の一人息子に対する杉村春子の執着と佐久間への拒絶ぶりが、杉村一流の演技で活写される。

一見母屋に対しては遠慮する浪花千栄子も、杉村のかたくなな拒絶の姿勢に、それ以上のかたくなさで対抗する。
この二人の直接対決の場面は後半に訪れる。

両家の確執は単に感情的なもつれだけではない。
母屋の主(宮口)と新屋の亡くなった叔母が毎晩忍び合うほどの中だったが、宮口の婚礼の当日に、宮口の子を身ごもった叔母が井戸に投身自殺した経緯があったのだった。
それを知って動揺する水木と佐久間だが、将来の決心は揺るがない。
母屋では水木の結納が、杉村と、「寝返った」宮口によってにこやかに行われていた。

さて映画の結末は?

オリジナルポスター

自殺した叔母さんがそうだったように、運命に導かれるように、母屋の石垣をよじ登って水木の部屋へ忍び入る佐久間。
それを抱きかかえる水木。
これがラストシーンだった。

結論は描かれない。
駆け落ちしたのかもしれないし、「家」から逃れられない己の運命を受け入れたのかもしれない。

この時代の日本人は圧倒的に後者の道を選んだことでもあろう。
それがその人の幸せとなったかは別問題だが。

敢えてハッピーエンドとしなかった製作陣にはあっぱれと言いたい。
乱造時代のニュー東映作品とはいえ、会社期待のヒロイン佐久間良子の主演作である。
会社のトップから文句は出なかったのか?

昭和の時代まであった家同士の確執、その背後にあるどろどろとした怨念の様なもの。
映画はきれいごとではないそれらを描こうとしていた。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

佐久間良子は実年齢23歳になる年の作品。
私服姿はすでに若妻のように重みがあり、役年齢18~19の初々しさはなかった。
演技面では、新時代(戦後)の女性らしさを出そうと、デートシーンでは水木とじゃれ合ったり、活発な女性像を表現しようとしていたが、彼女が輝くのは逆境に悲しむ女性像を演じたときなのだった。

翌年の63年には彼女の代表作「人生劇場 飛車角」と「五番町夕霧楼」が生まれることとなる。

「肉体の盛装」 1964年  村山新治監督  東映

作品の宣伝文句は『「五番町夕霧楼」「越後つついし親不知」に続き佐久間良子が三度「女」を演じる』。

愛人・鶴田浩二との濡れ場で演技開眼し、水上文学の主人公を体現するかのような存在感で自身の代表作とした佐久間良子が、名作「偽れる盛装」(1951年 吉村公三郎監督)のリメークに挑んだ。
カラーで撮られ、2本立てのメイン作品として封切られた(併映は渡辺祐介監督、緑魔子主演のモノクロ作品「牝」)。

オリジナルポスター

会社から「村山と佐久間で1本撮れ。」と言われ、「偽れる盛装」の脚本を渡された村山監督。
京都にも宮川町にも全く縁がなく、脚本を書いた新藤兼人や監督の吉村を訪ねた。
新藤は「京都なんて昔から変わらない」と答えたという。

撮影に京都撮影所の坪井誠を呼び、衣装や踊りには京都から専門家を呼んで臨み、『京都らしさ』の演出は彼らに任せて撮影に臨んだ。

当時の新聞広告

一見華やかな京都の芸者とお座敷の世界。
その実、芸者の犠牲によって成り立つ世界。
狭い世界にいつまでも尾を引く嫉妬。
水商売同士で『格式』を争うみみっちさ。
無理して見得を張った男どもの末路。
その中で、自らの美貌を前面に体を張って男からむしり取る芸者君蝶を佐久間が演じる。

君蝶が生まれついたのは京都宮川町の「お茶屋」(芸者を抱えた店は『置屋』というが、ここでは酒を提供していたから『置屋』ではなく『お茶屋』なのか?)。
母親(丹阿弥谷津子)は舞妓時代に大店の旦那に身請けされた売れっ子だったが、その恩を忘れず、大店が左前になったときに「お茶屋」を抵当に入れて大店の二代目に金を援助するような人。
そんな母親に苛立ちつつ、一方で、妹(藤純子)を市役所に務めさせ、自ら水商売の前面に立つ君蝶。

プレスシートより

和服姿が映える佐久間良子のこれは当たり役の一つ。
若いころのセーラー服、水上文学での長襦袢姿もよかったが。

「偽れる盛装」の京マチ子の、丁々発止の怒鳴りつけるようなセリフの掛け合いはできないが、独特の間があり、それが佐久間良子独特の凄味をじわじわ滲みださせる。
何より美形だ。
すべてが終わった時の、放心したような諦観したような表情もいい。
佐久間良子の「偽れる盛装」として、この作品は成り立っている。

京の都の一見華やかで権勢と金力が飛び交う舞台でありながら、一方の立役者の女達の存在基盤の危うさ、それが崩れたときの悲惨さ。
つまりは京都の宮川町の女たちは実のところ人権もない社会の底辺の住人なのだ。

「警視庁物語」シリーズなどでは、スラム街や水上生活者などの描写を通して社会の底辺を描いてきた村山監督だが、本作では直接的な描写はない。
一見華やかなお座敷や舞台の描写に徹しているが、だんだんそれらのケバケバしさが影を持つように見えてくる。

プレスシートより

宮川町に取材して書き上げたというオリジナルの新藤脚本は、水商売の世界のリアルさの表現として、君蝶や妹に「泥水をすする商売」「こんな商売やめて暮らしましょう」などと言わせてもいる。
案外は中の人のこれが本音なのだろう。

君蝶の母のエピソードで、彼女が援助したかつての旦那に店を訪れ、死んだ旦那の本妻に挨拶する場面がある。
床に伏した老女となった本妻(村瀬幸子)が起き上がり、「(かつて)妾呼ばわりして悪かった」と言いい、母は過去の恩讐を忘れて受け入れる。
名女優村瀬幸子のワンシーンのみの出演だったが、互いの真心が描かれる。
泥水の中にも花が咲くこともあるのだ。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

『どうしょうもない』京都の古い世界で、ドライに徹して男から収奪し続ける君蝶は、ある意味古い社会構造への反逆者だった。
君蝶の度を過ぎた男たちからの収奪に、かつての太客たちは零落してゆく。
自業自得とはいえ、血迷ったかつての太客に逆上され、華やかな踊りの衣装のまま刺される君蝶。
刺されなくてもいずれ衰弱死したであろう芸者の末路。

ラストシーンはお茶屋同士の確執を振り切って、藤純子と江原真二郎の若いカップルが東京へと駆け落ちしてゆく。君蝶が逃げ場を絶たれた遮断機が開いた踏切を渡って。

残された京都は「変わってなんかいない」(新藤兼人)まま続いてゆくのだろうが。

ラピュタ阿佐ヶ谷「東映現代劇の名手 村山新治を再発見」より 「警視庁物語」シリーズ その2

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフ表紙

「東映現代劇の名手 村山新治を再発見」より、「警視庁物語」シリーズを引き続き鑑賞する。

「警視庁物語 遺留品なし」  1959年  村山新治監督  東映

シリーズ第11作。
村山監督は本作が一番好きだという。

実はこれ、前作「108号車」と同時に撮影された作品。
同時撮影は、当時時々あった撮影法らしく、予算削減とスピードアップのため、例えば捜査一課内のシーンを2作品分同時に撮影してゆき、編集で2作品に分けるというもの。
粗製とはいわないまでも乱造を極めた当時の東映でよく行われていたらしい。

同時に撮った「108号車」が本筋のみを追い、枝葉のエピソードをのぞいたシンプルな構造だったのに対し、本作「遺留品なし」は、思いっきり枝葉のエピソードを取り込んだものになっている。
従ってテンポがゆっくりし、犯人に絡む女性たちの心理描写に力がそそがれている。
村山監督の好みは、女性心理の裏表や、人間味あふれる社会風俗の描写にあることがわかる。

製作はシリーズの生みの親の斎藤安代、脚本は長谷川公之という鉄壁の布陣。
音楽は富田勲。
67分の中編だ。

アパートで30歳独身の女性他殺死体が発見される。
遺留品のない現場で数少ない手がかりをたぐって捜査一課の刑事たちが捜査に散ってゆく。
捜査一課長役の松本克平は現場に立ち会うだけの出演。
主任役の神田隆の指揮の元、堀雄二、花澤徳衛、南廣、山本麟一らのレギュラーメンバー。

手がかりは害者が電話交換手だったことと、部屋の残された30万円分の株券。
職場の同僚の証言から、害者が結婚相談所に登録し、付き合っていたらしい男がいたことがわかる。
一方、株屋の営業マンからの情報でプライベートな男関係が浮かび上がる。
同時に所有する株券の番号も入手する。

捜査過程での花澤徳衛刑事の描写が楽しい。
痩せて生活感丸出しの中年刑事を演ずる花澤が、巧みに聞き込み対象者の懐に入り込み、首を突っ込むようにして貴重な情報を探りだす。
張り込み中の喫茶店で何気なくメニューをのぞくと『待てば海路の日和あり』の文字があったりする。
村山監督のユーモア好みのカットだ。
なお、今回はカツ丼は出てこない。

村山監督のこの作品でのこだわりは、女優の選択に色濃い。
有名女優は、犯人の情婦役の星美智子くらいで、あとは地味だったりニューフェースの新人女優だったりを起用。
犯人による結婚を匂わせた詐欺の被害者には薄幸そうな美人女優の東恵美子を、交換手仲間のおしゃべりな情報提供者には蓮っ葉な感じの女優(谷本小夜子)を、さらに参考人(木村功)の遊び相手で偽証する女子社員には派手な感じの若手女優(八代万智子)を配役。

タクシーの運転手で貴重な情報をもたらす女性にはジーパンの似合うボーイッシュな女優を、最後には犯人の被害者の一人として若き日の杉山徳子を使っている。

この念が入ったキャステイング、薄幸美人とブスと崩れた色気のオンパレードではないか。
東美恵子はのちに「白い巨塔」で院長夫人を演じ、八代万智子は「プレイガール」で活躍し、杉山徳子の実力ぶりは定評がある、とはいえ。
ちなみに村山監督が「顔のない女」「108号車」で使っていた、ねんねこを背負う生活感のある女性像へのこだわりは、本作でもワンカットの登場があった。

犯人の情婦役・星美智子

戦後の安定期を迎えるこの時代、住宅地には未舗装の道路が残り、安アパートと粗末な商店が軒を連ね、都電が走っていた東京。
30代を迎える未婚の女性達の裏の実像は、結婚相談所と称する男女出会いの場だったり、株式投資だったりにあったのだ。
そしてそこはオールドミスを食い物にする犯罪者の生息域でもあったのだ。

同僚の他殺を聞いて、その男関係を嬉しそうにペラペラしゃべる女、犯人に経済的にも性的にも搾取されながら信じる気持ちを否定できない女。
これら社会の「実情」を遠慮なく描写する村山監督の、これが監督一流の「ドキュメンタリータッチ」なのだろう。

捜査一課の部屋の片隅で、犯人の逮捕を聞きながらうつむく、東美恵子扮する被害者女性。
事件が一段落し、電気スイッチを消そうとして、彼女の存在に気づき、優しく退室を促す神田隆主任がいい。
『もっといい人がいますよ。これからは、そういう人と幸せをつかむんですなあ(意訳)』という昭和の刑事そのままのセリフを吐きながら。

「警視庁物語 12人の刑事」  1961年  村山新治監督   ニュー東映

火山口へズームしてゆく画像をバックに「ニュー東映」のロゴが入った三角マークが浮かび上がる。
1年ほど続いた東映の第二配給のロゴで幕が開ける。
本作は、併映作を「ファンキーハットの快男子・二千万円の腕」として、ニュー東映のメイン作品として封切られた。

京都と東京の撮影所で、毎週4本を撮り上げなくてはいけなかった当時の東映の殺人的なスケジュール。
ニュー東映の番組の「本編」として、90分の尺を埋める代わりにそこそこの製作費をあてがわれたこの作品。
作品の枝葉のエピソードをたくさん用意して尺を伸ばす工夫を行い、松島への長期ロケを行うなどして費用もかけている。
が、その分、展開のスピード感が薄れ、時には凡長ともなった?
ロケによる効果も『ドキュメンタル』なものよりも『紀行的』なそれとはなっていなかったか?

オリジナルポスター

シリーズも第17作となり、ネタを考える脚本家も大変だったろう。
エピソードには、過去のシリーズ作品の繰り返しも見られる(課員総出で交通事故報告原簿を調べ車両情報から犯人を割り出す徹夜のシーンなど)。

シリーズの基本精神は『刑事の個人プレイやヒロイズムを排し、地道な捜査を淡々と描き、捕物的なアクションは最小限にとどめる』、『捜査対象の庶民の姿を、当時の社会の実情を隠すことなく描く』。
これは変わっていない。
犯人に騙された女性に対する眼差しや、あるいは情報提供者の野次馬的な無責任ぶりに対する突き放した視点も共通している。

プレスシートより

松島のホテルで発見されたハイミスの殺人死体。
手掛かりは、白浜の旅館のネーム入り石鹸箱。
まずは、白浜が和歌山なのか千葉なのかの特定から捜査がスタートする。

千葉の白浜の旅館を特定し、地元の巡査と聞き込みに行く。
いつもながら、地道というかリアルというか、警視庁勤務法務医の経歴の脚本の長谷川公之らしい展開が冴える。
白浜の旅館主が、野球好きの地元のボスで、選挙違反であげられてから警察には非協力的だという設定も味がある。
野球はこの作品のキーワードの一つともなる。

捜査一課の刑事たち(レギュラーの堀雄二、花澤徳衛、山本麟一に、若き日の千葉真一も加わっている)は宮城県警から出張の二人とともに、主任(神田隆)の指揮の元、真夏の東京へと散ってゆく。

宮城県警から出張した二人の刑事を迎えて、夜の課内でささやかな一杯を行うシーンでは、庶民的な警察部内の日常が描かれる。

封切り当時の新聞広告より

被害者はパチンコ店勤務のハイミス。
聞き込みにパチンコ屋二階の住み込み部屋を訪れる。
下着姿で、布団の上ではしゃぐ若い女店員たちの生活感。
被害者にコナをかけていたクギ師を犯人と仮定するが、その男は店の金を横領し夜逃げしている。
『パチンコ屋の女店員』、『クギ師』といった今は死語となった存在が出てくる貴重な場面。
シリーズ「顔のない女」では今はなき昭和の歴史遺産、ダルマ船が一つの舞台として取り上げられてもいた。

本作では被害者や犯人?の線から、ストリップ小屋、ガラス工場、ゴム工場、パチンコ機製造工場、スラムにある被害者の実家などを舞台にした聞き込みが行われる。
それぞれが短い尺ではあるが、そこで描かれるのは劣悪な環境での労働だったり、未来に希望がない若者たちの享楽性だったりだ。
登場する役者も、被害者の父親役に殿山泰司を配した以外は、若い無名の俳優たち(東映のニューフェースや大部屋俳優)を使っていてそれが効果を上げている。

いつものように捜査一課の室内全景を捉えるカメラアングル。
画面の隅や奥では、山本麟一がシャツの着替えをしていたり、千葉真一がどんぶり飯をかっ込んでいたりする。
個人的なヒーローはおらず、刑事全員が主役であり、もっといえば捜査一課の部屋が主役であるといわんばかりの構図だ。
これがいい。

刑事役の花澤徳衛の比重はますます高くなっていて、張り込みでは若手を指揮している。
また最後に出てくる真犯人の愛人(佐久間良子)を説得し捜査に協力させるという重要な役を担っている。
佐久間良子は「顔のない女」でのようなチョイ役ではなく、出番は限られているが犯人逮捕に至る重要な役で出演。主役級の女優として、場面を引き締めている。
花澤刑事と愛人佐久間と、犯人曽根晴美の三人が、追いつめ追いつめられる緊張感に満ちた新橋駅前のロケは、シリーズらしいドキュメンタルな迫力に満ちていた。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

曽根晴美扮する真犯人は、東映の土橋投手の先輩のプロ野球選手崩れという設定。
新橋広場の街頭テレビの野球中継で投げる土橋投手を見つめながら逮捕されてゆく。
曽根晴美本人が、東映フライヤーズの選手だったことがあり、ケガで引退後にニューフェースとなったという。
二重三重に『野球』が伏線となったドラマでもあった。

ラピュタ阿佐ヶ谷「東映現代劇の名手 村山新治を再発見」より 「警視庁物語」シリーズ その1

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフ表紙

「警視庁物語」シリーズ

「警視庁物語」シリーズは、東映東京撮影所で1956年に始まり、1964年まで全23作が製作された人気シリーズだった。

舞台は警視庁捜査一課。
一課長(松本克平)と主任(神田隆)を中心に10人ほどの捜査員たちが都内に発生する事件に地道な捜査を続け解決に至るまでの一話完結ドラマ。
全作品がモノクロで撮られ、上映時間は60分から90分で、多くが時代劇の添え物作品として封切られた。

シリーズ通しての脚本は長谷川公之。
千葉大医学部出身で警視庁法医学室に勤務した経験を持つ。
学生時代から執筆活動を続けており、1957年には警視庁を退職して文筆に専念した。
映画化脚本に「警視庁物語」シリーズのほか、「危険な英雄」(57年 須川栄三監督)、「陸軍中野学校」シリーズ、「女賭博師」シリーズ、「密約 外務省機密漏洩事件」(88年)など。

配役はレギュラーの刑事に神田隆、堀雄二、花沢徳衛、南廣、山本麟一、のちに千葉真一など。
ゲストには、今井健二、曽根晴美、室田日出夫、潮健児ら当時の東京撮影所若手俳優陣をはじめ、山村総、木村功、加藤嘉、小沢栄太郎、田中春夫、山茶花究らを単発招集。
また女優陣には高橋とよ、菅井きん、沢村貞子、千石規子、星美智子、浦里はるみら芸達者のほか、岩崎加根子、小宮光江などの若手女優の名も見られる。

「警視庁物語 顔のない女」  1959年  村山新治監督  東映

シリーズ第9作。
村山新治監督はシリーズ第5作目の「警視庁物語 上野発五時三十五分」で監督デヴューしている。

オリジナルポスター

土曜の午後、半ドンが終わった昭和の勤め人たちがプライベート時間を自由に過ごそうとしている。
捜査一課の刑事たちも、独身者はデートに、既婚者は子供と動物園に、また妻の出産する病院へ、と三々五々の時間を過ごす。
ただし本部への定時連絡は欠かさずに。

荒川べりの河川敷で野球少年が不審な浮遊物を発見し、刑事が直ちに集められる。
新聞紙に包まれた女のバラバラ事件だ。
死体から発見されたマネキュアのメーカーの線、死体を包んだ新聞紙と紙紐の線、下腹部の手術跡、などを手掛かりに直ちに聞き込み捜査が始まる。
主任の指示のもとその足で捜査に散る刑事たち。
携帯もなく、パソコンもない時代だが、電話と黒板に集約された情報だけで実に効率よく刑事たちは捜査を行う。
時間をかけて、常にたばこをふかしながら。
何より行動が早い!

刑事が聞き込みに訪れる先の描写がいい。
化粧品会社の女社長(高橋とよ)や、芸者置屋の玄人年増(浦里はるみ)、ストリップ小屋のグラマー(小宮光江)などなど。
いずれも一筋縄ではゆかない癖のある登場人物。
以下少し長くなるが3人について調べてみた。

高橋とよはご存じ小津組の常連、わき役ながら「東京物語」に出ている伝説の人。
プログラムピクチャーへの出演も多い。
本作では死体のマニュキアに使われていた「アリス化粧品」の社長役。
聞き込みの刑事に対し、お客の個人情報を部下の男性社員がいちいち高橋とよ社長に向かって承認をとりながら答えるシーンのすっとぼけた味わいが絶品。

芸者の置屋のおかみさん役の浦里はるみという人。
1955年に東映入りし時代劇では「旗本退屈男」「大菩薩峠三部作」にも出ている。
本作当時はまだ二十代と聞いてびっくりの貫禄ぶり。
劇中、芸者たちが稽古している置屋の玄関先で聞き込みに来た若い刑事(南廣)に『私あなたみたいなハンサムに弱いの』と迫ったりするあたりは40代の大年増に見える玄人っぽさ。

そして小宮光江のストリップ衣装のスタイルの良さ。
1955年鎌倉海の女優カーニバル優勝を引っ提げて東映入り。
川村学園当時は佐久間良子の先輩だった。
「ズベ公天使」(60年)など、女版不良性感度作品の先駆けとのこと。
本作のストリップダンスの稽古場シーンはスタジオから見学者を追い出して撮影されたもの(ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーに掲載された封切り当時のプレスシートより)、なるほど画面に見入ってしまった。
代表作は「はだかっ子」(61年 家城巳代治監督)「花と嵐とギャング」(62年 石井輝男監督)。
惜しくも62年に自死とのこと。

高橋とよ
浦里はるみ
プレスシートより、浦里はるみの出演場面を伝える
小宮光江
小宮光江の出演場面を伝えるプレスシート

刑事たちの聞き込み先はまだまだいる。
陰のあるバイト大学生(今井健二)と、彼が片思いする令嬢(佐久間良子)だ。
令嬢は、乗馬クラブで悠然と刑事相手に微笑むだけだが、この2、3分にも満たない佐久間の登場シーンは、果たして必要あったか。
サービスカット的なものなのか?

とにかく地道に足で捜査を積み重ねてゆく刑事たち。
いくつかの情報を重ね合わせて核心へ近づく。
犬の死体を包んで実証実験を行い、荒川の当該部分は上流へ向かって流されることがわかったりする。
妻の4人目の出産が待望の男の子だとわった刑事(花柳徳衛)が、皆からお祝いをもらうなどといった職場のエピソードもつづられる。

「もはや戦後ではない」(1956年の厚生白書より)1960年当時だが、まだまだ戦後の陰は濃い。
東京の墨田川にはダルマ船で暮らす水上生活者がおり、足立区の荒川沿いにはお化け煙突が聳え立ち、下町の安アパートには管理人がいて、ヤクザの商売には闇ドル買いがあった。
住民の戸籍はどうなっているのか、水上生活者の住むのダルマ船は、犯罪者の格好の隠れ場所にもなる可能性があったりするのだ。

低予算のため、捜査一課の室内セット以外はロケで撮影されたという「警視庁物語」シリーズ。
現在ではすべて失われた昭和の風景が色濃く反映された画面。
アパートの管理人(菅井きん)や、犯人に車を貸した挙句警察に追われて事故死する運転手の妻(谷本小夜子?)の子供を背負って病院へ駆けつける姿に表現される、名もなき庶民たちの姿。

「警視庁物語」は実体験のある脚本家によるてらいなき事実の積み重ねのストーリーを、これまた事実の再現に徹した映像化がもたらした貴重な時代の記録でもあった。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

「警視庁物語 108号車」  1959年  村山新治、若林栄二郎共同監督  東映

シリーズ第十作は、若林との共同監督。
若林監督については多くを知らない、「遊星王子」などの監督作品があったらしい。

54分の中編だが、その分枝葉がなく本筋がギュッと詰まった1本。
脚本は警察法医学者出身の長谷川公之。
レギュラー陣は不動のメンバー。
枝葉がない分、傍系のエピソードはなく、セリフのある女優は出ていない。

オリジナルポスター

警邏中のパトカーに乗った巡査が、車に乗って逃走中の犯人に射殺される。
直ちに招集される捜査一課の刑事たち。
寝間着姿の刑事たちを巡査が各自宅に迎えに行く場面がタイトルバックに映し出される。
昭和チックながら緊迫感が画面からあふれる。
さあ、捜査開始だ!

今回の捜査一課はいつにもまして地道な捜査に終始する。
車のナンバー・型式からの線、自動車修理店に残された名刺(偽名)からの線、銃痕からの線等々。
刑事たちはいつにもまして余計なセリフを吐かず、黙々と迅速に足で捜査する。

今回も殉職した巡査の香典を集める場面など、職場としての警察内部の日常描写がある。
これで殉職警官が2000人以上となったなどのセリフもある。
ラストは殉職警官を祀る弥生神社への参拝シーンで終わる。
実際に警察内部にいた脚本の長谷川ならではの書き込みである。

映画のハイライトは、運転免許場の台帳と交通違反調書からの照合作業の場面だ。
捜査一課全員と応援の職員が、夜通し、台帳を一件一件めくってゆく。
暗い照明の元、たばこをくわえながら、ネクタイを緩めて、眠気と戦いながらの作業が続く。
ときどき仲間がお茶を淹れてくれる。
眠気に耐えきれず椅子に横になる。

誰がヒーローでもない、地道な作業。
劇的なセリフもなく、ドンパチは最後の最後だけ。
ひたすら事実を積み重ねて真実を追求する。
「警視庁物語」シリーズの根幹にして真髄がここにある。

プレスシート

働き盛りの、贅肉のない、庶民そのものの、昭和の刑事を花澤徳衛が好演。
この俳優はのちに人情刑事を得意としたが、その発端となる「警視庁物語」では、芝居らしい芝居はなく、セリフは上司の指示に応える「はい」と、捜査結果の事実報告と、簡単な所見だけ。
余計なセリフや性格付けがないのがドキュメンタルでいい。

ある場面で出てきた赤子を背負った女性。
前作「顔のない女」でもタクシー運転手の妻役で子供を背負った女優を使った村山監督が、『名もなき市井の女性』を表すときに使うのが、赤子を背負った地味な女性なのかもしれない。

花澤徳衛が自動車屋の社長(東野英次郎)に協力を仰いで、府中の免許場で台帳の写真を面通しさせるシーンで、カツ丼がさりげなく登場。
作業の合間に二人でかっ込んでいたが、案外その後の刑事ドラマでカツ丼が小道具として多用されるきっかけの場面だったりして。

また、ホンボシにつながるチンピラ(曽根晴美)を拘束し、捜査一課で取り調べする際、昼食に蕎麦の出前を取り、『食べたらどうだ?』とチンピラに促していたが、追いつめられたチンピラは食べるどころではなかったが、実際はそんなものだったろうと思われた。
ここら辺も長谷川脚本の地道でドキュメンタルな名場面だった。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

ラピュタ阿佐ヶ谷「東映現代劇の名手 村山新治を再発見」より 中原ひとみを「再々発見」

中原ひとみ

1936年東京生まれ。
東映第一期ニューフェース。
同期に南原宏治ら。
54年「魚河岸の石松 女海賊と戦う」でデヴュー。

55年、独立プロ作品「姉妹」に参加。
監督は松竹をレッドパージされた家城巳代治、共演は大映の野添ひとみ。
映画出演7本目にしての初期代表作となり、以降家城作品の常連となった。

「姉妹」

50年代後半は東映東京撮影所の現代劇を中心に出演。
57年には今井正監督の「米」、「純愛物語」に参加、後者はベルリン映画祭の銀熊賞を受賞する。

「純愛物語」

60年代にかけて東映東京のほか、東映京都の時代劇にも出演し、東映の看板女優となるも63年からは活躍の場をテレビに移し現在に至る。

中原ひとみと筆者との出会いは、学生時代に16ミリ版で見た「純愛物語」。
ストーリーは被爆者の若い女性がボーイフレンドとの愛をはぐくむというロマンスと悲劇だが、今井監督の粘りが妥協のないドラマとなっていて、画面に見入った記憶がある。

そして後年になって見た「姉妹」。
懐かしいい昭和の地方風景の中、貧しくも活発に生きる庶民の姿が活写された中で、家城監督の意を体現したかのように中原ひとみが生き生きと躍動していてファンになった。

その後見たのは、「おしどり駕籠」という、マキノ雅弘監督による京都撮影所の時代劇。
錦之助とひばりの脇で、射的屋の看板娘の一人として、数人で踊りながら登場するマキノ映画ならではのシーンが印象に残る。

今次の「東映現代劇の名手 村山新治を再発見」特集では、彼女の現代劇が見られる。
ホームグラウンドだった東京撮影所のプログラムピクチャーから、中原ひとみを再々発見してみよう。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集「東映現代劇の名手 村山新治を再発見」のパンフ表紙

「消えた密航船」  1960年  村山新治監督   東映

東映ニューフェース第二期の今井健二(当時は俊二。同期に高倉健、丘さとみ)の数少ない主演作品。
しかも善玉役。
与太者上がりの主人公の設定だからか、表情にゆがみが出始め、暗く鋭い目つきなど、役者人生の大半を悪役として生きることになる下地が垣間見える。

そのガールフレンド役として夜の仙台駅(の設定)で登場する中原ひとみの輝きに比べて今井の存在の暗いこと。
映画の後半まで、今井の正体も、悪か善かもわからない。
中原が味方だから善玉なのだろうけど。

出だしの遭難船からのSOSの信号音を背景にスーパーインポーズが流れる場面。
セミドキュメンタリー風の出だしに、B級サスペンスの緊張感がみなぎる。
悪くない。

親友の不審な死(遭難死を装った殺人?)に疑問を抱き、「知床」の町を訪れ、繁華街で聞き込みを始める今井。
劇中「知床」なる駅や港、駅前の実写風景が出てくるが、これらは清水(現静岡市)でのロケとのこと。

バーでの聞き込み場面。
訳ありのマダム(久保菜穂子)から情報を聞き出そうとする今井の芝居が気になった。
相手がしゃべる時の相槌の仕方や、一瞬の間は、素人劇のようではないか!
これでは今井健二、芝居が下手だから顔のゆがみと目つきの悪さで悪役として生き残るしかなかった、という結論でいいのか?
アクションシーンでの動きはまあまあだったが。

村山新治監督の持ち味は、最果ての港町の闇をドキュメンタルに再現すること。
柄の悪い無名俳優を今井を尾行するチンピラ役に起用して闇のムードを醸し出してはいたが、重要な役に東野栄次郎や岡田英次らお馴染みの顔が出てくるとその緊張感が緩む。
折角の久保菜穂子も役不足(役の方が軽すぎる)。

圧倒的光量で輝く中原ひとみは、全くこの作品に似合あわず、すでにアイドル的存在を越える存在感を発していた彼女にとって、これも全くの役不足だった。
彼女の女優としての実像が、ドラマの虚像をどうしょうもなく上回っていた。

中原が、この怪しい映画でいかにピンチに陥ろうとも危機感が醸し出ないのは困った反面、彼女のファンとしては安心して見ていられた。
今井健二ではすでに当時の中原ひとみには役不足(今井の方が軽い)だった。

「白い粉の恐怖」  1960年  村山新治監督  東映

「警視庁物語」シリーズの村山監督だったら、東京の町を俯瞰でとらえたであろうか、映画の冒頭シーンは静物画のようなケシの花のアップ。
その画面に林光のモダンで怪しげな音楽が被ってタイトルロール。
監督らしいざらざらしたスピード感のあるシーンではなく、警察とタイアップしたまるで反麻薬の啓蒙映画のような出だし。

作品の結論は、『麻薬に手を出したら身を亡ぼす』だから、奇をてらわずに、地味な正攻法でそのテーマと取り組むのは、まじめな村山監督らしい。

村山監督とは59年の「七つの弾丸」以来コンビの続く三国連太郎が厚生省麻薬取締官を演じ、まるで腕利きの刑事のように新宿の最深部で売人やその元締めのヤクザ、さらにはヤクザの幹部とまで渡り合う。
その身を粉にしたおとり捜査、情報収集、犯行現場での取り締まりなどがキビキビと描かれる。

当時の取り締まりは、幌付の小型トラックで現場付近に待機し一斉に立ち入っていたのだから牧歌的だったのではないか。
売人たちは取締官を「ダンナ」と呼び決して手出しはしない。
売人とヤクザはブツを巧妙に隠すし、取引では少しでも不信なことがあると撤収するなど用心深い。

クスリの使用者は決して一般人などではなく、例えば新宿などの盛り場のドヤで暮らし、売春などで生計を立てるような階層だった。
また、おとり捜査の認められている麻薬捜査では、売人側の情報提供者がいたりした。
麻薬を取り巻く世界は、この当時あくまで限定的なものだった。

作品のもう一人の主人公が中原ひとみ。
『初の汚れ役に挑む』とある。
汚れ役は初かもしれないが、これまで庶民的で逞しい少女や、原爆症のヒロインなどを体当たりで演じてきた。
本作では、監督得意のドキュメンタルな視点ばかりではなく、劇映画らしい視点での演出も取り入れており、中原ひとみは監督の演出に応えている。

中原演じる女性像の背景は詳しく描かれない。
地方から出てきて生活苦なのか騙されたのか、やむなく身を売るうちに、新宿のドヤに住み、クスリと切っても切れなくなった女性だ。
劇中『パンパン』と呼ばれるから戦災孤児など戦争や社会の犠牲者なのかもしれない。
ヤサグレてはいるが、親身になってくれる人には好意を持ち、結婚生活にあこがれを持つ。
人生の逆境を逆手にとって、独特の『明るさ』で生きる、という役柄では中原ひとみが生きる。

情報提供者の朝鮮人中毒者役の山茶花究がうまい。
日活なら小沢昭一の役どころだが、小沢がやるとギャグに傾くところをきちんと芝居で魅せる。
情報提供したのをヤクザに察知され、大阪に逃げるからと小銭を捜査官にせびる芝居。
実はまだ新宿にいて捜査で捕まり、取調室で禁断症状を起こす迫真の芝居の悲惨さ。

この取調室で売人の禁断症状にオタオタする新人取締官役が今井健二。
真面目な新人として三国にくっついての演技。
この俳優、無理に主役をやらず、誰かの脇に回ったら生きる。
悪役に転向した後で、高倉健の兄弟分役として脇に回った「侠骨一代」(67年 マキノ雅弘監督)はよかった。

三国連太郎は、新宿を舞台に、飲み屋、ドヤ街、喫茶店を自分の住処のようにはいずり回るのだが、一方で自分自身の家庭も描かれる。
郊外の貸家に住み、大家の酒屋が電話を取り次ぐ暮らし。
妻と子供が一人、妻の妹が学生で同居している。

妻役に岩崎加根子。
新劇の実力派で、「警察日記」(55年 久松静児監督)の、磐梯山の麓で杉村春子の人買いに身売りされる少女役から、「忍ぶ川」(72年 熊井啓監督)の黒メガネをかけて座敷の奥で弟の嫁を迎える弱視の小姑役まで、幅広い経歴を持つ女優だ。

三国の妻役に岩崎加根子が起用されたのは重要な役だから。
すなわち、麻薬取締官といえど家庭があること、家庭側から見ると危ない仕事であること、そうはいいながら取締官にとって妻は最大の理解者でもあること。
作品の後半で、中毒病棟を退院した中原ひとみを保護するため、彼女を自宅に匿おうとする三国に対し、中原に嫌悪感を感じつつも、最大限夫の仕事に協力しようとする岩崎の演技の説得力はさすが。

中原が家庭の雰囲気に触れ「二人はどうやって結婚したの?」とか「あたいも結婚したいな。あたいは宮川さん(三国の役名)が好きさ」と岩崎に話すシーンがあった。
堅気の岩崎は、嫌悪感を表しつつそっけない返事をするのだが、これが拒絶感ではないところの微妙な表現。
中原の懸命な演技を受け止めた岩崎の懐の広さ。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

劇中最後の大捕物は取締官が大企業社員に扮し、ヤクザの大物に取引を持ち掛けるというもの。
ヤクザ側が企業に確認を取るというのも承知の上で、取締官はあらかじめ企業と組んでの仕掛け。
突然、ヤクザが企業本社に訪れ慌てる取締官。
ようやく取引に至り、現行犯逮捕となる。
ここで取締官の口からヤクザの大物に対し「戦時中は大陸で麻薬の取引で財を成し・・・」のセリフが吐かれる。
これまでは、取締官と売人という最底辺同士の対立ばかりが描かれ、「巨悪はどうした?」の不満がないわけではなかった見る者に、そこのところも若干ながら押さえたシナリオだった。

ラストは、自殺とされたが体内から基準値以上のクスリが検出された中原の死。
三国が思わず「殺しだ」と呟く。
身寄りがなく、夫婦二人のみが見送った焼き場の帰り、岩崎が「(自宅に匿った際)もっと親身になってあげればよかった」とつぶやく。
なるほどこの作品の最後の締めはやはり岩崎加根子によるものだったのか。

ラピュタ阿佐ヶ谷「新春初蔵出し東映時代劇まつり」より 長谷川安人監督と集団抗争劇

マキノ光男が死に、岡田茂が撮影所合理化の責任を取って大泉撮影所長に左遷されていた1963年の東映京都撮影所。折から映画界全体の地盤沈下が顕著で、観客動員数と映画会社の収益は減少を続け、1960年には邦画各社合計で168本も作られていた時代劇は、1962年には77本にまで激減していた。

この間の、東映時代劇に関する状況の変化を「あかんやつら・東映京都撮影所血風録」から要約して引用する。

『東映にあっては、千恵蔵、右太衛門の両御大を筆頭に、大友柳太郎、東千代之介の人気が低下し、彼等の主演作品が当たらなくなっていた。
また、両御大に代わって東映の看板を背負っていた中村錦之助は、60年代に入って文芸大作路線に転じていたが、作品の出来はともかく、年を追って観客動員を減らしてゆき、錦之助と並ぶスターの大川橋蔵は、大島渚や加藤泰と組んでの新機軸が、まったくといっていいほど観客の支持を得ることができなかった。
こうして東映のスターシステムは崩壊し、すべては観客を喜ばせるためという東映時代劇の美学も消え失せた。』

『1963年、京都撮影所の企画部次長となった渡邊達人は、「集団抗争時代劇」というスタイルを考え出した。
これまでの明朗・軽妙の情の世界から、リアルな任務遂行の理の世界を描き、スターの魅力に頼らず、華麗に舞い踊る殺陣ではなく、生々しい殺し合いとしての殺陣を描く、というコンセプトのもと、天尾完次プロデューサー、結束信二、鈴木尚之、笠原和夫ら若手脚本家、長谷川安人、工藤栄一、山内鉄也といった若手監督を登用した。』

  長谷川安人監督について

ワイズ出版の「日本カルト映画全集2・十七人の忍者」がある。
集団抗争時代劇の第一作といわれる同作品をテーマにしたムックである。
内容は同作のシナリオをメインに、長谷川監督へのインタヴュー、関係者の談話などで構成されている。

長谷川安人監督について「東横映画に入るまでの自分史・長谷川安人」から以下に要約・引用する。

ワイズ出版「十七人の忍者」」
「十七人の忍者」目次

『大正大将11年広島県比婆郡生まれ。
4歳の時に一家で朝鮮に移住し各地を転々とする。
高等工業時代に、映画の撮影所に入ろうと、単身東京へ出る。
屋台で隣りの席にいた朝鮮時代の小学校の同級生と遭遇し、部屋代を半分負担して彼と同居。
その彼の姉が新興キネマのスクリプターをしており、彼女のつてで同大泉撮影所に撮影助手として入社。
1年後、撮影所内で何気なくはじいた石ころが女のすねに当たり、女は騒ぎ立て、逆上した長谷川は女の脚を叩く。
女は撮影所長お気に入りの女優候補で、謝らなかった長谷川は新興キネマをやめる決心をする。』

『釜山から汽車の乗って、新京の満州映画協会を目指し、製作部長のマキノ光男の自宅を訪ねた。
奥さんは自宅に泊めてくれ、翌朝会ったマキノは「まあええわ。徴兵までの娑婆や」といって満映啓民部(ニュース映画製作)に入れてくれた。
仕事で満州東北部の興安領を回り、北満の白系露人、オロチョンの狩猟等に接した。
その後、縁あって北京の華北電影公司へ移り、山西省の山々や、蒙古へ記録映画の撮影で赴いた。
長橋善語というマキノ家の番頭だった人が所長だった。
朝鮮で育ち、満映と北京時代の経験は長谷川の精神性に大きく影響した。』

『徴兵に際し、現地入隊ではなく現隊入隊を選び本籍地の広島で入隊した。
重慶近くの山中で終戦を知った。
親しくしていた見習士官から拳銃をもらって脱走した。
揚子江を下って南シナ海へ出、インド洋から紅海、地中海を目指すつもりだったが、昭和22年には札幌郊外の牧場で季節労働者をしていた。
折から、新興キネマ太秦撮影所で、マキノ光男を中心にした満映帰りの映画人たちが東横映画をスタートさせていた。.
札幌の長谷川に長橋善語から便りが来た。
「お前も頭がシャンとしたら京都に来い」』

長谷川監督の人生前半史があまりに面白く破天荒でスケールが大で、氏の人となりが横溢していると思ったので長々と引用した。

東映で助監督になってから以降は、同著のインタビューから以下に抜粋・要約する。

「十七人の忍者」奥付

『東映時代には助監督として、渡辺邦夫、松田定次らにつく。
どちらも看板番組を任される大御所監督だが、古い習慣を拒否したり、監督に尋ねられたことに正論で返すなどして、両大御所の組をクビになったり、監督昇進の機会を逃したりする。

ジプシー助監督として、吉村公三郎、成瀬巳喜男、丸根賛太郎、中川信夫ら外部からの監督にもつく。

なんと、大島渚の「天草四郎時貞」にもついた。
この作品は、話題性のある若い監督に自分の新たな面を引き出してもらおうとした大川橋蔵が、大島起用を会社に対して押し切って実現したものだったが、東映系の映画館主たちは初めから橋蔵と大島の取り合わせには反対だった。
出来上がりやその色合いの見当がつかないからだった。
スタッフたちは撮影中に半ば公然と「こらあかんで」と言っていた。
会社や橋蔵の望む天草四郎像と大島がねらうものが、まったく違うことはスタッフならば察しはついていたからだった。

演出中の長谷川監督

1963年「柳生武芸帳・片目水月の剣」で長谷川は監督デヴュー。
近衛十四郎主演のシリーズ6作目だった。
阿蘇山ろくで馬100頭を集めてロケしたり、天守閣を三角に作るセットを組んだりした。』

ラピュタ阿佐ヶ谷では、東映時代劇特集の1本として「十七人の忍者」が上映された。

「十七人の忍者」オリジナルポスター

「十七人の忍者」  1963年  長谷川安人監督  東映

脚本は、1960年に2年で8本の契約を東映と結んでいた新鋭の池上金男。
現場の総指揮は、渡邊達人企画部次長の任を受け集団時代劇の牽引役となった天尾完次プロデューサー。

勢ぞろいした最後の伊賀もの17人。その表情を見よ

東映の三角マークがモノクロの画面に音もなく映し出される。

大げさな表情は封印し、ひたすら静の演技に終始する大友柳太郎。
食らいつくように目を剥く里見浩太朗。
諦念したように冷たい表情の東千代之介。

普段着の伊賀もの17人が揃い、頭領からの命を受け目的地の駿府へと散る。
目的は公儀への謀反を企てる駿府大納言以下の諸藩連判状を奪取し、謀反実行の前に幕府により内密に平定させること。

この日のために日常を世を忍ぶ仮の姿で送ってきた最後の伊賀もの17人。
鍛えてきた忍法を発揮する晴れの舞台であるが、高揚感、華々しさはない。
あるのは、索漠とした寂しさ、わびしさ。
任務の向こうに確実に待っている死を予感してのものか、あるいは滅びゆく隠密、伊賀ものの定めが醸し出すのか。

隠密、忍び、伊賀もの、としての掟は、頭領の命令によって死ぬこと。
頭領は配下が使命を果たすことのみ考え、そのために知力・体力の限りを尽くす。

「十七人の忍者」より

3組に分かれた伊賀ものたちは駿府城に着き、それぞれに城内侵入を試みるが、駿府とて幕府による隠密の策動は承知のこと、伊賀ものに対抗すべく根来忍者の頭領(近衛十四郎)を軍師として城内の警備に当たらせている。

悲壮感に満ち、己の定めを粛々と受けれるがごとき伊賀ものたちに対し、根来の頭領はひたすら激しく、表情豊かなリアクション。
普段は最下層の武士ゆえ、城内の家臣たちに蔑まれている根来衆の怨念と反抗心をむき出しにして伊賀ものを迎え撃とうと待ちかまえる。
使命を果たすことに加え、自分たち根来衆の名声獲得と地位向上の野心に満ちている。
一方の駿府城の家臣たちは、根来の頭領の指示に従って防衛ラインを築きつつも、内心では根来への不信と軽蔑を隠そうともしない。
これが身分の差というものなのだろう。
また、ここに駿府城と根来の油断とスキがあった。
対する伊賀ものたちは完全に捨て身である。

花沢徳衛と三島ゆり子

駿府城の鉄壁の防御に17人の人員をいたずらに消耗し、頭領まで生け捕られた伊賀ものは、くノ一(三島ゆり子)もいれて残り5人。
頭領から「お前が指揮を取れ」と命ぜられた若き里見浩太朗が、自らも迷いながら作戦を決断してゆく。
すべては連判状奪取というただ一つの使命のため。
内心では年若い里見の指示を快く思っていなかった東千代之介も、里見の目的達成への無私の努力を見て、忍者としての掟に従い、捨て駒として死んでゆく。

東千代之介と里見浩太朗

最後のチャンスに、お濠を渡り、城壁をよじ登り、道具を駆使して城内へ侵入する行程を時間をかけて描く。
侵入用に彼らが持つ道具の「重さ」が感じられる。
画面の緊張感は最後まで途切れない。
何より役者たちが(ということはスタッフたちも)一生懸命やっているのがわかる。

伊賀忍者にとって幕府からの使命は、身分制度を背景にもした一族の存亡にも関わる絶対的なもの。
それを果たすためには、私情を排して集団で当たる。
ある意味野生の掟に近い、実力のみ、弱肉強食の世界。

作品は、その無機質な世界観を根底に、技術的、策術的な忍法のディテイルを丁寧に盛り込んでいった。
集団抗争時代劇は本作のヒットによってスタートを切った。

里見浩太朗

監督の長谷川は言う(「日本カルト映画全集2・十七人の忍者」より)。
・劇中の乾門は、彦根市と井伊家にお願いに行って、彦根城の石垣にぴったりはまる門のセットを作った。
橋の手前から見ると、濠、橋、門、城壁、松の樹々と全体が立派に映えたのでうれしかった。
・スタッフには、セットごとにカットのアングルと人の動き、用意する小道具などを描いて渡した。
皆に僕と同じ思いをして作業をしたかったから。
・濠の中の水中シーンも皆が乗ってやってくれた「おう、やろうやろう」と。
・配役は意識的に吟味した、わき役だが重要な役に千代之介を配したのもそのため。

根来対伊賀、頭領同士の最終対決。近衛十四郎と大友柳太朗

スタッフ、配役に恵まれ、アイデアを十分に盛り込み緊張感に溢れる力作、快作となった。
妥協を嫌う長谷川監督の気質がよく表れた作品だと思う。
プログラムピクチャーであっても、監督をはじめとしたスタッフの創意が貫かれている点では立派な「作家(達)の映画」が出来上がることを示している。

役者たちの決然とした表情は、全盛を誇った東映時代劇の凋落を目の当たりにした、これから映画界で働き盛りを迎えなければならない者たちが、まさに難攻不落な未知の領域に挑もうとするときの、不安に満ちながらも決然としたもののようにも見えた。

ラピュタ阿佐ヶ谷「新春初蔵出し東映時代劇まつり」より 月形龍之介、大友柳太朗の巻

月形龍之介

明治35年生まれの月形は、宮城県生まれの北海道育ち。
戦前に日活映画からスタートし、マキノ映画などを経て、自前のプロダクションを作ったり、フリーとして活動するなりして戦前を過ごす。

ポートレート

時代劇スターとして活躍し、坂東妻三郎、大河内傅次郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「七剣聖」と呼ばれた。
他のスターが歌舞伎のケレンや踊りをベースにした立ち回りを行う中で、月形の立ち回りは剣道から作り出したといわれる。

戦後は1949年に東横映画に入社。
以降東映時代劇の重鎮として千恵蔵、右太衛門の両御大に次ぐポジションで、1954年からの「水戸黄門」シリーズ全14作で主役を務めた。
わき役としても、時代劇や任侠映画など多数に出演し、場面を締める。

ワイズ出版より発刊の「月形龍之介」

山小舎おじさん的には1963年の「人生劇場 飛車角」(沢島忠監督)の吉良常役が印象的。
枯れすすきのような古侠客の風情で、坊ちゃんこと青成瓢吉(梅宮辰夫)の面倒を何くれとなくみる役を演じ、「昔は強かったんだろうなあ」という凄味を感じさせた。
この時月形龍之介61歳、まだ最後に一仕事できそうな気配も残していた。

ラピュタの「新春初蔵出し 東映時代劇まつり」では、月形主演の「水戸黄門」シリーズ第12作「天下の副将軍」が上映された。

「水戸黄門」シリーズのムック?

「水戸黄門 天下の副将軍」  1959年 松田定次監督  東映

監督の松田定次は、春日太一著「あかんやつら 東映京都撮影所血風録」によれば、時代劇全盛時代の東映で、「天皇」あるいは「お召列車」と呼ばれていた。
そのココロは、盆と正月用のオールスター大作を任され、キャステイングからスケジュール、スタジオの使用順に至るまで最優先の待遇を受けた監督だったから。

撮影は監督のお気に入りで、隅々まで明るく照らすライテイングにより、スターを明るく映す、明朗快活な画面作りの川崎新太郎カメラマン、編集は宮本信太郎という鉄壁の布陣。

キャストは黄門に月形龍之介、助さん角さんに東千代之介と里見浩太朗、番頭に大河内傅次郎。
黄門一行に絡む隠密に大川橋蔵、大井宿の飯盛り女なれど実は家老の落とし胤に丘さとみ。
黄門の実子で高松に送り込まれていた若き藩主に中村錦之助、藩主の御そばの女中に美空ひばり。
両御大をこそいないが文字通りのオールスターキャスト。
東映の若大将・錦ちゃんにはひばりを配するサービスで、月形黄門を盛り上げる。

ポスター

この日のラピュタ阿佐ヶ谷は、平日の13時からの「水戸黄門」が何と満席。
オール70代以上で、ラピュタには珍しく女性客も数人(全員70代)。
予備椅子も出される熱気の中、上映開始。
館内の雰囲気は、65年前の地方の東映直営館もかくや。

ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーより

テレビの黄門様しか知らない世代には、月形黄門の眼光の鋭さ、顔つき、声の重々しさに恐れ入る。
片や、千代之介、里見の助さん角さんの若きやんちゃぶりにも驚く。

何せ、江戸の湯屋(湯女が、湯殿から座敷まで付きっ切りでサービスする)で湯女相手にお銚子を傾けるという登場シーンから、黄門様との道中では寝床を抜け出し、飯盛り女を上げての大騒ぎ、挙句飲み代を飯盛り女に立て替えさせ(そのために女に結婚を約束するという恋愛詐欺まで行う)る助さん角さん。

目的地の高松では情報収集のために辻でリズムに乗った大道芸の踊りまで披露。
テレビでの品行方正ぶりはどこへやら、威勢のいい江戸の若者とはこうだったのだ、と言わんばかりの、酒と女への親和性あふれるやんちゃぶりとイキの良さ。
いざという時の喧嘩の強さはテレビ通りだ。

流れの包丁人にしてその正体は公儀隠密、に扮する橋蔵は、持ち前の二枚目半。
ご乱心姿の若殿姿で登場する若大将・錦ちゃんも、乱心姿の流れるような動きがいい。
見守るひばりが、いつものべらんめえ姿ではなく、育ちのいいお嬢様を演じて若く、かわいらしい。
飯盛り女変じて、黄門一行の道中仲間となる丘さとみは、千代之介を一途に愛する田舎娘を自由自在に。
番頭、大河内のコミカルな演技が珍しい。

ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーにて

大団円に至るチャンバラシーン。
テレビなら葵の御紋に悪漢がひれ伏すが、映画では最後まで抵抗する悪漢(いつもの山形勲)と、黄門一行の一進一退の攻防が、大人数の殺陣で繰り広げられる。
最後は黄門自らの一刀で悪漢を成敗するが、眼光鋭い月形黄門ならば説得力十分。

エンドマークとともに、平均70歳代の場内からは拍手が起こりました。
映画館で拍手を聞くのは何十年ぶりでしょうか。

撮影中のスナップ。月形龍之介と丘さとみ

大友柳太朗

大友柳太朗は、明治45年生まれ、新国劇から戦前の新興キネマ入りし時代劇で活躍。
戦後しばらくは地方巡業などで糊口をしのいでいたが、1950年ころから時代劇映画の復活とともに、活躍の場を映画に戻す。

1950年代の東映時代劇で「怪傑・黒頭巾」シリーズ、「丹下左膳」シリーズ、「右門捕物帳」シリーズなどに主演し、人気を博す。
誰もが認める殺陣の鮮やかさに加えて、乗馬技術に秀でており、豪快に笑う姿が印象的で、一時は千恵蔵、右太衛門の両御大や錦之助、橋蔵、千代之介の三羽烏を凌ぐほどの稼ぎ頭といわれた。

黒頭巾姿の大友柳太朗

一方、活舌の悪さには本人も悩んでいたといわれ、その骨太な体格・風貌と田舎訛りの抜けないイントネーションは、のちに見る者をして「大時代的な芝居をする、田舎の豪放磊落なおじさんのよう」だと思わせた(山小舎おじさんの印象です。為念)。

走る!丹下左膳に扮して

ラピュタ阿佐ヶ谷の「新春東映時代劇まつり」では、50年代から60年代にかけて5本製作された、大友主演の「丹下左膳」シリーズから2本が上映され、最終作となる「乾雲坤竜の巻」を見ることができた。

「友の会」編の自伝がワイズ出版から出ている

「丹下左膳・乾雲坤竜の巻」  1962年  加藤泰監督  東映

「丹下左膳」は片目片腕のニヒルな怪剣士。
浪人として長屋に住み、常に妙齢の美人がそばにいて、厄介な事件があると表ざたになる前に実力で解決し、その過程でやむを得ずお上に逆らったりすると、無数の御用提灯が孤軍奮闘する当人を取り囲む、というのがお決まり。
戦前は大河内傅次郎の当たり役だった。
大河内の左手一本の殺陣は、腰の座り、膝の落とし方、動きの速さが見事で、口を使って鞘を抜く動作がかっこよかった。

戦後は、日活で水島道太郎の主演、マキノ雅弘の監督で3本作られた。
東映での大友柳太朗の主演シリーズは、松田定次の監督により4本、加藤泰監督により1本(本作)が作られた。(以降単発作品はあり)。

封切り時のポスター

東映でのシリーズ中、本作だけが白黒の低予算だった。
加藤泰監督による「作家性に強い」作風が一般受けしないという会社の判断は当たることになる。

巻頭から暗めの照明、ローアングル、全景を説明的に捉えないカメラでの殺陣で始まり、見る者を加藤泰ワールドに引き込む。

両目、両手が健在だった相馬藩下級武士の左膳が、藩主の個人的密命を受けて、町の道場から家宝の刀大小を強奪しに乱入したシーンだ。
右目を斬られながら、身を欺くあばら長屋に、長太刀乾雲だけを抱えて、命からがら転がり込む左膳。
長屋の隣にはスリで世を渡る東千代之介と、普段は旗本崩れの情婦をしながら千代之介と訳ありのコンビを組む年増の久保菜穂子がいた。

封切り時のプレスシート

何せガチガチの封建武士として主君の命令は絶対。
出世の野望は使命を果たすことによってのみ叶えられる。
こういった武士時代の左膳を、地面をはいずり回るように演ずる大友柳太朗。

道楽で刀を集めたがり、そのためには下級武士の命や心などなんとも思わない貧相な相馬藩主には、いつもは庶民役の花澤徳衛。
花澤は道場から乾雲を強奪したことが事件化されようとなると、南町奉行の大岡越前(近衛十四郎)に対し「左膳なるものは知らないし、乾雲などは持ってもいない」とシラを切る。
正義の味方でもなんでもなく、タヌキ官僚である越前守は、心得たとばかり得意技の「なかったことにする」対応で、事件を左膳一人に負わせ、藩主には恩を売って済まそうとする。

左膳を介抱し、牢獄から救い出し、深手を負った右腕を切り落とし、回復まで養生させる長屋の訳ありコンビが、日陰者の貧乏暮らしながら逞しい。
二枚目半の達者ぶりを見せる千代之介の飄々とした人間らしさと、新東宝倒産後に他社で活路を見出した久保菜穂子の女っぷりがいい。
彼女は左膳に惚れるし、左膳の心が町道場の娘(桜町弘子)にあることを妬いたりする。
左膳の持つ、己を捨てた一途さと危険な香りに女は惹かれるらしいが、そこのポイントも映画は押さえている。

物語は下級武士・左膳の主君への反逆という、おそらく現実の世界で到底あり得なかった、カタルシスを迎えて大団円を迎える。
左膳と町道場の娘の、敵同士の禁断の恋は、結局左膳の方から撤退するのだが、それでも割り切れぬ人間同士の情の不可思議さは、剣を切り結んだ二人の触れるか触れないかのキスシーンによって描かれる。

脚本は石堂淑朗。
大島渚の一期下の松竹助監督時代に、大島の「太陽の墓場」(1960年)、「日本の夜と霧」(1960年)を執筆。
「日本の夜と霧」の上映打ち切りに抗議して、大島とともに松竹を退社した。
その後に東映で大島が撮った「天草四郎時貞」(1962年)の脚本を書いたのも石堂で、「丹下左膳」は「天草四郎」と同年の製作。

さすが気鋭の石堂脚本、丹下左膳誕生までの秘話をオリジナルの解釈で描き、武士階級の腐敗と封建性批判、庶民の逞しさを俯瞰・強調し、さらには左膳を巡る女性らの割り切れぬ性にまで筆をすすめた見ごたえのある構成・・・と思いきや。

実は本作のストーリー、1956年に日活でマキノ雅弘が撮った「丹下左膳・乾雲の巻」「坤竜の巻」「完結編」の三部作とほぼ同じ内容でした。
同作品の棚田五郎(誰かの変名?)なる人の脚本を下敷きにしておりました。

映画評論家川本三郎の「時代劇ここにあり」という本の「丹下左膳・乾雲の巻」「坤竜の巻」「完結編」の項を読んでいたところ、そのストーリーが本作、大友柳太朗版「丹下左膳・乾雲坤竜の巻」とほぼ同じだったのです。
やはり当時30歳前後の石堂淑朗にここまでの仕事は無理だったか。

川本三郎著「時代劇ここにあり」表紙
「時代劇ここにあり」よりマキノ版「丹下左膳」ポスター
マキノ版「丹下左膳」の一場面。東映版のオリジナルか

ただし細部には石堂カラーが出ていたようです。
相馬藩主の俗物性や卑近さ、江戸の司法をつかさどる官僚(大岡越前)の事なかれ主義、権力側の都合で使い捨てられる下級武士の怨念、江戸の庶民階級のしたたかさなど物語の細部については、現代語を俳優にしゃべらせながら強調されていました。

加藤泰の演出には彼流のスタイルが存分に発揮されていました。
東映時代劇の伝統である、隅々まで明るいライテイングや、主人公を中心にしたわかりやすい殺陣などを完全に無視し、ひたすら暗い中で蠢き、痛さの伝わる殺陣に拘っていました。

左膳の潜む長屋のセットの障子の破れ具合など「リアルな」貧困も、これでもかと表現されていました。
が、貧乏人程表面を繕い己の悲惨さを隠したがるもの、映画表現とはいえ「貧困」を強調するのに度が過ぎては、「リアル」を通り越して、「不自然」にもなりかねないのでは?と感じたのも事実。
「リアルな」表現とは何かを考えさせられました。

久保菜穂子と大友柳太朗

また加藤泰の演出には、久保菜穂子への傾倒ぶりがありました。
東映お仕着せの桜町弘子への型通りすぎる演出や、筑波久子の顔見世だけの描写に比べ、久保菜穂子に対するこだわりは、単に左膳に惚れた訳あり年増の粋を越えているように見えました。
これが加藤泰の「粘り」というものなのでしょうか。

この作品における女性性、庶民の逞しさ、裏の世界の表現、また彼女を通して左膳の男性性を描くために、彼女は必要なキャストだったのでしょう。
女ざかりの久保菜穂子は加藤泰の演出に十分に応えた演技でした。

ヒットせず、シリーズ打ち切りが決まった本作ですが、ストーリー、画面共に見ごたえがあり、60年代の新機軸を予感させるような作品ではあります。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより