ジュリアン・デュヴィヴィエを集中的に見るシリーズの第二弾です。
1930年代の中盤、デユヴィヴィエはその代表作を続けて発表します。
お気に入りのジャン・ギャバンを主役に据えての三部作や、脚本家シャルル・スパークと組んでのオリジナル作品などがこの時期の代表作です。
手許のDVDから、「望郷」(36年)、「舞踏家の手帖」(37年)、「旅路の果て」(38年)を鑑賞します。
「望郷」 1936年 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督 フランス
1939年キネマ旬報ベストテン第1位。
デユヴィヴィエとジャン・ギャバンの代表作とされ、パリの美女を演じたミレーユ・ダルクのイメージを決定づけた作品で、ハリウッドで2度リメークされた。
『いつ、どこで、何度上映されても、大入り間違いなし』といわれるくらい日本でも人気だった作品。
パリで銀行強盗を起こし、アルジェリアのカスバに逃げ込んだペペルモコという男がいる。
カスバに隠れて2年、情婦のジプシー女イネスと暮らしながら、男前と気前の良さからカスバの顔役となっている。カスバに自由に出入りし、ペペに付きまといながら捕まえるチャンスを狙っている刑事スリマンがいる。
ある時パリの女ギャツビーがペペの前に現れた。
宝石に包まれ、パリの香りをまとったギャツビーに一瞬で惹かれるペペ。
ギャツビーにとってもワルの気配を身にまとったペペは魅力的で、二人は恋に落ちる。
その結末は・・・。
『・・・ここは地の果てアルジェリア、どうせカスバの夜に咲く・・・』。
1955年に発売された「カスバの女」という日本の曲が流行った。
「望郷」にインスパイアされたであろう無国籍歌謡で、そのやるせなく、捨て鉢なムードが印象的だった「カスバの女」は発売後もしばらくテレビなどで流れていた。
さて、映画「望郷」を、プロデューサーのアキム兄弟と監督のデユヴィヴィエの視点から読み込んでみる。
エジプト出身の映画プロデユーサー、アキム兄弟の初ヒット作である「望郷」。
アラブという異邦を舞台にしたエキゾチックなドラマを、というコンセプトが作品のスタートであろう。
監督には当代一流で、決して観客を(そしてプロデユーサーを)裏切らない(であろう)ジュリアン・デュヴィヴィエを起用し、現場の一切を任せる。
アキム兄弟のその後のプロデユース作品を見ると、ジャック・ベッケル(「肉体の冠」51年)、マルセル・カルネ(「嘆きのテレーズ」52年)、ルネ・クレマン(「太陽がいっぱい」60年)、ミケランジャロ・アントニオーニ(「太陽はひとりぼっち」62年)、ジョセフ・ロージー(「エヴァの匂い」62年)、そしてルイス・ブニュエル(「昼顔」67年)など、芸術派監督の代表作が並んでいる。
起用された監督はそうそうたるメンバーなのだが、よく見ると主役に旬のスターが起用されていたり、有名な原作の映画化であったり、映画音楽がヒットしたりしていて、アキム兄弟の商売の確かさがうかがえる。
また、監督との契約条項に「作品の最終編集権はプロデユーサーにある」とするのがアキム兄弟流だった。
「望郷」にもアキム流の映画製作のやり方が濃厚に現れている。
カスバを舞台にしたエキゾチックでペシミステックなメロドラマという作品の骨格。
アキムが最終編集権を握っていることも、作品の通俗性に帰結しているのだろう。
では、デュヴィヴィエはアキム流のメロドラマをどう料理しているのか。
先ず舞台のカスバを前面に押し出した。
パリジャンのペペが不本意にも流れ着き、同化している迷路のような街は、屋上のテラスを通っても行き来でき、情報は瞬時に伝わる魔宮だ。
情婦のジプシー女、トルコ帽を被った正体不明の刑事などは異国情緒たっぷりだ。
カスバの顔役としてふるまうペペだが本心はパリが恋しくてたまらない。
フランス男の、それもワルにふるまう粋筋のどうしょうもない性。
それがギャツビーという着飾ったパリジェンヌを見た瞬間に制御が外れる。
ギャツビーとてパトロンの愛人としてアルジェを訪れただけ、堅気の女ではない。
粋で寛大にふるまう伊達男のペペの、実は脆弱な存在が哀しい。
彼は一歩カスバの外に出ると逮捕されるのだ。
ペペの懐に入り込むように付きまとい探りを入れるスリマン刑事の不気味さ。
このキャラはヤクザに同化する刑事のようでもあり、コロンボ警部の馴れ馴れしさのようでもあり。
そういった刑事キャラの元祖なのかもしれない。
ペペの情婦イネスのひたすらペペを思う土臭い土着性。
これらのキャラをわかりやすく色分するデユヴィヴィエの腕の確かさ。
デユヴィヴィエにとっては登場人物をはっきり描けばいいのだからやりやすかったのではないか。
演技を要求するのはペペ、イネス、スリマンらで、ギャツビー役のモデル出身のミレーユ・バランにはパリのあでやかさの象徴であり、細かな演技の要求はない。
ペペとギャツビーの二人だけのシーン。
アップで二人をこれでもかととらえ、名セリフを繰り返す。
デユヴィヴィエがこの作品のために用意した最大の「売り物」だ。
映画は後半になって急速に馬力を増す。
ペペがいよいよギャツビーに狂い、いてもたってもいられなくなり、それに乗じてスリマン刑事がペペをカスバの外におびき出す策略を練り、イネスがペペを思って止めに入る。
ここら辺の場面転換、入り混じった登場人物の整理、デユヴィヴィエの独壇場だ。
登場人物はよく描き分けれているが、裏の意味というか含蓄はない。
ラストが比較的あっさりしていることも含めて、プロデユーサーアキム兄弟の「最終編集権」のせいなのだろうか。
ペペにジャン・ギャバン、ギャツビーにミレーユ・ダルク、イネスにリーヌ・ノロ、スリマン刑事にリカ・グリドゥ。
「舞踏会の手帖」 1937年 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督 フランス
デユヴィヴィエ全盛期の代表作。
130分の長尺映画を7話のオムニバスで構成。
各挿話にはフランスワーズ・ロゼエ、ルイ・ジューヴェ、アンリ・ボール、フェルナンデルなど当時の名優らが出演しているが、なんといってもオムニバス方式による最初の作品(デユヴィヴィエの発案)というところに歴史的価値がある(註)。
註)オムニバス方式には本作の5年ほど前のアメリカ映画「百万円貰ったら」という作品があったとのことだが、〈オムニバス映画〉の本格的な始まりは本作からとのこと(「ジュリアン・デュヴィヴィエをしのぶ」1968年フィルムライブラリー助成協議会編 P36より)
さて本作全7話の統一ヒロインはマリー・ベル。
「外人部隊」(1934年 ジャック・フェデー監督)のヒロイン二役を務めた実力派美人女優だ。
絢爛たる衣装に身を包めば画面映えし、シックなドレスとふるまいで品格を漂わせ、場末の酒場の歌姫に扮すればこれ以上ない薄幸美人ぶりを演ずることができる女優さんだ。
本作ではお城の王女様然とした彼女の気品と、帽子にもこだわったファッションが当時37歳のフランス演劇史上の美人女優の存在感を際立たせる。
霧に閉ざされた湖畔のお城に20年前に嫁入りし、夫を亡くしたばかりの若き未亡人クリステイーヌ(マリー・ベル)。
夫婦思い出の品を燃やしていたが、自らの舞踏会の手帖を燃やし忘れる。
16歳で純白のドレスに身を包み舞踏会にデヴューしたころのダンス相手の名前を記した手帖だった。
クリステイーヌが16歳の時を回想する舞踏会の幻想的なシーンが素晴らしい。
純白のドレスに身を包んだ淑女が並び、紳士たちが手を取ってダンスが始まる。
スローモーションで揺れるドレス。
主人公クリスティーヌの原点にして忘れられない思い出だ。
映画のおけるダンスシーンといえば、マックス・オフュルス監督の諸作品(「輪舞」「快楽」「たそがれの女心」)が忘れられない。
豪華絢爛たるお屋敷でのダンスシーンでは、次々と馬車で集まってくる招待客と、くるくると踊る何十何百というカップルがこれでもかと描かれる。
カメラは映画の主役二人を窓越しに延々と追いかけ、窓越しに室内に入って主役二人の周りを延々と回り始める(カップルにクルクル回らせて、まるでカメラがカップルの周りをまわっているように見せる撮影技法)。
延々と続く移動撮影による、目くるめくような夢のような舞踏会シーンが続く。
オーストリア生まれのオフュルスといい、フランス生まれのデユヴィヴィエといい、欧州生まれの芸術家にとっての舞踏会というものの大切さ、憧れを感じることができる。
さて、夫に死別したクリステイーヌ。
お城の奥様とはいえ、満ち足りた結婚生活ではなかった。
偶然再見した手帖に記された名前を順に追ってみることにした。
16歳で社交界にデヴューした当時の自分に再会するためとも、その当時の自分に愛を告白した男たちに再会するためとも理由はいくらでもあった。
手帖の最初の名前はジョルジュ。
訪ねると母親が出てきた。
ジョルジュは20年前クリステイーヌの婚約を知り拳銃自殺していた。
母親は息子の死を認めることができず、部屋のトランプもそのまま、カレンダーも20年前のままで息子の帰りを待っているのだった。
現実を記憶はしつつ、息子の死についてはかたくなに認めることができない母親をフランソワーズ・ロゼエがほぼ独演で演じる。
戸惑うクリステーヌことマリー・ベルの表情は時として「外人部隊」の薄幸の歌姫のように頼りなかった。
手帖の次の名前は弁護士志望の19歳の学生だった男。
今では弁護士資格をはく奪され、夜の帝王と呼ばれる存在になっていた。
トップレスダンサー(酔客の指名が可能)が踊るナイトクラブのオーナーにして、詐欺的強盗団を操る悪徳元弁護士をルイ・ジューベが演じて、ぎょろ目をむく。
訪ねてきたクリステイーヌに売春の相手を紹介しようと早とちりするジューヴェは、やがて彼女を思い出し、20年前のヴェルレーヌの死を愛する青年に戻って自身の思い出を美化したのち、警察に連行されてゆく。
ポマードで固めた黒髪でにらみを利かせるジューヴェの悪役演技が見もの。
デュヴィヴィエ一家の座付き俳優で、太っちょ中年アリ・ボールが神父を演じるのが第3話。
20年前に16歳のクリステイーヌに恋敗れて、さらに義理の息子を失ったショックで信仰の道へ入る元新進の音楽家という設定にリアリテイはないが、ここは、アリ・ボールの独演と見守るマリー・ベルの黒のつば広帽子の下の美貌を愛でよう。
仏印のサイゴンからの引揚者、今では港町の闇堕胎医にまで落ちぶれた元医学生の第6話は暗く、切迫感に満ちていた。
片眼を失い、神経症の発作に見舞われる元医学生の姿にはかつてのエリートの面影はない。
訪ねたクリステイーヌの前で内縁の妻とDV騒ぎ。
食事を用意してもワインのボトルを持つ手が震える。
斜めのカメラでこの挿話を捕らえるデユヴィヴィエの、サスペンスに満ちた演出が冷徹。
ある時は流れるようなドレス姿、ある時は帽子を目深にかぶって相手を見つめ、ある時はスキーヤー姿でアルプスの山小舎を訪ねるマリー・ベルの過去巡り。
否、現実という名の地獄・極楽めぐり。
巡った先はペシミズムに彩られた悲劇的世界もあれば、微苦笑を誘うような現実世界もあった。
いずれにせよ自由になったクリステイーヌが憧れる世界ではない。
その胸に去来する16歳の時の舞踏会の夢のような幻影。
ラストでクリステイーヌが現実の舞踏会へ誘うのは、湖の対岸に住む手帖に記された唯一の行方不明者・ジェラールの息子だった。
その青年を演ずるのはデュヴィヴィエ出世作「にんじん」(1932年)の主演少年ロベール・リナンで、かれはのちに占領下のフランスでレジスタンスに加わり、つかまって処刑されたという。
マリー・ベルが嫁いだ湖畔のお城の幻想的な風景は、デユヴィヴィエ後年の「わが青春のマリアンヌ」(1955年)を思い出させる北方的なムードが漂よう。
また、第1話の霊魂が復活するかのような神秘性、第2話のギャング映画のようなノワール性、第5話の庶民的な喜劇、第6話のヒリヒリとしたサスペンスは、いずれも多才なデユヴィヴィエが得意とする分野だ。
第1話と7話に出てくる小道具としてのトランプにも注目。
第1話でのそれはフランソワーズ・ロゼエが出てくる挿話のこともあり、「外人部隊」へのオマージュなのかもしれない。
第2話と第5話では、いずれの主人公(クリステイーヌが訪ねる相手)にも義理の息子がいる設定になっている。
片や死別し、片や実家に戻っては金をせびる不肖の息子と、それぞれ幸福な設定ではない。
エピローグに登場するジャックはクリステイーヌの養子となり、第2話、5話に続く三度目の〈義理の息子〉となる。
果たしてその結末はハッピーエンドを迎えることができるのだろうか。
「旅路の果て」 1938年 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督 フランス
デュヴィヴィエ最盛期の末尾を飾る作品。
「地の果てを行く」「我等の仲間」「望郷」「舞踏会の手帖」などの代表作を30年代に発表したデュヴィヴィエは、1938年にハリウッドに招かれ、MGMで「グレート・ワルツ」を撮り、帰国後フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を受けた。
「旅路の果て」は叙勲後初の作品であり、また、こののちデュヴィヴィエは「幻の馬車」「わが父我が子」の2作品を撮った後、アメリカに亡命することになる。
デュヴィヴィエがフランスで帰国後の第一作を撮るのは1946年の「パニック」だった。
「旅路の果て」はデュヴィヴィエ映画の総決算にして集大成でもある。
これまでの作品では、文芸作品や推理小説、宗教ものなどの原作を素材に、エキゾチシズムやロマンチシズム、ノワールなど野味付けに趣向を凝らして観客にアピールしてきたデュヴィヴィエが、〈素材〉から離れ、〈装飾〉をかなぐり捨て、〈自分の作りたいものを、作りたいように〉作った、おそらく初めての作品なのではないか。
芳紀花盛りの美人女優も出てこなく、出てくるのは老人ばかり、それも筋金入りの頑固で自意識に凝り固まった老人たち。
活気ある世間とはかけ離れた加齢臭漂う老人ホームと、隣の貧乏くさい田舎カフェが舞台。
主題は老いてなお、自我と妄執から離れられない人間そのものの業だ。
主役は3人の老人。
ホームの主役よろしく、集団生活を取り仕切ったつもりになっているカプリサード(ミシェル・シモン)は終生代役で終わった才能のない役者。
主役さえ病気になれば自分も舞台で輝けた、との思いだけが生きる支え。
息子は死に、肉親からの連絡はなく(ここでデユヴィヴィエ作品のモチーフの一つである〈息子との死別〉が出てくる)、毎年付近でキャンプを張るボーイスカウトから歓迎されることだけが励みとなっている。
才能はあるが売れなかった元主役俳優のマルニ(ヴィクトル・フランサン)は見るからに謹厳実直。
自らの才能をひけらかさないこと岩のごとし。
妻が浮気し、死んだことが生涯の心の傷となっている。
そこに現れたサンクレール(ルイ・ジューヴェ)。
昨日まで現役の主役だったがお払い箱になりホームに騒々しくやって来る。
ざわつく元女優の老女たち。
サンクレールはとんでもないドンファンで、入所中の老女シャベール夫人(ガブリエル・ドルジア)の死んだ息子(ここでも息子が死んでいる)の婚外父であり、またマルニの妻を寝取った後自殺に導いてもいる。
自らの老いを認めず、女とみれば粉をかけ、金銭に執着し、過去の傷に拘泥し、と、人に嫌われる個性ばかりを思いっきり発揮しまくる3人の老人。
見返りは肉親からの拒絶だったりするがその現実はきれいにスルーする。
彼等の姿は単に老醜の醜さを表すだけにとどまらず、人生そのもの人間そのものの無残を表しているといえよう。
こういった人生の醜さについてはビリー・ワイルダーが作るアメリカ映画では、落ちぶれた元スターを実名で登場させるなどしてセンセーションをあおる手法をとるなどするが、そこは大人のフランス映画、露悪的な手法は取らない。
あくまでも劇中の出来事として、演出と演技で本質を突き詰め、より厳しく現実に迫る。
事件らしい事件も起きずに進む映画を、ヒリヒリとした緊張感と、無残な現実描写で描き切ったデュヴィヴィエの手腕と、主演3人を中心とした演劇人の個性に引きずり回された110分だった。