ラピュタ阿佐ヶ谷「新春初蔵出し東映時代劇まつり」より  大川橋蔵の巻

千恵蔵、右太衛門の両御大の跡を継ぐ戦後生まれのスターとして、錦之助とともに東映時代劇の一時期を担った大川橋蔵の当たり役は「新吾十番勝負」だった。
橋蔵の出身である歌舞伎の女形の表現とも通底する、高貴な出を背景を持つ新吾というキャラクター。
その甘さと気品、色気を表現するのが橋蔵の役作りだった。

ポートレート

歌舞伎の女形から映画界入りした橋蔵は初出演の「笛吹若武者」(1955年)の立ち回りのラッシュを見て「女の子が棒っ切れをもって喧嘩しているように見えた。」と思った。
殺陣師の足立伶二郎の特訓を受け、映画スタイルの立ち回りを習得した。
橋蔵が好む立ち回りは、嵐寛寿郎のそれだったという。

明るく、華があり、軽快な動きができる橋蔵はたちまち人気が出、錦之助とともに若手スターの一番手となった。

「新吾十番勝負」。橋蔵の代表作

一方、人気絶頂を誇った東映時代劇も60年代に入ると陰りを見せ始めた。
旧態依然とした両御大の時代劇ばかりではなく、錦之助、橋蔵の作品も観客動員に結びつかなくなった。
錦之助はライフワークともなった「宮本武蔵五部作」(1961年~ 内田吐夢監督)や「反逆児」(1961年 伊藤大輔監督)など巨匠による大作に活路を求めた。

一方、橋蔵は遅れること1年、内田吐夢監督の革新的意欲作「恋や恋なすな恋」(1962年)、大島渚監督の「天草四郎時貞」(1962年)に出演。
自らの殻を破ろうとしたが、前者はともかく後者では記録的不入りとなり、以降、映画では思うような作品を残せずテレビの「銭形平次」に活躍の場を移していった。

「恋や恋なすな恋」。歌舞伎やアニメまで取り入れた意欲作。相手役は嵯峨美智子

一説では、錦之助と違い巨匠らは橋蔵を使いたがらなかったという。
女形出身の出来上がったイメージが邪魔したのだろうか。
ラピュタ阿佐ヶ谷の「新春蔵出し東映時代劇まつり」特集でスクリーンに再現された60年代初頭の大川橋蔵を見てみよう。

「清水港に来た男」  1960年  マキノ雅弘監督  東映

自らの「次郎長三国志」(1954年~の東宝版)をなぞるように、清水の茶摘み風景に「チャッキリ節」を被せ、茶摘み娘らをミュージカル風に動かすマキノ演出。
早くもご機嫌な冒頭シーンだ。

リズム感のあるマキノ演出に乗っかって、橋蔵の演技も快調。
調子のいい、正体不明だが素性のよさそうな風来坊をご機嫌に演じる。
相手をするのは田中春夫。
例によって頼りなくも憎めない三下役だが、恋女房の青山京子がこの作品ではお歯黒姿の髪結いに扮して色っぽい。

軽快な橋蔵とおきゃんな丘さとみのコンビ

橋蔵が潜り込む先の次郎長一家の娘、丘ひろみは、おきゃんで庶民的なキャラクターを与えられ、生き生きとしている。
次郎長役の大河内傅次郎。
既に第一線からしりぞき脇での出番だが、その貫禄はただものではなく、凍りついた表情はベラ・ルゴシかボリス・カーロフか、怪奇映画でも十分やれそうなただならなさ。

ヤクサの三下に身をやつした橋蔵の正体は勤皇の志士。
戊辰戦争勃発時の次郎長が、佐幕派に付くかそれとも勤皇派かを探るために潜り込んだのだった。

やくざの出入りで死んだ子分の妻(小暮実千代)が、次郎長主宰の盛大な葬式の場面で、本心をぶちまけ夫の犬死を嘆くシーンがあった。
脚本の小国英雄は戦前からマキノ作品を書き続け、戦後には黒澤明の「生きる」(1952年 東宝)を書いたベテラン。
ここは反やくざ、反戦のメッセージを盛り込んだのかと思ったが、どっこい、後半で橋蔵に「京都では勤皇の志士たちが、嘆いたりせず喜んで死んでいった」といわせている。

全部が小国のオリジナルではないのかもしれないが、映画としては勤皇派に付き、大儀ある死を肯定しており、決して反戦、個人主義的立場に立ってはいない。
東映時代劇である以上、大衆迎合そして体制迎合はしょうがないのであろう。
ただ葬式の場面での反暴力的メッセージは、ドラマに厚みを持たせる肉付けとして意味はあった。

また、丘さとみが橋蔵に向ける淡い恋ごころも、身分の違いを越えて結ばせることなく終了。
ラストシーン、茶摘み風景をバックにチャッキリ節に乗って晴れて京へ戻ってゆく橋蔵に、丘さとみもついてゆくのか?と、甘い結末を期待したが、そこにはさとみの姿はなかった。
武士とやくざの娘ではの間には決して越えられない階層の差があったのだ。
その時、橋蔵の表情はあくまで晴れ晴れとしていた。

橋蔵の立ち回りは躍動的で、動きもよかった。

「赤い影法師」  1961年  小沢茂弘監督  東映

柴田錬三郎の原作を、東映時代劇の「天皇」の一人比佐芳武が脚色。
橋蔵の相手役には、ミス平凡から入社した新東映三人娘の一人大川恵子。
脇に大友柳太郎、近衛十四郎、大河内伝次郎、さらに若手の里見浩太朗、山城新伍。
ゲストに木暮実千代と準オールスターともいうべきキャスト。

監督には松竹から移籍し、監督昇進7年目の小沢茂弘を起用。
いわば、比佐芳武の脚本という「古い皮」に、橋蔵、小沢監督という「新しい酒」を入れて路線開拓を試みた作品。

その結果は惨敗だった。

三代将軍家光の首を付け狙う石田三成の忘れ形見の娘(木暮)と孫(橋蔵)が、「影」と呼ばれる忍者として策動する。
対するは徳川家のお庭番・柳生十兵衛(大友)と服部半蔵(近衛)。
しかして、影として生きる橋蔵の父親は服部半蔵であったというファンタジー。

ワイヤーアクションや暗さを生かした照明下での殺陣などリアルさを追求している。
主人公の橋蔵も、半蔵も戦いで傷つく。
キスシーンなどの濡れ場もいとわない演出。
60年代を迎え、新しい表現での時代劇を東映が模索していたことがわかる。

しかしながら、けれんみたっぷりの荒唐無稽な原作を生かすセンスは東映にはなかった。
また、柴田錬三郎原作の「眠狂四郎」の映画化では、大映に市川雷蔵というニヒルで色気のある役者がいたが、東映にはいなかった。
橋蔵ではアイドル的な甘さがありすぎた。

「影」である橋蔵の人間味を表現しようとして、木暮に対し「母者」と盛んに呼びかけ、弱みを表現するが、マザコン的甘えに見えてしまう。
また、山場になるとどこからともなくその場にいる、柳生十兵衛役の大友柳太郎には違和感を禁じえない。

全体に「リアル」でもなく「ファンタジー」に徹してもいない印象。
だいたい橋蔵と木暮のからみはベタついてイカン。

60年代に入り、橋蔵のライバル錦之助は、「宮本武蔵5部作」(1961年~ 内田吐夢監督)など巨匠作品に出演を始める。

焦った橋蔵は、何と松竹を飛び出した大島渚の招集を要求し、「天草四郎時貞」(1962年)に出演する。
「いつか大島先生に私の作品を撮っていただきたいと思っていました」と張り切った橋蔵だったが、橋蔵の顔も(共演の丘さとみの顔も)まともに映らない暗い画面が連続するこの作品は、とても会社上層部、映画館主、観客の期待に沿うものではなく興行的にも記録的な失敗となった。

この後、錦之助は今井正監督と組んで「武士道残酷物語」「仇討」などの問題作を連発。
負けじと橋蔵は「幕末残酷物語」(加藤泰監督)に出演。

二人の路線転換は、50年代に全盛を迎えた東映時代劇の完全な終焉をもたらしたが、かといって観客に支持されたわけではなかった。

「大喧嘩」  1964年  山下耕作監督  東映

「大喧嘩」は、おおでいりと読む。
監督の山下耕作は、61年に監督昇進した当時34歳の新鋭。
前年に「関の弥太っぺ」というヒット作を作っている。

脚本は3人。
村尾昭は62年に脚本家としてデヴュー、これが9本目の映画化脚本。
鈴木則文は31歳、翌年に監督デヴューを控える。
中島貞夫は30歳、この年に「くノ一忍法」でデヴューする。
この3人は、東映時代劇の凋落が始まってから一線にデヴューし、その後の東映を担う新鋭たちだった。

「大喧嘩」は、股旅ものに新境地を見出さんとする橋蔵に、東映の若き才能をぶつけての企画。

起用された山下、鈴木、中島らは、旧来の東映時代劇の作法にはとらわれず、まず配役を一新。
外部から丹波哲郎や金子信夫、加藤嘉、西村晃を招聘。
女優陣も十朱幸代、入江若葉を起用、いわゆる「東映城のお姫様」は使わなかった。

撮影は鈴木重平という人で、緑豊かな田圃の中で繰り広げられる殺陣を自然光によるロングショットの長回しで撮るなど、明らかにこれまでの東映時代劇の撮り方とは異なっていた。
編集だけは東映時代劇全盛時代からの職人宮本信太郎がニラミを利かせていた。

中山道が軽井沢から追分宿で北国街道に別れ、小諸宿へかかるあたりが舞台。
3年間の旅に出て、いっぱしの男となって帰ってきた橋蔵。
弱きを助け、理不尽は通さない、仁義に生きる任侠の徒だ。
だが帰ってきた故郷では、任侠より金と力が幅を利かし、再会を誓った恋人はかつての舎弟の妻となっていた。
そこへ現れた訳ありの浪人が、宿場で張り合う2大勢力の壊滅を狙って策動する・・・。

任侠の世界が(そんなものがあったとして)時代遅れとなり、金がすべての近代資本主義のようなものに駆逐されてゆく様を、黒澤明の「用心棒」(1961年)の骨組みを加味して描いている。

山下、鈴木、中島らが新しいからかインテリだからか、現代語で親分子分、身分の差なくデイスカッションのようにセリフがやり取りされる。
中には、敵対する親分(遠藤太津朗)から「仁義なんかじゃ飯は食えねえ。ヤクザの正義は力だ」(意訳)などというセリフも飛び出す。
同趣旨のセリフ「仁義なんか知らねえ。俺はただの殺し屋だ」が鶴田浩二から発せられた68年の山下作品「博奕打ち・総長賭博」(1968年)があった。
「総長賭博」は三島由紀夫も絶賛する任侠映画だったが、山下監督のヤクザに関する醒めた視点は、64年の本作から一貫していたことがわかる。

「大喧嘩」では、主人公が旧来の優等生的ヤクザであり、アンチヒロイズム的なセリフは、わき役が端端で発していたものの、映画全体が反ヤクザ的価値観を前面に押し出すものとはなっていない。
新しいヤクザのヒーロー像を求めたり、「リアル」に徹した悲惨なやくざの現実を追求してもいない。
それは橋蔵の役者としての限界であるとともに、当時の山下、鈴木、中島らにとってもまた、限界だった。

見ていて「優秀な堅気の作者が作った若い感覚の股旅映画」という感じが最後までした。
田圃を踏み荒らし延々と走るラストの殺陣のシーンは、当時はやりのフォトジェニックな撮り方であり、切迫感より、瑞々しさが感じられた。
また、ヤクザの物語に対する突き放したような客観性が感じられた。

映画という見世物は、「非日常性」がなければ木戸銭を払う動機にはなりずらい。
東映時代劇にあっては、主人公中心の派手な立ち回り、豪華な衣装、芸子総揚げのレヴュー、異形の姿で御用提灯に囲まれる悲壮、等々。
なにより役者たちの「素人」とは隔絶した「超人」性。

映画の「非日常性」が一敗地にまみれ、観客動員がつるべ落としとなっていた60年代中盤。
作り手として第一線に迎えられた山下、鈴木、中島にとって、「非日常性」への復帰は論外だし、かといって描くべきものも確立せず、とりあえずそれまでの「非日常性」への軽いアンチを提示することからの、この作品は出発点だったのだろう。

橋蔵にとって東映時代最晩年の1作となった。

ラピュタ阿佐ヶ谷「新春初蔵出し東映時代劇まつり」より  片岡千恵蔵の巻

東映時代劇の、いや前身の東横映画時代からの稼ぎ頭であり、御大と呼ばれたスターは片岡千恵蔵と市川右太衛門だった。

両者はともに歌舞伎界から戦前に映画界入りし「七聖剣」と呼ばれた。
千恵蔵は、マキノ・プロを経て千恵・プロを起こして独立したが、「私は剣戟が好きではなかった」と述べる剣戟スターだった。

戦前の片岡千恵蔵の出演作に「鴛鴦歌合戦」(1939年 マキノ雅弘監督)という愉快な作品がある。
志村喬やゲスト出演のデイック・ミネらとともに若き千恵蔵が歌うミュージカル仕立ての時代劇だった。

「鴛鴦歌合戦」

戦後になると、GHQから仇討ちなどをテーマとするチャンバラものの製作を禁止され、千恵蔵は当時所属していた大映での「多羅尾伴内」シリーズ、東横に客出しての「金田一耕助」シリーズなどの現代劇に活路を見出さざるを得なかった。

1948年、大映系の映画館主が集まった会で、大映社長の永田雅一が『多羅尾伴内ものはつなぎの映画。今後は芸術性の高い映画を製作してゆく。役者などは何度でも取り替えられる』と発言し、千恵蔵が激怒、大映との契約更改は行われなかった。
裏に東横映画のマキノ光男らの暗躍があった。

千恵蔵の現代劇「アマゾン無宿・世紀の大魔王』(1961年 小沢茂弘監督)

マキノらに誘われた千恵蔵は、東横映画の真のオーナーである東急の五島慶太との面談を要求し、その場で東横映画の重役に就任すること、また東横映画が独自の配給網を作ることを約束させた。
これはのちに、製作と配給を一つの会社に統合しての東映が発足するきっかけの一つともなった。
千恵蔵は、松田定次監督、脚本家の比佐芳武とともに東横映画に移籍し、のちの東映時代劇の興隆を担うこととなった。

1950年、GHQに気を使いながら、千恵蔵主演で「いれずみ判官」を製作した。
当時役者の小遣い稼ぎとして行われていた地方巡業での千恵蔵の当たり役「遠山の金さん」の映画化だった。
映画はヒットしシリーズ化され、千恵蔵の当たり役となった。

「いれずみ判官」第一作(1950年 渡辺邦夫監督)。右は花柳小菊

千恵蔵はまた、満映から帰還した内田吐夢監督の復帰第一作「血槍富士」(1966年)をはじめ、「大菩薩峠三部作」(1957年~59年)、「妖刀物語・花の吉原百人斬り」(1960年)などの内田作品に出演、監督ともども高い評価を得た。

このほか、1950年代の東映では、「いれずみ判官」シリーズなど、当代当たり役に出演を続け、「旗本退屈男」などの右太衛門とともにマネーメイキングスターとして会社を支え、絶大な威信を誇った。

「血槍富士」の奴姿

60年代に入ると千恵蔵、右太衛門両御大の出演作品の観客動員数に陰りが見え始めた。
折から日本映画全体の観客動員数も1959年を境に激減し始める。
東映は、両御大中心の時代劇から、集団抗争劇、任侠ものなどの新傾向の作品を模索せざるを得なくなり、千恵蔵も集団劇の一人として出演するなどする。

それでも東映そのものの凋落に歯止めがかからず、当時の京都撮影所長岡田茂から千恵蔵が専属契約の打ち切りを通告されたのは1965年のことだった。

千恵蔵はその後も重役として東映に残り、その後のヒット路線となる任侠映画や、異色作「日本暗殺秘録」(1969年 中島貞夫監督)、やくざ映画に政治的波形を持ち込んだ「日本の首領・完結編」(1978年 中島貞夫監督)などにもその姿を見せた。
一方の右太衛門は任侠映画への出演を拒否し、東映を去って活躍の場を舞台に移していった。

岡田茂(左)らと談笑する晩年の千恵蔵

千恵蔵の履歴を見てゆくと、戦前に自らの千恵蔵プロダクションの運営に関わったことからくる経営感覚と自らの役柄を固定しない柔軟性があることがわかる。
「鴛鴦歌合戦」の飄々とした青年ぶり、「血槍富士」での実直・素朴な中年下郎ぶり、「日本暗殺秘録」での狂信集団の老黒幕ぶりを見るにつけ、演技者としての素質・素材の良さに改めて感心する。

では、東映時代劇の最終場面であり、千恵蔵の定番時代劇の末期である60年代に入ってからの作品を、ラピュタ阿佐ヶ谷の「東映時代劇まつり」から3本見てみる。

ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーには、東映から35ミリ上映用プリントが届いていた

「半七捕物帖・三つの謎」 1960年  佐々木康監督  東映

「半七捕物帖」は岡本綺堂という、明治生まれの小説家による新聞小説が原作。
江戸時代に三河町の半七親分と呼ばれた岡っ引きの捕物を江戸情緒豊かにまとめて人気を博した。
この小説の成功により後年「銭形平次」「人形佐七」「若様侍」などの捕物帖小説が生まれた。

「半七捕物帖」の戦後唯一の映画化が本作。
おそらく東映が期待したほどヒットはしなかったのだろう、シリーズ化はされなかった。
テレビドラマとしては1966年からの長谷川一夫主演によるものが極めつけで、その後は、尾上菊五郎、里見浩太朗なども演じている。
原作が半七の華々しい活躍よりも江戸の市井の様相や人情を伝えることに力点が置かれていたことから、長谷川一夫のキャラクターにふさわしかったようだ。

映画界では、60年代に入ってから、千恵蔵の看板シリーズである「いれずみ判官」が62年に終了するなど、50年代までの絶対的人気に衰えが目立っていた。
千恵蔵主演のシリーズもの時代劇は製作されず、「十三人の刺客」(63年)など集団抗争劇に出演したり、「俺は地獄の手品師だ」(61年)など、刀を拳銃に持ち替えた現代劇に活躍の場を移していった。

演技者として晩年を迎えようとしていた千恵蔵だが、本作「半七捕物帖」では持ち味を発揮した。
年齢からか、江戸の腕利き岡っ引きとしては機動性に欠けるが、鋭い推理とあふれる人情味はますます健在で、原作「半七」が持っているであろう、江戸情緒を舞台にした岡っ引きの親分にふさわしかった。

共演は、番頭格の子分に東千代之介、半七の手先となる町の遊び人に鶴田浩二、愛人のために誤って異人を斬ることになる若侍に沢村訥升。
女優陣には千原しのぶ、花柳小菊のベテラン陣に、若手から東映三人娘のひとり桜町弘子。
ここでは全員妙におとなしく演じており、決して御大の演技の邪魔をしないのは、さすが東映時代劇で培ってきた俳優陣のチームワーク。
唯一、映画では新人と思われる沢村だけがガツガツとした動きを見せた。

監督は戦前の松竹大船で清水宏、小津安二郎の助監督に付いた佐々木康に、脚本:比佐芳武、編集:宮本信太郎の東映時代劇黄金コンビ。
だが、このコンビでも時代劇黄金時代のテンポがでない、いつものキレがない。
あるのは静かな調子で御大千恵蔵の人情味と人の好さが醸し出す江戸情緒。

プレスシート。左下が沢村訥升

映画は3話構成のオムニバス方式。
千恵蔵らはもちろん、鶴田、千原などは2話、3話とまたがって登場する。
オムニバス構成は、緊張感の持続と展開の早さを狙った新工夫ではあるが、なにせ映画全体を流れる基調は、御大の人情味あふれるゆったりとした江戸情緒。
工夫が斬新とはなっていない、それがいいのだが。

東映撮影所のそして時代劇のお約束として、奉行所役人(武士)と岡っ引き(町人の身分外に位置する、無宿もの、やくざ者)の、決して越えられない身分の違いをきっちりと描き分けている。
また映画全盛期ならではの贅沢が垣間見える。

例えば横浜異人用の遊郭のセットが、ワンカットだけなのに、顔見世の建物の作りと奥に潜む白く首を塗った女郎達の妖艶がしっかり作り込まれていていた。
監督が都度指示したというより、勝手知った撮影所のスタッフが脚本の意を得て準備したものなのだろう。

このように、女優の歩き方、口調、シナの作り方、着物の襟の着こなし、ひいては玄人筋の女性の描き方など、時代考証以前の当時の風俗の再現は、東映時代劇を見る楽しみの一つである。

若侍役の沢村訥升という若手は、歌舞伎出身なのか、走っても頭の位置が動かないうえに、腰が据わった太刀さばきを見せる。
何より、見得を切る時の目や唇のひん剥き方が、白塗りドーランと合わせてサイレント時代劇の剣戟スターのようで、逆に新鮮味があった。
時代劇新スターの素質は十分とみたが、出てきた時代が遅かったのか、その後の活躍を寡聞にして知らない。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

「勢揃い関八州」  1962年  佐々木康監督  東映

実年齢が還暦近い千恵蔵が國定忠治を演じるセミオールスターもの。

忠治の味方に、高田浩吉、北大路欣也、松方弘樹、若山富三郎、山城新伍。
敵方に月形龍之介、近衛十四郎。
女優陣は久保菜穂子、扇千景、北沢典子。

配役をみると男優陣は若手抜擢、女優は新東宝など他社からの移籍組が多く、顔ぶれが50年代の東映時代劇から様変わりしている。

オリジナルポスター

弱気を助け強きをくじく。
己の身分はわきまえ(やくざ者は士農工商の身分制度の外)、義理人情に厚く、金払いはよい。
それゆえに男は従い、女は慕う。
子分を従えれば常に冷静沈着、統率力十分。

千恵蔵が演じると、完全無欠過ぎる國定忠治もなぜか納得がゆく。

当時の東映の新鋭脚本家だった結束信二のシナリオには、新趣向として登場人物らの葛藤なども描かれる。
例えば、関八州の代官として忠治に立ちはだかる月形龍之介と、浪人として忠治を付け狙う平手深酒(近衛十四郎)の千葉道場以来の腐れ縁とその後の二人の分かれ道を述べてみたり。
忠治の子分格だったヤクザが代官から十手を預かり、目明しとなったがために分不相応に成り上がり、女(久保菜穂子)を巡って忠治と対立したり。
唐突に、森の石松を登場させてみたり。

殺陣の場面ももはや千恵蔵の威光に乗っかることもなく、北大路、松方の若手二人に大暴れさせ、また殺陣の舞台も、50年代に多かったであろう、屋敷内や街中でのみ行われるのではなく、森の中や水たまりのある谷底で、水を被ったり泥を浴びたりして行われる。
60年代に入って流行してきた「リアルな」殺陣の影響であろう。

ラピュタのロビーに掲示されたチラシ

テンポの良さ、スピード感は50年代の東映時代劇そのままに、スターらが続々といい場面で現れるなど、伝統を引き継いでいる。

また、佐々木監督の持ち味である、ロマンチシズムとミュージカル志向はいつもながらに心地よい。
久保菜穂子や扇千景らの愛する男たちへの情念。
ピンチの北大路が飛び込んで難を逃れた旅芸人一座のヒロイン北川典子との淡いロマンス。

佐々木監督手練のレヴューシーンは一座が舞台。
北川典子の踊りや千原しのぶの水芸などが華やかで艶やか。
やっぱり東映時代劇はこれがなくちゃ!

孤高の達人平手深酒を演じる近衛十四郎が殺陣は一番うまかった。
足の運び、剣さばきと見ごたえがあった。
一方、千恵蔵は上半身のみ映す殺陣シーンで、足の運びがすでに心もとなくなっていたのか?

森の石松役でコメデイリリーフ的に出てきた山城新伍。
すでに後年の役柄の原点を見出していたようだ。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

「勢揃い東海道」  1963年  松田定次監督   東映

さあいよいよ千恵蔵時代劇の、そして東映時代劇の最終章だ。
時は1963年、正月公開の文字通りオールスター映画。

千恵蔵はもちろん、両者並び立たずといわれた市川右太衛門が出ている。
御大そろい踏みとあらば、若手の人気スター中村錦之助と大川橋蔵も座視はできまい。
東千代之介、大友柳太朗の二人もはせ参じよう。

外様の高田浩吉、売り出しの里見浩太朗、北大路欣也、松方弘樹はもちろん動員だ。
女優、といっては失礼なほどのカンロクの美空ひばりにも一肌脱いでもらって、花を添えるのは演技派久保菜穂子と今が盛りの丘さとみに桜町弘子(東映三人娘のもう一人大川恵子は前年に結婚引退)。

オリジナルポスター

本作が東映時代劇の最末期にあったのは、東映時代劇のエース監督松田定次が、この年63年に4作、64年に2作、65年に1作と監督本数を減らしてゆき、69年の2作をもって映画からテレビに移る過程の作品で去ったこと。
また本作では準主演の大川橋蔵の東映オールスター最後の出演作であり、かつ名コンビ美空ひばりとの共演も最後であることにも表れている。
ちなみに、日本映画全体で1960年には168本作られた時代劇が1962年には77本になり、1967年にはわずか15本となってゆく頃に製作されたのが本作である。

脚本は戦前の新興キネマから戦時統合された大映を経て、戦後、大映で活躍していたという高岩肇。
50年代に入って、新興キネマ時代の盟友松田定次の引きで東映に移り、60年代に入ってからは各社で活躍した。
代表作に「血ざくら判官」(54年)、「二・二六事件脱出」(62年)、「忍びの者」(62年)、「夫が見た」(64年)、「春婦伝」(65年)、「若親分」(65年)、「眠狂四郎無頼控・魔性の肌」(67年)などなど。
各社にまたがる異色作を手掛け、特に市川雷蔵のヒットシリーズを生み出している点が、この脚本家がただものではないことを示している。

さて、本作「勢揃い東海道」。
ご存じ清水の次郎長の荒神山を巡る縄張り争いを主軸に、次郎長の親分ぶり、子分たちの義理人情、女房達との板挟み、堅気とやくざのけじめ、武士階級との間の厳然たる身分の差、義理を欠いたやくざの悪辣さ、を横軸に繰り広げられる。
そこへ幕末の志士山岡鉄舟が登場し次郎長を助ける。
人情味あふれる次郎長親分には千恵蔵に扮し、豪快な殺陣と貫禄で右太衛門が鉄舟で登場する。

映画の前半は橋蔵とひばりの夫婦のやり取りをじっくり見せる。
子が生まれたばかりの仲のいい夫婦、(映画ではセリフを全部覚えてから現場入りしたという)ひばりの母親ぶりが甲斐甲斐しい。
世話になった次郎長主催の花会(博奕大会)に夫婦子連れで清水にやってきて、そこで耳にした荒神山を巡る一件。
義理の親父の悪徳三昧に、掘れた女房に三行半を突き付けて、橋蔵、仁義を欠く義理の親父に殴り込みだ。

ひばりとの息の合った夫婦ぶり。
そのしっとりとした場面を尺を取って見せた後、義理を立ての殴り込み。
珍しや橋蔵が惨殺されるが、次郎長親分への義理立てと、惚れた女房への三行半、その親父へのやむに已まれぬ反逆、それぞれの葛藤が十分描かれているから橋蔵の悲壮感が生きる。
死してのみ通る仁義の世界も納得感がでる。
まだまだ(映画俳優として)いけたんじゃないの、橋蔵。

若手として、松方弘樹ともども売り出し中の北大路欣也。
二人のとっぽい若者ぶりが、コメデイリリーフ的にアクセントとなっている。
また、二人の、特に北大路の扱いには東映の期待感がにじみ出る。

両御大も頑張っている。
ラストの殴り込み。
千恵蔵の殺陣は鬼気迫る。
表情だけではなく足の運び、ドスさばき、全身で魅せる。

右太衛門は殺陣では脇に回り、貫禄で勝負。
荒神山の手前で悪徳役人らに行く手を阻まれた次郎長一家、指物次郎長も役人相手では「お慈悲」を乞うしかないピンチに颯爽と馬で駆け付ける鉄舟こと右太衛門。
登場ぶりがいい。

時代劇の終末観がどこか漂うこの映画。
どうしてもこの時期に勃興した「リアル」な時代劇の、あるいは任侠劇の影響がある。

いつもは隅々まで明るい照明も、橋蔵とひばりの場面など、本人たち以外は背景など暗めのライテイング。
橋蔵の惨殺シーンは、のちの任侠映画のテイストを漂わせる。

東映三人娘の丘さとみが、芸者姿で出てきたときだけはパッと画面に花が咲き、その時だけは懐かしい東映時代劇のテイストだったが。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

千恵蔵、渾身の殺陣が決まった後は、富士を見上げて全員が勢揃い、千恵蔵と右太衛門が握手してのラストシーン。この握手、来るべき御一新の世には次郎長と鉄舟が協力して新しい世の中を作ろう、ということなのだが、見ていて東映時代劇の終焉を前に両御大がお疲れの握手をしているかのように見えたのは筆者だけだったろうか。.

(おまけ)  佐々木康監督について

ここで、「半七捕物帖・三つの謎」「勢揃い関八州」の佐々木康監督について、1993年刊の自伝「悔いなしカチンコ人生」より経歴を抜粋してみる。

「悔いなきカチンコ人生」表紙

・1908年、秋田県生まれ。
・1917年、早稲田大学卒。
・1928年、松竹鎌田撮影所入所。清水宏監督に師事。「ズー」が一生の愛称となる。

・1929年、小津安二郎の助監督時代の編集作業が後年役に立つ。
・1931年、「受難の青春」でデヴュー。
・1937年、『音楽映画』が得意ジャンルとなり、音楽に俳優の動きを合わせるプレイバック手法に熟達。
・城戸四郎松竹撮影所長に「ジャーナリズムにもてはやされる『映画作家』に育てるためにお前を抜擢したのではない」と言われ、以降、娯楽作家への道を徹底する。
・1939年、音楽映画の大作「純情二重奏」を高峰三枝子らの出演で製作、大ヒットする。

佐々木康デヴュー作「受難の青春」

・1945年、戦後第一作「そよかぜ」と挿入歌「リンゴの唄」がヒットする。
・1946年、「はたちの青春」で日本映画初のキスシーンを演出。
・1952年、東映に移る。満映で世話になったマキノ光男に口説かれた。城戸所長も了承し松竹は円満退社。

戦後第一作「そよかぜ」

・東映移籍第一作は、片岡千恵蔵主演の「忠治旅日記・逢初道中」。
・以降、東映在籍の13年で86本の作品を撮る。市川右太衛門とは息が合い「旗本退屈男」シリーズなど20本を撮った。右太衛門は大仕掛けな演出を好み、撮り方に注文も付けた。佐々木はそれを受け入れ、気に入られた。なお千恵蔵は監督の演出に従う人だったという。
・美空ひばりとは1949年の「魔の口笛」以降19本の作品を監督した。
・1957年、シネマスコープ第二作「水戸黄門」で興行収入3億円の東映新記録を達成。オールスター映画は佐々木の得意ジャンル。スターらの気に入るように、またその個性を最大限生かすように演出した。

美空ひばりと佐々木

・同年、マキノ光男死去。マキノの死が東映時代劇の寿命を三年は縮めた、と佐々木。
・1964年東映を退社し東映京都プロダクションに転籍。テレビ時代劇を監督する。近衛十四郎の「素浪人月影兵庫」、大川橋蔵の「銭形平次」などを撮る。生涯で映画168本、テレビ約500本を演出した。

東映時代劇全盛期、「曽我兄弟・富士の夜襲』(1956年)撮影風景



佐々木の演出家としてのモットーは、スターに気持ちよく演技させる環境づくりにあった。
思い通りに演技してそれが銀幕に映え、また大向こうに受ける華と技量を持ったスターが東映にはいた。
映画史からはほとんど無視されているが、50年代の東映時代劇は日本映画史における黄金時代だったのではないか。時代を反映した明るさがそこにはあった。
娯楽映画に徹した東映時代劇の現場の功労者が、監督の松田定次と佐々木康だった。
惜しむらくは興隆に甘んじ、また多忙を極めた多産体制の中で、定番を繰り返したことが60年代の衰退につながったか。

とはいえ黄金時代の文化的蓄積があったからこそ、60年代初頭の「リアル」を目指した時代劇のあだ花が咲いたのであり、その後の任侠映画の勃興があったのだろう。
佐々木康監督は、東映時代劇の興隆の真っただ中にあっての生き証人だった。

「悔いなしカチンコ人生」目次とカラー口絵


ラピュタ阿佐ヶ谷「新春初蔵出し東映時代劇まつり」より 市川右太衛門の巻

2025年の新春、ラピュタ阿佐ヶ谷の上映はじめは東映時代劇だ。
思えば映画ファンを自任し、東映やくざ映画も含めた邦画ファンのつもりの山小舎おじさんは、東映時代劇をほとんど見ていなかった。

時代が違ったとはいえ、片岡千恵蔵、市川右太衛門、大友柳太郎から中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵ら、日本映画の黄金時代に観客動員数のトップを走り抜けた東映時代劇のスターたちを、リアルタイムではもちろん、再上映でもほとんど見ていない。

とくに華麗な立ち回りが音に聞こえた市川右太衛門の十八番シリーズ「旗本退屈男」は1本も見たことがない。
これはいかん、と2025年の1月、ラピュタ阿佐ヶ谷に駆け付けた。

「新春初蔵出し東映時代劇まつり」の特集パンフレット

市川右太衛門

大映の時代劇スターだった右太衛門は、戦後、GHQの差し金により時代劇が撮れなくなっていら立っていた。1946年に槍を武器に殺陣を舞う「槍おどり五十三次」に出演。
刀を抜いて身構える敵方に対し、槍で暴れ回った。槍に対してはGHQは何も言わなかったが刀で思いっきり暴れ回りたかった。

「旗本退屈男」の市川右太衛門

1949年、東横映画のマキノ光男の誘いで大映から移籍する。
条件は先に移籍した片岡千恵蔵と同じ重役待遇だった。

東横映画に移った右太衛門は、1938年を最後にシリーズが中断していた「旗本退屈男」の復活を願った。
「旗本退屈男」中断の理由は1940年に制定された奢侈禁止令のためだった。
それくらい退屈男の衣装は豪華絢爛、派手であった。
また右太衛門は退屈男の豪華な衣装がいかにファンの夢を醸し出すかを知っていた。

東横映画での退屈男復活に際し、右太衛門は京都高島屋の婦人呉服売り場で着物の柄を探し、同行の美人画家に「思いっきり派手にデザインするように」頼んだ。
作品1本につき13枚もの高級和服に身を包んだ。

劇中で着る着物を選ぶ右太衛門

歌舞伎の経験がある右太衛門は、派手な衣装を着こなし、史実を無視して長く作った刀を使った。
原作には詳しく記述のない退屈男の剣法、諸刃流青眼くずしをカメラ映えするように自己流にアレンジして撮影に臨んだ。

GHQが殺陣シーンに「人を殺すことを美化している」と文句をつけた。
右太衛門は「とんでもない。剣の舞いなんです」と説明し検閲を通した。

「旗本退屈男 謎の十文字」  1959年  佐々木康監督  東映

歌舞伎で鍛えた足さばきと華麗な太刀さばき。
見得を切る時のセリフと笑い声。
1作品に数着の豪華絢爛な着物。
すでに貫禄のついた大きな顔の額に描かれた天下御免の向こう傷。
ご存じ、旗本退屈男こと早乙女主水之介が天に代わって不義を撃つ痛快シリーズの、戦前から数えて第25作目の本作。

ロケは国宝クラスの三十三間堂を借り切り、太秦の撮影所に戻れば新品の青畳を敷いた大掛かりな日本家屋のセットが用意されている。
北大路の御大・右太衛門が中年の体つきながらまったく無駄のない足さばきで、太刀を青眼に構えれば、太秦で鍛えた斬られ役の精鋭たちが得たとばかりに御大の周りで斬られ、飛ぶ、跳ねる。

名に聞こえた右太衛門の衣装は、劇中、夜の追跡の場面でも、歌舞伎揚げせんべいの袋か緞帳かのようにキンキらと暗闇に映え、『なんでこんな場面で一番派手な衣装を』と思わせるが、それを着こなす右太衛門は誰にも文句を言わせない。

かつて「潮騒」(1954年 谷口千吉監督 東宝)で、可憐な娘役としてデヴューした青山京子は5年を経てすっかり色っぽい年増となり、退屈男を江戸から京まで追いかける訳あり女としてキャステイング。
道化役にはマチャアキの実父の堺駿二が満を持しての登場で、これまたすこぶる達者。
怪人・益田キートンも京都撮影所の御大を前にしてはひたすら恐縮の体。
退屈男が助ける島津家のお姫様に丘さとみで、襟元をしっかりガードした超箱入り娘仕様。
さらに当時10代と思われる歌右衛門の実子・北大路欣也が帝の皇太子役で、親父右太衛門をフォローする。

マツケンサンバも裸足で逃げ出す右太衛門の、天下無双のワンパターンがお約束の派手派手な世界。
国会周辺が第一次安保闘争で危急の時を迎えていたこの時代。
圧倒的大衆は「旗本退屈男」を見に映画館の門をくぐり、ひと時の慰めを得ていたことになる。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

右太衛門らの時代がかった文語体のセリフに拘り、ストーリー展開の説明がおろそかな脚本。
コマかなカット割りを省略するかのようにズームとパンを多用する撮影。
いずれも御大に専属の手練れのスタッフによる仕事。
ワンパターンからの逸脱は許されない。
なぜならこのままで客は入るのだから。

祇園で退屈男が過ごす宴席には、本職と思われる数人の芸者衆に豪華なセットで舞わせる贅沢。
女優の所作、堅気と年増をきっちり分ける着物の襟脚。
ここら辺は全盛期の東映時代劇ならではの楽しみ。

退屈男の勤皇的な立場、江戸志向は、体制的な大衆に迎合することを作品作りのモットーとした東映らしかった。

「旗本退屈男 謎の幽霊島」  1960年  佐々木康監督  東映

「退屈のお殿様」と周りに慕われる、公儀旗本・早乙女主水之介は長崎を舞台に島津藩らが策謀を繰り広げていると察知して、一人街道を西進する。
後を追う女スリ(木暮実千代)と手下(堺駿二)には、やがて退屈男に惹かれてゆく。

天下に不義を正すためならすぐさま行動する。
身分はバリバリ体制派で権力者の旗本のお殿様。
その人格は明朗活発で、モテモテながら高潔にして公明正大。
ついでにファッションは派手派手の着流しにキレキレの剣術使い。

津々浦々の一般大衆が待ち受けるヒーロー像に市川右太衛門ほどぴったりな役者はいない。
旗本退屈男と右太衛門が一体化しているというか、むしろ右太衛門が自分のカラーに退屈男像を引き込んで完成に至った主人公像である。

作品中、退屈男が長崎の宿に逗留すれば、玄人筋っぽい女将(花柳小菊)が「先にお風呂にしますか?それとも?」としなだれかかってくる。
「まず風呂じゃ」とかわしつつ、次の場面で上物の浴衣でくつろぐ退屈男。
隣ではかまってくれない玄人美女が焼いている。
泰然と美女のやきもちを受け流す退屈男こと右太衛門の姿には全く無理がなく、嫌みもない。
昭和の庶民のお父さんたちの「あこがれの姿」がここにある。

最初のチャンバラの場面の着流しが、プロレスのガウンのようで、柄といい質感といい、重ったるかったが、殺陣の剣さばき、足運び、崩れない姿勢、見得を切る角度は、まさに円熟の境地というか芸術的。
斬られ役のタイミングの合わせ方も完璧で、なるほど観客は満足するは。

映画の趣向は、長崎の異国情緒を松竹大坂のダンシングチームによる舞台と悪役・山形勲の唐人服などで表現。
長崎町内の石畳を重厚なセットで再現し、そこで退屈男と悪役を戦わせる。
石畳の再現は、当時の撮影所の美術と照明の腕の確かさを画面で確認できるもの。

ラピュタの特集パンフより。写真は宣材用のもの

悪役は例によって山形勲。
ここまで配役がパターン化されると、右太衛門が(加山雄三の)若大将で、山形が(田中邦衛の)青大将に見えてくる。
そのマンネリズムを楽しむのも一興。

ヒロインの丘さとみはエキゾチックな唐人服で登場。
悪役側の一員だが、退屈男に味方する実は日本娘という役柄だった。

シリーズレギュラーの丘さとみは唐人娘?役で登場


「旗本退屈男 謎の幽霊島」  1960年 松田定次監督  東映

栄光の退屈男シリーズ第27作。
全30作で終了するシリーズの終盤を飾る1作。
残り3作品、1963年にさしもの退屈男シリーズも終了する。

アイデアも趣向も出尽くしたであろう退屈男シリーズの、残った見どころは、右太衛門の流れるような殺陣と衣装、そして決まり文句のセリフ回し。
観客を喜ばせ、安心させたであろうそれらの見どころは、不動の定番であったがゆえに年月を経て飽きられる結果となった。
右太衛門もすっかり中年となり、貫禄はついたが、諸国を颯爽と歩き回り、年増の美女たちに熱を上げさせるには少々無理が出てきた。
演じて居る本人は気持ちいいであろうが、見ている方は少々つらくなってきた、ということだ。

本作は、東映時代劇のエース監督・松田定次と撮影・川崎新太郎の黄金コンビに新鋭脚本家・結束信二を組ませた布陣による一作。
主人公中心の画面構図、隅々まで明るいライテイング、場面の中心人物にズームするわかりやすい撮影技法、で映し出された、右太衛門中心の殺陣と金のかかったその衣装が、相変わらず徹底される。

右太衛門の殺陣は、敵の第一撃を首を傾けて避け、足の運びも無駄なく、腰が据わった中で自分自身も必要最小限に移動つつ繰り広げられる。
刀さばきは流れるように美しい。

リアルでないといわれればそれまでだが、名人の太刀さばきを見ているようだ。
大体、現代人のわれわれは実際の斬りあいを見たことも聞いたこともない。
股旅やくざの長脇差の振り回し合いや、血が噴き出す斬りあいが実際にあったかどうかもわからない中で、刀をめちゃくちゃに振り回してリ、血が噴き出す描写がリアルな斬りあいだったという確証はない。

一方、右太衛門の殺陣に、緊迫感、悲壮感があったかというとそれは少ない、痛みも感じられない。
あるのは爽快感と華やかさだ。
緊迫感や痛みの表現をして「リアル」というのであれば、右太衛門の殺陣はリアルではない。

確実なのは、退屈男の殺陣は、スターシステムの牙城であった東映の中で右太衛門が目指してきたスタイルであり、スター右太衛門を生かそうと、監督以下スタッフが全力でサポートしてきた結果である、ということ。
そしてそれらが観客に飽きられてきたということである。

本作の筋立ては、単純な悪を退屈男が成敗するだけではなく、一義的には将軍綱吉を呪い殺そうとする邪教の忍者たちをまず退屈男が成敗する、が邪教の忍者たちとて、将軍の座を狙う真の反逆者である尾張大納言の手ごまに過ぎなかった、さて退屈男は真の敵をどう裁くか?という二段構えになっている。

差別され、使い捨てられてゆく忍者たちへの哀れさを描くのが、新鋭脚本家の結束信二の狙いの一つであるが、そのため、ストーリーが複雑になり、暗くもなっている。
単純な悪に対峙してこそ輝く、退屈男の派手な姿が、権力に差別された忍者たちに対すると、存在が浮き、輝きを欠いてしまう。
おとぎの国の退屈のお殿様に、社会の悲惨な現実は似合わない。

60年代に入り、右太衛門、千恵蔵をはじめ50年代の時代劇スターの人気が陰り、東映のみならず全国的な(全世界的な)観客動員数の激減を招いた映画界にあって、新機軸を模索した1作だが、かえって混乱を印象付けたものとなった。

ちなみにシリーズのお楽しみ、大勢の踊子による舞踏シーン。
たいていは悪役の宴会シーンなどでの一幕として描写されるが、今回のそれは大納言による将軍歓迎会での琴の合奏と雅楽のような踊りだった。
退屈男には「謎の十文字」の、お座敷での祇園の芸者総揚げのような日本舞踊のあでやかさが似合っていた。

ラピュタの特集パンフより

退屈男の脇にいて絶妙な色気を醸し出す花柳小菊は、今回は女スリの役で色を添える。
ジイ役は進藤栄太郎、若侍に期待の新人・里見浩太朗、その恋人に東映三人娘の大川恵子。
娘の父に、戦前からの左翼系演劇人・薄田研二、邪教を奉ずる忍者にいつもなら真の悪役の山形勲、真の黒幕尾張大納言には山村総。
レギュラーの丘さとみも出ている。

右太衛門と花柳小菊。「旗本退屈男・謎の蛇姫屋敷』(57年佐々木康監督)より

「小説東映・映画三国志」と「東映京都撮影所血風録・あかんやつら」で読む東映時代劇

2025年新春、折からラピュタ阿佐ヶ谷で「新春初蔵出し・東映時代劇まつり」なる特集上映が始まった。

東映が時代劇映画で一時代を築いた1950年代終盤から60年代にかけての諸作品がラインアップされている。
市川右太衛門、片岡千恵蔵の両御大をはじめ、大友柳太朗、東千代之介、大川橋蔵、そして中村錦之助。

彼らの主演になる、「旗本退屈男」、「丹下左膳」などのシリーズものからチョイスされた上映作品。
これまで上映機会が多かった、千恵蔵の「いれずみ判官」や錦之助の「一心太助」、橋蔵の「新吾十番勝負」などはなく、レアもの中心のラインナップのようだ。

千恵蔵、右太衛門らを主役に据えての時代劇が大衆に受け、1954年には興行収入のトップに躍り出る東映は、60年代に入り旧来の時代劇が飽きられ、やがて任侠映画主流の製作方針へと舵を切ることになる。

戦後一時時代を築いた東映時代劇。
一般的映画本を読むと、黒沢明の「用心棒」、小林正樹の「切腹」などの名作時代劇についてのうんちくは語られていることが多いものの、東映の両御大や当時の若手剣劇スターについて映画評論家が語っている文献が少ない!
各ファンクラブ編の錦之助や大川橋蔵、丘さとみの写真アルバムが発刊されているのは目につくが。
千恵蔵や右太衛門による「正調時代劇」の評価、検証はどうなった?

うんちく派の映画本に刺激を受けてきた地方の映画少年だった山小舎おじさんにとっては、鑑賞の動機もなく、また機会も少ない東映時代劇は、日本映画史上の抜け落ちた分野だった。
それはひょっとしたら忘れられた宝の山なのかもしれない

今回のラピュタ阿佐ヶ谷の特集上映を機会を前に、まずは手元の映画本2冊をひもとき、東映の歴史と、時代劇スターの変遷について学んでみる。

「小説東映・映画三国志」と「東映京都撮影所血風録・あかんやつら」

「三国志」の著者は大下英治。
週刊誌の記者として、電通、三越事件などに取材したルポで売出す。
題材は政治から芸能まで幅広い。

「映画三国志」(1990年 徳間書店刊)は東映の歴史を小説化し、スポーツニッポン紙に連載したものの単行本。
人物の劇的なエピソードを中心にまとめている。
登場する人物は、映画人に限定せず、親会社の東急電鉄の五島慶太の豪快な振る舞いなどにも大いに及び、一般読者の興味を惹く。

記述内容は参考文献からの孫引きが多いようにも感じるが、読者を飽きさせない劇的な表現に富んでいる。
入門書として最適で、第三者的な視点からの東映史としても貴重な文献だと思う。
東映発足時の戦後直後から、実録映画が登場する70年代までをフォローしている。

「映画三国志」表紙
同、、奥付き

「あかんやつら」は、映画史研究家の春日太一による一連の著作の1冊。
春日は、1977年生まれの若手だが、少年時代から時代劇ファンで大学卒業時には東映の入社試験を受け、研究者となった今でも映画・テレビ・時代劇関連以外の執筆依頼は受けないというファン気質が徹底した人物。
新書で「天才勝新太郎」や「時代劇は死なず!」などを執筆している。

映画評論家の大御所にありがちな、高踏的、芸術志向的、権威主義的な雰囲気とは一線を画した、著者特有の視点から、東映の、特に京都撮影所のエピソードを活写した本著は、記述に当たっての関係者からの聞き取りも多く含まれ、単なる参考文献の孫引きにとどまらない。
東映への親近感とファン気質に満ちた1冊となっている。
50年代の時代劇全盛時代から80年代の五社英雄らによる時代までをフォローしている。

東映の歴史(任侠映画全盛まで)

「映画三国志」と「あかんやつら」をもとに、戦後直後から1960年代までの東映史をひも解く。

東映の前身東横映画は1938年に、東急電鉄の子会社の映画配給会社としてスタートした。
戦後の1946年に映画製作に乗り出すにあたり、マキノ映画や満州映画協会出身の根岸寛一やマキノ光男らの製作陣、スタッフには松田定夫、稲垣浩らを招集し、配給は大映にゆだねる形でスタート。
1947年には第一作「こころ月の如く」を製作した。

1948年には大映との提携を解消、独自の配給を行うようになったが、都市部の繁華街の劇場は東宝、松竹にほぼ抑えられており、地方の劇場との作品別、映画館別の契約に活路を見出すしかなく、業績は低迷を極めた。
同年、マキノ映画時代にマキノ省三(光男の実父)のもとでスターとなり、戦後は大映などに出演していた、片岡千恵蔵と市川右太衛門が重役待遇で移籍してきて観客動員の起爆剤となる。

東映の御大、片岡千恵蔵
御大2、市川右太衛門

まだまだ製作費の工面にも事欠く中、1951年親会社東急の五島慶太は、東横映画、大泉スタジオ、東映配給の3社を合併し、製作から配給までを1社で行うことを決定し、新生東映の社長に東急本社の経理担当重役だった大川博を送り込む。
新会社設立にあたって銀行は五島慶太の個人保証を融資の条件とし、五島はこれを了承した。
大川の仕事は、積み重なった支払手形の期日延長を、手形交換所にお願いすることから始まった。
現場では、マキノ映画、満州映画協会からの現場スタッフらが、徹夜と給料遅配、製作費枯渇をいとわず、番組の穴を1回も空けることなく撮影をつづけ、作品を送り出していた。

1954年、千恵蔵、右太衛門の時代劇本編に子供向けの娯楽版と称する中編を加えた2本立て番組が爆発的ヒットとなり、中村錦之助、東千代之介ら若手スターが主に地方の劇場で人気を博す。
東映は累積負債10億を一気に返済、興行収入で5社のトップとなるまでの業績回復を遂げる。

東映の錦兄ぃこと中村錦之助

1957年、アメリカを視察して帰国した岡田茂の提案により、京都撮影所を拡充し、新たなステージを建てる。
こうして日本初のシネマスコープ「鳳城の花嫁」を製作。

1958年は国内の映画入場者11億人、映画館数7000館という日本映画史上もっとも景気が良かった歳となった。
1960年の東映の国内シェアは1/3ほどにもなり、独走態勢を固める。
スター主義の東映では、千恵蔵、右太衛門の両御大のほか、大友柳太朗、月形龍之介がそれぞれの十八番シリーズで、また錦之助、千代之介のほか大川橋蔵が若手時代劇スターとして人気を博した。

1960年には調子に乗った大川社長が第二東映なる配給網をぶち上げ、製作本数を倍増させたが、収益倍増にはつながらず、かえって映画館主側の不評、製作現場の疲弊を招き、足掛け8か月ほどで解消となった。

1963年、さしもの隆盛を誇った東映時代劇も飽きられ、明らかな興行収入の減少をみた。
東映は余剰人員の配置転換、両御大と旧来のスタッフとの契約解消、若手スタッフを登用しリアルな殺陣による「集団時代劇」に活路を求めたが、観客動員の決定打にならず。
やくざ者の生態を描いた「人生劇場・飛車角」のヒットにより時代劇からやくざ映画へとシフトしてゆくことになる。

1964年、親会社の東急が東映を切り離す。
五島慶太を引き継いだ息子の昇が、何かとうるさい東映の大川社長を切りたかったからだとされる。
これを受け、大川社長は京都撮影所の社員数を1/3の500名体制とする合理化を決め、岡田茂に実施を命ずる。
岡田はテレビ部などを作って配置転換により撮影所の合理化を実現する。

次いでこの時代の個性極まる東映のキーマンたちを点描する。

マキノ光男の映画人生

戦前に日本映画の父と呼ばれたマキノ省三の実子で、兄はマキノ雅弘。
戦前にマキノ映画でプロデユーサーとしての経験を積み、マキノ映画の解散とともに海を渡り満州映画協会に参画するが、理事長の軍人官僚・甘粕正彦と、典型的カツドウ屋のマキノでは、まったくそりがあわず、ぶらぶらする。

帰国して東横映画の製作立ち上げに尽力したマキノは、満映時代の仲間を引き込んで映画製作することにも注力した。

「困っている奴はどんどん使ってやれ」と各社をレッドパージされた人材を東映に引き入れ、監督の関川秀雄、俳優の佐野浅夫、信欣二などをどしどし使った。
戦前の無頼な映画界で修業し、大陸にわたって軍人官僚や現地人と渡り合ってきたマキノにとって、同じ日本人同士、映画製作という目的を一にすれば後は何とでもなる、の心境だったのだろう。

「満男」と名乗っていた頃のマキノ光男

1950年、撮影所の進行主任だった26歳の岡田茂(のちの東映社長)の企画、関川秀雄の監督で「きけわだつみの声」を製作。
戦没学生の遺稿集「はるかなる山河へ」の原作の購入から、内容に干渉する東大全学連との折衝などに、脚本の八木保太郎とともに最前線であたった岡田を駆り立てたのは「こういった映画を残しておかにや.、戦友が浮かばれんじゃないか」の心境だった。
岡田も学徒動員で出兵し、空襲を受けた生き残りだった。

1952年、占領軍からの干渉により大映で制作中止となった「ひめゆりの塔」を監督の今井正ごと引き受けたマキノは、今井に対し「周りからごいちゃごちゃいわれても全部はねたる。俺の目的はいい映画を撮ることなんや。右も左もないのや。大日本映画党や!」と言い切った。

女学生役には当時の若手女優陣がキャステイングされた。
今井は撮影前、彼女らに、自分が扮する登場人物の履歴を作文にして提出することをを求めた。
渡辺美佐子、楠侑子ら若手女優陣は口に氷を含んで息の白さを隠しながらずぶ濡れで演技をつづけた。
彼女らは後々、今井を囲んで集ったという。

1600万の予算は4000万円にオーバーし、公開予定は遅れに遅れて正月第二週にずれ込んだ。
マキノは呼び付けられた大川社長宅で社長の前でわんわん泣いて大芝居を打ち、製作続行の了承を取りつけた。
1億8000万円の興行収益を上げたこの作品は東映起死回生のヒットとなった。

「ひめゆりの塔」
「ひめゆりの塔」

1955年、満映に渡った後、長く中国に抑留されていたマキノの盟友・内田吐夢監督の復帰第一作「血槍富士」を製作。
槍持ちの下郎に扮した千恵蔵が主君の仇とばかり、槍を振り回し、泥にのたうっての7分間の立ち回りが圧倒的で、3週間続映のヒット作となった。

「血槍富士」の7分間の立ち回り

1956年、マキノは再び今井正と組んで「米」を製作。
農村の四季を取り入れた脚本は、戦前に「土」を書いた八木保太郎を想定した。
マキノと八木はこの時絶交状態だったが、心配する今井に対し「冗談やない。いいシャシンをつくるのに、喧嘩もへったくれもあらへんで」と答え、八木に脚本を依頼した。

例によって遅れに遅れて完成した今井正監督の「米」は、その年のキネマ旬報ベストワンをはじめ各賞を総ナメ。
東映現代劇の起爆剤となり、その後の「爆音と大地」(1957年 関川秀夫監督)、「どたんば」(1957年 内田吐夢監督)、「純愛物語」(1957年 今井正監督)など、東映に現代劇の秀作が生まれるきっかけとなった。

「米」を演出中の今井監督

満映帰りの映画人の面倒を見、レッドパージ組の受入れるなどはマキノ光男の懐の深さを物語るが、根本は「映画は当たってナンボ」の精神が徹底していた。
「客のことを忘れたらアカンで。暇があったら小屋(映画館)に行って客の顔を見てこい。」「松竹、東宝は山の手志向や。それなら東映は浅草の客を目標にする!」と、ジャリ掬い、薄っぺらな紙芝居と一部の文化人に蔑まれていた大衆娯楽主義を徹底した。

1957年、脳しゅようと診断されたが、手術をはじめ一切の治療を拒絶。
薬も見舞いに来た錦之助が渡した時だけ飲んだ。
同年9月の東映本社での企画連絡会議には白装束の羽織はかま姿で現れ今までの礼を述べた。
まことに古きカツドウ屋そのもののマキノ光男の生涯だった。

東映時代劇を支えた現場の「天皇」たち

マキノ光男が破天荒な映画人生を送っているとき、京都撮影所には「天皇」と呼ばれる、アンタッチャブルな3人がいた。
監督の松田定次、脚本の比佐芳武、編集の宮本信太郎だった。
3人は、東横映画の製作開始に際し、マキノ光男が京都から連れてきた腹心のメンバーであり、マキノの大衆娯楽主義を作品として具現化するときの要となった腕利きたちだった。

松田定次はマキノ光男とは異母兄弟で、父の省三が愛人に産ませた子であった。
監督としての松田は「どうすれば大衆が喜ぶか」を第一に考え、時代劇の約束事として「ヒーローはストイックであり、無敵で不死身でなければならない」に徹した。
信頼するカメラマン、川崎新太郎を専ら起用し、被写体(ヒーロー)を中心に据えるオーソドックスな構図を徹底させた。
松田組は京都撮影所で「お召列車」と呼ばれ、最優先でスターやスタジオを確保でき、正月やお盆用の作品を任された。
日本初のシネマスコープ作品を任されたのも松田だった。

松田定次監督(右は片岡千恵蔵)

脚本家の比佐芳武は、スピード感を脚本に求めた。
伏線設定や状況説明の書き込み、また時代劇特有の儀礼や作法などの描写をやめ、テンポよくストーリーを追った。主人公の登場シーンでは、何の前触れもなく窮地にあるヒロインを救いに現れたりさせるなど、説明のための書き込みをやめ、観客が求めるヒーローの都合のよさに徹した。
「ヤマ場からヤマ場へ」マキノ省三以来の京都映画の鉄則を守ったのが、比佐だった。

「東映時代劇の独特のテンポは宮本信太郎の鋏によって生み出される」と評されたのが、編集の宮本だった。
編集作業の一切を、監督でさえ立ち会わせずに自分一人で行い、目まぐるしいスピードで展開する東映時代劇の作風を作り出した。
その手法は、説明的だったり凡長なシーンは容赦なく切り捨てたり、長回しのアクションシーンを細かく切りつなげてスピード感を作り出すものだった。
年間100本近い時代劇をほぼ自分一人で編集したという。

3人の「天皇」の存在、その影響力と圧倒的技量は、東映時代劇のまさに心臓部となった。
そのパワーは東映躍進の原動力となったが、反面、新たな価値観や創造性の出現を妨げてもいた。
松竹のデレクターシステムによる監督の権限尊重や、ジャン・ルノワールやのちのヌーベルバーグ派による「作家主義」とは正反対の製作方針が東映の考え方だった。

中公文庫「されど魔窟の映画館・浅草最後の映写」荒島晃宏著

珍しく新刊書店で手に取ってそのまま購入した中公文庫です。
最近は文庫本も高くて、買うのはもっぱら古本屋ですが、この本は面白そうでした。

本書表紙

かつて浅草六区と呼ばれた場所にあった邦画3本立てとピンク映画。
その映画館の最後の日々で映写技師を務めた著者の著書です。

著者は、自由が丘武蔵野館という名画座の映写技師でしたが、同館の閉館とともに無職となり、ハローワークでの職探しと失業保険の給付ののちに、浅草六区に4つの劇場を有する中映株式会社という興行会社に就職することになりました。

著者紹介

もともとは映画専門学校を卒業し、アニメの脚本家として1本立ちしていましたが、投資の失敗の借金返済のため、定期収入のある職を探していたのでした。

「文化的教養と興味を持つ若者が、生活力はないものの、何とか興味の対象との妥協をしつつ、実社会の片隅で生きる場所を見つけてゆく」的な展開に惹かれて頁を繰ってゆきます。

浅草六区の映画館配置図

浅草の3本立て映画館での映写技師の仕事の様子がつづられます。

『その時代、映写機の進歩もあり、1作品通しての上映ができるようになっていた。
それまでは約20分の1巻のフィルムの映写が終わると、間髪を入れず隣の映写機にセットしていた2巻目のフィルムを映写しなければならず、映写が終わった巻の巻き取りもあった。
またフィルム切れやピンボケ、フレーム調整などのため技師は上映中は映写室にいなければならなかった。
が、浅草では1作品のフィルムを全巻つないで1台の映写機にセットすると技師は映写室を離れ、映画館の入り口に立って自動販売機への補充や、モギリ、館内のクレーム対応などに従事するのだった。』(同著より)

当時の35ミリ映写機の雄姿

『2週間後に仕事ぶりを認められた著者は、邦画3本立ての浅草名画座から、ピンク映画専門館の浅草新劇への配置転換の辞令を受ける。
新劇開館は海外にも名の知れたハッテン場でもあった。
当然それなりの方々が入場してきて、いろいろなことを行う。
発見次第、注意したり清掃したりするのが新劇場スタッフの主な役目でもあった。
ハッテン場の映画館は興行収入もよく、中映株式会社の屋台骨を支えてもいた。』(同著より)

職員仲間のフィルムのつなぎ風景のイラスト

山小舎おじさんも50代くらいの会社員時代に浅草名画座へ通ったことがあります。
競馬の場外馬券売り場の向いにあった邦画3本立ての劇場で、最初は入りずらく、入ってもまたギャンブル場のような無愛想な虚無感が漂っており、三々五々席を埋めていた来場者は、場外馬券の帰りのようなおじさんばかりで、時々叫び声などが響いてもいました。

浅草名画座正面

慣れてくると、館内の音声も織り込み済みで画面に集中できるようになり、「江戸川乱歩全集・恐怖奇形人間」(1969年 石井輝男監督 東映)、「日本暗殺秘録」(1969年 中島貞夫監督 東映)、「激動の昭和史・沖縄決戦」(1971年 岡本喜八監督 東宝)など、ここならではの作品を見ることができました。

また、併映作品には東映任侠ものや実録ものが多く、「仁義なき戦い・代理戦争」(1973年 深作欣二監督 東映)の後半を見て、忘れていた本作での鉄砲玉、小倉一郎のエピソードに触れることもできたりしました。
広島にあった原爆スラムで後遺症に苦しむクズ屋の母親と、寝たきりの妹を抱える小倉一郎がやくざの鉄砲玉として利用され自滅してゆく過程を、気弱な若者像の苦悩として描いており、原爆スラムのあばら家の中で、叩いてもブラウン管のザーザーが直らないテレビの描写など、差別された貧困の表現が印象的でした。

なお、各作品とも上映プリントがきれいで鑑賞時に何の苦痛も感じなかったのも印象的でした。

浅草名画座のチラシ

実は山小舎おじさん、浅草名画座のホームページで支配人とメールのやり取りも行いました。
詳しくは忘れましたが、此方の問いかけに「最近の上映プリントの状態は良いことが多い、特に東映は新しいプリントを自主的に焼いてくれる」とか「プリントを借りたくてもできない作品がある。時期によっては松竹が寅さんものの旧作を貸出停止にしたり、貸出料を上げたりする」などと支配人が返事をくれたことを覚えています。
この支配人は、本書の著者の荒島さんではありませんが、気さくで好意的な人でした。

浅草新劇場の上映案内

さて、本書に戻りましょう。
劇場のホームページを立ち上げたり、作品解説を載せたチラシを作ったり、また地域の無料ペーパーにコラムを書いたり、と著者は劇場とかかわってゆきます。

2012年、中映株式会社が映画興行から撤退し、全4館が閉鎖されます。
著者は最後の上映に立ち会います。

それに合わせて短編劇映画の製作を行い、デジタル機材(一部8ミリフィルムを使用)で撮影します。
主役2人のほか、ネットなどで募集したエキストラを使っての最終上映会の様子が著書のクライマックスとなっています。

著者制作作品のエキストラが最終上映に集まる

35ミリフィルム映写の実際の記録でもあり、絶滅した浅草での映画興行の実態の最後の記録でもある本書です。
著者の荒島さんは、現在はシネマヴェーラ渋谷で映写技師をしているそうです。

裏表紙

DVD名画名画劇場 「悪女」リタ・ヘイワース

前回の当ブログ「ダンシング」リタ・ヘイワースで、彼女の唯一無二のダンスの才能を再確認したあとは、1940年代後半の彼女の役どころとなった「悪女」ぶりを見てみよう。

リタの代表作となった「ギルダ」、当時の夫オーソン・ウエルズの監督・主演になる「上海から来た女」である。

「ギルダ」  1946年  チャールズ・ヴィドア監督  コロムビア

『私の知り合った男たちはだれでも(中略)ギルダに恋をするの、そして私に醒めるのよ』(1994年文芸春秋社刊「ハリウッド帝国の興亡・夢工場の1940年代」P377)。

1940年代のセックスシンボルであり、長い茶髪の巻き髪と妖艶なダンスで観客を魅了したリタ・ヘイワースは、ハリウッドのアイコンとして生きたのみならず、実生活でも数度の結婚と離婚をし、数知れない恋愛に身を投じた。
結婚相手にはイスラム教のプリンスにして世紀のプレイボーイといわれた、アリ・カーンもいたが数年を経ずして離婚となるのが常だった。

1946年のアメリカによるビキニ環礁での水爆実験で投下された核爆弾は、リタ・ヘイワースの写真で飾られ、『ギルダ』と名付けられていた。

イタリアの戦後庶民の生活を描いた「自転車泥棒」で、やっと職を得た主人公が、街中で貼ったポスターは、敗戦国イタリアの現実とは似ても似つかない、リタ・ヘイワースによく似た女性の艶姿だった。

その絶頂期に撮られ、今でもリタ・ヘイワースの代表作といわれるのが「ギルダ」。
その題名は、リタの代名詞のようにもなっている。

「ギルダ」より

物語は戦時中のアルゼンチンに流れてきた、いかさま賭博師のファレル(グレン・フォード)が路上のサイコロ賭博で素人をだます場面から始まる。
暗闇にまぎれた、港近くの場末で繰り広げられるすさんだシーンはフィルムノワールそのものの滑り出しだ。

やがて、ファレルは非合法だが堂々と営業しているカジノ(もちろんイカサマあり)のオーナーに雇われ、やがて支配人となる。
ある日、旅行に出かけたオーナーが連れて帰ったのがギルダ(リタ・ヘイワース)と呼ばれる、長い茶髪の女だった。

ギルダはファレルの過去の恋人だった。
オーナーは二人の関係を怪しむが、ファレルは支配人の職務に徹する。
一方、ギルダはファレルを誘惑しようとしたり、ほかの男と遊んだり、勝手気ままにふるまう。

オーナーの実像は、戦前のドイツ企業から委託された戦略物資・タングステンの利権を、戦後になって不法に横取りしたカルテルの主宰者であり、ドイツ人(ナチスの末裔?)に脅迫される身。
やがて飛行機事故を装って姿を消す。
オーナーに代わってカルテルの実権を握るファレルだが・・・。

この映画、ストーリーはいろいろと枝葉を広げるが、その骨子は、ファレルとギルダの関係を描くことにある。
お互いを十分意識しながらも、面と向かえば、「憎しみしか感じない」と互いをなじる両者。
本心なのか、突っ張っているのか。

ファレルはオーナーの手前、ギルダに本心を打ち明けたり、手を出したりしない。
ファレルが品行方正な男であるはずもないのに、この関係性が最後まで続く。

ギルダは、他の男と遊びまわったり、早朝にファレルの寝床があるカジノでギターを弾き語りするなどして「悪女」ぶりを発揮する。
ギルダとファレルの結末やいかに?

この作品でのリタは、低い声、作り笑い、けだるさ、たばこ、に象徴される、男を誘う擦れた色気に満ちた姿で登場する。
「晴れて今宵は」「カバーガール」で見られた陽気さ、清純さ、親しみやすさ、からの演技的脱却だ。
まるでギャングの情婦のようなキンキラのコートを着て、髪をかき上げる仕草も板についている。

そして何よりこの映画のハイライトは、終盤のリタのソロのダンスシーンだ。
男たちの庇護を逃れて異郷のクラブで踊るギルダ。
最初のナンバーは深いスリットスカートをたくし上げながら、陽気にキレキレな動きで踊る。
一気に映画が締まる、輝く。

リタ・ヘイワース畢竟のダンスシーン

そして、追いかけてきたファレルの見ている前で、黒いドレスと手袋で腰をくねらせるギルダ。
ここがこの映画の山場で最大の見どころ。

手袋をゆっくり外して、観客に投げる、ネックレスも。
『ジッパーを下げるのは苦手なの』と男どもを誘う。
興奮する男ども(と映画を見ている観客たち)。
リタ・ヘイワースの女優生活のハイライトともいえる名場面。

この後に、ファレルの手下に舞台から引きずり降ろされ、ファレルに右手でビンタを食らい顔をカメラに向かってのけぞらせるまでが一連のシークエンス。

かたくなだったファレルの挑発に成功し、感情むき出しで手を出させることができた、「悪女」リタ・ヘイワースの一生の名刺代わりの、写真映えする名シーンだ。

グレン・フォード(右)

最後にファレルに一途な恋心を吐露し、二人でアメリカでの再出発を予定するのは、当時の検閲を意識した、ハピーエンデイング。
このためにギルダの悪女ぶりが不徹底となった。
イカサマ賭博師のはずだったファレルが、女だけには身持ちがいいというあり得ない設定も、同様に検閲を意識したからか。

ギルダについては甘いエンデイングが、マニアックな「悪女」から、わかりやすい「悪女」として一般化することに寄与し、リタ・ヘイワースが、時代の女性性の象徴となることに一役買い、人気をあおったのだろう。

「上海から来た女」  1946年  オースン・ウエルズ監督  コロムビア

リタ・ヘイワースが、オーソン・ウエルズと結婚していた時に作られた作品がこれ。
天才児にしてハリウッドの問題児、オーソン・ウエルズがやっと実現させた、4本目の長編劇映画である。

「オーソン・ウエルズ偽自伝」(バーバラ・リーミング著 1991年文芸春秋社刊)という、ウエルズの評伝がある。

「偽自伝」表紙

「上海から来た女」を見るにあたって、本書を紐解き、リタとオーソンに関する部分のみ拾い読みしようと手に取った。

だが、あまりに面白いので、二人が出会った1942年から、1948年の両者の離婚まで細大漏らさず読み進めてしまった。
その間、オーソンは、2本目の作品「偉大なアンバースン家の人々」が本人の意向にかかわらず、(契約によって)撮影所により再編集され激高したり、南米で長期ロケしながら未完成に終わった次作「すべて真実」の撮影済みフィルムの権利関係でゴタゴタしたり。
やがてコロムビアのタイクーン、ハリー・コーンの援助により「上海から来た女」を製作することになるのだった。

「店自伝」奥付き

「偽自伝」が面白いのは、内容(破天荒なウエルズの行状と、彼を恐れ、対立し、押し込めようとする撮影所などの外部勢力)が面白いうえに、著者(と訳者)の簡潔で的を得た構成(と筆致)が、またいい。

「偽自伝」から、1942年から48年までの、オーソンとリタに関する記述を書き出してみる。

オーソンがリタにアプローチした1942年当時、リタはヴィクター・マチュアと熱い中だった。
『リタを電話口に出すまで5週間かかった』、『でも、いったん電話に答えてくれたら、もうその夜から外で会ってくれた』(「偽自伝」P276)とオーソンは述べる。
オースン・ウエルズは雑誌で見たリタ・ヘイワースに一目ぼれし、周囲には結婚すると漏らすほどだったという。

[『(リタは)異常なほどの傷つきやすさと、飾り気のまったくない性格を備えていて、その点にオーソンは我を忘れて引き込まれていった』(同書P276)

オーソンとリタが付き合い始めたころ、オーソンはデイズニーと提携した「星の王子さま」、イギリスのアレクサンダー・コルダ製作による「戦争と平和」の企画があったが、どちらも実現はしなかった。
オーソンの生涯に、累々と発生した、未完成のままだったり、実現しなかった企画のひとつだった。

RKOは、オーソンと契約していた3本の映画(「市民ケーン」「偉大なアンバーソン家の人々」ともう1本)の3本目は、たとえキャンセル料を払ってでもオーソンには撮らせたくなかった。

1943年9月、リタ主演の「カバーガール」撮影中、二人は結婚届を提出した。
立会人はオーソンの盟友、ジョセフ・コットン夫妻他だった。

1944年3月、リタは妊娠した。

リタは、オーソンの話に懸命に耳を傾け、また政治志向のオーソンを支えようとした。
オーソンはこのようなリタを愛した。
が、一方で、映画、演劇、ラジオ、新聞コラム、大学映画学科での講演などで多忙なオーソンは、しばし自宅を離れ、仕事の合間には、女性との関係が、独身時代同様に途切れなかった。

オーソンが信頼していた秘書のシフラ・ハランが、回想する。
『(私は)リタに対しては、オーソンの浮気を悟らせないよう精一杯の努力をした。』
『リタは可愛くて、美しくて、チャーミングで、気持ちが優しかった。一緒にベッドに入らないことには相手の愛情が信じられないという女の一人だったの』(「偽自伝」P309)。

1944年12月長女レベッカ誕生。

ルーズベルトの選挙応援で長期不在だったオーソンは、この時期ジュデイ・ガーランドとも浮名を流した。

1945年9月、インターナショナルピクチュアズという映画会社がオーソンに「ストレンジャー」の監督をオファー。オーソン3作目の監督作品となった。
ハリウッドでの信頼回復(予算とスケジュールの厳守、わかりやすい内容)を第一目標に臨んだオーソンは、当時、自身の浮気のためリタによって自宅から追い出されていたが、かえってスタジオのスイートルームに泊まり込み、仕事の合間に女性を連れ込んだ。
リタは「ギルダ」の撮影に入っていた。

また、この時期に上演されたオーソン演出の舞台劇「80日間世界一周」は、観客には好評だったものの批評が芳しくなく、収支的には大損害だった。
赤字補填のため、オーソンはコロムビアのタイクーン、ハリー・コーンから25000ドルを借りた。

ハリー・コーンは、東欧系ユダヤ人移民の家庭に生まれ、成功してからは机にムッソリーニのサイン入り肖像画を置き、マフィアの友人がいる、典型的な旧世代のタイクーンだった。
「偽自伝」には、『スターを夢見る新進女優の口にペーパーナイフを突っ込んで歯並びを調べると、唾液で濡れたそのペーパーナイフで今度はスカートをめくりあげ太腿を検分するという男だった』(同書P277)とハリー・コーンの実像が活写されている。
『(コーンの)リタに対する所有欲はすさまじかった』(おなじくP277)とも。

1946年、オーソンは、25000ドルを用立ててくれたコーンとの約束により、「上海から来た女」を製作した。

以上、長々と、「オーソン・ウエルズ偽自伝」から引用してしまった。
ここまで「偽自伝」を読んでから「上海から来た女」を鑑賞した。

DVDカバー

「上海から来た女」は、前作「ストレンジャー」の、わかりやすい結末と納得のゆく人物像による物語ではなく、明らかに「市民ケーン」的な作品だった。
というのは、何よりオーソン自身の個性と好みが優先された映画だからである。

オーソン・ウエルズは豊かな個性と知性、知識に彩られている人物だ。
豊富な文学的知識に彩られた『哲学的』ともいえるナレーションを自身の声で行うことができる。
また、映画に於いて、特徴的、実験的な画面構成を創出でき、またそのための撮影技法を撮影監督とともに作り出せる。

「市民ケーン」の場合では、さらにこけおどしの権威主義に対するオチョクリを堂々と繰り広げてみせた。
まさに自他ともに認める、アメリカ芸能界の風雲児にして反逆児だった。
本人は、芸能人としての自らの評価だけには満足せず、一時期本気で政界(民主党系)に進出しようと考えてもいたようだったが。

オーソン・ウエルズとリタ・ヘイワース

更に「上海から来た女」では、ブレヒトに影響された、『異化効果』が取り入れられている。
これはオーソンがかつて企画して実現しなかった、ブレヒト作の舞台「ガリレオ」への思いからだといわれている。

『オーソンは、(中略)俳優が役柄から自分を切り離し、同時にそれによって観客に感情移入を起こさせないというブレヒトの演劇理論の中心原理を極めて巧妙に応用した映画を作ったのだ』(「偽自伝」P349)

全編、野心満々の若きオーソン・ウェルズのナレーションに彩られたこの作品は、『異化効果』実現のために、納得のゆくストーリーテリングの代わりに、突発的なシチュエーションと、唐突で非説明的な象徴的なセリフをちりばめた。
そのために、映像はショッキングなものであり、悪夢的な状況をなぞってはいたものの、観客に納得のゆく説明は行われなかった。
『オーソンが心配していた通り、コーンには(この)映画が理解できなかった』(「偽自伝」P349)。

オーソンは、主演を演じる当時の妻リタ・ヘイワースの豊かな茶髪を金髪ショートヘアにさせ、全盛を誇ったプロポーションは、アカプルコの海で日光浴する短い場面での水着姿とヨット上でのショートパンツ姿のカットに留めた。
アカプルコの夜景をバックに、白いドレスのすそを翻して逢引きに向かうリタの夢幻のようなカットはあったが。

アカプルコで水着姿のリタ

そしてこの作品のハイライトは、これまで多く語られているように、ラストに近く、チャイナタウンの京劇のシーンから、遊園地のマジックミラーに主要人物が集まる場面である。

数々の映画で引用されることになった、多面の鏡に映る多面の人物の描写。
特に敵役の弁護士(リタ演じるエルザの夫)が10面以上もの鏡に映る姿で突然登場するシーンの斬新さ!
この人物の怪物性、異常さをこの上もなく映像的に表現した場面で、見ていて思わず声が出た。

鏡の間の場面

発砲により、鏡が割れ、人物が虚空から現実に戻るシーンも象徴的。
画面左に横たわったリタ演じる悪女の死にざまを見る突き放したカメラ。
どれも鮮烈だった。

鏡に映るリタ

この鏡の間のシーンは、オーソンがこの作品で表現したかった『異化効果』のための技法であろうが、一方で「市民ケーン」のかなめの場面(幼いケーンが母のもとから連れ子なる場面や、功成り名を遂げたケーンが妻に見放される場面など)で使われた、当時の実験的なパンフォーカス撮影のように、作品の中核をなす技法である。

「市民ケーン」のパンフォーカス、「上海から来た女」の鏡の間は、オーソン・ウエルズが映画史に残した永遠の記憶であり、爪痕である。

本作におけるリタ・ヘイワースは、『スタイルの良さ』という最終兵器を懐に秘めた、『演技する女優』という存在によくトライしていた。

彼女が演劇出身者的な『演技派女優』となることは終生なかった。
リタ53歳の時のフランス映画「渚の果てにこの愛を」での、出奔した息子をスペインのドライブインで待つ母親役を見ても、その誠実で女性的、人間的なありのままの姿以上の演技はなしえていない。

ということは、「上海から来た女」が彼女の最高作だったのではないかと思われる。

DVD裏面

DVD名画劇場 「ダンシング」リタ・ヘイワース

1940年代のハリウッドの名花リタ・ヘイワースは、1928年ニューヨークに生まれた。
1930年代に映画デヴューし、1940年代には、コロムビア映画から売り出し、踊りがうまく、スタイルのいい美人女優として、ミュージカル映画などで一世を風靡した。
のちには、妖艶な悪女役としても勇名をはせた。

リタ・ヘイワースが映画史に残る女優だったことは、1999年にアメリカン・フィルム・インスティテュートが選出した「映画スターベスト100」の女優部門で19位に選出されていることからもうかがえる。
ついでに淀川長治著「マイベスト37 私をときめかせた女優たち」(1991年 テレビ朝日刊)でも、わが淀長さんの女優ベスト37の一人として取り上げられている。

リタがいかにしてスターとなったかは、40年代のハリウッドを網羅した、オットー・フリードリック著の「ハリウッド帝国の興亡」(1994年 文芸春秋社刊)に詳しい。
同著P209からP219までを要旨抜粋してみる。

父親はマドリッドからアメリカに来たダンサーで、その先祖は15世紀にカソリックに回収したスペイン系ユダヤ人だった。
母親はジーグフェルドフォリーズの踊子で、リタの本名はマルガリータ・カルメン・ドロレス・カンシノといった。

リタは9年間の初等教育を受けただけで、13歳から父親とともにクラブで踊った。
13歳では酒を売る店では踊れなかったため、父とともにメキシコに流れた。
やがてサンジエゴ郊外のクラブに戻り、そこで20世紀フォックスの製作部門の副社長ウインフィールド・シーハンに見いだされ、名前をリタに変え、週給200ドルで契約した。
数本の映画に端役で出たあと、フォックスに乗り込んできたダリル・ザナックに解雇された。

面倒を見ようとする中年男に不自由しないリタのもとに、40歳のエドワード・ジャドソンが現れ、二人は結婚した。リタは18歳だった。
ジャンソンはリタを売り出すべく、コロムビアと週給250ドルで契約し、芸名をリタ・カンシノからリタ・ヘイワースに変えた。
黒の縮れ毛を赤茶に染め、生え際を脱毛し、ラテンの美女からアングロアメリカンに変身した。
ジャンソンはまた週給75ドルで広報エージェントを雇い、リタの売り出しに務めた。

ジャンソンは、500ドルのドレスでリタを着飾り、高級クラブ・トロカデロに連れてゆき、大作「コンドル」を打ち合わせていた、コロムビアのタイクーンのハリー・コーンとハワード・ホークス監督のテーブルの近くに座らせた。
リタは役を得た。
次に、アン・シェリダンが蹴った「いちごブロンド」の役を、監督ラオール・ウオルシュの推薦で獲得し、ジェームス・ギャグニーと共演した。

完璧なアングロアメリカンとなったリタは「血と砂」(1941年)で、『ラテン系を演ずるアングロ女優』の立場を得るまでになった。
コロムビアのタイクーン、ハリー・コーンはスターとなったリタにのぼせ上ったが、リタはヴィクター・マチュアと火遊びし、オーソン・ウエルズとの結婚を突如発表した。
リタをここまで世話してくれたジャンソンとの結婚はとっくに解消状態だった。


コロムビア映画のタイクーン、ハリー・コーン

「晴れて今宵は」 1942年  ウイリアム・A・サイター監督 コロムビア

コロムビアでスターとなったリタ・ヘイワースが、フレッド・アステアを迎えてのミュージカル。
アステアは30年代にRKOでジンジャー・ロジャースとのコンビで連作したミュージカルで大ヒットを連発し、国民的スターとなっていた。
40年代に入り、映画を離れ旅行と競馬、ゴルフに明け暮れたいたが、突然リタ・ヘイワースとの共演話のオファーが来た。
折から太平洋戦争真っただ中の1942年、アメリカ国民は現実から一時的にせよ逃避できる明るい単純な映画を必要としていた。

アステアはコロムビアで「踊る結婚式」(1941年)と「晴れて今宵は」の2作をリタ・ヘイワースと共演した。
さらに「スイングホテル」(マーク・サンドリッチ監督)でビング・クロスビーと共演。
それぞれ大ヒットとなり40年代のアステアの地位を固めた。

アステアはまた、ほかのスター達(ジェームス・ギャグニー、ジュデイ・ガーランド、ミッキー・ルーニー、グリア・ガーソン、ベテイ・ハットンら)同様に、国内外を問わず、第二次大戦下の米軍兵士の慰問を積極的に行った。

「踊る結婚式」アスエアとのコンビ第一作

「晴れて今宵は」の前作「踊る結婚式」で初めてリタ・ヘイワーと会ったアステアは、リタが『フレッド・アステアと踊ることを恐れている』ことを見抜き、冗談を言ったりちょっとした悪戯をしてリタの緊張を解いた。

アステアはリタがカンがよく、これまで一緒に踊った人の中では一番呑み込みが早いことに気が付いた.。
『しかも、彼女はリハーサルの時よりも、本番の方がずっとよかった』(ボブ・トーマス著「アステア・ザ・ダンサー」:1989年新潮社刊 P211)。

「晴れて今宵は」より

では「晴れて今宵は」を観賞しよう。
舞台はブエノスアイレス。
ニューヨークを出て旅の途中のアステアが競馬場で馬券をスッた場面からのスタート。
有名なダンサーのアステアが仕事にあぶれ、ブエノスアイレスまで流れてきた、という設定。

現地の有力者で、スコットランドからの移民という設定のアドルフ・マンジューの事務所に売り込みにゆくアステア。
マンジューには4人娘がおり、長女が結婚し、三女四女が結婚前提のボーイフレンドがいるのに、次女のリタ・ヘイワースに一向にその気がなく、男っ気がないので、親父のみならず、妹たちまでがやきもきする。

ワンマン親父のマンジューが、仕事のワンマンぶりのみならず、次女の恋愛と結婚話に自ら口を突っ込み、それにアステアが巻き込まれてバタバタするというハートウオーミングなコメデイ。

アステアが単独で歌い踊り、またリタと組んで踊る。
アステアといえばまずはRKO時代のジンジャー・ロジャースとのコンビ。
ジンジャーの流れるようなリズム感、パートナーを立てるような動きも素晴らしいが、リタの踊りはまた違った。

プライベートでのリタ・ヘイワースは、コロムビア映画のスターとして売り出す過程で、黒毛を赤く染め、ラテン系の血を隠したのだが、画面で踊るリタからは隠しようもないラテンの血が沸き立っている。
そのリズム感、陽気さ、喜びは、持って生まれた美貌と妖艶さと相まって、見る者を陶酔の境地へと誘う。
何よりリタ自身が喜んで踊っているのがわかる。

コロムビア映画の後押しにより豪華な衣装、主役としてのおぜん立て、文句のない相手役に恵まれたリタだが、演技者としての未熟は隠しようがない。
ところが踊り出すと別人のように光り輝く。

『リタは全く演技ができなかった。その顔は化粧で凍り付いた面のようだった、セリフは不自然で血が通っていなかった。(中略)それでも、他の総てを補う要素がまだひとつあった。踊ると、リタ・ヘイワースは変身するのだ。』(「ハリウッド帝国の興亡」P216)。

「カバーガール」 1943年 チャールズ・ヴィドア監督  コロムビア

スターとなったリタ・ヘイワースが、「晴れて今宵は」のフレッド・アステアに続き、ミュージカル界の大物ジーン・ケリーを迎えての1作。

大物の配役はリタの相手役のジーン・ケリーだけとし、その代わり豪華というかカラフルというか派手なセットと、女優たちの衣装、何より主役リタの魅力を最大限にフィーチャーした作りとなっている。

リタの、形がよく、何よりダンサーとして鍛えられ、欠点のない脚を前面に出してのダンスシーンで始まる冒頭。
カバーガールのオーデイションを受けるときのリタのファッションもカラフルで凝っている。

ジーン・ケリー(ともう一人の仲間)と街角に繰り出してのダンスシーンは、待ってましたの元気さ、ぴったりの呼吸、で見る者を夢の世界へ誘う。
リタの踊りは、目立ちたがりのジーン・ケリーのがむしゃらな動きにも負けていない。
ケリーに対抗するのではなく、自分の世界に見る者の目を向けさせる輝きを放つ。

ジーン・ケリーは、ソロで自分の分身とシンクロしたり、組んだりしてダンスを行う見せ場がある。
こういった映画的アイデアに富んだダンスシーンは、MGMミュージカルの名シーンを思い出させる。
こちらの方が先行しているのかもしれない?

映画のストーリーは、ブルックリン(ニューヨークの下町)の小さなシアターで、明日を夢見るダンサーのリタが、第二次大戦下の北アフリカで負傷した過去を持つジーン・ケリーと相思相愛。
ひょんなことから、リタが、雑誌のカバーガールで有名となり、ブロードウエイへの切符をつかむ。
そこから二人の仲がぎくしゃくするが、いざ、リタがブロードウエイの大プロデウーサーから求婚され我に返ると、ジーン・ケリーが忘れられないことに気づき、その胸に戻ってくる、というもの。

下町のシアターの描き方が面白い。
そこでの売り物は元気な踊り子たちの脚と陽気な観客。
ストリップ小屋の楽屋のような天井裏の楽屋では若い踊り子たちが右往左往している。
厨房で、料理人とウエイターが天手古舞で客の注文をさばいている(料理付きの場末のシアターというものがあるんだ?)。

下町。舞台裏。若者の夢。スターダムと転落。
まるでジュデイ・ガーランドの「スタア誕生」のようでもある。
主演女優の実半生をモチーフに、バックステージを含めて描くやり方は、多くの映画で見られるが、MGMの「イースターパレード」のようにコロムビア映画でも作られていたんだ!?

カバーガールとして名が売れ、ブロードウエイにスカウトされ、名のあるプロデユーサーに求婚され、映画のセットのような豪邸に住むのが踊り子のスター誕生物語だとしたら、下町の大衆シアターで嬉しそうに踊り、相思相愛の支配人と毎週金曜のレストランで牡蠣を注文し、夢を追い続けるのが現実。
リタ・ヘイワースには、『現実』の物語が似合っている。

車の中で、ブロードウエイのプロデユーサーに求婚され、とっさに困ったような無表情を見せるリタ.。
それが彼女の演技下手のせいばかりではなく、思わず自らの出自、人格が現れたように見えたのは、気のせいだろうか。

『「カバーガール」は大ヒットした。(中略)1943年に、近所の映画館の静まり返った観客席でこの映画を観た人間は、いやも応もなくリタ・ヘイワースに恋をしてしまったものだ。これほど美しく、これほどロマンテイックで、これほど妖しい魅力を湛えた女がいようはずはなかった。』(「ハリウッド帝国の興亡」P215)

観客を恋人にする、リタ・ヘイワースは紛れもなく1940年代の女神だった。.

「地上に降りた女神」  1947年  アレクサンダー・ホール監督   コロムビア

リタ・ヘイワースが29歳になる年の作品。
きらびやかなカラー映像のミュージカル作品で正統派のヒロインを演じている。

「地上に降りた女神」より

リタは前年に、代表作となる「ギルダ」に出演して、悪女役を演じている。
そういった意味では役柄の幅を広げ始めたころの1作。
本作の後、同年1947年には、当時の夫、オーソン・ウエルズが監督した「上海から来た女」に出演し、正真正銘の悪女役を演じてもいる。

「晴れて今宵は」「カバーガール」のころの、ぴちぴちとした若さは落ち着いている。
同時におどおどとしたこわばりは薄れ、余裕あるたたずまいを見せ始めている。
いざ踊りが始まると、はつらつと躍動し、キレがよく、実に嬉しそうに踊っている。
振り付けに忠実な正確な踊りもできる。
脚の線、形は相変わらずきれいでセクシー。
この作品には、我々の期待通りに色気があり、かつ少々芸の幅を広げたリタ・ヘイワースがいる。

ただ、どうだろう、フレッド・アステアがいた「晴れて今宵は」や、ジーン・ケリーがいた「カバーガール」と比べて、ミュージカルシーンの単純さ、底の浅さは否めない。
ここはご両人の芸の深さ、存在感を称えるべきか。
ご両人のいないコロムビアスタジオ製のミュージカルは、セットの空間が狭く感じられ、ダンサーの衣装に手はかかっているが、プラスアルファの想像を刺激しない。

アステアやケリーなど、芸達者な共演者が不在の「地上に降りた女神」で、主演のリタは、より一層頑張らなければならない中で、前述した演技の余裕と相変わらずのダンスのキレで、ほぼほぼ見る者の期待には応えている。
スターとしてハリウッド映画の主役を張れる女優さんが持っているものには、やはりただならぬものがある。

芝居の面でいうと、情感をたたえるような場面でのリタの表情はいい。
初公演の場フィラデルフィアに向かう列車の中でのラブシーンはロマンテイックだった。

天上の女神が地上で自らを主役にした下品な(人間的な)舞台が行われることを知り、人間に化身して主役になって舞台を成功させるとともに、相手役兼演出者(ラリー・パークス)と恋に落ちる、という浮世離れしたストーリーの映画だが、そういった現実離れした設定でのラブシーンでは、リタの情感たっぷりな表情が生きるし、ダンスも際立つ。

リタ・ヘイワースという女優さん。
ダンスがダントツで、喜びを体で表現する才能に満ちている。
20代後半になって、情感たっぷりの演技もできるようにもなった。

さて、その後のキャリアはどう花開いたのか?
彼女の代表作といわれ、世界中の男を虜にしたのは、悪女役に目覚めた「ギルダ」(1946年)であった。
次回はそのあたりの作品を見てみよう。

 

DVD名画劇場 傍役女優の華麗な世界 ステラ・スティーブンス

映画は主役だけではない。
バイプレーヤーに魅力的な役者がいるかどうかで作品の評価が決まることもある。

デヴュー当時のステラ・ステイーブンス

バイプレーヤーといっても、このシリーズで取り上げる女優は完全な傍役ばかりではなく、主人公の相手役だったり敵役の重要なポジションを担ったりする。
むしろそのケースの方が多いかもしれない。
アメリカ映画のタイトル上であれば、主演に続く『CO STARRING』のトップくらいにクレジットされる立場の女優さんだろうか。

例えば「陽のあたる場所(1951年)」のシェリー・ウインタースだったり、「ハイ・シエラ」(1940年)のアイダ・ルピノ、「復讐は俺に任せろ」(1953年)のグロリア・グレアムなどを想定している。

また、かつてトップクレジットで紹介されるスターだった、ドナ・リード(「地上より永遠に」1953年)やパトリシア・ニール(「ティファニーで朝食を」1961年)やパイパー・ローリー(「ハスラー」1961年)なども加えたいがどうだろう?

これら女優たちと忘れられないその演技をDVDで見てみよう。
トップバッターはステラ・ステイーブンスだ。

ステラ・ステイーブンス

「ガール!ガール!ガール!」  1962年  ノーマン・タウログ監督  パラマウント

エルヴィス・プレスリー11本目の映画。
「ブルー・ハワイ」のヒットを受けて再びのハワイロケ。

ステラ・ステイーブンスはプレスリーを争う2人のガールズのうちの一人、ナイトクラブの歌手でプレスリーとは過去の腐れ縁があるらしい女性、を演じる。

1938年生まれのステラは実年齢が24歳になるころ。
映画デヴュー作の「ひとこと言って」(1960年)でゴールデングローブ新人賞を受賞している。
一方で、16歳で結婚、出産、離婚の経歴をの持ち主でもあった。
24歳にして倦怠感に満ちた色っぽいプロ女性の役柄がオファーされたのもうなずける。

プレスリーを巡るもう一人の女性には新人のローレル・グッドウイン。
可愛く整った顔立ちの若手女優で、独立心旺盛な現代女性の役柄。

ハワイで漁師兼釣り船の船頭をやっているプレスリーは、自慢だった父が死に、遺産の漁船は人手に渡っているという逆境の中、船に住み込みながら腕のいい海の男として地域に根付いている。
メキシコ移民?で銀婚式を迎えたボスを敬愛し、中国人の青年を助手にして彼の実家とも交流がある。

プレスリーの役どころは、映画観客の多数を占める庶民階級の若者と同じように社会の逆境の中でもがく存在ではあるものの、付き合う人種の幅の広さだったり、金持ち(メキシコ移民のボスに代わって乗り込んできた吝嗇な白人実業家)に対するわかりやすい反発だったり、当時の白人マジョリティとは明確に異なる特色を持つ。
これらの設定が、映画のヒーロー像の正義感からくるものなのか、それとももっと深い意味があるのかはわからないが。

一方、それとは別に女性にもてまくるのはプレスリー映画のお約束。
釣り船の中年夫婦客の夫人にモーションをかけられるシーンから始まって、クラブでたまたま知り合った正体不明のお嬢様(ローレル・グッドウイン)とたちまちくっつき、腐れ縁の歌手(ステラ・ステイーブンス)とは互いの気持ちがありながらも意地を張りあう。

東宝の若大将シリーズをちょっと大人向けにしたような設定。
ちょっと気になる女の子に誘われた若大将が本命の彼女にすねられるのが若大将シリーズのお約束。
プレスリー映画はもうちょっと人間本能に肯定的で、ドロドロしておりながら、反面、根強いアメリカの社会的価値観(旧式な道徳感)から抜けきれない感があるが。

もう一つ、乗り込んできた白人ボスは、プレスリーの金持ちのライバルにでありながら恋人にちょっかいを出すなど、まるっきり青大将(田中邦衛)同様だったことを記しておきたい。

プレスリーが実家代わりに恋人を連れて訪れる中国人一家の描写の尺が長く、主人公の目を通してマイナー人種の中国人一家に対する信頼と親しみが描かれる。

その中国人宅で繰り広げられるエンデイングの大団円の演出がまたすごい。
幼い二人の中国娘が狂言回しよろしく踊り歌う中、キモノ姿の東洋人が中国風の音楽で踊り、そこへタヒチアンダンスの踊り手が登場、最後は水着姿のアメリカンガールがツイストとアメリカンミュージックで場の雰囲気を塗り替えた後、全員がツイストで盛り上がってエンディングを迎えるのだ。

人種と文化の相違を越えた融合を謳ったエンデイング(だからハワイを舞台にした)なのか、はたまたレビュー映画の『味変』としてハワイの東洋趣味、ポリネシアンテイストをハリウッド流にごった煮しただけなのか。

プレスリー扮する主人公が中国人一家に向ける親しみに象徴される異文化へのリスペクトが根底にあるのか、それともハリウッド流アメリカ中心の世界観の揺るがなさを再確認しただけなのか、それともそれらが並立した世界をハワイを舞台に描いたものなのか、判然としないまま映画は終わるのであった。

ステラ・ステイーブンスは主にナイトクラブで歌う場面に登場。
物分かりよくプレスリーと別れ、若い恋人たちを祝福する大人の女性を演じていた。

「底抜け大学教授」  1963年  ジェリー・ルイス監督  パラマウント

名物コメデイアンの主演映画には「極楽」(アボット、コステロ)、「凸凹」(ローレル、ハーデイ)、「腰抜け」(ボブ・ホープ)などのシリーズがある。
「底抜け」はジェリー・ルイスの主演シリーズだ。

「底抜け大学教授」は、中学か高校時代に日曜昼間のテレビ洋画劇場で流れていた。
ステラ・ステイーブンスの美貌が今でも記憶に残る。

ジェリー・ルイスは化学の大学教授。
実験が失敗し、学生たちがススだらけで脱出した後の教室で、地面にめり込んだドアの下にうずまった姿で登場する。
しゃべり方、口の動き、よろけたような歩きにもボードビリアンとしての年季が入っている。

ダサく、ひ弱な体を鍛えようと、ジムに入門する。
トレーナーに片手で押され、トランポリンに倒れメガネが吹っ飛ぶが、跳ね返りながらメガネを空中でキャッチしかけ直すギャグは運動神経十分。
口だけでなく体を張っている。

ステラ・ステイーブンスは役名もステラという金髪、ぴちぴちな女子大生。
ほかの女優陣ともども、カラーを意識した原色の衣装に身を包み、それが似合っている。
ルイス扮する大学教授の妄想シーンでは、スリットの入ったドレス、テニスウエア、水着などのコスプレ早変わりを見せ、若い盛りの美しさをフィルムに留める。

冴えないが知性があり誠実な男と、オスに匂いを発散させる危険な男を「ジキル博士とハイド氏」よろしく、ジェリー・ルイスが演じ分ける。
もともとが「底抜け」の大学教授に好意らしきものを抱いていたステラは、「底抜け」教授の変身した姿によろめくが、かえって「底抜け」教授の魅力に気づく。

自ら開発したクスリを飲んで、性的魅力を発散するオスに変身し、ギャラリーを虜にする色男は時間が過ぎるとクスリの効果が切れ、「底抜け」教授の口調に戻り、慌てて姿を消す。
変身を巡るドタバタは「ジキル博士とハイド氏」のパロディでもあり、また変身の経験を「底抜け」教授なりに反省して本来の自分の大切さに気付くエンデイングはジュリー・ルイス流の温かさか。

ステラ・ステイーブンスは、教室では金髪をくリボンで結んだロリータスタイルで、また夜の学生会館でのパーテイでは、たばこをふかしながら体育系学生を従える姉御肌ぶりを見せる。
ロリータスタイルより、目の前の男性を見抜き、品定めするしっかりした女性役の方が彼女には似合う。

人間は自分らしく生きた方がいい、自分らしさこそが魅力、人間の才能は(異性としての魅力よりも)知性にある、というセリフを「底抜け」教授とステラに語らせて映画は終わる。
弱いが才能を持ち、人間らしい男の子と、彼を理解し慕う女の子の物語。
そのテーマに「ジキル博士とハイド氏」の構図を取り入れコメデイとして仕上げた作品。

一見ミーハーでありながら知性を才能とみなす賢さを持ち、出しゃばりすぎず、いったん決めたパートナーを最後まで支えそうな女性をステラ・ステイーブンスが演じた。

ステラのキャラクターは、ジュリー・ルイスの理想像でもあるのだろう。
ジェリー・ルイスはステラ・ステイーブンスの本当の魅力を見抜いてステラ役にキャステイングしたのではないか。

「砂漠の流れ者」  1970年  サム・ペキンパー監督  ワーナーブラザース

(ストーリー)

文字どおり砂漠を流れている中年男がいる。
偶然会った二人組に命の次に大事な水を奪われた。
砂漠をさ迷い4日目に偶然泉を発見して命を拾う。
男の名はケーブル・ホーク。
自分の名前のスペルも知らない。
金には細かく、臆病。
素朴な信仰心と愛国心だけは身についている。

主演のジェイソン・ロバースと

町が嫌いで泉のほとりに住み着き、二人組への復讐心だけは忘れないホークのもとへ、牧師と名乗る若いのがやってきた。
牧師は泉に住み着き、ホークの家づくりをいやいやながら手伝ったりする。
この牧師はとんでもないスケベで、町へでては嘆いている若妻に近づき、手を出したりする。

この牧師が口を出したことから、ホークは泉の湧く、街道筋のこの土地を登記しようと町へ出る。
駅馬車の運営会社はホークをあしらうが、銀行家がホークを気に入り100ドルをその場で渡す。

100ドルを握ったホークは先日見掛けて気になっていた娼婦のヒルデイを買う。
風呂に入れてくれたヒルデイのもてなしにすっかりいい気持になるホークだが、泉に置いてきた牧師が気になり、金も払わず立ち去る。
ヒルデイは「金を払え」と怒ってドアをけ破り、水鉢や洗面器を投げつける。

その後、改めて町に出たホークは、新しい洗面器をプレゼントしてヒルデイと仲直りする。

「砂漠の流れ者」のステラ・ステイーブンス

駅馬車の休憩所としてすっかり繁盛している泉にヒルデイがやって来る。
風紀を重んじる町の女性たちに追い出されたという。
ヒルデイの夢はサンフランシスコに出て金持ちと結婚すること。
ほんの一晩、ホークのもとによるつもりがそのまま3週間いることになる。

ホークとヒルデイの天国の日々

まるでパラダイスのような砂漠の二人だけの生活。
二人の夢のような生活の背景にカントリー風の素朴な「バタフライモーニング」が流れる。
そこへ牧師が逃げ込んでくる。
手を出した若妻の亭主に追われているのだ。

3人の晩餐。
牧師から食事代を取ろうとするホークに、「私とはただじゃない」と諭すヒルデイ。
ホークはすかさず「俺からもな」と答える。
ハッとするヒルデイは「明日出てゆく」とポツリ。
ヒルデイは涙ながらにこれまでのホークのやさしさに感謝し、男二人に『今日は外で寝て』という。

一人になったホーク。
ある日駅馬車から例の二人組が降り立つ。
泉の繁盛ぶりをそれとなくアピールし、復讐のために誘い込むホーク。
後日やってきた二人はホークの罠に落ち、復讐される。
結局、一人は死に、残った一人はホークに命じられて駅馬車の休憩所の管理をすることになる。
折から自動車が現れる時代となり、駅馬車と休憩所は時代遅れとなってゆくのだった。

休憩所を任せて去ろうとするホークのもとに、着飾ったヒルデイが運転手付きの自動車でやって来る。
ホークは扱いなれない自動車にひかれて死んでゆく。

(感想ほか)

ホークを演じるジェイソン・ロバースはともかく、この作品のステラ・ステイーブンスの魅力を見てみよう。

ホークを客として迎えるキャバレー二階の商売部屋。
ホークにコルセットのひもをほどいてと迫り、ベッドに横たわってストッキングの脚を振り上げる。
キュートな笑顔と媚態。
二人の時間が商売による限定的なものではなく、たっぷりと時間を使った恋人同士のもののよう。
こんな娼婦だったら全世界の男たちは何を差し置いてもそのもとへはせ参じるだろう、と思わせるステラ・ステイーブンスの演技。

町を追われて砂漠のホークのもとへやってきた後のヒルデイは、まずは身支度してさっさと寝室にホークを迎えた翌日には、エプロンに金髪をリボンで束ねてパンをこねるなど、良妻賢母ぶりを見せ、温かく迎えたホークに報いる。

「底抜け大学教授」の時から7年。
30歳を超えたステラ・ステイーブンスは、さすがにぴちぴちではないものの、無駄肉がない体にまだまだキュートな笑顔を見せ、実は繊細な女心を体いっぱいで表現する。
彼女の実人生の積み重ねもあるのだろう、女ごころの表現にはリアリテイもある。

キャバレーの二階の商売部屋でホークを迎える場面では、全男性の理想の女性像を演じるが、ヒルデイがサム・ペキンパーの理想の女性像として演出されていることがわかる。

別れを決めた夜、外に寝ているホークの手を引き小屋へと連れ戻す、白いレース姿のヒルデイは、夜半の夢うつつに現れた女神のごとく、全世界の男の夢の化身だった。
この場面のペキンパー演出にブラボー。

白いネグリジェ姿のヒルデイ

ペキンパーは、回想シーンや凝った伏線などを用いずに時間経過を追ってこの作品を撮った。
「ワイルドバンチ」や「ゲッタウエイ」のようにスローモーションを用いてもいない。
むしろコメデイとしての山場のシーンではコマ落としをもちいているのだ(ヒルデイが樽で水浴しているときに時間より早く駅馬車が到着し、ヒルデイが裸で小屋に駆け込むシーンなど)。
力の抜けたペキンパーは作品をここでは楽しめる。

(DVD特典映像より)

DVDには付属特典として、ステラ・ステイーブンスインタビューが収録されていた。
彼女が50代のころではないか。
メイクしたステラはまだまだ魅力的で、自分のキャリアの出発から「砂漠の流れ者」についてまでを縦横に語っていた。

「砂漠の流れ者」やサム・ペキンパーについてはこう回想している。

・この作品については「コメデイ」だと聞いていたが私は、コメデイの法則を施したラブストーリーだと思う。
・ヒルデイを演じてその心境を理解するのが困難だった。ペキンパーに『ヒルデイっはどんな人?』と聞いたら通りの真ん中で『ヒルデイはお前だ!』と怒鳴り返されたことがある。
・劇中の歌は自分でアカペラで録音したものに、ジェリー・ゴールドスミスが伴奏を録音したもの。
・ヒルデイがサンフウランシスコに出てゆく夜の分かれのセリフのシーンでは自然に涙が出た。
・ヒルデイが車に乗って着飾って泉に帰ってくるシーンが大好き。豪華な衣装も。
・ペキンパーは自分の子供を動物園に連れてゆくようなタイプではない。仕事にしか興味がなく、成功のためには手段を選ばない。
・ペキンパーは自分の憎しみ、寂しさを隠すためにサングラスをかけ、アルコールを飲んだ。小柄な体格で、喧嘩が強いとは思えなかった。
・45歳の時(1972年)、ペキンパーから映画の話があり、『ヒルデイのその後をやるんだったら出る』と答えた。ステイーブ・マックイーンが『あなたじゃだめだ』と言ったのでその話はなくなった。
(「ゲッタウエイ」のことだと思われる)

尊厳と貫禄を漂わせ、己のキャリアにゆるぎなさを感じさせながらも、今もなおスリムでキュートでかつ繊細な表情を崩さないインタビュー中のステラは『脚本と監督を自分がやって映画を作りたい。「底抜け大学教授」のジェリー・ルイスのように』と話していた。
酸いも甘いも味わいつくした大人の魅力がそこにあった。

(「ケーブルホークの男たち 遥かなるサム・ペキンパー」より)

ここに「ケーブルホークの男たち 遥かなるサム・ペキンパー」という本がある。
「砂漠の流れ者」の原題を表題としたこの本は、ペキンパーの同志でもある作者による同作のメーキング本である。この中からステラ・ステイーブンスについての部分を拾い読みしてみた。

『ステラ・ステイーブンスは最高の演技を残したし、それはジェイソン・ロバースにも言える。(中略)サムが最高傑作をものにしたことも間違いない』(同著P145)

『ステラは、ペキンパーが今まで最高の演技を引き出してくれたと語った。彼のメソッドはあまり好ましいとは思えなかったが、毎晩ラッシュを見るたびにそれがうまくいっているので、思い通りにやらせることにしたのだという。この作品のために彼に賭けたのだし、そのお返しとしてサムも私に賭けてくれたと思う、とも彼女は語った。』

などと著者は語っている。

(「女優グラフィテイ」より)

小藤田千栄子、川本三郎の両映画評論家を中心にごひいき女優を1978年の時点で選んだ女優賛歌。
ステラ・ステイーブンスについては川本三郎が『星影のステラ』として242から243ページにわたって評論している。

『のっけからいってしまえばこの十年間に知りえた最高のヒロイン。』(P242)と「砂漠の流れ者」のヒロインを演じたステラを絶賛。
『この映画がペキンパーの傑作足りえたのは、ひとえにステラ・ステイーブンスのためといってもオーバーではないだろう』とも。

目次
「女優グラフィテイ」より

DVD名画劇場 戦前ドイツ映画の栄光VOL.1

第二次大戦前のドイツ映画は、その栄光の時代を迎えていた。
すなわち、1910年代の第一次大戦後のサイレント映画時代には、G.W.パブスト、F.W.ムルナウ、ヨーエ・マイらの演出陣が社会的リアリズムもしくは表現主義などの影響下に名作を輩出し、早くも世界市場に打って出ていた。
日本においてもドイツ映画が一定の評価を受けていた。

「写真映画世界史第3巻」より

映画がトーキーになった時、技術的にもいち早く対応したのがドイツ映画だった。
内容的にはオペレッタなど音楽を前面に出した作品群を世界に送り出すとともに、ゲルマン神話に基づく歴史もの、山岳映画など独自のジャンルを打ち出していた。
監督陣ではエルンスト・ルビッチ、フリッツ・ラングなど後々にハリウッドで長く活躍する人材を輩出した。

ドイツ映画の特色は、当時の映画製作の中心地ウーファ撮影所に根付く伝統的な映画技術の高さとともに、ヨーロッパの中心としての歴史を持つドイツ人気質の堅実さ、地味さ、素朴さが自然と画面に表れている点にあった。
反面、残酷なほどに人間性の善悪を表現するのもドイツ映画の特色であろうが。

今回の名画劇場は手元に集まった戦前のドイツ映画3本を見る。

「最後の人」  1924年  F・W・ムルナウ監督  ドイツ

サイレント時代のドイツ映画には、「カリカリ博士」(1919年 ロベルト・ウイーネ)、「ノスフェラトウ」(1922年 F・W・ムルナウ)、「メトロポリス」(1926年 フリッツ・ラング)、「パンドラの箱」(1929年 G・W・パブスト)などの名作がある。

G・W・パブストと並ぶサイレント時代からの名監督がムルナウ。

「最後の人」は、主演のエミール・ヤニンニングス扮する初老のホテルドアマンがトイレ番に左遷され失意の中で死んでゆくまでを描く。
ヤニングスは「嘆きの天使」で歌姫に溺れる堅物の教授を演じたひと。
この人の演技、表情や仕草にはサイレント映画らしい大仰さがみられるものの、心理を表す表情・仕草や瞬間に素早く動いて状況の急変を表現することができるなど、「鋭さ」がある。

「最後の人」撮影風景

映画の技法的には、表現主義の影響が見られる。
ホテルの役職を降格させられた主人公が退社後仰ぎ見るホテルを捉えるカメラは、きらきら窓の光がさんざめく建物を二重写しのようにとらえる。
現か幻か判然としない映像表現は、主人公がすでに正常な精神状態ではないことを独自の技法で表現する。
また、降格した主人公を待ち受ける安アパートの住人たちのあざけるかのような顔のクローズアップは脅迫的な主人公の心理状態を強調する。

エミール・ヤニングス(左)

主人公の娘が己の結婚式のためにケーキを焼くシーンや、ホテルの制服(に象徴される世俗的権威)への執着、落ちぶれた隣人に対する嘲笑(権威ある隣人に対する諂いと根っこは同じ)などは、いわゆるドイツ的なものが濃厚に漂う。
質実剛健なドイツ人気質だったり、とはいえ権威に弱く、周囲に同調的な気質だったり。

「制服」への過剰なこだわりについては、制服が主人公のアイデンティティーの象徴として描かれているのではあるが、一方でドイツ人の「制服」への気質的な執着を表してはいないか。
第二次大戦のドイツ軍の制服、武器の優れたデザイン性は現代でも一定のファンを持つ。
ドイツ気質と武器・制服のデザインの卓越性との親和感がこの作品にも通底してはいないか。

一方で、制服に象徴される権威、没個性からの解放を秘かな主題としているのもこの作品。

主人公がホテルの支配人から降格通知を渡される場面では、窓の外のカメラが移動しワンショットで窓の内側に来るなど、撮影技法が洗練され高度なのもこの映画の特徴。
サイレント時代からドイツ映画のレベルの高さが見られる。

「會議は踊る」  1931年  エリック・シャレル監督  ドイツ

何という楽しい映画であろう。
陽気で、楽天的で、性善説的で、庶民的で。
最も印象に残ったのはその軽さ。
重々しく、悲観的で、マニアックで、伝奇的なドイツ映画らしさがそこには無く、さっぱりとオペレッタに徹した作品となっている。

リリアン・ハーベイとウイリー・フリッチ

時は1815年、第一次ナポレオン戦争が終わった後の講和会議をウイーンで行うことになった。
主宰することになったオーストリアの首相メッテルニッヒ(コンラッド・ファイト)は、『どうしてウイーンでやるの?』と後ろ向き。
だが策士でもあるメッテルニッヒは、外交官や職員たちを盗聴し、書簡を検閲しながら情報を収集。
やり手のロシア皇帝アレクサンダー(ウイリー・フリッチ)を美女で篭絡し、その間に講和会議をまとめてしまおうと画策する。

一方で鳴り物入りでウイーンにやってきたロシア皇帝は、ウイーンの帽子屋の売り子で愛嬌のあるクリステル(リリアン・ハーベイ)の歓迎ぶりに歓び、街の居酒屋で皇帝の身分を明かさずのデート。
クリステルの純朴な愛らしさを愛で、クリステルもつかの間のジェントルマンとの邂逅に夢心地、彼が居酒屋に払った金貨で相手が皇帝だとわかる。

リリアン・ハーベイは街の人気者

王子様と町娘の恋といえば「ローマの休日」とは逆のパターン。

皇帝に呼ばれ、クリステルが馬車で彼の別荘へ向かう長回しのシーンがすごい。
クリステルが謳う主題歌とともに、川面に恋を語るカップルや、民族衣装で洗濯する娘らを手前にしてドナウ川の橋を渡る馬車。
馬上で喜びを精一杯表現するクリステルに、カップルは抱き合うのを止め、洗濯娘らは手を振る。
到着したお城のような別荘の庭では何組ものカップルがダンスで馬車を迎える。
ハリウッドミュージカルの山場のシーンのようではないか。
というか、後年ハリウッドが延々とまねしてるだろ、これ。

メッテルニヒ(コンラード・ファイト)はフランスの伯爵夫人(右)を使ってロシア皇帝の篭絡を画策

居酒屋で仲睦まじい皇帝とクリステルが店を出るときには、楽団がマーチを奏で、店の客が出てきて踊りながら二人を見送る。
急に音楽が始まり場面が転換する。
ミュージカルのお約束でもあるこういった場面が続く。

リリアン・ハーベイの艶姿

クリステルを演じるリリアン・ハーベイは、独英混血らしいが、ドイツ娘らしい逞しさを感じさせるとともに、1933年のオーストリア映画「未完成交響楽」で、若き日のシューベルトを助ける質屋の娘を演じたルイーゼ・ウルリッヒのような素朴な健気さを見せる。
またその陽気な明るさ、お色気、芸達者ぶりは天性のものとしか思えない。
彼女の健康なエロチシズムは、逆光に浮かぶ体のシルエットだったり、スカートをたくし上げた際の一瞬の生足で直接的にも表現される。

明るく、軽いタッチとミュージカルらしい場面転換で映画をまとめた監督のシャレルは、オペレッタの舞台演出家から製作者のエーリッヒ・ポマーにスカウトされ、この永遠に古びないミュージカル作品を撮った。

ドイツ映画はトーキー以降にオペレッタ映画の興隆時期があり、本作はその時期の代表作だった。
軽さ、明るさ、陽気さで統一された本作だが、製作された2年後にはナチス党が政権を取り、7年後にはポーランドに侵攻するという時代性を感じさせるように、エンデイングはナポレオンが幽閉先を脱出し、フランスに上陸したというニュースとともに、再びの欧州の戦禍を必然としてロシア皇帝は直ちに本国へと出発するというものだった。

町娘の夢のような恋は、一瞬の思い出とともに来るべき戦乱に覆いかぶせられるのであった。

「制服の処女」  1931年  レオンティーネ・ザガン監督  ドイツ

まず、ナチス党台頭前夜の1931年のドイツでこういった作品が生まれたことに素直に敬意を表したい。

ベゼルブルグ先生とマヌエラ

女流監督のザガンは、この時代のドイツ演劇界の重鎮だったマックス・ラインハルト門下だという。
製作はカール・フレーリッヒで1930年代後期のドイツ映画界の随一のプロデユーサーだという。

主演の女学生マヌエラ役にヘルタ・ティーレ、マヌエラが慕う女教師・ベゼルブルグ先生役にドロテア・ヴィーク。スチル写真を見たら忘れられない凛とした美貌のドロテアさんはスイスの男爵夫人で、クララ・シューマンの後裔だといわれているらしい。
教師の服装が似合う。

先生を慕うマヌエラ

叔母に連れられて寄宿制の女学校にやって来たマヌエラ。
14歳だ。
この学校は校長の方針で、規律を尊重し空腹に耐えてプロシア精神を体現する女子を教育する方針。
生徒は縞模様の(大戦中のユダヤ人収容所のような)制服の上にふだんは前掛けのスタイル。

テイーンエイジャーの女の子らしく、空腹に耐えかねたり、男優のプロマイドを隠し持って『セックスアピールがどうのこうの』と騒いだり、厳しい舎監の先生に陰で『あっかんべー』したりする生徒たちだが、本当の意味で厳しい団体生活に我慢できるのは、ベゼルブルグ先生の存在があるからだった。

消灯とともに寝室にやってきて皆にキスしてくれる先生は、母親のいないマヌエラにとっても思慕の対象であり、生きがいともなった。

院長の誕生会に催される生徒の劇は盛り上がるが、その打ち上げで事件が起こる。
ベゼルブルグ先生への思慕を素直に打ち明けたマヌエラの行動が問題視される。

規律違反だと断罪する院長に、反対しマヌエラを守ろうとするベゼルブルグ先生。
マヌエラは自殺寸前のところを仲間に助けられ、皆の非難の目を背に院長は去ってゆく。

ドロテア・ヴィーク(上)とヘルタ・テイーレ

ナチス時代となった時、亡命を余儀なくされたというザガン監督、ほとんど唯一の作品。
監督が女流ならば出演者も全員女性。
切羽詰まった場面ばかりではなく、折々に学園ドラマのノリのような、『青春のどうしょうもない』シーンも加える。
女学生役の女優達も美人ばかりではなく、実際に学校に居そうなキャラが揃っている。

全体主義に対する人間主義の抵抗をテーマにした作品。
しかしながらその根底には当時のドイツの暗い世相が覆っているかのようだった。

DVD名画劇場 児玉数夫「やぶにらみ世界娯楽映画史」傑作選その1

手許に1988年刊の教養文庫「藪にらみ世界娯楽映画史」がある。
著者は児玉数夫。

彼はひとくくりに映画評論家と呼ばれるものの枠を超えて、広く職業として映画に関わってきた人物。
戦後直後にGHQ配下でアメリカ映画の輸入、配給を一手に引き受けていたセントラル映画社というところで、広告宣伝を担当するという稀有なキャリアの持ち主。
以降、リアルタイムで輸入洋画ほぼ全作に接しており、知識としての映画ではなく、体験としての映画を語りうる存在。

裏表紙には淀長さんによる絶賛のコメントが

著書も多数あり、特に西部劇、ギャング物、ターザンシリーズ、キートン、怪奇映画、ミュージカルなど、著者お気に入りのジャンルでは、数々の映画の記録や、保有する当時の内外の宣材などをもとに作品を紹介している。
名作や個人的好みに偏重するいわゆる映画評論家とは違い、幅広くほぼ輸入全作品に接してきた経験から、映画作品に対する思い込みや偏見から自由で、かつ映画に接してきた歴史の長さから、作品の由来、背景を系統的に理解している。
本当に面白い映画を見分けることができるのが児玉数夫の強みである。

「やぶにらみ世界娯楽映画史」のまえがきに著者は記す。
『本書には、いわゆる名作もあれば、ほとんど採り上げられることなく冷遇に甘んじた作品もある。私は、そうした作品もいとしく想う。話題作・問題作ばかりの映画史など、少しも書きたいとは思わない。』と。

目次を見ると、なるほどほかの場所で、映画史上の有名作だったり、スターの代表作だったり、監督論などの媒体により、散々取り上げられている作品も、面白いものであれば取りあげられている。
例えば「ジョルスン物語」、「雨に唄えば」、「十戒」、「山河遥かなり」など。

同著の目次第一ページ。見よ堂々の「海賊バラクーダ」「死闘の銀山」のランクインを!

同時に「海賊バラクーダ」、「死闘の銀山」、「凸凹透明人間」、「白昼の脱獄」など、今ではすっかり忘れられ、昔のTV名画劇場での放映を最後として公的な公開機会は永遠に来ないであろう作品が取りあげられている。
このあたりが本書の真骨頂なのだ。

今どきの映画評論家の、受け狙いの「発見」に引っかからず、いまだ持って注目されない作品群。
でもリアルタイムに見てきた児玉数夫の記憶に残る面白い映画、価値ある映画の数々。

今回は本書で取り上げられた作品の中から3本を選んで鑑賞した。

児玉数夫の著書は数多く文庫化されており、埋もれた数々の作品を再発見することができる。「1940年代の洋画」もそうした1冊
同じく、「ヨーロッパ映画1950」

「サラトガ本線」  1945年  サム・ウッド監督  ワーナーブラザーズ

「やぶにらみ世界娯楽映画史」の本作紹介文には『昭和24年晩秋。数多くの新入荷をみたアメリカ映画の中でも、この「サラトガ本線」と肩を並べることのできる大作はそうそうはなかった。』とある。
当時、洋画輸入の窓口に居た児玉数夫の実感に基づいた記述である。

「やぶにらみ世界娯楽映画史」より

原作はエドナ・ファイバーというアメリカの女流作家。
数々のベストセラーの中には1966年に映画化された「ジャイアンツ」もある。

本作「サラトガ本線」は、奔放な女性を主人とし、彼女の復讐心を背景にした、金と男による自己実現の人生に、恋人役として野生的なヒーローを配置した、いかにも女性作家的な、もっというと少女漫画的なドラマである。

時代背景が19世紀のニューオリンズとサラトガで、フランス文化の背景とアメリカ開拓時代末期のスケール感を取り込んでもいる。
主人公女性のキャラクターや時代背景の壮大さは、何やら「風と共に去りぬ」に似てもいる。
スケール感はかなり縮小しているが。

監督はセシル・B・デミルのもとで修業し、師匠譲りの保守主義者のサム・ウッド。
本作での起用は「誰がために鐘は鳴る」(1943年)でクーパーとバーグマンを上手く扱った所以からかもしれない。

で、「サラトガ本線」。
ゲーリー・クーパーとイングリッド・バーグマンを起用したワーナーの大作乍ら、映画史的にも両俳優のフィルモグラフィ的にも、今に残る名画の扱いではない。
どうしてなのか。

その理由を探ってみた。

芳賀書店刊「シネアルバム➉ゲーリー・クーパー」の149ページに本作の紹介が載っており、『この作品は論理性を欠いておりバーグマンとクーパーが妥当な演技をしてもカバーできない』(NYタイムス B・クロウザー)とある。
どうやらこの『論理性』なる言葉に、この作品に陽が当たらない理由の一端が覗いているようだ。

当時のアメリカの倫理観は、健全な家庭、宗教的価値観、人種差別、フロンティア精神といったものが幅を利かせていた。
そして、映画は最も敏感に時代の倫理観に従わざるを得ないメデイアでもあった。
その中で「サラトガ本線」は自由にふるまう女性を主人公としていた。

彼女は母親の復讐のためにフランスからニューオリンズに戻ってきた行動力のある女性であり、金持ちの男と結婚するという人生目標を隠さなかった。
たばこを吸い、桃をブランデーに浮かべて泥酔するまで飲む。
逆境(といっても自らの正体が暴かれそうになるなど損得に絡んだ場合のみだが)には自ら解決に立ち向かってゆく逞しさを持っている。
よく笑い、叫び、損得の絡む相手に対しては大いに演技力を発揮する。

今現在であれば、自らの「女」を武器にのし上がるサスペンスドラマでよくあるキャラクター。
ひょとしたらフェミニストによって、女性の自立を謳いあげるドラマのヒロインにでもなりそうなキャラクターでもある。

この主人公をバーグマンは実に生き生きと、愉快そうに演じる。
その様は、彼女個人の本質にも似通っているようにも見えるし、彼女個人が協賛する女性像をなぞっているようにも見える。
これまで作品ごとに関係者と浮名を流し、「サラトガ本線」当時は「誰がために鐘は鳴る」でメロメロだったゲーリー・クーパーとの仲も継続していたバーグマンの、彼女個人としても真骨頂のことであったろう(この作品の直後、バーグマンはクーパーとの浮気を打ち切ったが)。

セルズニックにスカウトされて以降、ハリウッド流の型にはめられ(ようとし)ていたバーグマンが、ここでは自由に羽ばたいている。

クーパーとバーグマン

ワーナー製作の鳴り物入りの大作とは言え、こういった女性の自立を隠れた(隠れてはいないか)テーマとした作品を保守派のサム・ウッドがよく引き受けたものだとも思う。

主人公は魅力的な若い女性とはいえ、黒人ハーフの中年女性(白人女優が黒塗りで演じる)と小人の中年男性(名前はキュビドン!)を従者とした異形の集団の主宰者でもあった。
彼らが霧にむせぶニューオリンズ港に降り立ち、荒れ果てた屋敷(バーグマンの実母がニューオリンズを追われた事件の現場)に立ち入る映画のオープニングはホラーかサスペンスとしか形容のしようがないものだった。
これらは正統派のハリウッドメロドラマとは決して相いれない要素であった。

そういった異形のシュチエーションをバックに、自己陶酔のように自らの欲望を語りまくり、お互いに一目ぼれしたテキサス男(クーパー)との会話が時にかみ合わなくなっても、まったく気にしないバーグマンの演技を見ていると、この作品が、ハリウッドの悪しき伝統を破壊せんと企てられた、一種のカルトムービーなのではないか、とさえ思ってしまう。

少なくとも伝統的なハリウッドメロドラマ的ではない。
当時としては新しい価値観に基づき、生き生きとした女性像を描いた画期的(冒険的?)な作品だった。

クーパーの背後が小人の従者キュビドン

バーグマンが生き生きと立ち回る姿に見ほれた。
こういう作品に出合うと、これまで映画を見続けてきてよかった、とさえ思う。

さすがに児玉数夫は隠れた「名作」を忘れてはいない。

「窓」  1949年   テッド・テズラフ監督   RKO

1949年当時のニューヨークの下町。
主人公のテリー少年と両親が暮らすボロアパートには電話はなく、洗濯物は向かいのアパートに渡したロープにかけて乾かす。
非常階段をたどれば隣家のベランダを通ることになる「長屋暮らし」。
6階建てアパートにエレベーターは当然ない。
隣の建物は崩れるに任せた廃墟で、主人公ら悪ガキ仲間のあそび場だ。

こうした環境で育つ9歳の少年テリー。
父親は夜勤の仕事、母親は専業主婦という一般大衆。
テリーは夢多い少年でおしゃべりが得意、勢い虚実取り交ぜたおしゃべりにより、大人からは嘘をつくなと指導されている。

テリー少年一家の夕食

テリーが寝付かれぬ夏の夜に枕をもって風通しの良い非常階段で寝ることに。
その時に目撃する階上の夫婦の殺人。
母親に言っても夢を見ているだけといわれ、父親に言っても逆に説教される。
思いきって警察を訪ねるが、最初から本気ではない警察は形だけの調査をするだけ。

勘づかれた犯人夫婦に拉致されるテリーだが・・・。

配給会社による宣材
少年と殺人犯夫婦

RKO時代のドア・シャーリーの製作(クレジットタイトル上のプロデユーサーはフレデリック・アルマンJR)。
本作「窓」は、シャリー製作のヒット作「らせん階段」(46年)の少年版ともいうべきか。
「らせん階段」はおしの女性に迫る危機を描いていたが、本作では、話を大人に信じてもらえない少年に迫る危機を描く。

ヒッチコックの「汚名」のカメラマンだった監督のテッド・テズラフの演出は徹底的に暗さにこだわる。
ほとんどが夜のシーンだが、効果的に使われるライテイングにより画面の暗さが気にならない。
ラストのアクションシーンでは、画面に向かって崩れる階段や梁の構図が目新しい。

ノースターの作品といいながら、若手の良識派アーサー・ケネデイ(テリーの父親役)、ルース・ローマン(殺人夫婦の妻役)と、決して手を抜いてはいないキャステイングもいい。

ルース・ローマン

「やぶにらみ世界娯楽映画史」では、この作品について『ドア・シャリーのプロデユースになるものは、最低の製作費で最高の興行成績を狙うものとして有名であるが、この「窓」もその例にもれず、75万ドルといわれる安い製作費で作られている傑作である』と評されている。

戦勝国とはいえ、ニューヨーク下町の庶民の暮らしは決して明るくも、希望に満ちてもいない。
空想癖により自由に精神をはばたかせるのが好きな少年にもやがて残酷な現実が押し寄せる。
空想の世界に浸る危険性と、貧しい現実に安住することの安全性が描かれる作品。
それが「反語」としてのことなのか、「正論」としてのことなのかはわからないが。

「恐怖の一夜」  1950年  マーク・ロブソン監督  RKO

戦前からの名プロデユーサーで、MGM(メトロ・ゴールドウイン・メイヤー)にその名を残し、ウイリアム・ワイラーと組んで、「孔雀夫人」(1936)、「嵐ケ丘」(1939年)、「偽りの花園」(1941)、「我等の生涯の最良の年」(1946)などの名作をプロデユースしたサミュエル・ゴールドウインの製作。
監督には前年「チャンピオン」で華々しく世に出た新鋭のマーク・ロブソンを、脚本にはフィリップ・ヨーダンを起用した異色作。

舞台は都会の貧民窟。
犯罪者や低所得者が住むアパートに暮らす青年マーテイン(ファーリー・グレンジャー)。
彼の父は自殺したため、地区の教会の神父から教会葬を拒否される。
それ以来、教会と神父を憎むようになるマーテイン。

その後、貧しいながらも生花店でまじめに働くマーテインだが、最愛の母親は病気で臥せっており、やがて死ぬ。
盛大な葬儀で母親を見送りたいマーテインだが、雇い主も助けてはくれない。
思い余ったマーテインは神父を訪ね、信心深かった母の葬儀への援助を要求するが、すげなく拒否される。
衝動的に十字架で殴りつけ、神父は死ぬ。

マーテインと警察。
後任の若い神父(ダナ・アンドリュース)とマーテイン。
それぞれのヒリヒリとした関係が、夜の貧民窟と場末の警察署を舞台に葛藤する。

新任の若い神父(ダナ・アンドリュース)。左は善人神父の姪役の女優

貧困のせいもあり、教条的な信仰心には相いれない青年が事件を経て己の心と向き合うまでがつづられる。

貧困と無知から犯罪を犯す若きカップルが主人公の犯罪映画には「暗黒街の弾痕」「夜の人々」「拳銃魔」などがある。
本作でも主人公のマーテインには、エレベーターガールをしながらマーテインからのプロポーズを待つガールフレンドのジュリーがいる。
若く、貧しく、ナイーブすぎるマーテインとジュリーには、貧しさゆえに犯罪を起こし社会に追われる犯罪映画のカップルに似た匂いがする。

が、本作の感性は、社会に虐げられたカップルを犯罪に追い込むものではなく、またそういった若者たちに寄り添うものではない。
社会の不条理を描きつつも、虐げられたものへの社会の無理解を訴えるわけでもない。

後任の神父がマーテインにつぶやく『君が神を捨てても、神は君を捨てない』に象徴される、虐げられるものであればあるほど信仰心が大事であることを訴えるのがテーマとなっている。

とはいえ、ディテイルには監督マーク・ロブソンの鋭い感性が光っている。
どこからともなく現れて、にこりともせず無礼にふるまい、正体不明の不気味ささえ漂わせる刑事たちは、とても正義の執行者には見えない。
マーテインを拒絶する前任の神父は、貧民窟の絶望と40年間向かい合って消耗し尽くしたという理由があったにせよ、官僚的そのもので既存の宗教の非人間性を表す。
その神父が十字架の置物で殴り殺されるのは象徴的だ。

それでも信仰心にこそ救いがある、との結論は製作のゴールドウインの感性であろう。