上田映劇で「新聞記者」を観る

今年話題の映画「新聞記者」を見た。
レトロな劇場・上田映劇の9月第一週初回上映のプログラム。

ここは山小屋おじさんが上田に行ったときに必ず寄るところ。
戦前に芝居小屋としてスタートし、その後映画館に。
いったん廃業となった後、NPO法人が運営して再スタートした歴史上の場所である。

久しぶりの上田映劇、入場者は30人も!

平日の初回10直上映ながら30人近い観客数。
山小屋おじさん3回目の上田映劇でこんな大人数は初めて見た。

入場券を買う際に、シニア料金の1,100円の入場券が支配人の一番手前に置かれていたのを見た。
場内はほとんどシニア。
支配人も1,100円の入場券ばかりを切ったということか。

誰が「新聞記者」を作ったのか?

さて「新聞記者」。
時の日本の権力者、もっと言えば官邸の反民主主義を正面切って批判した珍しい作品。
原作は東京新聞の望月記者の同名書。
菅官房長官の記者会見で、手を挙げたのに発言を許されなかったというエピソードを持つ記者が原作者だ。

実例のエピソードから、官邸の横暴な権力行使ぶりを描写してゆくが、この作品のテーマは、権力というものの性質そのもの。
つまり、権力はその行使に際して真の目的を国民から隠すこと、また権力の遂行に際しては非合法も辞さないということだ。

権力を揶揄する、もしくは抽象化・一般化して広く勧善懲悪のドラマとすることはテレビなどでも行われている。
が、近時のスキャンダルをエピソードとしてストレートに問題提起した作品は今どき珍しい。
終戦直後の独立プロの作品のようだ。

だれが、どういう目的で作った作品なのだろう?
映画製作の背景はいかに?
見ている最中そのことばかりを考えていました。

現在のアンチと現在のヒーロー

かつてのやくざ映画などを見るまでもなく、「旧来の悪役」はわかりやすかった。
同義に反し、乱暴で、ずるいやつが悪役だった。

今の時代、牧歌的な悪役などいなくなり、「最新の悪役」として官邸が選ばれたということか。

かつてのヒーローは悪に耐え、堪忍袋の緒が切れて立ち向かい、やっつけた。
今の時代、ヒーローの存在が許されなくなっている。

一方の主人公の松坂桃李が官邸の悪を暴く情報リークし、予想される官邸側の反証・印象操作に対しては、実名発表を同意した時、一瞬だけヒーロー誕生!と思った、が。
「最新の悪役」は簡単にヒーローの登場を許すほど純朴ではないのだった。

主人公の女性新聞記者役は韓国人女優が務める。
危惧したキャステイングだったが、過剰な演技を排することができてかえって良かったと思う。

開始からスピーデイな展開で手際よくエピソードをつないでゆく、まじめでストレートな作品。
いい作品が持つ映画的緊張感に満ちている。

顔を知っている出演者が、松坂のほかには本田翼と西田尚美、高橋和也くらい。
日本若手俳優もこういった作品に出て、役者としてのキャリアを築いてほしいもの。

劇中エピソードが実例ばかりなのが、映画としての厚みを欠いたことは指摘しなければなりませんが。

NPO運営を応援し100円寄付

終映後、もぎりにいた支配人と話す。
丸眼鏡をかけたおとなしそうな青年で今どきは古本屋の経営者にでもいそうなタイプ。

おじさんは「新聞記者」のメインタイトルがわからなかったので尋ねると、開始に主人公の女性記者の登場場面がそうだったとのこと。
ちゃんと上映作品を見ていたことにも感心。

入場者が多いので雑談はそこまでにして寄付金箱に寄付をして退場しました。

次回の入場者数も含めて館内がにぎわっているのがうれしい、NPO法人経営の上田映劇でした。

「ヌーベルバーグ」の時代

ヌーベルバーグという言葉を聞いたことがあるだろうか?
フランス語で「新しい波」の意味。
1960年前後のフランス映画のムーブメントを表す言葉として有名だが、そもそもは映画のみならず、当時の新人小説家フランソワーズ・サガンなどと、映画を含む各分野の新人を特集したフランスの雑誌のコピーから派生した言葉だった。

今回、シネマヴェーラ渋谷で「ジャパニーズヌーベルバーグ」として、1960年代の「日本映画の新しい波」の特集上映があった。
何本か見に行ったが、改めて当時の作品群と時代背景に興味をひかれた。

本家ヌーベルバーグのこと

1960年前後のフランス映画の新しい波は、「カイエ・デュ・シネマ」という映画雑誌の若き批評家連中が、実際に映画を撮り始めたことによって起きた。
クロード・シャブロル、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダールなどである。
作品では「いとこ同志」「大人は判ってくれない」「勝手にしやがれ」など。

本家ヌーベルバーグの発生である。
これらの作品はヒットし、作り手たちはこの後も映画監督として制作を続けてゆく。

1960年。
ベトナム戦争がはじまり、フランスが初めての核実験を行う。
5月革命といわれたフランスの文化運動を8年後に控えた時期でもあった。

トリュフォーやゴダールたちは、批評家時代「カイエ・デュ・シネマ」紙上で、アメリカB級ギャング映画や、ジャン・ルノワールを熱心に論じていた。

彼らは、撮影現場では、若い俳優を使った即興演出により、作者の身近な世界を描出する作風を示した。
それは、時代のニーズにマッチしたことから、フランス国内のみならず世界中の映画界の一大ムーブメントとなった。

ゴダールがその後、各分野の文化人にもてはやされる現象も起き、「ヌーベルバーグ」という言葉も「カイエ・デュ・シネマ」の名前も、独り歩きを始め、文化・現象としてファッション化し一部では権威化されるに至った。

1960年前後の日本映画界

産業としての日本映画は1958年に映画人口(観客動員数)11億人の最高を記録、以後減少している(1970年以降は1.5億人前後)。
興行収入は、単純比で、1958年の500億円から、2010年の2000億円に増大。
集客の減少を単価のアップでカバーし、映画産業そのものはしぶとく存続している格好だ。

1958年当時の映画制作会社は、大手6社(東宝、松竹、大映、日活、東映、新東宝)の時代で、各社は直営の撮影所(松竹、大映、東映は東京と京都の2か所)を持ち、各都市に直営もしくはフランチャイズの上映館を持っていた。
各社は制作部門の専属として、俳優、監督と契約し、また製作スタッフ(助監督、撮影、照明、大道具などの現場のスタッフ)を、社員として抱えていた。
1955年ころに、石炭産業と並ぶ花形産業としての映画は、いまだ絶頂期にあった。

その当時、1本の映画には、総勢数十人からのスタッフがついていた。
助監督だけでも1本に4人付くのが普通で、松竹大船撮影所だけで在籍する社員の助監督が数十人いたといわれる。
各撮影所では、月4本から8本の製作本数を抱え、多忙を極めた。
将来のための人材育成をと、1950年代中盤から60年にかけて、松竹だけでも毎年、助監督を公募していた時代である。

ちなみに現在は、東宝、松竹、東映の大手映画会社が自社作品を作るのは、年に何本あるかないか、である。
撮影所スタッフの数は激減し、そのスタッフも大手映画会社の社員ではないことが多い。

その背景には、娯楽の多様化などによる映画人口の減少=映画会社の売上の減少がある。売上が減った会社が生き残るためには、新商品の開発により売上を伸ばすか、あるいは経費を節減しなければならない。
そこで、映画会社は制作部門をリストラし、費用を節減したのだった。

こうして、撮影所が閉鎖され、(松竹、大映は京都の撮影所を閉鎖)、製作スタッフをリストラし、新規採用をストップした。
映画会社の撮影部門は、スタジオ(スタッフを含む)のレンタルや、不動産業、観光業で稼がざるを得なくなった。

もっとも、映画会社として最低限度の上映作品は必要なので、まず、制作部門そのものを別会社化し、映画製作にかかる経済的リスクを会社の決算の外とした。
次に、既存のプロダクション、独立監督などに作品を発注したり、あるいは、プロダクションが製作した作品を買付けた。

なお、大手映画会社から制作を請け負う側も、スタッフ数を、大手映画会社の撮影所時代の数十人から、10人以下にまでに減らし、また、デジタル化やCG化などの技術を取り入れて直接制作費を減らすなど、映画製作にかかる経済的なリスクを軽減しようとしているのが現状だ。

その点、配給事業というものは、契約した額で作品を制作サイドから購入し、興行後は、興行収入から映画上映にかかる諸経費(プリント作成費、宣伝費等)を差し引き、黒字が出れば制作サイドに分配すればいいので、作品が極端に不入りではない限り、経済的リスクは少なく、またヒットした場合の実入りは青天井となる。

こうしてみると産業としての映画製作は、1955年から1960年までのつかの間の全盛期の後、今に至るまで下落し続けているのがわかる。
この衰退は、映画会社本体に及び、1961年の新東宝の倒産、1970年代の大映倒産、1980年代の日活倒産が起こる。
制作、配給も含めた旧来の映画産業が、会社の数で行っても半減したのが半減したのである。

ヌーベルバーグがフランスで発生した、1960年は日本の映画産業の絶頂期の終末期に当たり、衰退の影におびえ始めた頃だったのである。
その時代はまた、戦後15年を経た、世相の転換期でもあった。

日本ヌーベルバーグ前史、松竹大船撮影所の場合

数年前に亡くなったが、大島渚という映画監督がいた。
1954年に京都大学から松竹大船撮影所に入社。
同じころ、吉田喜重、山田洋次(いずれも東大卒)が入社している。

大島は、晩年は海外のプロデューサーと組み、世界と商売をしたカリスマ性を持つ人材だったが、松竹の社員時代に4本の映画を残した。
「愛と希望の街」(59年)から「日本の夜と霧」(60年)に至る、アグレッシブで時代批評性に満ちた作品群。
特に、「青春残酷物語」「太陽の墓場」(いずれも60年)の2本はヒットし、折からのフランス映画の新しい波現象を受けて、マスコミ的にも「ヌーベルバーグ」と呼ばれた。

1959年当時27歳の大島が、チーフ助監督の経験もないのに監督に昇進できたのは、シナリオの執筆力もあったにせよ松竹首脳やマスコミに対するアピールを含む政治力に優れていた理由のほかに、映画界を取り巻く外的理由があった。
すなわち、1958年をピークとする映画人口の減少は、事業会社としての映画会社を直撃し、特に小市民的なホームドラマを路線としていた松竹において、新しい作風、路線、新しい作り手を模索せざるを得なかった。
それが時代の流れだった。

実際、この流れに沿って松竹で監督昇進した当時30歳前後の助監督には、大島のほか吉田喜重、田村孟、高橋治、斎藤正夫、森川栄太朗、篠田正浩などがいた。
全員、1955年前後に猛烈な倍率をかいくぐって入社した有名大卒者であったし、入社後はシナリオ執筆などで実力と意欲をアピールした連中だった。

この一群は、旗手・大島の2本のヒット作の影響もあり、会社の抜擢によって次々に作品を発表したが、大島が1960年に制作した「日本の夜と霧」が、上映4日間で打ち切られ、かつ大島がその件について松竹を批判し、挙句、同調者を引き連れて松竹を退社したことによって急激に退潮した。

「日本の夜と霧」は安保闘争現場を舞台とし、新左翼の視点から旧左翼を批判した学生演劇のような作品で、ヒットしなかったのは当然。
今では、若き大島の熱気が商業映画撮影所の中で実現した記念碑的な意味を持つ作品と評価が定まっているが、当時の(そして今も)映画会社松竹としては扱いに困る作品だったろう。
権力側をはじめ、右翼、旧左翼など各方面からいちゃもんをつけられる可能性が高い作品を、ヒットしないことを理由に打ち切ったのが実情だった。
大島にとっては確信犯的に自分の主張のみを前面に押し出したのだった。

結果として大島のみならず、ヌーベルバーグの旗のもとに売り出された少壮監督の全員が松竹を去ることになる。
大島、吉田、篠田はのちに独立プロを起こして映画省察を続け、田村は大島が起こした創造社の一員に、高橋は小説家に、斎藤と森川はテレビに移っていった。
彼ら全員が、大島のように自己プロデュース力にたけたアジテーターであるというわけではもちろんなかった。

総括、日本ヌーベルバーグの時代とは?

発生

(時代の要請)
映画人口の減少の中、映画会社の旧路線では集客がじり貧で、新しい路線を求めた。
新しい路線とは、時代を背景とした生々しく、刺激的で、若々しい感性に満ちたものでなくてはならなかった。
世の中は、安保闘争、ベトナム戦争に揺れ動いていた。

(人材の登用)
・1955年前後に一般募集で入社した優秀な人材が助監督経験を経て30歳前後となっていた。
彼らは監督昇進を目指し、シナリオ発表などで意欲と実力をアピールしていた。
何より、現代社会の問題性に肉薄し、また若者風俗や気分を取り入れた画面作りに意欲的だった。

・この現象は松竹のみならず、東宝、大映、日活でも同時代的に発生し、岡本喜八、須川栄三、恩地日出夫、増村保造、中平康、今村昌平らがデヴューした。

総括

・日本ヌーベルバーグとフランスヌーベルバーグは、時期と気分を同じくする(いわゆる同時代性を持つ)が、別の土壌(かたや映画撮影所、かたや映画批評)から発生。

・映画の技法的な面(カメラの移動、長回し、ロケ、同時録音の多用、若手俳優の抜擢)などは、日本のみならず、世界がフランスの影響を受けて、継承している。

・日本ヌーベルバーグの場合、映画撮影所が、有能な若手人材を抱え、育て、発表させることにより実現した。
彼らの残した稚拙であるが若く熱気ある作品を見るにつけ、意欲的な作り手と映画会社の歴史上の幸運な邂逅を再確認するという喜びを感じざるを得ない。

大島の全4作品、田村孟の「悪人志願」(60年)、恩地日出夫の「若い狼」(61年)、山際栄三の「狂熱の果て」(61年)。
映画会社が映画製作の現場を含有していた時代の奇跡のような一瞬の輝きだった。
この輝きは1960年だったから可能で、これ以前もしくは以降の日本映画界では実現不可能だった。

日本におけるヌーベルバーグの時代は1958年に始まり、1961年に終わった。

 

「映画論叢」という雑誌

おじさんも知らなかったが「映画論叢」という雑誌がある。書店に置いてあるのは、神保町の東京堂でしか見たことがない。
国書刊行会の出版で、毎月ではないが年に数回発刊しているようだ。
映画好きのおじさんは、書店で見かけると手に取るが、内容はかなり専門的で、とっつきずらい。

おじさんと映画雑誌

おじさんにとっての映画雑誌は、「スクリーン」と「ロードショウ」が記憶のはじめ。
両雑誌とも、洋画のスターグラビアがメインの大判雑誌で、淀川長治、小森和子といったタレント評論家が来日した映画スターにインタビューした記事がメインの印象。
日本で公開する洋画の全作品を写真紹介するという記録性も持っていたが、読者層は若い女の子であり、おじさんの若い時代には買うのが恥ずかしかった。

その当時の日本映画については「近代映画」という雑誌があり、日本映画のスターグラビア誌の役割を担っていたようだが、覗いたことがない。

おじさんが高校くらいになって、映画に興味を持ち始め、覗いた雑誌が「キネマ旬報」だった。
日本で一番古い歴史を持つ映画雑誌である。
おじさんが高校生の頃の「キネマ旬報」は、そもそも当時住んでいた函館の書店にはおいていなかった!
古本屋でバックナンバーを手に入れるか、書店に注文しなければ現物が手に入らなかった。

高校の途中で移り住んだ札幌の書店にはおいてあり、その後、大学に入ってしばらくするまで毎月購読した。

「スクリーン」が作品紹介する際に、題名の前に持ってくるのが主演スターの名前だとしたら、「キネマ旬報」では、監督の名前を持ってきていた。
そういうところが生意気な青少年映画ファンの心を刺激したものだった。

当時の「キネマ旬報」では、竹中労の「日本映画縦断」という連載があった。
伊藤大輔監督など、当時存命の日本映画の生き証人への聞き取りだった。
田舎のにわか映画ファンには全く予備知識もない世界ではあったが、嵐寛十郎の会などは面白く、また作者竹中の情熱に感じ、熟読したものだった。

また、「キネマ旬報」の巻末に掲載される上映情報の中で、当時の池袋文芸坐や、京一会館など名画座のバリバリのプログラムに心ざわめかせたものだった。
「バリバリのプログラム」とは、溝口、小津、黒沢などの名作群だけでなく、例えば、「日活アクションの世界」と銘打つ系統的なオールナイトプログラムや、鈴木清順、岡本喜八など当時再評価が盛んだったプログラムピクチャーの番組のことです。

ちなみに当時の封切り作品というと、おじさんが高2の時が、「ダーテイハリー」「時計じかけのオレンジ」「フレンチコネクション」。
映画にはまる導入としてこれ以上なしの作品群でした。

また、大学に入る前後、邦画に関心が行く生意気な時期には、「仁義なき戦いシリーズ」、「赤い鳥逃げた?」「赤ちょうちん」などの藤田敏八もの、寅さんの全盛期とこれまたグッドタイミングでした。

この間の映画事情の変遷

「キネマ旬報」に刺激された田舎の映画少年だったおじさんも今や初老。

この40年の間に、映画界はアジア映画ブームがあり、CGが起こり、デジタルが一般化した。
一方で、旧作の保存や発掘、系統的な上映と研究なども盛んになってきた。

おじさんが若い時、名画座での上映では、フィルムの雨降りや、画面欠落は当たり前だったが、昨今の名画座では多少の雑音、欠損はあるものの、ぼろぼろのフィルムの上映はまずはない。

映画の旧作については、不特定多数相手の商品という位置づけから、特定の趣味者に対する骨とう品的な位置づけに変わっているような気がする。
例えば、古いフィルムで最大限の利益を得る、商売一辺倒の考えから、採算が合う範囲でニュープリントを起こす、文化財提供的な考えへ、映画館のみならず配給会社も変化しているのではないか。

旧作の上映プログラムについても、溝口、小津、黒沢といった国際的にも評価が定まった古典作品をメインとしたものから、より深く、趣味的に、かつピンポイントに対象を広げている。
例えば、最近再評価の高い監督では、古い順に清水宏、中川信夫、石井輝男、鈴木英夫などがおり、特集上映などが組まれているほか、ちょっと前までは映画ファンに忌避されがちだったエログロ路線の新東宝という今はなくなった制作会社の作品などもちょっとしたブームになっている。

こういった点では、映画にまつわる環境が、映画先進国である欧米のいい部分に似てきたようであり、おじさんはうれしい。

「映画論叢」という雑誌

すでに発刊50号になろうとする「映画論叢」。
第一号からが調布図書館にそろっているので出向いた際にはめくっている。
この点ではさすが映画の町調布の図書館である。

ついつい熟読してしまい、1時間で一号分読めるかどうか。発刊の趣旨によると、映画産業の「よいしょ」からの脱却を宣言している。
その志やよし。

記事の分野は、映画の歴史の保存や関係者の証言、忘れられた関係者の記録、フィルムや機材に関する提言など、幅は広い。

これまでの主な連載は、「新東宝大蔵時代研究」として、小森白監督、俳優星輝美などへのインタビュー。
「東宝プログラムピクチャーの世界」と銘打って、若林映子、久保昭などへのインタビュー。
監督インタビューシリーズとして、井田操、井上和男、鈴木英夫、斎藤正夫、小谷承靖など。
俳優三上信一郎の「チンピラ役者の万華鏡」。
戦前の映画会社の記録「まぼろしの極東キネマ」「大都映画研究」など。
「こんな役者がいた」シリーズ。
俳優へのインタビューとして、原知佐子、左幸子、緑魔子、高宮敬三、小泉博など。

こうして書いていても頭が痛くなるくらいだが、共通しているのは、映画を巡るすべての事象の記録を志向していること、特に商業ベースのジャーナリズムが扱ってこなかった人材、分野への言及、記録への志向である。

ページをめくるっていると、顔は知ってるが名前の知らなかった俳優の出演作や、マイナーのまま消えていった映画監督のプログラムピクチャーへの興味がわいてきて時間が経つのを忘れる。
すでに単行本を出している三上信一郎の洒脱な文体と露悪趣味にニンマリするとともに、宮口精二が個人で発行していたという「俳優館」という冊子の存在に感じ入る。

そしてこの雑誌の極め付きは、細部へのこだわりにある。
すなわち、フィルムとデジタルの話、スクリーンの上映サイズの話、にこだわりにこだわる。
これまで戦争映画に登場してきた戦闘機の実機に関するコラムもある。

無関心な人にはどうでもいい話だが、映画にとって、フィルム、機材、上映サイズの話はきちんと記録しておかなければならない。
これからデジタル移管でどさくさが起こりかねない。

映画本を論ずるコラムもあり、今を時めく意識高い系映画ファンの教祖・蓮見重彦なんかは、信者ともどもケチョンケチョンの扱いなのも痛快だ。
痛快だが、今の映画状況、蓮見の評価で人がどっと集まるのも事実である。

映画ファンに限らず、消費者は、大衆は、情報を待っており、情報に従って行動する。
この先、「映画論叢」が「再発見」した監督や俳優が、おじさんのような旧作映画ファンの流行となるかもしれない。

「映画論叢」。
マニアの世界でありがちな、「自分だけは見ている」という「知ったかぶり」を根拠としたマウントの取り合いにはならぬよう。
今後も楽しみにしています。

 

「夜の人々」とアメリカ映画史の断片

あけましておめでとうございます。
定年おじさんは冬の間の東京暮らしです。
ブログ更新の頻度が減って申し訳ありません。
さて、年末年始に映画を観に行きました。

渋谷シネマヴェーラの「蓮見重彦セレクション・ハリウッド映画史講座特集」へ

よくゆく名画座のシネマヴェーラで、上記の特集上映をやっていました。
蓮見重彦という人は東大総長も務めた仏文学者。
映画評論家としても有名です。

今回の特集はご本人の著作の「ハリウッド映画史講座」で取り上げた作品の中からセレクトしたものとのこと。主に1940年代のアメリカ映画から、左翼系の映画監督、脚本家によるもの、欧州を逃れて渡米した映画監督による作品が中心。
のちのリメーク作品のオリジナル作品である「キャットピープル」(42年)や「犯罪王ディリンジャー」(45年)などを含む27作品です。
全作品がデジタルで上映されました。

蓮見重彦のネームバリューからか、休日の初回など、開場前に20~30人が並ぶなどの人気でした。
なお、蓮見重彦に関しては、多数の信者的映画ファンのほかに、強烈なアンチがいることを付記しておきます。

「夜の人々」(48年)を観る

おじさんは今回の特集上映で、上記の作品を観に行きました。
戦後間もない1948年の制作で監督はニコラス・レイという人。
レイ監督はのちに、主題歌ジャニー・ギターがヒットする西部劇「大砂塵」(54年)や、ジェームス・ディーン初主演作「理由なき反抗」(55年)でヒットを飛ばすが、もともとは左派思想の持主のよう。
今回上映のレイ監督の処女作「夜の人々」は、監督の左派的資質が反映された作風となっています。

おじさんの独断ですが、映画における左派的資質とは、社会現実を反映し、弱者の味方であり、知性的というのがそのイメージであす。
「夜の人々」は1940年代のアメリカの田舎を舞台に、脱獄した若者と少女が自滅してゆくというストーリー。
映画のテーマは、社会の底辺に暮らす無学な若者が、社会には救われないという現実を描くことです。
アメリカ映画らしい、ハピーエンドも、派手なアクションも、虚構の繁栄も、この作品にいはありません。
ただ、無学な若者たちを見つめる目と、背景の現実社会の俗悪さを描く視点があります。

同様なストーリーの映画に後の「俺たちに明日はない」(67年)がありますが、同作の主演二人(ウォーレン・ビーティ、フェイ・ダナウェイ)に象徴されるあざとさが「夜の人々」にはありません。
主演のファーリー・グレンジャーとキャシー・オドンネルの素人臭さには好感しか感じません。

この作品は、B級ギャング映画仕立てということもあろうが、当時は日本に輸入されておらず、映画のデジタル化が進んだ最近になって日本でも見られるようになったとのことです。

アメリカ映画史の断片としての「夜の人々」

「夜の人々」のような、現実を弱者の立場から描くアメリカ映画といえば、おじさんは次のような作品を思い出します。
「怒りの葡萄」(40年)、「アスファルトジャングル」(50年)「ハスラー」(61年)。
いずれもアメリカ国内の恐慌時代や裏社会など厳しい現実を舞台にした弱者の物語であり、現実がそうであるようにハピーエンドとはなりません。

なぜそういった作品が生まれたかというと、ハリウッドには1930年代から、左派思想を持った有能な監督や、脚本家がいたからといいます。

彼らは当然、資本側である製作者と対立し、ブラックリストに載せられパージされていきました。

象徴的な出来事が1950年前後の東西冷戦時代に起こったいわゆる「ハリウッドの赤狩」りです。
「ハリウッドの赤狩り」は、議会での証言(自分がアメリカ共産党のメンバーだったか否か)を拒否した監督、脚本家ら10人が議会侮辱罪で投獄されたことでピークを迎えます。
その後、10人は偽名で仕事をしなくてはなりませんでした。
名誉回復は1970年代のなってからのことです。

「怒りの葡萄」(40年)、「アスファルトジャングル」(50年)「ハスラー」(61年)。

「怒りの葡萄」の監督ジョン・フォードを除き、「アスファルトジャングル」のジョン・ヒューストンや「ハスラー」のロバート・ロッセンは左翼かそのシンパです。「夜の人々」もそういった文脈の中でとらえるべき作品なのでしょう。

長野相生座で小津4K「晩春」を観る

今年も残り少ない山小屋暮らし。
この季節は畑も薪割もほぼ終わり、1年で一番自由な時間に恵まれます。

山小屋から2時間かけて長野相生座へ

映画が好きなおじさんは、県内の上映状況も常にチェック。
今回は、長野相生座の「小津4K」という特集上映に行きました。
小津安二郎の代表作品をデジタル4K素材で上映するものです。

当時の作品は35ミリフィルムで撮影され、ネガで編集され、プリントされたフィルムで上映されました。
セリフ、音楽はフィルムに光学変換で焼きつけられました。
その素材をデジタル化しての上映会です。小津作品に限らず、黒沢作品など、内外の名作はすでにかなりデジタル化されています。

フィルムであれば、1作品で7,8巻、何十キロもの重さになり、上映の際には専用の映写機に掛けなければなりません。
しかも、上映回数が増えたり、年月が経過すると、フィルムが傷ついたり切れたり、カラーが色褪せたりして劣化します。
更に映画フィルムを保管したり、映画館に配給する際の費用がかさみます。
デジタル化するとそれらの欠点が解消されます。
何より映像の経年劣化が防げるというのが最大のメリットでしょう。
なにせ、太平洋戦争時に万が一の戦火を懸念して、「風と共に去りぬ」のネガフィルムが太平洋岸のハリウッドから米国東部に避難したというくらい、映画作品は財産であり、文化なのです。

というわけで小津4K。おじさんが駆け付けた日は「晩春」の上映。1949年松竹作品。
小津監督と主演の原節子の最初の出会い。
この後、「麦秋」(51年)「東京物語」(53年)と二人のコンビが続き、原節子の役名がいずれも紀子ということから紀子三部作と呼ばれています。

朝10:50からの上映。
日曜日ということもあり、集客は15人ほど。
思ったより良い集客。
年配の夫婦も来ていた。

映画ファンは往々にして自分の世界に閉じこもりがちで、例えば話しかけずらい印象がある。
そんなところに、小津の上映会に駆け付ける年配夫婦。ごく普通の夫婦の感じ。
ほっとするような風景だった。

さて、「晩春」。
おじさんは確か3度目。
最初に見たのは学生時代の16ミリ上映会。
原節子の花嫁姿が印象に残った。
独特の緊張感がある画面も。

10年以上ぶりに再見すると予想以上に特異な作品だった。
父親と暮らす婚期を逃しかけた娘が嫁に行くまでの話。予定調和的に言えば、父を思う娘の心情の健気さがテーマ?
ところがこの作品は一筋縄では行かなかった。

小津はいわばホームドラマばかりをつくったが、「麦秋」の主題は家族の崩壊、老人の死の予感だった。
「東京物語」はそもそも家族というものに対する幻想がテーマだった。

予定調和の世界を逸脱はしないながらも、暗く、深刻な実相をうかがわせるのが、小津作品の「特異さ」。
その緊張感が常に画面にある。

「晩春」では、主人公の原節子が、縁談を断ったり受け入れたり揺れ動く。
彼女は、都度都度はっきりとした理由は言わない。
がセリフ以外の表情やしぐさに心情が現れ、観客はハラハラしながら見守る。
果たして彼女が劇中で本心をぶちまけたとして、これ以上の緊張感を感じるだろうか?

さて原節子演ずる紀子は、三部作最終作の「東京物語」で戦争未亡人を演じた。
そのラスト近く、亡き夫の尾道の実家で笠智衆演ずる義父に対し「私ずるいんです。ずるい女なんです」と、女としての本音に近いセリフを吐く。

それに相応するセリフとしては、「晩春」の場合、笠智衆演ずる実父への「私このままがいいの。お父さんと一緒がいいの」であろうか。

「麦秋」では、杉村春子演ずる隣のおばさんへ「おばさん私みたいな行きおくれでもいい?」と言っていた。
駅でよく一緒になる近所の独身男が秋田に転勤することになり、男の母親である杉村が思わず、「紀ちゃんのような人がお嫁に来てくれたらねえ」とつぶやいたあとのセリフだった。

いずれも生身の女の生々しさだけでなく、人生への諦観というか大きな流れに逆らわない人間のすがすがしさが、相反するようだが、ある。
大きくは人間への肯定的な視線の中、意地悪で茶目っ気でかつ醒めた小津の視線がそこにある。

デジタル上映は、音も聞きやすく、画面の劣化からは解放されている。
ただ、昔の写真を復元したような、照りが気になった。昔の映画はハードそのものも古いまま見るのがいいのかもしれない。
デジタルで撮影された作品が、デジタル上映を予定されて作られているように。

権堂商店街にびっくり!

長野市内に権堂通りという商店街がある。
善光寺参りの後の精進落としの場所として栄え、花街があった場所という。
アーケード街が形成されているが、現在の長野市の中心部は駅前に移っており、アーケード街の人通りは少ない。

アーケードを抜けて長野電鉄の権堂駅を過ぎて進むと、一転、飲み屋街となる。
焼き鳥屋に交じって韓国居酒屋、エスニック料理屋と一気に場末感が増す。
BS放送のTBSで人気の「居酒屋放浪記」ロケ場所との店がある。
このご時世、飲み放題メニューのサービスぶりが激しい。
アーケード街にも奥に引っ込んだ気になる店もある。

長野の中心街は駅前

今の中心部はJR長野駅前。
東急デパートがあって、デパ地下は人でにぎわう。

長野は馬肉の本場。飲食店は馬の一頭買いをアピールしているのもうれしい。

今度は長野で飲んでみたい。

今日の昼食はいつものいむらや。
定番の焼きそばではなく、あんかけ中華を食べました。うまかったです。

 

長野市でルイス・ブニュエル特集を観る

ルイス・ブニュエルというスペインの映画監督がいた。もう死んだ。

サルバトール・ダリなどと「アンダルシアの犬」という短編映画をフランコ政権下で撮り、当時の右翼にスクリーンにペンキを投げられる。
その後の「黄金時代」ではカトリックをコケにし、スペインにいられなくなる。
1950年代をメキシコで映画を撮って過ごす。

祖国スペインで再び映画を撮るのは1961年になってから。
その作品「ビリディアナ」はカンヌでパルムドールを受賞するも、スペイン、イタリアでは上映禁止とされる。晩年は「昼顔」「哀しみのトリスターナ」などを発表し、ヨーロッパの女優たちはこぞってブニュエルの作品に出演したがった。

今回、そのブニュエル作品から5作品を特集上映したのが、長野市の長野相生座・ロキシー。
長野市の権堂商店街に位置する老舗の映画館だ。

おじさんははるばる2時間かけて長野市へ。
相生座は3スクリーンを擁する今時のシネコン風だが、外観といい、上映作品といい、生き残っている名画座そのものだ。

感じのいい女性二人が迎えてくれる。暖かいほうじ茶を出してくれるのに驚く。
聞くと、デジタル中心の上映だが、映写機もあるとのこと。また、今時のフィルム上映は映写技師不要で、オートマチックにできるとのこと。
今回のブニュエル特集は、配給会社が新たに買い付けたもので、デジタル上映とのこと。集客はよいとのこと。

ロビーには、上映作品の手作りPOPなどが飾られており、女性の運営らしく賑やか。
映画青年チックなこだわりというより、今の映画の流れに前向きに乗っている感じがする。
話している間にも、高齢者のカップルなどが、別のスクリーンの上映作品に入場してゆく。

さて、今日のブニュエル特集は「ビリディアナ」。
聖女のような尼僧が、おじさんの別荘に投宿してから巻き込まれる不条理に近い世界の物語。
ブニュエル永遠の個人的こだわりである、女性の足、靴などへのフェティシズムを惜しげもなく再現。
リンゴの剥いた皮、乞食、不具者(今回は女性の小人)、そして聖女の如きヒロインは、ブニュエル世界でよく見る景色。
それらを惜しみなく再陳列し、後半でしつこいくらいに権威を愚弄しまくった作品。
愚弄された権威は、キリスト教。
ラスト、髪を下ろして、新しい男主人の部屋を訪ねたビリディアナの姿は、聖女から女に堕ちた、というかブニュエル的には昇華した姿なのか。

メキシコ時代に営々と築いてきた、ブニュエル独特な人間味のある描写の集大成でもあり、後年の破綻的な反権威描写の気配も感じさせる作品。

ブニュエルはこののち「昼顔」「哀しみのトリスターナ」で、堕ちた(昇華した)聖女の姿を描き、最後のまとまった作品とし、そのあとは「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」「自由の幻想」とひたすら不条理で反権威のエピソードを並べた破綻を超えた境地へと到達したのだった。

台風一過 上田映劇へ行ってきた

台風24号が通過していった。
昨夜から一晩中、雨と風が山小屋を襲っていた。
一応、雨戸を閉めて寝た。
今朝、家の周りはほとんど被害がなかった。
台風一過の晴天。気温も高く、夏を思い出す陽気となった。

蓼科高原映画祭を見てから、映画好きの血が騒いでいる。
茅野に新星劇場という古くからの映画館があるが、上田にも上田映劇という、古さなら負けない映画館がある。

なんと戦前からの演劇小屋が始まりで、その後映画専門官になったものの、一時閉館になり、最近復活したというもの。
正面の風景に見る、浅草雷門というレイアウトが強烈。

思い立って訪れた。
初めての入場。シルバー料金1100円。
もぎりには支配人なのか、青年が一人。
ロビーの写真撮影の許可を得て、ロビーを一巡り。

「けんかえれじい」という昔の名作のコピーが壁に貼られている。
由来を尋ねると、上田ロケ作品とのこと。
そういえば現在まで、上田をロケ地とする映画は多いようだ。「犬神家の一族」もそうだった。
町全体を覆う、ノスタルジックな雰囲気がロケを呼ぶのだろうか。

さて、上田映劇。1日4作品程度を入れ替えで上映しているようで、洋画のアートシアター系新作が多い印象。
本日は、13:35分からの回の「若い女」という作品を見る。
2017年のフランス映画で、カンヌ映画祭でカメラドール賞受賞作。新人監督賞の意味らしい。
内容は気軽な感じで、今時の若い(31歳とい設定だから若くもないか)フランス女性の現実を描いている。
身もふたもないエピソードが続くが、どこかユーモラスな感じは、現代の日本の若者の現実にも通じて親近感を覚えた。
観客は全部で4人ほど。

支配人の話によると、映画館の設備的には、デジタル素材のほか、35ミリフィルムの上映も可能とのこと。
昔ながらの天井の高い造り、大きなスクリーンの映画館だった。
ロビーは、旧作ポスターの展示や、映画関係本、リクエスト用紙などが置かれていた。
望みうるならば、もう少しマニアックなポスターの展示や、地元ロケ風景の写真展示など、とことん個人趣味に走ってほしかった。
映画ファンにとって、映画館のロビーで待つ時間ほどわくわくするものはないからだ。

蓼科高原映画祭に行きました

毎年9月に茅野で開催される、蓼科高原映画祭。
小津安二郎記念と銘打ち、今年で21回目。立派に続いている。

なぜ、小津安二郎記念の映画祭が茅野で開かれるか。
蓼科の別荘で、かの巨匠が毎年のように脚本を練ったという経緯があるから。
別荘は共同脚本家の野田高梧の持ち物だった。
小津は別荘の縁側に、お気に入りの茅野の地酒・ダイヤ菊の空瓶をずらりと並べるほど時間をかけて構想を練ったという。

巨匠と呼ばれ、東宝という別会社の看板女優である原節子と初めて組んだ、昭和24年の「晩春」以降の作品が、野田との共同脚本となる。
それら、小津後期の代表作群は、発表当時、松竹ヌーベルバーグと呼ばれた社内の若手監督(吉田喜重ら)に旧態依然と批判された。
現在では、海外の映画雑誌が歴代の映画ベストテンを選出する際に、小津の代表作「東京物語」が上位で選出されるほどに評価が定まっている。

さて、今年の蓼科映画祭。上映される小津作品は、無声映画の「学生ロマンス若き日」と「東京物語」の2本。ゲストに香川京子が招かれている。
去年は、「小早川家の秋」の上映後に司葉子がゲストトークし、プライベートで仲の良かった原節子の思い出話を披露していた。
毎年、綺羅星のごとき往年のスターがゲストで参加するのも、小津安二郎の名声に負うところが大であろう。

映画祭の会場となるのは、駅前の茅野市民館と、市内唯一の映画館である新星劇場の2か所。
この新星劇場、現在では常打ち館ではないのだが、35ミリ映写機とデジタル映写機を併せ持ち、天井が高く、スクリーンが大きい、昔ながらの映画館なのである。
座席に座ると、東銀座にあった、銀座シネパトスという映画館を思い出す。隣を走る中央本線の列車の音がかすかに聞こえるのも、昔の映画館ぽくて良い。

映画祭の運営は、そろいのTシャツを着たボランテイアスタッフによって行われる。
会場前には無料のコーヒーとポップコーン、そしてダイヤ菊の樽酒が置かれ、スタッフによってふるまわれる。来年も映画祭に行くのが楽しみだ。

茅野駅前の商業ビルの2階には、常設の小津を紹介するコーナーがある。