冬の山陰・北陸夜行列車の旅⑤ 山陰線ハイライトと天橋立

鳥取の朝は早かった。
この日の行程は、山陰線で兵庫に入り、天橋立を見て、舞鶴に寄ってから敦賀まで行って宿泊と予定を立てた。
乗り継ぎが多い行程のため、出発は早いに越したことはなかった。

朝6時、まだ暗いホテルを出発した。
駅までのアーケード街、雪が積もった舗道をジョギングするカップルが「おはようございます」と追い抜いてゆく!
大雪注意報の朝、駅の案内板は浜坂行普通列車の折り返し到着が遅れ、鳥取発が30分遅れるというものだった。

早朝、雪降りしきる鳥取駅

少しでも早くゆく方法はないかと、雪をかき分け駅前のバスターミナルに行ってみる。
高速都市間バスも発着するターミナルでの案内は、県の東方面行きのバスが7時くらいにあり、山陰線の駅で連絡するという情報。
これに乗って出発し、山陰線の駅で、今浜行きの列車を待つこともふと頭をかすめたものの、この雪の道路状況ではバスがいつ目的地に着くかもわからない、と考え直し、おとなしく列車を待つことにする。

駅前のバスターミナル
鳥取駅構内は県を挙げて参加する大阪万博で盛り上がっている

駅に戻り、「砂丘そば」を出す立食い蕎麦で朝食。
まずは温かい蕎麦で腹ごしらえ。
30分遅れの普通列車に乗り込む。

砂丘そばの看板に引き押せられて・・・
砂丘そばで暖まる

2両編成だがほかの乗客を確認できない今坂行普通列車。
見事な雪景色の鳥取県最東部を山間部に分け入ってゆく。
途中駅で高校生らが10人ほどいたので乗り込むか?と思っていたら彼らは行き違いの鳥取行きを待っていたのだった。
相変わらず乗り降りはなし。

折り返し、浜坂行きの列車が30分遅れで到着
車内に人はおらず
この日の県東部の車窓

気が付かないうちに兵庫県に入り、兵庫県内の高校に通学する生徒などが乗り込んだ列車は、やがて終着の浜坂駅に到着。
駅前に食堂らしき看板のある町です。
ここまで切符で乗車していた山小舎おじさん、豊岡までの切符を買いに無人の今浜駅改札を抜けて販売機で購入。
慌てて地下通路をくぐり豊岡行きのホームに出ると、あろうことか列車がしずしずと動き出しているではありませんか。
「おーい」と声さえ出ませんでしたが、ここで2時間は待ちたくない!と思いながら走っていると、なんと列車がストップし、ドア開閉のランプがともりました。
運転手が追いかけて走る我を見て列車を止めてくれたのでした!
列車はもちろん、最近ではバスでさえこんなことはありません。
「これが山陰線なんだ!」と、地域性を痛感するとともに、感謝至極の一幕でした。

乗客を3組ほど乗せた豊岡行き(だったか福知山行きだったか)列車は、左手に荒々しい冬の日本海を垣間見せながら、入り組んだ海岸線を走ってゆく。

やがて強風で列車が、脱線し落下し、車掌と水産工場の工員数名が死亡した1986年の「余部鉄橋事故」で有名な余部鉄橋を通過した。
回送中の軽い車両だったとはいえ、風速三十数メートルの突風が、機関車以外の車両数両を鉄橋上から吹き飛ばしたのだという。
この日はそれほどの風速はなかったが、余部の駅を通過すると列車は鉄橋上と思しき高さの場所を通過した。
眼下に余部の集落が見えた。

ほとんど客の乗り降りがない列車と日本海沿岸の寂れていてもどこか海の息遣いに溢れた景色。
ここら辺が山陰線沿線の一つのハイライトでありましょう。

この日移動したあたりの地図
兵庫県に入った山陰線。日本海の荒波
餘部駅
余部鉄橋上とおぼしき地点からの車窓

城崎温泉を通り兵庫県内を走った列車は豊岡に到着。
私鉄・丹後鉄道に乗り換えるために下車します。

丹後鉄道豊岡駅

豊岡は兵庫県の山間部に位置する町。
この日の積雪は兵庫とは思えないほど。
丹後鉄道の発車時間まで少々あったので、駅前の観光案内所をのぞいてみました。

午前中のリラックスタイムに今まさに缶コーヒーの蓋を開けようとしていたシルバーっぽい年配者と、30代くらいの女性がいました。
どういった経緯でここにいるのか、わが方の素性を計りかねるように近づてくる年配者に「天橋立のマップありますか」と問いかけました。
「天橋立は京都ですさかいに」と言いながらマップを出してくれます。
シルバーさんのナチュラルな関西弁に、とうとう関西に入ったか、と感慨も新たです。
御仁は「鳥取から東の山陰線は乗降客が少なく、廃線の話も出ている」「豊岡からは鳥取まで買い物に出る。車で2時間くらい」「今日くらいの積雪は普通」などとのご当地情報も聞かせてくれました。

雪のホームで停車している丹後鉄道は1両編成。
出発までに、トランクを引きずった中国人観光客らでほぼ満席となりました。

西舞鶴行きの丹後鉄道に乗車
車内風景。外は真っ白

約1時間、雪景色の中を走る丹後鉄道。
やがて日本海側に出て丹後半島の付け根を横断し、宮津湾に面した天橋立駅に到着しました。

天橋立駅から橋立を見る、天橋立ビューランドまで歩いて数分程。
駅構内の観光案内所の女性はテキパキと応対してくれます。
駅からビューランドのリフト乗り場のあたりは中国人観光客で引きも切りません。
列車より貸切バスでやって来る中国人の方が多いようです。

天橋立駅
天橋立の町にて雪かきの真似をする中国人

モノレールが点検中とのことでリフトでビューランドに登ります。
徒歩で上がるルートはないとのこと。
上がるとそこはテレビなどでよく見る天橋立の展望場所でした。
展望場所の背後には遊園地まであります、これは知りませんでした。

天橋立は宮津湾と阿蘇海をへ出てる砂州ですが、その絶妙な立地と見事な砂州地形はさすがに日本三景に謳われているだけあります。
砂州上に生えている松も天然林とのことです。

展望台まではリフトで上がる
日本三景天橋立
瓦投げをする人
展望台には遊園地まである!

1時間ほどで橋立見物を終え、駅に戻って西舞鶴行きの丹後鉄道に乗ります。
舞鶴の中心部は、JR東舞鶴駅にあり、そこまでJR舞鶴線に乗り継ぎます。
東舞鶴駅に着きました。

舞鶴で引揚記念館を訪問し、敦賀に移動して雪の中、名物居酒屋を訪ねた顛末は次回!

シルバー人材センターのポステイングバイト

しばらく音沙汰がなかった、調布市シルバー人材センターから連絡がありました。
地域活動情報誌・じょいなすという、見開きA3サイズの者のポステイングです。

じょいなす令和7年春号

シルバーでのポステイングバイトは数年前に、社会福祉協議会の月報「福祉の窓」3000部の配布を、つつじが丘地区で行ったことがありました。
今回はじょいなすの深大寺元町地区での配布です。

センターで住宅地図を渡される

じょいなすの発行元は調布市役所生活文化スポーツ部協働推進課というところです。
令和7年春号のテーマは「自治会」。
各地の自治会の活動報告や代表者の感想などを通して、住民の自治会への参加を呼び掛けています。
地方自治法により、住民は自治会を組織することができるのですが、未参加の住民や、自治会が未組織の地域が増えているのでしょう。

2060部を預かってくる

ペラペラのビラの2000部ですので軽く引き受けました。
「社会」から声がかかり、必要とされたことがうれしくて、久々に充実感を感じました。
年齢に関係なく、他人から必要とされることは大切なんだと改めて思いました。

愛車ママチャリ号で出発

一日目、配ってみてびっくり。
坂が多く、土地も混み入った場所が多く、また大規模なマンションが少ないので、配る作業の効率が悪いのです。3000部配るつつじが丘地区よりもっと大変な印象です。

自分自身の体の衰えも痛感します。
小回りや足の上がり方、そして体力そのものが低下しています。
相当自覚しながら作業しないと、ケガにつながりかねません。
運動にはなりますが。

深大寺周辺は梅が満開

また、深大寺元町あたりは、土地勘があるようでない所。
植物公園と深大寺周辺、野川沿いくらいしか普段はいかない地域なのです。
実際に歩いてみると、国分寺崖線にかかる坂の多さはわかってましたが、その上に区画も狭く、変形して混み入った土地と住居が多いことがわかりました。
表通りからは見えない場所に住居があるようなこともあり、配り漏れも出てきそうです。
活動量のわりに、配る部数がはけない印象です。

深大寺の参道には訪れる客の姿が

二日かけて配ったのは500部程度。
まだまだ先はあります。

冬の山陰・北陸夜行列車の旅④ 境港とブリと鬼太郎

松江での山陰第一泊目が明けた日、市内を見物した後、米子に向かいました。
着いた米子駅は松江以上の雪景色でした。

この日の米子駅

米子からは境港まで往復して、魚を買い、今日中に鳥取まで行く予定です。
松江の駅でお土産を物色したので、当初のざっくりしたスケジュールは崩れています。
とりあえず列車で米子までは来ましたが、次の境線、境港行きまでは1時間半ほどもあります。

米子駅前のバス停で、境港行きのバスがないか調べてみました。
なんと15分後くらいに、終着境港駅行きの日の丸バスがありました!
思ってもみなかった展開。
この綱渡り感は、テレビ番組の「ローカル路線バスの旅」のようです。

米子駅前のバスターミナル

15分の時間を雪のバス停で待っているわけにもいかず、境港の街のマップをもらいに駅の観光案内所に入りました。
中年の女性たちに交じって30代くらいの男性がいて対応してくれました。
話していると彼が学生時代に京王線の聖蹟桜ヶ丘に下宿していたことがわかり、水木しげるつながりで、境港と調布の話で盛り上がりました。
この彼は地元に戻って働いているとのことで、久しぶりの東京の話題に話が止まりませんでした。
NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」放送のころは、境港に観光客が押しよせたとのことでした。

日の丸バス境港行きの乗客はほかに観光の夫婦が一組のみ。
まっすぐな道を直走り、JR境港駅に着きました。
駅は隠岐の島へのフェリー乗り場ともつながっており、この日のフェリーの便は満員のようでした。

日の丸交通バス境港駅行きの車内
境港駅ビルの外観
隠岐の島行きフェリー窓口

有名な水木しげるロードは、駅から堺水道と並行して東に進んでいます。
かつては港で栄えた商店街だってのでしょう。
この日はまるで人の姿はありませんでしたが、鬼太郎一色に統一・再開発された商店街が続いていました。

水木しげるロードにて
こういった店が多い

実は境港で目指した先は、水産物直売センターという魚の直売所です。
「境港に行って寒ブリを送ってほしい」と家族のリクエストがあったためです。

水木しげるロードを抜け、さらに30分ほど歩いた漁港のロードサイドに目指すセンターはありました。
買い物客や食事に寄った地元の人らが集まっていますが、ほぼ全員が車でやってきています。

歩いて水産物直売センターへ
センター内部には小売店が並ぶ

センター内には10軒ほどの鮮魚小売り店が軒を連ねており、そのうち半分ほどがズワイガニの専門店、鮮魚専門は2,3軒です。
センター内を一周してから目を付けた鮮魚店に戻り、ブリの子供の天然ヒラマサと天然ヒラメをチョイス。
ほかの店で買った干しサバも合わせて送ってもらいました。
ヒラメを3枚におろしてもらおうとオーダーしようとすると「おろさない方がいいよ。着くのが遅れるかもしれないし」と言われ、丸のままで送ってもらいました。
なかなか生きのよさそうなヒラマサとヒラメでした。

自宅では無事、刺身におろして食べたとのこと。
「とにかく新鮮だった」そうです。

センターの鮮魚店にてヒラマサ
天然ヒラメも

買い物が終わって鮮魚店の女性に聞くと「センター内にすし屋はなく、食堂が2軒あるだけ。」とのことで、安めの食堂で昼食。
観光客や地元の勤め人でほぼ満席の食堂で海鮮丼をいただきました。
値段もお手頃でマアマアの味でした。

センター内の食堂にて昼食
海鮮丼をいただく

センターから駅へ戻るコミュニテイバスなどの便もみつからず、水道沿いを歩いて駅まで戻りました。
途中、造酒屋の建物をリユースした「海と暮らしの資料館」などにも寄りました。

来た道と違い、海沿いの道は漁船が並び、岸側には古い建物や飲食店などもあって賑やかでした。
隠岐の島からのフェリーが港に入ってきていました。

堺水道に沿った道で造り酒屋だった建物(現「海と暮らしの資料館」)を発見
堺水道で釣りをする人
隠岐の島からフェリーが帰ってきた

境港から米子までは、JR境線で戻りました。
中国人観光客などで満員でした。
鬼太郎ラッピングの車両、アナウンスは鬼太郎と目玉おやじの声優によるもの、沿線の各駅には、たとえば「こなきじじい駅」などの愛称がつけられている、という完全に鬼太郎人気に乗っかった路線です。

JR境線を走る鬼太郎列車

米子から山陰線に乗り鳥取まで行きました。
途中、大山口という駅から雪を頂く大山の姿が遠望されました。
国定公園に指定され、かつては冬季国体も開かれた山陰のウインタースポーツのメッカです。

車窓には夕暮れ迫るうつうつとした曇り空の下、山陰の黒々とした家々の瓦屋根が続きます。

到着した鳥取駅では有人改札が行われていました。
米子からSUICAで乗った山小舎おじさんは、窓口でデータを消してもらい、改めて米子からの運賃を支払い改札を出ることができました。

山陰線の車窓から見る鳥取の秀峰大山の姿
山陰線沿線の家々
鳥取駅は有人改札だった

終業間際のデパートで割引の寿司と弁当を購入しました。
今夜の夜食と明日の朝食です。

ホテルまではしんしと雪の降る夜のアーケード街を歩きます。
アーケードのついた商店街は何本もあり、またどこまでも続いており、在りし日の鳥取の繁栄を物語っているようでした。
雪のこともあり、夕方以降は誰も歩いていませんでした。

鳥取駅ビルの売店にて、鳥取砂丘をフィーチャーしたTシャツが迎える
特産品二十世紀梨を使ったチューハイもあった

改めて雪の街へ夕食に出ましたが、心当たりの店は予約制で入れず、駅前の海鮮居酒屋へ行きました。
隣は中国人ファミリーで、地元の若いグループが三々五々入店してくるような店です。
サービス自体はまあまあでした。

鳥取の繁華街は雪だった

次回、鳥取から今浜までの山陰線車窓のハイライトから、丹後鉄道で日本三景・天橋立へ、そして舞鶴で引揚記念館訪問の顛末もご期待ください。

冬の山陰・北陸夜行列車の旅③ 古都・松江

旅の初日、出雲大社参りを済ませて一畑電車で松江に入りました。
雪でした。
舗道の凍結に滑りながら、吹雪の中を松江城に向かいました。
そのとたん携帯のバッテリーが切れました。
また、折から強風のため松江城構内は立ち入り禁止となっていました。

松江に向かう一畑電車から見た宍道湖

予約していた市内のホテルに荷を解き、夕食に向かいました。
目指すのは、居酒屋評論家として吉田類と人気を二分する太田和彦がその番組で訪れたことのある居酒屋です。

ホテルから駅の反対側に出て、川を渡ったところにその店はありました。
吹雪のためか、カウンターに数人の客がいるだけで予約なしで入店できました。

大将と接客の女性が2人。
女性はかなり高齢で、一人は大将のお母さんと思しき方。
二人とも愛想はよく、てきぱき動くのですが、かなり耳が遠くなっていました。

お通しに地元で赤貝と呼ばれる貝の煮つけがでました。
ビールとお刺身盛り合わせを注文。
その後、イカの刺身、白魚の天ぷら、メバルの煮つけなどを頼みました。
魚の鮮度は文句なし、久しぶりにおいしい刺身を食べた気分です。
カウンターの隣の客が時々サポートするように口をはさんで、地元産の魚を解説してくれました。
日本酒は地元松江の豊の秋。

「赤貝」の煮つけ
刺身盛り合わせ。寒ぶり、鯛、アジなど
白魚の天ぷら
イカの刺身
メバルの煮つけ

こうして雪が深々降る松江の夜は更けました。

翌朝、少々早く行動を開始し、7時過ぎのバスで松江城に向かいました。
改めてのお城見学です。

お堀端を過ぎ、石段を上ってゆくと遥か上段の方に天守閣が見え隠れします。
お城の構内を歩いているのは地元の通勤の人なのでしょうか。
石垣は高く深く、まるで映画のセットのよう。
いや、迷宮にタイムスリップしてゆくようです。
深い荘厳な世界が待っています。

神事湖の水を引いているという松江城のお濠
松江城建築の堀尾吉清像

これが現存天守というものか。
見慣れている松本城とは異なる迫力、神秘性に満ちています。
この時点で松江の歴史と重みに早くもKOされました。

雪の松江城に登ってゆく
天守閣が見えてきた
天守閣としゃちほこ

天守を過ぎ、再びお濠を渡って、武家屋敷、小泉八雲の旧宅の方へ向かいます。
歴史を旅ゆくノスタルジックな旅人になったような気分です。

幅広く、立派なお濠は遊覧船のルートにもなっています。
これほどのお濠がおそらく現状のまま残っているのも貴重なことです。

遊覧船も航行するお濠

通学の中学生らに交じって、小泉八雲亭から武家屋敷を歩きます。
頃合いを見てお濠を渡ると元の場所に着きました。バスに乗って駅へ戻ります。

小泉八雲旧居
武家屋敷
お濠を渡る橋

駅では9時の開店を待って地元の名産品を探ります。
地酒・豊の秋、酒蔵が作った料理用の酒・みりん、海水塩、ノドグロ味のダシの素などをチョイス。
自宅に送りました。
東京へは翌日午後の着です。

出雲地方の神話時代からの文化は、大社脇の博物館に展示されていた、古墳出土の銅鐸、銅矛の潤沢さなどで実感していましたが、松江城の周りを散策し松江の町の雰囲気を体感すると、ごく近年までこの町も、綿々とした文化を積み重ねていることが痛感されました。
昨今のインバウンドブームに毒されていない地味な感じも気に入りました。
歴史ある真の文化を背景にしたプライドを感じました。

凍えるような松江駅のホームから米子まで山陰線に乗りました。
乗ったのは特急スーパーまつかぜ鳥取行き、自由席はほどほどの乗車率でした。
外は吹雪を見ながら30分ほどで着いた米子の駅前は、松江よりさらに真っ白でした。

朝の松江駅前
松江駅に到着した特急スーパーまつかぜ

米子から境港への道中記は次回。

国分寺だるまや食堂が閉店!

国分寺駅の北口にあった、だるまや食堂がこの1月31日で閉店していました。

山小舎おじさんのママチャリ散歩コースの一つの国分寺。
野川公園を横切り、小金井でパンを買い、たどり着いた国分寺の古本屋で本を漁り、昼飯はだるまやというのがお約束のルートでした。

だるまや食堂は、学生やサラリーマンでにぎわい、土日には家族連れも訪れる店で、ホールは日本人の学生バイトが切り回していました。
ときどき小柄でがっしりした大将がキッチンから出てきて、子供の客にヤクルトをふるまう姿がありました。

昼間から定食のおかずをつまみにビールを飲むおっさんたちの姿もありましたが、彼等が店のムードを占有するかのようなことはなく、昼間は混んでいなければだれでも入りやすい店でした。

カツカレーやカツ丼をはじめ、定食の盛りがよく、がっつり系にはたまらない店で、女性客の姿もありました。
最近の山小舎おじさんは、大盛の揚げ物系をやっつける気力と体力が薄れ、もっぱらカレーライスかチャーハン、たまにニラレバ定食でお茶を濁していました。
皿からあふれんばかりに、ご飯の上にかけられた、シーフードも入った固形ルー味たっぷりのカレーは満足感十分でした。

コロナ騒ぎで休みがちとなり、また店長の体調が悪くしばらく休業していました。
最近、営業を再開し11時から15時までの時短ながら、おばさんたちがキッチンで忙しそうに立ち回っていましたが、そこに大将の姿はありませんでした。

国分寺に行く楽しみの一つがなくなりました。

冬の山陰・北陸夜行列車の旅② 出雲大社参拝

今回の旅の目的は出雲大社へお参りすることです。

寒い寒い風吹きすさぶ稲佐の浜で砂を掬い、大社に取って返します。

目指す出雲大社は、寡聞にして知らなかったのですが、ほぼ境内にぴったりくっついて出雲教という教団の建物が存在しているのでした。
例の日本一大きなしめ縄がかかっている社というのも出雲教の神殿なのでした。

それを教えてくれたのは、大社本殿の前で警備をしていたご同輩でした。
拝殿で御参りを済ませ、お札をいただいた山小舎おじさんが、拝殿の後ろの本殿へ向かったときに、地元の人に聞いてみようと声をかけたのでした。

出雲大社本殿前の丸い印は古代神殿の柱が立っていた場所

ご同輩と大社の歴史などについて話しを交わしました。
「本殿の前の赤い丸印が、高さ48メートルの柱が立っていた場所」、「素戔嗚社の裏の岩は最強のパワースポット」などと案内してくれました。
その際に「日本一のしめ縄が下がっっている社は出雲教」と教えてくれたのでした。

本殿に参拝

ご同輩に礼をいい本殿に参拝。
そして裏に回って素戔嗚社に参拝しました。

素戔嗚社の軒下に砂の入った箱があったので、持ってきた稲佐の浜の砂を収め、箱に入っていた砂を、自宅の庭に撒くために少しいただきました。
社の裏の岩にタッチしてパワーももらいました。

本殿裏の素戔嗚社
稲佐の浜の砂を収める
パワースポット!
出雲大社本殿

境内には宝物館もありました。
大社の歴史のほか、出土した実物大の柱の太さを再現したレプリカなどが展示されていました。

宝物館には古代の柱の模型が
古代神殿と銅鐸、銅矛がデザインされている、古代出雲歴史博物館のパンフレット

警備のご同輩が「古墳から出土した剣が展示されている」と教えてくれた島根県立古代出雲歴史博物館にも行ってみました。

ここには実物の1/2スケールの古代出雲大社の模型があります。
併せて石器時代からの出雲地方の歴史が順を追って展示されています。
神話時代から、石器時代、弥生時代の遺跡に恵まれ、中世の大陸・半島との交流、たたらによる鉄の生産、近世の北前船による物流など、島根が日本の歴史に占める重要さがわかります。

ご同輩がおっしゃっていた、古墳から出土した刀剣も見ました。
よく見る出土した刀剣は、さびてボロボロになっていますが、この歴史博物館にあった1本の刀剣は、信じられないくらい保存状態が良いものでした。
また、銅鐸、銅矛などが保存状態よくたくさん展示されており、出雲地方が神話時代の中心地であったことに疑いはないことがわかりました。

博物館から大社の大鳥居に戻って、神門通りを歩きます。
季節柄参拝客は少なく通りは閑散としています。
あちこちに昭和な建物が残っています。
その中で最高に「昭和」な建物が一畑電車の出雲大社前駅でした。

大鳥居
大社前の神門通り

ストーブが燃える駅の待合室で松江しんじ湖温泉行きの電車を待ちます。
駅の内部や備品はレトロムードにあふれていますが、さすがに車両は新式のワンマンカーです。
観光客が3、40人ほども乘りましたが、2両編成の車両は空席が目立っていました。

一畑電車駅
改札口は昔のまま
一畑電車に乗る

夕刻を迎え舗道も凍結しつつある松江に到着しました。

古都松江での夕餉、翌朝のお城周りの散策については次回。

冬の山陰・北陸夜行列車の旅① サンライズ出雲に乘る

2月のある日、寝台列車サンライズ出雲に乗りました。
東京駅21:30発、出雲市行き特急列車です。
山陰から北陸にかけての旅をしようと思いました。

夜9時過ぎの東京駅10番線

車両はかつての寝台列車の二段三段式ベッドを連ねたスタイルではなく、寝台はすべて個室になっています。
そのほかにカーペットを敷いただけのノビノビ座席という車両があります。
山小舎おじさんはノビノビ座席の切符をとっていました。

サンライズ出雲ノビノビ座席車両

車内は暖房が効いています。
ジャージに履き替え、備え付けの布団を敷き、ジャンバーをかけると全く寒くはありません。
ノビノビ座席の車両は若い人を中心に満席です。
女性もかなりいます。
隣の席とは仕切りもあるので、かつての青函連絡船の二等船室の雑魚寝よりははるかにいい環境です。
騒ぐ人もいません。

ノビノビ座席一人分

列車は夜中の東海道線を走り、横浜、静岡、名古屋などに停まってゆきます。
岡山に到着したときは朝の通勤時間帯になっていました。
ここで、東京から連結してきた高松行きのサンライズ瀬戸と別れます。
サンライズ出雲は伯備線を走って中国山地を北上し、山陰を目指します。

伯備線は中国山地に分け入って北上する
中国山地の朝。駅前でコミュニテイバスを待っている?

全国的に冬の寒さと大雪の警報が出ていたこの日、中国山地は雪景色でした。
伯備線沿線の中国山地の冬の景色をラウンジで楽しみます。
車内にはドリンクの自販機しかないので、軽食を用意しておくべきでした。

鳥取県に入った。上石見駅の雪景色

鳥取県に入り、米子に到着します。
伯備線から山陰本線へと列車は進みます。
日本海沿岸となり、積雪は少なくなりましたが、裏日本特有の重苦しい冬の雲が垂れこめたような景色になりました。

米子の車窓

車窓には海が見えてきました。
と思ったら、中海という汽水湖でした。
松江に到着してからは宍道湖のほとりを進みます。
気が付くと、ノビノビ座席がかなり空いてきました。
米子や松江で降りる人もかなり利用していたようです。

宍道湖の車窓

遅れて12時ころ終点の出雲市駅に到着です。
出発の21:30から朝の7時くらいまで、ノビノビと横になっていた山小舎おじさんは、体も軽く山陰の地に第一歩を踏み出しました。

終着の出雲市駅に到着

出雲大社へバスで30分ほどの出雲市は、雪はないのですがとにかく冷たい風が吹き荒れていました。
バスの時間まで、駅構内の蕎麦屋で出雲そばを食べます。
戸隠そば、わんこそばと並んで日本三大そばなのだそうです。
割子に盛られたそばに薬味とダシをかけてすすります。
三大そばの制覇達成です。

出雲そば

地元の電鉄会社・一畑電鉄の路線バスに乗って出雲大社を目指します。
車内は座席が埋まっています。
一畑バスではSUICAを含め交通系ICカードが使えました。

出雲大社はぜひ行きたかった神社です。
国津神である大国主命がいたところで、古代には高さ48メートルの社が建っていたという神道の中心地のひとつです。
縁結びの神様としても有名です。
目的の一つに、近くの稲佐の浜で砂を掬い、大社の本殿裏にある素戔嗚社で収め、すでに収めてある砂をいただき、持って帰って自宅の庭に撒き、厄除けにしようというのがあります。
まずはバスで大社を通り越し、稲佐の浜前で降ります。

稲佐の浜

稲佐の浜は10月に神迎の儀式が行われるという古代からの由緒正しい場所。
日本海に面し荘厳な雰囲気を残しているのですが、この日の風の強いこと!
進めなくなったり、バランスを崩しそうになったりしながらやっとの思いでビニールに砂浜の砂を掬い取ります。

天気が刻々と変わる稲佐の浜

砂をもって大社境内を目指します。
途中に、歌舞伎踊りの創始者といわれる出雲阿国の墓がありました。

浜と大社の間にある出雲阿国の墓

大鳥居のある大社正面まで戻らず、西側の入り口から境内に入ろうと思いました。
さっそくガイドブックなどに写真映えして掲載されている日本最大のしめ縄を持つ神楽殿が現れます。

ガイドブックには神楽殿として紹介されている日本最大のしめ縄を下げる神殿。出雲教の神殿だった

そのスケールに圧倒されて写真をぱちぱち撮る山小舎おじさん。
目的の一つの大島縄が撮れたと喜びましたが、後でこの神楽殿が大社の一部ではなく、出雲教という教団の建物だと知りました。

本当の出雲大社にお参りしてからの話は次回に。

ラピュタ阿佐ヶ谷「新春初蔵出し東映時代劇まつり」より 市川右太衛門の巻

2025年の新春、ラピュタ阿佐ヶ谷の上映はじめは東映時代劇だ。
思えば映画ファンを自任し、東映やくざ映画も含めた邦画ファンのつもりの山小舎おじさんは、東映時代劇をほとんど見ていなかった。

時代が違ったとはいえ、片岡千恵蔵、市川右太衛門、大友柳太郎から中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵ら、日本映画の黄金時代に観客動員数のトップを走り抜けた東映時代劇のスターたちを、リアルタイムではもちろん、再上映でもほとんど見ていない。

とくに華麗な立ち回りが音に聞こえた市川右太衛門の十八番シリーズ「旗本退屈男」は1本も見たことがない。
これはいかん、と2025年の1月、ラピュタ阿佐ヶ谷に駆け付けた。

「新春初蔵出し東映時代劇まつり」の特集パンフレット

市川右太衛門

大映の時代劇スターだった右太衛門は、戦後、GHQの差し金により時代劇が撮れなくなっていら立っていた。1946年に槍を武器に殺陣を舞う「槍おどり五十三次」に出演。
刀を抜いて身構える敵方に対し、槍で暴れ回った。槍に対してはGHQは何も言わなかったが刀で思いっきり暴れ回りたかった。

「旗本退屈男」の市川右太衛門

1949年、東横映画のマキノ光男の誘いで大映から移籍する。
条件は先に移籍した片岡千恵蔵と同じ重役待遇だった。

東横映画に移った右太衛門は、1938年を最後にシリーズが中断していた「旗本退屈男」の復活を願った。
「旗本退屈男」中断の理由は1940年に制定された奢侈禁止令のためだった。
それくらい退屈男の衣装は豪華絢爛、派手であった。
また右太衛門は退屈男の豪華な衣装がいかにファンの夢を醸し出すかを知っていた。

東横映画での退屈男復活に際し、右太衛門は京都高島屋の婦人呉服売り場で着物の柄を探し、同行の美人画家に「思いっきり派手にデザインするように」頼んだ。
作品1本につき13枚もの高級和服に身を包んだ。

劇中で着る着物を選ぶ右太衛門

歌舞伎の経験がある右太衛門は、派手な衣装を着こなし、史実を無視して長く作った刀を使った。
原作には詳しく記述のない退屈男の剣法、諸刃流青眼くずしをカメラ映えするように自己流にアレンジして撮影に臨んだ。

GHQが殺陣シーンに「人を殺すことを美化している」と文句をつけた。
右太衛門は「とんでもない。剣の舞いなんです」と説明し検閲を通した。

「旗本退屈男 謎の十文字」  1959年  佐々木康監督  東映

歌舞伎で鍛えた足さばきと華麗な太刀さばき。
見得を切る時のセリフと笑い声。
1作品に数着の豪華絢爛な着物。
すでに貫禄のついた大きな顔の額に描かれた天下御免の向こう傷。
ご存じ、旗本退屈男こと早乙女主水之介が天に代わって不義を撃つ痛快シリーズの、戦前から数えて第25作目の本作。

ロケは国宝クラスの三十三間堂を借り切り、太秦の撮影所に戻れば新品の青畳を敷いた大掛かりな日本家屋のセットが用意されている。
北大路の御大・右太衛門が中年の体つきながらまったく無駄のない足さばきで、太刀を青眼に構えれば、太秦で鍛えた斬られ役の精鋭たちが得たとばかりに御大の周りで斬られ、飛ぶ、跳ねる。

名に聞こえた右太衛門の衣装は、劇中、夜の追跡の場面でも、歌舞伎揚げせんべいの袋か緞帳かのようにキンキらと暗闇に映え、『なんでこんな場面で一番派手な衣装を』と思わせるが、それを着こなす右太衛門は誰にも文句を言わせない。

かつて「潮騒」(1954年 谷口千吉監督 東宝)で、可憐な娘役としてデヴューした青山京子は5年を経てすっかり色っぽい年増となり、退屈男を江戸から京まで追いかける訳あり女としてキャステイング。
道化役にはマチャアキの実父の堺駿二が満を持しての登場で、これまたすこぶる達者。
怪人・益田キートンも京都撮影所の御大を前にしてはひたすら恐縮の体。
退屈男が助ける島津家のお姫様に丘さとみで、襟元をしっかりガードした超箱入り娘仕様。
さらに当時10代と思われる歌右衛門の実子・北大路欣也が帝の皇太子役で、親父右太衛門をフォローする。

マツケンサンバも裸足で逃げ出す右太衛門の、天下無双のワンパターンがお約束の派手派手な世界。
国会周辺が第一次安保闘争で危急の時を迎えていたこの時代。
圧倒的大衆は「旗本退屈男」を見に映画館の門をくぐり、ひと時の慰めを得ていたことになる。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

右太衛門らの時代がかった文語体のセリフに拘り、ストーリー展開の説明がおろそかな脚本。
コマかなカット割りを省略するかのようにズームとパンを多用する撮影。
いずれも御大に専属の手練れのスタッフによる仕事。
ワンパターンからの逸脱は許されない。
なぜならこのままで客は入るのだから。

祇園で退屈男が過ごす宴席には、本職と思われる数人の芸者衆に豪華なセットで舞わせる贅沢。
女優の所作、堅気と年増をきっちり分ける着物の襟脚。
ここら辺は全盛期の東映時代劇ならではの楽しみ。

退屈男の勤皇的な立場、江戸志向は、体制的な大衆に迎合することを作品作りのモットーとした東映らしかった。

「旗本退屈男 謎の幽霊島」  1960年  佐々木康監督  東映

「退屈のお殿様」と周りに慕われる、公儀旗本・早乙女主水之介は長崎を舞台に島津藩らが策謀を繰り広げていると察知して、一人街道を西進する。
後を追う女スリ(木暮実千代)と手下(堺駿二)には、やがて退屈男に惹かれてゆく。

天下に不義を正すためならすぐさま行動する。
身分はバリバリ体制派で権力者の旗本のお殿様。
その人格は明朗活発で、モテモテながら高潔にして公明正大。
ついでにファッションは派手派手の着流しにキレキレの剣術使い。

津々浦々の一般大衆が待ち受けるヒーロー像に市川右太衛門ほどぴったりな役者はいない。
旗本退屈男と右太衛門が一体化しているというか、むしろ右太衛門が自分のカラーに退屈男像を引き込んで完成に至った主人公像である。

作品中、退屈男が長崎の宿に逗留すれば、玄人筋っぽい女将(花柳小菊)が「先にお風呂にしますか?それとも?」としなだれかかってくる。
「まず風呂じゃ」とかわしつつ、次の場面で上物の浴衣でくつろぐ退屈男。
隣ではかまってくれない玄人美女が焼いている。
泰然と美女のやきもちを受け流す退屈男こと右太衛門の姿には全く無理がなく、嫌みもない。
昭和の庶民のお父さんたちの「あこがれの姿」がここにある。

最初のチャンバラの場面の着流しが、プロレスのガウンのようで、柄といい質感といい、重ったるかったが、殺陣の剣さばき、足運び、崩れない姿勢、見得を切る角度は、まさに円熟の境地というか芸術的。
斬られ役のタイミングの合わせ方も完璧で、なるほど観客は満足するは。

映画の趣向は、長崎の異国情緒を松竹大坂のダンシングチームによる舞台と悪役・山形勲の唐人服などで表現。
長崎町内の石畳を重厚なセットで再現し、そこで退屈男と悪役を戦わせる。
石畳の再現は、当時の撮影所の美術と照明の腕の確かさを画面で確認できるもの。

ラピュタの特集パンフより。写真は宣材用のもの

悪役は例によって山形勲。
ここまで配役がパターン化されると、右太衛門が(加山雄三の)若大将で、山形が(田中邦衛の)青大将に見えてくる。
そのマンネリズムを楽しむのも一興。

ヒロインの丘さとみはエキゾチックな唐人服で登場。
悪役側の一員だが、退屈男に味方する実は日本娘という役柄だった。

シリーズレギュラーの丘さとみは唐人娘?役で登場


「旗本退屈男 謎の幽霊島」  1960年 松田定次監督  東映

栄光の退屈男シリーズ第27作。
全30作で終了するシリーズの終盤を飾る1作。
残り3作品、1963年にさしもの退屈男シリーズも終了する。

アイデアも趣向も出尽くしたであろう退屈男シリーズの、残った見どころは、右太衛門の流れるような殺陣と衣装、そして決まり文句のセリフ回し。
観客を喜ばせ、安心させたであろうそれらの見どころは、不動の定番であったがゆえに年月を経て飽きられる結果となった。
右太衛門もすっかり中年となり、貫禄はついたが、諸国を颯爽と歩き回り、年増の美女たちに熱を上げさせるには少々無理が出てきた。
演じて居る本人は気持ちいいであろうが、見ている方は少々つらくなってきた、ということだ。

本作は、東映時代劇のエース監督・松田定次と撮影・川崎新太郎の黄金コンビに新鋭脚本家・結束信二を組ませた布陣による一作。
主人公中心の画面構図、隅々まで明るいライテイング、場面の中心人物にズームするわかりやすい撮影技法、で映し出された、右太衛門中心の殺陣と金のかかったその衣装が、相変わらず徹底される。

右太衛門の殺陣は、敵の第一撃を首を傾けて避け、足の運びも無駄なく、腰が据わった中で自分自身も必要最小限に移動つつ繰り広げられる。
刀さばきは流れるように美しい。

リアルでないといわれればそれまでだが、名人の太刀さばきを見ているようだ。
大体、現代人のわれわれは実際の斬りあいを見たことも聞いたこともない。
股旅やくざの長脇差の振り回し合いや、血が噴き出す斬りあいが実際にあったかどうかもわからない中で、刀をめちゃくちゃに振り回してリ、血が噴き出す描写がリアルな斬りあいだったという確証はない。

一方、右太衛門の殺陣に、緊迫感、悲壮感があったかというとそれは少ない、痛みも感じられない。
あるのは爽快感と華やかさだ。
緊迫感や痛みの表現をして「リアル」というのであれば、右太衛門の殺陣はリアルではない。

確実なのは、退屈男の殺陣は、スターシステムの牙城であった東映の中で右太衛門が目指してきたスタイルであり、スター右太衛門を生かそうと、監督以下スタッフが全力でサポートしてきた結果である、ということ。
そしてそれらが観客に飽きられてきたということである。

本作の筋立ては、単純な悪を退屈男が成敗するだけではなく、一義的には将軍綱吉を呪い殺そうとする邪教の忍者たちをまず退屈男が成敗する、が邪教の忍者たちとて、将軍の座を狙う真の反逆者である尾張大納言の手ごまに過ぎなかった、さて退屈男は真の敵をどう裁くか?という二段構えになっている。

差別され、使い捨てられてゆく忍者たちへの哀れさを描くのが、新鋭脚本家の結束信二の狙いの一つであるが、そのため、ストーリーが複雑になり、暗くもなっている。
単純な悪に対峙してこそ輝く、退屈男の派手な姿が、権力に差別された忍者たちに対すると、存在が浮き、輝きを欠いてしまう。
おとぎの国の退屈のお殿様に、社会の悲惨な現実は似合わない。

60年代に入り、右太衛門、千恵蔵をはじめ50年代の時代劇スターの人気が陰り、東映のみならず全国的な(全世界的な)観客動員数の激減を招いた映画界にあって、新機軸を模索した1作だが、かえって混乱を印象付けたものとなった。

ちなみにシリーズのお楽しみ、大勢の踊子による舞踏シーン。
たいていは悪役の宴会シーンなどでの一幕として描写されるが、今回のそれは大納言による将軍歓迎会での琴の合奏と雅楽のような踊りだった。
退屈男には「謎の十文字」の、お座敷での祇園の芸者総揚げのような日本舞踊のあでやかさが似合っていた。

ラピュタの特集パンフより

退屈男の脇にいて絶妙な色気を醸し出す花柳小菊は、今回は女スリの役で色を添える。
ジイ役は進藤栄太郎、若侍に期待の新人・里見浩太朗、その恋人に東映三人娘の大川恵子。
娘の父に、戦前からの左翼系演劇人・薄田研二、邪教を奉ずる忍者にいつもなら真の悪役の山形勲、真の黒幕尾張大納言には山村総。
レギュラーの丘さとみも出ている。

右太衛門と花柳小菊。「旗本退屈男・謎の蛇姫屋敷』(57年佐々木康監督)より

2月の山小舎

2月に入って山小舎の様子を見てきました。

2月の山小舎

寒さと降雪が気になる今年の冬。

玄関までのアプローチの積雪

実は山小舎の風呂場の水道蛇口の一部が凍結でバカになり、カランとシャワーが同時に出っぱなしとなったので、水道屋を2月1日に呼んでもいたのでした。

寒冷地の冬の住宅は、長期間の不在時には、水道の元栓を締めるだけではなく、水がたまる場所、機械の総てから水を抜き、あるいは凍結防止剤を混入させることが必要になります。
ボイラー、風呂場の水回り、洗面所の排水溝、洗濯機の入水管と排水管、トイレのタンク、台所の排水溝と温水器などです。
今回の事故は、風呂場の蛇口周りの排水の不備が原因でした。
ああ大変だ!

雪は例年にも増して積もっていました。
玄関に入るまで雪かきをしなければなりませんでした。

滞在期間中にも積雪がありました。
山小舎内でも、玄関のものは凍結してました。

別荘地構内は真っ白です。
国道は大体路面が露出していましたが、降雪の翌朝にはシャーベット状の雪によるわだちができていました。

付近のキャンプ場ではこの雪と寒さの中、数張りのテントが設営されていました。

正月に孫と作ったカマクラ

「小説東映・映画三国志」と「東映京都撮影所血風録・あかんやつら」で読む東映時代劇

2025年新春、折からラピュタ阿佐ヶ谷で「新春初蔵出し・東映時代劇まつり」なる特集上映が始まった。

東映が時代劇映画で一時代を築いた1950年代終盤から60年代にかけての諸作品がラインアップされている。
市川右太衛門、片岡千恵蔵の両御大をはじめ、大友柳太朗、東千代之介、大川橋蔵、そして中村錦之助。

彼らの主演になる、「旗本退屈男」、「丹下左膳」などのシリーズものからチョイスされた上映作品。
これまで上映機会が多かった、千恵蔵の「いれずみ判官」や錦之助の「一心太助」、橋蔵の「新吾十番勝負」などはなく、レアもの中心のラインナップのようだ。

千恵蔵、右太衛門らを主役に据えての時代劇が大衆に受け、1954年には興行収入のトップに躍り出る東映は、60年代に入り旧来の時代劇が飽きられ、やがて任侠映画主流の製作方針へと舵を切ることになる。

戦後一時時代を築いた東映時代劇。
一般的映画本を読むと、黒沢明の「用心棒」、小林正樹の「切腹」などの名作時代劇についてのうんちくは語られていることが多いものの、東映の両御大や当時の若手剣劇スターについて映画評論家が語っている文献が少ない!
各ファンクラブ編の錦之助や大川橋蔵、丘さとみの写真アルバムが発刊されているのは目につくが。
千恵蔵や右太衛門による「正調時代劇」の評価、検証はどうなった?

うんちく派の映画本に刺激を受けてきた地方の映画少年だった山小舎おじさんにとっては、鑑賞の動機もなく、また機会も少ない東映時代劇は、日本映画史上の抜け落ちた分野だった。
それはひょっとしたら忘れられた宝の山なのかもしれない

今回のラピュタ阿佐ヶ谷の特集上映を機会を前に、まずは手元の映画本2冊をひもとき、東映の歴史と、時代劇スターの変遷について学んでみる。

「小説東映・映画三国志」と「東映京都撮影所血風録・あかんやつら」

「三国志」の著者は大下英治。
週刊誌の記者として、電通、三越事件などに取材したルポで売出す。
題材は政治から芸能まで幅広い。

「映画三国志」(1990年 徳間書店刊)は東映の歴史を小説化し、スポーツニッポン紙に連載したものの単行本。
人物の劇的なエピソードを中心にまとめている。
登場する人物は、映画人に限定せず、親会社の東急電鉄の五島慶太の豪快な振る舞いなどにも大いに及び、一般読者の興味を惹く。

記述内容は参考文献からの孫引きが多いようにも感じるが、読者を飽きさせない劇的な表現に富んでいる。
入門書として最適で、第三者的な視点からの東映史としても貴重な文献だと思う。
東映発足時の戦後直後から、実録映画が登場する70年代までをフォローしている。

「映画三国志」表紙
同、、奥付き

「あかんやつら」は、映画史研究家の春日太一による一連の著作の1冊。
春日は、1977年生まれの若手だが、少年時代から時代劇ファンで大学卒業時には東映の入社試験を受け、研究者となった今でも映画・テレビ・時代劇関連以外の執筆依頼は受けないというファン気質が徹底した人物。
新書で「天才勝新太郎」や「時代劇は死なず!」などを執筆している。

映画評論家の大御所にありがちな、高踏的、芸術志向的、権威主義的な雰囲気とは一線を画した、著者特有の視点から、東映の、特に京都撮影所のエピソードを活写した本著は、記述に当たっての関係者からの聞き取りも多く含まれ、単なる参考文献の孫引きにとどまらない。
東映への親近感とファン気質に満ちた1冊となっている。
50年代の時代劇全盛時代から80年代の五社英雄らによる時代までをフォローしている。

東映の歴史(任侠映画全盛まで)

「映画三国志」と「あかんやつら」をもとに、戦後直後から1960年代までの東映史をひも解く。

東映の前身東横映画は1938年に、東急電鉄の子会社の映画配給会社としてスタートした。
戦後の1946年に映画製作に乗り出すにあたり、マキノ映画や満州映画協会出身の根岸寛一やマキノ光男らの製作陣、スタッフには松田定夫、稲垣浩らを招集し、配給は大映にゆだねる形でスタート。
1947年には第一作「こころ月の如く」を製作した。

1948年には大映との提携を解消、独自の配給を行うようになったが、都市部の繁華街の劇場は東宝、松竹にほぼ抑えられており、地方の劇場との作品別、映画館別の契約に活路を見出すしかなく、業績は低迷を極めた。
同年、マキノ映画時代にマキノ省三(光男の実父)のもとでスターとなり、戦後は大映などに出演していた、片岡千恵蔵と市川右太衛門が重役待遇で移籍してきて観客動員の起爆剤となる。

東映の御大、片岡千恵蔵
御大2、市川右太衛門

まだまだ製作費の工面にも事欠く中、1951年親会社東急の五島慶太は、東横映画、大泉スタジオ、東映配給の3社を合併し、製作から配給までを1社で行うことを決定し、新生東映の社長に東急本社の経理担当重役だった大川博を送り込む。
新会社設立にあたって銀行は五島慶太の個人保証を融資の条件とし、五島はこれを了承した。
大川の仕事は、積み重なった支払手形の期日延長を、手形交換所にお願いすることから始まった。
現場では、マキノ映画、満州映画協会からの現場スタッフらが、徹夜と給料遅配、製作費枯渇をいとわず、番組の穴を1回も空けることなく撮影をつづけ、作品を送り出していた。

1954年、千恵蔵、右太衛門の時代劇本編に子供向けの娯楽版と称する中編を加えた2本立て番組が爆発的ヒットとなり、中村錦之助、東千代之介ら若手スターが主に地方の劇場で人気を博す。
東映は累積負債10億を一気に返済、興行収入で5社のトップとなるまでの業績回復を遂げる。

東映の錦兄ぃこと中村錦之助

1957年、アメリカを視察して帰国した岡田茂の提案により、京都撮影所を拡充し、新たなステージを建てる。
こうして日本初のシネマスコープ「鳳城の花嫁」を製作。

1958年は国内の映画入場者11億人、映画館数7000館という日本映画史上もっとも景気が良かった歳となった。
1960年の東映の国内シェアは1/3ほどにもなり、独走態勢を固める。
スター主義の東映では、千恵蔵、右太衛門の両御大のほか、大友柳太朗、月形龍之介がそれぞれの十八番シリーズで、また錦之助、千代之介のほか大川橋蔵が若手時代劇スターとして人気を博した。

1960年には調子に乗った大川社長が第二東映なる配給網をぶち上げ、製作本数を倍増させたが、収益倍増にはつながらず、かえって映画館主側の不評、製作現場の疲弊を招き、足掛け8か月ほどで解消となった。

1963年、さしもの隆盛を誇った東映時代劇も飽きられ、明らかな興行収入の減少をみた。
東映は余剰人員の配置転換、両御大と旧来のスタッフとの契約解消、若手スタッフを登用しリアルな殺陣による「集団時代劇」に活路を求めたが、観客動員の決定打にならず。
やくざ者の生態を描いた「人生劇場・飛車角」のヒットにより時代劇からやくざ映画へとシフトしてゆくことになる。

1964年、親会社の東急が東映を切り離す。
五島慶太を引き継いだ息子の昇が、何かとうるさい東映の大川社長を切りたかったからだとされる。
これを受け、大川社長は京都撮影所の社員数を1/3の500名体制とする合理化を決め、岡田茂に実施を命ずる。
岡田はテレビ部などを作って配置転換により撮影所の合理化を実現する。

次いでこの時代の個性極まる東映のキーマンたちを点描する。

マキノ光男の映画人生

戦前に日本映画の父と呼ばれたマキノ省三の実子で、兄はマキノ雅弘。
戦前にマキノ映画でプロデユーサーとしての経験を積み、マキノ映画の解散とともに海を渡り満州映画協会に参画するが、理事長の軍人官僚・甘粕正彦と、典型的カツドウ屋のマキノでは、まったくそりがあわず、ぶらぶらする。

帰国して東横映画の製作立ち上げに尽力したマキノは、満映時代の仲間を引き込んで映画製作することにも注力した。

「困っている奴はどんどん使ってやれ」と各社をレッドパージされた人材を東映に引き入れ、監督の関川秀雄、俳優の佐野浅夫、信欣二などをどしどし使った。
戦前の無頼な映画界で修業し、大陸にわたって軍人官僚や現地人と渡り合ってきたマキノにとって、同じ日本人同士、映画製作という目的を一にすれば後は何とでもなる、の心境だったのだろう。

「満男」と名乗っていた頃のマキノ光男

1950年、撮影所の進行主任だった26歳の岡田茂(のちの東映社長)の企画、関川秀雄の監督で「きけわだつみの声」を製作。
戦没学生の遺稿集「はるかなる山河へ」の原作の購入から、内容に干渉する東大全学連との折衝などに、脚本の八木保太郎とともに最前線であたった岡田を駆り立てたのは「こういった映画を残しておかにや.、戦友が浮かばれんじゃないか」の心境だった。
岡田も学徒動員で出兵し、空襲を受けた生き残りだった。

1952年、占領軍からの干渉により大映で制作中止となった「ひめゆりの塔」を監督の今井正ごと引き受けたマキノは、今井に対し「周りからごいちゃごちゃいわれても全部はねたる。俺の目的はいい映画を撮ることなんや。右も左もないのや。大日本映画党や!」と言い切った。

女学生役には当時の若手女優陣がキャステイングされた。
今井は撮影前、彼女らに、自分が扮する登場人物の履歴を作文にして提出することをを求めた。
渡辺美佐子、楠侑子ら若手女優陣は口に氷を含んで息の白さを隠しながらずぶ濡れで演技をつづけた。
彼女らは後々、今井を囲んで集ったという。

1600万の予算は4000万円にオーバーし、公開予定は遅れに遅れて正月第二週にずれ込んだ。
マキノは呼び付けられた大川社長宅で社長の前でわんわん泣いて大芝居を打ち、製作続行の了承を取りつけた。
1億8000万円の興行収益を上げたこの作品は東映起死回生のヒットとなった。

「ひめゆりの塔」
「ひめゆりの塔」

1955年、満映に渡った後、長く中国に抑留されていたマキノの盟友・内田吐夢監督の復帰第一作「血槍富士」を製作。
槍持ちの下郎に扮した千恵蔵が主君の仇とばかり、槍を振り回し、泥にのたうっての7分間の立ち回りが圧倒的で、3週間続映のヒット作となった。

「血槍富士」の7分間の立ち回り

1956年、マキノは再び今井正と組んで「米」を製作。
農村の四季を取り入れた脚本は、戦前に「土」を書いた八木保太郎を想定した。
マキノと八木はこの時絶交状態だったが、心配する今井に対し「冗談やない。いいシャシンをつくるのに、喧嘩もへったくれもあらへんで」と答え、八木に脚本を依頼した。

例によって遅れに遅れて完成した今井正監督の「米」は、その年のキネマ旬報ベストワンをはじめ各賞を総ナメ。
東映現代劇の起爆剤となり、その後の「爆音と大地」(1957年 関川秀夫監督)、「どたんば」(1957年 内田吐夢監督)、「純愛物語」(1957年 今井正監督)など、東映に現代劇の秀作が生まれるきっかけとなった。

「米」を演出中の今井監督

満映帰りの映画人の面倒を見、レッドパージ組の受入れるなどはマキノ光男の懐の深さを物語るが、根本は「映画は当たってナンボ」の精神が徹底していた。
「客のことを忘れたらアカンで。暇があったら小屋(映画館)に行って客の顔を見てこい。」「松竹、東宝は山の手志向や。それなら東映は浅草の客を目標にする!」と、ジャリ掬い、薄っぺらな紙芝居と一部の文化人に蔑まれていた大衆娯楽主義を徹底した。

1957年、脳しゅようと診断されたが、手術をはじめ一切の治療を拒絶。
薬も見舞いに来た錦之助が渡した時だけ飲んだ。
同年9月の東映本社での企画連絡会議には白装束の羽織はかま姿で現れ今までの礼を述べた。
まことに古きカツドウ屋そのもののマキノ光男の生涯だった。

東映時代劇を支えた現場の「天皇」たち

マキノ光男が破天荒な映画人生を送っているとき、京都撮影所には「天皇」と呼ばれる、アンタッチャブルな3人がいた。
監督の松田定次、脚本の比佐芳武、編集の宮本信太郎だった。
3人は、東横映画の製作開始に際し、マキノ光男が京都から連れてきた腹心のメンバーであり、マキノの大衆娯楽主義を作品として具現化するときの要となった腕利きたちだった。

松田定次はマキノ光男とは異母兄弟で、父の省三が愛人に産ませた子であった。
監督としての松田は「どうすれば大衆が喜ぶか」を第一に考え、時代劇の約束事として「ヒーローはストイックであり、無敵で不死身でなければならない」に徹した。
信頼するカメラマン、川崎新太郎を専ら起用し、被写体(ヒーロー)を中心に据えるオーソドックスな構図を徹底させた。
松田組は京都撮影所で「お召列車」と呼ばれ、最優先でスターやスタジオを確保でき、正月やお盆用の作品を任された。
日本初のシネマスコープ作品を任されたのも松田だった。

松田定次監督(右は片岡千恵蔵)

脚本家の比佐芳武は、スピード感を脚本に求めた。
伏線設定や状況説明の書き込み、また時代劇特有の儀礼や作法などの描写をやめ、テンポよくストーリーを追った。主人公の登場シーンでは、何の前触れもなく窮地にあるヒロインを救いに現れたりさせるなど、説明のための書き込みをやめ、観客が求めるヒーローの都合のよさに徹した。
「ヤマ場からヤマ場へ」マキノ省三以来の京都映画の鉄則を守ったのが、比佐だった。

「東映時代劇の独特のテンポは宮本信太郎の鋏によって生み出される」と評されたのが、編集の宮本だった。
編集作業の一切を、監督でさえ立ち会わせずに自分一人で行い、目まぐるしいスピードで展開する東映時代劇の作風を作り出した。
その手法は、説明的だったり凡長なシーンは容赦なく切り捨てたり、長回しのアクションシーンを細かく切りつなげてスピード感を作り出すものだった。
年間100本近い時代劇をほぼ自分一人で編集したという。

3人の「天皇」の存在、その影響力と圧倒的技量は、東映時代劇のまさに心臓部となった。
そのパワーは東映躍進の原動力となったが、反面、新たな価値観や創造性の出現を妨げてもいた。
松竹のデレクターシステムによる監督の権限尊重や、ジャン・ルノワールやのちのヌーベルバーグ派による「作家主義」とは正反対の製作方針が東映の考え方だった。