調布卸売センターを歩く

調布卸売センターという場所があります。
昔は武蔵野市場といいました。

セリが行われる市場は、東京では青果なら大田市場、鮮魚は築地市場が有名です。
本当の市場というか、中央市場というか、鮮魚だったら漁港にあって上がってくる魚をセリで売ったり、青果だったら農協から運ばれてくる箱詰めの野菜を扱っているのが、本当の市場だと思います。

武蔵野市場はそういった市場ではなく、都心に仕入れに行けない業者のための市場です。
鮮魚も野菜もバラで売ってくれます。小売りもしてくれます。
築地で言うと「場外」市場に相当します。
市場というよりマーケットというべき場所なのかもしれません。
三多摩地区では、八王子、府中などにこういった市場があります。

調布にあるのが、武蔵野市場です。
かつては鮮魚、干物、乾物、紙器、駄菓子、青果、精肉、などの店を擁し、食堂が付随した場所でした。
一帯の飲食店、小売店などが仕入れに来る場所だったようです。
小売りにも対応していました。

市場の建物の周りには、同じく卸売が目的の金物店なども集まっていました。
調布という場所柄かキムチ専門店もありました。

そういった昔ながらの卸売商店が歯が抜けたように減っていき、武蔵野市場が活気を失っていた時期がありました。
「武蔵野市場ってまだやってるの?」と思っていました。
夏まつりの出店用に、冷凍焼き鳥の箱や、景品用の駄菓子を仕入れるときにだけ利用していました。

そして気が付くと、武蔵野市場は「深大にぎわいの里」と愛称を冠したスペースとなっていて、文字通り賑わいを取り戻していました。

建物の一角にできた、産直所「野菜畑」の存在が大きいと思われます。
調布はもともと農村ですから、畑の収穫物には不自由しません。
あちこちの農家の庭先に野菜スタンドがあり、ほぼ1年中、野菜の供給には困らない地域です。

近年の産直ブームに乗って、地場野菜の大規模な直売所を設ける発想は時期を得ていました。
「野菜畑」の発想は、地場野菜にのみこだわらず、端境期であれば全国から野菜を仕入れ、地元に産しない作物についても並べ、味噌、ワイン、乾物などの加工品も全国から仕入れています。
時期によっての商品ラインアップの濃淡を極力抑え、品ぞろえをなにより重視する昨今のマーケテイングが忠実に守られています。

ということで、センター内の直売所「野菜畑」も、そのコンセプトは、「地場野菜を目玉に並べた全国うまいもの物産展」の様相を呈しています。
これが今どきの直売所のトレンドなのです。

これが当たり、緊急事態宣言後の調布卸売センターも、直売所「野菜畑」だけはにぎわっています。

市場内には現在でも様々な商店が営業しています。

土曜日になると炭火をおこし来客に肉を焼いてサービスしていたアンデス食品です。
今も炭火焼をやっているのかどうか。

鮮魚店は午前中で閉まってしまいます。
店員のおじさんに注文し、奥の経理係へ持って行って精算するのが市場のスタイルです。
鮮度はいいです。

乾物屋さんです。

かつては駄菓子屋などが多くのスペースを占めていましたが、空きスペースが目立つようになっています。

パン屋、カフェなどの新しい食堂が増えています。

この先、調布卸売センターがどう発展してゆくのか楽しみです。

 

緊急事態宣言2日後の調布市内

政府から緊急事態宣言というものがなされました。
新型コロナ肺炎の蔓延にかかる政府の措置です。

全国が対象なのではなく7都道府県が対象とのこと。
あまり実効性がないような気がします。
それでも日本人は空気を読むので、不要不急の外出はなくなり、疫病は終焉に向かうのでしょうか?

山小屋おじさんも今シーズンの山小屋開きを4月初旬に予定していましたが、家庭の事情により、何よりも世の中の流れにより、延期して現在に至っております。
山小屋周辺の人々からは、4/9より仕事が始まるがいつ帰ってくる?などと電話が入りましたが、日取りが確定しないままとなっております。

今年は畑は予定通りにはいきそうもありません。
すべてがイレギュラーな年になりそうです。
山小屋元年の2017年も、6月からの畑のスタートでしたから、そういうつもりでのんびり構えることにします。

さて、緊急事態宣言下の東京。
調布駅前に買い物に出かけついでに世の中の様子を見てきました。

自宅付近のグラウンドの様子です。
小中学校が休校になってから、ここに集まる子供たちの歓声と躍動にあふれる場所でした。
緊急事態宣言後は早朝からの歓声が聞こえなくなりました。
元気に運動している子供はいますが、宣言前の半分くらいの人数でしょうか。

コロナの蔓延には関係なく、畑は春を迎えています。
レタス系が最盛期を迎えています。
キャベツの苗も大きくなりました。
直売所もいつも通りです。

野川の河川敷は桜が終わり、本格的な春の風景になっています。

調布駅前広場です。
元旦でも近頃はこんなに閑散とはしていないでしょう。
雪が降ったか、台風前の時のような人出です。
人数もさることながら、のんびりというか、暗いというか、独特の閉そく感が街から感じられます。

パルコの地下食品館では、人出は少なくはありませんでした。
むしろ、鮮魚や加工品、総菜、生菓子などに掘り出し物、特売がありました。
販路が限られ、高級品、し好品、生鮮品などについては業者も販売に苦慮していることがうかがえます。
消費者にとってはある意味、買い物のチャンスでもあります。
普段は手が出ない、マグロのカマやフランクフルト、イチゴのタルトなどが手ごろな値段で売られており、買ってしまいました。
自宅の炊事担当のおじさんにはメニューを開拓し、デザートをつけることができるチャンスとなりました。

スクランブル交差点の人通りは、平時の半分から3分の1でしょうか。

天神通り商店街も平日昼間とはいえ人通りが少ないです。

食堂はテイクアウトに力を入れていますが、食品街では総菜が割引で並んでいる状況ですので果たしてどうなのか。

こうなりゃ神頼みだ!
天神様、世の中をよろしくお願いします。

「アメリカの鏡・日本」という本を読んでみた

国分寺の古書店・七七舎の店頭、百円コーナーで見つけて買った本です。
新書でこの本の抄訳が出ていて、買ったものの読んではいませんでしたので、今度こそ読んでみました。

1995年刊の全400ページほどのハードカバーです。
原著は1948年にアメリカ人女性のヘレン・ミアーズという人が書いています。
著者は1900年まれで、1920年代から中国と日本に滞在・研究し、その後、アメリカの大学で日本社会について講義、1946年にGHQの諮問機関「労働政策11人委員会」のメンバーとして来日した人物です。

日本における同書の翻訳は、1948年に試みられたがGHQによって却下され、その後1953年に出版はされたものの注目されなかったという経緯を持つそうです。

テーマは「アメリカの行動と原則が一致しているか」

占領下の日本に降り立った著者が、日本社会の研究者として、アメリカなどによるこれまでの対日政策と占領政策が「正しい」ものかどうかを省みたのがこの本です。

アメリカ人が正しいとする価値観があります。
その価値観を「アメリカン・ウェー」と名付けます。

「アメリカン・ウェー」とは、
政治的にいうと、
・政府批判の権利が認められた社会
・容認できない政策を変えさせる権利が認められた社会
・少数派の権利が認められた社会、です。

経済的には、
・個人の能力を最大限に発揮できる機会を持つ社会
・生活水準の向上を目指す意識。だそうです。

著者は「アメリカン・ウェー」そのものはともかく、その価値観を他民族に押し付けるのであれば、アメリカ人自身が言動一致していなければ、他民族は従わないだろうと説きます。

天然資源の豊かなアメリカと、資源が不足しあまつさえ戦争で破壊された日本とでは出発点がまるっきり違うこと、そして日本占領の基本問題もそこにあると指摘します。
「アメリカン・ウェー」の無意識の押し付けと、押し付けられる側への無理解です。

歴史上の日本の立ち位置

さて昨今、日本の側に立ち、列強との不公平を強調し、日本の「正しさ」を訴えたり、日本を戦争に駆り立てたのは列強の陰謀だとする論調は、国内で目立っています。

著者はアメリカ人の研究者として歴史上の観点から日本の立ち位置について説いています。
その視点は、公平で、冷徹な世界のバランスを明らかにしてくれます。
日本は「正義の国」「被害者」などではなく、世界のパワーバランスの中で踊り、踊らされた脆弱な(貧乏な)島国であったことも明らかにされます。

まず、戦時中のアメリカ国内における「日本人は好戦的」「日本は世界制覇を目指している」といったプロパガンダを論破しています。
すなわち歴史的に鎖国していた日本を武力を背景に、不平等条約を強いて強引に開国させたのはアメリカであったこと。

また、開国後の日本が、日清・日露戦争などで躍進し、列強並みの扱いを受けていた時点でも、日本は列強から受けた教育に忠実な「優等生」ではあっても、決して「大国」などではなく、実際の立ち位置は「将棋の駒」に過ぎなかったこと。
つまり、日英同盟などの政治的な後ろ盾と、列強による物資支援(貿易)がなければ独立国として成り立たない存在であり続けたこと。

日露戦争後に、日本は、韓国を併合し、また海外に利権を求めていったが、これらの行為はかつて日本が列強から受けた「教育」の通りに行った「合法的」なものであり、列強がまさに行ってきたふるまいそのものであったこと。
つまり、韓国や満州に対する日本の覇権行為を列強が避難するのは自己矛盾だったこと。
おまけに、政治的には日本を非難しつつも、戦争の1年前まで戦略物資を日本に売り続けたのが列強だったこと。

太平洋戦争の意味

アメリカは「日本のアメリカ征服を阻止する」ことを謳っていたものの、本当の戦争目的は「日本征服」であったとするのが著者の説いたところです。

理由は、戦争の終盤を待たずに日本は戦闘能力を失い、また終戦工作を行っていたにもかかわらず、アメリカは日本よりはるかの巨大な予算を投下し、また非人道的な手段を用いて戦闘を継続していたことなどです。

極めつけは、終戦の破壊された日本に、アメリカ基準の贅沢な占領コストを負担させていることを明らかにしています。
ちなみに占領期間9け月の費用45億円を日本政府が負担していますが、これは1940年の日本の戦争費用23億円を倍近く上回るものでした。

結論

国際社会のルールとは暴力とどん欲を合法化したようなもの、と著者は説いています。

キリスト教の理念に基づいたスペイン、ポルトガルの大航海時代から、太平洋戦争までの列強の行動基準に比して、アメリカがプロパガンダした「好戦的で狂信的な日本民族と神道イズム」などはどう考えても歴史上の事実に反する、とも述べています。

アメリカが日本を「人類に対する罪」で断罪するのは正義ではない、とも述べています。

この本は、アメリカという、帝国、覇権、列強、国際スタンダードを代表する国家の実像を、対日戦争と占領を通して見つめ、総括した快作だと思います。

堂々たる進歩的、理知的、科学的、自省的な著書です。
日本人受けを狙ったわけではなく、歴史と社会を学んだ学者の自国向けの見解だから重みがあります。

当時にはアメリカにも一定程度の流れがあった、左翼的、理想主義的な晴れ晴れとした空気も行間に感じられます。

日本が犯した罪とは「国費」を人権の上に置き、「国家の存亡にかかわる利益」を武力で守ろうとしたこと、だと述べています。

歴史が進み、今日現在では、国家どころか、グローバル企業がTPP、FTAなど「合法」の名において、帝国主義も裸足で逃げ出すような人権蹂躙を行おうとしています。

1948年に著した著書には、当時のアメリカ人の知性と理念と自省の魂が溢れています。
それから70年以上。
こういった高邁な理念はどこへ行ってしまったのでしょうか。

2019年版山小舎アルバムを作りました

2019年版ということは2017年版もあるのです。

山小舎初年の2017年に、山小舎の経緯、地理、地域の特色、山小屋暮らしの内容、などをテーマ別にアルバムにまとめていました。
その年に撮った写真を中心に、現地で集めたパンフレットや、山小屋に残っていた開闢以来の資料などをアレンジして並べたものです。


東京の自宅に置いて、お客さんに見せたりしていました。

その後も折に触れ写真を撮り続けていましたので、家人の勧めもあり、2019年に撮った写真で最新版の山小舎アルバムをまとめることにしました。

まとめるにあたり、まずは写真の取捨選択と出力を行いました。
2019年の日付の写真を別ファイルに集めて取捨選択するのですが、細かな画像を見てのことなので時間がかかるとともに、どうしても多めに選択するものですから、300枚以上を選択してしまい、印刷が大変でした。

印刷はカラープリンターで行いましたが、インク代がばかにならないうえに、プリンターがデータ過剰でストップしてしまいました。
コンビニで印刷すると1枚30円もかかってしまうので、しまうまプリントというところにデータを送ってプリントを送ってもらいました。
これだと1枚6円で済みますが、手続きを娘にやってもらわなければなりませんでした。

しかも300枚以上も手元に集まった写真ですが、結局はアルバムの枚数の都合で半分も使えませんでした。
同じ事象に数枚もの写真を使っても多くは凡長になることもあり、1事象:2,3枚の写真で充分なのです。
次回制作時の参考にしたいと思います。

編集方針ですが、最初は2017年版と同様に、テーマ別の編集を考えていました。
しかし膨大ともいえる写真をそろえているうちに、ほかに記録があることに気づきました。

たとえば山小屋で毎日つけていた(ワード、エクセルで入力していた)日記や、畑作業の備忘録、畑の作付け図、朝市の記録、ブログの題名の一覧、などのデータです。
これらを使えないか?と考えたときに、日記を出力して時系列に並べ、関連する写真をレイアウトしたらどうか?と思いつきました。
作付け図や備忘録は縮小して出力し、アレンジに使えます。

ということで2019年版は、時系列に事象を並べて作成しました。
月ごとに4ページの割り付けとし、日記の切り抜きをタイトル代わりに写真を張り付けてゆきました。
写真には必要に応じてネームをつけました。
朝市については別に2ページを用意して構成しました。
2017年版とは違った切り口のアルバムができました。

歳のせいか完成まで1週間以上もかかりました。
人物が写った写真が少ないのが反省点です。
来年は家族の写真をうんと撮っておこうと思います。
また、作者(山小屋おじさん)の年齢からくるエネルギー不足がアルバム全体からにじみ出ていないかが心配ですので、見ていただいた方々からの批評を待ちたいと思っています。

アルバム2冊は当面、柴崎の彩ステーションに置いて来訪者の閲覧に供したいと思います。

令和2年3月29日の雪

東京に雪が降って1週間たちました。
3月29日の雪の日を記録しておこうと思います。

シーズンごとに何回かはある東京地方の雪の天気予報。

雪に弱い東京では、実際に雪が降ったら電車のダイヤは狂うは、バスは来ないは、自家用車は滑るは、で都市機能がマヒしてしまいます。
そこで毎度テレビでは強めの予報を出して、注意を喚起します。
そのためか、雪の天気予報ははずれることが多いのです。

ところが3月29日日曜日の朝。
起きてみると外は真っ白でした。
珍しく雪の天気予報が当たりました。

家の隣の畑に植えられた木々。
家のベランダ。
玄関前の道路。
自家用車に積もった雪。

桜の開花があった後の雪でした。

子供たちなら雪遊びをしたいところですが、ボタン雪もいいところのべちゃべちゃの雪。
ジャンバーにつくと雨のようにしみますし、髪にかかるとたちまち濡れネズミ。

雪国の住民が見ると、夏タイヤでも走れるくらいにみぞれがうっすら積もっているだけの状況でも、東京の住民から見ると、これでも豪雪に1歩も家を出られない厳しい状況、に映るんです。

春先の関東地方の気まぐれな降雪でした。

この雪。
歴史的なコロナ感染に苦しむ首都圏への天の恵みの雪か、天の悲しみの雪なのか。

日中には気温で融けた雪でしたがそれなりにうすら寒い1日でした。

新型コロナについて 上海からのリポート 続報

3月末。
上海の日本人友人から続報が入りましたので、内容を転送します。
日本でのコロナ対応とは、ある意味で極端に異なる中国政府の対応ぶりがうかがえます。

(レポート内容)

上海はいま急速に日常を取り戻しつつあります。
大公園中心だった公園開放が全ての公園に及び動物園、博物館、図書館、植物園、大娯楽施設など映画館、カラオケを除き全てが開場となりました。
しかし人々の心はそう簡単には元どうりとはいかず何かに怯えているようにも見えます。

しかしこれはある意味いい事だとおもいます。
統計上はこの20曰間,上海から感染者は出ていずそういう安心感はみんな持っているのですが、あまりにも徹底した厳かい体制から曰常生活に戻ることになにかとまどいがあります。

それに政府は今迄通りマスクをし手洗い、人込みを避け、換気を良くすることなどを推奨して緊張感を持って生活することを求めています。
マンションの入口は依然として検温所があり通行証も必要です。
でも今日から配達の人々は入ることが出来るになりました。それと公園など公共施設に入場するにはスマホによる登錄が必要です。
このように政府市民ともども試行錯誤をしながらコロナウイルスから解放を目指していますが、繁華街の人出を?とみるとこれは8割がた戻っているように思います。

この騒動が始まって初めて一昨日料理店へ入ったのですが、5分くらいの入りで、入口で消毒してくれました。

上海市の感染者のその後ですが3月3曰の338名でビタッと止まって入院者も18名を残すところで、形勢が突然激変しました。

10曰ほど前から先ずイランから3名,イタリアから2名その後はイギリス、アメリカ、ドイツ等留学生を中心に外国人の駐在員も含めて感染者が94名にも及びます。

入国者はまず北京へ、2番めに上海へ向かいます。
たまりかねた政府は昨日北京空港への入国を禁止しほかの空港へ向かうようにもとめました。
それと同時に検査を徹底させるため全ての入国者にpcr検査を実施し14曰の隔離を自費でもとめました。
これにより上海への負担はさらに重くなります。

さて上海から数千名,中国全土から4万2千名以上に上った紧急医療救援隊ですが現地で热烈な送迎会を受けて続々と、行くときの悲壮感や心意気と打って変わって柔らかな安堵に满ちた表情で凯旋してきました。
歓迎、白衣の天使と大きく書かれた横断幕の前で空港には上海市長も出迎えました。
しかしこれで解散ではなく、上海市郊外のホテルで2週間の隔離生活に入るそうです。
なお上海隊はまだ1400名が残っているということです。
上海隊の隊長を務めた大病院の副院長の人がテレビのインタビューで現地の模様を詳しく話していたのですが初めは防護服も不足していて、8時間休息がなかったそうです。
そのような中で驚いたのは、上海隊には一人の感染者も出なかったそうです。

中国からは今イタリアやイランに救援隊が出ているのですが、この先生も一段落したら出かけたいと話していました。すごいです 。

さて武漢ですがホンダなど大企業を中心に操業を開始し、また武漢から労働者が新幹線の特別号車で広東へ通勤をはじめています。
武漢の中心駅が最後の大規模な消毒を終え今日から武漢のすべての駅が再開しました。

こうして日常を取り戻しつつある中国ですが 世界では大変な事態になっていますね。
今日ネットでニューヨ一クに住む日本人がすでに失業者が街に溢れだしていると書いていて驚いたのてすが、この2か月の中国のことを改めて考えてみると14億人の中国人がすべて隔離されて生活している状熊の中でどうして平稳が保ってこれたかというと、休業中の会社員だけでなく全ての飲食店の店員などにも滞りなく給料が支払われていたことが一番大きく、さらに医療救援隊人たちには3倍の給料が上乘せされた、またコロナウイルスに関しては検査や治療费が無料だったことがみんながかくさず申し出たことにつながったと思います。

曰本は比較的平稳なように見えますが、中国も含めて油断はきんもつですね。
お互い気を引き締めて完全終息に向けて頑張っていきましょう。
一刻も早く世界が平稳を取り戻すことを祈ってやみません。

以上です。

ぼたもちを作りました

春のお彼岸にぼたもちを作りました。

小豆は北海道産の大納言。
令和1年の新豆を用意しました。

一晩水につけ、2度茹でこぼし。
煮始めてからもびっくり水を欠かさず。
豆に火が通ってから、ザラメで味付けしました。
煮詰めるときには付きっ切りでしゃもじでかき混ぜました。

炊飯器でもち米を炊き、すりこ木で半搗きにします。

半搗きの餅にあんこをのせて出来上がりです。

4歳の孫が手伝ってくれました。
もち米4合で20個くらいできました。

孫が持ち帰ったり、翌日に家内が彩ステーションに持って行ったりしてどうにかはけました。

味は思ったよりおいしかったです。
孫とは秋のお彼岸にも作る約束をしました。

今年の桜

令和2年の桜の季節が終わろうとしています。
コロナ騒ぎがご時世の世の中。
桜は例年通りに咲きました。
途中、季節外れの雪が積もったりして。
そして今は桜吹雪となっています。

3月下旬の調布市柴崎。
通称「国有地」脇の桜です。

4月初旬の国際基督教大学正門通り沿いの桜です。
葉桜になっています。
一般人入構お断りの張り紙が正門に貼ってありました。
貼り紙のせいか、コロナのせいか、構内に一般人と思しき人影はありませんでした。

神代中学グラウンド沿いの桜です。
桜吹雪となって散り始めています。
温暖化のせいか、近年は入学式までは花が持たなくなっています。

野川沿いの桜です。
調布の桜の名所の一つとなっています。
野川は国分寺崖線に沿って流れ、世田谷区で多摩川に合流する街の川です。
沿岸の市民の散歩コースとなっています。

今年もよい年でありますように、と願いたいところです・・・。

調布柴崎の彩ステーションと休校中の子供たち その2

家内がやっている地元の彩ステーションの続報です。

その後も彩ステーションは、休校中の子供たちの受け入れ場所として機能しています。
また、普段なら、ワークショップや勉強会などの催し物が行われるホールでは、市内の若いお母さんたちの「手作り市」の場所となっています。

「手作り市」は、小学生向けの防災頭巾、上履き入れ、お道具入れ、マスク、ランチョンマットなどを手作りし、販売しているグループです。
大規模な展示即売会が会場の都合で中止となったため、彩ステーションに場所提供の依頼があったものです。

ご時世柄、マスクがよく売れています。
大人用は毎日完売でした。
入口の「マスクあります」の張り紙を見て飛び込みのお客さんや、口コミでやってくるお客さんも多数あります。

また、新1年生を持つ親御さんなどに、防災頭巾などが喜ばれているようです。

マスクを作る時間は、大人用で1時間に3枚がせいぜいだそうです。
1枚400円として、材料費を考えると決して割のいい仕事ではありませんが、「手作り市」の若いお母さんたちは前向きに頑張っています。

一方、休校中の子供たちも、三々五々集まってきます。

この日は昼食にカレーを自分たちで作って食べていました。子供が好きで、子供扱いの上手なお兄さんが来てくれたり、ベテランの塾の先生が来てくれたりと、子供の面倒を見るボランテイアも集まってきました。

長期戦の様相を呈してきた、コロナ時世。
地域の力で立ち向かってゆきたいものです。

ガイドヘルパーを始めました その3

3月22日の情報です。

この日は3月でわずか2回目のガイドヘルパーの日でした。
2月には7コマのヘルパーをこなしましたが、3月は結局2コマだけとなりました。

当初は、3月も6コマほどの予約が入っていましたが、キャンセルが相次いだのでした。
キャンセルの理由としてはコロナウイルスのリスクのためのほか、ガイド依頼目的の水泳教室などが中止となったため、などでした。
ご時世です。

ということで22日は利用者とともに立川の昭和記念公園へ行ってきました。

ちょいと風が強いものの、春らしい気候。
立川駅周辺はもちろん、昭和記念公園入口付近も陸続と続くファミリーや休校の中高生グループなどでにぎわっていました。
野外で風通しもよく、いくら人が集まっても人の密集などできようもない、広大な昭和記念公園ならではの風景でしょうか。

公園内は早咲きの桜が満開。
ソメイヨシノは3分咲きでした。

公園中央にある「みんなの原っぱ」では、子供たちが遊びまわっていました。
20年以上も前に家族連れで来ていたことを思い出します。

当時と様子が違うのは、日よけなのでしょうかテントがずいぶん立っていることです。
また当時見られた、コンロを持ち込んでのバーベキュー姿は見られませんでした。
いまの親御さんは行儀がよくなっているようです。

砂川口へ向かう途中の菜の花畑です。

花の丘もありました。
現在作付け中で、シーズンには花盛りとなることでしょう。

風のせいで、利用者の目がかゆそうでしたが、1日歩いて心身ともに良い解放感に包まれました。