今年のリンゴ狩り

11月上旬、今年もリンゴ狩りに孫一家がやってきました。

山小舎の前で遊ぶ孫たち

夜に到着した一家を迎え、恒例の室内炭火焼き大会です。

最初の晩は炭火焼き大会

翌日はリンゴ狩りの予定でしたが、体調不調の下の孫娘のために無理をせず、近場の女神湖で遊ぶことにしました。湖畔のレストハウスでランチしながら秋の女神湖を楽しみます。
食後は湖畔の木道を歩きました。

女神湖で湖面を眺める
女神湖畔の木道を散策

女神湖の後は少し先の長門牧場で一休み。
大人にとってはここのソフトクリームが楽しみなのです(孫たちは、満腹後のスイーツには興味なし)。

長門牧場にて

翌日は満を持してのリンゴ狩り。
今年も小諸の松井農園にお世話になりました。

勝手知ったるリンゴ園。
秋映、シナノスイーツ、シナノゴールドなどをもぎ取りました。
紅玉を磨いてツルツルにするのも毎年の孫たちのお楽しみ。

リンゴ園にて
リンゴ園案内人御説明を受ける

今年の秋も山小舎をたっぷり楽しんだ孫一家でした。

玉ねぎの苗定植

今年も玉ねぎの苗を植えました。
例年11月に入るころ植えます。

追肥なしの農法なので、玉の肥大はありませんが収量はまあまあです。
また、硬く育った玉だと、もちもいいのです。
これまで保管中に腐ったことはありません。

今年は苗の入手が遅れました。
また、トレーで育成した苗が今年は売られています。
束の苗だと1本7円程度のものが、トレーだと11円ほどします。
トレーの方が活着率がいいのだそうです。

11月に入って、束の苗が手に入りました。
200本購入します。

植え方は例年通りのガッテン農法です。
畝を立て、薄く油粕を敷きます。
スコップなどで畝の表面を叩いてから、マルチを敷いて、根を切った苗を、体重をかけて定植します。

今年は、事前にボカシ堆肥を施しました。
ガッテン農法開始後、数年たち、その間肥料を施していない畑です。
半年の間生き続ける玉ねぎの成長促進を、と思っての施肥です。

前作のマルチを剥がし、除草して、ボカシを施し、均しておいた畝を準備します。
スコップで表面を叩きます。
マルチを架けます。

根を切った苗を準備します。
体重をかけて植えてゆきます。
圧力をかけることによって、根と土壌の接着が強まります。
潅水も何もなしで半年間放っておく苗が、自力で根を張り、水と栄養分を吸い上げるためです。

200本の植付終了です。
しばらくしたら活着の確認に来る予定です。
寒さに耐え、来年6月には収穫期を迎えてくれることでしょう。

八ヶ岳冠雪

11月中旬。
東京の帰宅から茅野駅に戻りました。

目前にあったのは新雪に輝く八ケ岳の姿でした。

茅野市内から望む八ヶ岳連峰

茅野市内は紅葉もまだ盛りです。
八ヶ岳連峰からが目を左に転じると、これまた薄く新雪を頂いた蓼科山の姿がありました。

市内には紅葉が盛り
冠雪の蓼科山

この季節、日も短いのですが、日が暮れた後の気温の低下が急です。
寒い夜を過ごした翌朝、外に出ると降雪の後が残っていました。

うっすら雪が積もった山小舎周辺

落ち葉はすっかり散り終わっています。
日が昇ると気温が上がるのですが、それでもストーブを焚きっぱなしにしないと過ごせません。

落ち葉は散り終わりました

日差しを頼りに、泊って行った孫一家が使ったシーツ、布団カバー、タオルケットを洗って干します。
外で乾かない分はストーブを頼りに室内干しにの予定です。

日差しを頼りに洗濯物干し

冬の到来を待つ山小舎周辺です。

DVD名画劇場 フランス映画黄金時代② ジャック・フェデーとフランソワーズ・ロゼエ

トーキー移行で、アメリカやドイツに後れを取ったフランス映画は、1930年になってトーキー時代を迎えた。
そのころにフランス映画界は、サイレント時代にデビューを果たしていた、ルネ・クレール、ジャン・ルノワール、ジュリアン・デュヴィヴィエらが監督の中心におり、その一人にジャック・フェデーがいた。

フェデーはベルギーの生まれ。
サイレント時代のフランス映画界で頭角を現し、ハリウッドのMGMと契約して渡米。
何作か発表したものの評判に至らず、フランスに戻っていた。
夫人はフランス演劇界の大女優、フランソワーズ・ロゼエである。

ジャック・フェデー

1930年代のフランス映画は、歴史的名作、「巴里の屋根の下」(1930年ルネ・クレール)、「望郷」「舞踏会の手帖」(いずれも1937年ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)、「どん底」(1936年 ジャン・ルノワール)などなど、を生みだし続けていた。

フェデーはこの時期に「外人部隊」「ミモザ館」「女だけの都」を発表する。
いずれも夫人フランソワーズを主演ないし重要なわき役に配した堂々たる規模の大作である。
この3作品によりフェデーはフランス映画界に永遠の名を残した。(フェデーはこの後、製作者のアレクサンダー・コルダに招かれてイギリスへ渡り、1948年に没)。

「フランス映画の歩み」表紙

では、世に言われるフランス映画の特色とはどういったものか。
ここに1冊の研究書がある。
題して「フランス映画のあゆみ」(岡田真吉著 1964年刊)。
著者はフランス映画(とフランス語)に資するところがあり、ジャン・エプスタン、ルネ・クレール、ロベール・ブレッソンらと文通して、彼らに質問したり、自らの映画批評を仏訳して送ったり、彼らから撮影台本を譲り受けたりしたという人物。
のちにフランス映画人たちの理解を得、何度もカンヌ映画祭に招待されたという(健康問題で渡仏は実現せず)。

ここでは、本著の第一章の要旨をもってフランス映画の特質、優秀性の引用としたい。
まずフランスの深い歴史的伝統に裏打ちされた文学的精神があること。
またフランスの文化的伝統たる演劇性に深く裏打ちされていること。
演劇的伝統はフランス映画に修辞作家の独立をもたらしたこと。
演ずる俳優たちが演技者として優秀であること。等々。

そして、フォトジェニイという映画的手法を確立したこと。
フォトジェニイとは「カメラに捉えられて一つの映像となるとその精神的価値を増加させる一つの資質」(同著P13)とある。
フランス映画が事実を追うだけでなく、人物の心理の陰影や性格を描いたり、一つのシチュエーションをそれが持つ情緒を浮かび上がらせるように描くことを志向するときの一つの映画的手法であり、モンタージュという概念と並ぶ映画芸術の本質を規定する要素、だという。

「フランス映画の歩み」目次

ヌーベルバーグの時代、雑誌「カイエ・デュ・シネマ」のフランソワ・トリュフォーらにより、全否定されたこの時代の作家と作品(クレールを除く。ルノワールは別格)。
しかしながらDVDで見たフェデーの作品は、作品の規模、俳優の演技力、脚本の完成度ともに一流のもので簡単に否定し去るものではなく、むしろフランス映画文化の伝統と奥深さを感じさせるに十分なものだった。

「外人部隊」 1934年  ジャック・フェデー監督  フランス

名花マリー・ベル扮する薄幸流転の場末の歌姫。
ピエール・リシャール=ウイルム扮する、無責任の挙句親族に国外追放されモロッコの外人部隊に流れ着く主人公。フランソワーズ・ロゼエ扮する場末の宿兼バーのいわくありげな女主人。
フランソワーズの宿六には「恐怖の報酬」が忘れられないシャルル・バネルが扮する。

役者がそろったところで観客はモロッコの場末で繰り広げられる「半端者」たちのグダグダの世界へ案内される。

フランソワーズ・ロゼエ(右)

主人公は悪気はないが苦労なく育った坊ちゃん。
パリで女に入れあげた挙句、親族の会社の金を使い果たして追放される。
金だけでくっついていたぜいたく好きの女フローレンス(マリー・ベル二役)は去る。
主人公は流れてモロッコの外人部隊へ。

外人部隊で友を得る主人公。
友は何くれとなく主人公の世話を焼いてくれる。
そう、「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1942年 ルキノ・ヴィスコンテイ)で無賃乗車の主人公を救ってしばらく面倒を見た放浪の香具師のように。

友はその過去を問うた時だけは激高した。
「お互い過去は詮索しない約束ではないか!」と。

主人公は、定宿の女主人(フランソワーズ・ロゼエ)に気に入られている。
必ず当たるので、女主人はやりたがらないトランプ占いでは、「かつての女と再会し、人を殺すが巨額を得る」と出る。
その占いは、流れ者同士の寄る辺ない一夜の暇つぶしであったはずだ。

宿の女将が主人公を占う。フランソワーズ・ロゼエ18番のシーン

友と訪れたバーで、忘れられないフローレンスとそっくりのイルマ(マリー・ベルニ役)を見る。
イルマは歌っても華がなく、席に着けば素人っぽくぎこちない酒場の女である。

どこから流れてきたのか本人も覚えていないこの女を主人公は見染める。
フローレンスが自分を追いかけてきてとぼけているたのだろう、と思う。
外人部隊で苦労しようとどうしようと、お坊ちゃんはどこまでも自分本位なのである、悪気はないが・・・。

場末のキャバレーに流れてきた女。マリー・ベル二役

過去に翻弄され、汚濁にまみれて流れてきた場末女イルマに扮し、やっとのことで主人公に心を開いてゆく、女ごころのいじらしさを演じるマリー・ベルが素晴らしい。

のちの世から見れば、お涙頂戴の不自然極まりない芝居なのかもしれないが、いいものはいい。

ラスト近く、アラブの王族とオープンカーでカサブランカを行く、本物のフローレンスと邂逅した主人公は一も二もなくなびいてゆく。
フローレンスが己を愛しているというついぞ捨てきれぬ己の幻想を信じ、またマルセイユ行きの切符2枚まで買ったイルマを船上に捨てて。

まるでサイレント時代のグロリア・スワンソンのような白一色のファッションで、王族のオープンカーから降り立つフローレンスに扮するマリー・ベルも光り輝いているが、人を信じるという経験すらない場末の女が、純粋だけは取り柄の主人公に触れて人間の心を取り戻してゆくイルマを演じ分ける、別人のようなマリー・ベルが忘れられない。

主人公の「身代わり」で激戦地に出陣し、戦死して帰ってくる友。
遺品を宿の暖炉にくべながら、ロシア語新聞に芸術家として紹介される友の記事を見るやるせなさ。

戦友の遺品を燃す。ロゼエと主人公

外人部隊が楽隊を先頭に街に入ってくる、子供らが行進に付きまとう。
モロッコの酒場での、カンカン踊りのようなベリーダンスのような、煽情だけをむき出しにした女たちのふるまい。これらをドキュメンタルというか、感傷なしに描写するジャック・フェデーの視線は乾いている。

「女だけの都」 1935年  ジャック・フェデー監督  フランス

パリ郊外に組まれたという16世紀フランドル地方都市の大オープンセット。
城内はお祭りの準備で市民が天手古舞。

市長一家のおっかさん、フランソワーズ・ロゼエも大忙し。
家では末っ子を風呂に入れ、女中のおしゃべりをぴしゃりと制して指図し、恋多き愛娘の訴えには親身にアドバイスをくれる。
そこには、モロッコの果てで占いトランプを前に斜に構える憂いに満ちたロゼエの姿はない。
庶民的で男勝りの肝っ玉おっかあの役も彼女に似合う。

フランソワーズ・ロゼエは娘にとっては頼もしいおっかさん

ロゼエの達者な演技に見とれるだけで本作を見る意味は十分あるのだが、フェデーと脚本のシャルル・スパークは寓意に満ちた本筋と練られたデイテイルを駆使して観客をぐいぐい引っ張る。

時はスペインの治世、公爵一行が城壁都市にやってくる。
思わず最悪の事態が頭をよぎる。
略奪、凌辱、拷問、殲滅の幻影。

市長ら男たちは肖像画のモデルを早々にやめて、死んだふりを行うことにする。
ここで立ち上がったのがロゼエおっかさんを中心にした女性達。
日頃から男どもの優柔不断にはあきれており、野生的なスペイン軍を思うと心ときめく、とともに体を張って外敵を迎えることを決議する。

城壁都市にスペイン兵が進駐

女達がスペイン兵たちをエスコートして街に入場する。
さっそく、男らしいスペイン将校たちに取り入るおかみさんたち。
市長夫人のロゼエは公爵にべったり。
年甲斐もなくよろめきかかる。
ここではさすがに踏みとどまり、愛娘の結婚保証人を公爵に願い出るが。

公爵一行の随行者に生臭坊主と小人がいる。
坊主にはルイ・ジューベが扮して笑わせる。
フェデー堂々の宗教権威批判だ。

幻影のスペイン軍の乱暴狼藉シーンは当時としては衝撃的でリアルな描写。
スペイン兵たちと市民たちが入り乱れる飲み屋のシーンも猥雑。
ここら辺は「外人部隊」にも共通するフェデーのリアルで乾いた描写ぶり。

中世市民のおおらかさを寓話的に描き、フランソワーズ・ロゼエの演技力という力技を加えた勢いで突っ走った快作。
古さは感じない。

キイロスズメバチの巣を撤去してもらう

山小舎周辺は野生生物の宝庫です。
鹿などの動物、昆虫類が嫌という程います。

春先になると毎年ハチがブンブン飛び回ります。
スズメバチ、あしながバチなどが多い印象です。

スズメバチは山小舎周辺に巣を作りたがります。
これまでも、2階の軒下、ベランダの軒下の廃ストーブの中、玄関先のコンパネの下に巣を作りました。(いずれも撤去)

今年も山小舎の周りには、常に1、2匹のスズメバチがブンブン飛び回っていました。
割ったばかりの薪が好きなようで、止まっているときに殺虫剤をかけたりはしましたが、特に害はなかったのでほおっておきました。

これがいけなかったのでしょう。
夏が終わり、後片付けのシーズンとなり、ベランダの軒下に廃材などを収納していた時に何気なく見た先に、立派なハチの巣がありました。
コンテナの中にすっぽりはまるように巣が形成されています。
不気味な姿にびっくりしました!

軒下のコンテナの中にできていたキイロスズメバチの大きな巣

発見時は10月下旬。
朝晩の寒さで巣にはハチが活発に出入りしているようなことはなく、むしろ巣の表面に張り付いた数匹のハチが全く動いていなかったので、これまで気が付きませんでした。

慌ててその場を離れましたが、改めてよく見ると、巣の表面に張り付いたハチがゆっくり動いています。
これを見て、一時は自力で巣を撤去できるのでは?と考えましたが、断念しました。

東信消毒という佐久市の茂田井にある駆除業者に駆除を頼みました。
スズメバチの巣の駆除は1万8000円から2万円の料金とのことでした。
2、3日後に業者がやってきました。

防御服を着てネットを被った業者が現場に入ってゆき、あっさりとコンテナごと巣を引き出しました。
巣はコンテナ一杯にはまっています。
ハチが巣から飛び出してはきません。
業者は引き出した巣を構わず刃物で解体してゆきます。

業者があっさりコンテナを取り出す
コンテナから現れたのはミツバチ用の巣箱に作られた巣

コンテナの中にはミツバチ用の巣箱が入っていました。
この巣箱を利用してキイロスズメバチが巣を作っていたのでした。
6月ころから作られた巣はすでに繁殖の役割を終え、たくさんのハチなども死滅し、女王バチは越冬場所に移っているとの説明でした。

巣箱ごと巣を取り出して解体を始める
巣箱の外側の巣を削り落とす
巣箱の中からは孵化しなかった繭などが

ワンチャン、山小舎おじさんが自力で対処しても無事に巣の撤去ができたような状況でした。
今回は無理しなくてよかったでしょうが。

キイロスズメバチはオオスズメバチなどよりの人間に対して攻撃的なこと。
ここ山小舎付近はハチの往来が多く、近所にも巣があるのではないか?ということ。
巣を撤去するなら6月ころか、あるいは10月過ぎがよいこと、などを聞きました。

取り出した巣は、巣食っていたミツバチの巣箱ごと焼却炉で燃やしてしまいました。
これで今年のハチ関係は一件落着です。

巣箱ごと完全燃焼させてスッキリ

撤去しやすい場所だったこと、危険性がほぼなかったこと、から費用は1万1千円で済みました。
良心的な業者さん、ありがとう。
ハチについて勉強になりました。

ベンチを塗装

いらなくなった木製ベンチをもらってきました。
まだしっかりしており、塗りなおせばベンチとして再利用できます。
また、こういった台が外にあると、いろいろ便利なのです。
一から作るとなると大変ですが。

しばらく物干し台の下に放置していたベンチを作業台に移動します。
表面の塗装を削りきれいにしようと思います。

もらってきた古いベンチ

ドラムを引いてコードをつなげます。
サンダー(研磨機)でやすりをかけるのです。

ドラムを出してコードをつなげ
サンダーにつなぎます

ぱっと見はそれほど汚れていなかったベンチの表面ですが、研いてみるときれいになるものです。
塗料の乗りもよくなります。
この研きを手でやるとなると大変です、サンダー様様です。

サンダーで磨くと木地が現れます
横の部分にもサンダーをかけます

研くのはベンチの表面(座る部分に渡してある板の上側)と、脚の外側、くらいにします。
要は目立つところだけはきれいに仕上げようという魂胆です。

研き終わったベンチ

ケミソートというコールタール由来の防腐塗料を塗ってゆきます。
しばらく使っていなかったので一斗缶をよく振ってから塗りましたが、それでも混ざりが悪く、塗料がさらさらしています。

塗料を取り出します。塗る前に振って攪拌します
ケミソートを塗り始めます
一度目を塗り終わったところ

表から裏側まで塗った後、乾かして、表側を二度塗りします。
一晩おいて完了です。

二度塗りして一晩たちました

ハックルベリージャム

畑で収穫したばかりのハックルベリーでジャムを作りました。
毎年恒例です。

栽培したのはガーデンハックルベリーという品種。
ベリー類ではなくナス科の植物です。
アクが強いので生食は不向き、ジャムなどに加工します。
ポリフェノールの含有量はブルーベリーより多いといわれています。

信州に来てから、直売所などで初めて見る野菜に驚きました。
夕顔、ナツメ、青いトマト、ナスの葉、巨大ズッキーニ、食用ほおずき、など。
その一つにガーデンハックルベリーがありました。
購入したときにレジのおばさんから「生じゃ食べられませんよ」と念を押されたのを覚えています。
袋には説明書が入っておりその通りにジャムに煮て食べました。

次の年からは苗を買って栽培しています。
夏の暑さと乾きには弱いのですが、寒さに強く、11月になっても枯れない印象があります。

さて、収穫した実を加工しましょう。
まずはあく抜きです。

収穫して洗ったハックルベリー

実が硬いので時間をかけて茹でこぼします。
紫のゆで汁になったらあく抜き完了です。

茹でこぼしてあく抜き

次いで、砂糖とレモン汁を入れて煮ます。
煮ていても実崩れしません。
汁がとろりとし、実が柔らかくなったら出来上がりです。

畑のハックルベリーは結実から時間が経過していたので種ができており、煮汁の中に細かな種がこぼれ出ていました。
もちろんこれでOKです。

砂糖を投入
火にかけてあく抜き
煮詰まってきた
並行して保存瓶を煮沸消毒
瓶に密封して出来上がり

1年分のポリフェノールを摂取しましょう。

そろそろ畑じまい

10月下旬になりました。
畑は雑草の勢いも静まり、夏野菜たちは霜に当たって立ち枯れ、菊芋のみが勢いよく空に向かって屹立しています。最後の?収穫に行きました。

なんとミニトマトが色づいています。
苗を定植したトマトはほぼその使命を終えていますが、こぼれ種から自生したミニトマトは伸び続け、実をならしていました。
自生するとその場の気候に慣れるのでしょうか。
逞しいミニトマトを収穫します。

葉を枯らしながらも実をつ受ける自生トマト
この日の収穫。味もマアマア

ズッキーニは夏の後も幹を伸ばし続けていましたが、さすがに葉っぱは寒気で枯れています。
探ってみると細いながら実がありました。
スープ用には十分の実を収穫。

葉が枯れたズッキーニ
収穫。ラストか

ナス、ピーマンは新しい実はなく、また既成の実も大きくはなっていません。
食べるには十分なので収穫します。

キューリ、ゴーヤは完全に終了です。

採り残していたトウガラシ、ガーデンハックルベリーを収穫します。

トウガラシ
ガーデンハックルベリー

ほおずきの収穫シーズンはこれからでしょうか。
幹も葉も寒気にやられていません。
実の熟しは遅くなりましたが収穫はありました。

寒気の影響を受けない?ほおずき
ほおずきの青い実
収穫した完熟ほおずき

初めて植えてみたウコンが育っていたので掘ってみました。
少しばかりの収穫がありました。
加工方法を確認し、利用しやすいのであれば来年も作ろうと思います。

ウコンの地表部
掘ってみたウコン

菊芋も採り頃です。
茎が硬くて長いので掘り方に注意が必要です。
草刈り機を持って行ったので、地上部分をカットすることにしました。
しばらくほおっておき、枯れた地上部を片付けた後、ゆっくり掘ろうと思います。

菊芋の試し掘り
菊芋軍の地上部をカット

今後の仕事は、ほおずきと菊芋の収穫。
玉ねぎの植付。
夏野菜の片付け(枯れた地上部分と支柱の撤去、マルチはがしなど)があります。

作業に当たって涼しいのは大いに助かります。

DVD名画劇場 ドイツ表現主義時代の幻影「カリガリ博士」「吸血鬼ノスフェラトゥ」

第一次世界大戦後からヒトラーが台頭するまでの1918年から1933年まで。
ドイツ映画はその全盛期を迎えていた。

サイレント映画からトーキーへの移行にあたるこの時代、ベルリンのウーファ撮影所を中心に、幾多の名作が生まれ、ハリウッドをしのぎ世界一の水準を示した。

手許に「写真 映画百年史」という5巻シリーズのグラフ雑誌がある。
1954年から発刊され編著者に筈見恒夫、表紙に野口久光という一流の布陣。

発刊の趣旨は映画発祥時からサイレント時代、トーキー時代を経て1950年代までに至る世界の映画史を写真でたどるというもの。

グラフ雑誌「写真映画百年史第2巻」表紙

日本映画についてが半分ほどを占めるのは致し方ないとはいえ、残りの半分をハリウッド映画と欧州映画で分け合った構成となっている。

「写真 映画百年史」は、見開き2ページに一つのテーマで写真が載っている。
日本映画に関しては「目玉の松之助専本の映画を完成」としてサイレント時代の日本映画のヒーロー、尾上松之助の作品写真を集めたページがあり、外国映画に関しては「巨匠グリフィスの功績」としてD・W・グリフィスがチャップリンやピックフォード等のちにパラマウントを設立するメンバーと談笑する写真などを掲載している。
ファン向けでもあり、本格的でもある映画グラフとなっている。

注目すべきは第一次大戦後から、ナチス台頭までの時代のドイツ映画の取り上げ方だ。
第1巻では「表現派と歴史大作 敗戦ドイツ大いに賑わう」の表題で「ドクトルマブセ」や「カリガリ博士」を紹介するページがあり、「逞しいドイツ映画」の題でフリッツ・ラングによるゲルマン神話の映像化「ニーベルンゲン物語」などを紹介している。

第2巻では「ムルナウとパプストの活躍」と題してサイレント名画「最後の人」「パンドラの箱」を紹介。
「山岳映画と科学空想映画」と銘打ってアーノルド・ファンクらをフォロー。
「ドイツ映画 現実と幻想」として表現主義の後の潮流となったドイツ映画のリアリズムとロマンチシズムの諸作品を紹介。
「ウーファ映画華やかに咲く」では20年代に花開いたドラマの数々を紹介。
ほかに、ドイツからハリウッドに移ったエルンスト・ルビッチについてのページもある。

第1巻より。「カリガリ博士」が紹介されている
第1巻より。「ニーベルンゲン」などの紹介
第2巻より。ルイズ・ブルックスの顔が見える
第2巻より。「メトロポリス」など
第2巻より
第2巻より。忘れられたウーファ作品の数々

こう見ると「写真 映画百年史」におけるドイツ映画の比重はかなり大きい。
ドイツ映画の主に1920年代の流れが、表現主義、歴史もの、音楽ものからリアリズムとロマンチシズムへと続いて行ったことがわかる。
その流れの中に「カリガリ博士」「吸血鬼ノスフェラトウ」「嘆きの天使」「制服の処女」などの作品があり、また現在では忘れられている幾多の作品やスターがいたことも。
戦前のドイツ映画が質量ともに第一線にあったことが日本でも認識されていたことも。

なお、サイレント時代のドイツ映画で起こった「表現主義」とは、第一次大戦に敗戦したドイツの退廃と虚無が生んだ芸術形式(写真映画百年史第1巻P27)とある。
当時の主流であった、自然主義、印象主義への反動として生まれた前衛運動であったようだ。

では、表現主義時代の代表作「カリガリ博士」を見てみよう。

「カリガリ博士」 1919年  ロベルト・ウイーネ監督  ドイツ

「クレヨンしんちゃん ヘンダーランドの冒険」という劇場用アニメを見たことがある。
街に出現したヘンダーランドという見るからに怪しい遊園地でもっと怪しいおかまが呼び込みをする。
街では呼び込みの歌が流れる「変だ変だよヘンダーランド、嘘だと思ったらチョイとおいで・・・」。
しんちゃんたちは果たして怪しさの究極地・ヘンダーランドから脱出できるのか!?

遊園地の、非日常的な空気感とそのいかがわしさを描く映画は「カリガリ博士」がその元祖だった。

カリガリ博士と棺桶のチェザーレ

分厚い眼鏡に山高帽、ずんぐりしたマント姿。
眼鏡を上に下にずらしてぎょろ目をむく。
役人や官憲に対しては卑屈にふるまい、弱いものを誘惑して遊園地のテントへと誘う。
その名もカリガリ博士が街に現れる。

ドイツの民話「ハーメルンの笛吹き男」からのモチーフなのか?
時代を越えて世界に敷衍する人さらい神話の援用か?

プラハ出身のハンス・ヤノウッツとグラーツ出身のカール・マイヤー。
オーストリア=ハンガリー帝国出身の第一次大戦経験者、二人による共同脚本。

遊園地と精神病院、バレーダンサーのような身のこなしの夢遊病者と怪人博士。
怪しすぎる映画的組み合わせが、抽象的な書割を背景として繰り広げる悪夢のような物語。

二人の脚本家は主人公の名前を「発見」したとき会心の叫び声を上げたという。
カリガリ。
魔術師、奇術師の類に通ずるというイタリア系のネーミングだ、カリオストロ、フィーデーニのような。

この作品の背景は思いっきりデフォルメされた書割で表される。
書割の道路や壁がゆがみ、入り口は斜めっていて悪夢の世界を増長する。
遊園地を表す書割には猥雑な賑やかさに満ちている。

カリガリ博士が見世物として棺桶で飼っている夢遊病者・チェザーレもすごい。
ぴっちりとしたタイツ姿でダンサーのような身のこなしで美女を狙う。
カリガリ博士がドイツ的な土臭さ、やぼったさ、頑迷さに囚われた存在とするなら、芸術的、情緒的、美的な存在のチェザーレは、遠近法を無視したゆがんだ書割セットを背景に、ダンスのようなあるいはパントマイムのような誇張した動きでさ迷う。

チェザーレの方が悪夢度が高い。

チェザーレに扮したコンラット・ファイト
チェザーレに扮するコンラット・ファイトが幻想的な書割を背景に美女を誘拐する

「カリガリは人間の価値尊厳を蹂躙するプロイセンミリタリズムの擬人化された姿であり、チェザーレは徴兵され殺人訓練を受ける一般民衆のことである、と二人の脚本家は考えた。
そのテーマは、第一次大戦で非人間的な体験に遭わずにおれなかった二人の反戦、反国家思想から出現したもの。」(岩崎昶著 朝日選書「ヒトラーと映画」P227より)

朝日選書「ヒトラーと映画」。1933年前後のドイツ映画を語る

リアリズムによらず、むしろ極端な表現主義によって反戦、反国家を謳った名作。
現在見ても、その表現の徹底ぶりに驚かされる。
また非人間的な権力に対する恐怖という点では時代を越えたテーマを有する作品である。

「ヘンダーランド」の原点でもある。

「吸血鬼ノスフェラトゥ」 1922年 F・W・ムルナウ監督  ドイツ

カリガリ博士というガチガチにカリカチュアライズされた自らの民族性の宿痾に次いで、ドイツ人は中欧の伝承の中により不安定で超自然的な吸血鬼というキャラクターを発見した。
ドイツ民族は災難から逃れられないようである。

カリガリという災難が反理性主義のいわば象徴で、時代の変遷や理性主義により克服し得るものだとすると、吸血鬼は歴史的かつ超自然的な存在で、その災難度は高く深い。

ドイツ映画が吸血鬼を素材にするこということは、理性主義ではどうにもならない当時の現実からの逃避なのか。

カリガリはともかく、吸血鬼は21世紀になっても映画の素材として生き残っていることから、ドイツを越えたキャラクターを発見したということなのか。

ノスフェラトウの象徴的なポーズ

「吸血鬼ノスフェラトウ」のストーリーは、ハリウッドによるリメーク「魔人ドラキュラ」にほぼトレースされている。
違うのは吸血鬼の見た目と性能。
「魔人ドラキュラ」の吸血鬼は人間に対してはオールマイテーで、魅入られた人間は対処できない。
まるでエイリアンや病原菌のような吸血鬼である。

「ノスフェラトウ」の吸血鬼は人間を倒すことはできるが、たとえ吸血したあとでも完全な下僕にはできない。
また、自己を犠牲にして他を助けようとする人間の崇高な意志の前に、あえなく朝日を浴びて溶けていってしまう。

自らを犠牲とする美女のクビに気を取られた挙句、朝日に溶け行くノスフェラトウの最後

まことに人間臭いのがドイツ製吸血鬼。
その姿はハリウッド版のベラ・ルゴシ扮するドラキュラのように支配的、魔術的なものではなく、「カリガリ博士」のチェザーレのように女性的で美的なもののようだ。

ノスフェラトウには、その城の麓に生きる村人に忌諱される悲しみがある。
日陰に生きる者の哀れさとでもいおうか。
さらにいうと、ノスフェラトウの尖った禿げ頭、鷲鼻、ひょこたんひょこたんと歩く姿はどこか奇形的で、被差別感すら感じられるのだ。

ノスフェラトウがワイマール時代のドイツ人にとって、社会的恐怖・差別の象徴であることは確かだ。

追加) 「M」 1931年  フリッツ・ラング監督  ドイツ

第一次大戦後のドイツ映画界は、表現主義、歴史もの、ゲルマン神話、音楽もの、と様々なジャンルで第一級の作品を発表してきた。
この時代の第一線の監督として、ムルナウ、パプスト、エルンスト・ルビッチなどと並んでフリッツ・ラングがいる。

ベルリンにそびえるウーファ撮影所はユダヤ人がいなければ成立しない、といわれていた。
ラングもユダヤ人だった。

ラングはゲルマン神話に題材をとった「ニーゲルンゲン」をナチス宣伝相ゲッペルスに絶賛されたものの、「怪人マブセ博士」(1932年 サイレント作品「ドクトルマブセ」のセルフリメーク)を上映禁止にされ、1933年ナチス党の政権奪取の年にフランスへ亡命した。
「M」は「怪人マブセ博士」のひとつ前の作品で、ラング初のトーキー作品である。

ナチスの政権奪取前後に、ユダヤ系映画人が多数アメリカに亡命している。
が、それ以前のドイツ映画全盛時代から、ドイツ映画人のハリウッドによる引き抜きが続いていた。
ハリウッドによる映画人の引き抜きと、撮影所への資本参入がドイツ映画界の衰弱を生んだ。
とどめを刺したのがナチス党の政権奪取だった。
ドイツ映画のシンボル、ウーファ撮影所は第二次大戦のベルリン陥落とともに文字通り崩壊した。

「M」はナチス党政権奪取前夜の不安感をユダヤ人フリッツ・ラングがこれでもか、と描いた作品。
スリラー仕立てだが、ラングの狙いが、組織や群集の愚かさ、群集心理の不条理さにあったことは明白だ。

ピ-ター・ローレ、畢竟の怪演

ピーター・ローレが児童誘拐の犯人を演じる。
まだ若くぽっちゃりしている。
彼もまたハリウッドに亡命し「毒薬と老嬢」では人造人間とともに逃亡を続けるドイツ訛りの医者を自虐的に演じている。
彼のハリウッド時代のおどおどした小悪党演技の原点が「M」なのだろう。

児童誘拐殺人犯Mを追いつめる警察と犯罪組織。
なぜ犯罪組織がMを追うのか?
Mのおかげで泥棒は上がったりだ、という理由で。
その理由もばかばかしいが、警察の方も捜査の決め手を欠き捜査会議でタバコをふかすばかり。
ラングはカットバックで犯罪組織と警察会議を並行して描く。
まるで警察も泥棒も同じだ、と言わんばかりに。

Mを捕まえた犯罪組織が人民裁判よろしくMの罪状を追いつめる。
小児愛好者という病気のMは自分でも犯行を抑えることができない。
形だけの弁護人役が、Mに必要なのは治療で処罰ではないと正論を述べるが、圧倒的群衆は処罰を求めて叫ぶ。
群集心理の絶望感が画面を覆う。

この作品、警察の捜査の一環で、ベルリンの娼婦が集まるいかがわしいバーに踏み込むシーンがある。
長い尺で。
ラングが、警察の藪にらみ的な愚鈍さとともに、当時のドイツ社会の絶望的な裏側を描きたかったことを物語る。

映画を通してみて、犯罪スリラーとしての鋭さも印象に残るが、その比重は少ない。
社会に潜む「普通」の人間が小児嗜好の持ち主であり、それは本人では抑止できない「病気」であるとの観点は新しい犯人像だと思うが。

ラングによる戦前のドイツへの訣別のメッセージともいえる作品。
フランス経由でハリウッドに渡ったラングは、暗黒ものから西部劇まで様々なジャンルで活躍することとなる。

県内ローカル新聞の世界 佐久市民新聞

長野県には「市民新聞」のネットワークでもあるのだろうか?
手元にあるのは「佐久市民新聞」の10月6日号。
佐久市岩村田のコンビニで買いました。

ちなみに諏訪地域にも塩尻地域にも市民新聞があります。

佐久市民新聞は毎週金曜日の発行、発行元は佐久市民新聞社で住所は小諸市になっています。
一部220円と高めです。
8ページにわたり地域の情報が掲載されています。

表紙は臼田小学校で開かれた運動会。
臼田地区の4つの小学校が統合された後の初の運動会とのこと。

臼田は、佐久市を構成する地区の一つです。
小海線の駅を持ち、駅前には寂れたとはいえ商店街や飲み屋街が広がります。
南牧村経由群馬県につながる峠道の出発地点でもあります。
函館五稜郭と並ぶ近代平城である龍岡城が近くに現存しています。
4つの小学校の統合後は、全校児童数583人の規模での再出発のようです。

8面にも小学校の記事があります。
野沢小学校合唱部がNHK音楽コンクールの全国大会に出場とのニュースです。
凄いです。
野沢地区も佐久市を構成する主要地区の一つで、独自の商店街を持ちます。
付近には有名なピンコロ地蔵があります。

4面には面白い記事がありました。
信州プロレスが小諸で開催する「小諸ボンバイエ」という大会の紹介記事です。
北は根室から各地に存在するローカルプロレス団体が信州にもあったのです。
小諸のラーメン店主の主催で無料で行われるとのこと。
西口プロレスの長州小力やアントニオ小猪木が緊急参戦という豪華さです。

7面には、和算の全国大会が佐久平の交流センターで開かれたという記事も。
19回目となる和算の全国大会が長野県で開かれるのは3回目とのこと。
「産額」という和算の文化遺産が69枚も県内に残り、佐久市東中学には和算をたしなむ会があるという、教育県長野らしさがうかがえる記事です。

週一回の発行とはいえ、季節感と地域性に彩られた市民新聞はこの先も情報の発信、記録の媒体として残っていってほしいものです。