「映画論叢」という雑誌

おじさんも知らなかったが「映画論叢」という雑誌がある。書店に置いてあるのは、神保町の東京堂でしか見たことがない。
国書刊行会の出版で、毎月ではないが年に数回発刊しているようだ。
映画好きのおじさんは、書店で見かけると手に取るが、内容はかなり専門的で、とっつきずらい。

おじさんと映画雑誌

おじさんにとっての映画雑誌は、「スクリーン」と「ロードショウ」が記憶のはじめ。
両雑誌とも、洋画のスターグラビアがメインの大判雑誌で、淀川長治、小森和子といったタレント評論家が来日した映画スターにインタビューした記事がメインの印象。
日本で公開する洋画の全作品を写真紹介するという記録性も持っていたが、読者層は若い女の子であり、おじさんの若い時代には買うのが恥ずかしかった。

その当時の日本映画については「近代映画」という雑誌があり、日本映画のスターグラビア誌の役割を担っていたようだが、覗いたことがない。

おじさんが高校くらいになって、映画に興味を持ち始め、覗いた雑誌が「キネマ旬報」だった。
日本で一番古い歴史を持つ映画雑誌である。
おじさんが高校生の頃の「キネマ旬報」は、そもそも当時住んでいた函館の書店にはおいていなかった!
古本屋でバックナンバーを手に入れるか、書店に注文しなければ現物が手に入らなかった。

高校の途中で移り住んだ札幌の書店にはおいてあり、その後、大学に入ってしばらくするまで毎月購読した。

「スクリーン」が作品紹介する際に、題名の前に持ってくるのが主演スターの名前だとしたら、「キネマ旬報」では、監督の名前を持ってきていた。
そういうところが生意気な青少年映画ファンの心を刺激したものだった。

当時の「キネマ旬報」では、竹中労の「日本映画縦断」という連載があった。
伊藤大輔監督など、当時存命の日本映画の生き証人への聞き取りだった。
田舎のにわか映画ファンには全く予備知識もない世界ではあったが、嵐寛十郎の会などは面白く、また作者竹中の情熱に感じ、熟読したものだった。

また、「キネマ旬報」の巻末に掲載される上映情報の中で、当時の池袋文芸坐や、京一会館など名画座のバリバリのプログラムに心ざわめかせたものだった。
「バリバリのプログラム」とは、溝口、小津、黒沢などの名作群だけでなく、例えば、「日活アクションの世界」と銘打つ系統的なオールナイトプログラムや、鈴木清順、岡本喜八など当時再評価が盛んだったプログラムピクチャーの番組のことです。

ちなみに当時の封切り作品というと、おじさんが高2の時が、「ダーテイハリー」「時計じかけのオレンジ」「フレンチコネクション」。
映画にはまる導入としてこれ以上なしの作品群でした。

また、大学に入る前後、邦画に関心が行く生意気な時期には、「仁義なき戦いシリーズ」、「赤い鳥逃げた?」「赤ちょうちん」などの藤田敏八もの、寅さんの全盛期とこれまたグッドタイミングでした。

この間の映画事情の変遷

「キネマ旬報」に刺激された田舎の映画少年だったおじさんも今や初老。

この40年の間に、映画界はアジア映画ブームがあり、CGが起こり、デジタルが一般化した。
一方で、旧作の保存や発掘、系統的な上映と研究なども盛んになってきた。

おじさんが若い時、名画座での上映では、フィルムの雨降りや、画面欠落は当たり前だったが、昨今の名画座では多少の雑音、欠損はあるものの、ぼろぼろのフィルムの上映はまずはない。

映画の旧作については、不特定多数相手の商品という位置づけから、特定の趣味者に対する骨とう品的な位置づけに変わっているような気がする。
例えば、古いフィルムで最大限の利益を得る、商売一辺倒の考えから、採算が合う範囲でニュープリントを起こす、文化財提供的な考えへ、映画館のみならず配給会社も変化しているのではないか。

旧作の上映プログラムについても、溝口、小津、黒沢といった国際的にも評価が定まった古典作品をメインとしたものから、より深く、趣味的に、かつピンポイントに対象を広げている。
例えば、最近再評価の高い監督では、古い順に清水宏、中川信夫、石井輝男、鈴木英夫などがおり、特集上映などが組まれているほか、ちょっと前までは映画ファンに忌避されがちだったエログロ路線の新東宝という今はなくなった制作会社の作品などもちょっとしたブームになっている。

こういった点では、映画にまつわる環境が、映画先進国である欧米のいい部分に似てきたようであり、おじさんはうれしい。

「映画論叢」という雑誌

すでに発刊50号になろうとする「映画論叢」。
第一号からが調布図書館にそろっているので出向いた際にはめくっている。
この点ではさすが映画の町調布の図書館である。

ついつい熟読してしまい、1時間で一号分読めるかどうか。発刊の趣旨によると、映画産業の「よいしょ」からの脱却を宣言している。
その志やよし。

記事の分野は、映画の歴史の保存や関係者の証言、忘れられた関係者の記録、フィルムや機材に関する提言など、幅は広い。

これまでの主な連載は、「新東宝大蔵時代研究」として、小森白監督、俳優星輝美などへのインタビュー。
「東宝プログラムピクチャーの世界」と銘打って、若林映子、久保昭などへのインタビュー。
監督インタビューシリーズとして、井田操、井上和男、鈴木英夫、斎藤正夫、小谷承靖など。
俳優三上信一郎の「チンピラ役者の万華鏡」。
戦前の映画会社の記録「まぼろしの極東キネマ」「大都映画研究」など。
「こんな役者がいた」シリーズ。
俳優へのインタビューとして、原知佐子、左幸子、緑魔子、高宮敬三、小泉博など。

こうして書いていても頭が痛くなるくらいだが、共通しているのは、映画を巡るすべての事象の記録を志向していること、特に商業ベースのジャーナリズムが扱ってこなかった人材、分野への言及、記録への志向である。

ページをめくるっていると、顔は知ってるが名前の知らなかった俳優の出演作や、マイナーのまま消えていった映画監督のプログラムピクチャーへの興味がわいてきて時間が経つのを忘れる。
すでに単行本を出している三上信一郎の洒脱な文体と露悪趣味にニンマリするとともに、宮口精二が個人で発行していたという「俳優館」という冊子の存在に感じ入る。

そしてこの雑誌の極め付きは、細部へのこだわりにある。
すなわち、フィルムとデジタルの話、スクリーンの上映サイズの話、にこだわりにこだわる。
これまで戦争映画に登場してきた戦闘機の実機に関するコラムもある。

無関心な人にはどうでもいい話だが、映画にとって、フィルム、機材、上映サイズの話はきちんと記録しておかなければならない。
これからデジタル移管でどさくさが起こりかねない。

映画本を論ずるコラムもあり、今を時めく意識高い系映画ファンの教祖・蓮見重彦なんかは、信者ともどもケチョンケチョンの扱いなのも痛快だ。
痛快だが、今の映画状況、蓮見の評価で人がどっと集まるのも事実である。

映画ファンに限らず、消費者は、大衆は、情報を待っており、情報に従って行動する。
この先、「映画論叢」が「再発見」した監督や俳優が、おじさんのような旧作映画ファンの流行となるかもしれない。

「映画論叢」。
マニアの世界でありがちな、「自分だけは見ている」という「知ったかぶり」を根拠としたマウントの取り合いにはならぬよう。
今後も楽しみにしています。

 

おじさんの食堂探訪VOL.7 国分寺駅北口風景の激変と変らぬ店たち

国分寺まで行きました。
おじさんの自転車散歩コースの一つです。
野川公園、武蔵野公園、府中運転試験場、小金井を抜けてゆきます。

野川公園から運転試験場までの道

国際基督教大学というところがあります。
中島飛行機製作所(現富士重工)の跡地に戦後作られた大学で、ゴルフ場まである広大な敷地を有していました。
そのゴルフ場が野川公園という公園になっています。

おじさんは公園の前を自転車で走ります。
西武線が高架で横切ると、公園は武蔵野公園と名を変えます。公園が途切れると府中運転試験場があります。
都内では鮫洲と並ぶ2大運転試験場として君臨しています。おじさんも免許更新のたびに通っています。
試験場の向かいには広大な多磨霊園が広がっています。
試験場の横には閉店した食堂が残っていたりします。

小金井市内を抜けます。
カンデルというパン屋へ寄ります。
自宅の庭先に小屋を建て店にしています。
フランスで修業したという女性の職人が焼いています。
月水金のみの営業ですが、バケットは本格的です。
外がカリッとして中がもっちりしており、香ばしいパンです。

国分寺駅北口の激変

国分寺駅の北口です。
駅ビルからタワーマンションが建ちあがっています。
写真に写っているもの以外にもう一棟あります。
遅れてきた「バブルの塔」のようです。
バブル時代は30年以上前なので少々遅れすぎですが、今やっと武蔵野は国分寺の地にバブルが到達した、ということなのでしょう。

駅ビル構内にはこれでもかというくらいに食品スーパーなどの商店が立ち並んでいます。
贅を凝らした店店の前を通らないと駅の改札口にたどり着けない構造になっています。

衣食住と通勤をセットにして提供された商品を見ているようです。
少しでも時間を無駄にせず、仕事と消費に励むよう巨大資本に強制されているがごときです。

駅前は商店街がすっかり撤去され再開発中です。少し前までは旅館、果物屋、パチンコ屋などが軒を連ねていました。
この通りの左側も商店街でした。

駅前に残る食堂で昼飯

北口商店街の一角に残る食堂だるまやです。今のところ再開発の波が及んでいません。
マンションビルの一階なのでしばらく残るでしょう。

かつては昼時は満員でしたが、今日の客はほかに3組ほどでした。おじさんかつてこの食堂でカツカレーを注文し、その量と、カツの硬さに往生したことがありました。
今日はアジフライにします。
アジは大振り、ご飯も大量でした。素材と調理は相変わらず粗いながらも腹いっぱい。690円でした。
なお、揚げ物は粗かったものの、みそ汁と漬物には年季を感じました。

キッチンは高齢のおじさん一人とおばさん二人。
ホールはバイト風のお兄ちゃん一人でした。

駅周辺の変らぬ店たち

北口商店街にある古本屋です。
先代の女主人の時から国分寺に行くと顔を出しています。
先代の時はホームレス風の人も雑誌を持ち込んでくるような店で、話し好きの主人の人柄が偲ばれました。
今は若めのこれまた女主人に代わっています。
隣の団子屋が高齢の高齢で閉店したので、店を拡張するようでした。

音楽喫茶の田園です。ここの女主人は本物の高齢者で90歳近いのではないでしょうか?伝説の店です。
今日はまだ準備中。

国分寺など三多摩地区はうどんが名物。
うどん好きには有名店です。

ボクサーの輪島功一がオーナーの団子屋です。
今日は草とゴマを買いました。巻物類もおいしそうです。

北口の外れに残る建物。ホテルと食堂を兼ねています。
味の名店街といっても現在は食堂は一軒だけのようです。
ザ・昭和です。

西武国分寺線の旧改札口から延びる道はかつての国分寺駅前の雰囲気を残しています。
通りにある純喫茶です。
ちなみに西武線の改札口は新しい駅ビルに組み込まれており、この道は西武バスのターミナルへと続く道となっています。

南口に行きました。
駅ビルが巨大にそびえています。
ロータリーと放射状に走る道は国立の駅前に似ています。

中央線カルチャーと全共闘世代の終着駅・ほんやら胴です。
伝説過ぎて恐れ多く、全共闘世代より5歳ほど若い山小舎おじさんは、この店に入ったことはありません。

ほんやら胴の近くに新しい古本屋がありました。

帰りに三億円事件の現場を見る

三億円事件の現金強奪現場です。
府中刑務所の壁沿いの道路。
当時からあった歩道橋付近が現場とのこと。

向かいが小学校のグラウンドです。
事件当時は雨でしたが、晴れなら校庭から事件を目撃する目の数が多いことが予想されます。
本通りの府中街道にもすぐの地点です。

正門です。

人目の多い場所で起こった、荒っぽい事件だったことがわかります。
迷宮入りしたのは、解明できない、解明してはいけない、何か理由でもあったのでしょうか?

おじさんの食堂探訪VOL.6 神田お茶の水に昭和の東京を捜す

冬ばれの日。
気温12度と立春間近の陽気に誘われて、おじさんは久しぶりに電車で遠出。
東京は神田お茶の水界隈に、昭和の味と風景を捜してきました。

御茶ノ水駅と聖橋

JR御茶ノ水駅。
日大、明大、予備校などがひしめき合う学生の町。

聖橋から下を眺める。
立体交差する線路と外堀(神田川)。遠くに見えるアーチ形の鉄橋。
東京らしい風景です。

JR線と神田川にかかる橋は聖橋です。
名前の由来は橋を挟んで建つ二つの「聖」こと、湯島聖堂とニコライ堂の間の橋だからとの由。
江戸時代からの学問の中心地なのですね。

湯島聖堂は中国由来の儒学の日本総本山だったところ。
堂々たる中国建築が残っています。
屋根の魔除けは鳳凰と、トラでしょうか?一方、聖橋を挟んで南側にあるニコライ堂。
ハリストス正教会とのことで、同様の教会は函館にもあることを思い出しました。
ドーム型の屋根があたりを睥睨しています。

神田明神は江戸城の鬼門の守り神

江戸の総鎮守府として、江戸城の鬼門を固める神田明神。
当時の朝廷に反逆し、平定された平将門を祀り、その怨念を封じてもいる。
いわば、東京で最強のパワーを誇る神社。季節を問わず参拝客が引きも切らない。
御茶ノ水駅から聖橋を渡り、湯島聖堂を過ぎたあたり。
やがて秋葉原の空気の漂うかというあたりに鳥居が出現する。朱色の塗りも新しく、常ににメンテナンスされている社屋が、地方の古式豊かな神社に比して、ありがたみを減じてはいるものの、反面、都心で常に人が集まる場の、リアルタイムのパワーを存分に発揮している。

今日は2月とはいえ、拝殿に向かい並ぶ多くの人々の姿がった。
おじさんも、今年初めての参拝。家内安全のお札も買いました。やはりこの辺りは学問と縁の深い場所でした。

地元の中華食堂「やまだ」でチャーハンセット

昼食はおじさんお気に入りの食堂にします。
御茶ノ水駅から徒歩3分。やまだ食堂です。
土曜にもかかわらず満員。といっても席は20程です。

ラーメンを中心に中華定食が主なメニュー。
ラーメンは昔ながらの東京風。麺に歯ごたえがあります。
チャーハンは、今どきの「ご飯粒に油がコーテイングされた」パラパラしたものとは違い、お米のでんぷんの味が残る和風のもの。
今の若者が食べたら、なんだこれ?と思うかもしれない手作り感。
かつての家庭のチャーハンはこんな味でした。
量はたっぷりあります。670円。サービスは純日本人のおばちゃんによるもの。
客さばきもテンポよく。安心していただけます。

おじさん行きつけの理髪店です。高齢のおばちゃんが、たっぷり時間をかけて丁寧に刈ってくれます。ここで一回刈ってもらうと、3か月は無理も、2か月髪が持ちます。
1800円。駿河台下交差点付近にあります。

東京ローカル路線バスの旅VOL.3 調布から八王子を目指す

大寒も過ぎ立春はいまだしのころ、夕方から雪の予報の東京地方。
1月最終日です。朝から思いっきり凍えています。
東京ローカル路線バスの旅、新宿がだめなら八王子があるさの巻です。果たして結末は。

調布~西武線多磨間(京王バス)

朝の調布駅前。
バスは北口と南口に分かれて発車しています。
案内板を見ると、北口からはJRの三鷹、武蔵境方面へ、南口からは小田急線方面への路線が多いようです。
最長距離では、小田急線の柿生までの路線がありました。

八王子方面へは・・・、西武是政線の多磨駅までが西へ最長の路線のようです。
多磨からはコミュニテイバスが府中駅まで行くのを知っていたおじさん、まずは多磨駅へ向かいました。

多磨~府中へ(ちゅうバス)

多磨駅前の風景です。
西武線の改札口とは地下通路でつながっています。
多磨墓地が近いので石屋さんが駅前にありました。1時間に2本のコミュニテイバスがやってきました。
料金は100円均一です。
途中、白糸台団地などによって乗客を拾ってゆきます。
ミニバスは満員になって府中駅に到着しました。

府中~国立へ(小田急バス)

駅の立体通路下に広がる府中駅のバスターミナルは巨大です。
いつ来ても案内板と、乗車場所が一致しません。
国立駅行きが八王子方面の最長区間と分かりましたが、案の定、乗り場を間違え、目的のバスには発車寸前で飛び乗る始末でした。国立は三多摩地区随一の文教地区といわれています。
一橋大学を筆頭に、三多摩地区で偏差値一番の都立国立高校などがあります。
駅から放射状に広がる道路。
駅名の由来は、国分寺と立川の間にあるから、とのことも含めて、計画的な街づくりの意図を感じることができます。

おじさんの国立に対する印象は、住宅地でも路駐をすると直ちに通報されるという経験を持ち出すまでもなく、住民の意識の高さです。
山口百恵さんも住んでますしね。住宅もリッチな感じがしました。

国立~立川(立川バス)

国立では駅前のバス案内図を見るまでもなく、立川行きの便が停車しているのが目に入りました。乗ります。

立川という町は、陸軍飛行場が米軍に接収されてからの基地の街のイメージでしょうか。
基地、歓楽街、ギャンブル(競輪場)という必要悪の3点セットを有する、三多摩地区では珍しい町です。
ちなみに隣の国立には3点セットのいずれもが存在しません。

今は、米軍が撤退し、駅近くから広がる広大な基地跡には、首都機能のバックアップを行う建物が林立しています。
また、駅前はかつての擦れた場末の街のイメージも一新した巨大駅ビルが建ち立体通路が結んでいます。
モノレールまでが走るさまは文字通りの近未来図です。

立川~日野(京王バス)

立川にも巨大なバスターミナルが展開しています。
西武バス、立川バスなどが運行するそれらの路線は、主に北方向へむかい、東村山、東大和、拝島など西武線方面との連絡となっています。迷子になりかかったおじさんは、立川バスの案内所で聞きました。
八王子までの路線はない、京王バスの停留所から日野方面があるかもしれない、とのこと。
おばさんの言うとおりに、ありました、日野行きが。
待ち時間は15分。

コンビニでおにぎりセットなどを買い車中で昼飯です。

車窓越しに近未来・立川駅前の光景が流れてゆきます。

日野~八王子(京王バス)

日野駅に着きました。
同じJRの駅でも立川が必要以上にギラギラしているのに対し、悪夢から覚めたように落ち着いた本来の姿を見せている日野駅前。

地元出身の新選組、土方歳三で町おこしです。あった、ありました八王子行きが。
これで無事、目的達成です。バスは堂々と国道20号線を驀進。
日野自動車やコニカミノルタなどの工場に寄りながら八王子駅に到着しました。
東京ローカル路線バスの旅の企画3回目にして初の成功です。万歳。

八王子点描

八王子は三多摩地区のどん詰まり。
甲州街道小仏の関のふもとの町です。
都心より2,3度気温が低いのが特徴。

町の雰囲気はのんびりしています。
おじさんには落ち着きます。かつては繊維で栄えた町、花街の名残があります。
芸者さんもでもいるとのことです。

おじさんのような庶民が飲むところはこういった店。

おじさんが八王子に来たら必ず寄るのは、餅と団子の伊勢屋本店です。
古本の佐藤書店も元気です。

500円でカツどんがっつり食える食堂。子供お断りの張り紙はなくなってました。

おじさん用の廉価な衣料はここで調達。冬ものシャツが2000円以下で買える店です。

帰りは京王線特急で調布に帰りました。

東京ローカル路線バスの旅VOL.2 調布から新宿へ  リターンズ!

おじさんの東京ローカル路線バスの旅。
先日、調布のつつじが丘駅から新宿を目指し、途中で時間切れペンディングとなっていた旅の再開です。
果てして結末は?

千歳烏山からリターンズスタート!

前回は、京王線の下高井戸までバスでたどり着きました。
その先の路線バスに存在の感触はありませんでした。
一方、千歳烏山から荻窪行きのバスが出ていることを知りました。
荻窪からならバスがつながるかもしれない!
おじさんは路線バスの旅を再開しました。

電車で千歳烏山駅まで行きます。烏山北口のバスターミナルです。
いつものように交通整理さん二人で小気味よく道路交通をさばいていました。

ここでおじさんは意外なものを見てしまいました。
前をゆく小田急バスの側面に「経堂から新宿までバスで21分」との広告です。
あつ、小田急線の経堂まで行けば新宿行きのバスがあるのか!
急遽、予定変更です。
次の目的地を荻窪から経堂へ変更することにしました。
臨機応変であることもまた路線バスの旅のだいご味!
果たしてその決断は吉と出るか?それとも・・・。

環状八号線の甲州街道バス停で下車、八幡山から経堂行バスに乗車する

ということで、やってきた関東バスの荻窪行きに乗車し、二つ目のバス停、甲州街道で下車します。
このまま荻窪まで行っても、中野まではつながっているようでした。

おじさんは甲州街道停留所で下車。
環状八号線を渡れば、京王線・八幡山駅。
ここから経堂行きの路線バスが出ていることは前回確認しました。

八幡山駅はめったに下車しませんが、歩いてみると劇場があったり、ちょっとした路地風のエリアがありました。

最も、八幡山で一番有名なのは松沢病院でしょうか。
都内最大規模の精神病院です。

駅前から毎時2本のバスが経堂駅まで出ていました。
小田急バスが運行するミニバスに乗りました。途中、希望が丘団地というところを通過します。
高層アパートが数棟並ぶ団地でした。
経堂駅までの景色は、とにかく住宅地でした。
それも共同住宅が多かったような気がします。

経堂は小田急沿線有数の商業地域でした

経堂駅に着きました。
いつ来てもにぎやかというか、大規模な商業地域です。
駅のロータリーも広々しています。

駅に接して小田急資本の商業ビルが建っています。

駅から周辺に伸びる数本の商店街があります。

まずは新宿への路線バス探しです。
ところが駅の小田急バスの発車先を見ても新宿はありません。
もと来た八幡山へ戻る路線のほかには、渋谷行きがあるだけです。駅の案内で聞きましたが、新宿行きの路線バスはないとのこと。
おじさんが烏山で見たバスの広告は何だったんだ!
あきらめのいいおじさんは、新宿行きをあきらめ、経堂の商店街散歩へと目的を変更しました。

早速、一本の商店街を歩きます。
古本屋があったので立ち寄ります。

団子屋でゴマ団子を買いました。

鬱抜けをヘルプしてくれるショップまでありました。

路線バスの旅に敗れたおじさんに農大通りはパラダイスでした

駅の反対側へ延びる商店街も探索してみましょう。
東京農大へと続く、その名も農大通りです。
学生が多くおり、活気にあふれています。
沿道には食堂のチェーン店が一通りそろっています。
人気のラーメン屋には学生が並んでいました。

古本屋があったので立ち寄りました。
面白い品ぞろえの店で、店頭の100円本を4冊ほど買いました。
レジに「当面の間買い取り中止します」という貼り紙があったので、60代くらいの店主に聞いてみました。
「在庫が十分にあるし、持ち込み客とのトラブルが多いから中止にしている」とのこと。

ブックオフのつもりで、無価値な本を持ち込まれて散々困った経験をお持ちのご様子と察します。
「店頭販売はメイン。ネットは嫌いなので」ともおっしゃってました。
いいぞ、昔ながらの古本屋のおやじおじさん!と思いました。

サブカル、雑誌と雑多な知を集めたような品ぞろえに店主の本好きな個性が見て取れる店でした。

たい焼きがおいしそうなので買ってみました。チェーン店ではなくここだけの店とのこと。
味が楽しみです。

今日の昼飯はここにしました。中年というより高年の方3人がカウンター内で切り回している定食屋でした。ショーケースには大皿に盛ったメニューが並んでいましたが、日替定食を頼むと、弁当のような容器に入って出てきました。味はともかく量はたっぷりでした。650円。

商店街の裏手には味のある風景が残っていました。

路線バスの旅ですが、リターンにもかかわらずまたも失敗!
新宿へ行くのはもうあきらめました。

 

おじさんの食堂探訪VOL.5 旧甲州街道をゆき府中の市場で昼食

今日のおじさんは、自転車で調布から府中まで旧甲州街道沿いに行き、府中の卸売市場を目指しました。

旧甲州街道点描

国道20号線の旧道。
旧甲州街道は江戸五街道の一つ甲州街道のオリジナル路線を踏襲している道です。調布から自転車で府中を目指します。
まず最初に目に入るのがおそらく調布で唯一現存する火の見やぐら。しばらく行くとお寺の前庭に、近藤勇の座像もありました。

沿道でみられる家屋。
戦前の建築かもしれません。
古民家というほど古くはありません。
江戸時代からの建築は全く残っていませんが、100坪を超える広い敷地に建つ、古い民家は多く残っています。
街道沿いの民家は「リッチ」だったのでしょう。

塗り壁りの蔵です。軟石づくりの蔵もありました。

府中に入って、白糸台というところで西武鉄道是政線の踏切を渡ります。右手が武蔵境方面。左手が競艇場のある是政方面です。

府中の中心部に至るまで、江戸時代はおろか昭和の風景さえほとんど残されてはいませんでした。
「リッチな」場所は時代による変遷の具合も激しいのかもしれません。

人形店がありました、数少ない昭和の風景でした。。

武蔵八幡神社という神社。
参道を電車が横切る珍しい神社です。

府中の中心部に到着しました。高層マンションが立ち並ぶ都会です。

1000年の都、武蔵国府跡

府中のシンボル、大國魂神社横に、武蔵国府跡の資料館があります。1000年以上前、ここに武蔵野国の国府がありました。
武蔵国とは律令時代の日本の行政の一単位で、今の東京、埼玉、神奈川東部を合わせた地域。
そこの首都が現府中にあったのです。

ちなみに信濃国の国府は現在の上田でした。
国府の歴史を継いでいるのか、府中には税務署、刑務所などがあり、今でも一帯の行政の中心地でもあります。
競馬場、競艇場もありますが。

祝福された場所、大國魂神社

武蔵国一之宮にて、創建1500年を誇る大國魂神社。
京王線府中駅から徒歩5分。
府中のみならず、近隣のメルクマールとして存在している。

おじさんは調布在住なのでめったに来ないが、三多摩地方の住人として新年のあいさつに参拝。

境内に入って改めて思った。この場所は祝福されていると。

平日でも引きも切らぬ参拝客と、それを迎えてゆったりとほほ笑むかのような雰囲気。

これに比す場所は、近隣では深大寺くらいか。
改めて本殿に向かいこれまでの無事を感謝し、新年のあいさつをする。

そして大東京綜合卸売センターにて昼食

大國魂神社を超えて南下。競馬場を過ぎ、サントリービール工場の隣。
府中の卸売市場がある。
その名も大東京綜合卸売センターという。おじさん、昼食がてら食材を調達せんとやってきた。
今日の目的地です。まずは飯。
いろんな食堂がありました。
結局、立ち食い蕎麦屋で、もつ煮セットを注文。
立って食わずとも、近くの休憩所までも配膳してくれるのがうれしい。
おじさん、もつ煮と飯はともかく、うどんはこの半分の量でよかったがあっという間に平らげた。
もつ煮がうまかった。670円。

しかし、肝心の買い物は、魚屋が昼で片付け終わっていたので、魚が買えなかった。残念。
やむなく肉屋、八百屋を冷やかして歩く。
中華食品の専門店まであった。

場内は広く、調布の卸売センターとは比較にならないほどの規模。
魚を目指して再訪するか。

おじさんの食堂探訪VOL.4  東京外語大学もまたCOOP食堂だった!

おじさんの食堂探訪です。
かつての陸軍調布飛行場があった敷地の一角に、東京外語大学があります。
いつのころからか、こちらに移転してきた東京外大です。
今日はこの大学の食堂を訪れました。

武蔵野の敷地に自由に広がるキャンパス

キャンパスは広いです。
街路樹や森、建物を空中で結ぶ回廊などが配置されており、広い敷地を自由にデザインしたキャンパスになっています。

そのキャンパスを留学生の外国人たちが三々五々学生生活を謳歌しています。理系の電通大と異なり、キャンパス外からの出入り口が多く、ほぼオープンな敷地となっていることが特徴です。

入り口などに、学校のシンボルマークをデザインしたオブジェが建っています。掲示板を見ると、世界各国のマイナーな映画を定期的に自主上映しているようでした。
さすが外大としての歴史を感じさせます。

食堂は…やっぱりCOOP経営でした!

食堂へ向かいます。
ひょっとして、ここも・・・。
やっぱりここもCOOPの経営でした。

すっかりおなじみになったメニューレイアウトが迎えてくれます。半ば予期していたことなので、あわてず騒がず、今日は麺類をチョイスします。
かき揚げそば。313円です。食堂から見た外の景色です。冬なので若干寂しい風景ですが、夏は緑があふれていそうです。

食堂内の雰囲気は、大人っぽく落ち着いていました。
外国人は多いのですが、電通大のように中国人一辺倒ではなく、各国人がまんべんなくいる感じ。食堂の窓際では一心に勉強する学生の姿も。
一部の学生のこの緊張感は電通大や学芸大にはあまりなかったような気がしました。

生協で売っているオリジナルTシャツは1640円ほどでした。
デザインが派手なので購買意欲は起きませんでした。

直売所の夏みかんでマーマレードを煮る

冬です。東京は柑橘類の収穫時期です。
東京の家々の庭には、夏みかん、ゆず、キンカンなどの柑橘類が植えられ、今の時期にはたわわに実をつけていることがよくあります。
東京にいると当たり前の風景ですが、雪国から見ると実にうらやましい風景です。
おじさんは長野に暮らし始めて、東京が恵まれていることに気づきました。

西東京の直売所で夏みかんをゲット

おじさんは自転車散歩のついでに、各場所の野菜直売所を覗いて歩きます。
雪国と違って、関東の畑は1年中農作業が可能です。
葉物の旬は冬です。
冬でも、白菜、大根、ニンジン、サトイモのほか、キウイ、柑橘類が直売所をにぎわします。

柑橘類では、夏みかん、甘夏、ゆず、キンカン、レモン、八朔などが売られます。
このうち大型の柑橘類である、夏みかん、甘夏、八朔などは、直売所でも1個80円ほど、2個で100円ほどが相場です。
おじさんは自転車散歩の際に、西東京市の直売所で4個100円の夏みかんを見つけ、ゲットしました。
その直売所の背後の畑を見ると、柑橘類の木が並ぶ畑になっていました。

これはお値打ちです。
キウイなども小金井などを中心に栽培され、時期には小型ながら10個ほど入った袋が200円ほどで手に入ります。
野菜ばかりではなく、果物が地元で生産され直売所で手に入るというのは素晴らしいことだと思います。

夏みかんでマーマレードを煮る

おじさんは山小屋ではいろいろなジャム、コンポートを作りましたが、柑橘類の加工品はほとんど作っていません。
なぜなら原料が地元産ではないからです。
長野県の庭や畑では柑橘類は育たないのです。

ということで、入手した夏みかんでマーマーレードを作りました。
まずレシピを確認します。
皮を細切りにして湯でこぼし、実と一緒に煮るのが基本レシピです。中の袋も煮るというレシピもあるようですが、今回は袋は捨てました。

皮をむき、千切りにして湯でこぼします。3度湯でこぼしましたが苦みは十分残っています。
実を袋から出します。種もたくさんあるので取り除きます。
袋を絞ってジュースを残します。

仕込みに手間と時間がかかります。
湯でこぼした皮に実とジュースを加え、砂糖を入れて煮ます。同時に瓶を消毒します。
砂糖は味を見て目分量。
多いほど保存性は増しますが、食べるときのことを考えると少なめにします。

「暮らしの手帳」に、ジャムを煮るときはさっと煮ること、じっくりにすぎると風味が飛ぶ、というコメントがありました。
それと、ジャムには冷めたときに固まるという性質があることを考慮し、とろとろの状態で火を止めます。

瓶に詰めると小瓶が3本できました。

味見すると皮の苦みがアクセントとなり、実の風味と相まっておいしくでき上がっていました。
地元産の旬の果実の味を残すことができました。

おじさんの自転車散歩VOL.6 調布飛行場と近藤勇

冬ばれの一日。
今日もおじさんは自転車にまたがって散歩しました。

調布飛行場は今も昔も調布のメルクマール

ユーミンこと荒井由実の楽曲に「中央フリーウエイ」という曲がある。
「高輪ゲートウエイ」より40年も昔に、「フリーウエイ」のネーミングだから、ユーミンは時代を40年進んでいたことになる。
歌詞に「調布基地を追い越し・・・」とあるが、ここで歌われる「調布基地」とは、現在の調布飛行場一帯のこと。

もともとは旧日本陸軍の飛行場だったのが始まり。
飛行場は終戦後の一時期、米軍に接収された。
ユーミンが歌うのは、米軍接収期に調布基地と呼ばれたこの一帯のこと。

今も残る「調布基地跡」の看板。

ユーミンは当時、調布基地を超えて実家のある八王子まで、彼氏に車で送ってもらっていたのだ。

ちなみに「右に見える競馬場」とは府中にある東京競馬場、「左はビール工場」とはビールを製造していた時代のサントリー工場のこと。ご存知か。
ご存知ついでに「中央フリーウエイ」とうたわれている高速道路は、フリーどころか「中央自動車道」と呼ばれるれっきとした「有料」の自動車専用道路である。蛇足。

調布飛行場を訪れる。陸軍時代の門扉が残っている。
空襲に飛来するB29迎撃のために戦闘機飛燕が展開していた基地だった。撃墜の成果は思いのほかあったらしい。

ちなみに、30年ほど前には、「調布在住です」というと、年配の人などから「軍人さんのご家庭だった?」といわれることがあった。

今の飛行場は伊豆七島へのセスナ便のターミナルであり、個人所有の小型飛行機の発着場である。

ターミナルビルに入ってみる。

二階は展望室になっている。

伊豆七島の観光ポスターや物産がディスプレイされている。旧陸軍飛行場の敷地に隣接した駐車場に、クラシックカーの廃車が残っていた。
それこそ米軍「調布基地」時代の名残であろう。
米軍が持ち込んだ挙句捨てていったのを保管しているのか。

旧陸軍飛行場の敷地の3/4程度は、飛行場以外の敷地となっている。
南端、国道20号線と接する場所には、味の素スタジアムが建っている。その付近には東京オリンピックマラソン折り返し地点の石碑がある。マラソンといっても1964年の東京オリンピックのマラソンのことだ。
「森元」こと森喜朗元総理や、「緑の狸」こと小池都知事が仕切る、東京2020はこのコースは走らないそうだ。

ちなみに都内有数の設備を誇る味の素スタジアムだが、先年開催の日韓サッカーワールドカップでは、会場とならなかった。
その理由は付近の道路を封鎖できなかったからとのこと。
確かに短時間にせよ、国道20号線を封鎖されては、近隣の住民は生活できないわな。

近藤勇の生家と墓

新選組の近藤勇は現調布の農家出身だ。
生家跡と、養子に入った近藤家が調布市野水というところにある。
そこから100メートルほど行ったところには菩提寺がある。

明治維新の際、逆賊として処刑された、三多摩出身の百姓の小せがれの一生であった。
勝てば官軍。
明治維新を機に権力は、今に至っても薩長、特に長州の側にある。

戊辰戦争以降の権力側の戦死者が靖国神社に祀られているとすれば、逆賊たちは民衆たちによって祀られる。
会津の白虎隊のように、調布の近藤勇のように。
南無阿弥陀仏。

 

おじさんの食堂探訪VOL.3 明大前で明大学食!

京王線に明大前という駅がある。
新宿からの特急が最初に止まる駅で、井の頭線への乗換駅でもある。

今回はおじさん、明大前に行き、その名の通り、国道20号線を挟んで駅と反対側に立つ明治大学泉キャンパスの学食を探訪してきました。

明治大学泉キャンパス

明治大学といえば、大多数の人はJR御茶ノ水駅から神保町方面に下る途中のお茶の水キャンパスを思い出すのではないか?
今はタワービルが建っているお茶の水キャンパスではあるが、20年ほど前は道路に向かって学生運動の名残の立看がいまだに建つ、昔の大学らしいキャンパスだった。

おじさんもそのころ、お茶の水キャンパスの地下にあった学食に入ったことがある。
メニューにスパゲテイはあるが、カウンターにフォークの用意がなく、割りばしで食べざるを得ない昔ながらの学食だった。
おじさん的には、好ましくさえ感じる、昔ながらの光景だったが、20年前とは言え、当時の東京平均では、すでに違和感ありありのシチュエーションだったかもしれない。
そこに明治のバンカラ精神を見た気もした。

今回おじさんが目指した和泉キャンパス。
所在地は杉並区永福町。
昔の地名はこの辺り、和泉といったのかもしれない。

今どきの大学風な食堂でメンチカツ定食

土曜日なので立派な門をくぐる学生の姿は少ない。
がまったくいないわけでもない。

立地が都心に近いせいか、また地面が舗装され、建物が高層のせいか、電通大や学芸大に比して近代的というか都会的な雰囲気が際立つ構内。

部外者の出入りは問題なかった。
食堂は土曜日でもやっていた。

食堂内は閑散としている。
COOP経営でないことを確認して一安心。

メンチカツ定食を頼む。

今どきの学食は、設備といい雰囲気といい、本当に快適だ。
場内には歌謡曲というか、日本語の音楽が鳴り響く。
Jポップというのか、スキー場のヒュッテか、田舎のショッピングモールのようだ。
果たして学食に音楽は必要か?
そう思うのは年寄りだからか?

味は可もなく不可もなく。
おじさんが覚えている昔の学食の味に近かくて懐かしかった。
ごはんの盛りも多かった。
定食330円とCOOP経営の学食(電通大、学芸大)より安いのも好ましかった。
部外者でも落ち着いて食べられた。

これまで行った学食内の雰囲気をおじさん流に言えば・・・

・電通大⇒中国語が幅を利かすグローバルで弱肉強食なカ           オス

・学芸大⇒普通の女子学生が青春を過ごす、田園に囲まれた昔ながらの学生時代

・・・となる。

では明大は・・・「韓流スターの髪形をまねた今どきのチャラい若者が、渋谷に出かける前に過ごす待合室」とでもなろうか。

田舎出身のおじさんの、ひねくれがすぎたか?

和泉キャンパスが寒々しかったのは、真冬の木枯らしのせいばかりではなかった。
おじさんが年取っただけなのか・・・。