ラピュタ阿佐ヶ谷「新春初蔵出し東映時代劇まつり」より  片岡千恵蔵の巻

東映時代劇の、いや前身の東横映画時代からの稼ぎ頭であり、御大と呼ばれたスターは片岡千恵蔵と市川右太衛門だった。

両者はともに歌舞伎界から戦前に映画界入りし「七聖剣」と呼ばれた。
千恵蔵は、マキノ・プロを経て千恵・プロを起こして独立したが、「私は剣戟が好きではなかった」と述べる剣戟スターだった。

戦前の片岡千恵蔵の出演作に「鴛鴦歌合戦」(1939年 マキノ雅弘監督)という愉快な作品がある。
志村喬やゲスト出演のデイック・ミネらとともに若き千恵蔵が歌うミュージカル仕立ての時代劇だった。

「鴛鴦歌合戦」

戦後になると、GHQから仇討ちなどをテーマとするチャンバラものの製作を禁止され、千恵蔵は当時所属していた大映での「多羅尾伴内」シリーズ、東横に客出しての「金田一耕助」シリーズなどの現代劇に活路を見出さざるを得なかった。

1948年、大映系の映画館主が集まった会で、大映社長の永田雅一が『多羅尾伴内ものはつなぎの映画。今後は芸術性の高い映画を製作してゆく。役者などは何度でも取り替えられる』と発言し、千恵蔵が激怒、大映との契約更改は行われなかった。
裏に東横映画のマキノ光男らの暗躍があった。

千恵蔵の現代劇「アマゾン無宿・世紀の大魔王』(1961年 小沢茂弘監督)

マキノらに誘われた千恵蔵は、東横映画の真のオーナーである東急の五島慶太との面談を要求し、その場で東横映画の重役に就任すること、また東横映画が独自の配給網を作ることを約束させた。
これはのちに、製作と配給を一つの会社に統合しての東映が発足するきっかけの一つともなった。
千恵蔵は、松田定次監督、脚本家の比佐芳武とともに東横映画に移籍し、のちの東映時代劇の興隆を担うこととなった。

1950年、GHQに気を使いながら、千恵蔵主演で「いれずみ判官」を製作した。
当時役者の小遣い稼ぎとして行われていた地方巡業での千恵蔵の当たり役「遠山の金さん」の映画化だった。
映画はヒットしシリーズ化され、千恵蔵の当たり役となった。

「いれずみ判官」第一作(1950年 渡辺邦夫監督)。右は花柳小菊

千恵蔵はまた、満映から帰還した内田吐夢監督の復帰第一作「血槍富士」(1966年)をはじめ、「大菩薩峠三部作」(1957年~59年)、「妖刀物語・花の吉原百人斬り」(1960年)などの内田作品に出演、監督ともども高い評価を得た。

このほか、1950年代の東映では、「いれずみ判官」シリーズなど、当代当たり役に出演を続け、「旗本退屈男」などの右太衛門とともにマネーメイキングスターとして会社を支え、絶大な威信を誇った。

「血槍富士」の奴姿

60年代に入ると千恵蔵、右太衛門両御大の出演作品の観客動員数に陰りが見え始めた。
折から日本映画全体の観客動員数も1959年を境に激減し始める。
東映は、両御大中心の時代劇から、集団抗争劇、任侠ものなどの新傾向の作品を模索せざるを得なくなり、千恵蔵も集団劇の一人として出演するなどする。

それでも東映そのものの凋落に歯止めがかからず、当時の京都撮影所長岡田茂から千恵蔵が専属契約の打ち切りを通告されたのは1965年のことだった。

千恵蔵はその後も重役として東映に残り、その後のヒット路線となる任侠映画や、異色作「日本暗殺秘録」(1969年 中島貞夫監督)、やくざ映画に政治的波形を持ち込んだ「日本の首領・完結編」(1978年 中島貞夫監督)などにもその姿を見せた。
一方の右太衛門は任侠映画への出演を拒否し、東映を去って活躍の場を舞台に移していった。

岡田茂(左)らと談笑する晩年の千恵蔵

千恵蔵の履歴を見てゆくと、戦前に自らの千恵蔵プロダクションの運営に関わったことからくる経営感覚と自らの役柄を固定しない柔軟性があることがわかる。
「鴛鴦歌合戦」の飄々とした青年ぶり、「血槍富士」での実直・素朴な中年下郎ぶり、「日本暗殺秘録」での狂信集団の老黒幕ぶりを見るにつけ、演技者としての素質・素材の良さに改めて感心する。

では、東映時代劇の最終場面であり、千恵蔵の定番時代劇の末期である60年代に入ってからの作品を、ラピュタ阿佐ヶ谷の「東映時代劇まつり」から3本見てみる。

ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーには、東映から35ミリ上映用プリントが届いていた

「半七捕物帖・三つの謎」 1960年  佐々木康監督  東映

「半七捕物帖」は岡本綺堂という、明治生まれの小説家による新聞小説が原作。
江戸時代に三河町の半七親分と呼ばれた岡っ引きの捕物を江戸情緒豊かにまとめて人気を博した。
この小説の成功により後年「銭形平次」「人形佐七」「若様侍」などの捕物帖小説が生まれた。

「半七捕物帖」の戦後唯一の映画化が本作。
おそらく東映が期待したほどヒットはしなかったのだろう、シリーズ化はされなかった。
テレビドラマとしては1966年からの長谷川一夫主演によるものが極めつけで、その後は、尾上菊五郎、里見浩太朗なども演じている。
原作が半七の華々しい活躍よりも江戸の市井の様相や人情を伝えることに力点が置かれていたことから、長谷川一夫のキャラクターにふさわしかったようだ。

映画界では、60年代に入ってから、千恵蔵の看板シリーズである「いれずみ判官」が62年に終了するなど、50年代までの絶対的人気に衰えが目立っていた。
千恵蔵主演のシリーズもの時代劇は製作されず、「十三人の刺客」(63年)など集団抗争劇に出演したり、「俺は地獄の手品師だ」(61年)など、刀を拳銃に持ち替えた現代劇に活躍の場を移していった。

演技者として晩年を迎えようとしていた千恵蔵だが、本作「半七捕物帖」では持ち味を発揮した。
年齢からか、江戸の腕利き岡っ引きとしては機動性に欠けるが、鋭い推理とあふれる人情味はますます健在で、原作「半七」が持っているであろう、江戸情緒を舞台にした岡っ引きの親分にふさわしかった。

共演は、番頭格の子分に東千代之介、半七の手先となる町の遊び人に鶴田浩二、愛人のために誤って異人を斬ることになる若侍に沢村訥升。
女優陣には千原しのぶ、花柳小菊のベテラン陣に、若手から東映三人娘のひとり桜町弘子。
ここでは全員妙におとなしく演じており、決して御大の演技の邪魔をしないのは、さすが東映時代劇で培ってきた俳優陣のチームワーク。
唯一、映画では新人と思われる沢村だけがガツガツとした動きを見せた。

監督は戦前の松竹大船で清水宏、小津安二郎の助監督に付いた佐々木康に、脚本:比佐芳武、編集:宮本信太郎の東映時代劇黄金コンビ。
だが、このコンビでも時代劇黄金時代のテンポがでない、いつものキレがない。
あるのは静かな調子で御大千恵蔵の人情味と人の好さが醸し出す江戸情緒。

プレスシート。左下が沢村訥升

映画は3話構成のオムニバス方式。
千恵蔵らはもちろん、鶴田、千原などは2話、3話とまたがって登場する。
オムニバス構成は、緊張感の持続と展開の早さを狙った新工夫ではあるが、なにせ映画全体を流れる基調は、御大の人情味あふれるゆったりとした江戸情緒。
工夫が斬新とはなっていない、それがいいのだが。

東映撮影所のそして時代劇のお約束として、奉行所役人(武士)と岡っ引き(町人の身分外に位置する、無宿もの、やくざ者)の、決して越えられない身分の違いをきっちりと描き分けている。
また映画全盛期ならではの贅沢が垣間見える。

例えば横浜異人用の遊郭のセットが、ワンカットだけなのに、顔見世の建物の作りと奥に潜む白く首を塗った女郎達の妖艶がしっかり作り込まれていていた。
監督が都度指示したというより、勝手知った撮影所のスタッフが脚本の意を得て準備したものなのだろう。

このように、女優の歩き方、口調、シナの作り方、着物の襟の着こなし、ひいては玄人筋の女性の描き方など、時代考証以前の当時の風俗の再現は、東映時代劇を見る楽しみの一つである。

若侍役の沢村訥升という若手は、歌舞伎出身なのか、走っても頭の位置が動かないうえに、腰が据わった太刀さばきを見せる。
何より、見得を切る時の目や唇のひん剥き方が、白塗りドーランと合わせてサイレント時代劇の剣戟スターのようで、逆に新鮮味があった。
時代劇新スターの素質は十分とみたが、出てきた時代が遅かったのか、その後の活躍を寡聞にして知らない。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

「勢揃い関八州」  1962年  佐々木康監督  東映

実年齢が還暦近い千恵蔵が國定忠治を演じるセミオールスターもの。

忠治の味方に、高田浩吉、北大路欣也、松方弘樹、若山富三郎、山城新伍。
敵方に月形龍之介、近衛十四郎。
女優陣は久保菜穂子、扇千景、北沢典子。

配役をみると男優陣は若手抜擢、女優は新東宝など他社からの移籍組が多く、顔ぶれが50年代の東映時代劇から様変わりしている。

オリジナルポスター

弱気を助け強きをくじく。
己の身分はわきまえ(やくざ者は士農工商の身分制度の外)、義理人情に厚く、金払いはよい。
それゆえに男は従い、女は慕う。
子分を従えれば常に冷静沈着、統率力十分。

千恵蔵が演じると、完全無欠過ぎる國定忠治もなぜか納得がゆく。

当時の東映の新鋭脚本家だった結束信二のシナリオには、新趣向として登場人物らの葛藤なども描かれる。
例えば、関八州の代官として忠治に立ちはだかる月形龍之介と、浪人として忠治を付け狙う平手深酒(近衛十四郎)の千葉道場以来の腐れ縁とその後の二人の分かれ道を述べてみたり。
忠治の子分格だったヤクザが代官から十手を預かり、目明しとなったがために分不相応に成り上がり、女(久保菜穂子)を巡って忠治と対立したり。
唐突に、森の石松を登場させてみたり。

殺陣の場面ももはや千恵蔵の威光に乗っかることもなく、北大路、松方の若手二人に大暴れさせ、また殺陣の舞台も、50年代に多かったであろう、屋敷内や街中でのみ行われるのではなく、森の中や水たまりのある谷底で、水を被ったり泥を浴びたりして行われる。
60年代に入って流行してきた「リアルな」殺陣の影響であろう。

ラピュタのロビーに掲示されたチラシ

テンポの良さ、スピード感は50年代の東映時代劇そのままに、スターらが続々といい場面で現れるなど、伝統を引き継いでいる。

また、佐々木監督の持ち味である、ロマンチシズムとミュージカル志向はいつもながらに心地よい。
久保菜穂子や扇千景らの愛する男たちへの情念。
ピンチの北大路が飛び込んで難を逃れた旅芸人一座のヒロイン北川典子との淡いロマンス。

佐々木監督手練のレヴューシーンは一座が舞台。
北川典子の踊りや千原しのぶの水芸などが華やかで艶やか。
やっぱり東映時代劇はこれがなくちゃ!

孤高の達人平手深酒を演じる近衛十四郎が殺陣は一番うまかった。
足の運び、剣さばきと見ごたえがあった。
一方、千恵蔵は上半身のみ映す殺陣シーンで、足の運びがすでに心もとなくなっていたのか?

森の石松役でコメデイリリーフ的に出てきた山城新伍。
すでに後年の役柄の原点を見出していたようだ。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

「勢揃い東海道」  1963年  松田定次監督   東映

さあいよいよ千恵蔵時代劇の、そして東映時代劇の最終章だ。
時は1963年、正月公開の文字通りオールスター映画。

千恵蔵はもちろん、両者並び立たずといわれた市川右太衛門が出ている。
御大そろい踏みとあらば、若手の人気スター中村錦之助と大川橋蔵も座視はできまい。
東千代之介、大友柳太朗の二人もはせ参じよう。

外様の高田浩吉、売り出しの里見浩太朗、北大路欣也、松方弘樹はもちろん動員だ。
女優、といっては失礼なほどのカンロクの美空ひばりにも一肌脱いでもらって、花を添えるのは演技派久保菜穂子と今が盛りの丘さとみに桜町弘子(東映三人娘のもう一人大川恵子は前年に結婚引退)。

オリジナルポスター

本作が東映時代劇の最末期にあったのは、東映時代劇のエース監督松田定次が、この年63年に4作、64年に2作、65年に1作と監督本数を減らしてゆき、69年の2作をもって映画からテレビに移る過程の作品で去ったこと。
また本作では準主演の大川橋蔵の東映オールスター最後の出演作であり、かつ名コンビ美空ひばりとの共演も最後であることにも表れている。
ちなみに、日本映画全体で1960年には168本作られた時代劇が1962年には77本になり、1967年にはわずか15本となってゆく頃に製作されたのが本作である。

脚本は戦前の新興キネマから戦時統合された大映を経て、戦後、大映で活躍していたという高岩肇。
50年代に入って、新興キネマ時代の盟友松田定次の引きで東映に移り、60年代に入ってからは各社で活躍した。
代表作に「血ざくら判官」(54年)、「二・二六事件脱出」(62年)、「忍びの者」(62年)、「夫が見た」(64年)、「春婦伝」(65年)、「若親分」(65年)、「眠狂四郎無頼控・魔性の肌」(67年)などなど。
各社にまたがる異色作を手掛け、特に市川雷蔵のヒットシリーズを生み出している点が、この脚本家がただものではないことを示している。

さて、本作「勢揃い東海道」。
ご存じ清水の次郎長の荒神山を巡る縄張り争いを主軸に、次郎長の親分ぶり、子分たちの義理人情、女房達との板挟み、堅気とやくざのけじめ、武士階級との間の厳然たる身分の差、義理を欠いたやくざの悪辣さ、を横軸に繰り広げられる。
そこへ幕末の志士山岡鉄舟が登場し次郎長を助ける。
人情味あふれる次郎長親分には千恵蔵に扮し、豪快な殺陣と貫禄で右太衛門が鉄舟で登場する。

映画の前半は橋蔵とひばりの夫婦のやり取りをじっくり見せる。
子が生まれたばかりの仲のいい夫婦、(映画ではセリフを全部覚えてから現場入りしたという)ひばりの母親ぶりが甲斐甲斐しい。
世話になった次郎長主催の花会(博奕大会)に夫婦子連れで清水にやってきて、そこで耳にした荒神山を巡る一件。
義理の親父の悪徳三昧に、掘れた女房に三行半を突き付けて、橋蔵、仁義を欠く義理の親父に殴り込みだ。

ひばりとの息の合った夫婦ぶり。
そのしっとりとした場面を尺を取って見せた後、義理を立ての殴り込み。
珍しや橋蔵が惨殺されるが、次郎長親分への義理立てと、惚れた女房への三行半、その親父へのやむに已まれぬ反逆、それぞれの葛藤が十分描かれているから橋蔵の悲壮感が生きる。
死してのみ通る仁義の世界も納得感がでる。
まだまだ(映画俳優として)いけたんじゃないの、橋蔵。

若手として、松方弘樹ともども売り出し中の北大路欣也。
二人のとっぽい若者ぶりが、コメデイリリーフ的にアクセントとなっている。
また、二人の、特に北大路の扱いには東映の期待感がにじみ出る。

両御大も頑張っている。
ラストの殴り込み。
千恵蔵の殺陣は鬼気迫る。
表情だけではなく足の運び、ドスさばき、全身で魅せる。

右太衛門は殺陣では脇に回り、貫禄で勝負。
荒神山の手前で悪徳役人らに行く手を阻まれた次郎長一家、指物次郎長も役人相手では「お慈悲」を乞うしかないピンチに颯爽と馬で駆け付ける鉄舟こと右太衛門。
登場ぶりがいい。

時代劇の終末観がどこか漂うこの映画。
どうしてもこの時期に勃興した「リアル」な時代劇の、あるいは任侠劇の影響がある。

いつもは隅々まで明るい照明も、橋蔵とひばりの場面など、本人たち以外は背景など暗めのライテイング。
橋蔵の惨殺シーンは、のちの任侠映画のテイストを漂わせる。

東映三人娘の丘さとみが、芸者姿で出てきたときだけはパッと画面に花が咲き、その時だけは懐かしい東映時代劇のテイストだったが。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

千恵蔵、渾身の殺陣が決まった後は、富士を見上げて全員が勢揃い、千恵蔵と右太衛門が握手してのラストシーン。この握手、来るべき御一新の世には次郎長と鉄舟が協力して新しい世の中を作ろう、ということなのだが、見ていて東映時代劇の終焉を前に両御大がお疲れの握手をしているかのように見えたのは筆者だけだったろうか。.

(おまけ)  佐々木康監督について

ここで、「半七捕物帖・三つの謎」「勢揃い関八州」の佐々木康監督について、1993年刊の自伝「悔いなしカチンコ人生」より経歴を抜粋してみる。

「悔いなきカチンコ人生」表紙

・1908年、秋田県生まれ。
・1917年、早稲田大学卒。
・1928年、松竹鎌田撮影所入所。清水宏監督に師事。「ズー」が一生の愛称となる。

・1929年、小津安二郎の助監督時代の編集作業が後年役に立つ。
・1931年、「受難の青春」でデヴュー。
・1937年、『音楽映画』が得意ジャンルとなり、音楽に俳優の動きを合わせるプレイバック手法に熟達。
・城戸四郎松竹撮影所長に「ジャーナリズムにもてはやされる『映画作家』に育てるためにお前を抜擢したのではない」と言われ、以降、娯楽作家への道を徹底する。
・1939年、音楽映画の大作「純情二重奏」を高峰三枝子らの出演で製作、大ヒットする。

佐々木康デヴュー作「受難の青春」

・1945年、戦後第一作「そよかぜ」と挿入歌「リンゴの唄」がヒットする。
・1946年、「はたちの青春」で日本映画初のキスシーンを演出。
・1952年、東映に移る。満映で世話になったマキノ光男に口説かれた。城戸所長も了承し松竹は円満退社。

戦後第一作「そよかぜ」

・東映移籍第一作は、片岡千恵蔵主演の「忠治旅日記・逢初道中」。
・以降、東映在籍の13年で86本の作品を撮る。市川右太衛門とは息が合い「旗本退屈男」シリーズなど20本を撮った。右太衛門は大仕掛けな演出を好み、撮り方に注文も付けた。佐々木はそれを受け入れ、気に入られた。なお千恵蔵は監督の演出に従う人だったという。
・美空ひばりとは1949年の「魔の口笛」以降19本の作品を監督した。
・1957年、シネマスコープ第二作「水戸黄門」で興行収入3億円の東映新記録を達成。オールスター映画は佐々木の得意ジャンル。スターらの気に入るように、またその個性を最大限生かすように演出した。

美空ひばりと佐々木

・同年、マキノ光男死去。マキノの死が東映時代劇の寿命を三年は縮めた、と佐々木。
・1964年東映を退社し東映京都プロダクションに転籍。テレビ時代劇を監督する。近衛十四郎の「素浪人月影兵庫」、大川橋蔵の「銭形平次」などを撮る。生涯で映画168本、テレビ約500本を演出した。

東映時代劇全盛期、「曽我兄弟・富士の夜襲』(1956年)撮影風景



佐々木の演出家としてのモットーは、スターに気持ちよく演技させる環境づくりにあった。
思い通りに演技してそれが銀幕に映え、また大向こうに受ける華と技量を持ったスターが東映にはいた。
映画史からはほとんど無視されているが、50年代の東映時代劇は日本映画史における黄金時代だったのではないか。時代を反映した明るさがそこにはあった。
娯楽映画に徹した東映時代劇の現場の功労者が、監督の松田定次と佐々木康だった。
惜しむらくは興隆に甘んじ、また多忙を極めた多産体制の中で、定番を繰り返したことが60年代の衰退につながったか。

とはいえ黄金時代の文化的蓄積があったからこそ、60年代初頭の「リアル」を目指した時代劇のあだ花が咲いたのであり、その後の任侠映画の勃興があったのだろう。
佐々木康監督は、東映時代劇の興隆の真っただ中にあっての生き証人だった。

「悔いなしカチンコ人生」目次とカラー口絵


冬の山陰・北陸夜行列車の旅⑨ 富山地方鉄道と立山連峰

さて山陰・北陸の旅も5日目をむかえたこの日は福井から富山に移動しました。

ハピーライン福井鉄道で金沢まで

まず、福井から金沢行列車にICカードで乗車。
車窓は雪景色です。

続いて金沢駅で富山行きの列車にそのまま移りました。
車内はインバウンドで満席。
ボックス席の日本人男性の斜め向かいが空いていました。
男性はすぐ下車、すると向かいに日本人の若い女性が二人座りました。

昔はボックス席で相席となるのは当たり前でした。
山小舎おじさんが中高生の時、札幌から函館行きの急行ニセコに一人で乗っていたら、途中から3人組の女性が乗り込んできて相席となりました。
彼女らは当たり前のように普通の音量で普通の内容の会話をお互い交わしておりました。
聞くともなしに、彼女らが同郷の21歳の友達同士だということがわかりました。

いつからか、日本では車内の相席を避けるようになりました。
現在では長野県内の高校生など決してボックス席のおじさんなどには寄り付きません。

金沢で富山行きに乗り換え

満席以上の乗客を乗せ富山に着きました。
ここで問題が発生しました。
福井から金沢までは、ハピライン福井鉄道、金沢からは、あいの風とやま鉄道の運行となっており、福井乗車富山下車の場合ICカードでは精算できないというのです。
富山駅の改札口でICカードデータの消去をしてもらい、あいの風とやま鉄道分の運賃をその場で現金で支払い、ハピライン福井の運賃は福井に電話して現金書留で680円を支払はなければならなくなりました。
しかも現金書留量、切手代の510円ほどはハピライン持ちなので、実際の送金額は100円に満たなかったのです・・・。

富山駅に到着

旅の終盤でのトラブルに疲れて富山駅構内をさ迷うと、駅構内ではテーブルが並べられ、即席のステージが設置され、あまつさえ巨大なアンコウが吊るされている光景が目に入りました。
日曜日の催しとして、近県の名産を集めたフェアが行われるようで、駅前には早くも人が並んでいます。
アンコウ鍋が湯気を立て始めています。
地元の人々による活気です。

駅構内では催し物が
吊るされたアンコウ

一方、富山駅の構内、駅ビルは、福井駅の数倍の規模で混雑しています。
こちらは観光客による賑わいです。
駅ビルの回転ずしに並ぶ人の数と殺気立った雰囲気は、福井駅の比ではありません。

駅ビルの売店にて。富山といえば鯛のかまぼこ
ケロリンも富山発祥だった

旅行中ここまで我慢した寿司を食べるため、駅前の回転寿司に並びました。
半分ほどがインバウンド客で、カウンター内の職人が「ニーハオ」などと愛想を振りまくような店です。
テレビの番組で回転寿司の全国ナンバーワンになったとありました。
せっかくなので、ノドグロ、ズワイガニ、シロウオなどをつまみました。

テレビで有名な駅前井の回転寿司
ノドグロ
ズワイガニとイカ

路面電車に乗って市の中心部を一回りしました。
合図がないと停留所は通過する、いわゆる路面電車です。
途中、お城で降りて天守閣を上りました。
資料館には富山の薬売りの歴史などが展示されていました。
行商で財を成した富山の先人たちはそれを銀行などに投資し、地元に還元したとありました。

路面電車
富山城

立山を見たかったので、JR富山駅近くの富山地方鉄道(電鉄)駅へ行ってみました。
切符売り場の女性がとても親切な人で、「立山を見るなら電鉄線の立山駅がいいが、倒木のため一部不通。途中の岩くら寺という駅までは行っている」と案内してくれました。

富山地方鉄道、富山駅

富山は「鉄軌道王国」とも呼ばれているそうで、なるほどJR北陸線を継ぐ第三セクター線のほか、富山地方鉄道が3本の路線をつなぎ、市内には路面電車も走っています。
富山地方鉄道の不二越・上滝線に乗れば立山の麓に近い場所まで行けるのです。

岩くら駅行き

途中までは郊外の住宅地を走り、雪景色の中を立山方面に南下する電車に乗ります。
天候はどんよりしており、写真などで見る鮮やかな立山連峰の秀峰はなかなかその姿を現しません。
途中、遠方に雪山が見えましたが、立山なのかどうか?
そのうち終着駅に着きました。

立山連峰?

終着の岩くら駅にはびっくりしました。
昭和初期の時代設定にも使えそうな年季が入った駅舎です。
駅の案内板、切符売り場などは設置されてから幾年たっているのでしょう?
この先は乗り換えが必要なターミナル駅というのもいいです。
周りの風景、雰囲気ともマッチしています。

岩くら駅駅ホーム
ホームの案内板
駅のホーム
改札口
駅舎外観

あいにく立山の姿は拝めませんでした。
ただこの駅の先も線路が続き、立山連峰をトンネルで越えて黒部ダムを越えると長野まで続いていのるだと思うと、別の季節に再訪してみたい思いを止めることはできませんでした。

ポスターに見る立山連峰。こういう景色を見たかった!

JR富山駅に戻り、新幹線の切符を買って長い旅を終えました。

北陸新幹線の開通は北陸地方にとって時代の契機となっていました。
駅周辺は中央資本のホテル群が林立し、駅ビル内には全国チェーンの飲食店などが軒を連ねています。
ただ、その賑わいを一歩越えるといつもながらの落ち着き、ひなびた地方都市そのままの姿を、敦賀も福井も富山も見せています。

新幹線が伸長していない、鳥取、島根は駅そのものは便利になっていますが、駅前はまだ中央資本の毒牙にかかっていませんでした。
インバウンド客が集まる場所とそうでない場所もはっきりしていました。

次回の旅は軽トラでの気まま旅でもいいし、山陰を出雲から先へ向かう旅でもいいし、富山から立山を越える旅でもいい・・・。
また元気で行きましょう。

最後の旅飯(立山そばと鱒寿司)

冬の山陰・北陸夜行列車の旅⑧ 福井鉄道と居酒屋での交流

敦賀から福井に来ました。

JR北陸線のこの区間はいつの間にか、ハピラインふくいという第三セクター?になっていました。
車内はこれまでの山陰線や小浜線と違ってアジア系のインバウンド客が乗っています。
北陸新幹線運行の区間に入りいよいよ観光地本番の感がします。

福井駅前

ICカードで降りた福井駅の駅ビル構内にまずびっくり。
駅本体とつながったビル内には、回転ずし、ソースカツ丼、海鮮丼などの飲食店が贅を凝らして並んでいます。
カウンター方式の回転寿司店の脇のウインドーには、鮮魚や寿司折などの水産物がキラキラ光って売られています。

首都圏や有名観光地ならば人が押し掛けて殺気立つのですが、まだまだ規模が小さく、人出が少なく落ち着いた雰囲気なのが安心します。
福井の名産品も売られています。
日本酒や銘菓羽二重餅が目立つのも、福井らしくひなびています。

駅ビルの海鮮店。気合が入っている
駅ビルの回転ずし。入店待ちが少々
色とりどりの海鮮折

一方、化石産出で有名な福井県は恐竜で町おこしもしており、エキナカ、駅前は自動で動く恐竜の模型があちこちにあります。

駅前の恐竜

さて福井でどうしましょう?
駅の観光案内所を訪ねることにしました。

案内所で、「路面電車に乗ってみたい」というと、係の高年に差し掛かった美人の奥さんが「1日券を買って、武生まで行ったらどうでしょう。電車は一部は路面を走っていますが(正確にいうと路面電車ではありません)」と返答してくれました。

なるほど市内を出ると軌道を走る電車なのだな、路面電車が乗降客がない駅では停車しないのに対し、JR線のように全駅で停車するようだし、と思いつつ、吹雪の駅前を郊外電車乗り場まで行って、無人の販売機から1日券を買い、電車を待ちました。

福井鉄道の駅前停留所

駅前から小一時間走って隣の越前市にある武生駅に着きました。
古い町が残り、いわさきちひろの生家が残っているところですが、現在ではJRと福井鉄道の駅前にショッピングセンターが一つあるような地方都市です。
何せ舗道も大雪で歩行が困難なので、1時間ほど市内をぶらついて折り返しの電車で福井へ戻りました。

福井鉄道車内

ここで今夜の宿探し。
ネット経由はあきらめているので、とはいえ安めのビジネスホテル情報をネットで探し電話してみました。
駅からは福井電車で数駅先、料金3000円の宿が見つかりました。
風呂、トイレは共同です。
電話してなかなかつながらず、車で来るなら駐車場が2,3台しかないからダメ、チェックインはわかるように鍵を置いとく、という、電話口のおかみさんの応対も気に入りました。
後は夕食の場所探しです。

この日の泊りは市内のビジネスホテル。風呂が自慢
個室内。不自由なく寝られました

福井電車を降り、福井駅前の観光案内所へ性懲りもなく出かけました。
先ほどのご婦人とは異なる、特別に親切な方が、此方のリクエストに応えてくれました。
飲み屋は駅近くの片町という場所にあること、中でも庄屋という居酒屋がおすすめだと。
「えつ全国チェーンの庄屋?」とがっかりした山小屋おじさんに、そうではなく地元の店との案内。
ご婦人は、こちらが持っていた飲み終わったコーヒー缶を「捨てましょう」と控室のゴミ箱へ捨ててもくれました。
福井に対する印象が爆上がりしました。

無人?のホテルでメモと一緒に置いてあったカギを受け取り、投宿。
出直した片町のアーケード街は歩く人もいません。
目指す庄屋を見つけ戸を開けました。
6割ほどの入り、活気はあります。
安心してカウンターに着席、すぐ隣は独酌の中年男性でした。
この後約二時間ほど、隣の中年と話が弾んだのでした。

今年60歳で現役の勤め人だという中年さん。
兵庫県出身、関西弁のイントネーションで話をそらしません。
若いころの北海道ユースホステル旅の話から、地元の兵庫県の沿線情報、隠岐の島をはじめ出張で歩いた全国各地の話まで。
こちらの島根からここまでの旅のルートを聞き「西村京太郎のトラベルミステリーのようだ」と何度も繰り返します。
この居酒屋がお気に入りで、福井の近くに泊まる際はここに寄るとのこと。
こちらから「敦賀のてんてんはよかった」というと興味深そうにしていました。

関西人らしくそつなくこちらを立て、当たり障りない話に終始しようとする姿勢がもどかしかったのですが、思わずこちらが漏らす大坂維新の悪口なども「日本はどこやらの国と違って、何喋っても自由ですから」と笑っていました。
その店で頼んだ刺身盛り合わせとフキノトウ天ぷらが冷めるまでしゃべり倒し、中年さんが帰ってから熱燗とおでんで締めました。
ホールには日本人のご婦人が二人ほどおり、マメに動きつつ客対応もそつなくこなしておりました。
中年さんが帰った後で「あのお客さんは常連さんで、父親を連れてきたこともある」と話してくれました。

ええだけ飲んで、夜でもここだけは不夜城のような福井駅周辺をかすめ、福井鉄道で宿へ戻り、自慢の風呂に入って暖まりました。
明日は6時の始発で福井駅に向かうことにして就寝です。

居酒屋からの帰り、福井駅周辺の明るさ

次回、最終回・観光名所に変貌した富山の様子をお楽しみに。