DVD名画劇場 フランス映画黄金時代② ジャック・フェデーとフランソワーズ・ロゼエ

トーキー移行で、アメリカやドイツに後れを取ったフランス映画は、1930年になってトーキー時代を迎えた。
そのころにフランス映画界は、サイレント時代にデビューを果たしていた、ルネ・クレール、ジャン・ルノワール、ジュリアン・デュヴィヴィエらが監督の中心におり、その一人にジャック・フェデーがいた。

フェデーはベルギーの生まれ。
サイレント時代のフランス映画界で頭角を現し、ハリウッドのMGMと契約して渡米。
何作か発表したものの評判に至らず、フランスに戻っていた。
夫人はフランス演劇界の大女優、フランソワーズ・ロゼエである。

ジャック・フェデー

1930年代のフランス映画は、歴史的名作、「巴里の屋根の下」(1930年ルネ・クレール)、「望郷」「舞踏会の手帖」(いずれも1937年ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)、「どん底」(1936年 ジャン・ルノワール)などなど、を生みだし続けていた。

フェデーはこの時期に「外人部隊」「ミモザ館」「女だけの都」を発表する。
いずれも夫人フランソワーズを主演ないし重要なわき役に配した堂々たる規模の大作である。
この3作品によりフェデーはフランス映画界に永遠の名を残した。(フェデーはこの後、製作者のアレクサンダー・コルダに招かれてイギリスへ渡り、1948年に没)。

「フランス映画の歩み」表紙

では、世に言われるフランス映画の特色とはどういったものか。
ここに1冊の研究書がある。
題して「フランス映画のあゆみ」(岡田真吉著 1964年刊)。
著者はフランス映画(とフランス語)に資するところがあり、ジャン・エプスタン、ルネ・クレール、ロベール・ブレッソンらと文通して、彼らに質問したり、自らの映画批評を仏訳して送ったり、彼らから撮影台本を譲り受けたりしたという人物。
のちにフランス映画人たちの理解を得、何度もカンヌ映画祭に招待されたという(健康問題で渡仏は実現せず)。

ここでは、本著の第一章の要旨をもってフランス映画の特質、優秀性の引用としたい。
まずフランスの深い歴史的伝統に裏打ちされた文学的精神があること。
またフランスの文化的伝統たる演劇性に深く裏打ちされていること。
演劇的伝統はフランス映画に修辞作家の独立をもたらしたこと。
演ずる俳優たちが演技者として優秀であること。等々。

そして、フォトジェニイという映画的手法を確立したこと。
フォトジェニイとは「カメラに捉えられて一つの映像となるとその精神的価値を増加させる一つの資質」(同著P13)とある。
フランス映画が事実を追うだけでなく、人物の心理の陰影や性格を描いたり、一つのシチュエーションをそれが持つ情緒を浮かび上がらせるように描くことを志向するときの一つの映画的手法であり、モンタージュという概念と並ぶ映画芸術の本質を規定する要素、だという。

「フランス映画の歩み」目次

ヌーベルバーグの時代、雑誌「カイエ・デュ・シネマ」のフランソワ・トリュフォーらにより、全否定されたこの時代の作家と作品(クレールを除く。ルノワールは別格)。
しかしながらDVDで見たフェデーの作品は、作品の規模、俳優の演技力、脚本の完成度ともに一流のもので簡単に否定し去るものではなく、むしろフランス映画文化の伝統と奥深さを感じさせるに十分なものだった。

「外人部隊」 1934年  ジャック・フェデー監督  フランス

名花マリー・ベル扮する薄幸流転の場末の歌姫。
ピエール・リシャール=ウイルム扮する、無責任の挙句親族に国外追放されモロッコの外人部隊に流れ着く主人公。フランソワーズ・ロゼエ扮する場末の宿兼バーのいわくありげな女主人。
フランソワーズの宿六には「恐怖の報酬」が忘れられないシャルル・バネルが扮する。

役者がそろったところで観客はモロッコの場末で繰り広げられる「半端者」たちのグダグダの世界へ案内される。

フランソワーズ・ロゼエ(右)

主人公は悪気はないが苦労なく育った坊ちゃん。
パリで女に入れあげた挙句、親族の会社の金を使い果たして追放される。
金だけでくっついていたぜいたく好きの女フローレンス(マリー・ベル二役)は去る。
主人公は流れてモロッコの外人部隊へ。

外人部隊で友を得る主人公。
友は何くれとなく主人公の世話を焼いてくれる。
そう、「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1942年 ルキノ・ヴィスコンテイ)で無賃乗車の主人公を救ってしばらく面倒を見た放浪の香具師のように。

友はその過去を問うた時だけは激高した。
「お互い過去は詮索しない約束ではないか!」と。

主人公は、定宿の女主人(フランソワーズ・ロゼエ)に気に入られている。
必ず当たるので、女主人はやりたがらないトランプ占いでは、「かつての女と再会し、人を殺すが巨額を得る」と出る。
その占いは、流れ者同士の寄る辺ない一夜の暇つぶしであったはずだ。

宿の女将が主人公を占う。フランソワーズ・ロゼエ18番のシーン

友と訪れたバーで、忘れられないフローレンスとそっくりのイルマ(マリー・ベルニ役)を見る。
イルマは歌っても華がなく、席に着けば素人っぽくぎこちない酒場の女である。

どこから流れてきたのか本人も覚えていないこの女を主人公は見染める。
フローレンスが自分を追いかけてきてとぼけているたのだろう、と思う。
外人部隊で苦労しようとどうしようと、お坊ちゃんはどこまでも自分本位なのである、悪気はないが・・・。

場末のキャバレーに流れてきた女。マリー・ベル二役

過去に翻弄され、汚濁にまみれて流れてきた場末女イルマに扮し、やっとのことで主人公に心を開いてゆく、女ごころのいじらしさを演じるマリー・ベルが素晴らしい。

のちの世から見れば、お涙頂戴の不自然極まりない芝居なのかもしれないが、いいものはいい。

ラスト近く、アラブの王族とオープンカーでカサブランカを行く、本物のフローレンスと邂逅した主人公は一も二もなくなびいてゆく。
フローレンスが己を愛しているというついぞ捨てきれぬ己の幻想を信じ、またマルセイユ行きの切符2枚まで買ったイルマを船上に捨てて。

まるでサイレント時代のグロリア・スワンソンのような白一色のファッションで、王族のオープンカーから降り立つフローレンスに扮するマリー・ベルも光り輝いているが、人を信じるという経験すらない場末の女が、純粋だけは取り柄の主人公に触れて人間の心を取り戻してゆくイルマを演じ分ける、別人のようなマリー・ベルが忘れられない。

主人公の「身代わり」で激戦地に出陣し、戦死して帰ってくる友。
遺品を宿の暖炉にくべながら、ロシア語新聞に芸術家として紹介される友の記事を見るやるせなさ。

戦友の遺品を燃す。ロゼエと主人公

外人部隊が楽隊を先頭に街に入ってくる、子供らが行進に付きまとう。
モロッコの酒場での、カンカン踊りのようなベリーダンスのような、煽情だけをむき出しにした女たちのふるまい。これらをドキュメンタルというか、感傷なしに描写するジャック・フェデーの視線は乾いている。

「女だけの都」 1935年  ジャック・フェデー監督  フランス

パリ郊外に組まれたという16世紀フランドル地方都市の大オープンセット。
城内はお祭りの準備で市民が天手古舞。

市長一家のおっかさん、フランソワーズ・ロゼエも大忙し。
家では末っ子を風呂に入れ、女中のおしゃべりをぴしゃりと制して指図し、恋多き愛娘の訴えには親身にアドバイスをくれる。
そこには、モロッコの果てで占いトランプを前に斜に構える憂いに満ちたロゼエの姿はない。
庶民的で男勝りの肝っ玉おっかあの役も彼女に似合う。

フランソワーズ・ロゼエは娘にとっては頼もしいおっかさん

ロゼエの達者な演技に見とれるだけで本作を見る意味は十分あるのだが、フェデーと脚本のシャルル・スパークは寓意に満ちた本筋と練られたデイテイルを駆使して観客をぐいぐい引っ張る。

時はスペインの治世、公爵一行が城壁都市にやってくる。
思わず最悪の事態が頭をよぎる。
略奪、凌辱、拷問、殲滅の幻影。

市長ら男たちは肖像画のモデルを早々にやめて、死んだふりを行うことにする。
ここで立ち上がったのがロゼエおっかさんを中心にした女性達。
日頃から男どもの優柔不断にはあきれており、野生的なスペイン軍を思うと心ときめく、とともに体を張って外敵を迎えることを決議する。

城壁都市にスペイン兵が進駐

女達がスペイン兵たちをエスコートして街に入場する。
さっそく、男らしいスペイン将校たちに取り入るおかみさんたち。
市長夫人のロゼエは公爵にべったり。
年甲斐もなくよろめきかかる。
ここではさすがに踏みとどまり、愛娘の結婚保証人を公爵に願い出るが。

公爵一行の随行者に生臭坊主と小人がいる。
坊主にはルイ・ジューベが扮して笑わせる。
フェデー堂々の宗教権威批判だ。

幻影のスペイン軍の乱暴狼藉シーンは当時としては衝撃的でリアルな描写。
スペイン兵たちと市民たちが入り乱れる飲み屋のシーンも猥雑。
ここら辺は「外人部隊」にも共通するフェデーのリアルで乾いた描写ぶり。

中世市民のおおらかさを寓話的に描き、フランソワーズ・ロゼエの演技力という力技を加えた勢いで突っ走った快作。
古さは感じない。

キイロスズメバチの巣を撤去してもらう

山小舎周辺は野生生物の宝庫です。
鹿などの動物、昆虫類が嫌という程います。

春先になると毎年ハチがブンブン飛び回ります。
スズメバチ、あしながバチなどが多い印象です。

スズメバチは山小舎周辺に巣を作りたがります。
これまでも、2階の軒下、ベランダの軒下の廃ストーブの中、玄関先のコンパネの下に巣を作りました。(いずれも撤去)

今年も山小舎の周りには、常に1、2匹のスズメバチがブンブン飛び回っていました。
割ったばかりの薪が好きなようで、止まっているときに殺虫剤をかけたりはしましたが、特に害はなかったのでほおっておきました。

これがいけなかったのでしょう。
夏が終わり、後片付けのシーズンとなり、ベランダの軒下に廃材などを収納していた時に何気なく見た先に、立派なハチの巣がありました。
コンテナの中にすっぽりはまるように巣が形成されています。
不気味な姿にびっくりしました!

軒下のコンテナの中にできていたキイロスズメバチの大きな巣

発見時は10月下旬。
朝晩の寒さで巣にはハチが活発に出入りしているようなことはなく、むしろ巣の表面に張り付いた数匹のハチが全く動いていなかったので、これまで気が付きませんでした。

慌ててその場を離れましたが、改めてよく見ると、巣の表面に張り付いたハチがゆっくり動いています。
これを見て、一時は自力で巣を撤去できるのでは?と考えましたが、断念しました。

東信消毒という佐久市の茂田井にある駆除業者に駆除を頼みました。
スズメバチの巣の駆除は1万8000円から2万円の料金とのことでした。
2、3日後に業者がやってきました。

防御服を着てネットを被った業者が現場に入ってゆき、あっさりとコンテナごと巣を引き出しました。
巣はコンテナ一杯にはまっています。
ハチが巣から飛び出してはきません。
業者は引き出した巣を構わず刃物で解体してゆきます。

業者があっさりコンテナを取り出す
コンテナから現れたのはミツバチ用の巣箱に作られた巣

コンテナの中にはミツバチ用の巣箱が入っていました。
この巣箱を利用してキイロスズメバチが巣を作っていたのでした。
6月ころから作られた巣はすでに繁殖の役割を終え、たくさんのハチなども死滅し、女王バチは越冬場所に移っているとの説明でした。

巣箱ごと巣を取り出して解体を始める
巣箱の外側の巣を削り落とす
巣箱の中からは孵化しなかった繭などが

ワンチャン、山小舎おじさんが自力で対処しても無事に巣の撤去ができたような状況でした。
今回は無理しなくてよかったでしょうが。

キイロスズメバチはオオスズメバチなどよりの人間に対して攻撃的なこと。
ここ山小舎付近はハチの往来が多く、近所にも巣があるのではないか?ということ。
巣を撤去するなら6月ころか、あるいは10月過ぎがよいこと、などを聞きました。

取り出した巣は、巣食っていたミツバチの巣箱ごと焼却炉で燃やしてしまいました。
これで今年のハチ関係は一件落着です。

巣箱ごと完全燃焼させてスッキリ

撤去しやすい場所だったこと、危険性がほぼなかったこと、から費用は1万1千円で済みました。
良心的な業者さん、ありがとう。
ハチについて勉強になりました。

ベンチを塗装

いらなくなった木製ベンチをもらってきました。
まだしっかりしており、塗りなおせばベンチとして再利用できます。
また、こういった台が外にあると、いろいろ便利なのです。
一から作るとなると大変ですが。

しばらく物干し台の下に放置していたベンチを作業台に移動します。
表面の塗装を削りきれいにしようと思います。

もらってきた古いベンチ

ドラムを引いてコードをつなげます。
サンダー(研磨機)でやすりをかけるのです。

ドラムを出してコードをつなげ
サンダーにつなぎます

ぱっと見はそれほど汚れていなかったベンチの表面ですが、研いてみるときれいになるものです。
塗料の乗りもよくなります。
この研きを手でやるとなると大変です、サンダー様様です。

サンダーで磨くと木地が現れます
横の部分にもサンダーをかけます

研くのはベンチの表面(座る部分に渡してある板の上側)と、脚の外側、くらいにします。
要は目立つところだけはきれいに仕上げようという魂胆です。

研き終わったベンチ

ケミソートというコールタール由来の防腐塗料を塗ってゆきます。
しばらく使っていなかったので一斗缶をよく振ってから塗りましたが、それでも混ざりが悪く、塗料がさらさらしています。

塗料を取り出します。塗る前に振って攪拌します
ケミソートを塗り始めます
一度目を塗り終わったところ

表から裏側まで塗った後、乾かして、表側を二度塗りします。
一晩おいて完了です。

二度塗りして一晩たちました

ハックルベリージャム

畑で収穫したばかりのハックルベリーでジャムを作りました。
毎年恒例です。

栽培したのはガーデンハックルベリーという品種。
ベリー類ではなくナス科の植物です。
アクが強いので生食は不向き、ジャムなどに加工します。
ポリフェノールの含有量はブルーベリーより多いといわれています。

信州に来てから、直売所などで初めて見る野菜に驚きました。
夕顔、ナツメ、青いトマト、ナスの葉、巨大ズッキーニ、食用ほおずき、など。
その一つにガーデンハックルベリーがありました。
購入したときにレジのおばさんから「生じゃ食べられませんよ」と念を押されたのを覚えています。
袋には説明書が入っておりその通りにジャムに煮て食べました。

次の年からは苗を買って栽培しています。
夏の暑さと乾きには弱いのですが、寒さに強く、11月になっても枯れない印象があります。

さて、収穫した実を加工しましょう。
まずはあく抜きです。

収穫して洗ったハックルベリー

実が硬いので時間をかけて茹でこぼします。
紫のゆで汁になったらあく抜き完了です。

茹でこぼしてあく抜き

次いで、砂糖とレモン汁を入れて煮ます。
煮ていても実崩れしません。
汁がとろりとし、実が柔らかくなったら出来上がりです。

畑のハックルベリーは結実から時間が経過していたので種ができており、煮汁の中に細かな種がこぼれ出ていました。
もちろんこれでOKです。

砂糖を投入
火にかけてあく抜き
煮詰まってきた
並行して保存瓶を煮沸消毒
瓶に密封して出来上がり

1年分のポリフェノールを摂取しましょう。

そろそろ畑じまい

10月下旬になりました。
畑は雑草の勢いも静まり、夏野菜たちは霜に当たって立ち枯れ、菊芋のみが勢いよく空に向かって屹立しています。最後の?収穫に行きました。

なんとミニトマトが色づいています。
苗を定植したトマトはほぼその使命を終えていますが、こぼれ種から自生したミニトマトは伸び続け、実をならしていました。
自生するとその場の気候に慣れるのでしょうか。
逞しいミニトマトを収穫します。

葉を枯らしながらも実をつ受ける自生トマト
この日の収穫。味もマアマア

ズッキーニは夏の後も幹を伸ばし続けていましたが、さすがに葉っぱは寒気で枯れています。
探ってみると細いながら実がありました。
スープ用には十分の実を収穫。

葉が枯れたズッキーニ
収穫。ラストか

ナス、ピーマンは新しい実はなく、また既成の実も大きくはなっていません。
食べるには十分なので収穫します。

キューリ、ゴーヤは完全に終了です。

採り残していたトウガラシ、ガーデンハックルベリーを収穫します。

トウガラシ
ガーデンハックルベリー

ほおずきの収穫シーズンはこれからでしょうか。
幹も葉も寒気にやられていません。
実の熟しは遅くなりましたが収穫はありました。

寒気の影響を受けない?ほおずき
ほおずきの青い実
収穫した完熟ほおずき

初めて植えてみたウコンが育っていたので掘ってみました。
少しばかりの収穫がありました。
加工方法を確認し、利用しやすいのであれば来年も作ろうと思います。

ウコンの地表部
掘ってみたウコン

菊芋も採り頃です。
茎が硬くて長いので掘り方に注意が必要です。
草刈り機を持って行ったので、地上部分をカットすることにしました。
しばらくほおっておき、枯れた地上部を片付けた後、ゆっくり掘ろうと思います。

菊芋の試し掘り
菊芋軍の地上部をカット

今後の仕事は、ほおずきと菊芋の収穫。
玉ねぎの植付。
夏野菜の片付け(枯れた地上部分と支柱の撤去、マルチはがしなど)があります。

作業に当たって涼しいのは大いに助かります。

DVD名画劇場 ドイツ表現主義時代の幻影「カリガリ博士」「吸血鬼ノスフェラトゥ」

第一次世界大戦後からヒトラーが台頭するまでの1918年から1933年まで。
ドイツ映画はその全盛期を迎えていた。

サイレント映画からトーキーへの移行にあたるこの時代、ベルリンのウーファ撮影所を中心に、幾多の名作が生まれ、ハリウッドをしのぎ世界一の水準を示した。

手許に「写真 映画百年史」という5巻シリーズのグラフ雑誌がある。
1954年から発刊され編著者に筈見恒夫、表紙に野口久光という一流の布陣。

発刊の趣旨は映画発祥時からサイレント時代、トーキー時代を経て1950年代までに至る世界の映画史を写真でたどるというもの。

グラフ雑誌「写真映画百年史第2巻」表紙

日本映画についてが半分ほどを占めるのは致し方ないとはいえ、残りの半分をハリウッド映画と欧州映画で分け合った構成となっている。

「写真 映画百年史」は、見開き2ページに一つのテーマで写真が載っている。
日本映画に関しては「目玉の松之助専本の映画を完成」としてサイレント時代の日本映画のヒーロー、尾上松之助の作品写真を集めたページがあり、外国映画に関しては「巨匠グリフィスの功績」としてD・W・グリフィスがチャップリンやピックフォード等のちにパラマウントを設立するメンバーと談笑する写真などを掲載している。
ファン向けでもあり、本格的でもある映画グラフとなっている。

注目すべきは第一次大戦後から、ナチス台頭までの時代のドイツ映画の取り上げ方だ。
第1巻では「表現派と歴史大作 敗戦ドイツ大いに賑わう」の表題で「ドクトルマブセ」や「カリガリ博士」を紹介するページがあり、「逞しいドイツ映画」の題でフリッツ・ラングによるゲルマン神話の映像化「ニーベルンゲン物語」などを紹介している。

第2巻では「ムルナウとパプストの活躍」と題してサイレント名画「最後の人」「パンドラの箱」を紹介。
「山岳映画と科学空想映画」と銘打ってアーノルド・ファンクらをフォロー。
「ドイツ映画 現実と幻想」として表現主義の後の潮流となったドイツ映画のリアリズムとロマンチシズムの諸作品を紹介。
「ウーファ映画華やかに咲く」では20年代に花開いたドラマの数々を紹介。
ほかに、ドイツからハリウッドに移ったエルンスト・ルビッチについてのページもある。

第1巻より。「カリガリ博士」が紹介されている
第1巻より。「ニーベルンゲン」などの紹介
第2巻より。ルイズ・ブルックスの顔が見える
第2巻より。「メトロポリス」など
第2巻より
第2巻より。忘れられたウーファ作品の数々

こう見ると「写真 映画百年史」におけるドイツ映画の比重はかなり大きい。
ドイツ映画の主に1920年代の流れが、表現主義、歴史もの、音楽ものからリアリズムとロマンチシズムへと続いて行ったことがわかる。
その流れの中に「カリガリ博士」「吸血鬼ノスフェラトウ」「嘆きの天使」「制服の処女」などの作品があり、また現在では忘れられている幾多の作品やスターがいたことも。
戦前のドイツ映画が質量ともに第一線にあったことが日本でも認識されていたことも。

なお、サイレント時代のドイツ映画で起こった「表現主義」とは、第一次大戦に敗戦したドイツの退廃と虚無が生んだ芸術形式(写真映画百年史第1巻P27)とある。
当時の主流であった、自然主義、印象主義への反動として生まれた前衛運動であったようだ。

では、表現主義時代の代表作「カリガリ博士」を見てみよう。

「カリガリ博士」 1919年  ロベルト・ウイーネ監督  ドイツ

「クレヨンしんちゃん ヘンダーランドの冒険」という劇場用アニメを見たことがある。
街に出現したヘンダーランドという見るからに怪しい遊園地でもっと怪しいおかまが呼び込みをする。
街では呼び込みの歌が流れる「変だ変だよヘンダーランド、嘘だと思ったらチョイとおいで・・・」。
しんちゃんたちは果たして怪しさの究極地・ヘンダーランドから脱出できるのか!?

遊園地の、非日常的な空気感とそのいかがわしさを描く映画は「カリガリ博士」がその元祖だった。

カリガリ博士と棺桶のチェザーレ

分厚い眼鏡に山高帽、ずんぐりしたマント姿。
眼鏡を上に下にずらしてぎょろ目をむく。
役人や官憲に対しては卑屈にふるまい、弱いものを誘惑して遊園地のテントへと誘う。
その名もカリガリ博士が街に現れる。

ドイツの民話「ハーメルンの笛吹き男」からのモチーフなのか?
時代を越えて世界に敷衍する人さらい神話の援用か?

プラハ出身のハンス・ヤノウッツとグラーツ出身のカール・マイヤー。
オーストリア=ハンガリー帝国出身の第一次大戦経験者、二人による共同脚本。

遊園地と精神病院、バレーダンサーのような身のこなしの夢遊病者と怪人博士。
怪しすぎる映画的組み合わせが、抽象的な書割を背景として繰り広げる悪夢のような物語。

二人の脚本家は主人公の名前を「発見」したとき会心の叫び声を上げたという。
カリガリ。
魔術師、奇術師の類に通ずるというイタリア系のネーミングだ、カリオストロ、フィーデーニのような。

この作品の背景は思いっきりデフォルメされた書割で表される。
書割の道路や壁がゆがみ、入り口は斜めっていて悪夢の世界を増長する。
遊園地を表す書割には猥雑な賑やかさに満ちている。

カリガリ博士が見世物として棺桶で飼っている夢遊病者・チェザーレもすごい。
ぴっちりとしたタイツ姿でダンサーのような身のこなしで美女を狙う。
カリガリ博士がドイツ的な土臭さ、やぼったさ、頑迷さに囚われた存在とするなら、芸術的、情緒的、美的な存在のチェザーレは、遠近法を無視したゆがんだ書割セットを背景に、ダンスのようなあるいはパントマイムのような誇張した動きでさ迷う。

チェザーレの方が悪夢度が高い。

チェザーレに扮したコンラット・ファイト
チェザーレに扮するコンラット・ファイトが幻想的な書割を背景に美女を誘拐する

「カリガリは人間の価値尊厳を蹂躙するプロイセンミリタリズムの擬人化された姿であり、チェザーレは徴兵され殺人訓練を受ける一般民衆のことである、と二人の脚本家は考えた。
そのテーマは、第一次大戦で非人間的な体験に遭わずにおれなかった二人の反戦、反国家思想から出現したもの。」(岩崎昶著 朝日選書「ヒトラーと映画」P227より)

朝日選書「ヒトラーと映画」。1933年前後のドイツ映画を語る

リアリズムによらず、むしろ極端な表現主義によって反戦、反国家を謳った名作。
現在見ても、その表現の徹底ぶりに驚かされる。
また非人間的な権力に対する恐怖という点では時代を越えたテーマを有する作品である。

「ヘンダーランド」の原点でもある。

「吸血鬼ノスフェラトゥ」 1922年 F・W・ムルナウ監督  ドイツ

カリガリ博士というガチガチにカリカチュアライズされた自らの民族性の宿痾に次いで、ドイツ人は中欧の伝承の中により不安定で超自然的な吸血鬼というキャラクターを発見した。
ドイツ民族は災難から逃れられないようである。

カリガリという災難が反理性主義のいわば象徴で、時代の変遷や理性主義により克服し得るものだとすると、吸血鬼は歴史的かつ超自然的な存在で、その災難度は高く深い。

ドイツ映画が吸血鬼を素材にするこということは、理性主義ではどうにもならない当時の現実からの逃避なのか。

カリガリはともかく、吸血鬼は21世紀になっても映画の素材として生き残っていることから、ドイツを越えたキャラクターを発見したということなのか。

ノスフェラトウの象徴的なポーズ

「吸血鬼ノスフェラトウ」のストーリーは、ハリウッドによるリメーク「魔人ドラキュラ」にほぼトレースされている。
違うのは吸血鬼の見た目と性能。
「魔人ドラキュラ」の吸血鬼は人間に対してはオールマイテーで、魅入られた人間は対処できない。
まるでエイリアンや病原菌のような吸血鬼である。

「ノスフェラトウ」の吸血鬼は人間を倒すことはできるが、たとえ吸血したあとでも完全な下僕にはできない。
また、自己を犠牲にして他を助けようとする人間の崇高な意志の前に、あえなく朝日を浴びて溶けていってしまう。

自らを犠牲とする美女のクビに気を取られた挙句、朝日に溶け行くノスフェラトウの最後

まことに人間臭いのがドイツ製吸血鬼。
その姿はハリウッド版のベラ・ルゴシ扮するドラキュラのように支配的、魔術的なものではなく、「カリガリ博士」のチェザーレのように女性的で美的なもののようだ。

ノスフェラトウには、その城の麓に生きる村人に忌諱される悲しみがある。
日陰に生きる者の哀れさとでもいおうか。
さらにいうと、ノスフェラトウの尖った禿げ頭、鷲鼻、ひょこたんひょこたんと歩く姿はどこか奇形的で、被差別感すら感じられるのだ。

ノスフェラトウがワイマール時代のドイツ人にとって、社会的恐怖・差別の象徴であることは確かだ。

追加) 「M」 1931年  フリッツ・ラング監督  ドイツ

第一次大戦後のドイツ映画界は、表現主義、歴史もの、ゲルマン神話、音楽もの、と様々なジャンルで第一級の作品を発表してきた。
この時代の第一線の監督として、ムルナウ、パプスト、エルンスト・ルビッチなどと並んでフリッツ・ラングがいる。

ベルリンにそびえるウーファ撮影所はユダヤ人がいなければ成立しない、といわれていた。
ラングもユダヤ人だった。

ラングはゲルマン神話に題材をとった「ニーゲルンゲン」をナチス宣伝相ゲッペルスに絶賛されたものの、「怪人マブセ博士」(1932年 サイレント作品「ドクトルマブセ」のセルフリメーク)を上映禁止にされ、1933年ナチス党の政権奪取の年にフランスへ亡命した。
「M」は「怪人マブセ博士」のひとつ前の作品で、ラング初のトーキー作品である。

ナチスの政権奪取前後に、ユダヤ系映画人が多数アメリカに亡命している。
が、それ以前のドイツ映画全盛時代から、ドイツ映画人のハリウッドによる引き抜きが続いていた。
ハリウッドによる映画人の引き抜きと、撮影所への資本参入がドイツ映画界の衰弱を生んだ。
とどめを刺したのがナチス党の政権奪取だった。
ドイツ映画のシンボル、ウーファ撮影所は第二次大戦のベルリン陥落とともに文字通り崩壊した。

「M」はナチス党政権奪取前夜の不安感をユダヤ人フリッツ・ラングがこれでもか、と描いた作品。
スリラー仕立てだが、ラングの狙いが、組織や群集の愚かさ、群集心理の不条理さにあったことは明白だ。

ピ-ター・ローレ、畢竟の怪演

ピーター・ローレが児童誘拐の犯人を演じる。
まだ若くぽっちゃりしている。
彼もまたハリウッドに亡命し「毒薬と老嬢」では人造人間とともに逃亡を続けるドイツ訛りの医者を自虐的に演じている。
彼のハリウッド時代のおどおどした小悪党演技の原点が「M」なのだろう。

児童誘拐殺人犯Mを追いつめる警察と犯罪組織。
なぜ犯罪組織がMを追うのか?
Mのおかげで泥棒は上がったりだ、という理由で。
その理由もばかばかしいが、警察の方も捜査の決め手を欠き捜査会議でタバコをふかすばかり。
ラングはカットバックで犯罪組織と警察会議を並行して描く。
まるで警察も泥棒も同じだ、と言わんばかりに。

Mを捕まえた犯罪組織が人民裁判よろしくMの罪状を追いつめる。
小児愛好者という病気のMは自分でも犯行を抑えることができない。
形だけの弁護人役が、Mに必要なのは治療で処罰ではないと正論を述べるが、圧倒的群衆は処罰を求めて叫ぶ。
群集心理の絶望感が画面を覆う。

この作品、警察の捜査の一環で、ベルリンの娼婦が集まるいかがわしいバーに踏み込むシーンがある。
長い尺で。
ラングが、警察の藪にらみ的な愚鈍さとともに、当時のドイツ社会の絶望的な裏側を描きたかったことを物語る。

映画を通してみて、犯罪スリラーとしての鋭さも印象に残るが、その比重は少ない。
社会に潜む「普通」の人間が小児嗜好の持ち主であり、それは本人では抑止できない「病気」であるとの観点は新しい犯人像だと思うが。

ラングによる戦前のドイツへの訣別のメッセージともいえる作品。
フランス経由でハリウッドに渡ったラングは、暗黒ものから西部劇まで様々なジャンルで活躍することとなる。

県内ローカル新聞の世界 佐久市民新聞

長野県には「市民新聞」のネットワークでもあるのだろうか?
手元にあるのは「佐久市民新聞」の10月6日号。
佐久市岩村田のコンビニで買いました。

ちなみに諏訪地域にも塩尻地域にも市民新聞があります。

佐久市民新聞は毎週金曜日の発行、発行元は佐久市民新聞社で住所は小諸市になっています。
一部220円と高めです。
8ページにわたり地域の情報が掲載されています。

表紙は臼田小学校で開かれた運動会。
臼田地区の4つの小学校が統合された後の初の運動会とのこと。

臼田は、佐久市を構成する地区の一つです。
小海線の駅を持ち、駅前には寂れたとはいえ商店街や飲み屋街が広がります。
南牧村経由群馬県につながる峠道の出発地点でもあります。
函館五稜郭と並ぶ近代平城である龍岡城が近くに現存しています。
4つの小学校の統合後は、全校児童数583人の規模での再出発のようです。

8面にも小学校の記事があります。
野沢小学校合唱部がNHK音楽コンクールの全国大会に出場とのニュースです。
凄いです。
野沢地区も佐久市を構成する主要地区の一つで、独自の商店街を持ちます。
付近には有名なピンコロ地蔵があります。

4面には面白い記事がありました。
信州プロレスが小諸で開催する「小諸ボンバイエ」という大会の紹介記事です。
北は根室から各地に存在するローカルプロレス団体が信州にもあったのです。
小諸のラーメン店主の主催で無料で行われるとのこと。
西口プロレスの長州小力やアントニオ小猪木が緊急参戦という豪華さです。

7面には、和算の全国大会が佐久平の交流センターで開かれたという記事も。
19回目となる和算の全国大会が長野県で開かれるのは3回目とのこと。
「産額」という和算の文化遺産が69枚も県内に残り、佐久市東中学には和算をたしなむ会があるという、教育県長野らしさがうかがえる記事です。

週一回の発行とはいえ、季節感と地域性に彩られた市民新聞はこの先も情報の発信、記録の媒体として残っていってほしいものです。

軽トラ流れ旅 蓼科~白駒池~小海 秋と渋柿を探して

10月も下旬に近くなりました。
秋を探して軽トラで旅に出ました。

八ヶ岳周辺の紅葉はどんな様子か?
また、東京の山小舎おばさんからの「渋柿があったら送って」のリクエストに応えるために。

コースは、大門峠からビーナスラインで蓼科別荘地方面へ。
メルヘン街道に合流し、麦草峠を越えて白駒の池へ。
小海町に下って佐久経由白樺湖へ戻るルート上の道の駅や直売所で渋柿を探す。

ビーナスラインを通って秋を探す

ビーナスラインを走ります。
池の平遊園地の駐車場は平日ながら満車状態、白樺湖の周辺も紅葉で色とりどりです。

スズラン峠を越えた蓼科山登山口の駐車場にも車がチラホラ。
ここからの蓼科山登山コースは一番きついとのこと、おそらく将軍平の山小舎を通らない山頂直行コースなのでしょう。

そのままビーナスラインをたどります。
対向車はチラホラ、天気は秋晴れです。

携帯のナビでメルヘン街道への最短距離を探します。
北八ヶ岳ロープウエイへの分かれ道を過ぎて、蓼科高原別荘地に入った頃、左折して別荘地を抜けます。
登坂の急な別荘地です。
紅葉がきれいに色づいています。

蓼科別荘地内の紅葉

複雑なルートを抜けてメルヘン街道に合流、ここからは一本道です。
途中の展望台で駐車。
北アルプスから八ヶ岳までが展望できました。
麓の山々のカラマツの紅葉も見事です。
観光客が三々五々展望台に駐車してゆきます。

展望台より望む北アルプス
八ヶ岳連峰
蓼科山

八ヶ岳横断道路であるメルヘン街道の最高標地点、麦草峠を通過します。
ここからは小海町や佐久穂町といった佐久側のエリアに入ります。
というかここまでが茅野市のエリアだったのです、北八ヶ岳の西側の広大なエリアが茅野市(諏訪側)のエリアに分類されているわけです。

白駒の池

麦草峠を佐久側に下ると白駒の池の駐車場があります。
広い駐車場です。
普通車600円の料金を払います。
この日は半分ほどの駐車料、夏のシーズンは満車になるのでしょう、周辺道路には路駐禁止の看板が立っています。

道路際に白駒の池への入り口と案内図があります。
観光客が出入りしています。
登山スタイルの人と、普段着の人が半々ほど。
広めの木道が白駒の池まで続いています。

白駒の池への入山口
白駒の池までの間の森林

周りの森はうっそうとしており、地面にはコケが生えています。
人気が多いこともあり、深山の鬱蒼さの度合いは、蓼科山の7合目からの方がより強いような気がしました。

登りが終わって少し下ると、木々の中に目指す白駒の池が見えてきました。
売店というか山小舎があり、チェーンソーと斧で薪割りをする姿も見えます。
湖面の船着き場には観光用のボートが係留されています。

売店では越冬用の燃料づくりが
売店横にはボートが係留

山の中にひっそりたたずむ神秘の湖をイメージしていた山小舎おじさんは現実の白駒の池の姿に軽いショック。
よく言えば観光客を迎える体制の整った姿、悪く言えば俗化した観光地、それが白駒の池でした。

人気を離れると神秘さが増す白駒の池

池の周りをたどって、もう一つの山小舎がある白駒荘周辺にも行ってみました。
こちらは宿泊も可能な本格的山小屋のようです。

湖畔の宿、白駒壮

白駒の池は本格的登山客の目的地ではなく、ここから様々なコースへの登山の中継地点のようです。
本格的な登山客にとっては、休憩地としての白駒の池周辺の山小屋は大いに必要なものなのでしょう。

案内図を見ると白駒の池を中心に登山コースが伸びている

次々にやってくる観光客の姿を見ながらそんなこと思った山小舎おじさんでした。

小海町から佐久へ、渋柿を探して

白駒の池を出発してメルヘン街道を小海町方面へと下ります。
途中の追分を右折して松原湖を通って国道141号線を目指します。
松原湖周辺の紅葉も見事でした。

たどりついた141号線は、野辺山方面と作を結ぶ幹線道路で、小海町の中心部を通ります。
この道をとおると必ず寄ってしまう、高原のパン屋さん、スーパーナナーズなどが点在する山小舎おじさんの大好きなルートです。
大盛でドライバーやライダーに有名な食堂・風とりもあります。

この日のランチはナナーズの弁当です。
全国各地の地元スーパーの自社製造の弁当は山小舎おじさんのおすすめです。
ナナーズは佐久地方限定のスーパーです。

この日はヒレカツ弁当を買って車中ランチ。
コンビニ弁当に比べて食後の満足感が違いました。

ナナーズ小海店謹製ヒレカツ弁当で車中ランチ

食後の目的は渋柿探しです。
141号線沿いの直売所をのぞきます。
セロリ一束と紅玉リンゴ一袋を買いましたが渋柿はありません。
店長のお兄さんに聞くと、春先の遅霜でカキの成りが悪く、例年の出荷元からも出荷がないとのことでした。

渋柿は、この先の道の駅ヘルシーテラス佐久南でようやく一袋探し出しました。

様々な直売所を巡ったおかげで、白菜やビーツ、サツマイモなどを手に入れることができました。
いずれも山小舎で加工するなり、東京で利用するなりして活用したいと思います。

この日唯一手に入った渋柿。まだシーズンには早い?

紅葉シーズンの北八ヶ岳一周の旅でした。

機織り機解体

山小屋のベランダで保存していた機織り機を解体しました。

7年以上にわたりシート掛けで保管されていた機織り機

この機織り機、山小舎の先代住人(甲州街道金沢宿にあった古民家を現地に移築した方)が茅野の家からもらい受けて保管していたもの。
その家では当時健在だったおばあさんが機織りに使っていたというもの。

山小舎おじさんが来た頃はベランダに放置されていて、その後7年に渡りそのままでした。
山小舎おばさんのリクエストにより、保管していたのです。
山小舎おばさんとしても、機織りの技習得への意欲は当時あったようでした。

7年ぶりにシートを外した機織り機

今般、山小舎おばさんのお許しが出て解体撤去のこととなりました。
これまでもベランダの範囲の中で、一番奥だったり、手前だったりに機織り機を移動させたことがありました。何せ重いし、ガラも大きいので解体に際しては、家族来訪時に手伝ってもらおうかなと思っていました。

10月の晴れた日、自力でやってみるか、と機織り機を覆っているシートを外しました。
チェーンソーでも使って切り外して解体しようか、と思ってのことです。

改めてみると、機織り機というものの構造。
外枠のしっかりした枠組みのほかは、ほとんど空間の作りです。
経糸を張る仕組みがあるくらい。

つまり、外枠さえ解体すればよさそうなのです。
そして全体の枠組みは、釘などで打たれているのではなく、組み合わせにより行われているのです。
その組み合わせを、トンカチなどで叩いてほどけば解体できるのです。

トンカチとバリ、ペンチを持ってきて解体を始めます。

照明に使われている蛍光灯を外します。
経糸の保持と操作にかかわる細かなパーツ類を外します。
日本古来の工法によって組み立てられている機織り機は、後付けの部品を除き、釘やねじは使われていません。非常に効率よく解体が進みます。

後付けされた照明用の蛍光灯をを外す
経糸関連のパーツを外してゆく

機織りの命である経糸はセッテイングされたままでした。
これを撤去します。
経糸を取り外された機織り機は、その使命が完了しました。

経糸を外し終わる
外したパーツ類

外枠は頑丈な木材が使われています。
ホームセンターはおろか、材木店に注文しても現在では入手できるかどうか、と思われる硬く丈夫な材質です。これもトンカチ一つで解体できました。
組み合わせのホゾやなにかもきっちりと正確に細工されているからです。
昔の職人さんの仕事の正確さが偲ばれます。

残りの外枠
組み合わせ部分を外す
きれいに掘られたホゾ

次々と廃材が集まってゆきます。
パーツ類、角材、垂木などに分類します。

角材、太めの垂木は貴重な材質なので保存することにします。
組み合わさったままの部分は、もったいないのですが薪台に使おうと思います。

解体した外枠の角材
外枠に使われた垂木
組み合わさったままの土台部分

機織り機よ、長いことご苦労様でした。

同類の友は各地の郷土博物館でたくさん余生を送っていることでしょう。
中には現役で働いているものもあるでしょう。

機織り機が撤去されたベランダ

スペアリブ

山小屋の自炊料理の紹介です。

家族や、孫たちが来訪するときに準備する料理にスペアリブがあります。

スペアリブは豚のアバラ肉のこと。
漬け込んだスペアリブをバーベキューで焼いたりします。

山小舎ではスペアリブ肉を煮込みます。
よく煮込むと、味が染み込んだ肉がホロホロと骨から外れる絶妙な一品となります。

茅野のAコープでスペアリブのパックが売られています。
ここで売られている信州豚は、例えば肩ロースをスライスして炭火焼きにしたり、バラブロックを角煮にしたりすると絶妙なのです。

買ってきたスペアリブをニンニクを転がした油で焼き付けます。
外側が焦げるくらいに。
にんにくは焦げるので取り出しながら。

焼いた後の油とニンニクごと、スペアリブを、ひたひたより少なめの水とともに鍋に入れ煮込み開始です。

鍋を火にかけると同時に調味料を投入です。

赤ワイン、しょうゆ、チャツネ、焼き肉のたれ、黒コショー、塩麴、ケチャップ、セロリなど思いつく西洋煮込み料理の調味料を投げ込みます。
コクを出すため牛乳かヨーグルトも入れてみましょう。
隠し味の味噌もいいかもしれません。

調味料を投入しつつ煮込み開始!

山小舎独自の調味料としては、スペアリブによく合う柑橘系のジャム(マーマレードなどのジャム)と、玉ねぎのすりおろしが欠かせません。
トマトとともに、玉ねぎは西洋系料理のダシとして欠かせないのです。

おもむろに玉ねぎのすりおろしを投入

肉本体から出るダシ、玉ねぎとトマトから出るダシ、しょうゆなど発酵系調味料の味、これらが混然一体となって鍋中で踊り狂います。

アクと浮いた油を取り乍らストーブで3時間ほど煮込みます。

この後は翌朝まで涼しい場所(夏場は冷蔵庫)で鍋ごと休ませます。
翌朝は一面に白く浮いた油をスプーンなどで取り除き、鍋を再びストーブに載せます。

しばらく煮込んで油が浮いた状態。このまま冷まし油を除去する

これを3日ほど繰り返すと、汁が煮詰まり、肉はホロホロのスペアリブ煮込みの出来上がりです。

肉が崩れるので鍋のまま温め、慎重に大皿に移してサーブします。

出来上がったスペアリブの煮込み

孫たちにも好評のスペアリブの出来上がりです。