トーキー移行で、アメリカやドイツに後れを取ったフランス映画は、1930年になってトーキー時代を迎えた。
そのころにフランス映画界は、サイレント時代にデビューを果たしていた、ルネ・クレール、ジャン・ルノワール、ジュリアン・デュヴィヴィエらが監督の中心におり、その一人にジャック・フェデーがいた。
フェデーはベルギーの生まれ。
サイレント時代のフランス映画界で頭角を現し、ハリウッドのMGMと契約して渡米。
何作か発表したものの評判に至らず、フランスに戻っていた。
夫人はフランス演劇界の大女優、フランソワーズ・ロゼエである。
1930年代のフランス映画は、歴史的名作、「巴里の屋根の下」(1930年ルネ・クレール)、「望郷」「舞踏会の手帖」(いずれも1937年ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)、「どん底」(1936年 ジャン・ルノワール)などなど、を生みだし続けていた。
フェデーはこの時期に「外人部隊」「ミモザ館」「女だけの都」を発表する。
いずれも夫人フランソワーズを主演ないし重要なわき役に配した堂々たる規模の大作である。
この3作品によりフェデーはフランス映画界に永遠の名を残した。(フェデーはこの後、製作者のアレクサンダー・コルダに招かれてイギリスへ渡り、1948年に没)。
では、世に言われるフランス映画の特色とはどういったものか。
ここに1冊の研究書がある。
題して「フランス映画のあゆみ」(岡田真吉著 1964年刊)。
著者はフランス映画(とフランス語)に資するところがあり、ジャン・エプスタン、ルネ・クレール、ロベール・ブレッソンらと文通して、彼らに質問したり、自らの映画批評を仏訳して送ったり、彼らから撮影台本を譲り受けたりしたという人物。
のちにフランス映画人たちの理解を得、何度もカンヌ映画祭に招待されたという(健康問題で渡仏は実現せず)。
ここでは、本著の第一章の要旨をもってフランス映画の特質、優秀性の引用としたい。
まずフランスの深い歴史的伝統に裏打ちされた文学的精神があること。
またフランスの文化的伝統たる演劇性に深く裏打ちされていること。
演劇的伝統はフランス映画に修辞作家の独立をもたらしたこと。
演ずる俳優たちが演技者として優秀であること。等々。
そして、フォトジェニイという映画的手法を確立したこと。
フォトジェニイとは「カメラに捉えられて一つの映像となるとその精神的価値を増加させる一つの資質」(同著P13)とある。
フランス映画が事実を追うだけでなく、人物の心理の陰影や性格を描いたり、一つのシチュエーションをそれが持つ情緒を浮かび上がらせるように描くことを志向するときの一つの映画的手法であり、モンタージュという概念と並ぶ映画芸術の本質を規定する要素、だという。
ヌーベルバーグの時代、雑誌「カイエ・デュ・シネマ」のフランソワ・トリュフォーらにより、全否定されたこの時代の作家と作品(クレールを除く。ルノワールは別格)。
しかしながらDVDで見たフェデーの作品は、作品の規模、俳優の演技力、脚本の完成度ともに一流のもので簡単に否定し去るものではなく、むしろフランス映画文化の伝統と奥深さを感じさせるに十分なものだった。
「外人部隊」 1934年 ジャック・フェデー監督 フランス
名花マリー・ベル扮する薄幸流転の場末の歌姫。
ピエール・リシャール=ウイルム扮する、無責任の挙句親族に国外追放されモロッコの外人部隊に流れ着く主人公。フランソワーズ・ロゼエ扮する場末の宿兼バーのいわくありげな女主人。
フランソワーズの宿六には「恐怖の報酬」が忘れられないシャルル・バネルが扮する。
役者がそろったところで観客はモロッコの場末で繰り広げられる「半端者」たちのグダグダの世界へ案内される。
主人公は悪気はないが苦労なく育った坊ちゃん。
パリで女に入れあげた挙句、親族の会社の金を使い果たして追放される。
金だけでくっついていたぜいたく好きの女フローレンス(マリー・ベル二役)は去る。
主人公は流れてモロッコの外人部隊へ。
外人部隊で友を得る主人公。
友は何くれとなく主人公の世話を焼いてくれる。
そう、「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1942年 ルキノ・ヴィスコンテイ)で無賃乗車の主人公を救ってしばらく面倒を見た放浪の香具師のように。
友はその過去を問うた時だけは激高した。
「お互い過去は詮索しない約束ではないか!」と。
主人公は、定宿の女主人(フランソワーズ・ロゼエ)に気に入られている。
必ず当たるので、女主人はやりたがらないトランプ占いでは、「かつての女と再会し、人を殺すが巨額を得る」と出る。
その占いは、流れ者同士の寄る辺ない一夜の暇つぶしであったはずだ。
友と訪れたバーで、忘れられないフローレンスとそっくりのイルマ(マリー・ベルニ役)を見る。
イルマは歌っても華がなく、席に着けば素人っぽくぎこちない酒場の女である。
どこから流れてきたのか本人も覚えていないこの女を主人公は見染める。
フローレンスが自分を追いかけてきてとぼけているたのだろう、と思う。
外人部隊で苦労しようとどうしようと、お坊ちゃんはどこまでも自分本位なのである、悪気はないが・・・。
過去に翻弄され、汚濁にまみれて流れてきた場末女イルマに扮し、やっとのことで主人公に心を開いてゆく、女ごころのいじらしさを演じるマリー・ベルが素晴らしい。
のちの世から見れば、お涙頂戴の不自然極まりない芝居なのかもしれないが、いいものはいい。
ラスト近く、アラブの王族とオープンカーでカサブランカを行く、本物のフローレンスと邂逅した主人公は一も二もなくなびいてゆく。
フローレンスが己を愛しているというついぞ捨てきれぬ己の幻想を信じ、またマルセイユ行きの切符2枚まで買ったイルマを船上に捨てて。
まるでサイレント時代のグロリア・スワンソンのような白一色のファッションで、王族のオープンカーから降り立つフローレンスに扮するマリー・ベルも光り輝いているが、人を信じるという経験すらない場末の女が、純粋だけは取り柄の主人公に触れて人間の心を取り戻してゆくイルマを演じ分ける、別人のようなマリー・ベルが忘れられない。
主人公の「身代わり」で激戦地に出陣し、戦死して帰ってくる友。
遺品を宿の暖炉にくべながら、ロシア語新聞に芸術家として紹介される友の記事を見るやるせなさ。
外人部隊が楽隊を先頭に街に入ってくる、子供らが行進に付きまとう。
モロッコの酒場での、カンカン踊りのようなベリーダンスのような、煽情だけをむき出しにした女たちのふるまい。これらをドキュメンタルというか、感傷なしに描写するジャック・フェデーの視線は乾いている。
「女だけの都」 1935年 ジャック・フェデー監督 フランス
パリ郊外に組まれたという16世紀フランドル地方都市の大オープンセット。
城内はお祭りの準備で市民が天手古舞。
市長一家のおっかさん、フランソワーズ・ロゼエも大忙し。
家では末っ子を風呂に入れ、女中のおしゃべりをぴしゃりと制して指図し、恋多き愛娘の訴えには親身にアドバイスをくれる。
そこには、モロッコの果てで占いトランプを前に斜に構える憂いに満ちたロゼエの姿はない。
庶民的で男勝りの肝っ玉おっかあの役も彼女に似合う。
ロゼエの達者な演技に見とれるだけで本作を見る意味は十分あるのだが、フェデーと脚本のシャルル・スパークは寓意に満ちた本筋と練られたデイテイルを駆使して観客をぐいぐい引っ張る。
時はスペインの治世、公爵一行が城壁都市にやってくる。
思わず最悪の事態が頭をよぎる。
略奪、凌辱、拷問、殲滅の幻影。
市長ら男たちは肖像画のモデルを早々にやめて、死んだふりを行うことにする。
ここで立ち上がったのがロゼエおっかさんを中心にした女性達。
日頃から男どもの優柔不断にはあきれており、野生的なスペイン軍を思うと心ときめく、とともに体を張って外敵を迎えることを決議する。
女達がスペイン兵たちをエスコートして街に入場する。
さっそく、男らしいスペイン将校たちに取り入るおかみさんたち。
市長夫人のロゼエは公爵にべったり。
年甲斐もなくよろめきかかる。
ここではさすがに踏みとどまり、愛娘の結婚保証人を公爵に願い出るが。
公爵一行の随行者に生臭坊主と小人がいる。
坊主にはルイ・ジューベが扮して笑わせる。
フェデー堂々の宗教権威批判だ。
幻影のスペイン軍の乱暴狼藉シーンは当時としては衝撃的でリアルな描写。
スペイン兵たちと市民たちが入り乱れる飲み屋のシーンも猥雑。
ここら辺は「外人部隊」にも共通するフェデーのリアルで乾いた描写ぶり。
中世市民のおおらかさを寓話的に描き、フランソワーズ・ロゼエの演技力という力技を加えた勢いで突っ走った快作。
古さは感じない。