上諏訪の桜

上諏訪(諏訪市)の堤防に桜並木があります。

諏訪湖にそそぐ上川という川の堤防です。
この堤防の上は車道になっており、茅野と諏訪湖を結ぶ抜け道に使われて、絶え間ない交通量があります。

4月上旬に偶然通りかかって「おおっ」と思い、後日改めて訪れてみました。
桜並木の河原側に水仙が一面に咲いており、その取り合わせも印象的でした。

桜並木のあたりの河原に駐車できるスペースがあり、何台か先客がいました。
軽トラを止めて桜並木の方向へ河原を歩きます。

桜並木に近づくにつれ、桜のピンク色と水仙の黄色、草の緑が迫ってきます。
桜は散りはじめ、桜吹雪が舞い始めています。
堤防の居住地側には提灯がぶら下げられており、花見の場所であることを示しています。

河原は水仙の絨毯が敷き詰められています。
桜に合わせての植付がなされたのでしょう。
今を盛りに咲き誇っています。

本格的な春の到来です。

春のビーナスライン

4月中旬のビーナスラインを軽トラで走ってみました。

ビーナスラインは茅野市内から、蓼科別荘地へ上り、蓼科山の麓を白樺湖まで。
それから大門峠を経て、車山、霧ヶ峰へと続く山すその観光道路です。

標高1000から1500メートルの地帯を走ります。
天気が良いと、3大アルプスはもちろん、富士山までが眺望できます。
天気が悪いと、数メートル先を見通せるのがやっとの程の霧が立ち込めます。

この日は晴れ。
山小舎を出て、大門峠を右折。
車山を目指します。

車山は大門峠と霧ヶ峰の間に位置するピークで、夏は登山、冬はスキーができる観光地で、リフトなども整備されたファミリー向けの場所です。
宿泊施設も多く、キャンプ場もあります。
茅野駅から路線バスも運行しています。

車山山頂を望む
車山

車山と霧ヶ峰の間にはいくつかのビューポイントがあります。
そのうちの一番大きな駐車場には観光客の車両が10台以上も止まっていました。

案内板に沿って、南アルプス、中央アルプス、北アルプスの雪を頂いた景色を見てゆきます。
遥かな山々は神々しい姿を見せています。

景色がパノラマ過ぎて案内板も1枚では全体をカバーしきれません。
計3枚の案内板が、それぞれの方向を案内すべく立っていました。
富士山も見えました。

展望台に集まった観光客
南アルプス
中央アルプス
北アルプス
富士山

霧ヶ峰を過ぎます。
駐車場には早や出店がオープンしていました。

霧ヶ峰無料駐車場の出店

ここから美ヶ原方面への道と分岐します。
夏はドライバーたちで混むルートです。
ここから標高2000メートル近くに上がったところが美ヶ原です。
美ヶ原方面には八島湿原という湿原もあります。

ビーナスライン霧ヶ峰の道路案内

霧ヶ峰は避暑地として、また夏のトレーニング場所としても有名です。
キャンプ場や温泉施設もあるようです。

霧ヶ峰の夏合宿施設

春先の雄大な山岳風景を遠望したビーナスラインのドライブでした。

DVD名画劇場 アフリカの女王とキャサリン・ヘプバーン

「アフリカの女王」という作品が好きだ。
中学生の時にだったかテレビの名画劇場で見て、20代になって映画館で再見した。
何ともいえぬ力の抜け具合。
まるで仏教説話のような映画だと思った。

「アフリカの女王と私」というキャサリン・ヘプバーンの著作がある。
彼女(「ケイティ」とヘプバーンが自称している)らしく、口語体で思ったことをのびのびと書いた本で、読みだしたらやめられない。
彼女の自伝「Me」を思い出す。

まずはこのメイキング本を読んだ。
そのあとに映画を見た。

「アフリカの女王と私」 キャサリン・ヘプバーン著 1990年 文芸春秋社刊

「お金のためだけに(映画の)仕事をしたことは一度もない。」(同著P141)とケイティは言う。
「仕事をするときは、その映画の発想なりキャラクターなりに愛情を覚えるからだ。」(同)とも。

「事実や映像やなまなましい感覚が、ひとつながりの記憶となってこちらへ押し寄せてくる。私の場合「アフリカの女王」がそうだった。」(同P10)。
ケイティは撮影後三十数年をして、この本を執筆する。

「アフリカの女王と私」表紙

電話が鳴る。
映画プロデューサーのサム・スピーゲルからだ。
面識はない。
「アフリカの女王」という原作ものの映画化の話。

監督のジョン・ヒューストン。
面識はない。
主演予定はハンフリー・ボガート。
会ったことはない。

でもケイティはスピーゲルに会ったときには出演を決めている。
あまつさえ、アフリカロケを提案する。
逡巡するスピーゲルに追い打ちをかける、「忘れないでくださいね、きっとアフリカですから」(同P15)と。

ケイテイことキャサリン・ヘプバーン。「アフリカの女王」撮影時41歳

脚本が届く。
ケイティに言わせればピンとこない。
ジョン・ヒューストンはなかなか姿を現さない。
会ってもとらえどころがなくケイテイをイライラさせる。
「一つだけ答えてほしい。ヒューストンはなぜ約束の時間を守れないのか。私は彼よりも百万倍も忙しい。」(同P17)のにと。

アフリカに着く。
コンゴのレオポルドヴィル。
次に飛行機でスタンリーヴィル。
撮影用キャンプの村までは、汽車で8時間、さらに車で40マイル。
ボギーはローレン・バコールとともに夫婦でロケに参加。

ロケ地でのボギー夫妻。ローレン・バコールが若い

キャンプでは、ボギー夫妻ともども個室のキャビンを与えられ、専属のボーイが付く。
部屋を花で飾り、シャワーやトイレの不自由に耐える(トイレはおまるで行い、シャワーの際に廃棄する)。
アフリカ暮らしはまんざらでもないらしい。

キャンプの「自室」でくつろぐケイテイ

「ここの水は、そう、まるではちみつだ。泥から蒸発してきたはちみつ」。(P35)と現地の軟水に感激するケイテイ。
軟水だと肌や髪が滑らかに保てるらしい。
アフリカ滞在を楽しんでいる。
否、文化生活とは対極にある生活から学び、よいところを見つけ出している。
さすが、ハリウッドではパーテイには参加しない主義、というケイテイ!

お気に入りの専属ボーイのアシストで髪を洗うケイテイ

ボギーとヒューストンへの評価は厳しい。
「私はこのアフリカでボギーとヒューストンという『男性意識過剰の』二人の男に挟まれている。」(同P65)と。ボギーの飲酒、ヒューストンの狩り(ちょっとでも暇ができると狩りに行きたがる)についても忌憚ない意見を述べることを躊躇しない。
自立した女性・ケイティ。

監督のジョン・ヒューストンは当初、ケイテイをあきれさせた

兄とともにアフリカに宣教に来て10年。
第一次大戦がはじまり、兄は死ぬ。
兄を間接的に殺したドイツ軍の戦艦をやっつけに、滝や葦原を物ともせず、ポンポン船アフリカの女王号で、船長のチャーリー(ボギー)とともに突き進むオールドミスのロージー(ケイテイ)が映画の主人公。

水に入る部分以外のほとんどのシーンをアフリカロケで撮影した1950当時では前代未聞の映画。
その空前節後のメイキングが「アフリカの女王と私」。

信心深く、不器量なオールドミスのロージー。
そのキャラクターにユーモアの色を付けたヒューストン。
深刻な場面で「スマイル」を指示されたケイテイ。

「こんなにすごい演出の仕方は初めてだった。」「ヒューストンは常識がなく、無責任で、乱暴だ。しかし彼には本当に才能がある」(同P96)と絶賛。
評価を180度転換する。

批判しつつもヒューストンの狩りに同行したケイテイ!

前後するがボギーについての評価も。

ロケの合間に川向の漁村見物に出かけようと、ボギー夫妻ともどもモーターボートをチャーターしたが、エンジン始動と同時に爆発が起きた。
ボギーは川に飛び込んで水をかけ、隣のボートの消化器と毛布で火を消し止めた。

「ボギーはトラブルに出くわしても、それをちゃんと処理できる人なのだ。」(同P42)とその真価を評価している。

ボギーは「トラブルを処理できる男」だった

「アフリカの最後の数日(中略)私はこの土地の美しさと力強さに心を動かされていた。とにかくけた外れの体験だった。(中略)もう一度ここへ戻ってこれるだろうか。戻りたい、本当に戻りたい。」(同P133)。

ヒューストンに出会い、ボギーに出会い、得難い体験の数々を残し、ケイテイはアフリカロケを終えた。

撮影風景。50年当時の大掛かりな撮影クルーの様子がうかがえる

「アフリカの女王」 1951年 ジョン・ヒューストン監督 ユナイト

1914年の独領東アフリカ。
イギリスから派遣されて10年の宣教師兄弟が教会に讃美歌が流れる。
オルガンを弾いて声高らかなやせぎすの中年女性(キャサリン・ヘプバーン)。
黒人のリズムと全く調和が取れていない。

一方、ボイラーを真ん中に積んだだけでキャビンもないポンポン船で川を行き来し、郵便や物資を運ぶカナダ人のチャーリー(ハンフリー・ボガート)。
すっかりアフリカずれした様子は、貧乏旅行者が気に入ったアジア・アフリカの安宿で「沈没」した様さえ思わせる。

さすが、ケイテイとボギーの両スター。
つかみはOKだ。

画面から醸し出される茫洋とした、雄大な、神の支配するかのような明るさとゆったり感。
これはジョン・ヒューストン監督のなせる業か?
いや、暇さえあれば狩りにうつつを抜かしていたというヒューストンの功績について結論付けるのはまだ早かろう。

アフリカの女王号の二人を狙うテクニカラー仕様のカメラ

それにしてもキャサリン・ヘプバーン扮するロージーの何とチャーミングなことか。
宣教師の兄に同行してアフリカで10年。
こちこちのクリスチャンでやせぎすのオールドミス。
ユーモアのかけらもないキャラクター。

兄が死に、様子を見に訪れたチャーリーとともに野辺の送りを済ませると、ドイツ軍の来襲から逃れるため(と、内心ではドイツ軍に復讐するため)、アフリカの女王号で出発する。

メイキング本の裏表紙より、アフリカの女王号に乗り込むシーンのケイテイ

せちがらさと世俗からはかけ離れ、頑固一徹、宗教者として誇り高く自律的なロージー。
擦れておらず、一本ずれた天然なところがかわいらしい。
突拍子もない発想は一見非常識だが、チャーリーの協力よろしく、窮地に陥ったアフリカの女王号を何度も救う。

滝を下る、魚雷?をつくる、折れたスクリューをジャングルで炭をおこし冶金で修理する。
チャーリーにとっては常識外の発想。
あっけにとられながらも持ち前の生活力で、ロージーの「発想」を「形」にするチャーリー。

二人に襲い掛かる困難の数々

兄の死と教会からの離脱という絶望的な状況に毅然とした姿勢を崩さず、助けてくれるチャーリーの飲んだくれに対してはジンの瓶全部を川に投棄し、酔ったついでの「やせぎすのオールドミス」というチャーリーの暴言には、翌日チャーリーが全面的に謝るまで無言を通す。
こういった融通の利かない女性像の演技はヘプバーンの独壇場。
頬のこけ尖っているが上品な顔つきが冴えに冴える。

共同作業の中、二人が意気投合する。
堅物オールドミスと沈没組中年外人のカップリング。
もちろんロージーにとっては初めてのパートナー。
これぞベストカップル!
奥さんのロージーが溌溂としていてリーダーシップをとり、旦那のチャーリーがしっかりとフォローできるのが好ましい。

困難を一つひとつ解決してゆく二人

ヘプバーン(ケイティ)のメイキング本では「大騒ぎ」の内幕だった。
大作映画としてスマートに編集された完成映画を見ると「混乱」の跡形もない。

アフリカロケが醸し出す泰然としたムード。
ヘプバーンの「絶望感の中にスマイルを通す」演技はヒューストン演出のナイスプレー。
キーマンであるロージーのキャラ付けが映画に果てしない広がりと深みを生んだ。
汚れ役で、頼りがいのあるボギーの演技もよかった。

なお、ケイテイのメイキング本には一言もなかったがこの映画、製作のスピーゲル(クレジットでは変名のサム・イーグルとなっている)、監督のヒューストン、主演のボギーに同行のベテイ(ローレン・バコール)、そしてケイテイと、全員が40年代末期のハリウッド赤狩りの間接的な犠牲者であり、少なくとも苦い思いをしたという意味で共通点を持つ「仲間」ではないか。

製作者;サム・スピーゲル(右)。左は撮影監督のジャック・カーデイフ

彼らのいわば「同志愛」が、困難な製作をやり通し、人類愛に満ちたともいえるこの作品を誕生せしめたのかもしれない。

おまけ 「旅情」 1955年 デヴィッド・リーン監督  イギリス

ヘプバーンのオールドミスキャラつながりで「旅情」を見た。

今回のケイテイの役柄は、アフリカの宣教師というぶっ飛んだものから、大幅に一般化し、アメリカ地方都市の秘書の役。
38歳の独身、仕事は有能だが男の影無し。
長期休暇を取っての欧州でのバカンス。
最後にベニスにやってきた女性一人旅という設定。.

女性の一人旅。
普通は男(特にイタリア男!)がほおっておかない。
ゆく先々でアヴァンチュールを繰り返し・・・というところ。
だが我がケイテイにはまったく男っ気なし。

ベニスのペンションでも食事の誘うのはもっぱらケイテイの方から、しかもデートに忙しい同宿者はケイテイの誘いを断ってばかり。
イタリアは、ベニスは恋の街なのだといわんばかりに。

ペンションの女主人がイザ・ミランダ。
イタリア生まれのフランス女優で「輪舞」(1950年 マックス・オフュールス監督)で貫禄たっぷりな美貌を見せてくれた。

女主人はケイテイとさっそく意気投合するが彼女も恋の女。
「積極的に行かなきゃ」などと、会った早々のケイテイにアドバイス。
「イタリア男は面白いわよ」とも。

そこへ現れたイタリア男。
てかてか、ぎらぎらのロッサノ・ブラッツイ。
ベニスへの列車でケイテイと同じコンパートメントだったのがなれそめ。
サンマルコ広場のカフェで再会するが、防御の硬いケイテイは見て見ぬふり。
ベネチアガラスを飾る骨董屋で再再会。

ケイテイ対ロッサノ・ブラツイ

自立しテキパキしている職業婦人のケイテイは、ムービーカメラを片手に一人でどこでも出かける。
裸足の浮浪児マルコが案内役だ。

ピュ-リタリニズムというのかアメリカの田舎の価値観なのか、男に対してはとにかく硬いケイテイ。
折に触れ口説くブロッツイ。
既婚者で成人しそうな息子がいるのがばれて、せっかく近づくことのできたケイテイの怒りを買ってもあきらめないで言い訳にこれ務める。

本当は寂しがり屋、旅先で若い男に言い寄られるのが夢だがこれが現実、と核心を追いて口説きまくるイタリア中年男に、さすがのケイテイもギブアップ。
夢のようなベニスの夜。
オーケストラが奏で、空には花火が轟いておりました。

イギリス人監督のデヴィッド・リーンは撮影時40代中盤のヘプバーンの、首のしわとそばかすを隠すことを第一に考えたらしい。
なるほどハイネックの衣装と濃い目のメイク。
テクニカラーに映える衣装。

ただし隠し切れないのがキャサリン・ヘプバーンの役者としての実力、そして貫禄。
毅然とした姿勢を崩さず、自立し、一人で行動する役を敢然とこなす。

運河に落ちるシーンもスタンドなし。
「アフリカの女王」に次いでの水ずくしだ(ちなみに「アフリカの女王」でボギーとケイテイが水に漬かるシーンはすべてロンドンのスタジオ撮影とのこと)。

若いころの「赤ちゃん教育」でも「フィラデルフィア物語」でも、水に浸かったりプールに飛び込むシーンはお手の物だったのがケイテイ。
さすがの女優魂である。
この作品でもケイテイことヘプバーン一人の場面の芸達者ぶりをたっぷり楽しむことができる。

イタリア男の手を借りて、旅の情けを知ったケイテイ。
理想ではないものの、自分相応の夢を見ることができた。
現実とは交わらないものの、確かな夢の名残を残してベニスからアメリカのホームへ帰ってゆくのだった。

ヘプバーンは中年になっても、若いころ(「勝利の朝」「赤ちゃん教育」「フィラデルフィア物語」のころ)同様に冒険が似合っていた!

列車でベニスを去る時のケイテイ

丸子城址に登る

上田市丸子地区は、諏訪と上田を結ぶ大門街道沿いに開けた町です。
大門街道に沿っては依田川が、和田峠に端を発し千曲川への合流を目指して、流れています。
その大門街道と依田川を見下ろす小高い里山の山頂に丸子城址があります。

丸子公園にかかる案内板

山頂の丸子城址からふもとに広がる一帯が丸子公園となっています。

桜が散り始めたころ、畑作業を終えた山小舎おじさんは丸子公園へと寄ってみました。
依田川沿いの丸子公園は桜の名所であり、五月の節句の時期には、数多くのこいのぼりが、川を渡って吊り下げられ、風に泳ぐ場所でもあります。

丸子城は第一次上田合戦で、真田側の武将の居城として、徳川軍を迎え撃った実戦の場でした。
第一次上田合戦は、群馬県の沼田城を討った真田(幸村の父の時代)に、徳川が沼田城の放棄を求め、真田がこれを拒否したため、徳川が真田を懲らしめに出兵しておこりました。

真田本隊が陣取る上田城を攻めた徳川でしたがどうしても落ちず、一方の真田方である丸子城へと進撃先を変更しました。
丸子城は激戦の末、徳川軍の征伐を許さず膠着状態へ。
やがて徳川軍は佐久方面へ撤退していきました。
真田軍の徳川に対する最初の勝利の戦さです。

公園内の遊び場

さて、令和5年の丸子公園。
麓の公園は桜の季節。
家族連れが三々五々、子供を遊ばせています。

山小舎おじさんは山頂の城跡を目指し、山道を登り始めます。
案内板によると、500メートルで二の郭と呼ばれる場所につき、そこから350メートルで山頂の一の郭(天守)につきます。

丸子城址案内板

畑作業でウオームアップしたせいか、さしたる疲労もなく坂道をたどってゆくことができました。
山道はしっかり整備されていて、足元に不安はありません。
不安は自分の脚自体だけです。
日曜なので思ったよりハイカーの姿が多く、数組とすれ違う。
幼児や足の若干不自由そうなご高配の姿もあります。
さすが山の国長野県です。
春先なので風が冷たいです。

丸子城へ向かう山道

二の郭に着くと家族がシートを広げて日向ぼっこしていました。
復元された物見台に上ると、幼い兄弟も自力で登って遊んでいきました。

物見台からはふもとの大門街道はもちろん、遠く浅間山や菅平方面までが望めます。
和田峠方面は目と鼻の先だます

二の郭
二の郭から望む浅間連峰方面
上田市街から菅平方面

ここから見れば外敵の行動は丸裸だなと思いながら、一の郭を目指します。
終点までは、隣の山の山頂まで行かなくてはなりません。

一の郭へ向かう尾根道
あの山の頂上が一の郭

少し息が切れてきたが一の郭へ着きました。

井戸以外に何の遺跡もなく、歴史の彼方に過ぎ去った丸子城。
変わらぬものはここから眺める遥かな山々の姿だけなのだろう。

一の郭後の達東屋から八ヶ岳方面を望む
大門街道、依田川を見下ろす

畑の準備

4月に入り、桜も満開になった畑周辺ですが、寒気がぶり返し雨が降りました。
雨が上がり、風邪は冷たいものの天気が良くなったので畑へ行きました。

鹿よけのネットを建てて3年目になる圃場。
冬の間に支柱が2、3本折れていました。

風が当たる部分の支柱です。
昨年のように鹿に破られた後、脱出の際に蹴倒されたようなことはありません。

風邪に倒された支柱とネット

支えの木の杭のところからぽっきり折れた支柱を回収し、新しい支柱に取り換えます。
冬の間の強風で支えの木の杭も緩んでいるので、新しい木杭を打ち込みます。
木杭の材料となる太めの枝は山小舎にいくらでもあります。
まっすぐな枝をチョイスして先端を鉈で落として木杭を吸う本作っておきます。

新しい支柱と木杭を打ち込む

ネットの補修が終わりました。

補修したネット

春作は、キャベツ、キヌサヤなどを予定しています。

昨年立てた畝を引き続き今年も使用します。
冬の間に土が締まった場所はスコップを入れて起こします。

鍬で畝の形を整え、レーキで雑草などを取り除きます。

去年から仕込んでおいたボカシを上から撒いて軽く混ぜこんでおきます。
春作の場合、地温が低く、小さい苗でキャベツなどを定植すると、どうしても初期の育ちが遅くなります。
今年はボカシの力添えで地温を上げ、栄養を補給してキャベツに良く育ってもらえれば、と思います。
うまくいけば6月ころに出荷できます。

去年、ニンジン、エゴマ、ホオズキなどを植えた畝を起こす

畑の傍らには水仙がほころんできました。

水仙が満開

隣の畑の桜も満開です。

桜も満開

去年11月に定植した玉ねぎが元気になってきました。

玉ねぎも元気

立科町 津金寺

少し前のこと、3月の末に、津金寺というお寺を見てきました。
立科町にある古いお寺です。

上田市の丸子地区から山を越えて佐久方面に抜ける道沿いにあります。
その道を通るときにはいつも「立派なお寺があるなあ」と思っていました。

ある日、佐久方面から丸子へ寄って帰る道すがら、ふと思い立ち、その「立派なお寺」に寄ってみました。

津金寺は古代東山道沿いに702年の開基とし、長く信濃地方の学問の拠点だったお寺です。
戦国時代に織田信長の軍勢に焼き討ちに遭いましたが、江戸時代には漸次復興したとのことです。

駐車場に軽トラを入れ境内に降り立ちます。
境内の広さがわかります。
境内全体の案内図や建物の案内板が訪れるものを案内してくれます。

まず山門を眺めてみます。

仁王門(山門)を横から見る
仁王門正面

仁王門といわれる山門で、立派な仁王様が、浅間連峰方面ににらみを利かせています。

古いが力強い仁王像

本堂らしき建物が池と橋の向こうに見えます。
観音堂と呼ばれる建物で、折から開花目前の桜が風景を彩っていました。

山門をくぐると観音橋の向こうに観音堂が
観音堂

観音堂横の墓所には数々の墓石が並び、歴史の古さと地域の人心のよりどころであったことを示しています。

観音堂横の墓石の群れ

立派なお寺ですが人気がないのが寂しかったです。

遠くには残雪をいただいた浅間山の姿が見えました。
立科町の春が間近でした。

浅間山がのぞく

DVD名画劇場 MGMアメリカ映画黄金時代 ザッツMGMミュージカル!①勃興期

アメリカ映画黄金時代のラインアップに欠かせないのがミュージカル映画。

「ミュージカル映画こそは、我々大衆が常に求めている真の芸術形態であると筆者は確信する。」とは、柳生すみまろ著「ミュージカル映画」(1975年 芳賀書店刊) P158よりの引用。

今回は1940年代に全盛期を迎えたMGM社のミュージカル映画から、その勃興期に当たる1920年代から30年代にかけての2作品を見た。

「ミュージカル映画」表紙
同、奥付き

「ブロードウエイ・メロデイ」 1929年 ハリー・ボーモント監督 MGM

世界初のトーキー映画が1927年の「ジャズシンガー」。
初のミュージカル映画ともいわれる「ジャズシンガー」から、各社は玉石混交のミュージカル作品を制作した。

「ブロードウエイメロデイー」は、音楽部員として、のちにMGMはミュージカルを支えることになるアーサー・フリードが参加し作詞を担当。
また、劇中の全曲がオリジナルスコアという力の入った1作だった。

出演は、ブロードウエイのスターを目指す姉妹役に、ベッシー・ラヴ(姉)とアニタ・ペイジ(妹)。
姉の恋人で、ブロードウエイで作曲家兼役者をしている役にチャールズ・キング。

アーサー・フリードを除き、監督のボーモントともども、現在では忘れられたスタッフ、キャストだが、姉役のベッシー・ラヴは子役から無声映画で活躍した人気者だったとのこと。

また、映画は我々が想像するような、セリフを歌で表現したり、レヴューシーンと劇シーンが混然一体となったミュージカルではなく、歌と踊りが行われるのは舞台上とけいこの時だけで、あとは一般の劇映画のように進んでゆくスタイル。

「ブロードウエイメロデイー」の一場面

田舎からニューヨークに上京し、舞台のスターを目指す姉妹が主人公。
お互いへの思いやり、チャールズ・キング扮する姉の恋人を巡る三角関係、バックステージの混乱、リハーサル前の緊張、妹の抜擢、妹に近づく都会の遊び人・・・などが要素となって話が進む。

前述のように、レビューシーンは舞台を平板的に撮影するという方法で表現され、のちのMGMミュージカルに見られるような、大セットと大人数のダンサーによる目くるめく舞台を立体的に撮影する、というスペクタクル性は見られ無い。
ダンサーたちの踊りも、整合性がなく緩い感じなところに完成度の低さがうかがえる。
その分、ベッシー・ラヴの達者な個人芸が見られるのは、アナクロな意味で拾い物だが。

中央アニタ・ペイジ。右ベッシー・ラヴ

先の「ミュージカル映画」によると、ミュージカル映画には2種類あり、一つはいわゆる楽屋話を描くバックステージものや伝記もので、もう一つは40年代のMGMミュージカルに代表されるオリジナル歌曲で構成される豪華絢爛なものだという。(同著P150)

この定義で行くと「ブロードウエイメロデイー」は、初のオリジナルスコアによる作品でありながら、多分にバックステージものの要素を持っており、分類は難しいが、レヴューシーンの表現が成熟していない点やドラマ部分の重要度合いを見ると、一つ目のいわゆる「楽屋話」に分類されるのだろう。

妹を思って、遊び人から妹を守ろうとしたり、三角関係から身を引く姉(ベッシー・ラヴ)の演技がよかったし、妹役アニタ・ペイジのフレッシュな美しさは見ごたえがあった。
本作は大ヒットし、MGMがミュージカルに傾注するきっかけになったという。

「巨星ジーグフェルド」 1936年 ロバート・Z・レナード監督 MGM

上映時間(DVD)178分。
MGMのトップスターの配役。
豪華絢爛なレビューシーン。

どれをとっても第一級作品仕様で、40年代に全盛を迎えるMGMミュージカルの直接の契機となった作品。
第9回アカデミー賞の作品賞と主演女優賞(ルイーゼ・ライナー)を受賞。

このそうそうたる作品が1936年に生まれている。
テーマとなったジーグフェルドとは何か?
この作品撮影の数年前に死亡したブロードウエイのレビュープロデユーサーである。
名前の通りドイツ系移民の子孫で、父親は音楽学校の経営者。
比較的裕福な出だった。

1893年シカゴ万博の会場からドラマは始まる。
筋肉自慢の怪力ショーをプロモートするジーグフェルド(ウイリアム・パウエル)。
向かいの小屋ではエジプト娘のベリーダンスを出し物に、終生のライバルとなる興行師が呼び込みしている。
当時の万国博覧会は異国趣味や怪物志向の見世物小屋が今でいうところのパビリオンだったのだ!

まもなく口八丁手八丁のジーグフェルドルドは、ライバル興行師を付け回し、ロンドンでフランス人歌姫アンナ(ルイーゼ・ライナー)を横取り契約して大当たりを取り、彼女と結婚(実話では事実婚)したりで、ブロードウエイでのし上がってゆく。
舞台については装置から衣装まで細かく口を出す。
そのことごとくがヒットにつながる。

右からウイリアム・パウエル、ルイーゼ・ライナー、ヴァージニア・ブルース

アンナを主役から降ろし、バックダンサーのオードリー(ヴァージニア・ブルース)をレビューの主役に抜擢。
大人数のダンサーを使い、大掛かりな舞台装置、豪華な衣装のレビューを演出するのがジーグフェルドのスタイル。

映画で再現されるそれは、まさにMGMミュージカルの豪華さをこれでもかと見せつけるよう。
デコレーションケーキのような形の巨大な装置を舞台上にあつらえ、それが回転するにつれ、東洋調、イタリア調と異国情緒あふれる場面が過ぎてゆく。
様々な音楽を豪華衣装のダンサーたちが奏で、回転を終えたデコレーションのてっぺんでは、オードリーがにっこり微笑む。

レビューの場面

衣装は宝塚もびっくりのキンキラキンだし、ダンサーは大勢で皆美人、踊りも「ブロードウエイメロデイー」に比べて格段に揃っており、キレもある。
観客から見えやすいように、ダンサーたちが配置される階段は高く、急に、というのもジーグフェルドの演出。

一方でスターの座を奪われたアンナは夫のもとを去る。
のちにジーグフェルドの再婚を新聞で知り、お祝いの電話をかける。
この時のルイーゼ・ライナーの演技がよい。
ドイツに生まれたユダヤ人としてハリウッドで異色の経歴を生きた女優であるルイーゼの悲哀が感じられるかのような演技だった。

ルイーゼ・ライナー

開巻2時間を優に過ぎてから、マーナ・ロイが二度目の妻役として登場。
最後までジーグフェルドを励まし、株の暴落で破産してからは自ら舞台に復帰し夫を支えた妻を演じている。
パウエルとマーナはすでにMGMの黄金コンビとして「影なき男」シリーズで夫婦探偵を演じており、息の合ったパートナーぶりが見られる。

マーナ・ロイ

ジーグフェルドの自伝映画としてほぼ実話に基づいた作品のようで、生前ジーグフェルドに関係のあった俳優(ウイル・ロジャースなど)が実名で出ている。
ここら辺はバックステージものそのものである。
一方で、豪華絢爛ぶりもいよいよ盛んになった作品でもあり、見物としては舞台の豪華ぶりが一番の見どころではあった。
1936年作品にしてこの盛り上がりぶり。
MGMミュージカルよ恐るべし。

2023高遠城址公園さくら祭

「天下第一の桜「といわれる高遠城址公園の桜を見てきました。

令和5年の4月。
信州も各地で桜の満開を伝えています。
今年は高遠へ行ってみようと軽トラに乗りました。

茅野から杖突街道を高遠まで走ります。
杖突峠を下ると、集落が街道沿いに点在する風景が見られます。

桜の季節の集落は夢のような風景でした。
人家の庭、川の堤防沿い、公民館などの建物沿いを春の色合いで満開の桜が彩っていました。

この日の杖突街道は観光バスを筆頭に乗用車が車列を作っていました。
高遠の街に入り、城址公園の臨時駐車場に着くまで車列は続きました。
全国ナンバーの車が集まっています。

駐車場へ向かう車列

駐車場に軽トラを置き、城址公園へ向かいます。
入場者が三々五々集まっています。
入場料を払い園内へ。

入場門は城跡に建つ「高遠閣」の脇にある

園内はソメイヨシノが満開で、花弁が散り始めています。
メインルートに沿って並び立つ提灯が花見らしさを誘います。
お祭りには欠かせない屋台も並んでいます。

テキヤの屋台が並ぶ
茶店も何軒かオープン

城址公園には2、3の櫓や城門などが復元されています。
郷土の出征兵士の霊を慰める忠魂碑もあります。

忠魂碑
城内のくぼ地の沼に桜の花びらが

このお城は武田氏の居城で、信玄亡き後、信濃を攻めた織田信長軍に最後まで抵抗して落城した場所です。
その後、城主は変わり、ご多分に漏れず明治維新後に取り壊され、現在に至っています。

西側には天竜川沿いの伊那の街の向こうに遥か中央アルプスが望めます。
こじんまりとした城内ですが、廃城後に桜を植え、桜で町おこしをしたのは正解だと思います。

雲で見えないが中央アルプス方面を望む

まだ昼間だからなのか、シートに座って花見をするグループはほとんど見られず、三々五々歩く観光客がほとんどでした。

珍しく1組が花見の真っ最中

昼になり、軽トラを高遠市街に回して蕎麦屋を探しました。
高遠は高遠蕎麦でも有名です。
しかし目指す蕎麦屋は観光客で並んでいました。
その向かいの蕎麦屋も同じ。

そこで別の食堂を探しました。
並ばずにソースカツ丼をいただきました。
これで1000円はお値打ちです。

目指す蕎麦屋は並んでいた・・・
別の食堂でソースカツ丼!

午後は伊那へ下り、かねてから気になっていた森本という地元の菓子店へ。
山小舎おばさんがお気に入りの草餅などを買いました。
いつもは直売所で手に入れる草餅を本店で買いました。
この日行われた入学式のお祝いの赤飯の注文が積み上げられている森本菓子店の店内でした。

伊那の森本菓子店
草餅、どら焼きなどをチョイス

帰り道ではいつもの直売所へ。
南箕輪村のあじーなです。
山小舎おばさんが最近凝っている手作りこんにゃくや、地元産の原料で作ったラー油などを買いました。

帰り道はいつもの「あじーな」へ
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春本番を前にした高遠、伊那地方の旅でした。

山小舎まで列車で移動

3月の山小舎開きの後、1週間ほどで孫の誕生会があり、自宅に戻りました。
8歳と5歳となり、3年生と年長さんの新学期を迎える彼女たちのお祝いをしました。

自宅までの移動は高速バスで、帰りは列車を使いました。
高速バス駐車場(乗客が自家用車を止めるための)が何年かぶりで満車に近くなり、コロナ時代の終焉を告げていました。
乗車した便(土曜午後)の乗車率は半分ほどでしたが。

帰りは自宅からJR三鷹駅までバスに乗り、そこから中央線高尾駅まで電車で、高尾からは小淵沢行きの普通列車に乗りました。
車窓は春爛漫の風景でした。

相模湖から大月あたりまでは、桜が満開から散り始めの時期でした。
様々な春の花が咲き乱れてりました。

笹子トンネルを越えて甲府盆地側に出たところ、甲斐大和駅から見える桜は満開でした。

甲斐大和駅の桜
甲斐大和駅土手の桜

甲府盆地を下ってゆき、勝沼のあたりになると、気温が高いのか桜は散り終わりに近い姿でした。

勝沼の駅の葉桜

甲府が近づくにつれて、沿線に桃畑が広がってきます。
濃いピンク色の桃の花が満開でした。
盆地の西側には富士山が山頂をのぞかせていました。

甲府盆地の桃の花

甲府駅で途中下車。
駅には春休みの少年少女の姿が目立ちました。

甲府で昼食です。
最近行きつけの駅前通りにある割烹料理屋のランチをいただきます。
信玄鶏のから揚げ定食、ごはん大盛です。

最近の値上げブームの影響か、唐揚げの量とごはんの盛が少なくなっていました。
去年までは、唐揚げを食べ尽くすのが一仕事、さらにご飯が普通盛だと唐揚げが余ってしまい、ならばとご飯を大盛にすると満腹すぎて・・・だったのですが、今では大盛でちょうど良い全体量になっていました。
値段は変わっていませんでした。

それでも腹いっぱい。
腹ごなしにいつものように甲府の中心街を一周。
ニュースで見た通り、甲府で長い歴史を持つ岡島というデパートが閉店になり、近くの2号店に統合されていました。
中心街唯一のミニシアターは営業していました。

駅へと戻る途中に城壁が見えます。
武田氏が滅んだあと、幕末までの間に領主が住んだお城です。

甲府の人々に圧倒的に人気があるのは武田信玄で、駅前に銅像が立ってたりします。
山小舎おじさんも、駅から30分ほどの武田氏の居城跡のお寺と博物館には行きました。
一方、駅前のお城には入ったことがなかったのでこの度寄ってみました。

復元された城門をくぐって城内へ

駅からほど近く、城壁に囲まれた小高い丘に城跡があります。
広い城内ですが、天守閣などはすでになく、復元の予定もないようです。
城壁や一部の門が復元されています。
桜はほぼ終わっていましたが、木の下では訪れた人が三々五々休んでいました。

天守台への鉄門
天守台の桜の下で憩う人

一番高い天守台に登りました。
富士山がきれいに見えました。
反対側には雪を頂いた南アルプスの山並みが見えます。

天守台から望む富士
天守台

甲府駅に戻り下り列車に乗りました。

茅野駅に帰ってくると、駅前の八重桜が満開でした。

茅野駅前の八重桜