「フレッド・ブラッシー自伝」

銀髪鬼と呼ばれたプロレスラーの自伝を読んだ。

プロレスラー、ブラッシー

プロレスという仕事がある。
アメリカで発生したプロフェッショナルレスリングのことだが、およそスポーツとしてのレスリングとはかけ離れたもので、アマレス的なアスリートの要素から、演技的なエンターテインメントの要素までを含んだ仕事である。

日本でも有名なブラッシーというプロレスラーがいた。
1918年、オーストリア=ハンガリー帝国からの移民の子供として生まれ、海軍除隊後、地元でプロレスラーになった。

売り出し中の若き日のブラッシー

南部のアトランタで売り出し、以後、ロサンゼルス地区を中心にヒール(悪役)として一世を風靡。
日本にもたびたび遠征した。
現役引退後は、現WWEのプロモーションでマネージャーとして活躍した。

プロレスという仕事

プロレスラーは大会会場を巡業して歩く。
ある期間、一定の場所を一定のメンバーで回る。
プロモーターと呼ばれる興行主画がんだスケジュールの元、与えられたキャラクターを演じ、観客を集め興奮させるのが仕事だ。

それは、身体能力に恵まれ、アスリートとして、またパフォーマーとしての特別な才能を有する者だけが所属を許される職業集団。
そこで行われるパフォーマンスは、「試合」ではなく、「興行」と呼ばれる(日本では慣習上「試合」と呼ばれているが)。

スポーツ系でいえば大相撲の世界に近い。
また、旅芸人、サーカス団に近い。
大相撲は八百長を忌避する、サーカスもインチキではできない、それでも真剣勝負のアマチュスポーツの「試合」とはなぜか色合い画異なる「興行」の世界である。

本書で、ブラッシーからプロレスラーとして高評価を得ているのが、日本でも有名なザ・デストロイヤー。
アマレスの全米チャンピオンの実力を持ちながら、覆面を被り独特のキャラを確立。
リング上では激しいファイトをいとわないが、業界のルールは決して破らない。
大学出で知性と常識に富んでいる。

一方で、厳しい評価を受けているのが、プロレスファンなら知っているバデイ・ロジャースとジョニー・バレンタイン。
特にロジャースは世界チャンピオンとなるくらいの人気者ではあったが、ブラッシーに言わせると、「相手の体のことを考えずに技を出す」自分勝手な奴。
バレンタインンの度を越した悪戯っぷりもダメだったらしい。

ブラッシーはヒール(悪役)となって以来、ファンに21回も刺されたという。
会場に乗り付けた車は、興行の間にファンに壊されたという。

私生活では2回の離婚。
セントルイスに家族を置いて、アラバマで巡業していた期間は、家族に会えるのは年に何回か。
巡業先で女は欠かさなかったという。
プロスラーはもてるのだ。
たいてい離婚もしている。

自伝では、ファンに刺されたことや、車を壊されたことを、むしろ誇らしげに書いてある。
ファンをヒートアップさせるのがプロレスラーとして有能であることの証明だ。

観客には決して自分からは手は出さないが、昔はリングに上がってくる素人の力自慢の相手もしたという。
ケガしない程度に痛めつけて、プロレスラー強しを証明しなければならないのも仕事の一つ。
ブラッシーも事故にならない程度に、こうしたイカレたファンを痛めつけたこともあったという。
今なら訴訟モノだが。

ブラッシーはテレビショーに出たときも、台本なしでのパフォーマンスを繰り広げ、〈アングル〉なしでMCの上着を引き裂いたりしたという。
〈アングル〉(事前の打ち合わせ)があろうがなかろうが、プロレスラーは自分のキャラに生きなければならない。
〈アングル〉があればそれに従い、なければ相手の出方に応じていかようにも対応できなければならない。

アドリブにも長じ、いかなる場でも、自分のカラーに染めることできるブラッシーはプロレスラーの鏡といえる。
テレビスタジオという、視聴者にとっては〈現実〉そのものの空間を、一瞬にして〈プロレス〉という異空間に変換させ得る力を持つ者がプロレスラー。
そういった意味でも、プロレスラーは現代の〈マレビト〉なのだ。

テレビショーでMCの上着を引き裂く

ブラッシーと日本

ブラッシーは力道山の生前に初めての日本遠征。
テレビでブラッシーの噛みつきによる流血試合を見た老人がショック死。
ブラッシーは、謝罪するどころか報道陣の前でやすりで刃を研いで見せた。

力道山との血の抗争。ブラッシーのプロに徹した表情を見よ

1965年には日本で見染めたミヤコという女性を口説きに口説いて結婚。
自身が死ぬまで添い遂げる。
ミヤコとの結婚後は、巡業先に同行させ、あんなに好きだった浮気もしなかったという。
この部分はプライベートなブラッシーの人間性。

日本人ミヤコさんとの結婚は終生続いた

力道山の死後も日本には何度か遠征。
ジャイアント馬場やアントニオ猪木と戦っている。

このころのテレビ中継を思い出す。
体格差のある馬場にも果敢にネックブリーカードロップを決めていたし、若かった猪木にも決して主導権を譲らない、老獪でねちっこいファイトぶりだった。

猪木が当時保持していたUNヘビー級王座にも挑戦している。
ブラッシーの日本における評価が、本国同様に高かったのがわかる。

一方、ブラッシーの猪木に対する評価は低く、のちにモハメド・アリのマネージャーとして来日し、猪木との異種格闘技戦に臨んだ後、猪木のことを「私がボクサー側についたこと以上に、あの夜のうちに彼(猪木のこと)がこの業界(プロレス界)をどれだけ傷つけたかりかいしていたのだろうか」(本書334ページ)と述べている。

猪木との異種格闘技では、アリのマネージャーを務めた

ジャイアント馬場のアメリカ修業時代

ブラッシーがプロレスラーとして評価していた日本人がジャイアント馬場。
馬場はその修業時代の1964年に、ブラッシーのWWA世界王座にロサンゼルスで挑戦している。

1964年、馬場とのロサンゼルスに於けるタイトルマッチのパンフレット

この時の馬場は、NWAのルー・テーズ、WWWFのブルーノ・サンマルチノにも連続挑戦していた。
プロレスでは、タイトルに挑戦するためには、一定の地区で巡業を行い、プロモーターの信用を得て、人気と評価をあげてから、が手順。
いきなりのゲスト出場で、ご当地会場のメインエベントで世界タイトルに挑戦するのは異例。
その後も、その手のレスラーは、アンドレ・ザ・ジャイアントがいたくらい。

力道山の死亡の報を受けた馬場に対し、当時のマネージャー・グレート東郷が、手取り年27万ドルの条件でアメリカ残留をオファーした。
一流レスラーの年収が10万ドルといわれた時代。
日本人のアメリカンドリーム第一号はジャイアント馬場だった。

馬場は、ブラッシーが嫌ったバデイ・ロジャースが世界チャンピオン時代に何度も挑戦している。
本来世界チャンピオンとは、全米のテリトリーを回り、当地のプロモーターが押す地元のチャンピオンとタイトルマッチをしなければならない。
ところがバデイ・ロジャースは挑戦者とテリトリーを選ぶチャンピオンだった。

馬場は、そのロジャースに気に入られ、巡業に同行し、挑戦者として遇された。
馬場が、いかにプロレスラーの何たるかをわきまえた存在だったということがわかる。

強いだけではなく、強烈な個性でチャンピオンとの対極性をアピールしつつ、決してチャンピオンの存在を根底的にはおびやかさない常識性を持った存在として。
馬場はまさにロジャースの相手役としてお眼鏡にかなったのだった。
それはプロレス人生における馬場の評価と信用にも結びついた。

プロレスの神髄を知るブラッシーの馬場と猪木に対する評価の違いは興味深い。
おそらくそのあたりにプロレスとは何かの答えの一つがあるのだろう。

谷口千吉と「最後の脱走」

ラピュタ阿佐ヶ谷のモーニングショー・女優原節子特集で谷口千吉監督の「最後の脱走」という作品を観た。

1957年の東宝映画で、原節子と鶴田浩二が主演。
助演で、平田明彦、笠智衆、団令子が出ている。
シネマスコープのカラー作品で、配役からしても、A級作品であることがわかる。

上映は、「フィルムセンター所蔵作品」のタイトルから始まる。
東宝には貸出用のプリントが存在しないから、国立のフィルムライブラリーの所蔵フィルムを借りて上映した、ということ。
フィルムセンターは貸出料金も高く、また映写技術が確かな施設にしか貸し出さない、とのことなので、ラピュタ阿佐ヶ谷の映写技術(フィルムの扱いの丁寧さも含めて)の高さがうかがえる。

作品は、中国戦線の野戦病院に看護婦として動員されていた女学生の一団が、終戦後、引き揚げの最中に八路軍に捕らえられ、その野戦病院に徴用されたのち、脱出するまでを描く。

1957年といえば、戦後からまだ10年。
当時の日本の大人のほとんどが戦争を体験していた時代。
監督の谷口は軍隊経験者だし、原節子と鶴田浩二はともに戦中派の世代で、この作品、軍隊や戦闘のシーンには違和感がない。

特に印象に残っているのが、八路軍の野戦病院が駐屯する〈城内〉の描写。
大陸では、塀で囲まれた〈城内〉に前線の軍隊が駐屯することが多かった。
〈城内〉というのか、〈廟内〉というべきなのか・・・石造りの塀に囲まれて、中華街の入り口のような門から出入りする中国の郡部にあるアレである。

その内部では、軍隊のみならず、軍について歩く商売人やその家族の生活も営まれていた。
子供が右往左往し、飲み屋が開かれ、旧正月には爆竹を鳴らしてお祭りも行われていた。
軍隊経験者だった谷口監督は、こういった状況を描くことで、戦争の〈実態〉を映そうとしたのでだと思う。

ラピュタのパンフレットより

東映のやくざに落ち着くまで、東宝や松竹をうろうろしていた頃の鶴田浩二が主演。
終戦後、八路軍に接収されたヤサグレ軍医役。
腕はよく、八路軍に重宝されているが、日本の敗戦に屈折し、アルコールに溺れている。

話はわきにそれるが、軍医役といえば、思い出すのが「赤い天使」(1966年 増村保造監督)。
芦田伸介扮する軍医は、明日なき戦場の絶望から覚せい剤を自らに打ち、夜な夜な従軍看護婦役の若尾文子を自室に呼びつけては、軍服を着せるなどして相手させる。
この作品、若尾扮する従軍看護婦の無邪気で健康で逞しいふるまいと、その若尾の存在に、救済され、慰められる無力な男たちの姿を描いている。
権威ある軍医といえども戦場の恐怖に日々接していれば覚せい剤に溺れ、看護婦のコスプレに一時の慰めを求めざるを得ないのである。

ついでにもう一つ。
「沖縄決戦」(1971年 岡本喜八監督)の軍医役の岸田森。
玉砕間近の沖縄の野戦病院で、徴用した看護婦らとともにひたすら、明日なき手術に明け暮れている。
徴用された看護婦は当初は傷病兵の切断された足を見て気を失っていたが、だんだん逞しくなってゆく。
守備隊司令官が自決し、野戦病院の解散・撤収が決まった時に、軍医は毒薬の注射器をを自らの腕に当てる。
今は逞しくなった徴用従軍看護婦に「弱虫!」と言われ、寂しく薄笑いし乍ら。

いずれの作品でも、負け戦の中で辛うじて己の矜持を奮い立たせんとするエリートの、しかし消耗し自滅してゆく姿と、圧倒的な生命力でその彼を支え励ます、生命力あふれる女性の姿を描いていた。

シチュエーションは同様の本作はしかし、東宝のA級作品なので、鶴田扮する軍医は、屈折はしているもののヒーローとして描かれる。
また、彼をしたい励ますヒロイン(原節子)は、女学生らの教師としての立場を崩さない。
そういった意味では、明るく楽しい東宝映画ではある。
鶴田の演技が、例によって軟弱にヨタっており、結果として、戦場の軍医の屈折ぶり、衰弱ぶりは強調されてはいたものの。

映画は、トラックによる集団脱走のシーンをハイライトに、銃撃戦の描写や、大掛かりな木造橋の爆破描写なども盛り込まれている。
アクション描写も得意な谷口監督の本領発揮である。
また、女学生の集団を無名のキャステイングにすることで、戦争被害者の匿名性を追求しようという谷口監督の意図も感じる。

戦争を題材にした映画は多々あるが、引き揚げや従軍看護婦、慰安婦などを取り上げた作品に接する機会は多くない現在、貴重な作品でもあった。

助監督は岡本喜八。
後の「独立愚連隊」(1959年 岡本喜八監督)に共通する配役や舞台設定のテイストが濃厚で、岡本喜八監督がこの作品に影響され、引き継いだものが多いことがわかる。

「暁の脱走」(1950年)

谷口千吉監督の出世作の1本に「暁の脱走」がある。

原作の「春婦伝」は軍隊経験のある田村泰次郎の作。
映画は池部良と山口淑子のキャステイング。

谷口監督の軍隊経験が濃厚に漂う1作。

原作では慰安婦で映画では歌姫となっている山口淑子のまなざしが、ただ事ではない。

その、諦観したような、でも運命に逆らうかのような、またすべてを受け入れるかのようなまなざしは、その登場シーンから観るものをして画面にくぎ付けにする。

山口淑子こと李香蘭は、戦前は満州映画のスターとして活躍し、戦中は前線の日本軍を慰問した日々を送り、敗戦後は〈漢奸〉として国民党軍に捕らえられ、軍事裁判を受けた。
〈漢奸〉とは、中国人でありながら対日協力をした売国奴のこと。
裁判で日本人であることが証明され九死に一生を得た。

そういった経験下にあった山口淑子のまなざしは、大陸の悠久と世の無常を達観したような、決然としたもので、これでこの作品の値打も決まった。
併せて、駐屯地内の軍隊の描写も甘さの一切なく、主演池部良の終始こわばったような表情とともに印象に残る。

「暁の脱走」の山口淑子

〈芝居〉の匂いは、小沢栄太郎扮する、私利私欲がらみの上官の出演シーンくらいで、あとはセミドキュメンタリーを見ているような緊張感が画面を支配している映画だった。

「赤線基地」(1953年)

ジョセフ・フォン・スタンバークが日本で撮った「アナタハン」(1953年)でデビューした根岸明美がGIのオンリーを演じ、三国連太郎が帰還兵を演じる映画。

序盤から谷口監督の目に映る、容赦のない戦後日本の現実描写が炸裂する。

リアカーに乗せられて運ばれるパンパン。
絶え間なく震えるその体は麻薬中毒の末期症状だろう。
リヤカーを引いてきたのは、アロハを着た若者。
利用価値のなくなった商品を廃棄場に運んできたかのように、ガムを噛んで貧乏ゆすりをしている。
昨日まで、軍隊の予備学校か、学徒動員されていたであろう日本青年の今日の姿だ。

同胞婦人の肉体と精神を切り売りする行為に寄生して生きることを何とも思わない彼らは、帰還兵・三国の実家の仏壇の上に隠してある麻薬を取りに来る。
三国が出征している間に次男の金子信男がオンリーに離れを貸し、チンピラの言いなりに麻薬の隠し場所を提供していたのだった。
これもまた戦後の日本の姿。

やってきたチンピラたちは三国の制止を無視して仏壇に足をかけ、麻薬に手を伸ばす。
三国の我慢の緒が切れる。
大立ち回りの末、チンピラは撃退される。
一尾始終を見ていた根岸明美。

「赤線基地」の根岸明美と三国連太郎

映画のラストは、過去の自分と訣別し、実家を離れることにした三国がバスに乗り込む。
見ると座席に、オンリーから日本の若い娘の姿に戻り、髪をひっ詰めた初々しさのあふれる根岸明美が座っている。
未来に期待するエンデイングと、厚化粧を取り去った,若々しい根岸明美がまぶしかった。

取っ組み合いなどで遠慮のない三国廉太郎の演技やデビューし立ての根岸明美など見どころは多かったが、なにより、終戦直後の日本の描写に遠慮がない谷口千吉の演出が忘れられない作品だった。

「33号車応答なし」(1953年)

東宝のローテーション監督として活躍していたこのころの谷口監督作品。
志村喬と池部良の警官コンビが事件に巻き込まれるサスペンスの佳作。

事件の展開もスリリングで、よくできた脚本と演出。
配役も、池部の新妻役の司葉子が初々しく愛嬌があったり、ベテラン警官の志村と、新米の池部の描き分けもよい。

この作品で一番、谷口監督らしいと思ったのは、悪漢たちの描き方。
浮浪児を救済する慈善事業を隠れ蓑にしながら、子供たちを悪事に加担させている悪漢なのだが、画面に登場する浮浪児に驚く。
単なる孤児ではなく、明らかに巨人症だったり、奇形に近いような子供を使っている。

谷口監督としては、悪漢たちのいかがわしさを強調するための配役なのだろうが、当然現在では描写できない場面。
この作品が虚構のサスペンスから、敗戦日本のざらざらした現実感を伴った世界へとワープした瞬間だった。
そう仕向けた谷口監督の感性は尋常とはいえまい。

悪漢一味のマドンナ役で根岸明美を配役。
キャリアも浅い新人に、サデイステックな悪女役に挑ませるのも谷口監督の感性か。
少なくともこの女優を大切に育てよう、と思っていないことは確かだったろう。

この後の女優・根岸明美のキャリアの決定打のなさよ。

足を出し、体を強調した路線(「獣人雪男」「魔子恐るべし」)から、巨匠に呼ばれての文芸路線(「驟雨」「妻の心」)を経て、性格俳優路線(「赤ひげ」「どですかでん」)へ。

その迷走ぶりを考えると、根岸明美にとっては、本作で谷口監督に与えられた悪女路線を突っ走るのも、逆にありだったのかな、と思ったりもするくらいである。

川津祐介さん

俳優の川津祐介さんが、先月26日に亡くなった。

なぜ〈さん〉付けなのかというと、筆者の近所に住んでいたからだ。
それこそ20年程前くらいは、自転車で近所を散歩する川津さんを、時々見かけた。

スポーツタイプの自転車を、ショートパンツ姿で乗りこなす景色は、やはり一般人とは違っていた。

ある日曜の夕方、近所のグラウンドの隅で、子供の親仲間と缶チューハイを飲みながらだべっていると、自転車に乗った川津さんがニコニコしながら寄ってきた。

「あつ、川津祐介だ」と思ったが、軽く会釈しただけで、おやじ同士と話を続けてしまい、川津さんとはそれっきりだったが、今思えばもったいないことをした。
「けんかえれじい」(1966年 鈴木清順監督)出演時の話でも聞いてみたかった。

川津さんの自宅前は、通勤時に毎日通った。
娘さんらしき美人がたまに道路を掃いたりしていた。
亡くなる前は自宅で過ごしていたとの報道だった。

川津さんは木下恵介監督に勧められて1958年に松竹入り。
木下作品のほか、大島渚、吉田喜重など若手の〈ヌーベルバーグ〉作品にも出演。
1960年代には大映、日活の作品にも出演し、テレビにも活躍の場を広げた。

「惜春鳥」(1959年 木下恵介監督)。当時の松竹青春スターたちとともに

代表作は「青春残酷物語」(1960年)、「けんかえれじい」、とテレビの「ザ・ガードマン」(1965年~)になろうか。

「三味線とオートバイ」(1961年 篠田正浩監督)。岩下志麻に猛ダッシュ

木下監督好みのさわやかで透明感のある好青年役でスタートし、60年代の若者の屈折を演じ、そのうちにコミカルなアクションものにまで芸域を広げた。
主役を張るというより、器用で、色のついていない共演者としてのポジションで存在感を発揮した。

「けんかえれじい」では、喧嘩の先輩「スッポン」として「南部麒六」に教えを授ける

筆者の印象に残っているのは、上記代表作のほかでは、「赤い天使」(1966年 増村保造監督)の両手をなくす傷病兵役、テレビで飄々と主人公を演じるスパイアクションもの(「ワイルドセブン」?)だろうか。

何気なく見たテレビのスパイアクションでの、川津さんのセリフを今でも覚えている。
その回のドラマのキーワードは『カトレアは蘭の一種』だった。
プールサイドのテラスで、カクテルを前に独特のハスキーな声でそのキーワードをしゃべっていた。
それは、おしゃれでスッとぼけた感じの、川津さんの個性にあったドラマのワンシーンだった。

彩ステーションの子ども食堂

近所の「彩ステーション」で子ども食堂をやるというので見てきました。

彩ステーション外観。戸を引いてホールに入る

彩ステーションは、本ブログでも何度か紹介している、調布市柴崎にある〈地域の居場所〉です。
ある医院に場所の提供を受けて、看護師とケアマネージャーの資格を持つ山小舎おじさんの奥さんが運営しています。

日頃は、地域の年寄りを集めての、ランチだったり、麻雀だったり、体操だったり、スマホ教室だったりを開催しています。
コロナ前には、映画の日や、夕方からアルコール持ち寄りの〈バル〉を開いたりもしていました。

この日は〈子ども食堂〉が行われました。
台所で朝からご飯を炊いて仕込み、今日のメニューのちらし寿司を手作りします。

この企画の運営は、近くの小学校のPTAに参加している父母たちのグループ。
彩ステーションは場所の提供と、側面協力を行っています。

昨年7月から、毎月実施して今月で9回目とのことです。
これまでのメニューはカレーや唐揚げなど。
毎回100食前後を作り、今回は110食ほどの予約があったそうです。

この日山小屋おじさんが、彩ステーションに顔を出してみると、奥さんこと〈山小舎おばさん〉が出迎えてくれました。
〈土間〉と呼ばれる、彩ステーションのホールには、パックされたちらし寿司が並び、子ども食堂企画の代表者が、予約客を待っています。
彼は本日、有休をとって運営参加したとのことです。

ホールには予約客用のちらし寿司が用意されていた

居間に上がると、3人ほどのお母さんたちがちらし寿司づくりの真っ最中でした。
ずらりと並んだ酢飯に錦糸卵やでんぶを乗せてゆきます。
皆さん、子ども食堂開催の日は、仕事を終え次第駆け付けて、参加するとのことです。

台所では続々とちらし寿司のパッキング中

ホールには、予約した親子がちらし寿司の受け取りにやってきました。
来場した子供のお母さんは、主催者とは地域同士の知り合いらしく、話が弾んでいます。

予約したちらし寿司を受け取りに来た子供たちに応対する子ども食堂代表

食費は子供100円、大人300円とのこと。
子供にはお菓子のパックとドーナツが1つずつ付きます。
ドーナツは市内のパン屋さんからの差仕入れ、お菓子は予算から購入し、山小舎おばさんが袋詰めしているとのことでした。

子どもの客に渡されるドーナツと菓子パック

子ども食堂のメンバーのおかげで、彩ステーションの風景が普段より2世代ほど若返っていることに気づき嬉しくなった山小舎おじさんでした。
近々、テイクアウトだけでなく、会食可能な子ども食堂の開催を祈って。.

さんいちぶっくす「スターと日本映画界」

文芸プロダクション にんじんくらぶ

古書店の映画本コーナーで、で「スターと日本映画界」という古めの本を見つけた。
若槻繁という著者名が引っ掛かった。
にんじんくらぶの代表者だった人物が、設立から解散までの13年間を回想した本だった。
1968年三一書房刊の新書版のこの本を500円で購入し、むさぼり読んだ。

表表紙

にんじんくらぶは、1954年に岸恵子が中心になって、有馬稲子、久我美子と3人で結成した芸能プロダクション。
岸恵子の従姉の夫である筆者は、日ごろから彼女の相談に乗っていたことから、俳優のマネージャーとして映画界にかかわることを志し、久我美子、有馬稲子の賛同を得て、マネジメントと映画製作を目的とする会社を設立するに至った。

裏表紙

背景には、岸恵子が松竹に、有馬稲子が東宝に対して抱える〈希望する映画に出られない〉不満があった。

岸恵子は当時恋仲だった鶴田浩二との共演作「ハワイの夜」(1953年 マキノ雅弘監督 新東宝配給)に松竹に無断で出演強行するなど、当時の映画女優としても無茶なことをした。
松竹は契約違反を不問に付し、かえってギャラを2倍にして待遇した。
岸は黙って、気が進まぬ「君の名は」(1953年 大庭秀雄監督)への出演を承諾せざるを得なかった。

有馬稲子も、東宝時代に出演が決まり、役作りに入っていた「夫婦善哉」が制作中止(のちに淡島千景に代わって制作された)となったことなどにより、松竹へ移籍した。
移籍時も松竹との契約内容に、小津作品への出演を盛り込むなど、〈自己主張する〉女優だった。

以後、にんじんくらぶは彼女たちの代理人(マネージャー)として、交渉の窓口となる。
交渉の相手は、産業としての全盛期を迎え、製作から配給、興行までを独占しつつ、専属俳優の他社出演をパージする内容の秘密協定を相互に結んでいた映画会社5社(のちに6社)そのものであった。
5社協定(のちに6社協定)と呼ばれるそれは、独占禁止法に触れるため表には出せないものの、公然の秘密として映画俳優を縛っていた。

にんじんくらぶ創立当時の3人。左から有馬稲子、岸恵子、久我美子

「人間の条件」

にんじんくらぶの歴史の中で、燦然と輝く歴史がある。
「人間の条件」と「怪談」の製作だ。

いずれの作品も、東宝、松竹などのメジャーでは実現不可能な内容、規模であり、その完成度の高さから、海外映画祭での評価も高く、封切り以降も、名画座上映にとどまらず、「リバイバル上映」として封切館で上映された。

ただし、製作面、金策面では困難を極め、「怪談」での損失は、にんじんくらぶの会社消滅の原因ともなった。

「人間の条件」は全6部作、全9時間39分の上映時間。
製作期間4年、原作・五味川順平、監督・小林正樹、松竹配給の大作だった。

軍隊の非人間性に怒りを抱きながら己の正義を貫く主人公に仲代達矢を抜擢。
妻役には新珠三千代。

軍隊経験者の小林監督は、出演者を松竹大船撮影所に集め合宿。
起床ラッパとともに第一軍装に3分以内で着替え、軍隊式の整列、号令を1か月間訓練してから、満州に見立てたロケ地、北海道サロベツ原野に乗り込んだという。

この作品の撮影は、宮島義勇。
戦後の東宝争議では組合の最高幹部として戦い抜いたゴリゴリの闘士。
ロケ地では、体調を崩しながらも粥をすすって撮影を続行したという。

「人間の条件」新珠三千代と仲代達矢

1・2部がベネチア映画祭の予選を通過しながらも、邦画メジャー5社の妨害(勝手に出品辞退を表明)にあう(無事出品し、サンジョルジュ賞銀賞を受賞)などの混乱の中、1959年の公開時、松竹配給収入の1位、2位を「人間の条件」の1・2部と、3・4部が占めた。
全6部作で配給収入9億円の大ヒットとなった。

なお、本作の製作費は3億2千万円余。
松竹の3億円による買取契約だったため、にんじんくらぶは2千万円余の赤字、松竹は6億円の黒字(経費込みの粗利として)となった。

「人間の条件」という作品。
戦争を経験していた当時の日本人にとっては特別のものであった。
筆者の軍隊経験者である父親(大正10年生まれ)は、テレビ版の「人間の条件」を欠かさず見ていた。

「怪談」

先の「人間の条件」が、苦しい製作条件の中完成し、国内でヒットし、海外で高評価で迎えられたた作品であるなら、同じく赤字、海外高評価ながら、語られるのが憚られるような不幸な作品が「怪談」だ。

1964年に製作開始。
監督・小林正樹、撮影・宮島義勇、原作・小泉八雲。

当初の予算は1億円で、7千万を配給予定の東宝が出資。
3千万をにんじんくらぶが金策してスタートした。

ところが最終的にかかった費用は約3億2千万。
東宝はその後3千万円を追加出資し、計1億円を負担したので、不足分の2億2千万はにんじんくらぶが調達することになった。

この作品は、製作当初からスタジオが決まらず(通常は配給する東宝が面倒を見るものだが)、戦時中に爆撃機を組み立てていたという日産車体の工場跡を改修して使用するなど、前途多難なスタート。
加えて、撮影済みネガの現像処理失敗、俳優陣のスケジュールのバッテイング、小林監督の粘り、などで、撮影は遅れに遅れた。

「怪談」雪女に扮する岸恵子

1964年12月に完成。
そこそこヒットはしたものの、興行収入は国内外合わせて2億4千円万ほど。
契約によるにんじんくらぶの取り分は1500万にしかならなかった。

配給会社の東宝は、自らの出資分、興行費用(プリント代、宣伝費等)を配給収入からトップオフし、残りの収益(あるいは損失)を分配(分担)するので、ほぼ赤字になることはない。
リスクは制作会社が負うのである。

こうしてにんじんくらぶは膨大な借金を背負うこととなった。

「怪談」の製作費内訳
「怪談」の配給収入内訳

筆者はリバイバル上映時に「怪談」を観た。
大画面に広がる、隅々まで映像化された幻想、怪異の世界に見入った。
日本映画としては稀有な大作だと思っている。

プロローグ

「怪談」の赤字によりにんじんくらぶは倒産(手形不渡りによる銀行取引停止)。

前後して、久我美子が別のプロダクションへ移り、有馬稲子はフリーとなった。

設立後ににんじんくらぶに加わっていた俳優のうち、渡辺美佐子、三田佳子、小林千登勢らが新会社・にんじんプロダクションに移った。

にんじんくらぶの功績は、その後の俳優グループの発足につながっている。

まどかグループ(佐野修二、佐多啓二)、三文クラブ(三国廉太郎、小林桂樹)などが相次いで発足した。
にんじんくらぶの参加メンバーも増えていった。

これらの動きは、映画産業の衰退とも相成って、非人道的な6社協定の事実上の撤廃へとつながる。

本書は、映画製作者の回想録としては、えてして美化されがちな経歴を赤裸々に吐露し、映画製作の実際と芸能界の不条理をぶちまけており、記録としても貴重なものだ。
内容が若槻社長の身の回りの出来事と、金策面や芸能界のドロドロに偏りすぎているとはいえ。

この後の岩槻繁は、「我が闘争」(1968年 中村登監督)、「愛の亡霊」(1978年 大島渚監督)などの制作にかかわっていることがわかっている。
それ以上のことは検索しても出てこず、生きているのかどうかも確かめようがない。

若槻のウイキペデイアはない。

同書最終ページの広告より、「わが闘争」「三文役者」が目を引く

映画のまち調布 シネマフェステイバル2022

筆者の地元調布は「映画のまち」を売出文句の一つとしている。

市内に映画撮影所が、日活と角川大映の2か所のこり、東映ラボラトリーなどのフィルム現像所があり、映画小道具の会社などもある。
石原プロもあった。

日活は会社更生法により、大映は破産法により法的に清算(倒産)した後の姿であり、東映ラボラトリーは主業務がフィルム現像からデジタル関係の処理へと変わり、石原プロは解散して軍団恒例の年末餅つき風景も見られなくなっている。

かような状況ではあるが、それでも市内に映画撮影所が2か所あるというのは、京都と並ぶ「映画のまち」の証左となろう。
また、撮影所との関係で、市内でロケが行われることも多く、その意味でも「映画のまち」ではあるかもしれない。

毎年、調布で映画祭的なことが行われているのは知っていたが、筆者が見に行ったのは今回が初めて。

パンフレット表紙

今年の映画祭の内容は、「映画の調布賞」の表彰と受賞作品の上映、「日本映画人気投票」選出作品の上映、をメインに、調布出身のイラストレーター宮崎裕治の作品展示、「調布地区にて発見された映画資料」展、「出張映画資料室」展、など。

「映画のまち調布賞」というのは、技術スタッフに贈られる賞で、撮影、照明、録音などの部門ごとに、選ばれたスタッフを表彰し、併せて作品を上映。

「日本映画人気投票」は2021年2月~9月の間に実施した人気投票の上位に選出された「花束みたいな恋をした」などを上映。

ほかにも、「フィルム名画上映」として「男たちの大和/YAMATO」(2005年)を上映。

会場は、映画上映は「調布市文化会館たづくり」とイオンシネマ調布の2か所。
展示企画は「たづくり」内のギャラリーにて行われた。

調布市文化会館たづくり 1階ホールはフェステイバル仕様のレイアウト

筆者が「たづくり」に行ったのはフェステイバル最終日で、映画上映はほぼ終了。
やむなく、ホールやエントランス、企画室で行われている、展示企画を見て歩いた。

宮崎裕治のイラスト展は、「キネマ旬報」などの連載でおなじみのイラストを原画で見られる貴重なもの。
展示数も多く、会場は作者の映画愛にあふれ、訪れるものの気持ちを暖かくするようだった。
また地元調布に関連するイラストが多く展示され、興味をそそった。

調布駅付近を題材にしたイラスト
調布の市営住宅に住んでいた鈴木清順監督のイラストも
映画愛にあふれる、カラフルなイラスト群が楽しい

「調布地区にて発見された映画資料」展、「出張映画資料室」展も見た。
この二つ、〈映画資料の保存、展示〉という趣旨で被っている催しだったが、展示内容はそれぞれ貴重なものばかりだった。
編集や、美術、助監督などのスタッフが、脚本のほかに使っていた記録、メモなどの展示物は初めて見ることができ、映画が各部門の専門的なスタッフによる〈総合芸術〉であることが実感できた。
その、正確、詳細な記録を見るにつけ、映画は〈総合事業〉といった方がいいのかもしれない、と思った。

企画展の入り口。中は撮影禁止
「調布地区にて発見された映画資料」展に詰めかける人

また、調布市内に2か所、映画館があった時代の記録が珍しかった。
筆者など知らない時代に、駅前の商店街の一角に映画館があった時代が記録に残されていた。

都合により参加できなかった企画に「トークイベント映画人が語る旧日活・大映村の日々」があった。
現角川大映撮影所の北隣に、大映村と称される社員の寮群があったこと。
それを記録した書籍が発刊されていることは知っていたので、関係者のトークをぜひ聞いてみたかった。

今は撮影所自体の敷地が半減し、映画撮影の本数も激減し、大映村の敷地はとっくに売却されて別のアパートが建っている。
トークでは撮影所が賑やかだった時代の話が聞けただろう。
旧住民による「旧日活・大映村の会」があるようなので、またの機会を待ちたい。

「調布銀映」があった場所

余談

映画祭といえば、筆者は映画祭開催中の西ベルリンにいたことがある。
1983年の2月くらいのことで、当時の封切り作品としては「ガンジー」が大いにフィーチャーされていた頃だった。

アジアからの放浪の末、パリで年を越した26歳の筆者がたどり着いた西ベルリンには、町中に映画祭のポスターが貼られていた。
市内の主な映画館では、映画祭出品作を上映していた。
日本からの「野獣刑事」(1982年 工藤栄一監督)を大劇場で見た。
観客の反応から、受賞はないなと思った。

当時の西ベルリンは、ツオー(ZOO)駅を中心にした、寂しげな街で、駅近くの動物園で、パンダを見た。
動物園には、誰もパンダを見る客はいなかった。

ツオー駅では、パリやワルシャワまでの切符も買えた。

寒々しいベルリンを早々に出て、ポーランドのポズナニまでの切符を買い、夜行列車に乗って、1週間ほどのポーランドの旅に出た。
カトビツェ、クラコフ、ワルシャワ、グダニスクと回ったが、ポーランドは西ベルリンより一層寒々しかった。

ママチャリ徘徊記 溝の口、新城、小杉

東京の自宅にいる冬の間は、ママチャリでほっつき歩くのが趣味です。

溝の口

この日は、狛江のあたりで多摩川を渡り、川崎側の土手を走って溝の口を目指しました。

気温10度を超える昨今は戸外活動日和です。
平日は土手を歩く人の姿もまばらですが、河原で日向ぼっこをしたり、グラウンドで野球の練習をする学生たちの姿がありました。

多摩川の左岸に二子多摩川の高層ビル群が見えてから、土手を下り、旧大山街道と呼ばれる道を走り、溝ノ口を目指します。

武蔵溝ノ口駅はJR南武線と東急田園都市線が交差する駅です。
南部線沿線の一角に、昔ながらの商店街が残っています。
溝の口駅西口商店街です。

10軒に満たない数の商店が軒を連ねています。
今はほとんどが飲み屋などの飲食店になっています。
八百屋が1軒だけ残っています。
かつては団子屋や、古本屋もありましたが、飲食店に代わっていました。

昨今は自粛中なのか、明かりが消えた商店街。右手に古本屋があった
16時になると焼鳥屋が営業開始です

この商店街から外れたところの「餃子の店 南甫園」が山小舎おじさんの行きつけです。
この日はランチのカツ丼を食べました、500円。
期待通りの町の食堂の味です。

昨今は昼のみ営業の南甫園

武蔵新城

溝の口から南武線に沿って川崎方面へママチャリを走らせます。

次の駅は武蔵新城です。
駅前にアーケード商店街があったので寄ってみました。
「あいもーるアルコ」という名前の商店街です。

昭和の時代も遠く過ぎ去り、かつては流行の最先端であったであろう、アーケード付きの商店街もその〈時〉が過ぎ、買い物客はロードサイドのスーパーマーケットやショッピングモールに移っています。

「あいもーるアルコ」は、そこそこの歩行者数はありましたが、単なる通行客や暇つぶしの老人客が多いようにも感じます。

駐輪の多さも昔ながらの風情

地方都市などに取り残されたように残っているアーケード街の、〈寂寥感〉というか〈虚脱感〉のようなものをここでも感じました。

地元の金融機関といえば川崎信用金庫

自転車が普通に通行しているので、今時珍しいな、と思っていたら、やはり「自転車は押して通行しましょう」の看板がありました。
ほとんどの人が、看板を守らないで通行しているところが〈ユル〉くていいな、と思いました。

標語の看板の脇を颯爽と自転車が通る

武蔵小杉

ここまで来たら、もう少し足を延ばして小杉まで行ってみましょう。

20年ほど前、仕事で川崎、横浜一帯を回っていた時、府中街道の小杉駅付近はよく通りました。
駅を過ぎたあたりのガード下にバラックのスラム街のような一帯が残っており、嫌でも目につきました。
闇市崩れの一杯飲み屋群だったのか、それは取り残された〈戦後の風景〉のようでした。

果たしてあの風景が残っているのか?

昔の記憶を頼りに府中街道を進み、南武線のガード下を見ると、かつてのバラック群はありませんでした。

府中街道のガード下。右手奥にバラック街があった

駐輪場や道路拡張用の更地に変わっています。
バラックではないものの、当時の風情を残す建物が1棟残ってはいましたが。

バラック街のあったあたり。駐車場になっていた
バラック街に唯一残る建物。撤去間近か

バラック群は、背後に墓地がある土地柄でした。
周辺はもともとの飲み屋街だったことがわかります。

バラックが撤去された当たり、左手に墓地が見える
周辺には小杉らしい、昭和の飲み屋が残っていた

戦後の生き証人?のような風景がまた一つ永遠に姿を消しました。
あのスラム街は〈なかったこと〉にされるのでしょうか?

片側1車線の府中街道を南武線の高架がまたぐ小杉駅周辺

府中街道沿いにごちゃごちゃと商店が軒を連ね、低めのガードがその上を走る、という昔ながらの武蔵小杉の風景の骨格は変わっていませんでした。

別の飲み屋街から高層マンションを望む

「映画興行師」と「場末のシネマパラダイス」

映画は、少なくとも商業映画は、観客に観てもらい、興行収益を得てナンボの世界である。

劇場映画の製作には、ピンク映画の300万を最低限に、通常は数千万から億の金がかかる。
製作部門は、当該製作費の回収を皮算用に、予算管理の上、映画を製作し、配給部門、興行部門の人たちは、回ってきた作品の配給料金、興行収入から利益を得て食っている。

費用の面はともかく、趣味の8ミリ映画だって(今でいうなら、ビデオ、デジタル動画か)人に見てもらって完結する、というのが映画のもつ特性だ。

「映画興行師」1997年 徳間書店刊 前田幸恒著

「映画興行師」という本に出合った。
著者は1934年生まれ、1957年に東宝中国支社に入社以来、中四国の東宝直営館の支配人として、映画館運営の最前線にいた人。
映画全盛時代から、下降の時代、現在のシネコン全盛期に至るまで、映画館の運営に当たった。

当時の映画館のスタッフはというと、支配人以下、営業、宣伝、映写のメインスタッフのほか、モギリ、売店のほか、案内係という女子スタッフもいた。
外注の看板製作係もあった。
著者は、最初は営業担当として、のちに支配人として当時の映画館を転勤して歩いた。

昭和30年代初頭は、映画の最大の宣伝媒体は、新聞広告とポスターだった。
若き日の著者は、映画の終映後に、雪の降る山陰の街角へポスターを貼りに出た。

興行の世界は、もともとはヤクザの縄張り。
当時の東宝ではすたれていたが、東映などでは、新任支配人の就任は、やくざ映画の襲名披露もかくや、のスタイルで行われたという。

一方で、東宝直営館の支配人といえば、当時は町の名士。
赤穂に赴任の時は、「義士祭り」のパレード要員として声がかかった。
新任挨拶の訪問先は、役所、学校、公共機関が主だった。

映画が斜陽になり動員数が下がってくると、劇場でインスタントラーメンを売ったり、うどん屋を併設したり、の多角経営にアイデアをふるった。

周辺地域の保育園、学校への営業も欠かさずに、移動映画大会や団体鑑賞による動員につなげた。

映画館数が減少したころの地方の劇場勤務時には、他社作品や洋画も混ぜて上映した。
この時は、配給会社と、作品のセレクトや貸出料金の交渉も行い、映画興行のだいご味を体験した。

〈これをやれば絶対当たる〉というのがないのが映画というもの。
さらには原価と売値が全く連動しない商売が興行というもの。
著者はそれを、ちゃらんぽらんな世界、という。
商社という、世界を股に何でも売る商売人でも興行だけはやらない、という世界。

巻末の資料1

巡り巡って、時代はすでにシネコン全盛期。
世の中は、外資系業者のマニュアル通りに映画興行が行われるようになっている。

大資本を投下し、多スクリーンに同時上映して観客に選択肢を与えているかのように見せながら、実は、画一的な基準と設備を観客に押し付け、業績次第で簡単に撤退しそうなのが〈シネコン〉だと、著者は看破している。

巻末の資料2

生き抜いてきた〈興行〉の世界は、地域の特性に根差し、足で観客を掘起し、工夫して観客を呼び寄せる手作りのもの。

両者の違いは、スーパーマーケットやショッピングモールと、昭和の商店街のごとしである。
映画館でいえば、シネコンより、町の中心街や商店街にあった昔ながらの映画館が断然懐しい。
この本は昭和の映画館の背後の〈興行〉の世界を実体験をもとに描き出してくれた。

「ジブリ系」による口絵

映画興行の今後の推移については見守ってゆきたい。

「場末のシネマパラダイス・本宮映画劇場」2021年 筑摩書房刊 田村優子著

さて、次なるこちらの本。
古い映画ファンにとっては玉手箱のような稀有な本である。

表紙には2代目館主の雄姿が

舞台は福島県本宮市にある、1963年に休業した映画館。
国内唯一と思われるカーボン式映写機が現役で残り、映画上映に必要な機材一式と、これまでに上映した映画のポスター類に配給会社から購入したフィルムまでが残っているというタイムカプセルのような場所。

当館保存の貴重ポスター類

著者は、当館で今も映写機のメンテナンスを欠かさない現2代目経営者の三女として本宮に生まれた。
成長して上京後、広告などの仕事に就くうち、実家の本宮映画劇場の〈お宝〉に気づき、本にまとめて発信するとともに、3代目経営者を修行中の身となった。

著者の父(2代目)が、備品、フィルム、ポスター類を捨てずに残していたから、〈お宝〉たちが残った。
田舎の映画館なので、かつては浪曲、プロレス、ストリップなどの実演も行い、上映作品も、洋画、ピンクを含めた各社の配給作品だったため、残った宣材等の資料もも多種多様。
ピンク映画の上映にあたっては、無数にあった配給会社(製作会社)1軒1軒と直接契約したといい、今では歴史に埋もれた貴重な資料が残った。

ピンク映画のポスターも当館のお宝

倒産に瀕したピンク映画の制作会社から上映プリントを購入したこともあった。
さらに2代目は、手持ちのピンク映画フィルムの名場面を集めて編集した。
この「ピンク映画いい場面コレクション」は4巻にまとめられ、2代目のトークショー付きで、2012年のカナザワ映画祭の晴れ舞台で上映もされたという。

スプライサーによりフィルムを補修する2代目館主

東日本震災での被害はなかったが、2019年の台風によりフィルムが水浸しになった。
万事休すと思われたが、著者(3代目)の友人のフィルム技術者の尽力や日大芸術学部映画学科の機材提供により、フィルムの洗浄、乾燥、つなぎなおしを行い、かなりの程度が復元できたという。
この話、日本にも若い現役の〈フィルムを愛する人たち〉がいるのを知って、読者(山小舎おじさん)も心励まされ、うれしかった。

唯一無二の現役カーボン式映写機

本宮映画劇場は、主に松竹、新東宝と契約して配給を受けてきたが、契約料やその時々の人気によって大映などとも契約したり解除したりしてきた。

また、小さな町なので2本立てプログラムが1週間持たずに、2,3日で変えなければやっていけなかった。
ところがフィルムの貸出料金は1週間単位なので、残りの日数をさらに郡部の上映館にフィルムをまた貸ししたという。
大っぴらには民法上も契約上も法律違反の行為なのだろうが、当時の興行界では配給会社も黙認の行為だったという。

映画の宣伝にトラックにのぼりを立てて走らせたり、移動上映で出張したり、の話は、「映画興行師」の世界をさらに田舎版にした感じ。
この著作、まさに昭和の興行界の歴史を側面から裏付ける資料としての価値もある。

「ゴダール」も上映されていた!

今や映画はすっかりデジタルの世界。
若い人とフィルム映画の話をしていても「映写機のメーカーはなくなったので、今ある映写機は部品が壊れたらもうおしまい」と指摘され、しょぼんとするしかなかった今日この頃。
「場末のシネマパラダイス」は、ドキドキ、キラキラする昭和の映画の世界を眼前に展開してくれました。

フィルム映画と昭和の興行世界はまだ死なんぞ!

昭和の映画宣伝の記録として貴重なトラック街宣風景