畑で地元の人と立ち話

畑の隣組さんと立ち話をしました。

畑で作業していると、通りがかった地域の人と挨拶し、立ち話をすることがあります。
が、とうに専業農家などいない地域ですし、そもそもめったに畑に人が出ていることがありませんので、そういったことも年に何回あるかどうか?です。

今回、午前中に畑に出向くと、畑隣組の人が軽トラで自分の畑を一回りして帰ってゆくところでした。
挨拶してすれ違おうとすると、その人が寄ってきて立ち話をしました。

話は、自分の畑に自生するわらびが盗られていたので立ち入り禁止の貼り紙を立てたことでした。
その畑は、山小舎おじさんが自分の大家さんの土地と勘違いして、ミツバチの巣箱を設置しようとして、その場で注意された場所でした。
その経緯から、こちらに対して含むところがなくて、純粋にわらび盗掘に対する警告として貼り紙を立てた旨を、わざわざ言ってくれたのでした。

隣組の畑に立てられた貼り紙

かえって恐縮して挨拶を返しました。
ついで、めったにないチャンスなので、こちらからいろいろと話題を振ってみました。
その結果、畑の周りのことがおりおりわかってきました。

ジャガイモの獣害については鹿ではなく、イノシシだとのことでした。
ご自分の畑もかつてイノシシの被害にあったことがあり、番犬を置くなどしたとのこと。

山小舎おじさんの防獣ネットを見て「ああいう風に、ネットのすそにトタン板を置いておくと、ここら辺のイノシシは自分で踏んだトタン板の音に驚いて逃げてゆくから」。
「イノシシは一度食害をおこすと、次回からも記憶して漁りに来る」。
「見えないようにトンネルで覆うと被害にあわない」との体験に基づいたお話も。

とりあえずは、防獣ネットの具合に安心しましたが・・・鹿でなかったのかい!
イノシシのほうが強敵じゃん!

ネットの外側のすそに置いたトタン板がイノシシの防止に役立つとのこと

また、自分の畑の一角を指さして「あれは鹿の通り道」とのこと。
やはり鹿もこの地区で活躍しているのは間違いないようです。

隣組の畑へ下りる鹿道

このあたりの畑の水はけの悪さについては、「畑の上流にあるスギ林の中に湧水が湧く。今は水流を国道側に流しているが、かつては湧水を水路に流して水田を作っていた」とのことです。
湧水が田畑を潤していた豊かな地区だったのです。

このスギ林の中に水が湧くとのこと。林に入ってみたが湧水ポイントはわからなかった

3年目とはいえ、隣組として畑を作っているよそ者の素人にも注意を向け、関心を持ってもらっているのだなあと思ったひと時でした。

種まき急ピッチ

種まきを急いでいます。

今年の作付けは、種類別で言うと、①種芋の植付、②苗の定植、③種の直播、④種をポット植えして芽出し、の4種類の方法で行う予定です。

①の方法で、ジャガイモ類、里芋、しょうが、菊芋、コンニャクを。

②の方法で、トマト、ナス、キューリ、ゴーヤ、ズッキーニ、ホウズキ、ハックルベリー、ルバーブ、ヤーコンなどを。

③の方法で、大豆、小豆などを。

④の方法で、インゲン、枝豆、トウモロコシ、かぼちゃ、落花生、ケールなどを作付けします。

①の作業は終わったので、苗の定植を前に、種まきの作業へ移ります。

まず、畑に大豆を直播しました。
豆類は芽が出たときに鹿の食害に遭いますので、防獣ネットに囲まれた圃場の隅に蒔きました。

元肥なし、えひめAIを撒いた畝に2粒づつ種を置き、一度足で種の上から踏んでから覆土します。
覆土の上から再度足で踏んで完了です。
足で踏むのは、土と種を密着させ、水分の補給なしで発芽を促すためです。

大豆を直播します
蒔いた後の畝は鳥害を防ぐために間に合わせの不織布などで発芽まで覆います

山小舎で種をポット蒔きしました。
今日はかぼちゃ、落花生を撒きます。

用意した培養土に種を置き、軽くえひめAI液を散布したのち覆土します。
覆土の上から体重をかけて圧迫し、散水します。

ポットから水が滴るほど散水したのち、新聞紙とビニールでポットごと包んでビニールボックスへ。
発芽まで待ちます。
温度と保水を第一条件に発芽を促すためです。
この後、給水は行いません。
日中はこのまま日に当てます。

発芽後は手製の温室に置いて定植の時期を待ちます。
この時期の給水は、ポットを水につける形で行います。
水分は上から(じょうろで)与えられるものではなく、自分の根で吸い取るものだということを苗に学んでもらうためです。

2,3週間「慣れ」させた用土に種を蒔きます
種を蒔いたポットは保温、保湿してケースに収納。夜間は室内に入れます
隙間だらけの「温室」です。古い襖を奥に貼り、木枠にビニールを張ったもので三面貼りに。正面の木枠は取り外しできます。
既に芽が出ているケールが温室で成長を待ちます

連休も終わり、夏野菜の苗の売り出しが真っ盛りです。
このあたりの畑でも続々と野菜の苗が植わっています。
山小舎では春の作付け真っ盛りへあと一歩です。


成澤昌茂監督追悼上映in上田映劇

今年亡くなった、成澤昌茂という映画監督が上田出身とのことで、地元上田映劇で追悼上映があった。
上映されたのは、「裸体」(1962年 松竹)、「四畳半物語・娼婦しの」(1966年 東映)、「花札渡世』(1967年 東映)の3本。
全作フィルム上映で、パンフレットにいわく「最初で最後の特集上映!お見逃しなく!」。
山小舎おじさんは早速出かけました。

今回の特集上映のチラシ

成澤監督は県下の名門・旧制上田中学の出身。
16歳で松竹京都に入社し、溝口健二監督に師事しながら日大芸術学部を卒業。
恩師に倣って松竹から大映に移るなどした。

監督作品は全部で5作品。
脚本家として活躍し、溝口作品の「噂の女」(1954年)「赤線地帯」(1956年)のほか、「宮本武蔵」(1961年 内田吐夢監督)「関の弥太っぺ」(1963年 山下耕作監督)など全盛期の日本映画の力作・名作の脚本を執筆。
一方で「ひも」(1965年 関川秀雄監督)に始まる東映の「夜の青春シリーズ」や後の「夜の歌謡シリーズ」などで数々の脚本を担当した。

今回の特集で見たのは、「裸体」と「四畳半物語・娼婦しの」の2本。

上田映劇の側面を撮る。昔の映画館の建物は奥行きも深い

まず「裸体」。
1962年の松竹作品。

1962年は、ヌーベルバーグといわれた若手監督(大島渚!)の登用と、彼らの手による気鋭の諸作品が現れては消えていった一瞬の嵐の直後。
映画観客動員数の凋落傾向に歯止めがかからず、といって現状打開策の若手監督登用もその気負いととんがり具合が、映画事業という産業・商業とマッチングすることもないことがわかり、さらに松竹(と映画産業)が暗中模索していた時期と思われる。

なぜ、すでに松竹を退社し、溝口健二の下で脚本家として名作を連発し始めていた成澤に監督デビューの話が来たのか?

特集上映チラシの裏側

ネット検索ではそのあたりの事情は出てこないが、想像するに、ヌーベルバーグで「失敗」した松竹ではあったが、観客動員的には打開策が急務な状況には変わりがなく、撮影所育ちで急進思想を持たず、女性を主人公にした風俗ものが得意そうな若手に撮らせてみた、というところなのではないだろうか?

この作品に対する松竹の期待は、一線級のキャステイング、カラー作品、などのお膳立てに表れている。
その土俵上で成澤監督は持てる力を精いっぱい発揮しているのが感じられる。

漁村の景色を色濃く残す当時の船橋で銭湯を営む実家から銀座の税務事務所に通う主人公(嵯峨美智子)が体一つで浮世を漂う姿を追うストーリー。 
設定は19歳という主人公を当時27歳の嵯峨が演じるが、見えなくもない。
それくらい嵯峨美智子がまだまだ全盛期の輝きを持っていたし、時代背景も活気があり、日本映画も元気があった。

なんの思想も背景も野心もない一介の女性が、その欲求のままに振る舞う姿に、旧来のしがらみにとらわれたまわりの人物たちが振り回されてゆく。
天然で無垢な女性を演じる嵯峨は、吹っ切れたように画面ではじける。
この後の作品では、「救いのないほど悪意に満ちた」女性像の描写も辞さない、成澤監督も、本作ではひたすら主人公嵯峨美智子の明るさと輝きと無軌道さを追っかけている。

ちょい役の松尾和子が、職場で退社前に机の下でストッキングをはき替えるシーンで登場したり、金を前にするところりと態度を変える浪花千恵子と嵯峨の銭湯での入浴シーンがえらく長かったり、実家で内職する浦部粂子が夏とはいえ背中が裸のかっぽう着姿だったり、と成澤監督の女性表現がデビュー作からさく裂する。
そのこだわりたっぷりの「炸裂」こそが、当時のまだ余力のあった日本映画の現場によって生み出された豊かさだったりする。

「裸体」の嵯峨美智子(左)と千秋実(右)

60年代の、「旧来のしがらみに反発する心情」の空気感では、ヌーベルバーグと軌を一にする時代性に彩られた作品。
主人公が純粋無垢な存在として描かれる点でも共通性がある。
純粋無垢な主人公の「蹉跌」を、時代や世の中のせいにせず、突き放して描いている点に成澤監督の立脚点を感じる。

長くなりそうですが、「四畳半物語・娼婦しの」もいきましょう。

1962年の監督デビュー作から4年。
東映から声がかかったのですね。
成澤監督はこの作品から4本続けて東映で撮っています。

本作はモノクロ。
キャステイングは、当時、東映から佐久間良子に次ぐ看板女優としての待遇を受けていた三田佳子。
脇に木暮美千代、野川由美子。
男優陣に、田村高広、露口茂。

舞台となるもぐりの娼家の建物、中庭、玄関前の路地、表のドブ、のセットは入念に作られています。
また、全篇で30数カットという長回し撮影では、クレーンを使った移動撮影のほか、パンフォーカスがかった縦の構図もみられます。
ここらへんは、師匠・溝口の影響というか、マネでしょうが、三田佳子が京都市民映画祭で主演女優賞を受賞した事実をみるまでもなく、撮影所の力を結集した力作であることがわかります。

娼家という底辺に生きる女性を描いています。
この作品あたりから成澤監督の女性の描き方に容赦がなくなり、おかみさんの木暮美千代は救いのない強欲で冷血なやりて婆に描かれています。

三島ゆり子扮する「奥さん」が男を買いに、娼家を利用して通ってくる描写もあります。
こんなことが実際にあったのでしょうかね?

浦部粂子扮する老女が、夫が腹上死したあとの娼家へ乗り込んできて、腹上死の相手だった野川由美子と取っ組み合いをするシーンは、成澤監督の女性描写の容赦のなさが徹底して、「やりすぎ寸前」の思いで見ました。

これらの救いのない女性描写は、次作の「花札渡世」で、主人公に絡む小林千登勢が、裏表があり策略を尽くす、まさに救いのない悪人に描かれていたのを思い出させます。
成澤監督なりの女性(人間)本来の姿の希求なのでしょう。

現実の救いのなさにあって、唯一の救いを象徴する存在として、三田佳子扮する主人公が描かれています。
当時25歳の三田は、その演技力も含めて期待に応えています。
スター女優として「もともと持っているもの」が感じられます。

三田がお客の待つ座敷に入る時の一連の所作や、なじみの客とリラックスした時の、体育すわりのような崩れた座り方など、成澤監督の細かな演出が冴えます。

また、特筆したいのが露口茂。
さらっとカリカチュアライズして流すような、男優陣に対する成澤演出にあって、時に狡猾、時に情けないヒモを露口は、大芝居的ながら演技力十分に演じていて、後のニヒルなだけの印象が一変しました。

今回の特集上映、「裸体」の時はほかに2人、「四畳半物語」の時は3人の入場でした。
「上田の観客には受けなかった。むしろ遠方からの来館者があった」、とは館側の弁。

これに懲りず、上田映劇には頑張ってほしいものです。
気鋭の企画でした。
なお、上映プリントの状態は良かったの.ですが、セリフの再生音がやや不明瞭に聞こえたのは、プリントのよるサウンドトラックの再生力の限界のせいか、劇場のスピーカーの感度のせいか、山小舎おじさんの耳の老化のせいか?
どちらだったのでしょう?

上映が終わった時間は18時半過ぎ。
向かいの焼き鳥屋からは明かりと煙が漏れ始め、名にし負う上田の夜が始まる映画館前。
かつての「飲み屋の街」上田の余燼がわずかに漂います。
山小舎おじさんには珍しいライトアップされた上田映劇を眺めながら帰途に就きました。

夕闇迫りライトアップされた劇場正面風景

新・諏訪の神様が気になるの 大祝屋敷跡を見る

諏訪の神様シリーズの続編です。
諏訪大社本宮から程近くに、大祝屋敷跡があるので行ってきました。

大祝(おおほうり)は、諏訪大社の上社、下社の両方にいた最高位の神職です。
特に上社の大祝は諏訪の神様の化身、生きるご神体とのあがめられる存在で、諏訪(諏方)家が代々引き継いできたとのこと。

当時の大祝は、祭祀を司るだけではなく、政治権力を握り、鎌倉時代までには武士化して、幕府、朝廷と積極的に関係を持ったということです。

大祝の禁忌として、厳しい「郡外不出の禁」「清浄保持」があったとのことだが、当時の大祝家は、中央の軍事遠征に参加したり(当然実戦にも参戦)、あろうことか総領家(下社エリアの政治権力を分担した勢力)を大量に謀殺するに至っては何をかいわんや。
禁忌を無視するどころか、踏みにじって、最大限に冒涜し、栄華を競った時代があったようです。

明治になって神官職が中央からの派遣となり、さしもの大祝職もその長い歴史を閉じることになり現在に至っています。
大祝を奉じた諏訪家も途絶え、屋敷のみが残されているのです。

さて、五月晴れのある日、その大祝諏訪家屋敷があった場所に行ってみました。
住宅地の一角に天保年間に再建されたという屋敷の一部が残っていました。

今に残る屋敷門

門構えを眺め、案内板に従って屋敷の周りを一周します。
当初、3000坪の敷地に320坪の主屋があった場所には、いまは主を失った43坪の建屋が残っている。
完全な古民家というのではなく、窓にはサッシが入り、玄関には掃除道具などが残っており、平成14年に直系を失ったという、大祝・諏訪家の近時の断絶を物語ります。

案内板に沿って屋敷まわりを一周する
最終的に残った屋敷
屋敷を池越しに見る
敷地には立派な蔵も立つ

隣接して小さな神社がある。
鳥居と祠のみの造りで、境内には滑り台も置かれたのんびりとした雰囲気だ。

隣接する神社
藁ぶきの雨除けに囲われた祠
御柱も立つ
東照宮?

代々続いた大祝職を司る一族が途絶えたことは、諏訪の神様を巡る時代が大変化を迎え終わったたことを物語っている。
その大変化が、単に人間界についてのことなのか、神界を含むものなのかはわからない。