光文社新書「松竹と東宝 興行をビジネスにした男たち」を読む

「映画」には様々な切り口がある。
作品からの切り口、撮影技術や演出などに焦点を当てた切り口、脚本からの切り口。

一方、映画作品は公開して完結するものである。
映画作品の公開は、それによって作品評価の機会となるだけではなく、高額な制作費用の回収の意味を持つ。
映画作品と興行とは切っても切れない関係を持っている。

「松竹と東宝 興行をビジネスにした男たち」という新書を見かけたので買ってみた。
映画にとって切っても切れない興行の世界を理解したいと思った。

この本は、現在でも映画興行の世界に君臨する2社の創業者の生い立ちから、主に戦前までの推移を追った労作だった。
その時代は映画製作と興行が隆盛を迎える前のことで、興行は歌舞伎などの芝居を出し物とする時代だった。
両社が、歌舞伎、新劇、歌劇、レビュー、映画などを出し物に、興行界を、あるいは制覇し、あるいは形作ってゆく姿を、ひたすら客観的に、細かく追った本で、2,3行読み飛ばすと流れがわからなくなるほどの情報量に満ち満ちた内容だった。

松竹の歴史

松竹の歴史は、白井松次郎と大谷竹次郎という双子が明治10年に誕生したのをきっかけとしている。
父親は、祇園の芝居小屋の売店を経営していた。

父親がある芝居小屋のオーナーになったことから、双子が芝居小屋の経営に参画し、やがて京都新京極、大阪道頓堀の劇場を次々に買収していった。

前金制度で、銀行融資を受けられなかった時代の芝居興行にあって、松竹(この時代にはマツタケと呼ばれていた)の経営戦略は一つの芝居町の劇場を独占し、歌舞伎、新劇、レビュー、喜劇などの出し物をそろえ、どれかが不入りでも、別の人気の劇場がカバーするというものだった。

松竹は単に数多くの劇場を経営するだけでなく、劇場経営に関する悪習を改革していった。
木戸にたむろするごろつきの排除、幕間の時間厳守、役者のセリフ忘れの厳禁など、現在では当たり前だが、当時は慣行だった悪習を経営者として断っていった。

一方で、関西の歌舞伎界の名優、中村鴈次郎と出会い、松次郎が終生のマネージャーとして盟友関係を結んだことが後々にわたって松竹を助けた。

明治42年にはその鴈次郎が歌舞伎座に客出演することによって東京進出を果たし、後の歌舞伎座買収に至る道筋をつける。
この時代には東西の歌舞伎役者のほとんどを支配下としており、浅草に劇場を得て、東西の歌舞伎界を支配するに至る。

大正9年映画部門に進出する。
43館の映画館をチェーン化し、配給、興行事業からのスタート。

大正13年には京都下賀茂に撮影所を作り映画製作を開始。
林長二郎(のちの長谷川一夫)が専属の人気スターとなる。

映画部門の責任者として松次郎の娘婿、城戸四郎(のちの松竹映画社長)が入社する。

松次郎が歌劇へ乗り出し、昭和3年には楽劇部が設立、水の江瀧子が断髪男装で人気を得る。

昭和12年、松竹株式会社が設立し、東西の演劇部門と映画部門を併合がなった。
ここからショウチクと呼ばれることになる。

戦時統合により映画会社が3社体制となった際にも単独で生き残り、戦後を迎えることになる。

松次郎は昭和26年に、竹次郎は45年に死亡。

東宝の歴史

創始者の小林一三は、明治6年、山梨県韮崎の裕福な商家の長男として生まれ、慶応大学を経て三井銀行へ入行する。
学生時代から新聞小説を執筆するなどの一方、芸者に入れあげ、見合い結婚の相手とは離婚し、当該芸者と再婚するなど、素行不良といわれ、青年時代を過ごす。

後の阪急電鉄につながる鉄道会社に転職。
沿線の宅地開発、ターミナル駅直結の百貨店、宝塚における劇場、遊園地の経営など、鉄道会社による需要創出のビジネスモデルを発案していった。

大正2年には、温泉施設が売り物だった宝塚に、施設の余興としての唱歌隊(のちの宝塚歌劇団)を結成。
小林自ら脚本を書くなどして、終生これに入れ込むこととなる。

小林の興行に関するポリシーは「容易に安価に大衆に芝居を提供する。芝居は芸術であると同時に事業でもある」というもの。
夕方からの興行、料金の低廉などを行い、そのためにも大人数収容の大劇場建設を目指した。
マーケットリサーチの結果、日比谷に劇場街を作り上げていった。

松竹が既存の劇場を買収する方式で拡大していったのに対して、劇場街の創出と建設を行った。
阪急は鉄道事業を中核とし、不動産、興行、デパートなどの事業を展開する唯一の企業体となった。

昭和5年に、宝塚に映画会社を設立。
昭和7年、株式会社東京宝塚劇場を設立、東宝がスタートした。

映画部門は配給事業からスタートし、PCLなどの制作会社を併合してのちに制作を開始した。
松竹から人気スター林長二郎を引き抜き、長谷川一夫として売り出した。

実は職業野球の分野にも読売より早くに目を付けたのが小林で、宝塚運動協会というリーグを作ったが後に解散したこともあった。

戦時統合時代も松竹と並び単体で生き残り、戦後を迎えた。

両社の共通性、そして「興行」とは・・・

ここに1冊の新書がある。
「悪所の民族誌 色町・芝居町のトポロジー」(文春新書)。

大阪・釜ヶ崎に隣接する場所で育ち、新世界で遊んだという著者が説くのは、「悪所と呼ばれる地域の三つの特徴は、その場所が、色里であり、芝居町であり、また被差別民の集落が隣接していたこと」。

この意味では松竹の松次郎と竹次郎はまさに「悪所」に生まれ育ち、「悪所」に寄って立った存在であった。
二人が被差別民かどうかは知らないが、芝居小屋の売店を生業とする家に生まれ、生涯を劇場の経営と役者との付き合いにささげた事実は、松竹と「悪所」の生まれながらの強い関係性を表す。

一方で裕福な商家生まれで学歴もある小林一三は、しかし若くして文芸に耽溺し、芸者に入れあげて素行不良といわれて若き日を過ごす。
その後の半生を、少女歌劇と劇場経営にささげた小林は、生まれながらではないにせよ、宿命的に「悪所」に入れあげた人生を送ったことになる。

「悪所の民族誌」によれば、近世の三大悪所は、大阪・道頓堀、京都・四条河原、東京・浅草という。
これはそのまま松竹が入れあげてきた地域と合致する。

また、歌舞伎は、遊女歌舞伎→若衆歌舞伎→野郎歌舞伎と発展したが、もともとは遊女が行ったもので、色里と芝居町は表裏一体とも記す。

小林一三が芸者に入れあげ、少女歌劇にこだわった精神と、日本の在野の芸能史の精神は根底で共通してはいないだろうか?

「悪所」をキーワードに、興行の世界で生き残ってきた松竹と東宝の共通性が際立つ。

現在、松竹は映画撮影所を手放しているが、歌舞伎人気と劇場経営により会社を維持している。
東宝は、映画撮影所は維持しつつ、阪急資本をバックに、宝塚歌劇団の人気などにより経営は盤石に見える。
消えていった映画会社に比べて、両社のしたたかで強靭な経営戦略がうかがえる。
これも「悪所」がもたらした生命力のためであるのだろうか。

「現代農業」3月号に見る新しき農の世界

「現代農業」という月刊雑誌がある。
発行元は一般社団法人・農村漁村文化協会。
行政や農協をバックにしておらずに、農家に役立つ情報を発信している。

イデオロギー臭もなく、かといってエコロジー偏重でもない。
農薬、農業機械の正しい使い方の発信も、この雑誌の主題の一つになっている。

といっても、時代の流れに敏感で、また時代をリードする感性を持ち合わせているのがこの雑誌の鋭いところ。
これまでも、えひめAI液、もみ殻の利用、鉄茶の利用、など、山小舎おじさんも、この雑誌からは感化を受けている。
令和3年3月号の特集は「縦穴堀りが流行中」。

山小舎おじさんが借りている段々畑4枚は、水はけが悪い。
畑脇の水路の整備などは行っているが、雨が降ると表面に水がたまるし、全体にじくじくしてくる。

縦穴を掘ると田畑の水はけが格段に良くなるらしい。

「現代農業」3月号には、縦穴掘りについての農家の体験談、理論的解明、使用道具の解説の記事が載っている。
新潟大学の農業土木研究者によると、縦穴を掘ることにより、空気と水の流通と循環が起こるとのこと。
土中の空気は渦を巻いており、それが縦穴を通過することによって、大地全体の通気浸透性を高めるとのこと。

道具の調達など、関門は高いものの是非畑で試してみたいと思うや山小舎おじさんです。

縦穴を掘る機械を紹介するページ
新潟大学の研究者による、縦穴掘り効果の解説

「現代農業」3月号にはほかにも興味深い記事がありました。

まずは井戸掘りの記事。
国的には水道法の下で上水の供給を一本化したいところなのでしょうが、水道民営化など公共の福祉に逆行化しかねない立法が行われている現状があります。
また災害時などに自力で上水を確保できれば、それに越したことはありません。
まことにタイムリーな、自力井戸掘りの記事です。

更には、税法に物申した「どぶろく宣言」の記事といい、「現代農業」は庶民の立場に立った編集方針を貫いています。

自力で井戸を掘る記事
現代農業で長年続くどぶろくつくりの記事

農家が教える免疫力アップ術の記事。
農家が長年伝える様々な生活の知恵があります。
野草の活用もその一つ。
このような大マスコミが伝えない知恵の世界を伝えるのも「現代農業」の仕事の一つです。
山小舎おじさんも大いに興味があるものの、実行しきれないくらいの情報量がこの記事一つにあふれています。

山小舎おじさんにとって「現代農業」3月号の極めつけが、「まさねえの獣害対策よもやま話」という記事でした。
著者を講師とした獣害の勉強会があったそうです。

勉強会で著者曰く「イノシシが悪いと思っている間は被害は止まりません。(中略)被害っていうのは皆さんがここは安心してエサ(農作物)が食えると思わせたから。これを餌付けといいます。(中略)悪いのは餌付けをした自分‼って頭を切り替えること。」
のっけから頭にガーンときます。

女性らしい感性というか、物事の本質に直感的に到達する力というか。
今までの「常識」とは一線を画した「真実」が表に出始めたというか。
「常識」と「非常識」の境界がなくなってきたというか。

単に獣害に悩むだけだはなく、自然に対する心構えを諭されたような。
今後の展開が楽しみになってくる記事です。

他にも、足の付け根に紐を撒くことによって体の負担を軽減する方法など。
「ただで、誰でもできることが間違いのない方法」だと思う山小舎おじさん。
いろいろな知恵に助けられて山小屋生活を送りたいと思います。

孫へのホワイトデー

バレンタインデーに手作りチョコレートをもらったお礼に、孫へホワイトデーのお菓子をプレゼントしました。

お返しのプレゼントは、孫がはまっているポケモンのキャラクターのお菓子です。
息子から孫へのお返しに便乗させてもらいました。

いいmいま今今、、

ほどほどに喜んでもらえました。

映画「小島の春」と女優・夏川静江

ラピュタ阿佐ヶ谷という名画座で、「豊田四郎と文学の心」という、特集上映が行われている。
都合のつく日に行ってみた。

阿佐ヶ谷には自転車で行くことが多い。
運動にもなるし、交通費もかからない。

阿佐ヶ谷は、適度に庶民的で居心地のいい街だ。
今はやりの巨大な駅ビルや、タウンモール的なショッピングセンター、タワーマンションがない。
戦後というか昭和が残っている街だ。

JR阿佐ヶ谷駅南口の風景

駅北口周辺には小さな飲食店が軒を連ねる。
戦後のどさくさで、細切れの居住権、商権が発生した名残りなのだろうか。
再開発の波にも飲み込まれず、かといって寂れてもいない。

阿佐ヶ谷駅北口に広がる飲み屋街

駅から徒歩2~3分、ラピュタ阿佐ヶ谷のホール。
特集上映に合わせて豊田監督作品のポスターが並ぶ。
映画関係の書籍やブロマイドが置いてあるのもうれしい。
窓際にはテーブル席もあり、持って行った弁当を広げられるのもいい。

ラピュタ阿佐ヶ谷の看板
上映予定の豊田作品のポスターが並ぶ
映画関係本を売っている

係のお兄さんから時節柄のこまごまとした注意(携帯の設定、飲食の禁止、私語の禁止、脱帽、録音撮影の禁止、マスクの着用・・・)を喚起されたのち、いよいよ「小島の春」の上映だ。

フィルムセンター所蔵作品のタイトル。
配給は東宝。
制作は東京発生映画製作所。
後に東宝に吸収されることになる制作会社とのこと。

監督、豊田四郎、当時34歳。
脚本、八木保二郎。
主演は夏川静江31歳、脇に菅井一郎、杉村春子など。

原作はハンセン病患者救済につくした小川正子という女医の手記。

特集上映のパンフレットより

瀬戸内に浮かぶ帆掛け船、という今ではCGでしか再現できないであろう「日本の原風景」のロケーションで始まるこの作品。

ポンポン船、渡し場の造り、漁村風景、宿の部屋の造り、など戦前の日本の景色が見られる。

主演の夏川静江は、無声映画時代に子役から娘役として第一線で活躍してきた女優。
戦後、母親役などで控えめながらしっかりとした演技を残したが、31歳の時の「小島の春」でも、そのイメージを彷彿とさせ、まさに適役。
媚びなく、凛とした、シンの強い人物像を再現している。
演技もうまく、娘役として漫然とやってきた感じではない。
女優は歳を取ると崩れたり、化けたり、怖くなったりすることが多いなか、戦後になっても、シンを残したまま怖くならずに歳を重ねた女優さんだった。

「男ありて」(1955年 丸山誠治監督)より。左:志村喬

脇役に、菅井一郎と杉村春子を配している。
壮年時代の菅井、若さの残る杉村をスクリーンで観ることができるのもこの年代の作品ならではだが、若くてもさすがは両俳優、家族から離されて療養所へ向かうハンセン病患者の苦悩を演じきっている。

豊田四郎監督は、代表作が「夫婦善哉」(1955年)と「雪国」(1957年)で、ほかにも「猫と庄造と二人のをんな」(1956年)、「駅前旅館」(1958年)、「墨東奇譚」(1960年)など、名作が多い。
映画の造りもがっちりしているし、有名俳優を使う。

どの作品も観て損はない監督だが、今にして思うと、名優たちの演技が過剰な作品が多いような気もする。
森繁など、豊田作品で好きなように暴れているように見えて、いいところは監督がすべて持って行った、ように思ってしまうのはヒネクレた見かたか。
もっとも映画監督とはそんなものか。

ラピュタ阿佐ヶ谷のパンフレットより。豊田四朗監督(中央)

戦後の作品では、重厚で役者の演技をとことん引き出す豊田監督の作風にあって、戦前の「小島の春」には、緊張感はあるものの、さらさら流れるような演技と、社会的良心に満ち満ちたストーリーのみがある。
これも主演の夏川静江の個性がなせる業なのだろうか。

まじめな女の先生(教師)が被災後の現地を巡るというシチュエーションでは「原爆の子」(1952年 新藤兼人監督)という作品がある。
また、瀬戸内海を舞台にした女教師の物語には「二十四の瞳」(1954年 木下恵介監督)があった。

前者の乙羽信子、後者の高峰秀子のどちらも若くてきれいだったが、一番先生らしいのが「小島の春」の夏川静江だった。

1999年文芸春秋社刊の「キネマの美女」という大型本に、夏川静江のインタビューがが7ページにわたって掲載されている。
それを読むと、「小島の春」への出演は、結婚を機に一旦引退した後の特別出演だったとある。
自身が選ぶ代表作に「小島の春」が入っていることも。

「キネマの美女」より、インタビュー記事

山小舎おじさんが印象に残る夏川静江の出演作は、まず前述の「二十四の瞳」(1954年 木下恵介監督)、ついで「蟻の街のマリア」(1958年 五所平之助監督)。

前者では大石先生こと高峰秀子の母親役。
娘の学校での愚痴を聞いてやり、先生を訪ねてきた子供たちに大わらわでうどんをふるまってやり、娘の亭主に赤紙が来てはしゃぐ息子(孫)を叱る娘(亭主の妻)を制して「お義母さん一本つけてください」と場を取りなす義理の息子にこたえて支度し始める、お母さん(おばあさん)役。

亭主の戦死広報には「お父さん死んだよ」と息子に告げるだけだった高峰秀子も、母親の夏川静江が静かに死んでいったときには「お母さん、お母さん」と取り乱していた。

「蟻の街のマリア」では、バタ屋部落にボランテイアで住み込むキリスト者の娘を心配し、リヤカーを引く娘に遭遇した際には、走って追いかけるも途中で走れなくなり、同行の若い女中に後を頼んで息をつく姿が印象に残っている。

「キネマの美女」より

「小島の春」で島のハンセン病患者やその家族を診て回り、宿に落ち着くシーンがあった。
畳の部屋には火鉢のほか何もない。
火鉢と宿のおかみと、手に持つお茶だけが相手のすえっぱなしのワンショットワンシークエンス。

夏川静江の動きにに見入った。
無駄なく、隙もなく、媚もなく、見苦しくもない立ち居振い。

見入ってしまった理由が、夏川静江の演技力のせいなのか、当時の堅気の日本女性が身にまとっていた歴史、文化のたまものなのか。
どちらのせいでもあるのだろうと思った。

「小島の春」はそういう映画だった。

3.11から10年

2011年3月11日から丸10年がたちました。
当時のことはいつまでたっても忘れることはできません。

山小舎おじさんは54歳のサラリーマンでした。
午後2時過ぎの強烈な地震。
東京では見た目の被害こそなかったものの、交通がマヒしました。

今思えばけったいな話ですが、あの大地震にあっても、会社はアクションを起こしませんでした。
17時半の定時になって、おじさんは退社しました。

三々五々、退社したり帰宅する人が出始めた田町界隈を三田方面に抜け、恵比寿駅方面を目指して歩きました。
山手線、地下鉄線は止まっています。

恵比寿駅が近づくにつれ、道路が渋滞し始めました。
路線バスが満員のまま渋滞にはまっていました。

駅に着くと駅舎は閉鎖され、周辺にはバスやタクシーを待つ長い列ができています。
携帯電話はつながらず、電話ボックスには長い列ができています。
3月上旬の夕方は東京でも寒くて凍えます。
呆然としゃがんでいる人もいます。
せめて駅舎を開放できないものか、と思いました。

代官山、中目黒といった地域を斜めに抜け、三軒茶屋に出ました。
246号線沿いの歩道は川崎、横浜方面へと徒歩帰宅する人で埋まっています。
自動車道路は渋滞でピクリとも動いていません。
夜8時になったので、三軒茶屋の定食屋で夕食を食べました。

幸いなことに東京では停電も断水もしておらず、商店はほぼ営業しており、中には店先に「トイレ使ってください」などと貼り紙するところもあって助かりました。
食事、食料の調達も問題ありませんでした。

三軒茶屋から世田谷通りへ折れて、千歳船橋から環状8号線を渡って、5時間かけて、調布の自宅に帰りました。
世田谷通りからは徒歩の通行人数も減って、千歳船橋では電話ボックスから自宅に電話することができました。

京王線の仙川界隈にたどり着く頃は足も引きずる状態でした。
走っている京王線を見て、11時に仙川から一駅の最寄り駅まで電車に乗りました。
途中でタクシーにも手を挙げたのですが、環8をジャンジャン流れていたタクシーは全く止まってはくれませんでした。

翌週からは通常出社しましたが、しばらくは首都圏のガソリンスタンドに、給油を待つ車列ができていました。

茨城などへ出向くと、ブルーシートで覆われた民家の屋根や、傾いた電信柱、通行止めになった橋、などを見ました。

しばらくは、例えば宴会で隣になった他社のサラリーマングループとエールを交換し合ったり、何となく「オールジャパン」の雰囲気が東京にもありました。

ところで、山小舎おじさんは、震災前の2004年から3年半、仙台に単身赴任していたことがあります。
休日には仙台近郊の、荒浜、閖上、宮城県北部の志津川、気仙沼などへ行きました。

海水浴客でにぎわう荒浜、海岸の松林と入江の魚市場の風景の閖上、魚竜館で化石を見た歌津、箱でサンマを買い自宅へ送った気仙沼の場外市場、みななくなってしまいました。
否、なくなったのではなくて様相が一変してしまいました。

山小舎おじさんの思い出の景色などどうでもいいのですが、そこに住み、生き残った人たちにとって、景色の喪失、様相の一変、とはどういうことだったのでしょう。

たまさか、震災前に3年半ほど住んでいたものにとっても、自分なりの「景色」を根底から否定、轢断するかのような、当時の津波の映像など見たくない、と今でも思うのです。
ましてや、当事者の方々にとってはどれほどのことなのか・・・としか言えません。

井草八幡宮

暇があるとすぐ自転車でほっつき歩く山小舎おじさんの東京ライフ。
お決まりのコースは、東は阿佐ヶ谷から西は国分寺あたりのエリア。

この日は西荻窪から青梅街道に出て西へ進みました。
大きな神社に出くわしたので寄ってみました。

井草八幡宮の大鳥居
大鳥居から見た青梅街道

井草八幡宮

青梅街道に面して巨大な鳥居が立っています。
外からもうかがうことができる、広い敷地。
杉並区善福寺の住宅地にあって、神界の静謐が保たれているかのような空間です。

大鳥居から続く参道

出くわした鳥居から境内へと進むと、朱色の鍾門が現れます。
鍾門をくぐると、神楽殿、社務所などがある空間に出ます。
そこから本殿への門をくぐってお参りします。

朱色に塗られた鍾門
本殿へといざなう門は狛犬が守っている

境内には、例えば大人数が押し寄せる初詣客を長年さばいてきたであろう格式が漂っています。
凛とした空気が保たれている神域ですが、都会の神社のスマートさを感じます。建物も立派で手が行き届いています。

東京の西方面では、規模、歴史からも府中の大國魂神社が有名ですが、ほかにも、山小舎おじさんが知っているだけで、大宮八幡、田無神社、谷保神社などの大きな神社があります。
井草八幡はこれらと同様規模の大きな神社です。

本殿

甲州街道と並び、旧武蔵国西部エリアの大動脈、青梅街道に面した立地からも、井草八幡が、古くから住民の信仰の対象であったことが納得できます。

実業界の先人による、ありがたい標語も掲示されている

八幡神社とは?

全国に4,400ほどもあるという八幡神社。
天神、稲荷、熊野、日枝、諏訪、白山、など神社の系統が多々ある中での最大派閥?とのこと。

八幡神社。
ここに祀られている神様に、天孫系というより国津神・・・、弥生というより縄文・・・、渡来系ではなく原住民系・・・、の起源を感じるのは山小舎おじさんだけでしょうか?

神社全体の配置図

「日活 昭和青春期」を読む

山小舎おじさんが好きな古本屋の映画コーナー。
600円で売っていた同書を買ってみました。

題名からは、よくある映画人の撮影所一代記で、スター達との交流を記したものかと思いきや、これまでの類書にはない内容で、引き込まれて読みました。

1954年に美術スタッフとして日活に入社した著者が、その後、組合員として、後に取締役としてかかわった、日活株式会社の記録です。
それも、株式会社としての日活の経済状況、経営状況の変遷の記録です。

映画会社の経営の流れを追った文献、記録はありそうでありません。
業界紙「キネマ旬報」では、瞬間瞬間の映画会社の業績は掲載されるものの、その分析、評価などには至らない印象があります。

「日活昭和青春期」は、組合員として経営者としてかかわった当事者が、当時の資料をもとに、当時の著者の思い、経営陣の思い、債権者側の思惑、社会情勢、他社(大映など)の状況を踏まえた数十年間の記録になっています。

そのむき出しの事実関係の流れは、著者と読者をして「映画産業とは何か?その宿痾とは?」という永遠の大命題を提起せしめます。

ではまず、本書の構成に沿って株式会社日活の変遷を追ってみましょう。

戦後の興隆期

戦時中の統制時代を興行会社として乗り切った日活は、戦後、GHQと社長堀久作のコネにより、アメリカ映画の独占配給により財を成した。
この間、全国の主要都市の一等地に、直営館を建設してゆく。

やがて1958年に映画入場者数ピークとなる時代を迎えて、興行会社日活は映画制作への進出を模索するが、新東宝との合併案がとん挫する中で、自前の映画制作に舵を切る。
堀社長にとってはあくまで「儲かる事業」としての映画制作・配給に興味があった。

1954年に調布の布田に、最新式の撮影所を作り上げ、製作を開始。

映画制作事業が軌道に乗ったのは、1956年の太陽族映画のヒットから。
続いて裕次郎映画と渡り鳥シリーズがヒットし、1962年には日活の経営状況がその頂点を迎えた。
収益は堀社長が目指す「総合レジャー産業・日活」実現のため、ホテル、ゴルフ場、スポーツセンターなどの買収、建設に投資された。

衰退期と対策

本業の映画部門の収益に陰りを見え始めえたのは早くも1963年のことだった。
翌64年度決算からは、株式会社日活としての営業利益、経常利益は、ともに赤字となり、以降その傾向が続く。

堀社長の対応は、丸の内日活など資産価値のある直営館の売却による赤字補填策。
ちなみに1964年の配給収益そのものは54億円と、東映に次ぐ業界2位だったにもかかわらず、資産売却による損失の補填を急ぐ。

1960年代から70年代にかけて、日活の損益は赤字続きとなるが、会社の対応は、直営館、ホテルなどの資産売却による補填が主なものとなる。
これらは同時に収入の逓減という効果を生むことになる。

1962年には撮影所に契約者労組が結成される。

希望退職が募られ、撮影所合理化を巡って、会社と組合の攻防が始まる。

1969年には映画制作会社の本丸ともいえる、調布の撮影所が堀社長により売却される。
売却先は当時の電電公社の関連会社で、社員寮の用地目的。
売却額は時価の半値の約16億円。

この間、映画制作は継続しており、撮影所の明け渡しには至らず、買主と会社、組合の三者協議が続けられる。

1970年には同じく経営悪化していた大映と、配給・興行部門を統一して経費節減を狙う、ダイニチ映配を設立。
大映作品と日活作品を共同で配給・公開し始めるが、ダイニチ映配自体の収益がやっとトントンで、肝心の大映、日活に回るまでの収益はなかったため、翌年には事業撤退した。

1971年には堀久作社長が退陣。
跡を継いだ息子の雅彦も74年に退陣し、堀一族の支配体制が終焉。
その後を根本組合委員長が継いで新社長に就任。
以降、組合の幹部がそのまま会社の経営者となることが多くなる。

1971年、撮影所人員の活用方策として、低予算の映画制作を模索。
ロマンポルノと呼ばれる低予算映画の制作を開始する。

1977年期の決算では、営業収益1億5千万の赤字、経常収益11億の赤字、累損に至っては90億円を突破した。

会社倒産と再生

1977年、裁判上の和解により、32億円で調布の撮影所を買戻す。
買戻し代金の捻出は、撮影所敷地の半分を不動産会社に売却することによった。

1978年、増資とその後の減資で発生する減資差益によって累損を解消した。
累損解消により株価が上昇。
後に提携する紳士服会社など新たな出資者が現れ、表面上の業績が上向いた。

ホテル、ゴルフ場などのレジャー産業、ケーブルテレビ、ビデオレンタルなど事業の多角化を推進。

1988年、ロマンポルノ制作から撤退。
映画部門は一般映画と大作路線を模索するも損益の改善なく推移。

90年代になりバブル崩壊とともに資金繰りが困難となる。

1993年会社更生法を申請して株式会社日活が倒産。

会社更生法とは、破産など清算型とは異なる再生型の倒産で、倒産会社は事業を継続しつつ一方で債務の返済を棚上げするという、強力な「社会立法」的な色合いを持つ法律といわれる。

会社更生法が裁判所によって認可されるには、申請する企業が、強力な公共性を帯びているか、または、当該企業の廃止によって相当な社会的損失が予測されることが要件となる。

まさに「映画撮影所とは、映画制作という特殊技能を有する専門スタッフを長い年月をかけて涵養しなければ成り立たないものであり、一旦清算後には、一朝一夕に再現できるものではない」ことが、裁判所にも認められた事例となった。

それが会社倒産時のことだったのは残念だが。

閑話休題

いやあ、映画産業の興隆と衰退という大河ドラマを見ているようでした。
大河ドラマというより、生々しい記録映画かな。

そこには、著者も整理しきれていない歴史の深層が内在しています。
書けなかったことも多々あったと思います。

産業としての映画の衰退は現実です。
外野からかつての経営者達に茶々を入れることは差し控えます。

山小舎おじさんが小学生時代を過ごした、北海道旭川市にも日活の映画館がありました。
小屋の正面に裕次郎、旭など数人の顔写真(絵)の看板が掲げられていたのを思い出します。

いつの間にか映画上映がほぼデータ化されたように、技術革新と消費者のし好の変化により、状況はガラッと変わるものです。

今から70年も前、映画撮影所という1000人規模の事業を展開していた時代の物語として歴史的な記録となるべき本です。
今後に残しておきたいものです。

その際、未来の読者と、この本を結びつけるものがあるとしたら、撮影所が生んだ数々の映画作品がそれでしょう。

あっ、その時には「映画」などという名称はすたれているのでしょうね。
「ソフト」、といわなければだめですね。

3月の山小舎でフキノトウを食す

令和3年3月の山小舎の様子を見に家族と行ってきました。
山小屋周辺は雪の匂いから土の匂いに季節変わっていました。

今年の冬は久しぶりに雪がたくさん降りましたが、路面などはかなり融けています。

玄関先の雪解け具合
路面はほぼ解け切っています

木々の根元から雪解けが始まっています。

軽トラの周りもこの通り。薪も崩れていませんでした

初日の夕食は恒例の炭火焼。
ストーブで炭をおこし、室内で肉を焼きます。

炭火で「信州鶏」「信州豚」を焼くのが山小舎の楽しみです
息子が「アルプス牛」をたたき風にローストしてくれました。絶品

翌朝、軽く雪が舞いました。
寒くはありませんでした。

翌朝の裏の国有林。枝には雪が

帰る日は晴天でした。
雪割をしました。

3日目の朝は晴れました
玄関前の雪を割ります。屋根から落ちた雪が凍り付いています

帰る道すがら、初日は見えなかった八ヶ岳連峰がその姿を現しました。

姿を見せた八ヶ岳連峰

2日目に食べたフキノトウの天ぷらです。
なんでもフキノトウの雄花の花粉には、アレルギー症状を引き起こしかねない成分があるとか。
それでその後、急に胃がストップしたのか?って、ただの食べすぎか。

直売所で買ってきたフキノトウ。ビールのおともに最高でしたが・・・

山小舎野菜の報告会

2月のある日。
調布市柴崎の彩ステーションというところで、山小舎おじさんによる野菜の報告会がありました。

彩ステーションは、本ブログでもお伝えしたことがありますが、調布市柴崎の深大寺商店街の空家にオープンしたスペースです。

みんなの居場所作りをコンセプトに、物作りや健康をテーマにしたワークショップを開催したり、学校閉鎖の時は子供を預かったりしています。
普段は近所のお年寄りが三々五々集まってお茶したり、外国人が日本語を習いに来たり。

オーナーは隣の個人医院の院長さんですが、副代表を山小舎おじさんの奥さんがやっております。
実質の運営は奥さんと、数人のサポーターでやっています。

このサポーターおばさんたちは、大人数の料理を上手に作ることができたり、あっという間に宴会の片づけができたり、ついでに自家製のおいしいキムチを漬けたりもできる、ハイパワーなおばちゃん方で、山小舎おじさんも崇拝しております。

この彩ステーションに、山小舎から野菜を出荷しております。
1回に付き段ボールひと箱。
週に最大2回の配送。
金額にして1回、1500円から2000円の出荷です。

この野菜が彩ステーションの利用者に好評で、毎回売り切れとのこと。
キューリ、ナス、トマトなどのお馴染みの野菜だけでなく、食用ほおずきを初めて食べてファンになった人もいるとのこと。

これはファン感謝も含めて、生産者による報告会をして、消費者に山小舎と野菜の更なるイメージアップを試みなければなりません!

ステーションの副代表さんに時間をもらった山小舎おじさんは、ついでにパワーポイントの準備もお願いして報告会に臨みました。

パワーポイントを使っての報告会

簡単に山小舎の位置、畑の位置、付近の環境などを述べた後、畑と野菜の写真を季節ごとにまとめてスクリーンに映してゆきました。

畑と野菜の写真の後には、ジャムなど食品加工の写真、薪づくりの写真、そして今シーズンから取り入れる「ガッテン農法」などの写真を映してゆきました。
収支状況と今年から値上げしたいという話もしました。

参加者は全員80歳代の10名ほど。
スクリーンに真っ赤なトマトが映し出されると「あートマトだ」と歓声が起こるなど、全体を通して好意的な反応に終始しました。

今シーズンから値段を上げたいとの提案には反応がありませんでした。
山小舎としては、毎回ほとんど収益がない状態からは脱却したいのですが。

途中からどんどん質問してくるおじいさんがいましたし、帰り際に「いつも買っています。野菜が届くと皆で取り合いになるんですよ」と話すおばあさんもいました。

参会者からは熱心な意見が

最初は参加者の年代を見て、正直、張り合いのなさ?を感じました。
ところが、終わってみて、代えがたい充実感があることに気づきました。
なぜか?

お年寄りのコミュニケーションのやり方を見ていると感じることがありました。
彼らは、話すときには相手と向かい合って相手の顔を見て話しているし、一方的に自分の話したいことを話すのではなく、また相手からの反応を待つ独特の「間」を持っている、のです。

山小舎おじさんの子供時代の社会(日本限定なのかどうかはわからないが)は、大人はこんな感じでコミュニケーションしていたなあ、と懐かしく思い出しました。
これがしっかりとした人間同士の意思疎通だったなあ、と。

参加者全員で記念撮影。女性陣は野菜のファン

今シーズン、山小舎の収支が改善するかどうかは不明ですが、貴重な経験の場を東京でいただいた山小舎おじさんでした。