8月以降の畑は、秋野菜の種まき、定植をしたほかは、夏野菜の収穫と管理が主な作業です。
秋作の様子
夏野菜の現状
これから収穫期を迎える野菜たち
動物の食害その後
収穫・出荷状況
60代、第二の人生、田舎・時々都会暮らし
8月以降の畑は、秋野菜の種まき、定植をしたほかは、夏野菜の収穫と管理が主な作業です。
秋作の様子
夏野菜の現状
これから収穫期を迎える野菜たち
動物の食害その後
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今年前半の山小舎暮らし総括です。
毎年、4月から11月までの山小舎暮らし。
8か月間の前半4か月が過ぎました。
4月から7月までの暮らしを総括してみます。
4月から7月までの期間。
畑のカレンダー的には、畑起しから、種まき、苗の植付け、夏野菜の収穫開始を行う時期。
いうならば、畑作業のハイライトに相当するときで、作業的にもハードな頃です。
また、この時期は、別荘地の作業アルバイトが始まる季節です。
作業内容は4月から5月いっぱいくらいが落ち葉集めや、側溝掃除。
6月からは草刈りが主な作業となります。
山小舎おじさんが、今年、畑作業と別荘地作業バイトに費やした日数を数えてみました。
4月から7月の間で畑に行った日数が43日でした。
バイトに行った日数が31日。
今年は4月15日に山小舎に来ましたから、その間107日。
自宅に帰った日数が5日あり、実質の山小舎滞在日数が102日だから、滞在日数の42%を畑作業に費やし、30%をバイトに費やしていた計算になります。
バイトの日は畑には行けませんからこの数字は重複してはいません。
残りの日数28日(約30%)は、県内を旅したり、買い物や気晴らしに出たり、来訪した家族らと過ごしたり、雨で活動できなかった日となります。
実感としては畑とバイトで働きずくめの春から夏でした。
畑は側溝の整備から、耕耘、畝立て、二度のジャガイモ植え、草刈り・・・と1反歩以上の広い面積と格闘しました。
本来は畑づくりは、毎日畑に顔を出し、気が付いた作業をちょこちょこやるものなのでしょうが、何せ軽トラで片道30分の場所にあるロケーション。
イメージは通い仕事です。
バイト仕事はフルタイムなので、歳とともに段々きつくなってきたのが偽らざるところです。
今年は高原でも暑かった日が多く、一日終わると作業着が汗でぐっしょり、体はバリバリに固まる・・・という日が続きました。
暑さで頭痛がする、という経験もしました。
歳のせいなのでしょうか。
一時期は、週に3日の畑、3日のバイトのスケジュールでしたが、正直よくやったと思います。
休みの日や雨の日などに、茅野や上田などの町に人の顔を見に行ったり、外食したり、気になる観光スポットに出かけたりもしましたが、今年の上半期の印象は、暑い中での畑作業とバイトの日々です。
山小舎暮らしの目的の一つに、古民家由来の貴重な山小舎の、保全とブラッシュアップがあるのですが、今期はほとんどできませんでした。
精いっぱいの畑とバイトの日々に余力がなかったのが実際でした。
ベランダ、玄関先など、リフォームが必要な部分から日々の掃除、整頓まで手付かずに近い状態でした。
また、家内をはじめ家族の意向に、山小舎を来客用にブラッシュアップするということがあるのですが、日々に追われて生活しているおじさんにはいまいちそれが理解できず、やってきた家内にがっかりされたりもしました。
今後は2階を来客用に整備する方向で、家族らとベクトルを合わせたところです。
8月位以降はバイトを休んでいます。
お盆休みと家族の来訪で気が抜けたのか、怠け癖が付いたのか。
酷使を免れた体はほっとしていますが。
収穫の時期に合わせてせっせとジャムを煮たり、たまりにたまった材木を薪に割って干したり、室内を掃除したりしています。
気晴らしに信州の素晴らしい自然の中を軽トラで走り回るのも楽しみの一つです。
既に9月。
令和2年の山小舎暮らし後半は、畑や地域からの恵みを活用しつつ、家族の意向を取り入れた山小舎の保全、管理を意識してゆこうと思います。
畑は来季に向け、食害防止の観点からの保全と土壌改良に注力して行こうと思います。
岡谷という町があります。
諏訪湖の北西に面する、人口47,000人の市です。
長野県に居て4年目ながら、家族が来た時にうなぎを食べに行くか、諏訪湖を一周するとき、あるいは松本方面から国道20号線で帰る時に通過したことがあるだけの町でした。
あっ一回街の中心部に行ったことがありましたっけ。
長野といえば善光寺、松本といえば松本城、上田といえば真田、軽井沢といえば別荘族・・・が全国的にも有名です。
その点、岡谷といえば・・・うなぎを連想するくらいでしょうか?
今回は、中信地方にあり、山小舎から割と近い場所にありながら、一般的に連想される特色に乏しい、と思われる町・岡谷に行ってきました。
そこには、現在では忘れられつつある歴史と、独特な町の個性が残っていました。
諏訪湖西岸を通って岡谷市街へ
茅野方面から岡谷へ行くには、諏訪湖東岸の国道20号線を通るより、諏訪湖西岸を抜けたほうが早い。
諏訪湖東岸から北岸にかけては、いわゆる表の諏訪湖であり、観光ホテルなどが立ち並んでいます。
花火大会が開催される場所も表の諏訪湖です。
対して諏訪湖の裏側に当たる西岸は、湖岸道路が、茅野方面から岡谷、塩尻方面への抜け道として利用されており、交通量も少なくはないのですが、信号が少なく流れが速いのです。
諏訪湖西岸の湖岸道路から一本奥に入ったところに集落を抜ける道がありました。
今どきの地方の集落ですから、表通りから一本中に入っただけで、人通りも途絶え、車の往来も少なくなります。
コミュニテイバスが通っていましたが。
この集落に残っていたのは、かつて諏訪湖からもたらされていた豊かな資源の痕跡です。
水産資源のほかに観光資源としての諏訪湖の圧倒的な存在感をうかがわせる地元の集落です。
諏訪湖水門を渡って岡谷市街地へ
諏訪湖北岸の西端には、湖水の排出口の役割を果たす、水門と呼ばれる場所がある。
伊那谷を削りながら太平洋にそそぐ、天竜川の起点となる場所です。
釜橋と呼ばれる赤い鉄橋で水門を渡って岡谷市街に向かいます。
中央本線も国道20号線も、諏訪湖の東岸から北岸を走っており、岡谷市街地も諏訪湖及び天竜川の北岸に広がっています。
少し走ると、レイクウオーク岡谷なるモールに出くわしました。
全国各地にあり、ファミリーからヤングまでの買い物からデートまで、一括して商業的に承るモールが岡谷にもありました。
かつては地方中核都市の象徴的な存在でもありましたが、今では川崎、横浜から埼玉まで、都市部においても人が集まる場所として認知されている、あのモールです。
自宅近くのモールは、山小舎おじさんの娘一家も孫娘も大好きな場所です。
ここに岡谷の消費一切が集約されているのか!と、モールを横目に見ながら岡谷駅方面に軽トラを進めると、中央通りなる商店街へ。
かつては製糸工場の女工さんであふれたという昔からの中央通り商店街ですが、現在では全国津々浦々の商店街の例にもれず、さびれていました。
イルフプラザにてお買い物
中央通りの中ほどに、商業施設・イルフプラザがあります。
街の中心部ながら5時間無料の駐車施設をもつイルフプラザは、岡谷市街を訪れる際の駐車場所としてマストな存在です。
2回目の訪問となりました。
イルフプラザ食品館で掘り出し物を探します。
今回もリンゴのB品が10個ほども入って、290円で売られていました。
一瞬触手が動いたのですが、リンゴの加工品を作るにはまだちょいと時期が早いかな?と思い返して我慢。
地元の味噌と、今晩のお惣菜を買いました。
土曜日のこともあり、食品館の集客もまあまあ。
何より、ご当地の、地元感を味わえる貴重な場所でした。
ゲームコーナーには独特の寂寥感が漂っていましたが。
蚕糸博物館で初めて知る岡谷の盛隆
なぜ岡谷が戦前に村から飛び級で市制に移行したのか?
なぜ、岡谷が東洋のスイスと呼ばれる精密工業の中心地なのか?
その源流が、明治から戦前にかけての製糸工業の発展にあることを学べる場所がありました。
この博物館は、過去の遺産の展示だけを行ってはいませんでした。
なんと現役の製糸工場が組み込まれた博物館だったのです。
製糸の歴史の展示コーナーの続きには、現役の工女さんが糸繰をする様子が見られる操業コーナーがあります。
機械が並び、数人の女性が操業しています。
デモンストレーションにしては意気込みが半端ではないな!と思って見終わると、現役製糸工場の実際の操業です、との説明がありました。
博物館は実際の工場が組み込まれたものだったのです。
全盛期には、岡谷の人口の半分が製糸工場の工女だったことや、寮暮らしの工女たちが消費する食料、燃料などの流通が岡谷の経済を発展させたことなどが、博物館の展示コーナーで学べます。
興味ある向きには、工女が手動で操った当初のものから、現在の無人全自動機に至るまでの製糸機械の現物が代々展示保存されているのも貴重です。
戦後、生糸が衰退した時、いち早く精密工業を誘致できたのも、製糸工場というハードと、工女という熟練ソフトが残っていたため、との流れです。
伊那道と呼ばれる、市役所が面するもう一つの目抜き通りにも古い商店の建物がわずかに残り、かつての町の隆盛をかすかに漂わせています。
いまだ残る数々の製糸工場跡などの文化的活用が、わかりやすくアピールされているとは、まだまだ感じられない岡谷ですが、その隆盛の名残が漂っている町でした。
帰りは下諏訪温泉でひとっ風呂!
岡谷の帰り道は国道20号線を通って。
途中の下諏訪でひとっ風呂。
菅野温泉、250円。
まちがいありません。
八ヶ岳南山麓の標高1300メートルあたりを巻いて走る道路があります。
八ヶ岳高原ラインといいます。
小淵沢から清里を結ぶ、山梨県の県道11号線の別称です。
久しぶりにこの道を通って清里、野辺山、小海を回ってきました。
八ヶ岳エコーラインから高原ラインへ
山小舎から大門街道を茅野へ下ります。
途中、八ヶ岳エコーラインにぶつかるので、原村方面に右折します。
原村に入る直前に、八ヶ岳農業実践大学方面に左折します。
ここの売店に寄ってみます。
農業大学をさらに八ヶ岳に向かって走ると、美濃戸口と呼ばれる場所があります。
八ヶ岳連峰の主峰の一つ、赤岳への登山口です。
美濃戸口を入ったところに駐車場もあり、赤岳などへの登山ルートがあるので一度登ってみたいものです。
山梨県へ入り、県道11号線(八ヶ岳高原ライン)へ
美濃戸口から、長野県内を県道484号線で、八ヶ岳山麓を南下、富士見町に入ります。
両側に富士見高原と呼ばれるレジャー施設が続きます。
山梨県に入り、県道11号線にぶつかるので左折。
ここからが八ヶ岳高原ラインです。
別荘やレジャー施設は影を潜め、雑木林が両サイドに広がる道を進みます。
原生林の道、といった感じのいい道です。
天気が悪いと霧に包まれる標高1300メートルの道です。
この日は晴天で、行きかう車、バイクでひっきりなしでした。
ペンションブームの清里は今
やがて高原ラインは清里に至ります。
かつてペンションブームで栄えた、清里駅周辺は、昨今の事情を勘案しても、ひっそりとしていました。
ペンションブームが終わったことと、鉄道客の減少のせいでしょうか。
付近の国道141号線沿いの施設が、自家用車で混雑しているのを見ると、時代の移ろいを感じざるを得ません。
清里地区の美し森。
ここいら辺は、都市部の自治体や大学などの保養施設のメッカでもあります。
山小舎おじさんも20年ほど前は、毎冬、自宅のある調布市が持っている「少年自然の家」へ、家族でよくスキーに来ていました。
調布の学校に通っていた子供たちは、夏の林間学校などでよく来ていたようです。
小金井市や明治大学の施設が近所にあります。
南牧村美術民俗資料館
国道141号線(佐久甲州街道)を野辺山方面に走ると、右手に南牧村美術民俗資料館という建物がありました。
寄ってみました。
館内は民俗資料館と美術館に分かれています。
おじさんは民俗資料館のほうに興味がありました。
展示内容は、先史時代の遺跡や石器から、近代の農具や生活道具など。
地域の動植物のはく製、標本など。
いわば各地にある博物館、資料館の定番です。
展示物の中でやっぱり気になるのが、昔の写真です。
南牧村は野辺山といったほうが有名ですが、戦後の開拓時代の写真などは雄弁に地域の歴史を物語っています。
展示物を開設するパネルが毛筆で書かれていたので、学芸員の女性に聞いてみました。
地域の高齢の筆自慢がものしたのかな?と聞くと、そうではなく女性書道家によるものとのこと。
そのほかにも、標高2000メートルにある露天風呂に2時間歩いて入ってきた話、高原野菜を生産する農家の事情など、女性の学芸員は、世間話をするように、南牧村の情報をたくさん話してくれました。
たっぷり話ができて、南牧村が好きになった山小舎おじさんでした。
海ノ口と海尻
国道141号線を小海方面へ北上します。
高原野菜が広がる開けた地形が狭まり、急坂を降りてゆくと、海ノ口という地域です。
このあたり、野辺山の観光ポイントも多く、高原、牧場といったハイカラなイメージの世界から、昔ながらの鄙びた歴史の世界へと一変します。
大昔、浅間山の噴火でせき止められた千曲川がこのあたりで湖を形成していたとのことです。
湖の入口が海ノ口で、出口が海尻と呼ばれ、地名が今でも残っています。
海尻地区の国道沿いに、古い神社がありました。
諏訪神社でした。
墓地が隣接していたので、「もともと神社とお寺が一体となっていた場所が、明治時代の廃仏毀釈で神社として残ったのかな?」と思っていたら、国道の少し先に立派なお寺がありました。
海尻山医王院という天台宗のお寺で、門構えにあたりを払う威厳があります。
裏山に海尻城という、戦国時代の山城の跡があるとのこと。
お寺自体も佐久33番観音霊場の19番札所とのこと。
国道を挟んで、医王院の反対側に位置する集落の家々にも歴史を感じます。
番外・道端の古墳
八ヶ岳南麓を回り、野辺山、小海など八ヶ岳の東側を北上。
八ヶ岳北側山麓を西へ回って山小屋へ帰りました。
帰り道、佐久市望月地区から白樺湖方面へと向かう峠道のふもと。
ふもとの集落の一角に古墳がありました。
大規模な古墳ではなく、民家の片隅に取り残されたような風情です。
標識がなければそれとはわからず、保存状態も成り行き任せ。
いつの時代の誰のものなのかも判然としません。
県内では、前方後円墳の巨大なものでも、その由来は皆目不明で、便宜的に地名を冠した○○将軍塚、などと呼ばれています。
畿内の「由緒ある」古墳群と異なり、地方のその時代の歴史は何の記録もない「暗黒時代」なのです。
記録が残っていないだけで、いわゆる古墳時代から、この信州には人間の歴史が、あちこちに色濃く刻印されているのでしょう。
何せ、浅間山が噴火して、千曲川をせき止めたのは西暦800年代のことで、それに由来する地名の、海ノ口、海尻が今に残っているのですから。
令和2年の信州の夏。
梅雨の後、長期間の夏日が続きました。
空を見上げると、鮮やかで強烈な青空と、それを彩る見事な雲の世界が広がっていました。
あまりに鮮烈な夏空と夏雲に、ついついカメラを向けてしまいました。
まずは地元・長和町で見上げた空と雲です。
出先から見上げた夏空にも鮮やかな雲が広がっていました。
今年くらい空を見上げた年はなかったでしょう。
夏空は鮮烈で強烈でした。
そこには見事な雲の造形がありました。
廃材をカットしました。
これを手斧で割ってタキギにします。
ところでタキギという言葉、漢字変換すると「薪」です。
薪能などという言葉もあります。
で、マキという言葉があります。
漢字変換すると「薪」です。
タキギもマキも同じ漢字です。
山小舎おじさんは知りませんでした。
おじさんのイメージでは、マキはストーブなどにくべる主燃料で、タキギは主燃料に点火するための割り付け、です。
どちらも同じ漢字、ということは同じ言葉、同じ意味、だったのですね。
で、カットした廃材を割ります。
手斧で割りますが、これが案外簡単ではありません。
板とはいえ、節があるときれいに割れないのは丸太を斧で割るのと一緒です。
パカーン、と幅2センチ程度にそろって割れるとは限りません。
板の厚さによっても違ってきます。
ある時は手斧に一気に力を入れ、ある時はテンポよく割ってゆきます。
コツは手斧の刃をあらかじめ、板に当てておきながら、板ごと土台にたたきつけるイメージでしょうか。
これって、昔、おじさんたちの父親が普段から生活の中でやっていた動作の一つでしたよね。
当時の父親たちは、簡単な大工仕事から普段の家まわりの仕事(庭の手入れ、煙突掃除、大掃除、などなど)をやっていました。
おじさんたちその当時の子供は、そんな父親の姿を見て育ちました。
人生の先達から学ぶこと、無意識に身についていることを思い出すこと、って大事だと思います。
っていうか、身に着いたこと以外できないのが人間なのかもしれませんが。
けっこう割ったつもりが出来上がりはこれくらいでした。
ワンシーズンはとても持たない分量です。
が、主燃料のマキと違い、足りなければ足りないでどうとでもなるのが、タキギの世界です。
その意味では、やはりタキギとマキでは意味が違うような気もするのですが・・・。
ともかく、今年のタキギの量はこれくらいで良しとしましょう。
追記:山小舎おじさんが、本ブログで「タキギ」と呼んでいるものは、正しくは「焚き付け」と呼ぶのが正しいようです。
タキギを作りました。
薪ストーブを焚くときに、いきなり薪に点火することはできません。
新聞紙や、白樺の皮などのスターターにマッチやライターで点火し、さらにタキギに火を移してから、主燃料の薪に着火させてゆくのが通常です。
タキギの材料となるのは、廃材や、乾燥した枝などです。
それらを細かく割ったり折ったりして利用します。
よく乾燥したタキギがあるかどうかで、ストーブ点火の効率が全然違います。
タキギ作りは山小舎にとって大事な仕事の一つです。
山小舎をリフォームしてくれた大工さんから廃材を軽トラ一杯もらって、軒下に備蓄していました。
タキギがなくなっていたので、蓄えてある廃材をカットして今年分のタキギを作ることにしました。
廃材を備蓄している軒下へ行きます。
廃材を数枚ずつ担いでカットを行うヤードへ持ってゆきます。
テーブルソーを取り出してセットします。
薄い板は2枚ずつ、厚めの板は1枚ずつカットしてゆきます。
40から45センチの長さにカットします。
材木の匂いがし、切りくずが巻き上がり、舞い落ちていきます。
チェーンソーを使うときも同様ですが、木材を切るということは、すなわち切りくずを大量に作り出すことです。
木くずは燃やすこともでき、土にかえることもできます。
薪を燃やした後の灰も植物にとっての肥料となります。
木材は究極の循環素材なのです、
これだけのタキギの材料ができました。
これを手斧で割るとタキギの完成です。
長野県は山の国です。
県内の都市、町はおおむね盆地にあり、その盆地は山によって区切られています。
山の低いところは峠と呼ばれ、盆地と盆地とを結ぶ交通路となっています。
山小舎を中心に見ても、大門街道を諏訪地方へ超える「大門峠」、中山道を諏訪へ抜ける「和田峠」、中山道を佐久方面へ超える「笠取峠」、白樺湖から佐久へ抜ける県道40号線沿いの「雨境峠」などがあり、山小舎おじさんは生活道路としてよく通ります。
八ヶ岳を小海地方に向けて横断するメルヘン街道こと国道299号線の「麦草峠」も通ってみました。
伊那谷へ抜けるには、茅野と高遠を結ぶ杖突街道の「杖突峠」を通ります。
上田盆地の最西端、塩田平にある青木村から、松本盆地に向けての間道というか、山道に「保福寺峠」があります。
日本アルプスの父と呼ばれた、イギリス人宣教師・ウインストンが、上田から青木村を抜け、「保福寺峠」までやってきてそこからの景観を絶賛したとあります。
また中世まで、近畿から東国を結ぶメインルートであった、東山道が通ったといわれる峠道です。
9月に入った夏日、「保福寺峠」を通ってみたくて、青木村へ軽トラを走らせました。
ところが、峠への分岐点まで行くと「保福寺峠までは行けますが、通り抜けできません」との看板が。
昨年の台風19号の被害のようです。
青木村から鹿教湯温泉へ抜ける山道も、去年から通行止めとなっています。
遠方では佐久穂町から群馬へ抜ける武州街道も十国峠付近が通行止めとなったままです。
仕方がないのでUターン。
国道143号線へ戻り、松本に行こうか?と、初の「青木峠」越を試みました。
国道143号線を松本方面に走ってしばし、国道から右折する県道12号線に接しました。
山の中へ分け入ってゆく、なかなか魅力的な道の雰囲気を醸し出しています。
地図で確認すると、ぐるっと回って千曲川沿いの戸倉上山田に戻るルートです。このまま143号を走ても松本まで40キロ以上もあります。
えいっと右折しました。
ほとんど交通量のない山道。
つづらに上ってゆく県道12号線。
路面には走り屋たちのタイヤの跡。
やがて左手に修那羅石仏群の案内板が見えました。
気になったので行ってみました、石仏群。
ふもとの集落から車道が続いています。
安宮神社へと続く山道。
神社の境内に石仏群があるようです。
江戸時代に修験者が開いたという神社とその神社に奉納された石仏たちが参拝客を人知れず待っていました。
ここは青木村から峠を越えた、東筑摩郡の築北村というところ。
神社のふもとの集落は俗世間をはずれた別世界の雰囲気。
県道は交通量もほぼなく、ストレスなく別天地へのドライブが楽しめました。
もう別天地過ぎて、早く通過しないとこのまま別天地から出られなくなってしまうのではないか?とさえ思ってしまうほどの「別天地」感に満ちたルートでした。
県道12号線はやがて開けた田園地帯に達し、県道55号線へと合流。
このあたりは山間というには広めの盆地風景を展開。
傍らにはJR篠ノ井線も走っている。
篠ノ井線は長野市郊外の篠ノ井から松本を経て塩尻へと至る、中央本線と旧信越本線を結んだ路線となる。
関東から続く、中央本線、旧信越線という幹線を、長野県内で繋いでるのが篠ノ井線。
鉄道の役割が相対的に低下している昨今は、民間委託か廃線かにおびえる、忘れられた路線にも映るが、沿線に歴史と文化を湛えた魅力ある鉄路でもある。
篠ノ井線とはすぐ分かれて、千曲川沿いの戸倉上山田へと向かう県道55号線。
途中の「四十八曲峠」は長いトンネルでくぐる。
交通量の割には立派なトンネルをくぐると、千曲川へ向かっての急な下り。
リンゴやブドウなどの果樹園が目立つ田園風景を抜けると戸倉上山田へ至った。
峠を攻めるつもりが、忘れられたかのようなひっそりとした、魅力あふれる別世界ルートに巡り合うことができた旅だった。
山小舎にも9月がやってきました。
例年ならとっくに秋風が吹きすさぶ頃です。
コロナ元年の今年は、つい先日まで、まだまだ夏の紫外線が、標高1300メートルの別荘地に降り注いでいました。
8月いっぱい、山小舎を一歩出ると、光のまぶしさと、熱量に体が焦げ付く思いでした。
洗濯物もカラカラに乾き、庭の草木は葉がへたり、地面は堅く乾いていました。畑のある標高800メートルほどの麓の集落は気温34度の日々。
畑作業に行くにはある意味、覚悟がいりました。
9月1日、山小舎の朝は霧に包まれていました。
忘れていた高原の夏の風景です。
霧にけぶり、積んである薪が湿った風景を見て、これからの秋と冬の到来を感じざるを得ません。
寒さにこらえる長い季節こそ、山小舎らしい風景です。
9月になったとたんに鮮やかに四季が移ろっていました。
麓の畑にも恵みの雨になることを祈ります。