長野相生座で小津4K「晩春」を観る

今年も残り少ない山小屋暮らし。
この季節は畑も薪割もほぼ終わり、1年で一番自由な時間に恵まれます。

山小屋から2時間かけて長野相生座へ

映画が好きなおじさんは、県内の上映状況も常にチェック。
今回は、長野相生座の「小津4K」という特集上映に行きました。
小津安二郎の代表作品をデジタル4K素材で上映するものです。

当時の作品は35ミリフィルムで撮影され、ネガで編集され、プリントされたフィルムで上映されました。
セリフ、音楽はフィルムに光学変換で焼きつけられました。
その素材をデジタル化しての上映会です。小津作品に限らず、黒沢作品など、内外の名作はすでにかなりデジタル化されています。

フィルムであれば、1作品で7,8巻、何十キロもの重さになり、上映の際には専用の映写機に掛けなければなりません。
しかも、上映回数が増えたり、年月が経過すると、フィルムが傷ついたり切れたり、カラーが色褪せたりして劣化します。
更に映画フィルムを保管したり、映画館に配給する際の費用がかさみます。
デジタル化するとそれらの欠点が解消されます。
何より映像の経年劣化が防げるというのが最大のメリットでしょう。
なにせ、太平洋戦争時に万が一の戦火を懸念して、「風と共に去りぬ」のネガフィルムが太平洋岸のハリウッドから米国東部に避難したというくらい、映画作品は財産であり、文化なのです。

というわけで小津4K。おじさんが駆け付けた日は「晩春」の上映。1949年松竹作品。
小津監督と主演の原節子の最初の出会い。
この後、「麦秋」(51年)「東京物語」(53年)と二人のコンビが続き、原節子の役名がいずれも紀子ということから紀子三部作と呼ばれています。

朝10:50からの上映。
日曜日ということもあり、集客は15人ほど。
思ったより良い集客。
年配の夫婦も来ていた。

映画ファンは往々にして自分の世界に閉じこもりがちで、例えば話しかけずらい印象がある。
そんなところに、小津の上映会に駆け付ける年配夫婦。ごく普通の夫婦の感じ。
ほっとするような風景だった。

さて、「晩春」。
おじさんは確か3度目。
最初に見たのは学生時代の16ミリ上映会。
原節子の花嫁姿が印象に残った。
独特の緊張感がある画面も。

10年以上ぶりに再見すると予想以上に特異な作品だった。
父親と暮らす婚期を逃しかけた娘が嫁に行くまでの話。予定調和的に言えば、父を思う娘の心情の健気さがテーマ?
ところがこの作品は一筋縄では行かなかった。

小津はいわばホームドラマばかりをつくったが、「麦秋」の主題は家族の崩壊、老人の死の予感だった。
「東京物語」はそもそも家族というものに対する幻想がテーマだった。

予定調和の世界を逸脱はしないながらも、暗く、深刻な実相をうかがわせるのが、小津作品の「特異さ」。
その緊張感が常に画面にある。

「晩春」では、主人公の原節子が、縁談を断ったり受け入れたり揺れ動く。
彼女は、都度都度はっきりとした理由は言わない。
がセリフ以外の表情やしぐさに心情が現れ、観客はハラハラしながら見守る。
果たして彼女が劇中で本心をぶちまけたとして、これ以上の緊張感を感じるだろうか?

さて原節子演ずる紀子は、三部作最終作の「東京物語」で戦争未亡人を演じた。
そのラスト近く、亡き夫の尾道の実家で笠智衆演ずる義父に対し「私ずるいんです。ずるい女なんです」と、女としての本音に近いセリフを吐く。

それに相応するセリフとしては、「晩春」の場合、笠智衆演ずる実父への「私このままがいいの。お父さんと一緒がいいの」であろうか。

「麦秋」では、杉村春子演ずる隣のおばさんへ「おばさん私みたいな行きおくれでもいい?」と言っていた。
駅でよく一緒になる近所の独身男が秋田に転勤することになり、男の母親である杉村が思わず、「紀ちゃんのような人がお嫁に来てくれたらねえ」とつぶやいたあとのセリフだった。

いずれも生身の女の生々しさだけでなく、人生への諦観というか大きな流れに逆らわない人間のすがすがしさが、相反するようだが、ある。
大きくは人間への肯定的な視線の中、意地悪で茶目っ気でかつ醒めた小津の視線がそこにある。

デジタル上映は、音も聞きやすく、画面の劣化からは解放されている。
ただ、昔の写真を復元したような、照りが気になった。昔の映画はハードそのものも古いまま見るのがいいのかもしれない。
デジタルで撮影された作品が、デジタル上映を予定されて作られているように。

権堂商店街にびっくり!

長野市内に権堂通りという商店街がある。
善光寺参りの後の精進落としの場所として栄え、花街があった場所という。
アーケード街が形成されているが、現在の長野市の中心部は駅前に移っており、アーケード街の人通りは少ない。

アーケードを抜けて長野電鉄の権堂駅を過ぎて進むと、一転、飲み屋街となる。
焼き鳥屋に交じって韓国居酒屋、エスニック料理屋と一気に場末感が増す。
BS放送のTBSで人気の「居酒屋放浪記」ロケ場所との店がある。
このご時世、飲み放題メニューのサービスぶりが激しい。
アーケード街にも奥に引っ込んだ気になる店もある。

長野の中心街は駅前

今の中心部はJR長野駅前。
東急デパートがあって、デパ地下は人でにぎわう。

長野は馬肉の本場。飲食店は馬の一頭買いをアピールしているのもうれしい。

今度は長野で飲んでみたい。

今日の昼食はいつものいむらや。
定番の焼きそばではなく、あんかけ中華を食べました。うまかったです。

 

地元パワースポット訪問記VOL.3 諏訪大社本宮で今年を感謝

諏訪大社は全国的に有名だ。
信濃国一之宮というから、西暦1000年前後から、すでに信州における神社の筆頭格だった。

また、全国の諏訪神社の総本社という。
神社の系統は、白山神社、八幡神社、などなどあるが、その一つ諏訪神社系統の筆頭である。

創建年代は不明というほど古い。
祭神は、アマテラス、スサノヲなど天孫系の神様ではなく、オオクニヌシの息子というから国津神系。

渡来人が律令国家を形成し、天孫系の天津神をまつるようになる前から、縄文系の地元民がその神をまつる場所だったようだ。

4か所ある諏訪大社の本宮が諏訪市にある。
市内には、ほかに前宮があり、下諏訪町には、下社春宮、下社秋宮がある。
前宮は創建時の原始的な雰囲気が残る場所。
下社はそれぞれ観光名所となっている。

今日は思い立って本宮に参拝。
参道に出店も並んでいる。

立派な鳥居をくぐる。

手水舎で手を洗う。

本宮には御柱が4本立っている。

参拝路に沿って進み、参拝殿からご神体を望んで二礼二拝。

おじさんは、長野での田舎暮らしの今年の無事を感謝した。

ついでに宝物殿で代々の宝物を鑑賞。
宝物には、数々の歴史上の第一級資料のほか、神社のハンコや日本刀などもあった。
すり減った大昔からのハンコは明治になるまで使われたという。
ハンコは、単なる祭祀用だけではなく、時の政権との連絡など、行政手続にも使われていたようだ。

神社がかつて信仰の対象としてだけではなく、具体的な行政の一端を担っていたことがうかがわれる。
日本刀とは、行政組織としての「力」の裏付けの象徴か?

ちなみに、宝物館のチケットは、お授け所で巫女さんから買う。

この時、巫女さんの凛とした口調のきれいな標準語に接して、おじさんは襟を正さざるをえなかった。
そう、ここはほのぼのとした田舎の神社などではなくて、日本国の設立のころから、その精神的、歴史的な中心のひとつだった場所。

東京などよりよほど古い歴史と精神文化を、巫女さんが象徴するこの神社は誇っているのだ。
これは、先日、前宮を訪れた時に、話を聞いた宮司さんの口調、醸し出す雰囲気と同じだった。

大きな神楽殿の奥には巨大な太鼓が2張りあった。

全国から寄せられる絵などの進物を展示する建物も。
砲丸の進物は戦争時代の象徴か?

これらの進物からは、諏訪大社が民心から遊離した独善的な存在ではないことがうかがえる。

県内の地酒の樽が並ぶ。酒蔵は諏訪大社の有力なスポンサーだろう。

本宮には本殿がない。
背後の山自体が本殿で、パワースポットとされる。
堂々たる広い社内。

恐るべし諏訪大社。
来年もまた山小屋暮らしの無事を祈って訪れよう。

庭の冬囲い

庭の冬囲いをした。
おじさんの山小屋の庭には、去年買ったブルーベリーの苗2本と、ブラックベリーが1本植えられている。

実はこの庭には春から夏にかかて百花繚乱の盛りを迎える。
ハマナスやスグリ、名前は知らない花などが6月ころから一斉に咲きだす。
先代の仙人さん夫婦が植えたものだ。
今は薪の乾燥台の裏側になってしまっているが、グズベリーなども実をつける。
スグリの実は毎年ジャムにしている。

おじさんの時代になってからは、ブルーベリー、ブラックベリーのほか、梅とサクランボも植えた。
ブルーベリーの苗は案外値段が高い。
1メートルほどの苗で2000円くらいもする。
おじさんは去年、直売所で400円の小型の苗を見つけて2本買った。
1500メートルの高地でも育つと聞き、ブルーベリーの好む、酸性土壌にして育てた。

1年たつがほとんど大きくなっていないのが残念だがしょうがない。
小さいままだと、雪に押しつぶされたり、枝が凍ったりするのが心配で、今年も雪囲いをした。

小枝を支柱にし、荒縄で囲んだ。
地面にはもみ殻を撒いた。

ブルーベリーよ来春また会おう。

山小屋に初雪が降りました

11月20日。
全国的に低温の天気予報です。
山小屋で起きるとうっすら雪が積もっていました。

屋根の雪。

葉っぱの上の雪。

薪の上の雪。

軽トラの屋根と作業台の上の雪。

日中の天気で雪はすぐ溶けました。

室内はストーブをガンガン焚いています。
ガンガン焚かないとすぐ寒くなります。
風通しの良い、日本家屋の山小屋です。

敷地内に鹿が餌をあさりにやってきました。
おじさんが捨てた大量の人参の葉っぱを食べていました。

初雪のころ

おじさんが子供のころ。
故郷、北海道の初冬は、冷たいみぞれと泥んこの道の思い出だった。
秋が過ぎ、寒さが本格的になると、なぜか身がしゃんとした。
これからの長い冬を迎える自然な体の対応か?

それから根雪になるまでの間、雪が降っては溶けた。
大人たちはストーブを準備し、石炭を半年分買って、貯蔵した。

やがて12月になり、根雪となる。
そこで寒さが一段落した。
雪が積もってしまうとそれまでの身に染みる寒さが落ち着くのだった。

気温は下がっているのにむしろ暖かいと感じた。
不思議だった。

今年もタクアンを漬けました

11月19日。たくあんを漬けました。
大根を干したのは10月30日。
約三週間干しました。
畑で収穫した不ぞろいの大根たち。

本来は頭としっぽが、丸くくっつくくらい干したいところ。重さは干し始めから半分程度に減りました。
それでも今回は少し早めの漬け込みになるかもしれません。

おじさんは今週末で山小屋を冬季休眠します。
その前にたくあんを漬けておきたかったのです。

漬けた後、水が上ります。
その後は重しを減らして、長期間漬けこみます。
そうしてから山小屋を退去する予定です。
そのために、退去の数日前に漬けることにしたのです。

水が上がるまでの重い漬物石のままでは大根の水気が抜けて筋張ってしまいます。
おじさんは去年それで失敗しました。

ヌカと塩、ザラメを用意します。
樽の底に、それらを敷きます。
大根をできるだけ隙間なく敷いてゆきます。
一段敷いたら、ヌカ、塩、ザラメをまぶします。
次の段の大根は、前の段と直角に敷きます。
最後にヌカ、塩、ザラメを多めにまぶしておきます。

漬物石をこれでもかと乗っけます。
水の上りを確認するまで数日待ちます。

たくあんといえば日本で一番ポピュラーな漬物だと思います。
おじさんが子供のころ、北海道の実家では親が毎年漬けていました。
木の樽が家にありました。
漬けあがるのが正月明けで、凍った漬物汁をシャリシャリ言わせながら食べた思い出があります。

昭和6年生まれの叔父が学生時代、寮でたくあんを漬けていたということです。
終戦後の食糧難の時代の話です。

コメのご飯と、味噌、たくあんがあれば十分に一食になります。
日本人の知恵です。

 

ローカル路線バスの旅 路線バスで上田へVOL.2

路線バスで上田についた。
土曜日の朝10時過ぎ。
駅前は観光客や地元のヤングの姿がちらほら。
彼らはこれからどこへ行くのか?
観光客ならまずは上田城だろう。

では地元のヤングは?
商店街にヤングの姿はほぼない。
そもそも人が歩いていない。
ではヤングは、地元のファミリーはどこへ?
その答えを探すべく、おじさんは駅近くのショッピングタウンのアリオへ行った。

アリオとはイトーヨーカドーが経営するショッピングタウンで、全国展開している。
よく地方のヤングが、「地元のデート場所はイオンタウン」とかいうが、上田ではどうなのか?

ちなみに、上田には、イオンタウンもある。アリオの方が駅から近くて。後発のようだ。

上田のヤングとファミリーはアリオにいた!

広大な駐車場。あたりをはばかる巨大な建物。
朝一番から人の出入りが多い。

アリオの内部はイトーヨーカドーの食品スーパーの周りに、各種の店舗が出店し、家族連れが引きも切らない。

サーテイーワンもある、無印良品もナムコもJTBも。
食べ物から、衣料ブランド、携帯から美容、眼科、カルチャーセンターまで。
行政サービスの一部代行までしているのかここは?
別棟にはシネコンも。
今時のファミリーの需要にピッタリ。
果たして土曜日10時から店内は、家族連れで一杯ではないか?
上田の消費者はここにいた。
商店街ではなく、ここにいた。

今時のショッピングタウンらしく、商品の展示だけではなく、レストコーナーやトイレなどの数も多く、来客が長時間滞在できるようにしている。
催し物コーナーでは、赤ちゃんのハイハイ競争や、少年向けのベイブレード大会なども催されていた。

あらゆる年代層、趣味の人がここで一日楽しめる。
今は寒い時期だから人が暖かい店内に集まる?
いいえ、暑い夏だって涼しい店内に集まるだろう。
商店街に人がいないはずだ。

万が一、アリオが上田から撤退したら?
資本の論理からして可能性ゼロではない。
そうなったら、上田市民にとっては単に商品の選択の幅が狭まるだけはなく、集いの場所が喪失するのではないか?
もっと大げさに言えば、本来は行政がサービスすべき種々の利便性の喪失ということにもなりかねない。
恐るべしアリオ。

真田の本拠、上田城は人気ランキング1位

天気がいいので、上田城へ行く。
おじさん去年に次いで二度目の訪問。

真田氏が二度にわたって徳川軍を撃退した伝説のお城。真田幸村は今でも根強い人気を誇るが、城の防衛戦での勝利のほかに、大坂の陣での徳川軍への反撃戦での活躍が後に立川文庫などの軍記物で一般化したものという。


上田城。
天守閣はもともとないし、櫓が3基と石垣が残るだけ。しかもその石垣は真田時代のものではない。
しかし11月の今日も、観光バスが乗り付け、団体客のほか観光客が引きも切らない。
テレビのお城人気ランキングであまたの名城を差し置いて一位になったこともあるようだ。

松本城のようなきらびやかさはなく、外人観光客の姿はほぼないが、地元に愛された落ち着きと風格のある場所。

帰り道、おもてなし隊の演武が行われていたので覗く。地元の劇団が出演していた。

コーヒー180円。喫茶・木の実は地元の社交場だった。

上田の中心部へ戻る。
北国街道という新潟への旧街道筋に面する商店街。
中央二丁目という交差点は、旧店舗は閉店し、マンションとセブンイレブンが目立つ場所となっている。

ここからすぐの相生町というところに古い食堂、喫茶店が残っている。

喫茶・木の実という店へはいる。
昭和32年創業で、コーヒー180円は変わらず。
おじさん2度目の来店。

コーヒーを飲んでいると、地元の商店街の旦那さん風の人がやってきた。
ビールと酒を注文し、つまみにピザのテイクアウトをオーダーしている。
高齢の女性マスターの息子が対応している。
旦那は息子相手にビールを飲み始める。

上田でも松本に倣って路上禁煙を始めるらしいとか、地元の旦那衆らしい雑談が聞こえる。
帰りしな、旦那から一緒に(ビールを)どうですか?とのお誘いがあった。

帰りが遠いからと断るが、ちょいと惜しかったか?
バリバリ地元の人と話すチャンスでもあったから。
もっとも話が弾んだかどうかはわからないが。
さすがは地元の旦那衆の応対である、と感心する一幕だった。

帰りのバスを待って駅で一杯

上田で一杯飲んでみたかった。
焼き鳥で町おこしもしているし。
16:30の帰りのバスを待つ間、上田電鉄の改札脇の焼き鳥屋へいってみたが、今日はやっていない。
こういった気まぐれなところが、商売っ気のないところが、勿体ない?

やむなく、駅のコンビニで缶ビールを買って、コンコース脇のベンチでグビリ。
寒いけど、歩き回ってのどが渇いたのか、ぐんぐんビールが入ってゆく。

上田の駅ではベンチでビールなど飲む人はいないのだろう。通行がチラチラ見てゆく。
まだバスの時間があるので、ワンカップの千曲錦を買って開ける。

聞けば、駅ビル内のから揚げセンターでは昼から1時間飲み放題をやっていたとのこと。残念。次回また。

16:30発のバスは、別荘地まで直通。
自家用車で45分のところ、集落や別荘地を巡って90分かけて走る。

18:10に真っ暗な山小屋へ着きました。
上田でビールまで飲めて充実した休日となりました。

 

ローカル路線バスの旅 路線バスで上田へVOL.1

思い立って路線バスで上田に行き、一日遊んできた。

路線バスで上田へ。
これがなかなか難しい。
まず、おじさんの住む別荘地を発着するバスが1日に6,7本しかない。
JRバスが運行する長和町巡回バスというやつ。
町内は運賃100円だ。

上田に行くには、途中乗り継いで1日4回のチャンス。
乗り継げる便は、朝2便、夕方2便しかない。
帰りの最終は上田駅発16:30だ。

これでは、「ローカル路線バスの旅」のロケも難しい。通学ならともかく、日々の買い物などには全く使えない。車が必需品となるゆえんだ。

おじさんの別荘地は長和町の端っこ。
路線バスを運行しているということ自体が、別荘住民に最大限のサービスを提供してくれていることだ、というのはわかる。
バス会社というよりは、町側の配慮なんだろうが。

若いころから当てのない旅が三度の飯より好きな?おじさん。
思い切って路線バスの旅へゴー!だ。

別荘地と集落をめぐり路線バスは行く

寒いというより冷たい朝。
8:00発のバスを待つ。
長和町役場近くのやすらぎの湯という温泉施設行きだ。

バスがやってきた。
客はおじさん一人。
出発。
別荘地内でおばさんが2人乗車。

この後バスは、隣の別荘地やら、鷹山スキー場という隣の山のスキー場やらに寄ってゆく。
そのたびに山を上り下り。
車なら大門街道をまっすぐ下ればいいところを2倍以上の距離と時間をかけて下ってゆく。

別荘地もスキー場も長和町の振興公社の経営。
路線バスもそれらの敷地を巡る路線を維持して、サービスしなければならないのだ。
当然のようにこの間の乗客はなし。
ただ、自分で運転する時と違い左右の景色を十分に眺めなられるのはバスのいいところ。
おじさんはバス旅が好きだ。

35年前に放浪した、インドでの満員のがたがたバスを思い出す。
下痢腹を抱えての長時間旅、休憩時間のトイレも周辺までフンが散らかりとても使える状態ではなかったっけ。それに比べるべくもない快適な日本のバスの旅。

ふもとの集落を通り、乗客を拾ってゆく。
3人ほど乗った。

やがて、中継地点の長久保ターミナル着。
ここまでの運賃は100円。

おじさんはここで降りて、上田行きのバスに乗り換える。
バスを待つ乗客が10人近くいた。

丸子で千曲バスに乗り換える

長久保からは幹線道路沿いに上田へ進む。

9:22丸子へ到着。
今は上田市に吸収合併されたが、もとは丸子町として独立していた地域。
私鉄上田電鉄の丸子駅があった場所にバスターミナルがある。
今は駅舎もなく、ドラッグストアが建っている。
ここまでの運賃は560円。
おじさんはその前に100円払っていたので460円の支払いをして下車。

ここでJRバスから、千曲バスへの乗り換え。
千曲バスは上田駅方面に毎時2,3本の運行と格段に便利。

料金も丸子から上田駅まで300円と、JRよりは安い。
初めて乗る千曲バス。
乗客数も増え、田舎の路線バスから街中のバスへ、車内の雰囲気が変わる。
乗客も、温泉施設や病院へ向かう年配者から、町へ遊びに行く若者の姿へと様変わり。
いつしか車窓も上田の町の風景となった。

10:10上田駅に着いた。
運賃は300円。行きの合計運賃は860円だった。

(続く)

ご近所立寄り湯めぐりVOL.2 蓼科別荘地と蓼科温泉

八ヶ岳中信国定公園の中心部に近く、古くからの別荘地で有名な蓼科という土地がある。

温泉が湧き、旅館街を形成し、街の金持ちが別荘を建てた場所。歴史は古い。
今では東急リゾートがゴルフ場などを大規模開発。
ふもとの茅野からのルートであるビーナスラインは交通量も多い。
おじさんの山小屋からは割と近いのだが、これまであまり行ったことがなかった。
今回軽トラで半日散歩としゃれこんだ。

小津安二郎ゆかりの別荘を訪ねる

茅野駅前の商業ビル内の小津安二郎コーナーの一角では、古い(戦前の?)蓼科の映像が流れている。
ボンネット式のバスが坂道を登ってゆき、温泉宿では若い女中さんたちが笑っている。
古い観光絵葉書のような光景の中には活気が感じられた。

映画監督の小津安二郎が蓼科の別荘で毎年脚本を書いていたのが、昭和30年代から40年代にかけて。

無芸荘という建物は執筆用ではなく、迎賓用に使われた別荘とのことで、立っていた場所から中心地のプール平に移築された由。

小津監督と蓼科のご縁は、蓼科高原映画祭という形で地元に残り続けている。

共同湯・蓼科温泉へ入湯

古い映像に残る蓼科温泉街の活気は今は面影もない。
古い旅館が少し残るだけ。

水の流れは変わらない?

共同湯・蓼科温泉へ入ってみた。
熱めの湯。かすかに硫黄臭がする。500円。

管理人のおばさんと話す。
中心部のプール平の由来とは、かつて温泉プールがあったからとのこと。

かつては道の終点だった、蓼科温泉街もビーナスラインが、車山や美ヶ原の方まで通って、泊り客が減ったとのこと。

ふもとの東急リゾート開発のゴルフ場や、温泉街のホテル、旅館も経営は苦しいようだとのこと。

また、住んでいる別荘族も高齢化で、温泉に集まる様子は養老院のごとし?とのこと。

温泉自体は源泉から引いた60度のお湯をそのまま使っており、時々ゴボッと湯が沸くような音がする。
熱かったが、加温した湯を使う、最近の大規模な温泉施設に比べると本来の温泉らくて良かった。

ついでに奥蓼科温泉郷を覗きに行く

蓼科温泉を出て、ビーナスラインを白樺湖方面に進む。道路わきに別荘が点在する。
学校や企業の保養施設の看板も目立つ。
おじさんの住む別荘地に比して、メジャーな雰囲気がする。

奥蓼科温泉郷という場所がある。
蓼科温泉から、さらに八ヶ岳連峰の懐に入ったところ。ついでに行ってみた。

ビーナスラインから林道を抜け、メルヘン街道という、八ヶ岳横断道路をまたぎ、湯の道街道という道に出る。
渋温泉というところで行きどまりになる道だ。

最初に現れたのが、信玄の隠し湯の謂れの、辰野館。
大規模な一軒宿で木造三階建の造り。
寂れた休館を撮影。

ここから道を進み、どん詰まりにあるのが渋の湯。
山懐の温泉。

二軒のうち一軒はつぶれていた。

バス停もあった。1日3本の便。

ビーナスラインを走る

ビーナスラインは、茅野の中心部から、蓼科温泉を抜け標高1700メートルの高原を走り、白樺湖へ降りる。

さらに大門峠を横に抜けて、車山高原から美ヶ原へ至る。

天気が悪いと霧が立ち込めることもある高原の道。
蓼科山の麓を半周して今日の小旅行を終えた。
寒いというより冷たさが身に染みる時候だった。

 

今年も柿酢を仕込む

柿酢という日本伝来の食酢がある。
発酵食で有名な、東京農業大学の小泉武夫先生のブログでも紹介されている健康食。

おじさんも仕込みました。
材料の柿は、この季節、長野ではいくらでも売っています。
渋でも甘でもいいそうです。
熟れたものの方が発酵が早いと思います。
柿の表面についている白い粉が酵母になって発酵するのだそうです。

おじさんは材料を探しました。
農家の庭先や畑の隅っこに柿は鈴なりになっています。あちこちの庭先に干し柿がぶら下がっています。
農家に知り合いでもいたら、干し柿や柿酢の材料であればいくらでも手に入りそうです。

そういった知り合いのいないおじさんは、直売所へ行きました。
直売所といっても、地元産のものを売り、食堂を併設し、お客が引きも切らないところもあれば、地域にひっそりと建っているところもあります。
そういった直売所へ行きました。
八百屋がやっている直売所のようです。
道路わきによくある安売り八百屋のようなものです。
市場で仕入れた野菜の売れ残りを売っている感じです。

B品を探すならここです。
聞いてみるとありました、熟しすぎた柿が。
一箱400円とのこと。買いました。

作り方。
柿は洗いません。へたを採ります。傷があれば除きます。
消毒した瓶に放り込みます。
布巾か紙で瓶に封をして、あとは放っておくだけです。

だんだん泡が出て発酵してゆきます。
時々かき混ぜます。
泡が浮き、透き通った酢が溜まってきたら濾して保存します。
年明けには出来ているでしょう。

これは去年の柿酢です。
濾した時には透き通っていましたが、今は柿色に成熟してきています。
正月に鱠にでも使いましょう。

畑の冬じまい

11月も15日です。
畑は収穫もほぼ終わり。
来年に向けての冬じまいです。

今年最後の畑の手入れ。
夏の間酷使した土壌を休ませ、養います。
耕して日光を当て土を消毒します。
石灰などを散布して土の酸性を中和します。
土を半年休ませて、作物が収奪し不足したミネラル分を回復させます。

おじさんの山小屋の脇には去年積んだ堆肥があります。別荘地に山と降り注ぐ落ち葉を集め、糠や鶏糞とともに積んだものです。
これが平地なら積んだ先から湯気を上げて発酵開始し、半年で養分たっぷりの堆肥になるのですが。
ここは1500メートルの高地。
気温のせいか、水分が足りなかったのか。発酵が進まないまま1年たっていました。

といっても山小屋の敷地に積んでおいても鹿のおやつになるくらいなので、軽トラに積んで、畑に運ぶことにしました。
標高600メートルの畑でこの先半年置けば、土になじんで来年養分として働いてくれるような気がしたからです。

酸性の中和には、生石灰ではなく、もみ殻燻炭を使いました。
この間せっせと作った燻炭が肥料袋で10袋近くあったのです。
燻炭というよりは灰に近いものもありましたが。

燻炭と、もみ殻と、堆肥を撒きます。

耕運機を大家さん宅から借ります。
大家さんは不在なので特に断りもなく、納屋から耕運機を出して使います。

いつもガソリンを満タンにしてくれています。
納屋から畑まで、15分くらいかけて自走します。

耕運機を縦横にかけ、畑の冬じまいが終了です。

天気はよく畑日和。
風がないとポカポカ陽気なのですが、風が冷たくヤッケが手放せませんでした。
畑よ、大家さんよ、来年もよろしくお願いします。