1983年のシネマテーク

ここに1983年の1月第2週?のシネマテークフランセーズのプログラムがある。
プログラムといってもA4サイズほどの色紙で、上映日時と上映作品の題名、国籍、作製年、監督、出演者程度の情報しか載っていない。

「シネマテーク」という言葉、は現在の日本ではほぼ一般名詞化しているが、もともとは、パリにあるある映画の収集・保存機関の名称。
パリ市内のシャイヨー宮の地下、とポンピドー文化センターの上層階、にそれぞれ上映施設を持ち、様々なプログラムを組んで毎日3本程度を上映する。

1983年当時26歳の山小舎おじさんは、偶然にもパリにたどり着き、根っからの映画好きに火がついて、市内の映画館やシネマテークで観まくったのでした。

山田宏一という映画評論家が、パリに着くとまずは「パリスコープ」を買って上映情報を収集する・・・という話を覚えていた。
実際に「パリスコープ」という情報誌は街角のキオスクで売られており、それを買った。

「パリスコープ」の上映情報は、映画の題名が原語表記されており、わかりやすかった。
当時、もぐりで(正式な労働許可証を持たずに)バイトをしていおじさんは、休みの日に映画館を駆け回り、毎回3~4本を観た。

常時、ハワード・ホークスやヒッチコック、ジョン・ヒューストン、ルイス・ブニュエルなど世界的監督の作品が、街角の名画座で、単品や特集で上映されているパリは、映画ファンにとっては夢のような環境だった。

さらに感心したのが、上映されるフィルムが、傷や欠損のないプリントばかりだったこと。
場末の名画座ではボロボロのプリントがかけられ、外国映画の場合、契約期限が来ると観られなくなる日本とはなんと異なることか、と思ったものだった。

名画座では、「三つ数えろ」(1946年 ハワード・ホークス監督)、「脱出」(1944年 同)、「キーラーゴ」(1948年 ジョン・ヒューストン監督)などを夢中になって追いかけた。

ブニュエル特集でメキシコ時代の諸作品に接した。

テレビでは観ていたヒッチコックの「サイコ」(1960年)、「鳥」(1963年)に改めて感心した。

「アスファルトジャングル」(1950年 ヒューストン監督)、「ハスラー」(1961年 ロバート・ロッセン監督)では明るいだけではないアメリカを知ることができた。

70年代の傑作「ハロルドとモード」(1971年 ハル・アシュビー監督)、「ロンググッドバイ」(1973年 ロバート・アルトマン監督)を観たのも収穫だった。

パリの住所は〇〇通りの何番地、という表示なので、付近の地下鉄駅から街角の住宅案内図をたどってゆけば、目指す映画館にたどり着けた。

フランスでは原語で上映されるので、アメリカ映画はまだしも(といっても英語をよく理解していたわけではないが)、フランスやイタリアなどの映画はちんぷんかんぷん。
アメリカ映画でもセリフで展開するスクリューボールコメディのようなものは理解不能。
細かな内容はあきらめ、映像と雰囲気を追っていた。

封切館は、案内のおばさんにチップを渡さなければならず、敷居が高かった。
それでも、フランシス・コッポラ監督の新作「ワンフロムザハート」やジャック・ドミー監督、ドミニク・サンダ主演の新作「都会の一部屋」は、封切館で観た。

名画座で古今の名作を追いかけつつ、シネマテークにも通った。
シャイヨー宮、ポンピドーセンターともに、会場は毎回ほぼ満員、の印象だった。

どちらも大スクリーンを持つ大人数収容の映画館だった。
建物や調度に古さを感じるシャイヨー宮地下のシネマテーク館内に入ると、「ここの最前列でフランソワ・トリュフォーが観ていたのか」と感慨も新ただった。

シネマテークでは「美女と野獣」(1946年 ジャン・コクトー監督)、「メイドインUSA」(1966年 ジャン₌リュック・ゴダール監督)、「ミュリエル」(1963年 アラン・レネ監督)、などを観た。

ミケランジェロ・アントニオーニ監督の7年ぶりの新作(「ある女の存在証明」)の試写会?がシネマテークで行われる、と聞いて駆け付けたところ、時間前にシャイヨー宮の外まで人があふれていたこともあった。

名作のみならず、バングラデシュやフィリピン映画の特集などもやっていた。
アジアなど第三世界の映画ブームが来る前のことだ。

シネマテーク、手元のプログラムに戻ってみる。
表面?がシャイヨー宮会場の上映予定、裏面?がポンピドーセンター、となっている。

「日本映画における家族」という特集で、「あにとそのいもうと」(1939年 島津保次郎監督)、「一人息子」(1936年 小津安二郎監督)、「西陣の姉妹」(1952年 吉村公三郎監督)、「異母兄弟」(1957年 家城巳代治監督)、などが上映されている。
日本国内でもそうそう行われない、魅力的なラインナップだ。

1982年に亡くなったイブ・シャンピ監督の特集もあり、岸恵子が出た日仏合作の「忘れえぬ慕情」(1957年)が上映されている。

ほかにもフレッド・ジンネマン、ヘンリー・キング、衣笠貞之助などの監督作品が特集上映されており、その古今東西に及ぶ守備範囲に驚くばかりである。

その技術的な発生はもとよりとしても、文化的な成熟度においても、こと映画に関してはフランスに一日の長あり、と思わざるを得ない。
26歳当時の山小舎おじさんはパリで映画の渦に溺れておりました。

投稿者: 定年おじさん

1956年北海道生まれ。2017年に会社を退職。縁あって、長野の山小屋で単身暮らしを開始。畑作り、薪割り、保存食づくり、山小屋のメンテナンスが日課。田舎暮らしの中で、60歳代の生きがい、生計、家族関係などの問題について考える。60歳代になって人生に新しい地平は広がるのか?ご同輩世代、若い世代の参加(ご意見、ご考察のコメント)を待つ。

「1983年のシネマテーク」への2件のフィードバック

  1. お久しぶりです。
    山小屋おじさんはシネマテークに行っていたのですね。
    映画ファンにとっては聖地です。
    今日の朝、たまたまAmazonプライムで『ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールとトリュフォー』というドキュメンタリー映画を見ました。その中で、68年5月革命に先立つ2月に文化相マルローがシネマテークの運営経営方法を批判してアンリ・ラングロワを更迭し、彼らが立ち上がって撤回させる場面が出てきました。二人はシネマテークで映画人になりました。そのあと、二人はカンヌ映画祭を粉砕しますが、その後二人は袂を分かちます。ジャン=ピエール・レオが二人の板挟みになる話なども出てきて面白かったです。機会があったら見てください。
    それにしても、シネマテークで映画を見たとは羨ましい。

    1. お久しぶりです。今年も本ブログをあけていただき、ありがとうございます。
      本年も皆様により良い年でありますようお祈りいたします。
      健康に気を付けてお互い頑張りましょう。

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