天橋立を見て、東舞鶴駅に着いた山小舎おじさん。
まだ13時30分、さてどうしましょう。
駅を見渡すと、引揚記念館紹介の簡単なデイスプレーが展示されています。
記念館方面のバス乗り場方面を示す矢印もあります。
「そうだ、舞鶴は戦後大陸からの引揚者が日本に上陸した港だったんだ」「岸壁の母の舞台だったんだ」。
引揚記念館というのがあるのだったら、めったにないチャンス、寄ってみよう。

駅前のバス乗り場で、時刻表を見てみますが、記念館方面のバスの便は1時間に1本もありません。
目の前には人気のないアーケード街が続くばかりです。
「よし、今日は夕方までに敦賀に着けばいい。ええい、タクシーを使ってでも引揚記念館へ行こう」。

駅から乗ったタクシーは、同年配の運転手さん。
道々案内をしてくれながら引揚記念館へ連れて行ってくれます。
人気のないアーケード街は舞鶴の中心街とのこと、通りには海軍の戦艦(日清戦争時代からの)がつけられていること、明治時代に海軍の鎮守府ができて以来、海軍工廠などもでき海軍の町だったこと、今の自衛隊はあまり町へ出て飲んだりしないこと、戦後の引揚時代にはそのまま舞鶴に定住した人も多かったこと、現在では引揚体験者はほとんど存命していないこと、などなど、地元ならではの生きた情報もありました。
記念館に程近い場所に、復元された引揚船の桟橋があるからとのことで寄り道。
これが大陸から引き揚げた人々が第一歩をしるした場所なのか。
思ったより小規模で貧相な桟橋がそこにありました。
湾内は水深が浅く、大型船は接岸できないため、はしけに乗り換えてここに上陸したとのことでした。


記念館までは思ったより遠く、桟橋経由だったこともあり運賃は4000円かかりました。
これはしっかり見学しなくてはいけません。
数名のグループ客が出てゆき、ほとんど見学者のいなくなった記念館をたっぷり時間をかけてみてゆきます。
舞鶴の軍港としての歴史、戦争へ至る経緯の展示から始まり、シベリア抑留の歴史などがラーゲリ小屋の実物大模型などで展示されています。
舞鶴への引揚は、シベリア方面、中国大陸方面からが圧倒的に多かったことがわかります。
引揚が長引いたのもシベリア抑留が長引いたからでした。


山小舎おじさんが最も関心があったのが、民間人の引揚の実態と、地元舞鶴の対応でした。
残っている資料も少ない中、引揚者を迎えるニュース映画や、当時の舞鶴市長の呼び掛け文、引揚証明書、引揚者の一時収容施設の模型などが関心を引きました。


引揚と言えば舞鶴というのが今の印象ですが、その理由はシベリアらの引揚が長引いて昭和33年まで続いたこと、舞鶴市をあげてのホスピタリテイーあふれる応対ぶりにあったようです。

広島の原爆資料館のような、あるいは靖国神社の遊就館のような劇的な展示ではありませんが、戦争を記録し、その当時の日本人のふるまいを記録する意味ではまさに「ユネスコ世界遺産」にふさわしいい場所だと思いました。
駅から遠いのが玉にきずで、帰りは17時までバスがなく、タクシーを呼ぶことになりました。
帰りの運賃はなぜか2600円ほどでした。

東舞鶴駅に戻って敦賀まで小浜線に乗ります。
ICカードは使えないのでキップを買います。
乗車中に敦賀のホテルでも予約しましょう。
ということで車中でスマホをいじりますが、予約確定までなかなかたどりつけません。
ホテル代がかつての一泊4~5000円の時代から、6~8000円の時代になっていることもあり、選択に手間取ったのが一つ。
そして現在のネット予約が料金前払いになっているのはしょうがないとして、カード情報の入力の際、本人確認として暗証番号の入力画面が現れたことが2回あったのです。
これはさすがにおかしいと山小舎おじさんも気が付き、予約作業をストップしましたが、先方指定の暗証番号の返信画面がフリーズしたり、とにかく1時間かけても予約が1件もできません。

車窓は若狭湾の三方五胡、小浜と過ぎてゆきますが景色を見る暇もありません。
とうとうネットでの予約をあきらめ、敦賀駅に着いてから宿泊場所を探すことにしました。
幸い敦賀駅の観光案内所は18時まで空いているようでした(この情報はネットで確認できました!)。


薄暮の中、北陸新幹線駅となった敦賀駅に到着。
さっそく観光案内所へ。
2人ほど案内のお姉さんがネット情報通りに勤務しています。
市内のホテル一覧の紙をもらいました。
雪が積もる中、駅から1分ほどのビジネスホテルに向かいました。
6500円で広々とした部屋が取れました。
吹雪の敦賀の夜を地元の美味とともに市内の居酒屋で過ごし、気比神社から漁港へ歩いた翌日の顛末は次回!