中山道シリーズ第四弾 和田宿と和田峠

農繁期も終わった10月のある日、かねてから歩いてみたかった和田峠へ行ってみました。

念願の和田峠へ行く

和田峠は中山道随一の標高を誇る峠です。
和田宿と下諏訪宿の間に位置します。
両宿場の間の距離が約21km。
その距離と標高の高さ、道の険しさなどで、和田峠は街道随一の難所と呼ばれていました。

今回、山小舎おじさんは、峠の下まで軽トラで行き、車を置いて、峠を往復するスケジュールを立てました。
手軽なハイキングコースです。

軽トラを置く場所は、東餅屋という、峠下の場所です。
中山道時代には2、3軒の茶屋が建ち、名物の力餅を出していたといいます。
近年はドライブインが建っていましたが、かなり前に廃業しています。

山小舎を軽トラで出発し、国道142号線(現在の中山道)が旧道と分岐する地点まで行きます。

国道142号線(新道)沿いの曲がり角に立つ標識
国道142号線(旧道)に入ったところ

旧道へ入り登ってゆきます。
旧道なので普段は交通量もほとんどありませんが、交互通行とはいえ無料のトンネルが峠を抜けて諏訪と結んでおり、新道の有料トンネルを避けるトラックや山道マニアの自家用車などが三々五々通行する道です。

接待小屋という場所を過ぎます。
中山道を人々が歩いた時代に、冬の間だけ、粥と暖と馬餌を旅人に施した場所だそうです。
ここまで、麓からはそこそこの距離ですが、東餅屋や峠まではまだまだあります。
歩くとすると1日がかりのコースでしょう。

きれいに再建、整備された接待小屋
接待小屋の内部。囲炉裏とかまどが再現されている

東餅屋に着き、軽トラを置いて出発します。

荒れ果てた東餅屋ドライブイン跡

交差する車道を渡り、標識に沿って旧中山道を登ってゆきます。

歴史の道・中山道を行く

広々とした緑道が続きます。
地元の長和町によって、歩道はしっかり保全されています。
案内板も完璧です。

ビーナスラインを渡る時がちょっと注意です。
バイクやスポーツカーが集団で駆けてゆきます。
3回ほども車道を渡ります。

途中何度か車道(ビーナスライン)を横断する

途中一組のハイカーに会いました。
霧ケ峰方面の峠から、和田峠まで尾根歩きをしてきたとのこと。
車を置いた場所まで帰る道を心配していました。

和田峠が見えてきたあたり

和田峠に到着です。
上りは少々くたびれましたがいい運動です。
峠からは諏訪地方が遠望されます。
峠は、現在でも、長和町と下諏訪町の境でもあります。

峠から諏訪方面を望む
峠に立つ地蔵さんと賽の河原

難所といわれる諏訪への下り坂を少し歩いてみました。
これまでの上り道と違い、つづら折りの狭い道が続いていました。

この道を参勤交代や、皇女和宮降嫁の一行が通ったのは大変なことだったと思いました。

諏訪方面に下る道。狭く荒れている

現在の和田宿を歩く

板橋宿から第28次、和田宿が峠のふもとにあります。
旧道沿いにはかつての景観が保存されています。

もともとは和田村だったこの場所は、現在では旧長門町と合併して長和町の和田地区となりました。

峠方面から和田宿へと至る道

宿場の中心だった本陣も復興されています。
金沢から参勤交代の殿様や、皇女和宮もここに泊ったのでしょう。

本陣の門
街道筋の古民家。こういった建物が並んでいる

旧街道を忍ばせる景観もさることながら、地域に残る昭和の風景にも心惹かれるものがあります。

集落の魚屋さん。昭和の時代の風景はなじみ深い
看板には富士学生服とある、集落の洋品屋さんだ

つい2,3年前に廃校になった和田中学の木造校舎です。
中学は統合されて長和町にただ1校となりました。
小学校は町に2校で、和田地区にも1校残っています。

広々とした校庭の向こうに木造校舎

山小舎のリフォームなどをお願いしている、60代の大工さんが和田地区在住です。
和田中学のOBだそうで、当時は中学も生徒がたくさんおり、また上田へ行くバスが通勤通学で満員だったと話していました。

帰りに国道沿いの、和田ステーションによって、長門牧場のソフトクリームを食べて帰りました。

長和町の基幹産業・長門牧場謹製のソフトクリーム

投稿者: 定年おじさん

1956年北海道生まれ。2017年に会社を退職。縁あって、長野の山小屋で単身暮らしを開始。畑作り、薪割り、保存食づくり、山小屋のメンテナンスが日課。田舎暮らしの中で、60歳代の生きがい、生計、家族関係などの問題について考える。60歳代になって人生に新しい地平は広がるのか?ご同輩世代、若い世代の参加(ご意見、ご考察のコメント)を待つ。

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