この8月、渋谷シネマヴェーラで「スペイン、メキシコ時代のブニュエル」という特集があり、スペイン時代の初期作から、メキシコに撃つっての50年代初期作品までが上映された。
貴重なメキシコ時代のブニュエル作品について述べる。
参考文献はキネマ旬報刊「世界の映画作家7 ショトイット・ライ ルイス・ブニュエル」とフィルムアート社刊「インタビュー ルイス・ブニュエル公開禁止令」。
「愛なき女」 1952年 ルイス・ブニュエル監督 メキシコ
メキシコに移ってブニュエル6本目の作品。
メキシコ時代から劇映画の演出を始めたブニュエルは、ここまでミュージカル風だったり、エスプリの効いた喜劇風だったり、悪女ものだったり、ドキュメンタルな社会派風だったり、と多岐にわたった作品を撮っている。
この作品(今回見たプリント)の開巻ではコロンビア映画のマークが映し出される。
ハリウッドメジャーのコロンビアが配給していることになる。
おそらくメキシコで製作後に、コロンビアが配給権を買い取り、アメリカ国内で配給したものと思われる。
マイナーな映画館での番組穴埋め的な公開だったと想像するが、ハリウッドメジャーが買い上げるほどの商業映画をこの時期すでにブニュエルは撮っていたということになる。
キネマ旬報刊「世界の映画作家7」のブニュエル自作を語るでは「完全な注文仕事である」と一言のみ。
フィルムアート社刊のインタビュー集「ルイス・ブニュエル公開禁止令」でも1ページに満たない内容で、インタビュアーが「どこをとっても及第点の見当たらない唯一の映画だと思う」と切り出し、ブニュエルも「私にも見当たらないよ」と応じている。
モーパッサンの「ピエールとジャン」の翻訳で、すでにアンドレ・カイヤットが映画化していた。
「公開禁止令」によると、20日間の撮影期間中、ブニュエルはカイヤット作品のシーンをなぞって撮影したという。
実家が貧しく、愛無き結婚をした女性(ロザリオ・グラナドス)が、若い時に林業技師と恋に落ち次男を設ける。
長男のために林業技師との駆け落ちを断念。
息子二人は医師に育つ。
息子たちの容貌、性格は異なり、厳格な父親との関係、昔の不倫を知った母親との関係に苦しむ。
最後はハピーエンド。
子供にとって理想的な母親像を演じるロザリオ・グラナドスの落ち着いた美貌が見られる。
また、戦後すぐとはいえ、恵まれたメキシコの上流階級の暮らしぶりを見られるのも貴重。
アラン・ドロンの出来損ないのような風貌の次男役の俳優、長男から次男に乗り換える女医役の女優のコケテイッシュ、長男とできている崩れた感じの看護婦役女優など、当時のメキシコの映画俳優の珍しい姿を見られるのも貴重。
まるでハリウッドの二流メロドラマのような映画だが、どこか漂うノワールなムードはブニュエルならでは。
「乱暴者」 1952年 ルイス・ブニュエル監督 メキシコ
この作品もコロンビア映画が配給。
主演のペソロ・アルメンダリスはジョン・フォード作品にも出ている国際派。
「世界の映画作家7」によると「出来上がった作品は卑俗の極致」とブニュエルは極言。
「公開禁止令」でのインタビューは10ページに及び、ブニュエルは語る。
主人公は悪人ではないが一匹の野獣であり社会的常識を身に着けていなく、その暴力の振り方が好きではないこと。
主人公が近づき、結婚まで意識する娘(ロシータ・アレナス)の善良な甘美さと無垢さに魅了されたこと。
ラストシーンで主人公らが死に、情婦(カテイ・フラード)がその場を去る時に鶏が出現し情婦と見つめ合うが、鶏は私(ブニュエル)の持っている多くの幻想を形成するものであり、悪夢そのものである、こと。
ブルートとあだ名される主人公(アルメンダリス)は強欲なボスに服従している。
ボスは所有するアパートの住民を立ち退かせようと主人公を屠殺場から手許に呼び寄せ住民のリーダーを襲わせる。リーダーは死ぬ。
下手人として住民らに追われた主人公は逃げ込んだ部屋で無垢な娘メチエに助けられる。
主人公はボスの妻パロマとも出来ており、パロマからボスを殺すよう迫られる。
主人公は一緒に住み始めたメチエを選び、ためにパロマから密告され殺される。
ストーリーは上記のように清と濁、富と貧困、正義と悪が混然となったカオスの世界を描く。
メキシコらしく、またブニュエルらしい世界である。
どちらかの価値観に誘導しようとしないところもいい。
ブニュエル自身の好き嫌いは画面に濃厚に出ているが。
開巻の屠殺場のシーンから強烈なブニュエルの世界が始まり、貧困を抉るような住民立ち退きを迫る富者の横暴な描写、凶暴な主人公と私欲丸出しの妖女の肉欲へと映画は展開してゆく。
主人公との初夜のシーンでストッキングを脱ぎベッドにもぐりこむメチエ役のロシータ・アレナス。
その若く無垢で善良な姿は「忘れられた人々」で盲目の乞食に牛乳で足を洗われる少女以来のブニュエル好みのキャラクターか。
ストッキングの場面については「ビリデイアナ」のシルビア・ピナルに、そして「小間使いの日記」のジャンヌ・モローへと受け継がれるブニュエルこだわりの場面の、これが出発点か。
淫乱とむさぼりの極致、パロマ役のカテイ・プラード。
女性の持つ二面性の一面だけを強調したキャラを存分に演じるプラードの、その「濃さ」も見どころ。
ラストでパルマと向き合う鶏も「忘れられた人々」以来の重要なブニュエル組の一員(一羽)。
「エル」 1952年 ルイス・ブニュエル監督 メキシコ
インタビュー集「公開禁止令」でブニュエルは語る。
「主人公には何か私の分身がいる」と。
それは主人公の性格(他人から賛美されたい願望だったり、嫉妬深さ、他人から追求されると逆上したりする)に表されている。
主人公はまた大衆を見下し、彼らを抑圧したいとの願望も持ち、ブニュエルもそれに組する。
片や主人公は祖父の代からの富豪であり、慎み深く理性的な人間として社会から信用を得ている。
その本性が出現するのは特定の他者(この作品では妻)に対するときだけなのだ。
こういった性格はパラノイア(あるいはサイコパス?)と呼ばれるものだろう。
事実この作品はある精神病院で典型的なパラノイア症状の理解のために定期的に上映されていたとのことである。
ただしこの作品の目的は、パラノイア症状の描写ではなく、主人公の願望の発露にある。
つまり、主人公にとってはパラノイアと分類される諸願望を発揮することが自己解放であり、それが己の偽らざる願望であるのだ。
自己を偽らず、ついには社会的(宗教的)信用を失う事態になってもなお、自己を貫く人間を描くことにあるのだ。
こう書くと立派な人間のように聞こえるが、主人公の願望とは、嫉妬だったり、他社からの賛美だったり、大衆の抑圧だったり、サデイズムだったりするから全く立派ではなく、限りなく卑近でひょっとしたら万人の心の奥底に潜む恥ずべきものだったりするところがブニュエル流といえる。
主人公フランシスコがのちの妻グロリア(デリア・ガルセス)をその足の美しさから教会で見染め、略奪婚。
新婚旅行の日からパラノイアぶりを発揮し新妻を苦しめる。
教会の尖塔から落とそうとしたり、心が離れた妻の寝室にロープと針と糸をもって侵入するなどの行動をとった挙句、追いつめられたフランシスコは教会で神父に対し乱暴を働き、社会的に抹殺される。
精神病院を経て修道院で暮らすフランシスコだが、自分はずっと正気であったとつぶやく。
嫉妬に取り乱すフランシスコがテーブルの下でグロリアの脚を見た瞬間に発情する場面。
ロープなどの小道具をもってグロリアの寝室に侵入する場面。
ブニュエルの本領発揮だがユーモラスというよりは、ひたすら暗い。
妻がパラノイアの相手に不条理に追い詰められるシチュエーションや、教会の尖塔から突き落とされんばかりの場面は、ヒッチコック映画のようだった。
ブニュエルは、自己に忠実なあまり滑稽としか見えない行動をユーモラスに描いたわけでも、ましてやスリラーを描いたのではない。
自己の内部に潜むパラノイア性とそれに忠実に自己を解放しようとする人間を割と真面目に描いたのであろう。
ヒロインのデリア・ガルセスは気品ある聖女的なキャラで、パラノイアである主人公の願望を受け止める。
全く受け身的なポジション。
ブニュエル映画のヒロインが、聖女的な外面と妖艶な内面を併せて発露するようになるのは、「ビリデイアナ」のシルビア・ピナル、「小間使いの日記」のジャンヌ・モロー、そして「昼顔」「哀しみのトリスターナ」の真打カトリーヌ・ドヌーブの登場を待たなければならない。