DVD名画劇場 監督フランク・キャプラ

フランク・キャプラは貧しいシチリア移民の家から身を起こし、ハリウッドで映画監督になった。

1920~30年代のハリウッドで育ったバッド・シュルバーグの自伝「ハリウッドメモワール」では、風紀乱れるハリウッド(プロデユーサーであるその夫も女優の家に入り浸っている)に住人である著者の母が、「あの人たちのように暮らしなさい」と息子である著者に言ったのがフランク・キャプラの一家だったという。

本ブログでも、キャプラ作品の「オペラハット」(1936年)、「我が家の楽園」(1938年)、「スミス都へ行く」(1939年)を紹介した。
どの作品も、善良で素朴な若者が、己の良心に従って身近な悪と戦うというもので、庶民の人間性と素朴な正義が、謳われていた。

キャプラ作品はDVDでも多数ラインアップされており、自然と手許に集まってきた。
代表作を含む全盛期の4作品を見た。

「或る夜の出来事」 1934年 フランク・キャプラ監督 コロムビア

キャプラの出世作。
MGMからクラーク・ゲーブルを、パラマウントからクローデット・コルベールを借り受けた弱小スタジオ・コロムビアがメジャー化していったきっかけとなった作品。

髭ははやしていたが(1931年の「残劇の砂漠」では髭がない悪役を演じていた)、まだ若くアクションもどきの素早い動きを見せるゲーブル。
勝気な金持ち娘を演じ、ツンデレぶりも可愛いコルベール。
旬のスター二人が力いっぱいの演技で繰り広げる、ロードムービーにしてロマンチックコメデイ。

映画の観客が求めるものを的確で無駄なく提供したキャプラの監督ぶりは、封切りから90年近く後のDVD視聴者(山小舎おじさん)をも陶酔させる。

ゲーブルとコルベール

当時のアメリカの風景。
長距離夜行路線を走るボンネットバスでは車内販売もしていた。
休憩時間に泊まるドライブインではハンバーガーが売られ、興が乗ると車内で生バンド演奏が繰り広げられ乗客が合唱する。

これらの光景は決してキャプラの楽天的な妄想だけではないのだろう、当時のアメリカの風俗だったのだろう。
なんと牧歌的だったことよ。
場面転換に音楽(画面にバンドが現れる)を使うのがキャプラ流演出の定番だったとしても。

ヒッチハイクのシーン

ラストシーン、結婚式の宣誓で、新郎が誓った後で、新婦のコルベールが逃げ出し、ゲーブルのもとに向かう。

最終のタイミングで、花嫁一人での決断!

花嫁キャサリン・ロスがダスティン・ホフマンに連れ去られる「卒業」(1967年 マイク・ニコルズ監督)より過激で自立した女性像ではないか!

クローデット・コルベール

キャプラ作品では孤軍奮闘する若者に、年長の理解者が現れるのも定番。
この作品ではゲーブルが所属していた新聞社のデスクがそれであり、コルベールの金持ちだが娘の気持ちに理解ある父親がそれだった。

「群衆」 1941年 フランク・キャプラ監督  ワーナーブラザーズ

キャプラが古巣コロムビアを離れての最初の作品で、「オペラハット」「スミス都へ行く」の路線をさらに突き詰めた内容となっている。

すなわち、善良で素朴な主人公(ゲーリー・クーパー)はホームレス上がりの設定とされ、対する社会悪は単に金持ちというだけでなく、マスコミを操作し、民衆を政治的権力のために利用しようとする勢力として描かれる。
このあたり、現代でも基本的には共通する「個人対権力」の構図そのままである。

まだ若いクーパーが素朴さ丸出しで、オドオドし、野球の投球フォームをするときだけ生き生きとするのに対し、権力者(キャプラ作品の常連黒幕役:エドワード・アーノルド)は、政治的野心のために他人を利用し、捨て去る冷酷なキャラとして描かれる。
私利私欲のため、というよりは何かに突き動かされるように動く権力者が不気味である。

権力者の群衆操作により、主人公が偶像から何もない一般人となる瞬間のシーンが素晴らしい。

集会に集まった群衆が、権力者のキャンペーンと扇動により、離反してゆき、主人公がマイクの前でたった一人で残される。
雨の中の群衆シーンに緊張感がみなぎる。

主人公のホームレス仲間で、最後までその姿勢を崩さないウルター・ブレナンが、キャプラ作品に共通する、「孤立する主人公の数少ない味方」のこの作品でのキャラ。

もう一人の味方で、かつてはジーン・アーサーがよくやったヒロイン役にバーバラ・スタンウイック。
芸達者なスタンウイックは、悪女役もこなすがこの作品ではその片鱗も見せずに主人公をバックアップする役を溌溂と演じて好感度アップ。

ゲーリー・クーパーは、素朴な田舎者を演じたこのころが一番良かったのではないか。

「毒薬と老嬢」 1944年 フランク・キャプラ監督  ワーナーブラザース

それまでのキャプラタッチを離れ、ひたすらブラックなスクリューボールコメデイに徹した作品。

二人の老嬢が住む都会の片隅の高級住宅地。
周りの住人だったり、巡回する馴染みの巡査だったりは、一見善意の人々だが、話が進むにつれてちょっと変わった人々に見えてくる。

普通の人々が、特殊な環境下で右往左往するコメデイではなく、主人公(ケーリー・グラント)と隣人の牧師の娘(プリシラ・レーン)以外はちょっとずれた人が、ずれた行いを行うことで生ずるブラックなコメデイ。

「フィラデルフィア物語」(1940年 ジョージ・キューカー監督)では貫禄が出かかったケーリー・グラントが、「赤ちゃん教育」(1938年 ハワード・ホークス監督)のころに戻って、しゃべりまくり、リアクションする。
役者に歳は関係ないということなのだろう。

グラントの義理の兄が整形して登場し、整形医師としてピーター・ローレが出てくる。
この二人の犯人キャラを巡るサスペンスシーンはキャプラ作品らしくなくイマイチ。
また、整形後の義兄に対し「ボリス・カーロフ(に似ている)」のセリフが頻発される。
アメリカのコメデイにつきものの楽屋落ちだが、どうもキャプラ作品には似つかわしくない。

キャプラ作品らしい正義感に満ちた結末や、ニューデール的な価値観と共通するアメリカンヒューマニズムは見られ無いところが山小舎おじさん的には不完全燃焼。

「素晴らしき哉、人生!」 1946年 フランク・キャプラ監督 リバテイプロ(RKO)

独立したキャプラが、ジョージ・ステイーブンス、ウイリアム・ワイラーとともに興した独立プロの作品で、RKO配給。
キャプラがプロデユースもしている。

これまでのキャプラ作品の集大成にして、その特質を存分に発揮し、やりたかったことをやり切った作品。

この作品は、ドナ・リード(左)の存在が忘れられない

素朴で正直な田舎者の主人公、それを見守るしっかり者のパートナー、利益のことしか頭にない悪役、主人公を助ける思わぬ支援者、とキャプラ映画の主要キャラクターがわかりやすく全員登場。
脇を彩る楽団だったり、子供もシッカリ出てくる。
起承転結がしっかりしており、転が結末間近に訪れる構造も。

主人公(ジェームス・スチュアート)は田舎町に生まれ、大学に行きたかったり旅行が趣味だったりするが、弟のために譲り、家業の住宅金融の跡を継ぐ。
幼馴染(ドナ・リード)とも相思相愛ながらスマートに求愛できない(のちに結婚)。
主人公はその行いから、町のタクシードライバーや警官、バーのマスターまでに信用と人気がある。

この主人公が町のボス(ライオネル・バリモワが珍しく悪役)の妨害、懐柔と戦いながら、町の住民のために庶民向けの住宅金融を行ってゆく。
恐慌も、妻や社員、住民の協力で乗り越える。

あるクリスマスイブの日に、住宅金融の社員が8000ドルを紛失したことから、主人公が苦境に陥り、生命保険を最後の手段に自殺まで考える。
そこに現れるのが主人公の守護天使。

天使はやけになった主人公に、彼がいない場合の町の様子を見せる。
まるでパラレルワールドのようなその世界は、町のボスに支配された殺伐とした世界。
妻は独身で眼鏡をかけた司書をしていて、迫る主人公から悲鳴を上げて逃げる。
実母は険しい顔をした下宿のおばあさんで、冷たく主人公を拒否する。

天使に頼み込み、8000ドルの責任を負ってもいいからと元の世界へ戻してもらう主人公。
そこには愛する妻と子供たち、信頼のおける友人たちがいた。
涙なくしては見れない山小舎おじさん。

キャプラ作品の理想像、理解ある家族と友人に囲まれた幸せな主人公を象徴するシーン

ヘタな理屈を考えず、自分が愛するキャラクターを全員集合させたキャプラの姿勢が好ましい。
リアルさよりも好みを優先する巨匠の作風に、小津安二郎の「秋刀魚の味」を思い出してしまった。

キャプラ作品につきものの主人公の支援者に「天使」を持ってきた。
人知の及ばぬ世界を否定せず、そういうこともある、というキャプラの姿勢であろう。

おそらくジェームス・スチュアートの、そしてドナ・リードのキャリア最良の演技のうちの一つであろう。

派手で男好きな幼馴染役を演じたグロリア・グレアム(のちのニコラス・レイ監督夫人)のデビュー作でもあった。

投稿者: 定年おじさん

1956年北海道生まれ。2017年に会社を退職。縁あって、長野の山小屋で単身暮らしを開始。畑作り、薪割り、保存食づくり、山小屋のメンテナンスが日課。田舎暮らしの中で、60歳代の生きがい、生計、家族関係などの問題について考える。60歳代になって人生に新しい地平は広がるのか?ご同輩世代、若い世代の参加(ご意見、ご考察のコメント)を待つ。

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