DVD名画劇場 ハリウッドが描く日本人の戦争「太陽の帝国」

文春新書「スクリーンの中の戦争」

坂本多加雄という著者が描いた文春新書を読んだ。
目次にある通り、日本およびアジアに関係する戦争を描いた、外国映画、日本映画について述べた内容。

著者は「新しい歴史教科書をつくる会」理事を務めた政治思想家。
本書の背景には、欧米の一方的な勝者目線の歴史観とアジア蔑視の歴史観を排し、日本は正当な歴史観に基づくふるまいをせよ、との著者の思いがある。
この新書には、その観点から見た、「トラトラトラ」(1970年 リチャード・フライシャー他監督)と「パールハーバー」(2001年 マイケル・ベイ監督)の違いなどが分かりやすく述べられている。

本書第二章は「ハリウッドが描く日本人の戦争」と題して、「太陽の帝国」について詳しく述べられている。
これを読んで、当該作品に興味を持った山小舎おじさんは、DVDを探し興味津々で見てみた。

そこには日本映画が負の歴史として描くことを避けてきた大局的観点からの日中戦争を巡る4か国(英、日、中、米)の実像が描かれていた。

植民地中国からみじめに撤退していった大英帝国と、宗主国がいなくなってますます混乱する眠れる獅子中国と、颯爽と登場して中國大陸の覇者となりながら幻と消える日本と、戦後世界の覇者として現れる物質世界の王者アメリカとが、ある時は主人公の少年の目を通して幻想的に、ある時は冷酷なほど客観的に描かれていた。

「太陽の帝国」 1987年 スチーブン・スピルバーグ監督 ワーナーブラザース

旭日旗がアップでとらえられるファーストシーン。
この作品では日の丸と太陽がことあるごとにアップでとらえられる。

大空に銀翼を連ねて飛ぶ飛行機は日の丸をつけた日本機ばかり。
主人公の少年が遊ぶ、ゴム動力の模型飛行機の翼には日の丸。
収容所生活中、彼が肌身離さず持って歩いた模型飛行機も、日の丸が付いた日本の戦闘機だった。

植民地支配の終焉におののきを隠せない少年の親たちをよそに、少年のあこがれは日本のゼロ戦であり、また、日本軍の武器の性能と規律正しさを評価する彼は、日本空軍のパイロットになることを夢見る。

開戦前夜の上海からイギリス人が脱出を図る。
脱出前日まで、大邸宅で仮装パーテイーにうつつを抜かすイギリス人たち。
映画は宗主国イギリスが植民地中国で100年間「何もしてこなかった」空虚さを描く。

脱出するイギリス人の高級車を取り囲む中国人たちの描写にも救いがない。
右往左往する群集は宗主国を失って、その遺産を略奪する以外になすべきこともないようでさえある。

整然と進軍してくる日本軍に立ちはだかって主人公は言う。
「アイ サレンダー」(降伏します)と。
主人公の少年にとって日本軍がその時代の覇者となることは憧れであり、自明の理であった。

日本の敵性国民として、英米人の収容所生活が始まる。

主人公が収容所の作業から離れ、隣り合わせの飛行場のゼロ戦に近寄る。
溶接バーナーの火花に彩られ浮かび上がる戦闘機。
憧れの機体をなでる少年。
日本軍パイロットが談笑しながら近づく。
思わず敬礼する少年。
敬礼を返すパイロットの姿がバックライトで浮かび上がる。
この場面をスピルバーグは感動的に演出する。

終戦間際。
飛行場から特攻隊が出撃する。
水杯を交わし「海ゆかば」を歌う特攻隊員。
主人公の少年はこれを見て敬礼しつつ、賛美歌を歌う。

ハリウッド映画で(外国映画で)こんなに日本軍を(日本を)、好意的に描いたことがあったろうか。

特攻機が飛び立った直後、アメリカ空軍のP51が現れ飛行場を襲う。
圧倒的戦闘能力で日本軍をせん滅する。
「空のキャデラックだ!」と熱狂する主人公。
アメリカ風のマーチが鳴り響くかのような場面の造りだ。

主人公とて盲目的な日本軍信者ではない。
強いものに憧れる少年らしい少年なのだ。

収容所生活も末期となり、徒歩で蘇州へ移動する英米人たち。
主人公と同部屋だったイギリス人夫人が死んでゆく。
背景に白っぽい鮮烈な太陽が昇ってゆく。
日本に原爆が落とされ、降伏したとのニュース音声がかぶさる。

少年は白っぽい太陽を目にして「夫人の魂が昇天してゆく」と思う。
白っぽい太陽は、日本帝国が主人公の憧れからも、世界の覇者からも永遠に没落したことの表現だった。

映画は、列強白人の収容所生活も時間をかけて描く。
主人公が付きまとう正体不明のアメリカ人は物質性と生活力の象徴。
逆境に適応できないイギリス人は死んでゆく。
大英帝国の没落だが、主人公の関心はすでにそこにはない。

アメリカ軍が降下した食料に驚喜し、アメリカ軍に向かって「アイ サレンダー」と敬礼する主人公には、すでにアメリカによる戦後世界を生きる準備が整っている。

イギリス人小説家、J・G・バラードの半自伝的小説が原作。

戦後初めてアメリカ映画として大陸中国でのロケを敢行。
5000人の中国人エキストラを動員して戦前の上海を再現。
ワンカットもゆるがせにしない金のかけ方にスピルバーグの本気を感じる。

戦前の上海の街角の「風と共に去りぬ」の大看板。
日本軍の進駐とともに撤去される蒋介石の大看板。
揚子江に浮かぶ実物大のサンパン(帆掛け船)の再現。
大作仕様のハリウッド映画そのもののがそこにある。

蘇州の収容所に立つ壊れかけの城門は、スピルバーグによる黒澤明の「羅生門」へのオマージュであろう。

「太陽の帝国」という日本そのものを表す題名。
繰り返し登場する太陽、日の丸、ゼロ戦。
あからさまにそれらを信奉する主人公の存在。
戦後の日本映画(日本そのものも)が忌避してきたそれらを、なぜにハリウッドのそれも大作映画が描くのか?

単なる少年の憧れの表現にしては念がいっている。

少年のあこがれとしての日本(軍)を、今までのハリウッド映画のようにカリカチュアせず、後年の価値観で矮小化せず、全否定もせず、正面から捕らえようとしているのではないか。

この作業を、敗戦国としての勝手な忖度から忌避し、怠けてきた日本(映画)は、日本人としての常識的な価値観でさえ、外国映画によって代弁される事態に甘んじているのではないだろうか。

(おまけ)「二世部隊」 1951年 ロバート・ピロシュ監督 MGM

手許にこの作品のDVDがあった。
日系人部隊の欧州戦線での活躍を描く内容。
広い意味で、「ハリウッドが描く日本人の戦争」に含まれるのではないかと思い、見た。

1944年、収容所から志願した日系人二世の若者が集められ訓練を受けていた。
彼らは442部隊という日系人で構成された兵団でイタリア戦線に投入されることになる。

訓練中の442部隊に赴任してきた少尉(ヴァン・ジョンソン)はあからさまに不満を漏らす。
日系人をジャップと呼び上官に警告される。
「ジャパニーズアメリカン(日系アメリカ人)と呼べ。日系人をバカにするな」と。

映画の巻頭のルーズベルトの宣言(日系人をアメリカ軍に加える。アメリカは人種によって差別しない)といい、新任士官に対する上官のセリフといい、進歩主義的なタテマエが前面に示される。

キャンプでの訓練中から、日系人俳優たちの描写は丁寧で、温かい目線だ。
ヒヨコの雌雄判別の技術で月500ドル稼いでいたという男、日系人女性の恋人の写真とラブレター、ハワイ出身の日系人たちのウクレレとフラダンス。
そこには白人の米兵に対するのと同じく、人間性を前面に押し出した演出がなされる。

製作のドーリ・シャリーという人物。
MGMを皮切りにセルズニックプロ、RKOなどを渡り歩いてきた。
「少年の町」(1938年 スペンサー・トレーシー主演)、「らせん階段」(1946年 ロバート・シオドマク監督)などを製作した。

シャリーは、1955年に「日本人の勲章」というスペンサー・トレーシー主演の映画を製作している。
日系人部隊で活躍し戦死した日系人に授与された勲章を、遺族に届けに来た元軍人が、その遺族は地元のボスにより殺されていた、ということを知って・・・という内容。
「二世部隊」でも随所に暗示される人種差別をテーマにしている。

「二世部隊」でも、ジャップと呼ぶ米兵が出て来たりするなど、人種差別を隠さず描いている。
進駐先のイタリアで、米軍の格好をした日系人が地元民にびっくりされたりもする。

戦闘シーンでは、勇敢な二世兵士の活躍場面はあるが、二世部隊の名を一躍有名にした、ドイツ軍に包囲されたテキサス大隊の救出では、補助的な役割として描写される。
白人の上級将校の立てた作戦の元、現場でとにかくがむしゃらに肉弾として戦った日系兵士、という扱いで、あまつさえ最後の突破の場面には、白人の少尉たちが一緒にいたりさえする。

戦争映画のキモの戦闘シーンでは日系人に主役はさせない、というアメリカ映画的な約束事なのか。
また、442部隊の消耗率がアメリカ軍全体の中で異様に高い事実にも触れていない。
そもそも、ノーノーボーイと呼ばれた、アメリカへの忠誠も、徴兵も拒否した日系人二世が米本土の強制収容所に、それなりに存在していたことも。

この映画、タテマエとしての民主主義に基づく、少数民族への配慮を示した点では、当時のもっとも進歩的な作品であろう。
のちの「日本人の勲章」につながる差別問題を示唆してもいる(日系兵士が手紙で弟が収容所を出て働く先でリンチに遭ったなど)。

ところが、肝心な部分で白人に主役の座を譲っていたりするのを見ても、あくまでもアメリカ人としての日系人の物語なのである。
太平洋戦線に派遣されたとしても、日本人相手に戦闘することをためらわないような。

ナショナリズムに関する部分は避けられ、ましてや日本そのものに対する興味も、リスペクトもない。
日本人の、ではなくい日系アメリカ人にとっての戦争をテーマにしたドラマなのである、しかも巧みに情報操作された。
その点では「太陽の帝国」とは根本的に異なる作品だった。

投稿者: 定年おじさん

1956年北海道生まれ。2017年に会社を退職。縁あって、長野の山小屋で単身暮らしを開始。畑作り、薪割り、保存食づくり、山小屋のメンテナンスが日課。田舎暮らしの中で、60歳代の生きがい、生計、家族関係などの問題について考える。60歳代になって人生に新しい地平は広がるのか?ご同輩世代、若い世代の参加(ご意見、ご考察のコメント)を待つ。

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