令和4年の新年です。
初詣に地元の布田天神へ行きました。
正月3日の昼間でしたが、参列者が境内を貫いていました。
蚤の市の出店もありました。
今年は皆さんにとっても良い年でありますように。
60代、第二の人生、田舎・時々都会暮らし
令和4年の新年です。
初詣に地元の布田天神へ行きました。
正月3日の昼間でしたが、参列者が境内を貫いていました。
蚤の市の出店もありました。
今年は皆さんにとっても良い年でありますように。
今年は10月31日に久しぶりの総選挙があります。
総選挙といえば昨今はAKB48の専売特許ですが、本来は、当たり前ですが国政選挙である衆議院議員選挙のことをいいます。
国民の権利である参政権を行使するためにも山小舎おじさんは期日前投票に行ってきました。
普段は長野の山小舎に暮らす身ですが、住民票は自宅のある調布市においている山小舎おじさん。
31日は自宅におりませんが、帰宅の折、期日前投票に初めて行ってきました。
選挙区は東京22区。
期日前投票所は調布市役所です。
事前に郵送されてきた投票券?さえ持ってゆけば期日前投票ができるので便利です。
この日は土曜日ということもあるのでしょうが、期日前投票所には20人ほどの人が集まっていました。
過去の衆議院選挙では忘れられない光景がありました。
東日本震災の年(だったと思う)の総選挙。
基本、選挙権は行使していた山小舎おじさんは、いつものように投票所の小学校に向かいました。
出がけに軽く投票するつもりでした。
そこで見たのは校庭を突っ切って並ぶ選挙民の列。
「ああ、震災があったばかりだから、国の運営についても皆の関心はたかいわなあ」と思い「帰りに投票しよう」とそのまま出かけました。
夕方、帰りしなに見たのは、朝方よりは少ないものの、校庭へ延びる有権者の列でした。
こんなことはそれまでもそのあともありませんでした。
当時は国内の未曽有の災難を目の当たりにし、明日は我が身という謙虚な気持ちと、いざとなった場合に頼りのなるのは隣近所の人間だ、との「お互い様」のチームワークの気持ちが国内にあったような気がします。
その中で、国のかじ取りを担う政治家の選択は、国民にとってなおざりにはできないことでした。
選挙民の関心の高さが熱気となって投票所を取り囲んでも不思議ではありませんでした。
出口調査に駆り出された、まだ自民党に入っていなかったタレントの三原じゅん子が、テレビカメラに向かって「自民党大変です!まずいです!」と叫んでいたそうです。
後日、この選挙をマスコミは「史上最低の投票率。」と伝えました。
選挙結果は自民党の圧勝でした。
投票所の光景が目に焼き付いているおじさんはそれを聞いて「それは違う」と思いました。
「強烈な違和感」どころの話ではありません、自民党圧勝はともかく、史上最低の投票率とは何事か。
あの長い列、熱気は幻だったのか。
いくらお上から「白のものを黒」と言いくるめられ続けた歴史を持つ日本人の端くれであっても、我が身をもって体験したことを全否定されるのは決してうれしくはないものです。
令和3年の東京22区は4人が立候補。
伊藤達也は地元の深大寺ペガサスという少年野球チーム出身で、かつては調布の少年野球大会の開会式に来賓であいさつしていました。
新進党から紆余曲折の末自民党入りしています。
山花郁夫は、社会党末期に委員長を務めた父・貞夫の2世で、実家は京王つつじヶ丘駅へのバス通り沿いにあります。
ほかに、れいわ新選組のくしぶちという女性が出ていますから、野党統一候補が成らなかった選挙区なのでしょう。
投票し、国民の権利を行使し終わった山小舎おじさん。
気持ちも晴れ晴れと調布駅前広場を自転車で通ると、秋晴れの下、共産党とれいわ新選組が選挙活動を行っていました。
暇があるとすぐ自転車でほっつき歩く山小舎おじさんの東京ライフ。
お決まりのコースは、東は阿佐ヶ谷から西は国分寺あたりのエリア。
この日は西荻窪から青梅街道に出て西へ進みました。
大きな神社に出くわしたので寄ってみました。
井草八幡宮
青梅街道に面して巨大な鳥居が立っています。
外からもうかがうことができる、広い敷地。
杉並区善福寺の住宅地にあって、神界の静謐が保たれているかのような空間です。
出くわした鳥居から境内へと進むと、朱色の鍾門が現れます。
鍾門をくぐると、神楽殿、社務所などがある空間に出ます。
そこから本殿への門をくぐってお参りします。
境内には、例えば大人数が押し寄せる初詣客を長年さばいてきたであろう格式が漂っています。
凛とした空気が保たれている神域ですが、都会の神社のスマートさを感じます。建物も立派で手が行き届いています。
東京の西方面では、規模、歴史からも府中の大國魂神社が有名ですが、ほかにも、山小舎おじさんが知っているだけで、大宮八幡、田無神社、谷保神社などの大きな神社があります。
井草八幡はこれらと同様規模の大きな神社です。
甲州街道と並び、旧武蔵国西部エリアの大動脈、青梅街道に面した立地からも、井草八幡が、古くから住民の信仰の対象であったことが納得できます。
八幡神社とは?
全国に4,400ほどもあるという八幡神社。
天神、稲荷、熊野、日枝、諏訪、白山、など神社の系統が多々ある中での最大派閥?とのこと。
八幡神社。
ここに祀られている神様に、天孫系というより国津神・・・、弥生というより縄文・・・、渡来系ではなく原住民系・・・、の起源を感じるのは山小舎おじさんだけでしょうか?
2月のある日。
調布市柴崎の彩ステーションというところで、山小舎おじさんによる野菜の報告会がありました。
彩ステーションは、本ブログでもお伝えしたことがありますが、調布市柴崎の深大寺商店街の空家にオープンしたスペースです。
みんなの居場所作りをコンセプトに、物作りや健康をテーマにしたワークショップを開催したり、学校閉鎖の時は子供を預かったりしています。
普段は近所のお年寄りが三々五々集まってお茶したり、外国人が日本語を習いに来たり。
オーナーは隣の個人医院の院長さんですが、副代表を山小舎おじさんの奥さんがやっております。
実質の運営は奥さんと、数人のサポーターでやっています。
このサポーターおばさんたちは、大人数の料理を上手に作ることができたり、あっという間に宴会の片づけができたり、ついでに自家製のおいしいキムチを漬けたりもできる、ハイパワーなおばちゃん方で、山小舎おじさんも崇拝しております。
この彩ステーションに、山小舎から野菜を出荷しております。
1回に付き段ボールひと箱。
週に最大2回の配送。
金額にして1回、1500円から2000円の出荷です。
この野菜が彩ステーションの利用者に好評で、毎回売り切れとのこと。
キューリ、ナス、トマトなどのお馴染みの野菜だけでなく、食用ほおずきを初めて食べてファンになった人もいるとのこと。
これはファン感謝も含めて、生産者による報告会をして、消費者に山小舎と野菜の更なるイメージアップを試みなければなりません!
ステーションの副代表さんに時間をもらった山小舎おじさんは、ついでにパワーポイントの準備もお願いして報告会に臨みました。
簡単に山小舎の位置、畑の位置、付近の環境などを述べた後、畑と野菜の写真を季節ごとにまとめてスクリーンに映してゆきました。
畑と野菜の写真の後には、ジャムなど食品加工の写真、薪づくりの写真、そして今シーズンから取り入れる「ガッテン農法」などの写真を映してゆきました。
収支状況と今年から値上げしたいという話もしました。
参加者は全員80歳代の10名ほど。
スクリーンに真っ赤なトマトが映し出されると「あートマトだ」と歓声が起こるなど、全体を通して好意的な反応に終始しました。
今シーズンから値段を上げたいとの提案には反応がありませんでした。
山小舎としては、毎回ほとんど収益がない状態からは脱却したいのですが。
途中からどんどん質問してくるおじいさんがいましたし、帰り際に「いつも買っています。野菜が届くと皆で取り合いになるんですよ」と話すおばあさんもいました。
最初は参加者の年代を見て、正直、張り合いのなさ?を感じました。
ところが、終わってみて、代えがたい充実感があることに気づきました。
なぜか?
お年寄りのコミュニケーションのやり方を見ていると感じることがありました。
彼らは、話すときには相手と向かい合って相手の顔を見て話しているし、一方的に自分の話したいことを話すのではなく、また相手からの反応を待つ独特の「間」を持っている、のです。
山小舎おじさんの子供時代の社会(日本限定なのかどうかはわからないが)は、大人はこんな感じでコミュニケーションしていたなあ、と懐かしく思い出しました。
これがしっかりとした人間同士の意思疎通だったなあ、と。
今シーズン、山小舎の収支が改善するかどうかは不明ですが、貴重な経験の場を東京でいただいた山小舎おじさんでした。
冬の間の山小舎おじさんの今年のバイトは、テニスコートの管理人とガイドヘルパー。
2月下旬の晴れた土曜日、多摩川の土手沿いに散歩する利用者さんのガイドヘルパーをしました。
利用者さんの自宅を出て、多摩川の土手に上ります。
このあたりは狛江と調布の境目です。
晴れた休日には散歩やランニング、自転車の人たちで賑わいます。
土手の道が整備されたころは、スポーツ自転車の集団が高速で行き来し、自転車同士のあるいは対人の事故をちょくちょく見かけたものでした。
今ではスポーツ自転車のブームが去ったのか、あるいはマナーがよくなったのかは知りませんが、その姿が少なくなりました。
土手の主な通行者は、ウオーキング、ランニングの人たち。
次いでスポーツ自転車とママチャリ。
スポーツ自転車も集団走行はほとんど見かけなくなりました。
河原は国有地です。
が、多摩川の河原で畑を作っている人がいます。
ビニールハウスを建てたり、鉄パイプで畑を囲ったり、自家菜園にしては本格的です。
昔は橋の下に「サムライ部落」などと呼ばれるバラックの集落があったりしました。
今でも、河原など住協表示のない「番外地」に家を建てて住んでいる人がいます。
私有地の不法占拠は困りますが、国有地である河原の畑は、人に迷惑をかけない範囲であれば、のどかなもの?だと思うのは・・・山小舎おじさんだけでしょうね。
一方で、河川敷のあちこちに立っている「調布市占有」の杭。
知らぬ間に河川敷が耕されてしまっては困る行政側の対抗措置でしょうか。
今どきの河川敷、市民サービスのためのグラウンド用地のみならず、花火大会の場所などとしても、調布市としては確保しておきたいところなのでしょう。
もう少し行くと、「多摩川漁業組合」の幟がはためく養魚池がありました。
写真では見えませんが、釣りをしている人が数人います。
釣り堀も兼ねているのか?勝手に釣っているのか?
そして多摩川漁業組合の仕事は何?
漁業権は設定されていてるのでしょうが、釣り人から入漁料を徴収しているという話は聞かないし、漁師の姿も見たことがないし。
渡し船はとっくにないし。
狛江の多摩川岸の貸しボート業のことか?
あるいは残っている土手沿いの食堂みたいなところの営業権のことか?
多摩川の歴史を感じさせる「漁業組合」の幟でした。
京王相模原線の鉄橋に近づくと、河川敷にグラウンドが現れてきます。
バスケットボール、サッカー、ラグビー、ソフトボール、野球などが行われています。
少年野球の女子チームと思しき子供たちが練習していました。
時代の流れを感じます。
おととしの台風は、ここら辺の河川敷にも被害を及ぼしたようで、河川の改修工事が延々と行われています。
鶴川街道が渡る、多摩川原橋を越えて少し行くと道路に4キロの表示があります。
ここで折り返します。
往復8キロ。
2時間の散歩を終えました。
山小舎おじさんには厳しめの運動です。
利用者さんの保護者から感謝され、雇用先から時給までいただけるのですから、こちらからも感謝したいくらいです。
「散歩の達人」という雑誌があります。
主に東京周辺の街歩きをテーマにしています。
自宅の本を整理していたら、2017年3月号の同雑誌が出てきました。
三鷹、武蔵境、小金井特集号。
山小舎おじさんの出没地域と重なっています。
4年前の情報誌を手に自転車で街に出てみました。
三鷹駅南口からまっすぐに南下する商店街の左側にそびえる建物。
1階に入っている東急ストアが目につきます。
この建物は、道幅を広げるため、当時の路面店を吸収した建物だったことを、「散歩の達人」の記事で知りました。
上層部は住宅公団によるアパートになっています。
駅前の区画整理や再開発いうと、戦後直後の闇市をビルや地下に統合すること(新橋、渋谷など)や、現在行われている駅ビル、駅直結のタワーマンションの建設(武蔵小金井、国分寺など)などが思い出されます。
こういった区画整理は、「戦後」が落ち着いた昭和40年前後にもあったのですね。
2017年の同誌に紹介されていた店がコロナ下で元気に営業していました。
コロナ下(禍)のせいかどうか、4年の間に廃業(休業?)となった店もありました。
小金井市前原にある、丸田ストアー。
このストアーは2021年版の「散歩の達人・三鷹・武蔵境・小金井」号にも紹介されている同誌のお気に入り先です。
かつては町々にあった、八百屋、魚屋、肉屋などが集まるストアーだったのですが時流に押され、古い店で残るのは肉屋のみ。
抜けた店舗の跡には花屋、カフェなどが入ってにぎやかに続いていました。
ストアーに入ってゆくと「いらっしゃい」と次々に女性の店主・店員から声がかかり、驚くやら嬉しいやら。
かつてのストアーからちょっとコンセプトを変えて、新しい女性たちの発信の場になっているかのようでした。
たった4年でもこの変貌。
コロナ下(禍)のグレートリセットが起こっているのでしょうか。
それでも山小舎おじさんは、このエリアの散歩が好きです。
令和3年の1月。
八王子の街を歩いてきた。
八王子は調布から京王線で30分ほど。
東京との西端に位置する市で独自の文化圏を有する町。
山小舎おじさんが30代前半の時に、八王子にあった職業訓練校に何か月か通ったことがあった。
当時の訓練校は国家直営?
専用の校舎を有し、専任職員が配置されていた。
教室は机・椅子・黒板など、小中高学校と全く同じ造り。
訓練生はクラス委員を選出しホームルームを運営、放課後の掃除当番もあった。
また、クラスメイトは、場所柄か八王子在住の人が多く、言葉の端端から彼らの地元意識を感じたものでした。
この日、京王線八王子駅に着いたおじさんは、JR八王子駅方面へ向かい、駅前の商店街を目指します。
まずは古本の佐藤書店。
蔵書は多く、見て回るだけで楽しめます。
ここで古い角川文庫などを買ったことがありました。
1970年代ごろの角川文庫は、公開された洋画をさっそく文庫化し、カバーを映画の場面写真でデザインしていました。
今ではその時代の角川文庫を古書店で見かけることも少なくなっています。
昼食は佐藤書店の並びのトンカツ屋で。
600円でかつ定食が食べられます。
子供入場お断りの張り紙があったり、お愛想がほとんどないサービスぶりが特徴の食堂ですが、安く一食食べられてこれで充分です。
少し前まではかつ定食が500円でした。
八王子に来たらもう一か所寄るところがあります。
国道20号線沿いの団子屋・伊勢屋です。
団子、もち、海苔巻き、稲荷ずしなどを扱って、地元客で引きも切らない店です。
ここでお土産の団子とどら焼きでも、と思いましたが、今日は定休日でした。
残念。
国道20号沿いには、ユーミンこと松任谷由実の実家、荒井呉服店もあります。
かつて、職業訓練校仲間だった地元の女性は、単に「アライ」と、この店のことを呼んでいました。
地元と荒井呉服店の密着度をその時感じました。
八王子はかつて繊維産業で栄えた町。
旦那衆が遊ぶ、三業地が栄えたことでも有名で、今でも芸者がいるとのこと。
お茶屋、置屋、料理屋が並んだ三業地の名残りも残っています。
赤線と呼ばれた特飲街はまた別の場所にあります。
今回は訪ねていません。
これまでのコースは八王子歩きの際の定番コース。
おじさん的にはマンネリ感もぬぐえません。
そこで改めて八王子の全体像を眺めるべく、郷土博物館を探してみることにしました。
初めて訪れる町でそうするように、地元の博物館、資料館を訪ねることのしたのです。
八王子の郷土資料館はJR駅から徒歩20分ほど。
立地といい、建物といい、内容といい、現在の大都市・八王子にはもはやふさわしくないレベルでした。
時代ごとに地域の発展の様子を簡潔にまとめて展示してあるのですが、ありがちな歴史の展示の印象が強い。
特有の繊維産業とそれに伴う町の興隆に焦点を置くようにしてはどうでしょう?
そのためには、周辺地域との原料・物資の交流ルートの変遷を大きく図形化して展示し、また最盛期の八王子の中心街を大パノラマ化するなど、ドラマチックに再構築してはどうでしょう?
などと勝手に想像してしまう山小舎おじさんでした。
時々訪れたくなる街、八王子。
今度来るときにはどういう姿を見せてくれるのか楽しみです。
調布卸売センターという場所があります。
昔は武蔵野市場といいました。
セリが行われる市場は、東京では青果なら大田市場、鮮魚は築地市場が有名です。
本当の市場というか、中央市場というか、鮮魚だったら漁港にあって上がってくる魚をセリで売ったり、青果だったら農協から運ばれてくる箱詰めの野菜を扱っているのが、本当の市場だと思います。
武蔵野市場はそういった市場ではなく、都心に仕入れに行けない業者のための市場です。
鮮魚も野菜もバラで売ってくれます。小売りもしてくれます。
築地で言うと「場外」市場に相当します。
市場というよりマーケットというべき場所なのかもしれません。
三多摩地区では、八王子、府中などにこういった市場があります。
調布にあるのが、武蔵野市場です。
かつては鮮魚、干物、乾物、紙器、駄菓子、青果、精肉、などの店を擁し、食堂が付随した場所でした。
一帯の飲食店、小売店などが仕入れに来る場所だったようです。
小売りにも対応していました。
市場の建物の周りには、同じく卸売が目的の金物店なども集まっていました。
調布という場所柄かキムチ専門店もありました。
そういった昔ながらの卸売商店が歯が抜けたように減っていき、武蔵野市場が活気を失っていた時期がありました。
「武蔵野市場ってまだやってるの?」と思っていました。
夏まつりの出店用に、冷凍焼き鳥の箱や、景品用の駄菓子を仕入れるときにだけ利用していました。
そして気が付くと、武蔵野市場は「深大にぎわいの里」と愛称を冠したスペースとなっていて、文字通り賑わいを取り戻していました。
建物の一角にできた、産直所「野菜畑」の存在が大きいと思われます。
調布はもともと農村ですから、畑の収穫物には不自由しません。
あちこちの農家の庭先に野菜スタンドがあり、ほぼ1年中、野菜の供給には困らない地域です。
近年の産直ブームに乗って、地場野菜の大規模な直売所を設ける発想は時期を得ていました。
「野菜畑」の発想は、地場野菜にのみこだわらず、端境期であれば全国から野菜を仕入れ、地元に産しない作物についても並べ、味噌、ワイン、乾物などの加工品も全国から仕入れています。
時期によっての商品ラインアップの濃淡を極力抑え、品ぞろえをなにより重視する昨今のマーケテイングが忠実に守られています。
ということで、センター内の直売所「野菜畑」も、そのコンセプトは、「地場野菜を目玉に並べた全国うまいもの物産展」の様相を呈しています。
これが今どきの直売所のトレンドなのです。
これが当たり、緊急事態宣言後の調布卸売センターも、直売所「野菜畑」だけはにぎわっています。
市場内には現在でも様々な商店が営業しています。
土曜日になると炭火をおこし来客に肉を焼いてサービスしていたアンデス食品です。
今も炭火焼をやっているのかどうか。
鮮魚店は午前中で閉まってしまいます。
店員のおじさんに注文し、奥の経理係へ持って行って精算するのが市場のスタイルです。
鮮度はいいです。
乾物屋さんです。
かつては駄菓子屋などが多くのスペースを占めていましたが、空きスペースが目立つようになっています。
パン屋、カフェなどの新しい食堂が増えています。
この先、調布卸売センターがどう発展してゆくのか楽しみです。
政府から緊急事態宣言というものがなされました。
新型コロナ肺炎の蔓延にかかる政府の措置です。
全国が対象なのではなく7都道府県が対象とのこと。
あまり実効性がないような気がします。
それでも日本人は空気を読むので、不要不急の外出はなくなり、疫病は終焉に向かうのでしょうか?
山小屋おじさんも今シーズンの山小屋開きを4月初旬に予定していましたが、家庭の事情により、何よりも世の中の流れにより、延期して現在に至っております。
山小屋周辺の人々からは、4/9より仕事が始まるがいつ帰ってくる?などと電話が入りましたが、日取りが確定しないままとなっております。
今年は畑は予定通りにはいきそうもありません。
すべてがイレギュラーな年になりそうです。
山小屋元年の2017年も、6月からの畑のスタートでしたから、そういうつもりでのんびり構えることにします。
さて、緊急事態宣言下の東京。
調布駅前に買い物に出かけついでに世の中の様子を見てきました。
自宅付近のグラウンドの様子です。
小中学校が休校になってから、ここに集まる子供たちの歓声と躍動にあふれる場所でした。
緊急事態宣言後は早朝からの歓声が聞こえなくなりました。
元気に運動している子供はいますが、宣言前の半分くらいの人数でしょうか。
コロナの蔓延には関係なく、畑は春を迎えています。
レタス系が最盛期を迎えています。
キャベツの苗も大きくなりました。
直売所もいつも通りです。
野川の河川敷は桜が終わり、本格的な春の風景になっています。
調布駅前広場です。
元旦でも近頃はこんなに閑散とはしていないでしょう。
雪が降ったか、台風前の時のような人出です。
人数もさることながら、のんびりというか、暗いというか、独特の閉そく感が街から感じられます。
パルコの地下食品館では、人出は少なくはありませんでした。
むしろ、鮮魚や加工品、総菜、生菓子などに掘り出し物、特売がありました。
販路が限られ、高級品、し好品、生鮮品などについては業者も販売に苦慮していることがうかがえます。
消費者にとってはある意味、買い物のチャンスでもあります。
普段は手が出ない、マグロのカマやフランクフルト、イチゴのタルトなどが手ごろな値段で売られており、買ってしまいました。
自宅の炊事担当のおじさんにはメニューを開拓し、デザートをつけることができるチャンスとなりました。
スクランブル交差点の人通りは、平時の半分から3分の1でしょうか。
天神通り商店街も平日昼間とはいえ人通りが少ないです。
食堂はテイクアウトに力を入れていますが、食品街では総菜が割引で並んでいる状況ですので果たしてどうなのか。
こうなりゃ神頼みだ!
天神様、世の中をよろしくお願いします。
国分寺の古書店・七七舎の店頭、百円コーナーで見つけて買った本です。
新書でこの本の抄訳が出ていて、買ったものの読んではいませんでしたので、今度こそ読んでみました。
1995年刊の全400ページほどのハードカバーです。
原著は1948年にアメリカ人女性のヘレン・ミアーズという人が書いています。
著者は1900年まれで、1920年代から中国と日本に滞在・研究し、その後、アメリカの大学で日本社会について講義、1946年にGHQの諮問機関「労働政策11人委員会」のメンバーとして来日した人物です。
日本における同書の翻訳は、1948年に試みられたがGHQによって却下され、その後1953年に出版はされたものの注目されなかったという経緯を持つそうです。
テーマは「アメリカの行動と原則が一致しているか」
占領下の日本に降り立った著者が、日本社会の研究者として、アメリカなどによるこれまでの対日政策と占領政策が「正しい」ものかどうかを省みたのがこの本です。
アメリカ人が正しいとする価値観があります。
その価値観を「アメリカン・ウェー」と名付けます。
「アメリカン・ウェー」とは、
政治的にいうと、
・政府批判の権利が認められた社会
・容認できない政策を変えさせる権利が認められた社会
・少数派の権利が認められた社会、です。
経済的には、
・個人の能力を最大限に発揮できる機会を持つ社会
・生活水準の向上を目指す意識。だそうです。
著者は「アメリカン・ウェー」そのものはともかく、その価値観を他民族に押し付けるのであれば、アメリカ人自身が言動一致していなければ、他民族は従わないだろうと説きます。
天然資源の豊かなアメリカと、資源が不足しあまつさえ戦争で破壊された日本とでは出発点がまるっきり違うこと、そして日本占領の基本問題もそこにあると指摘します。
「アメリカン・ウェー」の無意識の押し付けと、押し付けられる側への無理解です。
歴史上の日本の立ち位置
さて昨今、日本の側に立ち、列強との不公平を強調し、日本の「正しさ」を訴えたり、日本を戦争に駆り立てたのは列強の陰謀だとする論調は、国内で目立っています。
著者はアメリカ人の研究者として歴史上の観点から日本の立ち位置について説いています。
その視点は、公平で、冷徹な世界のバランスを明らかにしてくれます。
日本は「正義の国」「被害者」などではなく、世界のパワーバランスの中で踊り、踊らされた脆弱な(貧乏な)島国であったことも明らかにされます。
まず、戦時中のアメリカ国内における「日本人は好戦的」「日本は世界制覇を目指している」といったプロパガンダを論破しています。
すなわち歴史的に鎖国していた日本を武力を背景に、不平等条約を強いて強引に開国させたのはアメリカであったこと。
また、開国後の日本が、日清・日露戦争などで躍進し、列強並みの扱いを受けていた時点でも、日本は列強から受けた教育に忠実な「優等生」ではあっても、決して「大国」などではなく、実際の立ち位置は「将棋の駒」に過ぎなかったこと。
つまり、日英同盟などの政治的な後ろ盾と、列強による物資支援(貿易)がなければ独立国として成り立たない存在であり続けたこと。
日露戦争後に、日本は、韓国を併合し、また海外に利権を求めていったが、これらの行為はかつて日本が列強から受けた「教育」の通りに行った「合法的」なものであり、列強がまさに行ってきたふるまいそのものであったこと。
つまり、韓国や満州に対する日本の覇権行為を列強が避難するのは自己矛盾だったこと。
おまけに、政治的には日本を非難しつつも、戦争の1年前まで戦略物資を日本に売り続けたのが列強だったこと。
太平洋戦争の意味
アメリカは「日本のアメリカ征服を阻止する」ことを謳っていたものの、本当の戦争目的は「日本征服」であったとするのが著者の説いたところです。
理由は、戦争の終盤を待たずに日本は戦闘能力を失い、また終戦工作を行っていたにもかかわらず、アメリカは日本よりはるかの巨大な予算を投下し、また非人道的な手段を用いて戦闘を継続していたことなどです。
極めつけは、終戦の破壊された日本に、アメリカ基準の贅沢な占領コストを負担させていることを明らかにしています。
ちなみに占領期間9け月の費用45億円を日本政府が負担していますが、これは1940年の日本の戦争費用23億円を倍近く上回るものでした。
結論
国際社会のルールとは暴力とどん欲を合法化したようなもの、と著者は説いています。
キリスト教の理念に基づいたスペイン、ポルトガルの大航海時代から、太平洋戦争までの列強の行動基準に比して、アメリカがプロパガンダした「好戦的で狂信的な日本民族と神道イズム」などはどう考えても歴史上の事実に反する、とも述べています。
アメリカが日本を「人類に対する罪」で断罪するのは正義ではない、とも述べています。
この本は、アメリカという、帝国、覇権、列強、国際スタンダードを代表する国家の実像を、対日戦争と占領を通して見つめ、総括した快作だと思います。
堂々たる進歩的、理知的、科学的、自省的な著書です。
日本人受けを狙ったわけではなく、歴史と社会を学んだ学者の自国向けの見解だから重みがあります。
当時にはアメリカにも一定程度の流れがあった、左翼的、理想主義的な晴れ晴れとした空気も行間に感じられます。
日本が犯した罪とは「国費」を人権の上に置き、「国家の存亡にかかわる利益」を武力で守ろうとしたこと、だと述べています。
歴史が進み、今日現在では、国家どころか、グローバル企業がTPP、FTAなど「合法」の名において、帝国主義も裸足で逃げ出すような人権蹂躙を行おうとしています。
1948年に著した著書には、当時のアメリカ人の知性と理念と自省の魂が溢れています。
それから70年以上。
こういった高邁な理念はどこへ行ってしまったのでしょうか。