ラピュタ阿佐ヶ谷「東映現代劇の名手 村山新治を再発見」より 「警視庁物語」シリーズ その1

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフ表紙

「警視庁物語」シリーズ

「警視庁物語」シリーズは、東映東京撮影所で1956年に始まり、1964年まで全23作が製作された人気シリーズだった。

舞台は警視庁捜査一課。
一課長(松本克平)と主任(神田隆)を中心に10人ほどの捜査員たちが都内に発生する事件に地道な捜査を続け解決に至るまでの一話完結ドラマ。
全作品がモノクロで撮られ、上映時間は60分から90分で、多くが時代劇の添え物作品として封切られた。

シリーズ通しての脚本は長谷川公之。
千葉大医学部出身で警視庁法医学室に勤務した経験を持つ。
学生時代から執筆活動を続けており、1957年には警視庁を退職して文筆に専念した。
映画化脚本に「警視庁物語」シリーズのほか、「危険な英雄」(57年 須川栄三監督)、「陸軍中野学校」シリーズ、「女賭博師」シリーズ、「密約 外務省機密漏洩事件」(88年)など。

配役はレギュラーの刑事に神田隆、堀雄二、花沢徳衛、南廣、山本麟一、のちに千葉真一など。
ゲストには、今井健二、曽根晴美、室田日出夫、潮健児ら当時の東京撮影所若手俳優陣をはじめ、山村総、木村功、加藤嘉、小沢栄太郎、田中春夫、山茶花究らを単発招集。
また女優陣には高橋とよ、菅井きん、沢村貞子、千石規子、星美智子、浦里はるみら芸達者のほか、岩崎加根子、小宮光江などの若手女優の名も見られる。

「警視庁物語 顔のない女」  1959年  村山新治監督  東映

シリーズ第9作。
村山新治監督はシリーズ第5作目の「警視庁物語 上野発五時三十五分」で監督デヴューしている。

オリジナルポスター

土曜の午後、半ドンが終わった昭和の勤め人たちがプライベート時間を自由に過ごそうとしている。
捜査一課の刑事たちも、独身者はデートに、既婚者は子供と動物園に、また妻の出産する病院へ、と三々五々の時間を過ごす。
ただし本部への定時連絡は欠かさずに。

荒川べりの河川敷で野球少年が不審な浮遊物を発見し、刑事が直ちに集められる。
新聞紙に包まれた女のバラバラ事件だ。
死体から発見されたマネキュアのメーカーの線、死体を包んだ新聞紙と紙紐の線、下腹部の手術跡、などを手掛かりに直ちに聞き込み捜査が始まる。
主任の指示のもとその足で捜査に散る刑事たち。
携帯もなく、パソコンもない時代だが、電話と黒板に集約された情報だけで実に効率よく刑事たちは捜査を行う。
時間をかけて、常にたばこをふかしながら。
何より行動が早い!

刑事が聞き込みに訪れる先の描写がいい。
化粧品会社の女社長(高橋とよ)や、芸者置屋の玄人年増(浦里はるみ)、ストリップ小屋のグラマー(小宮光江)などなど。
いずれも一筋縄ではゆかない癖のある登場人物。
以下少し長くなるが3人について調べてみた。

高橋とよはご存じ小津組の常連、わき役ながら「東京物語」に出ている伝説の人。
プログラムピクチャーへの出演も多い。
本作では死体のマニュキアに使われていた「アリス化粧品」の社長役。
聞き込みの刑事に対し、お客の個人情報を部下の男性社員がいちいち高橋とよ社長に向かって承認をとりながら答えるシーンのすっとぼけた味わいが絶品。

芸者の置屋のおかみさん役の浦里はるみという人。
1955年に東映入りし時代劇では「旗本退屈男」「大菩薩峠三部作」にも出ている。
本作当時はまだ二十代と聞いてびっくりの貫禄ぶり。
劇中、芸者たちが稽古している置屋の玄関先で聞き込みに来た若い刑事(南廣)に『私あなたみたいなハンサムに弱いの』と迫ったりするあたりは40代の大年増に見える玄人っぽさ。

そして小宮光江のストリップ衣装のスタイルの良さ。
1955年鎌倉海の女優カーニバル優勝を引っ提げて東映入り。
川村学園当時は佐久間良子の先輩だった。
「ズベ公天使」(60年)など、女版不良性感度作品の先駆けとのこと。
本作のストリップダンスの稽古場シーンはスタジオから見学者を追い出して撮影されたもの(ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーに掲載された封切り当時のプレスシートより)、なるほど画面に見入ってしまった。
代表作は「はだかっ子」(61年 家城巳代治監督)「花と嵐とギャング」(62年 石井輝男監督)。
惜しくも62年に自死とのこと。

高橋とよ
浦里はるみ
プレスシートより、浦里はるみの出演場面を伝える
小宮光江
小宮光江の出演場面を伝えるプレスシート

刑事たちの聞き込み先はまだまだいる。
陰のあるバイト大学生(今井健二)と、彼が片思いする令嬢(佐久間良子)だ。
令嬢は、乗馬クラブで悠然と刑事相手に微笑むだけだが、この2、3分にも満たない佐久間の登場シーンは、果たして必要あったか。
サービスカット的なものなのか?

とにかく地道に足で捜査を積み重ねてゆく刑事たち。
いくつかの情報を重ね合わせて核心へ近づく。
犬の死体を包んで実証実験を行い、荒川の当該部分は上流へ向かって流されることがわかったりする。
妻の4人目の出産が待望の男の子だとわった刑事(花柳徳衛)が、皆からお祝いをもらうなどといった職場のエピソードもつづられる。

「もはや戦後ではない」(1956年の厚生白書より)1960年当時だが、まだまだ戦後の陰は濃い。
東京の墨田川にはダルマ船で暮らす水上生活者がおり、足立区の荒川沿いにはお化け煙突が聳え立ち、下町の安アパートには管理人がいて、ヤクザの商売には闇ドル買いがあった。
住民の戸籍はどうなっているのか、水上生活者の住むのダルマ船は、犯罪者の格好の隠れ場所にもなる可能性があったりするのだ。

低予算のため、捜査一課の室内セット以外はロケで撮影されたという「警視庁物語」シリーズ。
現在ではすべて失われた昭和の風景が色濃く反映された画面。
アパートの管理人(菅井きん)や、犯人に車を貸した挙句警察に追われて事故死する運転手の妻(谷本小夜子?)の子供を背負って病院へ駆けつける姿に表現される、名もなき庶民たちの姿。

「警視庁物語」は実体験のある脚本家によるてらいなき事実の積み重ねのストーリーを、これまた事実の再現に徹した映像化がもたらした貴重な時代の記録でもあった。

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「警視庁物語 108号車」  1959年  村山新治、若林栄二郎共同監督  東映

シリーズ第十作は、若林との共同監督。
若林監督については多くを知らない、「遊星王子」などの監督作品があったらしい。

54分の中編だが、その分枝葉がなく本筋がギュッと詰まった1本。
脚本は警察法医学者出身の長谷川公之。
レギュラー陣は不動のメンバー。
枝葉がない分、傍系のエピソードはなく、セリフのある女優は出ていない。

オリジナルポスター

警邏中のパトカーに乗った巡査が、車に乗って逃走中の犯人に射殺される。
直ちに招集される捜査一課の刑事たち。
寝間着姿の刑事たちを巡査が各自宅に迎えに行く場面がタイトルバックに映し出される。
昭和チックながら緊迫感が画面からあふれる。
さあ、捜査開始だ!

今回の捜査一課はいつにもまして地道な捜査に終始する。
車のナンバー・型式からの線、自動車修理店に残された名刺(偽名)からの線、銃痕からの線等々。
刑事たちはいつにもまして余計なセリフを吐かず、黙々と迅速に足で捜査する。

今回も殉職した巡査の香典を集める場面など、職場としての警察内部の日常描写がある。
これで殉職警官が2000人以上となったなどのセリフもある。
ラストは殉職警官を祀る弥生神社への参拝シーンで終わる。
実際に警察内部にいた脚本の長谷川ならではの書き込みである。

映画のハイライトは、運転免許場の台帳と交通違反調書からの照合作業の場面だ。
捜査一課全員と応援の職員が、夜通し、台帳を一件一件めくってゆく。
暗い照明の元、たばこをくわえながら、ネクタイを緩めて、眠気と戦いながらの作業が続く。
ときどき仲間がお茶を淹れてくれる。
眠気に耐えきれず椅子に横になる。

誰がヒーローでもない、地道な作業。
劇的なセリフもなく、ドンパチは最後の最後だけ。
ひたすら事実を積み重ねて真実を追求する。
「警視庁物語」シリーズの根幹にして真髄がここにある。

プレスシート

働き盛りの、贅肉のない、庶民そのものの、昭和の刑事を花澤徳衛が好演。
この俳優はのちに人情刑事を得意としたが、その発端となる「警視庁物語」では、芝居らしい芝居はなく、セリフは上司の指示に応える「はい」と、捜査結果の事実報告と、簡単な所見だけ。
余計なセリフや性格付けがないのがドキュメンタルでいい。

ある場面で出てきた赤子を背負った女性。
前作「顔のない女」でもタクシー運転手の妻役で子供を背負った女優を使った村山監督が、『名もなき市井の女性』を表すときに使うのが、赤子を背負った地味な女性なのかもしれない。

花澤徳衛が自動車屋の社長(東野英次郎)に協力を仰いで、府中の免許場で台帳の写真を面通しさせるシーンで、カツ丼がさりげなく登場。
作業の合間に二人でかっ込んでいたが、案外その後の刑事ドラマでカツ丼が小道具として多用されるきっかけも場面だったりして。

また、ホンボシにつながるチンピラ(曽根晴美)を拘束し、捜査一課で取り調べする際、昼食に蕎麦の出前を取り、『食べたらどうだ?』とチンピラに促していたが、追いつめられたチンピラは食べるどころではなかったが、実際はそんなものだったろうと思われた。
ここら辺も長谷川脚本の地道でドキュメンタルな名場面だった。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

ラピュタ阿佐ヶ谷「東映現代劇の名手 村山新治を再発見」より 中原ひとみを「再々発見」

中原ひとみ

1936年東京生まれ。
東映第一期ニューフェース。
同期に南原宏治ら。
54年「魚河岸の石松 女海賊と戦う」でデヴュー。

55年、独立プロ作品「姉妹」に参加。
監督は松竹をレッドパージされた家城巳代治、共演は大映の野添ひとみ。
映画出演7本目にしての初期代表作となり、以降家城作品の常連となった。

「姉妹」

50年代後半は東映東京撮影所の現代劇を中心に出演。
57年には今井正監督の「米」、「純愛物語」に参加、後者はベルリン映画祭の銀熊賞を受賞する。

「純愛物語」

60年代にかけて東映東京のほか、東映京都の時代劇にも出演し、東映の看板女優となるも63年からは活躍の場をテレビに移し現在に至る。

中原ひとみと筆者との出会いは、学生時代に16ミリ版で見た「純愛物語」。
ストーリーは被爆者の若い女性がボーイフレンドとの愛をはぐくむというロマンスと悲劇だが、今井監督の粘りが妥協のないドラマとなっていて、画面に見入った記憶がある。

そして後年になって見た「姉妹」。
懐かしいい昭和の地方風景の中、貧しくも活発に生きる庶民の姿が活写された中で、家城監督の意を体現したかのように中原ひとみが生き生きと躍動していてファンになった。

その後見たのはは、「おしどり駕籠」という京都撮影所の時代劇。
58年のマキノ雅弘監督、錦之助とひばりの脇で、射的屋の看板娘の一人として、数人で踊りながら登場するマキノ映画ならではのシーンが印象に残る。

今次の「東映現代劇の名手 村山新治を再発見」特集では、彼女の現代劇が見られる。
ホームグラウンドだった東京撮影所のプログラムピクチャーから、中原ひとみを再々発見してみよう。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集「東映現代劇の名手 村山新治を再発見」のパンフ表紙

「消えた密航船」  1960年  村山新治監督   東映

東映ニューフェース第二期の今井健二(当時は俊二。同期に高倉健、丘さとみ)の数少ない主演作品。
しかも善玉役。
与太者上がりの主人公の設定だからか、表情にゆがみが出始め、暗く鋭い目つきなど、役者人生の大半を悪役として生きることになる下地が垣間見える。

そのガールフレンド役として夜の仙台駅(の設定)で登場する中原ひとみの輝きに比べて今井の存在の暗いこと。
映画の後半まで、今井の正体も、悪か善かもわからない。
中原が味方だから善玉なのだろうけど。

出だしの遭難船らのSOSの信号音を背景にスーパーインポーズが画面に流れる場面。
セミドキュメンタリー風の出だしに、B級サスペンスの緊張感がみなぎる。
悪くない。

親友の不審な死(遭難死を装った殺人?)に疑問を抱き、「知床」の町を訪れ、繁華街で聞き込みを始める今井。
劇中「知床」なる駅や港、駅前の実写風景が出てくるが、これらは清水(現静岡市)でのロケとのこと。

バーでの聞き込み場面。
訳ありのマダム(久保菜穂子)から情報を聞き出そうとする今井の芝居が気になった。
相手がしゃべる時の相槌の仕方や、一瞬の間は、素人劇のようではないか!
これでは今井健二、芝居が下手だから顔のゆがみと目つきの悪さで悪役として生き残るしかなかった、という結論でいいのか?
アクションシーンでの動きはまあまあだったが。

村山新治監督の持ち味は、最果ての港町の闇をドキュメンタルに再現すること。
柄の悪い無名俳優を今井を尾行するチンピラ役に起用して闇のムードを醸し出してはいたが、重要な役に東野栄次郎や岡田英次らお馴染みの顔が出てくるとその緊張感が緩む。
折角の久保菜穂子も役不足(役の方が軽すぎる)。

圧倒的光量で輝く中原ひとみは、全くこの作品に似合わなず、すでにアイドル的存在を越える演技力と存在感を発していた彼女にとって、これも全くの役不足だった。
彼女の女優としての実像が、ドラマの虚像をどうしょうもなく上回っていた。

中原が、この怪しい映画でいかにピンチに陥ろうとも危機感が醸し出ないのは困った反面、彼女のファンとしては安心して見ていられた。
今井健二ではすでに当時の中原ひとみには役不足(今井の方が軽い)だった。

「白い粉の恐怖」  1960年  村山新治監督  東映

「警視庁物語」シリーズの村山監督だったら、東京の町を俯瞰でとらえたであろうか、映画の冒頭シーンは静物画のようなケシの花のアップ。
その画面に林光のモダンで怪しげな音楽が被ってタイトルロール。
監督らしいガチャガチャしたスピード感のあるシーンではなく、警察とタイアップしたまるで反麻薬の啓蒙映画のような出だし。

作品の結論は、『麻薬に手を出したら身を亡ぼす』だから、奇をてらわずに、地味な正攻法でそのテーマと取り組むのは、まじめな村山監督らしい。

村山監督とは59年の「七つの弾丸」以来コンビの続く三国連太郎が厚生省麻薬取締官を演じ、まるで腕利きの刑事のように新宿の最深部で売人やその元締めのヤクザ、さらにはヤクザの幹部とまで渡り合う。
その身を粉にしたおとり捜査、情報収集、犯行現場での取り締まりなどがキビキビと描かれる。

当時の取り締まりは、幌付の小型トラックで現場付近に待機し一斉に立ち入っていたのだから牧歌的だったのではないか。
売人たちは取締官を「ダンナ」と呼び決して手出しはしない。
売人とヤクザはブツを巧妙に隠すし、取引では少しでも不信なことがあると撤収するなど用心深い。

クスリの使用者は決して一般人などではなく、例えば新宿などの盛り場のドヤで暮らし、売春などで生計を立てるような階層だった。
また、おとり捜査の認められている麻薬捜査では、売人側の情報提供者がいたりした。
麻薬を取り巻く世界は、この当時あくまで限定的なものだった。

作品のもう一人の主人公が中原ひとみ。
『初の汚れ役に挑む』とある。
汚れ役は初かもしれないが、これまで庶民的で逞しい少女や、原爆症のヒロインなどを体当たりで演じてきた。
本作では、監督得意のドキュメンタルな視点ばかりではなく、劇映画らしい視点での演出も取り入れており、中原ひとみは監督の演出に見事に応えている。

中原演じる女性像の背景は詳しく描かれない。
地方から出てきて生活苦なのか騙されたのか、やむなく身を売るうちに、新宿のドヤに住み、クスリと切っても切れなくなった女性だ。
劇中『パンパン』と呼ばれるから戦災孤児など戦争や社会の犠牲者なのかもしれない。
ヤサグレてはいるが、親身になってくれる人には好意を持ち、結婚生活にあこがれを持つから本来は人間性に恵まれたキャラクターだったのだろう。
本来が汚れ役向きではないが、人生の不運で逆境に生きる、という役では中原ひとみが生きる。

情報提供者の朝鮮人中毒者役の山茶花究がうまい。
日活なら小沢昭一の役どころだが、小沢がやるとギャグに傾くところをきちんと芝居している。
情報提供したのをヤクザに察知され、大阪に逃げるからと小銭を捜査官にせびる芝居。
実はまだ新宿にいて捜査で捕まり、取調室で禁断症状を起こす迫真の芝居の悲惨さ。

この取調室で売人の禁断症状にオタオタする新人取締官役が今井健二。
真面目な新人として三国にくっついての演技。
この俳優、無理に主役をやらず、誰かの脇に回ったら生きる役者ではないか。
悪役に転向した後だが、高倉健の兄弟分役として脇に回った「侠骨一代」(67年 マキノ雅弘監督)はよかった。

三国連太郎は、新宿を舞台に、飲み屋、ドヤ街、喫茶店を自分の住処のようにはいずり回るのだが、自分の家庭も描かれる。
郊外の貸家に住み、大家の酒屋が電話を取り次ぐ暮らし。
妻と子供が一人、妻の妹が学生で同居している。

妻役に岩崎加根子。
新劇の実力派で、「警察日記」(55年 久松静児監督)の磐梯山の麓で杉村春子の人買いに身売りされる少女役から、「忍ぶ川」(72年 熊井啓監督)の黒メガネをかけて座敷の奥で弟の嫁を迎える弱視の小姑役まで、幅広い経歴を持つ女優だ。

三国の妻役に岩崎加根子が起用されたのは重要な役だから。
すなわち、麻薬取締官といえど家庭があること、家庭側から見ると危ない仕事であること、そうはいいながら取締官にとって妻は最大の理解者でもあること。
作品の後半で、中毒病棟を退院した中原ひとみを保護するため、彼女を自宅に匿おうとする三国に対し、中原に嫌悪感を感じつつも、最大限夫の仕事に協力しようとする岩崎の演技の説得力はさすが。

中原が家庭の雰囲気に触れ「二人はどうやって結婚したの?」とか「あたいも結婚したいな。あたいは宮川さん(三国の役名)が好きさ」と岩崎に話すシーンがあった。
堅気の岩崎は、嫌悪感を表しつつそっけない返事をするのだが、これが拒絶感ではないところの微妙な表現。
中原の懸命な演技を受け止めた岩崎の懐の広い演技力。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

劇中最後の大捕物は取締官が大企業社員に扮し、ヤクザの大物に取引を持ち掛けるというもの。
ヤクザ側が企業に確認を取るというのも承知の上で、取締官はあらかじめ企業と組んでの仕掛け。
突然、企業本社に訪れ慌てる取締官。
ようやく取引に至り、現行犯逮捕となる。
ここで取締官の口からヤクザの大物に対し「戦時中は麻薬の取引で財を成し・・・」のセリフが吐かれる。
これまでは、取締官と売人という最底辺同士の対立ばかりが描かれ、「巨悪はどうした?」の不満がないわけではなかった見る者に、そこのところも若干ながら押さえたシナリオだった。

ラストは、自殺とされたが体内から基準値以上のクスリが検出された中原の死で迎える。
三国が思わず「殺しだ」と呟く。
身寄りがなく、夫婦二人のみが見送った斎場で、岩崎が「(自宅に匿った際)もっと親身になってあげればよかった」とつぶやく。
なるほどこの作品の最後の締めはやはり岩崎加根子によるものだったのか。

ラピュタ阿佐ヶ谷「新春初蔵出し東映時代劇まつり」より 長谷川安人監督と集団抗争劇

マキノ光男が死に、岡田茂が撮影所合理化の責任を取って大泉撮影所長に左遷されていた1963年の東映京都撮影所。折から映画界全体の地盤沈下が顕著で、観客動員数と映画会社の収益は減少を続け、1960年には邦画各社合計で168本も作られていた時代劇は、1962年には77本にまで激減していた。

この間の、東映時代劇に関する状況の変化を「あかんやつら・東映京都撮影所血風録」から要約して引用する。

『東映にあっては、千恵蔵、右太衛門の両御大を筆頭に、大友柳太郎、東千代之介の人気が低下し、彼等の主演作品が当たらなくなっていた。
また、両御大に代わって東映の看板を背負っていた中村錦之助は、60年代に入って文芸大作路線に転じていたが、作品の出来はともかく、年を追って観客動員を減らしてゆき、錦之助と並ぶスターの大川橋蔵は、大島渚や加藤泰と組んでの新機軸が、まったくといっていいほど観客の支持を得ることができなかった。
こうして東映のスターシステムは崩壊し、すべては観客を喜ばせるためという東映時代劇の美学も消え失せた。』

『1963年、京都撮影所の企画部次長となった渡邊達人は、「集団抗争時代劇」というスタイルを考え出した。
これまでの明朗・軽妙の情の世界から、リアルな任務遂行の理の世界を描き、スターの魅力に頼らず、華麗に舞い踊る殺陣ではなく、生々しい殺し合いとしての殺陣を描く、というコンセプトのもと、天尾完次プロデューサー、結束信二、鈴木尚之、笠原和夫ら若手脚本家、長谷川安人、工藤栄一、山内鉄也といった若手監督を登用した。』

  長谷川安人監督について

ワイズ出版の「日本カルト映画全集2・十七人の忍者」がある。
集団抗争時代劇の第一作といわれる同作品をテーマにしたムックである。
内容は同作のシナリオをメインに、長谷川監督へのインタヴュー、関係者の談話などで構成されている。

長谷川安人監督について「東横映画に入るまでの自分史・長谷川安人」から以下に要約・引用する。

ワイズ出版「十七人の忍者」」
「十七人の忍者」目次

『大正大将11年広島県比婆郡生まれ。
4歳の時に一家で朝鮮に移住し各地を転々とする。
高等工業時代に、映画の撮影所に入ろうと、単身東京へ出る。
屋台で隣りの席にいた朝鮮時代の小学校の同級生と遭遇し、部屋代を半分負担して彼と同居。
その彼の姉が新興キネマのスクリプターをしており、彼女のつてで同大泉撮影所に撮影助手として入社。
1年後、撮影所内で何気なくはじいた石ころが女のすねに当たり、女は騒ぎ立て、逆上した長谷川は女の脚を叩く。
女は撮影所長お気に入りの女優候補で、謝らなかった長谷川は新興キネマをやめる決心をする。』

『釜山から汽車の乗って、新京の満州映画協会を目指し、製作部長のマキノ光男の自宅を訪ねた。
奥さんは自宅に泊めてくれ、翌朝会ったマキノは「まあええわ。徴兵までの娑婆や」といって満映啓民部(ニュース映画製作)に入れてくれた。
仕事で満州東北部の興安領を回り、北満の白系露人、オロチョンの狩猟等に接した。
その後、縁あって北京の華北電影公司へ移り、山西省の山々や、蒙古へ記録映画の撮影で赴いた。
長橋善語というマキノ家の番頭だった人が所長だった。
朝鮮で育ち、満映と北京時代の経験は長谷川の精神性に大きく影響した。』

『徴兵に際し、現地入隊ではなく現隊入隊を選び本籍地の広島で入隊した。
重慶近くの山中で終戦を知った。
親しくしていた見習士官から拳銃をもらって脱走した。
揚子江を下って南シナ海へ出、インド洋から紅海、地中海を目指すつもりだったが、昭和22年には札幌郊外の牧場で季節労働者をしていた。
折から、新興キネマ太秦撮影所で、マキノ光男を中心にした満映帰りの映画人たちが東横映画をスタートさせていた。.
札幌の長谷川に長橋善語から便りが来た。
「お前も頭がシャンとしたら京都に来い」』

長谷川監督の人生前半史があまりに面白く破天荒でスケールが大で、氏の人となりが横溢していると思ったので長々と引用した。

東映で助監督になってから以降は、同著のインタビューから以下に抜粋・要約する。

「十七人の忍者」奥付

『東映時代には助監督として、渡辺邦夫、松田定次らにつく。
どちらも看板番組を任される大御所監督だが、古い習慣を拒否したり、監督に尋ねられたことに正論で返すなどして、両大御所の組をクビになったり、監督昇進の機会を逃したりする。

ジプシー助監督として、吉村公三郎、成瀬巳喜男、丸根賛太郎、中川信夫ら外部からの監督にもつく。

なんと、大島渚の「天草四郎時貞」にもついた。
この作品は、話題性のある若い監督に自分の新たな面を引き出してもらおうとした大川橋蔵が、大島起用を会社に対して押し切って実現したものだったが、東映系の映画館主たちは初めから橋蔵と大島の取り合わせには反対だった。
出来上がりやその色合いの見当がつかないからだった。
スタッフたちは撮影中に半ば公然と「こらあかんで」と言っていた。
会社や橋蔵の望む天草四郎像と大島がねらうものが、まったく違うことはスタッフならば察しはついていたからだった。

演出中の長谷川監督

1963年「柳生武芸帳・片目水月の剣」で長谷川は監督デヴュー。
近衛十四郎主演のシリーズ6作目だった。
阿蘇山ろくで馬100頭を集めてロケしたり、天守閣を三角に作るセットを組んだりした。』

ラピュタ阿佐ヶ谷では、東映時代劇特集の1本として「十七人の忍者」が上映された。

「十七人の忍者」オリジナルポスター

「十七人の忍者」  1963年  長谷川安人監督  東映

脚本は、1960年に2年で8本の契約を東映と結んでいた新鋭の池上金男。
現場の総指揮は、渡邊達人企画部次長の任を受け集団時代劇の牽引役となった天尾完次プロデューサー。

勢ぞろいした最後の伊賀もの17人。その表情を見よ

東映の三角マークがモノクロの画面に音もなく映し出される。

大げさな表情は封印し、ひたすら静の演技に終始する大友柳太郎。
食らいつくように目を剥く里見浩太朗。
諦念したように冷たい表情の東千代之介。

普段着の伊賀もの17人が揃い、頭領からの命を受け目的地の駿府へと散る。
目的は公儀への謀反を企てる駿府大納言以下の諸藩連判状を奪取し、謀反実行の前に幕府により内密に平定させること。

この日のために日常を世を忍ぶ仮の姿で送ってきた最後の伊賀もの17人。
鍛えてきた忍法を発揮する晴れの舞台であるが、高揚感、華々しさはない。
あるのは、索漠とした寂しさ、わびしさ。
任務の向こうに確実に待っている死を予感してのものか、あるいは滅びゆく隠密、伊賀ものの定めが醸し出すのか。

隠密、忍び、伊賀もの、としての掟は、頭領の命令によって死ぬこと。
頭領は配下が使命を果たすことのみ考え、そのために知力・体力の限りを尽くす。

「十七人の忍者」より

3組に分かれた伊賀ものたちは駿府城に着き、それぞれに城内侵入を試みるが、駿府とて幕府による隠密の策動は承知のこと、伊賀ものに対抗すべく根来忍者の頭領(近衛十四郎)を軍師として城内の警備に当たらせている。

悲壮感に満ち、己の定めを粛々と受けれるがごとき伊賀ものたちに対し、根来の頭領はひたすら激しく、表情豊かなリアクション。
普段は最下層の武士ゆえ、城内の家臣たちに蔑まれている根来衆の怨念と反抗心をむき出しにして伊賀ものを迎え撃とうと待ちかまえる。
使命を果たすことに加え、自分たち根来衆の名声獲得と地位向上の野心に満ちている。
一方の駿府城の家臣たちは、根来の頭領の指示に従って防衛ラインを築きつつも、内心では根来への不信と軽蔑を隠そうともしない。
これが身分の差というべきものなのだろう。
また、ここに駿府城と根来の油断とスキがあった。
対する伊賀ものたちは完全に捨て身である。

花沢徳衛と三島ゆり子

駿府城の鉄壁の防御に17人の人員をいたずらに消耗し、頭領まで生け捕られた伊賀ものは、くノ一(三島ゆり子)もいれて残り5人。
頭領から「お前が指揮を取れ」と命ぜられた若き里見浩太朗が、自らも迷いながら作戦を決断してゆく。
すべては連判状奪取というただ一つの使命のため。
内心では年若い里見の指示を快く思っていなかった東千代之介も、里見の目的達成への無私の努力を見て、忍者としての掟に従い、捨て駒として死んでゆく。

東千代之介と里見浩太朗

最後のチャンスに、お濠を渡り、城壁をよじ登り、道具を駆使して城内へ侵入する行程を時間をかけて描く。
侵入用に彼らが持つ道具の「重さ」が感じられる。
画面の緊張感は最後まで途切れない。
何より役者たちが(ということはスタッフたちも)一生懸命やっているのがわかる。

伊賀忍者にとって幕府からの使命は、身分制度を背景にもした一族の存亡にも関わる絶対的なもの。
それを果たすためには、私情を排して集団で当たる。
ある意味野生の掟に近い、実力のみ、弱肉強食の世界。

作品は、その無機質な世界観を根底に、技術的、策術的な忍法のディテイルを丁寧に盛り込んでいった。
集団抗争時代劇は本作のヒットによってスタートを切った。

里見浩太朗

監督の長谷川は言う(「日本カルト映画全集2・十七人の忍者」より)。
・劇中の乾門は、彦根市と井伊家にお願いに行って、彦根城の石垣にぴったりはまる門のセットを作った。
橋の手前から見ると、濠、橋、門、城壁、松の樹々と全体が立派に映えたのでうれしかった。
・スタッフには、セットごとにカットのアングルと人の動き、用意する小道具などを描いて渡した。
皆に僕と同じ思いをして作業をしたかったから。
・濠の中の水中シーンも皆が乗ってやってくれた「おう、やろうやろう」と。
・配役は意識的に吟味した、わき役だが重要な役に千代之介を配したのもそのため。

根来対伊賀、頭領同士の最終対決。近衛十四郎と大友柳太朗

スタッフ、配役に恵まれ、アイデアを十分に盛り込み緊張感に溢れる力作、快作となった。
妥協を嫌う長谷川監督の気質がよく表れた作品だと思う。
プログラムピクチャーであっても、監督をはじめとしたスタッフの創意が貫かれている点では立派な「作家(達)の映画」が出来上がることを示している。

役者たちの決然とした表情は、全盛を誇った東映時代劇の凋落を目の当たりにした、これから映画界で働き盛りを迎えなければならない者たちが、まさに難攻不落な未知の領域に挑もうとするときの、不安に満ちながらも決然としたもののようにも見えた。

ラピュタ阿佐ヶ谷「新春初蔵出し東映時代劇まつり」より 月形龍之介、大友柳太朗の巻

月形龍之介

明治35年生まれの月形は、宮城県生まれの北海道育ち。
戦前に日活映画からスタートし、マキノ映画などを経て、自前のプロダクションを作ったり、フリーとして活動するなりして戦前を過ごす。

ポートレート

時代劇スターとして活躍し、坂東妻三郎、大河内傅次郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「七剣聖」と呼ばれた。
他のスターが歌舞伎のケレンや踊りをベースにした立ち回りを行う中で、月形の立ち回りは剣道から作り出したといわれる。

戦後は1949年に東横映画に入社。
以降東映時代劇の重鎮として千恵蔵、右太衛門の両御大に次ぐポジションで、1954年からの「水戸黄門」シリーズ全14作で主役を務めた。
わき役としても、時代劇や任侠映画など多数に出演し、場面を締める。

ワイズ出版より発刊の「月形龍之介」

山小舎おじさん的には1963年の「人生劇場 飛車角」(沢島忠監督)の吉良常役が印象的。
枯れすすきのような古侠客の風情で、坊ちゃんこと青成瓢吉(梅宮辰夫)の面倒を何くれとなくみる役を演じ、「昔は強かったんだろうなあ」という凄味を感じさせた。
この時月形龍之介61歳、まだ最後に一仕事できそうな気配も残していた。

ラピュタの「新春初蔵出し 東映時代劇まつり」では、月形主演の「水戸黄門」シリーズ第12作「天下の副将軍」が上映された。

「水戸黄門」シリーズのムック?

「水戸黄門 天下の副将軍」  1959年 松田定次監督  東映

監督の松田定次は、春日太一著「あかんやつら 東映京都撮影所血風録」によれば、時代劇全盛時代の東映で、「天皇」あるいは「お召列車」と呼ばれていた。
そのココロは、盆と正月用のオールスター大作を任され、キャステイングからスケジュール、スタジオの使用順に至るまで最優先の待遇を受けた監督だったから。

撮影は監督のお気に入りで、隅々まで明るく照らすライテイングにより、スターを明るく映す、明朗快活な画面作りの川崎新太郎カメラマン、編集は宮本信太郎という鉄壁の布陣。

キャストは黄門に月形龍之介、助さん角さんに東千代之介と里見浩太朗、番頭に大河内傅次郎。
黄門一行に絡む隠密に大川橋蔵、大井宿の飯盛り女なれど実は家老の落とし胤に丘さとみ。
黄門の実子で高松に送り込まれていた若き藩主に中村錦之助、藩主の御そばの女中に美空ひばり。
両御大をこそいないが文字通りのオールスターキャスト。
東映の若大将・錦ちゃんにはひばりを配するサービスで、月形黄門を盛り上げる。

ポスター

この日のラピュタ阿佐ヶ谷は、平日の13時からの「水戸黄門」が何と満席。
オール70代以上で、ラピュタには珍しく女性客も数人(全員70代)。
予備椅子も出される熱気の中、上映開始。
館内の雰囲気は、65年前の地方の東映直営館もかくや。

ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーより

テレビの黄門様しか知らない世代には、月形黄門の眼光の鋭さ、顔つき、声の重々しさに恐れ入る。
片や、千代之介、里見の助さん角さんの若きやんちゃぶりにも驚く。

何せ、江戸の湯屋(湯女が、湯殿から座敷まで付きっ切りでサービスする)で湯女相手にお銚子を傾けるという登場シーンから、黄門様との道中では寝床を抜け出し、飯盛り女を上げての大騒ぎ、挙句飲み代を飯盛り女に立て替えさせ(そのために女に結婚を約束するという恋愛詐欺まで行う)る助さん角さん。

目的地の高松では情報収集のために辻でリズムに乗った大道芸の踊りまで披露。
テレビでの品行方正ぶりはどこへやら、威勢のいい江戸の若者とはこうだったのだ、と言わんばかりの、酒と女への親和性あふれるやんちゃぶりとイキの良さ。
いざという時の喧嘩の強さはテレビ通りだ。

流れの包丁人にしてその正体は公儀隠密、に扮する橋蔵は、持ち前の二枚目半。
ご乱心姿の若殿姿で登場する若大将・錦ちゃんも、乱心姿の流れるような動きがいい。
見守るひばりが、いつものべらんめえ姿ではなく、育ちのいいお嬢様を演じて若く、かわいらしい。
飯盛り女変じて、黄門一行の道中仲間となる丘さとみは、千代之介を一途に愛する田舎娘を自由自在に。
番頭、大河内のコミカルな演技が珍しい。

ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーにて

大団円に至るチャンバラシーン。
テレビなら葵の御紋に悪漢がひれ伏すが、映画では最後まで抵抗する悪漢(いつもの山形勲)と、黄門一行の一進一退の攻防が、大人数の殺陣で繰り広げられる。
最後は黄門自らの一刀で悪漢を成敗するが、眼光鋭い月形黄門ならば説得力十分。

エンドマークとともに、平均70歳代の場内からは拍手が起こりました。
映画館で拍手を聞くのは何十年ぶりでしょうか。

撮影中のスナップ。月形龍之介と丘さとみ

大友柳太朗

大友柳太朗は、明治45年生まれ、新国劇から戦前の新興キネマ入りし時代劇で活躍。
戦後しばらくは地方巡業などで糊口をしのいでいたが、1950年ころから時代劇映画の復活とともに、活躍の場を映画に戻す。

1950年代の東映時代劇で「怪傑・黒頭巾」シリーズ、「丹下左膳」シリーズ、「右門捕物帳」シリーズなどに主演し、人気を博す。
誰もが認める殺陣の鮮やかさに加えて、乗馬技術に秀でており、豪快に笑う姿が印象的で、一時は千恵蔵、右太衛門の両御大や錦之助、橋蔵、千代之介の三羽烏を凌ぐほどの稼ぎ頭といわれた。

黒頭巾姿の大友柳太朗

一方、活舌の悪さには本人も悩んでいたといわれ、その骨太な体格・風貌と田舎訛りの抜けないイントネーションは、のちに見る者をして「大時代的な芝居をする、田舎の豪放磊落なおじさんのよう」だと思わせた(山小舎おじさんの印象です。為念)。

走る!丹下左膳に扮して

ラピュタ阿佐ヶ谷の「新春東映時代劇まつり」では、50年代から60年代にかけて5本製作された、大友主演の「丹下左膳」シリーズから2本が上映され、最終作となる「乾雲坤竜の巻」を見ることができた。

「友の会」編の自伝がワイズ出版から出ている

「丹下左膳・乾雲坤竜の巻」  1962年  加藤泰監督  東映

「丹下左膳」は片目片腕のニヒルな怪剣士。
浪人として長屋に住み、常に妙齢の美人がそばにいて、厄介な事件があると表ざたになる前に実力で解決し、その過程でやむを得ずお上に逆らったりすると、無数の御用提灯が孤軍奮闘する当人を取り囲む、というのがお決まり。
戦前は大河内傅次郎の当たり役だった。
大河内の左手一本の殺陣は、腰の座り、膝の落とし方、動きの速さが見事で、口を使って鞘を抜く動作がかっこよかった。

戦後は、日活で水島道太郎の主演、マキノ雅弘の監督で3本作られた。
東映での大友柳太朗の主演シリーズは、松田定次の監督により4本、加藤泰監督により1本(本作)が作られた。(以降単発作品はあり)。

封切り時のポスター

東映でのシリーズ中、本作だけが白黒の低予算だった。
加藤泰監督による「作家性に強い」作風が一般受けしないという会社の判断は当たることになる。

巻頭から暗めの照明、ローアングル、全景を説明的に捉えないカメラでの殺陣で始まり、見る者を加藤泰ワールドに引き込む。

両目、両手が健在だった相馬藩下級武士の左膳が、藩主の個人的密命を受けて、町の道場から家宝の刀大小を強奪しに乱入したシーンだ。
右目を斬られながら、身を欺くあばら長屋に、長太刀乾雲だけを抱えて、命からがら転がり込む左膳。
長屋の隣にはスリで世を渡る東千代之介と、普段は旗本崩れの情婦をしながら千代之介と訳ありのコンビを組む年増の久保菜穂子がいた。

封切り時のプレスシート

何せガチガチの封建武士として主君の命令は絶対。
出世の野望は使命を果たすことによってのみ叶えられる。
こういった武士時代の左膳を、地面をはいずり回るように演ずる大友柳太朗。

道楽で刀を集めたがり、そのためには下級武士の命や心などなんとも思わない貧相な相馬藩主には、いつもは庶民役の花澤徳衛。
花澤は道場から乾雲を強奪したことが事件化されようとなると、南町奉行の大岡越前(近衛十四郎)に対し「左膳なるものは知らないし、乾雲などは持ってもいない」とシラを切る。
正義の味方でもなんでもなく、タヌキ官僚である越前守は、心得たとばかり得意技の「なかったことにする」対応で、事件を左膳一人に負わせ、藩主には恩を売って済まそうとする。

左膳を介抱し、牢獄から救い出し、深手を負った右腕を切り落とし、回復まで養生させる長屋の訳ありコンビが、日陰者の貧乏暮らしながら逞しい。
二枚目半の達者ぶりを見せる千代之介の飄々とした人間らしさと、新東宝倒産後に他社で活路を見出した久保菜穂子の女っぷりがいい。
彼女は左膳に惚れるし、左膳の心が町道場の娘(桜町弘子)にあることを妬いたりする。
左膳の持つ、己を捨てた一途さと危険な香りに女は惹かれるらしいが、そこのポイントも映画は押さえている。

物語は下級武士・左膳の主君への反逆という、おそらく現実の世界で到底あり得なかった、カタルシスを迎えて大団円を迎える。
左膳と町道場の娘の、敵同士の禁断の恋は、結局左膳の方から撤退するのだが、それでも割り切れぬ人間同士の情の不可思議さは、剣を切り結んだ二人の触れるか触れないかのキスシーンによって描かれる。

脚本は石堂淑朗。
大島渚の一期下の松竹助監督時代に、大島の「太陽の墓場」(1960年)、「日本の夜と霧」(1960年)を執筆。
「日本の夜と霧」の上映打ち切りに抗議して、大島とともに松竹を退社した。
その後に東映で大島が撮った「天草四郎時貞」(1962年)の脚本を書いたのも石堂で、「丹下左膳」は「天草四郎」と同年の製作。

さすが気鋭の石堂脚本、丹下左膳誕生までの秘話をオリジナルの解釈で描き、武士階級の腐敗と封建性批判、庶民の逞しさを俯瞰・強調し、さらには左膳を巡る女性らの割り切れぬ性にまで筆をすすめた見ごたえのある構成・・・と思いきや。

実は本作のストーリー、1956年に日活でマキノ雅弘が撮った「丹下左膳・乾雲の巻」「坤竜の巻」「完結編」の三部作とほぼ同じ内容でした。
同作品の棚田五郎(誰かの変名?)なる人の脚本を下敷きにしておりました。

映画評論家川本三郎の「時代劇ここにあり」という本の「丹下左膳・乾雲の巻」「坤竜の巻」「完結編」の項を読んでいたところ、そのストーリーが本作、大友柳太朗版「丹下左膳・乾雲坤竜の巻」とほぼ同じだったのです。
やはり当時30歳前後の石堂淑朗にここまでの仕事は無理だったか。

川本三郎著「時代劇ここにあり」表紙
「時代劇ここにあり」よりマキノ版「丹下左膳」ポスター
マキノ版「丹下左膳」の一場面。東映版のオリジナルか

ただし細部には石堂カラーが出ていたようです。
相馬藩主の俗物性や卑近さ、江戸の司法をつかさどる官僚(大岡越前)の事なかれ主義、権力側の都合で使い捨てられる下級武士の怨念、江戸の庶民階級のしたたかさなど物語の細部については、現代語を俳優にしゃべらせながら強調されていました。

加藤泰の演出には彼流のスタイルが存分に発揮されていました。
東映時代劇の伝統である、隅々まで明るいライテイングや、主人公を中心にしたわかりやすい殺陣などを完全に無視し、ひたすら暗い中で蠢き、痛さの伝わる殺陣に拘っていました。

左膳の潜む長屋のセットの障子の破れ具合など「リアルな」貧困も、これでもかと表現されていました。
が、貧乏人程表面を繕い己の悲惨さを隠したがるもの、映画表現とはいえ「貧困」を強調するのに度が過ぎては、「リアル」を通り越して、「不自然」にもなりかねないのでは?と感じたのも事実。
「リアルな」表現とは何かを考えさせられました。

久保菜穂子と大友柳太朗

また加藤泰の演出には、久保菜穂子への傾倒ぶりがありました。
東映お仕着せの桜町弘子への型通りすぎる演出や、筑波久子の顔見世だけの描写に比べ、久保菜穂子に対するこだわりは、単に左膳に惚れた訳あり年増の粋を越えているように見えました。
これが加藤泰の「粘り」というものなのでしょうか。

この作品における女性性、庶民の逞しさ、裏の世界の表現、また彼女を通して左膳の男性性を描くために、彼女は必要なキャストだったのでしょう。
女ざかりの久保菜穂子は加藤泰の演出に十分に応えた演技でした。

ヒットせず、シリーズ打ち切りが決まった本作ですが、ストーリー、画面共に見ごたえがあり、60年代の新機軸を予感させるような作品ではあります。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

ラピュタ阿佐ヶ谷「新春初蔵出し東映時代劇まつり」より  大川橋蔵の巻

千恵蔵、右太衛門の両御大の跡を継ぐ戦後生まれのスターとして、錦之助とともに東映時代劇の一時期を担った大川橋蔵の当たり役は「新吾十番勝負」だった。
橋蔵の出身である歌舞伎の女形の表現とも通底する、高貴な出を背景を持つ新吾というキャラクター。
その甘さと気品、色気を表現するのが橋蔵の役作りだった。

ポートレート

歌舞伎の女形から映画界入りした橋蔵は初出演の「笛吹若武者」(1955年)の立ち回りのラッシュを見て「女の子が棒っ切れをもって喧嘩しているように見えた。」と思った。
殺陣師の足立伶二郎の特訓を受け、映画スタイルの立ち回りを習得した。
橋蔵が好む立ち回りは、嵐寛寿郎のそれだったという。

明るく、華があり、軽快な動きができる橋蔵はたちまち人気が出、錦之助とともに若手スターの一番手となった。

「新吾十番勝負」。橋蔵の代表作

一方、人気絶頂を誇った東映時代劇も60年代に入ると陰りを見せ始めた。
旧態依然とした両御大の時代劇ばかりではなく、錦之助、橋蔵の作品も観客動員に結びつかなくなった。
錦之助はライフワークともなった「宮本武蔵五部作」(1961年~ 内田吐夢監督)や「反逆児」(1961年 伊藤大輔監督)など巨匠による大作に活路を求めた。

一方、橋蔵は遅れること1年、内田吐夢監督の革新的意欲作「恋や恋なすな恋」(1962年)、大島渚監督の「天草四郎時貞」(1962年)に出演。
自らの殻を破ろうとしたが、前者はともかく後者では記録的不入りとなり、以降、映画では思うような作品を残せずテレビの「銭形平次」に活躍の場を移していった。

「恋や恋なすな恋」。歌舞伎やアニメまで取り入れた意欲作。相手役は嵯峨美智子

一説では、錦之助と違い巨匠らは橋蔵を使いたがらなかったという。
女形出身の出来上がったイメージが邪魔したのだろうか。
ラピュタ阿佐ヶ谷の「新春蔵出し東映時代劇まつり」特集でスクリーンに再現された60年代初頭の大川橋蔵を見てみよう。

「清水港に来た男」  1960年  マキノ雅弘監督  東映

自らの「次郎長三国志」(1954年~の東宝版)をなぞるように、清水の茶摘み風景に「チャッキリ節」を被せ、茶摘み娘らをミュージカル風に動かすマキノ演出。
早くもご機嫌な冒頭シーンだ。

リズム感のあるマキノ演出に乗っかって、橋蔵の演技も快調。
調子のいい、正体不明だが素性のよさそうな風来坊をご機嫌に演じる。
相手をするのは田中春夫。
例によって頼りなくも憎めない三下役だが、恋女房の青山京子がこの作品ではお歯黒姿の髪結いに扮して色っぽい。

軽快な橋蔵とおきゃんな丘さとみのコンビ

橋蔵が潜り込む先の次郎長一家の娘、丘ひろみは、おきゃんで庶民的なキャラクターを与えられ、生き生きとしている。
次郎長役の大河内傅次郎。
既に第一線からしりぞき脇での出番だが、その貫禄はただものではなく、凍りついた表情はベラ・ルゴシかボリス・カーロフか、怪奇映画でも十分やれそうなただならなさ。

ヤクサの三下に身をやつした橋蔵の正体は勤皇の志士。
戊辰戦争勃発時の次郎長が、佐幕派に付くかそれとも勤皇派かを探るために潜り込んだのだった。

やくざの出入りで死んだ子分の妻(小暮実千代)が、次郎長主宰の盛大な葬式の場面で、本心をぶちまけ夫の犬死を嘆くシーンがあった。
脚本の小国英雄は戦前からマキノ作品を書き続け、戦後には黒澤明の「生きる」(1952年 東宝)を書いたベテラン。
ここは反やくざ、反戦のメッセージを盛り込んだのかと思ったが、どっこい、後半で橋蔵に「京都では勤皇の志士たちが、嘆いたりせず喜んで死んでいった」といわせている。

全部が小国のオリジナルではないのかもしれないが、映画としては勤皇派に付き、大儀ある死を肯定しており、決して反戦、個人主義的立場に立ってはいない。
東映時代劇である以上、大衆迎合そして体制迎合はしょうがないのであろう。
ただ葬式の場面での反暴力的メッセージは、ドラマに厚みを持たせる肉付けとして意味はあった。

また、丘さとみが橋蔵に向ける淡い恋ごころも、身分の違いを越えて結ばせることなく終了。
ラストシーン、茶摘み風景をバックにチャッキリ節に乗って晴れて京へ戻ってゆく橋蔵に、丘さとみもついてゆくのか?と、甘い結末を期待したが、そこにはさとみの姿はなかった。
武士とやくざの娘ではの間には決して越えられない階層の差があったのだ。
その時、橋蔵の表情はあくまで晴れ晴れとしていた。

橋蔵の立ち回りは躍動的で、動きもよかった。

「赤い影法師」  1961年  小沢茂弘監督  東映

柴田錬三郎の原作を、東映時代劇の「天皇」の一人比佐芳武が脚色。
橋蔵の相手役には、ミス平凡から入社した新東映三人娘の一人大川恵子。
脇に大友柳太郎、近衛十四郎、大河内伝次郎、さらに若手の里見浩太朗、山城新伍。
ゲストに木暮実千代と準オールスターともいうべきキャスト。

監督には松竹から移籍し、監督昇進7年目の小沢茂弘を起用。
いわば、比佐芳武の脚本という「古い皮」に、橋蔵、小沢監督という「新しい酒」を入れて路線開拓を試みた作品。

その結果は惨敗だった。

三代将軍家光の首を付け狙う石田三成の忘れ形見の娘(木暮)と孫(橋蔵)が、「影」と呼ばれる忍者として策動する。
対するは徳川家のお庭番・柳生十兵衛(大友)と服部半蔵(近衛)。
しかして、影として生きる橋蔵の父親は服部半蔵であったというファンタジー。

ワイヤーアクションや暗さを生かした照明下での殺陣などリアルさを追求している。
主人公の橋蔵も、半蔵も戦いで傷つく。
キスシーンなどの濡れ場もいとわない演出。
60年代を迎え、新しい表現での時代劇を東映が模索していたことがわかる。

しかしながら、けれんみたっぷりの荒唐無稽な原作を生かすセンスは東映にはなかった。
また、柴田錬三郎原作の「眠狂四郎」の映画化では、大映に市川雷蔵というニヒルで色気のある役者がいたが、東映にはいなかった。
橋蔵ではアイドル的な甘さがありすぎた。

「影」である橋蔵の人間味を表現しようとして、木暮に対し「母者」と盛んに呼びかけ、弱みを表現するが、マザコン的甘えに見えてしまう。
また、山場になるとどこからともなくその場にいる、柳生十兵衛役の大友柳太郎には違和感を禁じえない。

全体に「リアル」でもなく「ファンタジー」に徹してもいない印象。
だいたい橋蔵と木暮のからみはベタついてイカン。

60年代に入り、橋蔵のライバル錦之助は、「宮本武蔵5部作」(1961年~ 内田吐夢監督)など巨匠作品に出演を始める。

焦った橋蔵は、何と松竹を飛び出した大島渚の招集を要求し、「天草四郎時貞」(1962年)に出演する。
「いつか大島先生に私の作品を撮っていただきたいと思っていました」と張り切った橋蔵だったが、橋蔵の顔も(共演の丘さとみの顔も)まともに映らない暗い画面が連続するこの作品は、とても会社上層部、映画館主、観客の期待に沿うものではなく興行的にも記録的な失敗となった。

この後、錦之助は今井正監督と組んで「武士道残酷物語」「仇討」などの問題作を連発。
負けじと橋蔵は「幕末残酷物語」(加藤泰監督)に出演。

二人の路線転換は、50年代に全盛を迎えた東映時代劇の完全な終焉をもたらしたが、かといって観客に支持されたわけではなかった。

「大喧嘩」  1964年  山下耕作監督  東映

「大喧嘩」は、おおでいりと読む。
監督の山下耕作は、61年に監督昇進した当時34歳の新鋭。
前年に「関の弥太っぺ」というヒット作を作っている。

脚本は3人。
村尾昭は62年に脚本家としてデヴュー、これが9本目の映画化脚本。
鈴木則文は31歳、翌年に監督デヴューを控える。
中島貞夫は30歳、この年に「くノ一忍法」でデヴューする。
この3人は、東映時代劇の凋落が始まってから一線にデヴューし、その後の東映を担う新鋭たちだった。

「大喧嘩」は、股旅ものに新境地を見出さんとする橋蔵に、東映の若き才能をぶつけての企画。

起用された山下、鈴木、中島らは、旧来の東映時代劇の作法にはとらわれず、まず配役を一新。
外部から丹波哲郎や金子信夫、加藤嘉、西村晃を招聘。
女優陣も十朱幸代、入江若葉を起用、いわゆる「東映城のお姫様」は使わなかった。

撮影は鈴木重平という人で、緑豊かな田圃の中で繰り広げられる殺陣を自然光によるロングショットの長回しで撮るなど、明らかにこれまでの東映時代劇の撮り方とは異なっていた。
編集だけは東映時代劇全盛時代からの職人宮本信太郎がニラミを利かせていた。

中山道が軽井沢から追分宿で北国街道に別れ、小諸宿へかかるあたりが舞台。
3年間の旅に出て、いっぱしの男となって帰ってきた橋蔵。
弱きを助け、理不尽は通さない、仁義に生きる任侠の徒だ。
だが帰ってきた故郷では、任侠より金と力が幅を利かし、再会を誓った恋人はかつての舎弟の妻となっていた。
そこへ現れた訳ありの浪人が、宿場で張り合う2大勢力の壊滅を狙って策動する・・・。

任侠の世界が(そんなものがあったとして)時代遅れとなり、金がすべての近代資本主義のようなものに駆逐されてゆく様を、黒澤明の「用心棒」(1961年)の骨組みを加味して描いている。

山下、鈴木、中島らが新しいからかインテリだからか、現代語で親分子分、身分の差なくデイスカッションのようにセリフがやり取りされる。
中には、敵対する親分(遠藤太津朗)から「仁義なんかじゃ飯は食えねえ。ヤクザの正義は力だ」(意訳)などというセリフも飛び出す。
同趣旨のセリフ「仁義なんか知らねえ。俺はただの殺し屋だ」が鶴田浩二から発せられた68年の山下作品「博奕打ち・総長賭博」(1968年)があった。
「総長賭博」は三島由紀夫も絶賛する任侠映画だったが、山下監督のヤクザに関する醒めた視点は、64年の本作から一貫していたことがわかる。

「大喧嘩」では、主人公が旧来の優等生的ヤクザであり、アンチヒロイズム的なセリフは、わき役が端端で発していたものの、映画全体が反ヤクザ的価値観を前面に押し出すものとはなっていない。
新しいヤクザのヒーロー像を求めたり、「リアル」に徹した悲惨なやくざの現実を追求してもいない。
それは橋蔵の役者としての限界であるとともに、当時の山下、鈴木、中島らにとってもまた、限界だった。

見ていて「優秀な堅気の作者が作った若い感覚の股旅映画」という感じが最後までした。
田圃を踏み荒らし延々と走るラストの殺陣のシーンは、当時はやりのフォトジェニックな撮り方であり、切迫感より、瑞々しさが感じられた。
また、ヤクザの物語に対する突き放したような客観性が感じられた。

映画という見世物は、「非日常性」がなければ木戸銭を払う動機にはなりずらい。
東映時代劇にあっては、主人公中心の派手な立ち回り、豪華な衣装、芸子総揚げのレヴュー、異形の姿で御用提灯に囲まれる悲壮、等々。
なにより役者たちの「素人」とは隔絶した「超人」性。

映画の「非日常性」が一敗地にまみれ、観客動員がつるべ落としとなっていた60年代中盤。
作り手として第一線に迎えられた山下、鈴木、中島にとって、「非日常性」への復帰は論外だし、かといって描くべきものも確立せず、とりあえずそれまでの「非日常性」への軽いアンチを提示することからの、この作品は出発点だったのだろう。

橋蔵にとって東映時代最晩年の1作となった。

ラピュタ阿佐ヶ谷「新春初蔵出し東映時代劇まつり」より  片岡千恵蔵の巻

東映時代劇の、いや前身の東横映画時代からの稼ぎ頭であり、御大と呼ばれたスターは片岡千恵蔵と市川右太衛門だった。

両者はともに歌舞伎界から戦前に映画界入りし「七聖剣」と呼ばれた。
千恵蔵は、マキノ・プロを経て千恵・プロを起こして独立したが、「私は剣戟が好きではなかった」と述べる剣戟スターだった。

戦前の片岡千恵蔵の出演作に「鴛鴦歌合戦」(1939年 マキノ雅弘監督)という愉快な作品がある。
志村喬やゲスト出演のデイック・ミネらとともに若き千恵蔵が歌うミュージカル仕立ての時代劇だった。

「鴛鴦歌合戦」

戦後になると、GHQから仇討ちなどをテーマとするチャンバラものの製作を禁止され、千恵蔵は当時所属していた大映での「多羅尾伴内」シリーズ、東横に客出しての「金田一耕助」シリーズなどの現代劇に活路を見出さざるを得なかった。

1948年、大映系の映画館主が集まった会で、大映社長の永田雅一が『多羅尾伴内ものはつなぎの映画。今後は芸術性の高い映画を製作してゆく。役者などは何度でも取り替えられる』と発言し、千恵蔵が激怒、大映との契約更改は行われなかった。
裏に東横映画のマキノ光男らの暗躍があった。

千恵蔵の現代劇「アマゾン無宿・世紀の大魔王』(1961年 小沢茂弘監督)

マキノらに誘われた千恵蔵は、東横映画の真のオーナーである東急の五島慶太との面談を要求し、その場で東横映画の重役に就任すること、また東横映画が独自の配給網を作ることを約束させた。
これはのちに、製作と配給を一つの会社に統合しての東映が発足するきっかけの一つともなった。
千恵蔵は、松田定次監督、脚本家の比佐芳武とともに東横映画に移籍し、のちの東映時代劇の興隆を担うこととなった。

1950年、GHQに気を使いながら、千恵蔵主演で「いれずみ判官」を製作した。
当時役者の小遣い稼ぎとして行われていた地方巡業での千恵蔵の当たり役「遠山の金さん」の映画化だった。
映画はヒットしシリーズ化され、千恵蔵の当たり役となった。

「いれずみ判官」第一作(1950年 渡辺邦夫監督)。右は花柳小菊

千恵蔵はまた、満映から帰還した内田吐夢監督の復帰第一作「血槍富士」(1966年)をはじめ、「大菩薩峠三部作」(1957年~59年)、「妖刀物語・花の吉原百人斬り」(1960年)などの内田作品に出演、監督ともども高い評価を得た。

このほか、1950年代の東映では、「いれずみ判官」シリーズなど、当代当たり役に出演を続け、「旗本退屈男」などの右太衛門とともにマネーメイキングスターとして会社を支え、絶大な威信を誇った。

「血槍富士」の奴姿

60年代に入ると千恵蔵、右太衛門両御大の出演作品の観客動員数に陰りが見え始めた。
折から日本映画全体の観客動員数も1959年を境に激減し始める。
東映は、両御大中心の時代劇から、集団抗争劇、任侠ものなどの新傾向の作品を模索せざるを得なくなり、千恵蔵も集団劇の一人として出演するなどする。

それでも東映そのものの凋落に歯止めがかからず、当時の京都撮影所長岡田茂から千恵蔵が専属契約の打ち切りを通告されたのは1965年のことだった。

千恵蔵はその後も重役として東映に残り、その後のヒット路線となる任侠映画や、異色作「日本暗殺秘録」(1969年 中島貞夫監督)、やくざ映画に政治的波形を持ち込んだ「日本の首領・完結編」(1978年 中島貞夫監督)などにもその姿を見せた。
一方の右太衛門は任侠映画への出演を拒否し、東映を去って活躍の場を舞台に移していった。

岡田茂(左)らと談笑する晩年の千恵蔵

千恵蔵の履歴を見てゆくと、戦前に自らの千恵蔵プロダクションの運営に関わったことからくる経営感覚と自らの役柄を固定しない柔軟性があることがわかる。
「鴛鴦歌合戦」の飄々とした青年ぶり、「血槍富士」での実直・素朴な中年下郎ぶり、「日本暗殺秘録」での狂信集団の老黒幕ぶりを見るにつけ、演技者としての素質・素材の良さに改めて感心する。

では、東映時代劇の最終場面であり、千恵蔵の定番時代劇の末期である60年代に入ってからの作品を、ラピュタ阿佐ヶ谷の「東映時代劇まつり」から3本見てみる。

ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーには、東映から35ミリ上映用プリントが届いていた

「半七捕物帖・三つの謎」 1960年  佐々木康監督  東映

「半七捕物帖」は岡本綺堂という、明治生まれの小説家による新聞小説が原作。
江戸時代に三河町の半七親分と呼ばれた岡っ引きの捕物を江戸情緒豊かにまとめて人気を博した。
この小説の成功により後年「銭形平次」「人形佐七」「若様侍」などの捕物帖小説が生まれた。

「半七捕物帖」の戦後唯一の映画化が本作。
おそらく東映が期待したほどヒットはしなかったのだろう、シリーズ化はされなかった。
テレビドラマとしては1966年からの長谷川一夫主演によるものが極めつけで、その後は、尾上菊五郎、里見浩太朗なども演じている。
原作が半七の華々しい活躍よりも江戸の市井の様相や人情を伝えることに力点が置かれていたことから、長谷川一夫のキャラクターにふさわしかったようだ。

映画界では、60年代に入ってから、千恵蔵の看板シリーズである「いれずみ判官」が62年に終了するなど、50年代までの絶対的人気に衰えが目立っていた。
千恵蔵主演のシリーズもの時代劇は製作されず、「十三人の刺客」(63年)など集団抗争劇に出演したり、「俺は地獄の手品師だ」(61年)など、刀を拳銃に持ち替えた現代劇に活躍の場を移していった。

演技者として晩年を迎えようとしていた千恵蔵だが、本作「半七捕物帖」では持ち味を発揮した。
年齢からか、江戸の腕利き岡っ引きとしては機動性に欠けるが、鋭い推理とあふれる人情味はますます健在で、原作「半七」が持っているであろう、江戸情緒を舞台にした岡っ引きの親分にふさわしかった。

共演は、番頭格の子分に東千代之介、半七の手先となる町の遊び人に鶴田浩二、愛人のために誤って異人を斬ることになる若侍に沢村訥升。
女優陣には千原しのぶ、花柳小菊のベテラン陣に、若手から東映三人娘のひとり桜町弘子。
ここでは全員妙におとなしく演じており、決して御大の演技の邪魔をしないのは、さすが東映時代劇で培ってきた俳優陣のチームワーク。
唯一、映画では新人と思われる沢村だけがガツガツとした動きを見せた。

監督は戦前の松竹大船で清水宏、小津安二郎の助監督に付いた佐々木康に、脚本:比佐芳武、編集:宮本信太郎の東映時代劇黄金コンビ。
だが、このコンビでも時代劇黄金時代のテンポがでない、いつものキレがない。
あるのは静かな調子で御大千恵蔵の人情味と人の好さが醸し出す江戸情緒。

プレスシート。左下が沢村訥升

映画は3話構成のオムニバス方式。
千恵蔵らはもちろん、鶴田、千原などは2話、3話とまたがって登場する。
オムニバス構成は、緊張感の持続と展開の早さを狙った新工夫ではあるが、なにせ映画全体を流れる基調は、御大の人情味あふれるゆったりとした江戸情緒。
工夫が斬新とはなっていない、それがいいのだが。

東映撮影所のそして時代劇のお約束として、奉行所役人(武士)と岡っ引き(町人の身分外に位置する、無宿もの、やくざ者)の、決して越えられない身分の違いをきっちりと描き分けている。
また映画全盛期ならではの贅沢が垣間見える。

例えば横浜異人用の遊郭のセットが、ワンカットだけなのに、顔見世の建物の作りと奥に潜む白く首を塗った女郎達の妖艶がしっかり作り込まれていていた。
監督が都度指示したというより、勝手知った撮影所のスタッフが脚本の意を得て準備したものなのだろう。

このように、女優の歩き方、口調、シナの作り方、着物の襟の着こなし、ひいては玄人筋の女性の描き方など、時代考証以前の当時の風俗の再現は、東映時代劇を見る楽しみの一つである。

若侍役の沢村訥升という若手は、歌舞伎出身なのか、走っても頭の位置が動かないうえに、腰が据わった太刀さばきを見せる。
何より、見得を切る時の目や唇のひん剥き方が、白塗りドーランと合わせてサイレント時代劇の剣戟スターのようで、逆に新鮮味があった。
時代劇新スターの素質は十分とみたが、出てきた時代が遅かったのか、その後の活躍を寡聞にして知らない。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

「勢揃い関八州」  1962年  佐々木康監督  東映

実年齢が還暦近い千恵蔵が國定忠治を演じるセミオールスターもの。

忠治の味方に、高田浩吉、北大路欣也、松方弘樹、若山富三郎、山城新伍。
敵方に月形龍之介、近衛十四郎。
女優陣は久保菜穂子、扇千景、北沢典子。

配役をみると男優陣は若手抜擢、女優は新東宝など他社からの移籍組が多く、顔ぶれが50年代の東映時代劇から様変わりしている。

オリジナルポスター

弱気を助け強きをくじく。
己の身分はわきまえ(やくざ者は士農工商の身分制度の外)、義理人情に厚く、金払いはよい。
それゆえに男は従い、女は慕う。
子分を従えれば常に冷静沈着、統率力十分。

千恵蔵が演じると、完全無欠過ぎる國定忠治もなぜか納得がゆく。

当時の東映の新鋭脚本家だった結束信二のシナリオには、新趣向として登場人物らの葛藤なども描かれる。
例えば、関八州の代官として忠治に立ちはだかる月形龍之介と、浪人として忠治を付け狙う平手深酒(近衛十四郎)の千葉道場以来の腐れ縁とその後の二人の分かれ道を述べてみたり。
忠治の子分格だったヤクザが代官から十手を預かり、目明しとなったがために分不相応に成り上がり、女(久保菜穂子)を巡って忠治と対立したり。
唐突に、森の石松を登場させてみたり。

殺陣の場面ももはや千恵蔵の威光に乗っかることもなく、北大路、松方の若手二人に大暴れさせ、また殺陣の舞台も、50年代に多かったであろう、屋敷内や街中でのみ行われるのではなく、森の中や水たまりのある谷底で、水を被ったり泥を浴びたりして行われる。
60年代に入って流行してきた「リアルな」殺陣の影響であろう。

ラピュタのロビーに掲示されたチラシ

テンポの良さ、スピード感は50年代の東映時代劇そのままに、スターらが続々といい場面で現れるなど、伝統を引き継いでいる。

また、佐々木監督の持ち味である、ロマンチシズムとミュージカル志向はいつもながらに心地よい。
久保菜穂子や扇千景らの愛する男たちへの情念。
ピンチの北大路が飛び込んで難を逃れた旅芸人一座のヒロイン北川典子との淡いロマンス。

佐々木監督手練のレヴューシーンは一座が舞台。
北川典子の踊りや千原しのぶの水芸などが華やかで艶やか。
やっぱり東映時代劇はこれがなくちゃ!

孤高の達人平手深酒を演じる近衛十四郎が殺陣は一番うまかった。
足の運び、剣さばきと見ごたえがあった。
一方、千恵蔵は上半身のみ映す殺陣シーンで、足の運びがすでに心もとなくなっていたのか?

森の石松役でコメデイリリーフ的に出てきた山城新伍。
すでに後年の役柄の原点を見出していたようだ。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

「勢揃い東海道」  1963年  松田定次監督   東映

さあいよいよ千恵蔵時代劇の、そして東映時代劇の最終章だ。
時は1963年、正月公開の文字通りオールスター映画。

千恵蔵はもちろん、両者並び立たずといわれた市川右太衛門が出ている。
御大そろい踏みとあらば、若手の人気スター中村錦之助と大川橋蔵も座視はできまい。
東千代之介、大友柳太朗の二人もはせ参じよう。

外様の高田浩吉、売り出しの里見浩太朗、北大路欣也、松方弘樹はもちろん動員だ。
女優、といっては失礼なほどのカンロクの美空ひばりにも一肌脱いでもらって、花を添えるのは演技派久保菜穂子と今が盛りの丘さとみに桜町弘子(東映三人娘のもう一人大川恵子は前年に結婚引退)。

オリジナルポスター

本作が東映時代劇の最末期にあったのは、東映時代劇のエース監督松田定次が、この年63年に4作、64年に2作、65年に1作と監督本数を減らしてゆき、69年の2作をもって映画からテレビに移る過程の作品で去ったこと。
また本作では準主演の大川橋蔵の東映オールスター最後の出演作であり、かつ名コンビ美空ひばりとの共演も最後であることにも表れている。
ちなみに、日本映画全体で1960年には168本作られた時代劇が1962年には77本になり、1967年にはわずか15本となってゆく頃に製作されたのが本作である。

脚本は戦前の新興キネマから戦時統合された大映を経て、戦後、大映で活躍していたという高岩肇。
50年代に入って、新興キネマ時代の盟友松田定次の引きで東映に移り、60年代に入ってからは各社で活躍した。
代表作に「血ざくら判官」(54年)、「二・二六事件脱出」(62年)、「忍びの者」(62年)、「夫が見た」(64年)、「春婦伝」(65年)、「若親分」(65年)、「眠狂四郎無頼控・魔性の肌」(67年)などなど。
各社にまたがる異色作を手掛け、特に市川雷蔵のヒットシリーズを生み出している点が、この脚本家がただものではないことを示している。

さて、本作「勢揃い東海道」。
ご存じ清水の次郎長の荒神山を巡る縄張り争いを主軸に、次郎長の親分ぶり、子分たちの義理人情、女房達との板挟み、堅気とやくざのけじめ、武士階級との間の厳然たる身分の差、義理を欠いたやくざの悪辣さ、を横軸に繰り広げられる。
そこへ幕末の志士山岡鉄舟が登場し次郎長を助ける。
人情味あふれる次郎長親分には千恵蔵に扮し、豪快な殺陣と貫禄で右太衛門が鉄舟で登場する。

映画の前半は橋蔵とひばりの夫婦のやり取りをじっくり見せる。
子が生まれたばかりの仲のいい夫婦、(映画ではセリフを全部覚えてから現場入りしたという)ひばりの母親ぶりが甲斐甲斐しい。
世話になった次郎長主催の花会(博奕大会)に夫婦子連れで清水にやってきて、そこで耳にした荒神山を巡る一件。
義理の親父の悪徳三昧に、掘れた女房に三行半を突き付けて、橋蔵、仁義を欠く義理の親父に殴り込みだ。

ひばりとの息の合った夫婦ぶり。
そのしっとりとした場面を尺を取って見せた後、義理を立ての殴り込み。
珍しや橋蔵が惨殺されるが、次郎長親分への義理立てと、惚れた女房への三行半、その親父へのやむに已まれぬ反逆、それぞれの葛藤が十分描かれているから橋蔵の悲壮感が生きる。
死してのみ通る仁義の世界も納得感がでる。
まだまだ(映画俳優として)いけたんじゃないの、橋蔵。

若手として、松方弘樹ともども売り出し中の北大路欣也。
二人のとっぽい若者ぶりが、コメデイリリーフ的にアクセントとなっている。
また、二人の、特に北大路の扱いには東映の期待感がにじみ出る。

両御大も頑張っている。
ラストの殴り込み。
千恵蔵の殺陣は鬼気迫る。
表情だけではなく足の運び、ドスさばき、全身で魅せる。

右太衛門は殺陣では脇に回り、貫禄で勝負。
荒神山の手前で悪徳役人らに行く手を阻まれた次郎長一家、指物次郎長も役人相手では「お慈悲」を乞うしかないピンチに颯爽と馬で駆け付ける鉄舟こと右太衛門。
登場ぶりがいい。

時代劇の終末観がどこか漂うこの映画。
どうしてもこの時期に勃興した「リアル」な時代劇の、あるいは任侠劇の影響がある。

いつもは隅々まで明るい照明も、橋蔵とひばりの場面など、本人たち以外は背景など暗めのライテイング。
橋蔵の惨殺シーンは、のちの任侠映画のテイストを漂わせる。

東映三人娘の丘さとみが、芸者姿で出てきたときだけはパッと画面に花が咲き、その時だけは懐かしい東映時代劇のテイストだったが。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

千恵蔵、渾身の殺陣が決まった後は、富士を見上げて全員が勢揃い、千恵蔵と右太衛門が握手してのラストシーン。この握手、来るべき御一新の世には次郎長と鉄舟が協力して新しい世の中を作ろう、ということなのだが、見ていて東映時代劇の終焉を前に両御大がお疲れの握手をしているかのように見えたのは筆者だけだったろうか。.

(おまけ)  佐々木康監督について

ここで、「半七捕物帖・三つの謎」「勢揃い関八州」の佐々木康監督について、1993年刊の自伝「悔いなしカチンコ人生」より経歴を抜粋してみる。

「悔いなきカチンコ人生」表紙

・1908年、秋田県生まれ。
・1917年、早稲田大学卒。
・1928年、松竹鎌田撮影所入所。清水宏監督に師事。「ズー」が一生の愛称となる。

・1929年、小津安二郎の助監督時代の編集作業が後年役に立つ。
・1931年、「受難の青春」でデヴュー。
・1937年、『音楽映画』が得意ジャンルとなり、音楽に俳優の動きを合わせるプレイバック手法に熟達。
・城戸四郎松竹撮影所長に「ジャーナリズムにもてはやされる『映画作家』に育てるためにお前を抜擢したのではない」と言われ、以降、娯楽作家への道を徹底する。
・1939年、音楽映画の大作「純情二重奏」を高峰三枝子らの出演で製作、大ヒットする。

佐々木康デヴュー作「受難の青春」

・1945年、戦後第一作「そよかぜ」と挿入歌「リンゴの唄」がヒットする。
・1946年、「はたちの青春」で日本映画初のキスシーンを演出。
・1952年、東映に移る。満映で世話になったマキノ光男に口説かれた。城戸所長も了承し松竹は円満退社。

戦後第一作「そよかぜ」

・東映移籍第一作は、片岡千恵蔵主演の「忠治旅日記・逢初道中」。
・以降、東映在籍の13年で86本の作品を撮る。市川右太衛門とは息が合い「旗本退屈男」シリーズなど20本を撮った。右太衛門は大仕掛けな演出を好み、撮り方に注文も付けた。佐々木はそれを受け入れ、気に入られた。なお千恵蔵は監督の演出に従う人だったという。
・美空ひばりとは1949年の「魔の口笛」以降19本の作品を監督した。
・1957年、シネマスコープ第二作「水戸黄門」で興行収入3億円の東映新記録を達成。オールスター映画は佐々木の得意ジャンル。スターらの気に入るように、またその個性を最大限生かすように演出した。

美空ひばりと佐々木

・同年、マキノ光男死去。マキノの死が東映時代劇の寿命を三年は縮めた、と佐々木。
・1964年東映を退社し東映京都プロダクションに転籍。テレビ時代劇を監督する。近衛十四郎の「素浪人月影兵庫」、大川橋蔵の「銭形平次」などを撮る。生涯で映画168本、テレビ約500本を演出した。

東映時代劇全盛期、「曽我兄弟・富士の夜襲』(1956年)撮影風景



佐々木の演出家としてのモットーは、スターに気持ちよく演技させる環境づくりにあった。
思い通りに演技してそれが銀幕に映え、また大向こうに受ける華と技量を持ったスターが東映にはいた。
映画史からはほとんど無視されているが、50年代の東映時代劇は日本映画史における黄金時代だったのではないか。時代を反映した明るさがそこにはあった。
娯楽映画に徹した東映時代劇の現場の功労者が、監督の松田定次と佐々木康だった。
惜しむらくは興隆に甘んじ、また多忙を極めた多産体制の中で、定番を繰り返したことが60年代の衰退につながったか。

とはいえ黄金時代の文化的蓄積があったからこそ、60年代初頭の「リアル」を目指した時代劇のあだ花が咲いたのであり、その後の任侠映画の勃興があったのだろう。
佐々木康監督は、東映時代劇の興隆の真っただ中にあっての生き証人だった。

「悔いなしカチンコ人生」目次とカラー口絵


ラピュタ阿佐ヶ谷「新春初蔵出し東映時代劇まつり」より 市川右太衛門の巻

2025年の新春、ラピュタ阿佐ヶ谷の上映はじめは東映時代劇だ。
思えば映画ファンを自任し、東映やくざ映画も含めた邦画ファンのつもりの山小舎おじさんは、東映時代劇をほとんど見ていなかった。

時代が違ったとはいえ、片岡千恵蔵、市川右太衛門、大友柳太郎から中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵ら、日本映画の黄金時代に観客動員数のトップを走り抜けた東映時代劇のスターたちを、リアルタイムではもちろん、再上映でもほとんど見ていない。

とくに華麗な立ち回りが音に聞こえた市川右太衛門の十八番シリーズ「旗本退屈男」は1本も見たことがない。
これはいかん、と2025年の1月、ラピュタ阿佐ヶ谷に駆け付けた。

「新春初蔵出し東映時代劇まつり」の特集パンフレット

市川右太衛門

大映の時代劇スターだった右太衛門は、戦後、GHQの差し金により時代劇が撮れなくなっていら立っていた。1946年に槍を武器に殺陣を舞う「槍おどり五十三次」に出演。
刀を抜いて身構える敵方に対し、槍で暴れ回った。槍に対してはGHQは何も言わなかったが刀で思いっきり暴れ回りたかった。

「旗本退屈男」の市川右太衛門

1949年、東横映画のマキノ光男の誘いで大映から移籍する。
条件は先に移籍した片岡千恵蔵と同じ重役待遇だった。

東横映画に移った右太衛門は、1938年を最後にシリーズが中断していた「旗本退屈男」の復活を願った。
「旗本退屈男」中断の理由は1940年に制定された奢侈禁止令のためだった。
それくらい退屈男の衣装は豪華絢爛、派手であった。
また右太衛門は退屈男の豪華な衣装がいかにファンの夢を醸し出すかを知っていた。

東横映画での退屈男復活に際し、右太衛門は京都高島屋の婦人呉服売り場で着物の柄を探し、同行の美人画家に「思いっきり派手にデザインするように」頼んだ。
作品1本につき13枚もの高級和服に身を包んだ。

劇中で着る着物を選ぶ右太衛門

歌舞伎の経験がある右太衛門は、派手な衣装を着こなし、史実を無視して長く作った刀を使った。
原作には詳しく記述のない退屈男の剣法、諸刃流青眼くずしをカメラ映えするように自己流にアレンジして撮影に臨んだ。

GHQが殺陣シーンに「人を殺すことを美化している」と文句をつけた。
右太衛門は「とんでもない。剣の舞いなんです」と説明し検閲を通した。

「旗本退屈男 謎の十文字」  1959年  佐々木康監督  東映

歌舞伎で鍛えた足さばきと華麗な太刀さばき。
見得を切る時のセリフと笑い声。
1作品に数着の豪華絢爛な着物。
すでに貫禄のついた大きな顔の額に描かれた天下御免の向こう傷。
ご存じ、旗本退屈男こと早乙女主水之介が天に代わって不義を撃つ痛快シリーズの、戦前から数えて第25作目の本作。

ロケは国宝クラスの三十三間堂を借り切り、太秦の撮影所に戻れば新品の青畳を敷いた大掛かりな日本家屋のセットが用意されている。
北大路の御大・右太衛門が中年の体つきながらまったく無駄のない足さばきで、太刀を青眼に構えれば、太秦で鍛えた斬られ役の精鋭たちが得たとばかりに御大の周りで斬られ、飛ぶ、跳ねる。

名に聞こえた右太衛門の衣装は、劇中、夜の追跡の場面でも、歌舞伎揚げせんべいの袋か緞帳かのようにキンキらと暗闇に映え、『なんでこんな場面で一番派手な衣装を』と思わせるが、それを着こなす右太衛門は誰にも文句を言わせない。

かつて「潮騒」(1954年 谷口千吉監督 東宝)で、可憐な娘役としてデヴューした青山京子は5年を経てすっかり色っぽい年増となり、退屈男を江戸から京まで追いかける訳あり女としてキャステイング。
道化役にはマチャアキの実父の堺駿二が満を持しての登場で、これまたすこぶる達者。
怪人・益田キートンも京都撮影所の御大を前にしてはひたすら恐縮の体。
退屈男が助ける島津家のお姫様に丘さとみで、襟元をしっかりガードした超箱入り娘仕様。
さらに当時10代と思われる歌右衛門の実子・北大路欣也が帝の皇太子役で、親父右太衛門をフォローする。

マツケンサンバも裸足で逃げ出す右太衛門の、天下無双のワンパターンがお約束の派手派手な世界。
国会周辺が第一次安保闘争で危急の時を迎えていたこの時代。
圧倒的大衆は「旗本退屈男」を見に映画館の門をくぐり、ひと時の慰めを得ていたことになる。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

右太衛門らの時代がかった文語体のセリフに拘り、ストーリー展開の説明がおろそかな脚本。
コマかなカット割りを省略するかのようにズームとパンを多用する撮影。
いずれも御大に専属の手練れのスタッフによる仕事。
ワンパターンからの逸脱は許されない。
なぜならこのままで客は入るのだから。

祇園で退屈男が過ごす宴席には、本職と思われる数人の芸者衆に豪華なセットで舞わせる贅沢。
女優の所作、堅気と年増をきっちり分ける着物の襟脚。
ここら辺は全盛期の東映時代劇ならではの楽しみ。

退屈男の勤皇的な立場、江戸志向は、体制的な大衆に迎合することを作品作りのモットーとした東映らしかった。

「旗本退屈男 謎の幽霊島」  1960年  佐々木康監督  東映

「退屈のお殿様」と周りに慕われる、公儀旗本・早乙女主水之介は長崎を舞台に島津藩らが策謀を繰り広げていると察知して、一人街道を西進する。
後を追う女スリ(木暮実千代)と手下(堺駿二)には、やがて退屈男に惹かれてゆく。

天下に不義を正すためならすぐさま行動する。
身分はバリバリ体制派で権力者の旗本のお殿様。
その人格は明朗活発で、モテモテながら高潔にして公明正大。
ついでにファッションは派手派手の着流しにキレキレの剣術使い。

津々浦々の一般大衆が待ち受けるヒーロー像に市川右太衛門ほどぴったりな役者はいない。
旗本退屈男と右太衛門が一体化しているというか、むしろ右太衛門が自分のカラーに退屈男像を引き込んで完成に至った主人公像である。

作品中、退屈男が長崎の宿に逗留すれば、玄人筋っぽい女将(花柳小菊)が「先にお風呂にしますか?それとも?」としなだれかかってくる。
「まず風呂じゃ」とかわしつつ、次の場面で上物の浴衣でくつろぐ退屈男。
隣ではかまってくれない玄人美女が焼いている。
泰然と美女のやきもちを受け流す退屈男こと右太衛門の姿には全く無理がなく、嫌みもない。
昭和の庶民のお父さんたちの「あこがれの姿」がここにある。

最初のチャンバラの場面の着流しが、プロレスのガウンのようで、柄といい質感といい、重ったるかったが、殺陣の剣さばき、足運び、崩れない姿勢、見得を切る角度は、まさに円熟の境地というか芸術的。
斬られ役のタイミングの合わせ方も完璧で、なるほど観客は満足するは。

映画の趣向は、長崎の異国情緒を松竹大坂のダンシングチームによる舞台と悪役・山形勲の唐人服などで表現。
長崎町内の石畳を重厚なセットで再現し、そこで退屈男と悪役を戦わせる。
石畳の再現は、当時の撮影所の美術と照明の腕の確かさを画面で確認できるもの。

ラピュタの特集パンフより。写真は宣材用のもの

悪役は例によって山形勲。
ここまで配役がパターン化されると、右太衛門が(加山雄三の)若大将で、山形が(田中邦衛の)青大将に見えてくる。
そのマンネリズムを楽しむのも一興。

ヒロインの丘さとみはエキゾチックな唐人服で登場。
悪役側の一員だが、退屈男に味方する実は日本娘という役柄だった。

シリーズレギュラーの丘さとみは唐人娘?役で登場


「旗本退屈男 謎の幽霊島」  1960年 松田定次監督  東映

栄光の退屈男シリーズ第27作。
全30作で終了するシリーズの終盤を飾る1作。
残り3作品、1963年にさしもの退屈男シリーズも終了する。

アイデアも趣向も出尽くしたであろう退屈男シリーズの、残った見どころは、右太衛門の流れるような殺陣と衣装、そして決まり文句のセリフ回し。
観客を喜ばせ、安心させたであろうそれらの見どころは、不動の定番であったがゆえに年月を経て飽きられる結果となった。
右太衛門もすっかり中年となり、貫禄はついたが、諸国を颯爽と歩き回り、年増の美女たちに熱を上げさせるには少々無理が出てきた。
演じて居る本人は気持ちいいであろうが、見ている方は少々つらくなってきた、ということだ。

本作は、東映時代劇のエース監督・松田定次と撮影・川崎新太郎の黄金コンビに新鋭脚本家・結束信二を組ませた布陣による一作。
主人公中心の画面構図、隅々まで明るいライテイング、場面の中心人物にズームするわかりやすい撮影技法、で映し出された、右太衛門中心の殺陣と金のかかったその衣装が、相変わらず徹底される。

右太衛門の殺陣は、敵の第一撃を首を傾けて避け、足の運びも無駄なく、腰が据わった中で自分自身も必要最小限に移動つつ繰り広げられる。
刀さばきは流れるように美しい。

リアルでないといわれればそれまでだが、名人の太刀さばきを見ているようだ。
大体、現代人のわれわれは実際の斬りあいを見たことも聞いたこともない。
股旅やくざの長脇差の振り回し合いや、血が噴き出す斬りあいが実際にあったかどうかもわからない中で、刀をめちゃくちゃに振り回してリ、血が噴き出す描写がリアルな斬りあいだったという確証はない。

一方、右太衛門の殺陣に、緊迫感、悲壮感があったかというとそれは少ない、痛みも感じられない。
あるのは爽快感と華やかさだ。
緊迫感や痛みの表現をして「リアル」というのであれば、右太衛門の殺陣はリアルではない。

確実なのは、退屈男の殺陣は、スターシステムの牙城であった東映の中で右太衛門が目指してきたスタイルであり、スター右太衛門を生かそうと、監督以下スタッフが全力でサポートしてきた結果である、ということ。
そしてそれらが観客に飽きられてきたということである。

本作の筋立ては、単純な悪を退屈男が成敗するだけではなく、一義的には将軍綱吉を呪い殺そうとする邪教の忍者たちをまず退屈男が成敗する、が邪教の忍者たちとて、将軍の座を狙う真の反逆者である尾張大納言の手ごまに過ぎなかった、さて退屈男は真の敵をどう裁くか?という二段構えになっている。

差別され、使い捨てられてゆく忍者たちへの哀れさを描くのが、新鋭脚本家の結束信二の狙いの一つであるが、そのため、ストーリーが複雑になり、暗くもなっている。
単純な悪に対峙してこそ輝く、退屈男の派手な姿が、権力に差別された忍者たちに対すると、存在が浮き、輝きを欠いてしまう。
おとぎの国の退屈のお殿様に、社会の悲惨な現実は似合わない。

60年代に入り、右太衛門、千恵蔵をはじめ50年代の時代劇スターの人気が陰り、東映のみならず全国的な(全世界的な)観客動員数の激減を招いた映画界にあって、新機軸を模索した1作だが、かえって混乱を印象付けたものとなった。

ちなみにシリーズのお楽しみ、大勢の踊子による舞踏シーン。
たいていは悪役の宴会シーンなどでの一幕として描写されるが、今回のそれは大納言による将軍歓迎会での琴の合奏と雅楽のような踊りだった。
退屈男には「謎の十文字」の、お座敷での祇園の芸者総揚げのような日本舞踊のあでやかさが似合っていた。

ラピュタの特集パンフより

退屈男の脇にいて絶妙な色気を醸し出す花柳小菊は、今回は女スリの役で色を添える。
ジイ役は進藤栄太郎、若侍に期待の新人・里見浩太朗、その恋人に東映三人娘の大川恵子。
娘の父に、戦前からの左翼系演劇人・薄田研二、邪教を奉ずる忍者にいつもなら真の悪役の山形勲、真の黒幕尾張大納言には山村総。
レギュラーの丘さとみも出ている。

右太衛門と花柳小菊。「旗本退屈男・謎の蛇姫屋敷』(57年佐々木康監督)より

「小説東映・映画三国志」と「東映京都撮影所血風録・あかんやつら」で読む東映時代劇

2025年新春、折からラピュタ阿佐ヶ谷で「新春初蔵出し・東映時代劇まつり」なる特集上映が始まった。

東映が時代劇映画で一時代を築いた1950年代終盤から60年代にかけての諸作品がラインアップされている。
市川右太衛門、片岡千恵蔵の両御大をはじめ、大友柳太朗、東千代之介、大川橋蔵、そして中村錦之助。

彼らの主演になる、「旗本退屈男」、「丹下左膳」などのシリーズものからチョイスされた上映作品。
これまで上映機会が多かった、千恵蔵の「いれずみ判官」や錦之助の「一心太助」、橋蔵の「新吾十番勝負」などはなく、レアもの中心のラインナップのようだ。

千恵蔵、右太衛門らを主役に据えての時代劇が大衆に受け、1954年には興行収入のトップに躍り出る東映は、60年代に入り旧来の時代劇が飽きられ、やがて任侠映画主流の製作方針へと舵を切ることになる。

戦後一時時代を築いた東映時代劇。
一般的映画本を読むと、黒沢明の「用心棒」、小林正樹の「切腹」などの名作時代劇についてのうんちくは語られていることが多いものの、東映の両御大や当時の若手剣劇スターについて映画評論家が語っている文献が少ない!
各ファンクラブ編の錦之助や大川橋蔵、丘さとみの写真アルバムが発刊されているのは目につくが。
千恵蔵や右太衛門による「正調時代劇」の評価、検証はどうなった?

うんちく派の映画本に刺激を受けてきた地方の映画少年だった山小舎おじさんにとっては、鑑賞の動機もなく、また機会も少ない東映時代劇は、日本映画史上の抜け落ちた分野だった。
それはひょっとしたら忘れられた宝の山なのかもしれない

今回のラピュタ阿佐ヶ谷の特集上映を機会を前に、まずは手元の映画本2冊をひもとき、東映の歴史と、時代劇スターの変遷について学んでみる。

「小説東映・映画三国志」と「東映京都撮影所血風録・あかんやつら」

「三国志」の著者は大下英治。
週刊誌の記者として、電通、三越事件などに取材したルポで売出す。
題材は政治から芸能まで幅広い。

「映画三国志」(1990年 徳間書店刊)は東映の歴史を小説化し、スポーツニッポン紙に連載したものの単行本。
人物の劇的なエピソードを中心にまとめている。
登場する人物は、映画人に限定せず、親会社の東急電鉄の五島慶太の豪快な振る舞いなどにも大いに及び、一般読者の興味を惹く。

記述内容は参考文献からの孫引きが多いようにも感じるが、読者を飽きさせない劇的な表現に富んでいる。
入門書として最適で、第三者的な視点からの東映史としても貴重な文献だと思う。
東映発足時の戦後直後から、実録映画が登場する70年代までをフォローしている。

「映画三国志」表紙
同、、奥付き

「あかんやつら」は、映画史研究家の春日太一による一連の著作の1冊。
春日は、1977年生まれの若手だが、少年時代から時代劇ファンで大学卒業時には東映の入社試験を受け、研究者となった今でも映画・テレビ・時代劇関連以外の執筆依頼は受けないというファン気質が徹底した人物。
新書で「天才勝新太郎」や「時代劇は死なず!」などを執筆している。

映画評論家の大御所にありがちな、高踏的、芸術志向的、権威主義的な雰囲気とは一線を画した、著者特有の視点から、東映の、特に京都撮影所のエピソードを活写した本作は、記述に当たっての関係者からの聞き取りも多く含まれ、単なる参考文献の孫引きにとどまらない。
東映への親近感とファン気質に満ちた1冊となっている。
50年代の時代劇全盛時代から80年代の五社英雄らによる時代までをフォローしている。

東映の歴史(任侠映画全盛まで)

「映画三国志」と「あかんやつら」をもとに、戦後直後から1960年代までの東映史をひも解く。

東映の前身東横映画は1938年に、東急電鉄の子会社の映画配給会社としてスタートした。
戦後の1946年に映画製作に乗り出すにあたり、マキノ映画や満州映画協会出身の根岸寛一やマキノ光男らの製作陣、スタッフには松田定夫、稲垣浩らを招集し、配給は大映にゆだねる形でスタート。
1947年には第一作「こころ月の如く」を製作した。

1948年には大映との提携を解消、独自の配給を行うようになったが、都市部の繁華街の劇場は東宝、松竹にほぼ抑えられており、地方の劇場との作品別、映画館別の契約に活路を見出すしかなく、業績は低迷を極めた。
同年、マキノ映画時代にマキノ省三(光男の実父)のもとでスターとなり、戦後は大映などに出演していた、片岡千恵蔵と市川右太衛門が重役待遇で移籍してきて観客動員の起爆剤となる。

東映の御大、片岡千恵蔵
御大2、市川右太衛門

まだまだ製作費の工面にも事欠く中、1951年親会社東急の五島慶太は、東横映画、大泉スタジオ、東映配の3社を合併し、製作から配給までを1社で行うことを決定し、新生東映の社長に東急本社の経理担当重役だった大川博を送り込む。
新会社設立にあたって銀行は五島慶太の個人保証を融資の条件とし五島は己の判断でこれを了承した。
大川の仕事は、積み重なった支払手形の期日延長を、手形交換所にお願いすることから始まった。
現場では、マキノ映画、満州映画協会からの現場スタッフらが、徹夜と給料遅配、製作費枯渇をいとわず、番組の穴を1回も空けることなく撮影をつづけ、作品を送り出していた。

1954年、千恵蔵、右太衛門の時代劇本編に子供向けの娯楽版と称する中編を加えた2本立て番組が爆発的ヒットとなり、中村錦之助、東千代之介ら若手スターが主に地方の劇場で人気を博す。
東映は累積負債10億を一気に返済、興行収入で5社のトップとなるまでの業績回復を遂げる。

東映の錦兄ぃこと中村錦之助

1957年、アメリカを視察して帰国した岡田茂の提案により、京都撮影所を拡充し、新たなステージを建てる。
こうして日本初のシネマスコープ「鳳城の花嫁」を製作。

1958年は国内の映画入場者11億人、映画館数7000館という日本映画史上もっとも景気が良かった歳となった。
1960年の東映の国内シェアは1/3ほどにもなり、独走態勢を固める。
スター主義の東映では、千恵蔵、右太衛門の両御大のほか、大友柳太朗、月形龍之介がそれぞれの十八番シリーズで、また錦之助、千代之介のほか大川橋蔵が若手時代劇スターとして人気を博した。

1960年には調子に乗った大川社長が第二東映なる配給網をぶち上げ、製作本数を倍増させたが、収益倍増にはつながらず、かえって映画館主側の不評、製作現場の疲弊を招き、足掛け8か月ほどで解消となった。

1963年、さしもの隆盛を誇った東映時代劇も飽きられ、明らかな興行収入の減少をみた。
東映は余剰人員の配置転換、両御大と旧来のスタッフとの契約解消、若手スタッフを登用しリアルな殺陣による「集団時代劇」に活路を求めたが、観客動員の決定打にならず。
やくざ者の生態を描いた「人生劇場・飛車角」のヒットにより時代劇からやくざ映画へとシフトしてゆくことになる。

1964年、親会社の東急が東映を切り離す。
五島慶太を引き継いだ息子の昇が、何かとうるさい東映の大川社長を切りたかったからだとされる。
これを受け、大川社長は京都撮影所の社員数を1/3の500名体制とする合理化を決め、岡田茂に実施を命ずる。
岡田はテレビ部などを作って配置転換により撮影所の合理化を実現する。

次いでこの時代の個性極まる東映のキーマンたちを点描する。

マキノ光男の映画人生

戦前に日本映画の父と呼ばれたマキノ省三の実子で、兄はマキノ雅弘。
戦前にマキノ映画でプロデユーサーとしての経験を積み、マキノ映画の解散とともに海を渡り満州映画協会に参画するが、理事長の軍隊官僚・甘粕正彦と、典型的カツドウ屋のマキノでは、まったくそりがあわず、ぶらぶらする。

帰国して東横映画の製作立ち上げに尽力したマキノは、満映時代の仲間を引き込んで映画製作することにも注力した。

「困っている奴はどんどん使ってやれ」と各社をレッドパージされた人材を東映に引き入れ、監督の関川秀雄、俳優の佐野浅夫、信欣二などをどしどし使った。
戦前の無頼な映画界で修業し、大陸にわたって軍人官僚や現地人と渡り合ってきたマキノにとって、同じ日本人同士、映画製作という目的を一にすれば後は何とでもなる、の心境だったのだろう。

「満男」と名乗っていた頃のマキノ光男

1950年、撮影所の進行主任だった26歳の岡田茂(のちの東映社長)の企画、関川秀雄の監督で「きけわだつみの声」を製作。
戦没学生の遺稿集「はるかなる山河へ」の原作の購入から、内容に干渉する東大全学連との折衝などに、脚本の八木保太郎とともに最前線であたった岡田を駆り立てたのは「こういった映画を残しておかにや、戦友が浮かばれんじゃないか」の心境だった。
岡田も学徒動員で出兵し、空襲を受けた生き残りだった。

1952年、占領軍からの干渉により大映で制作中止となった「ひめゆりの塔」を監督の今井正ごと引き受けたマキノは、今井に対し「周りからごいちゃごちゃいわれても全部はねたる。俺の目的はいい映画を撮ることなんや。右も左もないのや。大日本映画党や!」と啖呵を切った。

女学生役には当時の若手女優陣がキャステイングされた。
今井は撮影前、彼女らに、自分が扮する登場人物の履歴を作文にして提出することをを求めた。
渡辺美佐子、楠侑子ら若手女優陣は口に氷を含んで息の白さを隠しながらずぶ濡れで演技をつづけた。
彼女らは後々、今井を囲んで集ったという。

1600万の予算は4000万円にオーバーし、公開予定は遅れに遅れて正月第二週にずれ込んだ。
マキノは呼び付けられた大川社長宅で社長の前でわんわん泣いて大芝居を打ち、製作続行の了承を取りつけた。
1億8000万円の興行収益を上げたこの作品は東映起死回生のヒットとなった。

「ひめゆりの塔」
「ひめゆりの塔」

1955年、満映に渡った後、長く中国に抑留されていたマキノの盟友・内田吐夢監督の復帰第一作「血槍富士」を製作。
槍持ちの下郎に扮した千恵蔵が主君の仇とばかり、槍を振り回し、泥にのたうっての7分間の立ち回りが圧倒的で、3週間続映のヒット作となった。

「血槍富士」の7分間の立ち回り

1956年、マキノは再び今井正と組んで「米」を製作。
農村の四季を取り入れた脚本は、戦前に「土」を書いた八木保太郎を想定した。
マキノと八木はこの時絶交状態だったが、心配する今井に対し「冗談やない。いいシャシンをつくるのに、喧嘩もへったくれもあらへんで」と答え、八木に脚本を依頼した。

例によって遅れに遅れて完成した今井正監督の「米」は、その年のキネマ旬報ベストワンをはじめ各賞を総ナメ。
東映現代劇の起爆剤となり、その後の「爆音と大地」(1957年 関川秀夫監督)、「どたんば」(1957年 内田吐夢監督)、「純愛物語」(1957年 今井正監督)など現代劇の秀作が生まれるきっかけとなった。

「米」を演出中の今井監督

満映帰りの映画人の面倒を見、レッドパージ組の受入れるなどはマキノ光男の懐の深さを物語るが、根本は「映画は当たってナンボ」の精神が徹底していた。
「客のことを忘れたらアカンで。暇があったら小屋(映画館)に行って客の顔を見てこい。」「松竹、東宝は山の手志向や。それなら東映は浅草の客を目標にする!」と、ジャリ掬い、薄っぺらな紙芝居と一部の文化人に蔑まれていた大衆娯楽主義を徹底した。

1957年、脳しゅようと診断されたが、手術をはじめ一切の治療を拒絶。
薬も見舞いに来た錦之助が渡した時だけ飲んだ。
同年9月の東映本社での企画連絡会議には白装束の羽織はかま姿で現れ今までの礼を述べた。
まことに古きカツドウ屋そのもののマキノ光男の生涯だった。

東映時代劇を支えた現場の「天皇」たち

マキノ光男が破天荒な映画人生を送っているとき、京都撮影所には「天皇」と呼ばれる、アンタッチャブルな3人がいた。
監督の松田定次、脚本の比佐芳武、編集の宮本信太郎だった。
3人は、東横映画の製作開始に際し、マキノ光男が京都から連れてきた腹心のメンバーであり、マキノの大衆娯楽主義を作品として具現化するときの要となった腕利きたちだった。

松田定次はマキノ光男とは異母兄弟で、父の省三が愛人に産ませた子であった。
監督としての松田は「どうすれば大衆が喜ぶか」を第一に考え、時代劇の約束事として「ヒーローはストイックであり、無敵で不死身でなければならない」に徹した。
信頼するカメラマン、川崎新太郎を専ら起用し、被写体(ヒーロー)を中心に据えるオーソドックスな構図を徹底させた。
松田組は京都撮影所で「お召列車」と呼ばれ、最優先でスターやスタジオを確保でき、正月やお盆用の作品を任された。
日本初のシネマスコープ作品を任されたのも松田だった。

松田定次監督(右は片岡千恵蔵)

脚本家の比佐芳武は、スピード感を脚本に求めた。
伏線設定や状況説明の書き込み、また時代劇特有の儀礼や作法などの描写をやめ、テンポよくストーリーを追った。主人公の登場シーンでは、何の前触れもなく窮地にあるヒロインを救いに現れたりさせるなど、説明のための書き込みをやめ、観客が求めるヒーローの都合のよさに徹した。
「ヤマ場からヤマ場へ」マキノ省三以来の京都映画の鉄則を守ったのが、比佐だった。

「東映時代劇の独特のテンポは宮本信太郎の鋏によって生み出される」と評されたのが、編集の宮本だった。
編集作業の一切を、監督でさえ立ち会わせずに自分一人で行い、目まぐるしいスピードで展開する東映時代劇の作風を作り出した。
その手法は、説明的だったり凡長なシーンは容赦なく切り捨てたり、長回しのアクションシーンを細かく切りつなげてスピード感を作り出すものだった。
年間100本近い時代劇をほぼ自分一人で編集したという。

3人の「天皇」の存在、その影響力と圧倒的技量は、東映時代劇のまさに心臓部となった。
そのパワーは東映躍進の原動力となったが、反面、新たな価値観や創造性の出現を妨げてもいた。
松竹のデレクターシステムによる監督の権限尊重や、ジャン・ルノワールやのちのヌーベルバーグ派による「作家主義」とは正反対の製作方針が東映の考え方だった。

中公文庫「されど魔窟の映画館・浅草最後の映写」荒島晃宏著

珍しく新刊書店で手に取ってそのまま購入した中公文庫です。
最近は文庫本も高くて、買うのはもっぱら古本屋ですが、この本は面白そうでした。

本書表紙

かつて浅草六区と呼ばれた場所にあった邦画3本立てとピンク映画。
その映画館の最後の日々で映写技師を務めた著者の著書です。

著者は、自由が丘武蔵野館という名画座の映写技師でしたが、同館の閉館とともに無職となり、ハローワークでの職探しと失業保険の給付ののちに、浅草六区に4つの劇場を有する中映株式会社という興行会社に就職することになりました。

著者紹介

もともとは映画専門学校を卒業し、アニメの脚本家として1本立ちしていましたが、投資の失敗の借金返済のため、定期収入のある職を探していたのでした。

「文化的教養と興味を持つ若者が、生活力はないものの、何とか興味の対象との妥協をしつつ、実社会の片隅で生きる場所を見つけてゆく」的な展開に惹かれて頁を繰ってゆきます。

浅草六区の映画館配置図

浅草の3本立て映画館での映写技師の仕事の様子がつづられます。

『その時代、映写機の進歩もあり、1作品通しての上映ができるようになっていた。
それまでは約20分の1巻のフィルムの映写が終わると、間髪を入れず隣の映写機にセットしていた2巻目のフィルムを映写しなければならず、映写が終わった巻の巻き取りもあった。
またフィルム切れやピンボケ、フレーム調整などのため技師は上映中は映写室にいなければならなかった。
が、浅草では1作品のフィルムを全巻つないで1台の映写機にセットすると技師は映写室を離れ、映画館の入り口に立って自動販売機への補充や、モギリ、館内のクレーム対応などに従事するのだった。』(同著より)

当時の35ミリ映写機の雄姿

『2週間後に仕事ぶりを認められた著者は、邦画3本立ての浅草名画座から、ピンク映画専門館の浅草新劇への配置転換の辞令を受ける。
新劇開館は海外にも名の知れたハッテン場でもあった。
当然それなりの方々が入場してきて、いろいろなことを行う。
発見次第、注意したり清掃したりするのが新劇場スタッフの主な役目でもあった。
ハッテン場の映画館は興行収入もよく、中映株式会社の屋台骨を支えてもいた。』(同著より)

職員仲間のフィルムのつなぎ風景のイラスト

山小舎おじさんも50代くらいの会社員時代に浅草名画座へ通ったことがあります。
競馬の場外馬券売り場の向いにあった邦画3本立ての劇場で、最初は入りずらく、入ってもまたギャンブル場のような無愛想な虚無感が漂っており、三々五々席を埋めていた来場者は、場外馬券の帰りのようなおじさんばかりで、時々叫び声などが響いてもいました。

浅草名画座正面

慣れてくると、館内の音声も織り込み済みで画面に集中できるようになり、「江戸川乱歩全集・恐怖奇形人間」(1969年 石井輝男監督 東映)、「日本暗殺秘録」(1969年 中島貞夫監督 東映)、「激動の昭和史・沖縄決戦」(1971年 岡本喜八監督 東宝)など、ここならではの作品を見ることができました。

また、併映作品には東映任侠ものや実録ものが多く、「仁義なき戦い・代理戦争」(1973年 深作欣二監督 東映)の後半を見て、忘れていた本作での鉄砲玉、小倉一郎のエピソードに触れることもできたりしました。
広島にあった原爆スラムで後遺症に苦しむクズ屋の母親と、寝たきりの妹を抱える小倉一郎がやくざの鉄砲玉として利用され自滅してゆく過程を、気弱な若者像の苦悩として描いており、原爆スラムのあばら家の中で、叩いてもブラウン管のザーザーが直らないテレビの描写など、差別された貧困の表現が印象的でした。

なお、各作品とも上映プリントがきれいで鑑賞時に何の苦痛も感じなかったのも印象的でした。

浅草名画座のチラシ

実は山小舎おじさん、浅草名画座のホームページで支配人とメールのやり取りも行いました。
詳しくは忘れましたが、此方の問いかけに「最近の上映プリントの状態は良いことが多い、特に東映は新しいプリントを自主的に焼いてくれる」とか「プリントを借りたくてもできない作品がある。時期によっては松竹が寅さんものの旧作を貸出停止にしたり、貸出料を上げたりする」などと支配人が返事をくれたことを覚えています。
この支配人は、本書の著者の荒島さんではありませんが、気さくで好意的な人でした。

浅草新劇場の上映案内

さて、本書に戻りましょう。
劇場のホームページを立ち上げたり、作品解説を載せたチラシを作ったり、また地域の無料ペーパーにコラムを書いたり、と著者は劇場とかかわってゆきます。

2012年、中映株式会社が映画興行から撤退し、全4館が閉鎖されます。
著者は最後の上映に立ち会います。

それに合わせて短編劇映画の製作を行い、デジタル機材(一部8ミリフィルムを使用)で撮影します。
主役2人のほか、ネットなどで募集したエキストラを使っての最終上映会の様子が著書のクライマックスとなっています。

著者制作作品のエキストラが最終上映に集まる

35ミリフィルム映写の実際の記録でもあり、絶滅した浅草での映画興行の実態の最後の記録でもある本書です。
著者の荒島さんは、現在はシネマヴェーラ渋谷で映写技師をしているそうです。

裏表紙

DVD名画名画劇場 「悪女」リタ・ヘイワース

前回の当ブログ「ダンシング」リタ・ヘイワースで、彼女の唯一無二のダンスの才能を再確認したあとは、1940年代後半の彼女の役どころとなった「悪女」ぶりを見てみよう。

リタの代表作となった「ギルダ」、当時の夫オーソン・ウエルズの監督・主演になる「上海から来た女」である。

「ギルダ」  1946年  チャールズ・ヴィドア監督  コロムビア

『私の知り合った男たちはだれでも(中略)ギルダに恋をするの、そして私に醒めるのよ』(1994年文芸春秋社刊「ハリウッド帝国の興亡・夢工場の1940年代」P377)。

1940年代のセックスシンボルであり、長い茶髪の巻き髪と妖艶なダンスで観客を魅了したリタ・ヘイワースは、ハリウッドのアイコンとして生きたのみならず、実生活でも数度の結婚と離婚をし、数知れない恋愛に身を投じた。
結婚相手にはイスラム教のプリンスにして世紀のプレイボーイといわれた、アリ・カーンもいたが数年を経ずして離婚となるのが常だった。

1946年のアメリカによるビキニ環礁での水爆実験で投下された核爆弾は、リタ・ヘイワースの写真で飾られ、『ギルダ』と名付けられていた。

イタリアの戦後庶民の生活を描いた「自転車泥棒」で、やっと職を得た主人公が、街中で貼ったポスターは、敗戦国イタリアの現実とは似ても似つかない、リタ・ヘイワースによく似た女性の艶姿だった。

その絶頂期に撮られ、今でもリタ・ヘイワースの代表作といわれるのが「ギルダ」。
その題名は、リタの代名詞のようにもなっている。

「ギルダ」より

物語は戦時中のアルゼンチンに流れてきた、いかさま賭博師のファレル(グレン・フォード)が路上のサイコロ賭博で素人をだます場面から始まる。
暗闇にまぎれた、港近くの場末で繰り広げられるすさんだシーンはフィルムノワールそのものの滑り出しだ。

やがて、ファレルは非合法だが堂々と営業しているカジノ(もちろんイカサマあり)のオーナーに雇われ、やがて支配人となる。
ある日、旅行に出かけたオーナーが連れて帰ったのがギルダ(リタ・ヘイワース)と呼ばれる、長い茶髪の女だった。

ギルダはファレルの過去の恋人だった。
オーナーは二人の関係を怪しむが、ファレルは支配人の職務に徹する。
一方、ギルダはファレルを誘惑しようとしたり、ほかの男と遊んだり、勝手気ままにふるまう。

オーナーの実像は、戦前のドイツ企業から委託された戦略物資・タングステンの利権を、戦後になって不法に横取りしたカルテルの主宰者であり、ドイツ人(ナチスの末裔?)に脅迫される身。
やがて飛行機事故を装って姿を消す。
オーナーに代わってカルテルの実権を握るファレルだが・・・。

この映画、ストーリーはいろいろと枝葉を広げるが、その骨子は、ファレルとギルダの関係を描くことにある。
お互いを十分意識しながらも、面と向かえば、「憎しみしか感じない」と互いをなじる両者。
本心なのか、突っ張っているのか。

ファレルはオーナーの手前、ギルダに本心を打ち明けたり、手を出したりしない。
ファレルが品行方正な男であるはずもないのに、この関係性が最後まで続く。

ギルダは、他の男と遊びまわったり、早朝にファレルの寝床があるカジノでギターを弾き語りするなどして「悪女」ぶりを発揮する。
ギルダとファレルの結末やいかに?

この作品でのリタは、低い声、作り笑い、けだるさ、たばこ、に象徴される、男を誘う擦れた色気に満ちた姿で登場する。
「晴れて今宵は」「カバーガール」で見られた陽気さ、清純さ、親しみやすさ、からの演技的脱却だ。
まるでギャングの情婦のようなキンキラのコートを着て、髪をかき上げる仕草も板についている。

そして何よりこの映画のハイライトは、終盤のリタのソロのダンスシーンだ。
男たちの庇護を逃れて異郷のクラブで踊るギルダ。
最初のナンバーは深いスリットスカートをたくし上げながら、陽気にキレキレな動きで踊る。
一気に映画が締まる、輝く。

リタ・ヘイワース畢竟のダンスシーン

そして、追いかけてきたファレルの見ている前で、黒いドレスと手袋で腰をくねらせるギルダ。
ここがこの映画の山場で最大の見どころ。

手袋をゆっくり外して、観客に投げる、ネックレスも。
『ジッパーを下げるのは苦手なの』と男どもを誘う。
興奮する男ども(と映画を見ている観客たち)。
リタ・ヘイワースの女優生活のハイライトともいえる名場面。

この後に、ファレルの手下に舞台から引きずり降ろされ、ファレルに右手でビンタを食らい顔をカメラに向かってのけぞらせるまでが一連のシークエンス。

かたくなだったファレルの挑発に成功し、感情むき出しで手を出させることができた、「悪女」リタ・ヘイワースの一生の名刺代わりの、写真映えする名シーンだ。

グレン・フォード(右)

最後にファレルに一途な恋心を吐露し、二人でアメリカでの再出発を予定するのは、当時の検閲を意識した、ハピーエンデイング。
このためにギルダの悪女ぶりが不徹底となった。
イカサマ賭博師のはずだったファレルが、女だけには身持ちがいいというあり得ない設定も、同様に検閲を意識したからか。

ギルダについては甘いエンデイングが、マニアックな「悪女」から、わかりやすい「悪女」として一般化することに寄与し、リタ・ヘイワースが、時代の女性性の象徴となることに一役買い、人気をあおったのだろう。

「上海から来た女」  1946年  オースン・ウエルズ監督  コロムビア

リタ・ヘイワースが、オーソン・ウエルズと結婚していた時に作られた作品がこれ。
天才児にしてハリウッドの問題児、オーソン・ウエルズがやっと実現させた、4本目の長編劇映画である。

「オーソン・ウエルズ偽自伝」(バーバラ・リーミング著 1991年文芸春秋社刊)という、ウエルズの評伝がある。

「偽自伝」表紙

「上海から来た女」を見るにあたって、本書を紐解き、リタとオーソンに関する部分のみ拾い読みしようと手に取った。

だが、あまりに面白いので、二人が出会った1942年から、1948年の両者の離婚まで細大漏らさず読み進めてしまった。
その間、オーソンは、2本目の作品「偉大なアンバースン家の人々」が本人の意向にかかわらず、(契約によって)撮影所により再編集され激高したり、南米で長期ロケしながら未完成に終わった次作「すべて真実」の撮影済みフィルムの権利関係でゴタゴタしたり。
やがてコロムビアのタイクーン、ハリー・コーンの援助により「上海から来た女」を製作することになるのだった。

「店自伝」奥付き

「偽自伝」が面白いのは、内容(破天荒なウエルズの行状と、彼を恐れ、対立し、押し込めようとする撮影所などの外部勢力)が面白いうえに、著者(と訳者)の簡潔で的を得た構成(と筆致)が、またいい。

「偽自伝」から、1942年から48年までの、オーソンとリタに関する記述を書き出してみる。

オーソンがリタにアプローチした1942年当時、リタはヴィクター・マチュアと熱い中だった。
『リタを電話口に出すまで5週間かかった』、『でも、いったん電話に答えてくれたら、もうその夜から外で会ってくれた』(「偽自伝」P276)とオーソンは述べる。
オースン・ウエルズは雑誌で見たリタ・ヘイワースに一目ぼれし、周囲には結婚すると漏らすほどだったという。

[『(リタは)異常なほどの傷つきやすさと、飾り気のまったくない性格を備えていて、その点にオーソンは我を忘れて引き込まれていった』(同書P276)

オーソンとリタが付き合い始めたころ、オーソンはデイズニーと提携した「星の王子さま」、イギリスのアレクサンダー・コルダ製作による「戦争と平和」の企画があったが、どちらも実現はしなかった。
オーソンの生涯に、累々と発生した、未完成のままだったり、実現しなかった企画のひとつだった。

RKOは、オーソンと契約していた3本の映画(「市民ケーン」「偉大なアンバーソン家の人々」ともう1本)の3本目は、たとえキャンセル料を払ってでもオーソンには撮らせたくなかった。

1943年9月、リタ主演の「カバーガール」撮影中、二人は結婚届を提出した。
立会人はオーソンの盟友、ジョセフ・コットン夫妻他だった。

1944年3月、リタは妊娠した。

リタは、オーソンの話に懸命に耳を傾け、また政治志向のオーソンを支えようとした。
オーソンはこのようなリタを愛した。
が、一方で、映画、演劇、ラジオ、新聞コラム、大学映画学科での講演などで多忙なオーソンは、しばし自宅を離れ、仕事の合間には、女性との関係が、独身時代同様に途切れなかった。

オーソンが信頼していた秘書のシフラ・ハランが、回想する。
『(私は)リタに対しては、オーソンの浮気を悟らせないよう精一杯の努力をした。』
『リタは可愛くて、美しくて、チャーミングで、気持ちが優しかった。一緒にベッドに入らないことには相手の愛情が信じられないという女の一人だったの』(「偽自伝」P309)。

1944年12月長女レベッカ誕生。

ルーズベルトの選挙応援で長期不在だったオーソンは、この時期ジュデイ・ガーランドとも浮名を流した。

1945年9月、インターナショナルピクチュアズという映画会社がオーソンに「ストレンジャー」の監督をオファー。オーソン3作目の監督作品となった。
ハリウッドでの信頼回復(予算とスケジュールの厳守、わかりやすい内容)を第一目標に臨んだオーソンは、当時、自身の浮気のためリタによって自宅から追い出されていたが、かえってスタジオのスイートルームに泊まり込み、仕事の合間に女性を連れ込んだ。
リタは「ギルダ」の撮影に入っていた。

また、この時期に上演されたオーソン演出の舞台劇「80日間世界一周」は、観客には好評だったものの批評が芳しくなく、収支的には大損害だった。
赤字補填のため、オーソンはコロムビアのタイクーン、ハリー・コーンから25000ドルを借りた。

ハリー・コーンは、東欧系ユダヤ人移民の家庭に生まれ、成功してからは机にムッソリーニのサイン入り肖像画を置き、マフィアの友人がいる、典型的な旧世代のタイクーンだった。
「偽自伝」には、『スターを夢見る新進女優の口にペーパーナイフを突っ込んで歯並びを調べると、唾液で濡れたそのペーパーナイフで今度はスカートをめくりあげ太腿を検分するという男だった』(同書P277)とハリー・コーンの実像が活写されている。
『(コーンの)リタに対する所有欲はすさまじかった』(おなじくP277)とも。

1946年、オーソンは、25000ドルを用立ててくれたコーンとの約束により、「上海から来た女」を製作した。

以上、長々と、「オーソン・ウエルズ偽自伝」から引用してしまった。
ここまで「偽自伝」を読んでから「上海から来た女」を鑑賞した。

DVDカバー

「上海から来た女」は、前作「ストレンジャー」の、わかりやすい結末と納得のゆく人物像による物語ではなく、明らかに「市民ケーン」的な作品だった。
というのは、何よりオーソン自身の個性と好みが優先された映画だからである。

オーソン・ウエルズは豊かな個性と知性、知識に彩られている人物だ。
豊富な文学的知識に彩られた『哲学的』ともいえるナレーションを自身の声で行うことができる。
また、映画に於いて、特徴的、実験的な画面構成を創出でき、またそのための撮影技法を撮影監督とともに作り出せる。

「市民ケーン」の場合では、さらにこけおどしの権威主義に対するオチョクリを堂々と繰り広げてみせた。
まさに自他ともに認める、アメリカ芸能界の風雲児にして反逆児だった。
本人は、芸能人としての自らの評価だけには満足せず、一時期本気で政界(民主党系)に進出しようと考えてもいたようだったが。

オーソン・ウエルズとリタ・ヘイワース

更に「上海から来た女」では、ブレヒトに影響された、『異化効果』が取り入れられている。
これはオーソンがかつて企画して実現しなかった、ブレヒト作の舞台「ガリレオ」への思いからだといわれている。

『オーソンは、(中略)俳優が役柄から自分を切り離し、同時にそれによって観客に感情移入を起こさせないというブレヒトの演劇理論の中心原理を極めて巧妙に応用した映画を作ったのだ』(「偽自伝」P349)

全編、野心満々の若きオーソン・ウェルズのナレーションに彩られたこの作品は、『異化効果』実現のために、納得のゆくストーリーテリングの代わりに、突発的なシチュエーションと、唐突で非説明的な象徴的なセリフをちりばめた。
そのために、映像はショッキングなものであり、悪夢的な状況をなぞってはいたものの、観客に納得のゆく説明は行われなかった。
『オーソンが心配していた通り、コーンには(この)映画が理解できなかった』(「偽自伝」P349)。

オーソンは、主演を演じる当時の妻リタ・ヘイワースの豊かな茶髪を金髪ショートヘアにさせ、全盛を誇ったプロポーションは、アカプルコの海で日光浴する短い場面での水着姿とヨット上でのショートパンツ姿のカットに留めた。
アカプルコの夜景をバックに、白いドレスのすそを翻して逢引きに向かうリタの夢幻のようなカットはあったが。

アカプルコで水着姿のリタ

そしてこの作品のハイライトは、これまで多く語られているように、ラストに近く、チャイナタウンの京劇のシーンから、遊園地のマジックミラーに主要人物が集まる場面である。

数々の映画で引用されることになった、多面の鏡に映る多面の人物の描写。
特に敵役の弁護士(リタ演じるエルザの夫)が10面以上もの鏡に映る姿で突然登場するシーンの斬新さ!
この人物の怪物性、異常さをこの上もなく映像的に表現した場面で、見ていて思わず声が出た。

鏡の間の場面

発砲により、鏡が割れ、人物が虚空から現実に戻るシーンも象徴的。
画面左に横たわったリタ演じる悪女の死にざまを見る突き放したカメラ。
どれも鮮烈だった。

鏡に映るリタ

この鏡の間のシーンは、オーソンがこの作品で表現したかった『異化効果』のための技法であろうが、一方で「市民ケーン」のかなめの場面(幼いケーンが母のもとから連れ子なる場面や、功成り名を遂げたケーンが妻に見放される場面など)で使われた、当時の実験的なパンフォーカス撮影のように、作品の中核をなす技法である。

「市民ケーン」のパンフォーカス、「上海から来た女」の鏡の間は、オーソン・ウエルズが映画史に残した永遠の記憶であり、爪痕である。

本作におけるリタ・ヘイワースは、『スタイルの良さ』という最終兵器を懐に秘めた、『演技する女優』という存在によくトライしていた。

彼女が演劇出身者的な『演技派女優』となることは終生なかった。
リタ53歳の時のフランス映画「渚の果てにこの愛を」での、出奔した息子をスペインのドライブインで待つ母親役を見ても、その誠実で女性的、人間的なありのままの姿以上の演技はなしえていない。

ということは、「上海から来た女」が彼女の最高作だったのではないかと思われる。

DVD裏面