冬の山陰・北陸夜行列車の旅⑦ 敦賀の居酒屋と町の歴史

敦賀で予約もなく駅前のビジネスホテルへ投宿。
さて今晩の夕飯は?

太田和彦の居酒屋紀行の敦賀編を調べると、街中に「てんてん」という店があることがわかりました。
観光案内所でもらったマップを頼りに向かうことにします。

中心部の平和堂というスーパーで値引きの弁当やドリンクを買い、袋をぶら下げてアーケード街を気比神社方面へ。
吹雪が遠慮なく吹き込む舗道は、平和堂周辺を過ぎるとほとんど人通りはありません。

商店街ではあるのですが、開けている店などほとんどない中、「てんてん」がありました。
玄関を引くと「予約ですか?」と大将の元気な声。
何とかカウンターに座らせてもらえました。
人気と活気があふれる店内は、ほぼ満席の人気店でした。

ネット情報の通り、カウンターにはずらりと手作り風のお惣菜が並んでいます。
カウンター内には元気のいい大将と、客あしらいが上手そうな若い女性が一人二人。
ときどきママさんらしき姿もあったりします。

両隣りはいかにも観光客らしき姿があり、「敦賀に来たからには!」の勢いで新鮮な刺身を並べて地酒を飲んでいます。
地元客より、予約の観光客の方が多い感じです。

イカなどの刺身や、魚のあらを煮たお惣菜が美味しく、食べ物飲み物には十分満足したのですが、なにより人をそらさず擦れていない大将やお姉さんの接客ぶりがうれしくて、たっぷりと地元の人と交流ができたような気持で店を出ることができました。
店を出ると大将が店の名刺を持ってきて送りだしてくれました。

居酒屋てんてんの店構え

10年以上前のこと。
長野県の信濃大町の居酒屋で飲んだ時、折から座敷の大人数の客対応で忙しかった主夫婦が、一段落してから「すいませんお相手できなくて」と一人でカウンターに座るこちらにやってきて、地元の話や黒四ダムをフィーチャーした破砕帯サワーなどをネタに話し相手になってくれたことを思い出します。
地方の客商売は人情に溢れた店が多いのです。

翌朝は敦賀の町巡りです。
まずはバスの乗って気比神社へ。
越前国一之宮にして北陸道総鎮守でもある古い神社で、歴史は2千年以上の古社です。
敦賀に一泊したからには挨拶せざるを得ません。
道中の舗道は雪に一人分の足跡がついているだけ、バス通りとの境には雪がうずたかく積もっています。

敦賀の冬の道路には融雪のため水がまかれる
雪深き気比神社の鳥居

参道から本殿へ向かいお参りしました。
格調高くたたずむ気比神社にはボタン雪がひっきりなしに降り続いていました。

鳥居をくぐって参道を行く
本殿にお参り

次にマップを頼りに漁港を目指します。
歩いていると、漁港近くの歴史がありそうな地区に、ガッチリした古い建物が目に入りました。
敦賀市立博物館でした。
期待をせずに入ってみると建物の内部は映画に出てくるような洋風の本格建築でした。

市立博物館(旧大和田銀行)
あっと驚く本格西洋建築の内部

明治時代に開業した大和田銀行という地元資本の銀行の本店だったという建物です。
展示されている遺物や資料もホンモノで珍しいものばかりです。

敦賀の発展は、明治以前の北前船の交易で港が栄えた時代に始まり、明治以降は国際港となった敦賀港からウラジオストクに定期航路が運行されました。
鉄道が新橋から敦賀まで接続されていたため、旅行者は東京から敦賀経由、シベリア鉄道でヨーロッパまでつながった旅ができるようになったのです。
当時、先進国とつながる最先端の交通路が敦賀を通っていたのです。

こうして戦前までは、最先端のハイカラな街だった敦賀ですが、航空路の発展、道路による物流にトレンドが移行した戦後は衰退し始め、現在では漁業と原発の町となっているのは時代の流れとしかいいようがありません。

ウラジオ航路を示す地図
ロシアとの交流をしめすサモワール

博物館を出るとさらに吹雪が強まっています。
港近くの街並みを吹雪とともにさ迷います。

港近くの街角
漁港風景

漁港近くの魚市場は閉まっていました。
付近に点在している場外の小売店も開いていたり、いなかったり。
人気はなく雪が吹き付けるばかりです。

そのうちの一軒で尋ねると「今日はシケで漁がなく、セリはなかった」とのこと。
開いている鮮魚店の店先には、冷凍のエビやお馴染みのズワイガニなどが所在投げに並んでいるばかりでした。

開店休業の場外小売店

駅に戻って福井行きの列車に乗り込みました。

福井行列車。ハピーライン福井という第三セクターが運行

北陸新幹線が乗り込んだ福井駅の発展ぶりと、郊外電車福井鉄道の旅は次回で!

昼食は敦賀駅で買った弁当で。カズノではなくツノガと呼ぶ
1000円にしてはまずまずリッチな内容

冬の山陰・北陸夜行列車の旅⑥ 舞鶴引揚記念館

天橋立を見て、東舞鶴駅に着いた山小舎おじさん。
まだ13時30分、さてどうしましょう。

駅を見渡すと、引揚記念館紹介の簡単なデイスプレーが展示されています。
記念館方面のバス乗り場方面を示す矢印もあります。
「そうだ、舞鶴は戦後大陸からの引揚者が日本に上陸した港だったんだ」「岸壁の母の舞台だったんだ」。
引揚記念館というのがあるのだったら、めったにないチャンス、寄ってみよう。

敦賀駅構内の引揚記念館展示物

駅前のバス乗り場で、時刻表を見てみますが、記念館方面のバスの便は1時間に1本もありません。
目の前には人気のないアーケード街が続くばかりです。
「よし、今日は夕方までに敦賀に着けばいい。ええい、タクシーを使ってでも引揚記念館へ行こう」。

駅から続く敦賀中心街

駅から乗ったタクシーは、同年配の運転手さん。
道々案内をしてくれながら引揚記念館へ連れて行ってくれます。
人気のないアーケード街は舞鶴の中心街とのこと、通りには海軍の戦艦(日清戦争時代からの)がつけられていること、明治時代に海軍の鎮守府ができて以来、海軍工廠などもでき海軍の町だったこと、今の自衛隊はあまり町へ出て飲んだりしないこと、戦後の引揚時代にはそのまま舞鶴に定住した人も多かったこと、現在では引揚体験者はほとんど存命していないこと、などなど、地元ならではの生きた情報もありました。

記念館に程近い場所に、復元された引揚船の桟橋があるからとのことで寄り道。
これが大陸から引き揚げた人々が第一歩をしるした場所なのか。
思ったより小規模で貧相な桟橋がそこにありました。
湾内は水深が浅く、大型船は接岸できないため、はしけに乗り換えてここに上陸したとのことでした。

復原された引揚桟橋
桟橋から湾内を望む

記念館までは思ったより遠く、桟橋経由だったこともあり運賃は4000円かかりました。
これはしっかり見学しなくてはいけません。

数名のグループ客が出てゆき、ほとんど見学者のいなくなった記念館をたっぷり時間をかけてみてゆきます。
舞鶴の軍港としての歴史、戦争へ至る経緯の展示から始まり、シベリア抑留の歴史などがラーゲリ小屋の実物大模型などで展示されています。
舞鶴への引揚は、シベリア方面、中国大陸方面からが圧倒的に多かったことがわかります。
引揚が長引いたのもシベリア抑留が長引いたからでした。

館内の展示
館内の展示

山小舎おじさんが最も関心があったのが、民間人の引揚の実態と、地元舞鶴の対応でした。
残っている資料も少ない中、引揚者を迎えるニュース映画や、当時の舞鶴市長の呼び掛け文、引揚証明書、引揚者の一時収容施設の模型などが関心を引きました。

館内の展示
館内の展示

引揚と言えば舞鶴というのが今の印象ですが、その理由はシベリアらの引揚が長引いて昭和33年まで続いたこと、舞鶴市をあげてのホスピタリテイーあふれる応対ぶりにあったようです。

館内の展示

広島の原爆資料館のような、あるいは靖国神社の遊就館のような劇的な展示ではありませんが、戦争を記録し、その当時の日本人のふるまいを記録する意味ではまさに「ユネスコ世界遺産」にふさわしいい場所だと思いました。
駅から遠いのが玉にきずで、帰りは17時までバスがなく、タクシーを呼ぶことになりました。
帰りの運賃はなぜか2600円ほどでした。

館内の展示

東舞鶴駅に戻って敦賀まで小浜線に乗ります。
ICカードは使えないのでキップを買います。
乗車中に敦賀のホテルでも予約しましょう。

ということで車中でスマホをいじりますが、予約確定までなかなかたどりつけません。
ホテル代がかつての一泊4~5000円の時代から、6~8000円の時代になっていることもあり、選択に手間取ったのが一つ。
そして現在のネット予約が料金前払いになっているのはしょうがないとして、カード情報の入力の際、本人確認として暗証番号の入力画面が現れたことが2回あったのです。
これはさすがにおかしいと山小舎おじさんも気が付き、予約作業をストップしましたが、先方指定の暗証番号の返信画面がフリーズしたり、とにかく1時間かけても予約が1件もできません。

小浜線の車窓。雪の積もっていない場所もあった

車窓は若狭湾の三方五胡、小浜と過ぎてゆきますが景色を見る暇もありません。
とうとうネットでの予約をあきらめ、敦賀駅に着いてから宿泊場所を探すことにしました。
幸い敦賀駅の観光案内所は18時まで空いているようでした(この情報はネットで確認できました!)。

敦賀駅
バスはチェーンを巻いていた

薄暮の中、北陸新幹線駅となった敦賀駅に到着。
さっそく観光案内所へ。
2人ほど案内のお姉さんがネット情報通りに勤務しています。
市内のホテル一覧の紙をもらいました。

雪が積もる中、駅から1分ほどのビジネスホテルに向かいました。
6500円で広々とした部屋が取れました。

吹雪の敦賀の夜を地元の美味とともに市内の居酒屋で過ごし、気比神社から漁港へ歩いた翌日の顛末は次回!

冬の山陰・北陸夜行列車の旅⑤ 山陰線ハイライトと天橋立

鳥取の朝は早かった。
この日の行程は、山陰線で兵庫に入り、天橋立を見て、舞鶴に寄ってから敦賀まで行って宿泊と予定を立てた。
乗り継ぎが多い行程のため、出発は早いに越したことはなかった。

朝6時、まだ暗いホテルを出発した。
駅までのアーケード街、雪が積もった舗道をジョギングするカップルが「おはようございます」と追い抜いてゆく!
大雪注意報の朝、駅の案内板は浜坂行普通列車の折り返し到着が遅れ、鳥取発が30分遅れるというものだった。

早朝、雪降りしきる鳥取駅

少しでも早くゆく方法はないかと、雪をかき分け駅前のバスターミナルに行ってみる。
高速都市間バスも発着するターミナルでの案内は、県の東方面行きのバスが7時くらいにあり、山陰線の駅で連絡するという情報。
これに乗って出発し、山陰線の駅で、今浜行きの列車を待つこともふと頭をかすめたものの、この雪の道路状況ではバスがいつ目的地に着くかもわからない、と考え直し、おとなしく列車を待つことにする。

駅前のバスターミナル
鳥取駅構内は県を挙げて参加する大阪万博で盛り上がっている

駅に戻り、「砂丘そば」を出す立食い蕎麦で朝食。
まずは温かい蕎麦で腹ごしらえ。
30分遅れの普通列車に乗り込む。

砂丘そばの看板に引き押せられて・・・
砂丘そばで暖まる

2両編成だがほかの乗客を確認できない今坂行普通列車。
見事な雪景色の鳥取県最東部を山間部に分け入ってゆく。
途中駅で高校生らが10人ほどいたので乗り込むか?と思っていたら彼らは行き違いの鳥取行きを待っていたのだった。
相変わらず乗り降りはなし。

折り返し、浜坂行きの列車が30分遅れで到着
車内に人はおらず
この日の県東部の車窓

気が付かないうちに兵庫県に入り、兵庫県内の高校に通学する生徒などが乗り込んだ列車は、やがて終着の浜坂駅に到着。
駅前に食堂らしき看板のある町です。
ここまで切符で乗車していた山小舎おじさん、豊岡までの切符を買いに無人の今浜駅改札を抜けて販売機で購入。
慌てて地下通路をくぐり豊岡行きのホームに出ると、あろうことか列車がしずしずと動き出しているではありませんか。
「おーい」と声さえ出ませんでしたが、ここで2時間は待ちたくない!と思いながら走っていると、なんと列車がストップし、ドア開閉のランプがともりました。
運転手が追いかけて走る我を見て列車を止めてくれたのでした!
列車はもちろん、最近ではバスでさえこんなことはありません。
「これが山陰線なんだ!」と、地域性を痛感するとともに、感謝至極の一幕でした。

乗客を3組ほど乗せた豊岡行き(だったか福知山行きだったか)列車は、左手に荒々しい冬の日本海を垣間見せながら、入り組んだ海岸線を走ってゆく。

やがて強風で列車が、脱線し落下し、車掌と水産工場の工員数名が死亡した1986年の「余部鉄橋事故」で有名な余部鉄橋を通過した。
回送中の軽い車両だったとはいえ、風速三十数メートルの突風が、機関車以外の車両数両を鉄橋上から吹き飛ばしたのだという。
この日はそれほどの風速はなかったが、余部の駅を通過すると列車は鉄橋上と思しき高さの場所を通過した。
眼下に余部の集落が見えた。

ほとんど客の乗り降りがない列車と日本海沿岸の寂れていてもどこか海の息遣いに溢れた景色。
ここら辺が山陰線沿線の一つのハイライトでありましょう。

この日移動したあたりの地図
兵庫県に入った山陰線。日本海の荒波
餘部駅
余部鉄橋上とおぼしき地点からの車窓

城崎温泉を通り兵庫県内を走った列車は豊岡に到着。
私鉄・丹後鉄道に乗り換えるために下車します。

丹後鉄道豊岡駅

豊岡は兵庫県の山間部に位置する町。
この日の積雪は兵庫とは思えないほど。
丹後鉄道の発車時間まで少々あったので、駅前の観光案内所をのぞいてみました。

午前中のリラックスタイムに今まさに缶コーヒーの蓋を開けようとしていたシルバーっぽい年配者と、30代くらいの女性がいました。
どういった経緯でここにいるのか、わが方の素性を計りかねるように近づてくる年配者に「天橋立のマップありますか」と問いかけました。
「天橋立は京都ですさかいに」と言いながらマップを出してくれます。
シルバーさんのナチュラルな関西弁に、とうとう関西に入ったか、と感慨も新たです。
御仁は「鳥取から東の山陰線は乗降客が少なく、廃線の話も出ている」「豊岡からは鳥取まで買い物に出る。車で2時間くらい」「今日くらいの積雪は普通」などとのご当地情報も聞かせてくれました。

雪のホームで停車している丹後鉄道は1両編成。
出発までに、トランクを引きずった中国人観光客らでほぼ満席となりました。

西舞鶴行きの丹後鉄道に乗車
車内風景。外は真っ白

約1時間、雪景色の中を走る丹後鉄道。
やがて日本海側に出て丹後半島の付け根を横断し、宮津湾に面した天橋立駅に到着しました。

天橋立駅から橋立を見る、天橋立ビューランドまで歩いて数分程。
駅構内の観光案内所の女性はテキパキと応対してくれます。
駅からビューランドのリフト乗り場のあたりは中国人観光客で引きも切りません。
列車より貸切バスでやって来る中国人の方が多いようです。

天橋立駅
天橋立の町にて雪かきの真似をする中国人

モノレールが点検中とのことでリフトでビューランドに登ります。
徒歩で上がるルートはないとのこと。
上がるとそこはテレビなどでよく見る天橋立の展望場所でした。
展望場所の背後には遊園地まであります、これは知りませんでした。

天橋立は宮津湾と阿蘇海をへ出てる砂州ですが、その絶妙な立地と見事な砂州地形はさすがに日本三景に謳われているだけあります。
砂州上に生えている松も天然林とのことです。

展望台まではリフトで上がる
日本三景天橋立
瓦投げをする人
展望台には遊園地まである!

1時間ほどで橋立見物を終え、駅に戻って西舞鶴行きの丹後鉄道に乗ります。
舞鶴の中心部は、JR東舞鶴駅にあり、そこまでJR舞鶴線に乗り継ぎます。
東舞鶴駅に着きました。

舞鶴で引揚記念館を訪問し、敦賀に移動して雪の中、名物居酒屋を訪ねた顛末は次回!

冬の山陰・北陸夜行列車の旅④ 境港とブリと鬼太郎

松江での山陰第一泊目が明けた日、市内を見物した後、米子に向かいました。
着いた米子駅は松江以上の雪景色でした。

この日の米子駅

米子からは境港まで往復して、魚を買い、今日中に鳥取まで行く予定です。
松江の駅でお土産を物色したので、当初のざっくりしたスケジュールは崩れています。
とりあえず列車で米子までは来ましたが、次の境線、境港行きまでは1時間半ほどもあります。

米子駅前のバス停で、境港行きのバスがないか調べてみました。
なんと15分後くらいに、終着境港駅行きの日の丸バスがありました!
思ってもみなかった展開。
この綱渡り感は、テレビ番組の「ローカル路線バスの旅」のようです。

米子駅前のバスターミナル

15分の時間を雪のバス停で待っているわけにもいかず、境港の街のマップをもらいに駅の観光案内所に入りました。
中年の女性たちに交じって30代くらいの男性がいて対応してくれました。
話していると彼が学生時代に京王線の聖蹟桜ヶ丘に下宿していたことがわかり、水木しげるつながりで、境港と調布の話で盛り上がりました。
この彼は地元に戻って働いているとのことで、久しぶりの東京の話題に話が止まりませんでした。
NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」放送のころは、境港に観光客が押しよせたとのことでした。

日の丸バス境港行きの乗客はほかに観光の夫婦が一組のみ。
まっすぐな道を直走り、JR境港駅に着きました。
駅は隠岐の島へのフェリー乗り場ともつながっており、この日のフェリーの便は満員のようでした。

日の丸交通バス境港駅行きの車内
境港駅ビルの外観
隠岐の島行きフェリー窓口

有名な水木しげるロードは、駅から堺水道と並行して東に進んでいます。
かつては港で栄えた商店街だってのでしょう。
この日はまるで人の姿はありませんでしたが、鬼太郎一色に統一・再開発された商店街が続いていました。

水木しげるロードにて
こういった店が多い

実は境港で目指した先は、水産物直売センターという魚の直売所です。
「境港に行って寒ブリを送ってほしい」と家族のリクエストがあったためです。

水木しげるロードを抜け、さらに30分ほど歩いた漁港のロードサイドに目指すセンターはありました。
買い物客や食事に寄った地元の人らが集まっていますが、ほぼ全員が車でやってきています。

歩いて水産物直売センターへ
センター内部には小売店が並ぶ

センター内には10軒ほどの鮮魚小売り店が軒を連ねており、そのうち半分ほどがズワイガニの専門店、鮮魚専門は2,3軒です。
センター内を一周してから目を付けた鮮魚店に戻り、ブリの子供の天然ヒラマサと天然ヒラメをチョイス。
ほかの店で買った干しサバも合わせて送ってもらいました。
ヒラメを3枚におろしてもらおうとオーダーしようとすると「おろさない方がいいよ。着くのが遅れるかもしれないし」と言われ、丸のままで送ってもらいました。
なかなか生きのよさそうなヒラマサとヒラメでした。

自宅では無事、刺身におろして食べたとのこと。
「とにかく新鮮だった」そうです。

センターの鮮魚店にてヒラマサ
天然ヒラメも

買い物が終わって鮮魚店の女性に聞くと「センター内にすし屋はなく、食堂が2軒あるだけ。」とのことで、安めの食堂で昼食。
観光客や地元の勤め人でほぼ満席の食堂で海鮮丼をいただきました。
値段もお手頃でマアマアの味でした。

センター内の食堂にて昼食
海鮮丼をいただく

センターから駅へ戻るコミュニテイバスなどの便もみつからず、水道沿いを歩いて駅まで戻りました。
途中、造酒屋の建物をリユースした「海と暮らしの資料館」などにも寄りました。

来た道と違い、海沿いの道は漁船が並び、岸側には古い建物や飲食店などもあって賑やかでした。
隠岐の島からのフェリーが港に入ってきていました。

堺水道に沿った道で造り酒屋だった建物(現「海と暮らしの資料館」)を発見
堺水道で釣りをする人
隠岐の島からフェリーが帰ってきた

境港から米子までは、JR境線で戻りました。
中国人観光客などで満員でした。
鬼太郎ラッピングの車両、アナウンスは鬼太郎と目玉おやじの声優によるもの、沿線の各駅には、たとえば「こなきじじい駅」などの愛称がつけられている、という完全に鬼太郎人気に乗っかった路線です。

JR境線を走る鬼太郎列車

米子から山陰線に乗り鳥取まで行きました。
途中、大山口という駅から雪を頂く大山の姿が遠望されました。
国定公園に指定され、かつては冬季国体も開かれた山陰のウインタースポーツのメッカです。

車窓には夕暮れ迫るうつうつとした曇り空の下、山陰の黒々とした家々の瓦屋根が続きます。

到着した鳥取駅では有人改札が行われていました。
米子からSUICAで乗った山小舎おじさんは、窓口でデータを消してもらい、改めて米子からの運賃を支払い改札を出ることができました。

山陰線の車窓から見る鳥取の秀峰大山の姿
山陰線沿線の家々
鳥取駅は有人改札だった

終業間際のデパートで割引の寿司と弁当を購入しました。
今夜の夜食と明日の朝食です。

ホテルまではしんしと雪の降る夜のアーケード街を歩きます。
アーケードのついた商店街は何本もあり、またどこまでも続いており、在りし日の鳥取の繁栄を物語っているようでした。
雪のこともあり、夕方以降は誰も歩いていませんでした。

鳥取駅ビルの売店にて、鳥取砂丘をフィーチャーしたTシャツが迎える
特産品二十世紀梨を使ったチューハイもあった

改めて雪の街へ夕食に出ましたが、心当たりの店は予約制で入れず、駅前の海鮮居酒屋へ行きました。
隣は中国人ファミリーで、地元の若いグループが三々五々入店してくるような店です。
サービス自体はまあまあでした。

鳥取の繁華街は雪だった

次回、鳥取から今浜までの山陰線車窓のハイライトから、丹後鉄道で日本三景・天橋立へ、そして舞鶴で引揚記念館訪問の顛末もご期待ください。

冬の山陰・北陸夜行列車の旅③ 古都・松江

旅の初日、出雲大社参りを済ませて一畑電車で松江に入りました。
雪でした。
舗道の凍結に滑りながら、吹雪の中を松江城に向かいました。
そのとたん携帯のバッテリーが切れました。
また、折から強風のため松江城構内は立ち入り禁止となっていました。

松江に向かう一畑電車から見た宍道湖

予約していた市内のホテルに荷を解き、夕食に向かいました。
目指すのは、居酒屋評論家として吉田類と人気を二分する太田和彦がその番組で訪れたことのある居酒屋です。

ホテルから駅の反対側に出て、川を渡ったところにその店はありました。
吹雪のためか、カウンターに数人の客がいるだけで予約なしで入店できました。

大将と接客の女性が2人。
女性はかなり高齢で、一人は大将のお母さんと思しき方。
二人とも愛想はよく、てきぱき動くのですが、かなり耳が遠くなっていました。

お通しに地元で赤貝と呼ばれる貝の煮つけがでました。
ビールとお刺身盛り合わせを注文。
その後、イカの刺身、白魚の天ぷら、メバルの煮つけなどを頼みました。
魚の鮮度は文句なし、久しぶりにおいしい刺身を食べた気分です。
カウンターの隣の客が時々サポートするように口をはさんで、地元産の魚を解説してくれました。
日本酒は地元松江の豊の秋。

「赤貝」の煮つけ
刺身盛り合わせ。寒ぶり、鯛、アジなど
白魚の天ぷら
イカの刺身
メバルの煮つけ

こうして雪が深々降る松江の夜は更けました。

翌朝、少々早く行動を開始し、7時過ぎのバスで松江城に向かいました。
改めてのお城見学です。

お堀端を過ぎ、石段を上ってゆくと遥か上段の方に天守閣が見え隠れします。
お城の構内を歩いているのは地元の通勤の人なのでしょうか。
石垣は高く深く、まるで映画のセットのよう。
いや、迷宮にタイムスリップしてゆくようです。
深い荘厳な世界が待っています。

神事湖の水を引いているという松江城のお濠
松江城建築の堀尾吉清像

これが現存天守というものか。
見慣れている松本城とは異なる迫力、神秘性に満ちています。
この時点で松江の歴史と重みに早くもKOされました。

雪の松江城に登ってゆく
天守閣が見えてきた
天守閣としゃちほこ

天守を過ぎ、再びお濠を渡って、武家屋敷、小泉八雲の旧宅の方へ向かいます。
歴史を旅ゆくノスタルジックな旅人になったような気分です。

幅広く、立派なお濠は遊覧船のルートにもなっています。
これほどのお濠がおそらく現状のまま残っているのも貴重なことです。

遊覧船も航行するお濠

通学の中学生らに交じって、小泉八雲亭から武家屋敷を歩きます。
頃合いを見てお濠を渡ると元の場所に着きました。バスに乗って駅へ戻ります。

小泉八雲旧居
武家屋敷
お濠を渡る橋

駅では9時の開店を待って地元の名産品を探ります。
地酒・豊の秋、酒蔵が作った料理用の酒・みりん、海水塩、ノドグロ味のダシの素などをチョイス。
自宅に送りました。
東京へは翌日午後の着です。

出雲地方の神話時代からの文化は、大社脇の博物館に展示されていた、古墳出土の銅鐸、銅矛の潤沢さなどで実感していましたが、松江城の周りを散策し松江の町の雰囲気を体感すると、ごく近年までこの町も、綿々とした文化を積み重ねていることが痛感されました。
昨今のインバウンドブームに毒されていない地味な感じも気に入りました。
歴史ある真の文化を背景にしたプライドを感じました。

凍えるような松江駅のホームから米子まで山陰線に乗りました。
乗ったのは特急スーパーまつかぜ鳥取行き、自由席はほどほどの乗車率でした。
外は吹雪を見ながら30分ほどで着いた米子の駅前は、松江よりさらに真っ白でした。

朝の松江駅前
松江駅に到着した特急スーパーまつかぜ

米子から境港への道中記は次回。

冬の山陰・北陸夜行列車の旅② 出雲大社参拝

今回の旅の目的は出雲大社へお参りすることです。

寒い寒い風吹きすさぶ稲佐の浜で砂を掬い、大社に取って返します。

目指す出雲大社は、寡聞にして知らなかったのですが、ほぼ境内にぴったりくっついて出雲教という教団の建物が存在しているのでした。
例の日本一大きなしめ縄がかかっている社というのも出雲教の神殿なのでした。

それを教えてくれたのは、大社本殿の前で警備をしていたご同輩でした。
拝殿で御参りを済ませ、お札をいただいた山小舎おじさんが、拝殿の後ろの本殿へ向かったときに、地元の人に聞いてみようと声をかけたのでした。

出雲大社本殿前の丸い印は古代神殿の柱が立っていた場所

ご同輩と大社の歴史などについて話しを交わしました。
「本殿の前の赤い丸印が、高さ48メートルの柱が立っていた場所」、「素戔嗚社の裏の岩は最強のパワースポット」などと案内してくれました。
その際に「日本一のしめ縄が下がっっている社は出雲教」と教えてくれたのでした。

本殿に参拝

ご同輩に礼をいい本殿に参拝。
そして裏に回って素戔嗚社に参拝しました。

素戔嗚社の軒下に砂の入った箱があったので、持ってきた稲佐の浜の砂を収め、箱に入っていた砂を、自宅の庭に撒くために少しいただきました。
社の裏の岩にタッチしてパワーももらいました。

本殿裏の素戔嗚社
稲佐の浜の砂を収める
パワースポット!
出雲大社本殿

境内には宝物館もありました。
大社の歴史のほか、出土した実物大の柱の太さを再現したレプリカなどが展示されていました。

宝物館には古代の柱の模型が
古代神殿と銅鐸、銅矛がデザインされている、古代出雲歴史博物館のパンフレット

警備のご同輩が「古墳から出土した剣が展示されている」と教えてくれた島根県立古代出雲歴史博物館にも行ってみました。

ここには実物の1/2スケールの古代出雲大社の模型があります。
併せて石器時代からの出雲地方の歴史が順を追って展示されています。
神話時代から、石器時代、弥生時代の遺跡に恵まれ、中世の大陸・半島との交流、たたらによる鉄の生産、近世の北前船による物流など、島根が日本の歴史に占める重要さがわかります。

ご同輩がおっしゃっていた、古墳から出土した刀剣も見ました。
よく見る出土した刀剣は、さびてボロボロになっていますが、この歴史博物館にあった1本の刀剣は、信じられないくらい保存状態が良いものでした。
また、銅鐸、銅矛などが保存状態よくたくさん展示されており、出雲地方が神話時代の中心地であったことに疑いはないことがわかりました。

博物館から大社の大鳥居に戻って、神門通りを歩きます。
季節柄参拝客は少なく通りは閑散としています。
あちこちに昭和な建物が残っています。
その中で最高に「昭和」な建物が一畑電車の出雲大社前駅でした。

大鳥居
大社前の神門通り

ストーブが燃える駅の待合室で松江しんじ湖温泉行きの電車を待ちます。
駅の内部や備品はレトロムードにあふれていますが、さすがに車両は新式のワンマンカーです。
観光客が3、40人ほども乘りましたが、2両編成の車両は空席が目立っていました。

一畑電車駅
改札口は昔のまま
一畑電車に乗る

夕刻を迎え舗道も凍結しつつある松江に到着しました。

古都松江での夕餉、翌朝のお城周りの散策については次回。

冬の山陰・北陸夜行列車の旅① サンライズ出雲に乘る

2月のある日、寝台列車サンライズ出雲に乗りました。
東京駅21:30発、出雲市行き特急列車です。
山陰から北陸にかけての旅をしようと思いました。

夜9時過ぎの東京駅10番線

車両はかつての寝台列車の二段三段式ベッドを連ねたスタイルではなく、寝台はすべて個室になっています。
そのほかにカーペットを敷いただけのノビノビ座席という車両があります。
山小舎おじさんはノビノビ座席の切符をとっていました。

サンライズ出雲ノビノビ座席車両

車内は暖房が効いています。
ジャージに履き替え、備え付けの布団を敷き、ジャンバーをかけると全く寒くはありません。
ノビノビ座席の車両は若い人を中心に満席です。
女性もかなりいます。
隣の席とは仕切りもあるので、かつての青函連絡船の二等船室の雑魚寝よりははるかにいい環境です。
騒ぐ人もいません。

ノビノビ座席一人分

列車は夜中の東海道線を走り、横浜、静岡、名古屋などに停まってゆきます。
岡山に到着したときは朝の通勤時間帯になっていました。
ここで、東京から連結してきた高松行きのサンライズ瀬戸と別れます。
サンライズ出雲は伯備線を走って中国山地を北上し、山陰を目指します。

伯備線は中国山地に分け入って北上する
中国山地の朝。駅前でコミュニテイバスを待っている?

全国的に冬の寒さと大雪の警報が出ていたこの日、中国山地は雪景色でした。
伯備線沿線の中国山地の冬の景色をラウンジで楽しみます。
車内にはドリンクの自販機しかないので、軽食を用意しておくべきでした。

鳥取県に入った。上石見駅の雪景色

鳥取県に入り、米子に到着します。
伯備線から山陰本線へと列車は進みます。
日本海沿岸となり、積雪は少なくなりましたが、裏日本特有の重苦しい冬の雲が垂れこめたような景色になりました。

米子の車窓

車窓には海が見えてきました。
と思ったら、中海という汽水湖でした。
松江に到着してからは宍道湖のほとりを進みます。
気が付くと、ノビノビ座席がかなり空いてきました。
米子や松江で降りる人もかなり利用していたようです。

宍道湖の車窓

遅れて12時ころ終点の出雲市駅に到着です。
出発の21:30から朝の7時くらいまで、ノビノビと横になっていた山小舎おじさんは、体も軽く山陰の地に第一歩を踏み出しました。

終着の出雲市駅に到着

出雲大社へバスで30分ほどの出雲市は、雪はないのですがとにかく冷たい風が吹き荒れていました。
バスの時間まで、駅構内の蕎麦屋で出雲そばを食べます。
戸隠そば、わんこそばと並んで日本三大そばなのだそうです。
割子に盛られたそばに薬味とダシをかけてすすります。
三大そばの制覇達成です。

出雲そば

地元の電鉄会社・一畑電鉄の路線バスに乗って出雲大社を目指します。
車内は座席が埋まっています。
一畑バスではSUICAを含め交通系ICカードが使えました。

出雲大社はぜひ行きたかった神社です。
国津神である大国主命がいたところで、古代には高さ48メートルの社が建っていたという神道の中心地のひとつです。
縁結びの神様としても有名です。
目的の一つに、近くの稲佐の浜で砂を掬い、大社の本殿裏にある素戔嗚社で収め、すでに収めてある砂をいただき、持って帰って自宅の庭に撒き、厄除けにしようというのがあります。
まずはバスで大社を通り越し、稲佐の浜前で降ります。

稲佐の浜

稲佐の浜は10月に神迎の儀式が行われるという古代からの由緒正しい場所。
日本海に面し荘厳な雰囲気を残しているのですが、この日の風の強いこと!
進めなくなったり、バランスを崩しそうになったりしながらやっとの思いでビニールに砂浜の砂を掬い取ります。

天気が刻々と変わる稲佐の浜

砂をもって大社境内を目指します。
途中に、歌舞伎踊りの創始者といわれる出雲阿国の墓がありました。

浜と大社の間にある出雲阿国の墓

大鳥居のある大社正面まで戻らず、西側の入り口から境内に入ろうと思いました。
さっそくガイドブックなどに写真映えして掲載されている日本最大のしめ縄を持つ神楽殿が現れます。

ガイドブックには神楽殿として紹介されている日本最大のしめ縄を下げる神殿。出雲教の神殿だった

そのスケールに圧倒されて写真をぱちぱち撮る山小舎おじさん。
目的の一つの大島縄が撮れたと喜びましたが、後でこの神楽殿が大社の一部ではなく、出雲教という教団の建物だと知りました。

本当の出雲大社にお参りしてからの話は次回に。

軽トラ流れ旅 冬の菅平高原を越えて須坂、松代へ

今年最後の軽トラ旅です。

既に12月も中旬を迎えようとしている信州は、寒気に覆われ、山小舎周辺は真っ白に凍てついています。
軽トラの出発前には、暖気運転とフロントガラスの凍結解除が必要です。
万が一のために運転席にゴム長靴を用意します。

アイスバーンの姫木別荘地構内を下り、国道152号線に出ます。
凍結防止剤(塩化アルシウム)の散布で雪が溶け、アスファルトが露出している国道では、麓から乾いたボデーの乗用車が颯爽と登ってきます。
対向して下る軽トラのフロントガラスは、ワイパー部分以外は雪が凍りつき、屋根と荷台は真っ白です。

上田市内を抜け、真田地区を通って、菅平を目指します。
三々五々、車は走っています。
カフェやペンションが営業シーズンを終えている菅平高原の中心部を抜け、須坂との境の峠を越えるとスキー場が見えます。
駐車場に車を止め、ゲレンデをパチリ。
菅平のスキー場はシーズンインの様子です。

12月の菅平高原中心部
菅平のスキー場

心配した須坂への峠道は路面が溶けていました。
雪が除雪されているうえに、凍結防止剤の散布でスタッドレスタイヤであれば通行は十分可能でした。
若干、シャーベット状の雪が路面に残っており、また日陰の路面で一部凍結が見られたかなあ、という状況でした。近年の国道の整備は、大雪の際の除雪と、寒気を迎える際の凍結防止剤の散布が徹底されており、ドカ雪の直後などでなければ(スタッドレスタイヤを履いていれば)かなり通行しやすくなっている印象です。

峠付近の路面

無事峠を下りて須坂市内に入ります。
この日の目的は市内の鈴木養蜂店。
家族で高山村の七味温泉紅葉館を訪れた際、朝食に出たはちみつのおいしさに感動。
由来を聞いたところ、鈴木養蜂店のはちみつと知り、帰りに須坂に寄って求めたのがきっかけです。

須坂市内の商店街

須坂市内の歴史ある町並みの一角に鈴木養蜂店があります。
店の方に、七味温泉での由来などを話して、家族からのリクエストの百花はちみつをセレクトしていると、ストーブをつけながら椅子をすすめてくれ、はちみつドリンクを出してくれました。

鈴木養蜂店

三代目という店主の蜜の採取場所は、須坂周辺、小布施、飯山など。
空気と環境のいい場所で採取していることがわかります。
なお、最近では熊が心配だとのこと。

店内のレイアウト

話してくれたのは、店主の従弟だという女性ですが、百花はちみつをセレクトする際に、結晶が固まったものではなく、トロッとしたものを勧めてくれたり、端数の代金をおまけしてくれたり、サービスでかりんとうとドリンクを袋に入れてくれました。

自宅へのお土産。かりんとうとドリンクはオマケでもらったもの

対面販売の有難さ、当店のはちみつを求めて須坂まで来たストーリーを語っての効用を感じての、心温まるひと時でした。
折からみぞれが降ってきた曇天の須坂を離れ、まだぎりぎり午前中でしたが帰路を急ぎます。

南に下り、今は長野市内となった松代町へ向かいます。
昼食と選果場での野菜物色のためです。

松代の選果場は、初夏にはアンズの、この季節ではリンゴと長芋の売り出しで有名です。
幟を立てて長芋などを売りだし、平日ながら近隣の消費者が買い出しに集まっています。

松代の選果場

立派な長芋が1本で1000円前後。
巨大な白菜や、極太の長ネギの束が手に入るのも信州の直売所のすばらしさ。
チャンスとばかり買い求めます。
もうすぐの山小舎じまいの際に、自宅に持って帰るのです。

白菜、長ネギ、長芋、里芋を購入

思わぬにぎわいの選果場を後に、昼食に向かいます。
松代中心部のニュー街道一という食堂です。
数年前に一度寄ったことがありました。
美味しかったので松代に行った際には寄るようにしましたが、貸切だったり、休業中でその後は一度も入れませんでした。

松代の食堂・ニュー街道一

この日は待望の営業中。
期待して入店します。
カウンターが満席だったので、小上がりへ。
隣の親子はボリューム満点のカツカレーとチャーハンを食べています。
後から来た二人連れは、一番早いメニューは?と聞いてラーメンをオーダー。
先に来たこちらより早く食べ始めています。

店の前に軽トラを止めて入店

山小舎おじさんは思い出のあんかけ焼きそばを注文。
揚げたタイプの麺にたっぷりのあんをかけたもの。
記憶よりかなりボリュームたっぷりです。

辛子酢をかけてモリモリゆきます。
そろそろ食べ飽きようとする頃、大皿の焼きそばがなくなりました。
相席の夫婦は、カレーとラーメンのセットを注文しています。

運んできたおかみさんに、写真撮っていいか?と聞いたところ、一瞬間があり、アップしないでね、とのこと。
数年前に断わって写真を撮った際には、マスターが写真なんか撮ってどうするんだろうね、とつぶやいていましたっけ。

この間に、SNSでアップされて不本意なことがったのでしょうか。
そういうわけであんかけ焼きそばの写真は、撮りましたが掲載しません。

小上がりの壁いっぱいには地元放送局のアナウンサーやらのサインで一杯で、平日でも近隣のお客で満席の店内でした。
チャーハンやカレーもおいしそうでした。
帰りしなは年配のマスターが、ありがとうございます、と一人一人に挨拶していました。

帰りのルートは一般的には千曲川沿いに国道18号線を南下しますが、交通量が多く、信号も多い道です。
行きの菅平高原で道路状況も分かっていたので、松代から真田へ抜ける最短の地蔵峠越の道で帰りました。
路面は全く心配ありませんでした。

今シーズンの軽トラ旅は終了です。
来年はどこへ行きましょうか。

軽トラ流れ旅 駒ケ根高原登山口へ

これまで、流れ旅では県内の様々な場所へ行きましたが、やはり遠い所への日帰り旅はきついものがあります。
伊那の駒ケ根以南だったり、木曽地方だったり、県北では白馬、小谷だったり、飯山以北だったり、は軽トラでは行ったことがありません。

また、県内には見るだけでも心打たれる山々がいたるところに鎮座していますが、地元の八ヶ岳を除き、北アルプスや中央アルプスなどは、たまに遠くから見るだけの存在です。
山岳県長野に居てもったいない話です。

今回は、中央アルプス木曽駒ケ岳の麓の街・駒ケ根にある、駒ケ岳の登山口まで行ってみようと思いました。
駒ヶ根では、駅前には何度か行ったことがありますが、駒ケ根といえば中央アルプスの登山基地の町、そこにはまた別の顔がありそうです。

9時前に山小屋を出発。
杖突街道を走り、高遠の直売所に寄って、駒ケ根に着いたのは11時前でした。

駒ケ根の市街地から、中央自動車道の高架をくぐって、まっすぐ山の方へ登ってゆくと駒ケ根高原と呼ばれる場所に着きます。
ここら辺一帯が、木曽駒ケ岳の登山口です。

観光案内所やや直売所、ロープウエイ客用の有料駐車場が見えます。
観光客用の食堂、レストラン、日帰り温泉、ホテルなどもそろっています。
シーズン中の登山客のほか、ロープウエイで千畳敷カールまで登り散策するハイカーや団体客までを受け入れ可能な大規模施設群です。

登山口の風景
観光案内所と直売所がある建物
駒ケ岳方面を望む

地方都市・駒ケ根はご多分に漏れず、駅前などは閑散としています。
が、ここ駒ケ根高原は設備が最新なものに更新されており、人が常に訪れている活気があります。

上高地と同じように、ここ登山口から奥は一般車両が通行禁止です。
バスに乗ってロープウエイなりに向かわなければなりません。

雲が沸き立つ中央アルプス方面の山々

観光案内所で聞くと、ロープウエイまではバスで30分。
千畳敷の一周コースは1時間ほどで回れるとのことですが、今は紅葉も終わり、寒いとのこと。
近くの温泉場として有名な早太郎温泉のことを聞くと、登山口一帯が早太郎温泉郷で、日帰り施設も2,3か所あるとのことでした。

ここから先は一般車両通行止め
ロープウエイで登った先の千畳敷カールの案内パンフ

少し離れた、こまゆき荘という宿泊施設で日帰り入浴しました。
無色、無臭の単純泉でしたが、あったまりました。
620円でした。

あいにくの雨天で、中央アルプスの雄姿は望めませんでしたが、駒ケ根登山口の、シーズン中の賑わいをそこかしこに窺うことができ、自然の遺産としての山岳の有難さを感じられる旅でした。

軽トラ流れ旅 秋の高山村~渋温泉

秋は旅の季節です。
もうすぐ日中が短くなります。
寒くなる前に旅をしなければ。
行ったことがない場所は県内にもたくさんあります。

9月中旬に家族と一泊した高山村の七味温泉。
そこの立寄り湯にもう一度行ってみたい。

帰りは奥山田温泉を越えて渋温泉まで峠越えをしよう。
長距離の旅だが8時に出れば明るいうちに帰ってこれる。
温泉にも二か所入れる。

高山村までは、真田から菅平を越えて須坂に下り、中野を通って行こう。
天気は小雨模様だが、高山村の秋の恵みと温泉が待っている。

須坂におりてからは携帯のナビが頼り。
つい先日、家族で通ったルートを行きます。
高山村のJA選果所に寄ってみます。
紅玉リンゴと地元産のシードルを買いました。

高山村のJA選果場

その先の高山村歴史民俗資料館は寄りたかった場所です。
人気のない館内には受付にシルバー?らしきおじさんが一人。
100円で入館すると館内の照明をオンにしてくれました。

高山村歴史俗資料館のメインの展示物は、湯倉という場所で発掘された7000年前の縄文時代の人骨です。

高山村歴史民俗資料館

20~30歳台の女性の人骨が保存状態よく発掘されており、発掘時の状態で展示されています。
これは希少価値がある展示物なのではないでしょうか。

縄文時代の人骨

信州は諏訪地方の縄文遺跡、土偶のほか、各地の巨大な前方後円墳の存在が知られている場所です。
縄文人が北信の地で生活していても何の不思議もありません。
保存状態の良さは不思議そのものですが。

人骨発見時のニュース

資料館を出て一本道を奥へと進みます。
山田温泉の街に到着して一休み。
足湯もあるショップで地元のグッズを物色します。
地元産のワイン、味噌のほか美味しそうなネクタリンを買いました。

高山温泉郷・山田温泉のスパ・ワインセンター
山田温泉の立寄り湯

更に松川渓谷に沿って進みます。
つい先日に泊まった七味温泉に来ました。
今日は無人の立寄り湯に入ります。
相変わらずいい湯です。
昼前の入湯でしたが、疲れるどころかかえって目が覚め、体がしゃっきりしました。
温泉が効いたのです。

七味温泉紅葉館の野天風呂
野天風呂入り口
誰もいないので浴槽をパチリ

元気が出て、七味温泉から初めてのコースを奥山田温泉方面に進みます。

これからという時に通行止めの立て看板。
シルバーのおじさんが近いづいてきます。
「自転車のロードレースがあるから、1時まで通行止め。渋温泉に行くのだったら戻った方が早いよ。ここで待ってもいいけど」とのことでした。

奥山田温泉方面の道をサイクリストたちが下ってきた

近くには店も何もありません。
温泉効果で空腹を感じていた山小舎おじさんは、戻ることにしました。
高山村中心部まで下り、小布施、中野、山之内町を通って渋温泉に行くことにします。
途中で食べる場所はあるでしょう。

北信はりんごの季節

渋温泉までの道中はおおむね順調でしたが、中野市内の中心部の郊外型レストランが集中している一角は渋滞の上、どこの店も並んでいるほどの混雑でした。
日曜日の昼時なのでしょうがないのですが。

やがて山ノ内町に入り、川に沿って走ると湯田中温泉を過ぎた先が渋温泉でした。
急に古い温泉街の風情が漂いました。

渋温泉の風景
自噴の源泉

有料駐車場に軽トラを止め、管理しているおじさんにヒアリングします。
立ち寄り湯の場所と、渋温泉名物の木造4階建ての温泉宿の場所を聞きました。

地図を出して丁寧に説明してくれるおじさん。
「宿泊していない人が入れる外湯は1か所だけ。入浴券は買ってもらってから、近くの店の人に鍵を開けてもらってください。」、「木造4階建ての旅館は金具屋さんですね。」とテキパキしています。

有料駐車場入り口

ここで外湯の入浴券を買い、地図をもらってレッツゴー。
まずは金具屋さんを目指します。
メイン道路から1本入った路地は風情があります。

温泉街の一角に木造4階建ての立派な旅館がありました。
昔ながらの玄関は、2時過ぎの時間のこともあり、閉まっています。
戸を引いて従業員に声をかけパンフレットをもらいました。

温泉街
木造4階建ての金具屋旅館

次いで外湯へ入ります。
向かいの食料品店のおばさんに声をかけて入り口を開けてもらいました。
外からは鍵がないと入れないスタイルのようです。

立寄り湯・大湯

外湯には熱いお湯があふれていました。
つかっただけで目が覚めそうなお湯です。

渋温泉の温泉街は日曜日とはいえ、ひっそりとしています。
浴衣を着た外人カップルを見掛けたくらいです。
15時の当着時間を迎えるころになると、だんだん賑わってくるのかもしれません。
親切に答えてくれた駐車場のおじさんに挨拶して帰路に着きました。

渋温泉街点描
路地の風景
射的場
巨大な獅子頭