DVD名画劇場 イタリアンネオレアリスモの作家たち その7 モギー、カステラーニ、コメンチーニ

バラ色のネオレアリスモ

1950年代に入り、ネオレアリスモのかつての推進者たちはそれぞれ独自の映画表現へと向かっていった。

すなわち、ヴィスコンテイは「夏の嵐」(54年)で、19世紀のイタリア統一運動の中で愛に生きる貴族の女性をドラマチックに描き、以降の彼の作風となる『貴族、王族、ブルジョアの葛藤と黄昏を豪華絢爛に描く』方向への転換を行った。

ロッセリーニは「ストロンボリ」(50年)、「ヨーロッパ1951年」(51年)を発表。
主演には「無防備都市」「戦火のかなた」に感動してロッセリーニのもとに走ったイングリッド・バーグマンを起用して、イタリアや欧州の戦後の現実の中で、コミュニケーションの困難をきたすアメリカ女性の姿を描いた。
一方、「神の道化師フランチェスコ」(50年)ではロッセリーニのもう一つの素質である宗教的なものへの希求を示した。

デ・シーカは「ミラノの奇蹟」(51年)で貧困の主人公たちが箒で空を飛ぶというファンタジーを描いた後、「終着駅」(53年)では、ハリウッドの製作者デヴィッド・O・セルズニックとの合作で、モンゴメリー・クリフトとジェニファー・ジョーンズを起用してのラヴロマンスを描き、商業主義へと舵を切った。

上記3監督が作風に変容を見せ始めた50年代は、またレナード・カステラーニやルイジ・コメンチーニら新鋭監督が、喜劇的作風の「2ペンスの希望」(52年)、「パンと恋と夢」(53年)などを発表、『バラ色のネオレアリスモ』と呼ばれた。
これらの作品は50年代以降に発表されることになる「イタリア式喜劇」の出発点となった。
「イタリア式喜劇」は、50年代以降のイタリアの高度経済成長期に現れた利己的で小心者の庶民やブルジョアをブラックユーモアで描く悲喜劇の作品群で、以降のイタリア映画の主流となった。

(以上は、集英社新書2023年刊 古賀太著「永遠の映画大国イタリア名画120年史」第三章ネオレアリズモの登場より要旨抜粋しました)

「明日では遅すぎる」  1950年  レオニード・モギー監督  イタリア

監督のモギーは、1899年オデッサ生まれのユダヤ人で、フランス、イタリア、アメリカなどで映画監督として活躍した。
本作はイタリア映画であるが、モギー自身はネオレアリスモの流れをくむ映画人ではない。
彼の代表作の一つは1935年にフランスで発表した「格子なき牢獄」で、女子感化院の非人間性を描いた作品。
収容される少女役のコリンヌ・リュシエールは日本でも人気が出たが、ドイツによるフランス占領期にドイツ軍将校の愛人となったことにより戦後は投獄され、獄中で亡くなった。

「格子なき牢獄」のコリンヌ・リュシエール

本作「明日では遅すぎる」は、「格子なき牢獄」等での手腕を買われての起用だと思われ、モギー監督は手堅くその起用に応えている。

舞台はイタリア。
リアルタイムの設定と思われ、1950年の中高生の物語。
同じアパートに住む、フランコとミゼッラ(アンナ・マリア・ピエランジェリ)は同じ学校の同学年。
この学校は男女共学だがクラスは別で、教師もそれぞれぞれ性別の先生が教えている。
先生役にヴィットリオ・デ・シーカとロイス・マックスウエル。

女先生(ロイス・マックスウエル)とピアンジェリ

生意気盛りのフランコは年上の女を映画に誘ったり、友達連中と学校の女子をカメラテストの名目で誘ってキスを奪って喜んでいる。
フランコのことが気になるミゼッラは年上女とフランコの話をアパートの廊下から立ち聞きしたり、女性雑誌の「男の気の引き方」特集を読んだりする。

やがて夏のサマーキャンプがお城で行われ、厳しい女校長と進歩的な両先生(デ・シーカとマックスウエル)が監督する。
生徒たちは細かな校則違反で女校長をいちいち怒らせる。
フランコとミゼッラは,、発表会で吟遊詩人とお姫様を演じてから、互いの気持ちに素直になっており惹かれ合っている。

生徒の気持ちを尊重する両先生と校長の対立。
女先生は校長によって追放される。
女先生を駅へ送った生徒たちが嵐にあって夕食に遅れ、フランコとミゼッラは納屋に逃れる。

納屋では焚火を炊き、服を乾かし、嵐が去るまで藁の中で休む二人。
キスも交わしている。
まるで「潮騒」のようなシチュエーションだ。
この時代の両思いの10代の最大限の愛の表現として、イタリアと日本の共通点が面白い。

戦後を迎えて、青少年の性も無視できなくなった時代に、最大限進歩的に青少年の性を扱った作品。
ややもするとキワモノ的な興味を誘いかねない所を、清純そのもののヒロイン(ピエランジェリ)と、二枚目俳優(デ・シーカ)、正統派美人女優(マックスウエル)の起用によって正統派映画の作風となっている。

進歩的な両先生の言動が今見ると偽善的に見えるほど、教条的なキライはあるが、現実を直視する姿勢はネオレアリスモの精神を継承しているといえよう。

ヒロイン役でデヴューした、アンナ・マリア・ピエランジェリは本作がベヴェネチア映画祭で受賞したこともあり、MGMにスカウトされてアメリカに渡り、『ピア・アンジェリ』として売り出した。

ハリウッドでは「三つの恋の物語」(53年)、「葡萄の季節」(57年)などに主演。
ジェームス・デイーンとの恋愛が有名だったが、歌手と結婚。
離婚して61年にはイタリアに戻り「ソドムとゴモラ」(61年)などに出るがスターダムには乗り切れず。
71年ビバリーヒルズの友人宅で睡眠薬自殺を遂げた。

モギー監督が「発見」した、リシュエールとピエランジェリという仏伊の二人の清純派スターは道半ばにしての夭折していった。

なお、ピエランジェリのハリウッド移籍は、50年代から活発になったイタリア映画とハリウッドの交流(ハリウッドスターのイタリア映画への起用、合作など)の先駆けとなる出来事だったのではないか。

「三つの恋の物語」(53年)。21歳になる年のピア
「葡萄の季節」(57年)でミシェル・モルガンと

「2ペンスの希望」  1952年  レナード・カステラーニ監督  イタリア

舞台はナポリ郊外のべスピオス火山の麓の町。
最寄りの鉄道駅からは馬車が町まで通る田舎町。
その町へ主人公のアントニオが復員してきた。
志願兵ではないので恩給は出ない、その日から無職の22歳だ。
息子が帰ってきて大騒ぎし、近所で飼っているウサギを盗んで御馳走を煮る母親役の女性が、女優とは思えない存在感で『イタリアの母』を演じる。

町の無職者たちは教会の柵を背に無為に過ごす。
そのアントニオに笑いかける娘がいた。
花火師の娘カルメラだった。
ピラピラのワンピースを翻し、走り回るカルメラ。
洗濯物を干しながら歌い、父親に弁当を届けに山すそを走り抜ける。

アントニオは、ソーダの瓶詰や馬車の助手をして稼ぐが、母親が弟たちを使って午前中に雇い主から前借してゆくので、ばかばかしくなる。
ナポリへ行っても無職では滞在さえできない。

花火屋の親父の仕事を手伝うカルメラ

駅からの連絡交通が馬車からバスに代わる時、ナポリでおんぼろバスを買いアントニオが運転手になろうとする。
それを聞いたカルメラは親に隠れて運転手用の帽子を縫う。
バスは馬車仲間と共同で運行する予定だったが、初日に仲間割れでおじゃんとなる。

アントニオはカルメラの父親の助手になれば、と考えるが頑固で昔気質な父親は頑として受け入れない。
カルメラがアントニオに会いに夜出かけてると知れば、娘の脚をベッドに鎖で縛りつけもする。

親父にベッドにつながれても歌うカルメラ

カルメラは自棄になり、親父の花火倉庫に火をつけ爆発させる。
アントニオはナポリの映画館のフィルム運びなどをして何とか生きるが、カルメラはナポリに女がいると勘鋭く追及したり、アントニオは共産主義だと口走ったりして足を引っ張る。

若い二人のぎこちない迷走と、ストレートな愛情を盾の糸とすると、横の糸は旧態依然の田舎の大人たちである。
ネオレアリズモの作品群は、封建的な網元や、マフィアに支配される後進性や、宗教に縛られる因習を描いてきたが、そこには『田舎の人間は、資本家やマフィアの被害者である』というテーゼが存在していたように思う。
作家たちの左翼思想にもその要因はあったのだろうが。

片や「2ペンスの希望」の田舎の大人たちには全く救いがない。
カルメラの父の頑迷さは最後までそのままだったし、アントニオの母親の狡さ、俗物性は最後まで貫かれた。
まるで『大人たちは、社会の被害者として保護されるほど甘くないし、人間性には全く期待できない』と、この作品の作り手たちは断じているようだ。

映画はエピソードごとにテンポよくまとめられ、まるでスクリューボールコメデイのように進む。
何しろ次から次へと事件が起こり、何とか生きようとするアントニオを巻き込み、前進を阻止し、やる気をそぐ。
カルメラは無邪気に混乱の原因を作り出し、アントニオや家族の気持ちに関係なく彼について回ろうとする。
カルメラの一途な無鉄砲さに、「赤ちゃん教育」でのキャサリン・ヘプバーンの破壊的がむしゃらさを思い出し、思わず笑いがこみ上げる。

2人そろって町の人々の視線の中、カルメラの親父の元へ行くが、親父は「2人でどこへでも行け」とけんもほろろ。
貧乏人のくせに、気に入らない相手との結婚を許さないこの頑固親父の心理は、カソリックを原因とする因習からくるものなのだろうか、それともただのわからず屋だからだろうか。

二人で生きてゆくと覚悟を決めたアントニオはカルメラのワンピースを脱がせて親父に投げ返す。
アントニオの開き直った清々しさを見た町の人々が寄ってきて二人を応援する、洋服屋は掛け売りしてやる。
何もないが若さと愛情だけはある二人を祝福するように。

カルメラとアントニオ

最後の最後に映画的ハピーエンドが訪れるが、それまでのコメデイ仕立てながら辛辣な現実描写に徹した、レナード・カステラーニ監督の痛快な傑作。
イタリアの映画館ではこのラストシーンに観客から拍手が起きたという。

カルメラ役のマリア・フィオーレの抜擢と演出にもカステラーニ監督のひらめきが光る。
彼女はこの作品では、ほとんど唯一の美形女優でありながら、ひたすら野を駆け回り、家事手伝いに精を出すのだったが、よく見ると若いころのステファニア・サンドレッリのような清らかな美貌。
野に咲く花のような生命感と、天からの精霊のような純粋さがあった。

アントニオの母親、カルメラの父親、町の人々には素人と見まがう年季の入った俳優、女優を起用。
その欠けた歯並びと、しわだらけの風貌、因習にまみれた俗物的な言葉の数々は強烈な印象をもたらす。

結婚資金ができ、中年の男と結婚したアントニオの姉が、ささやかな結婚式を終え、教会から結婚相手とその母親が腕を組んでゆく後に仕方なくついてゆくという、幸福感も何もない場面も何とも言えずわびしかった。
加えて、田舎の寂れた町と荒涼とした風土を前面に出してのほぼ全編のロケ撮影。

『バラ色のネオレアリスモ』として、その楽観的姿勢が批判されたこともあるカステラーニだが、世界的にヒットしたこの作品は、第5回カンヌ映画祭のグランプリをオーソン・ウエルズの「オセロ」と分け合った。

「パンと恋と夢」  1953年  ルイジ・コメンチーニ監督  イタリア

「2ペンスの希望」と並び、『バラ色のネオレアリズモ』と呼ばれる1作。

戦後10年近くたち、イタリア映画のテーマは戦争そのもの、直後の現実をストレートに描くことから、同じく戦後の貧困などの現実を基底としつつも、映画のエンデイングに前途に希望をもたらすような作品が出てきた。
本作もまた、ヴィトリオ・デ・シーカ、ジーナ・ロロブリジータという陽性の両スターを前面に押し出した商業性を意識した作品で、興行的にもヒットし、またベルリン映画祭で銀熊賞を受賞している。

マリアは弟が飼っていた小鳥を署長にプレゼントする

南イタリアの寒村に警察署長(デ・シーカ)が赴任してくる。
村人はよそ者や男女関係には異様に興味を示し、うわさはあっという間に広まる。
村一番の美人ながら「山猫」と呼ばれるマリア(ロロブリジータ)は、父親を亡くし、母と妹弟らと暮らすじゃじゃ馬娘。
村のおじさんたちは、マリアにちょっかいを出してははねつけられる。
若い巡査はマリアへの恋心を伝えられず、おどおどしている。

白髪が混じりながらも独身を貫く署長も、マリアの若さがまんざらでもないが、片や熟女の助産婦アンナレ(マリザ・ベルリーニ)の落ち着いた大人ぶりにも鼻の下を伸ばす。

戦争と無知な村人たちの犠牲者でもあるマリアは、一張羅のワンピースを翻しながら、ロバに横乗りし、生きるためにスモモを盗んで売り、行商が持ってきたドレスを巡って女同士の喧嘩も辞さない。
実直で、聖職者にしては珍しく裏のない村の司祭は、彼女に金銭的な援助をしている、賽銭から。
署長も目立たぬよう500リラを彼女に与えようとするが、5000リラ札と間違えた上に、彼女の母の手に渡ってしまう。
母親は巡礼のおかげ、聖アントニオの奇蹟が起きたと喜ぶが、マリアは署長からの援助に我慢できず5000リラの札を破り捨てる。

助産婦として村に赴任して7年のアンナレは、村中の出産に駆け回りながら、実はローマに残した婚外の一人息子の成長を生きがいにしている。

女性二人の間を行き来する署長は、いい年をしてプライベートではギターを爪弾き、水着女性のグラビア雑誌を開いてくつろぐ独身ぶり。
年配のメイドはそういう署長をからかうように言葉を挟む。

行商屋の洋服を巡って諍いを起こしたマリア

地方喜劇の脚本家出身というコメンチーニ監督のタッチは、まさに大衆演劇のそれであった。
テレビでやっていた松竹新喜劇の舞台になぞらえれば、純粋培養の世間ずれしていない二枚目役がデ・シーカ扮する署長、彼を取り巻く中年女芸人(老メイド)やら、まじめな二枚目女優(助産婦)がかき回し役だ。
彼等が寄ってたかって弄り回す若いカップルが、マリアと若い巡査となる。

「パンと恋と夢」を松竹新喜劇ととらえれば成程ピタッとはまる。
決定的な悪人は登場せず、貧困が原因の嘘やいさかいも最後の大団円で溶けて流れる。
気の利いた、男女の機微をくすぐるような、大衆受けするセリフもある。
現実を必要以上にリアルに表現しない姿勢も大衆演劇風。

一方で、戦後のイタリアの貧困が全国民に重くのしかかっていたこの時代。
登場人物の背景に、戦争による犠牲、宗教的因習、来るべき階級差などを描き込みながらも、庶民たちの楽天性、逞しさを前面に押し出した本作は、『バラ色』一辺倒ではないが、左翼教条主義的でもない作品となった。

DVD名画劇場 イタリアンネオレアリスモの作家たち その6 ブラゼッテイ、カメリーニ

ネオレアリスモとは、イタリア映画史の核と言っていい概念と運動であり、イタリア降伏後の戦後時代に作られた作品群を称する。

「無防備都市」、「戦火のかなた」、「自転車泥棒」、「靴みがき」、「揺れる大地」など、ネオレアリスモの代表作を撮ったのは、ロベルト・ロッセリーニ、ヴィトリオ・デ・シーカ、ルキノ・ヴィスコンテイらと脚本家のチェザーレ・ザヴァッテイーニらであり、そこに共通するのは、戦争や封建制のために苦悩する民衆の貧しさを直接的に描いたことだった。.

スタジオでスターが演じる夢の世界を描く映画から、街頭ロケで普通の人々の日常を見せる映画への変貌を果たしたのがネオレアリスムであり、世界の映画作りに影響を与え、のちにフランスの「ヌーベルバーグ」として結実した。

ネオレアリスモを担ったイタリア人映画作家には、上記3名のほか、戦前に国家機関として設立されたチネチッタ撮影所付属の映画実験センターで学んだ、ピエトロ・ジェルミ、ジュゼッペ・デ・サンテイス、ルイジ・ザンパや、同じく映画批評誌「チネマ」同人出身のアルベルト・ラトアーダ、カルロ・リッツアーニらがいる。

また、サイレント時代から活躍し、戦争初期には「ファシスト政権の御用監督」とまで言われた、アレッサンドロ・ブラゼッテイやマリオ・カメリーニらベテランが、戦争後半から戦後にかけては民衆の貧しさをテーマにした作品を撮っており、ネオレアリスモの先駆をなしたといわれている。

(以上は、集英社新書2023年刊 古賀太著「永遠の映画大国イタリア名画120年史」第三章ネオレアリズモの登場より要旨抜粋しました)

「雲の中の散歩」  1942年   アレッサンドロ・ブラゼッテイ監督  イタリア

監督はサイレント時代からのキャリアを誇るアレッサンドロ・ブラゼッテイ。
脚本には戦後にデ・シーカと組んでネオレアリスモの重要な牽引者となった、チェザーレ・ザヴァッテイーニ。

戦時中は「ファシスト政権の御用監督」とまで言われたブラゼッテイだが、本作は、ヴィスコンテイの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(42年)、デ・シーカの「子供たちは見ている」(42年)とともにネオレアリスモの先駆を成す作品といわれている。

映画は庶民の朝のシーンで始まる。
目覚時計で目を覚まし、子供のために牛乳を温め、ぶつくさ言う妻を後にして家を出るサラリーマン・パウロ。
倦怠感に満ちたシーンだが、何やら楽し気なBGMが流れる。
演じる俳優も当時の映画スターらしい風貌だ。
演技的にも、音楽的にも、流れ的にも映画の作りはサイレント時代からの伝統にのっとっている。
決して実験的でも、独創的でも、センセーションを売り物にする映画でもないことがわかる。
その点では、旧来のスタイルの映画に、現実的なテーマを盛り込んだ作品であろうことがわかる。

満員の電車で営業に向かうパオロ。
車内で同僚のサラリーマンと無駄口をたたくうちに、どこか寂しそうな若い女に席を譲ることになる。

アドリアナ・ベネッテイ(左)とジーノ・チェルヴィ

若い女はマリアといい、パオロが偶然電車を降りた後で乗ったバスでも同席となる。
バスが運転手の妻の出産で、遅れたり、祝宴が始まったり、スピードを出しすぎて道を外れたりするうちにパオロはどんどん仕事に遅れ、押し黙っているマリアが気になり、手助けをし、口をきいてゆく。

彼女は不倫の末妊娠し、やむなく田舎の実家へ向かっていることを告白する。
伝統ある家長の父親から受け入れられないだろうことも。

そこで何くれと親切にしてくれたパオロに助けを求める、「父に会う時だけ夫の役を果たしてくれ」と。
「なんで関係のない家族持ちの俺がそこまでしなきゃいけないのか。仕事(菓子のセールス)の途中だし」、
パオロは当然そう言うが、マリアの姿を見ると放っておけなくなり、会うだけならと家に同行する。

田舎の実家では、マリアが大歓迎を受け、結婚と妊娠を知ってからは、神父や署長まで呼んでの大宴会となる。
パウロは抜けられなくなり、マリアの実家で一晩を過ごすが・・・。

マリアと父親

50年代にイタリアで、90年代にハリウッドで、さらにインド映画にまでリメークされたこのストーリーは、映画ならではのハートウオーミングドラマの典型というか原点。
「そんなことあるかいな?」と思わせながらも、「そうあってほしい」方向に話が進んでゆく。
二人の周りで起こる奇妙でファンタステイックなエピソードと連動して進む夢の時間は、パウロの夢であると同時に観客の夢でもある。

ネオレアリスモ主流作品の深刻さはないが、未婚女性の不倫による妊娠と家族、社会との軋轢を描いており、その点で42年のデ・シーカ作品「子供たちは見ている」の、大人の世界に蔓延する姦通やブルジョアの無為な生活など『社会の現実』を描いた観点同様に、ネオレアリスモの精神を先取りしている。

主人公のパオロにジーノ・チェルヴィ、マリアにアドリアーナ・ベネッテイ。
マリア役のベネッテイはデ・シーカの「金曜日のテレーザ」(41年)でデヴューした新鋭女優。
その薄幸な美人ぶりは「ローマ11時」(52年)のカルラ・デル・ボッジョや、「街は自衛する」(51年)のコゼッタ・グレコを思い出させる。

監督のブラゼッテイは戦後、歴史大作「ファビオラ」(49年)、艶笑ドラマ「懐かしの日々」(52年)を発表。
さらにショーの記録映画として『夜もの』映画、あるいは『モンド』映画の先駆けとなった「ヨーロッパの夜」(60年)を、あのグアルテイエロ・ヤコッペッテイと組んで発表した。
イタリア映画史を横断する『巨匠』のキャリアではないか。

「不幸な街角」  1948年  マリオ・カメリーニ監督  イタリア

アンア・マニヤーニが存分にその「一人芝居」で大暴れする。

役柄は戦後直後の貧しい家庭の主婦。
幼い一人息子がいて、2年前にアフリカ戦線から復員してきた夫パウロ(マッシモ・ジロッテイ)は失業中。
失業を戦争のせいにして、決して悪辣に社会を渡っていけない夫と、子供のためにコロッケ一つ買えない家計に不満を募らせる妻リンダ(マニヤーニ)。

製作は「にがい米」でシルバーナ・マンガーノを「発見」した、デイノ・デ・ラウレンテイス。
30年代から活躍のベテラン、マリオ・カメリーニを監督に起用、音楽はのちにフェリーニ作品や「ゴッドファーザー」で有名なニーノ・ロータ。
当時の新進映画作曲家ロータの楽し気なBGMに乗って、映画は戦後の貧困な社会を背景とした、ひと時の庶民の夢をつづってゆく。

まだ若く、幼子の母親役が似合うマニヤーニのマシンガントークが、いつものように炸裂する。
漫才でいえば「ノリ突込み」を一人でこなすから、相手役のジロッテイはそばに立っているだけの役割。
見るものはマニヤーニの芝居にあっけにとられる。

稼ぐ手段が見つからず、家ではリンダのマシンガントークに追いつめられたパウロは、高級車の盗難をそそのかされる。
何とか盗難に成功し、モグリの売却業者のもとに急ぐが、夫の浮気を妄信したリンダが息子を連れて車に乗り込んでくる。
楽しそうなリンダと苦虫をかみつぶしたパオロのドライブが始まる。

この場面、浮気を誤解してまくし立てるマニヤーニと、彼女を援護する、いつの間にか集まった群集と偶然にしてはタイミング良すぎる警官が二人を取り囲む。
彼等をバックに一段とオクターブを上げるマニヤーニの、十八番ともいえる誇らしげな姿。
コメデイ映画定番のシチュエーションだが、マニヤーニにかかると見ているこちらのテンションも、わかっていながら爆上がりだ。
イタリア映画らしい、芸達者なエキストラ陣とおせっかい警官の表情も最高!

そうしてモグリの悪徳転売業者のもとにたどりつくが、彼は孫の洗礼にかかりっきり。
教会で洗礼の後は親戚一同(と神父、署長)でお約束の大宴会が繰り広げられる。
早く車を売らないと、と焦るパオロ。
いつの間にか家族に同化し、大笑いしながら盛大に飲んで食うリンダの食欲とコミュニケーション欲?も誰にも止められない。

コメデイ定番の展開の後、なんと!悪徳業者は孫の澄んだ目を見て良心に目覚める!
「初めて泣くのを見た」と乱舞して、悪徳業者を連れ神父ともども教会の懺悔室?になだれ込む親戚及び関係者一同。
かくて悪徳業者は善人となり、車の転売はおじゃんになるのであった。

その後も、政治集会の群れに車の行く手を阻まれたり、無銭飲食でオートバイに追いかけられたり。
「悪」には全く素人のパウロはリンダと息子を乗せて、ヒヤヒヤドキドキの家族ドライブを繰り広げる。

2人の子供を演じる子役がいい。
ドライブの先々で、七面鳥やウサギと出会い、最後は海を見てはしゃぎながら砂浜で遊ぶ幼子。
現実の貧困からの「救い」の映画的表現がやさしい。

ハピーエンドで終わる物語は後味もよい。
貧しい家庭が一日の夢のようなドライブを楽しんだ。
そもそもがパウロが慣れない悪事に手を染めたからだったが、二転三転、犯罪にならずに済んだ。
これは、救いのない現実に苦しむ当時の観客にとっても救いのある、映画的な夢であったろう。

マニヤーニの芝居のいいところは、その熱演がコメデイを狙ったものではなく、結果としてコメデイになっているが、あくまでも本人にとっては真剣なものであること。

この作品でも、マニヤーニは大まじめに周りをかき乱す女性像を演じながら、車は夫が盗んだものだと察したときにきっぱりと夫に自首を勧め、あまつさえ自分が夫の代わりに警察に自首するのである。
まさに大真面目に、正しく生きているのだ、その『勝手な』行動で周りをかき乱しながらも。

マリオ・カメリーニは1895年ローマ生まれ。
イタリアの僻地出身でも、左翼思想の洗礼を受けたわけでもない、生粋の戦前派映画人といえる存在。
23年に監督デヴューの後、30年代のイタリア映画界をアレッサンドロ・ブラゼッテイとともに支えた。
50年代まで第一線で活躍した。

DVD名画劇場 イタリアンネオレアリスモの作家たち その5 ピエトロ・ジェルミ

ピエトロ・ジェルミとは

1914年イタリア本土の歴史ある港町ジェノヴァ生まれ。商船学校に入るが、のちにローマに出て、チネチッタ付属の映画実験センターの演技科から監督科に移って卒業。

ピエトロ・ジェルミ

当時のベテラン監督アレッサンドロ・ブラゼッテイの助監督を務めた後、「証人」(45年)で監督デヴュー。
「無法者の掟」(49年)、「越境者」’(50年)、「街は自衛する」(51年)など、ネオレアリスモの手法を受け継いでイタリアの貧しい人々の生活を描く。

1950年代中盤になると、「鉄道員」(56年)、「わらの男」(57年)、「刑事」(59年ん)といった、小市民の生活の哀歌を描く作品を、自らの主演で発表。
これらの作品は日本でもヒットし、現在でもジェルミの代表作と呼ばれる。

「刑事」。ピエトロ・ジェルミとクラウデイア・カルデイナーレ

1960年代に入ると、男と女の愛の機微をコメデイーで描いた「イタリア式離婚協奏曲」(61年)、「誘惑されて捨てられて」(63年)、「蜜がいっぱい」(65年)などを発表。
イタリア市民や社会にひそむ古風な習慣や生活哲学を痛烈にかつ愛を込めて批判する。

「誘惑されて捨てられて」のステファニア・サンドレッリ

ジェルミの作品の根底に流れているのは、市民に対する限りない愛情の眼差しであり、その意味で彼はヴィットリオ・デ・シーカの流れをくむ作家である。

(以上は、1983年芳賀書店刊「イタリア映画の監督たち」P36「ピエトロ・ジェルミ作品アルバム+監督論」高沢瑛一より要旨抜粋しました。)

「無法者の掟」  1949年  ピエトロ・ジェルミ監督  イタリア

ジェルミ3本目の作品。
舞台は灼熱、荒涼としたシチリア島内陸部の寒村。
その地方を武力で支配するマフィアと新任の裁判官の対立を描く。
マフィアを最初に取り上げた映画とのこと。
脚本にはフェデリコ・フェリーニが参加しいている。

左から裁判官(マッシモ・ジロッテイ)、男爵、男爵夫人

26歳の裁判官グイド(マッシモ・ジロッテイ)が赴任してくる。
前任者は引継ぎもせず逃げるように任地を去った。
グイドを迎える村の雰囲気は殺伐としている、バスの運転手はグイドの荷物を下ろそうともしない。
愛想がいいのは少年のパウリーノくらい。

裁判所に着任して書類を調べる。
告訴から数年ほおっておかれた案件もある。
弁護士、書記官、警察署長らが裁判官と仕事を共にするはずだが、味方は所長だけ。
地元の有力者・男爵はマフィアを使って権力を維持しており、味方のはずの弁護士は男爵の屋敷に入り浸っている。村人たちはマフィアに逆らわず、不利なことも黙って受け入れる。
その表情には過酷な自然に耐えるかのように忍従と諦念が深く刻み込まれている。

グイドがマフィアのアジトに向かう。
ボスが、勇壮な幹部たちを連れて現れる。
『我々が執行すること自体が村の掟であり、正義である』と言わんばかりに。
貫禄たっぷりなボスを演じるのがフランスの俳優シャルル・バネル。
「外人部隊(1934年 ジャック・フェデー監督)」のフランソワーズ・ロゼエの宿六役であり、「恐怖の報酬」(1953年 アンリ=ジョルジュ・クルーゾ監督)ではイヴ・モンタンの相棒役を演じた味のある役者だ。

ボスは『自分たちは名誉ある男たちだ』と自任。
伝統のマッチョで残忍な価値観を自分たちだけではなく、支配地域の住民たちにも強要し、そのためには暴力を発動する。
その割には、中央の法律を意識して、殺人などを隠そうと画策するのがオカシイ気がするが。
映画では、ボスを中心とするマフィアたちを勇壮に描き、その登場シーンなどでは高らかなマーチをBGMで謳う。

勇壮なマーチをBGMにマフィアが村を行く

男らしいマフィアではあるが中には卑劣な輩もいる。
村に住む情婦のもとにやってきたその男は、年頃になった16歳の娘に目を付け、なんと結婚を希望する。
母親は『自分を捨てて娘に乗り換えるのね』と分かりながら、生き残るために結婚を了承する。
しかし娘の恋人はパウリーノだった。
二人は駆け落ち同然に契りを結ぶが、のちにパウリーノはそのマフィアに殺される。

マフィアの一団に粛清される仲間の男

マフィアは自分たちのシノギである『男爵が所有する鉱山の利権』のおこぼれにも敏感で、まるっきりヤクザのような存在なのだが、幹部を演じる俳優たちを見る限り『地域の逞しくて、仕事のできる男たちは、マフィアになる』といわんばかりに描かれている。
そうした貧しい地方だシチリアは、ということなのだろう。

ストーリーは展開が早く、エピソードが盛りだくさんで登場人物が多い。
映画は、手際が良くないこともあって、わかりやすくない。
グイドと男爵夫人のロマンスも唐突な感じがする。
パウリーノ少年と16歳の娘のエピソードは素朴でいいが。

法律を盾にする裁判官とマフィアの対立という、アメリカ映画「アンタッチャブル」のような構成。
ただし、裁判官の描き方は『マッチョではない青二才』の雰囲気を残し、また決して法律の全能感を謳いあげるわけではない。

マフィアの登場シーンなどでBGMに流れる勇壮なマーチは、のちのマカロニウエスタンを思わせる。
マフィアを描きつつ、これを一方的に断罪していないのはイタリア映画だからか。
そこには、シチリアの風土が持つ貧しさ、後進性、伝統が強烈に匂う。

ラストは辞任して男爵夫人と村を去るばかりのグイドが、パウリーノの死を知って教会の鐘を鳴らし、集まった村人の前で演説する。
それを聞いたボスが、(この件での)グイドの正義を認め、仲間の下手人を粛正する。
マフィアがシチリアの寒村で一定程度の秩序維持を果たしている現実を描いて映画は終わる。

「街は自衛する」  1951年  ピエトロ・ジェルミ監督  イタリア

骨格は犯罪映画。
犯行描写のスリルとサスペンス、警察の捜査の冷徹さ、犯人を取り巻く人間の非情と悪辣。
これだけ見ると徹頭徹尾の犯罪映画に見えるし、ジェルミのサスペンス演出はうまい。
が、背景にあるのは隠しようがないイタリア社会の貧困。
戦後直後は混乱と貧困をストレートに描いてきたネオレアリスモだったが、戦後数年を経て、犯罪の背景としての貧困を描くようになった、ということなのだろう。

ストーリーは4人のグループによるサッカー場の売上金強奪。
4人は知人ではなく、互いのファーストネームしか知らない。それぞれの犯人の背景と結末が描かれてゆく。

ルイージは妻子を持つ中年男。
台所からベッドまでが一部屋につめこまれたアパートでは妻がミシン仕事をしている。
強盗後、気に病んでノイローゼとなったルイージは、旅費だけ仲間にもらって妻子とともに田舎を目指して電車に乗る。
ねだる幼子に人形を買い与える妻。
妻はもらった金で質入れしていた結婚指輪を買い戻してもいた。
しみじみ嬉しそうな夫婦と人形で遊ぶ娘。
しかし車掌からキップを買おうとして高額紙幣を出したことから騒ぎとなり、ルイージは一人列車を飛び降り、挙句ピストル自殺する。
貧困が救われずに自滅してゆく。
これが現実。

田舎へと逃避行をすべく駅へ向かうルイージ一家(左:コゼッタ・グレコ)

ルイージの妻を演じる巨乳の美人女優はコゼッタ・グレコという人。
貧しい役には不似合いだが、どこか薄幸な匂いもする。
ストレートな貧困の描写が、真実味を持った時代の演技だった。
アメリカのギャング映画の逃避行(フィルムノワールといわれる映画の中で『Love on the Run』と分類される)では、恋人二人が自動車でハイウエイをぶっ飛ばすが、イタリア映画では妻子を伴い、郊外電車に乗ってしみじみ行われるのだなあ、と改めてその湿っぽさ、重たさに感じ入った。

Love on the Run映画の代表作「拳銃魔」(1950年 ジョセフ・H・ルイス監督)。2004年刊「FILM NOIR」P96,97より

実行犯には加わらなかったが、人気サッカー選手を足のケガで引退したパオロは、選手時代の贅沢な情婦(ジーナ・ロロブリジータ)が忘れられずに犯行に参加。
金を得た後、どろどろの格好で情婦の贅沢なマンションへ向かうが、情婦に風呂場へ案内された後で通報され捕まる。
警察でルイージの死体を見せられグループの名前を白状する。

ジーナ・ロロブリジータはこのエピソードだけの出演。
まだ強烈なセクシー路線には移行していないが、若々しい中に濃厚なメークを施しての「悪女」ぶりを発揮していた。
縁を切った女による冷え冷えとした仕打ち。
これも現実。

パオロは金をもってかつての情婦のもとに向かうが(右:ジーナ・ロロブリジータ)

実行犯には絵の先生と呼ばれる貧しい画家のグイドもいた。
ジャン=ルイ・バローのような風貌のグイドは、レストランに行って金持ちの客たちに『肖像画はいかがですか』と営業して回るのが仕事。
ある日、美人の客のスケッチを描いたことから美人から電話番号を渡され『うちに来て油絵を描いてちょうだい』と言われる。
美人との関係はそれだけだったが、グイドを追う警察に美人が聴取される。
日本式キモノを羽織って余裕たっぷりに警察の事情聴取を受ける美人役はタマラ・リーズという女優。
ほほ骨が高く、凹凸豊かなゴージャスな美人だ。

グイドは、船で密航しようと、船頭のところへ行く。
スパゲッテイを動物のように食い、家族ともどもいぎたなく笑う船頭はどう見てもまともな人間ではない。
費用600万リラという法外な料金を請求する。
一度断るが、切羽詰まって港にやってきたグイドに『600万なんて言ってねえよな、800万って言ったよな』とおちょくった挙句、仲間と一緒にグイドを絞め殺す。
悪辣さにみじんも救いのない船頭一家の描写には、地獄のような非人間性が描かれる。
これも裏街道の現実。

「無法者の掟」と比べて、散漫な印象はなく、カチッとまとまった作品。
映画監督として『上手になっている』ジェルミの姿が確認できる。

様々な現実的結末を犯罪者は迎えてゆく中で、グループ唯一の10代であるアルベルトがいる。
分け前にも固執せず、グイドに『連れてって』と懇願するも放っておかれる。
諦めて実家へ帰るとそこには警察が。
窓から脱出して壁に貼りつくが、母親の説得で戻り、連行されてゆく。
人間的な結末である。
母親はアンナ・マニヤーニのような猛烈なイタリア母ではなく、聖母のように良識的であった。

ここで、ラストシーンについて考えた。
『壁に貼りつくアルベルトに、イタリアの母親が叫び、自分も窓から飛び出そうとする。慌てて息子が壁から部屋に戻ってくる。』ではどうだったか?
コメデイになっちゃうか。

DVD名画劇場 イタリアンネオレアリスモの作家たち その4 ジュゼッペ・デ・サンティス

ジュゼッペ・デ・サンティス

1917年生まれ。
長じてチネチッタ付属の映画実験センター・監督科を卒業し、ビスコンテイらが集っていた雑誌「チネマ」同人となり、映画批評に健筆をふるう。

ヴィスコンテイ処女作「郵便配達は二度ベルを鳴らす」に共同脚本として参加。

マルキシズムの影響を受け、共産党の出資で撮った「荒野の抱擁」(1948年)で監督デヴュー。
以降「にがい米」(49年)、「オリーヴの下に平和はない」(50年)とネオレアリスモ史上に残るの重要な作品を発表する。

シルバーナ・マンガーノ、ルチア・ボゼーといったイタリア映画史に残る、美人でグラマーな女優のデヴュー作を撮ったのも、この監督の功績である。

「にがい米」   1949年  ジュゼッペ・デ・サンティス監督  イタリア

後の大プロデユーサーーのディノ・デ・ラウレンティスの製作第一作、シルバーナ・マンガーノの映画初出演、監督ジュゼッペ・デ・サンテイスの第二作。
のちにイタリア映画界を国際的にも引っ張ってゆく才能(特にラウレンテイスとマンガーノ)が揃った作品。
まさにイタリア映画戦後世代の台頭のムーブメントであった。

シルバーナ・マンガーノ、1948年

題材はイタリア社会の貧しさ、それを表現する素材には戦後世代のエネルギーを象徴するような18歳のシルバーナ・マンガーノを抜擢。
この時点で、この映画は、貧しくもつつましやかな庶民の姿を、いわゆる正攻法ではなく、無知で享楽的な若さと肉体をもって描こうとしていることがわかる。

「にがい米」のワンシーン

スカートをまくり上げて、蓄音機をならしながら広場で一人踊る18歳のマンガーノ。
ガムをかみながら出稼ぎ仕事を要領よくこなし、田植えになるとぴちぴちのショートパンツに膝上までのハイソックス。
宿舎では黒いスリップ姿で胸元を晒し、太ももから腋毛まで見せる。
圧倒的な肉体の存在感。
単なる若さの披歴でも、過剰なセックスアピールでもなく、すでに唯一無二の存在感をまとった新人女優である。
腰のあたりの太さが昔風なのもいい。

「にがい米」、田植えシーン。30~40センチの苗を植える

旧来の価値観にとらわれるわけでもなく、階級闘争にも無縁の存在であるマンガーノは、目先の物欲に支配され、ひたすら貧しさからの脱却(男にすがっての)を望む、戦後のアプレゲールな存在。
若くて勢いのある彼女は出稼ぎ集団のシンボル的存在として一目置かれている。
心ならずも貧しい出稼ぎ労働者の群れにいることに内心の焦燥感を抱いている。
その反動で、物質的な自己実現に固執してもいる。

彼女に絡むのは、犯罪者の男(ヴィットリオ・ガスマン)と、彼にそそのかされて身を持ち崩し、田植え労働者の群れに身を隠している女(ドリス・ダウリング)、先の戦争から10年間の兵役に疲れた軍曹で、若く肉感的なマンガーノが忘れられない男(ラフ・バローネ)。
それぞれが救いようのない悪だったり、悪を反省して更生しようとする人間の良心だったりするのだが、その登場人物たちが三角関係のように絡み合う。

「にがい米」のシルバーナ・マンガーノ。素晴らしい

サッカー場のように広い水田に並んでの田植え、田んぼで泥だらけになっての労働者同士の喧嘩、雨の中で箕のような雨具を被っての田植え、用水路の堰を破られ田圃に水があふれたときの右往左往。
契約労働者と未組織労働者の対立と和解。
前近代的な雇い主側への素朴な抵抗。
彼女たちに野卑な声をかける村の男たち。
宿舎の納屋で藁をカバーに詰めた寝具の上でスリップ一丁で過ごす女達。
風呂もシャワーもなく水路で水浴びする生活環境。

もう一人の主人公ドリス・ダウリング。右はラフ・バローネ

デ・サンテイス監督の狙いはそのあたりのシーンに表われているのだろうが、デ・ラウレンテイスプロヂューサーの狙いは、マンガーノの胸と太腿にあった。
そしてその狙いは世界中のヒットとなって的中した。

ラウレンテイスはその後、「道」(54年)、「カビリアの夜」(57年)、「天地創造」(66年)、「キングコング}(76年)などで大プロデユーサーとなり、マンガーノ(ラウレンテイスと49年に結婚)は、夫君の製作作品のほか、ヴィスコンテイやパゾリーニ作品の常連として活躍した。
「にがい米」はこの二人にとっての記念すべき第一作なのだった。

「オリーヴの下に平和はない」  1950年   ジュゼッペ・デ・サンティス監督  イタリア

デ・サンテイス監督の第三作、美人コンテスト優勝者のルチア・ボゼー映画初出演。
イタリア郡部の貧しい現実を素材にしたドラマ。
戦後まだ5年という製作時期がより生々しい現実感を生んでいるのは「にがい米」と同様。

舞台はチョッチャリア地方という山岳地帯。
第二次大戦の激戦地・カッシーナに近いという。

村民は羊と山羊を放牧して暮す。
家畜の数がそのまま財の多寡を示す、前近代的な社会だ。
そこでは悪辣な手段によっても、家畜を増やすボスが支配する社会でもあった。
同地方出身のデ・サンテイス監督が実話をもとにしての作品だという。

ラフ・バローネとルチア・ボセー

兵役3年、収容所3年を経て帰ってきた28歳のフランチェスコ(ラフ・バローネ)が主人公。
帰ってきたら羊がボスに盗まれている。
ルチア(ルチア・ボゼー)という恋人がいるが、ボスに気に入られ婚約することになり、フランチェスコとの交際を家族に禁じられている。

フランチェスコは羊を奪い返し、ルチアとともに村を離れる決心をするが、悪辣なボスに裁判に訴えられる。
フランチェスコに有利な証言をした村民は、家畜に毒を盛られたり、家に放火されたりする。
頼みのルチアまでが家族が復讐されることを心配して偽証する。
フランチェスコは有罪となり投獄される。

一方、羊を奪い返した際に逃げ遅れてボスに強姦されたフランチェスコスコの妹マリアは、ボスが忘れられずに密会を続ける。
ボスとルチアの結婚式にも現れる。
ボスの母親は息子とマリアの顛末を知り、結婚するのはこの二人だと断ずる。
ルチアは結婚指輪を外してその場を去る。

復讐の念に燃えたフランチェスコスコは脱獄してボスを狙う。
それを知ったルチアはフランチェスコスコのもとに駆け付ける。
なかなか受け入れないフランチェスコスコだったが、やがて二人は結ばれ行動を共にする。
警官隊の山狩りが迫り、ボスがフランチェスコスコの復讐に恐れおののき、村民たちがボスの悪辣さに反旗を翻し、と状況が切迫する。
果たしてフランチェスコスコとルチアの運命やいかに?

山岳のルチア・ボゼーとラフ・バローネ

「にがい米」のマンガーノ同様、デヴュー作の役名ルチアが芸名と同じというヒロイン、ルチア・ボゼーは前半は無理解な両親と、嫌悪感しかないボスの間でひたすら無表情の演技。
家族を捨てフランチェスコスコのもとに駆け付ける決心をしてからは表情が一変。
オリーヴ摘みの女達の中心でスカートをまくり上げて踊りを披露して警官隊の注意をそらす。
フランチェスコと再会してからは、決然とした女の表情と立ち姿を見せ、行動的なヒロインに変身。
その顔つきと突き出た胸は「ならず者」(1943年 ハワード・ヒューズ監督)でデヴューしたアメリカ人女優、ジェーン・ラッセルを彷彿とさせた。

ルチア・ボゼーとラフ・バローネ

ルチアがボスとの結婚をすんでのところで回避できたのは、ボスの母親の行動からだった。
「ベリッシマ」のアンナ・マニヤーニもすごかったが、イタリアのおっ母の存在感!がここでも炸裂。
たとえ悪辣な息子のマンマであっても、カソリックの信仰が最優先するのがイタリア。
先にマリアを強姦していたことを知ったマンマはボスに黙ってビンタを張り、「結婚相手はマリアだよ。ルチアは関係ない」と結婚式を強制終了させ、結婚そのものを再起動させる。

最初に手を付けた女性を妻としてめとらなければならない、という当時のカソリックの大原則は絶対であった。
離婚ができないのも同様。
そしてイタリア男はマンマの言うことを終生、最大限に尊重しなければならないのもイタリア人の基本の基だった。フランチェスコに「奴はキリスト教徒ではない、凶暴な犬だ」と断じられたボスも、最小限のカソリック教徒であり、イタリア人だったのだ。

「揺れる大地」の漁民が、資本家たる網元の支配に抵抗し、いったん挫折した後も団結を尊重するように、本作における放牧を生業とする村民たちのドラマでも、団結による勝利が高らかに謳われる。

辛辣な現実描写と階級闘争による勝利を謳った本作だが、デ・サンテイス監督の手腕は「にがい米」同様、スペクタクルな場面でも存分に発揮される。
脱獄したフランチェスコが家に閉じこもったボスに向かって声をかける場面など、反響効果を利かせたセリフ、悪漢を追いつめるヒーローのクールさ、そもそもが悪漢に対し我慢に我慢を重ねた末の反撃というドラマ構成。
グラマーでヒーローにぴったりくっついたヒロインも存在。
これはイタリア映画の体臭でもあり、そのまま後年のマカロニウエスタンで再現された呼吸でもあった。
ネオレアリスモは元祖マカロニだったようだ。

「ローマ11時」  1952年  ジュゼッペ・デ・サンテイス監督  イタリア

戦後7年目を迎えたイタリア。
戦中戦後の混乱期は過ぎたものの、戦争に起因する貧困と格差は埋まらないまま、不況の世相が続いていた。
経済のパイが広がらず、循環も滞ったまま、限られた正業に失業者の群れが殺到する。
これは、1951年1月にローマで起こった実話をもとに、関係者に取材して作られたドラマである。

新聞に載った募集広告。
『美人タイピスト1名募集』。
広告主はボロアパートの1室で事務所を開く会計士。
そこへ応募の女性が200人ほども押し寄せる。

左の女優がカルラ・デル・ボッジョ

戦後のすさんだ空気が残る街、失業中の女性たちは10リラの屋台の焼き栗でさえ買うのを躊躇する。
しかし、並び始める女性の一人にウインクしてバスを次々に見送り、名前と住所をせがむ水兵がいる。
メイドの身分から解き放たれようとタイピストに応募する少女に手を出す男がいる。
ここはイタリア。
男はもちろんイカレているが、女達もどこかのんびりしていて、切迫感より人間味が先行している。

ボロアパートの門を『開けろ、開けない』でのひと悶着もイタリア的。
応募した女たちの、袖すり合うも他生の縁的な井戸端会議的コミュニケーションぶりも面白い。
もちろん、だしぬけの横入りや、騒音に抗議するアパートの住人達に対する抗議のドタバタぶりはイタリア映画のお約束。
大騒ぎして、自分だけでも就職しようとする女達は失業者とは思えないほど元気だ。

夫も失業中で、この中では一番切羽詰まった感じの女が、抜け駆けして面接室に入ったことから他の女たちが騒ぎ出し、手摺が壊れて階段が崩落する。
一人が結局死に、ほとんどが救急車で病院に連れていかれる。

病院では入院費1日3700リラが自費だと聞き、勝手に退院してゆく女達。
マスコミが病室に乱入し、ベッドに腰を掛けて全員にインタヴュー。
得意の歌を披露する娘もいる。
本当にこんなんだったのか?イタリア的すぎないか?

責任所在の捜査のため、警察が集めた関係者。
アパートの大家、住人、タイピストの募集主、アパートの設計者、それぞれが勝手に責任逃れの言い訳をわめく。
その中で、列を抜け駆けした女が責任感から泣き崩れる。
死んだ女とは階段で並ぶうちに知り合ったばかり、彼女が水兵と住所を交わしていたことも知っていたのだった。

警察による責任者の追及は結局なかったが、貧困の現実は変わらない。
壊れたアパートの門の前で再び並び始める娘がいるのだった。

瓦礫の下に倒れるルチア・ボゼー

映画が描きたかったのは、戦後数年を経てなおイタリアの貧困の現実。
そしてその責任が個人にはないこと。

応募した女達には、田舎からもう戻らない覚悟で出てきた娘、金持ちの育ちながら貧乏絵描きと愛し合う娘、スラムに住む売春婦、上司と不倫の末妊娠して前職を辞した女らがいる。
映画の後半は彼女らの現状と行く末を描いてゆく。
デ・サンテイスの彼女らに対する視線には温かさががある。
彼女らは逞しく、ユーモラスでさえある。

俳優の動きを捉えるカメラは移動撮影を多用し、状況全体を流れるようにとらえる。
縦の構図で、画面の奥で芝居させるカットもある。
階段崩落のアクション?シーンも真に迫っている。
女優たちのお色気にも手を抜かない。
脚本には、デ・シーカ作品で有名なネオレアリスモの中心人物のチェザーレ・ザヴァッテイーニを起用。
デ・サンテイスの映画作りは、準備段階から俳優の選択、撮影技法に至るまで、いつもながら本格的だった。

特に女優たちの存在感、演技は印象深い。
「オリーヴの下に平和はない」でデヴューしたルチア・ボゼーは貧乏画家と同棲する金持ち娘。
事故が新聞沙汰となり家族が迎えに来るが、途中で車を降りて画家の元へ戻る。

夫婦で失業中の妻はタイプに自信があり、どうしても就職したいことから割り込んで顰蹙を買い、事故の原因を作った、その後罪悪感にさいなまれる。
この幸薄い美人妻を演ずるのはカルラ・デル・ボッジョという女優。

逞しい売春婦で、戦後を色濃く引きずるスラム街に住み、お客?同伴でタイピストに募集するのはレア・バドヴァーニ。
スラムを見たお客?は去っていった。
彼女はこの後、更生できるかどうかはわからないが、たくましく人生を生き抜いてゆくことは確かだ。

伊那旭座で「鹿の國」を見る

たまたま伊那のミニシアター旭座のサイトを見ていたら、「鹿の國」の上映最終日が迫っていたので出かけることにしました。
旭座で見るのは初めてです。

伊那旭座

諏訪湖から太平洋に流れる谷沿いに広がる伊那谷。
下流に向かって右手に中央アルプス、左手に諏訪地方から山梨県にかけての境をなす山々に囲まれています。

伊那市は上伊那と呼ばれる伊那谷北部の中心都市で、人口比の飲み屋の多いことでも知られています。

伊那錦町の飲み屋街

伊那市に唯一現存する映画館の旭座は、明治時代に開館した芝居小屋をルーツに、大正2年に現地に移り、芝居などの出し物の間に映画上映を行ったといいます。
戦後になり映画専門の劇場となりました。
県内最大級のスクリーンを擁し、旭座1は352人、別棟の旭座2は204人の定員で、経営はタバタ映画社です。
全国で9館のみという現存木造映画館のうちの一つにかぞえられ、上映作品は、シネコンで上映されるロードショー作品が主流です。

旭座1の全景

静まり返った伊那の街はずれに、忘れられたようにたたずむ昭和感丸出しの映画館が旭座です。
シネコンでもなければ、ミニシアターでもない(今流の分類ではミニシアターとなるのであろうが)、木造の味のある外観。
「コナン」の新作ポスターがかかっていなければ営業しているかどうかもわかりません。
昭和からタイムスリップしてきたかのような空気感に、劇場そのものが覆われています。

旭座1の近景

「鹿の國」の開映5分前に映画館のドアを開ける。
チケット売り場の窓口は当然開いていない、入場口左手のモギリにも人がいない。
声をかける寸前、右手の事務所?に人の気配がし、70代くらいのおじさんが動いた。
「鹿の國、シニアで」と声をかけると、料金表を指し示しつつ、モギリにやって来る。
忙しいのか、話しかける雰囲気ではない。
この雰囲気、昭和の映画館スタッフが持つ、堅気でもなく、そうかといってヤクザっぽいわけでもなく、せかせかした人を寄せ付けないオーラを思い出させた。
フィルム上映の有無や、作品選択などを聞きたかったが諦める。

旭座1のチケット売り場

観客は一人。
スクリーンの大きさ、きれいさ、場内の設備の良さは経営のプロっぽさ、封切館の雰囲気を思い出させた。
2階席もあるのだった。
開映直前におばさんが入ってきて観客が二人に。
上田映劇、長野相生座、塩尻東座など県内のミニシアター系の木造映画館での経験でも特筆される観客の少なさだ。

旭座1の場内とスクリーン
罰胸の旭座2の全景

「鹿の國」  2025年  弘理子監督  ヴィジュアルフォークロア製作・配給

『ミシャクジ ミシャクジ 目には見えない何者かがここにはいる』。
諏訪の雪景色のなかの鹿の群れの映像にナレーションが被る。
いきなり諏訪の神様の核心に迫る出だしだ。

この映画の狙いは諏訪という場所の民俗学的興味なのか。
だとしたら諏訪大社に祀られる諏訪の神様の正体こそがその核心であろう。
そして諏訪の神様とは、古事記に現れる人格を持った固有名詞ではなく、岩や石に象徴される精霊が宿る自然だったり、神職と呼ばれる人が行う神事だったり、一般人が営々と繰り返す営みだったりを通して現れるものなのだろう。

大祝と呼ばれる神職が諏訪大社にはあった。
選ばれた少年は、冬から春にかけて御室とよばれる半地下の筵小屋に閉じこもる。
翌年の豊作を祈り、生命の誕生を祝う神事だとされている。
映画では、途絶したこの神事を再現する。
公民館で大祝役の少年を呼び、中世の芸能研究者を呼んでレクチャーする。
『神様は芸能を好む』、という研究者の解釈により、村の顔役たちが鹿肉を食らいながら御室で繰り広げたであろう宴を地元の衆の演技で再現する。

上伊那地方のある家族。
屋号がミシャクジだという。
三つに割れた桜のご神木の元で毎年春の神事を行う。
この貴重な記録、参加しているのが年寄りばかりというのは気になった。
若い人がその場にいないというのは、諏訪大社の役職(神長官、大祝)同様、近年で断絶するということなのか。

諏訪大社のお札には、『鹿食免』というお札がある。
江戸時代以前の肉食禁止の時でも、諏訪を中心とする地方では鹿の狩猟と肉食は許されていた名残である。
大社でお札をもらい、鹿を捕り、肉を神事のために大社に納めるハンターがいる。

諏訪に移住し、モンペと着物姿で機械を使わずに田圃を作る人がいる。
それを助ける集落の老婆がいる。
腰は曲がっているが、農作業は体が覚えている。

明治以前の神仏習合の時代、諏訪大社周辺には無数の寺があった。
象に乘った普賢菩薩が大社のご神体ともいわれたという。
この映画では、その時代以来であろう寺の僧侶が大社でお経をあげる場面が記録された。
僧侶は言う「諏訪の神様とは、タケミナカタノミコトでも普賢菩薩でもなく、ミシャクジとよばれる精霊などの集合体なのだろう」と。

「鹿の國」チラシ

この作品のうまさは、諏訪の神様に解釈を、中世の芸能研究者や僧侶などに語らせていること。
解釈が必要なことは専門家に語らせ、その解釈を映像化している。
また、上伊那の屋号がミシャクジと呼ばれる一家の神事など、貴重な事実を記録している。

ミシャクジと並ぶもう一つのキーワード「鹿」については、上社の春の神事「御頭祭」での、鹿の首を神主が押し頂く場面、ハンターが狩猟する場面等々で繰り返し扱っている。
『鹿亡くしてはご神事はすべからず』。
中世の風土記に書かれた言葉であるという。

「鹿の國」チラシ裏面

DVD名画劇場 イタリアンネオレアリスモの作家たち その3 ルキノ・ヴィスコンティ

ルキノ・ヴィスコンテイの経歴(ネオレアリスモの時代まで)

「ルキーノ・ヴィスコンテイ」(2006年 エスクァイヤ マガジン ジャパン刊 P52~62の「人物評伝 滅びゆく貴族とブルジョアの崩壊」映画評論家 田中千世子)より要旨抜粋する。

表紙
奥付

ヴィスコンティは1906年ミラノ生まれ。
父はミラノ公国の流れを汲む貴族、母は新興財閥の生まれ。
両親の自由精神を尊重した教育を受けて育つ。

目次

子供時代から、ミラノのスカラ座でのオペラ鑑賞や文学に傾倒。
1930年代にはパリに遊学して映画を含めた芸術に目覚める。

1939年にはイタリアに戻り、ローマのチネチッタ撮影所を根城に、雑誌「チネマトグラフィ」の同人として活動。
この間、自然文学者ジョヴァンニ・ヴェルガの短編「グラミーニャの恋人」を脚色するが映画化の許可は下りず。
監督処女作のジェームス・ケイン原作の「郵便配達は二度ベルを鳴らす」は、ルノワールからのシノプシスをヒントにしてのもので、1942年にクランクインされ、43年に公開された。

大戦中の44年にはパルチザンをミラノの自宅屋敷に匿ったことから、ヴィスコンティ自身も逮捕され処刑寸前の目に遭う。

戦後しばらくは演劇活動を行っていたヴィスコンティの映画第二作は1947年に撮影開始した「揺れる大地」。
念願のシチリアを舞台にしたヴェルガの長編「マラヴォリア家の人々」を原作とした。

ルキノ・ヴィスコンテイ

「揺れる大地」  1948年  ルキノ・ヴィスコンテイ監督  イタリア

戦後間もないシチリア島のアチトレツァという漁村に7か月間ロケし、俳優は全員現地の素人を起用、イタリア国内でさえ字幕を付けて上映されたというシチリア方言によるセリフのこの作品は、イタリア共産党の依頼によって、当初は、シチリアの労働者(漁夫、抗夫、農夫が主人公)についてのドキュメンタリー3部作の第一弾として企画された。

ドキュメンタリーは劇映画となり、3部作は、漁夫一家を描いたこの1作だけが完成した。

北イタリア出身のヴィスコンティにとって、シチリアという素材は『写実的小説家ジョヴァンニ・ヴェルガの「マラヴィオチア家の人々」に書かれたような、シチリアの漁師たちの原初的で巨大な世界は想像を絶するほどのものとして、また荒々しい叙事詩として立ち現れるのだった』のであり、『ヴェルガのシチリアはユリシーズの島のように見える』のだった。(『』はどちらも「ルキーノ・ヴィスコンテイ」 P60より)

こうしてヴィスコンティの政治的信条の、マルキシズム的価値観を制作動機としつつ、一方でその美的審美眼の実現を追求した作品が出来上がった。

長男のウントーニ(左)

映画の出だしは、帆が付いた大型手漕ぎボートによる沿岸漁業と、はかりを持って浜に現れる仲買人による前近代的なセリの模様。
夜明けに海から帰ってきた漁夫たちが、洗面器で顔を洗っただけで夜までの休息に入る様子。
あるいは夜明けと同時に起きだし、家の掃除をして帰ってくる男たちを待つ女たちの様子を捉える。
良質のドキュメンタリーのような出だしだ。

そのうち映画は、登場人物の個々の描写を始める。
海軍帰りの長男・ウントーニは漁から帰ると休む間もなく恋人の元へ行く。
恋人はウントーニへの好意があるのかどうか、あいまいな態度をとるがウントーニは夢中だ。
彼が独立したときに海の近くの岩場で体を許すが、没落してからは居留守を使って彼の前に現れない。

次男は、戦争で広い世界を見知ってきたリーダーシップあるウントーニを尊敬し、漁でまじめに働くが、没落して失業状態が続くと「成功して、母とウントーニに援助したい」と、アメリカたばこで気を引く正体不明の男に誘われて島を出る。

母親代わりに家を切り回す、宗教画のマリアのような長女・マーラにも好意を寄せる気が優しい職工がいる。
真面目な恋人たちは、一家の成功と没落に翻弄されて、プロポーズに至ることができない。
いよいよ一家が家を差し押さえられて村を離れるときに、お互い好意を持ちながらも静かに別れる。

マーラを演じる素人女優を見ていると「木靴の木」(1978年 エルマンノ・オルミ監督)のエピソードを思い出す。村の素朴なカップルが新婚旅行で修道院に泊まった時に、初老の尼さんから生まれたばかりの赤ん坊を授けられた場面だ。
赤ん坊を受け取りつつ戸惑う寡黙な新婦の美形の表情をマーラは思い出させた。

主人公一家の長女、次女と三男

夢見がちな次女・ルシアは、持ち前のグラマーな肉体に村の警察署長が目を付け、盛んにちょっかいをかけてくる。
一家が困窮した後、ルシアは所長からの高価なプレゼントを受け入れ、愛人となり村中に噂される。

ヴィスコンティは映画の中盤からは、ドキュメンタリー的手法を離れ、時には前近代的な搾取構造と闘う個人を、時には貧困に苦しむ家族のみじめさを、時には己の若さを持て余すかのように道ならぬ恋に悩む乙女を、劇映画そのものとして描く。
前作「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1943年)に存分に発揮されていた、人間の根源に迫る容赦のなさ、しつこさというヴィスコンテイの体質を思い出させる。

素人俳優は画面の中をゆっくり横切り、荒々しい海に黒いマントを着てたたずむ。
ショットの構図も決まっている。
まるでギリシャ演劇のようでな俳優の動きであり、凝った撮影である。
ヴィスコンティがこの作品で、素朴なドキュメンタリーではなく、己の美意識の追求を目指していることがわかる。

映画の主人公は、前近代的な命がけの帆掛け船漁で日々を凌ぐ裸足の漁村民たちではない。
己の美意識を前面に出し、零細漁民をギリシャ悲劇の登場人物のようにとらまえるヴィスコンティその人こそがこの映画の主人公なのである。

映画のラストでウントーニはつぶやく。
「仲間を信じて団結しなければ、俺たちは前に進めない。」と。
これは映画の表面上のテーマである。
そこには隠しようもなく、もう一つの制作動機(シチリアに対するヴィスコンティのあこがれ)と美意識が表れていたが。

再び網元の漁船に雇われてオールをこぐウントーニに「厳しい海が船乗りたちの死に場所なのだ」のナレーションがかぶさって映画は終わる。

「ベリッシマ」  1951年  ルキノ・ヴィスコンテイ監督  イタリア

アンナ・マニヤーニのあっぱれ大車輪の演技。
イタリアの母は強し、マニヤーニの演技はさらに凄し。

ヴィットリオ・デ・シーカと組んで「自転車泥棒」「靴みがき」の脚本を書いたチェザーレ・ザヴァッテイーニの原案をおそらく忠実に尊重しての脚本は、フランチェスコ・ロージ、ヴィスコンテイほか。

アンナ・マニヤーニといえば、「無防備都市」で恋人を連れ去られたナチスのトラックに追いすがり銃殺されて路上に突っ伏す占領時代のイタリア女性の強烈さを連想する。
そうでなくても、どろどろの恋愛劇で叫ぶように感情をぶちまける中年女性の姿が思い浮かぶ。

1951年のアンナ・マニヤーニ

この作品のマニヤーニは、ローマの安アパートに暮し、看護婦として糖尿病の治療薬を注射して稼いでいる。
可愛い一人娘を立派な人にすべくなりふり構わない。
チネチッタ撮影所で行われた美少女オーデイションに出場させ、演技のレッスンにつけ、バレエ教室に通わせ、チネチッタに巣食う詐欺師のような男に5万リラを渡してオーデイションを有利に運ぼうとする。
娘のためには夫や義実家との関係も二の次、オーデイション用のドレスを発注し、洋服屋に「ドレス代は注射じゃダメ?」と恥も外聞もない。

娘のオーデイション騒動の各エピソードは、ハリウッドのスクリューボールコメデイも裸足で逃げ出すほどの破壊力。
何よりマニヤーニのド外れた行動力がすごいし、一人芝居のセリフもマシンガントーク。
加えて各エピソードに登場する端役(演技レッスン講師の元女優、写真館の夫婦、美容室の少年美容師、バレエ教室の先生など)がさらに浮世離れして、これまた強烈。
イタリア映画の喜劇のアナーキズムが爆発している。

娘のマリアとマニヤーニ

マニヤーニの取りつかれたようなアグレッシブさは、通常だと深層心理的には自己投影だったりするのだが、イタリアの肝っ玉母さんの場合はそうではないのだ。

チネチッタの詐欺師がわいろに渡した5万リラでスクーターを買う。
それがわかってもマニヤーニは激高しない。
挙句、河原で口説き始める詐欺師を歯牙にもかけず受け流す。
身持ちも堅いのだ。

この河原のシーン、イタリア男のいい加減さも気違い沙汰だが、それを分かったうえで受け流し、肝心な体と心は許さないイタリアの母の凄さには声も出ない。

子役コンテストのセレクトも終盤。
愛する娘が最終審査のテストフィルム試写の場で監督らに大笑いされる。
こっそり試写を見ていたマニヤーニは試写室に怒鳴り込み「なぜ娘が笑われたのか」と問う。

マニヤーニ扮する母と疲れ切った愛娘

娘の将来とともに己のプライドを賭けていたマニヤーニは、尊厳が尊重されないであろう、チネチッタに象徴される浮き草稼業に娘の将来と己のプライドを賭けていたことの不条理に目覚める。

巨額の契約にはサインせず、チネチッタのスタッフを追い返す。
これまで不義理していた夫との愛を確かめるように抱き合い、「一生懸命に注射の仕事をする」と、涙とともに目を輝かせる。
隣では愛する娘が寝入っている。

このアンチハリウッド的ハピーエンドはしかし、庶民的にはこの上ないハピーエンデイングである。
ヴィスコンティのマルキシズム的価値観とも合致する明確な正義感。
マニヤーニの演技を通して、正攻法の母の強さ、温かさ、正しさが伝わってくる。

ヴィスコンティが貧しい庶民を主人とし、社会的正義を前面に打ち出しての、おそらく最後の長編作品。
一人芝居のようにしゃべりまくり、自分で落ちまで作るマニヤーニにも、すごいという言葉しか出てこない。

「われら女性」  1953年  ルキノ・ヴィスコンテイらが監督  イタリア

「自転車泥棒」「靴みがき」の脚本家チェザーレ・ザヴァッテイーノの原案によるオムニバス映画。
新人女優2人を主人公にした一編と、大女優たち、アリダ・ヴァリ、イングリッド・バーグマン、イザ・ミランダ、アンナ・マニヤーニによる4編からなる。
監督はアルフレード・グリアーニ、ジャンニ・フランチョーニ、ロベルト・ロッセリーニ、ルイジ・ザンパ、ルキノ・ヴィスコンテイ。

(左上から時計回りに)バーグマン、アリダ・ヴァリ、マニヤーニ、イザ・ミランダ

新人女優編

チネチッタ撮影所の新人女優コンテストに集う若い美女たちの物語。

アンナは母親の反対を押し切ってコンテストに向かう。
詰めかける応募者の群れ、マイクが軽口をたたきながら応募者たちをさばく。
並んだ応募者たちに「合格」か「不合格」を担当のおじさんが告げてゆく書類審査。
ここでは、不合格と言われて黙って引き下がらないのがイタリア流お嬢さんたち。
文句を言うお嬢さんを軽くいなすおじさんもイタリア流。
軽いというか、こなれているというか、雑然としているというか.「ベリッシマ」でも散々使われたチネチッタ撮影所の、堅気世界とはかけ離れた、乱雑ないい加減さ。

書類審査の後は、合格者に自由に食事をさせる。
その様子で、カメラテストに進むものを選出するらしい。
ここでも、人を人として扱わない映画界の非人情ぶりというか、堅気の世界からズレ切った特殊な世界が描かれる。

アンアとともに清純派の素人っぽいお嬢さんが合格して映画出演を果たす。
その前途には必ずしも輝かしい未来が待ってはいないことを暗示してこの挿話は終わる。

アリダ・ヴァリ編

新人女優たちが右往左往していた第一編と異なり、映画らしくピシッと締まった第二編。
なんといってもアリダ・ヴァリの現役感、オーラが漲っている。

ヴァリは売れっ子国際女優として多忙を極める。
専任のエステイシャン、アンナに体を任せながらも、取材に答え、セリフ覚えにと休まる暇もない。
心は虚ろで、今晩のダンスパーテイも全く気乗りしない。
気まぐれにアンナの婚約パーテイの話を聞き、「行く」と言ってみたが、結局仕事と金がらみでダンスパーテイへ。
しかし、業界人たちのいつもの金がらみの自慢話は全く耳に入らない。
ダンスパーテイを途中で抜け出し、アンナの婚約パーテイにお忍びで参加する。

仲間内の庶民的なパーテイでみんなに親切にされるが、内心はここでも退屈だったアリダ・ヴァリ。
群がる人々に「人々は映画に幻想を抱いている」と内心でつぶやく。
表面上は愛想よく振舞い、アンナの婚約者とダンスする。
外に汽車の汽笛が聞こえた。
バルコニーに出て夜汽車を眺める。

子供時代のあこがれだった汽車の旅の記憶に浸り、機関士だという婚約者の話に盛り上がる。
女優はノスタルジーに浸り、婚約者は自分への関心だと思う。
何となく見つめ合う両者。
その刹那、女優は我に返ってパーテイを中座して、現実に戻ってゆく。

映画女優は虚構の世界に心底退屈している。
自分と映画界が全く人に羨まれるほどのものではないことも痛感している。
そのことがアリダ・ヴァリ自身のナレーションで繰り返し語られる。
だからといって、金としがらみのためにそこから離れられないことも、彼女の行動が示している。

婚約パーテイで一般の人から歓迎されながら、彼女は差し出されるサインに応じようともしない。
表面上は愛想よくふるまいながら。
その理由は、彼女が高慢だからではなく、心底価値のないと自覚している世界の自分のサインなど、との思いがあるからなのだろうか。

イングリッド・バーグマン編

バーグマンの当時の夫、ロベルト・ロッセリーニ監督の一編。
別荘に移り住み、先代の住民と(その鶏と)繰り広げるすったもんだをスケッチしている。

パンツスタイルでいかにも子育てママ風のバーグマンが、カメラに向かってしゃべり、庭でバラの手入れをし、鶏を追いかけて捕まえる。

ハリウッド時代の大時代的な芝居ではなく、身も心も軽々としたバーグマンの動きは、テレビのリポーターのようで、彼女の一面が楽しめる。

イザ・ミランダ編

マックス・オフュルス監督の「輪舞」(1950年)、そしてアメリカ映画の「旅情」(1955年 デヴィド・リーン監督)の美人女優イザ・ミランダが彼女自身を演じる。

肖像画のコレクションに囲まれた自室で目覚め、体操とメークアップ、衣装合わせをすますと撮影所で仕事。
仕事のためには大好きな子供を持つこともあきらめた人生だった、と自身によるナレーションは語る。

ある日、仕事を終えた彼女は一人スポーツカーを走らせる。
前方で不発弾が発生し、子供が怪我する。
病院へ車を走らせるイザ・ミランダ。
手当てを終えた子供をそのアパートまで送る届ける。

アパートでは幼い子供が3人、母親を待っている。
末娘のあどけなさにメロメロになったイザ・ミランダは、昼食を食べさせ、結局母親が返ってくるまでそこにいる。

帰ってきた母親と子供たちの愛情ある絆を見て、彼女はそこを離れ「治ったら電話頂戴ね」と言いながら自室に帰る。
そこは資産的価値あるものには溢れているが、彼女が本当に欲しいもののない空虚な空間だった。

「旅情」では魅力あふれるベネチアのペンションのマダムとして、アメリカ人旅行者のキャサリン・ヘプバーンに「イタリア男は面白いわよ」と、余裕たっぷりにアヴァンチュールを説いていたイザ・ミランダの本心に迫るドラマであるのだろう。

アンナ・マニヤーナ編

マニヤーナがヴィスコンテイに実体験を話したことからスタートした企画だという。
いかにもマニヤーニらしいエピソードが繰り広げられる。

アンナ・マニヤーニ、ここにあり

舞台(ローマ市内の小劇場の色っぽいレヴューが行われる)の出演のためタクシーに乗ったマニヤーニ。
小型犬を連れて乗り、降りようとするが犬の料金1リラの請求されて激高。
警官に訴えるが、逆に犬の鑑札のなさを指摘されて罰金14,5リラを徴収される。

警察署に車をつけさせ、結局所長にまで訴える。
小型犬の定義や膝の定義まで確認させ、犬の料金不要との裁定を勝ち取るが、舞台には30分の遅刻。
慌てて衣装とメイクを終え、その間舞台を終えた踊り子に「挨拶がない」と注文を付け、「機嫌が悪いのよ」と言いつつ花売り娘役の独唱で観客を引き付けるのだった。

タクシー運転手の理解不足が原因のトラブルでもあり、マニヤーニにしては感情の爆発をやや抑えた演技。
ヴィスコンテイ的にも「ベリッシマ」までの庶民階級の悲哀を題材にした系統の作品でもあり、軽い作品。

楽屋でメイクするマニヤーニを鏡を使って二つの方向から捉える「ベリッシマ」でよく見られた撮影技法がここでも見られた。

DVD名画劇場 詩人ジャン・コクトーの美しき世界

ジャン・コクトー

1889年フランス生まれ。
20歳の時に詩集を自費出版する。
ニジンスキーらバレエ関連人脈との出会い、モジリアーニらモンパルナスの画家との交流、シュルレアリストらと対立などの20年代を過ごす。
以降、映画、舞台、小説、脚本、評論などの活動を行う。

コクトーが映画に関わった契機の一つとして、30年代のトーキー初期に演劇界から、マルセル・パニョルとサッシャ・ギトリという二人が映画製作に乗り出した歴史があった。
コクトー自身は32年に「詩人の血」の脚本・監督で映画デヴューしている。
コクトーにとって、トーキー技術を獲得し日の出の勢いの映画は、芸術表現としても商業活動としても時代の先端を行くもので、その出会いは必然だったのだろう。

1943年にはジャン・ドラノワ監督の「悲恋」の原作・脚本で、44年にはロベール・ブレッソン監督の「ブローニュの森の貴婦人たち」の台詞で映画とかかわった。
そして46年には自らの初の商業映画監督作として「美女と野獣」を発表する。

ジャン・コクトー

コクトーは「美女と野獣」の製作に当たり、当時の人気スターで、彼が愛するジャン・マレーのために構想を練り、「画家フェルメールの光の使い方」で撮ることをカメラマンのアンリ・アルカンに要求し、美女と野獣の豪華な衣装と神秘的な古城の舞台装置を画家でファッションデザイナーのクリスチャン・ベラール、衣装担当のピエール・カルダンに委嘱した。
終戦直後の時代の観客を美しい別世界へ誘うことを制作動機として。

「美女と野獣」はフランス国内で大ヒットするとともに、46年度のルイ・デリュック賞を受賞し、コクトーの代表作となっただけでなく、次作以降の「双頭の鷲」(48年)、「恐るべき親たち」(48年)、「オルフェ」(50年)などとともにコクトー映画というジャンルを作り出した。

「美女と野獣」は、1948年1月、戦後初めてのフランス映画として日本で公開され、荒廃した当時の観客に大きな影響をもたらした。

コクトーの映画製作上のバックボーンは、20年代のアバンギャルド時代に培われた感性だったといわれる。

コクトーは俳優のジャン・マレーと終生の愛情で結ばれており、映画製作においてもマレーを主人公としたのだった。

「美女と野獣」  1946年  ジャン・コクトー監督  フランス

デイズニーアニメとしても再映画化され、一般名詞化さえしている名作のこれが映像化の原典。
もともとの出典はギリシャ神話をモチーフにした童話とのこと。

コクトー自ら出演するタイトルバック。
黒板に自ら主演者名・タイトルを板書し、『さあ童話の始まりです。開けゴマ…』と自筆のプロローグで物語は始まる。

「美女と野獣」オリジナルポスター

主人公は破産した船主一家の末娘・ベル。
二人のわがままな姉たちに仕え、エプロン姿で床などを拭いている。
シンデレラのような設定だ。
ただしシンデレラと違うのは、ベルには言い寄る男(ジャン・マレー)がいること。
いきなり画面に現れ、ベルにキスを迫る男。
カメラは男を避けるベルと、その豊かな胸元をさりげなくとらえる。

男(ジャン・マレー)の突然の求婚を避けるベル

ベル役に抜擢されたジョゼット・デエはこのとき実年齢32歳。
子役時代から舞台踊り子になり、18歳で舞台の大御所の愛人だったというから根っからのフランス女にして女優。
玄人そのものの経歴なのだが、くせのない美人顔もさることながら、身のこなしのあでやかさ、大事な場面での成熟した色気で、コクトーの起用に応える。

古城で野獣の供応を受ける着飾ったベル

「おとぎ話」に徹したこの作品は、ベルの実家の親兄弟の大げさな衣装や大げさな演技、また俗物性豊かで類型的な人物描写にその寓話性が強調される。

ただしこの映画の真骨頂は、ベルの父親が野獣の暮らす古城へ迷い込んでからの場面に訪れる。
壁やテーブルから腕が生え、燭台を支え、顔が暖炉の一部になっている。
これは古城の召使たちを表現したものらしい。

行く先々で自然に開く扉。
呪文を唱えると客を古城に案内する白馬。
「おとぎ話」らしい映画的表現だ。

古城で一晩過ごしたベルの父親が、ベルとの約束を思い出し、庭のばらを一輪もいだ瞬間、古城の主の野獣が現れ、見るものを驚かす。
野獣は理不尽にも、父親の身代わりをよこすか、それとも彼自身の死を迫るという唐突な展開!
「おとぎ話」的急転回である。
話を聞いたベルは父親の代わりに古城へ向かう、野獣がよこした白馬に乗って。

ベルが白馬に乗って古城に向かう場面。
黒いマントに身を包んだベルが白馬に横すわりに乗り込む。
白馬が歩み始めると敷地の柵が自然と開く。
黒いマントを馬上に垂らして横すわりで行くヨーロッパ婦人のシルエットは、ベルイマンの「処女の泉」を思い出させる。
霧にけぶったヨーロッパの森の静寂、幻想的な神秘性、その中で決然と己を運命にゆだねる娘の凛々しさ。
BGMはこの場面の勇敢さをたたえるかのように勇ましい。

コクトーの幻想的な場面創出はほかにもある。
たとえば古城の廊下をベルが歩くシーンでは、風を受けた長いレースカーテンがはためく長い廊下を、ドレス姿で舞うように歩を進めるベルをスローモーション。
古城の一室を抜けると、ベルの黒い地味なドレスが白い華やかなものに変ってゆくシーンもある。

ちょっとしたリアクションでベルが魅せる、手の動き、体のねじりがもたらす女性の「しな」。
バレエにもパントマイムにも似たその動きがもたらす何ともいえぬアクセント。

息も絶え絶えの野獣に手のひらで掬った水を飲ませるベル

ジャン・マレー(2役目)が扮する野獣のマスク越しの目の演技がいい。
野獣のマスクが、素の表情による演技を抑制し、野獣の目が持つただならぬ繊細さが際立つ。

ベルの驚いた眼差しが野獣を傷つけ、彼女の愛に満ちた眼差しが野獣を救う。
コクトーが崇拝するジャン・マレーに捧げた芸術家の魂だ。

ジョゼット・デエは、ラストで人間の王子(ジャン・マレー3役目)に戻った野獣を見つめる。
その目は、それまでに誰にも見せなかった、色っぽい流し目で、まさに恋を駆け引きする女の目だった。
これがコクトーの意図したものだとすると、開巻直ぐのマレーに迫られる胸元豊かなカットとの整合がつく。
ベルはただの孝行娘というだけではなく、恋を楽しむ健康的で肉感的な女性そのものだったのだ。
「おとぎ話」のヒロインを逸脱しかねない人間性をコクトーは描いたのか。

野獣は単なる高圧的な暴君ではなく、唐突で自己中心的だが、とてつもなく繊細で傷つきやすく、美的感覚に優れた存在だった。
コクトーが自身に、そしてジャン・マレーに重ねる理想像がそこにはある。

戦前のフランス映画というと、相手役を正面から見つめ、朗々と名セリフを吐く主人公のイメージがある。
対して、コクトーの主人公(野獣)は伏し目がちに愛をささやくイメージである。
そして愛をささやかれた美女は、最後にその流し目で主人公の愛に応えるのだ。

子供っぽく、繊細で純粋で明るさもある作品。

いわゆるフランス映画の黄金時代、クレール、フェデー、デュビビエらの流れとは別系統に、こういった芸術家の意匠あふれる作品が生まれるのがフランス映画の奥深さだ。

終戦直後の1946年に待っていたかのようにこういった作品を作るコクトーには敬意しかない。

「双頭の鷲」  1947年  ジャン・コクトー監督   フランス

コクトーの商業映画第2弾。
脚本もコクトー。

「双頭の鷲」オリジナルポスター

19世紀のヨーロッパの王国。
10年前に国王が暗殺され、王妃(エドウィジュ・フィエール)が後を継いでいる。
王妃は国民に慕われているが、反政府のアナキストや、それらを陰で操る警視総監一派が暗躍している。

王妃は国王の死以降、公の場ではベールをかぶったままで過ごし、舞踏会などにも顔を出さないことが多い。
心許すのは黒人の召使だけ。
その王妃が新任の朗読係と王宮の別宅へやってくる場面から映画は始まる。

王妃が欠席する盛り上がらない舞踏会、敵なのか味方なのかわからない新任の朗読係。
自室で死んだ国王と夕餉の食卓を囲む王妃の部屋に、けがをした若者・スタニスラフ(ジャン・マレー)がなだれ込む。
彼は反体制派のアナキスト詩人で、王妃の暗殺を企てていた。
そして何より死んだ国王に瓜二つだった。

王妃の自室に現れた傷だらけの暗殺者

馬で野山を駆け回り、射撃の腕も確かな王妃だが、スタニスラフを見た瞬間、反撃せず思わずその傷をナフキンで拭う。
突然現れた賊に、「武闘派」の王妃として毅然とふるまいながら、内心の動揺は隠せない。
やがて王妃はスタニスラフに国王の残した服を着せ、新しい朗読係としてそばに置き始める。
スタニスラフの存在は周囲に知れ始める。
スタニスラフは陰でクーデターを企む警視総監が放った刺客だった。
警視総監の戦略ミスは、王妃とアナキストの若き詩人が出合った瞬間に恋に落ちたことだった。

王妃とアナキスト詩人の恋、とはまるで学生演劇のようなシチュエーション。
それを臆面もなく、脚色・演出するのがコクトー。
期待通りの演技を見せるのがジャン・マレー。
このコンビは最高だ。
マレーの登場シーンにはコクトーの思い入れとこだわりが炸裂している。

ヒロインはフランス演劇界の重鎮。
若き日の舞台「椿姫」からベテランになっての本作など、品性ある熟年美人の貫禄を見せる。
演劇での実績、品性ある真の強さ。
「美女と野獣」のジョゼット・デエとの共通性を感じる。
コクトーの女優の好みなのだろうか。

「フロウ氏の犯罪」(1936年)出演時の若きエドウイジュ・フィエール

スタニスラフと出会って王妃は過去を振り返る。
国王が死んでからは孤独と暗殺の恐怖の、死を覚悟した10年間だったと。
そして彼女は自覚する。
愛するスタニスラフと出会ってからは、死を賭けてでも己の信ずる道を行くことを。

エドウイジュ・フィエールとジャン・マレー

「二人(王妃とスタニスラフ)の共通の敵は警察」、「二人は追いつめられた(ただの)男と女」、「二人は対等な関係」、と二人は確かめ合う。
二人は「双頭の鷲」として天国に行っても対等に愛し合おうと誓う。

ベールを脱いだ王妃は、警視総監との対決を決意し、軍服に身を固めて近衛軍とともに都へ進軍する覚悟を決める。スタニスラフとの愛も隠さない。
軍事力で進軍を阻まれたり、あるいはスタニスラフとの関係が国民に受け入れられ無かったら、死ぬまでだ。
不義密通で死罪を言い渡され毅然と引かれてゆく心中ものの吹っ切れた潔さに通ずる。
そこまでいかなくても、夫に死に別れた普通の夫人がいい意味で別な人生を歩み始める、という真理にもつながる。

二人はしかし現生での栄達には至らず、スタニスラフの服毒と王妃の道連れへと結末する。
愛する二人は永遠の愛を得る。

『政治は愛の前に無力だ』ラストのモノローグがこの作品を物語っている。

「オルフェ」  1950年  ジャン・コクトー監督  フランス

「美女と野獣」から4年を経て、すっかり商業映画らしい出だし。
町はずれのカフェに集う若き詩人たち。
カメラがパンしてゆくとジャン・マレーがいる。
コクトー満を持してのジャン・マレー登場シーン、ではない。
ジャン・マレーは、大向こうを張る主役でも、ピカピカの王子様役でもなく、狂言回しのような醒めた現代人の役だ。

「オルフェ」オリジナルポスター

ギリシャ神話「オルフェウス」を現代に翻訳したコクトーの脚本。
死の世界と地上の世界を行き来して物語は進む。

先のカフェに、若い売れっ子詩人を連れて、黒ずくめの女王(マリア・カザレス)が現れる。
オートバイの二人組が現れて詩人をひき殺す。
黒い車に死体を乗せて、ついでに居合わせたこれも詩人のオルフェ(ジャン・マレー)を呼び込んで、車は走り去る。
着いた建物で、女王とオートバイの二人組は鏡をすり抜けてどこかへ去る。
おいてゆかれたオルフェは困惑し、自宅に帰ってからも妻のユリデイス(マリー・デア)の心配も上の空、自分が見てきた世界が忘れられない。

マリア・カザレス

オルフェを自宅に送り届けた、死の国の運転手ウルトビース(フランソワ・ペリエ)がユリデイスを慰める。
コーヒーで接待しようとしてお湯を吹きこぼしてしまうユリデイスの仕草に、ウルトビースの好意を受け止める人妻の心情が表れる。

一方でオルフェは死の国の女王が忘れられない。
ガレージにこもってカーラジオから流れる死の国からの信号の受信に没頭し、懐妊したユリデイスのことも、彼女の友人の助言も無視する。
女王もオルフェを愛しており死の国への到着を待つ。
女王はオルフェを誘い出そうと、ユリデイスを死の国に連れてくることにする。

自転車で出かけて、例のオートバイ二人組に跳ね飛ばされて死んだユリデイスを追って、オルフェはウルトビースに頼み込み死の国へ向かう。
手袋をはめ、鏡を通り抜けて死の国へ入る。
ウルトビースはオルフェに「死の国で会いたいのは、ユリデイスか女王か」と問われ、逡巡した挙句、「両方だ」と答えるが、見抜かれている。

死の国では査問会が開かれている。
女王、ウルトビースら死の国の使者たちが使命を果たしているか、違反を犯していないか。
女王とウルトビースは地上での越権行為の疑いをもたれている。
越権行為とは、女王がオルフェを愛して呼び寄せようとしたり、またウルトビースがユリデイスに対する好意を原因としてオルフェを死の国に案内したことだった。
査問会はオルフェに対し、ユリデイスの姿を決して見ないことを条件に地上への復活を認める。

さて自宅に帰ってきた二人だったが、ついてきたウルトビースの手助け無くては一瞬も暮らせない。
決してユリデイスを見てはいけないのだから。
オルフェの心には女王への愛着が占めている。
果たして二人の運命は・・・、そして愛に悩む死の国の女王はどうなるのか・・・。

日本版ポスター

「美女と野獣」「双頭の鷲」の豪華絢爛なコスチュームプレイは、マリア・カザレスの衣装の豪華さはあるものの、舞台は50年当時の現代。
もっとも、コクトーが本当の舞台としたのは「死の国」であり、「死の国」と現代を結ぶ「鏡」に象徴される境目である。

死の国の女王であっても現代の詩人を愛し、死の国の運転手であっても心優しい人妻に好意を持つ。
女王は、査問会の厳罰を受ける覚悟で、愛する詩人の現世的幸せを実現させる。
これは、自然な人間性を賛美するコクトーらしさであり、また人間の尊厳に対するコクトーの己の存在をかけたリスペクトである。

鏡を通り抜けたり、フィルムの逆回しによる生き返りを表現したり、幻想シーンの演出はこれまでのコクトー作品のように思いきっている。

この作品ではまたコクトーの余裕を感じることができる。
例えばオルフェが警察署へ向かう何気ない場面で路上で遊ぶ少女をフレームに一瞬出入りさせたり、ユリデイスの友人に長い黒髪を何気なく振り上げさせる「しな」をつけたり、死の国へ向かう途中の冥界に「鏡売りの男」を登場させたり、コクトーらしい「遊び」の演出があったことである。

マリア・カザレスの黒いマントを引きずる場面の物々しさ、オルフェの死を願う場面でのカザレスの目(瞼に絵で描いた目を貼り付けている)、ユリデイスを死の国に連れてきたときに黒いドレスから白に変る場面(「美女と野獣」でベルが古城の部屋に入る時にドレスが変わる場面と同様)。
カザレスの起用はコクトーにとって、強く、毅然として尊厳に満ちた女性像の到達地点なのだろう。

ユリデイス役のマリー・デア。
シュトロハイムと共演した40年代のサスペンス作品では、おとり捜査に協力する女子大生役で出演し、活発な演技を見せたことがった。
題名は忘れてしまったが、軟弱な変態役のシュトロハイムともども印象に残った。
活発な女子大生役だったマリーさんが、貞淑で理性的な若妻役に成長して元気な姿を見せていたのもうれしかった。

DVD名画劇場 戦前ドイツ映画の栄光VOL.2 レニ・リーフェンシュタール〈後編〉

ベルリンオリンピックとレニ・リューフェンシュタール

第11回オリンピック・ベルリン大会は1936年に開催された。

当時はナチス党がドイツの政権を握り、首相はヒトラーだった。
ドイツ国内のユダヤ人迫害は始まっており、国際社会(アメリカのオリンピック協会やユダヤ系の有力選手ら)は、ベルリン大会のボイコットも示唆しながらドイツのユダヤ人政策に抗議した中での開催だった。

ドイツはオリンピックを国威発揚の場ととらえ、ヒトラーはベルリン大会の準備を、ドイツ政府のスポーツ・レクレーション委員会幹事を務めてきたカール・デイーム博士に委任した。
博士は前回のロサンゼルスオリンピックを参考にさらに最先端の技術を用いた。
新式の得点表示器、トラック競技の写真判定装置、フェンシングの電気審判器などだった。

また、博士は4000人の選手村の設置も監督し、フィンランドの選手用にサウナ、日本選手団のために畳、アメリカ用にアメリカ式マットレスなどを用意した。

大会の規模、技術的進歩、大衆化などで、近代オリンピックのエポックメイキングとなったのがベルリン大会だった。
映画という媒体に記録され、拡散したことでも画期的な大会となった。

ドイツ政府は、ベルリン大会の記録映画の撮影をレニ・リューフェンシュタールに委嘱し、そのための映画会社(オリンピック映画会社)の設立を認めた。
リーフェンシュタールは、オリンピック映画会社を通じて予算獲得など映画製作を行った形を取ったが、同社の予算は全額がドイツ政府の出資によるものであり、製作準備、撮影なども政府の特別の便宜に基づいていた。

『彼女(リーフェンシュタールは)できるだけ様々な視点から、できるだけ多くの撮影を試みなくてはならなかった。』(「ドイツ映画の偉大な時代』1981年クルト・リース著 フィルムアート社刊 P475より)

「レニ・リーフェンシュタール」リブロポート社刊
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リーフェンシュタールは、撮影に臨んで競技日程、場所などを把握し、綿密なスケジュールを立てた。
メインクルーに6人のプロカメラマンを用意し、ほかに10人のアマチュアカメラマンを観客席に放って観客らの反応を捉えた。
トラック沿いにカタパルト式の移動レールを設置してランナーをカメラでとらえ、風船にカメラを乗せて飛ばした。また、飛込競技を捉えるために水中カメラを開発した。
前もってIOCから、撮影上の様々な規制を受けながらも、フィールドに穴を掘り、選手の感情を捉えるべく肉薄したり、ドラマチックな盛り上げの再現のために実際の選手と役員に競技を再現させたりした。

『彼女(リーフェンシュタール)は、いつも黒いコート姿のアシスタントたちに囲まれて、その白いコートを際立たせていた』(「レニ・リーフェンシュタール 芸術と政治のはざまに』1981年 グレン・B・インフィールド著 リブリポート社刊 P222より)

「ドイツ映画の偉大な時代」フィルムアート社刊
同・奥付き

編集に18か月をかけ、400,000メートルの撮影済みフィルムを、前後編合わせて約6000メートルにまとめて、「オリンピア」は1938年2月に完成した。

「オリンピア第一部・民族の祭典」  1938年  レニ・リューフェンシュタール監督  ドイツ

前後編に分かれて編集された「オリンピア」の前編。
開会式と陸上競技が収められる。

開会式に至る映画のプロローグ。
「意志の勝利」ではユンカースの飛行から、メルセデスオープンカーのパレードまで会場に至るプロローグを流れるようにまとめ上げたリーフェンシュタールは、オリンピックの開会に合わせて、古代ギリシャの彫像から、競技に挑む若者、神に踊りをささげる女性にオーバーラップさせ、成果の点灯からベルリンまでのランナーを象徴的に演出する。
ベルリン大会から始まった、ギリシャ・オリンピアから開催地までの聖火ランナー。
地図上でルートを追い、町々の様子を捉える。
夕暮れの海岸を一人走り続けるランナーは神々に火を届けようとする神話の一場面のようだ。
大会の主宰者・ドイツと記録者・リーフェンシュタールの意志と狙いが一致した場面だ。
ドイツにおけるベルリンオリンピックは当時の政権の権勢発揚だけではなく、国の歴史と尊厳をかけての催しだたことがわかる。

海岸を走る聖火ランナー

聖火ランナーがベルリンのスタジアムに到着した場面。
塔上のファンファーレはともかく、聖火ランナーの背後からスタジアムの門と満員の場内を捉えるカメラは、臨場感がたっぷりに観客らの高揚感が捉えられている。
この場面は撮り直しではないだろうからリーフェンシュタールら撮影クルーの周到な準備と、当日の果敢な撮影が行われたことがわかる。

選手入場はトップのギリシャをはじめ、オーストリア、イタリアなどの友好国がナチス式の敬礼で行進。
意外なのはフランスの選手もナチス式の敬礼だったこと。
軍隊帽をかぶった日本選手団は一般式の敬礼だった。

演出するリーフェンシュタール

いよいよ競技開始。
映画は、円盤投げ、ハンマー投げ、やり投げ、高跳びなどのフィールド競技やトラックの各種目を順々に捉えてゆく。
この時代のオリンピック陸上種目の上位選手は北欧、西欧、北米の白人選手だったことがわかる。
ドイツ、イタリア、イギリス、アメリカ、カナダなどの白人選手が活躍し、スタンドは盛り上がる。
欧米にとって平和で活気ある時代だったことだろう。
日本選手も友好国ドイツの大会だからか大規模な選手団を派遣しており、中距離走や跳躍競技に有力選手が出場している。

フィールドに穴を掘って撮影

日本選手がらみの「撮り直し」場面は、棒高跳びの場面で使われる。
優勝決定まで8時間を経過し、日没後に決着を迎えた棒高跳び。
西田選手と大江選手が2位、3位に入賞、優勝はアメリカの選手となるが、優勝を争った西田とアメリカ選手の跳躍前の様子と、暗闇での跳躍場面、決着後の握手などは撮り直された映像だった。
この「撮り直し」、のちの日本でのリーフェンシュタールらと西田選手らの幸福感に満ちた再会の写真を見ても、必ずしも選手らに負担ばかりを負わせたものではなく、むしろ彼らをして映画の「出演者」としての達成感や充実感のようなものをもたらしたのではないかと思われる。
リーフェンシュタールの「演出者」としての満足感はもちろんのことだったはずだ。

棒高跳びの撮り直しシーン

「民族の祭典」において、別の意味でリーフェンシュタールの興味を引き、完成した作品で多くを割いたのは、当時100メートルの世界記録者、オーエンスの躍動する肉体と、意外だがマラソンの孫の死力を尽くした極限の姿で、特にオーエンスについては競技の様子はもちろん、その前の緊張感やオフのリラックスした姿などが時間をかけて捉えられている。
当時のナチス政府は、黒人などを差別する政策だったが、リーフェンシュタールはヒトラーの好みより芸術家としての自分の好みを優先したことになる。

当時の様子として、走高跳が男女とも鋏飛びであったこと、短距離走ではスタートブロックは使われず、トラックに穴を掘って足場にしていたこと、やり投げのフォームは現在とほとんど変わっていなかったこと、マラソンではjタウを脱ぎ上半身裸で走る選手がいたこと、棒高跳びの着地点が平板な砂だったこと、などなど興味深い歴史的記録でもあった。

当時の観客が見れば、遠い異国のオリンピックという興味のほかにも、手に汗握る競技のスリルと盛り上がりを堪能したのだろうと思われる。

「オリンピア第二部・美の祭典」  1938年  レニ・リューフェンシュタール監督  ドイツ

前編と同時に撮影・編集された「オリンピア」後編は、陸上競技以外の模様が収められている。
といってもスタジアムで行われた十種競技(トラック、フィールドの代表競技の総合種目)がそれなりの尺で収められおり、ベルリンオリンピックの、何よりリーフェンシュタールの関心が圧倒的にスタジアムの陸上競技にあったことがわかる。

「美の祭典」としてまとめられた競技には、球技、水泳、馬術、自転車などがあるが、「民族の祭典」の描写よりどこか淡々としている。
むしろリーフェンシュタールの関心は作品の中にわかりやすいほどに表われており、それは飛び込み、馬術などにおける人間の(特に男性の)肉体美と躍動、危険なスリルなどである。

撮影するリーフェンシュタール

「美の祭典」は選手村の朝のシーンから始まる。
水面に反射する光、木洩れ日、鳥のさえずり。
夢のような田園のごとき選手村の朝。
裸で湖水に飛び込み、サウナで汗を流す男子選手たち。
フィンランド選手団をモチーフとしたようだが、どうみてもスケッチ的な描写ではなく、ねっとりとした己の美学に基づいて演出されたこのシーン。
ゲルマン神話的なリーフェンシュタールの、そして当時のドイツ権力者たちの理想に基づく場面だ。
「民族の祭典」では、古代ギリシャ神話を題材とした導入シーンを持ってきたリーフェンシュタールが、ここでも自分のこだわりに忠実なプロローグシーンを作りだしている。

「美の祭典」にはスタジアム競技がほぼ出てこないからか、観戦するヒトラーなど権力者たちは写っていない。
そこにいるのは馬術競技の審判・運営の軍服姿のドイツ軍人だったり、ヨット競技でのドイツ軍艦のスタートの号砲だったり水兵の姿だったりする。
彼等は必ずしもナチスではなく、国防軍だったりするのだろうが、競技の現場で目立つ軍服姿は時世を嫌が上でも感じさせる。
リーフェンシュタールは得意げに、また必要以上に軍人の姿を強調している。

リーフェンシュタールが好んだのが飛込競技で、これでもかと繰り返される。
太陽をバックにシルエットに塗りつぶされて空中を舞う選手のシルエット。
当時の飛び込みは空中姿勢が重要だったようで、筋肉隆々の選手たちが、空中姿勢を誇りながら、派手なしぶきを立ててザッパーンと飛び込む。
現在はいかに静かに入水するかを競うのであろうが、当時のスタイルの方がリーフェンシュタールの好みにアピールしたことが想像できる。

飛び込みのワンシーン

馬術のワイルドさが現在からは想像もつかないことも衝撃的だ。
谷に向かって障害が置かれたコースに次々と落馬する選手たち。
そもそも障害のコースが今のように整備された馬場でなく、野原や林を縫って設定されている。
障害には大きな池も設定されてもおり、人馬ともどもずぶ濡れになる。
騎手が振り落とされ、馬が怖がって動かず、馬ごと転倒する。
その荒っぽさがリーフェンシュタールの琴線に触れたのであろうか、馬術競技の尺も長い。

「日本版」には存在するという水泳女子200メートルの前畑選手の場面はない。
本作品が「オリジナルドイツ語版」だからだろう。

『政府の目的は、ナチ・ドイツとヒトラーのためのプロパガンダ製作にあった。そしてリーフェンシュタールは、意識的にせよ無意識にせよ、この目的を申し分なく見事に達成したのだった』(「レニ・リーフェンシュタール 芸術と政治のはざまに』1981年 グレン・B・インフィールド著 リブリポート社刊 P263より)

DVD名画劇場 戦前ドイツ映画の栄光VOL.2 レニ・リーフェンシュタール〈前編〉

レニ・リーフェンシュタール

1902年ベルリン生まれ。
マレーネ・デートリヒの1つ年下。
裕福な両親の元幼少からダンスに熱中し、一時は国内でダンサーとして有名になるがケガで挫折する。

1924年ベルリンで「運命の山」という山岳映画に出会い感銘を受け、主演のルイス・トレンカーに会いにドロミテ地方という山岳地へ。
後日、ベルリンで監督のアーノルド・ファンクと会い、次作「聖山」の出演契約を結ぶ。
山岳経験もスキーも初心者だったが、撮影と並行して習得に努力し、その後ファンクの作品に出演していった間に、登山、スキーなどに関して熟達していった。

ファンク作品に出演しいて学んだのは、山岳のすばらしさと映画製作、特に編集について習得したことだった。

編集するリーフェンシュタール

この間、「嘆きの天使」キャステイングと撮影のためにドイツを訪れた、ジョセフ=フォン・スタンバークの元にも売り込みに出かけるが、スタンバークは無名のマレーネ・デートリッヒに決めており、不発だった。

1932年には、当時政権を握る直前だったナチス党のヒトラーの演説を聞き感銘を受け、手紙を書く。
後日ヒトラーから面談の申し出があり、その後の「意志の勝利」「オリンピア」の製作につながる。

以上は、「ナチの女神か?20世紀最高の映像作家か?(20世紀映像論のために)レニ・リーフェンシュタール」(平井正著 1999年晶文社刊)からの要約です。

本著表紙
本著奥付
本著カバーより

ここまでのリーフェンシュタールの半生は、目立ちたがりというか自分の欲望達成のためには直情径行、最大限の努力を払い、目指すところ(ファンク、スタンバーク、ヒトラー)に直談判を辞さず直行するという特性を見せています。
それに付随して登山、スキー技術、編集技術など、必要な技術習得に努力を惜しまず、それぞれ最高レベルのものを習得しています。
それは、山岳のすばらしさ、編集の要諦などに必要な感性を、彼女が備えていたことを示します。

平井正の著書もそうですが、ナチスとともにリーフェンシュタールを完全否定するのが、マスコミに限らずのお約束になっています。

ですが、同著113ページの写真を見る限り、リーフェンシュタールの卓越した記憶力と「オリンピア」で記録された演者(アスリートたち)の間の幸福に満ちた関係性を認識せざるを得ないのです。
1977年に74歳で来日したリーフェンシュタールに「オリンピア」の出演者でメダリストの田島直人(64歳)と西田修平(67歳)が駆け付けた際、彼女は二人に「ニシダ?タジマ?」と呼びかけ、元アスリートらは「レニさんいつまでも若いなあ」と応じたというのです。
これは旧作名画の監督と出演者が後日再開したときのような光景ではないでしょうか。

又、当時日本人として金メダルを受賞し、戦後韓国に戻った(自身の受賞記録を日本から韓国に変更させた)マラソンの孫基赬も、ソウルからリーフェンシュタールに会いに駆け付けたというのです。

本著P113より

青の光  1932年  レニ・リーフェンシュタール監督  ドイツ

滝が流れ落ち、牛が遊ぶ山岳地方サンタマリア。
ドイツ領からイタリアへ入ったあたりの山間の村。

山の放牧小屋で、牧童の少年と暮らすユンタ(レニ・リーフェンシュタール)をめぐる物語。

19世紀になるころ、馬車で村にやってきた絵描きがいた。
村の居酒屋に水晶や珍しい木の実を売りに来たユンタという娘を見掛ける。
裸足でボロボロのスカートを身に着けた姿。
村人は、里から離れ、だれとも交わろうとしないユンタを蔑視(畏怖)している。
ユンタが、訳アリの存在(非常民、異民族、異教徒など)でまた、山岳に象徴される自然と交流できる存在であることがわかる。
村の若者は自分たち「常民」の外の存在であるユンタに、常民同志ではしない卑猥な誘いをかけることもある。

「青の光」のレニ・リーフェンシュタール

これまでアーノルド・ファンクの山岳映画で鍛えられてきたリーフェンシュタールの山との親和性が見事。
ロングショットで、身一つで岩山を上り下りする彼女の姿が捉えられる。
この映画のもう一つの主人公がアルプスにつながる山岳そのものであることがわかる。
そのうえで、破れたスカートの裾から素足を太腿まで出して動き回るユンタに、泰然とした自然に対比する人間の女性の生命、生々しさを表現するリーフェンシュタールの自作自演が際立つ。

劇中、岩山をよじ登るリーフェンシュタールを捉えるロングショット

村には「満月の夜、山が青い光に包まれ、若者が山に引き込まれて転落死する」という言い伝えがある。
その原因がユンタにあるとして村人が彼女を追いかける。

一方、画家はユンタに興味を持ち、山の放牧小屋にたどりつき、ユンタと少年と小屋に逗留する。
画家に対してはユンタも心を開く。
が、画家は村に帰って水晶の場所を村人に教えてしまい、挙句収奪された水晶で貧しい村はバブルってしまい、ユンタは絶望し死んでしまう。

後年、自動車でサンタマリアにやってきた旅行者は村の少女にユンタの写真をイコンにした土産を売りつけられ、少女の説明により彼女の伝説に接するのであった。

本作はリーフェンシュタールがそれまでのキャリアとしてきた山岳映画を舞台に、自らの主演で伝説のヒロインを描き上げたもの。
一筋縄でいかないのは、舞台の山岳そのものに十分なリスペクトを表現していること、またのちのドキュメンタリスト・リーフェンシュタールの面目躍如?なのか、サンタマリアという村そのものに民俗学的とでもいうべき興味を示していること。
実際の村人を採用し、その表情を捉えるカットには芝居では表現できない深さがあった。
決してリーフェンシュタールが自らの悲劇のヒロイン性にのみ酔った作品ではなかった。

サンタマリア村の住民役にはロケ地に村人が出演した

ただ、リーフェンシュタールが一番描きたかったのが、ユンタという女性像だったのは事実。
破れたスカートから太腿をむき出し、岩山をよじ登る。
その生命と動きを表現したかった。
実年齢が29歳のリーフェンシュタールはユンタにはややトウが立ってはいたが、余人をもって代えがたし。

ユンタに扮するリーフェンシュタール

リーフェンシュタールの表現者としての意欲、欲望が前面に出た作品ではあるが、一方で余白を彩る様々な視点の豊かさが、余韻をもたらした作品でもあった。

「意志の勝利」  1935年  レニ・リーフェンシュタール監督  ドイツ

1934年、ドイツ・ニュールンベルグで開かれたナチス党大会を記録した作品。

当時のドイツは、第一次大戦敗戦の天文学的な賠償金支払いによるハイパーインフレと心理的ダメージにより国民の閉そく感が広がっていた。
一方、ヒトラーが率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)は、国民の閉そく感打破の期待のせいか、1932年の選挙で第一党となり、やがてヒトラーが首相指名された。
翌年の第6回ナチス党大会は党大会と称しながら、国家による国威発揚を掲げてのものと区別がつかないものとなった。

「青の光」に感銘を受けたヒトラー以下ナチスの首脳部は、一方で映画を重要なプロパガンダ装置と認識し、利用しようとしていた。
1942年から44年にかけてのドイツ国内の映画人口は10億人を超えており、ナチス首脳によるプロパガンダとしての映画の位置づけは的を得ていた。

そういった背景にあって、自らの欲望に忠実で、映画界の権力者に一直線で取り入る行動力を持つリーフェンシュタールとナチスの出会いは必然であった。

ドイツ国民の空気が「労働者重視、積極的な公共投資(アウトバーン建設など)、減税、農業重視、若者優遇」を高らかに謳うナチスに現状打破の期待を持っていたことは事実だった。
一方で過激な反共、反ユダヤ金融主義を掲げ、挙句は国会放火など直接暴力に訴える野蛮さへの忌避反応があったことも事実だが、ドイツ国民が過半数には満たぬまでも選挙で第一党にナチス党を選んだこともまた、事実だった。

ドイツ人の映画監督(兼女優)として売り出し中だった、目端の利くリーフェンシュタールが、ドイツ国民の救世主として時流に乗っていたナチスに「一枚かんで出世して権力者になって」やろうと思わない方が不思議だ。
そのためにリーフェンシュタールはナチスの協力者として生涯の烙印を押されることになったが。

ナチス党というよりヒトラー個人に支持されたリーフェンシュタールは、党大会の記録映画に着手した。
120人のスタッフ、16人のカメラマン、30台のカメラ、各チームの録音、照明スタッフ、22台の撮影用自動車が動員され、38メートルの高さを上下する撮影用エレバーター、20メートルの移動レールなどが準備された。

移動車で撮影するリーフェンシュタールら

一方、党大会そのものの準備には、アルバート・シュペアーという建築家による会場設計と式典の演出があった。
ニュールンベルグのツェッペリン飛行場を会場に、ベルガモ神殿を模した巨大な建造物を建て、ドイツの象徴・金色の鷲を頂き、巨大な柱からはハーケンクロイツの旗を何本も垂らした。
ベルガモは古代ローマ時代に発展した文化で、その遺跡をドイツが発掘したという因縁があった。
リーフェンシュタールはヒトラーの全面協力の元、これら大時代的なセットの上部、側面に撮影用機材を取りつけ縦横無尽にカメラを回した。
時にはカメラマンにローラースケートを履かせて撮影した。

ナチスの大物たちは、会場を思うがままに動き回るリーフェンシュタールを妨害した。
カメラマンを締めだし、移動レールを解体し、投光器を消した。
「撮影しているリーフェンシュタールを見にニュールンベルグへ来たわけではない」というわけだった。

だがもともとがナチスの政策上の事柄を何も知らず、関心もなかったリーフェンシュタールにとっての最大の関心事は、演説と行進にまみれた素材からどうやって退屈ではない映像を編集できるか、にあった。
そのためには、行事の時間的順序を入れ替え、気に入らなかった場面はスタジオで撮り直しさえした。

巨大な鷲の象徴とリーフェンシュタール

ヒトラーが乗ったユンカース輸送機がニュールンベルグを目指す開巻シーン。
空中からユンカースを捉える晴れやかでスピード感豊かな空中撮影。
機影が町をかすめるカット。
リーフェンシュタールがファンクの映画(「SOS氷山」)で体験した影響がみられる。

飛行場から会場までのパレード。
ヒトラーが乗ったメルセデスのオープンカーを捉える移動ショット、ヒトラーの肩越しに沿道の群集を捉えるショット、遥か上空から車列を捉える俯瞰ショット、の流れるような編集。
その合間には熱狂して迎える市民たちの表情がカットインされる。
それほど関心を示さない、貧しい庶民の顔もはさまる。
ハーケンクロイツの旗の下にたたずむ猫の姿も。
ドイツ映画の理論的な伝統の上に、リーフェンシュタールの個人的眼差しを加味したカットも挟まった編集がテンポよい。

ニュールンベルグ上空に到着したヒトラー専用機・ユンカース
ニュールンベルグの街中を行くベンツオープンカーのパレード

会場に集まった党員なのか、国家的動員なのか、若者たちのテント村が整然と並ぶ。
朝になり身支度して、薪を炊事場に運ぶ。
給食、レクレーションまでの整然とし、はつらつとした動きは新生ドイツの未来を表す!

同時に、教会の鐘の音、民家の煙突から立ち上る煙の描写もある。
新生ドイツは働く庶民の味方である!

アルプス地方の様々な民族衣装を着た女性らが来賓に集まる。
新生ドイツは国内の民族融合を目指す!

ヒトラーとゲッペルスに挟まれるリーフェンシュタール

副総裁ルドルフ・ヘスの開会宣言から大会は始まる。
日本代表の姿もある。
来賓の挨拶。
ヒトラーの演説。
どれもカンペを見ずに勢いよい。
皆、労働の大切さ、農業(自給自足)の大切さ、若者への期待を謳いあげる。

大会は夜も続く。
夜にクライマックスを持ってくるように、サーチライト、松明、花火などで演出したのも、全体の設計者シュペアーとのこと。
参加者の活力に驚く。

ヒトラーはハーケンクロイツの腕章を巻いているが、胸にはドイツ国防軍の印である鉄十字のワッペンをつけている。
首相になり、国軍を指揮する立場となったことを示している。
演説でも再三にわたり「一つのドイツ」のフレーズが出てくる。
ドイツが様々な地方の歴史と地理的区分をもった連邦国家であることがわかる。
ドイツ国家全体の指導者としての立場をヒトラー自身が意識していることも。(大会の直前に、ヒトラーは盟友の突撃隊長レームを銃殺している。ライバルの粛清であり、またナチス党を主義者のみのものから、国全体のものにしようという政治的判断である。)

「神殿」に軍勢が勢ぞろいする大会のクライマックス

後半の行進(ナチス党員の行進なのか、一般民兵の行進か)のシーンでは、鉄十字をつけた国防軍の将校がナチス式ではなく、一般軍人式の敬礼をするカットも収められている。(ドイツ国防軍がナチス党大会に初めて参加した年だったという)。

ハーケンクロイツの巨大な旗を支える柱の途中に、撮影用のエレベータが上下しているのが見えるカットもある。

路上でカメラを据えるスタッフとリーフェンシュタール

約1週間の大会の最終日、見ているこちらも疲れ切っている。
ヒトラーの閉会演説、内容は変わらないのだがカンペに目を再三落としながらしゃべっている。
これでは最近の日本の政治家と変わらない。
威勢のいいことを言って陰で利権をむさぼっているだけではないか政治家は、との疑念は・・・当時の庶民はそこまで疑わないか。
まあ、ヒトラーは象徴として存在していることは空気感で伝わっているが。

DVDパッケージ表

壮大な舞台装置と一糸乱れぬ大衆行動を主軸とした国家プロバガンダ大会は、その様式のみが、ソ連、中共、北朝鮮などの国家、創価学会などの新興宗教に換骨奪胎して受け継がれた。
その表面的模倣には歴史の学びも、ポリシーも感じられないが。

またリーフェンシュタールが示したドキュメンタリーの手法は、記録映画などに一般的手法として受け継がれ、定着している。

新生ローマ時代からの歴史を持つニュールンベルグでは、戦後、戦勝国よる軍事裁判が開かれた。
この場所が、ドイツの戦犯を裁く地として選ばれたのは、戦勝国による見せしめ、意趣返しによるものであることは明らかだった。

DVDパッケージ裏

上田映劇と「ルノワール・新しい波」

山小舎開きの後、久しぶりに上田映劇の情報を検索すると、ジャン・ルノワールの晩年の2作品「コルドリエ博士の遺言」と「捕らえられた伍長」を上映しているので駆け付けた。

特集上映のパンフ表紙
特集上映のパンフより

2作品は1960年前後に製作され、公開時に本国でヒットしなかったこともあり、日本では劇場未公開だったり、上映機会が少ないもの。
4Kレストア版の本作を配給したのは、株式会社アイ・ヴィー・シー。
生涯映画を愛し語った、淀川長治氏の理念に基づき、映画の配給、販売を行う会社だという。

昨年1年は訪れることのなかった上田映劇はいつも通りに営業していましたが、建物全体の活力というか現役感がさらに少なくなったような気がしました。
モギリ、映写にかかる人員が、支配人ともう一人のお兄さんだけで、ロビーは常に人気がないというのも例年通りながら、寂しさがより極まっている気がしました。

この日の上田映劇前

「コルドリエ博士の遺言」  1959年  ジャン・ルノワール監督  フランス

戦時中アメリカに亡命し、ハリウッドで5作品を撮った後、アメリカを離れ、インドで「河」(51年)、イタリアで「黄金の馬車」(53年)を撮ったルノワールは、本国に帰還して「フレンチ・カンカン」(54年)を撮った。
が、その後の「恋多き女」(56年)から「コルドリエ博士の遺言」(59年)、「草の上の昼食」(59年)、長編劇映画の遺作となる「捕らえられた伍長」(61年)に至るまで、商業的にも作品の評価的にもに恵まれず、失意のまま映画界を離れることになった。

本作「コルドリエ博士の遺言」は、ルノワールがフランス国営放送のスタジオに入り、作品の解説を語り始める場面で始まる。
劇場公開とテレビ放送が同時に行われるという、方法的にも実験的な背景を持った作品だった。

複数のカメラで同時撮影するというテレビ的な手法で作られたこの作品。
なるほど、大掛かりな移動撮影もなく、スタジオの芝居を平板に捉えたり、アップが多かったり、テレビ的な画面が多い。
と同時に、芝居を途切れずに撮るテレビの撮影方法は、俳優の気持ちや流れが途切れることなく捉えることができ、この作品に貢献している。

俳優の芝居の『途切れなさ』でいうと、この「ジキル博士とハイド氏」を下敷きにした作品の見どころでもある、別人格のハイド氏の変身ぶりについては、主人公ジャン=ルイ・バローのメイクと独特の動きに一番表れている。

バローが人格者のコルドリエ博士から、変態怪人・オパ-ルに変身した際の動き!
まるで人格が解放され、子供に戻り、常識から自由になったかのようなうれしさに溢れた姿。
舗道をステッキを振り回し、首を突き出し、きょろきょろと飛び跳ねながら、少女の首を絞め、障碍者の杖を突き飛ばす。
たばこを吸い散らかしながら、あらゆる屁理屈をまき散らし、追及者をけむに巻く。
こんな人物、実在しないか?

「吸血鬼ノスフェラトウ」(1922年 FW・ムルナウ)の吸血鬼、「カリガリ博士」(1920年)のチェザーレなど、かつてスクリーンに跳梁した怪物たちは、どこか愛嬌があったり、人間社会に接点を持ちたがったりした。
現代のパリに表れ、真昼の舗道で人間にちょろちょろちょっかいを出すオパールは、ルノワール版の愛嬌を持つ怪物なのだった。

オパールにメイクで変身するバロー。ルノワールが覗いている

ルノワールらしさは、魂への影響というコルドリエ博士の研究を真っ向から批判する、ライバルの精神医学博士の描写にも表われている。
ひっきりなしにタバコを吸い時間と面会者に追われ、秘書や面会者を怒鳴りつける現代の犠牲者のようなこの博士は、ジャック・タチの「僕の伯父さん」に出てくるすべてが自動電化製品に支配された暮らしを送る、俗物性の塊のっような人物(ユロ氏の義弟)のようだ。

オパールの解放された人間性(凶悪さ、残忍さを含め)を、常識という価値で判断していないところがルノワール。
それよりも、現代人に特有のグネグネとし、背中が丸まった、多動的なオパールの動きを60年も前に予言していたかのようなバローが衝撃的だった。

「恋多き女」以来脚本家としてまた芸術観衆として協力してきたジャン・セルジュは証言したという。
『「コルドリエ博士の遺言」の編集に立ち会ったが、撮影されたフィルムの内容に愕然となった。演劇なのか、テレビなのか、映画なのかわからない代物が出来上がっていた。ジャン=ルイ・バローのやりすぎのせいで、つなぎようのない写真になってしまっていた。実験的な映画だったが、結果は失敗だった。』(「ジャン・ルノワール越境する映画」2001年青土社刊P183)

65歳にして、仲間内からでさえこういった評価を受ける作品を撮るルノワール。
最後まで彼らしいではないか。

特集上映のパンフより

[捕らえられた伍長」  1961年  ジャン・ルノワール監督   フランス

第二次大戦でフランスがドイツの侵攻を受け、休戦を申し入れるあたりの記録映像で始まる。
ドイツが応じ、休戦協定が結ばれる。
休戦とは聞こえがいいが実態はフランスの一方的な負けであり、ドイツは実力でパリに進駐する。

このころの捕虜キャンプ。
本降りの雨の中、大きなトランクを引きずりながら「俺がいなきゃ牛の世話はどうなる?女房が一人で大変だ」とフランス兵の捕虜がキャンプを出て行こうとしてドイツ兵に止められる。
雨の中、簡単なテントの中で、軍靴から雨水を開け乍ら、三々五々過ごすフランス兵たち。
「休戦なのになんで我々が捕虜なんだ?」

この作品の登場人物は、自宅のことが心配でキャンプを勝手に出て行こうとしたり、戦争に負けた捕虜の自覚がなかったり、かといって本気で占領軍に抵抗する気などさらさらなかったり。
フランス人らしいというか、ルノワール的人物たちというか。

「捕らわれた伍長」撮影風景

ジャン=ピエール・カッセル扮する主人公の伍長には唯一無二の友情に元ずく仲間がいる。
ことあるごとにその友情を最優先する。
脱走を試みて、当然に友人を誘う。
友人はメガネを落としたことにして、脱走からエスケープする。

のちに友人は通訳としてキャンプで物資に恵まれた生活を送るが、再会した伍長に自身の弱さを吐露する。
伍長は落胆はするが責めはしない。

伍長はその後も再三にわたって脱走を繰り返す。
脱走はドアを開けるとガチョウが部屋に乱入してきたり、同行者(最初のシーンで牛と女房の心配をしていた中年の捕虜)がガラクタの入ったトランクをぶちまけたりして失敗する。

ルノワールの捕虜脱走ものといえば「大いなる幻影」だが、ここにはそのスリルも、祖国に対する忠誠も、荘厳なプライドも全くない。
あるのは、フランス兵たちの平時の職業のあたりまえさだったり、兵士としての使命より個人の感心だったり。

最後に脱走に成功してパリで伍長と別れる捕虜は「戦争時代の方が、身分格差がなくてよかった。パリに戻るとまた格差の世界に戻る」と話す。

最後の脱走の途中、伍長たちはフランスと国境地帯の農村を通る。
そこにはフランス語を話す農夫と、ドイツ語を話す農婦が暮らしていた。
独仏で領土問題を抱えた地域で暮らしているのだろう。
「農婦の夫はソ連兵に殺された。いずれは結婚するつもりだ」と農夫は話し、国境への道を伍長に示す。

緊張感などさらさらない。
ドイツ軍の将校は自転車に乗って捕虜の前に現れる。
ドイツに対する余裕を持ったカリカチュア。

友情、庶民性、自由、人間の弱さ、各自のてんでに向いた価値観に対する尊重、泰然としたユーモア、国境・国籍を凌駕した本当の意味でのグローバル。
これらが満載した映画。
ルノワールの世界。

牛と女房を心配し、トランクを引きずってキャンプを出ようとした中年兵はのちに「女房が若い男と家を出た」との知らせを受ける。
いろんなことがあるもんだ。

特集上映のパンフより

ルノワールは夫人デイド宛の手紙で『大変満足しています。(中略)質の高い、そして僕を買ってくれる何人かの友人たちを失望させないだけの一風変わった作品を生み出すことができたと思ています』(「ジャン・ルノワール越境する映画」2001年青土社刊P190)と書き残している。

この作品に対する一番の評価ではないか。