彩レディース来襲の後

彩レディースが帰ってゆきました。
嵐のような一泊でした。

翌日からご使用になったシーツ、布団カバー、枕カバー、タオルケットを洗って干します。
タオルケットはもとより、シーツ類もよほどの好天じゃないとパリッと乾きません。
外の風に当てた後はストーブのそばで乾かします。
まだまだ朝晩はストーブが欠かせません。

とはいえ5月下旬の山小舎は晴れた日は春ゼミが鳴き、新緑に輝く時期です。
育苗ポットにトウモロコシとインゲン、枝豆の種を蒔きました。
夜間や雨の日は室内に入れて保温していると芽が出てきました。

次に帰京するのは6月上旬、娘夫婦の誕生会です。
それまで英気を養い、畑仕事をし、丸太を切って割って、別荘管理事務所のバイトをします。
もう一回くらいわらびでも採りましょうか。
ハイキングもいいでしょう。
蓼科山の大河原峠コースも歩いてみましょう。

新緑の山小舎周辺
トウモロコシ、インゲン、枝豆の芽出し

彩レディースのお土産です。
道の駅黒曜で買ったという日本酒2本とウイスキーです。
いつも過分な施しをありがとうございます。

彩レデイースからもらったお土産の日本酒とウイスキー

レディース来襲!

今年も彩レディースがやってきました。

去年やってきた際には〈彩ガールズ〉とさせていただきましたが、平均年齢80歳に近い方々を仮にも〈ガールズ〉と表現するのは失礼なので今年から〈レディース〉とさせていただきます。

レディースは、山小舎おばさんが東京調布で主宰している、彩ステーションのサポーターとして、毎週の食事の準備を手伝ってくれたり、物心両面で活動を支えてくれる地域の有志です。
普段忙しい山小舎おばさんの気分転換にと、銀座の食べ歩きや、箱根の小旅行に連れ出してくれる方々でもあります。

来場の前日までに改めて布団干し

今年は総勢4名が一泊で山小舎にやってきました。
今年の主目的は山菜採りとのことです。
山小舎おばさんの運転で、中央道相模湖付近の事故渋滞にもめげずやってきました。

Aコープでは牛肉が半額だった。自宅へのお土産分も含めて買い出し

第一日目は富士見町のにしむらという蕎麦屋でランチ。
山小舎に着いた後、山小舎おじさん手製のぼた餅でウエルカム。
一休みの後、旧姫木スキー場跡に出かけて、わらび採取。
ほどほどに採った後、一行は道の駅ながとにあるやすらぎの湯へ。
その間、山小舎おじさんは夕食の準備。Aコープに出かけて、あつらえておいた食材の仕込み。
また、布団をとっておきます。
掃除、布団干しは前日までに済ませました。

あんこともち米を炊き、手製のおはぎを作ってレデイースを待つ
目的のわらび採り。ほどほどに採取

夕食はいつもの室内炭火焼き。
アルプス牛、信州豚等の炭火焼きに一同舌鼓。
サイドデイッシュには自家製ぬか漬け、レタスサラダ、ウドの酢味噌和えなど。
ご飯は炊きあがった後、おひつに入れておきました。
デザートには一行の手土産のショートケーキ。
存分に召し上がったレディースたちでした。

翌朝は5時過ぎの早朝から起床されて賑やかな御一行。
7時半ごろに朝食。
メニューは山小舎特製のベーコン野菜スープに目玉焼き、信州ハム、昨日のご飯で握ったお結びなど。

山小屋を出発。
おじさんも軽トラで同行です。

Aコープでお土産を購入。
原村へ寄って、割き織体験の工房へ。
ここで横糸の張方から織り方までを習いながら小さめのコースターを自作。
ついで国道20号線沿いの道の駅蔦木宿のレタス祭で地元野菜をゲット。
ランチは小淵沢のカフェにて。

ものすごいスケジュールでしたが、レディースは疲れなかったのでしょうか?

ガールズ来襲!

東京からガールズがやってきました。

山小舎おばさんが東京で主宰している彩ステーションのサポーターたち4人が山小舎を1泊で訪れたのです。
全員70代かそれ以上。
皆さん彩ステーション周辺に在住ですが、出身地、経歴とも多彩なバリバリおばさんたちです。

6月下旬の暑い日、山小舎おばさんの運転でやってきた一行。

まずは諏訪湖ほとりの鰻屋で、山小舎おじさんと待ち合わせ。
信州に来たからにはと、鰻に舌鼓を打ちました。

2時間半ほどの長旅から解放された一行は空腹を鰻で満たしてまずは満足。
そのあとは車で諏訪湖を一周しました。

下諏訪の松倉で鰻重の昼食

長旅の直後に車で観光は実は好評ではなかったようで、湖畔にある片倉館に着いた時にはほっとした表情のガールズたち。
山小舎おばさんの先導で片倉館の千人風呂へとご案内しました。

湯上りにはコーヒー牛乳を全員所望。
そこは昭和世代全開です。

諏訪湖畔の片倉館千人風呂での風呂上り

次いで、高島城を見ながら丸高味噌の味噌蔵兼直売所へ向かいましたが定休日。
それではと、造り酒屋の蔵が並ぶ甲州街道沿いへ出て、真澄の蔵ショップへ向かいました。
雰囲気のある蔵造りのショップは都会人の購買意欲を刺激したのか、ガールズは甘酒、日本酒などお土産を購入。

この後、諏訪へ来たからにはと、諏訪大社上社本宮へも、もうひと頑張りのご案内。
去年建ったばかりの御柱を見て、拝殿で御参り。
諏訪信仰と大社の歴史については、僭越ながら山小舎おじさんが軽くレクチャーしつつのご案内。
ガールズたちは興味深く聞いていました。

諏訪大社上社本宮の拝殿前で

長旅と温泉の疲れがガールズたちを覆い尽くしたころ、夕食用の買い物をして山小舎へ着きました。

夕食は山小舎恒例の炭火焼きです。
暖かいので窓を全開し、室内で炭火焼きです。
地元自慢のアルプス牛などの炭火焼きにガールズたちは満足。
飲めるガールズが一人しかいないので、もっぱら山小舎おじさんが飲みを担当し夜は更けてゆきました。

翌日は帰る時間まで思い思いに過ごすガールズ。
山小舎の周りで山菜を取ったり、東京では珍しい植物を採取するガールズもいました。

翌朝の山小舎朝飯。これに特製のスープが付く

1泊の中味の濃いツアー。
それなりの年齢のガールズたちは疲れたことでしょう。

準備や接待でそれなりに大変だった山小舎おじさんですが、おかげさまで鰻などをごちそうになりました。
ありがとうございます。
よろしかったらまたお越しください。

「フレッド・ブラッシー自伝」

銀髪鬼と呼ばれたプロレスラーの自伝を読んだ。

プロレスラー、ブラッシー

プロレスという仕事がある。
アメリカで発生したプロフェッショナルレスリングのことだが、およそスポーツとしてのレスリングとはかけ離れたもので、アマレス的なアスリートの要素から、演技的なエンターテインメントの要素までを含んだ仕事である。

日本でも有名なブラッシーというプロレスラーがいた。
1918年、オーストリア=ハンガリー帝国からの移民の子供として生まれ、海軍除隊後、地元でプロレスラーになった。

売り出し中の若き日のブラッシー

南部のアトランタで売り出し、以後、ロサンゼルス地区を中心にヒール(悪役)として一世を風靡。
日本にもたびたび遠征した。
現役引退後は、現WWEのプロモーションでマネージャーとして活躍した。

プロレスという仕事

プロレスラーは大会会場を巡業して歩く。
ある期間、一定の場所を一定のメンバーで回る。
プロモーターと呼ばれる興行主画がんだスケジュールの元、与えられたキャラクターを演じ、観客を集め興奮させるのが仕事だ。

それは、身体能力に恵まれ、アスリートとして、またパフォーマーとしての特別な才能を有する者だけが所属を許される職業集団。
そこで行われるパフォーマンスは、「試合」ではなく、「興行」と呼ばれる(日本では慣習上「試合」と呼ばれているが)。

スポーツ系でいえば大相撲の世界に近い。
また、旅芸人、サーカス団に近い。
大相撲は八百長を忌避する、サーカスもインチキではできない、それでも真剣勝負のアマチュスポーツの「試合」とはなぜか色合い画異なる「興行」の世界である。

本書で、ブラッシーからプロレスラーとして高評価を得ているのが、日本でも有名なザ・デストロイヤー。
アマレスの全米チャンピオンの実力を持ちながら、覆面を被り独特のキャラを確立。
リング上では激しいファイトをいとわないが、業界のルールは決して破らない。
大学出で知性と常識に富んでいる。

一方で、厳しい評価を受けているのが、プロレスファンなら知っているバデイ・ロジャースとジョニー・バレンタイン。
特にロジャースは世界チャンピオンとなるくらいの人気者ではあったが、ブラッシーに言わせると、「相手の体のことを考えずに技を出す」自分勝手な奴。
バレンタインンの度を越した悪戯っぷりもダメだったらしい。

ブラッシーはヒール(悪役)となって以来、ファンに21回も刺されたという。
会場に乗り付けた車は、興行の間にファンに壊されたという。

私生活では2回の離婚。
セントルイスに家族を置いて、アラバマで巡業していた期間は、家族に会えるのは年に何回か。
巡業先で女は欠かさなかったという。
プロスラーはもてるのだ。
たいてい離婚もしている。

自伝では、ファンに刺されたことや、車を壊されたことを、むしろ誇らしげに書いてある。
ファンをヒートアップさせるのがプロレスラーとして有能であることの証明だ。

観客には決して自分からは手は出さないが、昔はリングに上がってくる素人の力自慢の相手もしたという。
ケガしない程度に痛めつけて、プロレスラー強しを証明しなければならないのも仕事の一つ。
ブラッシーも事故にならない程度に、こうしたイカレたファンを痛めつけたこともあったという。
今なら訴訟モノだが。

ブラッシーはテレビショーに出たときも、台本なしでのパフォーマンスを繰り広げ、〈アングル〉なしでMCの上着を引き裂いたりしたという。
〈アングル〉(事前の打ち合わせ)があろうがなかろうが、プロレスラーは自分のキャラに生きなければならない。
〈アングル〉があればそれに従い、なければ相手の出方に応じていかようにも対応できなければならない。

アドリブにも長じ、いかなる場でも、自分のカラーに染めることできるブラッシーはプロレスラーの鏡といえる。
テレビスタジオという、視聴者にとっては〈現実〉そのものの空間を、一瞬にして〈プロレス〉という異空間に変換させ得る力を持つ者がプロレスラー。
そういった意味でも、プロレスラーは現代の〈マレビト〉なのだ。

テレビショーでMCの上着を引き裂く

ブラッシーと日本

ブラッシーは力道山の生前に初めての日本遠征。
テレビでブラッシーの噛みつきによる流血試合を見た老人がショック死。
ブラッシーは、謝罪するどころか報道陣の前でやすりで刃を研いで見せた。

力道山との血の抗争。ブラッシーのプロに徹した表情を見よ

1965年には日本で見染めたミヤコという女性を口説きに口説いて結婚。
自身が死ぬまで添い遂げる。
ミヤコとの結婚後は、巡業先に同行させ、あんなに好きだった浮気もしなかったという。
この部分はプライベートなブラッシーの人間性。

日本人ミヤコさんとの結婚は終生続いた

力道山の死後も日本には何度か遠征。
ジャイアント馬場やアントニオ猪木と戦っている。

このころのテレビ中継を思い出す。
体格差のある馬場にも果敢にネックブリーカードロップを決めていたし、若かった猪木にも決して主導権を譲らない、老獪でねちっこいファイトぶりだった。

猪木が当時保持していたUNヘビー級王座にも挑戦している。
ブラッシーの日本における評価が、本国同様に高かったのがわかる。

一方、ブラッシーの猪木に対する評価は低く、のちにモハメド・アリのマネージャーとして来日し、猪木との異種格闘技戦に臨んだ後、猪木のことを「私がボクサー側についたこと以上に、あの夜のうちに彼(猪木のこと)がこの業界(プロレス界)をどれだけ傷つけたかりかいしていたのだろうか」(本書334ページ)と述べている。

猪木との異種格闘技では、アリのマネージャーを務めた

ジャイアント馬場のアメリカ修業時代

ブラッシーがプロレスラーとして評価していた日本人がジャイアント馬場。
馬場はその修業時代の1964年に、ブラッシーのWWA世界王座にロサンゼルスで挑戦している。

1964年、馬場とのロサンゼルスに於けるタイトルマッチのパンフレット

この時の馬場は、NWAのルー・テーズ、WWWFのブルーノ・サンマルチノにも連続挑戦していた。
プロレスでは、タイトルに挑戦するためには、一定の地区で巡業を行い、プロモーターの信用を得て、人気と評価をあげてから、が手順。
いきなりのゲスト出場で、ご当地会場のメインエベントで世界タイトルに挑戦するのは異例。
その後も、その手のレスラーは、アンドレ・ザ・ジャイアントがいたくらい。

力道山の死亡の報を受けた馬場に対し、当時のマネージャー・グレート東郷が、手取り年27万ドルの条件でアメリカ残留をオファーした。
一流レスラーの年収が10万ドルといわれた時代。
日本人のアメリカンドリーム第一号はジャイアント馬場だった。

馬場は、ブラッシーが嫌ったバデイ・ロジャースが世界チャンピオン時代に何度も挑戦している。
本来世界チャンピオンとは、全米のテリトリーを回り、当地のプロモーターが押す地元のチャンピオンとタイトルマッチをしなければならない。
ところがバデイ・ロジャースは挑戦者とテリトリーを選ぶチャンピオンだった。

馬場は、そのロジャースに気に入られ、巡業に同行し、挑戦者として遇された。
馬場が、いかにプロレスラーの何たるかをわきまえた存在だったということがわかる。

強いだけではなく、強烈な個性でチャンピオンとの対極性をアピールしつつ、決してチャンピオンの存在を根底的にはおびやかさない常識性を持った存在として。
馬場はまさにロジャースの相手役としてお眼鏡にかなったのだった。
それはプロレス人生における馬場の評価と信用にも結びついた。

プロレスの神髄を知るブラッシーの馬場と猪木に対する評価の違いは興味深い。
おそらくそのあたりにプロレスとは何かの答えの一つがあるのだろう。

「ノマド」が流行っている

「ノマドランド」というアメリカ映画が、2021年のアカデミー賞の作品賞、監督賞などを受賞したとのことです。
そのニュースを聞いて、ある新書を思い出しました。

ちなみにノマドとは遊牧民という意味で、転じてフリーランスなど定位置にとどまって仕事をしない働き方を、ノマドワーカーなどと呼んでおり、「ノマド」は最近はやりの言葉になっています。
背景には現代社会の煮詰まった現状からの無意識の逸脱指向があるのかもしれません。

「女ノマド、一人砂漠に生きる」 常見藤代著 集英社新書

2003年から2012年にかけて、エジプト東部の砂漠に住む、遊牧民(ホシュマン族)の56歳の女性の下に通い、数日から1か月程度の滞在を繰り返した女性ノンフィクション写真家のルポルタージュです。

読みやすい文章で、作者の「頼りない」心情も素直に描写された読みものとなっており、写真も豊富です。
何より単身の女性であることを生かした著者が、外からはうかがうことが困難な遊牧民の特に女性の生活や心情に立ち入った写真や描写が貴重です。

昔と違い、遊牧民の間にも携帯電話が普及する時代になっています。
また、気象の変化で1997年を最後に雨の降らない現地では、遊牧民たちの多くはすでに紅海沿岸の都会周辺の定住地に住んでいます。
筆者も「取材」の際には、紅海沿岸の都市部のホテルから自動車でサイーダという名前の「女ノマド」のいる現地へ向かっています。

目次第1ページ

「女ノマド」サイーダは、ラクダや山羊、羊を従え、小麦粉を焼いたものを主食に砂漠で暮らしています。
主食の小麦粉は沿岸の都市部に住む息子が定期的に持って来たり、もしくは砂漠を通りかかった車に頼んで買ってきてもらったりします。
水は貴重なので皿を洗った後の洗い水も飲むそうです。

草のある場所を求めて放牧して歩きます。
携帯電話を持たないサイーダの正確な現在地は誰にもわかりません。
息子は砂漠を横断する自動車たちの情報などにより母親の現在地を推量して定期訪問するとのことです。

最初は著者をお客さんとして迎えたサイーダも、慣れるにしたがって砂漠の生活に適し切れない著者に厳しく当たることもあったとのこと。

現地の地図

定住地の遊牧民は「遊牧の時代は自由があった、生活は今よりずっと快適だった。いまは一か所にいるだけ、体は疲れないが心が疲れる」と言ったそうです。
「昔は一人で放牧して、一人で砂漠に寝て、一人で死んでいった。そして心はいつも穏やかだった」とも。

滅びようとする遊牧民の魂とその生活の様子を等身大に描いた貴重なルポなのではないでしょうか。
著者との個人的な関係を物語る、親し気なまなざしの「女ノマド」の顔写真が掲載されているだけでも、この新書の価値があるように思います。

著者の紹介

「アラビア遊牧民」 本多勝一著 講談社文庫

「女ノマド、一人砂漠に生きる」を読んでもう一冊の遊牧民本を思い出しました。
1965年の20日間、サウジアラビア内陸部の砂漠に生きる遊牧民・ベドウイン族のキャンプで過ごしたルポルタージュ「アラビア遊牧民」です。
著者は朝日新聞記者の本多勝一。
著者にとってエスキモー、ニューギニア高地人と続いた極限に生きる生活実態のルポの第三弾です。

目次

行き当たりばったりで「女ノマド」にたどり着いた前者と異なり、「人種別、生活様式別の人間の生活実態の調査」というテーマに沿った計画の元、当時も今も外国人には門戸が狭いサウジアラビアを舞台に、誇り高い孤高の存在といわれたベドウイン族を対象としたフィールドワークになっています。

読者にとっては、「鎖国」サウジへの入国経緯などにも興味津々なのですが、そこにはさらっと触れられているだけです。
主眼はあくまで対象のベドウイン族の生活の実態です。
実に細かくサンプリングされています。

また、砂漠の太陽の美しさ、ラクダという動物の狡猾さ、などについては著者の心情を見事な美文で表現しています。
とにかく20日間のフィールドワークでこれほどまとまった成果が得られるのか、と思うほど見事に整理された内容です。

やがて、当初は「親切で慎み深い」と思っていたベドウインに対し、20日間の滞在の後には「どんな廃物であろうが、焼き捨ててでもヤツらなんぞにやるもんか」と思うほどに、印象が逆転してしまいます。

これを著者は、彼らの親切は砂漠のおきてに基づく慣習によるもので、根本には彼らの略奪文化に基づくがめつさ、のため、と分析しています。
むしろ世界的に見ればそういったがめつさの方が普遍的であり、日本的な謙譲の方が特異なのだ、とも。

サウジアラビアの地図。アブヒダードが現地

あとがきには、「ベドウインは興味深い人々だったし、再訪の希望は(著者にとって好意的な印象だった)エスキモーやニューギニア以上に強い」とあります。

遊牧民に対する印象が「再逆転」したそのココロは?
著者の客観的な分析手法をナナメ上に越えてゆく、遊牧民文化のぶっ飛びぶりに、冷静に戻った時の冒険心が刺激されたことによるものなのか?
それとも、55年前の日本人にも遊牧民(ノマド)に対しては潜在的な憧れの心理があったということなのでしょうか。

3.11から10年

2011年3月11日から丸10年がたちました。
当時のことはいつまでたっても忘れることはできません。

山小舎おじさんは54歳のサラリーマンでした。
午後2時過ぎの強烈な地震。
東京では見た目の被害こそなかったものの、交通がマヒしました。

今思えばけったいな話ですが、あの大地震にあっても、会社はアクションを起こしませんでした。
17時半の定時になって、おじさんは退社しました。

三々五々、退社したり帰宅する人が出始めた田町界隈を三田方面に抜け、恵比寿駅方面を目指して歩きました。
山手線、地下鉄線は止まっています。

恵比寿駅が近づくにつれ、道路が渋滞し始めました。
路線バスが満員のまま渋滞にはまっていました。

駅に着くと駅舎は閉鎖され、周辺にはバスやタクシーを待つ長い列ができています。
携帯電話はつながらず、電話ボックスには長い列ができています。
3月上旬の夕方は東京でも寒くて凍えます。
呆然としゃがんでいる人もいます。
せめて駅舎を開放できないものか、と思いました。

代官山、中目黒といった地域を斜めに抜け、三軒茶屋に出ました。
246号線沿いの歩道は川崎、横浜方面へと徒歩帰宅する人で埋まっています。
自動車道路は渋滞でピクリとも動いていません。
夜8時になったので、三軒茶屋の定食屋で夕食を食べました。

幸いなことに東京では停電も断水もしておらず、商店はほぼ営業しており、中には店先に「トイレ使ってください」などと貼り紙するところもあって助かりました。
食事、食料の調達も問題ありませんでした。

三軒茶屋から世田谷通りへ折れて、千歳船橋から環状8号線を渡って、5時間かけて、調布の自宅に帰りました。
世田谷通りからは徒歩の通行人数も減って、千歳船橋では電話ボックスから自宅に電話することができました。

京王線の仙川界隈にたどり着く頃は足も引きずる状態でした。
走っている京王線を見て、11時に仙川から一駅の最寄り駅まで電車に乗りました。
途中でタクシーにも手を挙げたのですが、環8をジャンジャン流れていたタクシーは全く止まってはくれませんでした。

翌週からは通常出社しましたが、しばらくは首都圏のガソリンスタンドに、給油を待つ車列ができていました。

茨城などへ出向くと、ブルーシートで覆われた民家の屋根や、傾いた電信柱、通行止めになった橋、などを見ました。

しばらくは、例えば宴会で隣になった他社のサラリーマングループとエールを交換し合ったり、何となく「オールジャパン」の雰囲気が東京にもありました。

ところで、山小舎おじさんは、震災前の2004年から3年半、仙台に単身赴任していたことがあります。
休日には仙台近郊の、荒浜、閖上、宮城県北部の志津川、気仙沼などへ行きました。

海水浴客でにぎわう荒浜、海岸の松林と入江の魚市場の風景の閖上、魚竜館で化石を見た歌津、箱でサンマを買い自宅へ送った気仙沼の場外市場、みななくなってしまいました。
否、なくなったのではなくて様相が一変してしまいました。

山小舎おじさんの思い出の景色などどうでもいいのですが、そこに住み、生き残った人たちにとって、景色の喪失、様相の一変、とはどういうことだったのでしょう。

たまさか、震災前に3年半ほど住んでいたものにとっても、自分なりの「景色」を根底から否定、轢断するかのような、当時の津波の映像など見たくない、と今でも思うのです。
ましてや、当事者の方々にとってはどれほどのことなのか・・・としか言えません。

旅行記を読む ユーラシア篇

旅行記を読むのが好きな山小舎おじさんです。

ちょっと前に「ヒマラヤ自転車旅行記」という本を読んで、それまで読んだ旅行記を思い出しました。
ユーラシアを舞台にした旅行記で忘れられないものを挙げてみました。

「ヒマラヤ自転車旅行記」B・セルビー著 東京書籍

47歳、子供3人を育て上げたイギリス人女性が自転車でパキスタンのカラチから、ギルギットを経て、インドに入りカシミールに入り、戻ってインドからネパールを横断、シッキムまでの旅行記です。

1980年代の旅です。
1970年代の第一次バックパックブームの後の時代で、ヒッピーブームも終わっていました。
とはいえ、西ヨーロッパ人にとってはパキスタン、インドは遥か彼方の文化果つるところ。マイナー地帯もいいとこです。
そこへ挑むのは、西洋社会では変わり者と言っていいでしょう。
しかも47歳の女性というのがすごい。
思い込んだら突き進む馬力は白人らしいし、自転車の整備や部品の手配、飲み水の消毒剤の携帯や、宿泊場所を各国の事情に合わせてなるべく事前に手配してゆくという用意周到さも白人らしい。

パキスタンのラワルピンディーからギルギットへの道・カラコルムハイウエー(といっても絶壁を削った砂利道)は、1982年に、不肖山小舎おじさんもバスで通りました。
47歳の著者が自転車で通った1年後です。
もう1年早かったら47歳の白人女性の自転車を、26歳の山小舎おじさんが乗ったバスが追い越していたかもしれません。

「シルクロードを全速力」 D・マーフィ 現代教養文庫

1963年にヨーロッパからインドまでを自転車旅行したアイルランド女性の旅行記。
ヒッピーブームもバックパッカーブームもなかった60年代のユーラシア紀行として貴重でもある。

1983年の「ユーラシア自転車旅行記」と比べて共通点と異なる点があります。
共通点としてはどちらの女性も現地人からメンサヒブと呼ばれることです。
貴婦人とか女主人とかの意味で、植民地人が白人の女性に使った称号の名残でしょう。
また、女だてらの自転車冒険旅行に対する尊敬の念からのことかもしれません。

自転車の機材、宿泊場所に対する用意周到さも共通しています。
1963年の冒険者はピストルさえ携行し、あまつさえバルカン半島を走行中に使用さえしています。オオカミに対してですが。

1983年の白人女性冒険家は、ピストルは携行していません。
当時のユーラシアは(特にインド、パキスタン、ネパールは)旅行している限りでは命の危険はむしろ北米、中南米などよりは安全な場所であることが認知されていたことによるのでしょう。
むしろ、白人旅行者は現地人からは金だけを落としてもらう対象として見られていたきらいがあります。
そうでなければ麻薬を吸いに来たアウトサイダーのイメージでした。
現地人もかなりすれてきており、興味があるのは彼らが持っている金だけ、といった風情になっていました。

その点、1960年代の旅行記「シルクロードを全速力」は、主人公の白人も現地人もまだまだフレッシュで、読者も一緒に冒険しているかのような、ハラハラ感に満ちた旅行記になっています。
空路を嫌い、フランスのダンケルクからバルカン半島を通っての行程。
不潔だ、野蛮だいう前に異文化世界に飛び込む勇敢さには、ヒッピー出現以前の正統派冒険旅行者の潔さを感じます。

イランの行程では、おじさんにも懐かしい地名が出てきます。
おじさんがソ連の侵攻で行けなかったアフガニスタンのカブールやバーミアンの描写もあります。

現在、旅行記は巷にあふれています。
世界中で旅行記に著されていない場所はもうないくらいの勢いです。
よほど珍しい場所でなければ、また不自然なほどキャラの立った著者でなければ旅行記を出せないような状況です。
その点、「シルクロードを全速力」は正統派の旅行記として貴重です。
誰もが今となってはうらやむものの、同じ時代に生きていたとしても決して行わなかったであろう、冒険旅行を行った著者の淡々とした事実の記録です。

「脱出記」S・ラウッツ著 ソニーマガジンズ刊

これは貴重な記録です。
旅行記ではありません。
第二次大戦でソ連の捕虜となり収容所送りとなったポーランド将校が、収容所を脱走し、6500キロを踏破してインドまでたどり着いた記録です。

ポーランド将校がなぜソ連の捕虜になるのか?
ご存知のようにポーランドがソ連の衛生国になるのは戦後の話で、それまではドイツからもソ連からもいじめられるのがポーランドだったからです。
特にソ連にとって戦後の衛生国化を見越したポーランド政策は、国力の弱小化が戦前からテーマでした。
国のエリート層である将校クラスの粛清はその一環だったのです。

シベリアの収容所を6人の仲間と一緒に脱走した主人公は、バイカル湖を越え、モンゴルに入り、ゴビ砂漠、チベットからヒマラヤ山脈を越えて、インド領シッキムへと到達します。
その間仲間を3人失います。
バイカル湖付近では17歳ほどのポーランド人少女が一向に加わりますが、その少女は、ゴビ砂漠で疲労と栄養失調から行き倒れとなります。

本筋は脱走記なのですが、旅行記として読んでみてもこれ以上の冒険旅行は聞いたことがないくらいです。

ソ連領を越え、モンゴルに入ってからは放牧民から施しを得つつ、ゴビ砂漠では食べるものがたまにいる蛇しかなく仲間を失い、チベットでは再び住民に施しを得つつの旅。
雪のヒマラヤ越えでは、登山家でもしないと思われる雪渓や崖を越えます。
こんなところには誰もいないだろうという崖の中腹に、放牧民の越冬場所がある記録などは紀行文としても貴重なのではないでしょうか。

モンゴルに入った時点で投降するという選択肢もあったでしょうが、最後まで頑固に初志貫徹するところに白人のメンタリティを感じます。

最後のヒマラヤ越えの時に、雪男?とみられる2匹の動物を3時間にわたり数百メートル離れた場所から観察する描写があります。
わざわざこの脱出記に書き加えたのですから事実だったのでしょう。

いずれにしても稀有な記録です。

「カシュガルの道」S・ジョインソン著 西村書店刊

題名にひかれて購入しました。小説です。
1923年に伝道のためにカシュガルに赴いたイギリス人姉妹の物語。

その子孫が現代のロンドンで、自らの先祖の1920年代のシルクロード最深部での伝道を通しての人間性の秘密に向き合う、といったストーリー。
どうせ100円で買ったゾッキ本、面白くなかったらやめようと思って読み始めて、2ページ目、1923年のカシュガルの道端での現地人少女の出産の描写で度肝を抜かれ、そのままこの小説に引き込まれました。

本書のテーマは、先祖の秘密を暴く行程ですが、自我と妄執が絡み合った白人ならではの業の深さを感じる秘密自体はともかく、舞台となるカシュガルの描写は、紗がかかったセピアの写真のようでもあり、現地の埃を感じるようでもあり(カシュガルに行ったことはありませんが)、なんともいえないものがありました。

「チベット旅行記」河口慧海著 講談社学術文庫

シルクロード、チベット関連の旅行記というと本著にとどめを刺すのではないでしょうか。
日本人僧侶が外国人入国禁止の当時のチベットに入るため、羊をおともにヒマラヤを越えてゆく話です。
携帯食料は麦焦がし、現代の防寒着もなく雪山を越えてゆきます。
襲い来るチベット犬を杖で払い、放牧民の庇護に助けられます。

現在のネパールからチベットに入りますが、カイラス湖を通ってラサに至る詳細の行程は現在でも明らかになっていないそうです。

チベット語を学び、僧侶として道中で修業し、情報を集めたうえでの入国です。滞在中はチベット人で通し、日本人であることが見破られそうになった時点で再度秘密裏に出国しています。

この本のハイライトは雪のヒマラヤ山中で道に迷い、羊とともに死を覚悟する場面でしょうか。
まさに冒険旅行記の神髄にして白眉です。
1901年のことでした。

新型コロナについて 上海からのリポート 続報

3月末。
上海の日本人友人から続報が入りましたので、内容を転送します。
日本でのコロナ対応とは、ある意味で極端に異なる中国政府の対応ぶりがうかがえます。

(レポート内容)

上海はいま急速に日常を取り戻しつつあります。
大公園中心だった公園開放が全ての公園に及び動物園、博物館、図書館、植物園、大娯楽施設など映画館、カラオケを除き全てが開場となりました。
しかし人々の心はそう簡単には元どうりとはいかず何かに怯えているようにも見えます。

しかしこれはある意味いい事だとおもいます。
統計上はこの20曰間,上海から感染者は出ていずそういう安心感はみんな持っているのですが、あまりにも徹底した厳かい体制から曰常生活に戻ることになにかとまどいがあります。

それに政府は今迄通りマスクをし手洗い、人込みを避け、換気を良くすることなどを推奨して緊張感を持って生活することを求めています。
マンションの入口は依然として検温所があり通行証も必要です。
でも今日から配達の人々は入ることが出来るになりました。それと公園など公共施設に入場するにはスマホによる登錄が必要です。
このように政府市民ともども試行錯誤をしながらコロナウイルスから解放を目指していますが、繁華街の人出を?とみるとこれは8割がた戻っているように思います。

この騒動が始まって初めて一昨日料理店へ入ったのですが、5分くらいの入りで、入口で消毒してくれました。

上海市の感染者のその後ですが3月3曰の338名でビタッと止まって入院者も18名を残すところで、形勢が突然激変しました。

10曰ほど前から先ずイランから3名,イタリアから2名その後はイギリス、アメリカ、ドイツ等留学生を中心に外国人の駐在員も含めて感染者が94名にも及びます。

入国者はまず北京へ、2番めに上海へ向かいます。
たまりかねた政府は昨日北京空港への入国を禁止しほかの空港へ向かうようにもとめました。
それと同時に検査を徹底させるため全ての入国者にpcr検査を実施し14曰の隔離を自費でもとめました。
これにより上海への負担はさらに重くなります。

さて上海から数千名,中国全土から4万2千名以上に上った紧急医療救援隊ですが現地で热烈な送迎会を受けて続々と、行くときの悲壮感や心意気と打って変わって柔らかな安堵に满ちた表情で凯旋してきました。
歓迎、白衣の天使と大きく書かれた横断幕の前で空港には上海市長も出迎えました。
しかしこれで解散ではなく、上海市郊外のホテルで2週間の隔離生活に入るそうです。
なお上海隊はまだ1400名が残っているということです。
上海隊の隊長を務めた大病院の副院長の人がテレビのインタビューで現地の模様を詳しく話していたのですが初めは防護服も不足していて、8時間休息がなかったそうです。
そのような中で驚いたのは、上海隊には一人の感染者も出なかったそうです。

中国からは今イタリアやイランに救援隊が出ているのですが、この先生も一段落したら出かけたいと話していました。すごいです 。

さて武漢ですがホンダなど大企業を中心に操業を開始し、また武漢から労働者が新幹線の特別号車で広東へ通勤をはじめています。
武漢の中心駅が最後の大規模な消毒を終え今日から武漢のすべての駅が再開しました。

こうして日常を取り戻しつつある中国ですが 世界では大変な事態になっていますね。
今日ネットでニューヨ一クに住む日本人がすでに失業者が街に溢れだしていると書いていて驚いたのてすが、この2か月の中国のことを改めて考えてみると14億人の中国人がすべて隔離されて生活している状熊の中でどうして平稳が保ってこれたかというと、休業中の会社員だけでなく全ての飲食店の店員などにも滞りなく給料が支払われていたことが一番大きく、さらに医療救援隊人たちには3倍の給料が上乘せされた、またコロナウイルスに関しては検査や治療费が無料だったことがみんながかくさず申し出たことにつながったと思います。

曰本は比較的平稳なように見えますが、中国も含めて油断はきんもつですね。
お互い気を引き締めて完全終息に向けて頑張っていきましょう。
一刻も早く世界が平稳を取り戻すことを祈ってやみません。

以上です。

新型肺炎について、上海からのレポート

新型肺炎の流行は気になるところです。

山小舎おじさんの知り合いで、上海に住んでいる日本人がいます。
20年近く前から調布の田んぼ作りで一緒に活動していた人です。
その人は現在、中国人女性と結婚して上海に移住、時々帰ってきています。

中国での新型肺炎流行のニュースを見て心配になり、LINEで連絡をとってみました。
以下の通り返信が来ましたので本人の許可を取って転載します。

なお、明らかな変換ミスはこちらで修正しました。
また文章ごとに段落を改めました。

こんにちは‍‍。武漢が閉鎖されてから丸一月が経ちました。
今の私達上海の人たちは小区と呼ばれる数棟から数十棟の塀に囲まれたマンションの中で息をひそめるように暮らしています。
幾つかある門は正面玄門关 正面玄関以外は全て閉鎖され、出入りは特別今回発行された証明書を提示することになりました。
住人以外の立ち入りは親戚といえでも禁止です。
用事のある時は門のところまで出向いて行くことになります。
外出から帰ったときは全ての人に検温がおこなわれます。
配達の人も同様で荷物は警備の人受け取ります。

外出もできるだけ控えるように通達されているし皆恐怖感があるのでたまに街に出ても人出は通常の2割ぐらいでしようか?
それにス一バ一や市場、商店街には必ず検温所があって、一度の外出で何度も検温されることになります。
マスク着用が義務付けられていて、していない人はバスも地下鉄もタクシーも乗車を拒否されます。
咳をするにも気をつけないと、ひどいと通報されかねないのでそういう人は出かけることを控えるので安心な面はあります。
それほどみんな気を使っています。

そのマスクですがなかなか手に入らないのですが小区で5枚ずつ配布したのと薬局で混雑を避けるために予約製で5枚買うことができます。
高値で売り出した人が何人も逮捕されました。
偽マスクを販売した人達も即逮捕されました。
今の上海人はこういう事には敏感ですぐパトカーを呼び警察も厳しいのです。
昨日久しぶりに散歩に出たのですが商店街は閑散としていて開店している三分の一くらいか?いつも太極拳に通っている公園も閉鎖されていて学校も休学中なので元気な声も聞こえません。オンラインで授業を行なっているようです。

十日から会社も始まっているのですが70%くらいの出勤率だそうで、自宅勤務も多いそうです。春節の休暇が終わって中国各地から帰ってくる人達で感染者が増加するのではという懸念がありましたが幸いそういう事もありませんでした。
帰宅した人達には二週間の自宅待機が義務付けられましたが、これが厳格に守られたのは上海人の住まい方にあります。
現在は帰宅者は全てチェックされ外出できないし、用事があれば居住委員会が代行してくれます。

最近の二千五百万都市上海の感染者の推移です
16日328名、
17日332名、
18日333名、
19日333名、
20日334名、
21日334名、
22日335名、
23日335名、
24日335名です。


次に退院者の推移
16日、140名
17日、161名
18日、161名
19日、177名
20日、199名
21日、211名
22日、227名
23日、249名
24日、261名 となっています。


この様に既に80パーセントの人が退院しています。

ちなみに死亡者が3名います。
これらの情報は每日スマホの画面で閲覧でき住所氏名年龄性别,行動歴がわかります。
ちなみに私の住む渋谷区感染者は17名,時々通る、歩いて10分から20分くらいのところに4か所感染者が出て一帯が封銷され近付かないようにしています。

次にこれまでの経緯を記します、武漢が閉鎖された1月23曰の数日前からニュースで危険なウイルスが広がって来ていると知ったのですがその時はこんなに大ごとになるとは思ってもいなかったので春節を利用して24日(大晦日)から近辺の旅行に出かけました。
すると3曰目の朝バスの中で団体旅行禁止命令が出たとガイドさんから伝えられて、予定を繰り上げて帰路に着きました。
上海市に入るところでチェックがあるかもしれにというという話でしたがそういうこともなく帰宅しましたが翌日あたりから大変な騒ぎとなりました。
上海へ入る地下鉄、髙鉄(新幹線)バス、自動車もすべて検査体温チェックが行われるようになり、公園閉鎖,料理店の营業停止と厳しさをまししていきました。

今日のニュースでは上海の病院では全ての病院が正常な状態に戻ったと伝えています。
このように上海に関してはコロナウイルスの経緯封じ込めに成功しつつあると思います。
他方湖北省、武漢に目を向けるとまだまだ悲惨な状況が続きそうで心が痛みます。
これもすべて隠蔽体貭と初動の遅れによる医療崩壤があり、地方政府が制御不能に陥った結果だと残念でしかたりません。
その証拠に湖北省,武漢以外では明らかに收束に向かっているからです。
ただし感染者,退院者がほとんど上海と同じ様な経過をたどって来た北京の病院で一昨日突然大量の感染者が出たのには哑然としています。

その医療崩壤ですが、上海から真っ先に医療支援隊1380名が数日して1500名の第二陣が救助に向かいました。
その後大病院中心だった救隊が三日前八次となる救援隊は中規模の病院(東山病院くらいの)まで駆け付け正に上海中の病院が空っぽになるのではと心配になるほどの势いです。
このようにして中国中の病院から武漢入りした医療隊は3万人に上ると言われています。
8曰で完成させた病院は前もって現地入りしていた1300名の軍隊の医療隊が治療にあたりその後2次の救援隊も现地入りました。

まだまだ続く 最初のころ现地の医療么従事者は訳もわからない混乱状態の中で極度の睡眠不足疲劳,ストレスの中では多くの感染者,死亡者も出で正に不条理な犠牲者というほかありません。救援隊の方々人たちは大勢だし髪の毛もばっさり切って勇ましく出発していますが(勝ってくるぞと勇ましく)正にこちらでも(白衣の戦士)と呼ばれています。
新しく现在入りした人たちによって以前からの人たちの労苦が少しでも和らぎみんな無事で帰ってこられることを祈るばかりです。

今の時点で考える所は、上海のような普通の医療体制ならそれほど恐ろしいウイルスではないのではないか?という事です。
きちんと栄養、睡眠 を取り、手洗い、マスクを付け(他人のため)免疫力を高めることが肝心なことだと思います。
お互い十分気を付けて早く普通の曰常生活に戻れる日を待ちたいと思います。
以上です。^_^

 

臨場感のあるレポートです。
奥さんが中国人であり、現地に溶け込んで暮らしている人なので中国人目線の気持ちが伝わります。

なお、文中、略字の漢字が散見されるのは中国製のスマホだからでしょうか?
中国製スマホで日本語変換ができるのかな?

*文中にある「東山病院」とは調布駅前にある中規模の総合病院です。

講談社現代新書「愛と暴力の戦後とその後」を読む

ブックオフの100円コーナーに立ち寄るのが趣味の山小屋おじさん。
タイトルと目次を見て,カンで選んだこの本。
読んでみてびっくり。
いい作品に巡り合いました。

著者・赤坂真理について

1964年東京生まれ。
雑誌編集者を経て小説家に。
「東京プリズン」にて毎日出版文化賞などを受賞。

本作執筆の動機

本書の前書きに「研究者ではない一人のごく普通の日本人が、自国の近代史を知ろうともがいた一つの記録」とあります。
また、「習ったことより原典を信じることにした。少なからぬ原典が英語だったりした」とも書かれています。

本書の構成と切り口

著者が本書のテーマとしている近代史において、欠かせない概念なりキーワードがあります。

その中から、憲法(戦前、戦後とも)、戦争と日本軍、降伏と占領、安保条約、戦後政治、オウム事件などを取り上げて論評しています。

著者は、必要に応じて原典(安保条約などは英文)にあたり、また戦中派世代の実母のエピソードや、自らの子供時代やアメリカ留学時代のカルチャーショックな経験を取り入れて語ってゆきます。

本書の内容拾い書き

本書138ページに以下の記述があります。

「私が大日本帝国軍を見るとき一番傷つくのは(中略)大日本帝国軍は大局的な作戦を立てず、(中略)陸海軍統合作戦本部を持たず、嘘の大本営発表を報道し(中略)多くの戦線で戦死者より餓死者と病死者を多く出し、命令で自爆攻撃を行わせた、世界で唯一の正規軍なのである。」
「それは正規軍といえる質だったのだろうか?この問いに直面するとき、日本人として本当に傷つく。本当に恐ろしくなる。」と。

また、「日本軍人」は「戦後の受験エリート」と、机上の空論を弄する点では同じではないか、と指摘しています。

さらに、オウム真理教と近代日本が「神を創ってそのもとにまとまり、戦って負けた」点でそっくりであり、その点でオウム事件は多くの日本人にとって「身内」の犯罪だった、とし。
「身内」の犯罪だったががゆえに、事件後は何もなかったように「隠ぺい」されたとの指摘しています。

安保条約については英文の原典にあたり、その条文第一条が「日本が欲し、アメリカにお願いする」と構文されていることを示しています。
日本国を主語とする条約文を外国であるアメリカが書いていることも。
しかも「勝手に」書かれた日本がまんざらでもなく、アメリカと日本の倒錯的な相思相愛関係がその条約に映し出されている、と述べています。

ある意味で戦後を象徴するであろう憲法9条については、アメリカが英文で書いたからこその明快なラディカルさがあると評価し、日本人が日本語で書いたのならもっとあいまいない表現になったろうと述べています。

また戦後の日本政府は、田中角栄に代表される「大きな政府」だったときも、小泉、安部に代表される「小さな政府」による現在も、一貫して自由主義的であり、弱者に対する姿勢は「自己責任」を押し付けてきたとも指摘しています。

感想

女性の直観と感性が日本近代史の本質を明快に壟断しています。

同時代を生きる「共犯者」としてだれもが口をつぐんでいた「あいまいな日本」の根本が暴かれています。

日本人が、「知っていても知らないふり」で通してきたことを素材にしています。

例えば、「地位協定」と言われる、日米の不平等な秘密条約があります。
最近、マスコミでも報道されてきています。

著者はジャーナリスチックなアプローチだけではなく、独自の観点で日本近代史に迫っています。

おじさんが気になったのは、「傷つく」というフレーズが作品中に時折出てきたことです。

著者の繊細な感性が「傷つく」のは、祖国日本が、あいまいな概念と、無責任なシステムのまま、「近代化」の嵐渦巻くグローバルな現代社会に乗り出しては、弱者が一方的な不利益を被ってきた数々の歴史を見た時だったのでしょうか。

平易な文体で読みやすく一読をお勧めする本です。