ラピュタ阿佐ヶ谷「新春初蔵出し東映時代劇まつり」より 月形龍之介、大友柳太朗の巻

月形龍之介

明治35年生まれの月形は、宮城県生まれの北海道育ち。
戦前に日活映画からスタートし、マキノ映画などを経て、自前のプロダクションを作ったり、フリーとして活動するなりして戦前を過ごす。

ポートレート

時代劇スターとして活躍し、坂東妻三郎、大河内傅次郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「七剣聖」と呼ばれた。
他のスターが歌舞伎のケレンや踊りをベースにした立ち回りを行う中で、月形の立ち回りは剣道から作り出したといわれる。

戦後は1949年に東横映画に入社。
以降東映時代劇の重鎮として千恵蔵、右太衛門の両御大に次ぐポジションで、1954年からの「水戸黄門」シリーズ全14作で主役を務めた。
わき役としても、時代劇や任侠映画など多数に出演し、場面を締める。

ワイズ出版より発刊の「月形龍之介」

山小舎おじさん的には1963年の「人生劇場 飛車角」(沢島忠監督)の吉良常役が印象的。
枯れすすきのような古侠客の風情で、坊ちゃんこと青成瓢吉(梅宮辰夫)の面倒を何くれとなくみる役を演じ、「昔は強かったんだろうなあ」という凄味を感じさせた。
この時月形龍之介61歳、まだ最後に一仕事できそうな気配も残していた。

ラピュタの「新春初蔵出し 東映時代劇まつり」では、月形主演の「水戸黄門」シリーズ第12作「天下の副将軍」が上映された。

「水戸黄門」シリーズのムック?

「水戸黄門 天下の副将軍」  1959年 松田定次監督  東映

監督の松田定次は、春日太一著「あかんやつら 東映京都撮影所血風録」によれば、時代劇全盛時代の東映で、「天皇」あるいは「お召列車」と呼ばれていた。
そのココロは、盆と正月用のオールスター大作を任され、キャステイングからスケジュール、スタジオの使用順に至るまで最優先の待遇を受けた監督だったから。

撮影は監督のお気に入りで、隅々まで明るく照らすライテイングにより、スターを明るく映す、明朗快活な画面作りの川崎新太郎カメラマン、編集は宮本信太郎という鉄壁の布陣。

キャストは黄門に月形龍之介、助さん角さんに東千代之介と里見浩太朗、番頭に大河内傅次郎。
黄門一行に絡む隠密に大川橋蔵、大井宿の飯盛り女なれど実は家老の落とし胤に丘さとみ。
黄門の実子で高松に送り込まれていた若き藩主に中村錦之助、藩主の御そばの女中に美空ひばり。
両御大をこそいないが文字通りのオールスターキャスト。
東映の若大将・錦ちゃんにはひばりを配するサービスで、月形黄門を盛り上げる。

ポスター

この日のラピュタ阿佐ヶ谷は、平日の13時からの「水戸黄門」が何と満席。
オール70代以上で、ラピュタには珍しく女性客も数人(全員70代)。
予備椅子も出される熱気の中、上映開始。
館内の雰囲気は、65年前の地方の東映直営館もかくや。

ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーより

テレビの黄門様しか知らない世代には、月形黄門の眼光の鋭さ、顔つき、声の重々しさに恐れ入る。
片や、千代之介、里見の助さん角さんの若きやんちゃぶりにも驚く。

何せ、江戸の湯屋(湯女が、湯殿から座敷まで付きっ切りでサービスする)で湯女相手にお銚子を傾けるという登場シーンから、黄門様との道中では寝床を抜け出し、飯盛り女を上げての大騒ぎ、挙句飲み代を飯盛り女に立て替えさせ(そのために女に結婚を約束するという恋愛詐欺まで行う)る助さん角さん。

目的地の高松では情報収集のために辻でリズムに乗った大道芸の踊りまで披露。
テレビでの品行方正ぶりはどこへやら、威勢のいい江戸の若者とはこうだったのだ、と言わんばかりの、酒と女への親和性あふれるやんちゃぶりとイキの良さ。
いざという時の喧嘩の強さはテレビ通りだ。

流れの包丁人にしてその正体は公儀隠密、に扮する橋蔵は、持ち前の二枚目半。
ご乱心姿の若殿姿で登場する若大将・錦ちゃんも、乱心姿の流れるような動きがいい。
見守るひばりが、いつものべらんめえ姿ではなく、育ちのいいお嬢様を演じて若く、かわいらしい。
飯盛り女変じて、黄門一行の道中仲間となる丘さとみは、千代之介を一途に愛する田舎娘を自由自在に。
番頭、大河内のコミカルな演技が珍しい。

ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーにて

大団円に至るチャンバラシーン。
テレビなら葵の御紋に悪漢がひれ伏すが、映画では最後まで抵抗する悪漢(いつもの山形勲)と、黄門一行の一進一退の攻防が、大人数の殺陣で繰り広げられる。
最後は黄門自らの一刀で悪漢を成敗するが、眼光鋭い月形黄門ならば説得力十分。

エンドマークとともに、平均70歳代の場内からは拍手が起こりました。
映画館で拍手を聞くのは何十年ぶりでしょうか。

撮影中のスナップ。月形龍之介と丘さとみ

大友柳太朗

大友柳太朗は、明治45年生まれ、新国劇から戦前の新興キネマ入りし時代劇で活躍。
戦後しばらくは地方巡業などで糊口をしのいでいたが、1950年ころから時代劇映画の復活とともに、活躍の場を映画に戻す。

1950年代の東映時代劇で「怪傑・黒頭巾」シリーズ、「丹下左膳」シリーズ、「右門捕物帳」シリーズなどに主演し、人気を博す。
誰もが認める殺陣の鮮やかさに加えて、乗馬技術に秀でており、豪快に笑う姿が印象的で、一時は千恵蔵、右太衛門の両御大や錦之助、橋蔵、千代之介の三羽烏を凌ぐほどの稼ぎ頭といわれた。

黒頭巾姿の大友柳太朗

一方、活舌の悪さには本人も悩んでいたといわれ、その骨太な体格・風貌と田舎訛りの抜けないイントネーションは、のちに見る者をして「大時代的な芝居をする、田舎の豪放磊落なおじさんのよう」だと思わせた(山小舎おじさんの印象です。為念)。

走る!丹下左膳に扮して

ラピュタ阿佐ヶ谷の「新春東映時代劇まつり」では、50年代から60年代にかけて5本製作された、大友主演の「丹下左膳」シリーズから2本が上映され、最終作となる「乾雲坤竜の巻」を見ることができた。

「友の会」編の自伝がワイズ出版から出ている

「丹下左膳・乾雲坤竜の巻」  1962年  加藤泰監督  東映

「丹下左膳」は片目片腕のニヒルな怪剣士。
浪人として長屋に住み、常に妙齢の美人がそばにいて、厄介な事件があると表ざたになる前に実力で解決し、その過程でやむを得ずお上に逆らったりすると、無数の御用提灯が孤軍奮闘する当人を取り囲む、というのがお決まり。
戦前は大河内傅次郎の当たり役だった。
大河内の左手一本の殺陣は、腰の座り、膝の落とし方、動きの速さが見事で、口を使って鞘を抜く動作がかっこよかった。

戦後は、日活で水島道太郎の主演、マキノ雅弘の監督で3本作られた。
東映での大友柳太朗の主演シリーズは、松田定次の監督により4本、加藤泰監督により1本(本作)が作られた。(以降単発作品はあり)。

封切り時のポスター

東映でのシリーズ中、本作だけが白黒の低予算だった。
加藤泰監督による「作家性に強い」作風が一般受けしないという会社の判断は当たることになる。

巻頭から暗めの照明、ローアングル、全景を説明的に捉えないカメラでの殺陣で始まり、見る者を加藤泰ワールドに引き込む。

両目、両手が健在だった相馬藩下級武士の左膳が、藩主の個人的密命を受けて、町の道場から家宝の刀大小を強奪しに乱入したシーンだ。
右目を斬られながら、身を欺くあばら長屋に、長太刀乾雲だけを抱えて、命からがら転がり込む左膳。
長屋の隣にはスリで世を渡る東千代之介と、普段は旗本崩れの情婦をしながら千代之介と訳ありのコンビを組む年増の久保菜穂子がいた。

封切り時のプレスシート

何せガチガチの封建武士として主君の命令は絶対。
出世の野望は使命を果たすことによってのみ叶えられる。
こういった武士時代の左膳を、地面をはいずり回るように演ずる大友柳太朗。

道楽で刀を集めたがり、そのためには下級武士の命や心などなんとも思わない貧相な相馬藩主には、いつもは庶民役の花澤徳衛。
花澤は道場から乾雲を強奪したことが事件化されようとなると、南町奉行の大岡越前(近衛十四郎)に対し「左膳なるものは知らないし、乾雲などは持ってもいない」とシラを切る。
正義の味方でもなんでもなく、タヌキ官僚である越前守は、心得たとばかり得意技の「なかったことにする」対応で、事件を左膳一人に負わせ、藩主には恩を売って済まそうとする。

左膳を介抱し、牢獄から救い出し、深手を負った右腕を切り落とし、回復まで養生させる長屋の訳ありコンビが、日陰者の貧乏暮らしながら逞しい。
二枚目半の達者ぶりを見せる千代之介の飄々とした人間らしさと、新東宝倒産後に他社で活路を見出した久保菜穂子の女っぷりがいい。
彼女は左膳に惚れるし、左膳の心が町道場の娘(桜町弘子)にあることを妬いたりする。
左膳の持つ、己を捨てた一途さと危険な香りに女は惹かれるらしいが、そこのポイントも映画は押さえている。

物語は下級武士・左膳の主君への反逆という、おそらく現実の世界で到底あり得なかった、カタルシスを迎えて大団円を迎える。
左膳と町道場の娘の、敵同士の禁断の恋は、結局左膳の方から撤退するのだが、それでも割り切れぬ人間同士の情の不可思議さは、剣を切り結んだ二人の触れるか触れないかのキスシーンによって描かれる。

脚本は石堂淑朗。
大島渚の一期下の松竹助監督時代に、大島の「太陽の墓場」(1960年)、「日本の夜と霧」(1960年)を執筆。
「日本の夜と霧」の上映打ち切りに抗議して、大島とともに松竹を退社した。
その後に東映で大島が撮った「天草四郎時貞」(1962年)の脚本を書いたのも石堂で、「丹下左膳」は「天草四郎」と同年の製作。

さすが気鋭の石堂脚本、丹下左膳誕生までの秘話をオリジナルの解釈で描き、武士階級の腐敗と封建性批判、庶民の逞しさを俯瞰・強調し、さらには左膳を巡る女性らの割り切れぬ性にまで筆をすすめた見ごたえのある構成・・・と思いきや。

実は本作のストーリー、1956年に日活でマキノ雅弘が撮った「丹下左膳・乾雲の巻」「坤竜の巻」「完結編」の三部作とほぼ同じ内容でした。
同作品の棚田五郎(誰かの変名?)なる人の脚本を下敷きにしておりました。

映画評論家川本三郎の「時代劇ここにあり」という本の「丹下左膳・乾雲の巻」「坤竜の巻」「完結編」の項を読んでいたところ、そのストーリーが本作、大友柳太朗版「丹下左膳・乾雲坤竜の巻」とほぼ同じだったのです。
やはり当時30歳前後の石堂淑朗にここまでの仕事は無理だったか。

川本三郎著「時代劇ここにあり」表紙
「時代劇ここにあり」よりマキノ版「丹下左膳」ポスター
マキノ版「丹下左膳」の一場面。東映版のオリジナルか

ただし細部には石堂カラーが出ていたようです。
相馬藩主の俗物性や卑近さ、江戸の司法をつかさどる官僚(大岡越前)の事なかれ主義、権力側の都合で使い捨てられる下級武士の怨念、江戸の庶民階級のしたたかさなど物語の細部については、現代語を俳優にしゃべらせながら強調されていました。

加藤泰の演出には彼流のスタイルが存分に発揮されていました。
東映時代劇の伝統である、隅々まで明るいライテイングや、主人公を中心にしたわかりやすい殺陣などを完全に無視し、ひたすら暗い中で蠢き、痛さの伝わる殺陣に拘っていました。

左膳の潜む長屋のセットの障子の破れ具合など「リアルな」貧困も、これでもかと表現されていました。
が、貧乏人程表面を繕い己の悲惨さを隠したがるもの、映画表現とはいえ「貧困」を強調するのに度が過ぎては、「リアル」を通り越して、「不自然」にもなりかねないのでは?と感じたのも事実。
「リアルな」表現とは何かを考えさせられました。

久保菜穂子と大友柳太朗

また加藤泰の演出には、久保菜穂子への傾倒ぶりがありました。
東映お仕着せの桜町弘子への型通りすぎる演出や、筑波久子の顔見世だけの描写に比べ、久保菜穂子に対するこだわりは、単に左膳に惚れた訳あり年増の粋を越えているように見えました。
これが加藤泰の「粘り」というものなのでしょうか。

この作品における女性性、庶民の逞しさ、裏の世界の表現、また彼女を通して左膳の男性性を描くために、彼女は必要なキャストだったのでしょう。
女ざかりの久保菜穂子は加藤泰の演出に十分に応えた演技でした。

ヒットせず、シリーズ打ち切りが決まった本作ですが、ストーリー、画面共に見ごたえがあり、60年代の新機軸を予感させるような作品ではあります。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

ラピュタ阿佐ヶ谷「新春初蔵出し東映時代劇まつり」より  大川橋蔵の巻

千恵蔵、右太衛門の両御大の跡を継ぐ戦後生まれのスターとして、錦之助とともに東映時代劇の一時期を担った大川橋蔵の当たり役は「新吾十番勝負」だった。
橋蔵の出身である歌舞伎の女形の表現とも通底する、高貴な出を背景を持つ新吾というキャラクター。
その甘さと気品、色気を表現するのが橋蔵の役作りだった。

ポートレート

歌舞伎の女形から映画界入りした橋蔵は初出演の「笛吹若武者」(1955年)の立ち回りのラッシュを見て「女の子が棒っ切れをもって喧嘩しているように見えた。」と思った。
殺陣師の足立伶二郎の特訓を受け、映画スタイルの立ち回りを習得した。
橋蔵が好む立ち回りは、嵐寛寿郎のそれだったという。

明るく、華があり、軽快な動きができる橋蔵はたちまち人気が出、錦之助とともに若手スターの一番手となった。

「新吾十番勝負」。橋蔵の代表作

一方、人気絶頂を誇った東映時代劇も60年代に入ると陰りを見せ始めた。
旧態依然とした両御大の時代劇ばかりではなく、錦之助、橋蔵の作品も観客動員に結びつかなくなった。
錦之助はライフワークともなった「宮本武蔵五部作」(1961年~ 内田吐夢監督)や「反逆児」(1961年 伊藤大輔監督)など巨匠による大作に活路を求めた。

一方、橋蔵は遅れること1年、内田吐夢監督の革新的意欲作「恋や恋なすな恋」(1962年)、大島渚監督の「天草四郎時貞」(1962年)に出演。
自らの殻を破ろうとしたが、前者はともかく後者では記録的不入りとなり、以降、映画では思うような作品を残せずテレビの「銭形平次」に活躍の場を移していった。

「恋や恋なすな恋」。歌舞伎やアニメまで取り入れた意欲作。相手役は嵯峨美智子

一説では、錦之助と違い巨匠らは橋蔵を使いたがらなかったという。
女形出身の出来上がったイメージが邪魔したのだろうか。
ラピュタ阿佐ヶ谷の「新春蔵出し東映時代劇まつり」特集でスクリーンに再現された60年代初頭の大川橋蔵を見てみよう。

「清水港に来た男」  1960年  マキノ雅弘監督  東映

自らの「次郎長三国志」(1954年~の東宝版)をなぞるように、清水の茶摘み風景に「チャッキリ節」を被せ、茶摘み娘らをミュージカル風に動かすマキノ演出。
早くもご機嫌な冒頭シーンだ。

リズム感のあるマキノ演出に乗っかって、橋蔵の演技も快調。
調子のいい、正体不明だが素性のよさそうな風来坊をご機嫌に演じる。
相手をするのは田中春夫。
例によって頼りなくも憎めない三下役だが、恋女房の青山京子がこの作品ではお歯黒姿の髪結いに扮して色っぽい。

軽快な橋蔵とおきゃんな丘さとみのコンビ

橋蔵が潜り込む先の次郎長一家の娘、丘ひろみは、おきゃんで庶民的なキャラクターを与えられ、生き生きとしている。
次郎長役の大河内傅次郎。
既に第一線からしりぞき脇での出番だが、その貫禄はただものではなく、凍りついた表情はベラ・ルゴシかボリス・カーロフか、怪奇映画でも十分やれそうなただならなさ。

ヤクサの三下に身をやつした橋蔵の正体は勤皇の志士。
戊辰戦争勃発時の次郎長が、佐幕派に付くかそれとも勤皇派かを探るために潜り込んだのだった。

やくざの出入りで死んだ子分の妻(小暮実千代)が、次郎長主宰の盛大な葬式の場面で、本心をぶちまけ夫の犬死を嘆くシーンがあった。
脚本の小国英雄は戦前からマキノ作品を書き続け、戦後には黒澤明の「生きる」(1952年 東宝)を書いたベテラン。
ここは反やくざ、反戦のメッセージを盛り込んだのかと思ったが、どっこい、後半で橋蔵に「京都では勤皇の志士たちが、嘆いたりせず喜んで死んでいった」といわせている。

全部が小国のオリジナルではないのかもしれないが、映画としては勤皇派に付き、大儀ある死を肯定しており、決して反戦、個人主義的立場に立ってはいない。
東映時代劇である以上、大衆迎合そして体制迎合はしょうがないのであろう。
ただ葬式の場面での反暴力的メッセージは、ドラマに厚みを持たせる肉付けとして意味はあった。

また、丘さとみが橋蔵に向ける淡い恋ごころも、身分の違いを越えて結ばせることなく終了。
ラストシーン、茶摘み風景をバックにチャッキリ節に乗って晴れて京へ戻ってゆく橋蔵に、丘さとみもついてゆくのか?と、甘い結末を期待したが、そこにはさとみの姿はなかった。
武士とやくざの娘ではの間には決して越えられない階層の差があったのだ。
その時、橋蔵の表情はあくまで晴れ晴れとしていた。

橋蔵の立ち回りは躍動的で、動きもよかった。

「赤い影法師」  1961年  小沢茂弘監督  東映

柴田錬三郎の原作を、東映時代劇の「天皇」の一人比佐芳武が脚色。
橋蔵の相手役には、ミス平凡から入社した新東映三人娘の一人大川恵子。
脇に大友柳太郎、近衛十四郎、大河内伝次郎、さらに若手の里見浩太朗、山城新伍。
ゲストに木暮実千代と準オールスターともいうべきキャスト。

監督には松竹から移籍し、監督昇進7年目の小沢茂弘を起用。
いわば、比佐芳武の脚本という「古い皮」に、橋蔵、小沢監督という「新しい酒」を入れて路線開拓を試みた作品。

その結果は惨敗だった。

三代将軍家光の首を付け狙う石田三成の忘れ形見の娘(木暮)と孫(橋蔵)が、「影」と呼ばれる忍者として策動する。
対するは徳川家のお庭番・柳生十兵衛(大友)と服部半蔵(近衛)。
しかして、影として生きる橋蔵の父親は服部半蔵であったというファンタジー。

ワイヤーアクションや暗さを生かした照明下での殺陣などリアルさを追求している。
主人公の橋蔵も、半蔵も戦いで傷つく。
キスシーンなどの濡れ場もいとわない演出。
60年代を迎え、新しい表現での時代劇を東映が模索していたことがわかる。

しかしながら、けれんみたっぷりの荒唐無稽な原作を生かすセンスは東映にはなかった。
また、柴田錬三郎原作の「眠狂四郎」の映画化では、大映に市川雷蔵というニヒルで色気のある役者がいたが、東映にはいなかった。
橋蔵ではアイドル的な甘さがありすぎた。

「影」である橋蔵の人間味を表現しようとして、木暮に対し「母者」と盛んに呼びかけ、弱みを表現するが、マザコン的甘えに見えてしまう。
また、山場になるとどこからともなくその場にいる、柳生十兵衛役の大友柳太郎には違和感を禁じえない。

全体に「リアル」でもなく「ファンタジー」に徹してもいない印象。
だいたい橋蔵と木暮のからみはベタついてイカン。

60年代に入り、橋蔵のライバル錦之助は、「宮本武蔵5部作」(1961年~ 内田吐夢監督)など巨匠作品に出演を始める。

焦った橋蔵は、何と松竹を飛び出した大島渚の招集を要求し、「天草四郎時貞」(1962年)に出演する。
「いつか大島先生に私の作品を撮っていただきたいと思っていました」と張り切った橋蔵だったが、橋蔵の顔も(共演の丘さとみの顔も)まともに映らない暗い画面が連続するこの作品は、とても会社上層部、映画館主、観客の期待に沿うものではなく興行的にも記録的な失敗となった。

この後、錦之助は今井正監督と組んで「武士道残酷物語」「仇討」などの問題作を連発。
負けじと橋蔵は「幕末残酷物語」(加藤泰監督)に出演。

二人の路線転換は、50年代に全盛を迎えた東映時代劇の完全な終焉をもたらしたが、かといって観客に支持されたわけではなかった。

「大喧嘩」  1964年  山下耕作監督  東映

「大喧嘩」は、おおでいりと読む。
監督の山下耕作は、61年に監督昇進した当時34歳の新鋭。
前年に「関の弥太っぺ」というヒット作を作っている。

脚本は3人。
村尾昭は62年に脚本家としてデヴュー、これが9本目の映画化脚本。
鈴木則文は31歳、翌年に監督デヴューを控える。
中島貞夫は30歳、この年に「くノ一忍法」でデヴューする。
この3人は、東映時代劇の凋落が始まってから一線にデヴューし、その後の東映を担う新鋭たちだった。

「大喧嘩」は、股旅ものに新境地を見出さんとする橋蔵に、東映の若き才能をぶつけての企画。

起用された山下、鈴木、中島らは、旧来の東映時代劇の作法にはとらわれず、まず配役を一新。
外部から丹波哲郎や金子信夫、加藤嘉、西村晃を招聘。
女優陣も十朱幸代、入江若葉を起用、いわゆる「東映城のお姫様」は使わなかった。

撮影は鈴木重平という人で、緑豊かな田圃の中で繰り広げられる殺陣を自然光によるロングショットの長回しで撮るなど、明らかにこれまでの東映時代劇の撮り方とは異なっていた。
編集だけは東映時代劇全盛時代からの職人宮本信太郎がニラミを利かせていた。

中山道が軽井沢から追分宿で北国街道に別れ、小諸宿へかかるあたりが舞台。
3年間の旅に出て、いっぱしの男となって帰ってきた橋蔵。
弱きを助け、理不尽は通さない、仁義に生きる任侠の徒だ。
だが帰ってきた故郷では、任侠より金と力が幅を利かし、再会を誓った恋人はかつての舎弟の妻となっていた。
そこへ現れた訳ありの浪人が、宿場で張り合う2大勢力の壊滅を狙って策動する・・・。

任侠の世界が(そんなものがあったとして)時代遅れとなり、金がすべての近代資本主義のようなものに駆逐されてゆく様を、黒澤明の「用心棒」(1961年)の骨組みを加味して描いている。

山下、鈴木、中島らが新しいからかインテリだからか、現代語で親分子分、身分の差なくデイスカッションのようにセリフがやり取りされる。
中には、敵対する親分(遠藤太津朗)から「仁義なんかじゃ飯は食えねえ。ヤクザの正義は力だ」(意訳)などというセリフも飛び出す。
同趣旨のセリフ「仁義なんか知らねえ。俺はただの殺し屋だ」が鶴田浩二から発せられた68年の山下作品「博奕打ち・総長賭博」(1968年)があった。
「総長賭博」は三島由紀夫も絶賛する任侠映画だったが、山下監督のヤクザに関する醒めた視点は、64年の本作から一貫していたことがわかる。

「大喧嘩」では、主人公が旧来の優等生的ヤクザであり、アンチヒロイズム的なセリフは、わき役が端端で発していたものの、映画全体が反ヤクザ的価値観を前面に押し出すものとはなっていない。
新しいヤクザのヒーロー像を求めたり、「リアル」に徹した悲惨なやくざの現実を追求してもいない。
それは橋蔵の役者としての限界であるとともに、当時の山下、鈴木、中島らにとってもまた、限界だった。

見ていて「優秀な堅気の作者が作った若い感覚の股旅映画」という感じが最後までした。
田圃を踏み荒らし延々と走るラストの殺陣のシーンは、当時はやりのフォトジェニックな撮り方であり、切迫感より、瑞々しさが感じられた。
また、ヤクザの物語に対する突き放したような客観性が感じられた。

映画という見世物は、「非日常性」がなければ木戸銭を払う動機にはなりずらい。
東映時代劇にあっては、主人公中心の派手な立ち回り、豪華な衣装、芸子総揚げのレヴュー、異形の姿で御用提灯に囲まれる悲壮、等々。
なにより役者たちの「素人」とは隔絶した「超人」性。

映画の「非日常性」が一敗地にまみれ、観客動員がつるべ落としとなっていた60年代中盤。
作り手として第一線に迎えられた山下、鈴木、中島にとって、「非日常性」への復帰は論外だし、かといって描くべきものも確立せず、とりあえずそれまでの「非日常性」への軽いアンチを提示することからの、この作品は出発点だったのだろう。

橋蔵にとって東映時代最晩年の1作となった。

ラピュタ阿佐ヶ谷「新春初蔵出し東映時代劇まつり」より  片岡千恵蔵の巻

東映時代劇の、いや前身の東横映画時代からの稼ぎ頭であり、御大と呼ばれたスターは片岡千恵蔵と市川右太衛門だった。

両者はともに歌舞伎界から戦前に映画界入りし「七聖剣」と呼ばれた。
千恵蔵は、マキノ・プロを経て千恵・プロを起こして独立したが、「私は剣戟が好きではなかった」と述べる剣戟スターだった。

戦前の片岡千恵蔵の出演作に「鴛鴦歌合戦」(1939年 マキノ雅弘監督)という愉快な作品がある。
志村喬やゲスト出演のデイック・ミネらとともに若き千恵蔵が歌うミュージカル仕立ての時代劇だった。

「鴛鴦歌合戦」

戦後になると、GHQから仇討ちなどをテーマとするチャンバラものの製作を禁止され、千恵蔵は当時所属していた大映での「多羅尾伴内」シリーズ、東横に客出しての「金田一耕助」シリーズなどの現代劇に活路を見出さざるを得なかった。

1948年、大映系の映画館主が集まった会で、大映社長の永田雅一が『多羅尾伴内ものはつなぎの映画。今後は芸術性の高い映画を製作してゆく。役者などは何度でも取り替えられる』と発言し、千恵蔵が激怒、大映との契約更改は行われなかった。
裏に東横映画のマキノ光男らの暗躍があった。

千恵蔵の現代劇「アマゾン無宿・世紀の大魔王』(1961年 小沢茂弘監督)

マキノらに誘われた千恵蔵は、東横映画の真のオーナーである東急の五島慶太との面談を要求し、その場で東横映画の重役に就任すること、また東横映画が独自の配給網を作ることを約束させた。
これはのちに、製作と配給を一つの会社に統合しての東映が発足するきっかけの一つともなった。
千恵蔵は、松田定次監督、脚本家の比佐芳武とともに東横映画に移籍し、のちの東映時代劇の興隆を担うこととなった。

1950年、GHQに気を使いながら、千恵蔵主演で「いれずみ判官」を製作した。
当時役者の小遣い稼ぎとして行われていた地方巡業での千恵蔵の当たり役「遠山の金さん」の映画化だった。
映画はヒットしシリーズ化され、千恵蔵の当たり役となった。

「いれずみ判官」第一作(1950年 渡辺邦夫監督)。右は花柳小菊

千恵蔵はまた、満映から帰還した内田吐夢監督の復帰第一作「血槍富士」(1966年)をはじめ、「大菩薩峠三部作」(1957年~59年)、「妖刀物語・花の吉原百人斬り」(1960年)などの内田作品に出演、監督ともども高い評価を得た。

このほか、1950年代の東映では、「いれずみ判官」シリーズなど、当代当たり役に出演を続け、「旗本退屈男」などの右太衛門とともにマネーメイキングスターとして会社を支え、絶大な威信を誇った。

「血槍富士」の奴姿

60年代に入ると千恵蔵、右太衛門両御大の出演作品の観客動員数に陰りが見え始めた。
折から日本映画全体の観客動員数も1959年を境に激減し始める。
東映は、両御大中心の時代劇から、集団抗争劇、任侠ものなどの新傾向の作品を模索せざるを得なくなり、千恵蔵も集団劇の一人として出演するなどする。

それでも東映そのものの凋落に歯止めがかからず、当時の京都撮影所長岡田茂から千恵蔵が専属契約の打ち切りを通告されたのは1965年のことだった。

千恵蔵はその後も重役として東映に残り、その後のヒット路線となる任侠映画や、異色作「日本暗殺秘録」(1969年 中島貞夫監督)、やくざ映画に政治的波形を持ち込んだ「日本の首領・完結編」(1978年 中島貞夫監督)などにもその姿を見せた。
一方の右太衛門は任侠映画への出演を拒否し、東映を去って活躍の場を舞台に移していった。

岡田茂(左)らと談笑する晩年の千恵蔵

千恵蔵の履歴を見てゆくと、戦前に自らの千恵蔵プロダクションの運営に関わったことからくる経営感覚と自らの役柄を固定しない柔軟性があることがわかる。
「鴛鴦歌合戦」の飄々とした青年ぶり、「血槍富士」での実直・素朴な中年下郎ぶり、「日本暗殺秘録」での狂信集団の老黒幕ぶりを見るにつけ、演技者としての素質・素材の良さに改めて感心する。

では、東映時代劇の最終場面であり、千恵蔵の定番時代劇の末期である60年代に入ってからの作品を、ラピュタ阿佐ヶ谷の「東映時代劇まつり」から3本見てみる。

ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーには、東映から35ミリ上映用プリントが届いていた

「半七捕物帖・三つの謎」 1960年  佐々木康監督  東映

「半七捕物帖」は岡本綺堂という、明治生まれの小説家による新聞小説が原作。
江戸時代に三河町の半七親分と呼ばれた岡っ引きの捕物を江戸情緒豊かにまとめて人気を博した。
この小説の成功により後年「銭形平次」「人形佐七」「若様侍」などの捕物帖小説が生まれた。

「半七捕物帖」の戦後唯一の映画化が本作。
おそらく東映が期待したほどヒットはしなかったのだろう、シリーズ化はされなかった。
テレビドラマとしては1966年からの長谷川一夫主演によるものが極めつけで、その後は、尾上菊五郎、里見浩太朗なども演じている。
原作が半七の華々しい活躍よりも江戸の市井の様相や人情を伝えることに力点が置かれていたことから、長谷川一夫のキャラクターにふさわしかったようだ。

映画界では、60年代に入ってから、千恵蔵の看板シリーズである「いれずみ判官」が62年に終了するなど、50年代までの絶対的人気に衰えが目立っていた。
千恵蔵主演のシリーズもの時代劇は製作されず、「十三人の刺客」(63年)など集団抗争劇に出演したり、「俺は地獄の手品師だ」(61年)など、刀を拳銃に持ち替えた現代劇に活躍の場を移していった。

演技者として晩年を迎えようとしていた千恵蔵だが、本作「半七捕物帖」では持ち味を発揮した。
年齢からか、江戸の腕利き岡っ引きとしては機動性に欠けるが、鋭い推理とあふれる人情味はますます健在で、原作「半七」が持っているであろう、江戸情緒を舞台にした岡っ引きの親分にふさわしかった。

共演は、番頭格の子分に東千代之介、半七の手先となる町の遊び人に鶴田浩二、愛人のために誤って異人を斬ることになる若侍に沢村訥升。
女優陣には千原しのぶ、花柳小菊のベテラン陣に、若手から東映三人娘のひとり桜町弘子。
ここでは全員妙におとなしく演じており、決して御大の演技の邪魔をしないのは、さすが東映時代劇で培ってきた俳優陣のチームワーク。
唯一、映画では新人と思われる沢村だけがガツガツとした動きを見せた。

監督は戦前の松竹大船で清水宏、小津安二郎の助監督に付いた佐々木康に、脚本:比佐芳武、編集:宮本信太郎の東映時代劇黄金コンビ。
だが、このコンビでも時代劇黄金時代のテンポがでない、いつものキレがない。
あるのは静かな調子で御大千恵蔵の人情味と人の好さが醸し出す江戸情緒。

プレスシート。左下が沢村訥升

映画は3話構成のオムニバス方式。
千恵蔵らはもちろん、鶴田、千原などは2話、3話とまたがって登場する。
オムニバス構成は、緊張感の持続と展開の早さを狙った新工夫ではあるが、なにせ映画全体を流れる基調は、御大の人情味あふれるゆったりとした江戸情緒。
工夫が斬新とはなっていない、それがいいのだが。

東映撮影所のそして時代劇のお約束として、奉行所役人(武士)と岡っ引き(町人の身分外に位置する、無宿もの、やくざ者)の、決して越えられない身分の違いをきっちりと描き分けている。
また映画全盛期ならではの贅沢が垣間見える。

例えば横浜異人用の遊郭のセットが、ワンカットだけなのに、顔見世の建物の作りと奥に潜む白く首を塗った女郎達の妖艶がしっかり作り込まれていていた。
監督が都度指示したというより、勝手知った撮影所のスタッフが脚本の意を得て準備したものなのだろう。

このように、女優の歩き方、口調、シナの作り方、着物の襟の着こなし、ひいては玄人筋の女性の描き方など、時代考証以前の当時の風俗の再現は、東映時代劇を見る楽しみの一つである。

若侍役の沢村訥升という若手は、歌舞伎出身なのか、走っても頭の位置が動かないうえに、腰が据わった太刀さばきを見せる。
何より、見得を切る時の目や唇のひん剥き方が、白塗りドーランと合わせてサイレント時代劇の剣戟スターのようで、逆に新鮮味があった。
時代劇新スターの素質は十分とみたが、出てきた時代が遅かったのか、その後の活躍を寡聞にして知らない。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

「勢揃い関八州」  1962年  佐々木康監督  東映

実年齢が還暦近い千恵蔵が國定忠治を演じるセミオールスターもの。

忠治の味方に、高田浩吉、北大路欣也、松方弘樹、若山富三郎、山城新伍。
敵方に月形龍之介、近衛十四郎。
女優陣は久保菜穂子、扇千景、北沢典子。

配役をみると男優陣は若手抜擢、女優は新東宝など他社からの移籍組が多く、顔ぶれが50年代の東映時代劇から様変わりしている。

オリジナルポスター

弱気を助け強きをくじく。
己の身分はわきまえ(やくざ者は士農工商の身分制度の外)、義理人情に厚く、金払いはよい。
それゆえに男は従い、女は慕う。
子分を従えれば常に冷静沈着、統率力十分。

千恵蔵が演じると、完全無欠過ぎる國定忠治もなぜか納得がゆく。

当時の東映の新鋭脚本家だった結束信二のシナリオには、新趣向として登場人物らの葛藤なども描かれる。
例えば、関八州の代官として忠治に立ちはだかる月形龍之介と、浪人として忠治を付け狙う平手深酒(近衛十四郎)の千葉道場以来の腐れ縁とその後の二人の分かれ道を述べてみたり。
忠治の子分格だったヤクザが代官から十手を預かり、目明しとなったがために分不相応に成り上がり、女(久保菜穂子)を巡って忠治と対立したり。
唐突に、森の石松を登場させてみたり。

殺陣の場面ももはや千恵蔵の威光に乗っかることもなく、北大路、松方の若手二人に大暴れさせ、また殺陣の舞台も、50年代に多かったであろう、屋敷内や街中でのみ行われるのではなく、森の中や水たまりのある谷底で、水を被ったり泥を浴びたりして行われる。
60年代に入って流行してきた「リアルな」殺陣の影響であろう。

ラピュタのロビーに掲示されたチラシ

テンポの良さ、スピード感は50年代の東映時代劇そのままに、スターらが続々といい場面で現れるなど、伝統を引き継いでいる。

また、佐々木監督の持ち味である、ロマンチシズムとミュージカル志向はいつもながらに心地よい。
久保菜穂子や扇千景らの愛する男たちへの情念。
ピンチの北大路が飛び込んで難を逃れた旅芸人一座のヒロイン北川典子との淡いロマンス。

佐々木監督手練のレヴューシーンは一座が舞台。
北川典子の踊りや千原しのぶの水芸などが華やかで艶やか。
やっぱり東映時代劇はこれがなくちゃ!

孤高の達人平手深酒を演じる近衛十四郎が殺陣は一番うまかった。
足の運び、剣さばきと見ごたえがあった。
一方、千恵蔵は上半身のみ映す殺陣シーンで、足の運びがすでに心もとなくなっていたのか?

森の石松役でコメデイリリーフ的に出てきた山城新伍。
すでに後年の役柄の原点を見出していたようだ。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

「勢揃い東海道」  1963年  松田定次監督   東映

さあいよいよ千恵蔵時代劇の、そして東映時代劇の最終章だ。
時は1963年、正月公開の文字通りオールスター映画。

千恵蔵はもちろん、両者並び立たずといわれた市川右太衛門が出ている。
御大そろい踏みとあらば、若手の人気スター中村錦之助と大川橋蔵も座視はできまい。
東千代之介、大友柳太朗の二人もはせ参じよう。

外様の高田浩吉、売り出しの里見浩太朗、北大路欣也、松方弘樹はもちろん動員だ。
女優、といっては失礼なほどのカンロクの美空ひばりにも一肌脱いでもらって、花を添えるのは演技派久保菜穂子と今が盛りの丘さとみに桜町弘子(東映三人娘のもう一人大川恵子は前年に結婚引退)。

オリジナルポスター

本作が東映時代劇の最末期にあったのは、東映時代劇のエース監督松田定次が、この年63年に4作、64年に2作、65年に1作と監督本数を減らしてゆき、69年の2作をもって映画からテレビに移る過程の作品で去ったこと。
また本作では準主演の大川橋蔵の東映オールスター最後の出演作であり、かつ名コンビ美空ひばりとの共演も最後であることにも表れている。
ちなみに、日本映画全体で1960年には168本作られた時代劇が1962年には77本になり、1967年にはわずか15本となってゆく頃に製作されたのが本作である。

脚本は戦前の新興キネマから戦時統合された大映を経て、戦後、大映で活躍していたという高岩肇。
50年代に入って、新興キネマ時代の盟友松田定次の引きで東映に移り、60年代に入ってからは各社で活躍した。
代表作に「血ざくら判官」(54年)、「二・二六事件脱出」(62年)、「忍びの者」(62年)、「夫が見た」(64年)、「春婦伝」(65年)、「若親分」(65年)、「眠狂四郎無頼控・魔性の肌」(67年)などなど。
各社にまたがる異色作を手掛け、特に市川雷蔵のヒットシリーズを生み出している点が、この脚本家がただものではないことを示している。

さて、本作「勢揃い東海道」。
ご存じ清水の次郎長の荒神山を巡る縄張り争いを主軸に、次郎長の親分ぶり、子分たちの義理人情、女房達との板挟み、堅気とやくざのけじめ、武士階級との間の厳然たる身分の差、義理を欠いたやくざの悪辣さ、を横軸に繰り広げられる。
そこへ幕末の志士山岡鉄舟が登場し次郎長を助ける。
人情味あふれる次郎長親分には千恵蔵に扮し、豪快な殺陣と貫禄で右太衛門が鉄舟で登場する。

映画の前半は橋蔵とひばりの夫婦のやり取りをじっくり見せる。
子が生まれたばかりの仲のいい夫婦、(映画ではセリフを全部覚えてから現場入りしたという)ひばりの母親ぶりが甲斐甲斐しい。
世話になった次郎長主催の花会(博奕大会)に夫婦子連れで清水にやってきて、そこで耳にした荒神山を巡る一件。
義理の親父の悪徳三昧に、掘れた女房に三行半を突き付けて、橋蔵、仁義を欠く義理の親父に殴り込みだ。

ひばりとの息の合った夫婦ぶり。
そのしっとりとした場面を尺を取って見せた後、義理を立ての殴り込み。
珍しや橋蔵が惨殺されるが、次郎長親分への義理立てと、惚れた女房への三行半、その親父へのやむに已まれぬ反逆、それぞれの葛藤が十分描かれているから橋蔵の悲壮感が生きる。
死してのみ通る仁義の世界も納得感がでる。
まだまだ(映画俳優として)いけたんじゃないの、橋蔵。

若手として、松方弘樹ともども売り出し中の北大路欣也。
二人のとっぽい若者ぶりが、コメデイリリーフ的にアクセントとなっている。
また、二人の、特に北大路の扱いには東映の期待感がにじみ出る。

両御大も頑張っている。
ラストの殴り込み。
千恵蔵の殺陣は鬼気迫る。
表情だけではなく足の運び、ドスさばき、全身で魅せる。

右太衛門は殺陣では脇に回り、貫禄で勝負。
荒神山の手前で悪徳役人らに行く手を阻まれた次郎長一家、指物次郎長も役人相手では「お慈悲」を乞うしかないピンチに颯爽と馬で駆け付ける鉄舟こと右太衛門。
登場ぶりがいい。

時代劇の終末観がどこか漂うこの映画。
どうしてもこの時期に勃興した「リアル」な時代劇の、あるいは任侠劇の影響がある。

いつもは隅々まで明るい照明も、橋蔵とひばりの場面など、本人たち以外は背景など暗めのライテイング。
橋蔵の惨殺シーンは、のちの任侠映画のテイストを漂わせる。

東映三人娘の丘さとみが、芸者姿で出てきたときだけはパッと画面に花が咲き、その時だけは懐かしい東映時代劇のテイストだったが。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

千恵蔵、渾身の殺陣が決まった後は、富士を見上げて全員が勢揃い、千恵蔵と右太衛門が握手してのラストシーン。この握手、来るべき御一新の世には次郎長と鉄舟が協力して新しい世の中を作ろう、ということなのだが、見ていて東映時代劇の終焉を前に両御大がお疲れの握手をしているかのように見えたのは筆者だけだったろうか。.

(おまけ)  佐々木康監督について

ここで、「半七捕物帖・三つの謎」「勢揃い関八州」の佐々木康監督について、1993年刊の自伝「悔いなしカチンコ人生」より経歴を抜粋してみる。

「悔いなきカチンコ人生」表紙

・1908年、秋田県生まれ。
・1917年、早稲田大学卒。
・1928年、松竹鎌田撮影所入所。清水宏監督に師事。「ズー」が一生の愛称となる。

・1929年、小津安二郎の助監督時代の編集作業が後年役に立つ。
・1931年、「受難の青春」でデヴュー。
・1937年、『音楽映画』が得意ジャンルとなり、音楽に俳優の動きを合わせるプレイバック手法に熟達。
・城戸四郎松竹撮影所長に「ジャーナリズムにもてはやされる『映画作家』に育てるためにお前を抜擢したのではない」と言われ、以降、娯楽作家への道を徹底する。
・1939年、音楽映画の大作「純情二重奏」を高峰三枝子らの出演で製作、大ヒットする。

佐々木康デヴュー作「受難の青春」

・1945年、戦後第一作「そよかぜ」と挿入歌「リンゴの唄」がヒットする。
・1946年、「はたちの青春」で日本映画初のキスシーンを演出。
・1952年、東映に移る。満映で世話になったマキノ光男に口説かれた。城戸所長も了承し松竹は円満退社。

戦後第一作「そよかぜ」

・東映移籍第一作は、片岡千恵蔵主演の「忠治旅日記・逢初道中」。
・以降、東映在籍の13年で86本の作品を撮る。市川右太衛門とは息が合い「旗本退屈男」シリーズなど20本を撮った。右太衛門は大仕掛けな演出を好み、撮り方に注文も付けた。佐々木はそれを受け入れ、気に入られた。なお千恵蔵は監督の演出に従う人だったという。
・美空ひばりとは1949年の「魔の口笛」以降19本の作品を監督した。
・1957年、シネマスコープ第二作「水戸黄門」で興行収入3億円の東映新記録を達成。オールスター映画は佐々木の得意ジャンル。スターらの気に入るように、またその個性を最大限生かすように演出した。

美空ひばりと佐々木

・同年、マキノ光男死去。マキノの死が東映時代劇の寿命を三年は縮めた、と佐々木。
・1964年東映を退社し東映京都プロダクションに転籍。テレビ時代劇を監督する。近衛十四郎の「素浪人月影兵庫」、大川橋蔵の「銭形平次」などを撮る。生涯で映画168本、テレビ約500本を演出した。

東映時代劇全盛期、「曽我兄弟・富士の夜襲』(1956年)撮影風景



佐々木の演出家としてのモットーは、スターに気持ちよく演技させる環境づくりにあった。
思い通りに演技してそれが銀幕に映え、また大向こうに受ける華と技量を持ったスターが東映にはいた。
映画史からはほとんど無視されているが、50年代の東映時代劇は日本映画史における黄金時代だったのではないか。時代を反映した明るさがそこにはあった。
娯楽映画に徹した東映時代劇の現場の功労者が、監督の松田定次と佐々木康だった。
惜しむらくは興隆に甘んじ、また多忙を極めた多産体制の中で、定番を繰り返したことが60年代の衰退につながったか。

とはいえ黄金時代の文化的蓄積があったからこそ、60年代初頭の「リアル」を目指した時代劇のあだ花が咲いたのであり、その後の任侠映画の勃興があったのだろう。
佐々木康監督は、東映時代劇の興隆の真っただ中にあっての生き証人だった。

「悔いなしカチンコ人生」目次とカラー口絵


冬の山陰・北陸夜行列車の旅⑨ 富山地方鉄道と立山連峰

さて山陰・北陸の旅も5日目をむかえたこの日は福井から富山に移動しました。

ハピーライン福井鉄道で金沢まで

まず、福井から金沢行列車にICカードで乗車。
車窓は雪景色です。

続いて金沢駅で富山行きの列車にそのまま移りました。
車内はインバウンドで満席。
ボックス席の日本人男性の斜め向かいが空いていました。
男性はすぐ下車、すると向かいに日本人の若い女性が二人座りました。

昔はボックス席で相席となるのは当たり前でした。
山小舎おじさんが中高生の時、札幌から函館行きの急行ニセコに一人で乗っていたら、途中から3人組の女性が乗り込んできて相席となりました。
彼女らは当たり前のように普通の音量で普通の内容の会話をお互い交わしておりました。
聞くともなしに、彼女らが同郷の21歳の友達同士だということがわかりました。

いつからか、日本では車内の相席を避けるようになりました。
現在では長野県内の高校生など決してボックス席のおじさんなどには寄り付きません。

金沢で富山行きに乗り換え

満席以上の乗客を乗せ富山に着きました。
ここで問題が発生しました。
福井から金沢までは、ハピライン福井鉄道、金沢からは、あいの風とやま鉄道の運行となっており、福井乗車富山下車の場合ICカードでは精算できないというのです。
富山駅の改札口でICカードデータの消去をしてもらい、あいの風とやま鉄道分の運賃をその場で現金で支払い、ハピライン福井の運賃は福井に電話して現金書留で680円を支払はなければならなくなりました。
しかも現金書留量、切手代の510円ほどはハピライン持ちなので、実際の送金額は100円に満たなかったのです・・・。

富山駅に到着

旅の終盤でのトラブルに疲れて富山駅構内をさ迷うと、駅構内ではテーブルが並べられ、即席のステージが設置され、あまつさえ巨大なアンコウが吊るされている光景が目に入りました。
日曜日の催しとして、近県の名産を集めたフェアが行われるようで、駅前には早くも人が並んでいます。
アンコウ鍋が湯気を立て始めています。
地元の人々による活気です。

駅構内では催し物が
吊るされたアンコウ

一方、富山駅の構内、駅ビルは、福井駅の数倍の規模で混雑しています。
こちらは観光客による賑わいです。
駅ビルの回転ずしに並ぶ人の数と殺気立った雰囲気は、福井駅の比ではありません。

駅ビルの売店にて。富山といえば鯛のかまぼこ
ケロリンも富山発祥だった

旅行中ここまで我慢した寿司を食べるため、駅前の回転寿司に並びました。
半分ほどがインバウンド客で、カウンター内の職人が「ニーハオ」などと愛想を振りまくような店です。
テレビの番組で回転寿司の全国ナンバーワンになったとありました。
せっかくなので、ノドグロ、ズワイガニ、シロウオなどをつまみました。

テレビで有名な駅前井の回転寿司
ノドグロ
ズワイガニとイカ

路面電車に乗って市の中心部を一回りしました。
合図がないと停留所は通過する、いわゆる路面電車です。
途中、お城で降りて天守閣を上りました。
資料館には富山の薬売りの歴史などが展示されていました。
行商で財を成した富山の先人たちはそれを銀行などに投資し、地元に還元したとありました。

路面電車
富山城

立山を見たかったので、JR富山駅近くの富山地方鉄道(電鉄)駅へ行ってみました。
切符売り場の女性がとても親切な人で、「立山を見るなら電鉄線の立山駅がいいが、倒木のため一部不通。途中の岩くら寺という駅までは行っている」と案内してくれました。

富山地方鉄道、富山駅

富山は「鉄軌道王国」とも呼ばれているそうで、なるほどJR北陸線を継ぐ第三セクター線のほか、富山地方鉄道が3本の路線をつなぎ、市内には路面電車も走っています。
富山地方鉄道の不二越・上滝線に乗れば立山の麓に近い場所まで行けるのです。

岩くら駅行き

途中までは郊外の住宅地を走り、雪景色の中を立山方面に南下する電車に乗ります。
天候はどんよりしており、写真などで見る鮮やかな立山連峰の秀峰はなかなかその姿を現しません。
途中、遠方に雪山が見えましたが、立山なのかどうか?
そのうち終着駅に着きました。

立山連峰?

終着の岩くら駅にはびっくりしました。
昭和初期の時代設定にも使えそうな年季が入った駅舎です。
駅の案内板、切符売り場などは設置されてから幾年たっているのでしょう?
この先は乗り換えが必要なターミナル駅というのもいいです。
周りの風景、雰囲気ともマッチしています。

岩くら駅駅ホーム
ホームの案内板
駅のホーム
改札口
駅舎外観

あいにく立山の姿は拝めませんでした。
ただこの駅の先も線路が続き、立山連峰をトンネルで越えて黒部ダムを越えると長野まで続いていのるだと思うと、別の季節に再訪してみたい思いを止めることはできませんでした。

ポスターに見る立山連峰。こういう景色を見たかった!

JR富山駅に戻り、新幹線の切符を買って長い旅を終えました。

北陸新幹線の開通は北陸地方にとって時代の契機となっていました。
駅周辺は中央資本のホテル群が林立し、駅ビル内には全国チェーンの飲食店などが軒を連ねています。
ただ、その賑わいを一歩越えるといつもながらの落ち着き、ひなびた地方都市そのままの姿を、敦賀も福井も富山も見せています。

新幹線が伸長していない、鳥取、島根は駅そのものは便利になっていますが、駅前はまだ中央資本の毒牙にかかっていませんでした。
インバウンド客が集まる場所とそうでない場所もはっきりしていました。

次回の旅は軽トラでの気まま旅でもいいし、山陰を出雲から先へ向かう旅でもいいし、富山から立山を越える旅でもいい・・・。
また元気で行きましょう。

最後の旅飯(立山そばと鱒寿司)

冬の山陰・北陸夜行列車の旅⑧ 福井鉄道と居酒屋での交流

敦賀から福井に来ました。

JR北陸線のこの区間はいつの間にか、ハピラインふくいという第三セクター?になっていました。
車内はこれまでの山陰線や小浜線と違ってアジア系のインバウンド客が乗っています。
北陸新幹線運行の区間に入りいよいよ観光地本番の感がします。

福井駅前

ICカードで降りた福井駅の駅ビル構内にまずびっくり。
駅本体とつながったビル内には、回転ずし、ソースカツ丼、海鮮丼などの飲食店が贅を凝らして並んでいます。
カウンター方式の回転寿司店の脇のウインドーには、鮮魚や寿司折などの水産物がキラキラ光って売られています。

首都圏や有名観光地ならば人が押し掛けて殺気立つのですが、まだまだ規模が小さく、人出が少なく落ち着いた雰囲気なのが安心します。
福井の名産品も売られています。
日本酒や銘菓羽二重餅が目立つのも、福井らしくひなびています。

駅ビルの海鮮店。気合が入っている
駅ビルの回転ずし。入店待ちが少々
色とりどりの海鮮折

一方、化石産出で有名な福井県は恐竜で町おこしもしており、エキナカ、駅前は自動で動く恐竜の模型があちこちにあります。

駅前の恐竜

さて福井でどうしましょう?
駅の観光案内所を訪ねることにしました。

案内所で、「路面電車に乗ってみたい」というと、係の高年に差し掛かった美人の奥さんが「1日券を買って、武生まで行ったらどうでしょう。電車は一部は路面を走っていますが(正確にいうと路面電車ではありません)」と返答してくれました。

なるほど市内を出ると軌道を走る電車なのだな、路面電車が乗降客がない駅では停車しないのに対し、JR線のように全駅で停車するようだし、と思いつつ、吹雪の駅前を郊外電車乗り場まで行って、無人の販売機から1日券を買い、電車を待ちました。

福井鉄道の駅前停留所

駅前から小一時間走って隣の越前市にある武生駅に着きました。
古い町が残り、いわさきちひろの生家が残っているところですが、現在ではJRと福井鉄道の駅前にショッピングセンターが一つあるような地方都市です。
何せ舗道も大雪で歩行が困難なので、1時間ほど市内をぶらついて折り返しの電車で福井へ戻りました。

福井鉄道車内

ここで今夜の宿探し。
ネット経由はあきらめているので、とはいえ安めのビジネスホテル情報をネットで探し電話してみました。
駅からは福井電車で数駅先、料金3000円の宿が見つかりました。
風呂、トイレは共同です。
電話してなかなかつながらず、車で来るなら駐車場が2,3台しかないからダメ、チェックインはわかるように鍵を置いとく、という、電話口のおかみさんの応対も気に入りました。
後は夕食の場所探しです。

この日の泊りは市内のビジネスホテル。風呂が自慢
個室内。不自由なく寝られました

福井電車を降り、福井駅前の観光案内所へ性懲りもなく出かけました。
先ほどのご婦人とは異なる、特別に親切な方が、此方のリクエストに応えてくれました。
飲み屋は駅近くの片町という場所にあること、中でも庄屋という居酒屋がおすすめだと。
「えつ全国チェーンの庄屋?」とがっかりした山小屋おじさんに、そうではなく地元の店との案内。
ご婦人は、こちらが持っていた飲み終わったコーヒー缶を「捨てましょう」と控室のゴミ箱へ捨ててもくれました。
福井に対する印象が爆上がりしました。

無人?のホテルでメモと一緒に置いてあったカギを受け取り、投宿。
出直した片町のアーケード街は歩く人もいません。
目指す庄屋を見つけ戸を開けました。
6割ほどの入り、活気はあります。
安心してカウンターに着席、すぐ隣は独酌の中年男性でした。
この後約二時間ほど、隣の中年と話が弾んだのでした。

今年60歳で現役の勤め人だという中年さん。
兵庫県出身、関西弁のイントネーションで話をそらしません。
若いころの北海道ユースホステル旅の話から、地元の兵庫県の沿線情報、隠岐の島をはじめ出張で歩いた全国各地の話まで。
こちらの島根からここまでの旅のルートを聞き「西村京太郎のトラベルミステリーのようだ」と何度も繰り返します。
この居酒屋がお気に入りで、福井の近くに泊まる際はここに寄るとのこと。
こちらから「敦賀のてんてんはよかった」というと興味深そうにしていました。

関西人らしくそつなくこちらを立て、当たり障りない話に終始しようとする姿勢がもどかしかったのですが、思わずこちらが漏らす大坂維新の悪口なども「日本はどこやらの国と違って、何喋っても自由ですから」と笑っていました。
その店で頼んだ刺身盛り合わせとフキノトウ天ぷらが冷めるまでしゃべり倒し、中年さんが帰ってから熱燗とおでんで締めました。
ホールには日本人のご婦人が二人ほどおり、マメに動きつつ客対応もそつなくこなしておりました。
中年さんが帰った後で「あのお客さんは常連さんで、父親を連れてきたこともある」と話してくれました。

ええだけ飲んで、夜でもここだけは不夜城のような福井駅周辺をかすめ、福井鉄道で宿へ戻り、自慢の風呂に入って暖まりました。
明日は6時の始発で福井駅に向かうことにして就寝です。

居酒屋からの帰り、福井駅周辺の明るさ

次回、最終回・観光名所に変貌した富山の様子をお楽しみに。

たづくりでCINE WORKS展、新東宝・近代映画協会展を見る

2026年の調布シネマフェステイバルの開催に合わせて、市民会館たづくりで「CINE WORKS展」が開催されています。
前日投稿した「出張!映画資料室 日活撮影所70周年」と同時期での開催となり、山小舎おじさんは二つの会場をハシゴしてきました。

CINE WORKS展ポスター

会場に入って驚かされるのが怪獣が街のミニチュアを壊して暴れ回る様子のセットです。映画撮影所自体は閑散としていても、こういった特殊技術的というかニッチなマニアックさというか、は発展しているのですね。

「ゴジラ」第一作についての展示
平成ガメラシリーズについて
怪獣のセット
怪獣のセットを別方向から

CINE WORKS展の方は撮影自由なのですが、隣の部屋の近代映画協会と新東宝の歴史資料展の方は撮影禁止でした。

新藤兼人が吉村公三郎らと興した近代映画協会は長く続いた独立プロです。
初期の代表作「原爆の子」や乙羽信子が主演した一連の作品で有名です。
代表作の脚本や、モスクワ映画祭で賞を取り世界に売れた「裸の島」のポーランドでのポスターなどが展示されていました。

そしてなんといっても目を引いたのが新東宝の歴史に関する展示の数々です。
東宝争議から新東宝の発足、初期の他社巨匠による「おかあさん」「西鶴一代女」などの名作群、女流監督としてデヴューした田中絹代の「恋文」、活弁士として財を成した大蔵貢の社長就任と低予算エログロ路路線のいわゆる「新東宝カラー」の徹底、会社倒産と国際放映への引継ぎまでが、パネルに手際よくまとめられています。

間を飾るのは、今なお煽情的でキッチュな毒を放射する「新東宝カラー」あふれる作品群のポスター。
中川信夫、石井輝男ら新東宝で光り輝いた監督群についてや、宇津井健、前田通子、久保菜穂子ら新東宝でデヴューしその個性を後日まで発揮し続けたスター達についてのパネルもあります。

単に制作者、監督、スターらの経歴をパネルにまとめて、その間にオリジナルポスターを並べるだけではなく、新東宝史の要諦をつかんでいるかのような解説が目を引きました。
曰く「製作費が通常1500万のところ、新東宝では1000万円だった。そのため外部から巨匠やスターを呼ぶことはできず、自前の新人監督と新人俳優を養成し、使わざるを得なかった。」
「初期に外部招聘された、伊藤大輔、清水宏、渡辺邦夫、斎藤寅次郎、マキノ雅弘、並木鏡太郎、中川信夫ら巨匠や職人派に付いた新東宝採用の助監督の、井上梅次、渡辺祐介、土居通芳、小森白、三輪彰、山際永三らは、のちに社内や他社で監督昇進しそれぞれの個性を発揮した。」
「新東宝スターレットなどとして採用した俳優たちは、宇津井、久保、前田のほかも菅原文太、天地茂、高島忠夫、左幸子、三ツ矢歌子、池内淳子、三原葉子、原知佐子らがおり、会社倒産後も他社で活躍するなどした。」などなど。

掲示されているポスターのチョイスも抜群で、新東宝作品史においては欠かせない「明治天皇と日露大戦争」「東海道四谷怪談」のほかにも、「女競輪王」「地獄」「スーパージャイアンツ」「戦場のなでしこ」「大虐殺」「黒線地帯」「女王蜂もの」「地平線がぎらぎらっ」など、ニッチな作品のものが保存状態もよく掲示され、興味を引いていました。

新東宝の歴史と日本映画史におけるその役割を簡潔にまとめた展示内容に、改めて目を見開かされる思いでした。
かつて場末の映画館に潜り込み、色っぽい映画でもこっそり見るような、刺激的でワクワクする映画体験を思い出すような場でもありました。

出張!映画資料室「日活撮影所70周年」

調布市文化会館たづくりのホールで、「日活調布撮影所70周年&VFXの作品たち」という展示会がありました。
場所はたづくりの2階にあるギャラリーです。
入場無料でした。

展示会ポスター

映画撮影所を市内に2か所持つ調布市が、年に一度の調布シネマフェステイバルの開催に合わせて、日ごろ収集している映画資料を展示公開するという催しで、「出張!映画資料室」と銘打つものです。

ギャラリー入口

今年のテーマは、日活撮影所が70周年を迎えたこ(正式名称が日活調布撮影所に変更されている)、また市内にあるスタジオがVFVを手掛けた「ゴジラ-1.0」が米国アカデミー視覚効果賞を受賞したこと、の2点を記念しての関連資料の展示となりました。

まず、日活撮影所に関する展示。
ほとんどが撮影不可の資料ですが、撮影所の年譜をはじめ、第一回作品「國定忠治」のスチル写真、川島雄三監督作品「あした来る人」の脚本、「大巨獣ガッパ」のポスターなどが展示されています。

全盛時の撮影所全景(展示会で撮影が許された唯一の資料)

スタッフの手になるセットの設計図や、実際に使用された脚本、公開当時のポスターなど、当時の空気を今に伝える貴重な資料には、歴史を感じさせる「重み」があります。
また、さりげなくつづられた日活撮影所の年譜の中に、「配給事業からの撤退」「日活芸術学院の閉校」などの記述を見ると、国内映画産業の果てしない衰退(なのか分業化なのかはわかりませんが)を感じてしまいます。
現在、開所当時からは何分の一の広さになった、日活撮影所は自社制作もなく、貸しスタジオとして機能しているようです。

ギャラリーの片隅で誰が見るでもなく、当時の映画館で上映された「日活ニュース」の映像がエンドレスで流れていました。
日活撮影所建設が始まる様子と製作開始5周年パーテイーの様子です。

調布市布田の多摩川近くの広々とした田圃の真ん中に、撮影所が建設開始される地鎮祭の様子が映し出されています。
さらに貴重なのが5周年記念パーテイー。
田んぼの中をバスを連ねて招待客が続々と撮影所に入ってくる様子。
紅白幕を張った演壇で当時の堀久作社長が挨拶し、全国各地の映画館主代表の挨拶が続く様子。
若々しい小林旭と石原裕次郎が余興で歌う様子(旭の高い声。裕次郎は悪びれもせずカンペを見ながら)。
筑波久子が艶然と現れたり、北原三枝が寿司をほおばっていたり、芦川よしみはさすがにそつなく招待客と歓談していたり。
所内に溢れる人の波、何人もの寿司職人が屋台でひっきりなしに握る様子。
当時の映画撮影所の、もしかしたら日本全体の活気が映像からほとばしり出ていました。

プログラム表紙
プログラム内容(一部)

続きのギャラリーはVFXコーナーということで、「2001年宇宙の旅」から「ゴジラ-1.0」までのポスターが展示されていました。

なお、ギャラリー内には「持ち帰り自由」とのチラシやパンフレットが置かれていました。
みてみると70年代から80年代の珍しい作品のものが多数あり、見境もなく10冊以上のパンフレットをもらってきました。
重かったです。

無料でもらえた映画パンフ(その一部)

彩ステーションのサポーター誕生会

山小舎おばさん主宰の、(調布)柴崎彩ステーションは、みんなの居場所と銘打つだけあって国籍も含め多彩な人が関わっています。
毎週のランチの日に10人以上の昼ご飯を作る人や、体操教室の先生、自慢のギターでリードしてくれる歌おう会の主宰者、世界を舞台に曲芸で渡ってきたご夫婦の投げ銭発表会、子ども食堂を彩ステーションを舞台に毎月行うグループなどなど・・・。
プロによる投げ銭方式の催し以外はボランテイアによるサポートです。

ステーションに関わる人々の中には、外国からやってきた方々もいます。
イラン人で日本人の夫と暮らす女性、パラグアイから来て喫茶店などに手製のケーキを卸している女性、今年72歳になるスリランカ人の男性、決して日本語を話そうとしないジャマイカ人夫婦・・・。
その中の一人がグアテマラから来日して20年弱、日本人の夫の間に今年大学入学を控える一人娘がいるマリアさんという女性です。

マリアさんは、彩で開かれるバザーにグアテマラ料理を提供したり、娘さんともども気が向いた時に行事を手伝ってくれるサポーターでもあります。
ある日、マリアさんが自分の誕生会を彩で開くというので参加してきました。

出席したのは、マリアさんの家族、友人の日本人らのほかに、日本在住のグアテマラ出身者が2名、パラグアイやメキシコの出身者、スリランカのおじさんもいました。
うれしそうなテンションのマリアさんが自ら会を廻し始めます。
何せ明るいメンタルのマリアさん「センセイ、センセイ」と山小舎おばさん、おじさんのことを呼びます。
若干おちょくられている感もあるのですが、彼女が日本で身に着けた処世術の一環でもあるのでしょう。
時間や約束にルーズな面はありますが、本人がそれを気にしないのがグアテマラ流のようです。

山小舎おじさんとして特にうれしかったのは、グアテマラ出身で日本人と結婚し二人の子供もいる40代の男性から、南米の歴史などについて詳しい話が聞けたこと。
日本語でそういった話ができる外国人は貴重ですし、何より世間話以上の会話が久々にできたことが、大げさに言えば久々に「社会参加」できたような充実感をもたらせてくれました。

「スペインに南米がやすやすと侵略されたのは、マヤ文明とアステカ文明の境目で、南米自体が混乱していたせいもあった。」との見解には眼が開かれる思いでした。
南米本来のマヤ文化と歴史・文化に詳しい彼の話からは、自国と中南米についてのプライドの深さを感じることができました。
「南米の人は陽気だが、中米はそうでもない。マリアさんが特別陽気」とのこと。
彩でのパーテイでは、パラグアイ出身のナンシーさんなどは興が乗ってくると立って踊り出すのですが、そういえばマリアさんが踊るのは見ないような気がします。

パラグアイのナンシーさんお手製のバースデイケーキが切り分けられる

スリランカ人のおじさんも含めまだまだ話し合ってみたいと思った、誕生会でした。

集合写真なども撮ったのですが、顔モザイクの入れ方がわからず今回は掲載を断念しました。

冬の山陰・北陸夜行列車の旅⑦ 敦賀の居酒屋と町の歴史

敦賀で予約もなく駅前のビジネスホテルへ投宿。
さて今晩の夕飯は?

太田和彦の居酒屋紀行の敦賀編を調べると、街中に「てんてん」という店があることがわかりました。
観光案内所でもらったマップを頼りに向かうことにします。

中心部の平和堂というスーパーで値引きの弁当やドリンクを買い、袋をぶら下げてアーケード街を気比神社方面へ。
吹雪が遠慮なく吹き込む舗道は、平和堂周辺を過ぎるとほとんど人通りはありません。

商店街ではあるのですが、開けている店などほとんどない中、「てんてん」がありました。
玄関を引くと「予約ですか?」と大将の元気な声。
何とかカウンターに座らせてもらえました。
人気と活気があふれる店内は、ほぼ満席の人気店でした。

ネット情報の通り、カウンターにはずらりと手作り風のお惣菜が並んでいます。
カウンター内には元気のいい大将と、客あしらいが上手そうな若い女性が一人二人。
ときどきママさんらしき姿もあったりします。

両隣りはいかにも観光客らしき姿があり、「敦賀に来たからには!」の勢いで新鮮な刺身を並べて地酒を飲んでいます。
地元客より、予約の観光客の方が多い感じです。

イカなどの刺身や、魚のあらを煮たお惣菜が美味しく、食べ物飲み物には十分満足したのですが、なにより人をそらさず擦れていない大将やお姉さんの接客ぶりがうれしくて、たっぷりと地元の人と交流ができたような気持で店を出ることができました。
店を出ると大将が店の名刺を持ってきて送りだしてくれました。

居酒屋てんてんの店構え

10年以上前のこと。
長野県の信濃大町の居酒屋で飲んだ時、折から座敷の大人数の客対応で忙しかった主夫婦が、一段落してから「すいませんお相手できなくて」と一人でカウンターに座るこちらにやってきて、地元の話や黒四ダムをフィーチャーした破砕帯サワーなどをネタに話し相手になってくれたことを思い出します。
地方の客商売は人情に溢れた店が多いのです。

翌朝は敦賀の町巡りです。
まずはバスの乗って気比神社へ。
越前国一之宮にして北陸道総鎮守でもある古い神社で、歴史は2千年以上の古社です。
敦賀に一泊したからには挨拶せざるを得ません。
道中の舗道は雪に一人分の足跡がついているだけ、バス通りとの境には雪がうずたかく積もっています。

敦賀の冬の道路には融雪のため水がまかれる
雪深き気比神社の鳥居

参道から本殿へ向かいお参りしました。
格調高くたたずむ気比神社にはボタン雪がひっきりなしに降り続いていました。

鳥居をくぐって参道を行く
本殿にお参り

次にマップを頼りに漁港を目指します。
歩いていると、漁港近くの歴史がありそうな地区に、ガッチリした古い建物が目に入りました。
敦賀市立博物館でした。
期待をせずに入ってみると建物の内部は映画に出てくるような洋風の本格建築でした。

市立博物館(旧大和田銀行)
あっと驚く本格西洋建築の内部

明治時代に開業した大和田銀行という地元資本の銀行の本店だったという建物です。
展示されている遺物や資料もホンモノで珍しいものばかりです。

敦賀の発展は、明治以前の北前船の交易で港が栄えた時代に始まり、明治以降は国際港となった敦賀港からウラジオストクに定期航路が運行されました。
鉄道が新橋から敦賀まで接続されていたため、旅行者は東京から敦賀経由、シベリア鉄道でヨーロッパまでつながった旅ができるようになったのです。
当時、先進国とつながる最先端の交通路が敦賀を通っていたのです。

こうして戦前までは、最先端のハイカラな街だった敦賀ですが、航空路の発展、道路による物流にトレンドが移行した戦後は衰退し始め、現在では漁業と原発の町となっているのは時代の流れとしかいいようがありません。

ウラジオ航路を示す地図
ロシアとの交流をしめすサモワール

博物館を出るとさらに吹雪が強まっています。
港近くの街並みを吹雪とともにさ迷います。

港近くの街角
漁港風景

漁港近くの魚市場は閉まっていました。
付近に点在している場外の小売店も開いていたり、いなかったり。
人気はなく雪が吹き付けるばかりです。

そのうちの一軒で尋ねると「今日はシケで漁がなく、セリはなかった」とのこと。
開いている鮮魚店の店先には、冷凍のエビやお馴染みのズワイガニなどが所在投げに並んでいるばかりでした。

開店休業の場外小売店

駅に戻って福井行きの列車に乗り込みました。

福井行列車。ハピーライン福井という第三セクターが運行

北陸新幹線が乗り込んだ福井駅の発展ぶりと、郊外電車福井鉄道の旅は次回で!

昼食は敦賀駅で買った弁当で。カズノではなくツノガと呼ぶ
1000円にしてはまずまずリッチな内容

冬の山陰・北陸夜行列車の旅⑥ 舞鶴引揚記念館

天橋立を見て、東舞鶴駅に着いた山小舎おじさん。
まだ13時30分、さてどうしましょう。

駅を見渡すと、引揚記念館紹介の簡単なデイスプレーが展示されています。
記念館方面のバス乗り場方面を示す矢印もあります。
「そうだ、舞鶴は戦後大陸からの引揚者が日本に上陸した港だったんだ」「岸壁の母の舞台だったんだ」。
引揚記念館というのがあるのだったら、めったにないチャンス、寄ってみよう。

敦賀駅構内の引揚記念館展示物

駅前のバス乗り場で、時刻表を見てみますが、記念館方面のバスの便は1時間に1本もありません。
目の前には人気のないアーケード街が続くばかりです。
「よし、今日は夕方までに敦賀に着けばいい。ええい、タクシーを使ってでも引揚記念館へ行こう」。

駅から続く敦賀中心街

駅から乗ったタクシーは、同年配の運転手さん。
道々案内をしてくれながら引揚記念館へ連れて行ってくれます。
人気のないアーケード街は舞鶴の中心街とのこと、通りには海軍の戦艦(日清戦争時代からの)がつけられていること、明治時代に海軍の鎮守府ができて以来、海軍工廠などもでき海軍の町だったこと、今の自衛隊はあまり町へ出て飲んだりしないこと、戦後の引揚時代にはそのまま舞鶴に定住した人も多かったこと、現在では引揚体験者はほとんど存命していないこと、などなど、地元ならではの生きた情報もありました。

記念館に程近い場所に、復元された引揚船の桟橋があるからとのことで寄り道。
これが大陸から引き揚げた人々が第一歩をしるした場所なのか。
思ったより小規模で貧相な桟橋がそこにありました。
湾内は水深が浅く、大型船は接岸できないため、はしけに乗り換えてここに上陸したとのことでした。

復原された引揚桟橋
桟橋から湾内を望む

記念館までは思ったより遠く、桟橋経由だったこともあり運賃は4000円かかりました。
これはしっかり見学しなくてはいけません。

数名のグループ客が出てゆき、ほとんど見学者のいなくなった記念館をたっぷり時間をかけてみてゆきます。
舞鶴の軍港としての歴史、戦争へ至る経緯の展示から始まり、シベリア抑留の歴史などがラーゲリ小屋の実物大模型などで展示されています。
舞鶴への引揚は、シベリア方面、中国大陸方面からが圧倒的に多かったことがわかります。
引揚が長引いたのもシベリア抑留が長引いたからでした。

館内の展示
館内の展示

山小舎おじさんが最も関心があったのが、民間人の引揚の実態と、地元舞鶴の対応でした。
残っている資料も少ない中、引揚者を迎えるニュース映画や、当時の舞鶴市長の呼び掛け文、引揚証明書、引揚者の一時収容施設の模型などが関心を引きました。

館内の展示
館内の展示

引揚と言えば舞鶴というのが今の印象ですが、その理由はシベリアらの引揚が長引いて昭和33年まで続いたこと、舞鶴市をあげてのホスピタリテイーあふれる応対ぶりにあったようです。

館内の展示

広島の原爆資料館のような、あるいは靖国神社の遊就館のような劇的な展示ではありませんが、戦争を記録し、その当時の日本人のふるまいを記録する意味ではまさに「ユネスコ世界遺産」にふさわしいい場所だと思いました。
駅から遠いのが玉にきずで、帰りは17時までバスがなく、タクシーを呼ぶことになりました。
帰りの運賃はなぜか2600円ほどでした。

館内の展示

東舞鶴駅に戻って敦賀まで小浜線に乗ります。
ICカードは使えないのでキップを買います。
乗車中に敦賀のホテルでも予約しましょう。

ということで車中でスマホをいじりますが、予約確定までなかなかたどりつけません。
ホテル代がかつての一泊4~5000円の時代から、6~8000円の時代になっていることもあり、選択に手間取ったのが一つ。
そして現在のネット予約が料金前払いになっているのはしょうがないとして、カード情報の入力の際、本人確認として暗証番号の入力画面が現れたことが2回あったのです。
これはさすがにおかしいと山小舎おじさんも気が付き、予約作業をストップしましたが、先方指定の暗証番号の返信画面がフリーズしたり、とにかく1時間かけても予約が1件もできません。

小浜線の車窓。雪の積もっていない場所もあった

車窓は若狭湾の三方五胡、小浜と過ぎてゆきますが景色を見る暇もありません。
とうとうネットでの予約をあきらめ、敦賀駅に着いてから宿泊場所を探すことにしました。
幸い敦賀駅の観光案内所は18時まで空いているようでした(この情報はネットで確認できました!)。

敦賀駅
バスはチェーンを巻いていた

薄暮の中、北陸新幹線駅となった敦賀駅に到着。
さっそく観光案内所へ。
2人ほど案内のお姉さんがネット情報通りに勤務しています。
市内のホテル一覧の紙をもらいました。

雪が積もる中、駅から1分ほどのビジネスホテルに向かいました。
6500円で広々とした部屋が取れました。

吹雪の敦賀の夜を地元の美味とともに市内の居酒屋で過ごし、気比神社から漁港へ歩いた翌日の顛末は次回!