しその実塩漬け

直売所に寄ったら穂ジソが売っていたので2束買って帰いました。
シソの実の塩漬けを作ろうと思いました。

買ったばかりの穂ジソ

ネットで作り方を再確認。
その日はシソの実のあく抜きをしました。

先ずシソの軸から実をそぎ落とします。
花が残っている状態の実はまで熟していなく、そぎ落としずらいものでした。
軸が柔らかいので実をそぎ落とすときに軸が折れてしまったり、葉っぱの一部が混じってしまいます。
実が熟しすぎても硬くてダメなので、収穫の加減が大事のようですが、もう少し熟した状態のものでもよかった気がします。

葉っぱや軸が混じった状態で水に漬けて一晩おきました。

実をそぎ取ってあく抜き

ザルに上げて、実以外のものを取り去ります。
キッチンペーパーにあけるなどして水気をとります。

一晩あく抜きした実の水気をとる

ここで塩を混ぜるのですが、分量は実の重量の10%とのこと。
実を量ってみるとほぼ70グラムほど。
ということで7グラムほどの塩を混ぜます。

10%の塩を混ぜる

保存袋に入れて出来上がりです。
塩に殺菌作用があるとはいえ、材料、保存容器などは全く消毒していませんので、保存袋の空気を出来るだけ抜き、冷蔵保存します。

保存袋に入れて冷蔵庫へ

ご飯に乗せたり、おにぎりに混ぜるなどしてシソの香りと歯ごたえを楽しみます。

高山村 七味温泉

9月半ばのこと、山小舎おばさんの提案で家族で高山村の七味温泉にある紅葉館に一泊旅行しました。

高山村観光ガイドマップより。右の方に七味温泉

高山村は須坂市から松川沿いに東に山間を分け入った松川渓谷にあります。
須坂インターで上信越自動車道を下り、須坂市内を抜けて行きます。

途中に子安温泉、山田温泉などのいで湯の里を抜けて走ります。
路幅が狭い場所はありますが、路面は良好です。
かなり上ったところに七味温泉がありました。

静けさに包まれた山間の旅館です。
既に県外ナンバーの車が2.3台停まっていました。

紅葉館の外観

着いて早速のお湯。
熱めのお湯が旅の疲れを癒してくれます。
露天風呂ともつながっています。
何より湯客が少ないのがいいです。

聞けば客室10室のところ、スタッフ不足で5室で営業している由。
スタッフの一人は長野市から1時間半かけて通ってくるとのことでした。

窓には渓谷の緑があふれる

夕食は別室に案内されますが、他の客とは同室ではありませんのでゆったりと食べられます。
別料金でクラフトビール、ワイン、地酒も頼めます。
何より地産地消の素材を生かしたメニューがうれしいのです。
この日の夕食は、イワナの刺身、アルプス牛の冷しゃぶ、マツタケが乘った蓮饅頭など多彩なものでした。
料理を運んでくるおかみさんとのトークも楽しいものでした。

夕食。まず、お造り、オードブルが運ばれる。ドリンクは梅酒
夕食のメニュー。至れり尽くせり!

翌日は戸外の露天源泉にも入ってみました。
適温で快適なお湯でした。

朝食。子持ちワカサギの甘露煮など。ヨーグルトにかかっている地元産のはちみつが美味すぎた

帰りは高山村のJA選果場に寄ってみました。
ブドウの出盛りで、早生のリンゴとともに選果場はより取り見取りの花盛りで活気にあふれていました。

令和6年畑 9月の草刈り

8月中は放っぽりぱなしだった畑に秋がやってきました。

雑草がバシバシと生えっぱなしで、ネットは崩壊したまま、残っている作物は果たして生きているのか?
草刈り機をもって畑へ向かいました。

ほぼ半分しか使っていない圃場の草刈りをします。
耕作放棄地そのままの姿です。
夏にざっと刈った後の刈残しが半分枯れながら土の上に横たわっていて、その横たわりを起こしながら刈ってゆきます。
時間と体力が掛かります。

草刈り前の圃場の状態
太く硬い雑草が生い茂る
雑草を草刈り機で倒してゆく

圃場の端の部分、法面などもできるだけ刈ります。
こうすると遠目にも「手入れした感」が出るのです。

夏の間放っておき、十分に幹が太くなった雑草は硬く、重いので、草刈り機で刈ってゆくに従い腰が疲れてきます。4枚の圃場のうち1枚をこなすのに燃料タンク満タン分、1時間半ほどかかります。
先が長いので今日はここまでとします。

雑草を倒した後の圃場

心配したヤーコン、サツマイモ、長芋などは無事育っていました。

ヤーコン
サツマイモ
長芋
自然発芽したエゴマ

まったく手入れしていない菊芋は盛況です。

菊芋

カラマツの玉を二つ割り

夏も終わりつつある9月。
玉切りしたカラマツを二つ割りしました。

薪づくりの作業は、「丸太の玉切り」→「薪割り」(玉を薪サイズに割る)→「積込み」の順に行います。

今シーズン新たに運び込まれた丸太はチェーンソウで玉切りをようやく終えました。
自分で伐採したシラカバも何とか玉切りまでこぎつけました。
次の作業は薪割りです。

薪割りは管理事務所からエンジン式薪割り機を借りて行うことにします。
その準備のため、薪割り機が使いやすい場所に玉を並べておかなければなりません。
玉を運んだり、二つ割りする作業が必要となります。

玉の中には山小舎おじさんの力では持ち上げられないほど直径が大きなものもあります。
それらを事前に二つ割りをして、軽くしてから運んで並べようと思います。

カラマツの巨大な玉にあらかじめチェーンソウで切れ目を入れておきます。
チェーンソウの刃の幅くらいまで切り込んでおきます。

切れ目にくさびを2本打ち込みます。
ハンマーで叩くと繊維に沿って割れてゆきます。
スパッと割れない場合は斧で断ち切ります。

切れ込みにくさびをセットする
ハンマーでくさびを打ち込む
斧を使って玉を切り分ける
二つに割れた玉の断面

こうして玉を半分に割ると何とか持ち上げられます。
半分にした玉を道路沿いに積み上げて薪割り作業を待ちます。
まだまだ暑い9月上旬、汗だくの作業です。

二つ割りした玉を並べて薪割りの準備

令和6年青春18きっぷ 穂高、松本の旅

青春18キップの利用期限が間近に迫った9月上旬、大糸線に乘って旅に出ました。
目指すは穂高と松本です。

茅野駅前の駐車場に軽トラを置いて松本行きの列車に乗ります。
7時台の列車は、例年通り通学の高校生で満員です。
松本に着くと列車は大糸線の普通列車となったのでそのまま乗り続けます。

朝7時過ぎの茅野駅下りホーム

大糸線は松本と新潟の糸魚川を結ぶJR線です。
線路は北アルプスを左に見ながら北上し、白馬、小谷などを過ぎ新潟へ入ります。

目指す穂高は、松本から安曇野台地を進み、梓川を渡って北アルプスが見えてきたところにあります。
沿線の田んぼは色づき、収穫が間近です。

実り多き安曇野の風景背景は北アルプス

穂高駅で降りた山小舎おじさんは穂高神社を目指します。
3度目の参拝です。

穂高駅に到着

境内へ向かわんと手水場によると、ご夫婦がペットボトルに水を汲んでいます。
聞くと、湧水との掲示板があるので汲んでいるとのこと、飲んでみると確かにおいしい水でした。

今回の参拝は順を追って行いたいと、大鳥居まで戻ってくぐってみました。
近くの公園には学校をさぼった?高校生たちが楽しそうに遊んでいます。
いつものように穂高神社の鳥居は参拝者たちをゆったりと迎えています。
真ん中の神楽殿、正面の拝殿、ご神木の杉の巨木が絶妙に配置された境内は、いつも通り明るく、凛々しく整然としています。

穂高神社大鳥居
凛とした境内

神主さんがいたので了解をとって拝殿内を撮らせてもらいました。
一人の参拝客がお祓いを受けていました。

拝殿内部

帰りに駅前にある安曇野市観光情報センターに寄ってみました。
係の女性たちはこの日も愛想よく対応してくれました。
穂高神社の鶏については「最近いませんね」という人と「この間いましたけどね」という人がいました。
穂高神社の神の使いの鶏は、この日は見かけませんでしたがどうしているでしょうか。

再び大糸線に乗って松本へ。
上りの列車は白馬方面から帰ってきた登山客でほぼ満員でした。
酷暑の松本駅に到着です。

賑わう松本駅

まずは松本駅構内を探索してみます。
松本は長野とともに県下の大都市ですが、駅に限ると新幹線の泊まる長野駅の充実ぶりに後れを取っています。
駅ビルを歩いてみると、県内の名産品、名物を買ったり味わったりする場所はそこそこあるものの、効率よくまとまっている長野駅に比べると分散しており、まだまだローカルっぽさが残っています。

松本駅外観
駅ビルの物産館では珍しやザザムシが売っていた

昼食は駅前にある立蕎麦屋へ。
かつては駅構内にあったという蕎麦屋さんです。

駅向かいにある立食い蕎麦

この日の目的は新築の松本市立博物館です。
お城近くの中心街にそのモダンな姿はありました。
酷暑から逃れるように館内へ。
いきなり開放感十分の吹き抜け構造と階段が出迎えます。

松本市博物館のモダンな外観

今時の博物館風に何でもかんでも展示する方式ではなく、時代順にテーマに沿ってわかりやすさを重視した展示内容に松本市のやる気を感じます。
重要な展示物を並べるのではなく、テーマに沿った再現模型を展示の中心において、伝えたいことをアピールしています。
さすがにインバウンドブームのはるか以前から、常に外国人観光客が街中を闊歩する国内有数の観光都市です。
松本市がアピールしたいテーマの一つが、商都松本の歴史的文化財でもあるあめ市だということが博物館の展示からわかります。
あめ市は戦国時代から続く年頭の市で、商都松本の重要な歴史遺産だそうです。

城下町松本の模型。手が込んで再現性の高い展示物のひとつ
甲冑は映える展示物
あめ市を象徴する宝船は商都松本の象徴でもある

松本といえば、松本城、北アルプス登山基地、旧制高校、のイメージですが、博物館では歴史ある商業都市の部分にも光が当たっています。

次いで向かったのはかつての松本の映画街に残るシアターです。
松本には旧映画館の流れをくむミニシアターがありません。
旧映画館は全滅しています。
その中で、上土シネマという映画館が現在はミュージアムとなっていると聞いて出かけてみました。

かつての映画街にたたずむ上土シネマの建物

上土シネマのほかにも、映画館の建物が残る上土地区に目指すミュージアムはありました。
こじんまりとした映画館の建物をミュージアムとして再利用しています。
人がいないので二階に上ってみると、座席が残る館内を覗くことができました。
この施設が残り、再利用されるかどうかは主宰者次第でしょう。
できれば残してほしい遺産ではあります。

モギリの内側から撮ってみた
劇場内部がそのままの姿でのこる

中心部にもまだまだ興味深いスポットがある松本の旅です。

DVD名画劇場 戦前ドイツ映画の栄光VOL.1

第二次大戦前のドイツ映画は、その栄光の時代を迎えていた。
すなわち、1910年代の第一次大戦後のサイレント映画時代には、G.W.パブスト、F.W.ムルナウ、ヨーエ・マイらの演出陣が社会的リアリズムもしくは表現主義などの影響下に名作を輩出し、早くも世界市場に打って出ていた。
日本においてもドイツ映画が一定の評価を受けていた。

「写真映画世界史第3巻」より

映画がトーキーになった時、技術的にもいち早く対応したのがドイツ映画だった。
内容的にはオペレッタなど音楽を前面に出した作品群を世界に送り出すとともに、ゲルマン神話に基づく歴史もの、山岳映画など独自のジャンルを打ち出していた。
監督陣ではエルンスト・ルビッチ、フリッツ・ラングなど後々にハリウッドで長く活躍する人材を輩出した。

ドイツ映画の特色は、当時の映画製作の中心地ウーファ撮影所に根付く伝統的な映画技術の高さとともに、ヨーロッパの中心としての歴史を持つドイツ人気質の堅実さ、地味さ、素朴さが自然と画面に表れている点にあった。
反面、残酷なほどに人間性の善悪を表現するのもドイツ映画の特色であろうが。

今回の名画劇場は手元に集まった戦前のドイツ映画3本を見る。

「最後の人」  1924年  F・W・ムルナウ監督  ドイツ

サイレント時代のドイツ映画には、「カリカリ博士」(1919年 ロベルト・ウイーネ)、「ノスフェラトウ」(1922年 F・W・ムルナウ)、「メトロポリス」(1926年 フリッツ・ラング)、「パンドラの箱」(1929年 G・W・パブスト)などの名作がある。

G・W・パブストと並ぶサイレント時代からの名監督がムルナウ。

「最後の人」は、主演のエミール・ヤニンニングス扮する初老のホテルドアマンがトイレ番に左遷され失意の中で死んでゆくまでを描く。
ヤニングスは「嘆きの天使」で歌姫に溺れる堅物の教授を演じたひと。
この人の演技、表情や仕草にはサイレント映画らしい大仰さがみられるものの、心理を表す表情・仕草や瞬間に素早く動いて状況の急変を表現することができるなど、「鋭さ」がある。

「最後の人」撮影風景

映画の技法的には、表現主義の影響が見られる。
ホテルの役職を降格させられた主人公が退社後仰ぎ見るホテルを捉えるカメラは、きらきら窓の光がさんざめく建物を二重写しのようにとらえる。
現か幻か判然としない映像表現は、主人公がすでに正常な精神状態ではないことを独自の技法で表現する。
また、降格した主人公を待ち受ける安アパートの住人たちのあざけるかのような顔のクローズアップは脅迫的な主人公の心理状態を強調する。

エミール・ヤニングス(左)

主人公の娘が己の結婚式のためにケーキを焼くシーンや、ホテルの制服(に象徴される世俗的権威)への執着、落ちぶれた隣人に対する嘲笑(権威ある隣人に対する諂いと根っこは同じ)などは、いわゆるドイツ的なものが濃厚に漂う。
質実剛健なドイツ人気質だったり、とはいえ権威に弱く、周囲に同調的な気質だったり。

「制服」への過剰なこだわりについては、制服が主人公のアイデンティティーの象徴として描かれているのではあるが、一方でドイツ人の「制服」への気質的な執着を表してはいないか。
第二次大戦のドイツ軍の制服、武器の優れたデザイン性は現代でも一定のファンを持つ。
ドイツ気質と武器・制服のデザインの卓越性との親和感がこの作品にも通底してはいないか。

一方で、制服に象徴される権威、没個性からの解放を秘かな主題としているのもこの作品。

主人公がホテルの支配人から降格通知を渡される場面では、窓の外のカメラが移動しワンショットで窓の内側に来るなど、撮影技法が洗練され高度なのもこの映画の特徴。
サイレント時代からドイツ映画のレベルの高さが見られる。

「會議は踊る」  1931年  エリック・シャレル監督  ドイツ

何という楽しい映画であろう。
陽気で、楽天的で、性善説的で、庶民的で。
最も印象に残ったのはその軽さ。
重々しく、悲観的で、マニアックで、伝奇的なドイツ映画らしさがそこには無く、さっぱりとオペレッタに徹した作品となっている。

リリアン・ハーベイとウイリー・フリッチ

時は1815年、第一次ナポレオン戦争が終わった後の講和会議をウイーンで行うことになった。
主宰することになったオーストリアの首相メッテルニッヒ(コンラッド・ファイト)は、『どうしてウイーンでやるの?』と後ろ向き。
だが策士でもあるメッテルニッヒは、外交官や職員たちを盗聴し、書簡を検閲しながら情報を収集。
やり手のロシア皇帝アレクサンダー(ウイリー・フリッチ)を美女で篭絡し、その間に講和会議をまとめてしまおうと画策する。

一方で鳴り物入りでウイーンにやってきたロシア皇帝は、ウイーンの帽子屋の売り子で愛嬌のあるクリステル(リリアン・ハーベイ)の歓迎ぶりに歓び、街の居酒屋で皇帝の身分を明かさずのデート。
クリステルの純朴な愛らしさを愛で、クリステルもつかの間のジェントルマンとの邂逅に夢心地、彼が居酒屋に払った金貨で相手が皇帝だとわかる。

リリアン・ハーベイは街の人気者

王子様と町娘の恋といえば「ローマの休日」とは逆のパターン。

皇帝に呼ばれ、クリステルが馬車で彼の別荘へ向かう長回しのシーンがすごい。
クリステルが謳う主題歌とともに、川面に恋を語るカップルや、民族衣装で洗濯する娘らを手前にしてドナウ川の橋を渡る馬車。
馬上で喜びを精一杯表現するクリステルに、カップルは抱き合うのを止め、洗濯娘らは手を振る。
到着したお城のような別荘の庭では何組ものカップルがダンスで馬車を迎える。
ハリウッドミュージカルの山場のシーンのようではないか。
というか、後年ハリウッドが延々とまねしてるだろ、これ。

メッテルニヒ(コンラード・ファイト)はフランスの伯爵夫人(右)を使ってロシア皇帝の篭絡を画策

居酒屋で仲睦まじい皇帝とクリステルが店を出るときには、楽団がマーチを奏で、店の客が出てきて踊りながら二人を見送る。
急に音楽が始まり場面が転換する。
ミュージカルのお約束でもあるこういった場面が続く。

リリアン・ハーベイの艶姿

クリステルを演じるリリアン・ハーベイは、独英混血らしいが、ドイツ娘らしい逞しさを感じさせるとともに、1933年のオーストリア映画「未完成交響楽」で、若き日のシューベルトを助ける質屋の娘を演じたルイーゼ・ウルリッヒのような素朴な健気さを見せる。
またその陽気な明るさ、お色気、芸達者ぶりは天性のものとしか思えない。
彼女の健康なエロチシズムは、逆光に浮かぶ体のシルエットだったり、スカートをたくし上げた際の一瞬の生足で直接的にも表現される。

明るく、軽いタッチとミュージカルらしい場面転換で映画をまとめた監督のシャレルは、オペレッタの舞台演出家から製作者のエーリッヒ・ポマーにスカウトされ、この永遠に古びないミュージカル作品を撮った。

ドイツ映画はトーキー以降にオペレッタ映画の興隆時期があり、本作はその時期の代表作だった。
軽さ、明るさ、陽気さで統一された本作だが、製作された2年後にはナチス党が政権を取り、7年後にはポーランドに侵攻するという時代性を感じさせるように、エンデイングはナポレオンが幽閉先を脱出し、フランスに上陸したというニュースとともに、再びの欧州の戦禍を必然としてロシア皇帝は直ちに本国へと出発するというものだった。

町娘の夢のような恋は、一瞬の思い出とともに来るべき戦乱に覆いかぶせられるのであった。

「制服の処女」  1931年  レオンティーネ・ザガン監督  ドイツ

まず、ナチス党台頭前夜の1931年のドイツでこういった作品が生まれたことに素直に敬意を表したい。

ベゼルブルグ先生とマヌエラ

女流監督のザガンは、この時代のドイツ演劇界の重鎮だったマックス・ラインハルト門下だという。
製作はカール・フレーリッヒで1930年代後期のドイツ映画界の随一のプロデユーサーだという。

主演の女学生マヌエラ役にヘルタ・ティーレ、マヌエラが慕う女教師・ベゼルブルグ先生役にドロテア・ヴィーク。スチル写真を見たら忘れられない凛とした美貌のドロテアさんはスイスの男爵夫人で、クララ・シューマンの後裔だといわれているらしい。
教師の服装が似合う。

先生を慕うマヌエラ

叔母に連れられて寄宿制の女学校にやって来たマヌエラ。
14歳だ。
この学校は校長の方針で、規律を尊重し空腹に耐えてプロシア精神を体現する女子を教育する方針。
生徒は縞模様の(大戦中のユダヤ人収容所のような)制服の上にふだんは前掛けのスタイル。

テイーンエイジャーの女の子らしく、空腹に耐えかねたり、男優のプロマイドを隠し持って『セックスアピールがどうのこうの』と騒いだり、厳しい舎監の先生に陰で『あっかんべー』したりする生徒たちだが、本当の意味で厳しい団体生活に我慢できるのは、ベゼルブルグ先生の存在があるからだった。

消灯とともに寝室にやってきて皆にキスしてくれる先生は、母親のいないマヌエラにとっても思慕の対象であり、生きがいともなった。

院長の誕生会に催される生徒の劇は盛り上がるが、その打ち上げで事件が起こる。
ベゼルブルグ先生への思慕を素直に打ち明けたマヌエラの行動が問題視される。

規律違反だと断罪する院長に、反対しマヌエラを守ろうとするベゼルブルグ先生。
マヌエラは自殺寸前のところを仲間に助けられ、皆の非難の目を背に院長は去ってゆく。

ドロテア・ヴィーク(上)とヘルタ・テイーレ

ナチス時代となった時、亡命を余儀なくされたというザガン監督、ほとんど唯一の作品。
監督が女流ならば出演者も全員女性。
切羽詰まった場面ばかりではなく、折々に学園ドラマのノリのような、『青春のどうしょうもない』シーンも加える。
女学生役の女優達も美人ばかりではなく、実際に学校に居そうなキャラが揃っている。

全体主義に対する人間主義の抵抗をテーマにした作品。
しかしながらその根底には当時のドイツの暗い世相が覆っているかのようだった。

干瓢づくり

大きな夕顔が今年も採れました。

夕顔は冬瓜に似ており、あんかけにしたりサラダにしても食べられます。
田舎では夏野菜として利用価値大です。
というより、夏にしか出ない、食べきれないくらい大きな野菜というべきでしょうか。

畑で夕顔を収穫。つるむらさきとズッキーニの下の2本

直売所などでも売られていますが、巨大化したズッキーニと同様、あまり売れてはいないようです。

今年も畑では4本ほどの夕顔が採れました。
2本は山小舎おばさんに持って帰ってもらったのですが、2本が山小舎に残りました。
味噌汁の具やカレーの具に使いましたが使い切れません。
そこで干瓢に干すことにしました。

昨年も干瓢づくりを試みましたが、実をむく作業が一番大変でした。
包丁で実を横に剥くには実が柔らかすぎて頼りなく、暑さが均一に剥けないのです。
当然出来上がりも厚さが不均一なものとなりました。

そこで今年は暑さの均一と作業時間の短縮を考慮し、ピラーで剥いてみました。
夕顔は皮が硬く、ピラーではなかなか歯が立たないのですが、実を立にして頑張って剥いてみました。
厚さが均一な夕顔の実が剥けました。

夕顔とピラーを用意
ピラーで剥く。力が必要
剥いた実を洗う

ザルに広げて干してみます。
半日後、アッという間もなく、ザルの底に剥いた実が張り付いてしまいました。
何とか剥がして干しあがった実はまるで鰹節のようにぴらぴらしています。
これでは干瓢を煮ても溶けてしまいそうです。

ザルに広げる
薄い実の干しあがり

翌日もう一本の夕顔を厚めに剥いてみることにしました。
剥き方は夕顔を立にして包丁を上から下に向けて削るように剥いてゆくのです。
こうすると実の柔らかさに阻まれることなく包丁が進みます。
実の厚さは包丁の加減次第です。

こうして夕顔の種が現れるまで身を削り落としました。
思いっきり厚めの実が何本か出来上がりました。

夕顔の実は水気が多く、また独特の粘り気もあるので干すときにはザルに張り付かないように気を付けます。
早めにほしあげた方がいいようです。

翌日包丁で暑く剥いた実を広げる

こうして干瓢らしきものが干しあがりました。
鰹節のように仕上がったものも使ってみることにします。

厚い実の干しあがり
出来上がった干瓢をパッキング

軽トラ流れ旅 金沢峠から法華道を下る

手許に、高遠歴史博物館で購入した「歩くための絵地図 信州高遠 杖突街道」(200円)があります。
諏訪と高遠の境目の杖突峠、金沢峠、守屋山から高遠へと下る杖突街道、法華道、鎌倉道などの歴史と現在の姿を作者が歩いて絵にした地図です。

絵地図、金沢峠付近

山小舎おじさんは高遠や伊那が好きでよく行くのですが、その時通るのは茅野から杖突街道を通るルートです。
よく整備された舗装道路で、トラックやバスを含めた車両のほとんどがこのルートを通ります。

江戸時代までの高遠からの参勤交代や、甲州街道で江戸に向かう人が歩いたのは杖突街道ではなく、鎌倉道と呼ばれ杖突街道を分けて金沢峠を越えるルートと、法華道と呼ばれ長谷村から山室川沿いに金沢峠を目指すルートだったとのことです。

絵地図、芝平付近

通ってみたかった法華道を、金沢峠を茅野側から越えて高遠まで軽トラで走ってみました。

絵地図、荊口付近

茅野から金沢峠への最短ルートは誰も通らない林道だった

茅野から甲州街道を少し上ると旧金沢宿の集落があります。
かつての甲州街道の宿場として、高遠からの峠道と甲州街道の合流点でもありました。
この日は金沢宿から金沢峠を目指すことにしました。

金沢地区にある独鈷石
解説文

携帯のナビに金沢峠を検索して山小舎を出発。
甲州街道の金沢地区に来てもナビは杖突街道経由のルートを指定し続けます。
ナビを無視し、地図であたりをつけて金沢峠方面と思しき交差点を右折し、山側に登ってゆきます。

甲州街道金沢宿
金沢峠へ延びる農道

道は金沢の集落の間を上る1車線です。
やがて簡易舗装の農道のような道となりました。

国有林を分け入る

林道もしくは登山道のような砂利道を上ってゆきます。
冬期間や悪天候の日は遭難しそうな道です。
軽トラのエンジンを頼りに時速10キロからせいぜい20キロ、ギアはファーストからセカンドで進みます。
一度止まると再スタートまでタイヤがスリップします。
路面は凸凹ですが砂利は敷かれています。
ガードレールはありません。

後ろから1台の四駆車がライトをつけて登ってきました。
物好きな人もいるのだなあと思っていたら茅野市の車でした。
月曜日の見回りなのでしょうか。

途中にある見晴台
かつての展望は国有林の成長とともに隠れた

山の中に取り残されたかのような孤独感に襲われながらでこぼこ道を上ってゆき、ようやく開けた道に出ると金沢峠に着きました。
そこは千代田湖を通り、杖突街道へと通じる道や、芝平峠を抜けて法華道で高遠へと下る道、入笠山への道などが集まるポイントでもありました。

金沢峠は往来もなく山の中

山室川沿いの悪路を行き、芝平の集落へ

ここから芝平峠方面へ向かいます。
道路端に立てられた看板には「この先悪路です。携帯の電波も届きません。高遠方面へは千代田湖経由で杖突街道への迂回をお勧めします」とあります。
通行止めではないのでこのまま進むことにします。

芝平峠の分岐点

人気のない悪路を時速10キロほどで下ります。
八ヶ岳の美濃戸口から美濃戸へ至る道も相当の凸凹道でしたが、それに続く悪路です。

芝平方面へ下る法華道

やがて巨大な堰堤が現れました。
山室川の上流に、洪水防止のために作られているのです。

山室川上流の堰堤

左側には渓流の山室川。
ガードレールもない悪路を下ります。
ぽつぽつと人家が見えてみました。
移住者の別荘のようです。
廃屋もあります。
人気のない芝平の集落に小学校の廃校がありました。

法華道
沿道の廃屋

50年程前まで分校だった小学校です。
古い造りの建物ですが、その大きさが周りの静けさと不釣り合いなほどです。
建物は当時のまま残っているのですが、児童や職員の活動の跡はほとんど残っていません。
人間の営みの場としての学校の機能はすでに失われて相当の時間が立っているのがうかがえます。

芝平分校の廃校

パワースポット弘妙寺へ

道が整備され、人家が多くなっていました。
芝平から荊口と呼ばれる地区に来ました。
右手にカフェの建物を過ぎると弘妙寺というお寺がありました。
絵地図に載っているお寺ですので寄ってみました。

弘妙寺の案内板

日蓮宗弘妙寺は気の寺としてパワースポットなのでした。
現役感のみなぎる本堂に立ち、案内に従って庫裏の呼び鈴を押します。
出てきた奥さん(なのか住職の娘さんなのか)から厄除けのお守りをいただきます。

堂々たる本堂
厄除けのお守りをいただく

「どちらから?芝平峠を越えて?それは大変でした。
芝平の上流はかつて集団離村をした場所です。今上流に住んでいるのは移住者ばかりでゴミ収集車も行きません。道が荒れているのも行政がそのせいなのでしょう。
分校が廃校になったのは50年くらい前でしょうか。
この地区も移住者の方が多いくらいで、彼らがいないと成り立ちません。隣のカフェも移住者がやってますが地区の行事などよくやってくれています。
中央構造体のせいなのか敏感な人は気を感じるようです。私も目の前のイチョウの木の近くでは体が軽くなります。」
とは女性が語ったこと。

大きなお寺は歴史を感じますが、その現役感はパワースポットとして、運動選手、実業家、ゴルファーに聖地としてあがめられ、数々の来訪者に応対してきた賜物なのでしょう。

イチョウの木に触れてみると何となく体に風が通ったような気がしました。
それよりも山室川の谷を望む寺のたたずまいの清々しさに心洗われる思いでした。

イチョウに触れていると来訪者らしき女性が寺に登ってきました。
「本堂にお参りしたいのですが」というので庫裏の呼び鈴を押して寺の女性に案内を乞うように伝えました。
お寺はパワースポットとして来訪者を引き付ける場所のようでした。

大地から気を運ぶ大イチョウ

法華道を下りきると長谷村に出ます。
田んぼに稲が揺れる麓の村です。

道の駅で遅めの昼食を摂りました。
高遠を通り、伊那から蓑輪町を抜けて帰りました。

長谷村の道の駅でソースカツ丼

「杖突街道の絵地図」を生かし、楽しんだ旅でした。

令和6年青春18きっぷ 身延線チョコッと旅

山小舎と東京に自宅を行き来することが多くなりました。
気が付けば青春18きっぷの季節です。
鉄道の旅が好きな山小舎おじさんは、迷わず切符を購入することにしました。

自宅に帰る日、茅野駅で窓口の駅員さんに18きっぷを売っているかどうか聞きました。
すると券売機で買えるとのこと。
夏の観光シーズンで券売機に人が並ぶ中、外に出てきてくれた駅員さんの操作で買えました。
みどりの窓口が全国の駅で廃止されている中、券売機でほとんどの切符が買えるのですね。

この日はまっすぐ自宅に戻り、再び山小舎へ18きっぷで取って返しました。

甲府駅に到着してふと見ると10分後に身延線の連絡がありました。
甲府駅の1番ホームの奥の4番、5番に身延線ホームがあります。
この日は台風の影響で身延線は甲府と鰍沢口間でのみの運行。
身延線のハイライトである、下部温泉にも身延にもゆきません。
でも、折り返し甲府に戻らなければならない身としてはちょうど良い行程かもしれません。

甲府駅1番ほーに掲げられている身延線案内板

甲府駅の4番ホームにひっそりとたたずむ身延線の2両編成列車はワンマンカーでした。
乗客はガラガラでした。

発車してしばらくは甲府の郊外風景の中を走ります。
駅駅はホームをつなぐ橋がなく、踏切を渡って改札口に出る作りになっています。
住宅の間に放置された畑やソーラーパネルが設置された風景が続きます。

身延線沿線の駅の作り

甲府盆地の南端の山々に近づくと、田んぼが広がってきます。
しばらくは山すそに沿って列車は走ります。
街道筋の歴史がありそうな町が続きます。
今では甲府のベッドタウンでしょうか。

市川大門駅は中国風の建物
甲府盆地南端に広がる田園風景

やがて終着の鰍沢口に到着。
ここは甲府盆地の端っこ。
日蓮宗の総本山がある身延やその先の静岡県まではまだまだあります。

この日の終着は鰍沢口(無人駅)
駅の通路に張られた観光ポスター

鰍沢口駅のあるこの場所はかつて、甲府と静岡を結ぶ富士川の水運で栄えたという歴史ある土地です。
今は商店らしい店もありません。
あわよくばここでランチでもと考えていた山小舎おじさんは炎天下の中、富士川を眺め、何度かあたりを歩き回って駅に戻りました。

街角の案内板
富士川を望む

ここから先、静岡県に至るまでの山岳ルートが身延線のハイライトなのでしょう。
今回は初めて乗るローカル線の雰囲気だけを味わいました。
次回また!

静岡方面へ続く身延線

韮崎平和観音

自宅と山小屋の往復には、自家用車のほかでは高速バスか鉄道を使います。
時間的には高速バスが早く(バス停・高速深大寺から高速茅野までが約2時間半)、レスポンスもいいのですが、旅好きな山小舎おじさんとしては鉄道の旅も捨てがたいのです。

JR中央線に、高尾から大月行き、甲府行きなどに乗り、終着で途中下車。
そこで昼食を摂るのんびり旅です。
甲府には行きつけの定食屋まであります。

高速道路を走る旅と違い、鉄路を行く旅は視線が低いので見える景色が人間サイズの上、案外視界も広いのです。
鉄道は町をつなげて走るので、商店街、住宅地、農地など、場所場所の人間の暮らしの景色が見られるのもいいのです。

ということで、夏のある日、自宅から山小舎へ戻る道中、山梨県の韮崎に途中下車しました。
車窓から見える大きな観音様の麓に行ってみようと思ったからです。

線路からほど近く観音様は見えます。
韮崎駅の改札口で駅員さんに聞きました、「観音様へのルートを教えてくれますか」。
「まず、駅のガードをくぐって。案内板はないと思うけど。登りが急ですよ。」との返答でした。

ガードをくぐって駅の反対側へ出ます。
小高い山の上の観音様は街から遠望できるので方向は迷いません。

駅からガードをくぐった商店街にかかる鳥居
商店街からは平和観音が見える

「窟観音入り口」の看板があったので進んでみます。
平安時代にこの地を訪れた弘法大師が掘った観音様が石窟に安置され、岩場の麓には雲岸寺というお寺が立っている場所でした。

まず窟観音へ行ってみる
トンネルの出口にはお地蔵さまが並ぶ

まずは石窟と窟観音を見て回ります。
中央線韮崎駅の近くにかような石窟が残っていることに驚きました。

窟観音が収められているお堂
崖下から望むお堂

目指す平和観音は雲岸寺が立つ場所から小高い山(断層)を登った場所にあります。
平和観音までは舗装道路が続いており、そこそこの交通量もあります。
徒歩で夏に歩くのは一苦労でした。

汗をかきつつ登った崖の上に平和観音が立っていました。
甲府盆地とその向こうの富士山を望む場所です。
あたりの雰囲気は甲府盆地を走る国道20号線の活気と喧騒から離れたのんびりしたものでした。

平和観音が立つ高台は市民の墓所でもある
平和観音を仰ぎ見る

女性的な造りの観音様は遥か甲府盆地から東京方面を眺め、世の安寧と平安を祈念しておられるのでしょう。
忘れられたような静けさの中、たたずむ観音様でした。