薪割り機を借りる

この間、大量の丸太を玉切したので、玉が大量にたまりました。

別荘管理事務所よりエンジン式薪割り機を借りました。

借りるのはこれで2度目です。

重い機械なので、積込みと積み下ろしには、ラダーレールなどの道具がいります。
また、ラダーレールがあっても、積み下ろしの時はいいのですが、積込みはそのままではできません。
斜度があるレール上を押し上げられるほど、薪割り機は軽くありません。
ですから斜面に下る形で軽トラを配置し、ラダーレールが水平になるようにしなければ積み込めないのです。

いずれにせよ、薪割り機の導入でたまった玉の処理は一挙に進みました。

エンジン音が気になるので、ご近所の手前、土日は作業を行わず、平日であっても一回に30分程度の連続稼働とし、それを4~5セット程度を限度に行うこととしました。

大きな玉、節だらけの玉、枝などなど、どんな木材もたちまち割ってくれて大助かりです。
ミズナラなど硬い素材を、細かくしてくれるのも便利です。

後は積込みですが、今回はできるだけ木の種類別に積み込む予定です。

カラマツは雨ざらしで、ミズナラは乾きが遅いのでなるべく細かく割って風通しの良い場所に干し、覆いをかける。シラカバは乾きが早いので大きめに割って干すことにします。

(お詫び)

写真をブログに転送する前に消去してしまい、今回は写真の掲載ができませんでした。

DVD名画劇場 ハワード・ホークス 男の世界だ!

最近せっせとDVDで映画を集めている山小舎おじさん。
アメリカ娯楽映画の巨匠、ハワード・ホークスの代表作3本を見た。

「暗黒街の顔役」 1932年 ハワード・ホークス監督 ユナイト

これは傑作だ。
アル・カポネの若き日がモデルだという、禁酒法時代のアメリカ(シカゴ?)を舞台にしたギャング映画。

「犯罪王リコ」(1930年 マービン・ルロイ監督)、「民衆の敵」(1931年 ウイリアム・A・ウエルマン監督)とともに3大ギャングスター映画と呼ばれる。

オリジナルポスター

貧しいイタリア移民の息子(ポール・ムニ)が、町のギャングの手下として、ご禁制のビールを強引に酒場に売りつけ、ライバルギャングを武力で制圧してのし上がってゆく。

ポール・ムニ

ポール・ムニのオーバーで愛嬌のある演技が生きている。
いい女を見かけるときのウインクだったり、ボスの指示を受けた後のふざけたようなリアクションが、いちいち、いい!
何の後ろ盾も、コネもなく、特権階級でもなく、身一つでのし上がろうとするアンちゃんの生きざまを、ポール・ムニは表現する。

このポール・ムニのキャラクター。
ギャングスター映画という虚構の世界に割り切って遊ぶ、ホークス一流の演出がなせる業でもあろう。
一方で、アメリカ人・ホークスにとっての、イタリア移民という外国人、の物語としての距離感も感じられる。

作中、マスコミや警察に、「アメリカ人でもない連中が暴れて市民を危険に云々」と発言させてもおり、これは外国人・イタリア移民のはねっ返りの物語である、とのエクスキューズを行っている。

ポール・ムニが警察にしょっ引かれるときに、ムニが調子に乗って、警察官のバッジでマッチを擦り警察をコケにしたら、すかさず警察官に殴らせる。
〈イタリア人のガキ〉に対してあくまで上から目線で、毅然と臨んだ警察(体制)の姿を強調するホークスでもある。

また、マスコミ(体制)もギャング団の抗争に対し、冷静で公正な反応を示す。
新聞社のデスクは、慣れた様子でギャングの勢力争いを分析予測する。

警察とマスコミの、ギャングスターに対する、毅然としてかつ余裕ある、このスタンスは、一般大衆と権力側のゆるぎない常識性を表すものであり、ホークスはことあるごとに作中で強調する。
この、大衆と権力の常識性はラスト、主人公を追い込む警察官の群れの物言わぬ圧力の不気味さに帰結する。

左から二人目、ボス、ジョージ・ラフト、ポール・ムニ

一般大衆は、タテマエとして危険なギャングどもを非難しつつも、映画における、身一つでのし上がってゆく彼らのある意味公平な世界観に興奮する。

そのメカニズムをよく理解しているホークスは、ギャングスターそのものにはタテマエとしての距離を取りつつも、主人公ポール・ムニの個性だったり、相棒ジョージ・ラフトの仁義にあふれたふるまいだったりを粋でいなせに描く。
また、英語が書けない(移民の)手下のエピソードを時間をかけて描く。

この手下、字が書けないばかりではなく事務所の電話に対応もできない。
が、ラストで主人公が窮地に陥った時に最後まで身を挺して仁義を通した存在として、ホークスは描き切る。
男の約束だったり友情が第一という、ホークス的男の世界である。

また、登場する女性を魅力的に描くのもホークス流。

主人公の妹で兄の〈出世〉とともに遊び人となってゆく娘(アン・ドヴォーラック)や、ボスの情婦で主人公が盛んにコナをかける大人っぽい美女(カレン・モーレイ)というタイプの違う2人の女優は、ホークスが厳選した魅力あふれるキャステイング。

勢ぞろいしたポール・ムニ一家。左端が字は読めないが仁義溢れる子分

主人公の妹が2階の窓から猿回しがやってきたのを見て、それを見物している恋人のジョージ・ラフトに小銭を投げる、なんということのないワンシーン。
アメリカにも猿回しがあったことにも驚くが、身分の低い移動芸人が出入りする移民街で社会の底辺(アメリカ人一般大衆の世界の外)でしか生きるすべのない若者たちの、たまさかの憩いと恋を描いた出色のシーンだった。
一般大衆側の常識性の人、ホークスもその点はわかっている。

イタリア移民の若者たちの生きざまと、個々のキャラクターに共鳴しつつ、一般大衆側の常識にも十分配慮したホークスの傑作だった。

(余談)

この作品、途中から「仁義なき戦い」を思い出しながら見た。
勢いのあるアクションシーンや、社会から疎外された若者のハチャメチャぶりを描くという点では共通している。

ポール・ムニが菅原文太のキャラだとすれば、ジョージ・ラフトは梅宮辰夫か。
字を書けない子分は川谷拓三で決まりだろう。

彼らの命を懸けた友情は底辺に生きる者同士のつながりであり、ホークス流男の世界であると同時に、やくざ映画(というより実録映画)的である。

この作品の女優達も、「仁義なき戦い」シリーズのエモーショナルな女優たちの熱演を思い出させる。
特に主人公の妹役のアン・ドヴォーラック。
兄に対する愛憎と底辺に生きるものの宿命を、ラスト、兄貴に拳銃を向けるも撃てず、警察との銃撃戦では、生命の最後の燃焼のように銃に弾を込めていた姿がこの映画の永遠のアイコンとなった。

アン・ドヴォーラック

妹を射殺し、主人公を追いつめる警察官の群れは、サイレント時代の日本映画、伊藤大輔監督の傾向時代劇、たった一人の主人公を無数の御用提灯の群れが追い詰める絶望的な光景を一瞬思い出させた。

「三つ数えろ」 1946年 ハワード・ホークス監督 ワーナーブラザース

巻頭、依頼を受けた私立探偵フィリップ・マーロウが豪邸に呼ばれる。
依頼人の老人が車椅子で待つ温室に案内される前に階段からショートパンツ姿の若い女が、マーロウを挑発するように下りてくる。
怪しげで、即物的で、いかがわしさ満点のオープニング。

「深夜の告白」(1944年 ビリー・ワイルダー監督)の巻頭では、バスローブ姿のバーバラ・スタンウイックが物憂く階段から下りてきた。
たばこの煙と埃が漂う退廃的な「深夜の告白」の屋敷に比べ、マーロウが呼ばれた屋敷がアメリカンで明るく見えるのは、監督がワイルダーではなくホークスだからか?

ボガートとバコール

マーロウ行くところ魅力ある女性が出現し、マーロウに言い寄る。
ホークスが選んだ女優たちが何ということのない役柄でも魅力を発散する。

ショートパンツの依頼人の次女に続いては、古書店の店員(ドロシー・マローン)。
彼女はマーロウを見るや眼鏡を取って髪を下ろし、店を閉めて別室にマーロウを誘導するし、タクシードライバーの若い女は名刺を渡して「夜の方がいい」とマーロウを誘う。

当時の最新メカであり小物である、自動車や電話を駆使し、動き回るマーロウは、女にかまけるだけではなく腕利きでもある。
何より街(西海岸?)の裏も表も精通した粋な男なのだ。

バコール「震えているのね」、ボカート「怖いさ」

込み入ったストーリーは追ってゆくのも大変でよくわからなくなってくる。
登場する女は全員一見悪女風で、本当の悪女は依頼主の長女(ローレン・バコール)ただ一人。
これもマーロウに惚れて最後は味方になる。

いずれにせよ、筋に重きを置かず、社会正義や常識への偏重はさらさらなく、映画は進む。

それにしても全編喋りまくりのハンフリー・ボカード。
アメリカの探偵はいかなる場合にもウイットをもって言葉で状況に対応しなければならないし、女性に対してはアクションを取らなければならない。
孤独で都会的な、これもホークス流・男の世界ってやつなのだろうか?

ヒロイン、ローレン・バコールはラスト、やってくる黒幕を前にしたマーロウに、「震えてるの?」と聞く。
「怖いさ」と答えるマーロウに対し、泰然自若といった風で補助する。

男勝りで度胸があり、いざという時に、男の尻を叩かんばかりに助ける、ホークス映画の女性像である。

(余談)

チャンドラー原作のフィリップ・マーロウ物は数々映画化されているが、「ロンググッドバイ」(1973年 ロバート・アルトマン監督)が忘れられない。

いわゆる70年代のアルトマン風マーロウではあるが、主役のエリオット・グールドの力の抜け具合がよかった。

富豪の依頼主、悪女、悪役、と登場人物は「三つ数えろ」と変わりないが、グールド流のマーロウはあまりしゃべらず、腕利きにも見えない。
といってヒッピー的な新解釈のマーロウでもなく、もたつき、やられつつ事件に対処してゆく。

ラストシーン、事件の黒幕で富豪の妻の悪女が見つめる中、彼女を無視して通りがかりのメキシコ娘を捕まえ、くるりとダンスして去ってゆくマーロウ。
ボガードとは全く違うふるまいながら、精一杯筋を通そうとする70年代の男の粋がさりげなく表現されていた。

「赤い河」 1948年 ハワード・ホークス監督  ユナイト

1800年代の西部。
テキサスからカンサスへの牛の搬送路を開拓した男たちの物語。
ホークス流のアメリカの叙事詩。
ほとんど男のみによって語られ、女優は2人しか出てこない。

ほとんどがロケで撮影され、何百頭もの牛が移動し、時には暴走する。
俳優たちは牛を追い、野営する。
馬にを操り、川を渡り、埃をかぶり、雨に打たれ、インデイアンと銃撃戦を行う。

ホークスは引き気味のカメラで牛と西部の風景を捉える。
俳優らは多くの場合、情景の一部分だ。

古い価値観のジョン・ウエイン。
年とともに頑固さが増し、横暴にさえなる。

少年時代にウエインに拾われ、息子として育ったモンゴメリー・クリフト。
南北戦争も経験し、牧童たちの人権だったり、汽車敷設などの近代化に敏感な新しい世代。
この二人(ウエインとクリフト)を中心にした、世代論と組織論であり、世代交代を背景にした男の人情の世界。

名わき役、ウオルター・ブレナンは、ウエインの長年のパートナーだったが、ミズーリまでの1600キロの牛追いの最中に、新しいボス・クリフトに鞍替えする。

断固として自らの野望を実行し、そのためには他人の命も利益も二の次、女の気持ちは三の次。
他人の窮地などは気にしない。
男らしいが横暴なジョン・ウエインは古い時代のアメリカの価値観の象徴。
100日に及ぶ牛追いの困難(人生の困難)に対し臨機応変に対応できず、牧童たちの反感を買う。

時代の価値観に即したクリフトにボスが交代するのは必然だが、理屈はいいとして果たして二人の感情は?

巻頭でウエインが、すがる女性をあっさあり置き去りにして自分の野望のためテキサスへ向かい、残った女性は幌馬車隊とともにインデイアンの襲撃に滅ぶ。
この伏線は、14年後の牛追いの最中にクリフトが助ける幌馬車隊の女性(ジョアン・ドルー)に引き継がれて二世代越しに伏線回収されることになる。

ジョアン・ドルー扮する〈新〉ヒロインは、矢に肩を射抜かれても気丈にふるまい、気に入ったクリフトを追いかける。
クリフトが牛追いに同行はさせないというと、あとから来たウエインに掛け合って追いかけ、目的地で合流する行動力。

左からジョン・ウエイン、ハワード・ホークス監督、ジョアン・ドルー

ラストシーンで殴り合う親子に拳銃をぶっぱなし、「あんたたちお互いに好きなんだから殺し合えるわけないでしょ」と喝破する。
まさに激しい〈ホークス的女性像〉の決定版である。

母親にケンカをたしなめられた親子のように、ばつが悪そうに笑い合うウエインとクリフト。

男は女に敵わないのだ、というホークス流のテーマである。
取ってつけたような結末でもあるが。

クリフトに対し「震えてるの?」と叱咤するジョアン・ドルーは「三つ数えろ」でボカートを励ますバコールと同様。

牧童の反乱に対し、ブレナンがライフルを放り、受けたウエインがぶっぱなすスポーテイなアクションシーンは、監督のホークス自身が「リオブラボー」でセルフリメイク。

どちらもホークス映画の名場面である。

デヴュー作のモンゴメリー・クリフトはトム・クルーズそっくりの精悍さだった。

レンタサイクルで諏訪湖一周

10月の秋晴れの日、自転車を借りて諏訪湖の秋を味わった。

下諏訪町の友の会がやっている無料駐車場が、国道20号線沿い、下諏訪駅と諏訪大社下社秋宮との間にある。
そこで、レンタサイクルも行っていて、電動自転車が1時間100円で借りられる。

下諏訪町友の会駐車場で自転車を借りる

朝10時半、自転車を借りて諏訪湖一周の旅へゴー。

下諏訪駅横の踏切を越え、諏訪湖方面へ走る。

下諏訪駅前にも御柱が立っていたが、町内のいろんなお宮にも小型の御柱が立っている。
諏訪は御柱とともにある町だ。

下諏訪駅前の御御柱
下諏訪の街角の御柱

諏訪湖畔に達する。

諏訪市から下諏訪、岡谷に至る諏訪湖畔は人出も多い。
天気が良いと、ランニングしたり散歩する人の姿が見られる。

湖畔のこのあたりは、サイクリング用と歩行者・ランナー用の道路が整備され、公園や駐車場、トイレも多く、ちょっとした運動や日光浴、気分転換に適したエリアだ。

諏訪湖畔に着くと足湯があった
木製のはしけ
ススキが穂を出していた

湖畔に接して、民家や学校などが続く、賑やかなエリアでもある。

諏訪湖の周りには温泉が多い。岡谷温泉
公園には人知れずSLの姿も。岡谷市にて
湖畔には公園が多い。紅葉も

やがて諏訪湖が天竜川となって流出する、釜口という場所につく。
水門があって、名物の赤い鉄橋が見える。
水門上の橋は自転車で通行することができる。

諏訪湖と天竜川では3メートル以上の水位の差があり、漁船はパナマ運河などの水門方式で水位を調節して行き来するのだそうだ。

釜口水門
釜口付近の天竜川にかかる鉄橋

釜口を超えると、いわゆる諏訪湖の裏側。
かつての鎌倉街道の西街道の古い町並みが残るエリア。

湖畔の車道は、岡谷から茅野に抜ける幹線道路で通行量が多い。
サイクリングやランナーの専用道路も整備されているが、人数は一挙に減って人影がなくなる。

釜口を過ぎると途端に人気がなくなる

諏訪湖にはいたるところに漁船やボートの船着き場がある。
防波堤で区切られた一角に数隻の船が溜まっている。
歴史ある湖の風情が感じられる。

釣り船宿
沖合の釣り場

岡谷エリアを過ぎ諏訪市のエリアに入る。
諏訪湖の表側、旅館や土産物屋が並び、遊覧乗り場がある一帯だ。

諏訪市エリアの旅館群
諏訪市エリアの遊覧船乗り場。営業は終了していた
ヨットハーバー

ヨットハーバーもある。

湖畔を離れると高島城というお城もあり、温泉町諏訪のかつての賑わいの残り香が漂う一帯も近い。
上諏訪温泉郷のこのあたり、地元の人が通う古い立寄り湯が街中にあったりもする。

湖畔は全国からの観光客で賑わう、がどこか寂しさも漂う。
かつてのように観光地に団体客が押し寄せる時代ではないし、若い人が決まった場所に詰めかけることもない。
首都圏の観光地の人波の分厚さはない。
東京から日帰りで来れる場所ではないことも大きいのだろう。

諏訪市エリアの湖畔遊歩道
間欠泉が見られる場所がある
湯気は出ているが吹き出しはなくなった
センター3階の花火展示。諏訪湖花火大会も有名だ

全長16キロの諏訪湖一周の旅。
暑いくらいの日差しと、吹く風の冷たさがアンマッチながら、気持ちの良い秋の一日でした。

かかった費用は自転車レンタル代が、4時間半で500円、駐車料金が0円でした。

帰りには下諏訪温泉の立寄り湯の一つ、菅野温泉に入りました。
240円でした。

DVD名画劇場 女優NO.4 イングリッド・バーグマン

評伝「イングリッド・バーグマン時の過ゆくまま」

全米映画協会が1999年に選定したアメリカ映画俳優ベストの女優部門で4位だったのがイングリット・バーグマン。

彼女の評伝がブックオフに200円で売っていたので、買って積んでおいた。
この度バーグマン作品をDVDで見るにあたり、積んであった評伝を紐解き、DVDで見た4作品の関連部分を拾い読みしてみた。
印象深いエピソードが山積みの評伝だったので、それらをピックアップして作品評を進めてみたい。

バーグマンは、1980年に自伝「マイストーリー」を発表していたが、当然ながら本人が望まない部分には触れていない。
1986年に発表された評伝「イングリッド・バーグマン時の過ぎゆくまま」では、自伝、資料、関係者へのインタビューなどにより、本人が触れたくなかった部分も含めた客観的なバーグマン像の創出に成功しているとのこと。

バーグマンは1915年スエーデンのストックホルム生まれ。
幼い時から演ずるのが好きで、女優を目指しスエーデン王立演劇学校へ入学。
その後、国内で演劇、映画に出演した。
この間結婚して娘を授かっている。

スエーデン生まれで王立演劇学校を出、国内で映画出演というとグレタ・ガルボと同じ経歴になる。
また、渡米前に演劇、映画で活躍し、また結婚して一女を授かっているとなるとドイツ出身のマレーネ・デートリッヒと同じ経歴となる。
欧州出身のこの2大先輩女優と、バーグマンとの共通点はこう見ると多い。

バーグマンは渡米前に11本の映画に出演していた。

評伝に目を通しつつバーグマンの作品を見るとわかってくることがある。

バーグマンの作品を見るということはすなわち、バーグマン本人の得難い個性を感じることであり、渡米後に最も世話にもなり、確執もあったハリウッドプロデユーサー、デビッド・O・セルズニックについて認識を深めることである、と気づかされる。

当然ながら、夫ペッターをはじめ、作品ごとの監督、共演者とバーグマンのただならぬ関係性にも思うところ大、とならざるを得ない。

デビッド・O・セルズニック

ハリウッドで30年代から40年代にかけて、「風と共に去りぬ」をはじめとする数々の名作を手掛けたプロデューサーのセルズニック。

キエフ出身のユダヤ人で宝石商だった父がユニバーサル映画に出入りし、その実権を握るまでになったことから映画とともに育つ。

ワーナー兄弟、ウイリアム・フォックス、アドルフ・ズーカー、サミュエル・ゴールドウイン、ルイス・B・メイヤーらいわゆるハリウッド第一世代の〈タイクーン〉らの後を継ぐ第二世代のホープとして、アービング・サルバーグ、ダリル・F・ザナックとともに〈奇蹟の若者たち〉と呼ばれた。

青年時代のセルズニック

セルズニックは映画を金儲けの手段としてのみ考える人間を軽蔑したが、同時に商売でもあることを否定し去るものを認めなかったという。

「銀行マンでは映画は作れない。ショーマン独特の勘とドラマツルギーに精通していなければならない。さらに激しく飛び交う言葉と音とを見事に統一する能力を要求される。」
これは密造酒で財を成し、投資目的で短期間ハリウッドにかかわり、去ったジョセフ・ケネデイ(ケネデイ大統領の実父)が映画プロデユーサーについて述べた言葉である。

セルズニックは(サルバーグ、ザナックも)ケネデイが看破した映画製作の要諦の表と裏を、身近に経験して育ち、長じて理解し実行する能力を持った、良くも悪くも数少ない人間のうちの一人であり、ザナックを除き長くない人生をハリウッドを舞台に突っ走しっていった。

MGM入社後頭角を現したセルズニックは、タイクーン ルイス・B・メイヤーの娘と結婚。
トップと衝突しメジャースタジオを転々とした後独立した。

ヴィビアン・リーをイギリスから、ジョーン・フォンテイーンをマイナープロからスカウトしてきた、芸能プロ社長でもあるセルズニックは、スエーデンからバーグマンをスカウトし、7年契約を結んだ。

セルズニックは自らのプロデユース作品「別離」でバーグマンをハリウッドデビューさせ、その後は彼女を高額な金額で貸し出しもした。
バーグマンがスターになり、セルズニックは長期契約を望んだがバーグマンは最後まで了解しなかった。

(余談)
ミドルネームにアルファベットを入れるのは、ルイス・B・メイヤーが始めたもののようだが、本人たちがもったいぶっているだけで特に意味はないようだ。

オーストリア=ハンガリー帝国出身のユダヤ人、エリッヒ・フォン・シュトロハイムが貴族でもないのにフォンを名乗ったようなものであり、よく言って芸名、悪く言ってギミックであろう。
また、ユダヤ系の俳優がアングロサクソン風の芸名を名乗るのも同じと考える。

ちなみにギミックがその業界で必要不可欠なのがプロレス業界で、ユダヤ人のジャック・アドキッセンがフリッツ。フォン・エリックを名乗りナチギミックでブレークするなどぶっ飛んだ例が多い。

またその当時、アメリカの日系レスラーは悪役でしかありえず、東郷、東条などを名乗り日本軍人ギミックを行うか、あるいは田吾作スタイルで下駄をはき、ゴング前に背を向けたベビーフェイス役に塩を撒くスニークアタックで真珠湾のだまし討ギミックを行うことが多かった。
ジャイアント馬場もアントニオ猪木も坂口征二も修業時代のアメリカでは田吾作スタイルでファイトしている。

「別離」 1939年 グレゴリー・ラトフ監督 ユナイト

バーグマンがスエーデン時代に「間奏曲」として主演した題材の再映画化。
バーグマンのハリウッド第一作。

「風と共に去りぬ」を製作中のセルズニックが多忙にもかかわらず頻繁にセットに顔を出したという。

レスリー・ハワードと

バーグマンの雇い主のセルズニックは、自然に見せる以外のメークアップと、英語でのインタビューを禁止してデヴューさせた。

監督はウイリアム・ワイラーでスタートし、グレゴリー・ラトフに交代。
ラッシュを見て撮影のハリー・ストランドリンクをグレッグ・トーランド(「市民ケーン」ほか)にセルズニックが交代させた。

移動ショットが多いカメラワークはトーランドの手腕だったのかもしれない。

バーグマンは単身渡米、朝9時から18時までセットに入り、夜は時に21時までピアノ練習を行った(役柄がピアノ奏者のため)。

自ら製作のセルズニックは、「非の打ちどころがないほど。一番良心的な女優」とバーグマンをたたえた。

ピアノ奏者(バーグマン)が、既婚のバイオリン奏者(レスリー・ハワード)と恋に落ちるが、現実に目覚めて恋人のもとを発つというストーリー。
生々しい不倫の物語ではなく、初々しい若い女性の偽らざる恋と別れの物語となった作品。

当時24歳のバーグマンの若々しさ、無理のない笑顔がハリウッドのスクリーンに登場。
ドレスから除く逞しい肩幅はスエーデン女性らしいが、逞しさより人間的魅力として映るのがスターたるバーグマンが持って生まれたもの。

「風と共に去りぬ」との掛け持ちで、大酒とハルシオンの常用で映画製作に臨んでいるセルズニックが、さらに命を削ってバーグマンを売り出しにかかった作品。

バーグマンの演技上の基本路線である、初々しい笑顔と健康的な体躯、無邪気な性質が、早くも存分に発揮されている。

「誰がために鐘は鳴る」 1943年 サム・ウッド監督 パラマウント

前作の「カサブランカ」の撮影を終えたバーグマンは、宣材の撮影を夫役のポール・ヘンリードと行っていた。
そこへセルズニックから、「誰がために鐘は鳴る」のマリア役がバーグマンに決まったとの電話がかかってきた。
喜びの金切り声を上げるバーグマンは、ヘンリードには「獲物をしとめた雌虎、大変な歓喜と勝利の叫び声」のように聞こえた、と評伝にはある。

原作者のヘミングウエイもマリア役はバーグマンしかいないと公言。
有名人にも味方が多いのもバーグマン個人の魅力のなせる業。

雇い主のセルズニックは、バーグマンを約12万ドルでパラマウントに貸し出し、バーグマンには約3万ドルを支払った。

クーパーとともに

映画はシエラネバタ山脈へ10週間のロケを敢行。
野外撮影は、自然児バーグマンにとって、爆発しそうなほどの幸せだった。

ロケの最中には共演のゲーリー・クーパーと空き時間ほとんどを一緒にいるほどの仲になり、ラッシュを見たパラマウントの幹部は両者のロマンスを確信した。
スタッフはバーグマンに対し、クーパーと一緒のシーンではあまりうれしそうな表情をしないようにとアドバイスしたという。

二人の仲は次の「サラトガ本線」の間は続いたが、そのうちクーパーからの連絡もつかなくなって終了した。
クーパーはのちに「あれほど自分を愛してくれた女性はいなかった」と述懐したという。(ということはのちのパトリシア・ニールとの浮気というか同棲はそうでもなかったということなのか?)

マリア役を演じた

この期間中も、セルズニックはバーグマンとの長期契約を画策したが果たせなかった。

作品は、短髪で素顔が太陽に光り輝く乙女役のバーグマンがむしろ脇に回り、ピレネー山脈中の人民軍(政府軍側に言わせると山賊一味)の堕落したリーダーとその情婦を中心にした組織論であり、絶望の中に活路を見出さんとするパルチザンの物語。
そこにアメリカ人義勇兵のクーパーの橋爆破の任務と、政府軍に両親を殺された娘マリアが絡むもの。

ハリウッド美男美女からは程遠いがリアルなリーダー役(エイキム・タミロフ)と情婦役(ギリシャ人女優:カテイーナ・パクシヌー)の熱演も、クーパーが出てくると定番の西部劇か何かに見えかねない難点はあるものの、ロケ撮影でドラマをまとめ上げたスタッフの意欲は買いたい。
バーグマンはなるほど楽しそうに生き生きと演技していた。

夫のペッター、娘のピアは、このころではすでにアメリカで暮らしている。

「ガス燈」 1944年 ジョージ・キューカー監督 MGM

評伝にこの作品のことはほとんど出てこない。
評伝に記載するほどのロマンスもゴシップもなかったのかもしれない。

製作はアーサー・ホーンブロウ・ジュニアで配給はMGM。
セルズニックは製作にタッチしていない。

「ガス燈」シャルル・ボワイエと

バーグマンは訳ありの夫から精神的に追い詰められる新妻役。
タネは終盤まで明かされず、観客もバーグマンと一緒に不安な気持ちにさせられる。

演出はジョージ・キューカー。
MGMで、ガルボやキャサリン・ヘプバーンの信頼を得た監督であり、本作も遺漏なく丁寧な造り。
だが、サスペンスというより、夫(シャルル・ボワイエ)のモラハラ成分が強く出てしまい、純粋サスペンスのヒッチコック作品とは若干の手腕が違う印象。

バーグマンはもう一つの定番演技である、追いつめられる罪なき若妻、のキャラを申し分なく演じる。
がそれ以上どう?といわれても困る作品。

「ジャンヌ・ダーク」 1948年 ヴィクター・フレミング監督 RKO

イギリスに侵略され国土が分割した15世紀のフランス。
優柔不断な皇太子シャルルは、オルレアンの乙女・ジャンヌのおかげで劣勢のフランス王に即位できたにもかかわらず、パリ奪還をせず、あまつさえ救国の乙女ジャンヌを占領軍イギリスに売り渡してしまう。

このシャルルを演じたのがホセ・ファーラー。
単なる卑劣漢ではなく、品位も保った貴族の、骨の髄からの堕落ぶりを演じて印象に残った。

ファーラーが評伝で言う。
「女優ならだれでもジャンヌをやりたがりますよ。俳優は気高い人物と自分を同一視して、心底からその役を自家薬籠中のものにしたいと思うんです。彼らの職業生活ときたら腐敗に満ちているのに、俳優というものは実際の業績以上に理想化されるんですよ。イングリッドは自分自身の神話を信じ始めたんだと思います。とにかく変わった女性でしたから。」

「ジャンヌ・ダーク」。宗教裁判の一場面

バーグマンはかねてからジャンヌの映画化を希望していた。
ブロードウエイの舞台でジャンヌを演じてもいた。
セルズニックでさえ1940年にはバーグマン主演でジャンヌを企画している。

「イングリッドがこの作品で描きたかったのは15世紀ヨーロッパの血にまみれた道徳的にあいまいな世界で生命を燃えつきさせた歴史上の人物ではなかった。イングリッドが演じたかったのは、神話的なジャンヌ、生徒向けの安価本に書かれているジャンヌだった」(評伝作者)。

さはさりながら、バーグマンはこの作品に、企画者、出資者、監督の愛人、脚本家のお気に入りとして参加した。
セルズニックとの契約は切れ、契約延長には応じていなかった。
監督の62歳、ヴィクター・フレミングはバーグマンなしでは生きていられないほどになり、これまでの数々の監督、共演者らと妻バーグマンとの情事に疲れた夫ペッターとの結婚生活は(実質的にはとっくに)破綻にむかっていた。

バーグマンの家族。夫と娘

作品は要領よくストーリーを追っており、人海戦術によるオルレアンでの城壁攻略場面の迫力もあり、シャルル皇太子の戴冠式のセット等も見ごたえがあった。(DVDは114分だったが、オリジナルは140分とのこと)。

バーグマンが家族を捨てハリウッドを捨てて、イタリアのロベルト・ロッセリーニ監督のもとに走るのは、次回作「山羊座のもとで」(1949年 アルフレッド・ヒッチコック監督)を撮り終えたのちのことだった。

諏訪大社下社の御柱

令和4年の御柱の現在を見ようと諏訪大社下社へ行った。

下社秋宮の御柱

下諏訪町にある諏訪大社下社秋宮。
立派な神社である。

下社秋宮の鳥居

社内の雰囲気が素朴で気高さを感じる上社に比べて、権威と荘厳さを感じる下社。

歴史は下社の方が新しい。

祀る神様は下社と同じタケミナカタの尊、というが長い歴史に翻弄され、神仏習合→廃仏毀釈→国家神道、の歴史を経てきた古い社に表面的な解釈は通じない。
上社が祀る神様が、鹿の首を祀る肉食の文化を祀る神様だったように、下社にも独自の深い歴史があるに違いない。

鳥居をくぐったところのご神木
狛犬に守られた神楽殿
拝殿

諏訪の神様の依り代が、山、石、木。

下社におけるそれは、背後の霧ヶ峰に連なる山々、木にも不自由しない。
では石は?

境内にあったのはさざれ石。
君が代に謳われる、天皇の枕詞ともいうべきもの。

関東は茨城県にある鹿島神宮にも立派なさざれ石があった。
でも諏訪大社は違うんでないかい?
下社は諏訪本来の神様というより、縄文以降の中央集権的な神様を祀っているのだろうか?

境内のさざれ石

拝殿の四隅には御柱が立っていた。
真新しくはなく、ひと夏を経過した貫禄が漂っていた。

拝殿の周りに立つ御柱

下社春宮の御柱

春宮から中山道下諏訪宿を抜けたところにある下社春宮。

春宮の鳥居

権威を感じる堂々たる秋宮に比べ、狭く、ひっそりと素朴なたたずまい。
半面粗削りな凄味も感じる。

神楽殿

近くに万治の石仏があるのでも有名。

境内に至る急坂は、御柱祭の時に二度目の木落しが行われるという。

拝殿は四隅に御柱を携えてたたずんでいた。

御柱

御柱館よいさ

春宮からほど近く、御柱館よいさ、がある。
7年に一度の御柱祭が開かれた今年、2度目の訪問をした。

御柱館よいさの玄関

前回もそうだったが、入場後はボランテイアさんがつききりで解説してくれる。

館内は、御柱祭の映像、山出し、里引きのルートのパノラマ、里引きに使われる高島藩の長持ちなど、が主な展示内容。
何より、御柱祭の里に生まれ育ったボランテイアさんの熱い案内ぶりがいい。

館内の展示

一通り見た後、ボランテイアさんを捕まえて日頃の疑問をぶつけてみた。
「どこから来たの?」とこちらのアイデンテイテイを最低限確かめた後、地元のボランテイアさんは答えてくれた。

木落の模様

  Q、かつては女人禁制だった御柱祭が女性の木遣りもいるが?

「かつては引き綱を女性が跨ぐなどもってのほかだったが、今では木遣りや引き綱もやる。里引きの花笠踊りなども」

  Q、下社と上社では木落しなどもかなり違うが?

「上社の木落坂は土を盛ったもの。下社の木落坂は斜度35度。危険だが今は死者は出ない。」

  Q、里曳きが賑やかで、奴さんや花笠踊りなど出し物が多いが大名行列の影響か?また下社独特か?

「高島藩の大名行列を取り入れたもの。上社も同様な里曳きをしているはず。」

  Q、旧軍の進軍ラッパを里引きなどで吹いているが、明治以降に取り入れたものと思う。終戦後にGHQによく禁     止されなかった?

「あはははは。景気づけにやっている。かつて批判されたようなこともあったが。」

  Q、下社はなぜあんなに立派?

「秋宮はね。春宮はかつては寂しくて観光客も来ない時期もあった」

  Q、下諏訪町は諏訪市と仲が悪い?

「かつては岡谷も含めて合併の話があったがいつのまにか立ち消えになった」

話が尽きませんでしたが、次のお客さんが来たので館を後にしました。
ボランテイアのご婦人たち、訳も分からないおじさんのお相手いただきありがとうございました。

里引きで使われる道具類

キューリの粕漬

塩漬けのキューリが直売所に出ていたので買っておきました。
上田の岡崎酒造に酒かすが出ていたのでこれも買っておきました。

10月に入ったある日、思い立ってキューリの粕漬を漬けてみました。

買っておいてひと夏越したキューリの塩漬け、冷蔵保存でまったく劣化していません。

さっそく塩出しです。
水に半日漬けてみますが、キューリの塩っ辛さは全く抜けていません。
一晩塩抜きすることにします。

塩漬けキューリの塩出し

ある年、自分でキューリとナスの塩漬けを作ってみたことがあります。
しばらくたって樽を開けてみると、キューリの果肉が崩れていました。

夏野菜の塩漬けはなるべく早くに野菜の水分を抜くのが肝心です。
多めの塩と重い重しで2度漬けするのがいいようです。

直売所で入手したキューリは思いっきり塩辛く漬かっておりました。

一晩塩出ししたキューリ

一晩塩出ししたキューリを粕に漬けます。

岡崎酒造謹製の酒かす

粕に砂糖を混ぜて滑らかにしてゆきます。
砂糖の分量は粕の半分ほどです。
レシピには塩も混ぜるとありますが、キューリがしょっぱいので小さじ1杯程度にします。
砂糖にはザラメを混ぜます。

板粕に砂糖を混ぜる

岡崎酒造の板粕、いつだか、買い求めたとき、先代の同酒造おかみさんに「酒粕何に使うの?」と聞かれ、粕漬用にと答えると、「もったいない、漬物にはもっと安いやつでよい。これはかす汁とか甘酒に使って」と指導をうけたっけ。
おかみさんごめん、やっぱり粕漬に使わせてもらうわ!

粕が滑らかになり、いよいよ漬け込みます。
洗って乾かしておいた甕を用意します。

板粕を練ってゆく
砂糖と混じって滑らかなつやが出る酒かす

甕の底と、最後のキューリの表面に粕が残ることを意識し、またキューリとキューリの間に粕をサンドイッチすることを意識します。

甕にキューリを漬け始める
キューリを漬け終える

ラップで密封し、布巾で口を閉めて冷暗所に保管です。

いつ食べられることやら。

蓋をして保存

八ヶ岳美術館と井戸尻考古館

秋の半日、原村と富士見町にある美術館と博物館を訪ねた。

八ヶ岳美術館、原村歴史資料館

まず、原村にある八ヶ岳美術館へ。
原村中心部から八ヶ岳山麓方面へ上ってゆく。
八ヶ岳連峰の赤岳登山口の美濃戸の近く、御柱が山出しされる道の近くに目指す美術館がある。

この美術館は、原村出身の彫刻家・清水多嘉示の作品収納展示のために作られた村立の美術館。
原村の歴史資料館も兼ねており、むしろそっちの部分への関心のため訪れたのだった。

八ヶ岳の麓、集落は途絶え別荘が点在する森林地帯に美術館はある。
駐車場から入り口までのアプローチが長く、地元の中学の卒業生徒が毎年作っているというブロンズ像が野外に並んでいる。

美術館へのアプローチに立つ中学生の卒業ブロンズ像

入場する。
ほかに2,3組の入場者。

係のお姉さんに写真撮影の可否を聞くと、記入用紙に住所氏名と目的を記入せよとのこと。
目的の記入ですったもんだしているうちにそのお姉さんと話が弾む。

来館目的は美術鑑賞というよりは、縄文遺跡だったり歴史物の展示だというと、「どうして?」と聞かれたので、縄文文化と諏訪の神様の関連性を知りたい、と答える。

「館長さんがいればよかったのに。館長さんは諏訪湖の御神渡りの時にお祓いをする神社の宮司さん。」とのこと。「縄文に関心があるなら、富士見の井戸尻考古館がいい」などとも。

こういった施設の学芸員らしく、縄文や諏訪の神様にも関心の深いそのお姉さん。
話が尽きないので入場する。

館内は、よくある地方の埃っぽい郷土資料館ではなく、芸術家のアトリエっぽい雰囲気。
独特の採光性の良い建物の中にブロンズ像がずらりと並んでいる。
郷土出身の作者のフランス留学時代の写真や手紙の展示が興味をそそる。

肝心の歴史資料関係では縄文土器の常設展示と、この地方の伝統である裂織という織物の特別展示が中心だった。

この施設は美術館というだけあってアトリエのようなしゃれた美術館であった。
また、裂織展のような、地方性に富んだ特別展示にも力を入れており、地方の資料館にありがちな沈滞しきった雰囲気ではなく活気があり、よく整備されている感じがした。

井戸尻考古館、富士見町歴史民俗資料館

美術館を出て、富士見町の井戸尻考古館まで行って見る。

井戸尻考古館は長野県と山梨県の県境に近く、JR信濃境駅からほど近い、井戸尻遺跡にある。

井戸尻考古館入り口

館内は主に遺跡から出土した土器、土偶、石器などが展示されている。
考古館の入り口からは山梨方面に山並みが広がり、富士山も遠望される。
絶好のロケーションであり、ここで暮らした縄文人をうらやましく思う。

考古館入り口より望む展望

物言わぬ土器や石器にはいまいちロマンを感じることができない山小舎おじさんだが、土偶も含めこれらの物量が、何千年後かに出土した遺跡というものの存在感に思いをはせることはできる。

展示物。竪穴住居復元模型

隣の胸の歴史民俗資料館へ。

予想通り、農機具のほか、江戸時代以降の生活用具が展示されている。
目を引くのが当時の農家の家屋の復元模型。
また、昔のチェーンソーや薄い板を引くことができるのこぎりなどは貴重なものだった。

館内の農家家屋復元模型
初期のチェーンソー
板を縦引きするノコギリ!

明治以降の生活用具の数々には日本人の生活レベルの高さと、当時の地方の生活水準の高さがうかがえる。
また、奥の部屋には戦国時代からの刀剣、兜などが展示されており、この地方の歴史の深さを感じることができる。

帰りにJR富士見駅周辺に寄ってみる。
駅前ロータリーには立食いそば店もあり、食堂も並んでいる。
駅から続く商店街も小規模ながら残っており、地元に根付いたいい感じである。
ゆっくりと再訪してみたい富士見駅周辺だった。

丸太を処理

丸太をもらいました。
わけあって、その丸太を至急整理し、敷地を一度きれいにしなければならなくなりました。

丸太をもらいました
細めの丸太が積みあがっています

もらった材木は、細い丸太が多く、枝もたくさんあるので、玉切りに時間がかかりそうです。
チェーンソーの刃を取替え、燃料、オイルも十分用意します。

丸太の種類はシラカバがほとんどで、広葉樹とカラマツが混じっています。

早速、積み上げられた丸太を上の方からかたっぱしに切ってゆきます。
新しいソーチェーンはどんどん切り進めてくれます。
仕事の効率、やる気増進にはチェーンソーの切れが肝心なことをつくづく感じます。

切り始めます
切り進めながら切ったものを積み上げてゆきます
かなり切り進めました

切りながら、枝は枝で集め、太い玉は玉でまとめてゆくようにします。
改めて玉の重さ、丸太の重さを痛感します。

地面や石などに当ててソーチェーンが切れなくなることがないように細心の注意を払います。

ある程度集まったら軽トラに積み込んで玉や枝を移動します。

枝はそれ以上割らないで積み込んで乾かします。
玉はまとめておいて薪割りします。

玉のままでは重くて、軽トラに積み込めないようなものは、その場で割ってから積み込みます。

切ったものを軽トラで運びます
重い玉は現場で割ります。まずチェーンソーで切れ目を入れます
くさびで断ち割ります
ハンマーとくさびで割ります

3日ほどかかって切り終わりました。

敷地がきれいになりました。
これで一安心、ゆっくり薪割りや積込みをする予定です。

敷地がほぼきれいになりました

DVD名画劇場 監督フランク・キャプラ

フランク・キャプラは貧しいシチリア移民の家から身を起こし、ハリウッドで映画監督になった。

1920~30年代のハリウッドで育ったバッド・シュルバーグの自伝「ハリウッドメモワール」では、風紀乱れるハリウッド(プロデユーサーであるその夫も女優の家に入り浸っている)に住人である著者の母が、「あの人たちのように暮らしなさい」と息子である著者に言ったのがフランク・キャプラの一家だったという。

本ブログでも、キャプラ作品の「オペラハット」(1936年)、「我が家の楽園」(1938年)、「スミス都へ行く」(1939年)を紹介した。
どの作品も、善良で素朴な若者が、己の良心に従って身近な悪と戦うというもので、庶民の人間性と素朴な正義が、謳われていた。

キャプラ作品はDVDでも多数ラインアップされており、自然と手許に集まってきた。
代表作を含む全盛期の4作品を見た。

「或る夜の出来事」 1934年 フランク・キャプラ監督 コロムビア

キャプラの出世作。
MGMからクラーク・ゲーブルを、パラマウントからクローデット・コルベールを借り受けた弱小スタジオ・コロムビアがメジャー化していったきっかけとなった作品。

髭ははやしていたが(1931年の「残劇の砂漠」では髭がない悪役を演じていた)、まだ若くアクションもどきの素早い動きを見せるゲーブル。
勝気な金持ち娘を演じ、ツンデレぶりも可愛いコルベール。
旬のスター二人が力いっぱいの演技で繰り広げる、ロードムービーにしてロマンチックコメデイ。

映画の観客が求めるものを的確で無駄なく提供したキャプラの監督ぶりは、封切りから90年近く後のDVD視聴者(山小舎おじさん)をも陶酔させる。

ゲーブルとコルベール

当時のアメリカの風景。
長距離夜行路線を走るボンネットバスでは車内販売もしていた。
休憩時間に泊まるドライブインではハンバーガーが売られ、興が乗ると車内で生バンド演奏が繰り広げられ乗客が合唱する。

これらの光景は決してキャプラの楽天的な妄想だけではないのだろう、当時のアメリカの風俗だったのだろう。
なんと牧歌的だったことよ。
場面転換に音楽(画面にバンドが現れる)を使うのがキャプラ流演出の定番だったとしても。

ヒッチハイクのシーン

ラストシーン、結婚式の宣誓で、新郎が誓った後で、新婦のコルベールが逃げ出し、ゲーブルのもとに向かう。

最終のタイミングで、花嫁一人での決断!

花嫁キャサリン・ロスがダスティン・ホフマンに連れ去られる「卒業」(1967年 マイク・ニコルズ監督)より過激で自立した女性像ではないか!

クローデット・コルベール

キャプラ作品では孤軍奮闘する若者に、年長の理解者が現れるのも定番。
この作品ではゲーブルが所属していた新聞社のデスクがそれであり、コルベールの金持ちだが娘の気持ちに理解ある父親がそれだった。

「群衆」 1941年 フランク・キャプラ監督  ワーナーブラザーズ

キャプラが古巣コロムビアを離れての最初の作品で、「オペラハット」「スミス都へ行く」の路線をさらに突き詰めた内容となっている。

すなわち、善良で素朴な主人公(ゲーリー・クーパー)はホームレス上がりの設定とされ、対する社会悪は単に金持ちというだけでなく、マスコミを操作し、民衆を政治的権力のために利用しようとする勢力として描かれる。
このあたり、現代でも基本的には共通する「個人対権力」の構図そのままである。

まだ若いクーパーが素朴さ丸出しで、オドオドし、野球の投球フォームをするときだけ生き生きとするのに対し、権力者(キャプラ作品の常連黒幕役:エドワード・アーノルド)は、政治的野心のために他人を利用し、捨て去る冷酷なキャラとして描かれる。
私利私欲のため、というよりは何かに突き動かされるように動く権力者が不気味である。

権力者の群衆操作により、主人公が偶像から何もない一般人となる瞬間のシーンが素晴らしい。

集会に集まった群衆が、権力者のキャンペーンと扇動により、離反してゆき、主人公がマイクの前でたった一人で残される。
雨の中の群衆シーンに緊張感がみなぎる。

主人公のホームレス仲間で、最後までその姿勢を崩さないウルター・ブレナンが、キャプラ作品に共通する、「孤立する主人公の数少ない味方」のこの作品でのキャラ。

もう一人の味方で、かつてはジーン・アーサーがよくやったヒロイン役にバーバラ・スタンウイック。
芸達者なスタンウイックは、悪女役もこなすがこの作品ではその片鱗も見せずに主人公をバックアップする役を溌溂と演じて好感度アップ。

ゲーリー・クーパーは、素朴な田舎者を演じたこのころが一番良かったのではないか。

「毒薬と老嬢」 1944年 フランク・キャプラ監督  ワーナーブラザース

それまでのキャプラタッチを離れ、ひたすらブラックなスクリューボールコメデイに徹した作品。

二人の老嬢が住む都会の片隅の高級住宅地。
周りの住人だったり、巡回する馴染みの巡査だったりは、一見善意の人々だが、話が進むにつれてちょっと変わった人々に見えてくる。

普通の人々が、特殊な環境下で右往左往するコメデイではなく、主人公(ケーリー・グラント)と隣人の牧師の娘(プリシラ・レーン)以外はちょっとずれた人が、ずれた行いを行うことで生ずるブラックなコメデイ。

「フィラデルフィア物語」(1940年 ジョージ・キューカー監督)では貫禄が出かかったケーリー・グラントが、「赤ちゃん教育」(1938年 ハワード・ホークス監督)のころに戻って、しゃべりまくり、リアクションする。
役者に歳は関係ないということなのだろう。

グラントの義理の兄が整形して登場し、整形医師としてピーター・ローレが出てくる。
この二人の犯人キャラを巡るサスペンスシーンはキャプラ作品らしくなくイマイチ。
また、整形後の義兄に対し「ボリス・カーロフ(に似ている)」のセリフが頻発される。
アメリカのコメデイにつきものの楽屋落ちだが、どうもキャプラ作品には似つかわしくない。

キャプラ作品らしい正義感に満ちた結末や、ニューデール的な価値観と共通するアメリカンヒューマニズムは見られ無いところが山小舎おじさん的には不完全燃焼。

「素晴らしき哉、人生!」 1946年 フランク・キャプラ監督 リバテイプロ(RKO)

独立したキャプラが、ジョージ・ステイーブンス、ウイリアム・ワイラーとともに興した独立プロの作品で、RKO配給。
キャプラがプロデユースもしている。

これまでのキャプラ作品の集大成にして、その特質を存分に発揮し、やりたかったことをやり切った作品。

この作品は、ドナ・リード(左)の存在が忘れられない

素朴で正直な田舎者の主人公、それを見守るしっかり者のパートナー、利益のことしか頭にない悪役、主人公を助ける思わぬ支援者、とキャプラ映画の主要キャラクターがわかりやすく全員登場。
脇を彩る楽団だったり、子供もシッカリ出てくる。
起承転結がしっかりしており、転が結末間近に訪れる構造も。

主人公(ジェームス・スチュアート)は田舎町に生まれ、大学に行きたかったり旅行が趣味だったりするが、弟のために譲り、家業の住宅金融の跡を継ぐ。
幼馴染(ドナ・リード)とも相思相愛ながらスマートに求愛できない(のちに結婚)。
主人公はその行いから、町のタクシードライバーや警官、バーのマスターまでに信用と人気がある。

この主人公が町のボス(ライオネル・バリモワが珍しく悪役)の妨害、懐柔と戦いながら、町の住民のために庶民向けの住宅金融を行ってゆく。
恐慌も、妻や社員、住民の協力で乗り越える。

あるクリスマスイブの日に、住宅金融の社員が8000ドルを紛失したことから、主人公が苦境に陥り、生命保険を最後の手段に自殺まで考える。
そこに現れるのが主人公の守護天使。

天使はやけになった主人公に、彼がいない場合の町の様子を見せる。
まるでパラレルワールドのようなその世界は、町のボスに支配された殺伐とした世界。
妻は独身で眼鏡をかけた司書をしていて、迫る主人公から悲鳴を上げて逃げる。
実母は険しい顔をした下宿のおばあさんで、冷たく主人公を拒否する。

天使に頼み込み、8000ドルの責任を負ってもいいからと元の世界へ戻してもらう主人公。
そこには愛する妻と子供たち、信頼のおける友人たちがいた。
涙なくしては見れない山小舎おじさん。

キャプラ作品の理想像、理解ある家族と友人に囲まれた幸せな主人公を象徴するシーン

ヘタな理屈を考えず、自分が愛するキャラクターを全員集合させたキャプラの姿勢が好ましい。
リアルさよりも好みを優先する巨匠の作風に、小津安二郎の「秋刀魚の味」を思い出してしまった。

キャプラ作品につきものの主人公の支援者に「天使」を持ってきた。
人知の及ばぬ世界を否定せず、そういうこともある、というキャプラの姿勢であろう。

おそらくジェームス・スチュアートの、そしてドナ・リードのキャリア最良の演技のうちの一つであろう。

派手で男好きな幼馴染役を演じたグロリア・グレアム(のちのニコラス・レイ監督夫人)のデビュー作でもあった。

軽トラ流れ旅 初秋の青木村、保福寺峠

今回の軽トラ旅は、9月のお彼岸の頃の旅。
上田地区から峠を越えて青木村へ、そこから旧東山道を通り、保福寺峠を越えて松本方面へ流れました。

青木村は収穫シーズンだった

上田市内の鹿教湯から、小県郡青木村へ抜ける峠道・県道12号線は、2019年の台風19号の被害で長らく通行止めになっていました。
今年2022年の春にようやく開通となりました。

県道12号線

ほぼ一車線の道幅の山道で通行量は少なく、たまに対向車が来ると緊張します。
ここを通行したときに同乗していた家族は、もう通りたくない、と言っていました。
山小舎おじさんはなぜだか時々走りたくなる道です。

松本街道とも呼ばれた県道12号線。道沿いには道祖神も

狭い山道を抜け、峠を下りると、青木村の里の風景が広がります。
収穫期の田んぼの間に、蕎麦の花が咲いています。
江戸時代になって中山道が別ルートで整備される以前は、このあたりを通る東山道が西と東を結ぶ主要街道でした。

青木村の田んぼは収穫時期
これから収穫を迎えるそば畑

村の歴史文化資料館を訪れました。
村出身の東急グループ創始者の五島慶太の業績を展示する記念館と併設して歴史文化資料館がありました。

展示コーナーは4つに分かれています。
昭和の生活を記録した民俗資料館、遺跡土器の展示コーナー、郷土出身の俳人栗林一石路の展示室、義民資料展示室です。

まず、古墳から発掘された直刀に驚かされます。
また石棒も展示されています。
この地方が、諏訪の神様やミシャグジ神と関連することもうかがえます。

古墳出土物。直刀があった
石棒は信州に多い神様の象徴

昭和の暮らしの記録と展示物のコーナーを見ます。
様々な展示物を見ると、青木村が豊かな地域(だった)ことがうかがえます。
かつては多くの人口を抱え賑やかだった様子、高度成長時代以降は都会並みの生活水準を享受し、当時の最先端の電化製品を駆使していたことに、軽く驚かされました。

山小舎おじさんなどは青木村というと勝手に過疎地域をイメージしますが、おじさんが育った北海道などよりよほど物資、文化に恵まれた地方だったようです。
本州と北海道の違いなのでしょうか。

青木村のかつての生活がうかがえる
戦前の青い目の人形は破棄されずに保管されていた

義民資料室へ行くと江戸時代の青木村の存在感が伝わってきます。

青木村の歴史は一揆とともにあったようです。
展示資料を見るとやはり東北、信越地方に一揆が多く発生しています。
農産物(穀物)の生育にハンデがあった地域です。
いかに勤勉でおとなしい民度を持つ地域とはいえ、人間には最低限必要な生活水準があり、我慢の限度もある。
青木村に限らず、上田、松本などにも一揆の記録があり、主導者を義民としてたたえ伝える歴史があるのでしょう。

県別の一揆発生状況。

時の権力者の徳川家康を恐れさせ、大坂冬の陣では家康の本陣寸前にまで迫った真田幸村といい、信州人は怒らせると怖いのかもしれません。

道の駅あおきへ行くと、太鼓の演奏をやっていました。
義民太鼓の幟が立っています。
やはり義民の歴史は村の誇りなのです。

道の駅あおきでは義民太鼓の演奏が

満員の食堂で、義民太鼓の太鼓の音を聞きながら天丼を食べました。
量は十分。
ご飯は地元のお米なのでしょうが、ぜいたくを言えばもうちょっとご飯が美味しければ・・・と思いました。

道の駅の食堂。マツタケご飯は本物を使ってます
天丼。900円

直売所へ行くと、キノコ、リンゴ、ブドウ、新米と秋の実りであふれています。
この地域は全国的にもマツタケの名産地で、時期には松本方面からもマツタケを求めて人がやってくるのです。

直売所では新米も

保福寺峠を越える

青木村と松本を結ぶ峠道が保福寺峠を越える県道181号線。
東山道が通った道で、明治になってウエストンという外国人がここの峠から眺めた風景に感動し、飛騨山脈を(北)アルプスと名付けたという。

現在は青木村と松本を結ぶ主要道路は、青木峠をトンネルでくぐる国道142号線にその座を譲っている。

県道181号線も2019年の台風19号の被害で、保福寺峠越ができなくなっていた。
山小舎おじさんにとっては初の道です。

県道181号線。麓の集落

麓には集落が広がる。
まもなく道幅一車線となり、対向車ゼロの山道が続く。
止まっている車はキノコ採りの地元の車。

走っても走っても、深い山に分け入ってゆくだけで先が見えない。
ところどころに東山道遊歩道の標識が現れる。
遊歩道というにはふさわしくない寂しさ、山の気配が支配的です。

ところどころに案内の標識が

ようやく峠に到着。
松本方面からバイクが1台通って行った。
軽トラを下り、少し歩いてウエストンの碑を見る。

明治時代にここまで来たというウエストン。
村人の案内で、籠できたのか、馬を使ったのか。
当時のゆったりとした時間の中とはいえ、休む場所にも事欠き、途中で宿泊など思いもよらぬ道中だったろう。
青木村に前泊し、早朝出発して1日かけて往復したのだろうか。

保福寺峠にあるウエストンの碑

ウエストンの碑から眺める北アスプス

周りの景色を眺める余裕もなく、東山道の昔を思う暇もなく、とにかく遠いと思いながら走った峠越え。
かつて家族とともに美ヶ原から山道を松本に下った時もたいがい遠く感じましたが、信州の山塊の懐の深さに改めて畏れを感じた山小舎おじさんでした。

麓の化石館で驚く

峠を境に小県郡青木村から松本市へ。
まもなく集落が現れ、県道181号線が国道143号線とぶつかるところに化石館があった。
最近、孫娘が博物館好きだとわかった山小舎おじさん、情報収集も兼ね寄ってみる。

なんでも、松本市四賀というこの地区は化石の宝庫らしい。

館内に入ってみる。
子供が親しみやすいように、化石に触れたり図鑑が並べてあるロビー。
その奥の展示室には復元されたクジラの大化石が、青くライトアップされて宙に浮かんでいた。

シガマッコウクジラの化石標本

立派なアンモナイトなどの化石も多数展示されている。
化石好きな人にはたまらない空間だろう。

館内にはアンモナイトの化石なども

ロビーへ戻る。
付近の地形のパノラマがあった。
化石の出土ポイントがたくさんある。
この地区の見どころは、化石と虚空蔵山だと感じた山小舎おじさん。

事務室の学芸員のお姉さんに、化石出土ポイントと虚空蔵山について質問。
クジラの化石が出土した状態で保存されている場所があるとのことで、その場所の地図をいただく。
虚空蔵山のビューポイントも聞いたがそれについては明確な回答はなかった。
虚空蔵山までは遠いから、まあいいか。

とりあえず地図に沿って進む。
人知れぬ川のほとりに、ガラス張りで展示された一角が見えた。
中を覗くと小型クジラのほぼ全身状態の化石があった。
震災前の宮城県で見た、歌津魚竜館の.化石を思い出した。

化石館から車で5分ほどのところにあるクジラ化石の現地保存場所
出土状態で保存されているクジラの化石

帰りは松本市街を通り、直売所に寄ってリンゴや漬物を買って帰りました。
まだまだ暑さが残る初秋の流れ旅でした。

松本に来たら寄る直売所
紅玉、漬物などを買って帰る