春の山小舎リフレッシュ! 玄関、長靴、スリッパ、マットを掃除、洗濯、天日干し

5月とは思えないまぶしい日差しはまるで初夏のようです。
初夏の風物詩・春ゼミの鳴き声が聞こえてきました。
野原ではわらびも芽を出しています。

春ゼミが鳴き始めた姫木の森

山小舎大掃除にぴったりの日です。
この日は毎日利用する玄関の、特に長靴、スリッパとその置き場あたりをきれいにしました。

まずはスリッパです。
2、3年前にすっかり買い替えた来客用のスリッパを2回に分けて洗濯機に放り込みます。
無香料の粉せっけんでぐるぐる回し、脱水したら並べて干します。
今日のような陽気はスリッパ洗いにぴったりです。

洗ったスリッパを干す
洗ったスリッパを並べて干す

スリッパを収容していたケースを取り出し、重曹液で拭いて天日に干します。
1年ぶりのリフレッシュです。
ケースがあった場所(玄関の踏み台の端っこ)をたっぷり拭き掃除して、風を通します。
この冬、玄関には小鳥の乾燥した死骸があったりしました。
冬を越した山小舎は春を迎えてリフレッシュしなければいけません。

スリッパ収納ケースを拭いて、干す

玄関のたたきには長靴とその収納ケースが置かれています。
プラスチックのケースを取り出して外でホースの水をかけます。
長靴は破れたものは捨てて、使えるものは日干しします。
ゴム長靴は、草苅りの仕事などをしていると1年で破れることが多いのです。
また、冬には絶対必要なアイテムでもあるので常備しなければなりません。

洗った長靴収納ケース
長靴を干す

脱衣場の棕櫚のマットも洗いましょう。
酸素系漂白剤にマット全体を漬けておきます。
しばらく置いてから引揚げ、ホースの水とたわしで流します。
茶色の水が出ました。
先代オーナー時代からの備品のマットは、おそらく初めての洗浄だったと思います。
キレイになった後はタップリと天日に干しておきます。

脱所のマットをオキシ洗浄
オキシ漬けしたマットを流水で流す

玄関のたたきからホーキで、ゴミや虫の死骸を掃きだします。
ついでにぞうきんでたたきの部分も拭きます。
どろどろになったぞうきんを庭のバケツに投げ込み、ホースで洗います。

すっかりキレイになりました、玄関はすぐに泥や砂利がたまりますが。

拭いた後の玄関の壁とたたき

さわやかというか、まぶしく暑いくらいの標高1400メートル以上の高原。
この日のミニ大掃除が終わりました。

令和7年畑 水やりと支柱立て

苗を植え終わった畑に行きました。
一番草も刈って、ひと冬の垢を落とした畑です。
夏の旺盛な繁茂の前の隙間だらけの姿です。

この日、一足早い猛暑の中、どの苗も懸命に根付くように頑張っています。
一度も水やりしないトマトも元気です。

キャベツ、レタスの苗、シソ、バジル、ビーツなどの種まきした畝に水をやります。
種を蒔いた上に、乾燥防止に枯れ草などを被せていますが、枯れ草ごとカラカラに乾いています。

手前のキャベツ、レタスに水やり

ナス、キューリ、ピーマン、夕顔、などなどに潅水します。
葉っぱが垂れ下がっていた夕顔、ズッキーニなどには恵みの水だったでしょうか。
ナスやゴーヤも水は大好きなのです。

畑のそばの側溝の水量が少なくなってきたので、次回は山小舎から水を運ぶことにしましょう。

ポリタンクを潅水に使う

潅水の後は支柱を立てる作業です。
トマト、キューリ、ゴーヤ、夕顔、ヘチマ、冬瓜などの畝にアーチ形の支柱を立ててゆきます。
その前にナス、ピーマンなどの苗のあんどんを外し、支柱を1本立てて苗を支えておきます。
ツルが出るものもとりあえず支柱を1本立てておきます。

トマトの畝にアーチ形の支柱をかける
夕顔、冬瓜などの畝にも支柱

もう少しすると、アーチにネットをかけたり、横棒をつけたりしますが、本日はここまで。

いよいよ夏を迎える準備の畑です。

軽トラ流れ旅2025(ショート) 山梨県白州へ、道の駅と塩沢温泉

かねてから行きたかったホッサマグナの湯へ行ってみました。

まずは、富士見へ出て国道20号線を目指します。
富士見町の中心部にあるAコープをのぞいてみます。
割と大きな店舗で、地元産の福味鶏からアルプス牛までそろっています。
地元産の山菜と、長野産の風さやかというお米を購入しました。
5キロ3800円ほどでした。

富士見町中心部から国道20号線に出て南下します。
塩沢温泉は甲州街道・蔦木宿の手前、山梨県境より少し手前です。
時間があるので、そのまま南下し、二つほどの道の駅を巡ってみることにします。

国道沿いに南下すると、道の駅蔦木宿があります。
ひょっとして限定の手打ちそばが残ってないか?と寄ってみました。アウトでした。

そのまま南下して山梨県に入ります。
道の駅白州に行ってみます。

道の駅白州

ここの食堂で昼ごはん。
湧水をペットボトル2本に組んで、隣接する地元スーパーをのぞきます。
食品フェアをやっていたので、県内の甲州街道台ケ原宿の酒蔵・七賢の純米酒粕や甲州ハイボールなどを買います。酒粕は、みそ汁や煮込み料理のコク出しに重宝するのです。
ハイボールは来客用です。
道の駅はいつもながら賑わっていました。

蕎麦、からあげ丼セット
名物の山塩ソフト
天然水氷には人が並んでいた

国道を北上してホッサマグナの湯・塩沢温泉に戻ります。
初めての温泉ですが気になっていました。
列島を分断する大地溝線上にある、地球の磁力に溢れてそうなネーミングに惹かれました。

国道20号線脇の看板

850円と安くない入浴料です。
地元民と富士見町民は420円でした。
そうそう、塩沢温泉は山梨県の温泉だったのです。
国道20号線は何キロも前に長野県に入っていますが、温泉は山梨県の領域だったのです。

温泉は源泉が冷たいのですが、ぬるめの湯と熱めの湯の浴槽があります。
ぬるめの湯に首まで漬かって、仕上げは熱めの湯でにしました。
例によって長湯はしなかったのですが、効きました。
後で体が軽くなったというか、芯まで伝わったような感じがしました。

最近の恒例として、温泉オリジナルのタオルを買って帰りました。
再訪したい温泉がまた見つかりました。

オリジナルのタオル

県内ローカル新聞の華麗な世界 須坂新聞

足を延ばした時に地元のコンビニに顔を出して、新聞スタンドをのぞいてみることがあります。
5月の連休前に、須坂の隣の高山村を訪れたとき、村内のコンビニで須坂新聞を手に入れました。

須坂新聞2025年4月26日号第一面

週刊で、4月26日号、280円です。
発行は須坂新聞社。
「郷土の未来を創造するコミュニテイペーパー」とうたっています。
この号は全16ページ、コンビニのおばさんは「いつもより薄いね」と言ってました。
連休前だからでしょうか。

一面には全国ニュースでも話題の、ふるさと納税返礼品の産地偽装問題です。
須坂市の返礼品を同市産のシャインマスカットとしていたものが、一部小布施などの市外地産のものが混じっていた事件です。
総務省が絡む事柄で、お上の話題の施策の信頼性を傷つけるということから全国ニュースになったようです。
実際は須坂と小布施は隣接しており、産地を区切っても、品物的には意味がないのですが・・・。
納税者というより、総務省にとっての大問題なのでしょう。

地元の話題としては、高山村の獅子舞の話題、須坂市の子神楽隊の話題などが大きく取り上げられています。

季節の話題としては、桜や鯉のぼりなど、春本番を伝える話題も。
やはりローカルの春には桜と鯉のぼりの写真が欠かせません、あと田植えの風景とか・・・。

学術的に郷土史を伝えるコラムが第56回を数えています。
こういった郷土の歴史研究を発表する場としてもローカル新聞は貴重です。

全体的に目立った事件というか記事はなく、おとなしい紙面づくりの新聞です。

広告にも特色のあるものはなかったのですが、記者1名募集の広告が目を引きました。

令和7年畑 草刈り、苗植え、種まき

麓の田んぼには順々に水が張られ、代掻き、田植えのころとなってきました。
田圃の畔では早くも雑草を刈る姿も見られます。

麓の田んぼは水が引かれている

我が畑でも、畔など畑周辺の雑草が無視できないほどに繁茂してきました。
タンポポなどは早くも綿帽子がみられるものもあります。

今年初めて草刈り機に混合ガソリンを入れ、試運転してみました。
問題なくエンジン始動したので、刃を新しいものに替え、畑に出かけました。

草刈り前の畑
春の小川はさらさらゆくよ

新しい刃の切れもよく、草刈り機は思う存分稼働しました。
刈った草からヨモギを回収することもできました。
畝間の雑草は刃をヒモに替えて刈る方が、凸凹の面や柔らかい草に対応できてよいのですが、そのままま刃で刈りました。
乾燥が続く畝間から土ぼこりが舞い上がりました。

新しい刃はぐんぐん刈ってゆく
畝間も刈る

水やりの後、まだ埋っていない畝に第三回の苗植えをしました。
ハックルベリー、落花生、地元品種の小布施なすを新たに植えたほか、地ヤーコン、ズッキーニ、夕顔などを追加で植えました。
畝はほぼ埋まりました。

水やりも欠かせない
この日植えたハックルベリー
落花生も植えてみる

山小舎に帰ってからポットに土を盛り、トウモロコシとインゲンを蒔きました。
芽が出るまでは、ポット全体を保温しておきます。
インゲンは先に直播もしていますから第二弾の植付用です。
トウモロコシはこれが第一弾。
第二弾はポットの苗を定植した後に蒔く予定です。

トウモロコシをポット蒔き

春の恵み!ヨモギを干す

5月中旬、畑に行くとヨモギがどんどん育っているのが目につきます。

ヨモギは昔から日本人に親しまれてきました。
最近ではその薬効も話題になり、従来の草餅、草だんごとしての利用だけでなく、野草茶や燻して煙を浴びるなどの利用方法も行われています。

山小舎では数年前から野草茶の材料として、ヤーコン葉、スギナ、菊芋などとともに活用しています。

ヨモギは一年中採取できますが、やはり新芽が柔らかい春が一番の採取時期です。
雑草がまだ生い茂らない畑や畔で、地面にへばりつくよいうに群生している葉の裏が白いヨモギの姿を見ると、思わず摘み取りたくなります。

5月の新鮮なヨモギの葉先

わざわざ摘み取らなくても、春先の草刈りの後、刈った雑草の中に交じってるヨモギをより分けてくることもあります。
葉の裏が白いヨモギは雑草に交じってもすぐわかるのです。

籠一杯持って帰ってきたヨモギを水で洗います。
混じった雑草などもより分けます。

まずは天日干し

水を切って乾燥です。
ザルに広げて日中は天日干しに、夜間や雨天の時はストーブのそばに置きます。
何なら金属のザルを二重にして、そこに広げストーブに乗せておきます。
焦げないように注意すればカラカラになります。

カラカラになったら出来上がり

カラカラになったら保存容器に乾燥材と一緒に入れておきます。
この時、鋏で切りながら詰めてゆくと量が入ります。

ちょっと前の現代農業別冊でヨモギ特集号があったので紹介しておきます。

別冊現代農業2023年4月号・表紙
同・目次
腰痛に良いというヨモギ座布団
お馴染み草餅

春の山小舎リフレッシュ! 電灯の笠を掃除

シーズンインの山小舎リフレッシュ(大掃除)の再開です。
年に1回やりたいのが、ダイニングテーブルの上の照明器具の掃除です。

山小舎のダイニングテーブルは頑丈で、焼き台などを置けるように鉄板を貼った炉を切っており、来客があるとそこに焼き台を置いて炭火焼きをするのが恒例になっています。
室内で炭火焼きができるのは、スカスカの日本家屋で、通気の良いの山小舎ならではですが、そうはいってもテーブル真上の照明器具や、換気扇などはススによる油汚れが付きます。

山小舎おばさんも、来館の折にその汚れを気にしていた照明器具(傘)を掃除しました。

まず傘が漬かるくらいの大きめの洗面器を用意し、重曹をお湯に溶かします。
そこに傘を漬けて待ちます。

流しに線建機を用意してお湯を張り重曹を溶かす。そこに傘を漬ける

やがて汚れが浮き上がり、たわしでこすると落ちてゆきます。
ただ、汚れが分解したわけではないので、傘から除去された油汚れはなかなか流れ去ることはなく、傘の別の場所や、たわし、洗面器の端に移動してこびりつくこともあります。
手もべたべたして、触った場所に汚れが付着します。

油汚れをたわしでこすり落とす

流れ去らない汚れは、まずキッチンペーパーでぬぐい取ります。
ざっくりきれいになったら、再度お湯の流水で流しながらたわし洗いします。
この時、手の油汚れもなるべく取り去っておきます。

すっきりしました

難敵の油汚れを何とか除去したら、傘とソケット類を乾かして再度設置すれば出来上がりです。

洗ったものを乾かして設置

山小舎おばさんなど女性陣や、来客などは、汚さや乱雑さに敏感です。
「山小舎らしさ」はいいのですが、気を付けて今年のシーズンを迎えたいと思います。

令和7年畑 苗の定植②

夏野菜定植の第2段です。

塩尻の農協から苗を仕入れた翌日に畑へ向かいました。
仕入れた苗ポットの土はカラカラだったり、湿っていたり色々です。
山小舎から出発するときに、えひめAIの希釈液にポットの底を漬けておきます。

この後の水やりは定植後に行います。
トマトは水やりしません。
ナスやピーマンンなどは支柱を立て縛っておきます。

キューリの苗を置いて植え付けの準備
定植後のズッキーニ
トマトに支柱を添える

ハーブの種まきもしました。
青じそ、赤しそ、バジルの苗を1本ずつ植えておいた周りに、それぞれの種を蒔きます。
その上に水をやった後、枯れ草で覆い乾燥を防ぎます。
いつも失敗するハーブの直播、今年はうまくいってほしいです。

ビーツも直播して枯れ草で覆っておきます。
今後は畑に行った都度、水やりします。

穴あきマルチをかけた畝に、インゲンと枝豆を直播します。
インゲンと枝豆は時間差でもう1回蒔く予定です。

まだ畝が4列ほど残っています。
1列はトウモロコシを植えるとして、後は何を植えるか考えましょう。

別の畑にはヤーコンの苗を5本定植しました。
ここの畑は、鹿とイノシシのフィールドです。
彼等のパトロールの巡回路なのです。
キジのつがいも住んでいます。
畑はあってもほとんど人が来ることのない野生の王国です。
ヤーコンは比較的食害の少ない野菜ですが、鹿を甘く見てはいけません。
ネットでトンネルをかけておきます。

ヤーコンの苗
植えた後・・・
トンネルの準備
ネットをかけてすそを固定

どうやら今年も作付けの目途が立ちました。

軽トラ流れ旅2025(ショート) 塩尻へ苗を仕入れに

夏野菜の苗を定植しています。
第一弾の定植を終えた畑ですが、畝は全体の6~7割しか埋まっていません。

例年、苗を仕入れるのは立科町や望月地区の直売所ですが、八ヶ岳の反対側にある塩尻の農協からも買っています。
種類の多さと、品質の良さで魅力的な塩尻農協へ苗を仕入れに向かいました。

中山道の新和田トンネルを抜け、諏訪に下りて塩尻峠を越えると、塩尻の町が目前の盆地に広がります。
遠く残雪を抱いた山々は中央アルプスでしょうか。

塩尻から望む中央アルプス

農協は最後の目的地にして、市内を巡ることにします。

まずは東座です。
県内有数のミニシアターとして健在の映画館です。
県内のミニシアターと呼ばれる映画館は、フィルム時代からの歴史ある建物を継続して利用している例が多いのが特色です。

塩尻東座

なかでも東座は、今では全国で絶滅寸前のピンク映画専門のスクリーンを持つ映画館です。
ピンク映画のポスターが、建物の側面に展示されています。
50年程前だったら全国の主要都市で当たり前だった光景がリアルに見られます。
これぞ映画館です!

東座2号館の上映作品ポスター

上映中は入り口のドアを閉めていました。
戦後しばらくは2階でダンスホールを営業していたという歴史の東座。
先代の娘さんが帰ってきてミニシアターとして地域密着しての営業を再開していますが、ワンオペの営業なので、上映中のモギリなどはできないようです。

東座正面玄関

次いで市内中央部にある、花火店と交流センター・えんぱーくへ寄ってみます。
今どき花火をバラで売ってくれ、品ぞろえも抜群の花火店はシーズンを前に商品のレイアウト中でした。
今年も孫たちと買いにゆきたいと思います。

丸文花火店は準備中

花火屋の並びには近代的な建物のえんぱーく(交流センター)があります。
素晴らしく居心地の良い図書館があります。
えんぱーくでは、かつては夏休みの合わせて木工のワークショップが開かれ、孫と参加したことがありました。
今年は開催はないようですが、久しぶりに図書館に入りしばしの情報収集アンド休憩タイム。
いつ行っても居住性が最高です。
駐車場も無料です。

塩尻市交流センター「えんぱーく」のの近代的な建物
えんぱーくには休憩スポットもたくさんある
町おこしの補助金と上映作品のポスターが並ぶ

次いで塩尻駅へ向かいます。
かつて「ローカル路線バスの旅」という番組の再放送を見たことがあります。
旅人役の蛭子義一さんがまだ元気でした。
諏訪を北上し、塩尻から松本を経て岐阜県の高山へ向かってました。
その時の塩尻駅からは松本行きの路線バスが出ていました。
今の塩尻駅は路線バスは全廃で、コミュニテイバスのみの運行。
しかも定期運行の路線は半分ほどで残りはデマンド方式での運行、当然松本までの運行はしていないとのことです。

かつて路線バスの番組一行が松本行きに乗り込んだ駅前停留所

昼食は、30分無料の駅のパーキングに止めて駅蕎麦へ。
塩尻駅の駅蕎麦・桔梗亭は賑わっていました。
ここの名物は山賊焼き(鶏モモのから揚げ)を乗せた蕎麦です。
この日はかき揚げ蕎麦を頂きました。
550円。
ちょっとダシが水っぽかった気がしましたが、満足です。

塩尻駅正面
待合室では桔梗亭が営業中
かき揚げ蕎麦

さあ、いよいよ農協です。
苗のシーズンはテントを数張り出して盛大に売り出します。
トマトやナス、キューリなどをメインに仕入れましたが、ここならではのソラマメとかモロヘイヤの苗も仕入れました。

塩尻農協全景
種類豊富な苗が並ぶ
買い込んだ苗たちの元気な姿

ついでにアスパラなどの野菜も買い込んで塩尻まで来た成果は十分です。

DVD名画劇場 戦前ドイツ映画の栄光VOL.2 レニ・リーフェンシュタール〈前編〉

レニ・リーフェンシュタール

1902年ベルリン生まれ。
マレーネ・デートリヒの1つ年下。
裕福な両親の元幼少からダンスに熱中し、一時は国内でダンサーとして有名になるがケガで挫折する。

1924年ベルリンで「運命の山」という山岳映画に出会い感銘を受け、主演のルイス・トレンカーに会いにドロミテ地方という山岳地へ。
後日、ベルリンで監督のアーノルド・ファンクと会い、次作「聖山」の出演契約を結ぶ。
山岳経験もスキーも初心者だったが、撮影と並行して習得に努力し、その後ファンクの作品に出演していった間に、登山、スキーなどに関して熟達していった。

ファンク作品に出演しいて学んだのは、山岳のすばらしさと映画製作、特に編集について習得したことだった。

編集するリーフェンシュタール

この間、「嘆きの天使」キャステイングと撮影のためにドイツを訪れた、ジョセフ=フォン・スタンバークの元にも売り込みに出かけるが、スタンバークは無名のマレーネ・デートリッヒに決めており、不発だった。

1932年には、当時政権を握る直前だったナチス党のヒトラーの演説を聞き感銘を受け、手紙を書く。
後日ヒトラーから面談の申し出があり、その後の「意志の勝利」「オリンピア」の製作につながる。

以上は、「ナチの女神か?20世紀最高の映像作家か?(20世紀映像論のために)レニ・リーフェンシュタール」(平井正著 1999年晶文社刊)からの要約です。

本著表紙
本著奥付
本著カバーより

ここまでのリーフェンシュタールの半生は、目立ちたがりというか自分の欲望達成のためには直情径行、最大限の努力を払い、目指すところ(ファンク、スタンバーク、ヒトラー)に直談判を辞さず直行するという特性を見せています。
それに付随して登山、スキー技術、編集技術など、必要な技術習得に努力を惜しまず、それぞれ最高レベルのものを習得しています。
それは、山岳のすばらしさ、編集の要諦などに必要な感性を、彼女が備えていたことを示します。

平井正の著書もそうですが、ナチスとともにリーフェンシュタールを完全否定するのが、マスコミに限らずのお約束になっています。

ですが、同著113ページの写真を見る限り、リーフェンシュタールの卓越した記憶力と「オリンピア」で記録された演者(アスリートたち)の間の幸福に満ちた関係性を認識せざるを得ないのです。
1977年に74歳で来日したリーフェンシュタールに「オリンピア」の出演者でメダリストの田島直人(64歳)と西田修平(67歳)が駆け付けた際、彼女は二人に「ニシダ?タジマ?」と呼びかけ、元アスリートらは「レニさんいつまでも若いなあ」と応じたというのです。
これは旧作名画の監督と出演者が後日再開したときのような光景ではないでしょうか。

又、当時日本人として金メダルを受賞し、戦後韓国に戻った(自身の受賞記録を日本から韓国に変更させた)マラソンの孫基赬も、ソウルからリーフェンシュタールに会いに駆け付けたというのです。

本著P113より

青の光  1932年  レニ・リーフェンシュタール監督  ドイツ

滝が流れ落ち、牛が遊ぶ山岳地方サンタマリア。
ドイツ領からイタリアへ入ったあたりの山間の村。

山の放牧小屋で、牧童の少年と暮らすユンタ(レニ・リーフェンシュタール)をめぐる物語。

19世紀になるころ、馬車で村にやってきた絵描きがいた。
村の居酒屋に水晶や珍しい木の実を売りに来たユンタという娘を見掛ける。
裸足でボロボロのスカートを身に着けた姿。
村人は、里から離れ、だれとも交わろうとしないユンタを蔑視(畏怖)している。
ユンタが、訳アリの存在(非常民、異民族、異教徒など)でまた、山岳に象徴される自然と交流できる存在であることがわかる。
村の若者は自分たち「常民」の外の存在であるユンタに、常民同志ではしない卑猥な誘いをかけることもある。

「青の光」のレニ・リーフェンシュタール

これまでアーノルド・ファンクの山岳映画で鍛えられてきたリーフェンシュタールの山との親和性が見事。
ロングショットで、身一つで岩山を上り下りする彼女の姿が捉えられる。
この映画のもう一つの主人公がアルプスにつながる山岳そのものであることがわかる。
そのうえで、破れたスカートの裾から素足を太腿まで出して動き回るユンタに、泰然とした自然に対比する人間の女性の生命、生々しさを表現するリーフェンシュタールの自作自演が際立つ。

劇中、岩山をよじ登るリーフェンシュタールを捉えるロングショット

村には「満月の夜、山が青い光に包まれ、若者が山に引き込まれて転落死する」という言い伝えがある。
その原因がユンタにあるとして村人が彼女を追いかける。

一方、画家はユンタに興味を持ち、山の放牧小屋にたどりつき、ユンタと少年と小屋に逗留する。
画家に対してはユンタも心を開く。
が、画家は村に帰って水晶の場所を村人に教えてしまい、挙句収奪された水晶で貧しい村はバブルってしまい、ユンタは絶望し死んでしまう。

後年、自動車でサンタマリアにやってきた旅行者は村の少女にユンタの写真をイコンにした土産を売りつけられ、少女の説明により彼女の伝説に接するのであった。

本作はリーフェンシュタールがそれまでのキャリアとしてきた山岳映画を舞台に、自らの主演で伝説のヒロインを描き上げたもの。
一筋縄でいかないのは、舞台の山岳そのものに十分なリスペクトを表現していること、またのちのドキュメンタリスト・リーフェンシュタールの面目躍如?なのか、サンタマリアという村そのものに民俗学的とでもいうべき興味を示していること。
実際の村人を採用し、その表情を捉えるカットには芝居では表現できない深さがあった。
決してリーフェンシュタールが自らの悲劇のヒロイン性にのみ酔った作品ではなかった。

サンタマリア村の住民役にはロケ地に村人が出演した

ただ、リーフェンシュタールが一番描きたかったのが、ユンタという女性像だったのは事実。
破れたスカートから太腿をむき出し、岩山をよじ登る。
その生命と動きを表現したかった。
実年齢が29歳のリーフェンシュタールはユンタにはややトウが立ってはいたが、余人をもって代えがたし。

ユンタに扮するリーフェンシュタール

リーフェンシュタールの表現者としての意欲、欲望が前面に出た作品ではあるが、一方で余白を彩る様々な視点の豊かさが、余韻をもたらした作品でもあった。

「意志の勝利」  1935年  レニ・リーフェンシュタール監督  ドイツ

1934年、ドイツ・ニュールンベルグで開かれたナチス党大会を記録した作品。

当時のドイツは、第一次大戦敗戦の天文学的な賠償金支払いによるハイパーインフレと心理的ダメージにより国民の閉そく感が広がっていた。
一方、ヒトラーが率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)は、国民の閉そく感打破の期待のせいか、1932年の選挙で第一党となり、やがてヒトラーが首相指名された。
翌年の第6回ナチス党大会は党大会と称しながら、国家による国威発揚を掲げてのものと区別がつかないものとなった。

「青の光」に感銘を受けたヒトラー以下ナチスの首脳部は、一方で映画を重要なプロパガンダ装置と認識し、利用しようとしていた。
1942年から44年にかけてのドイツ国内の映画人口は10億人を超えており、ナチス首脳によるプロパガンダとしての映画の位置づけは的を得ていた。

そういった背景にあって、自らの欲望に忠実で、映画界の権力者に一直線で取り入る行動力を持つリーフェンシュタールとナチスの出会いは必然であった。

ドイツ国民の空気が「労働者重視、積極的な公共投資(アウトバーン建設など)、減税、農業重視、若者優遇」を高らかに謳うナチスに現状打破の期待を持っていたことは事実だった。
一方で過激な反共、反ユダヤ金融主義を掲げ、挙句は国会放火など直接暴力に訴える野蛮さへの忌避反応があったことも事実だが、ドイツ国民が過半数には満たぬまでも選挙で第一党にナチス党を選んだこともまた、事実だった。

ドイツ人の映画監督(兼女優)として売り出し中だった、目端の利くリーフェンシュタールが、ドイツ国民の救世主として時流に乗っていたナチスに「一枚かんで出世して権力者になって」やろうと思わない方が不思議だ。
そのためにリーフェンシュタールはナチスの協力者として生涯の烙印を押されることになったが。

ナチス党というよりヒトラー個人に支持されたリーフェンシュタールは、党大会の記録映画に着手した。
120人のスタッフ、16人のカメラマン、30台のカメラ、各チームの録音、照明スタッフ、22台の撮影用自動車が動員され、38メートルの高さを上下する撮影用エレバーター、20メートルの移動レールなどが準備された。

移動車で撮影するリーフェンシュタールら

一方、党大会そのものの準備には、アルバート・シュペアーという建築家による会場設計と式典の演出があった。
ニュールンベルグのツェッペリン飛行場を会場に、ベルガモ神殿を模した巨大な建造物を建て、ドイツの象徴・金色の鷲を頂き、巨大な柱からはハーケンクロイツの旗を何本も垂らした。
ベルガモは古代ローマ時代に発展した文化で、その遺跡をドイツが発掘したという因縁があった。
リーフェンシュタールはヒトラーの全面協力の元、これら大時代的なセットの上部、側面に撮影用機材を取りつけ縦横無尽にカメラを回した。
時にはカメラマンにローラースケートを履かせて撮影した。

ナチスの大物たちは、会場を思うがままに動き回るリーフェンシュタールを妨害した。
カメラマンを締めだし、移動レールを解体し、投光器を消した。
「撮影しているリーフェンシュタールを見にニュールンベルグへ来たわけではない」というわけだった。

だがもともとがナチスの政策上の事柄を何も知らず、関心もなかったリーフェンシュタールにとっての最大の関心事は、演説と行進にまみれた素材からどうやって退屈ではない映像を編集できるか、にあった。
そのためには、行事の時間的順序を入れ替え、気に入らなかった場面はスタジオで撮り直しさえした。

巨大な鷲の象徴とリーフェンシュタール

ヒトラーが乗ったユンカース輸送機がニュールンベルグを目指す開巻シーン。
空中からユンカースを捉える晴れやかでスピード感豊かな空中撮影。
機影が町をかすめるカット。
リーフェンシュタールがファンクの映画(「SOS氷山」)で体験した影響がみられる。

飛行場から会場までのパレード。
ヒトラーが乗ったメルセデスのオープンカーを捉える移動ショット、ヒトラーの肩越しに沿道の群集を捉えるショット、遥か上空から車列を捉える俯瞰ショット、の流れるような編集。
その合間には熱狂して迎える市民たちの表情がカットインされる。
それほど関心を示さない、貧しい庶民の顔もはさまる。
ハーケンクロイツの旗の下にたたずむ猫の姿も。
ドイツ映画の理論的な伝統の上に、リーフェンシュタールの個人的眼差しを加味したカットも挟まった編集がテンポよい。

ニュールンベルグ上空に到着したヒトラー専用機・ユンカース
ニュールンベルグの街中を行くベンツオープンカーのパレード

会場に集まった党員なのか、国家的動員なのか、若者たちのテント村が整然と並ぶ。
朝になり身支度して、薪を炊事場に運ぶ。
給食、レクレーションまでの整然とし、はつらつとした動きは新生ドイツの未来を表す!

同時に、教会の鐘の音、民家の煙突から立ち上る煙の描写もある。
新生ドイツは働く庶民の味方である!

アルプス地方の様々な民族衣装を着た女性らが来賓に集まる。
新生ドイツは国内の民族融合を目指す!

ヒトラーとゲッペルスに挟まれるリーフェンシュタール

副総裁ルドルフ・ヘスの開会宣言から大会は始まる。
日本代表の姿もある。
来賓の挨拶。
ヒトラーの演説。
どれもカンペを見ずに勢いよい。
皆、労働の大切さ、農業(自給自足)の大切さ、若者への期待を謳いあげる。

大会は夜も続く。
夜にクライマックスを持ってくるように、サーチライト、松明、花火などで演出したのも、全体の設計者シュペアーとのこと。
参加者の活力に驚く。

ヒトラーはハーケンクロイツの腕章を巻いているが、胸にはドイツ国防軍の印である鉄十字のワッペンをつけている。
首相になり、国軍を指揮する立場となったことを示している。
演説でも再三にわたり「一つのドイツ」のフレーズが出てくる。
ドイツが様々な地方の歴史と地理的区分をもった連邦国家であることがわかる。
ドイツ国家全体の指導者としての立場をヒトラー自身が意識していることも。(大会の直前に、ヒトラーは盟友の突撃隊長レームを銃殺している。ライバルの粛清であり、またナチス党を主義者のみのものから、国全体のものにしようという政治的判断である。)

「神殿」に軍勢が勢ぞろいする大会のクライマックス

後半の行進(ナチス党員の行進なのか、一般民兵の行進か)のシーンでは、鉄十字をつけた国防軍の将校がナチス式ではなく、一般軍人式の敬礼をするカットも収められている。(ドイツ国防軍がナチス党大会に初めて参加した年だったという)。

ハーケンクロイツの巨大な旗を支える柱の途中に、撮影用のエレベータが上下しているのが見えるカットもある。

路上でカメラを据えるスタッフとリーフェンシュタール

約1週間の大会の最終日、見ているこちらも疲れ切っている。
ヒトラーの閉会演説、内容は変わらないのだがカンペに目を再三落としながらしゃべっている。
これでは最近の日本の政治家と変わらない。
威勢のいいことを言って陰で利権をむさぼっているだけではないか政治家は、との疑念は・・・当時の庶民はそこまで疑わないか。
まあ、ヒトラーは象徴として存在していることは空気感で伝わっているが。

DVDパッケージ表

壮大な舞台装置と一糸乱れぬ大衆行動を主軸とした国家プロバガンダ大会は、その様式のみが、ソ連、中共、北朝鮮などの国家、創価学会などの新興宗教に換骨奪胎して受け継がれた。
その表面的模倣には歴史の学びも、ポリシーも感じられないが。

またリーフェンシュタールが示したドキュメンタリーの手法は、記録映画などに一般的手法として受け継がれ、定着している。

新生ローマ時代からの歴史を持つニュールンベルグでは、戦後、戦勝国よる軍事裁判が開かれた。
この場所が、ドイツの戦犯を裁く地として選ばれたのは、戦勝国による見せしめ、意趣返しによるものであることは明らかだった。

DVDパッケージ裏