今年初の丸太

山小舎の暖房は薪ストーブです。
毎年、別荘内の伐採を請け負う業者が、いらない丸太を持ってきてくれます。

いらない丸太とは、カラマツ、シラカバなどの丸太です。
それらは薪としては売り物にはならず、ごみとして処分しなければなりません。
捨てる場所(山小舎)があれば助かるのです。

とはいえ、ごみ同様の丸太でも、ダンプ式のトラックに積んで山舎まで運ばねばならず、人出と費用は掛かっています。
山小舎としては暖房としての丸太を、業者の好意で頂けるのはありがたいことなのです。

ちなみに薪を買おうとすれば、ナラ材のもので一巻数百円から900円もします。
冬場は薪一巻などは2,3時間でなくなってしまいます。

今年はこれまで丸太を持ってきてくれた業者が廃業し、どうなるかと思っていました。
新しい業者が持ってきてくれましたが、やはり丸太の廃棄には困っているのです。
カラマツに立派な丸太がトラック2台分いただけました。

今年も、玉切り、薪割り、積込みといつも通りの薪仕事が始まります。

令和7年畑 初出荷

7月初旬の畑です。
既に結実を始めたキューリ、ズッキーニが実を巨大化させてきました。
トマトの管理作業、ナスなどの水やりの後に収穫してみます。
結構な量になりました。

ズッキーニの実が巨大化してきました

花が咲いているインゲンの木を調べてみると、さやが成り始めていました。
摘み取ってみるとそこそこの量になりそうです。

トマトが結実し始めました

段ボールを持ってきていたので、収穫した野菜を詰めてみるとちょうどいい量です。
予定外でしたが、山小舎おばさん主宰の彩ステーションに出荷することにしました。

糠の追肥をもらって成長するトウモロコシ

今年は成育が早いような気がします。
気温が高いからでしょうか。
このまま、水枯れなどが起こらなければ今後は順調に収穫、出荷できることでしょう。

ナスもやっと元気に
出荷するの野菜を段ボールに詰める。熱くて中味の撮影を失念する

軽トラ丸洗い

今年で9シーズン目に入った、愛車の軽トラを洗車しました。

普段の買い物、農作業、薪の運搬、流れ旅など、田舎暮らしは車がなければどうにもなりません。
軽トラはなくてはならぬ暮らしのパートナーです。

幸い故障することもなく、遠くまで、あるいは薪を積んで坂を上り、また伐採した木を引きずり倒すなど、酷使に耐え黙って働いてくれます。
倒木を軽トラの屋根に当て傷つけたこともありました。

また、荷台にはゴムマットを敷いて、材木などの衝撃を和らげていたのですが、ボロボロになりつつあるゴムの隙間に、泥や木くずなどが詰まり、常時荷台が汚れている状態でした。

晴れた日にホースを伸ばして水をかけて洗いました。

荷台のゴムマットを外した状況
ホースを伸ばして洗車開始

先ず荷台のゴムを外します。
荷台にホースで水をかけながらたわしで汚れを落とします。

ついでにフロントガラスやボデーにもシャンプーします。
初めてのことですが、ドアを開けて運転席、助手席の床のマットを外して泥を洗い流します。

ボデーシャンプーも同時に
車内も洗っちゃう

ボデーの水垢や染みついたものまでは取れませんが、水を被って軽トラもリフレッシュできたように思います。
荷台は薪などを積むときまで、ゴムマットは敷かずにおこうと思います。

荷台はすっきり
ついでにウオッシャー液も補充しておく

DVD名画劇場 イタリアンネオレアリスモの作家たち その7 モギー、カステラーニ、コメンチーニ

バラ色のネオレアリスモ

1950年代に入り、ネオレアリスモのかつての推進者たちはそれぞれ独自の映画表現へと向かっていった。

すなわち、ヴィスコンテイは「夏の嵐」(54年)で、19世紀のイタリア統一運動の中で愛に生きる貴族の女性をドラマチックに描き、以降の彼の作風となる『貴族、王族、ブルジョアの葛藤と黄昏を豪華絢爛に描く』方向への転換を行った。

ロッセリーニは「ストロンボリ」(50年)、「ヨーロッパ1951年」(51年)を発表。
主演には「無防備都市」「戦火のかなた」に感動してロッセリーニのもとに走ったイングリッド・バーグマンを起用して、イタリアや欧州の戦後の現実の中で、コミュニケーションの困難をきたすアメリカ女性の姿を描いた。
一方、「神の道化師フランチェスコ」(50年)ではロッセリーニのもう一つの資質である宗教的なものへの希求を示した。

デ・シーカは「ミラノの奇蹟」(51年)で貧困の主人公たちが箒で空を飛ぶというファンタジーを描いた後、「終着駅」(53年)では、ハリウッドの製作者デヴィッド・O・セルズニックとの合作で、モンゴメリー・クリフトとジェニファー・ジョーンズを起用してのラヴロマンスを描き、商業主義へと舵を切った。

上記3監督が作風に変容を見せ始めた50年代は、またレナード・カステラーニやルイジ・コメンチーニら新鋭監督が、喜劇的作風の「2ペンスの希望」(52年)、「パンと恋と夢」(53年)などを発表、『バラ色のネオレアリスモ』と呼ばれた。
これらの作品は50年代以降に発表されることになる「イタリア式喜劇」の出発点となった。
「イタリア式喜劇」は、50年代以降のイタリアの高度経済成長期に現れた利己的で小心者の庶民やブルジョアをブラックユーモアで描く悲喜劇の作品群で、以降のイタリア映画の主流の一つとなった。

(以上は、集英社新書2023年刊 古賀太著「永遠の映画大国イタリア名画120年史」第三章ネオレアリズモの登場より要旨抜粋しました)

「明日では遅すぎる」  1950年  レオニード・モギー監督  イタリア

監督のモギーは、1899年オデッサ生まれのユダヤ人で、フランス、イタリア、アメリカなどで映画監督として活躍した。
本作はイタリア映画であるが、モギー自身はネオレアリスモの流れをくむ映画人ではない。
彼の代表作の一つは1935年にフランスで発表した「格子なき牢獄」で、女子感化院の非人間性を描いた作品。
収容される少女役のコリンヌ・リュシエールは日本でも人気が出たが、ドイツによるフランス占領期にドイツ軍将校の愛人となったことにより戦後は投獄され、獄中で亡くなった。

「格子なき牢獄」のコリンヌ・リュシエール

本作「明日では遅すぎる」は、「格子なき牢獄」等での手腕を買われての起用だと思われ、モギー監督は手堅くその起用に応えている。

舞台はイタリア。
リアルタイムの設定と思われ、1950年の中高生の物語。
同じアパートに住む、フランコとミゼッラ(アンナ・マリア・ピエランジェリ)は同じ学校の同学年。
この学校は男女共学だがクラスは別で、教師もそれぞれぞれ性別の先生が教えている。
先生役にヴィットリオ・デ・シーカとロイス・マックスウエル。

女先生(ロイス・マックスウエル)とピエランジェリ

生意気盛りのフランコは年上の女を映画に誘ったり、友達連中と学校の女子をカメラテストの名目で誘ってキスを奪って喜んでいる。
フランコのことが気になるミゼッラは年上女とフランコの話をアパートの廊下から立ち聞きしたり、女性雑誌の「男の気の引き方」特集を読んだりする。

やがて夏のサマーキャンプがお城で行われ、厳しい女校長と進歩的な両先生(デ・シーカとマックスウエル)が監督する。
生徒たちは細かな校則違反で女校長をいちいち怒らせる。
フランコとミゼッラは,、発表会で吟遊詩人とお姫様を演じてから、互いの気持ちに素直になっており惹かれ合っている。

生徒の気持ちを尊重する両先生と校長の対立。
女先生は校長によって追放される。
女先生を駅へ送った生徒たちが嵐にあって夕食に遅れ、フランコとミゼッラは納屋に逃れる。

納屋では焚火を炊き、服を乾かし、嵐が去るまで藁の中で休む二人。
キスも交わしている。
まるで「潮騒」のようなシチュエーションだ。
この時代の両思いの10代の最大限の愛の表現として、イタリアと日本の共通点が面白い。

戦後を迎えて、青少年の性も無視できなくなった時代に、最大限進歩的に青少年の性を扱った作品。
ややもするとキワモノ的な興味を誘いかねない所を、清純そのもののヒロイン(ピエランジェリ)と、二枚目俳優(デ・シーカ)、正統派美人女優(マックスウエル)の起用によって正統派映画の作風となっている。

進歩的な両先生の言動が今見ると偽善的に見えるほど、教条的なキライはあるが、現実を直視する姿勢はネオレアリスモの精神を継承しているといえよう。

ヒロイン役でデヴューした、アンナ・マリア・ピエランジェリは本作がベヴェネチア映画祭で受賞したこともあり、MGMにスカウトされてアメリカに渡り、『ピア・アンジェリ』として売り出した。

ハリウッドでは「三つの恋の物語」(53年)、「葡萄の季節」(57年)などに主演。
ジェームス・デイーンとの恋愛が有名だったが、歌手と結婚。
離婚して61年にはイタリアに戻り「ソドムとゴモラ」(61年)などに出るがスターダムには乗り切れず。
71年ビバリーヒルズの友人宅で睡眠薬自殺を遂げた。

モギー監督が「発見」した、リシュエールとピエランジェリという仏伊の二人の清純派スターは道半ばにしての夭折していった。

なお、ピエランジェリのハリウッド移籍は、50年代から活発になったイタリア映画とハリウッドの交流(ハリウッドスターのイタリア映画への起用、合作など)の先駆けとなる出来事だったのではないか。

「三つの恋の物語」(53年)。21歳になる年のピア
「葡萄の季節」(57年)でミシェル・モルガンと

「2ペンスの希望」  1952年  レナード・カステラーニ監督  イタリア

舞台はナポリ郊外のべスピオス火山の麓の町。
最寄りの鉄道駅からは馬車が町まで通る田舎町。
その町へ主人公のアントニオが復員してきた。
志願兵ではないので恩給は出ない、その日から無職の22歳だ。
息子が帰ってきて大騒ぎし、近所で飼っているウサギを盗んで御馳走を煮る母親役の女性が、女優とは思えない存在感で『イタリアの母』を演じる。

町の無職者たちは教会の柵を背に無為に過ごす。
そのアントニオに笑いかける娘がいた。
花火師の娘カルメラだった。
ピラピラのワンピースを翻し、走り回るカルメラ。
洗濯物を干しながら歌い、父親に弁当を届けに山すそを走り抜ける。

アントニオは、ソーダの瓶詰や馬車の助手をして稼ぐが、母親が弟たちを使って午前中に雇い主から前借してゆくので、ばかばかしくなる。
ナポリへ行っても無職では滞在さえできない。

花火屋の親父の仕事を手伝うカルメラ

駅からの連絡交通が馬車からバスに代わる時、ナポリでおんぼろバスを買いアントニオが運転手になろうとする。
それを聞いたカルメラは親に隠れて運転手用の帽子を縫う。
バスは馬車仲間と共同で運行する予定だったが、初日に仲間割れでおじゃんとなる。

アントニオはカルメラの父親の助手になれば、と考えるが頑固で昔気質な父親は頑として受け入れない。
カルメラがアントニオに会いに夜出かけてると知れば、娘の脚をベッドに鎖で縛りつけもする。

親父にベッドにつながれても歌うカルメラ

カルメラは自棄になり、親父の花火倉庫に火をつけ爆発させる。
アントニオはナポリの映画館のフィルム運びなどをして何とか生きるが、カルメラはナポリに女がいると勘鋭く追及したり、アントニオは共産主義だと口走ったりして足を引っ張る。

若い二人のぎこちない迷走と、ストレートな愛情を縦の糸とすると、横の糸は旧態依然の田舎の大人たちである。
ネオレアリズモの作品群は、封建的な網元や、マフィアに支配される後進性や、宗教に縛られる因習を描いてきたが、そこには『田舎の人間は、資本家やマフィアの被害者である』というテーゼが存在していたように思う。
作家たちの左翼思想にもその要因はあったのだろうが。

片や「2ペンスの希望」の田舎の大人たちには全く救いがない。
カルメラの父の頑迷さは最後までそのままだったし、アントニオの母親の狡さ、俗物性は最後まで貫かれた。
まるで『大人たちは、社会の被害者として保護されるほど甘くないし、人間性には全く期待できない』と、この作品の作り手たちは断じているようだ。

映画はエピソードごとにテンポよくまとめられ、まるでスクリューボールコメデイのように進む。
何しろ次から次へと事件が起こり、何とか生きようとするアントニオを巻き込み、前進を阻止し、やる気をそぐ。
カルメラは無邪気に混乱の原因を作り出し、アントニオや家族の気持ちに関係なく彼について回ろうとする。
カルメラの一途な無鉄砲さに、ハリウッドの伝説的スクリューボールコメデイ「赤ちゃん教育」(1938年 ハワード・ホークス監督)でのキャサリン・ヘプバーンの破壊的がむしゃらさを思い出し、思わず笑いがこみ上げる。

2人そろって町の人々の視線の中、カルメラの親父の元へ行くが、親父は「2人でどこへでも行け」とけんもほろろ。
貧乏人のくせに、気に入らない相手との結婚を許さないこの頑固親父の心理は、カソリックを原因とする因習からくるものなのだろうか、それともただのわからず屋だからだろうか。

二人で生きてゆくと覚悟を決めたアントニオはカルメラのワンピースを脱がせて親父に投げ返す。
アントニオの開き直った清々しさを見た町の人々が寄ってきて二人を応援する、洋服屋は掛け売りしてやる。
何もないが若さと愛情だけはある二人を祝福するように。

カルメラとアントニオ

最後の最後に映画的ハピーエンドが訪れるが、それまでのコメデイ仕立てながら辛辣な現実描写に徹した、レナード・カステラーニ監督の痛快な傑作。
イタリアの映画館ではこのラストシーンに観客から拍手が起きたという。

カルメラ役のマリア・フィオーレの抜擢と演出にもカステラーニ監督のひらめきが光る。
彼女はこの作品では、ほとんど唯一の美形女優でありながら、ひたすら野を駆け回り、家事手伝いに精を出すのだったが、よく見ると若いころのステファニア・サンドレッリのような清らかな美貌。
野に咲く花のような生命感と、精霊のような純粋さがあった。

アントニオの母親、カルメラの父親、町の人々には素人と見まがう年季の入った俳優、女優を起用。
その欠けた歯並びと、しわだらけの風貌、因習にまみれた俗物的な言葉の数々は強烈な印象をもたらす。

結婚資金ができ、中年の男と結婚したアントニオの姉が、ささやかな結婚式を終えた後、教会から婚家へ向かうのだが、結婚相手とその母親が腕を組んでさっさと歩いゆき、新婦たる姉はその後に仕方なくついてゆくという、幸福感も何もない、これからの姉の人生の絶望感を表すような場面も何ともいえずわびしかった・・・。
加えて、田舎の寂れた町と荒涼とした風土を前面に出してのほぼ全編のロケ撮影。

『バラ色のネオレアリスモ』として、その楽観的姿勢が批判されたこともあるカステラーニだが、世界的にヒットしたこの作品は、第5回カンヌ映画祭のグランプリをオーソン・ウエルズの「オセロ」と分け合った。

「パンと恋と夢」  1953年  ルイジ・コメンチーニ監督  イタリア

「2ペンスの希望」と並び、『バラ色のネオレアリズモ』と呼ばれる1作。

戦後10年近くたち、イタリア映画のテーマは戦争そのもの、直後の現実をストレートに描くことから、同じく戦後の貧困などの現実を基底としつつも、映画のエンデイングに前途に希望をもたらすような作品が出てきた。
本作もまた、ヴィトリオ・デ・シーカ、ジーナ・ロロブリジータという陽性の両スターを前面に押し出した商業性を意識した作品で、興行的にもヒットし、またベルリン映画祭で銀熊賞を受賞している。

マリアは弟が飼っていた小鳥を署長にプレゼントする

南イタリアの寒村に警察署長(デ・シーカ)が赴任してくる。
村人はよそ者や男女関係には異様に興味を示し、うわさはあっという間に広まる。
村一番の美人ながら「山猫」と呼ばれるマリア(ロロブリジータ)は、父親を亡くし、母と妹弟らと暮らすじゃじゃ馬娘。
村のおじさんたちは、マリアにちょっかいを出してははねつけられる。
若い巡査はマリアへの恋心を伝えられず、おどおどしている。

白髪が混じりながらも独身を貫く署長も、マリアの若さがまんざらでもないが、片や熟女の助産婦アンナレ(マリザ・ベルリーニ)の落ち着いた大人ぶりにも鼻の下を伸ばす。

戦争と無知な村人たちの犠牲者でもあるマリアは、一張羅のワンピースを翻しながら、ロバに横乗りし、生きるためにスモモを盗んで売り、行商が持ってきたドレスを巡って女同士の喧嘩も辞さない。
実直で、聖職者にしては珍しく裏のない村の司祭は、彼女に金銭的な援助をしている、賽銭から。
署長も目立たぬよう500リラを彼女に与えようとするが、5000リラ札と間違えた上に、彼女の母の手に渡ってしまう。
母親は巡礼のおかげ、聖アントニオの奇蹟が起きたと喜ぶが、マリアは署長からの援助に我慢できず5000リラの札を破り捨てる。

助産婦として村に赴任して7年のアンナレは、村中の出産に駆け回りながら、実はローマに残した婚外の一人息子の成長を生きがいにしている。

女性二人の間を行き来する署長は、いい年をしてプライベートではギターを爪弾き、水着女性のグラビア雑誌を開いてくつろぐ独身ぶり。
年配のメイドはそういう署長をからかうように言葉を挟む。

行商屋の洋服を巡って諍いを起こしたマリア

地方喜劇の脚本家出身というコメンチーニ監督のタッチは、まさに大衆演劇のそれであった。
テレビでやっていた松竹新喜劇の舞台になぞらえれば、純粋培養の世間ずれしていない二枚目役がデ・シーカ扮する署長、彼を取り巻く中年女芸人(老メイド)やら、まじめな二枚目女優(助産婦)がかき回し役だ。
彼等が寄ってたかって弄り回す若いカップルが、マリアと若い巡査となる。

「パンと恋と夢」を松竹新喜劇ととらえれば成程ピタッとはまる。
決定的な悪人は登場せず、貧困が原因の嘘やいさかいも最後の大団円で溶けて流れる。
気の利いた、男女の機微をくすぐるような、大衆受けするセリフもある。
現実を必要以上にリアルに表現しない姿勢も大衆演劇風。

一方で、戦後のイタリアの貧困が全国民に重くのしかかっていたこの時代。
登場人物の背景に、戦争による犠牲、宗教的因習、来るべき階級差などを描き込みながらも、庶民たちの楽天性、逞しさを前面に押し出した本作は、『バラ色』一辺倒ではないが、左翼教条主義的でもない作品となった。

県内ローカル新聞の華麗な世界 みのわ新聞

ちょっと古いが6月19日付の「みのわ新聞」が手許にあります。

上伊那地区の箕輪町にある、みのわ新聞社の発行です。
1部100円。

カバーするのは上伊那地方の辰野町、箕輪町、南箕輪村、伊那市あたりなのでしょうか。
「岡谷市ニュース」というコーナーがあり、岡谷市方面と関係が深いことがうかがえます。

一面は箕輪町水辺公園のホタルのニュース。
同じ地域の辰野町もホタルで町おこしをしています。
一面には、現役世代の女性が3人で紙マルチを使った田植えを行ったというニュースもあります。
専業農家や業者以外の人が、エコなコメ作りを行うなんてタイムリーな記事です。

箕輪町内ニュースB面の「箕輪町図書館・新着本を紹介」コラムもイケてます。
図書館職員のおすすめ本として「それいけ!平安部」という若者向けの本が紹介されてます。
時代にマッチした本のセレクトがいいです。

辰野町A面ニュースには、子ども食堂の記事が。
自然と食材が豊かな辰野町でも子ども食堂が、2021年より行われているのですね。
150食が10分ではけるそうです。
中学生以下は無料、高校生100円、大人300円です。

一面からめくった二面にはハッチョウトンボの記事が。
全長2センチという日本最小のトンボが伊那市の湿地帯「トンボの楽園」で羽化を始めたということです。
現地では「新山トンボの楽園を育てる会」の会員80名が保護観察の活動を続けているとのこと。
7月5日には観察会の開催されるとのことです。

一見してページ数も少なく、内容的にも薄い印象があるみのわ新聞ですが、よく読むと時代にマッチしたニュースをもれなく集めていることに気が付きます。
岡谷から辰野、伊那まで上伊那地域が文化的にも人の交流的にも、つながっていることがわかります。

お寺の御開帳の広告
地元の酒屋さんの広告もいいですね

箕輪に寄ったらみのわ新聞ですね。

2025 山小舎来客第二弾!

6月最終週の金土日。
山小舎に今年の来客第二弾がありました。

お客さんは山小舎おばさんの職場の同僚の夫婦。
山小舎おじさんも数度会ったことがあります。
一緒に飲んだこともあります。

奥さん同士が同僚なのですが、知り合ったのは20年近くも前。
今はケアマネージャー同士として仕事で協働しています。
山小舎へは犬を連れてくるとのことです。

メニューは金曜日夜は炭火焼き。
土曜日は牛筋煮込みと豚バラ角煮、信州サーモン。
サイドデイッシュにはレタスサラダ、ぬか漬け、こんにゃく煮、などを用意しました。
ドリンクはクラフトビール、シードル、地酒。

第一夜は恒例の炭火焼き

いつものように、信州鶏、信州豚、アルプス牛の滋味に感激しての第一夜を終え、翌土曜日は、原村から蓼科湖周辺に出かけました。
八ヶ岳自然文化園近くのレストランでランチ。
地物の野菜を使ったランチは、食べ疲れ、飲み疲れた体には慈雨のようでした。

同僚の奥さんが趣味の織物関係のワークショップは、施設が休館だったりでしたが、直売所などに立ち寄るたびにたっぷり時間をかけて買い物などするので、十分楽しんでいました。

蓼科湖畔の草藁で山羊と遊ぶ
蓼科湖畔の木道を散策

蓼科湖では湖の周遊散策路、約1キロを楽しみ、近くの小斎の湯へ。
ここで、犬の面倒を交代で見ながら入湯。
一日を過ごして山小舎へ戻りました。

その日は信州サーモン、アルプス牛スジ煮込みに一同声もなく没入。
山小舎ツアーの二晩目を終えました。

(山小舎に来た人が)「皆さんまた来たいというのがわかる」と言いながら、同僚の奥さんは帰ってゆきました。

来客の後は高地の紫外線を活用しての、洗濯物、布団干し
ついでにスリッパも洗って干す

令和7年畑 初収穫

畑に収穫の季節がやってきました。

6月最終週の金曜日にやって来る来客用の野菜を収穫に畑に行きました。
初収穫となる、キューリ、ズッキーニ、レタス、青シソを採ってお客に出すためです。
そのほかにピーマンと万願寺トウガラシも採れました。

収穫したキューリとズッキーニ
レタス、青シソ、ピーマン類も収穫

気候が暑くなり、少し前の雨も野菜には良かったのでしょう。
例年にも増して成育が早い気がします。

高遠の直売所で買った、野菜の根の張りを促進するという「タマリー」なる液体の潅水が効いたのかもしれません。

トマトが順調
ハックルベリー
カボチャ
インゲン

キューリはサラダとぬか漬けに、レタスはサラダに、ズッキーニとピーマン類は炭火焼きで、青シソは信州サーモンのツマとして使いました。
来客には喜んでもらえました。

6月の雨の日

雨の日の山小舎周辺です。

6月は梅雨の時期ですが、夏のような晴天があったり、寒々しい日があったりしました。
長雨が続く梅雨らしい日は少なかったような気がします。

今日は雨です。管理事務所の草苅バイトは休み、畑にも、外での作業もできません。

畑にはこの時期の雨が必要だからどんどん降ってもらっていいのです。

ストーブを炊いて室内を乾かします。少しの遠出を含む外出を企てるのもこんな日です。

大雨が2、3日続くと山小舎の裏の、国有林との境の枯れ川が流れ始めます。
山が雨を保水しきれなくなったようです。

裏の川が流れ始める

立科町の直売所で加工用さくらんぼ、そして春日の「ボスケソチーズラボ」

立科町の直売所「菜ないろ畑」は、野菜苗の時期をはじめ、近くに寄った時に必ず寄る直売所です。
山小舎からは笠取峠を越える中山道ルート、もしくは雨境峠を越えるルートのどちらかを使って佐久地方に出て、菜ないろ畑→道の駅女神の里→JA望月→赤坂直売所を巡るのが、山小舎おじさんの楽しみです。

佐久地方は浅間山を右端にした山々が望めます。
八ヶ岳を望む、茅野、原村、富士見とは異なった雰囲気の地域です。

最近はこの基本コースに、望月地区での木村菓子店、春日温泉などを加えたりしてバリエーションをつけています。そうしたところに、姫木管理事務所の職員さんから「春日にチーズ工房がある」と聞きました。
早速行ってきました。

今回のコースは雨境峠を越えるルートで。
峠を立科町へと下り、まず「菜ないろ畑」によってみます。
ここでは、季節によって、ヤーコン、ビーツ、青いトマト、冬瓜、育ちすぎたズッキーニ、などなど珍しいものが手に入ります。
この日は加工用サクランボを売っていました。

「このままシロップ煮にしておくと孫たちが喜ぶかも」と買ってみました。
レジのおばさんは「種を取ってジャムにするといい」と言ってました。

その後は望月経由、春日地区へ向かいました。
春日地区は望月から蓼科山方面に入ってゆくのですが、実質的に行き止まりの地形ということもあり、行ったことがなかったのでした。
最近、自宅の知り合いの方の疎開の場所だったこともあり、行くようになりました。
温泉が集客している地域でもあります。

チーズ工房に注意して道を進み、温泉の間近まで行くと左手に静かにそれらしき建物がたたずんでいました。
「ボスケソチーズラボ」という店です。

ボスケソチーズラボの建物

静かな場所で、来客もありませんでしたが移住した人が始めたチーズ工房とのことです。
今週末の山小舎おばさんと、同行者夫婦へのおもてなし用にチーズを求めたくて訪れました。
チーズのことはわからないので、とりあえず「白カビチーズ」と、「温泉水で洗ったチーズ」を買い求めました。
果たしてお客さんたちのお気に入りとなるかどうか?

店内。許しを得て撮影
ショーケース
メニュー

ついでに春日温泉の国民宿舎へ行きましたが日帰り入浴は休業中。
付近の「かすがの森」という温泉施設も同様でした、残念。

「かすがの森」も日帰り入浴できず

帰ってから加工用サクランボをシロップ漬けに加工しました。
実が熟していたので、出来上がりの硬さ具合がどうなるか?
ジャムの方がよかったかな?

サクランボを洗い
よく水気をとってから
シロップを煮たてて、瓶に詰めたサクランボに注入
シロップ漬けが出来上がり

DVD名画劇場 イタリアンネオレアリスモの作家たち その6 ブラゼッテイ、カメリーニ

ネオレアリスモとは、イタリア映画史の核と言っていい概念と運動であり、イタリア降伏後の戦後時代に作られた作品群を称する。

「無防備都市」、「戦火のかなた」、「自転車泥棒」、「靴みがき」、「揺れる大地」など、ネオレアリスモの代表作を撮ったのは、ロベルト・ロッセリーニ、ヴィトリオ・デ・シーカ、ルキノ・ヴィスコンテイらと脚本家のチェザーレ・ザヴァッテイーニらであり、そこに共通するのは、戦争や封建制のために苦悩する民衆の貧しさを直接的に描いたことだった。.

スタジオでスターが演じる夢の世界を描く映画から、街頭ロケで普通の人々の日常を見せる映画への変貌を果たしたのがネオレアリスムであり、世界の映画作りに影響を与え、のちにフランスの「ヌーベルバーグ」として結実した。

ネオレアリスモを担ったイタリア人映画作家には、上記3名のほか、戦前に国家機関として設立されたチネチッタ撮影所付属の映画実験センターで学んだ、ピエトロ・ジェルミ、ジュゼッペ・デ・サンテイス、ルイジ・ザンパや、同じく映画批評誌「チネマ」同人出身のアルベルト・ラトアーダ、カルロ・リッツアーニらがいる。

また、サイレント時代から活躍し、戦争初期には「ファシスト政権の御用監督」とまで言われた、アレッサンドロ・ブラゼッテイやマリオ・カメリーニらベテランが、戦争後半から戦後にかけては民衆の貧しさをテーマにした作品を撮っており、ネオレアリスモの先駆をなしたといわれている。

(以上は、集英社新書2023年刊 古賀太著「永遠の映画大国イタリア名画120年史」第三章ネオレアリズモの登場より要旨抜粋しました)

「雲の中の散歩」  1942年   アレッサンドロ・ブラゼッテイ監督  イタリア

監督はサイレント時代からのキャリアを誇るアレッサンドロ・ブラゼッテイ。
脚本には戦後にデ・シーカと組んでネオレアリスモの重要な牽引者となった、チェザーレ・ザヴァッテイーニ。

戦時中は「ファシスト政権の御用監督」とまで言われたブラゼッテイだが、本作は、ヴィスコンテイの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(42年)、デ・シーカの「子供たちは見ている」(42年)とともにネオレアリスモの先駆を成す作品といわれている。

映画は庶民の朝のシーンで始まる。
目覚時計で目を覚まし、子供のために牛乳を温め、ぶつくさ言う妻を後にして家を出るサラリーマン・パウロ。
倦怠感に満ちたシーンだが、何やら楽し気なBGMが流れる。
演じる俳優も当時の映画スターらしい風貌だ。
演技的にも、音楽的にも、流れ的にも映画の作りはサイレント時代からの伝統にのっとっている。
決して実験的でも、独創的でも、センセーションを売り物にする映画でもないことがわかる。
その点では、旧来のスタイルの映画に、現実的なテーマを盛り込んだ作品であろうことがわかる。

満員の電車で営業に向かうパオロ。
車内で同僚のサラリーマンと無駄口をたたくうちに、どこか寂しそうな若い女に席を譲ることになる。

アドリアナ・ベネッテイ(左)とジーノ・チェルヴィ

若い女はマリアといい、パオロが偶然電車を降りた後で乗ったバスでも同席となる。
バスが運転手の妻の出産で、遅れたり、祝宴が始まったり、スピードを出しすぎて道を外れたりするうちにパオロはどんどん仕事に遅れ、押し黙っているマリアが気になり、手助けをし、口をきいてゆく。

彼女は不倫の末妊娠し、やむなく田舎の実家へ向かっていることを告白する。
伝統ある家長の父親から受け入れられないだろうことも。

そこで何くれと親切にしてくれたパオロに助けを求める、「父に会う時だけ夫の役を果たしてくれ」と。
「なんで関係のない家族持ちの俺がそこまでしなきゃいけないのか。仕事(菓子のセールス)の途中だし」、
パオロは当然そう言うが、マリアの姿を見ると放っておけなくなり、会うだけならと家に同行する。

田舎の実家では、マリアが大歓迎を受け、結婚と妊娠を知ってからは、神父や署長まで呼んでの大宴会となる。
パウロは抜けられなくなり、マリアの実家で一晩を過ごすが・・・。

マリアと父親

50年代にイタリアで、90年代にハリウッドで、さらにインド映画にまでリメークされたこのストーリーは、映画ならではのハートウオーミングドラマの典型というか原点。
「そんなことあるかいな?」と思わせながらも、「そうあってほしい」方向に話が進んでゆく。
二人の周りで起こる奇妙でファンタステイックなエピソードと連動して進む夢の時間は、パウロの夢であると同時に観客の夢でもある。

ネオレアリスモ主流作品の深刻さはないが、未婚女性の不倫による妊娠と家族、社会との軋轢を描いており、その点で42年のデ・シーカ作品「子供たちは見ている」の、大人の世界に蔓延する姦通やブルジョアの無為な生活など『社会の現実』を描いた観点同様に、ネオレアリスモの精神を先取りしている。

主人公のパオロにジーノ・チェルヴィ、マリアにアドリアーナ・ベネッテイ。
マリア役のベネッテイはデ・シーカの「金曜日のテレーザ」(41年)でデヴューした新鋭女優。
その薄幸な美人ぶりは「ローマ11時」(52年)のカルラ・デル・ボッジョや、「街は自衛する」(51年)のコゼッタ・グレコを思い出させる。

監督のブラゼッテイは戦後、歴史大作「ファビオラ」(49年)、艶笑ドラマ「懐かしの日々」(52年)を発表。
さらにショーの記録映画として『夜もの』映画、あるいは『モンド』映画の先駆けとなった「ヨーロッパの夜」(60年)を、あのグアルテイエロ・ヤコッペッテイと組んで発表した。
イタリア映画史を横断する『巨匠』のキャリアではないか。

「不幸な街角」  1948年  マリオ・カメリーニ監督  イタリア

アンア・マニヤーニが存分にその「一人芝居」で大暴れする。

役柄は戦後直後の貧しい家庭の主婦。
幼い一人息子がいて、2年前にアフリカ戦線から復員してきた夫パウロ(マッシモ・ジロッテイ)は失業中。
失業を戦争のせいにして、決して悪辣に社会を渡っていけない夫と、子供のためにコロッケ一つ買えない家計に不満を募らせる妻リンダ(マニヤーニ)。

製作は「にがい米」でシルバーナ・マンガーノを「発見」した、デイノ・デ・ラウレンテイス。
30年代から活躍のベテラン、マリオ・カメリーニを監督に起用、音楽はのちにフェリーニ作品や「ゴッドファーザー」で有名なニーノ・ロータ。
当時の新進映画作曲家ロータの楽し気なBGMに乗って、映画は戦後の貧困な社会を背景とした、ひと時の庶民の夢をつづってゆく。

まだ若く、幼子の母親役が似合うマニヤーニのマシンガントークが、いつものように炸裂する。
漫才でいえば「ノリ突込み」を一人でこなすから、相手役のジロッテイはそばに立っているだけの役割。
見るものはマニヤーニの芝居にあっけにとられる。

稼ぐ手段が見つからず、家ではリンダのマシンガントークに追いつめられたパウロは、高級車の盗難をそそのかされる。
何とか盗難に成功し、モグリの売却業者のもとに急ぐが、夫の浮気を妄信したリンダが息子を連れて車に乗り込んでくる。
楽しそうなリンダと苦虫をかみつぶしたパオロのドライブが始まる。

この場面、浮気を誤解してまくし立てるマニヤーニと、彼女を援護する、いつの間にか集まった群集と偶然にしてはタイミング良すぎる警官が二人を取り囲む。
彼等をバックに一段とオクターブを上げるマニヤーニの、十八番ともいえる誇らしげな姿。
コメデイ映画定番のシチュエーションだが、マニヤーニにかかると見ているこちらのテンションも、わかっていながら爆上がりだ。
イタリア映画らしい、芸達者なエキストラ陣とおせっかい警官の表情も最高!

そうしてモグリの悪徳転売業者のもとにたどりつくが、彼は孫の洗礼にかかりっきり。
教会で洗礼の後は親戚一同(と神父、署長)でお約束の大宴会が繰り広げられる。
早く車を売らないと、と焦るパオロ。
いつの間にか家族に同化し、大笑いしながら盛大に飲んで食うリンダの食欲とコミュニケーション欲?も誰にも止められない。

コメデイ定番の展開の後、なんと!悪徳業者は孫の澄んだ目を見て良心に目覚める!
「初めて泣くのを見た」と乱舞して、悪徳業者を連れ神父ともども教会の懺悔室?になだれ込む親戚及び関係者一同。
かくて悪徳業者は善人となり、車の転売はおじゃんになるのであった。

その後も、政治集会の群れに車の行く手を阻まれたり、無銭飲食でオートバイに追いかけられたり。
「悪」には全く素人のパウロはリンダと息子を乗せて、ヒヤヒヤドキドキの家族ドライブを繰り広げる。

2人の子供を演じる子役がいい。
ドライブの先々で、七面鳥やウサギと出会い、最後は海を見てはしゃぎながら砂浜で遊ぶ幼子。
現実の貧困からの「救い」の映画的表現がやさしい。

ハピーエンドで終わる物語は後味もよい。
貧しい家庭が一日の夢のようなドライブを楽しんだ。
そもそもがパウロが慣れない悪事に手を染めたからだったが、二転三転、犯罪にならずに済んだ。
これは、救いのない現実に苦しむ当時の観客にとっても救いのある、映画的な夢であったろう。

マニヤーニの芝居のいいところは、その熱演がコメデイを狙ったものではなく、結果としてコメデイになっているが、あくまでも本人にとっては真剣なものであること。

この作品でも、マニヤーニは大まじめに周りをかき乱す女性像を演じながら、車は夫が盗んだものだと察したときにきっぱりと夫に自首を勧め、あまつさえ自分が夫の代わりに警察に自首するのである。
まさに大真面目に、正しく生きているのだ、その『勝手な』行動で周りをかき乱しながらも。

マリオ・カメリーニは1895年ローマ生まれ。
イタリアの僻地出身でも、左翼思想の洗礼を受けたわけでもない、生粋の戦前派映画人といえる存在。
23年に監督デヴューの後、30年代のイタリア映画界をアレッサンドロ・ブラゼッテイとともに支えた。
50年代まで第一線で活躍した。