たづくりでCINE WORKS展、新東宝・近代映画協会展を見る

2026年の調布シネマフェステイバルの開催に合わせて、市民会館たづくりで「CINE WORKS展」が開催されています。
前日投稿した「出張!映画資料室 日活撮影所70周年」と同時期での開催となり、山小舎おじさんは二つの会場をハシゴしてきました。

CINE WORKS展ポスター

会場に入って驚かされるのが怪獣が街のミニチュアを壊して暴れ回る様子のセットです。映画撮影所自体は閑散としていても、こういった特殊技術的というかニッチなマニアックさというか、は発展しているのですね。

「ゴジラ」第一作についての展示
平成ガメラシリーズについて
怪獣のセット
怪獣のセットを別方向から

CINE WORKS展の方は撮影自由なのですが、隣の部屋の近代映画協会と新東宝の歴史資料展の方は撮影禁止でした。

新藤兼人が吉村公三郎らと興した近代映画協会は長く続いた独立プロです。
初期の代表作「原爆の子」や乙羽信子が主演した一連の作品で有名です。
代表作の脚本や、モスクワ映画祭で賞を取り世界に売れた「裸の島」のポーランドでのポスターなどが展示されていました。

そしてなんといっても目を引いたのが新東宝の歴史に関する展示の数々です。
東宝争議から新東宝の発足、初期の他社巨匠による「おかあさん」「西鶴一代女」などの名作群、女流監督としてデヴューした田中絹代の「恋文」、活弁士として財を成した大蔵貢の社長就任と低予算エログロ路路線のいわゆる「新東宝カラー」の徹底、会社倒産と国際放映への引継ぎまでが、パネルに手際よくまとめられています。

間を飾るのは、今なお煽情的でキッチュな毒を放射する「新東宝カラー」あふれる作品群のポスター。
中川信夫、石井輝男ら新東宝で光り輝いた監督群についてや、宇津井健、前田通子、久保菜穂子ら新東宝でデヴューしその個性を後日まで発揮し続けたスター達についてのパネルもあります。

単に制作者、監督、スターらの経歴をパネルにまとめて、その間にオリジナルポスターを並べるだけではなく、新東宝史の要諦をつかんでいるかのような解説が目を引きました。
曰く「製作費が通常1500万のところ、新東宝では1000万円だった。そのため外部から巨匠やスターを呼ぶことはできず、自前の新人監督と新人俳優を養成し、使わざるを得なかった。」
「初期に外部招聘された、伊藤大輔、清水宏、渡辺邦夫、斎藤寅次郎、マキノ雅弘、並木鏡太郎、中川信夫ら巨匠や職人派に付いた新東宝採用の助監督の、井上梅次、渡辺祐介、土居通芳、小森白、三輪彰、山際永三らは、のちに社内や他社で監督昇進しそれぞれの個性を発揮した。」
「新東宝スターレットなどとして採用した俳優たちは、宇津井、久保、前田のほかも菅原文太、天地茂、高島忠夫、左幸子、三ツ矢歌子、池内淳子、三原葉子、原知佐子らがおり、会社倒産後も他社で活躍するなどした。」などなど。

掲示されているポスターのチョイスも抜群で、新東宝作品史においては欠かせない「明治天皇と日露大戦争」「東海道四谷怪談」のほかにも、「女競輪王」「地獄」「スーパージャイアンツ」「戦場のなでしこ」「大虐殺」「黒線地帯」「女王蜂もの」「地平線がぎらぎらっ」など、ニッチな作品のものが保存状態もよく掲示され、興味を引いていました。

新東宝の歴史と日本映画史におけるその役割を簡潔にまとめた展示内容に、改めて目を見開かされる思いでした。
かつて場末の映画館に潜り込み、色っぽい映画でもこっそり見るような、刺激的でワクワクする映画体験を思い出すような場でもありました。

出張!映画資料室「日活撮影所70周年」

調布市文化会館たづくりのホールで、「日活調布撮影所70周年&VFXの作品たち」という展示会がありました。
場所はたづくりの2階にあるギャラリーです。
入場無料でした。

展示会ポスター

映画撮影所を市内に2か所持つ調布市が、年に一度の調布シネマフェステイバルの開催に合わせて、日ごろ収集している映画資料を展示公開するという催しで、「出張!映画資料室」と銘打つものです。

ギャラリー入口

今年のテーマは、日活撮影所が70周年を迎えたこ(正式名称が日活調布撮影所に変更されている)、また市内にあるスタジオがVFVを手掛けた「ゴジラ-1.0」が米国アカデミー視覚効果賞を受賞したこと、の2点を記念しての関連資料の展示となりました。

まず、日活撮影所に関する展示。
ほとんどが撮影不可の資料ですが、撮影所の年譜をはじめ、第一回作品「國定忠治」のスチル写真、川島雄三監督作品「あした来る人」の脚本、「大巨獣ガッパ」のポスターなどが展示されています。

全盛時の撮影所全景(展示会で撮影が許された唯一の資料)

スタッフの手になるセットの設計図や、実際に使用された脚本、公開当時のポスターなど、当時の空気を今に伝える貴重な資料には、歴史を感じさせる「重み」があります。
また、さりげなくつづられた日活撮影所の年譜の中に、「配給事業からの撤退」「日活芸術学院の閉校」などの記述を見ると、国内映画産業の果てしない衰退(なのか分業化なのかはわかりませんが)を感じてしまいます。
現在、開所当時からは何分の一の広さになった、日活撮影所は自社制作もなく、貸しスタジオとして機能しているようです。

ギャラリーの片隅で誰が見るでもなく、当時の映画館で上映された「日活ニュース」の映像がエンドレスで流れていました。
日活撮影所建設が始まる様子と製作開始5周年パーテイーの様子です。

調布市布田の多摩川近くの広々とした田圃の真ん中に、撮影所が建設開始される地鎮祭の様子が映し出されています。
さらに貴重なのが5周年記念パーテイー。
田んぼの中をバスを連ねて招待客が続々と撮影所に入ってくる様子。
紅白幕を張った演壇で当時の堀久作社長が挨拶し、全国各地の映画館主代表の挨拶が続く様子。
若々しい小林旭と石原裕次郎が余興で歌う様子(旭の高い声。裕次郎は悪びれもせずカンペを見ながら)。
筑波久子が艶然と現れたり、北原三枝が寿司をほおばっていたり、芦川よしみはさすがにそつなく招待客と歓談していたり。
所内に溢れる人の波、何人もの寿司職人が屋台でひっきりなしに握る様子。
当時の映画撮影所の、もしかしたら日本全体の活気が映像からほとばしり出ていました。

プログラム表紙
プログラム内容(一部)

続きのギャラリーはVFXコーナーということで、「2001年宇宙の旅」から「ゴジラ-1.0」までのポスターが展示されていました。

なお、ギャラリー内には「持ち帰り自由」とのチラシやパンフレットが置かれていました。
みてみると70年代から80年代の珍しい作品のものが多数あり、見境もなく10冊以上のパンフレットをもらってきました。
重かったです。

無料でもらえた映画パンフ(その一部)

彩ステーションのサポーター誕生会

山小舎おばさん主宰の、(調布)柴崎彩ステーションは、みんなの居場所と銘打つだけあって国籍も含め多彩な人が関わっています。
毎週のランチの日に10人以上の昼ご飯を作る人や、体操教室の先生、自慢のギターでリードしてくれる歌おう会の主宰者、世界を舞台に曲芸で渡ってきたご夫婦の投げ銭発表会、子ども食堂を彩ステーションを舞台に毎月行うグループなどなど・・・。
プロによる投げ銭方式の催し以外はボランテイアによるサポートです。

ステーションに関わる人々の中には、外国からやってきた方々もいます。
イラン人で日本人の夫と暮らす女性、パラグアイから来て喫茶店などに手製のケーキを卸している女性、今年72歳になるスリランカ人の男性、決して日本語を話そうとしないジャマイカ人夫婦・・・。
その中の一人がグアテマラから来日して20年弱、日本人の夫の間に今年大学入学を控える一人娘がいるマリアさんという女性です。

マリアさんは、彩で開かれるバザーにグアテマラ料理を提供したり、娘さんともども気が向いた時に行事を手伝ってくれるサポーターでもあります。
ある日、マリアさんが自分の誕生会を彩で開くというので参加してきました。

出席したのは、マリアさんの家族、友人の日本人らのほかに、日本在住のグアテマラ出身者が2名、パラグアイやメキシコの出身者、スリランカのおじさんもいました。
うれしそうなテンションのマリアさんが自ら会を廻し始めます。
何せ明るいメンタルのマリアさん「センセイ、センセイ」と山小舎おばさん、おじさんのことを呼びます。
若干おちょくられている感もあるのですが、彼女が日本で身に着けた処世術の一環でもあるのでしょう。
時間や約束にルーズな面はありますが、本人がそれを気にしないのがグアテマラ流のようです。

山小舎おじさんとして特にうれしかったのは、グアテマラ出身で日本人と結婚し二人の子供もいる40代の男性から、南米の歴史などについて詳しい話が聞けたこと。
日本語でそういった話ができる外国人は貴重ですし、何より世間話以上の会話が久々にできたことが、大げさに言えば久々に「社会参加」できたような充実感をもたらせてくれました。

「スペインに南米がやすやすと侵略されたのは、マヤ文明とアステカ文明の境目で、南米自体が混乱していたせいもあった。」との見解には眼が開かれる思いでした。
南米本来のマヤ文化と歴史・文化に詳しい彼の話からは、自国と中南米についてのプライドの深さを感じることができました。
「南米の人は陽気だが、中米はそうでもない。マリアさんが特別陽気」とのこと。
彩でのパーテイでは、パラグアイ出身のナンシーさんなどは興が乗ってくると立って踊り出すのですが、そういえばマリアさんが踊るのは見ないような気がします。

パラグアイのナンシーさんお手製のバースデイケーキが切り分けられる

スリランカ人のおじさんも含めまだまだ話し合ってみたいと思った、誕生会でした。

集合写真なども撮ったのですが、顔モザイクの入れ方がわからず今回は掲載を断念しました。

冬の山陰・北陸夜行列車の旅⑦ 敦賀の居酒屋と町の歴史

敦賀で予約もなく駅前のビジネスホテルへ投宿。
さて今晩の夕飯は?

太田和彦の居酒屋紀行の敦賀編を調べると、街中に「てんてん」という店があることがわかりました。
観光案内所でもらったマップを頼りに向かうことにします。

中心部の平和堂というスーパーで値引きの弁当やドリンクを買い、袋をぶら下げてアーケード街を気比神社方面へ。
吹雪が遠慮なく吹き込む舗道は、平和堂周辺を過ぎるとほとんど人通りはありません。

商店街ではあるのですが、開けている店などほとんどない中、「てんてん」がありました。
玄関を引くと「予約ですか?」と大将の元気な声。
何とかカウンターに座らせてもらえました。
人気と活気があふれる店内は、ほぼ満席の人気店でした。

ネット情報の通り、カウンターにはずらりと手作り風のお惣菜が並んでいます。
カウンター内には元気のいい大将と、客あしらいが上手そうな若い女性が一人二人。
ときどきママさんらしき姿もあったりします。

両隣りはいかにも観光客らしき姿があり、「敦賀に来たからには!」の勢いで新鮮な刺身を並べて地酒を飲んでいます。
地元客より、予約の観光客の方が多い感じです。

イカなどの刺身や、魚のあらを煮たお惣菜が美味しく、食べ物飲み物には十分満足したのですが、なにより人をそらさず擦れていない大将やお姉さんの接客ぶりがうれしくて、たっぷりと地元の人と交流ができたような気持で店を出ることができました。
店を出ると大将が店の名刺を持ってきて送りだしてくれました。

居酒屋てんてんの店構え

10年以上前のこと。
長野県の信濃大町の居酒屋で飲んだ時、折から座敷の大人数の客対応で忙しかった主夫婦が、一段落してから「すいませんお相手できなくて」と一人でカウンターに座るこちらにやってきて、地元の話や黒四ダムをフィーチャーした破砕帯サワーなどをネタに話し相手になってくれたことを思い出します。
地方の客商売は人情に溢れた店が多いのです。

翌朝は敦賀の町巡りです。
まずはバスの乗って気比神社へ。
越前国一之宮にして北陸道総鎮守でもある古い神社で、歴史は2千年以上の古社です。
敦賀に一泊したからには挨拶せざるを得ません。
道中の舗道は雪に一人分の足跡がついているだけ、バス通りとの境には雪がうずたかく積もっています。

敦賀の冬の道路には融雪のため水がまかれる
雪深き気比神社の鳥居

参道から本殿へ向かいお参りしました。
格調高くたたずむ気比神社にはボタン雪がひっきりなしに降り続いていました。

鳥居をくぐって参道を行く
本殿にお参り

次にマップを頼りに漁港を目指します。
歩いていると、漁港近くの歴史がありそうな地区に、ガッチリした古い建物が目に入りました。
敦賀市立博物館でした。
期待をせずに入ってみると建物の内部は映画に出てくるような洋風の本格建築でした。

市立博物館(旧大和田銀行)
あっと驚く本格西洋建築の内部

明治時代に開業した大和田銀行という地元資本の銀行の本店だったという建物です。
展示されている遺物や資料もホンモノで珍しいものばかりです。

敦賀の発展は、明治以前の北前船の交易で港が栄えた時代に始まり、明治以降は国際港となった敦賀港からウラジオストクに定期航路が運行されました。
鉄道が新橋から敦賀まで接続されていたため、旅行者は東京から敦賀経由、シベリア鉄道でヨーロッパまでつながった旅ができるようになったのです。
当時、先進国とつながる最先端の交通路が敦賀を通っていたのです。

こうして戦前までは、最先端のハイカラな街だった敦賀ですが、航空路の発展、道路による物流にトレンドが移行した戦後は衰退し始め、現在では漁業と原発の町となっているのは時代の流れとしかいいようがありません。

ウラジオ航路を示す地図
ロシアとの交流をしめすサモワール

博物館を出るとさらに吹雪が強まっています。
港近くの街並みを吹雪とともにさ迷います。

港近くの街角
漁港風景

漁港近くの魚市場は閉まっていました。
付近に点在している場外の小売店も開いていたり、いなかったり。
人気はなく雪が吹き付けるばかりです。

そのうちの一軒で尋ねると「今日はシケで漁がなく、セリはなかった」とのこと。
開いている鮮魚店の店先には、冷凍のエビやお馴染みのズワイガニなどが所在投げに並んでいるばかりでした。

開店休業の場外小売店

駅に戻って福井行きの列車に乗り込みました。

福井行列車。ハピーライン福井という第三セクターが運行

北陸新幹線が乗り込んだ福井駅の発展ぶりと、郊外電車福井鉄道の旅は次回で!

昼食は敦賀駅で買った弁当で。カズノではなくツノガと呼ぶ
1000円にしてはまずまずリッチな内容

冬の山陰・北陸夜行列車の旅⑥ 舞鶴引揚記念館

天橋立を見て、東舞鶴駅に着いた山小舎おじさん。
まだ13時30分、さてどうしましょう。

駅を見渡すと、引揚記念館紹介の簡単なデイスプレーが展示されています。
記念館方面のバス乗り場方面を示す矢印もあります。
「そうだ、舞鶴は戦後大陸からの引揚者が日本に上陸した港だったんだ」「岸壁の母の舞台だったんだ」。
引揚記念館というのがあるのだったら、めったにないチャンス、寄ってみよう。

敦賀駅構内の引揚記念館展示物

駅前のバス乗り場で、時刻表を見てみますが、記念館方面のバスの便は1時間に1本もありません。
目の前には人気のないアーケード街が続くばかりです。
「よし、今日は夕方までに敦賀に着けばいい。ええい、タクシーを使ってでも引揚記念館へ行こう」。

駅から続く敦賀中心街

駅から乗ったタクシーは、同年配の運転手さん。
道々案内をしてくれながら引揚記念館へ連れて行ってくれます。
人気のないアーケード街は舞鶴の中心街とのこと、通りには海軍の戦艦(日清戦争時代からの)がつけられていること、明治時代に海軍の鎮守府ができて以来、海軍工廠などもでき海軍の町だったこと、今の自衛隊はあまり町へ出て飲んだりしないこと、戦後の引揚時代にはそのまま舞鶴に定住した人も多かったこと、現在では引揚体験者はほとんど存命していないこと、などなど、地元ならではの生きた情報もありました。

記念館に程近い場所に、復元された引揚船の桟橋があるからとのことで寄り道。
これが大陸から引き揚げた人々が第一歩をしるした場所なのか。
思ったより小規模で貧相な桟橋がそこにありました。
湾内は水深が浅く、大型船は接岸できないため、はしけに乗り換えてここに上陸したとのことでした。

復原された引揚桟橋
桟橋から湾内を望む

記念館までは思ったより遠く、桟橋経由だったこともあり運賃は4000円かかりました。
これはしっかり見学しなくてはいけません。

数名のグループ客が出てゆき、ほとんど見学者のいなくなった記念館をたっぷり時間をかけてみてゆきます。
舞鶴の軍港としての歴史、戦争へ至る経緯の展示から始まり、シベリア抑留の歴史などがラーゲリ小屋の実物大模型などで展示されています。
舞鶴への引揚は、シベリア方面、中国大陸方面からが圧倒的に多かったことがわかります。
引揚が長引いたのもシベリア抑留が長引いたからでした。

館内の展示
館内の展示

山小舎おじさんが最も関心があったのが、民間人の引揚の実態と、地元舞鶴の対応でした。
残っている資料も少ない中、引揚者を迎えるニュース映画や、当時の舞鶴市長の呼び掛け文、引揚証明書、引揚者の一時収容施設の模型などが関心を引きました。

館内の展示
館内の展示

引揚と言えば舞鶴というのが今の印象ですが、その理由はシベリアらの引揚が長引いて昭和33年まで続いたこと、舞鶴市をあげてのホスピタリテイーあふれる応対ぶりにあったようです。

館内の展示

広島の原爆資料館のような、あるいは靖国神社の遊就館のような劇的な展示ではありませんが、戦争を記録し、その当時の日本人のふるまいを記録する意味ではまさに「ユネスコ世界遺産」にふさわしいい場所だと思いました。
駅から遠いのが玉にきずで、帰りは17時までバスがなく、タクシーを呼ぶことになりました。
帰りの運賃はなぜか2600円ほどでした。

館内の展示

東舞鶴駅に戻って敦賀まで小浜線に乗ります。
ICカードは使えないのでキップを買います。
乗車中に敦賀のホテルでも予約しましょう。

ということで車中でスマホをいじりますが、予約確定までなかなかたどりつけません。
ホテル代がかつての一泊4~5000円の時代から、6~8000円の時代になっていることもあり、選択に手間取ったのが一つ。
そして現在のネット予約が料金前払いになっているのはしょうがないとして、カード情報の入力の際、本人確認として暗証番号の入力画面が現れたことが2回あったのです。
これはさすがにおかしいと山小舎おじさんも気が付き、予約作業をストップしましたが、先方指定の暗証番号の返信画面がフリーズしたり、とにかく1時間かけても予約が1件もできません。

小浜線の車窓。雪の積もっていない場所もあった

車窓は若狭湾の三方五胡、小浜と過ぎてゆきますが景色を見る暇もありません。
とうとうネットでの予約をあきらめ、敦賀駅に着いてから宿泊場所を探すことにしました。
幸い敦賀駅の観光案内所は18時まで空いているようでした(この情報はネットで確認できました!)。

敦賀駅
バスはチェーンを巻いていた

薄暮の中、北陸新幹線駅となった敦賀駅に到着。
さっそく観光案内所へ。
2人ほど案内のお姉さんがネット情報通りに勤務しています。
市内のホテル一覧の紙をもらいました。

雪が積もる中、駅から1分ほどのビジネスホテルに向かいました。
6500円で広々とした部屋が取れました。

吹雪の敦賀の夜を地元の美味とともに市内の居酒屋で過ごし、気比神社から漁港へ歩いた翌日の顛末は次回!

冬の山陰・北陸夜行列車の旅⑤ 山陰線ハイライトと天橋立

鳥取の朝は早かった。
この日の行程は、山陰線で兵庫に入り、天橋立を見て、舞鶴に寄ってから敦賀まで行って宿泊と予定を立てた。
乗り継ぎが多い行程のため、出発は早いに越したことはなかった。

朝6時、まだ暗いホテルを出発した。
駅までのアーケード街、雪が積もった舗道をジョギングするカップルが「おはようございます」と追い抜いてゆく!
大雪注意報の朝、駅の案内板は浜坂行普通列車の折り返し到着が遅れ、鳥取発が30分遅れるというものだった。

早朝、雪降りしきる鳥取駅

少しでも早くゆく方法はないかと、雪をかき分け駅前のバスターミナルに行ってみる。
高速都市間バスも発着するターミナルでの案内は、県の東方面行きのバスが7時くらいにあり、山陰線の駅で連絡するという情報。
これに乗って出発し、山陰線の駅で、今浜行きの列車を待つこともふと頭をかすめたものの、この雪の道路状況ではバスがいつ目的地に着くかもわからない、と考え直し、おとなしく列車を待つことにする。

駅前のバスターミナル
鳥取駅構内は県を挙げて参加する大阪万博で盛り上がっている

駅に戻り、「砂丘そば」を出す立食い蕎麦で朝食。
まずは温かい蕎麦で腹ごしらえ。
30分遅れの普通列車に乗り込む。

砂丘そばの看板に引き押せられて・・・
砂丘そばで暖まる

2両編成だがほかの乗客を確認できない今坂行普通列車。
見事な雪景色の鳥取県最東部を山間部に分け入ってゆく。
途中駅で高校生らが10人ほどいたので乗り込むか?と思っていたら彼らは行き違いの鳥取行きを待っていたのだった。
相変わらず乗り降りはなし。

折り返し、浜坂行きの列車が30分遅れで到着
車内に人はおらず
この日の県東部の車窓

気が付かないうちに兵庫県に入り、兵庫県内の高校に通学する生徒などが乗り込んだ列車は、やがて終着の浜坂駅に到着。
駅前に食堂らしき看板のある町です。
ここまで切符で乗車していた山小舎おじさん、豊岡までの切符を買いに無人の今浜駅改札を抜けて販売機で購入。
慌てて地下通路をくぐり豊岡行きのホームに出ると、あろうことか列車がしずしずと動き出しているではありませんか。
「おーい」と声さえ出ませんでしたが、ここで2時間は待ちたくない!と思いながら走っていると、なんと列車がストップし、ドア開閉のランプがともりました。
運転手が追いかけて走る我を見て列車を止めてくれたのでした!
列車はもちろん、最近ではバスでさえこんなことはありません。
「これが山陰線なんだ!」と、地域性を痛感するとともに、感謝至極の一幕でした。

乗客を3組ほど乗せた豊岡行き(だったか福知山行きだったか)列車は、左手に荒々しい冬の日本海を垣間見せながら、入り組んだ海岸線を走ってゆく。

やがて強風で列車が、脱線し落下し、車掌と水産工場の工員数名が死亡した1986年の「余部鉄橋事故」で有名な余部鉄橋を通過した。
回送中の軽い車両だったとはいえ、風速三十数メートルの突風が、機関車以外の車両数両を鉄橋上から吹き飛ばしたのだという。
この日はそれほどの風速はなかったが、余部の駅を通過すると列車は鉄橋上と思しき高さの場所を通過した。
眼下に余部の集落が見えた。

ほとんど客の乗り降りがない列車と日本海沿岸の寂れていてもどこか海の息遣いに溢れた景色。
ここら辺が山陰線沿線の一つのハイライトでありましょう。

この日移動したあたりの地図
兵庫県に入った山陰線。日本海の荒波
餘部駅
余部鉄橋上とおぼしき地点からの車窓

城崎温泉を通り兵庫県内を走った列車は豊岡に到着。
私鉄・丹後鉄道に乗り換えるために下車します。

丹後鉄道豊岡駅

豊岡は兵庫県の山間部に位置する町。
この日の積雪は兵庫とは思えないほど。
丹後鉄道の発車時間まで少々あったので、駅前の観光案内所をのぞいてみました。

午前中のリラックスタイムに今まさに缶コーヒーの蓋を開けようとしていたシルバーっぽい年配者と、30代くらいの女性がいました。
どういった経緯でここにいるのか、わが方の素性を計りかねるように近づてくる年配者に「天橋立のマップありますか」と問いかけました。
「天橋立は京都ですさかいに」と言いながらマップを出してくれます。
シルバーさんのナチュラルな関西弁に、とうとう関西に入ったか、と感慨も新たです。
御仁は「鳥取から東の山陰線は乗降客が少なく、廃線の話も出ている」「豊岡からは鳥取まで買い物に出る。車で2時間くらい」「今日くらいの積雪は普通」などとのご当地情報も聞かせてくれました。

雪のホームで停車している丹後鉄道は1両編成。
出発までに、トランクを引きずった中国人観光客らでほぼ満席となりました。

西舞鶴行きの丹後鉄道に乗車
車内風景。外は真っ白

約1時間、雪景色の中を走る丹後鉄道。
やがて日本海側に出て丹後半島の付け根を横断し、宮津湾に面した天橋立駅に到着しました。

天橋立駅から橋立を見る、天橋立ビューランドまで歩いて数分程。
駅構内の観光案内所の女性はテキパキと応対してくれます。
駅からビューランドのリフト乗り場のあたりは中国人観光客で引きも切りません。
列車より貸切バスでやって来る中国人の方が多いようです。

天橋立駅
天橋立の町にて雪かきの真似をする中国人

モノレールが点検中とのことでリフトでビューランドに登ります。
徒歩で上がるルートはないとのこと。
上がるとそこはテレビなどでよく見る天橋立の展望場所でした。
展望場所の背後には遊園地まであります、これは知りませんでした。

天橋立は宮津湾と阿蘇海をへ出てる砂州ですが、その絶妙な立地と見事な砂州地形はさすがに日本三景に謳われているだけあります。
砂州上に生えている松も天然林とのことです。

展望台まではリフトで上がる
日本三景天橋立
瓦投げをする人
展望台には遊園地まである!

1時間ほどで橋立見物を終え、駅に戻って西舞鶴行きの丹後鉄道に乗ります。
舞鶴の中心部は、JR東舞鶴駅にあり、そこまでJR舞鶴線に乗り継ぎます。
東舞鶴駅に着きました。

舞鶴で引揚記念館を訪問し、敦賀に移動して雪の中、名物居酒屋を訪ねた顛末は次回!

シルバー人材センターのポステイングバイト

しばらく音沙汰がなかった、調布市シルバー人材センターから連絡がありました。
地域活動情報誌・じょいなすという、見開きA3サイズの者のポステイングです。

じょいなす令和7年春号

シルバーでのポステイングバイトは数年前に、社会福祉協議会の月報「福祉の窓」3000部の配布を、つつじが丘地区で行ったことがありました。
今回はじょいなすの深大寺元町地区での配布です。

センターで住宅地図を渡される

じょいなすの発行元は調布市役所生活文化スポーツ部協働推進課というところです。
令和7年春号のテーマは「自治会」。
各地の自治会の活動報告や代表者の感想などを通して、住民の自治会への参加を呼び掛けています。
地方自治法により、住民は自治会を組織することができるのですが、未参加の住民や、自治会が未組織の地域が増えているのでしょう。

2060部を預かってくる

ペラペラのビラの2000部ですので軽く引き受けました。
「社会」から声がかかり、必要とされたことがうれしくて、久々に充実感を感じました。
年齢に関係なく、他人から必要とされることは大切なんだと改めて思いました。

愛車ママチャリ号で出発

一日目、配ってみてびっくり。
坂が多く、土地も混み入った場所が多く、また大規模なマンションが少ないので、配る作業の効率が悪いのです。3000部配るつつじが丘地区よりもっと大変な印象です。

自分自身の体の衰えも痛感します。
小回りや足の上がり方、そして体力そのものが低下しています。
相当自覚しながら作業しないと、ケガにつながりかねません。
運動にはなりますが。

深大寺周辺は梅が満開

また、深大寺元町あたりは、土地勘があるようでない所。
植物公園と深大寺周辺、野川沿いくらいしか普段はいかない地域なのです。
実際に歩いてみると、国分寺崖線にかかる坂の多さはわかってましたが、その上に区画も狭く、変形して混み入った土地と住居が多いことがわかりました。
表通りからは見えない場所に住居があるようなこともあり、配り漏れも出てきそうです。
活動量のわりに、配る部数がはけない印象です。

深大寺の参道には訪れる客の姿が

二日かけて配ったのは500部程度。
まだまだ先はあります。

冬の山陰・北陸夜行列車の旅④ 境港とブリと鬼太郎

松江での山陰第一泊目が明けた日、市内を見物した後、米子に向かいました。
着いた米子駅は松江以上の雪景色でした。

この日の米子駅

米子からは境港まで往復して、魚を買い、今日中に鳥取まで行く予定です。
松江の駅でお土産を物色したので、当初のざっくりしたスケジュールは崩れています。
とりあえず列車で米子までは来ましたが、次の境線、境港行きまでは1時間半ほどもあります。

米子駅前のバス停で、境港行きのバスがないか調べてみました。
なんと15分後くらいに、終着境港駅行きの日の丸バスがありました!
思ってもみなかった展開。
この綱渡り感は、テレビ番組の「ローカル路線バスの旅」のようです。

米子駅前のバスターミナル

15分の時間を雪のバス停で待っているわけにもいかず、境港の街のマップをもらいに駅の観光案内所に入りました。
中年の女性たちに交じって30代くらいの男性がいて対応してくれました。
話していると彼が学生時代に京王線の聖蹟桜ヶ丘に下宿していたことがわかり、水木しげるつながりで、境港と調布の話で盛り上がりました。
この彼は地元に戻って働いているとのことで、久しぶりの東京の話題に話が止まりませんでした。
NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」放送のころは、境港に観光客が押しよせたとのことでした。

日の丸バス境港行きの乗客はほかに観光の夫婦が一組のみ。
まっすぐな道を直走り、JR境港駅に着きました。
駅は隠岐の島へのフェリー乗り場ともつながっており、この日のフェリーの便は満員のようでした。

日の丸交通バス境港駅行きの車内
境港駅ビルの外観
隠岐の島行きフェリー窓口

有名な水木しげるロードは、駅から堺水道と並行して東に進んでいます。
かつては港で栄えた商店街だってのでしょう。
この日はまるで人の姿はありませんでしたが、鬼太郎一色に統一・再開発された商店街が続いていました。

水木しげるロードにて
こういった店が多い

実は境港で目指した先は、水産物直売センターという魚の直売所です。
「境港に行って寒ブリを送ってほしい」と家族のリクエストがあったためです。

水木しげるロードを抜け、さらに30分ほど歩いた漁港のロードサイドに目指すセンターはありました。
買い物客や食事に寄った地元の人らが集まっていますが、ほぼ全員が車でやってきています。

歩いて水産物直売センターへ
センター内部には小売店が並ぶ

センター内には10軒ほどの鮮魚小売り店が軒を連ねており、そのうち半分ほどがズワイガニの専門店、鮮魚専門は2,3軒です。
センター内を一周してから目を付けた鮮魚店に戻り、ブリの子供の天然ヒラマサと天然ヒラメをチョイス。
ほかの店で買った干しサバも合わせて送ってもらいました。
ヒラメを3枚におろしてもらおうとオーダーしようとすると「おろさない方がいいよ。着くのが遅れるかもしれないし」と言われ、丸のままで送ってもらいました。
なかなか生きのよさそうなヒラマサとヒラメでした。

自宅では無事、刺身におろして食べたとのこと。
「とにかく新鮮だった」そうです。

センターの鮮魚店にてヒラマサ
天然ヒラメも

買い物が終わって鮮魚店の女性に聞くと「センター内にすし屋はなく、食堂が2軒あるだけ。」とのことで、安めの食堂で昼食。
観光客や地元の勤め人でほぼ満席の食堂で海鮮丼をいただきました。
値段もお手頃でマアマアの味でした。

センター内の食堂にて昼食
海鮮丼をいただく

センターから駅へ戻るコミュニテイバスなどの便もみつからず、水道沿いを歩いて駅まで戻りました。
途中、造酒屋の建物をリユースした「海と暮らしの資料館」などにも寄りました。

来た道と違い、海沿いの道は漁船が並び、岸側には古い建物や飲食店などもあって賑やかでした。
隠岐の島からのフェリーが港に入ってきていました。

堺水道に沿った道で造り酒屋だった建物(現「海と暮らしの資料館」)を発見
堺水道で釣りをする人
隠岐の島からフェリーが帰ってきた

境港から米子までは、JR境線で戻りました。
中国人観光客などで満員でした。
鬼太郎ラッピングの車両、アナウンスは鬼太郎と目玉おやじの声優によるもの、沿線の各駅には、たとえば「こなきじじい駅」などの愛称がつけられている、という完全に鬼太郎人気に乗っかった路線です。

JR境線を走る鬼太郎列車

米子から山陰線に乗り鳥取まで行きました。
途中、大山口という駅から雪を頂く大山の姿が遠望されました。
国定公園に指定され、かつては冬季国体も開かれた山陰のウインタースポーツのメッカです。

車窓には夕暮れ迫るうつうつとした曇り空の下、山陰の黒々とした家々の瓦屋根が続きます。

到着した鳥取駅では有人改札が行われていました。
米子からSUICAで乗った山小舎おじさんは、窓口でデータを消してもらい、改めて米子からの運賃を支払い改札を出ることができました。

山陰線の車窓から見る鳥取の秀峰大山の姿
山陰線沿線の家々
鳥取駅は有人改札だった

終業間際のデパートで割引の寿司と弁当を購入しました。
今夜の夜食と明日の朝食です。

ホテルまではしんしと雪の降る夜のアーケード街を歩きます。
アーケードのついた商店街は何本もあり、またどこまでも続いており、在りし日の鳥取の繁栄を物語っているようでした。
雪のこともあり、夕方以降は誰も歩いていませんでした。

鳥取駅ビルの売店にて、鳥取砂丘をフィーチャーしたTシャツが迎える
特産品二十世紀梨を使ったチューハイもあった

改めて雪の街へ夕食に出ましたが、心当たりの店は予約制で入れず、駅前の海鮮居酒屋へ行きました。
隣は中国人ファミリーで、地元の若いグループが三々五々入店してくるような店です。
サービス自体はまあまあでした。

鳥取の繁華街は雪だった

次回、鳥取から今浜までの山陰線車窓のハイライトから、丹後鉄道で日本三景・天橋立へ、そして舞鶴で引揚記念館訪問の顛末もご期待ください。

冬の山陰・北陸夜行列車の旅③ 古都・松江

旅の初日、出雲大社参りを済ませて一畑電車で松江に入りました。
雪でした。
舗道の凍結に滑りながら、吹雪の中を松江城に向かいました。
そのとたん携帯のバッテリーが切れました。
また、折から強風のため松江城構内は立ち入り禁止となっていました。

松江に向かう一畑電車から見た宍道湖

予約していた市内のホテルに荷を解き、夕食に向かいました。
目指すのは、居酒屋評論家として吉田類と人気を二分する太田和彦がその番組で訪れたことのある居酒屋です。

ホテルから駅の反対側に出て、川を渡ったところにその店はありました。
吹雪のためか、カウンターに数人の客がいるだけで予約なしで入店できました。

大将と接客の女性が2人。
女性はかなり高齢で、一人は大将のお母さんと思しき方。
二人とも愛想はよく、てきぱき動くのですが、かなり耳が遠くなっていました。

お通しに地元で赤貝と呼ばれる貝の煮つけがでました。
ビールとお刺身盛り合わせを注文。
その後、イカの刺身、白魚の天ぷら、メバルの煮つけなどを頼みました。
魚の鮮度は文句なし、久しぶりにおいしい刺身を食べた気分です。
カウンターの隣の客が時々サポートするように口をはさんで、地元産の魚を解説してくれました。
日本酒は地元松江の豊の秋。

「赤貝」の煮つけ
刺身盛り合わせ。寒ぶり、鯛、アジなど
白魚の天ぷら
イカの刺身
メバルの煮つけ

こうして雪が深々降る松江の夜は更けました。

翌朝、少々早く行動を開始し、7時過ぎのバスで松江城に向かいました。
改めてのお城見学です。

お堀端を過ぎ、石段を上ってゆくと遥か上段の方に天守閣が見え隠れします。
お城の構内を歩いているのは地元の通勤の人なのでしょうか。
石垣は高く深く、まるで映画のセットのよう。
いや、迷宮にタイムスリップしてゆくようです。
深い荘厳な世界が待っています。

神事湖の水を引いているという松江城のお濠
松江城建築の堀尾吉清像

これが現存天守というものか。
見慣れている松本城とは異なる迫力、神秘性に満ちています。
この時点で松江の歴史と重みに早くもKOされました。

雪の松江城に登ってゆく
天守閣が見えてきた
天守閣としゃちほこ

天守を過ぎ、再びお濠を渡って、武家屋敷、小泉八雲の旧宅の方へ向かいます。
歴史を旅ゆくノスタルジックな旅人になったような気分です。

幅広く、立派なお濠は遊覧船のルートにもなっています。
これほどのお濠がおそらく現状のまま残っているのも貴重なことです。

遊覧船も航行するお濠

通学の中学生らに交じって、小泉八雲亭から武家屋敷を歩きます。
頃合いを見てお濠を渡ると元の場所に着きました。バスに乗って駅へ戻ります。

小泉八雲旧居
武家屋敷
お濠を渡る橋

駅では9時の開店を待って地元の名産品を探ります。
地酒・豊の秋、酒蔵が作った料理用の酒・みりん、海水塩、ノドグロ味のダシの素などをチョイス。
自宅に送りました。
東京へは翌日午後の着です。

出雲地方の神話時代からの文化は、大社脇の博物館に展示されていた、古墳出土の銅鐸、銅矛の潤沢さなどで実感していましたが、松江城の周りを散策し松江の町の雰囲気を体感すると、ごく近年までこの町も、綿々とした文化を積み重ねていることが痛感されました。
昨今のインバウンドブームに毒されていない地味な感じも気に入りました。
歴史ある真の文化を背景にしたプライドを感じました。

凍えるような松江駅のホームから米子まで山陰線に乗りました。
乗ったのは特急スーパーまつかぜ鳥取行き、自由席はほどほどの乗車率でした。
外は吹雪を見ながら30分ほどで着いた米子の駅前は、松江よりさらに真っ白でした。

朝の松江駅前
松江駅に到着した特急スーパーまつかぜ

米子から境港への道中記は次回。

国分寺だるまや食堂が閉店!

国分寺駅の北口にあった、だるまや食堂がこの1月31日で閉店していました。

山小舎おじさんのママチャリ散歩コースの一つの国分寺。
野川公園を横切り、小金井でパンを買い、たどり着いた国分寺の古本屋で本を漁り、昼飯はだるまやというのがお約束のルートでした。

だるまや食堂は、学生やサラリーマンでにぎわい、土日には家族連れも訪れる店で、ホールは日本人の学生バイトが切り回していました。
ときどき小柄でがっしりした大将がキッチンから出てきて、子供の客にヤクルトをふるまう姿がありました。

昼間から定食のおかずをつまみにビールを飲むおっさんたちの姿もありましたが、彼等が店のムードを占有するかのようなことはなく、昼間は混んでいなければだれでも入りやすい店でした。

カツカレーやカツ丼をはじめ、定食の盛りがよく、がっつり系にはたまらない店で、女性客の姿もありました。
最近の山小舎おじさんは、大盛の揚げ物系をやっつける気力と体力が薄れ、もっぱらカレーライスかチャーハン、たまにニラレバ定食でお茶を濁していました。
皿からあふれんばかりに、ご飯の上にかけられた、シーフードも入った固形ルー味たっぷりのカレーは満足感十分でした。

コロナ騒ぎで休みがちとなり、また店長の体調が悪くしばらく休業していました。
最近、営業を再開し11時から15時までの時短ながら、おばさんたちがキッチンで忙しそうに立ち回っていましたが、そこに大将の姿はありませんでした。

国分寺に行く楽しみの一つがなくなりました。