「OIZUMI東映現代劇の潮流2024」特集より 渡辺祐介と緑魔子

ラピュタ阿佐ヶ谷で、渡辺祐介監督、緑魔子主演の2作品を見た。

手許に国書刊行会発行の映画雑誌「映画論叢27号」(2011年発行)がある。
ラピュタのロビーで展示発売していたものだ。
緑魔子のインタヴュー記事が載っていた。

「渡辺祐介監督だけを見て、体当たりでぶつかっていきました」と題するインタヴューは、1944年生まれの緑が実年齢67歳のころのもの。
芸能界に入った頃のことから、東映での映画デヴューに至るまでの時期を中心に語られている。

貴重なオフショット。渡辺監督の人柄、女優陣との信頼関係がうかがえるようだ

(以下、抜粋・要約)
・東宝ニューフェイスとして芸能界入り。
当初はテレビ部に所属し、芸術座、NHK演劇研究所などで研修。

・ある日新宿でスカウトされ、撮った写真が、渡辺祐介監督の目に留まり「二匹の牝犬」の妹役としてカメラテストを受けた。
芸名の緑魔子は渡辺監督の命名。

・「二匹の牝犬」出演に当たっては、渡辺監督が「全部僕の言うままに動いて」との言葉通りに動いた。
監督さんの方だけ見て、体当たりでぶつかっていった。
監督が「君が持っている力が100だとしたら120出たよ」と言ってくれた。

・(共演の)小川真由美はすごい美人でやはり「違うなあ」と思った。
やさしくてお姉さんみたいな感じ。今でも「お姉さん」と勝手に思っている。

・契約は(東映との)専属で1年契約。
本数契約。「二匹の牝犬」のギャラは5万円。

・「二匹の牝犬」はヒットして何週も続映したのに(私自身は)東映ではあまり大事にされなかった。

・「非行少女ヨーコ」で共演した梅宮辰夫はヤクザっぽくて怖かったけど、共演の女性にコナをかけるような人ではなかった。

・渡辺監督以外で心に残っているのは関川秀雄監督。
居酒屋でロケの出待ちをしているときに、関川監督が熱燗を頼んでくれて「あったまるから少しならいいよ、飲みなさい」と言ってくれた。
優しい人でした。

勝手な引用が長くなったが、渡辺祐介監督との信頼関係、他の役者たちとのほんわかした交流、当時の大泉撮影所での撮影風景が再現されたかのようなインタビューとなっている。
何より緑魔子本人の飾らない人の好さ、子供のような感性がよく出ている。

作品がヒットしても東映では大事にされなかったとか、梅宮辰夫に迫られなかったとか、映画撮影所の世界に染まり切らない緑魔子の人間性が感じられる。

「二匹の牝犬」 1964年  渡辺祐介監督  東映

1960年代の東映大泉撮影所。

当時の監督陣は佐伯清、小林恒夫、村山新治、石井輝男、関川秀雄、瀬川昌治、渡辺祐介、家城巳代治など群雄割拠の実力派メンバーがそろっていた。
東映発足当時に、今井正や関川秀雄を起用して「ひめゆりの塔」「きけわだつみの声」を企画しヒットさせた大泉撮影所が集めそうな、右から左までを網羅した顔ぶれ。
天下の東宝、松竹のレッドパージ組の関川秀雄、家城巳代治の両巨匠組から、倒産した新東宝からの横滑り組の石井輝男、瀬川昌治、渡辺祐介まで、一筋御縄ではゆかない面々である。

東映に助監督で採用された、佐藤純也、深作欣二、降旗康男などが監督に昇進し、大泉撮影所の主力となるのは60年代中盤以降のこと。
佐藤、深作らの手堅く斬新な作風に、家城巳代治や関川秀雄ら他社出身の実力派監督が与えた影響はいかばかりだったろうか。

「二匹の牝犬」は新東宝で3本ほど撮り、1961年に東映に移籍した渡辺祐介が監督したオリジナル作品。

渡辺は東映在籍中の1962年から1967年の間に十数本の現代劇を撮っている。
主には京都撮影所で製作される時代劇の併映用のモノクロ作品が多かったが、その中では1964年の「二匹の牝犬」「悪女」「牝」の3本が特筆される。
前2作は主役に小川真由美を起用、また全3作に新人緑魔子を抜擢、現代における女性性の根本に迫る作品となった。

東映を離れてからの渡辺監督は、東宝や松竹でドリフターズものを十数本撮った後、松竹、東映でのピンクがかったコメデイをコンスタントに発表。
1970年代に入って「必殺仕掛人」シリーズや「刑事物語」シリーズも手掛けている。

何でも屋の職人監督然とした経歴だが、これだけ途切れなく監督のオファーが続いたのは、商品映画の作家としての腕が確かだったことと、製作サイド(およびキャスト)とのトラブルがなく、業界的に信用されていたからだった。
渡辺監督の人間性が浮かび上がる経歴である。

出身母体の新東宝が倒産する前の大蔵貢体制時代に監督昇進し、移籍した東映では、映画量産時代を背景に、併映用作品ばかりとはいえコンスタントに映画を撮れたことも幸運だった。
60年代中盤の大泉撮影所では、題名さえどぎついものにして居れば内容を自由に撮れたともいう(ヒットしなかった場合などの結果責任は撮影所長から厳しく追及されるのは自明だが)。


1958年の売春防止法施行日の赤線街から話がスタートする「二匹の牝犬」。
1927年生まれの渡辺監督にとっては赤線の存在はあるいは身近なものだったはず、法律の施行に伴い、店を出てゆかざるを得ない女たちのやるせなさが漂うプロローグが印象に残る。

オリジナルポスター。重要なわき役の若水ヤエ子の名前が載っていないのは如何。

撮影所長の岡田茂から、「ノースターで女を描いてみろ」といわれ、文学座の小川真由美と新人緑魔子をキャステイングした渡辺監督。
小川のキャステイングはテレビ番組の悪女役で好評だったから、また新人・緑については眼が気に入ったからだった。
劇団の資金難から文学座の俳優が多数出演したが(北村和夫、宮口精二、岸田森など)、むしろ印象に残るのは渡辺監督御贔屓だという若水ヤエ子に加え、東映所属の宮園順子らトルコ嬢役の女優たち。

千葉の漁村出身で赤線廃止のときに店に流れ着き、女将の言うままにトルコ嬢として売れっ子になり、収入を株で運用する主人公(小川)と株屋の担当社員(杉浦直樹)がメインキャスト。

主人公の夢は貯めた200万円を元手に美容院を経営すること。
その主人公のアパートに千葉から家出してきた腹違いの妹(緑)が闖入する。
調子がいいだけの株屋(杉浦)が無節操な欲望のままに姉妹に絡む・・・。

主人公の棲む世界は、トルコ風呂とみすぼらしいアパートを結ぶ線上にある。
トルコ嬢の控室には下着姿の女たちがタバコを吸い、ラーメンをすすり、花札をしている。
売れっ子の主人公はヒョウ柄の派手な水着姿で客を選別するなどやりたい放題。
トルコ嬢たちはぎすぎすした感じはなく、ワイワイ賑やか。
年増の若水ヤエ子を立て乍ら、時には社員旅行で箱根まで行ったりする、「昭和の距離感」。

主人公の棲むアパートは、風呂はなくトイレ、洗濯場は共用?だが、主人公は隣近所に愛想がよい。
主人公が育った昔ながらのコミュニテイをおもわせる。

渡辺監督の女性陣に対する視線は優しい。
一見、非人間的に金に執着しているように見える主人公は周りに愛想がいい古いタイプの人間として描いている。
だからこそ株屋(杉浦)のいい加減さと裏切りが許せない。

トルコ嬢たちの人間味あふれる描写にも監督の温かい目が注がれている。
ところが緑魔子にだけは監督の突き放した視線が注がれる。
突き放したうえで、その新人類的なキャラに興味津々に注がれる視線が。

緑魔子がフレッシュだ。
20歳の締まった体。
開き直った時の座った眼。
一度聴いたら忘れられない甘ったるい声。
すっかり参ってしまう株屋(杉浦)の気持ちもわかる。

緑魔子の出現は、のちの桃井かおり、秋吉久美子らの路線の原典となった。
この3人の中では緑魔子が一番いい。
緑魔子は年をとったら北林谷栄になりうる素質がある、あとの二人には無理だ。

ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーに掲示された作品のプレスシートより。劇場向けの宣伝文句が並ぶ
同上。タイトルデザインなどが列挙されている

地方出身の姉妹が東京で再開し、傷つけあうという「二匹の牝犬」の物語の骨格は、同じく東映の「天使の欲望」(1979年 関本郁夫監督)を思い出させる。
「天使の欲望」の姉役・結城しのぶは清楚な美人がはまり役の女優だったが、本作では悪女役を体当たりで熱演。
美形の悪女で低い声、というところが小川真由美に似ているといえば似ている。

調子がいいだけの株屋を演じた杉浦直樹は、とぼけた表情が18番で相変わらずの演技だったが、最後主人公にとどめを刺されて目を見開いて這ってゆく断末魔の姿には妙に迫力があった。

小川真由美は適役で存在感はさすがだが、すごんだり、捨て台詞を吐く演技はすでに見慣れた感じで新鮮味がなく、むしろ株屋(杉浦)を刺した後の、影を生かしたライテイングに浮かぶ表情がハッとするほど記憶に残った。
けれんみたっぷりの演出に劇的な演技で応えて活きる女優さんなのかもしれない。

オリジナルポスター。この版には若水ヤエ子は載っている

作品を通して、東映らしいヤクザでマッチョな男優の姿がなく、どこか新東宝的な「安易で雑多で庶民的」なムードも漂い、何より若い二人の女優たちが懸命に演技する姿は「悪女」というより女性というものの人間性を感じさせた。
渡辺監督が描きたかったのは、底辺に生きる人間性たっぷりでエネルギッシュな女性像だったのだろう。
同時に新人類的・ドライな女性の出現も予告しつつ。

オリジナル脚本はたっぷりとエピソードを盛った力作だが、人間性の追求はひとまず置いてサスペンスに徹してみても見ごたえのある娯楽作になったのではないか、と想像する。
作り物めいた構図の中で小川真由美がとてつもなく「活きる」のではないか、と思うからだ。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

「牝」 1964年  渡辺祐介監督  東映

渡辺祐介×緑魔子の第3作。
3本は同じ年に立て続けに撮られている。

「二匹の牝犬」「悪女」と起用できた小川真由美は撮影所を去って舞台に戻った。
ここで、人気(というかセンセーショナリズム)が出てきた緑魔子で1本。
題名さえどぎつければ題材は自由。

馬場当の原作を渡辺が脚色(クレジットタイトルより。ほかの資料では両者の共同脚本となっている例もある)。
音楽は木下恵介の弟の木下忠司。
助監督、降旗康男。

緑魔子の相手役に菅佐原栄一。
脇に久保菜穂子、ジェリー藤尾、佐々木功。
そしてなんといっても中村伸郎。

松竹にも出演しているが、新東宝的というか新鮮さのかけらもない菅佐原栄一はマイナー感たっぷりだ。
本物の新東宝出身の久保菜穂子は、池内淳子、大空真弓、三ツ矢歌子とともに新東宝脱出後に大成した女優で、この時すでに貫禄が出てきた久保は説得感十分の謎めきよろめき人妻を演じる。

ジェリーは新東宝最末期の「地平線がギラギラツ」(1961年)からの「引き」なのだろうか、東宝「若大将シリーズ」で青大将の天敵のバンドリーダー役(ビートルズのパロデイ)も強烈だったが、本作ではヒロイン(緑)のことをオタクと呼ぶなど、若者の虚無感、人間関係の希薄さを演じて芸達者ぶりを見せている。
佐々木功は大島渚「太陽の墓場」での気弱なチンピラ役からの援用か。

そして中村伸郎。
年代的に前後するが、東宝「豹は走った」(1970年)の黒幕役(表面上は日本商社の重役)も適役だったが、その前に東映の併映作品でまさかの体当たり演技をこれでもか、と見せていたとは!
あるいは「牝」での現代通俗劇への適応ぶりがのちの悪役開眼へとつながっていたのか。
中村伸郎恐るべし。


主役抜擢の緑魔子は本来の真面目さ、素直さを発揮して一生懸命に演じている。
体を通してのエロはほとんどなし。
表情と存在感で若者の虚無感、不毛感を演じる。
そこからエロがにじみだす。
若いので退廃ではなくエロだ。
退廃は久保菜穂子が全盛期の色気をもって醸し出す。

緑と菅佐原の代償行為的不倫関係の不毛。
緑と中村のファザコン的な父娘関係のもどかしさ。
中村と久保のなし崩し的不倫の不健康さ。
緑とジェリーらの若者の暇つぶし的交流と希薄な関係性。

これらの人間関係が混然となって映画は進む。
際どくまた観念的なセリフの背景に木下忠司の明るい音楽が流れる。
久保や緑を相手にキスシーンを繰り返す初老・中村伸郎の鬼気迫る表情!

迷走し、錯綜するストーリーの挙句、ドラマの核心は父娘のタブーを越えた愛、であることがわかる。
が、本当にそれがこの作品のテーマだったのか。

ラストシーン。
父娘の葬式の帰りに何事もなかったように元妻の肩を抱く菅佐原としなだれかかる久保。
二人は離婚したのではなかったか。
虚妄の二人を包む退廃と諦めと官能。
その逆説的現実味と不条理と深い絶望感。

父娘の愛が「純粋」だったからこそ、対比的に描かれる菅佐原と久保の夫婦の、ぬめぬめしてふてぶてしい開き直りがリアルだ。

1年の間に緑魔子を素材にして3本連作した渡辺監督。

大島渚は松竹で1960年の1年間、「青春残酷物語」と「太陽の墓場」をヒットさせ、会社から「さあもう1本」とせっつかれて「日本の夜と霧」というヒットしない題材に「逃げた」のだった。
「この作品を撮らないと前に進めない」と言って。

1964年の渡辺祐介は「二匹の牝犬」「悪女」「牝」の3本を、「逃げず」に撮った。
大松竹の若きエース監督に祭り上げられた大島とはかなり立場が違い、モノクロの併映作品を作る立場ではあったにせよ、スマッシュヒットを放ち続けた渡辺祐介。
何より緑魔子という存在を世に出した功績は大きい。

さすがに3本目の「牝」では観念劇に「逃げた」気配がするとはいうものの、この年の渡辺祐介や恐るべし、と思うのは筆者だけだろうか。

三多摩ソウルフード迷走記VOL.3 東伏見のたい焼き移動販売

西武新宿線の東伏見駅前にたい焼きの移動販売車が出ています。
アイスホッケーの会場にもなる、アイスアリーナ前の広場です。
店主は、型落ちどころか、クラシックカーともいうべきハイエースを移動販売車にしています。

西武戦東伏見駅からは東伏見稲荷神社の参道が始まる
駅の南口にはアイスホッケー会場にもなるアリーナがある

長野県飯田市近郊出身の店主が1枚1枚手焼きで焼き上げます。
あんこは手作り、ほぼ毎日炊き上げるそうです。
皮の小麦粉液も手作りです。
木曜日の定休日以外は天候次第で出店しています。

特筆すべきは、金属製の焼き型が1枚ものだということ。
1枚の型にそれぞれ長い取っ手がついており、1枚1枚ひっくり返しながら焼いています。
仕上げ前には小麦粉液を追加で上から流して焼き上げます。

1枚1枚手焼きする店主。青いハイエースは年代物

うちの家族がこのたい焼きのファンです。
山小屋おじさんは東京滞在中、このたい焼きを求めて東伏見に寄ることが多くあります。
土曜日だけ吉祥寺の五日市街道沿いにも出店しています。
人気の店なので、例えば5枚買おうとすると15分程度待つことになります。

店主は40代ほどの、まだ若手です。
金型を開いて皮とあんこを乗せ、金型を閉じて何度かひっくり返し、再び開いて皮を追加で流し込んで焼き上げています。
まるで千手観音のような手の動きです。
話好きの店主で、焼いている間も客の雑談に付き合ってくれます。

最近、そのたい焼きが値上げされました。
160円だった者が180円になり、今は220円です。
聞けば小麦粉だけでも開店当時からほぼ2倍に上がっているとのことです。

天手古舞ながら確かな仕事ぶり。たい焼きは最近220円に値上げ。去年は160円だった。

知る人ぞ知る、西武新宿線沿線の人気移動たい焼き店です。

狭山境緑道の河津桜

埼玉県所沢の狭山丘陵にある多摩湖の水を、東京の武蔵野市関前の境浄水場まで通していた水道道路があります。
大正12年に開通しました。
現在では埋設された水道管が浄水を運び、その上を緑道が走っています。

狭山境緑道です。
歩行者と自転車の専用道路です。
多摩湖の東京側の麓の東村山市を出発点に、武蔵野市の関前5丁目交差点までの約20キロのほぼ直線道路です。

水道道路として直線に延びる狭山境緑道

途中の西武新宿線小平駅から終点の武蔵野市関前5丁目までサイクリングしてきました。

平日の午後、歩いているのは散歩の高齢者。
小学生低学年が下校の時間になりました。
あとは小さな子供とママさん。

舗道と自転車道路が分かれており、全体の道幅も広いので、歩行者も自転車も快適です。
沿道には畑が残り、ところどころに野菜の無人販売所が建っています。
収穫に季節にはさぞにぎやかなことでしょう。

緑道の案内板

また、沿道にはベンチとテーブルが設けられています。
児童公園も多々あります。
何より、暗渠化される前から沿道を彩ったであろう、並木の老木達に相当の年季が入っており、木々が作り出す自然と歴史の雰囲気が素晴らしいのです。

歩く人々もゆったりと和むはずです。
散歩やサイクリングに集まる人々を包み込むような緑道です。

道路は西武新宿線にほぼ沿って進みます。
周りはほぼ住宅地なのですが、畑や古い農家なども残っています。
小学校からは体操する児童たちの元気な声が聞こえてきます。

ふと見ると桜のような花が満開になっていました、木の麓には菜の花が満開です。
赤と黄色の春の共演です。
木の幹には「河津桜」と書いた札が掛かっていました。
寒桜で有名な河津桜の満開の光景です。

沿道にあった河津桜と菜の花

風が吹き荒れ、体感温度が低い日でしたが、春は確実に訪れています。

武蔵野市の関前5丁目という交差点で、緑道は突然終わりました。
狭山丘陵の水を都民に供給する水道とその上の緑道。
三多摩地区の文化遺産です。

武蔵野市関前5丁目交差点。緑道の終点

「駐輪禁止」

阿佐ヶ谷パールセンター商店街にはよく行きます。
近くのラピュタ阿佐ヶ谷に行ったとき、空いた時間に商店街を歩きます。

戦前からある商店街で、アーケードが数百メートル続きます。
路面店の集まりですが、シャッターの閉まった空き店舗はほとんどありません。
いつ行っても人通りの絶えない商店街です。

JR阿佐ヶ谷駅南口から青梅街道方面に斜めに伸びる、阿佐ヶ谷パール商店街
商店街は人通りが絶えない

パールセンター商店街は自転車の走行が禁止です。
自転車は押して歩くか、どこかに駐輪して徒歩で通行するのがお約束です。
確かに自転車が通常速度で走行していては、歩行者にとっては危ないのがわかります。

目立つのがあらゆる場所にある「駐輪禁止」の表示です。

店の前、店の横、商店街と交差する横道。
とにかくあらゆる隙間に「駐輪禁止」の看板、コーンポスト、ロープが設置されています。
これだけあると目立ちます。

店舗前の「駐輪禁止」
なかには「たむろ禁止」の表示も

各店が独自に設置したもののほか、杉並区名で設置したものと色々由来があります。

買い物客が自転車できて店の前に思い思いに駐輪されたら困ることもありましょう。
杉並区名での規制は条例によるものなのでしょうか、それとも店舗側の要請により行政が介入したものなのでしょうか。

杉並区に寄る「駐輪禁止」
放置自転車の受け取りにも5000円が必要

アーケード街、商店街はいろいろ歩きましたが、ここまで「駐輪禁止」が目立つ商店街はなかなかありません。
中央線沿線の人口密集地、阿佐ヶ谷のことだけはあります(ほめていません)。

Let’s 豪徳寺

世田谷にある豪徳寺を見てきました。

マンガ「レッツ豪徳寺」で有名となり、招き猫由来の聖地として海外からの観光客も押し寄せるお寺です。

自転車で環状八号線を越え、千歳船橋、経堂と小田急線沿線を走って小田急線・豪徳寺駅に着きました。
近くに世田谷線という半分路面電車のような近郊線が走る住宅地です。
豪徳寺駅から数百メートルの場所に目指す豪徳寺がありました。

小田急線・豪徳寺駅

想像以上に大きな門構え。
山門までの100メートルほどには松林が残ります。

山門前の案内板を見ると、江戸幕府で大老を務めた井伊直弼の江戸での菩提寺であり、墓所でもあると記されていました。

立派な門構え
山門前の案内板には由来書きされている
山門をくぐる観光客たち

山門を越えると立派な仏殿が視界に入ります。
左手には三重塔まであります。
敷地には手入れされた梅などの庭木が配置されています。

仏殿正面
仏殿。立派さがわかる
境内には三重塔も

外国人をはじめ観光客の姿が目につきます。
招き猫発祥の地ともいわれ、井伊直弼が猫を好んだことから招き猫がお寺のシンボルとなり、また奉納されてもいるのです。

奉納された招き猫

よく手入れされて人気があり、また落ち着いた雰囲気の漂う境内でしばし休憩。
井伊家だったり、招き猫だったりに興味がある人には必須の観光スポットでした。

世田谷区内を走る世田谷線

世田谷線に沿って下高井戸まで北上し、甲州街道沿いに調布まで帰りました。

2月の山小舎

2月中旬に家族と山小屋を訪れました。
冬ごもり閉鎖中の山小舎を1月に続いての訪問です。

暖冬の令和6年。
麓の諏訪・茅野地域は雪のユの字もないカラッツカラ。
諏訪湖の御神渡りも6年連続で見られ無かったとのことで、御神渡りの神事を行う地元の神社では、今年も「御神渡りがなかった」ことを奉納したとのこと。

白樺湖は湖面が氷結していました。
蓼科山をはじめとする八ヶ岳連峰は頂上部分が冠雪していましたが、例年よりは雪の量が少ないような気がしました。

姫木別荘地へ入ると、舗装路面が露出していました。
一度雪が溶けていたようです。
山小舎の前の砂利道は軽く冠雪していましたが、橇遊びには適さない雪の量でした。

山小舎前の砂利道。若干雪が残っている

孫たちが1月に作った、雪だるまとカマクラは崩れていました。

カマクラがあった場所は跡形もない山小舎前

玄関へのアプローチは除雪が必要なほど雪が残っていました。
また路面が凍っていました。
除雪して氷割をしました。

玄関先のアプローチは凍り付いていた

2月にしては気温が低くなく、ピリッとした寒さはありませんでした。
上水道、排水管ともに凍結は全くありませんでした。

翌朝は青天。
冬の空の青さが目に沁みます。
暖冬とはいえ、夜間は氷点下に気温が下がりますので路面はいったんバリバリに凍ります。
日差しが当たると雪が溶け始めていました。

スキー場のゲレンデ以外は雪景色に乏しい2月の風景でした。

翌朝の好天

「OIZUMI東映現代劇の潮流2024」特集より 丘さとみと「裸の太陽」

ラピュタ阿佐ヶ谷で表題の特集上映がスタートした。

東映東京撮影所(大泉撮影所)で製作された現代劇の特集第三弾。

緑魔子が映画デヴューした「牝犬シリーズ」。
若き日の高倉健のギャング物。
梅宮辰夫が大原麗子などを相手役にした「夜の青春シリーズ」。
渥美清と佐久間良子の「急行列車シリーズ」。
などを中心としたラインナップ。

オープニングは家城巳代治監督の「裸の太陽」。
一も二もなくラピュタに駆け付けた。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフ表紙
この特集でのイベント。豪華なゲスト

丘さとみ 初の現代劇

丘さとみは東映の女優。
京都撮影所の時代劇で映画デヴューし、「東映城のお姫様」といわれた。

手許の「丘さとみ・東映城のお姫様」(さとみ倶楽部編 ワイズ出版社刊 1998年)の本人インタビューから以下抜粋・要約する(一部脱線あり)。

「丘さとみ・東映城のお姫様」ワイズ出版

宝塚生まれ。
1952年、デイズニープロ主催の「和製シンデレラコンテスト」で優勝。
RKO日本支社で秘書をやっていた時に東映にスカウトされ、1955年東映入社。
第二期ニューフェースに交じって養成を受ける。
同期に高倉健、今井健二。

第二期ニューフェースの同期2人と

「御存じ怪傑黒頭巾 第二話 新選組追撃」(1955年 内出好吉監督)でデヴュー。
以降、大川恵子、桜町弘子とともに「花の東映三人娘」として売り出され、千恵蔵、右太衛門両御大をはじめ、中村錦之助、大友柳太郎、大川橋蔵、東千代之介ら京都撮影所の時代劇スターの相手役を務めた。
この当時は、スターの相手役のほか、仕出し(東映所属の俳優によるエキスストラ)も務めて休みがなかったという。

映画デヴューのころ

1958年の「裸の太陽」が初めての東京撮影所での出演作。
キネマ旬報ベストテン5位、べルリン映画祭青年向映画賞を獲得。
ブルーリボン主演女優賞では1票差で2位だった。

ベルリン映画祭には東和映画の川喜多長政、東映の専務と参加。
英語での舞台挨拶、パーテイ出演のほか、「眼下の敵」のクルト・ユルゲンスと一緒にラジオ出演もした。

家城巳代治作品には「素晴らしき娘たち」(1959年)にも出演、紡績工場で働く青春像の一人を演じる。

(以下脱線)
1962年には松竹を退社した大島渚が東映に招かれ「天草四郎時貞」を撮った際、大川橋蔵とともに出演する。
が、大島がこだわるプロレタリア群像の抵抗劇としての天草の乱では大川と丘のスター性、明るさが生かされることはなかった。
作品中、丘の顔がアップはおろかまともに映されることはなく、暗いライテイングのもとで横顔が捉えられるのがせいぜいだった。

全身が明快に映るのが佐藤慶ら大島の盟友たちばかりで、彼等のオーラのない地味な悪党面ばかりが印象に残り、せっかくのスター達が影で塗りつぶされる中、演説的なセリフばかりが飛び交う劇となった。
いわば架空の世界である時代劇に於いて、この華のない絵は致命的で、映画的盛り上がりというものがまるでない作品だった。

大島としては「日本の夜と霧」(1960年)が興行的に失敗作だったことへのこだわりがあったのだろうが、同じ路線で再度失敗したことになる。
松竹時代には社員監督として、職業俳優を使って4本撮っており、「青春残酷物語」「太陽の墓場」(ともに1960年)ではスター俳優を使って映画的盛り上がりを見せた大島には、スターを使いこなす力も、映画的盛り上がりを見せる力もあるのだから、ここで己の主義主張にこだわったのはもったいなかった。

丘さとみにとっても(大川橋蔵にとっても)大島作品に出演したことは、キャリアにおいてもほとんど意味がない出来事だった。

(脱線終了)
丘さとみは「大菩薩峠三部作」(1957年~1959年)、「宮本武蔵五部作」(1961年~1964年)で内田吐夢作品に出演。
「宮本武蔵第一部」では出演場面に監督のOKが出ず、ワンカットに3日間かかったこともあった。
その間、武蔵役の中村錦之助は、画面に映らなかったが何も言わず傍らで付き合ってくれたという。

1965年映画界を引退し、二世と結婚して渡米、3児をもうけるが1975年に離婚し子供を連れて帰国。
その後は舞台、テレビなどで活躍した。

文芸春秋社刊「キネマの美女」より

「裸の太陽」 1953年  家城巳代治監督  東映

『釜焚き、釜焚け、釜焚こう!・・・』。
力強いコーラスをバックに蒸気機関車の力走シーンで幕を開ける「裸の太陽」。

オリジナルポスター

主人公の青年は田舎の機関区の運転助手(釜焚き)だ。
機関区の寮に住み、同じ町の紡績工場で働くガールフレンドがいる。
主人公が乗る機関車が紡績工場の近くを走る時、汽笛を鳴らし、それを合図に彼女があぜ道を走ってきて手を振るのが約束だ。
職場も公認のカップルは、結婚資金を貯めて、1万7千円になった。
彼女の妹が必死に頼んでも貸せない大事な貯金だ。

主人公の同僚には暗くひねた性格の幼馴染がいる。
誰かの財布から金がなくなったとしたら真っ先に疑いがかかる存在だ。
主人公は心情的には幼馴染の味方だ。
ある日彼の必死の頼みを一度は断ったものの、貯金を下ろして1万7千円を貸してしまう。

このため、公休日に海でデートする軍資金もなくなって彼女は当然怒る。
海水着も買えないではないか。
彼女のへそくりで何とか特価品の海水着を買い、ラーメンを食べるのがやっと。
でも若いころって最後の所持金で彼女とラーメンを食べてしまっても、平気だし、旨いんだよなこれが。

丘さとみと江原真二郎の宣伝用写真。丘ひとみの劇中の水着は紺色?だった

そうやって公休日の海水浴デートを楽しみに待てば、幼馴染の無断欠勤で仕事に出ざるを得ない主人公。
現代の若者なら何を差し置いても彼女に連絡し、言い訳にこれ務めるであろうシチュエーションも、当時の若者は連絡は後回し、出勤が決まると不承不承ながら仕事に向かう。

現場は急こう配。
機関車は砂を線路に撒きながら進む。
砂が詰まって列車がピンチ。
阿吽の呼吸で運転士に釜焚きを任せ、機関車の先端にはい出て手で砂を撒く主人公。

勾配を上り終え、機関車を停車させて主人公のもとに駆け寄る運転士。
煤で真っ黒の顔が安どする。
「殉職」と紙一重の任務をやり遂げる主人公の責任感と成長。

職場では職員が指示命令に敬礼で応えている。
昔の国鉄はそうだった。
どんな小さな駅でも列車が通過するときは駅長さんがホームに出て敬礼して列車を見送っていた記憶がある。

主人公は職場の若手で「杉の木会」という集まりを主宰している。
が、仲間と付和雷同して場に馴染まないヤツをいじめるのは性に合わない。
むしゃくしゃしたときは、シャツをまくってそこら辺を叩きながら「釜焚きロック」をがなって、オルグが来ているような職場会をめちゃくちゃにすることもある。
理路整然とした弁はなく、時には手も出るが、極めて人間的でまっすぐな主人公なのだ。

貧しく、無学だが、まっすぐで正直な青年たちの物語。
結婚資金をためればなくなる、デートの約束をすれば仕事が入る、欲しいものも買えない、うまくゆかず気分がむしゃくしゃする。
でも若くてエネルギッシュで明るい。

主人公には江原真二郎、彼女に丘さとみ、その妹に中原ひとみ、主人公の幼馴染に仲代達矢、幼馴染の片思い役に岩崎加根子。

江原と丘のカップル役は息もぴったり。
「姉妹」(1955年)「こぶしの花の咲くころ」(1956年)のコンチ役で家城組の座付き女優的存在になりつつあった中原ひとみと、若い仲代達矢がちょっとむづかしい役で脇を締める。
「警察日記」(1955年)では杉村春子の人買いおばさんに買われ、風呂敷一つで故郷を離れる少女役だった岩崎加根子は人妻役で登場。

宣伝用写真より。ちなみに劇中、中原ひとみと仲代達矢の接点はない

「雲流るる果てに」(1953年)「姉妹」で社会の底辺というか基盤の部分で、時代の犠牲になったり貧しかったりしながらも、人間性を失わず真面目に明るく生きる若者を描いてきた家城監督の、またしてもの会心作。
江原真二郎はもちろん、現代劇初出演の丘さとみの魅力を画面いっぱいに引き出している。

二人のキスシーンはデートの後の公園のブランコで。
将来のことを語り、主人公が「機関士を目指す」といい、彼女が「それだけ?」と言った後のこと。
口当たりのいい「夢」は語らないが、目の前の目標には全力で取り組むであろう主人公と、それを含めての彼を受け入れる彼女。
若い二人の将来を祝福するかのようなみずみずしいシーンだった。

宣伝用写真。カップルの雰囲気が出ている

「丘さとみ・東映城のお姫様」で丘は家城監督について。

「家城先生に、『丘さんまた及び腰ですよ』って。もうしょっちゅう及び腰って。
時代劇って相手に物言う時、必ずこういう形にかがむじゃない。(中略)恥かかさないように小さい声で注意してくださるの。ものすごく優しいの、家城先生。今までの東映で付き合った監督とは違った。
私らごとき新米が言う意見に対しても、監督が真剣にジーッと聞いてくださるの。『うん、あ、そう、いいよ、丘さん。そう思うんだったら、いいよ、やってごらん』って。こんなこと今まで言われたことなかった」(P124)と絶賛。
家城監督の人柄と演出方法が目に浮かぶようなエピソードを披露。

また、岩崎加根子については、
「『素晴らしき娘たち』でも一緒だった加根子ちゃんとはなぜか仲がよくって、ウマがあってね。
別に個人的付き合いもしていないんだけど、時々パーテイなんかがあると二人でくっついてんの」(P123)と、若い共演者との出会いを語る。

郡山での一か月に及ぶロケについても「旅館、楽しかった。」(p124)とのこと。

丘さとみにとって、いいスタッフと仲間に恵まれ、京都撮影所では得られない経験をした「裸の太陽」だった。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

耳に残る『釜焚き、釜焚け、釜焚こう!・・・』の音楽は芥川也寸志。
メリハリのあるみずみずしい脚本は新藤兼人。
悠然としてドラマチックな撮影は宮島義勇。
家城巳代治が東映大泉に集めた最高のスタッフによる仕事だった。

オリジナルポスター

残雪の陣馬山ハイキング

東京に積雪があった数日後の週末。
陣馬山に登ってきました。

子供が小さいころよく行った陣馬山。
お気に入りのコースは、陣馬高原下までバスで行き、陣馬山山頂へ、そこで昼食休憩の後は、栃谷尾根コースで下山、途中の陣馬温泉に立ち寄り入浴した後、車道を歩いて中央線・藤野駅まで、というものでした。
小さい子連れの場合、1日たっぷり歩く行程ですが、40代の自分にとってもほどほどに疲れ、心地よいハイキングでした。

60代後半となった今、果たしてあのコースを踏破できるのか?試してみました。
出発は高尾駅です。

高尾駅発陣馬高原下行きの西東京バスは毎時1本ほどの連絡

西東京バスで終点の陣馬高原下に着きました。
陣馬街道の追分の集落がある所です。
新しい蕎麦屋もできています。
陣馬山から下山し、バスを待つターミナルでもある場所です。

陣馬高原下に到着、バスは折り返す
バス停付近の雑貨店の跡
陣馬街道との追分集落

陣馬街道を歩き始めます。

やがて尾根伝いに陣馬山頂を目指すルートに分かれます。
雪が心配ですが、ショートカットでもある尾根ルートを進みます。
尾根ルートはシャーベット状の雪が残る道でした。
下山する人は登山靴に滑り止めのチェーンを巻いています。

陣馬街道沿いの石仏
陣馬街道から尾根伝いのハイキングコースへの分岐点

同行者は中高年の3人組、単独の中年女性、30歳前後の若い男性二人組でした。
女性は身軽にさっさと行ってしまいました。
若い二人組は汗だくでハアハアいって休んでいたので追い抜きました。
3人組とは同じペースです。

ハイキングコースに残る雪

やがて一面真っ白の雪山風景が出現しました。
雪山登山をするつもりは全くありませんが、トレッキングシューズの底が滑らないので用心しながら進みます。
幸いにも急斜面はないので危険なことはありませんでした。

やがてあたりは雪景色

汗をかきつつ山頂に着きました。
山頂はハイカーで賑わっていました。

春から秋にかけて芝生が広がり、360度の展望が広がる陣馬山の山頂です。
山小舎でおでんを頼んで、持っていったおにぎりを食べます。
今日は富士山は見えないようです。
30分休むと元気が回復しました。

陣馬山頂に到着。まるで雪山
山頂で憩うハイカーたち
茶屋で昼食タイム
おでん600円は食べ応えあり

帰りは栃谷尾根コースを下山します。
山頂近くの道は階段が溶けた雪でどろどろです。
日陰では雪が残っています。
滑らないように、また靴を濡らしたりどろどろにしないように気を付けます。

前回の高尾山ハイキングでは下り時に足が痛くて往生しましたが、今回の下りはなぜか絶好調。
先行の単独高齢者を自然に追い抜くほどなのはうれしい誤算でした。

山頂から下山開始。栃谷尾根コースは泥だらけ
栃谷集落付近では雪は消えた

やがて栃谷の集落に出ます。
30年ほど前、一人で歩いていた時に、このあたりで地元の人に声をかけられたことがありました。
日曜日だったでしょうか、その人は南側の斜面にテーブルと椅子を持ち出して一杯やっているのでした。
30代の若い人で「気持ちいいので休みの日にはこうやって飲んでるんですよ」と言ってこちらにも勧めてきました。一杯だけご相伴にあずかりました。
あの場所には去年の枯れ草が生い茂っていました。

かつて地元の人と一杯飲んだあたり
ハイキングの記念に3個入り100円の夏ミカンを買う

舗装道路に出ました、集落からバス道路に下りて藤野駅を目指します。
ここから足に痛みが出ました。
ゆっくりと進みます。

バス停に到着、次のバスまで30分、駅まは約2キロです。
持って行った伊予柑を食べて小休止。
駅まで歩くことにします。

陣馬温泉には入らず
登山口に到着。ここから藤野駅までバスがある
ふもとの畑には罠が。イノシシ用?熊用?

栃谷尾根で追い抜いた老ハイカーがいつの間にかいます。
「(コースには)思ったより雪があった(ので遅くなった)」とのことです。
かつては八ヶ岳や北アルプスにも登ったというベテラン登山者でした。

平地では老ハイカーについてゆくのがやっと。
何とか藤野駅に着き列車で高尾まで、そこから京王線で帰りました。

何となく自信がついた残雪の陣馬山ハイキングでした。

ああ東京に雪が降る

令和6年2月のある日、東京に雪が降りました。

天気予報は2,3日前から雪の予報でした。
台風や梅雨の季節には強めの予報がお約束の天気予報ですので、話半分に聞いていましたが。
降りました。

自宅前の道

前日昼間から降りはじめ、翌朝にはあたりが真っ白になりました。

東京は雪が積もらないことを前提に運営されている街なので、雪が積もると道路、鉄道、歩道が機能ストップします。
路面が圧雪状態になると交通がストップし、チェーンを巻いたバス以外は車の走行がなくなるのはもちろん、ちょっとした降雪でも自家用車は恐る恐る徐行します。
東京の自家用車は、スタッドレスタイヤなどは用意しないのが普通です。

自家用車の窓にも積もった

自宅の今年93歳のおばあさん(義母)は毎日デイサービスに通っており、迎えのワンボックスが来ます。
デイサービスのショック員さんに聞くと、この日は車が帰着してから職員総出でチェーンを装着し、翌日は道路状況を見て外したりと大騒ぎだったそうです。
日差しが強い関東の冬は、降雪時でもバス通りなどは日中、路面が乾いたりもします。

近所の遊歩道の様子

東京の雪は積もってもべちゃべちゃのシャーベット状です。
夏靴で歩くと溶けた雪が浸み込みます。

グラウンドや公園には雪が積もっています、雪が積もった広場は子供の大好物です。
雪を見ると雪玉を作って投げたくなったり、雪だるまを作りたくなるのは人間の本性なのでしょうか。

近所のグラウンドにはお約束の子供の姿が

クールビューティー小山明子特集より 「彼女だけが知っている」「死者との結婚」

シネマヴェーラ渋谷で「クールビューテイー小山明子」という特集上映があった。
松竹の新人女優時代から、大島渚との結婚・独立を経て、1960年代の他社出演作品まで、小山明子出演の14作品が上映された。

シネマヴェーラ渋谷にて

小山明子自伝「女として、女優として」

小山明子自伝「女として、妻として」表紙

手許に「女として、女優として」という小山明子の自伝がある。
映画デヴューから大島渚との出会い、結婚、独立までの半生をつづっている。
その中から印象的なエピソードを拾ってみる。

・「家庭よみうり」という雑誌の表紙に載ったことから、松竹大船撮影所長にスカウトされ、1955年、横浜のドレスメーカー女学院に在籍のまま松竹入社したのが女優人生のスタート。
当初は、父子家庭の父親は芸能界入りに大反対で、また本人も乗り気ではなかったという。

新人女優時代の小山明子

・松竹入社2作目の「新婚白書」(堀内真直監督)出演時に、作品の助監督だった大島渚に出会い、翌年から付き合い始める。
付き合い始めて3年目、大島に旅行に誘われ断ったことから大げんかになり、その際に大島が殴ったことから一旦は別れる。

・1959年、大島が「愛と希望の街」でデヴューすると告げたはがきを読んだ小山が大島を呼び出す。
小山は大島に会うなり、まっすぐ目を見て「私はあなたのお嫁さんになることにしたわ」と告げたという。

・1960年結婚。
結婚式は大島の第4作「日本の夜と霧」が上映打ち切りとなった後に行われた。
新郎の大島までを含めた来客が上映打ち切りに抗議し、松竹弾劾の演説を行う結婚式だった。
怒号が飛び交い、招待客の松竹首脳は途中退席した。
まもなく大島は松竹を退社した。

・退社して何の用事もない大島を訪ねて新婚アパートには来る日も来る日も友人たちが押し掛けてきた。
昼間でも「まずビール」。
毎晩酒を飲みながら楽しそうな(小山による表現)議論が延々と続いた。
小山には松竹との契約が残っていたが仕事は来なかった。
小山も松竹をやめ、活路をテレビやラジオに求めた。

大島渚と結婚

・助監督の給料が1万4千円くらいの時代、小山の映画出演料は4作目で50万円になっていた。
当時は生放送だったテレビ出演でくたくたになってアパートに帰ってくる小山を迎えるのは、大島とその仲間たちの「あー腹減った。ご飯!」の声だった。

新婚アパートにて、お銚子の準備をする小山明子

・子供が生まれた。
京都から大島の母・清子に来てもらい、小山は預金通帳と財布を渡して育児と家事一切をお願いした。
義母はそれを張り合いにしてくれた。
小山の死んだ実母の名前は清子、継母の名も清子、という縁があった。
小山は仕事に邁進した。
20年以上、大島家の家事育児一切は義母が切り盛りした。

・1961年、大島は田村孟、渡辺文雄らと独立プロ創造社を設立。
第1回作品「飼育」を撮る。
1ヶ月の長野県南相木村でのロケの後、ツケの酒代を支払いに現地の酒屋を訪れた小山は「お酒は120本飲まれました」と主人に言われる。
てっきりお銚子の数だと思った小山は、一升瓶の数だと聞かされてひっくり返りそうになる。

・1968年の創造者作品「絞首刑」の時、テレビ番組の打上パーテイーに出席して「絞首刑」のアフレコに遅れた小山に大島が激怒。
口答えした小山のパーテイー用のドレスを、皆が見ている前でびりびりに引き裂いてしまった。
この時ばかりは離婚を決意した小山だった。

自伝「女として、女優として」を読むと、やんちゃ小僧のような大島渚と、女優業で稼ぎながら大島らの世話に追われ、いざとなると気も強い小山明子の若く、ハチャメチャなエピソードばかりが印象に残る。
大島家の柱は渚だが、それを支えたのは小山明子だったことがわかる。

また、5年間ほどとはいえ、邦画メジャー・松竹の主演女優だった小山の実績はダテではなく、テレビや他社出演など、女優で一生食っていけたことがわかる。
「松竹映画の主演女優」のステータスは相当なものだったのだ。

文芸春秋社刊「キネマの美女」より

高橋治と松竹ヌーベルバーグ

シネマヴェーラの「クールビューテイー小山明子」特集で、高橋治監督の「彼女だけが知っている」と「死者との結婚」が上映された。

高橋は、1953年に助監督として松竹に入社。
同期に篠田正浩、1期下に大島渚、山田洋次、2期下に吉田喜重、田村孟がいた。

入社年に「東京物語」の助監督を務める。
1960年「彼女だけが知っている」で監督デヴュー。
6本の監督作品を残し、1965年松竹を退社、文筆活動に入る。
文筆時代の代表作は「絢爛たる影絵・小津安二郎」、直木賞受賞作「秘伝」など。

高橋の監督デヴュー当時は、大島、篠田、吉田、田村孟などが次々と若くして監督デヴューし、彼等の斬新で挑発的な作風が松竹ヌーベルバーグとしてもてはやされた。

折から時代は1960年の安保闘争を迎えていた。
また、戦後世代の若者文化の光と影が時代を彩っていた。

大島らは松竹映画の中にそれまでにはなかった、若者の痛切な青春像や、旧世代と新世代の階級対立を持ち込んだ。
世の中に反抗し自滅する若者を描いた「青春残酷物語」、ドヤ街の現実に埋もれそうになりながらもギラギラする人間性を追求した「太陽の墓場」はヒットしたが、新左翼が旧左翼を糾弾する内容の「日本の夜と霧」は記録的な不入りとなり、松竹ヌーベルバーグは終焉した。

状況を逆手にとって時代の寵児として自己をプロデユースし得る大島、スター監督候補としてそつなく話題作に挑む篠田、独特の感性で自分の世界を追求する吉田ら、松竹ヌーベルバーグの本流ともてはやされた連中はしぶとく映画界に残った。
彼ら3人に共通しているのはいずれも松竹のスター女優と結婚していることだった。

高橋は気が付くと映画界を去っていた。
スター女優を妻としなかったこともその理由の一つかもしれない?が、高橋の才能と興味が文筆活動により向けられていたのはその後の履歴が示している。

「クールビューテイー小山明子」特集では、高橋の松竹時代の貴重な作品に接することができた。
初々しくも、多彩な才能が映画にも発揮されていることを確認した。

「彼女だけが知っている」 1960年  高橋治監督  松竹

63分の中編。
当時の新人監督のデヴュー作用の規格だ。
大島渚のデヴュー作「愛と希望の街」(1959年)も60分ほどの中編だった。

「愛と希望の街」が、何より大島の主張が濃い作品だったのに比して、高橋治のデヴュー作は映画としての完成度が高かった。

強姦殺人事件に立ち向かう刑事ものストーリー仕立ての作品で、刑事の心理描写、捜査のち密さ、スリリングな場面展開がよく描かれている。
夜の場面の暗さを強調した撮影もいい。
笠智衆、三井弘次、水戸光子らベテランの名わき役たちの起用も新人監督のデヴュー作としては恵まれている。
高橋のデヴュー作がスタッフ、キャストに「祝福されて」生まれたものであることがよくわかる。

シネマヴェーラロビーに掲示された当時のポスター

共同脚本と助監督が田村孟。
本来は、場面数を少なくし、不条理な設定上の主人公を出口なしの状況に追いつめるように描くことが多い田村の脚本だが、本作は、場面展開が早く、具体的な描写が多く、またラストに救いがあり、いわば映画的サービス精神に満ちている。
高橋のデヴュー作が商業的にも成功するように最大限に配慮した田村脚本であることがわかる。

主演の渡辺文雄は、松竹ヌーベルバーグの表現者のひとり。
大島作品、高橋作品での主演が多い。
田村孟の監督作品「悪人志願」(1960年)でも主演を務めた。
ヌーベルバーグ作品での渡辺の役柄は、声高に主義主張を叫ぶのではなく、主役の傍らにいて、時々鋭い客観的で分析的セリフを吐く、ということが多い。
作者の代弁者の役柄といったところかもしれない。

本作での渡辺は、強姦事件の被害者となった小山の恋人役。
刑事という立場場もあり、被害者小山の心理を理解するよりも、社会利益のため捜査に協力するよう小山に働きかける、いわば一般社会の代弁者として正論を吐く。
結果的には小山は捜査に協力し事件は解決するのだが、小山の感情は解決してはいないというのがこの作品のテーマの一つ。

小山と渡辺が2人きりで「対決」する場面が2つある。
ビルの屋上と小山の部屋。
そこで、二人の感情と主張のすれ違いが描かれる。
刑事の娘であるという立場、一人の女性として傷を負った立場、それぞれを「克服」し、捜査協力する決心をした小山だが、公の代弁者に終始し小山の芯の理解者たり得ないに渡辺に対し「同情されたまま一生終わりたくないの」「あなたと同等の立場でいたいのよ」と思いのたけを叫ぶ。

このセリフを書いた田村と高橋。
昨今やっと尊重されてきたハラスメント被害者の心理状況の核心を表すともいうべきもので、1960年当時にはっきりとこの部分が表現されていることは貴重だと思う。
この作品は強姦事件を背景にしているが、よしんば被害者が差別上のものだったり、階級上のものだったりしても、その心理状況はあてはまるだろう。

渡辺と小山の間に、学生の討論のような調子でセリフが交わされ、作品の隠されたテーマである、立場の違う人間を隔てる壁の存在があらわになる。

ラストで背を向けて一人去ってゆく小山に渡辺が走って追いつく(そこでエンド)のは、観客に向けたサービスで田村脚本の本意ではないのだろうが、この方が映画的で好きだ。
若い二人には相互理解が可能な未来が待っていてもいいではないか。

小山明子の演技は、それまでの役では多かったであろう愛嬌のあるお嬢さん役から脱皮しようという、意欲を感じるものとなっている。

シネマヴェーラの特集パンフより

「死者との結婚」 1960年  高橋治監督  松竹

高橋治の監督第二作。
田村孟との共同脚本は前作同様。
前作が刑事ドラマの体裁をとっているのと同じく、ウイリアム・アイリッシュの犯罪小説を原作としたドラマ。
ただし犯罪ドラマは体裁で、作者が描きたいのは人間疎外であり、尊厳の追求であり、個人の自立である。

シネマヴェーラロビーのポスター

いい加減な恋人に捨てられ自暴自棄になった女(小山明子)が、あてどない旅で乗船した船で、フィアンセの実家に挨拶に行く途中の女(カップルの片割れの男も乗船している)と知り合う。
船は沈没し、女を残しカップルは死ぬ。
死んだ女に入れ替わった小山が、死んだ男のフィアンセとして実家に迎え入れられる。

巻頭から主人公を取り巻く不条理な世界観が炸裂する。
何者かわからない存在の小山が、さらに不可解なほどダメな競輪選手崩れの男に捨てられさ迷う。
まるで「悪人志願」で、理由不明で鉱山現場で働く、渡辺文雄扮するおしの主人公の女版のようでもある。

紛れ込んだ「義実家」。
気持ち悪いほど疑いを知らず、善意の乖離を尽くす「義実家」の人々。
主人公は無表情なまま戸惑うが、もともと悪意はなく、このまま平穏な暮らしが続けばよいと思う。
フィアンセの弟(渡辺文雄)は女が別人であると気づく。

渡辺は女に敵愾心を持つが、従順で状況を受け入れ周りに重宝がられる女を愛し始める。
まったく疑いを知らない(義母は途中で気づくが、気づいたうえで女を受け入れる)人々は「別の世界」に暮らしているかのよう。
「現実」を見ないようにしているうちに、「別の世界」を受け入れるしかなくなる女に、「現実」を知ったうえで女を受け入れようとし始める義弟。

そこへ別れた競輪選手崩れの男が現れ、いわば強烈な「現実」の出現に「別の世界」は一挙に破滅に向かう。
ここからの犯罪シーンは、前作「彼女だけが知っている」ほどのスリルがなく、やや手際が悪い印象。

「現実」が表に出て、それでも受け入れようとする義弟に、「現実」に目覚めた女は醒めた目を向ける。
去ってゆく小山に対し、前作と違って渡辺は追いかけない。

同情され、偽の自分として一生生きることを敢然と拒否し、自分本来の(それがいばらの道とは知りつつも)人生を生きることを決意する名もなき女の背中を突き放して捉えて映画は終わる。
敢然と歩く小山の後姿はりりしくもあり、厳しくもある。

シネマヴェーラの特集パンフより

前作「彼女だけが知っている」ほどの映画的広がりがなく、渡辺と小山の討論会的なセリフのやり取りなどに田村孟の脚本色が強い作品になっている。
一方で、ジャズっぽい音楽や、犯罪映画の表現の取り入れなど高橋監督のサービス精神というか、手法の多彩さも見られる。
このまま松竹にいれば将来的に「砂の器」をドライにしたような大作を作ったのではないかと思わせる高橋監督である。

小山明子は不条理の中で戸惑い、気持ちを抑えて状況に耐え、また新たな状況に立ち向かう女性を演じた。
そのクールさは、のちの「続・兵隊やくざ」(1965年)の似合いすぎる黒づくめの従軍看護婦役、や「少年」(1969年)、「儀式」(1971年)の近寄りがたい冷たさ、に結実したのではないか。