DVD名画劇場 イタリアンネオレアリスモの作家たち その4 ジュゼッペ・デ・サンティス

ジュゼッペ・デ・サンティス

1917年生まれ。
長じてチネチッタ付属の映画実験センター・監督科を卒業し、ビスコンテイらが集っていた雑誌「チネマ」同人となり、映画批評に健筆をふるう。

ヴィスコンテイ処女作「郵便配達は二度ベルを鳴らす」に共同脚本として参加。

マルキシズムの影響を受け、共産党の出資で撮った「荒野の抱擁」(1948年)で監督デヴュー。
以降「にがい米」(49年)、「オリーヴの下に平和はない」(50年)とネオレアリスモ史上に残るの重要な作品を発表する。

シルバーナ・マンガーノ、ルチア・ボゼーといったイタリア映画史に残る、美人でグラマーな女優のデヴュー作を撮ったのも、この監督の功績である。

「にがい米」   1949年  ジュゼッペ・デ・サンティス監督  イタリア

後の大プロデユーサーーのディノ・デ・ラウレンティスの製作第一作、シルバーナ・マンガーノの映画初出演、監督ジュゼッペ・デ・サンテイスの第二作。
のちにイタリア映画界を国際的にも引っ張ってゆく才能(特にラウレンテイスとマンガーノ)が揃った作品。
まさにイタリア映画戦後世代の台頭のムーブメントであった。

シルバーナ・マンガーノ、1948年

題材はイタリア社会の貧しさ、それを表現する素材には戦後世代のエネルギーを象徴するような18歳のシルバーナ・マンガーノを抜擢。
この時点で、この映画は、貧しくもつつましやかな庶民の姿を、いわゆる正攻法ではなく、無知で享楽的な若さと肉体をもって描こうとしていることがわかる。

「にがい米」のワンシーン

スカートをまくり上げて、蓄音機をならしながら広場で一人踊る18歳のマンガーノ。
ガムをかみながら出稼ぎ仕事を要領よくこなし、田植えになるとぴちぴちのショートパンツに膝上までのハイソックス。
宿舎では黒いスリップ姿で胸元を晒し、太ももから腋毛まで見せる。
圧倒的な肉体の存在感。
単なる若さの披歴でも、過剰なセックスアピールでもなく、すでに唯一無二の存在感をまとった新人女優である。
腰のあたりの太さが昔風なのもいい。

「にがい米」、田植えシーン。30~40センチの苗を植える

旧来の価値観にとらわれるわけでもなく、階級闘争にも無縁の存在であるマンガーノは、目先の物欲に支配され、ひたすら貧しさからの脱却(男にすがっての)を望む、戦後のアプレゲールな存在。
若くて勢いのある彼女は出稼ぎ集団のシンボル的存在として一目置かれている。
心ならずも貧しい出稼ぎ労働者の群れにいることに内心の焦燥感を抱いている。
その反動で、物質的な自己実現に固執してもいる。

彼女に絡むのは、犯罪者の男(ヴィットリオ・ガスマン)と、彼にそそのかされて身を持ち崩し、田植え労働者の群れに身を隠している女(ドリス・ダウリング)、先の戦争から10年間の兵役に疲れた軍曹で、若く肉感的なマンガーノが忘れられない男(ラフ・バローネ)。
それぞれが救いようのない悪だったり、悪を反省して更生しようとする人間の良心だったりするのだが、その登場人物たちが三角関係のように絡み合う。

「にがい米」のシルバーナ・マンガーノ。素晴らしい

サッカー場のように広い水田に並んでの田植え、田んぼで泥だらけになっての労働者同士の喧嘩、雨の中で箕のような雨具を被っての田植え、用水路の堰を破られ田圃に水があふれたときの右往左往。
契約労働者と未組織労働者の対立と和解。
前近代的な雇い主側への素朴な抵抗。
彼女たちに野卑な声をかける村の男たち。
宿舎の納屋で藁をカバーに詰めた寝具の上でスリップ一丁で過ごす女達。
風呂もシャワーもなく水路で水浴びする生活環境。

もう一人の主人公ドリス・ダウリング。右はラフ・バローネ

デ・サンテイス監督の狙いはそのあたりのシーンに表われているのだろうが、デ・ラウレンテイスプロヂューサーの狙いは、マンガーノの胸と太腿にあった。
そしてその狙いは世界中のヒットとなって的中した。

ラウレンテイスはその後、「道」(54年)、「カビリアの夜」(57年)、「天地創造」(66年)、「キングコング}(76年)などで大プロデユーサーとなり、マンガーノ(ラウレンテイスと49年に結婚)は、夫君の製作作品のほか、ヴィスコンテイやパゾリーニ作品の常連として活躍した。
「にがい米」はこの二人にとっての記念すべき第一作なのだった。

「オリーヴの下に平和はない」  1950年   ジュゼッペ・デ・サンティス監督  イタリア

デ・サンテイス監督の第三作、美人コンテスト優勝者のルチア・ボゼー映画初出演。
イタリア郡部の貧しい現実を素材にしたドラマ。
戦後まだ5年という製作時期がより生々しい現実感を生んでいるのは「にがい米」と同様。

舞台はチョッチャリア地方という山岳地帯。
第二次大戦の激戦地・カッシーナに近いという。

村民は羊と山羊を放牧して暮す。
家畜の数がそのまま財の多寡を示す、前近代的な社会だ。
そこでは悪辣な手段によっても、家畜を増やすボスが支配する社会でもあった。
同地方出身のデ・サンテイス監督が実話をもとにしての作品だという。

ラフ・バローネとルチア・ボセー

兵役3年、収容所3年を経て帰ってきた28歳のフランチェスコ(ラフ・バローネ)が主人公。
帰ってきたら羊がボスに盗まれている。
ルチア(ルチア・ボゼー)という恋人がいるが、ボスに気に入られ婚約することになり、フランチェスコとの交際を家族に禁じられている。

フランチェスコは羊を奪い返し、ルチアとともに村を離れる決心をするが、悪辣なボスに裁判に訴えられる。
フランチェスコに有利な証言をした村民は、家畜に毒を盛られたり、家に放火されたりする。
頼みのルチアまでが家族が復讐されることを心配して偽証する。
フランチェスコは有罪となり投獄される。

一方、羊を奪い返した際に逃げ遅れてボスに強姦されたフランチェスコスコの妹マリアは、ボスが忘れられずに密会を続ける。
ボスとルチアの結婚式にも現れる。
ボスの母親は息子とマリアの顛末を知り、結婚するのはこの二人だと断ずる。
ルチアは結婚指輪を外してその場を去る。

復讐の念に燃えたフランチェスコスコは脱獄してボスを狙う。
それを知ったルチアはフランチェスコスコのもとに駆け付ける。
なかなか受け入れないフランチェスコスコだったが、やがて二人は結ばれ行動を共にする。
警官隊の山狩りが迫り、ボスがフランチェスコスコの復讐に恐れおののき、村民たちがボスの悪辣さに反旗を翻し、と状況が切迫する。
果たしてフランチェスコスコとルチアの運命やいかに?

山岳のルチア・ボゼーとラフ・バローネ

「にがい米」のマンガーノ同様、デヴュー作の役名ルチアが芸名と同じというヒロイン、ルチア・ボゼーは前半は無理解な両親と、嫌悪感しかないボスの間でひたすら無表情の演技。
家族を捨てフランチェスコスコのもとに駆け付ける決心をしてからは表情が一変。
オリーヴ摘みの女達の中心でスカートをまくり上げて踊りを披露して警官隊の注意をそらす。
フランチェスコと再会してからは、決然とした女の表情と立ち姿を見せ、行動的なヒロインに変身。
その顔つきと突き出た胸は「ならず者」(1943年 ハワード・ヒューズ監督)でデヴューしたアメリカ人女優、ジェーン・ラッセルを彷彿とさせた。

ルチア・ボゼーとラフ・バローネ

ルチアがボスとの結婚をすんでのところで回避できたのは、ボスの母親の行動からだった。
「ベリッシマ」のアンナ・マニヤーニもすごかったが、イタリアのおっ母の存在感!がここでも炸裂。
たとえ悪辣な息子のマンマであっても、カソリックの信仰が最優先するのがイタリア。
先にマリアを強姦していたことを知ったマンマはボスに黙ってビンタを張り、「結婚相手はマリアだよ。ルチアは関係ない」と結婚式を強制終了させ、結婚そのものを再起動させる。

最初に手を付けた女性を妻としてめとらなければならない、という当時のカソリックの大原則は絶対であった。
離婚ができないのも同様。
そしてイタリア男はマンマの言うことを終生、最大限に尊重しなければならないのもイタリア人の基本の基だった。フランチェスコに「奴はキリスト教徒ではない、凶暴な犬だ」と断じられたボスも、最小限のカソリック教徒であり、イタリア人だったのだ。

「揺れる大地」の漁民が、資本家たる網元の支配に抵抗し、いったん挫折した後も団結を尊重するように、本作における放牧を生業とする村民たちのドラマでも、団結による勝利が高らかに謳われる。

辛辣な現実描写と階級闘争による勝利を謳った本作だが、デ・サンテイス監督の手腕は「にがい米」同様、スペクタクルな場面でも存分に発揮される。
脱獄したフランチェスコが家に閉じこもったボスに向かって声をかける場面など、反響効果を利かせたセリフ、悪漢を追いつめるヒーローのクールさ、そもそもが悪漢に対し我慢に我慢を重ねた末の反撃というドラマ構成。
グラマーでヒーローにぴったりくっついたヒロインも存在。
これはイタリア映画の体臭でもあり、そのまま後年のマカロニウエスタンで再現された呼吸でもあった。
ネオレアリスモは元祖マカロニだったようだ。

「ローマ11時」  1952年  ジュゼッペ・デ・サンテイス監督  イタリア

戦後7年目を迎えたイタリア。
戦中戦後の混乱期は過ぎたものの、戦争に起因する貧困と格差は埋まらないまま、不況の世相が続いていた。
経済のパイが広がらず、循環も滞ったまま、限られた正業に失業者の群れが殺到する。
これは、1951年1月にローマで起こった実話をもとに、関係者に取材して作られたドラマである。

新聞に載った募集広告。
『美人タイピスト1名募集』。
広告主はボロアパートの1室で事務所を開く会計士。
そこへ応募の女性が200人ほども押し寄せる。

左の女優がカルラ・デル・ボッジョ

戦後のすさんだ空気が残る街、失業中の女性たちは10リラの屋台の焼き栗でさえ買うのを躊躇する。
しかし、並び始める女性の一人にウインクしてバスを次々に見送り、名前と住所をせがむ水兵がいる。
メイドの身分から解き放たれようとタイピストに応募する少女に手を出す男がいる。
ここはイタリア。
男はもちろんイカレているが、女達もどこかのんびりしていて、切迫感より人間味が先行している。

ボロアパートの門を『開けろ、開けない』でのひと悶着もイタリア的。
応募した女たちの、袖すり合うも他生の縁的な井戸端会議的コミュニケーションぶりも面白い。
もちろん、だしぬけの横入りや、騒音に抗議するアパートの住人達に対する抗議のドタバタぶりはイタリア映画のお約束。
大騒ぎして、自分だけでも就職しようとする女達は失業者とは思えないほど元気だ。

夫も失業中で、この中では一番切羽詰まった感じの女が、抜け駆けして面接室に入ったことから他の女たちが騒ぎ出し、手摺が壊れて階段が崩落する。
一人が結局死に、ほとんどが救急車で病院に連れていかれる。

病院では入院費1日3700リラが自費だと聞き、勝手に退院してゆく女達。
マスコミが病室に乱入し、ベッドに腰を掛けて全員にインタヴュー。
得意の歌を披露する娘もいる。
本当にこんなんだったのか?イタリア的すぎないか?

責任所在の捜査のため、警察が集めた関係者。
アパートの大家、住人、タイピストの募集主、アパートの設計者、それぞれが勝手に責任逃れの言い訳をわめく。
その中で、列を抜け駆けした女が責任感から泣き崩れる。
死んだ女とは階段で並ぶうちに知り合ったばかり、彼女が水兵と住所を交わしていたことも知っていたのだった。

警察による責任者の追及は結局なかったが、貧困の現実は変わらない。
壊れたアパートの門の前で再び並び始める娘がいるのだった。

瓦礫の下に倒れるルチア・ボゼー

映画が描きたかったのは、戦後数年を経てなおイタリアの貧困の現実。
そしてその責任が個人にはないこと。

応募した女達には、田舎からもう戻らない覚悟で出てきた娘、金持ちの育ちながら貧乏絵描きと愛し合う娘、スラムに住む売春婦、上司と不倫の末妊娠して前職を辞した女らがいる。
映画の後半は彼女らの現状と行く末を描いてゆく。
デ・サンテイスの彼女らに対する視線には温かさががある。
彼女らは逞しく、ユーモラスでさえある。

俳優の動きを捉えるカメラは移動撮影を多用し、状況全体を流れるようにとらえる。
縦の構図で、画面の奥で芝居させるカットもある。
階段崩落のアクション?シーンも真に迫っている。
女優たちのお色気にも手を抜かない。
脚本には、デ・シーカ作品で有名なネオレアリスモの中心人物のチェザーレ・ザヴァッテイーニを起用。
デ・サンテイスの映画作りは、準備段階から俳優の選択、撮影技法に至るまで、いつもながら本格的だった。

特に女優たちの存在感、演技は印象深い。
「オリーヴの下に平和はない」でデヴューしたルチア・ボゼーは貧乏画家と同棲する金持ち娘。
事故が新聞沙汰となり家族が迎えに来るが、途中で車を降りて画家の元へ戻る。

夫婦で失業中の妻はタイプに自信があり、どうしても就職したいことから割り込んで顰蹙を買い、事故の原因を作った、その後罪悪感にさいなまれる。
この幸薄い美人妻を演ずるのはカルラ・デル・ボッジョという女優。

逞しい売春婦で、戦後を色濃く引きずるスラム街に住み、お客?同伴でタイピストに募集するのはレア・バドヴァーニ。
スラムを見たお客?は去っていった。
彼女はこの後、更生できるかどうかはわからないが、たくましく人生を生き抜いてゆくことは確かだ。

令和7年畑 ルバーブ採種

6月中旬、1週間ぶりの畑です。
この間、雨が降ったり、炎天下だったり。

潅水と除草の準備をして向かいました。
ひょっとしたら初収穫もあるかもしれません。

まずは全体の様子を観察します。
年越しのルバーブのトウ立ちは、枯れていて種が採れそうです。

一週間ぶりの畑
ルバーブのトウ立ちは枯れている

ズッキーニは期待したほど実が育っていませんでした。
水不足なのか?

ズッキーニ

トマトは乾燥に強いので絶好調。
根っこから第二、第三の芽も出ています。

トマト

キューリも元気です。
枝豆、インゲン、ほうずき、ヤーコンも。
直播した青シソ、赤しそ、バジル、ビーツも何とか生き残っています。
問題はこれからの夏をどう乗り切るかですが。

キューリ
インゲン
毎年こぼれだねで増えるパクチー

トマトやキューリの伸びた枝を、支柱やネットに結びつけ、ナスの下枝を選定した後、潅水しました。
主にナス、キューリ、ゴーヤ、ピーマン類などに水を補給します。

それから畝間を除草。
草刈り機のひもで行います。
乾燥した畝間は土埃を立てています。

今年はカボチャも元気

時々信州らしい涼風が吹くだけの炎天下で約2時間。
汗だくで、ズボンの下で張り付いたステテコが座った時に破れました。
本来は捨てるべきステテコですが、これを捨てたら夏のステテコがいくつあっても足りないので、畑専用で使い続けます。

ルバーブは枝ごと切り取って採種。
山小舎に帰って種だけ選別します。
これからでも蒔けるかもしれません。

ルバーブの種

伊那旭座で「鹿の國」を見る

たまたま伊那のミニシアター旭座のサイトを見ていたら、「鹿の國」の上映最終日が迫っていたので出かけることにしました。
旭座で見るのは初めてです。

伊那旭座

諏訪湖から太平洋に流れる谷沿いに広がる伊那谷。
下流に向かって右手に中央アルプス、左手に諏訪地方から山梨県にかけての境をなす山々に囲まれています。

伊那市は上伊那と呼ばれる伊那谷北部の中心都市で、人口比の飲み屋の多いことでも知られています。

伊那錦町の飲み屋街

伊那市に唯一現存する映画館の旭座は、明治時代に開館した芝居小屋をルーツに、大正2年に現地に移り、芝居などの出し物の間に映画上映を行ったといいます。
戦後になり映画専門の劇場となりました。
県内最大級のスクリーンを擁し、旭座1は352人、別棟の旭座2は204人の定員で、経営はタバタ映画社です。
全国で9館のみという現存木造映画館のうちの一つにかぞえられ、上映作品は、シネコンで上映されるロードショー作品が主流です。

旭座1の全景

静まり返った伊那の街はずれに、忘れられたようにたたずむ昭和感丸出しの映画館が旭座です。
シネコンでもなければ、ミニシアターでもない(今流の分類ではミニシアターとなるのであろうが)、木造の味のある外観。
「コナン」の新作ポスターがかかっていなければ営業しているかどうかもわかりません。
昭和からタイムスリップしてきたかのような空気感に、劇場そのものが覆われています。

旭座1の近景

「鹿の國」の開映5分前に映画館のドアを開ける。
チケット売り場の窓口は当然開いていない、入場口左手のモギリにも人がいない。
声をかける寸前、右手の事務所?に人の気配がし、70代くらいのおじさんが動いた。
「鹿の國、シニアで」と声をかけると、料金表を指し示しつつ、モギリにやって来る。
忙しいのか、話しかける雰囲気ではない。
この雰囲気、昭和の映画館スタッフが持つ、堅気でもなく、そうかといってヤクザっぽいわけでもなく、せかせかした人を寄せ付けないオーラを思い出させた。
フィルム上映の有無や、作品選択などを聞きたかったが諦める。

旭座1のチケット売り場

観客は一人。
スクリーンの大きさ、きれいさ、場内の設備の良さは経営のプロっぽさ、封切館の雰囲気を思い出させた。
2階席もあるのだった。
開映直前におばさんが入ってきて観客が二人に。
上田映劇、長野相生座、塩尻東座など県内のミニシアター系の木造映画館での経験でも特筆される観客の少なさだ。

旭座1の場内とスクリーン
罰胸の旭座2の全景

「鹿の國」  2025年  弘理子監督  ヴィジュアルフォークロア製作・配給

『ミシャクジ ミシャクジ 目には見えない何者かがここにはいる』。
諏訪の雪景色のなかの鹿の群れの映像にナレーションが被る。
いきなり諏訪の神様の核心に迫る出だしだ。

この映画の狙いは諏訪という場所の民俗学的興味なのか。
だとしたら諏訪大社に祀られる諏訪の神様の正体こそがその核心であろう。
そして諏訪の神様とは、古事記に現れる人格を持った固有名詞ではなく、岩や石に象徴される精霊が宿る自然だったり、神職と呼ばれる人が行う神事だったり、一般人が営々と繰り返す営みだったりを通して現れるものなのだろう。

大祝と呼ばれる神職が諏訪大社にはあった。
選ばれた少年は、冬から春にかけて御室とよばれる半地下の筵小屋に閉じこもる。
翌年の豊作を祈り、生命の誕生を祝う神事だとされている。
映画では、途絶したこの神事を再現する。
公民館で大祝役の少年を呼び、中世の芸能研究者を呼んでレクチャーする。
『神様は芸能を好む』、という研究者の解釈により、村の顔役たちが鹿肉を食らいながら御室で繰り広げたであろう宴を地元の衆の演技で再現する。

上伊那地方のある家族。
屋号がミシャクジだという。
三つに割れた桜のご神木の元で毎年春の神事を行う。
この貴重な記録、参加しているのが年寄りばかりというのは気になった。
若い人がその場にいないというのは、諏訪大社の役職(神長官、大祝)同様、近年で断絶するということなのか。

諏訪大社のお札には、『鹿食免』というお札がある。
江戸時代以前の肉食禁止の時でも、諏訪を中心とする地方では鹿の狩猟と肉食は許されていた名残である。
大社でお札をもらい、鹿を捕り、肉を神事のために大社に納めるハンターがいる。

諏訪に移住し、モンペと着物姿で機械を使わずに田圃を作る人がいる。
それを助ける集落の老婆がいる。
腰は曲がっているが、農作業は体が覚えている。

明治以前の神仏習合の時代、諏訪大社周辺には無数の寺があった。
象に乘った普賢菩薩が大社のご神体ともいわれたという。
この映画では、その時代以来であろう寺の僧侶が大社でお経をあげる場面が記録された。
僧侶は言う「諏訪の神様とは、タケミナカタノミコトでも普賢菩薩でもなく、ミシャクジとよばれる精霊などの集合体なのだろう」と。

「鹿の國」チラシ

この作品のうまさは、諏訪の神様に解釈を、中世の芸能研究者や僧侶などに語らせていること。
解釈が必要なことは専門家に語らせ、その解釈を映像化している。
また、上伊那の屋号がミシャクジと呼ばれる一家の神事など、貴重な事実を記録している。

ミシャクジと並ぶもう一つのキーワード「鹿」については、上社の春の神事「御頭祭」での、鹿の首を神主が押し頂く場面、ハンターが狩猟する場面等々で繰り返し扱っている。
『鹿亡くしてはご神事はすべからず』。
中世の風土記に書かれた言葉であるという。

「鹿の國」チラシ裏面

山小舎来客第一弾

今年はわかっているだけで3組の客さんが山小舎にやってきます。
そのほかに娘一家が例年通り4回ほど来ます。
6月中旬に第一弾のお客さんが来小屋しました。

炭火焼きの用意。鶏モモの串刺し
鶏レバーの血抜き

メンバーは山小舎おばさんの姉と従兄。
山小舎おばさんの運転でやってきました。
ゲスト二人は初の山小舎です。

オリジナルドレッシングとサラダ
ぬか漬け

諏訪南インターで降りた一行は、蕎麦を嗜み、八ヶ岳農業大学でソフトクリームを食べ、茅野市縄文の湯で入湯してから山小舎へ登ってきました。
この日は絶好の好天、八ヶ岳の秀峰が間近に望めたようです。

焼き物の準備
トウモロコシとアスパラホイルから焼き始める

この日の山小舎夕食は炭火焼き。
シイタケ、アスパラのホイル焼きから始まり、信州鶏、信州豚、アルプス牛のお馴染みメニューを一通り食べた一行は「うまい、うまい」を連発し、味噌焼きおにぎりとともに召し上がっておりました。
地ビール、シードル、地酒とドリンクもどんどん進みます。
仕上げの焼き芋、ジャガバターも平らげたころは一同満腹の様子でした。

3人水入らずで就寝。
山小舎の冷涼で静かな夜を過ごしていたようです。

翌日はあいにくの雨。
しかしながらウオーキングシューズを新調して臨んだメンバーらは予定通り、蓼科湖周辺のハイキングを傘をさして決行。

翌朝、ベランダでたたずむ
新調のシューズでいざ出発
雨の中、蓼科湖周遊へスタート

次いで付近の小斎の湯という蓼科温泉郷の名湯に入湯。
温泉好きの一同の感激をさそいました。

小斎の湯
曲がりくねった通路を通って露天風呂へ

遅めの昼食は富士見高原リゾートまで移動して、レストランのランチメニュー。
帰りには原村のトウモロコシ農園で、ハウス栽培のトウモロコシを試食。
まったくよく食べる一行です。

山小舎へ戻って小休止。
この日の夕食は山小舎おじさんのバイト仲間のご夫婦を誘っての会。
従兄氏が定年退職後の人生展望に悩んでいるとの話に、セカンドライフの成功例を聞こうとバイト仲間を誘ったものです。
メニューはスペアリブ煮込み、牛筋煮込み、コールスロー、花豆煮、玉こんにゃく、ぬか漬け、などなど。
従兄氏の話から、バイト仲間の田舎暮らしの数々のエピソードまで、会話は縦横に進みました。
この日もドリンクはビールからワインへと進みましたが、バイト仲間はもともと飲まず、前日は鯨飲した従兄も飲み疲れのせいで進まず、ほどほどのアルコールとなりました。

山小舎ジャムをお土産に一行は翌朝、帰途に着きました。

草苅りバイト開始

山小舎がある姫木別荘地は、姫木の森有限会社という管理会社が運営?しています。
会社には専従の社員が10名ほどいて、別荘地共有部分の保守管理を主に行っています。
会社の収入は別荘オーナーからの管理料のほか、土地の所有者である町の財産区からの地代収入の応分など、約9000万円だそうです。
個別の別荘オーナーからの敷地内の除草、整備、除雪、備品撤去などの依頼があった場合の対応もしています。

姫木の盛有限会社社屋

毎年4月中旬から10月くらいまでは、バイトを採用して側溝の整備、除草などを行います。
バイトで集まるのは主に別荘オーナーで、70代、60代のメンバーが主力となっています。
山小舎おじさんんも、ここに来た2年目から参加し8年目になります。

軽トラに道具を積んで出発準備

熊手を使っての落ち葉集めはともかく、草刈り機は山小舎に来てから初めて使った山小舎おじさんにとって、しかも60過ぎてからの、外での1日仕事は体力的に大変でした。

しかしながら、多様な人生経験を積んだ先輩バイトの方々との交流は、一人暮らしの山小舎おじさんにとっては貴重な時間となりました。
同じ地域に暮らす仲間としての情報交換の場としても重要でした。
大工仕事、薪づくりなどに技能を発揮する仲間もいます。
1か月に1度程度のゴルフを楽しみにする愛好者もいます。
普段はしゃべる相手もなく、また体を動かすこともあるとはいえ偏っていたことが多い山小舎おじさんにとっては、心身ともにリフレッシュできる場でもありました。

草刈り機、ブロワーなどの仕事道具

今年も仕事は始まっています。
山小舎開きが4月中旬と遅れ、そのため畑に、山小舎にと忙しかったので、5月中のバイトは2回、6月に入っても週1回ほどの出勤率ですが、今年の仕事をスタートさせました。

休憩時間の草刈り機とヘルメット

8年目ともなると体が仕事を覚えています。
体はしんどいのですが、思ったより動けました。

何より、全身を使って汗をかく仕事はいいものです。汗を出し切ってからだが軽くなる時(夕方近く)が最高です。バイト仲間が皆元気なこともうれしいことです。

草を刈った後

令和7年6月7日の「信濃毎日新聞」

外出の際に両替のため、コンビニで新聞を買うことがあり、手元に6月7日付の信濃毎日新聞があります。

信濃毎日新聞は県内最大の新聞です。
たいていの家では同紙を取っており、直売所やスーパーに置いてある包装用の古新聞は必ずといってよいほどこの新聞です。

内容は充実しており、全国ニュースは朝日、読売などの全国紙にそん色なく、むしろページ数が少なく、内容は広告ばかりが目立つ全国紙と比べると、ページをめくっていて一時代前の新聞のような満足感さえ感じられます。

SBC信越放送の午後のワイドショー「ずくだせテレビ」のコメンテーターに、信濃毎日新聞社のデスク級の社員が文化人枠として、毎日出ているのも県民にとっては当然のお約束です。
「ずくだせ」というのは信州地方の方言で、元気出せとか意気地出せという意味(だそう)です。

さて6月7日付の同紙。
一面は「須坂市ふるさと納税除外へ」。
須坂が返礼品のシャインマスカットを市内産のものに加えて、山形県産のものを送っていた事件です。
総務省によるふるさと納税制度の対象から須坂市が除外されるとのこと。
岡山県吉備中央町と同時の除外となり、除外された市町村は全部で5例目だそうです。

中信地方のローカル版のページには、「人々の思い受け上松出発」として、20年に一度の伊勢神宮式年遷宮の御用木が木曽の上松町を出発したニュースが載っています。
ローカルテレビニュースでも、木曽山中での伐採から、山おろし、安置までたびたび伝えられていました。
樹齢300年の御神木が3本伐採され、切りそろえられた後、トラックで伊勢神宮に向け出発したとのだそうです。
内宮用に2本、外宮用に1本が使われるといいます。
木曽の木材が江戸時代に幕府の御用材とされていたそうですが、伊勢神宮でも使われていたのですね。

見開き1面には、「祝・辰野町新町発足70周年」として、カラーの広告ページがあります。
上半分は、町長挨拶、式典式次第、ほたる祭りなどの関連行事案内が、下半分は協賛企業の広告が載っています。
協賛企業には地元小野地区の銘酒「夜明け前」の小野酒造の名もあります。

ほかにも下伊那地方を通るリニア関連のニュースや、毎年6月に上田市丸子で開催される女子ゴルフの国内メジャー大会の広告、様々な興味深いローカルニュースが載っています。

「リニアのゆくえ」と題する追跡記事
今年も上田市丸子で女子ゴルフ大会が。テレビでも中継される

細かなローカルの話題に、同新聞の取材網の充実と郷土愛が感じられます。

県内企業の商品開発の記事
田舎と言えば空き家と古民家。古民家再生の広告
諏訪市の街中に今年も手作りの提灯が下げられるようだ

DVD名画劇場 イタリアンネオレアリスモの作家たち その3 ルキノ・ヴィスコンティ

ルキノ・ヴィスコンテイの経歴(ネオレアリスモの時代まで)

「ルキーノ・ヴィスコンテイ」(2006年 エスクァイヤ マガジン ジャパン刊 P52~62の「人物評伝 滅びゆく貴族とブルジョアの崩壊」映画評論家 田中千世子)より要旨抜粋する。

表紙
奥付

ヴィスコンティは1906年ミラノ生まれ。
父はミラノ公国の流れを汲む貴族、母は新興財閥の生まれ。
両親の自由精神を尊重した教育を受けて育つ。

目次

子供時代から、ミラノのスカラ座でのオペラ鑑賞や文学に傾倒。
1930年代にはパリに遊学して映画を含めた芸術に目覚める。

1939年にはイタリアに戻り、ローマのチネチッタ撮影所を根城に、雑誌「チネマトグラフィ」の同人として活動。
この間、自然文学者ジョヴァンニ・ヴェルガの短編「グラミーニャの恋人」を脚色するが映画化の許可は下りず。
監督処女作のジェームス・ケイン原作の「郵便配達は二度ベルを鳴らす」は、ルノワールからのシノプシスをヒントにしてのもので、1942年にクランクインされ、43年に公開された。

大戦中の44年にはパルチザンをミラノの自宅屋敷に匿ったことから、ヴィスコンティ自身も逮捕され処刑寸前の目に遭う。

戦後しばらくは演劇活動を行っていたヴィスコンティの映画第二作は1947年に撮影開始した「揺れる大地」。
念願のシチリアを舞台にしたヴェルガの長編「マラヴォリア家の人々」を原作とした。

ルキノ・ヴィスコンテイ

「揺れる大地」  1948年  ルキノ・ヴィスコンテイ監督  イタリア

戦後間もないシチリア島のアチトレツァという漁村に7か月間ロケし、俳優は全員現地の素人を起用、イタリア国内でさえ字幕を付けて上映されたというシチリア方言によるセリフのこの作品は、イタリア共産党の依頼によって、当初は、シチリアの労働者(漁夫、抗夫、農夫が主人公)についてのドキュメンタリー3部作の第一弾として企画された。

ドキュメンタリーは劇映画となり、3部作は、漁夫一家を描いたこの1作だけが完成した。

北イタリア出身のヴィスコンティにとって、シチリアという素材は『写実的小説家ジョヴァンニ・ヴェルガの「マラヴィオチア家の人々」に書かれたような、シチリアの漁師たちの原初的で巨大な世界は想像を絶するほどのものとして、また荒々しい叙事詩として立ち現れるのだった』のであり、『ヴェルガのシチリアはユリシーズの島のように見える』のだった。(『』はどちらも「ルキーノ・ヴィスコンテイ」 P60より)

こうしてヴィスコンティの政治的信条の、マルキシズム的価値観を制作動機としつつ、一方でその美的審美眼の実現を追求した作品が出来上がった。

長男のウントーニ(左)

映画の出だしは、帆が付いた大型手漕ぎボートによる沿岸漁業と、はかりを持って浜に現れる仲買人による前近代的なセリの模様。
夜明けに海から帰ってきた漁夫たちが、洗面器で顔を洗っただけで夜までの休息に入る様子。
あるいは夜明けと同時に起きだし、家の掃除をして帰ってくる男たちを待つ女たちの様子を捉える。
良質のドキュメンタリーのような出だしだ。

そのうち映画は、登場人物の個々の描写を始める。
海軍帰りの長男・ウントーニは漁から帰ると休む間もなく恋人の元へ行く。
恋人はウントーニへの好意があるのかどうか、あいまいな態度をとるがウントーニは夢中だ。
彼が独立したときに海の近くの岩場で体を許すが、没落してからは居留守を使って彼の前に現れない。

次男は、戦争で広い世界を見知ってきたリーダーシップあるウントーニを尊敬し、漁でまじめに働くが、没落して失業状態が続くと「成功して、母とウントーニに援助したい」と、アメリカたばこで気を引く正体不明の男に誘われて島を出る。

母親代わりに家を切り回す、宗教画のマリアのような長女・マーラにも好意を寄せる気が優しい職工がいる。
真面目な恋人たちは、一家の成功と没落に翻弄されて、プロポーズに至ることができない。
いよいよ一家が家を差し押さえられて村を離れるときに、お互い好意を持ちながらも静かに別れる。

マーラを演じる素人女優を見ていると「木靴の木」(1978年 エルマンノ・オルミ監督)のエピソードを思い出す。村の素朴なカップルが新婚旅行で修道院に泊まった時に、初老の尼さんから生まれたばかりの赤ん坊を授けられた場面だ。
赤ん坊を受け取りつつ戸惑う寡黙な新婦の美形の表情をマーラは思い出させた。

主人公一家の長女、次女と三男

夢見がちな次女・ルシアは、持ち前のグラマーな肉体に村の警察署長が目を付け、盛んにちょっかいをかけてくる。
一家が困窮した後、ルシアは所長からの高価なプレゼントを受け入れ、愛人となり村中に噂される。

ヴィスコンティは映画の中盤からは、ドキュメンタリー的手法を離れ、時には前近代的な搾取構造と闘う個人を、時には貧困に苦しむ家族のみじめさを、時には己の若さを持て余すかのように道ならぬ恋に悩む乙女を、劇映画そのものとして描く。
前作「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1943年)に存分に発揮されていた、人間の根源に迫る容赦のなさ、しつこさというヴィスコンテイの体質を思い出させる。

素人俳優は画面の中をゆっくり横切り、荒々しい海に黒いマントを着てたたずむ。
ショットの構図も決まっている。
まるでギリシャ演劇のようでな俳優の動きであり、凝った撮影である。
ヴィスコンティがこの作品で、素朴なドキュメンタリーではなく、己の美意識の追求を目指していることがわかる。

映画の主人公は、前近代的な命がけの帆掛け船漁で日々を凌ぐ裸足の漁村民たちではない。
己の美意識を前面に出し、零細漁民をギリシャ悲劇の登場人物のようにとらまえるヴィスコンティその人こそがこの映画の主人公なのである。

映画のラストでウントーニはつぶやく。
「仲間を信じて団結しなければ、俺たちは前に進めない。」と。
これは映画の表面上のテーマである。
そこには隠しようもなく、もう一つの制作動機(シチリアに対するヴィスコンティのあこがれ)と美意識が表れていたが。

再び網元の漁船に雇われてオールをこぐウントーニに「厳しい海が船乗りたちの死に場所なのだ」のナレーションがかぶさって映画は終わる。

「ベリッシマ」  1951年  ルキノ・ヴィスコンテイ監督  イタリア

アンナ・マニヤーニのあっぱれ大車輪の演技。
イタリアの母は強し、マニヤーニの演技はさらに凄し。

ヴィットリオ・デ・シーカと組んで「自転車泥棒」「靴みがき」の脚本を書いたチェザーレ・ザヴァッテイーニの原案をおそらく忠実に尊重しての脚本は、フランチェスコ・ロージ、ヴィスコンテイほか。

アンナ・マニヤーニといえば、「無防備都市」で恋人を連れ去られたナチスのトラックに追いすがり銃殺されて路上に突っ伏す占領時代のイタリア女性の強烈さを連想する。
そうでなくても、どろどろの恋愛劇で叫ぶように感情をぶちまける中年女性の姿が思い浮かぶ。

1951年のアンナ・マニヤーニ

この作品のマニヤーニは、ローマの安アパートに暮し、看護婦として糖尿病の治療薬を注射して稼いでいる。
可愛い一人娘を立派な人にすべくなりふり構わない。
チネチッタ撮影所で行われた美少女オーデイションに出場させ、演技のレッスンにつけ、バレエ教室に通わせ、チネチッタに巣食う詐欺師のような男に5万リラを渡してオーデイションを有利に運ぼうとする。
娘のためには夫や義実家との関係も二の次、オーデイション用のドレスを発注し、洋服屋に「ドレス代は注射じゃダメ?」と恥も外聞もない。

娘のオーデイション騒動の各エピソードは、ハリウッドのスクリューボールコメデイも裸足で逃げ出すほどの破壊力。
何よりマニヤーニのド外れた行動力がすごいし、一人芝居のセリフもマシンガントーク。
加えて各エピソードに登場する端役(演技レッスン講師の元女優、写真館の夫婦、美容室の少年美容師、バレエ教室の先生など)がさらに浮世離れして、これまた強烈。
イタリア映画の喜劇のアナーキズムが爆発している。

娘のマリアとマニヤーニ

マニヤーニの取りつかれたようなアグレッシブさは、通常だと深層心理的には自己投影だったりするのだが、イタリアの肝っ玉母さんの場合はそうではないのだ。

チネチッタの詐欺師がわいろに渡した5万リラでスクーターを買う。
それがわかってもマニヤーニは激高しない。
挙句、河原で口説き始める詐欺師を歯牙にもかけず受け流す。
身持ちも堅いのだ。

この河原のシーン、イタリア男のいい加減さも気違い沙汰だが、それを分かったうえで受け流し、肝心な体と心は許さないイタリアの母の凄さには声も出ない。

子役コンテストのセレクトも終盤。
愛する娘が最終審査のテストフィルム試写の場で監督らに大笑いされる。
こっそり試写を見ていたマニヤーニは試写室に怒鳴り込み「なぜ娘が笑われたのか」と問う。

マニヤーニ扮する母と疲れ切った愛娘

娘の将来とともに己のプライドを賭けていたマニヤーニは、尊厳が尊重されないであろう、チネチッタに象徴される浮き草稼業に娘の将来と己のプライドを賭けていたことの不条理に目覚める。

巨額の契約にはサインせず、チネチッタのスタッフを追い返す。
これまで不義理していた夫との愛を確かめるように抱き合い、「一生懸命に注射の仕事をする」と、涙とともに目を輝かせる。
隣では愛する娘が寝入っている。

このアンチハリウッド的ハピーエンドはしかし、庶民的にはこの上ないハピーエンデイングである。
ヴィスコンティのマルキシズム的価値観とも合致する明確な正義感。
マニヤーニの演技を通して、正攻法の母の強さ、温かさ、正しさが伝わってくる。

ヴィスコンティが貧しい庶民を主人とし、社会的正義を前面に打ち出しての、おそらく最後の長編作品。
一人芝居のようにしゃべりまくり、自分で落ちまで作るマニヤーニにも、すごいという言葉しか出てこない。

「われら女性」  1953年  ルキノ・ヴィスコンテイらが監督  イタリア

「自転車泥棒」「靴みがき」の脚本家チェザーレ・ザヴァッテイーノの原案によるオムニバス映画。
新人女優2人を主人公にした一編と、大女優たち、アリダ・ヴァリ、イングリッド・バーグマン、イザ・ミランダ、アンナ・マニヤーニによる4編からなる。
監督はアルフレード・グリアーニ、ジャンニ・フランチョーニ、ロベルト・ロッセリーニ、ルイジ・ザンパ、ルキノ・ヴィスコンテイ。

(左上から時計回りに)バーグマン、アリダ・ヴァリ、マニヤーニ、イザ・ミランダ

新人女優編

チネチッタ撮影所の新人女優コンテストに集う若い美女たちの物語。

アンナは母親の反対を押し切ってコンテストに向かう。
詰めかける応募者の群れ、マイクが軽口をたたきながら応募者たちをさばく。
並んだ応募者たちに「合格」か「不合格」を担当のおじさんが告げてゆく書類審査。
ここでは、不合格と言われて黙って引き下がらないのがイタリア流お嬢さんたち。
文句を言うお嬢さんを軽くいなすおじさんもイタリア流。
軽いというか、こなれているというか、雑然としているというか.「ベリッシマ」でも散々使われたチネチッタ撮影所の、堅気世界とはかけ離れた、乱雑ないい加減さ。

書類審査の後は、合格者に自由に食事をさせる。
その様子で、カメラテストに進むものを選出するらしい。
ここでも、人を人として扱わない映画界の非人情ぶりというか、堅気の世界からズレ切った特殊な世界が描かれる。

アンアとともに清純派の素人っぽいお嬢さんが合格して映画出演を果たす。
その前途には必ずしも輝かしい未来が待ってはいないことを暗示してこの挿話は終わる。

アリダ・ヴァリ編

新人女優たちが右往左往していた第一編と異なり、映画らしくピシッと締まった第二編。
なんといってもアリダ・ヴァリの現役感、オーラが漲っている。

ヴァリは売れっ子国際女優として多忙を極める。
専任のエステイシャン、アンナに体を任せながらも、取材に答え、セリフ覚えにと休まる暇もない。
心は虚ろで、今晩のダンスパーテイも全く気乗りしない。
気まぐれにアンナの婚約パーテイの話を聞き、「行く」と言ってみたが、結局仕事と金がらみでダンスパーテイへ。
しかし、業界人たちのいつもの金がらみの自慢話は全く耳に入らない。
ダンスパーテイを途中で抜け出し、アンナの婚約パーテイにお忍びで参加する。

仲間内の庶民的なパーテイでみんなに親切にされるが、内心はここでも退屈だったアリダ・ヴァリ。
群がる人々に「人々は映画に幻想を抱いている」と内心でつぶやく。
表面上は愛想よく振舞い、アンナの婚約者とダンスする。
外に汽車の汽笛が聞こえた。
バルコニーに出て夜汽車を眺める。

子供時代のあこがれだった汽車の旅の記憶に浸り、機関士だという婚約者の話に盛り上がる。
女優はノスタルジーに浸り、婚約者は自分への関心だと思う。
何となく見つめ合う両者。
その刹那、女優は我に返ってパーテイを中座して、現実に戻ってゆく。

映画女優は虚構の世界に心底退屈している。
自分と映画界が全く人に羨まれるほどのものではないことも痛感している。
そのことがアリダ・ヴァリ自身のナレーションで繰り返し語られる。
だからといって、金としがらみのためにそこから離れられないことも、彼女の行動が示している。

婚約パーテイで一般の人から歓迎されながら、彼女は差し出されるサインに応じようともしない。
表面上は愛想よくふるまいながら。
その理由は、彼女が高慢だからではなく、心底価値のないと自覚している世界の自分のサインなど、との思いがあるからなのだろうか。

イングリッド・バーグマン編

バーグマンの当時の夫、ロベルト・ロッセリーニ監督の一編。
別荘に移り住み、先代の住民と(その鶏と)繰り広げるすったもんだをスケッチしている。

パンツスタイルでいかにも子育てママ風のバーグマンが、カメラに向かってしゃべり、庭でバラの手入れをし、鶏を追いかけて捕まえる。

ハリウッド時代の大時代的な芝居ではなく、身も心も軽々としたバーグマンの動きは、テレビのリポーターのようで、彼女の一面が楽しめる。

イザ・ミランダ編

マックス・オフュルス監督の「輪舞」(1950年)、そしてアメリカ映画の「旅情」(1955年 デヴィド・リーン監督)の美人女優イザ・ミランダが彼女自身を演じる。

肖像画のコレクションに囲まれた自室で目覚め、体操とメークアップ、衣装合わせをすますと撮影所で仕事。
仕事のためには大好きな子供を持つこともあきらめた人生だった、と自身によるナレーションは語る。

ある日、仕事を終えた彼女は一人スポーツカーを走らせる。
前方で不発弾が発生し、子供が怪我する。
病院へ車を走らせるイザ・ミランダ。
手当てを終えた子供をそのアパートまで送る届ける。

アパートでは幼い子供が3人、母親を待っている。
末娘のあどけなさにメロメロになったイザ・ミランダは、昼食を食べさせ、結局母親が返ってくるまでそこにいる。

帰ってきた母親と子供たちの愛情ある絆を見て、彼女はそこを離れ「治ったら電話頂戴ね」と言いながら自室に帰る。
そこは資産的価値あるものには溢れているが、彼女が本当に欲しいもののない空虚な空間だった。

「旅情」では魅力あふれるベネチアのペンションのマダムとして、アメリカ人旅行者のキャサリン・ヘプバーンに「イタリア男は面白いわよ」と、余裕たっぷりにアヴァンチュールを説いていたイザ・ミランダの本心に迫るドラマであるのだろう。

アンナ・マニヤーナ編

マニヤーナがヴィスコンテイに実体験を話したことからスタートした企画だという。
いかにもマニヤーニらしいエピソードが繰り広げられる。

アンナ・マニヤーニ、ここにあり

舞台(ローマ市内の小劇場の色っぽいレヴューが行われる)の出演のためタクシーに乗ったマニヤーニ。
小型犬を連れて乗り、降りようとするが犬の料金1リラの請求されて激高。
警官に訴えるが、逆に犬の鑑札のなさを指摘されて罰金14,5リラを徴収される。

警察署に車をつけさせ、結局所長にまで訴える。
小型犬の定義や膝の定義まで確認させ、犬の料金不要との裁定を勝ち取るが、舞台には30分の遅刻。
慌てて衣装とメイクを終え、その間舞台を終えた踊り子に「挨拶がない」と注文を付け、「機嫌が悪いのよ」と言いつつ花売り娘役の独唱で観客を引き付けるのだった。

タクシー運転手の理解不足が原因のトラブルでもあり、マニヤーニにしては感情の爆発をやや抑えた演技。
ヴィスコンテイ的にも「ベリッシマ」までの庶民階級の悲哀を題材にした系統の作品でもあり、軽い作品。

楽屋でメイクするマニヤーニを鏡を使って二つの方向から捉える「ベリッシマ」でよく見られた撮影技法がここでも見られた。

春の山小舎リフレッシュ! 食器棚の手入れ

春の大掃除は続きます。
この日は、山小舎入居以来手つかずだった食器棚に手を入れました。

先代オーナー時代には大学のゼミ合宿も行われたという山小舎。
たくさんの食器が備えられていました。

学食にあるような金属のプレート皿が20枚とか、ラーメン丼が20杯とかが用意されていました。
山小舎おじさんの入居時に、山小舎おばさんと大掃除をし、食器もかなり処分しました。
が、いまでも食器棚2基分に皿やどんぶりなどがぎっしり詰まっています。

整理前の食器棚
こちらも整理前の棚

ほぼ10年ぶりに、食器棚の食器類を出して棚をきれいにし、併せて棚の外側、背後の壁や床を拭き、また使わない食器を処分することにしました。

とりあえず中の食器を出す
食器棚から出された食器類

まず食器を全部出し、基本的に同じもの5枚を残してそれ以上の枚数を処分します。
かなりの処分量が出ました。

捨てる食器を段ボールへ

空いた棚の内部を重曹水で拭き掃除して乾かします。
レースの下敷きを洗濯機で洗って干します。
蕎麦用のザルなどもこの際天日乾燥です。

空いた棚を拭いて乾かし新しい紙を敷く
蕎麦ざるを干す
食器棚に敷いてあったレースを洗って干す

軽くなった食器棚を移動し、床と壁、そして棚本体の外側を拭きます。
棚の外側もススなどで汚れています。

食器棚の後ろ、下を拭く。食器棚の背後・側面も

食器棚をもとの位置に戻し、きれいになった下敷きを敷き、適量となった食器を戻します。

スリム化した食器をセット

何となく食器棚周辺の空気も新しくなったような気がします。

令和7年畑 畝間の除草

9月の畑は日照りでした。

草刈り機の刃をヒモに替えていたので、畑の畝間の除草をしました。

畝間の凸凹や、マルチ近くの柔らかい雑草に、ヒモの草刈り機は対応できます。
土ぼこりを上げて雑草が刈り取られてゆきます。

草刈り機で畝間を除草
ズッキーニの畝間

畑の作物の生育を見ます。
乾燥に弱いはずのキャベツが順調に育っています。

キャベツ

芽出しさせた苗を植えたインゲンや、直播の枝豆も思った以上の成育です。

インゲン
枝豆

乾燥に強いトマトも元気です。

トマト

ナスやキューリ、ゴーヤ、ズッキーニなどに水やりをします。
芽が出たばかりのビーツ、しそ、バジルにも。

カボチャ

順調な生育のものはこのまま、乾燥に弱いものは水やりを行って、育ってほしいものです。

6月の山小舎

6月になりました。
朝晩はまだまだ肌寒い山小舎周辺です。
雨の日などは日中でもストーブをガンガン焚こともありますが。

それでも6月です。
穏やかな日中は初夏の様子です。

晴れた日は春ゼミの合唱がにぎやかです。

地上に落ちた春ゼミ

樹々の緑も厚くなり、山小舎の地上波アンテナでは5チャンネルの受信ができなくなりました。

玄関の石垣に棲むトカゲは天気がいい日には外に出て日光浴をしています。
人間が出てゆくと慌てて石垣内の巣に戻ります。

洗濯日和

日中の時間が1年で最も長いこの月。
標高1400メートルの山小舎では紫外線の強さも絶大です。