令和7年畑 野菜出荷第三弾

野菜の出荷が本格化しました。
毎週火曜日を出荷日と決め、山小舎おばさんの彩ステーションへ送ります。

トウモロコシ

この日も畑へ向かいました。
前回の出荷日は雨。畑での収穫作業もそうですが、選果、箱詰めなどの作業が雨天下ではできません。
近くの農協のテント下を借りて、野菜を拭き、新聞紙にくるんでから箱詰めしました。

この日は青天、畑も乾燥しています。
キューリは一休みで1本だけの収穫。
ナスが盛んになり、白ナスなど多数を収穫。
トマトも始まりました。

ズッキーニ、ゴーヤ、ルバーブ
ナス
トマト

珍しい所では夕顔、ルバーブなど。
インゲンも出盛りです。

夕顔
インゲン
ピーマン類

今回からは野菜保存用のポリ袋を用意しましたので、種類別にまず袋に収納します。
トマトを一番上に箱詰めしてゆき、袋の間には丸めた新聞紙を緩衝材として詰めます。

上田市丸子地区のクロネコヤマトの集荷場へ行って着払い、午前中着で発送します。

姫木のバイト仲間にも配りましたが、白ナスを焼いて食べると絶品だったそうです。
種のある太いキューリが大好物だという人もいました。

DVD名画劇場 淀長さんベスト121より 「散り行く花」、「ノートルダムのせむし男」、「オペラ座の怪人」

「散り行く花」  1919年  D・W・グリフィス監督  ユナイト

映画の父と呼ばれるグリフィスは、イタリアの「カビリア」(15年)を数十回見て「イントレランス」(17年)を撮った。
そのあとにトーマス・バークの短編を原作に撮ったのが本作である。
主人公の12歳の少女役には、撮影当時23歳になろうとしていたリリアン・ギッシュをキャステイングした。
グリフィスとリリアンの出会いは彼女が16歳の時だった、以来グリフィスは自作に起用し続けた。

リリアン・ギッシュ

グリフィスの美少女好みは今では伝説的で、「国民の創生」で追いつめられて山から身投げする美少女や、「イントレランス」バビロン編の戦車を操る美少女などが今に残るが、現実のグリフィスが常に美少女たちに取り囲まれていたといわれる。

「散り行く花」(原題:イエローマンと少女)を見るときにグリフィスの好みを前提にリリアン・ギッシュの服装、上方、表情、仕草に注目することになる。
彼女はロンドンの貧民窟に、妻に逃げられて残った娘を召使のように虐げる父親と暮らす少女ルーシーを演じる。

帽子からのぞく巻き髪、ショールを肩掛けした貧しいワンピース、うつむき加減に顔をかしげている。
歩くときは猫背加減であきらめたような顔つきで、表情が浮かぶのは、父親の理不尽な折檻におびえるときだけ。

虐待されるルーシー

一方、清朝時代の中国から一人の青年が『野蛮で無秩序な西洋人に心の平和を伝えよう』との夢をもって渡英する。やがて夢破れ、今では貧民窟の雑貨屋に収まっている。
演ずるは白人俳優のリチャード・バーセルメス。
この作品ではほかの重要な中国人役にも白人を配しているし、ちょっとだけ画面に映る黒人役も黒塗りした白人エキストラだったりする。
そういう時代の作品だった。

ルーシーは、スラム街のボクサーの父親から理不尽な扱いを受け続ける。
時としてその描写はサデイステイックである。
これはグリフィスの好みであるのだろうか。
折檻そのものに興味があるのか、耐える美少女が好みなのかはわからないが。

父親の荒れ狂う鞭を逃れてルーシーがイエローマン(中国青年)の店へ迷い込む。
かねてからルーシーを崇拝していたイエローマン(字幕でもこう表記されている)は大切な花のようにルーシーを扱う。

イエローマンに匿われるルーシー

ここで字幕の字体が装飾体になり、大げさな美文調で二人の出会いが綴られる。
ルーシーに中国服を着せ、ベッドに横たわらせ、線香を焚いて仏壇に祈るイエローマン。
彼はルーシーを『ホワイトブロッサム』と呼ぶ。
ルーシーもただうっとり。
「散り行く花」のまさにハイライトシーンだ。

チャイナスタイルのルーシー

グリフィスの美少女趣味が、サデイステックなものだけではなく、美少女に対しプラトニックにかしずく方向性を持っていることがわかる。

この作品でスターダムに乘ったリリアン・ギッシュは、60歳を超えたときの「狩人の夜」(55年 チャールズ・ロートン監督)でも、90歳を超えたときの「八月の鯨」(87年 リンゼイ・アンダーソン監督)でも、良識に溢れたキャラクターを演じ、清純派としての生涯を全うした。

淀長さんベスト121の7番目にランクインした作品。
なお淀長さんは「MyBest37 私をときめかせた女優たち」でリリアン・ギッシュを取りあげている。
サブタイトルは「奇跡の映画。女神」だった。


「ノートルダムのせむし男」  1923年   ウオーレス・ワースリー監督  ユニバーサル

怪奇俳優として一世を風靡したロン・チャニーが、ヴィコトル・ユゴー原作の「ノートルダムのせむし男」のカジモドを演じる。
ノートルダム大聖堂、その建物内部、宮殿の間、中世パリの貧民窟、地下水道などを大セットで再現し、数百人のエキストラに当時の服装をさせ再現した大作。
製作はカール・レムリとアービング・サルバーグだが、実質の製作者は出演を熱望したチャニーその人だったという。

ロン・チャニーのカジモド

まずはノートルダム大聖堂の大セットを生かした撮影に見とれる。
聖堂のバルコニーからはるか下を眺めた広場の大群衆、聖堂の壁を上り下りするカジモドのスリリングな動き。

チャニーのメイクは一目見たら忘れられない。
顔の原型をとどめない、ほほのコブと突き出した右の眼球。
チロチロと舌を突き出す演技と、背を縮めたかのような短い体躯と曲がった脚でひょこひょこ動くのも不気味。

鞭うたれるカジモドに水を恵むエスメラルダ

暴君ルイ11世治世下のパリ。
大聖堂には誠実な執事がいて、その兄の謀略に生きるジュハンがいる。
王の親衛隊長フィーバスや貧民窟の大将クロピンも。
そのクロピンには、さらってきた赤ん坊をジプシーの踊子として育て上げた娘のエスメラルダ(パッツイ・ルース・ミラー)がいる。

死の間際に大聖堂の鐘をつくカジモド

エスメラルダは優しい娘で、公開むち打ちの刑にされたカジモドに水を恵んでやる。
親衛隊長のフィーバスはエスメラルダに一目ぼれして追いかけまわす。
ジュハンは謀略をめぐらし、カジモドを捨て駒のように使い倒すが純粋な心のカジモドはジュハンへの恨みを忘れず、エスメラルダに心を許す。
善人と悪人をはっきり分けるのが文豪ユゴー流なのか。

体制側の腐敗、上流社会出身の武術者の無力、大衆の反乱などが表面的に描かれるが深みはない。
大聖堂に象徴されるキリスト教的正義の維持と主人公のハッピーエンドはハリウッド流価値観によるものだろう。
原作ではエスメラルダが死ぬが、映画では親衛隊長と結ばれる。
どちらも、姿形は醜くとも心は純粋なカジモドは死んでゆくのだが。

淀長ベスト121の20番目。
オリジナルの日本公開タイトルはこの通りだが、DVD版では「ノートルダムの男」となっている。


「オペラ座の怪人」   1925年  ルバート・ジュリアン監督    ユニバーサル

日本公開時のタイトルは「オペラの怪人」。
今回はDVD版のタイトルで紹介する。

「ノートルダムのせむし男」ですさまじいメイクを見せたロン・チャニー主演の怪奇ロマン。
隠れた主役はパリのオペラ座そのものである。

ファントムメイクのロン・チャニー

華やかなオペラ座には伝説がある。
地下の拷問室だったところにはファントムが棲む、と。

音楽の天才で、オペラ座のプリマドンナが気に入らないと、舞台のシャンデリアを落とすなどの妨害をし、近づくスタッフには死をもって応えるファントム。
一方気に入ったプリマがいると、壁越しに歌を教えたりする。
今回のドラマはただ気に入られただけではなく、愛をささげ、またプリマから愛をもって応えることを要求したファントムの物語。

ファントムとクリスチーヌ

導入部、その他大勢のバレリーナたちが集団で右往左往しながら、オペラ座の奈落や地下室でファントムの存在をスタッフに聞いて回る。
可愛いバレリーナの集団に見とれながらドラマに導かれる。

美人プリマのクリスチーヌがファントムに気に入られる。
クリスチーヌの前に仮面をかぶって現れるファントム。
その仮面は、ピーター・ローレにも中国劇の人形にも似た情けない表情なのがかわいい。

仮面舞踏会に現れたファントムの雄姿

ファントムの性格は独善的でわがままでおまけに独占的。
とても女心にアピールするものではなく、20年代の完全に受け身の女性をしても全く受け入れられない。
クリスチーヌにしても脅迫的になされたファントムとの約束を、解放後に即破るくらい一方的なものなのだ。

クリスチーヌの性格付けもこの時代にしては全くの受け身ではなく、その場しのぎの嘘をつきながら、自分の欲望に正直に生きる行動的な女性に描かれている。

ピアノを弾きながらのポーズ。これがファントムのパフォーマンスだ

映画の後半は、驚異的にメカニカルに守られているオペラ座地下のファントムの部屋(基地でもある)における攻防がスペクタクルに描かれる。
頭脳的で、ナルシステイックなファントムのふるまいが凄い。
50年後に「ファントムオブパラダイス」(1974年 ブライアン・デ・パルマ監督)としてオマージュされるほどのハリウッド古典キャラクターのパフォーマンスの原典を見る喜び!

乗りに乗ったロン・チャニー

ロン・チャニーのメイクは、仮面を取ったあとの怪奇派的メイクより、仮面をかぶったままの想定外の不気味さがいい。
怪物におびえる美人の演技をクリスチーヌ役のメアリー・フィルピンが完璧に演じるが、これはのちの怪奇SFドラマにおける美人の恐怖演技の模範となったはず。

ハリウッド第一期タイクーンの一人、カール・レムリ率いるユニバーサルが、トーキーになってヒットさせた、べラ・ルゴシやボリス・カーロフのドラキュラ、フランケンシュタインものの先駆を成す、ユニバーサルホラー作品の古典。

恐怖する美女の決定版、メアリー・フィルピン

軽トラ流れ旅2025 鬼無里街道をゆく(後編)

鬼無里の中心部にやってきました。
人気はありませんが、長野市の支所の建物やカフェなどがあります。

右手に古そうなお寺がありました。
鬼女紅葉の墓所があるという松厳寺です。
広々とした駐車場に唯一軽トラを止め境内を巡ってみます。

松厳寺山門

歌舞伎などの演目にもなったという鬼女紅葉の伝説は、956年に都からこの地に流された紅葉という美人が、都恋しさに生まれた息子ともども軍勢を立ち上げ、鬼となって戦ったが征伐されたというものです。
その紅葉の居所跡と墓所が鬼無里にあるのです。

本堂
本堂内部

松巌寺の立派な本堂を拝みます。
自動ドアで本堂の扉が開くようになっています。
遠慮なく中に入り、お参りさせてもらいます。
広くて立派な本堂には往時の鬼無里の興隆が偲ばれます。
山門の近く、数体のお地蔵さんに守られるように紅葉の墓所がありました。

紅葉の墓所を守るお地蔵様
紅葉の墓所

軽トラを進め、旅の駅鬼無里に入ります。
直売所と食堂が併設された道の駅のような施設です。
直売所に入ると、イチョウ、クワ、カキ、クマササなどの乾燥させた葉が一袋200円で売っていました。
他の直売所の半値で、種類も豊富です。
一袋400円で備長炭も売られています。
買い!です。

鬼無里旅の駅
購入した乾燥葉
購入した備長炭

少し早めですが食堂で昼飯です。
名物の蕎麦を頂きます。
ピーマンの天ぷらが食べ放題です。
蕎麦は二八蕎麦。
有名蕎麦店に比べると、蕎麦そのものの打ち方、ダシの手作り感が今一ですが、鬼無里で食べることの意義あり!です。

二八蕎麦
食べ放題のピーマン

旅の駅の向いに、ふるさと資料館があります。
県外ナンバーの車で賑わう旅の駅と比べ、来館者が誰もいませんでした。

松代藩時代から麻の栽培で栄え、年貢は麻を売った現金で収めたという鬼無里。
物資の流通でも栄え、近代では善光寺平より早く映画館などができたという。
戦後、GHQにより麻の栽培が禁止されてからは、たばこ、養蚕などを振興したという。
また、和算の天才学者などが生まれ育った地域だという。
それらの歴史、文化が展示された広い資料館を存分に堪能。
色々歴史を解説してくれた学芸員のおばさんも頼もしかった。

麻の束
祭の山車

おやきで有名だといういろは堂に寄ってみる。
県外からの客でいっぱいのお店でおやきを買って帰る。
具がたっぷりでおいしかった。

おやきのいろは堂
購入したおやき

鬼無里街道を進み、鬼女紅葉の居住地だったという、内裏屋敷跡へ行ってみる。
草蒸した高台にその場所はあった。
この地域には東京、西京、二条、三条などの地名が残る。
都からの流れ人が住んだ歴史が確かにあるのだろう。

内裏屋敷跡
内裏屋敷跡に立つ供養塔

内裏屋敷の後は、鬼無里の湯で立寄り湯。
鉱泉の沸かし湯だというが質感のあるお湯が楽しめました。

鬼無里の湯

ずいぶん遠くまで来ました。
暑い中、帰るのも大変でしたが、充実した流れ旅でした。

夏の鬼無里街道

軽トラ流れ旅2025 鬼無里街道をゆく(前編)

7月の三連休の中日、猛暑を突いて北信・鬼無里(きなさ)街道へと軽トラを走らせました。

朝8時に出発、朝の涼しさが残っている大門街道を下ります。
塩田平を下って、千曲川沿いに出ます。
坂城町のあたりのコンビニでコーヒーの一服。
コンビニには坂城の夏祭りのポスターが貼ってありました。

「坂城どんどん」のポスター

いつもの上山田温泉街を抜けるとき、両側のお祭りの屋台に出くわしました。
信州では相当規模の大きな屋台の列です。広場には上山田温泉祭の神輿も準備されていました。

上山田温泉には屋台が並ぶ

さらに千曲川左岸を北上し、千曲市の稲荷山地区に来ました。
古い蔵造りの街並みが残っている地区です。
ふと見るとお囃子の声がします。
軽トラを止めて見物することにしました。

稲荷山の祇園祭でしょうか。
獅子舞が出て、山車が出るようです。
山車の最上部には芸者さんのようなきれいどころが二人座り、1階部分にはお稚児さんのような姿も。
山車を引くのは法被を着た男集です。獅子舞の後ろには子供獅子舞もいます。

稲荷山祇園祭?
山車が出発
獅子舞も

お祭りの参加者は大勢いるのですが、見物人はほとんどいません。
炎天下を避けるためか、地区の人々はほとんど参加しいて、見物する人数がそもそも残っていないのか。

20年ほど前、青森の下北半島にある陸奥大湊のねぶたを見たことがありました。
リアカーに乗ったねぶたが練り歩き、家々の前では椅子などを出して見物していますが、見物人よりねぶたの参加者の方が多かったのを思い出しました。

日陰で見物する人

千曲市を過ぎると長野市です。
ルートは長野市の西から市街地へ入ってゆきます。
その前に、篠ノ井の共和選果場へ寄ります。
あらゆる季節の野菜果物が売っている直売所があります。
が、この日は定休日でした、残念。

定休日の共和選果場

長野市街地へ入ります。
信州の都です、雰囲気が県内のほかの町とは違います。
県庁通りを北上して信州大学にぶつかります。
いつもは右折して善行寺方面へ行くのですが今回は左折。
鬼無里、白馬方面へと初めての道へ入ります。

長野市県庁通り

鬼無里街道は、大町街道とほぼ並行して小谷・白馬と長野を結ぶ街道です。
その昔は、糸魚川から小谷を経由した物資を善行寺・松代へと運ぶ街道筋として栄えたそうです。
街道の中ほどにある鬼無里地区では畳糸などの原料としての麻の栽培で栄えたそうです。

鬼無里街道へ入る

長野市街地から鬼無里街道へ入ったとたん、交通量は減り、トンネルと隧道の連続で、深い谷を流れる川を見ながら急坂が続きました。
時々現れる集落は急坂に家々がへばりつくようです。

ダムと集落
ダム湖をのぞく

狭いトンネルをアルピコ交通の大型路線バスが走っています。
走り続けると鬼無里の中心部につきました。(後編につづく)

北アルプスが見えた
鬼無里街道沿いの田圃

DVD名画劇場 淀長さんベスト121より「チート」と早川雪州

KAWADE夢ムック「サヨナラ特集淀川長治」より

1999年河出書房新社刊の淀川長治追悼ムック本が手許にある。
ご本人の生い立ち以来の口絵写真に始まって、双葉十三郎、蓮実重彦/山田宏一との対談、本人エッセイ、講演録、果ては吉行淳之介や北野武との対談までを採録した稀覯本というかマニアックな内容なのだが、目次の一つに「映画百年これだけは見ておきたい私が愛する100本の映画」という項目がある。

表紙

『すべてが貴重品。映画の教科書ばかりですよ…』と銘打ったもので、初出は94年7月号の文芸春秋とのこと。
100本というオーダーに平気で121本出すところも淀長さんの面目躍如。
古今東西の名画が並んだ。

ベスト121の一覧

私など、小学校から中学、高校と「日曜洋画劇場」で、50年代からのハリウッド名画の数々をその独特の解説とともに学ばせていただいた我等が淀長さんご推薦の100本である。

淀長さんこと淀川長治さんは、戦後すぐの時代から「映画の友」の編集者として、映画の解説、紹介の分野で文字通り日本の最先端を歩み続けた人で、来日した映画製作者、監督、スターらへのインタヴューや、2回のハリウッド訪問の記録に接するにつけ、その映画愛、人間愛に感銘を受けざるを得ない。
『私はまだ嫌いな人に会ったことはない』(淀長さんの金言)のだ。

ハリウッド訪問時の淀長さん。セシル・B・デミルと

手許にあるDVDから淀長さんベスト121に選ばれた作品を選んで見た。

「チート」  1915年  セシル・B・デミル監督  パラマウント

淀長さんベスト121の第4位は「チート」(第4位といってもベスト4ということではなく、ベスト121の映画を年代順に並べた4番目ということ)。

古めかしいサイレント映画と思いきや、古臭さよりも映画的活力、先進的技法、早川雪州のギラギラした野心が画面を横溢し、そうしたエネルギーが全く古びていない作品。

コンセプトは、アメリカ現代人の危うさと、その救い。
主人公らは中産階級のアメリカ人夫婦。
夫人の浪費の危機、株取引に依存する夫の危うさが描かれる。
一方、ビルマの象牙王・アラカワという社交界のパトロンがいて、金力と性的魅力で世の婦人たちを狙っている。
そうとも知らずに浪費を続け、赤十字慈善事業の寄付金にまで手を付ける無知で見栄っ張りな夫人。
株価に頼って虚業の世界で生きている夫は妻の浪費の心配以前に、株価が心配だ。

主人公夫婦が覗き見る経済的、貞操的、犯罪的地獄の入り口に口を開けているのが「東の野蛮人」ことアラカワであり、若く、エネルギッシュな早川雪州が演じて、アメリカ人の主人公夫婦役の俳優女優を完全に食っている。

夫人は破滅寸前まで見栄っ張りを貫き、アラカワの毒牙にかかり、焼き鏝を押されてしまう。
貞操だけは守り抜く。
夫は妻の危機を察し、すんでのところで介入、アラカワを射殺した妻の肩代わりとして逮捕される。
裁判でも罪を着ようとする夫だが妻が真実をぶちまけ逆転無罪となる。
アラカワは民衆によるリンチを受けず、法の下の正義によって裁かれる。

物語のベースにあるのは、人種的・文化的偏見であるから、アラカワなる人物は、強欲で悪辣で好色でついでにサデイステイックな存在として描かれており、主人公夫婦のはまった「地獄の入り口」の象徴であり、白人の仲間としての人間ではない。
アラカワと共に登場する日本趣味の小道具、畳・仏像・線香、などは中国文化とごっちゃになった『ハリウッド式東洋趣味』ではなく、正確な日本趣味であるが、それは彼らが日本に興味があるからではなく、早川が導入したのかどうか、いずれにせよ、たまたまのものであろう。
映画の精神は、字幕にも出てくる『東は東、西は西。両者は出会うことはない』なのだから。
排日主義、黄禍論というより、異邦人に関心を持つ精神的、文化論的余裕も想像力もないのであろう、アメリカ社会もハリウッドも。

金融資本主義の危うさ、浪費の危うさ、パーテイに象徴される華美で見栄っ張りな習慣の危うさをピューリタン的精神で批判しつつ、法に基づく正義を謳った作品。
アラカワに象徴される異文化、異邦人はあくまで映画的興味の範囲内だったが、終わってみるとアラカワこと早川雪州しか印象に残らない作品となった。

わかりやすくテンポの良いスジ運び。
シルエットを生かした絵づくりなどデミルの演出は的確だった。

有名な、アラカワによる白人女性への焼き鏝あてのシーンは、本筋に怪しくグロテスクに彩を添える、デミル的な効果を狙ったもので、その俗物的な狙いは十分に効果を発揮した。
むしろ効果を発揮しすぎて、観客の特に女性は、雪州のぞくぞくするセックスアピールとしてとらえたようだった。

いずれにせよ、雪州の存在は、ルドルフ・ヴァレンチノのように異人種の怪しい性的な魅力の象徴だったようだ。
ヴァレンチノがアラブ人に扮し、白人娘と結ばれぬ恋に落ちたサイレント映画でも、二人の結ばれぬ愛について『東は東、西は西』と字幕が出ていた。(当時はアラブ人は、アジア人同様に『東』の存在だった)。

(おまけ)「人間の記録87 早川雪州 武者修行世界を行く」1999年 日本図書センター刊より

手許に「チート」の主演、早川雪州の自伝があるので読んでみた。
思っていたより数十倍面白い。

表紙

明治23年に房総半島の海岸部の村に代々村長をつとめた家に生まれ、海軍兵学校を目指すが耳の炎症で不合格に、それならばと渡米してシカゴ大学で法律を学び始める。
父親の死去に伴い帰国しようとロサンゼルスに向かうが、その時にたまたま入った日本人向けの芝居小屋でひらめき、徳富蘆花の「不如帰」を脚色して自ら主演、これが評判になる。

芝居に目覚め、アメリカ人向けに「タイフーン」という芝居を打ったところ、ニューヨークの映画会社社長トーマス・インクの目に留まり映画化。
「タイフーン」はパラマウントが配給しヒット、同社(正確にはトーマス・インクのプロダクション)と4年の契約を結ぶ。
パラマウント時代の代表作は「チート」のほか、メキシコで撮影した「ジャガーの爪」(17年)など。

パラマウントとの契約終了後は独立プロを作って映画製作をしたが、排日のアメリカからフランスに渡り、戦中戦後はパリで過ごした。
その後はアメリカ、日本を往復し、舞台、映画で活躍した。

目次

雪州の自伝が面白いのは海外に渡ってからのエピソードの破天荒さだ。
渡米第一夜のサンフランシスコで地元のチンピラに絡まれ柔道技で撃退したり、俳優として売れてからは、たかってくるチンピラたちを恐れずにふるまったりのエピソードがつづられる。
まさに大正期に世界を股にかけて探検したり、無銭旅行をした幾多の同輩たちの痛快な旅行記を読んでいるかのような気持ちにさせてくれる。
この時代に世界に打って出た日本人青年の、無鉄砲さ、開き直り、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、の精神が脈々と波打っている。
そういう時代だったのだ。

ハリウッド時代には禁酒法もものかわ、自宅の豪邸で何百人も招待しての乱痴気騒ぎをした記述もある。
また、スター周辺には「金堀リ女」と呼ばれるものがいて因縁をつけて結婚を迫ることも。
チャップリンやミッキー・ルーニーが何度も結婚するのはそういった女に引っかかったから、とか。
独立プロで「赤い鉛筆」を撮影したときには、合同で製作した会社の社長が200万ドルの生命保険を雪州にかけ、セットの事故を装って殺されそうになったことも。
本当かどうかはともかく、ハリウッドらしい、浮世離れしたエピソード。
危機一髪で切り抜ける雪州の、大正時代の日本男児的面目躍如ぶりも素晴らしい。

雪州と妻

「戦場にかける橋」(57年 デヴィッド・リーン監督)では3か月間セイロンでロケし、男ばかりで女っ気が全くなく、現地の女性らを招待するがやってきたのは子供ばかり。
スタッフらがノイローゼになり自費で奥さんらを呼び寄せた話。

「緑の館」(59年 メル・ファーラー監督)ではアマゾンの酋長を演じ4週間の現地ロケ。
もう少しでクランクアップというある日、着物を着、扇子を開いて日本娘に扮したオードリー・ヘプバーンがキャデラックで慰問にやってきた話。
やはり映画関係の話が面白い。

後半には仏教と禅に傾倒し、精神と肉体の関連を話したり、俳優の相談に乗ったりした話が出てくる。
そういえば国際的に売れた後の大島渚が雪州を素材にして「ハリウッド・ゼン」という映画を企画していたことを思い出す。
もっとも主役は坂本龍一かジョン・ローンだったろうから、全盛期の雪州の妖気と色気の再現は無理だったろう。

令和7年畑 ルバーブ、パクチー採種

畑の作物から久しぶりに採種をしました。
採種したのは、ルバーブとパクチーです。

ルバーブは去年植えた苗が年を越してトウ立し、種ができました。
トウが枯れてきたので採種しておきました。

ルバーブの種を畑から持ち帰る

パクチーは数年以上も前に蒔いたものが毎年、自然発芽してきますが、そのうち早々に花が咲き、種を結んで枯れてきたものから採種しておきました。

持ち帰ったパクチーの種

そのまま山小舎に持ち帰ってきました。
時間がある時に種を取り出しました。

種だけをより分けます。
チャック付きビーニーるの小袋に日付と名前を書いて来年まで保存します。

DVD名画劇場 メリナ・メルクーリ「日曜はダメよ」

メルクーリとダッシン

メリナ・メルクーリはギリシャに政治家一家の娘として生まれ、舞台女優のキャリアを積んでいたが、アメリカ人監督のジュールス・ダッシンと知り合い恋に落ちる。
二人とも既婚者で、ダッシンには子供もいた。

ニューヨークにユダヤ人移民の子として生まれたダッシンは、映画監督として「真昼の暴動」(47年)、「裸の町」(48年)などドキュメンタリータッチの作風で売り出していたが、マッカーシズムの犠牲者としてヨーロッパに亡命的な移住を余儀なくされていた。
数年のブランクを経て、フランスで「男の争い」(55年)を撮り、カンヌ映画祭で監督賞を受賞した。
メルクーリと出会ったのはそのころだった。

メルクーリとダッシン

意気投合した二人は「宿命」(57年)、「掟」(58年)を独立プロデユーサーと組んで作り上げた。
のちに「日曜はダメよ」の原案となるアイデアをダッシンが思いつき、ユナイトのヨーロッパ支社長に出資と配給を取りつけてできたのが本作である。

ダッシンは(「日曜はダメよ」について)語る。
『他人に自分の考えをそっくり押し付けようとする男の話』
『万事うまく行っているところにずかずか入ってゆき、何でもかんでも捻じ曲げてしまう男なんだ。その彼が一人の女に出会う。彼女はギリシャ人で、男はアメリカ人だ』
『悪い奴じゃない。ただ危険なほどナイーブなんだ。ボーイスカウト、つまりとてつもなく単純なんだ。彼女はとても幸せで、彼にはそれが我慢ならない。彼女が幸せなはずはないと思っているんだ』。
(メリナ・メルクーリ著「ギリシャわが愛」1975年合同出版社刊P177、178より)。

ギリシャのピレウス港を舞台にした物語はこうして始まった。

メリナ・メルクーリ著「ギリシャわが愛」1975年合同出版社刊
同・目次

「日曜はダメよ」  1960年  ジュールス・ダッシン監督  ギリシャ

ピレウスの娼婦イリアを演じるメリナ・メルクーリ。
目が大きく、スタイルがよく、自分の魅力がわかっている。
育ちの良さが隠せない、生まれながらのヒロイン。
たばこの吸いすぎとウーゾ(ギリシャのスピリッツ)の飲みすぎで声がガラガラ。

ダッシンの演技は、ニューヨーク時代にイディッシュ語の舞台で鍛えた歩き方が、踊るようだ。
アメリカ人らしい直情的な反射神経もある。
ただし、常に尖っていて「文明人」らしい余裕はない。

イリアとホーマー

ダッシン扮するアメリカ人哲学者ホーマーが体験するギリシャは、例えばブーズーキという弦楽器の演奏が流れるタベルナ(酒場)では、ウーゾ以外のものを注文されるのを嫌がり、興が乗ってくるとおっさんがソロで踊り出す。
そのおっさんは踊りに拍手されると侮辱されたと感じる。
なぜならソロの踊りは全く自分のためだけの踊りだからだ。

タベルナではウーゾのグラスを空けると、グラスを床でたたき割る。
ホーマーがアメリカで流行っている精神分析をひけらかし、ギリシャ人に「(その気持ちは)母への憎しみが潜在的にあることが原因だ」などと言おうものなら、「母親は聖母だ!」と反論と反撃のパンチを浴びる。

ホーマーはギリシャの習慣と精神にいちいちびっくりし、大げさな反応を示すが、映画は勝手にアメリカ文化(精神分析、アンチアルコール、キリスト教原理主義的な倫理観、科学信仰、西欧文化への偏重など)を押し付けるホーマーの場違い感を強調する。

イリアを中心に、美しいものを愛で、義務感よりも楽しみを生きがいとするピレウスの港町で働く男たちは、時として、イリアをヒロインとしたミュージカルのバックダンサー兼コーラスの如く描かれる。
その幸福感は、見ているものが「実際のギリシャ社会はそんなものじゃないだろう」と、醒める思いをするほど予定調和的に美化されてもいる。
それらの予定調和感は、ダッシンがそこまで深くギリシャを理解していないことの表れだろうし、また敢えてギリシャ社会の現実をそこまで深く描こうとしなかったからでもあろう。

この作品にとってのギリシャは、イリアという娼婦に象徴されている。
それはとてつもなく魅力的で困惑的ながら、誇り高く、それでいて恐ろしく無知で、直感的で、『進歩性』のないギリシャそのものである。

彼女はギリシャ悲劇を円形劇場で観劇して、涙を流しまた爆笑するが、その悲劇的結末を自分流に解釈するのだ。
「主人公たちは和解して海岸へ行く』と。
これがホーマーには理解できない、最後まで。
そしてピレウスの港に軍艦がやって来ると矢も楯もなくワクワクし水兵たちを迎えに駆け出したくなるのだ。
彼女を「教化」しようと散々試みたホーマーを軽く裏切って。

イリアと愛する男

ダッシンの脚本は、おせっかいなアメリカ人のギリシャ文化への出会いと、相互無理解と、アメリカ人による「教化」の失敗を描きつつ、ギリシャ文化への愛着は、深い理解は保留しつつも、メルクーリの太陽のような存在に託して思いっきり打ち出している。

メルクーリが登場する部分は、ほぼ彼女の自由にさせている。
たびたび登場する、タベルナでのブーズーキのメロデイ。
男たちはイリアを中心に嬉しそうだ。
そして日曜日はイリアの自宅で(日曜はイリアの休業日)男たちが集まり、イリアを賛美する。

ユナイト配給のハリウッド資本映画乍ら、ギリシャ語が飛び交い、ホーマーの英語はイリアが通訳する。
ホーマーのイリアへの「教化」は失敗するが、「アメリカの失敗とギリシャの勝利」と単純には描いていない。
船でギリシャを去るホーマーを見送りに、イリアを中心にピレウスの男たちが船上でじゃれ合う姿に、いつまでも変わらぬギリシャへの憧憬にも似た肯定感があふれているのだった。

メルクーリが劇中で「プレイバック撮影」(セットに流す音楽に合わせて歌い、演技する撮影方法)で歌う主題歌は世界でヒットし、今ではポピュラー。
彼女はカンヌ映画祭で最優秀女優賞を獲得した。

(おまけ)作品の舞台ピレウスとギリシャについての思い

ピレウスはギリシャ一の港で、諸外国からの航路やエーゲ海の島々への航路の窓口となっている。
1981年に、エジプトからイタリア船に乗ってついたところがピレウスでした。
夜中についたので、港の施設のベンチで夜を明かしました。

ピレウスからアテネまでは近代的な地下鉄が通じており30分ほどで着いた記憶があります。
地下鉄の座席に親子の乞食(子供は眼を患っていた)がいたことも。

アテネのシンタグマ広場で各国からのバックパッカーとともに雑魚寝の野宿をして、日本大使館で日本からの手紙を受け取り、パルテノン神殿などを見た後、ギリシャの島でも一つくらい見ておこうかと再びピレウスを訪れました。

確かイドラ島というところへ行ったのですが、青函連絡船くらいの大きなフェリーの甲板で半日くらい過ごしました。
たまたま日本の貨物船とすれ違い、気が付くと貨物船の日章旗に手を振っていました。
着いた島はビーチが白人観光客の巣のようになっており、彼等は何もせずじーっと日に当たり続けているのでした。

ギリシャの旅を終え、ヒッチハイクでヨーロッパを北上したのですが、ギリシャでヒッチハイクするのは一苦労でした。
アテネから車列は続くのですが止まってくれる車はないのです。
折から旅仲間となったユーゴスラビア人とヒッチハイクを試みたのですが、夜になり、地元の食堂に入った後、そこら辺の藪の中で野宿したこともありました。
ようやくつかまった車はドイツからギリシャに来た若者が帰る途中のバンでした。

2025 山小舎来客第三弾!

今年の山小舎は来客の当たり年です。
先月来客した二組は初の山小舎来訪でしたが、この度の一団は三回目の常連客です。

一団は、山小舎おばさんの活動の本拠地、調布柴崎の彩ステーションのサポーターたちです。
山小舎では彩ガールズとか彩レデイースと呼んでいます。

颯爽と到着した一行

平均年齢は70代中盤を過ぎてはいるものの、彩ステーションの日ごろの活動にボランテイアで参加し、頼もしく手助けしていただいてます。
特に料理が得意で、韓国にキムチ漬けを習いに行ったこともあるYさんと、彩ではYさんのフォロー役ながら自らは山歩きが趣味で、かつて糸魚川から静岡まで「塩の道」を踏破したこともあるというOさんは強力なメンバーです。

寝部屋には布団を準備
座布団を日に当てておく

山小舎おばさんの運転でやってきた一行は、八ヶ岳エコーライン沿いの蕎麦屋でランチの後、八ヶ岳実践農業大学で景色を愛でながらソフトクリーム。
さらに山麓のハーブ専門店や、富士見高原リゾート内のパン屋などで買い物。
茅野市郊外の縄文の湯で汗を流して山小舎に夕方到着しました。

山小舎での歓迎準備は、前日までの買い出し、仕込みから始まります。
前日中にはサイドデイッシュの豚角煮中華風の下茹で、あんみつ用の小豆の浸水をしておきました。
炭火焼き用食材の仕込み(カット、くし刺しなど)、サラダ用野菜の水洗い、小豆をあんこに煮るなど、は当日の朝からの仕事です。
畑に行って新鮮な野菜を収穫しようとも思いましたが暑いのでそれは中止。
到着の1時間前には炭おこしと、ストーブの上での焼き芋を始めます。

畑のインゲンの胡麻和えと焼き芋
糠漬け
焼き物メニュー

2日間煮込んだ豚角煮を器によそい、肉以外の焼き物(トウモロコシ、シイタケ、ズッキーニ、アスパラなど)をザルに用意します。
サラダの材料の水を切って、ゆで卵を作り、キューリを塩もみ、ビーツのピクルスの瓶を開けておきます。
糠漬けを出して切っておきます。

ビーツのピクルス入りレタスサラダ
塩にぎり
豚角煮と串焼き

5時頃到着したレデイースは旅の疲れと胃の疲れもものかわ。
席に着くなり、豚角煮をとりわけはじめ、飲み物で乾杯し始めました。
これにはうれしい誤算の山小舎おじさん。
負けじと乾杯に参加し、それからは一瀉千里の炭火焼き大会です。

レバーから炭火焼き開始

山小舎の天然のクーラーのようなきれいな空気の中、レデイースの食欲はいや増すばかり。
特にアルプス牛サーロイン薄切り(30%オフ)を大鹿村の山塩で焼いたものは大好評でした。

「サラダのトマトが美味しい」とか「山塩はマイルド」とか「サラダのビーツは土臭くない」とか「鶏レバーが大きい」とか、ワイワイしゃべりながら、リアクションが飛び交いました。
準備した側としてはうれしい反応です。

来年の山小舎での再会を期しながら、一泊の来訪を終えた彩レデイース一行でした。

帰った後は寝具の洗濯

軽トラ流れ旅2025 「中央構造線」上を行く 大鹿村に山塩を求めて

農村歌舞伎と山塩で有名な大鹿村に行ってきました。

大鹿村は、伊那谷と南アルプスの間を走る国道152号線・秋葉街道沿いにある村です。
山間にある大鹿村に通じているのは、南北に走る秋葉街道と、伊那谷の松川町から山を越える道が2本あるだけです。

山小舎から大鹿村を目指すには、いつもの杖突街道で高遠へ出て、秋葉街道を南下します。
秋葉街道の途中には長谷村、分杭峠があります。
九州から東西に列島を横断し、諏訪湖へと続く中央構造線上にある分杭峠は、「ゼロ磁場」としてスピリチュアルな名所となっています。

軽トラ流れ旅では、まず恒例の杖突峠を越えて、高遠に行きました。
そこの直売所をのぞき、タマリーという液肥を買い求めます。
この液肥は野菜の根の張りに効果的なのです。
まお。この日はお米の入荷はないとのことでした。

高遠から国道152号線・秋葉街道を南下します。
まもなく道の駅・南アルプスむら長谷が見えてきます。
なおも進むと右手に巨大な美和湖というダム湖が見え隠れします。
交通量は少なくなります。
左手には広々とした河川敷が広がり、採石場などが建っています。
このあたりでは砕石採砂が許されているのか、または河川工事の最中なのか。

交通量のほとんどない山道を登ってゆくと、伊那谷の駒ケ根への分岐点の中沢峠を越え、いよいよ分杭峠です。

分杭峠が近づくにつれ関連商法の店が出てくる
磁場ゼロを売り物にしたショップ

ゼロ磁場ということで全国から「気」による癒しを求めるファンを集める分杭峠。
駐車場がないので、長谷村からのシャトルバスがシーズン中は運行しているとのこと。
狭い秋葉街道沿いの分杭峠を越えるとそこは大鹿村の領域です。

分杭峠
大鹿村へ入る

中央構造線沿いのこのあたりには、地層の断絶が露呈した「露頭」があちこちにあります。
分杭峠近くにも北川露頭という場所がありました。

北川露頭

案内板

北川露頭を見て街道を下ってゆきます。
何となく集落になってきたなと思うと大鹿村の中心部です。
まずは山塩を求めて、「塩の里」によってみます。
道の駅のように、直売所と食堂が併設している施設です。

露頭近くの神社
神社近くの廃屋

人気のない塩の里でしたが、山塩は売っていました。
山塩とは岩塩でも、昔海だった場所で採れる塩でもなく、中央構造線の岩盤の間に流れ込む海水が温泉と混じって噴出したものを煮詰めて作ったものだそうです。

塩の里
これが山塩だ

直売所ではそのほかに蕎麦の乾麺と味噌を買いました。
近くの山塩館という温泉は立寄り湯はしていないとのことで、食事をすべく道の駅・歌舞伎の里大鹿を目指しますが、その前に春の歌舞伎が行われる神社と、中央構造線博物館を見ることにしました。

映画「大鹿村騒動記」の舞台にになった食堂
春の大鹿歌舞伎が行われる神社境内

大鹿村の郷土博物館・ろくべん館と中央構造線博物館は隣接しています。
ろくべん館は入場無料。
ここの展示を見て知ったのですが、大鹿村は昭和36年に村の中央部を流れる川の氾濫と、大西山の山崩れで多数の死者を出す大災害に見舞われていたのです。
ろくべん館から程近くの一部が露呈した山は大西山だったのです。

その当時のニュース映像などを見るにつけ、山間の災害の大変さが痛感されます。
大西山の山崩れは、中央構造線に構造的原因があり、そこに大雨で地盤が緩んだためとのことでした。
今に続く、河川工事のダンプの列や川沿いの砂利、砂の山々は60年前の自然災害の復旧ですが、根本的には中央構造線上の村の宿命のように見えました。

ろくべん館の展示内容より
大鹿歌舞伎の展示
かつての基幹産業、林業の展示..
中央構造線博物館、石・石・石の展示内容
博物館から望む大西山の山崩れ跡

道の駅で昼食です。
どれもボリューミーで魅力的なメニューですが、蕎麦とカツ煮のセットにしました。
田舎の食堂のお約束はご飯の盛がいいことと、腹いっぱいのボリューム感です。
お腹も気持ちも満足です。

道の駅
道の駅の食堂メニュー
カツ煮定食そばセット。1100円

直売所を一回りして、山塩ジェラードブルーベリー乗せをデザートに食べて大鹿村を後にしました。

DVD名画劇場 イタリア映画前史 「カビリア」

サイレント時代のイタリア映画

「世界の映画作家32秋の号 イギリス映画史・イタリア映画史」(1976年 キネマ旬報社刊)の「イタリア映画史(吉村信次郎編)1・チネマトグラフォ誕生~4・イタリア史劇の黄金時代」までを読んで、サイレント時代までのイタリア映画史のトピックをまとめてみた。

・映画の始まりは、フランスのリュミエール兄弟が特許を取り、観衆の前で上映したシネマトグラフからだといわれている。
シネマトグラフはイタリアにも輸入され、見世物「チネマトグラフィ」として大いに観客を集めた。

・1905年にトリノにイタリア初の映画スタジオが完成。
「ローマの占領」という劇映画が発表される。
当時トリノはイタリア映画界の中心で、12館のチネマトグラフィ上映館があったという。
また、大衆に人気のある文豪ガブリエル・ダンヌンツイオの映画への参加により、映画の一般化、社会化が進んだ。

・1908年に発表された「ポンペイ最後の日」は、イタリア国内のみならず海外でも成功し、イタリア映画を名実ともに飛躍させた。
これまでチネマトグラフィの題材は、実写が多かったものの、歴史上の人物を主人公とした劇映画の製作は、その後のイタリア映画の題材となった。
史劇はイタリア統一運動を経たイタリア人のナショナリズムをくすぐる題材であり、またイタリア映画の特色として世界に認識された。

・1911年にトリノで開かれた万国博覧会は、フィアットと並ぶ世界的産業となったイタリア映画のお披露目ともなった。
1912年には上映時間2時間、製作費2万リラの超大作「クオバデイス」が製作された。
サイレント時代の最大のヒット作となる「カビリア」が製作されたのはその2年後となる。

「世界の映画作家32 イタリア映画史」に目を通すと、チネマトグラフィの時代からイタリアでは映画が盛んで、一時は国内の映画撮影所が、フランス、ドイツやハリウッドの撮影所の手本となったことや、史劇映画が世界各国で定評を得ていたことが分かる。
その土壌の上に、ネオレアリスモや、ヴィスコンテイ、フェリーニ、ベルトルッチらの華々しい芸術が生まれ、またマカロニウエスタンやモンド映画、ホラー映画などが毒々しく花を咲かせたことがわかる。

「カビリア」   1914年   ジョヴァンニ・パストローネ監督  イタリア

製作者兼監督のパストローネは、これまでの総ての映画を凌駕するような超大作を1912年に企画。
自らもルーブル美術館のカルタゴ展示室をはじめとした多くの博物館や文献を参考に時代を考証。
出演者の選定では、重要な黒人奴隷のマチステ役に素人の港湾労働者を選び、数か月にわたってカメラ慣れさせた。
また、原作者に文豪ガブリエレ・ダンヌンツイオの名を借り作品の知名度アップを狙った。

カルタゴの神殿の大セット

紀元前のローマ対カルタゴの戦争を題材に、エトナ火山の噴火、ハンニバル軍のアルプス越え、シラクサ港のローマ軍艦の炎上、など大スペクタクルをちりばめた作品で、製作費5万リラ、製作期間1年、上映時間2時間の当時としては破格の大作となった。

アルプス、チュニジア、シチリアなどでロケを敢行。
ミニチュア撮影、移動車やクレーンを使った撮影などの新機軸を活用し効果を上げた。

王宮のセット。象の彫刻は「イントレランス」のバビロンの神殿のセットに影響を与えたか?

紀元前の戦い、特に相手の城壁を攻略する武器には、梯子段、櫓(滑車で移動できる高さ数メートルの木造の櫓。兵士が乗って城壁を攻撃しまた城壁を越えるための兵器)、投石器などが数々の映画で再現されている。

「カビリア」では梯子段と投石器が見られて、ハリウッド映画の「イントレランス」(16年 D・W・グリフィス)、「十字軍」(39年 セシル・B・デミル)で見られた櫓は出てこなかった。
また、「カビリア」では、兵士たちが自らの体と盾を使って組体操のように積み上がり、上段に登った兵士が城壁を越えるという場面があった。
城壁攻略としては、地味で原始的な方法で、ハリウッド映画などでは見られないものだったが、当時の再現としてリアルだった。

また、ハンニバルのアルプス越えの場面では、アルプスに何百人のエキストラを使ってロケし、歴史的場面が再現されている。
象も使われており、史実の再現が忠実になされている。
動物の使用では、宮殿で姫が豹やハトをペットにしている場面がみられる。
ハリウッドの歴史スペクタクルでも豹などの使用がみられるが、これも史実なのであろう。

豹をペットにする王族

物語の狂言回し的な役割がローマのファビオとマチステのコンビで、敵対するカルタゴをかく乱し、ヒロイン(というかイタリアを象徴する女神的存在)のカビリアをカルタゴの邪宗や奴隷の危機から救うのだが、のちのヴィクター・マチュアのようなマッチョ型史劇俳優の出発点のようなマチステが印象的だ。
のちにマチステ主演のシリーズが作られたという。

マチステは黒人の設定だが、カルタゴなどの宮殿で姫に使える女官には黒人の設定が見られる。
ヨーロッパにも黒人奴隷の歴史があったということなのだろう。
今のヨーロッパに、近年の黒人移民は多数いるが、紀元前からの黒人奴隷の痕跡はあるのだろうか?
中世にはキリスト教勢力による日本人奴隷のヨーロッパ導入もあったが、その人種的痕跡はほぼ見られないことから、近年に至るまで厳然たる人種的隔離があったのだろうか。

マチステのマッチョぶりはのちの史劇にも影響したか?

映画技法的には固定カメラの前で俳優が芝居する方法によってはいるが、何か所かカメラがゆっくり移動する場面があった。
この臨場感が増す撮影手法はパストローネ監督が始めたものだという。

また、カルタゴ軍から隠れているファビオとマチステを、宿屋の主人が密告する場面では、画面の奥でバックライトによりシルエットとなっている人物たちが、だんだん手前にやって来るに従い、ライトが当たってやり取りがあらわになるまでをワンカットで表現していた。
これなどは近年においても活用される手法であるが、この時代のサイレント映画で鮮やかに表現されていた。

D・W・グリフィスは「カビリア」のプリントを1本買って何十回と見て、のちの「イントレランス」のヒントとしたといわれる。
「イントレランス」の巨大なバビロン神殿のセット、何百人ものエキストラ、激しい城壁攻略場面などでは「カビリア」の影響というか、スケールをアップさせたその再現が見られる。

両者の間の決定的な違いは、「イントレランス」に宗教的、文化的背景からくる強迫観念的ともいうべき緊張感が途切れないのに対し、「カビリア」では南欧的風土に根差した、おおらかさ、明るさがあることだ。
「イントレランス」における隠れたテーマがグリフィス自身の『狂気』だとしたら、「カビリア」におけるそれは、パストローネの野心としての『歴史的大作の製作』なのだから、それでいいのだが。

もう一人のヒロイン・ソフォニスバを演じる女優イタリア・マンツイニ(左)

ミニチュア撮影による噴火や軍艦炎上の再現、砂漠やアルプスでの大掛かりなロケ、大セットによる宮殿や神殿の再現によるスペクタクル効果は、「イントレランス」出現までは当代随一だったと思われる。
加えて主人公コンビの凸凹ぶり、ヒロイン・カビリアの清順さ、など配役と演技面の面白さ。
カルタゴに対するローマの勝利を描きながらも、イタリアの歴史感を押し付けないおおらかで平明なトーン。
イタリア映画の特色が表れた歴史的サイレント大作だった。