彩ステーションで「春の落語会」

三寒四温の間を縫って、みんなの居場所・調布柴崎の彩ステーションで落語会が開かれました。
POCO&POCOの会の後藤さんが主宰して、山小舎おばさんの彩ステーションが協賛する催しです

落語会の案内ポスター

出演は金原亭小馬生というプロの落語家、入門25年目という真打です。
彩ステーションの関係者のつながりで出演いただき始めて5回目。
1席10万円の芸人が、満席30人ほどの民家に「投げ銭」方式でやってきてくれます。

孫たちも聞きに来るというので、山小舎おじさんも出かけてみました。
開始前、彩ステーションのたたきに並べられた椅子は満席です。
いつものレギュラー陣に加えて新しい顔も見えます。

開始を待って集まる人々

即席の高座に小馬生師匠が上がって落語が始まりました。
このような席でも本式の着物に着替えて、直前には食事をしないように調整して上がってくれます。

まずは古典落語の「泥棒と妾の騙し合い」の話を演じてくれました。
話の終盤、孫の小学校一年生が退屈そうにしたのを見て、高座から『つまらない?』と聞く場面も。
いつもは休憩なしで次の話へ行くところを休憩をはさむこととなりました。

休憩中は孫たちは畳の上で遊んだりして気分転換。
高座も子供向けに、タヌキの声色や食べ物、飲み物の演技を取り入れたわかりやすいものになりました。
4年生の孫は集中して聞いていました。

小馬生師匠が高座に上がる

終演後、師匠を囲んでサポーターたちと懇談。
私服に着替えるとやはりプロの落語家、素人離れした雰囲気となります。
修業時代のことなどをうかがいました。『楽屋ではえらい順番に座る位置が変わる。』『師匠によってお茶の好みが違うので弟子はそれに合わせて淹れる。』『弟子時代は自由な時間や使えるお金はほとんどなかった』などを話してくれました。
まんべんなく周りに気を使い、相手にいやな気を全く感じさせないところにもプロを感じます。

近所の方が、よかったらと女ものの着物を3着ほど持ってきていました。
師匠はそれらを広げて試着しつつ『黄八丈だな』とか言ってました。
いいものをくれたようですが、それがわかる師匠もプロです。
喜んでもらってゆきました。

色紙を書いてくれた

『次回はどうしましょうか。夏に浴衣でやりましょうか?』と言いながら次の場所へ向かってゆきました。
彩での高座もやる気満々のようでした。

ちなみに本日の投げ銭は4万円。
大人は一人1000円、子供500円が標準ですが、「投げ銭」なので基本的には観客各々の「お気持ち」が集まった結果です。

ラピュタ阿佐ヶ谷「東映現代劇の名手 村山新治を再発見」より 中原ひとみを「再々発見」

中原ひとみ

1936年東京生まれ。
東映第一期ニューフェース。
同期に南原宏治ら。
54年「魚河岸の石松 女海賊と戦う」でデヴュー。

55年、独立プロ作品「姉妹」に参加。
監督は松竹をレッドパージされた家城巳代治、共演は大映の野添ひとみ。
映画出演7本目にしての初期代表作となり、以降家城作品の常連となった。

「姉妹」

50年代後半は東映東京撮影所の現代劇を中心に出演。
57年には今井正監督の「米」、「純愛物語」に参加、後者はベルリン映画祭の銀熊賞を受賞する。

「純愛物語」

60年代にかけて東映東京のほか、東映京都の時代劇にも出演し、東映の看板女優となるも63年からは活躍の場をテレビに移し現在に至る。

中原ひとみと筆者との出会いは、学生時代に16ミリ版で見た「純愛物語」。
ストーリーは被爆者の若い女性がボーイフレンドとの愛をはぐくむというロマンスと悲劇だが、今井監督の粘りが妥協のないドラマとなっていて、画面に見入った記憶がある。

そして後年になって見た「姉妹」。
懐かしいい昭和の地方風景の中、貧しくも活発に生きる庶民の姿が活写された中で、家城監督の意を体現したかのように中原ひとみが生き生きと躍動していてファンになった。

その後見たのは、「おしどり駕籠」という、マキノ雅弘監督による京都撮影所の時代劇。
錦之助とひばりの脇で、射的屋の看板娘の一人として、数人で踊りながら登場するマキノ映画ならではのシーンが印象に残る。

今次の「東映現代劇の名手 村山新治を再発見」特集では、彼女の現代劇が見られる。
ホームグラウンドだった東京撮影所のプログラムピクチャーから、中原ひとみを再々発見してみよう。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集「東映現代劇の名手 村山新治を再発見」のパンフ表紙

「消えた密航船」  1960年  村山新治監督   東映

東映ニューフェース第二期の今井健二(当時は俊二。同期に高倉健、丘さとみ)の数少ない主演作品。
しかも善玉役。
与太者上がりの主人公の設定だからか、表情にゆがみが出始め、暗く鋭い目つきなど、役者人生の大半を悪役として生きることになる下地が垣間見える。

そのガールフレンド役として夜の仙台駅(の設定)で登場する中原ひとみの輝きに比べて今井の存在の暗いこと。
映画の後半まで、今井の正体も、悪か善かもわからない。
中原が味方だから善玉なのだろうけど。

出だしの遭難船らのSOSの信号音を背景にスーパーインポーズが画面に流れる場面。
セミドキュメンタリー風の出だしに、B級サスペンスの緊張感がみなぎる。
悪くない。

親友の不審な死(遭難死を装った殺人?)に疑問を抱き、「知床」の町を訪れ、繁華街で聞き込みを始める今井。
劇中「知床」なる駅や港、駅前の実写風景が出てくるが、これらは清水(現静岡市)でのロケとのこと。

バーでの聞き込み場面。
訳ありのマダム(久保菜穂子)から情報を聞き出そうとする今井の芝居が気になった。
相手がしゃべる時の相槌の仕方や、一瞬の間は、素人劇のようではないか!
これでは今井健二、芝居が下手だから顔のゆがみと目つきの悪さで悪役として生き残るしかなかった、という結論でいいのか?
アクションシーンでの動きはまあまあだったが。

村山新治監督の持ち味は、最果ての港町の闇をドキュメンタルに再現すること。
柄の悪い無名俳優を今井を尾行するチンピラ役に起用して闇のムードを醸し出してはいたが、重要な役に東野栄次郎や岡田英次らお馴染みの顔が出てくるとその緊張感が緩む。
折角の久保菜穂子も役不足(役の方が軽すぎる)。

圧倒的光量で輝く中原ひとみは、全くこの作品に似合わなず、すでにアイドル的存在を越える演技力と存在感を発していた彼女にとって、これも全くの役不足だった。
彼女の女優としての実像が、ドラマの虚像をどうしょうもなく上回っていた。

中原が、この怪しい映画でいかにピンチに陥ろうとも危機感が醸し出ないのは困った反面、彼女のファンとしては安心して見ていられた。
今井健二ではすでに当時の中原ひとみには役不足(今井の方が軽い)だった。

「白い粉の恐怖」  1960年  村山新治監督  東映

「警視庁物語」シリーズの村山監督だったら、東京の町を俯瞰でとらえたであろうか、映画の冒頭シーンは静物画のようなケシの花のアップ。
その画面に林光のモダンで怪しげな音楽が被ってタイトルロール。
監督らしいガチャガチャしたスピード感のあるシーンではなく、警察とタイアップしたまるで反麻薬の啓蒙映画のような出だし。

作品の結論は、『麻薬に手を出したら身を亡ぼす』だから、奇をてらわずに、地味な正攻法でそのテーマと取り組むのは、まじめな村山監督らしい。

村山監督とは59年の「七つの弾丸」以来コンビの続く三国連太郎が厚生省麻薬取締官を演じ、まるで腕利きの刑事のように新宿の最深部で売人やその元締めのヤクザ、さらにはヤクザの幹部とまで渡り合う。
その身を粉にしたおとり捜査、情報収集、犯行現場での取り締まりなどがキビキビと描かれる。

当時の取り締まりは、幌付の小型トラックで現場付近に待機し一斉に立ち入っていたのだから牧歌的だったのではないか。
売人たちは取締官を「ダンナ」と呼び決して手出しはしない。
売人とヤクザはブツを巧妙に隠すし、取引では少しでも不信なことがあると撤収するなど用心深い。

クスリの使用者は決して一般人などではなく、例えば新宿などの盛り場のドヤで暮らし、売春などで生計を立てるような階層だった。
また、おとり捜査の認められている麻薬捜査では、売人側の情報提供者がいたりした。
麻薬を取り巻く世界は、この当時あくまで限定的なものだった。

作品のもう一人の主人公が中原ひとみ。
『初の汚れ役に挑む』とある。
汚れ役は初かもしれないが、これまで庶民的で逞しい少女や、原爆症のヒロインなどを体当たりで演じてきた。
本作では、監督得意のドキュメンタルな視点ばかりではなく、劇映画らしい視点での演出も取り入れており、中原ひとみは監督の演出に見事に応えている。

中原演じる女性像の背景は詳しく描かれない。
地方から出てきて生活苦なのか騙されたのか、やむなく身を売るうちに、新宿のドヤに住み、クスリと切っても切れなくなった女性だ。
劇中『パンパン』と呼ばれるから戦災孤児など戦争や社会の犠牲者なのかもしれない。
ヤサグレてはいるが、親身になってくれる人には好意を持ち、結婚生活にあこがれを持つから本来は人間性に恵まれた性格だったのだろう。
本来が汚れ役向きではないが、人生の不運で逆境に生きる、という役柄では中原ひとみが生きる。

情報提供者の朝鮮人中毒者役の山茶花究がうまい。
日活なら小沢昭一の役どころだが、小沢がやるとギャグに傾くところをきちんと芝居で魅せる。
情報提供したのをヤクザに察知され、大阪に逃げるからと小銭を捜査官にせびる芝居。
実はまだ新宿にいて捜査で捕まり、取調室で禁断症状を起こす迫真の芝居の悲惨さ。

この取調室で売人の禁断症状にオタオタする新人取締官役が今井健二。
真面目な新人として三国にくっついての演技。
この俳優、無理に主役をやらず、誰かの脇に回ったら生きる。
悪役に転向した後で、高倉健の兄弟分役として脇に回った「侠骨一代」(67年 マキノ雅弘監督)はよかった。

三国連太郎は、新宿を舞台に、飲み屋、ドヤ街、喫茶店を自分の住処のようにはいずり回るのだが、自分自身の家庭も描かれる。
郊外の貸家に住み、大家の酒屋が電話を取り次ぐ暮らし。
妻と子供が一人、妻の妹が学生で同居している。

妻役に岩崎加根子。
新劇の実力派で、「警察日記」(55年 久松静児監督)の、磐梯山の麓で杉村春子の人買いに身売りされる少女役から、「忍ぶ川」(72年 熊井啓監督)の黒メガネをかけて座敷の奥で弟の嫁を迎える弱視の小姑役まで、幅広い経歴を持つ女優だ。

三国の妻役に岩崎加根子が起用されたのは重要な役だから。
すなわち、麻薬取締官といえど家庭があること、家庭側から見ると危ない仕事であること、そうはいいながら取締官にとって妻は最大の理解者でもあること。
作品の後半で、中毒病棟を退院した中原ひとみを保護するため、彼女を自宅に匿おうとする三国に対し、中原に嫌悪感を感じつつも、最大限夫の仕事に協力しようとする岩崎の演技の説得力はさすが。

中原が家庭の雰囲気に触れ「二人はどうやって結婚したの?」とか「あたいも結婚したいな。あたいは宮川さん(三国の役名)が好きさ」と岩崎に話すシーンがあった。
堅気の岩崎は、嫌悪感を表しつつそっけない返事をするのだが、これが拒絶感ではないところの微妙な表現。
中原の懸命な演技を受け止めた岩崎の懐の広い演技力。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

劇中最後の大捕物は取締官が大企業社員に扮し、ヤクザの大物に取引を持ち掛けるというもの。
ヤクザ側が企業に確認を取るというのも承知の上で、取締官はあらかじめ企業と組んでの仕掛け。
突然、ヤクザが企業本社に訪れ慌てる取締官。
ようやく取引に至り、現行犯逮捕となる。
ここで取締官の口からヤクザの大物に対し「戦時中は大陸で麻薬の取引で財を成し・・・」のセリフが吐かれる。
これまでは、取締官と売人という最底辺同士の対立ばかりが描かれ、「巨悪はどうした?」の不満がないわけではなかった見る者に、そこのところも若干ながら押さえたシナリオだった。

ラストは、自殺とされたが体内から基準値以上のクスリが検出された中原の死。
三国が思わず「殺しだ」と呟く。
身寄りがなく、夫婦二人のみが見送った斎場で、岩崎が「(自宅に匿った際)もっと親身になってあげればよかった」とつぶやく。
なるほどこの作品の最後の締めはやはり岩崎加根子によるものだったのか。

「野菜だより」3月号

「野菜だより」という月刊雑誌があります。
ブテイック社という出版社が出している大版のカラフルな雑誌です。
書店では、移住情報雑誌、健康雑誌などのコーナーに置かれていることが多い、家庭菜園愛好者向けの雑誌です。

その3月号の巻頭特集がガッテン農法でした。

ガッテン農法は三浦伸章という人が編み出した農法で、藁をねじったものを埋めて畑の性質を改善し、野菜の育ちを良くするものです。
どういう風に改善するのかというと、土中の空気や水分の流れを良くし、微生物を活性化するようです。
また、野菜がどう育つのかというと、早く大きく育つのではなく、遅く小さく育つのですが、野菜本来の味に育つようです。

そしてこれが肝心なのですが、ガッテン農法式に畑を作ると、半永久的に無肥料、無農薬で野菜ができるとのことなのです。
その畑の作り方は、地中の耕盤層まで掘り下げて、硬い層を砕き、ススキや糠、落ち葉、酢、炭などを入れて土を戻すというものです。
そうやって作った畝を毎年使うわけです。
山小舎おじさんの畑ではこうやってすでに数年の野菜作りを行っています。

さて、雑誌「野菜作り」ではどのようにガッテン農法が紹介されているのでしょう?
結論からいえば、かなり簡便に、またその理論をあえてぼかしたうえで、テクニック面だけをグラフィックな記事にしておりました。

「野菜だより」で紹介された、落ち葉を使うガッテン流畝づくり

ガッテン式畝づくりはかなり簡便なものになって紹介されていました。
また、肝心のネジネジ(本来は藁をねじって作る)の作り方がこれ以上なく簡便化されていました。
またその理論には全く触れていませんでした。

草をねじって埋めるテクニックも紹介されている

もともとガッテン農法の三浦さんはたくさんの経験的知識の上に、独特の感性を持ち、未踏の世界へ足を踏み入れたひと。
「科学的」な世界は超越しており、「信じるか信じないか」のレベル。
それを雑誌で紹介すればオカルトとして扱われるでしょう。
例えば「現代農業」などでは取り上げられないでしょう。
ということは、大規模な商業ベースの農業とは相いれないわけです。
自給自足ベースでいえば究極の方法なのですが。

ということで、家庭菜園が趣味の「意識の高い」方々にアピールする「無農薬」「省力」「斬新」といった部分だけを取り出して記事にしたのが「野菜だより」のガッテン農法特集でした。

トマトの斜め植えテクニックの紹介

世の中には玉石混交、いろんな技術、経験があります。
畑の世界は、植物学が解き明かした科学的世界のおそらく数倍もの未解明の世界があるのではないでしょうか。
経験としてその世界に分け入った先人が、これまで無数にいたものと思います。
私たちはこれらの遺産から自分に合うものを学んでいけばいいと思います。

彩ステーション「談論風発の会」

山小舎おばさんが主催している彩ステーションは、調布市柴崎にある「みんなの居場所」。
一軒家を借りて平日オープンし、歌の会、麻雀、体操、ランチの会などを、近所の主にシニアたちを集めて開催したり、時々はプロの音楽家や芸人が投げ銭方式で芸を披露したりもする場所です。
ほかに月一回の子ども食堂を開催(これは地元の小学校のPTAが主催し、彩ステーションは場所提供)したり、バザーを行ったり、関係者の誕生会を開いたりしています。

彩ステーションには、常時参加するシニアたちが20人ほどもいるので、例えばランチの会の炊事だけでも結構な手間が必要です。
そのための献立、調理、後片付けを行うボランテイアのスタッフ(サポーターと呼ぶ)が数人いて、毎週ランチの会を開催してくれたりします。
また、自分の特技を講習会のネタにして主催してくれる人がいたり、地域に在留の外国人が故国の料理の会を開いたりして、多彩なプログラムが提供されます。

そのプログラムの一つに「談論風発の会」というのがあります。
興味があったので参加してみました。
この日は3月11日。
最近は忘れがちだが、東日本大震災の日でした。

彩ステーションのホールで準備する参加者たち

主宰者は80代に近い女性。
彩ステーションのサポーターの一人として数年参加している人。
この人の司会で会が始まった。
参加は近所のシニアたち。
元気な人もいれば、ほとんど目の見えない人、認知症で会話が頓珍漢な人もいる。
お馴染みのメンバーばかりなので場の雰囲気はこなれている。

ホールの片隅にはまだひな人形の姿が

まずは14年前の震災当日、どこにいてどんな体験をしたのか?というテーマが司会者から提示されました。
皆さんとっくに退職していた時代だったようで、自宅付近の様子だったり、現地の知り合いが災難に遭った話が多かった。
自分の番が来たので、会社員時代に当日を迎え徒歩で会社から5時間かけて自宅に帰った話をした。
当時の都内の緊迫した雰囲気、閉鎖された駅舎の周りで列を作る人、渋滞で全く動かない都心部の車道、歩道を埋めて黙々と歩く人々など、忘れようにも忘れられない記憶を話した。
「そういえばこの話を誰かにしておきたかったんだ」と思いながら。
3月11日の「談論風発の会」にタイムリーな話題を振っていただいた司会者に感謝です。

会の後半は合唱だった
。彩ステーションには20部の手づくり歌集が配られた。
「ギターで歌おう会」というのを主宰している人が自力で作ったものとのことで、立派な作りに驚いた。

スタッフが自作された歌集の表紙

歌集で歌を選びながら10曲ほど。
テーブルの真ん中にデジタル式のスピーカーを置き、司会者の助手のような人がスマホから選曲して飛ばしたものが流れ、皆はそれに従って歌うのだが、隣の高齢者が本式の発声で歌っているので驚いた。
その方はかつて地域の公民館で合唱の会を主宰していたとのことだった。

歌集の目次
この日の選曲はザ・ピーナツの「恋のバカンス」から

1時間以上が過ぎ、用意された桜餅を食べて会が終了した。
会費は300円(通常は100円だが、この日は桜餅付きとのことで実費分増額)だった。

久しぶりに歌を歌えて気分転換になり、また忘れかけていた震災時の記憶を言葉に出せた貴重な機会でした。
彩ステーションに集う高齢だが貴重な人材にも感心しました。

桜餅がおやつ

ラピュタ阿佐ヶ谷「新春初蔵出し東映時代劇まつり」より 長谷川安人監督と集団抗争劇

マキノ光男が死に、岡田茂が撮影所合理化の責任を取って大泉撮影所長に左遷されていた1963年の東映京都撮影所。折から映画界全体の地盤沈下が顕著で、観客動員数と映画会社の収益は減少を続け、1960年には邦画各社合計で168本も作られていた時代劇は、1962年には77本にまで激減していた。

この間の、東映時代劇に関する状況の変化を「あかんやつら・東映京都撮影所血風録」から要約して引用する。

『東映にあっては、千恵蔵、右太衛門の両御大を筆頭に、大友柳太郎、東千代之介の人気が低下し、彼等の主演作品が当たらなくなっていた。
また、両御大に代わって東映の看板を背負っていた中村錦之助は、60年代に入って文芸大作路線に転じていたが、作品の出来はともかく、年を追って観客動員を減らしてゆき、錦之助と並ぶスターの大川橋蔵は、大島渚や加藤泰と組んでの新機軸が、まったくといっていいほど観客の支持を得ることができなかった。
こうして東映のスターシステムは崩壊し、すべては観客を喜ばせるためという東映時代劇の美学も消え失せた。』

『1963年、京都撮影所の企画部次長となった渡邊達人は、「集団抗争時代劇」というスタイルを考え出した。
これまでの明朗・軽妙の情の世界から、リアルな任務遂行の理の世界を描き、スターの魅力に頼らず、華麗に舞い踊る殺陣ではなく、生々しい殺し合いとしての殺陣を描く、というコンセプトのもと、天尾完次プロデューサー、結束信二、鈴木尚之、笠原和夫ら若手脚本家、長谷川安人、工藤栄一、山内鉄也といった若手監督を登用した。』

  長谷川安人監督について

ワイズ出版の「日本カルト映画全集2・十七人の忍者」がある。
集団抗争時代劇の第一作といわれる同作品をテーマにしたムックである。
内容は同作のシナリオをメインに、長谷川監督へのインタヴュー、関係者の談話などで構成されている。

長谷川安人監督について「東横映画に入るまでの自分史・長谷川安人」から以下に要約・引用する。

ワイズ出版「十七人の忍者」」
「十七人の忍者」目次

『大正大将11年広島県比婆郡生まれ。
4歳の時に一家で朝鮮に移住し各地を転々とする。
高等工業時代に、映画の撮影所に入ろうと、単身東京へ出る。
屋台で隣りの席にいた朝鮮時代の小学校の同級生と遭遇し、部屋代を半分負担して彼と同居。
その彼の姉が新興キネマのスクリプターをしており、彼女のつてで同大泉撮影所に撮影助手として入社。
1年後、撮影所内で何気なくはじいた石ころが女のすねに当たり、女は騒ぎ立て、逆上した長谷川は女の脚を叩く。
女は撮影所長お気に入りの女優候補で、謝らなかった長谷川は新興キネマをやめる決心をする。』

『釜山から汽車の乗って、新京の満州映画協会を目指し、製作部長のマキノ光男の自宅を訪ねた。
奥さんは自宅に泊めてくれ、翌朝会ったマキノは「まあええわ。徴兵までの娑婆や」といって満映啓民部(ニュース映画製作)に入れてくれた。
仕事で満州東北部の興安領を回り、北満の白系露人、オロチョンの狩猟等に接した。
その後、縁あって北京の華北電影公司へ移り、山西省の山々や、蒙古へ記録映画の撮影で赴いた。
長橋善語というマキノ家の番頭だった人が所長だった。
朝鮮で育ち、満映と北京時代の経験は長谷川の精神性に大きく影響した。』

『徴兵に際し、現地入隊ではなく現隊入隊を選び本籍地の広島で入隊した。
重慶近くの山中で終戦を知った。
親しくしていた見習士官から拳銃をもらって脱走した。
揚子江を下って南シナ海へ出、インド洋から紅海、地中海を目指すつもりだったが、昭和22年には札幌郊外の牧場で季節労働者をしていた。
折から、新興キネマ太秦撮影所で、マキノ光男を中心にした満映帰りの映画人たちが東横映画をスタートさせていた。.
札幌の長谷川に長橋善語から便りが来た。
「お前も頭がシャンとしたら京都に来い」』

長谷川監督の人生前半史があまりに面白く破天荒でスケールが大で、氏の人となりが横溢していると思ったので長々と引用した。

東映で助監督になってから以降は、同著のインタビューから以下に抜粋・要約する。

「十七人の忍者」奥付

『東映時代には助監督として、渡辺邦夫、松田定次らにつく。
どちらも看板番組を任される大御所監督だが、古い習慣を拒否したり、監督に尋ねられたことに正論で返すなどして、両大御所の組をクビになったり、監督昇進の機会を逃したりする。

ジプシー助監督として、吉村公三郎、成瀬巳喜男、丸根賛太郎、中川信夫ら外部からの監督にもつく。

なんと、大島渚の「天草四郎時貞」にもついた。
この作品は、話題性のある若い監督に自分の新たな面を引き出してもらおうとした大川橋蔵が、大島起用を会社に対して押し切って実現したものだったが、東映系の映画館主たちは初めから橋蔵と大島の取り合わせには反対だった。
出来上がりやその色合いの見当がつかないからだった。
スタッフたちは撮影中に半ば公然と「こらあかんで」と言っていた。
会社や橋蔵の望む天草四郎像と大島がねらうものが、まったく違うことはスタッフならば察しはついていたからだった。

演出中の長谷川監督

1963年「柳生武芸帳・片目水月の剣」で長谷川は監督デヴュー。
近衛十四郎主演のシリーズ6作目だった。
阿蘇山ろくで馬100頭を集めてロケしたり、天守閣を三角に作るセットを組んだりした。』

ラピュタ阿佐ヶ谷では、東映時代劇特集の1本として「十七人の忍者」が上映された。

「十七人の忍者」オリジナルポスター

「十七人の忍者」  1963年  長谷川安人監督  東映

脚本は、1960年に2年で8本の契約を東映と結んでいた新鋭の池上金男。
現場の総指揮は、渡邊達人企画部次長の任を受け集団時代劇の牽引役となった天尾完次プロデューサー。

勢ぞろいした最後の伊賀もの17人。その表情を見よ

東映の三角マークがモノクロの画面に音もなく映し出される。

大げさな表情は封印し、ひたすら静の演技に終始する大友柳太郎。
食らいつくように目を剥く里見浩太朗。
諦念したように冷たい表情の東千代之介。

普段着の伊賀もの17人が揃い、頭領からの命を受け目的地の駿府へと散る。
目的は公儀への謀反を企てる駿府大納言以下の諸藩連判状を奪取し、謀反実行の前に幕府により内密に平定させること。

この日のために日常を世を忍ぶ仮の姿で送ってきた最後の伊賀もの17人。
鍛えてきた忍法を発揮する晴れの舞台であるが、高揚感、華々しさはない。
あるのは、索漠とした寂しさ、わびしさ。
任務の向こうに確実に待っている死を予感してのものか、あるいは滅びゆく隠密、伊賀ものの定めが醸し出すのか。

隠密、忍び、伊賀もの、としての掟は、頭領の命令によって死ぬこと。
頭領は配下が使命を果たすことのみ考え、そのために知力・体力の限りを尽くす。

「十七人の忍者」より

3組に分かれた伊賀ものたちは駿府城に着き、それぞれに城内侵入を試みるが、駿府とて幕府による隠密の策動は承知のこと、伊賀ものに対抗すべく根来忍者の頭領(近衛十四郎)を軍師として城内の警備に当たらせている。

悲壮感に満ち、己の定めを粛々と受けれるがごとき伊賀ものたちに対し、根来の頭領はひたすら激しく、表情豊かなリアクション。
普段は最下層の武士ゆえ、城内の家臣たちに蔑まれている根来衆の怨念と反抗心をむき出しにして伊賀ものを迎え撃とうと待ちかまえる。
使命を果たすことに加え、自分たち根来衆の名声獲得と地位向上の野心に満ちている。
一方の駿府城の家臣たちは、根来の頭領の指示に従って防衛ラインを築きつつも、内心では根来への不信と軽蔑を隠そうともしない。
これが身分の差というべきものなのだろう。
また、ここに駿府城と根来の油断とスキがあった。
対する伊賀ものたちは完全に捨て身である。

花沢徳衛と三島ゆり子

駿府城の鉄壁の防御に17人の人員をいたずらに消耗し、頭領まで生け捕られた伊賀ものは、くノ一(三島ゆり子)もいれて残り5人。
頭領から「お前が指揮を取れ」と命ぜられた若き里見浩太朗が、自らも迷いながら作戦を決断してゆく。
すべては連判状奪取というただ一つの使命のため。
内心では年若い里見の指示を快く思っていなかった東千代之介も、里見の目的達成への無私の努力を見て、忍者としての掟に従い、捨て駒として死んでゆく。

東千代之介と里見浩太朗

最後のチャンスに、お濠を渡り、城壁をよじ登り、道具を駆使して城内へ侵入する行程を時間をかけて描く。
侵入用に彼らが持つ道具の「重さ」が感じられる。
画面の緊張感は最後まで途切れない。
何より役者たちが(ということはスタッフたちも)一生懸命やっているのがわかる。

伊賀忍者にとって幕府からの使命は、身分制度を背景にもした一族の存亡にも関わる絶対的なもの。
それを果たすためには、私情を排して集団で当たる。
ある意味野生の掟に近い、実力のみ、弱肉強食の世界。

作品は、その無機質な世界観を根底に、技術的、策術的な忍法のディテイルを丁寧に盛り込んでいった。
集団抗争時代劇は本作のヒットによってスタートを切った。

里見浩太朗

監督の長谷川は言う(「日本カルト映画全集2・十七人の忍者」より)。
・劇中の乾門は、彦根市と井伊家にお願いに行って、彦根城の石垣にぴったりはまる門のセットを作った。
橋の手前から見ると、濠、橋、門、城壁、松の樹々と全体が立派に映えたのでうれしかった。
・スタッフには、セットごとにカットのアングルと人の動き、用意する小道具などを描いて渡した。
皆に僕と同じ思いをして作業をしたかったから。
・濠の中の水中シーンも皆が乗ってやってくれた「おう、やろうやろう」と。
・配役は意識的に吟味した、わき役だが重要な役に千代之介を配したのもそのため。

根来対伊賀、頭領同士の最終対決。近衛十四郎と大友柳太朗

スタッフ、配役に恵まれ、アイデアを十分に盛り込み緊張感に溢れる力作、快作となった。
妥協を嫌う長谷川監督の気質がよく表れた作品だと思う。
プログラムピクチャーであっても、監督をはじめとしたスタッフの創意が貫かれている点では立派な「作家(達)の映画」が出来上がることを示している。

役者たちの決然とした表情は、全盛を誇った東映時代劇の凋落を目の当たりにした、これから映画界で働き盛りを迎えなければならない者たちが、まさに難攻不落な未知の領域に挑もうとするときの、不安に満ちながらも決然としたもののようにも見えた。

ラピュタ阿佐ヶ谷「新春初蔵出し東映時代劇まつり」より 月形龍之介、大友柳太朗の巻

月形龍之介

明治35年生まれの月形は、宮城県生まれの北海道育ち。
戦前に日活映画からスタートし、マキノ映画などを経て、自前のプロダクションを作ったり、フリーとして活動するなりして戦前を過ごす。

ポートレート

時代劇スターとして活躍し、坂東妻三郎、大河内傅次郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「七剣聖」と呼ばれた。
他のスターが歌舞伎のケレンや踊りをベースにした立ち回りを行う中で、月形の立ち回りは剣道から作り出したといわれる。

戦後は1949年に東横映画に入社。
以降東映時代劇の重鎮として千恵蔵、右太衛門の両御大に次ぐポジションで、1954年からの「水戸黄門」シリーズ全14作で主役を務めた。
わき役としても、時代劇や任侠映画など多数に出演し、場面を締める。

ワイズ出版より発刊の「月形龍之介」

山小舎おじさん的には1963年の「人生劇場 飛車角」(沢島忠監督)の吉良常役が印象的。
枯れすすきのような古侠客の風情で、坊ちゃんこと青成瓢吉(梅宮辰夫)の面倒を何くれとなくみる役を演じ、「昔は強かったんだろうなあ」という凄味を感じさせた。
この時月形龍之介61歳、まだ最後に一仕事できそうな気配も残していた。

ラピュタの「新春初蔵出し 東映時代劇まつり」では、月形主演の「水戸黄門」シリーズ第12作「天下の副将軍」が上映された。

「水戸黄門」シリーズのムック?

「水戸黄門 天下の副将軍」  1959年 松田定次監督  東映

監督の松田定次は、春日太一著「あかんやつら 東映京都撮影所血風録」によれば、時代劇全盛時代の東映で、「天皇」あるいは「お召列車」と呼ばれていた。
そのココロは、盆と正月用のオールスター大作を任され、キャステイングからスケジュール、スタジオの使用順に至るまで最優先の待遇を受けた監督だったから。

撮影は監督のお気に入りで、隅々まで明るく照らすライテイングにより、スターを明るく映す、明朗快活な画面作りの川崎新太郎カメラマン、編集は宮本信太郎という鉄壁の布陣。

キャストは黄門に月形龍之介、助さん角さんに東千代之介と里見浩太朗、番頭に大河内傅次郎。
黄門一行に絡む隠密に大川橋蔵、大井宿の飯盛り女なれど実は家老の落とし胤に丘さとみ。
黄門の実子で高松に送り込まれていた若き藩主に中村錦之助、藩主の御そばの女中に美空ひばり。
両御大をこそいないが文字通りのオールスターキャスト。
東映の若大将・錦ちゃんにはひばりを配するサービスで、月形黄門を盛り上げる。

ポスター

この日のラピュタ阿佐ヶ谷は、平日の13時からの「水戸黄門」が何と満席。
オール70代以上で、ラピュタには珍しく女性客も数人(全員70代)。
予備椅子も出される熱気の中、上映開始。
館内の雰囲気は、65年前の地方の東映直営館もかくや。

ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーより

テレビの黄門様しか知らない世代には、月形黄門の眼光の鋭さ、顔つき、声の重々しさに恐れ入る。
片や、千代之介、里見の助さん角さんの若きやんちゃぶりにも驚く。

何せ、江戸の湯屋(湯女が、湯殿から座敷まで付きっ切りでサービスする)で湯女相手にお銚子を傾けるという登場シーンから、黄門様との道中では寝床を抜け出し、飯盛り女を上げての大騒ぎ、挙句飲み代を飯盛り女に立て替えさせ(そのために女に結婚を約束するという恋愛詐欺まで行う)る助さん角さん。

目的地の高松では情報収集のために辻でリズムに乗った大道芸の踊りまで披露。
テレビでの品行方正ぶりはどこへやら、威勢のいい江戸の若者とはこうだったのだ、と言わんばかりの、酒と女への親和性あふれるやんちゃぶりとイキの良さ。
いざという時の喧嘩の強さはテレビ通りだ。

流れの包丁人にしてその正体は公儀隠密、に扮する橋蔵は、持ち前の二枚目半。
ご乱心姿の若殿姿で登場する若大将・錦ちゃんも、乱心姿の流れるような動きがいい。
見守るひばりが、いつものべらんめえ姿ではなく、育ちのいいお嬢様を演じて若く、かわいらしい。
飯盛り女変じて、黄門一行の道中仲間となる丘さとみは、千代之介を一途に愛する田舎娘を自由自在に。
番頭、大河内のコミカルな演技が珍しい。

ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーにて

大団円に至るチャンバラシーン。
テレビなら葵の御紋に悪漢がひれ伏すが、映画では最後まで抵抗する悪漢(いつもの山形勲)と、黄門一行の一進一退の攻防が、大人数の殺陣で繰り広げられる。
最後は黄門自らの一刀で悪漢を成敗するが、眼光鋭い月形黄門ならば説得力十分。

エンドマークとともに、平均70歳代の場内からは拍手が起こりました。
映画館で拍手を聞くのは何十年ぶりでしょうか。

撮影中のスナップ。月形龍之介と丘さとみ

大友柳太朗

大友柳太朗は、明治45年生まれ、新国劇から戦前の新興キネマ入りし時代劇で活躍。
戦後しばらくは地方巡業などで糊口をしのいでいたが、1950年ころから時代劇映画の復活とともに、活躍の場を映画に戻す。

1950年代の東映時代劇で「怪傑・黒頭巾」シリーズ、「丹下左膳」シリーズ、「右門捕物帳」シリーズなどに主演し、人気を博す。
誰もが認める殺陣の鮮やかさに加えて、乗馬技術に秀でており、豪快に笑う姿が印象的で、一時は千恵蔵、右太衛門の両御大や錦之助、橋蔵、千代之介の三羽烏を凌ぐほどの稼ぎ頭といわれた。

黒頭巾姿の大友柳太朗

一方、活舌の悪さには本人も悩んでいたといわれ、その骨太な体格・風貌と田舎訛りの抜けないイントネーションは、のちに見る者をして「大時代的な芝居をする、田舎の豪放磊落なおじさんのよう」だと思わせた(山小舎おじさんの印象です。為念)。

走る!丹下左膳に扮して

ラピュタ阿佐ヶ谷の「新春東映時代劇まつり」では、50年代から60年代にかけて5本製作された、大友主演の「丹下左膳」シリーズから2本が上映され、最終作となる「乾雲坤竜の巻」を見ることができた。

「友の会」編の自伝がワイズ出版から出ている

「丹下左膳・乾雲坤竜の巻」  1962年  加藤泰監督  東映

「丹下左膳」は片目片腕のニヒルな怪剣士。
浪人として長屋に住み、常に妙齢の美人がそばにいて、厄介な事件があると表ざたになる前に実力で解決し、その過程でやむを得ずお上に逆らったりすると、無数の御用提灯が孤軍奮闘する当人を取り囲む、というのがお決まり。
戦前は大河内傅次郎の当たり役だった。
大河内の左手一本の殺陣は、腰の座り、膝の落とし方、動きの速さが見事で、口を使って鞘を抜く動作がかっこよかった。

戦後は、日活で水島道太郎の主演、マキノ雅弘の監督で3本作られた。
東映での大友柳太朗の主演シリーズは、松田定次の監督により4本、加藤泰監督により1本(本作)が作られた。(以降単発作品はあり)。

封切り時のポスター

東映でのシリーズ中、本作だけが白黒の低予算だった。
加藤泰監督による「作家性に強い」作風が一般受けしないという会社の判断は当たることになる。

巻頭から暗めの照明、ローアングル、全景を説明的に捉えないカメラでの殺陣で始まり、見る者を加藤泰ワールドに引き込む。

両目、両手が健在だった相馬藩下級武士の左膳が、藩主の個人的密命を受けて、町の道場から家宝の刀大小を強奪しに乱入したシーンだ。
右目を斬られながら、身を欺くあばら長屋に、長太刀乾雲だけを抱えて、命からがら転がり込む左膳。
長屋の隣にはスリで世を渡る東千代之介と、普段は旗本崩れの情婦をしながら千代之介と訳ありのコンビを組む年増の久保菜穂子がいた。

封切り時のプレスシート

何せガチガチの封建武士として主君の命令は絶対。
出世の野望は使命を果たすことによってのみ叶えられる。
こういった武士時代の左膳を、地面をはいずり回るように演ずる大友柳太朗。

道楽で刀を集めたがり、そのためには下級武士の命や心などなんとも思わない貧相な相馬藩主には、いつもは庶民役の花澤徳衛。
花澤は道場から乾雲を強奪したことが事件化されようとなると、南町奉行の大岡越前(近衛十四郎)に対し「左膳なるものは知らないし、乾雲などは持ってもいない」とシラを切る。
正義の味方でもなんでもなく、タヌキ官僚である越前守は、心得たとばかり得意技の「なかったことにする」対応で、事件を左膳一人に負わせ、藩主には恩を売って済まそうとする。

左膳を介抱し、牢獄から救い出し、深手を負った右腕を切り落とし、回復まで養生させる長屋の訳ありコンビが、日陰者の貧乏暮らしながら逞しい。
二枚目半の達者ぶりを見せる千代之介の飄々とした人間らしさと、新東宝倒産後に他社で活路を見出した久保菜穂子の女っぷりがいい。
彼女は左膳に惚れるし、左膳の心が町道場の娘(桜町弘子)にあることを妬いたりする。
左膳の持つ、己を捨てた一途さと危険な香りに女は惹かれるらしいが、そこのポイントも映画は押さえている。

物語は下級武士・左膳の主君への反逆という、おそらく現実の世界で到底あり得なかった、カタルシスを迎えて大団円を迎える。
左膳と町道場の娘の、敵同士の禁断の恋は、結局左膳の方から撤退するのだが、それでも割り切れぬ人間同士の情の不可思議さは、剣を切り結んだ二人の触れるか触れないかのキスシーンによって描かれる。

脚本は石堂淑朗。
大島渚の一期下の松竹助監督時代に、大島の「太陽の墓場」(1960年)、「日本の夜と霧」(1960年)を執筆。
「日本の夜と霧」の上映打ち切りに抗議して、大島とともに松竹を退社した。
その後に東映で大島が撮った「天草四郎時貞」(1962年)の脚本を書いたのも石堂で、「丹下左膳」は「天草四郎」と同年の製作。

さすが気鋭の石堂脚本、丹下左膳誕生までの秘話をオリジナルの解釈で描き、武士階級の腐敗と封建性批判、庶民の逞しさを俯瞰・強調し、さらには左膳を巡る女性らの割り切れぬ性にまで筆をすすめた見ごたえのある構成・・・と思いきや。

実は本作のストーリー、1956年に日活でマキノ雅弘が撮った「丹下左膳・乾雲の巻」「坤竜の巻」「完結編」の三部作とほぼ同じ内容でした。
同作品の棚田五郎(誰かの変名?)なる人の脚本を下敷きにしておりました。

映画評論家川本三郎の「時代劇ここにあり」という本の「丹下左膳・乾雲の巻」「坤竜の巻」「完結編」の項を読んでいたところ、そのストーリーが本作、大友柳太朗版「丹下左膳・乾雲坤竜の巻」とほぼ同じだったのです。
やはり当時30歳前後の石堂淑朗にここまでの仕事は無理だったか。

川本三郎著「時代劇ここにあり」表紙
「時代劇ここにあり」よりマキノ版「丹下左膳」ポスター
マキノ版「丹下左膳」の一場面。東映版のオリジナルか

ただし細部には石堂カラーが出ていたようです。
相馬藩主の俗物性や卑近さ、江戸の司法をつかさどる官僚(大岡越前)の事なかれ主義、権力側の都合で使い捨てられる下級武士の怨念、江戸の庶民階級のしたたかさなど物語の細部については、現代語を俳優にしゃべらせながら強調されていました。

加藤泰の演出には彼流のスタイルが存分に発揮されていました。
東映時代劇の伝統である、隅々まで明るいライテイングや、主人公を中心にしたわかりやすい殺陣などを完全に無視し、ひたすら暗い中で蠢き、痛さの伝わる殺陣に拘っていました。

左膳の潜む長屋のセットの障子の破れ具合など「リアルな」貧困も、これでもかと表現されていました。
が、貧乏人程表面を繕い己の悲惨さを隠したがるもの、映画表現とはいえ「貧困」を強調するのに度が過ぎては、「リアル」を通り越して、「不自然」にもなりかねないのでは?と感じたのも事実。
「リアルな」表現とは何かを考えさせられました。

久保菜穂子と大友柳太朗

また加藤泰の演出には、久保菜穂子への傾倒ぶりがありました。
東映お仕着せの桜町弘子への型通りすぎる演出や、筑波久子の顔見世だけの描写に比べ、久保菜穂子に対するこだわりは、単に左膳に惚れた訳あり年増の粋を越えているように見えました。
これが加藤泰の「粘り」というものなのでしょうか。

この作品における女性性、庶民の逞しさ、裏の世界の表現、また彼女を通して左膳の男性性を描くために、彼女は必要なキャストだったのでしょう。
女ざかりの久保菜穂子は加藤泰の演出に十分に応えた演技でした。

ヒットせず、シリーズ打ち切りが決まった本作ですが、ストーリー、画面共に見ごたえがあり、60年代の新機軸を予感させるような作品ではあります。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

ラピュタ阿佐ヶ谷「新春初蔵出し東映時代劇まつり」より  大川橋蔵の巻

千恵蔵、右太衛門の両御大の跡を継ぐ戦後生まれのスターとして、錦之助とともに東映時代劇の一時期を担った大川橋蔵の当たり役は「新吾十番勝負」だった。
橋蔵の出身である歌舞伎の女形の表現とも通底する、高貴な出を背景を持つ新吾というキャラクター。
その甘さと気品、色気を表現するのが橋蔵の役作りだった。

ポートレート

歌舞伎の女形から映画界入りした橋蔵は初出演の「笛吹若武者」(1955年)の立ち回りのラッシュを見て「女の子が棒っ切れをもって喧嘩しているように見えた。」と思った。
殺陣師の足立伶二郎の特訓を受け、映画スタイルの立ち回りを習得した。
橋蔵が好む立ち回りは、嵐寛寿郎のそれだったという。

明るく、華があり、軽快な動きができる橋蔵はたちまち人気が出、錦之助とともに若手スターの一番手となった。

「新吾十番勝負」。橋蔵の代表作

一方、人気絶頂を誇った東映時代劇も60年代に入ると陰りを見せ始めた。
旧態依然とした両御大の時代劇ばかりではなく、錦之助、橋蔵の作品も観客動員に結びつかなくなった。
錦之助はライフワークともなった「宮本武蔵五部作」(1961年~ 内田吐夢監督)や「反逆児」(1961年 伊藤大輔監督)など巨匠による大作に活路を求めた。

一方、橋蔵は遅れること1年、内田吐夢監督の革新的意欲作「恋や恋なすな恋」(1962年)、大島渚監督の「天草四郎時貞」(1962年)に出演。
自らの殻を破ろうとしたが、前者はともかく後者では記録的不入りとなり、以降、映画では思うような作品を残せずテレビの「銭形平次」に活躍の場を移していった。

「恋や恋なすな恋」。歌舞伎やアニメまで取り入れた意欲作。相手役は嵯峨美智子

一説では、錦之助と違い巨匠らは橋蔵を使いたがらなかったという。
女形出身の出来上がったイメージが邪魔したのだろうか。
ラピュタ阿佐ヶ谷の「新春蔵出し東映時代劇まつり」特集でスクリーンに再現された60年代初頭の大川橋蔵を見てみよう。

「清水港に来た男」  1960年  マキノ雅弘監督  東映

自らの「次郎長三国志」(1954年~の東宝版)をなぞるように、清水の茶摘み風景に「チャッキリ節」を被せ、茶摘み娘らをミュージカル風に動かすマキノ演出。
早くもご機嫌な冒頭シーンだ。

リズム感のあるマキノ演出に乗っかって、橋蔵の演技も快調。
調子のいい、正体不明だが素性のよさそうな風来坊をご機嫌に演じる。
相手をするのは田中春夫。
例によって頼りなくも憎めない三下役だが、恋女房の青山京子がこの作品ではお歯黒姿の髪結いに扮して色っぽい。

軽快な橋蔵とおきゃんな丘さとみのコンビ

橋蔵が潜り込む先の次郎長一家の娘、丘ひろみは、おきゃんで庶民的なキャラクターを与えられ、生き生きとしている。
次郎長役の大河内傅次郎。
既に第一線からしりぞき脇での出番だが、その貫禄はただものではなく、凍りついた表情はベラ・ルゴシかボリス・カーロフか、怪奇映画でも十分やれそうなただならなさ。

ヤクサの三下に身をやつした橋蔵の正体は勤皇の志士。
戊辰戦争勃発時の次郎長が、佐幕派に付くかそれとも勤皇派かを探るために潜り込んだのだった。

やくざの出入りで死んだ子分の妻(小暮実千代)が、次郎長主宰の盛大な葬式の場面で、本心をぶちまけ夫の犬死を嘆くシーンがあった。
脚本の小国英雄は戦前からマキノ作品を書き続け、戦後には黒澤明の「生きる」(1952年 東宝)を書いたベテラン。
ここは反やくざ、反戦のメッセージを盛り込んだのかと思ったが、どっこい、後半で橋蔵に「京都では勤皇の志士たちが、嘆いたりせず喜んで死んでいった」といわせている。

全部が小国のオリジナルではないのかもしれないが、映画としては勤皇派に付き、大儀ある死を肯定しており、決して反戦、個人主義的立場に立ってはいない。
東映時代劇である以上、大衆迎合そして体制迎合はしょうがないのであろう。
ただ葬式の場面での反暴力的メッセージは、ドラマに厚みを持たせる肉付けとして意味はあった。

また、丘さとみが橋蔵に向ける淡い恋ごころも、身分の違いを越えて結ばせることなく終了。
ラストシーン、茶摘み風景をバックにチャッキリ節に乗って晴れて京へ戻ってゆく橋蔵に、丘さとみもついてゆくのか?と、甘い結末を期待したが、そこにはさとみの姿はなかった。
武士とやくざの娘ではの間には決して越えられない階層の差があったのだ。
その時、橋蔵の表情はあくまで晴れ晴れとしていた。

橋蔵の立ち回りは躍動的で、動きもよかった。

「赤い影法師」  1961年  小沢茂弘監督  東映

柴田錬三郎の原作を、東映時代劇の「天皇」の一人比佐芳武が脚色。
橋蔵の相手役には、ミス平凡から入社した新東映三人娘の一人大川恵子。
脇に大友柳太郎、近衛十四郎、大河内伝次郎、さらに若手の里見浩太朗、山城新伍。
ゲストに木暮実千代と準オールスターともいうべきキャスト。

監督には松竹から移籍し、監督昇進7年目の小沢茂弘を起用。
いわば、比佐芳武の脚本という「古い皮」に、橋蔵、小沢監督という「新しい酒」を入れて路線開拓を試みた作品。

その結果は惨敗だった。

三代将軍家光の首を付け狙う石田三成の忘れ形見の娘(木暮)と孫(橋蔵)が、「影」と呼ばれる忍者として策動する。
対するは徳川家のお庭番・柳生十兵衛(大友)と服部半蔵(近衛)。
しかして、影として生きる橋蔵の父親は服部半蔵であったというファンタジー。

ワイヤーアクションや暗さを生かした照明下での殺陣などリアルさを追求している。
主人公の橋蔵も、半蔵も戦いで傷つく。
キスシーンなどの濡れ場もいとわない演出。
60年代を迎え、新しい表現での時代劇を東映が模索していたことがわかる。

しかしながら、けれんみたっぷりの荒唐無稽な原作を生かすセンスは東映にはなかった。
また、柴田錬三郎原作の「眠狂四郎」の映画化では、大映に市川雷蔵というニヒルで色気のある役者がいたが、東映にはいなかった。
橋蔵ではアイドル的な甘さがありすぎた。

「影」である橋蔵の人間味を表現しようとして、木暮に対し「母者」と盛んに呼びかけ、弱みを表現するが、マザコン的甘えに見えてしまう。
また、山場になるとどこからともなくその場にいる、柳生十兵衛役の大友柳太郎には違和感を禁じえない。

全体に「リアル」でもなく「ファンタジー」に徹してもいない印象。
だいたい橋蔵と木暮のからみはベタついてイカン。

60年代に入り、橋蔵のライバル錦之助は、「宮本武蔵5部作」(1961年~ 内田吐夢監督)など巨匠作品に出演を始める。

焦った橋蔵は、何と松竹を飛び出した大島渚の招集を要求し、「天草四郎時貞」(1962年)に出演する。
「いつか大島先生に私の作品を撮っていただきたいと思っていました」と張り切った橋蔵だったが、橋蔵の顔も(共演の丘さとみの顔も)まともに映らない暗い画面が連続するこの作品は、とても会社上層部、映画館主、観客の期待に沿うものではなく興行的にも記録的な失敗となった。

この後、錦之助は今井正監督と組んで「武士道残酷物語」「仇討」などの問題作を連発。
負けじと橋蔵は「幕末残酷物語」(加藤泰監督)に出演。

二人の路線転換は、50年代に全盛を迎えた東映時代劇の完全な終焉をもたらしたが、かといって観客に支持されたわけではなかった。

「大喧嘩」  1964年  山下耕作監督  東映

「大喧嘩」は、おおでいりと読む。
監督の山下耕作は、61年に監督昇進した当時34歳の新鋭。
前年に「関の弥太っぺ」というヒット作を作っている。

脚本は3人。
村尾昭は62年に脚本家としてデヴュー、これが9本目の映画化脚本。
鈴木則文は31歳、翌年に監督デヴューを控える。
中島貞夫は30歳、この年に「くノ一忍法」でデヴューする。
この3人は、東映時代劇の凋落が始まってから一線にデヴューし、その後の東映を担う新鋭たちだった。

「大喧嘩」は、股旅ものに新境地を見出さんとする橋蔵に、東映の若き才能をぶつけての企画。

起用された山下、鈴木、中島らは、旧来の東映時代劇の作法にはとらわれず、まず配役を一新。
外部から丹波哲郎や金子信夫、加藤嘉、西村晃を招聘。
女優陣も十朱幸代、入江若葉を起用、いわゆる「東映城のお姫様」は使わなかった。

撮影は鈴木重平という人で、緑豊かな田圃の中で繰り広げられる殺陣を自然光によるロングショットの長回しで撮るなど、明らかにこれまでの東映時代劇の撮り方とは異なっていた。
編集だけは東映時代劇全盛時代からの職人宮本信太郎がニラミを利かせていた。

中山道が軽井沢から追分宿で北国街道に別れ、小諸宿へかかるあたりが舞台。
3年間の旅に出て、いっぱしの男となって帰ってきた橋蔵。
弱きを助け、理不尽は通さない、仁義に生きる任侠の徒だ。
だが帰ってきた故郷では、任侠より金と力が幅を利かし、再会を誓った恋人はかつての舎弟の妻となっていた。
そこへ現れた訳ありの浪人が、宿場で張り合う2大勢力の壊滅を狙って策動する・・・。

任侠の世界が(そんなものがあったとして)時代遅れとなり、金がすべての近代資本主義のようなものに駆逐されてゆく様を、黒澤明の「用心棒」(1961年)の骨組みを加味して描いている。

山下、鈴木、中島らが新しいからかインテリだからか、現代語で親分子分、身分の差なくデイスカッションのようにセリフがやり取りされる。
中には、敵対する親分(遠藤太津朗)から「仁義なんかじゃ飯は食えねえ。ヤクザの正義は力だ」(意訳)などというセリフも飛び出す。
同趣旨のセリフ「仁義なんか知らねえ。俺はただの殺し屋だ」が鶴田浩二から発せられた68年の山下作品「博奕打ち・総長賭博」(1968年)があった。
「総長賭博」は三島由紀夫も絶賛する任侠映画だったが、山下監督のヤクザに関する醒めた視点は、64年の本作から一貫していたことがわかる。

「大喧嘩」では、主人公が旧来の優等生的ヤクザであり、アンチヒロイズム的なセリフは、わき役が端端で発していたものの、映画全体が反ヤクザ的価値観を前面に押し出すものとはなっていない。
新しいヤクザのヒーロー像を求めたり、「リアル」に徹した悲惨なやくざの現実を追求してもいない。
それは橋蔵の役者としての限界であるとともに、当時の山下、鈴木、中島らにとってもまた、限界だった。

見ていて「優秀な堅気の作者が作った若い感覚の股旅映画」という感じが最後までした。
田圃を踏み荒らし延々と走るラストの殺陣のシーンは、当時はやりのフォトジェニックな撮り方であり、切迫感より、瑞々しさが感じられた。
また、ヤクザの物語に対する突き放したような客観性が感じられた。

映画という見世物は、「非日常性」がなければ木戸銭を払う動機にはなりずらい。
東映時代劇にあっては、主人公中心の派手な立ち回り、豪華な衣装、芸子総揚げのレヴュー、異形の姿で御用提灯に囲まれる悲壮、等々。
なにより役者たちの「素人」とは隔絶した「超人」性。

映画の「非日常性」が一敗地にまみれ、観客動員がつるべ落としとなっていた60年代中盤。
作り手として第一線に迎えられた山下、鈴木、中島にとって、「非日常性」への復帰は論外だし、かといって描くべきものも確立せず、とりあえずそれまでの「非日常性」への軽いアンチを提示することからの、この作品は出発点だったのだろう。

橋蔵にとって東映時代最晩年の1作となった。

ラピュタ阿佐ヶ谷「新春初蔵出し東映時代劇まつり」より  片岡千恵蔵の巻

東映時代劇の、いや前身の東横映画時代からの稼ぎ頭であり、御大と呼ばれたスターは片岡千恵蔵と市川右太衛門だった。

両者はともに歌舞伎界から戦前に映画界入りし「七聖剣」と呼ばれた。
千恵蔵は、マキノ・プロを経て千恵・プロを起こして独立したが、「私は剣戟が好きではなかった」と述べる剣戟スターだった。

戦前の片岡千恵蔵の出演作に「鴛鴦歌合戦」(1939年 マキノ雅弘監督)という愉快な作品がある。
志村喬やゲスト出演のデイック・ミネらとともに若き千恵蔵が歌うミュージカル仕立ての時代劇だった。

「鴛鴦歌合戦」

戦後になると、GHQから仇討ちなどをテーマとするチャンバラものの製作を禁止され、千恵蔵は当時所属していた大映での「多羅尾伴内」シリーズ、東横に客出しての「金田一耕助」シリーズなどの現代劇に活路を見出さざるを得なかった。

1948年、大映系の映画館主が集まった会で、大映社長の永田雅一が『多羅尾伴内ものはつなぎの映画。今後は芸術性の高い映画を製作してゆく。役者などは何度でも取り替えられる』と発言し、千恵蔵が激怒、大映との契約更改は行われなかった。
裏に東横映画のマキノ光男らの暗躍があった。

千恵蔵の現代劇「アマゾン無宿・世紀の大魔王』(1961年 小沢茂弘監督)

マキノらに誘われた千恵蔵は、東横映画の真のオーナーである東急の五島慶太との面談を要求し、その場で東横映画の重役に就任すること、また東横映画が独自の配給網を作ることを約束させた。
これはのちに、製作と配給を一つの会社に統合しての東映が発足するきっかけの一つともなった。
千恵蔵は、松田定次監督、脚本家の比佐芳武とともに東横映画に移籍し、のちの東映時代劇の興隆を担うこととなった。

1950年、GHQに気を使いながら、千恵蔵主演で「いれずみ判官」を製作した。
当時役者の小遣い稼ぎとして行われていた地方巡業での千恵蔵の当たり役「遠山の金さん」の映画化だった。
映画はヒットしシリーズ化され、千恵蔵の当たり役となった。

「いれずみ判官」第一作(1950年 渡辺邦夫監督)。右は花柳小菊

千恵蔵はまた、満映から帰還した内田吐夢監督の復帰第一作「血槍富士」(1966年)をはじめ、「大菩薩峠三部作」(1957年~59年)、「妖刀物語・花の吉原百人斬り」(1960年)などの内田作品に出演、監督ともども高い評価を得た。

このほか、1950年代の東映では、「いれずみ判官」シリーズなど、当代当たり役に出演を続け、「旗本退屈男」などの右太衛門とともにマネーメイキングスターとして会社を支え、絶大な威信を誇った。

「血槍富士」の奴姿

60年代に入ると千恵蔵、右太衛門両御大の出演作品の観客動員数に陰りが見え始めた。
折から日本映画全体の観客動員数も1959年を境に激減し始める。
東映は、両御大中心の時代劇から、集団抗争劇、任侠ものなどの新傾向の作品を模索せざるを得なくなり、千恵蔵も集団劇の一人として出演するなどする。

それでも東映そのものの凋落に歯止めがかからず、当時の京都撮影所長岡田茂から千恵蔵が専属契約の打ち切りを通告されたのは1965年のことだった。

千恵蔵はその後も重役として東映に残り、その後のヒット路線となる任侠映画や、異色作「日本暗殺秘録」(1969年 中島貞夫監督)、やくざ映画に政治的波形を持ち込んだ「日本の首領・完結編」(1978年 中島貞夫監督)などにもその姿を見せた。
一方の右太衛門は任侠映画への出演を拒否し、東映を去って活躍の場を舞台に移していった。

岡田茂(左)らと談笑する晩年の千恵蔵

千恵蔵の履歴を見てゆくと、戦前に自らの千恵蔵プロダクションの運営に関わったことからくる経営感覚と自らの役柄を固定しない柔軟性があることがわかる。
「鴛鴦歌合戦」の飄々とした青年ぶり、「血槍富士」での実直・素朴な中年下郎ぶり、「日本暗殺秘録」での狂信集団の老黒幕ぶりを見るにつけ、演技者としての素質・素材の良さに改めて感心する。

では、東映時代劇の最終場面であり、千恵蔵の定番時代劇の末期である60年代に入ってからの作品を、ラピュタ阿佐ヶ谷の「東映時代劇まつり」から3本見てみる。

ラピュタ阿佐ヶ谷のロビーには、東映から35ミリ上映用プリントが届いていた

「半七捕物帖・三つの謎」 1960年  佐々木康監督  東映

「半七捕物帖」は岡本綺堂という、明治生まれの小説家による新聞小説が原作。
江戸時代に三河町の半七親分と呼ばれた岡っ引きの捕物を江戸情緒豊かにまとめて人気を博した。
この小説の成功により後年「銭形平次」「人形佐七」「若様侍」などの捕物帖小説が生まれた。

「半七捕物帖」の戦後唯一の映画化が本作。
おそらく東映が期待したほどヒットはしなかったのだろう、シリーズ化はされなかった。
テレビドラマとしては1966年からの長谷川一夫主演によるものが極めつけで、その後は、尾上菊五郎、里見浩太朗なども演じている。
原作が半七の華々しい活躍よりも江戸の市井の様相や人情を伝えることに力点が置かれていたことから、長谷川一夫のキャラクターにふさわしかったようだ。

映画界では、60年代に入ってから、千恵蔵の看板シリーズである「いれずみ判官」が62年に終了するなど、50年代までの絶対的人気に衰えが目立っていた。
千恵蔵主演のシリーズもの時代劇は製作されず、「十三人の刺客」(63年)など集団抗争劇に出演したり、「俺は地獄の手品師だ」(61年)など、刀を拳銃に持ち替えた現代劇に活躍の場を移していった。

演技者として晩年を迎えようとしていた千恵蔵だが、本作「半七捕物帖」では持ち味を発揮した。
年齢からか、江戸の腕利き岡っ引きとしては機動性に欠けるが、鋭い推理とあふれる人情味はますます健在で、原作「半七」が持っているであろう、江戸情緒を舞台にした岡っ引きの親分にふさわしかった。

共演は、番頭格の子分に東千代之介、半七の手先となる町の遊び人に鶴田浩二、愛人のために誤って異人を斬ることになる若侍に沢村訥升。
女優陣には千原しのぶ、花柳小菊のベテラン陣に、若手から東映三人娘のひとり桜町弘子。
ここでは全員妙におとなしく演じており、決して御大の演技の邪魔をしないのは、さすが東映時代劇で培ってきた俳優陣のチームワーク。
唯一、映画では新人と思われる沢村だけがガツガツとした動きを見せた。

監督は戦前の松竹大船で清水宏、小津安二郎の助監督に付いた佐々木康に、脚本:比佐芳武、編集:宮本信太郎の東映時代劇黄金コンビ。
だが、このコンビでも時代劇黄金時代のテンポがでない、いつものキレがない。
あるのは静かな調子で御大千恵蔵の人情味と人の好さが醸し出す江戸情緒。

プレスシート。左下が沢村訥升

映画は3話構成のオムニバス方式。
千恵蔵らはもちろん、鶴田、千原などは2話、3話とまたがって登場する。
オムニバス構成は、緊張感の持続と展開の早さを狙った新工夫ではあるが、なにせ映画全体を流れる基調は、御大の人情味あふれるゆったりとした江戸情緒。
工夫が斬新とはなっていない、それがいいのだが。

東映撮影所のそして時代劇のお約束として、奉行所役人(武士)と岡っ引き(町人の身分外に位置する、無宿もの、やくざ者)の、決して越えられない身分の違いをきっちりと描き分けている。
また映画全盛期ならではの贅沢が垣間見える。

例えば横浜異人用の遊郭のセットが、ワンカットだけなのに、顔見世の建物の作りと奥に潜む白く首を塗った女郎達の妖艶がしっかり作り込まれていていた。
監督が都度指示したというより、勝手知った撮影所のスタッフが脚本の意を得て準備したものなのだろう。

このように、女優の歩き方、口調、シナの作り方、着物の襟の着こなし、ひいては玄人筋の女性の描き方など、時代考証以前の当時の風俗の再現は、東映時代劇を見る楽しみの一つである。

若侍役の沢村訥升という若手は、歌舞伎出身なのか、走っても頭の位置が動かないうえに、腰が据わった太刀さばきを見せる。
何より、見得を切る時の目や唇のひん剥き方が、白塗りドーランと合わせてサイレント時代劇の剣戟スターのようで、逆に新鮮味があった。
時代劇新スターの素質は十分とみたが、出てきた時代が遅かったのか、その後の活躍を寡聞にして知らない。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

「勢揃い関八州」  1962年  佐々木康監督  東映

実年齢が還暦近い千恵蔵が國定忠治を演じるセミオールスターもの。

忠治の味方に、高田浩吉、北大路欣也、松方弘樹、若山富三郎、山城新伍。
敵方に月形龍之介、近衛十四郎。
女優陣は久保菜穂子、扇千景、北沢典子。

配役をみると男優陣は若手抜擢、女優は新東宝など他社からの移籍組が多く、顔ぶれが50年代の東映時代劇から様変わりしている。

オリジナルポスター

弱気を助け強きをくじく。
己の身分はわきまえ(やくざ者は士農工商の身分制度の外)、義理人情に厚く、金払いはよい。
それゆえに男は従い、女は慕う。
子分を従えれば常に冷静沈着、統率力十分。

千恵蔵が演じると、完全無欠過ぎる國定忠治もなぜか納得がゆく。

当時の東映の新鋭脚本家だった結束信二のシナリオには、新趣向として登場人物らの葛藤なども描かれる。
例えば、関八州の代官として忠治に立ちはだかる月形龍之介と、浪人として忠治を付け狙う平手深酒(近衛十四郎)の千葉道場以来の腐れ縁とその後の二人の分かれ道を述べてみたり。
忠治の子分格だったヤクザが代官から十手を預かり、目明しとなったがために分不相応に成り上がり、女(久保菜穂子)を巡って忠治と対立したり。
唐突に、森の石松を登場させてみたり。

殺陣の場面ももはや千恵蔵の威光に乗っかることもなく、北大路、松方の若手二人に大暴れさせ、また殺陣の舞台も、50年代に多かったであろう、屋敷内や街中でのみ行われるのではなく、森の中や水たまりのある谷底で、水を被ったり泥を浴びたりして行われる。
60年代に入って流行してきた「リアルな」殺陣の影響であろう。

ラピュタのロビーに掲示されたチラシ

テンポの良さ、スピード感は50年代の東映時代劇そのままに、スターらが続々といい場面で現れるなど、伝統を引き継いでいる。

また、佐々木監督の持ち味である、ロマンチシズムとミュージカル志向はいつもながらに心地よい。
久保菜穂子や扇千景らの愛する男たちへの情念。
ピンチの北大路が飛び込んで難を逃れた旅芸人一座のヒロイン北川典子との淡いロマンス。

佐々木監督手練のレヴューシーンは一座が舞台。
北川典子の踊りや千原しのぶの水芸などが華やかで艶やか。
やっぱり東映時代劇はこれがなくちゃ!

孤高の達人平手深酒を演じる近衛十四郎が殺陣は一番うまかった。
足の運び、剣さばきと見ごたえがあった。
一方、千恵蔵は上半身のみ映す殺陣シーンで、足の運びがすでに心もとなくなっていたのか?

森の石松役でコメデイリリーフ的に出てきた山城新伍。
すでに後年の役柄の原点を見出していたようだ。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

「勢揃い東海道」  1963年  松田定次監督   東映

さあいよいよ千恵蔵時代劇の、そして東映時代劇の最終章だ。
時は1963年、正月公開の文字通りオールスター映画。

千恵蔵はもちろん、両者並び立たずといわれた市川右太衛門が出ている。
御大そろい踏みとあらば、若手の人気スター中村錦之助と大川橋蔵も座視はできまい。
東千代之介、大友柳太朗の二人もはせ参じよう。

外様の高田浩吉、売り出しの里見浩太朗、北大路欣也、松方弘樹はもちろん動員だ。
女優、といっては失礼なほどのカンロクの美空ひばりにも一肌脱いでもらって、花を添えるのは演技派久保菜穂子と今が盛りの丘さとみに桜町弘子(東映三人娘のもう一人大川恵子は前年に結婚引退)。

オリジナルポスター

本作が東映時代劇の最末期にあったのは、東映時代劇のエース監督松田定次が、この年63年に4作、64年に2作、65年に1作と監督本数を減らしてゆき、69年の2作をもって映画からテレビに移る過程の作品で去ったこと。
また本作では準主演の大川橋蔵の東映オールスター最後の出演作であり、かつ名コンビ美空ひばりとの共演も最後であることにも表れている。
ちなみに、日本映画全体で1960年には168本作られた時代劇が1962年には77本になり、1967年にはわずか15本となってゆく頃に製作されたのが本作である。

脚本は戦前の新興キネマから戦時統合された大映を経て、戦後、大映で活躍していたという高岩肇。
50年代に入って、新興キネマ時代の盟友松田定次の引きで東映に移り、60年代に入ってからは各社で活躍した。
代表作に「血ざくら判官」(54年)、「二・二六事件脱出」(62年)、「忍びの者」(62年)、「夫が見た」(64年)、「春婦伝」(65年)、「若親分」(65年)、「眠狂四郎無頼控・魔性の肌」(67年)などなど。
各社にまたがる異色作を手掛け、特に市川雷蔵のヒットシリーズを生み出している点が、この脚本家がただものではないことを示している。

さて、本作「勢揃い東海道」。
ご存じ清水の次郎長の荒神山を巡る縄張り争いを主軸に、次郎長の親分ぶり、子分たちの義理人情、女房達との板挟み、堅気とやくざのけじめ、武士階級との間の厳然たる身分の差、義理を欠いたやくざの悪辣さ、を横軸に繰り広げられる。
そこへ幕末の志士山岡鉄舟が登場し次郎長を助ける。
人情味あふれる次郎長親分には千恵蔵に扮し、豪快な殺陣と貫禄で右太衛門が鉄舟で登場する。

映画の前半は橋蔵とひばりの夫婦のやり取りをじっくり見せる。
子が生まれたばかりの仲のいい夫婦、(映画ではセリフを全部覚えてから現場入りしたという)ひばりの母親ぶりが甲斐甲斐しい。
世話になった次郎長主催の花会(博奕大会)に夫婦子連れで清水にやってきて、そこで耳にした荒神山を巡る一件。
義理の親父の悪徳三昧に、掘れた女房に三行半を突き付けて、橋蔵、仁義を欠く義理の親父に殴り込みだ。

ひばりとの息の合った夫婦ぶり。
そのしっとりとした場面を尺を取って見せた後、義理を立ての殴り込み。
珍しや橋蔵が惨殺されるが、次郎長親分への義理立てと、惚れた女房への三行半、その親父へのやむに已まれぬ反逆、それぞれの葛藤が十分描かれているから橋蔵の悲壮感が生きる。
死してのみ通る仁義の世界も納得感がでる。
まだまだ(映画俳優として)いけたんじゃないの、橋蔵。

若手として、松方弘樹ともども売り出し中の北大路欣也。
二人のとっぽい若者ぶりが、コメデイリリーフ的にアクセントとなっている。
また、二人の、特に北大路の扱いには東映の期待感がにじみ出る。

両御大も頑張っている。
ラストの殴り込み。
千恵蔵の殺陣は鬼気迫る。
表情だけではなく足の運び、ドスさばき、全身で魅せる。

右太衛門は殺陣では脇に回り、貫禄で勝負。
荒神山の手前で悪徳役人らに行く手を阻まれた次郎長一家、指物次郎長も役人相手では「お慈悲」を乞うしかないピンチに颯爽と馬で駆け付ける鉄舟こと右太衛門。
登場ぶりがいい。

時代劇の終末観がどこか漂うこの映画。
どうしてもこの時期に勃興した「リアル」な時代劇の、あるいは任侠劇の影響がある。

いつもは隅々まで明るい照明も、橋蔵とひばりの場面など、本人たち以外は背景など暗めのライテイング。
橋蔵の惨殺シーンは、のちの任侠映画のテイストを漂わせる。

東映三人娘の丘さとみが、芸者姿で出てきたときだけはパッと画面に花が咲き、その時だけは懐かしい東映時代劇のテイストだったが。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集パンフより

千恵蔵、渾身の殺陣が決まった後は、富士を見上げて全員が勢揃い、千恵蔵と右太衛門が握手してのラストシーン。この握手、来るべき御一新の世には次郎長と鉄舟が協力して新しい世の中を作ろう、ということなのだが、見ていて東映時代劇の終焉を前に両御大がお疲れの握手をしているかのように見えたのは筆者だけだったろうか。.

(おまけ)  佐々木康監督について

ここで、「半七捕物帖・三つの謎」「勢揃い関八州」の佐々木康監督について、1993年刊の自伝「悔いなしカチンコ人生」より経歴を抜粋してみる。

「悔いなきカチンコ人生」表紙

・1908年、秋田県生まれ。
・1917年、早稲田大学卒。
・1928年、松竹鎌田撮影所入所。清水宏監督に師事。「ズー」が一生の愛称となる。

・1929年、小津安二郎の助監督時代の編集作業が後年役に立つ。
・1931年、「受難の青春」でデヴュー。
・1937年、『音楽映画』が得意ジャンルとなり、音楽に俳優の動きを合わせるプレイバック手法に熟達。
・城戸四郎松竹撮影所長に「ジャーナリズムにもてはやされる『映画作家』に育てるためにお前を抜擢したのではない」と言われ、以降、娯楽作家への道を徹底する。
・1939年、音楽映画の大作「純情二重奏」を高峰三枝子らの出演で製作、大ヒットする。

佐々木康デヴュー作「受難の青春」

・1945年、戦後第一作「そよかぜ」と挿入歌「リンゴの唄」がヒットする。
・1946年、「はたちの青春」で日本映画初のキスシーンを演出。
・1952年、東映に移る。満映で世話になったマキノ光男に口説かれた。城戸所長も了承し松竹は円満退社。

戦後第一作「そよかぜ」

・東映移籍第一作は、片岡千恵蔵主演の「忠治旅日記・逢初道中」。
・以降、東映在籍の13年で86本の作品を撮る。市川右太衛門とは息が合い「旗本退屈男」シリーズなど20本を撮った。右太衛門は大仕掛けな演出を好み、撮り方に注文も付けた。佐々木はそれを受け入れ、気に入られた。なお千恵蔵は監督の演出に従う人だったという。
・美空ひばりとは1949年の「魔の口笛」以降19本の作品を監督した。
・1957年、シネマスコープ第二作「水戸黄門」で興行収入3億円の東映新記録を達成。オールスター映画は佐々木の得意ジャンル。スターらの気に入るように、またその個性を最大限生かすように演出した。

美空ひばりと佐々木

・同年、マキノ光男死去。マキノの死が東映時代劇の寿命を三年は縮めた、と佐々木。
・1964年東映を退社し東映京都プロダクションに転籍。テレビ時代劇を監督する。近衛十四郎の「素浪人月影兵庫」、大川橋蔵の「銭形平次」などを撮る。生涯で映画168本、テレビ約500本を演出した。

東映時代劇全盛期、「曽我兄弟・富士の夜襲』(1956年)撮影風景



佐々木の演出家としてのモットーは、スターに気持ちよく演技させる環境づくりにあった。
思い通りに演技してそれが銀幕に映え、また大向こうに受ける華と技量を持ったスターが東映にはいた。
映画史からはほとんど無視されているが、50年代の東映時代劇は日本映画史における黄金時代だったのではないか。時代を反映した明るさがそこにはあった。
娯楽映画に徹した東映時代劇の現場の功労者が、監督の松田定次と佐々木康だった。
惜しむらくは興隆に甘んじ、また多忙を極めた多産体制の中で、定番を繰り返したことが60年代の衰退につながったか。

とはいえ黄金時代の文化的蓄積があったからこそ、60年代初頭の「リアル」を目指した時代劇のあだ花が咲いたのであり、その後の任侠映画の勃興があったのだろう。
佐々木康監督は、東映時代劇の興隆の真っただ中にあっての生き証人だった。

「悔いなしカチンコ人生」目次とカラー口絵


冬の山陰・北陸夜行列車の旅⑨ 富山地方鉄道と立山連峰

さて山陰・北陸の旅も5日目をむかえたこの日は福井から富山に移動しました。

ハピーライン福井鉄道で金沢まで

まず、福井から金沢行列車にICカードで乗車。
車窓は雪景色です。

続いて金沢駅で富山行きの列車にそのまま移りました。
車内はインバウンドで満席。
ボックス席の日本人男性の斜め向かいが空いていました。
男性はすぐ下車、すると向かいに日本人の若い女性が二人座りました。

昔はボックス席で相席となるのは当たり前でした。
山小舎おじさんが中高生の時、札幌から函館行きの急行ニセコに一人で乗っていたら、途中から3人組の女性が乗り込んできて相席となりました。
彼女らは当たり前のように普通の音量で普通の内容の会話をお互い交わしておりました。
聞くともなしに、彼女らが同郷の21歳の友達同士だということがわかりました。

いつからか、日本では車内の相席を避けるようになりました。
現在では長野県内の高校生など決してボックス席のおじさんなどには寄り付きません。

金沢で富山行きに乗り換え

満席以上の乗客を乗せ富山に着きました。
ここで問題が発生しました。
福井から金沢までは、ハピライン福井鉄道、金沢からは、あいの風とやま鉄道の運行となっており、福井乗車富山下車の場合ICカードでは精算できないというのです。
富山駅の改札口でICカードデータの消去をしてもらい、あいの風とやま鉄道分の運賃をその場で現金で支払い、ハピライン福井の運賃は福井に電話して現金書留で680円を支払はなければならなくなりました。
しかも現金書留量、切手代の510円ほどはハピライン持ちなので、実際の送金額は100円に満たなかったのです・・・。

富山駅に到着

旅の終盤でのトラブルに疲れて富山駅構内をさ迷うと、駅構内ではテーブルが並べられ、即席のステージが設置され、あまつさえ巨大なアンコウが吊るされている光景が目に入りました。
日曜日の催しとして、近県の名産を集めたフェアが行われるようで、駅前には早くも人が並んでいます。
アンコウ鍋が湯気を立て始めています。
地元の人々による活気です。

駅構内では催し物が
吊るされたアンコウ

一方、富山駅の構内、駅ビルは、福井駅の数倍の規模で混雑しています。
こちらは観光客による賑わいです。
駅ビルの回転ずしに並ぶ人の数と殺気立った雰囲気は、福井駅の比ではありません。

駅ビルの売店にて。富山といえば鯛のかまぼこ
ケロリンも富山発祥だった

旅行中ここまで我慢した寿司を食べるため、駅前の回転寿司に並びました。
半分ほどがインバウンド客で、カウンター内の職人が「ニーハオ」などと愛想を振りまくような店です。
テレビの番組で回転寿司の全国ナンバーワンになったとありました。
せっかくなので、ノドグロ、ズワイガニ、シロウオなどをつまみました。

テレビで有名な駅前井の回転寿司
ノドグロ
ズワイガニとイカ

路面電車に乗って市の中心部を一回りしました。
合図がないと停留所は通過する、いわゆる路面電車です。
途中、お城で降りて天守閣を上りました。
資料館には富山の薬売りの歴史などが展示されていました。
行商で財を成した富山の先人たちはそれを銀行などに投資し、地元に還元したとありました。

路面電車
富山城

立山を見たかったので、JR富山駅近くの富山地方鉄道(電鉄)駅へ行ってみました。
切符売り場の女性がとても親切な人で、「立山を見るなら電鉄線の立山駅がいいが、倒木のため一部不通。途中の岩くら寺という駅までは行っている」と案内してくれました。

富山地方鉄道、富山駅

富山は「鉄軌道王国」とも呼ばれているそうで、なるほどJR北陸線を継ぐ第三セクター線のほか、富山地方鉄道が3本の路線をつなぎ、市内には路面電車も走っています。
富山地方鉄道の不二越・上滝線に乗れば立山の麓に近い場所まで行けるのです。

岩くら駅行き

途中までは郊外の住宅地を走り、雪景色の中を立山方面に南下する電車に乗ります。
天候はどんよりしており、写真などで見る鮮やかな立山連峰の秀峰はなかなかその姿を現しません。
途中、遠方に雪山が見えましたが、立山なのかどうか?
そのうち終着駅に着きました。

立山連峰?

終着の岩くら駅にはびっくりしました。
昭和初期の時代設定にも使えそうな年季が入った駅舎です。
駅の案内板、切符売り場などは設置されてから幾年たっているのでしょう?
この先は乗り換えが必要なターミナル駅というのもいいです。
周りの風景、雰囲気ともマッチしています。

岩くら駅駅ホーム
ホームの案内板
駅のホーム
改札口
駅舎外観

あいにく立山の姿は拝めませんでした。
ただこの駅の先も線路が続き、立山連峰をトンネルで越えて黒部ダムを越えると長野まで続いていのるだと思うと、別の季節に再訪してみたい思いを止めることはできませんでした。

ポスターに見る立山連峰。こういう景色を見たかった!

JR富山駅に戻り、新幹線の切符を買って長い旅を終えました。

北陸新幹線の開通は北陸地方にとって時代の契機となっていました。
駅周辺は中央資本のホテル群が林立し、駅ビル内には全国チェーンの飲食店などが軒を連ねています。
ただ、その賑わいを一歩越えるといつもながらの落ち着き、ひなびた地方都市そのままの姿を、敦賀も福井も富山も見せています。

新幹線が伸長していない、鳥取、島根は駅そのものは便利になっていますが、駅前はまだ中央資本の毒牙にかかっていませんでした。
インバウンド客が集まる場所とそうでない場所もはっきりしていました。

次回の旅は軽トラでの気まま旅でもいいし、山陰を出雲から先へ向かう旅でもいいし、富山から立山を越える旅でもいい・・・。
また元気で行きましょう。

最後の旅飯(立山そばと鱒寿司)

冬の山陰・北陸夜行列車の旅⑧ 福井鉄道と居酒屋での交流

敦賀から福井に来ました。

JR北陸線のこの区間はいつの間にか、ハピラインふくいという第三セクター?になっていました。
車内はこれまでの山陰線や小浜線と違ってアジア系のインバウンド客が乗っています。
北陸新幹線運行の区間に入りいよいよ観光地本番の感がします。

福井駅前

ICカードで降りた福井駅の駅ビル構内にまずびっくり。
駅本体とつながったビル内には、回転ずし、ソースカツ丼、海鮮丼などの飲食店が贅を凝らして並んでいます。
カウンター方式の回転寿司店の脇のウインドーには、鮮魚や寿司折などの水産物がキラキラ光って売られています。

首都圏や有名観光地ならば人が押し掛けて殺気立つのですが、まだまだ規模が小さく、人出が少なく落ち着いた雰囲気なのが安心します。
福井の名産品も売られています。
日本酒や銘菓羽二重餅が目立つのも、福井らしくひなびています。

駅ビルの海鮮店。気合が入っている
駅ビルの回転ずし。入店待ちが少々
色とりどりの海鮮折

一方、化石産出で有名な福井県は恐竜で町おこしもしており、エキナカ、駅前は自動で動く恐竜の模型があちこちにあります。

駅前の恐竜

さて福井でどうしましょう?
駅の観光案内所を訪ねることにしました。

案内所で、「路面電車に乗ってみたい」というと、係の高年に差し掛かった美人の奥さんが「1日券を買って、武生まで行ったらどうでしょう。電車は一部は路面を走っていますが(正確にいうと路面電車ではありません)」と返答してくれました。

なるほど市内を出ると軌道を走る電車なのだな、路面電車が乗降客がない駅では停車しないのに対し、JR線のように全駅で停車するようだし、と思いつつ、吹雪の駅前を郊外電車乗り場まで行って、無人の販売機から1日券を買い、電車を待ちました。

福井鉄道の駅前停留所

駅前から小一時間走って隣の越前市にある武生駅に着きました。
古い町が残り、いわさきちひろの生家が残っているところですが、現在ではJRと福井鉄道の駅前にショッピングセンターが一つあるような地方都市です。
何せ舗道も大雪で歩行が困難なので、1時間ほど市内をぶらついて折り返しの電車で福井へ戻りました。

福井鉄道車内

ここで今夜の宿探し。
ネット経由はあきらめているので、とはいえ安めのビジネスホテル情報をネットで探し電話してみました。
駅からは福井電車で数駅先、料金3000円の宿が見つかりました。
風呂、トイレは共同です。
電話してなかなかつながらず、車で来るなら駐車場が2,3台しかないからダメ、チェックインはわかるように鍵を置いとく、という、電話口のおかみさんの応対も気に入りました。
後は夕食の場所探しです。

この日の泊りは市内のビジネスホテル。風呂が自慢
個室内。不自由なく寝られました

福井電車を降り、福井駅前の観光案内所へ性懲りもなく出かけました。
先ほどのご婦人とは異なる、特別に親切な方が、此方のリクエストに応えてくれました。
飲み屋は駅近くの片町という場所にあること、中でも庄屋という居酒屋がおすすめだと。
「えつ全国チェーンの庄屋?」とがっかりした山小屋おじさんに、そうではなく地元の店との案内。
ご婦人は、こちらが持っていた飲み終わったコーヒー缶を「捨てましょう」と控室のゴミ箱へ捨ててもくれました。
福井に対する印象が爆上がりしました。

無人?のホテルでメモと一緒に置いてあったカギを受け取り、投宿。
出直した片町のアーケード街は歩く人もいません。
目指す庄屋を見つけ戸を開けました。
6割ほどの入り、活気はあります。
安心してカウンターに着席、すぐ隣は独酌の中年男性でした。
この後約二時間ほど、隣の中年と話が弾んだのでした。

今年60歳で現役の勤め人だという中年さん。
兵庫県出身、関西弁のイントネーションで話をそらしません。
若いころの北海道ユースホステル旅の話から、地元の兵庫県の沿線情報、隠岐の島をはじめ出張で歩いた全国各地の話まで。
こちらの島根からここまでの旅のルートを聞き「西村京太郎のトラベルミステリーのようだ」と何度も繰り返します。
この居酒屋がお気に入りで、福井の近くに泊まる際はここに寄るとのこと。
こちらから「敦賀のてんてんはよかった」というと興味深そうにしていました。

関西人らしくそつなくこちらを立て、当たり障りない話に終始しようとする姿勢がもどかしかったのですが、思わずこちらが漏らす大坂維新の悪口なども「日本はどこやらの国と違って、何喋っても自由ですから」と笑っていました。
その店で頼んだ刺身盛り合わせとフキノトウ天ぷらが冷めるまでしゃべり倒し、中年さんが帰ってから熱燗とおでんで締めました。
ホールには日本人のご婦人が二人ほどおり、マメに動きつつ客対応もそつなくこなしておりました。
中年さんが帰った後で「あのお客さんは常連さんで、父親を連れてきたこともある」と話してくれました。

ええだけ飲んで、夜でもここだけは不夜城のような福井駅周辺をかすめ、福井鉄道で宿へ戻り、自慢の風呂に入って暖まりました。
明日は6時の始発で福井駅に向かうことにして就寝です。

居酒屋からの帰り、福井駅周辺の明るさ

次回、最終回・観光名所に変貌した富山の様子をお楽しみに。