戸隠神社 足腰健康守 

この冬に家族で戸隠神社へ行き、山小舎おばさんが奥社で足腰のお守りをもらって帰りました。
しばらくすると携帯に付けていたお守りのひもがぷっつりと切れました。
お守りが守ってくれたのか、不吉なことがあるのか、ちょっと心配になりました。

自宅から山小舎へ戻った山小舎おじさんは、再び戸隠神社へ行ってお守りをもらいなおすことにしました。

4月のGWのある日、軽トラで戸隠に向かいました。
長野市内をかすめ善行寺から戸隠への道をたどります。

急坂を上がりしばらく行くと飯綱高原という場所に出ます。
大座法師池のほとりに蕎麦屋や茶店が並び、キャンプ場などもあるリゾート地です。

飯綱高原の大座法師池

法師池昼になったので軽トラを止め蕎麦屋に入りました。
満員で食べ終わるまで1時間ほどかかりましたが、手打ちの二八蕎麦を一気にすすりこみました。
待たせたお詫びなのか、野菜の天ぷらが2つサービスについていました。

蕎麦屋で食べた二八蕎麦

飯綱高原から戸隠まではさらにひとっ走り。
戸隠の集落では桜が満開でした。
戸隠神社中社の鳥居の周りには観光客がたくさんいました。

戸隠神社中社の大鳥居

奥社の駐車場に着きました。
そこから鳥居をくぐり参道を歩きます。

約2キロの参道は冬の間には見ることができないほどの参拝客が歩いていました。
今はやりのインバウンド客の姿もありましたが、圧倒的に多いのは日本人の参拝客。
家族連れやカップルが思い思いに歩いています。

ここまで来てせかせか歩く人の姿はなく、いいムードが流れています。
由緒ある神社への参拝の前の心身を整える過程を楽しんでいるかのような人の流れです。

戸隠神社奥社の大鳥居の混雑
奥社参道途中の随神門は参道の中ほど
隋神門を過ぎると奥社へと続く杉並木が現れる

お守りをもらいに来た山小舎おじさんは、いつものマイペースな歩きではなく、おじさんにしては速いペースで一生懸命歩きました。
ノンストップで奥社に着き、拝礼の列に並びました。
汗を拭きます。
奥社、九頭龍社と拝礼し、社務所に並びます。

奥社で参拝

折角来たので、九頭龍社のお札、お守りももらいました。
目的の戸隠神社足腰健康守りももらって目的達成です。

目的の足腰健康守

夕方に近くなり寒気が押し寄せてきた戸隠の里を下って山小舎へ帰りました。

戸隠エリアは魅力的な場所です。
次回は中社参拝、戸隠地質化石博物館、民俗資料館、女人結界碑などの見学を行いたいと思いました。

バイト開始!

今年も姫木別荘地管理事務所のアルバイトが始まりました。
山小舎おじさんは連休直前からの参加です。

半年ぶりにつなぎ作業服を引っ張りだしました。
4月なので寒さを心配し、つなぎの下には半袖シャツの上に薄めの長袖を着て出かけました。
その日は、日差しが強く暑いほどでしたので、午後は長そでを脱ぎ、半そでの上につなぎという夏のスタイルにしました。

冬の間吊るされていたつなぎ作業服を干してバイトの準備

バイト仲間は例年通りのメンバーがそろっていました。
平均年齢がまた一つ上がりました。
30代が一人いるものの、70代が3人、60代が2人のメンバーでした。

久しぶりに会う方々の元気な顔を見ながら、路肩や側溝の落ち葉を掻きだし、集めて積み込みました。今年初の作業にしては体が動きました。
1日働くと腰が痛くなりますが、汗をかき、なまった体の内部が一巡しすっきりするのが何ともいえません。

今年から支給されたセット。草刈り時の前掛け、メガネ、軍手、ゴム手、帽子など

春先は落ち葉集め、初夏になると草刈りがバイトの仕事です。
これから10月まで週2回ほどのペースで参加しようと思います。

何よりこちら側の都合が優先なので、家族が山小舎に来たり、旅行に行ったり、自宅に帰ったりすることがあるとバイトは休みます。
それでもいい勤務形態なのが気に入っています。

無言館 成人式

塩田平に建つ無言館は、戦没画学生たちの絵画や遺品を展示保管する民間施設です。
毎年GWのころに「成人式」を行うというので行ってみました。

無言館で成人の誓を立てたいと希望する若い人であれば参加できる式が毎年行われています。

上田市の塩田平の小高い山林の中に無言館はありました。
令和6年4月29日。
4月というより初夏の気候です。
新緑の雑木林に囲まれた場所です。
既に駐車場はかなりの車で埋まっています。

無言館駐車場わきの雑木林

入り口に向けて歩いてゆくと、テントが幾張かと椅子が見えました。
受付もあります。

「成人式はこれからですか。一般なんですが」と係の人に聞くと、「一般の方は成人式に参加できません。見学もできません。美術館は開館しています、此方から入場してください。美術館の窓口は出口にあります。」と丁寧に答えてくれました。
残念ながら成人式の様子はうかがえないようです。

無言館入り口。成人式会場が準備されている

無言館はNHK日曜夜の「日曜美術館」という番組で紹介されていたり、県内ローカルニュースで「成人式」のことが報道されていました。
いつかは行こうと思っていました。

館内はそこそこの人出。
戦没した画学生らの作品がかけられ、ガラスケースには遺品が展示されています。
絵の脇には作者の紹介文が添えられています。
見ると20歳そこそこの学生のほか、30歳前後の妻子ある人も多いのに気づきました。
奥さんや恋人、妹などを描いた絵も目に付きます。

油絵が多いのですが日本画の遺品もありました。
展示されている日本画のレベルの高さには伝統を感じました。

子供や若者の見学者も多い館内です。
山小舎おじさんにとっては、戦没時に20歳代前半の画学生達は自分の父親と同年代になります。
自分の父親が20歳前半で残した遺品だと思えば他人事には思えないものがあります。
それらの遺品に、傷んだ状態で、直接(ガラス越しではなく)接することができました。
時間の経過と故人の個性を実感できるようでした。

館内からは戦没が学生らの無念の気配は感じましたが、それは個人的な感慨を前面に出したものではなく、時間の経過もあるのでしょうが、すでに諦観に近いものに昇華されておりました。
戦争が、「個人の体験」から「歴史」となりつつあるようでした。
戦争体験を語る人たちがほとんどいなくなっている時代だからでしょう。

こうして作品が残り、展示されているのは彼らが学生が特別な才能を持つ「エリート」だったからであり、そのすそ野には何万倍もの無名の戦没者がいます。

10年ほど前のサラリーマン時代の仙台赴任の折、休みに訪れた山形県新庄市の郷土資料館で、無名兵士の軍人手帖が、ほかの戦争関連の資料とともに置かれていて、思わず手に取ってめくったことがありました。
思ったよりも固くて薄い紙質でした。

無言館の裏側

美術館を出て駐車場に戻る間に、戸外に設営された「成人式」会場を通りました。
テント内では地元の方々が山菜の天ぷらを揚げ、赤飯の折がテーブルにセットされ、新成人(18歳から30歳くらいまでの希望者)をまっていました。

令和6年畑 ジャガイモ植付け・・・

遅ればせながら4月中ぎりぎりにジャガイモを植え付けました。

キタアカリ種芋5キロを用意

今年の品種はキタアカリ。
男爵に近い品種です。
5キロを植えました。

すっかり芽が出た種芋

例年は男爵を10キロに、アンデスなど希少種を1キロずつ植えるのですが、今年は寄る年波もあり。
また4月中にジャガイモは済ませたかったので5キロにしました。

箕に取り分けて植え付け開始

購入してから10日近くたった種芋はすっかり芽が出ていました。
芽が出るだけなら何ともないのですが、湿気と温かさからカビが出始めているのが心配になりました。

畝は管理機で起こした後、雑草を取り去って鍬で整形しておきました。
土はちょうど良い湿り気があって植え付けにはグッドタイミングでした。

一個づつ間を開けて植える

ともかく5キロを植え付け。

さて今年はどうなるか。

植え付け完了

DVD名画劇場 MGMアメリカ映画黄金時代 アービング・サルバーグのスピリット

アービング・サルバーグは、創世記ハリウッドの第二世代の製作者で、ユニバーサルを経てMGMで活躍し、デヴィッド・O・セルズニック、ダリル・F・ザナックとともに、当時のハリウッドで「奇蹟の若者たち」と呼ばれた。

映画は『ショーマン特有の勘とドラマツルギーに精通し、激しく飛び交う言葉と音とを見事に統一する能力を要求される』製作者がいなければ生まれない、といわれたその製作者の一人がサルバーグだった。

サルバーグは、その存在がのちに伝説となり、スコット・フィッツジェラルドの小説「ラスト・タイクーン」のモデルとなった。

アービング・サルバーグ。妻のノーマ・シアラーと

ニューヨークのユダヤ人移民の中流家庭に生まれたサルバーグは、第一世代のタイクーンたちとは違っていた。

第一世代のタイクーンたちが、『(くず拾い時代に身に着いた癖で)撮影所内を歩き回っては釘が落ちていると口に含ん』だり、『ムッソリーニに憧れて、かの制服を模倣して着用し、部屋にかの肖像を掲げ』たり、『威張り、口汚くののしり、半可通を振りまわすばかり』という、有名なエピソードに見える、育ちの悪さを隠せない、映画館主上がりのユダヤ人たちだったのだとしたら、サルバーグは『手際よく、きわめて説得的で、品がよかった』(1972年みすず書房刊「映画のタイクーン」P80)とされる存在だった。

1972年みすず書房刊「映画のタイクーン」。フィリップ・フレンチ著。表紙はワーナー兄弟

英国人著者による「映画のタイクーン」ではサルバークについて、『看板作品なる、あまりもうけは期待できないが、撮影所に名誉と活気をもたらし、優れたタレントの出演を容易にした作品を制作した。』(同著P80)と評価している。
さらに『芸術的要求と本社営業部に固有な現実的要求との調整をものの見事に果たす能力を持っていた』(同P80)、また『事故の意見をはっきりと正確に表現することができ、絶対に自分が恥じ入る類の映画を作らなかった』(同P80)と述べている。

『サルバーグの存在とその影響力のおかげで、MGMはハリウッド随一の最も華々しい撮影所となり、その体裁の良いスタイルときちんと整った作品、きら星のごとく並ぶスターたちで有名だった』(同P82)とも。

「映画のタイクーン」より

また、パラマウントの制作部長B・P・シュルバーグを父に持つのちの小説家バット・シュルバーグによる「ハリウッド・メモワール」ではサルバーグについて、ハリウッドで最高の教養人の一人だとしたうえで『サルバーグは酒をたしなまず、一日二十時間働き、美人の妻ノーマ・シアラーと結婚後も一緒に住み続けた彼の母親に尽くした病弱な聖人であった』(「ハリウッド・メモワール」P307)と述べている。

あるフランスの映画人もサルバーグについて称賛している。
ピエール・ブロンベルュジェという映画人はのちにジャン・ルノワールからヌーベルバーグまでの映画製作者として名を残したが、若き日、戦前のハリウッドのMGMスタジオでサルバーグとともに、製作中の作品のラッシュフィルムを見て意見を言い合うという経験をした。

ここに山田宏一著の「わがフランス映画誌」(1990年 平凡社刊)があり、著者が1987年の第二回東京国際映画祭に来日したブロンベルジェにインタビューした記事が載っている。

ブロンベルジェは「ほぼ一年間、MGMで彼(サルバーグ)と一緒に仕事をすることができたことが、私のキャリアの真の出発点となったといってもいいでしょう。素晴らしい冒険でした。サルバーグは私にとって映画の学校でした。プロデユーサーは一つのことだけに拘らずにできるだけ広い視野を持たねばならないこと、監督が常に最後まで作品の精神を見失わずに仕事を続けていくことができるようにしてやらなければならないことを学んだのも、サルバーグとの付き合いからでした。」(同著109P)と述べたという。

ブロンベルジェの回想から浮かび上がるのは、効率と興行力のみを追求する製作者像ではなく、映画という文化の創造性をも尊重することができた、ハリウッドプロデューサーの姿だった。

ピエール・ブロンベルジェによるサルバーグについての回想が載っている「わがフランス映画誌」

サルバーグはしかし、1936年37歳の若さで肺炎で死んだ。
彼は製作者としての自分の名前を映画にクレジットしない主義だった。
今回、サルバーグがMGM時代に製作した4本を鑑賞した。

「ベン・ハー」  1925年  フレッド・ニブロ監督  MGM

サルバーグがMGMのタイクーン、ルイス・B・メイヤーと共同制作したサイレント映画の巨編。
1907年に15分のサイレント作品で映画化され、本作が2度目の映画化。
有名なチャールトン・ヘストン主演の「ベン・ハー」(1959年 ウイリアム・ワイラー監督)は、3度目の映画化で本作品のほとんど忠実なリメイク作品。

エルサレムに登場するメッサラ

原題は「Ben-Hur:A Tale of the Christ」。
ローマ時代のエルサレムに住むユダヤ人のベン・ハーが友人でローマ軍人のメッサラの奸計で奴隷にされ、苦辱を味わうが、やがては戦車競走でメッサラを破り、追放されていた母妹との再会を果たすというストーリーに、イエスの誕生から磔までを並行して描くもので、どちらかというとイエスの生涯の描写の方に力点が置かれているんじゃないか?と思わせるほどの作品となっている。
イエスは(かつての日本映画に於ける天皇の描写のように)顔出しはもちろんなく、腕から先しか画面に出てこないが、「誕生」「マグダラのマリアへの許し」「最後の晩餐」「ゴルゴダの丘」などの新約聖書のエピソードはテクニカラーで表現されるという力の入れようだ。

ベンハーに扮するラモン・ナヴァロ(右)

1880年に発表されたという原作をもとにしている。
宗教色が濃い内容で、キリスト教原理主義的な興味を満足させるとともに、ユダヤ人を英雄的に描くというハリウッド的主張を反映した作品となっている。

気になったのは、イエスの誕生を予言して「東方の三賢人」が供物をもって祝った、とわれわれが記憶していることが、本作では「南方の三賢人」としてアフリカからやって来る内容になっていたこと。
また、布教をするイエスを取り巻く信徒が「軍隊」(Rhegion)と表現されていたこと。
史実はどうなのか、日本人とアメリカ人の宗教感の違いから、映画はアメリカ人に迎合した内容としたのか。

キリスト教には1800年代にイギリスで設立された「救世軍(Salvation Army)」という組織がある。
アメリカ人あるいは西洋人にとって、キリスト教と「軍隊」とは親和性があるのだろうか。

ベン・ハーの性格描写も実利的で、上記のRhgion発言のほか、戦車競走に勝ち怨敵メッサラを屠った後「目的を喪失したこれからどうしよう」と悩み「そうだイエスに帰依してRhgionに参加しよう」というが、まるで実利名誉に満足した金持ちが宗教に寄付し布教にいそしもうとするように見える。
そうか、それがアメリカ人の価値観だもんな。

何より目を見張るのはそのスケール。
20年代にはD・W・グリフィスが超大作「イントレランス」を作り、実写では今に至るも空前絶後の大セットと群衆を使って戦闘シーンを再現したが、本作でもエルサレムの城壁のセットの巨大さ、戦車競走の実物大の競技場とフィールドに立つ巨象、実物大と思われる奴隷船などが用意された目を見張る大作である(これらをほとんど実写で再現した、1959年ベン・ハー」もまたすごいが)。

戦車競走の競技場

いずれにせよ正々堂々、何の迷いもない価値観の映画化は、現代の迷いに満ちてヒネくれた映画にはない、王道感と幸福感に満ちたものだった。

迫力ある戦車競走シーン

「戦艦バウンテイ号の叛乱」  1935年  フランク・ロイド監督  MGM

「ベン・ハー」でキリスト教原理主義的満足を観客にもたらしたサルバーグは、本作で権威主義的強権や非人間的な規則などに対して人間性尊重の観点からの批判を試みた。
現実世界の救いのなさをせめて映画館の中でだけでも観客に忘れさせんとするかのように。

史実に基づく映画化だという。
1800年代、西インド諸島の植民地経営のため、奴隷の食料用にパンの木の苗を、タヒチから挑発して運べ、との命令でバウンテイ号がイギリスポーツマスを出港する。

強権的で私利私欲の塊の艦長にイギリス人名優チャールズ・ロートン。
彼に反発し反乱の首謀者となる士官にひげをそったクラーク・ゲーブル。
希望に燃えて乗船するが、艦長にいじめられ抜く青年士官にフランチョット・トーンという若い男優。

嵐などの困難、士官同士の子供じみたいさかい、そして艦長による水夫たちへのサデイステックな仕打ちなどが繰り返されながら、バウンテイ号はアフリカ喜望峰を回り、インド洋を越え、太平洋のタヒチ島に到着する。

チャールズ・ロートンとクラーク・ゲーブル

タヒチでは若者たちが船をこいでバウンテイ号に殺到し、娘たちは船員を歓待する。
タヒチ島民の無垢な歓待ぶりはおそらく史実だったのだろう。

それよりも驚くのは、バウンテイ号乗組員の航海に対する執念だ。
艦長の必要以上の強権ぶりも、行き過ぎとはいえ当時の帆船による長期航海を規律あるものにし、目的を達成するための手段として見ればある意味納得できる。
映画では嵐の夜、自ら舵を握ってずぶぬれになって指揮を執る艦長の姿を描写する。
腕利きで、目的達成のためには強力なリーダーシップを発揮する艦長の姿は、のちの反乱によってボートで追放された後、仲間を叱咤激励して貴重な食料を公平に分配する姿としても描かれる。

たっぷり盛り込まれた海洋シーンはきれいごとだけではない海と公開の厳しさに満ちたものとなっている。

タヒチに着いたバウンテイ号に漕ぎ出す島民

一方、ゲーブルとトーンの両士官ら反乱組は艦長を追放しタヒチの南洋美人をパートナーとして楽園のような暮らしぶりである。
悪鬼のように復讐に再来する執念の艦長を見て、ゲーブルが逃げ出し、トーンは無実を信じ艦長に同行して帰国する。
それぞれの結果や如何。

フランチョット・トーンとタヒチの恋人

カタリナ諸島での長期ロケ。
当時珍しかったであろう南洋風俗をたっぷり盛り込んだドキュメンタルな楽しみにも満ちた作品。
島民には現地語?をしゃべらせ、ゲーブルらを現地娘をくっつかせる(ゲーブルの相手はメキシコ人女優だという)。
当時としては、差別感の少ない視野の広い作品だったのではないか。
人間性の勝利を謳う主題も製作者サルバーグの主張に沿っているものと思われる。

アカデミー作品賞を受賞した本作は、のちにハリウッド映画の1ジャンルとして定着した、南洋ものの走り?の作品で、たっぷりとロケされた南洋情緒に、悪意や差別感がなく品の良い作品となっている。

「桑港」  1936年  W・S・ヴァンダイク監督  MGM

この作品に描かれたものは製作者サルバーグの理想なのかもしれない。
人間性への共感、精神の気高さへの尊重、スペクタクルを越えて貫かれる愛。
それらが明るく、格調高いトーンで謳いあげられている。

舞台はサンフランシスコ。
歴史上の大地震がシスコを襲う1906年の新年が明けた。
西海岸の新興都市で享楽と悪がはびこるこの町の歓楽街でパラダイスという名のレヴュー付きバーのオーナーのブラッキー(クラーク・ゲイブル)のもとに火事で焼け出された歌姫メリー(ジャネット・マクドナルド)が職を乞いにやってきた。
マリーのオペラ仕込みの本格的な歌声に驚くも高給で雇い入れるブラッキー。

パラダイスにてゲーブルとジャネット・マクドナルド(右端)

ブラッキーは地元育ち。
若くして悪の道に入るが根は人間性に満ちた男。
ポーカーに負けた相手に「コーヒー代だ」と100ドル渡したり、店のお祝いには従業員全員シャンペンを奢り掃除係のおばさんも誘う。

ブラッキーには幼馴染で神父になっている親友(スペンサー・トレイシー)がいる。
一方、メリーに一目ぼれしてオペラにスカウトしようとするライバルのバーレーという町の顔役がいて最後まで二人の邪魔をする。

乱暴だが人間性に満ちた男ブラッキーが、純真な歌姫マリーに惹かれる。
マリーは己の打算や幸せ(ブラッキーへの愛)よりも魂の救いを優先する女性だった。
二人の心を見抜き、見守る神父。

マクドナルドとゲーブル

すったもんだの挙句ブラッキーのもとに戻り、黒いストッキング姿のミニスカートで舞台に出ようとするマリーを、パラダイスの楽屋で止める神父。
親友の反抗に殴って応えるブラッキーだが、マリーは楽屋を去る、本来の自分の役割に改めて気づいたかのように。

そうは言いながらも心ではブラッキーを愛しているマリーは、カフェ組合の出し物コンテストに勝手にパラダイス代表で出場し優勝する。
そこへ駆けつけたブラッキーは、マリーが去った腹いせもあり優勝トロフィーを投げ捨てる。
その時突如として起こる大地震。
ブラッキーは「マリー!」と叫ぶ。

ジャネット・マクドナルド

マリー役のジャネット・マクドナルドは、ブロードウエイのミュージカルスターからハリウッド入り。
吹き替えなしのソプラノを劇中の数々の舞台シーンで披露する。
彼女の持つ品の良さと純真さがマリーの役柄にあっている。
淀長さん解説のシネアルバム「ハリウッド黄金期の女優たち」では、『顔がきれいで、歌もソプラノですごくうまかったからね、凄い女優でした。品もあって、みごとでした』(同書P123)とある。

また終盤の大地震のシーンが大掛かり。
大火災シーンや延焼防止のための建物爆破シーンなどは精巧なミニチュアで再現。
大掛かりな地割れのシーンも再現された。
実写で被害を再現するシーンの数々は、スペクタクルとしても、ブラッキーとマリーの「再生」「再開」への序章としても生きている。

悪の道に染まった人間の救い、愛する人を魂の目覚めへ導く純な心。
それぞれをブラッキーとマリーに託して描く。
理想の高さはサルバーグの信条だろう。
理想が高すぎて、甘く、先が読めるところはこの作品の印象をぼやけさせたが。

「大地」 1937年  シドニー・フランクリン監督  MGM

映画の冒頭、アービング・サルバーグに捧げるとの文言が入る。
公開を待たずに37歳で死亡したサルバーグの遺作にして、サルバーグ映画の完成形といえる作品。

サルバーグの理想像が主役の一人、ルイーズ・ライナーの演技によってもたらされた。

1965年の日本再公開時のパンフレット

原作はパール・バック。
中国で育ったアメリカ人女性である。
彼女によるリアルな中国人の描写とともに、当時のアメリカの世論が中国寄り(ルーズベルトが親中、反日だった)だったためもあり、「大地」は、脚本化され舞台でヒットし映画化された。

ルイーゼ・ライナー

主役の中国人夫婦を演じるのは、ポール・ムニとルイーズ・ライナー。
どちらもオーストリア系のユダヤ人で、ムニは幼少期にアメリカに移住し、ライナーは現地で舞台女優として活躍ののちハリウッド入りした。
日本人から見ると西洋人が中国人を演じるのは、顔の造作、ふるまい方を見ても無理がある。
英語を喋って中国人を演じるのだからなおさら。
特にポール・ムニの大げさなジェスチャーと尖った鼻。
無理やり作った辮髪姿が似合わない。

村民を指揮するワンルン

ハリウッド映画である以上、主役は英語でしゃべらなければならないし、本作品はドキュメンタリーではない。
むしろ、ルイーズ・ライナー扮する農婦オーランの表情、体の傾け方、ふるまいに、製作陣による中国にむけての(それ以上にアジア全体に向けての)精一杯の関心と尊重を感じることができる。

ワンルンとオーランに扮した、ライナーとムニ

オーランは実家が飢餓で流浪中に売られ豪農の下女として生活していた。
劇中では奴隷(Slave)と表現されている。
貧農のワンルンといわれるがままに結婚し一家を支えて働き続ける。
口数はごく少なく、いつもうつむき加減、夫への愛情や恥ずかしさは体を傾けて表現する。
すべてを受け入れ、寛容で、感情を主張しない、アジアの女性の生き方であり、ふるまいである。

オーランはまた耐えるだけではなく肝心な時には体を張って主張もする。
彼女によって飢餓にあっても農民の命である土地は残り、都市部へ出稼ぎに出て命をつなぐことができた。

映画の製作陣(サルバーグと監督のフランクリン)は、演技者として力のあるルーズ・ライナーに、メイクを施し、この映画の製作意図を伝えて、西洋人としてはこれ以上ないほどの中国人農婦オーランを作り出した。

オーランに扮するライナーと子供たち

雹が降り出す嵐の中の麦の刈り入れ、辛亥革命間近の都市部での暴動と鎮圧、ラストのイナゴの襲来と闘う人々。
これらのスペクタクルシーンは群衆の数、舞台の広大さなどによって迫力あるシーンになっている。
映画の終盤にスペクタクルシーンを加えてドラマの転換点とするのもサルバーグ流か。

農婦オーランの生涯はまさに大地そのものだ、という本作の主題がルイーズ・ライナーの演技によって見事に現れていた点を称賛したい。

  

生島足島神社でお札をもらう

令和6年の大型連休初日、塩田平の生島足島神社に今年のお札をもらいにゆきました。

生島足島神社

神社に近づくにつれ賑やかな雰囲気が伝わってきます。
休日ということもあり、お宮参りの家族連れが境内を歩いています。

塩田平や上田市の住民にとって、初もうでやお祝い厄落としなどでご縁のある神社です。
お宮参りの家族らは本殿の中に入ってお祓いをしてもらうようです。

本殿への橋の前で

山小舎おじさんは神前にて令和6年の山小舎の安全を祈願。
社務所にてお札をもらいました。

本殿で御参りする人

去年のお札を収めましたが、他の神社のお札は断られました。

神楽殿の方が賑やかなので覗いてみると、巫女さんらが店を出してコーヒーなどを出していました。
神楽殿内に席を設けお客らは上がって休んでおりました。

いつだったか、秋にこの神楽殿で小学生くらいの巫女さんたちが舞っているのを見たことがありました。
所作を間違えないように舞っている巫女さんを袖で見守る中学生くらいの女の子の姿が印象的でした。
彼女も小学生の時に舞っており、次代の巫女さんたちが心配で見守っているのだろうなと思いました。

神楽殿ではコーヒーのサービスが(有料)

晴天に恵まれた神社はとにかく明るくてにぎやかでした。

諏訪大社上社前宮に「初詣」

山小舎おじさんの毎年の地域初詣は4月です。
まず諏訪大社に参拝しました。
今年は上社前宮へ行きました。

諏訪信仰の本山。
諏訪大社4社の最古の社。
上社前宮です。

茅野市にあり、御柱街道と呼ばれる道に面して大きな鳥居が建っています。
上社本宮や下社のように参道に茶店などが建ってはいません。
また境内を仕切る塀がないので、神社が地区の民家や畑と一体化しており、素朴な民間信仰の形態や香りを残してもいます。
明治以前の神仏習合の時代には、周囲をたくさんのお寺が取り囲み、上社本宮までの間は賑やかな参道だったといいます。

観光地化しておらず、熱心な参拝客が三々五々訪れます。

4月には諏訪大社に伝わる奇祭「御頭祭」が行われ、本宮を出発した神輿が前宮を訪れます。
前宮では鹿の頭を備えて神事が執り行われます。
「狩猟」「肉食」がキーワードでもある諏訪信仰の形を今に残す貴重なお祭りです。

鳥居をくぐって一歩中に入ると、そこは素朴で武骨な気配に支配された世界です。

第二の鳥居をくぐり、御頭祭の神事が執り行われる殿の横を上って本殿へ向かいます。
民家の庭先や畑の間の道をとおって、杜に囲まれた本殿に着きます。
一層孤高の風格を感じさせる本殿です。

第二の鳥居
御頭祭の神事が執り行われる神殿

本殿は御柱に四方を囲まれ、麓には清らかな小川が流れています。
神様に今年1年の山小舎の安全を祈願します。

杜に囲まれた本殿
斜めから見た本殿
本殿を囲む御柱と流れる清流

お参りを済ませて、麓にある社務所に向かいます。
コロナのころには閉まっていた社務所です。
今年は宮司さん2人が受付していました。

本殿から下って第二鳥居方向を見る

宮司さんに「家内安全のお札をください」というと、「お札とは天照大神系のもので紙製のもの。本宮でもらえる」と言われました。
「地元の諏訪系の神様のものがいいです。木製で」というと宮司さんはうれしそうな顔をしました。

宮司さんに諏訪大社についていろいろ聞きたくて雑談していると、御朱印帖をもった参拝客が並んだので社務所を離れました。

小雨の降る肌寒い日の諏訪大社「初詣」が終わりました。

山桜が咲く里山

令和6年畑 管理機出動・・・

今年も畑に管理機が出動しました。

令和6年4月も20日を過ぎました。
例年なら畑の耕耘完了はおろか、ジャガイモの植付も終わっており、夏野菜用の畝にマルチ張りをしている頃です。

出遅れた畑作業の進捗を取り戻すべく畑を耕耘しようと、大家さんの納屋から管理機を出して軽トラに積み込みます。

管理機を軽トラに積込み畑に到着

大家さんの管理機。
今年はエンジンの始動に若干時間がかかりましたが、いつも通りに働いてくれました。
さすがはヤンマーの製品、何年たっても性能が落ちません。

ジャガイモの作付け予定の圃場から管理機かけのスタートです。
低速度で走らせながら、縦横十文字にかけてゆきます。
こうすればより雑草が抜け、よく土がこなれ、畝立て等後の作業が楽になるのです。
土の匂いが立ち上ります。

ヤンマー製管理機は今年も変わらず活躍
管理機で縦横うなった畑

カエルが飛び出してきたので捕まえてパチリ。
LINEで写真を送れば小学生の孫(女子)が喜ぶかもしれません。

飛び出してきたカエル君と記念撮影

圃場1枚につき約1時間かかりましたが、4枚の耕耘を完了しました。
日差しが強く、半袖で作業した1日でした。

段々畑4枚を耕耕耘

畑を耕した後は、鍬で畝立てと細かな除草を行い、ジャガイモから植え付ける予定です。

長久保地区を流れる依田川には今年も鯉のぼりが掛かる

茅野市役所のEM菌

茅野市役所の玄関に、EM菌の培養液をもらいにゆきました。

市役所は茅野市の目抜き通りに在ります。

この目抜き通りは茅野出身の小平奈緒さんがオリンピックの500メートルスピードスケートで金メダルを取った時に凱旋パレードをしたところです。

県内最大の地銀八十二銀行の茅野支店や県民のソウルフードを提供し続ける中華チェーン・テンホウなどが、目抜き通り沿いにあります。
市役所は目抜き通りを歩いて駅までは10分ほどの距離です。

茅野市役所全景
正面玄関へ
玄関をくぐったところにEM菌無人スタンドがある

市役所に行けばEM菌がペットボトル1本100円でもらえる、と聞いてから定期的にもらいに行ってます。
市役所の玄関を入り、台に玄関を通る前の場所にEMの無人販売所があります。

EM菌はえひめAIなどと同じく発酵菌です。
腐敗臭、トイレ臭などを無力化します。
また掃除に使うと、重曹やクエン酸などと同じような効果があります。

山小舎では汲取りトイレの消臭のほか、残飯の消臭、床の拭き掃除、台所シンク・洗面所のヌメリ取りなどに使用しています。
使用直後にはEM臭が残りますがすぐ消えます。

EM活性液を購入、100円。この日は1本しかなかった

EMの培養液をもらってくるとポリタンクに入れてさらに培養して使うようにしています。

培養には黒蜜液を使います。
黒砂糖を煮て溶かし、水で希釈して培養液を作っています。

夏などは発酵が進み、ポリタンクが酸っぱいようなにおいになりますが、新しいEM液を加えると、ポリタンクから酸っぱいにおいが消えます。

EMはまた農業で使用されます。
希釈液を農薬代わりに使用したり、土壌改良に使います。
また堆肥や追肥を作る際に投入して発酵系の肥料にします。
EMボカシなどという名前で発酵した元肥料が売られてもいます。

市役所の向いの八十二銀行
市役所の向いのテンホウ

DVD名画劇場 ハリウッドカップルズ③ マーナ・ロイ&ウイリアム・パウエル

「ザッツ・エンターテインメント」というMGM映画の過去の名場面を集めたアンソロジィーがヒットしたのが1974年。
MGM映画50周年を記念しての作品で、当時の「キネマ旬報」(なぜか分厚い号だった)でも表紙を飾る話題でもあった。

山小舎おじさんなどの世代にとっては、同作品中の「雨に唄えば」や「世紀の女王」でのジーン・ケリーの踊りやエスター・ウイリアムズと美女スイマー達のプールを使ったレヴュー場面の、しつこい踊りだったり大掛かりなセットは初見参で大いに目を見張ったものだった。
何より場面場面が持つ、ぜいたくさ、明るさ、世界の不変を信じ込んだような楽天性が楽しかった。
同作に登場する作品のオリジナルを見ようとすればテレビ放送を待つしかなかった時代でもあった。

私は実は「ザッツ・エンターテインメント」を見てはいない。
見てはいなくても、テレビなどで紹介された名場面や「キネマ旬報」掲載のグラビアを見るだけで、今でも記憶に残るほどで、また未知の映画の世界が広がるようだった。

「ザッツ・エンターテインメント」パブリシテイ

「ザッツ・エンターテインメント」はフレッド・アステア、ミッキー・ルーニーらをプレゼンターとして起用し、歴史上の数々のMGM作品を紹介したのだが、その中で誰が歌ったのか、MGMのスターたちを順に紹介する曲があった。
ラジオで聞いたのだろう、その一節が今でも耳に残っている。
『ローデイ・マクドォール、マーナ・ロイ&ウイリアム・パウエル・・・』という一節で、軽快なメロデイに乗って名前が紹介されていた。

歌に登場するロデイ・マクドウオールは「名犬ラッシー・家路」の子役だった人。
エリザベス・テイラー扮する令嬢に譲られたラッシーを心配する少年を演じていた。
彼は長じてからも役者を続けたが次第に役が付かなくなり、「クレオパトラ」撮影に当たり子役時代から親しかったエリザベス・テイラーが呼んでくれたという(エリザベス・テーラーの当時の権力や恐るべし)。

そしてマーナ・ロイとウイリアム・パウエルは、「影なき男」シリーズで名コンビの夫婦を演じて当たり役としたハリウッドカップルだった。
「ザッツ・エンターテインメント」できっちり紹介されているあたり、このコンビがMGMのドル箱だったことがわかる。

ここで、例によって1998年キネマ旬報社刊「ハリウッド・カップルズ」の一項「スクリーンのなかで暮らす夢の夫婦 マーナ・ロイ&ウイリアム・パウエル」を紐解いてみる。

同書によると、マーナとパウエルの共演作は14本あるという。
このうち「影なき男」シリーズは6本。
シリーズのヒットにより『パウエルはMGMと長期契約を結び、マーナはヴァンプ女優のイメージを拭い去り、ハリウッドきっての〈完全なる妻〉といわれるようになっていく。』(「ハリウッド・カップルズ」P128より)

1998年キネマ旬報社刊「ハリウッドカップルズ」
同著、マーナ・ロイ&ウイリアム・パウエルの項

またマーナ・ロイについては我が淀長さんが、芳賀書店刊の「シネアルバム71 ハリウッド黄金期の女優たち」で、『だけどはじめはエキゾチックな裸が売り物の女優だったんだからね。そういうわけで、おもしろい人ですね。いいよね、マーナ・ロイっていう女優。ほんとにいい女優さんです。天下一品の奥様女優。いかにもアメリカ的なね。』(同書P108)と評している。

マーナ・ロイ
中国娘を演じる若き日のマーナ
「映画の友」1950年2月号の表紙を飾ったマーナ・ロイ

マーナ・ロイにとって(ウイリアム・パウエルにとっても)映画史上の評価は定まっている、そのきっかけとなったのが「影なき男」だった。

「影なき男」 1934年  W・S・ヴァンダイク監督  MGM

「影なき男」封切り時の日本版ポスター

記念すべきシリーズ第一作。

監督のヴァンダイクは当時のMGMのエース監督の一人。
原作は戦前から50年代にかけて、ハリウッドに集まって映画の原作や脚本を書いていた小説家たち(スコット・フィッツジェラルド、グレアム・グリーン、レイモンド・チャンドラーら)の一人ダシール・ハメット。

主役のウイリアム・パウエルはブロードウエイからハリウッド入りした芸達者。
20年代後半に演じた私立探偵役に定評があり、MGMのボス、ルイス・B・メイヤーは、本作での起用には賛成だった、がマーナ・ロイをパウエルの妻役に起用するのに反対だったという。

それまでの中国人役やヴァンプ役ばかりの彼女のキャリアからして、無理もなかったが、監督のヴァンダイクが強固にマーナの起用を主張し、三週間以内に撮影を終了するという条件でメイヤーのOKが出たという。
彼女は監督の起用に応え、名(迷)探偵ニックの妻ノラを好演、夫婦役の二人の息もぴったりで作品をヒットさせるとともに、自身の新たなキャラクターを開拓した。

名コンビ、ニックとノラ

この作品、ストーリーを引っ張る主役はあくまでニック探偵で、妻のノラはシルクのナイトガウンや大胆な柄のサマードレス、大きく背中の空いたイブニングドレスに身を包んで彩を添えながら、事件となるやニック探偵に付きまとい、首を突っ込みたがりつつ、ちょっと夫の邪魔をしながら結局は力になる程度の存在・・・

が当初の設定だったのだろう。
が、この作品が描き出したものは、謎解きだけではなく、探偵夫婦の生き生きとした愛情や、ちょっとした互いへのからかいなど、ほほえましくもくすぐったい関係が大きなウエイトを占めていた。
ニックの突っ込みにふくれっ面で返したり、夫の指示を無視して事件に首を突っ込みたがる妻をかわいらしく演じるノラの存在が重要だった。
ノラを演じたマーナ・ロイの魅力が作品を膨らませた。

ニックは退屈のあまり部屋で空気銃を撃つ。心配するノラ

常にアルコールをたしなみながら、妻をからかい、愛し、うっちゃりながら軽やかに身をこなす芸達者なウイリアム・パウエルは、詐欺師のようにも大道芸人のように見え、つまりは古典的芸人の顔とふるまいが身に着いた役者ぶりで、調子よく事件を解決してゆく。
事件の周りの人物は、作品の性格上マイルドに味付けされてはいるが、浮気妻やマザコン息子、牛乳メガネの精神科医など怪しい人物ばかり。
唯一まともな若い女を「ターザンシリーズ」のジェーン役のモーリン・オサリバンが演じている。

ニックが最愛のウイスキーをかける真似。夫婦の戯れのワンシーン

原題は「The Thin Man」。
直訳すると「薄い男」「軽い男」だが・・・。
日本映画で流行っている「シン(ゴジラななど)」とはなにか関係あるのだろうか?

「夕陽特急」  1936年  W・S・ヴァンダイク監督  MGM

シリーズ第二弾。
話も前作の「影なき男」から続いている。

「夕陽特急」オリジナルポスター

休暇先のニューヨーク(第一作の舞台)からサンセットエキスプレスでサンフランシスコに帰ってきた、ニックとノラ、愛犬アスタ(テリア種)も一緒。

地元に帰ったとたん人気者のニックは歓迎を受ける。
かつて事件を解決しニックが監獄に送ることになったっ元犯人は、逆恨みするどころか親し気に寄ってくる。
怪しい人たちや庶民により人気があるのがニック。
内心は感心しないと思いながらも悠然と構える妻ノラが控えているのがこの夫婦らしいところ。

怪しげな中華レストランにて、オーナーをおちょくるニック

留守中に愛犬アスタの連れ合いに子犬が産まれており、よその犬が夜這いに通っていたなどのエピソード。
自宅に帰ってくるなり、知らない人達が自宅でパーテイしているところに出くして台所に対比するニックとノラ。

事件の舞台になる怪しげな中華レストラン・ライチの怪しげなオーナーと蓮っ葉な歌姫のショー。
若き日のジェームス・スチュアートはすでにスターで、クレジットは主役二人に次ぐ三番目、重要なわき役を務める

愛犬アスタが先頭になって事件解決!

あらゆるユーモアと欲望渦巻く世の中を、常にアルコールを求めながらすいすいと泳いでゆくニック探偵。
妻ノラとの仲は常によく、ふいに顔が近づけばニックがノラにキス、好奇心旺盛なノラが事件解決の邪魔になれば叫ぶ妻を閉じ込め鍵をかけるニック(いつの間にか出てきて事件解決に協力しているのがノラのノラたる所以)。

1936年という戦前の微妙な時期にこういったある意味ノー天気な作品を作る所はアメリカの「大国」たるゆえんか。アメリカ風の雰囲気に疑いを持たずに自信たっぷりに描いている。

監督のヴァンダイクは、探偵映画でもスリラーでもなく、健全でちょっと色っぽくかわいい夫婦の機微の描写に重点を置いていてそれがこのシリーズの成功の要因。
良くも悪くも古き良きアメリカの時代がここにある。
主演二人にとっては代表作ともいえる適役ぶり。

DVD版の解説より