「ちくま未来新聞」

千曲市屋代の駅でこの新聞を入手した。
駅の無人スタンドに観光パンフとともに無料で刺さっていた。

6月1日号表紙

てっきり店の広告の間に地域情報が挟まっただけの無料ペーパーかと思って開いてみた。
ところが12面からなる、周辺情報満載の明るさに満ちたミニコミ新聞だった。

千曲市内の郵便局、金融機関、JA、駅などが主な設置先の月刊新聞で、年間3000円で全国に配送サービスも行っている。
何より紙面がにぎやかで明るいのがいい。
編集者はまだ若く、地域情報の発信に意欲的なのだろう。

1面のニュースは、千曲市と(株)アクテイオの連携による防災訓練実施の記事だ。
千曲とアクテイオは防災時に向けて協定しているとのこと。
レンタル自動車の大手である同社を巻き込んでいるのがいい。
県内有数の産業地帯である千曲市の面目躍如だ。

同じく1面には市内の高校2校と、長野市の松代高校の計3校が合併して新たな高校が誕生するという地元の一大ニュースについて。
千曲といえども地方の過疎化が現れたニュースだ。

第一面

2面の市内小学校の新任校長先生の紹介記事が地元密着で嬉しい。
ケーブルネット千曲というローカル有線テレビの番組予定も小学校の運動会の模様で埋まっている。

2面の新任校長の紹介

8面、9面へ飛ぶと、市内の上山田温泉の二次元キャラ「温泉むすめ」が誕生し、その声優が決まったという明るいニュース。
初夏の千曲の風物詩・あんずの季節を前に小学生や屋代南高生の摘果体験のニュースなども続く。
忘れてはならないのが、漫談家で千曲の頭領と呼ばれる御仁の出し物の案内。
行きはしないが心惹かれる出し物の広告だ。

上山田温泉キャラと千曲の頭領

10、11面にゆくと定期コラムらしき特色溢れる記事が並ぶ。
「Z世代が行くちくま散歩」は若い世代らしい軽くておしゃれなグルメ情報。
「北国街道・歴史こぼれ話」はローカル紙定番の地域歴史コラム。
ありがちな専門性に特化したものではなく住民が日々接している千曲川を挟んだ奇岩・岩鼻を題材にした親しみやすさがいい。
千曲市と包括連携締結先の信州プロレスの記事もある。

コラムの数々

12面は千曲市民が誇るプロスポーツにしてローカルニュースのお約束でもある、ブレイブウオリアーズとパルセイロレデイースが堂々の全面を占める。
プロバスケットのウオリアーズは成績もよかったようだ。
パルセイロ©レデイースは最下位だったとのこと。

ちくま未来新聞、毎月が楽しみだ。

県立歴史館「長野県民の戦後再出発」展

千曲市にある県立歴史館で「長野県民の戦後再出発」展があり、展示の一環として「おらうちの嫁」という映画が上映されているというので見てきました。

「おらうちの嫁」  1959年  荒井栄郎監督  長野県連合青年団製作 16ミリ・モノクロ・34分(デジタル上映)

この映画の上映を知ったのは、6月5日付の信濃毎日新聞の文化欄に載った記事から。
昭和30年代の長野県の風景だったり人物だったりを見たくて、歴史館に駆け付けました。

映画は館内の小会議室のようなところでエンドレスに上映されており、入室時には3人ほどがいました。
企画展そのものの入場者が、その時にはほぼ0人でしたから、映画そのものを見に来た人が多かったことがうかがえます。

出演者はのちに商業映画などで見る俳優も含まれており、プロのスタッフ、キャストによる劇映画として作れられ邸ます。
ロケ地は飯山、たばこ農家の親夫婦、嫁を迎えた長男、それに長女と次男がメインキャストです。
俳優たちの演技を、時にはクローズアップを用いて演出・撮影されています。

6月5日の信濃毎日新聞より

農家に嫁いだ嫁が出産までの間、古い習慣との軋轢に対し、夫婦間の平等な愛情で乗り越えてゆくのが映画の骨子です。
モチーフは県連合青年団によるものでしょうが、それを脚本家の大内田圭弥が劇映画に落とし込んでいます。
プロの俳優たちの演技は、いってみればパターン化されたものではありますが、そのレベルは商業映画同様に低くありません。

時間の制限もあることから、今では貴重な30年代の空気感に記録を最優先した、いわゆる記録映画的な匂いはありません。

身重となった妻を労う夫が、他者にその様子を見られまいとする様子とか、当時は里帰り出産が当たり前だったが妻の願いで嫁ぎ先で出産することになり、夫が親の意向に反して受け入れることなどが脚本のツボとなっています。

このあたり、松竹映画「この広い空のどこかに」(1954年 小林正樹監督)を思い出します。
町の酒屋に嫁いだ久我美子の戸惑いとそれを見守る夫の佐田啓二が主人公で、最初は量り売りの醤油樽の栓を上手く開け閉めできない久我を佐田が指導するシーンが印象的でした。
夕食後、6畳一間の夫婦の部屋で不安にくれる久我と、それを慰める佐田のシーンも。

映画のワンシーン

「この広い空のどこかに」と本作に共通するのは、戦後になって夫婦として出発した二人が、古い家庭(農家や商家など)に嫁ぎ、古いやり方に戸惑いつつも二人の愛情を前途の希望として前を向く、というもの。
二つの作品とも、旧体制である儀実家が、決して無理解ではなく、いじめたりするわけではないという点が共通している。
生活の困難や壁は己の中にあり、その解決は夫婦の愛情によってなされる、という点でも共通している。

小会議室では1955年制作の岩波映画で、県南の遠山郷に伝わる霜月祭というお祭りの記録映画も同時上映されていました。
南アルプスに連なる山々に囲まれた村からの道を何キロも歩いて通学する小学生の姿で始まる、記録映画らしい記録映画で、貴重な「民俗学的」な映像が楽しめました。

小会議室内には収集した記録フィルムの実物も展示されていました。
「おらうちの嫁」の16ミリフィルムそのものや、このほかの35ミリネガやプリントの一部が展示され、デジタル化による保存の必要性を訴えてもいます。
全国には、地方の団体などが版権を持つフィルムがたくさんあるのでしょうから、それらを掘起し、保存することは大事なことです。
この点でもあいまいにせず、現状をオーオプンにして、きちんと対処しているのがは、長野県らしいことだと感心しました。

「おらうちの嫁」原版フィルム
収蔵品の16ミリフィルム
「長野県民の戦後再出発」展より、戦闘機疾風のタイヤ

歴史館常設展示

歴史館には常設展示コーナーもあります。
先史時代の展示コーナーには巨大なナウマンゾウの模型があり、それが動くのです。
また石器時代のコーナーには実物大の竪穴住居が再現されています。
さらに時代が進んで鎌倉時代になると善光寺に花開いた仏教文化の栄華が映像でレイアウトされています。

金がかかっています。
そしてこの展示、どこかで見たような?
そうです、長野市川中島にある長野市立博物館の展示に似ているのです。

常設展より、ナウマンゾウ
防人と馬

歴史館の展示内容が、長野や松本の博物館とダブっているのは当たり前ですが、ダブった部分の展示が似通った気がするのです。

東山道と古代信濃国

先史時代から石器時代、古墳時代、律令時代、武家時代、江戸時代、明治時代と時を追って県内の歴史を俯瞰した展示内容。
また、その時々に花開いた仏教文化や街道・河川による物資・文化の流通、生糸による近代産業の勃興までをかくコーナーで解説しています。
丁寧に詳しく、郷土への誇りと愛着が根底に窺える、見ごたえのある施設です。

カイコを飼う様子
近代製糸工場の女工

軽トラ流れ旅’26 姥捨棚田とスイッチバック

長野県は東信から北信にかけての千曲川沿いに人家と町が広がっています。
日本一の長流・千曲川は、小海、佐久といった東信地方の水田地帯を潤し、上田、千曲、長野といった人口集中の産業地帯を抜け、中野、飯山から新潟県に入ります。
千曲川流域全体が長野県の動脈となっています。

特に上田から千曲、長野と続くあたりは、千曲川と並行して走る国道18号線沿いに町が途切れず、商業、工業、物流の中心地となっています。

千曲市は、温泉のある戸倉、高校などがある屋代、長野市と接する更埴などの地区から成り立っており、かつての北国街道筋に面した歴史を持っています。
旧国鉄の信越線(現在のしなの鉄道)の沿線でもあります。

千曲市の屋代地区から国道18号線を横切り、千曲川を渡ると稲荷山地区があります。
古の日には生糸で栄え、蔵が立ち並ぶ街でもあったようです。
稲荷山を過ぎると18号線バイパスが走る農村地帯となります。
バイパスを折れて登ってゆくと昔話で有名な姥捨地区があります。

姥捨地区から望む善光寺平(長野市)
名勝「田毎の月」の看板

「楢山節考」のモチーフである姥捨伝説の舞台となった地名が残っているのです。
松本から長野まで山地を越えてやって来るJR篠ノ井線が、スイッチバックで急坂を上る駅が姥捨駅です。

篠ノ井線に乗って松本から来ると、長野市が広がる善光寺平を遠望する姥捨駅で停車した列車が、一度戻って再び上り直すスイッチバックを体験することができます。
駅はいわゆる無人駅のようですが、管理をするおばさんがおり、付近の集落からの通学生徒などが乗降客のようです。

駅構内のスイッチバック用の線路

姥捨駅から下ったところに姥捨棚田と呼ばれる千枚田があります。
浮世絵で「田毎の月」として描かれた場所です。
条件が整えば千枚ごとの田の水面に月が映ったこともあったのでしょうか、それとも浮世絵師の遊び心でしょうか。

「田毎の月」を題材にした浮世絵

駐車場に軽トラを止め棚田の間を歩きます。
田圃ごとに番号が付けられ、管理する法人や個人の名前が書かれた札が立っています。
本当に小さな田圃は耕作されていませんでしたが、それでもこれだけの棚田が残っているのは保存活動のたまものだろうと思います。
棚田のほかの土地も農地が多く、姥捨地区全体の景観保存がなされていることがわかりました。
県内にはこのほかにも上田市郊外などに、観光地化された棚田が残っています。

姥捨の棚田
姥捨の棚田

千曲市中心部から姥捨に至る途中の集落には佐野川温泉・竹林の湯という日帰り入浴施設がありました。
初めての温泉場でしたが、入浴料が400円と安く、シャンプー類は置いてなかったものの泉質は十分よく、効きました。
地元の人しか立寄らない穴場の温泉でした。

竹林の湯エントランス
温泉土産は山小舎ではく草履

奥多摩経由で山小舎へ、軽トラ帰行

東京での家族行事(娘夫婦の誕生会)に出た後、山小舎へとんぼ返りしました。
この旅、娘一家のキャンプに使う薪を4締め積んでの軽トラドライブでした。

山小舎から運んだ薪

行きは薪を積んで朝早く山小舎を出発。
お昼は大月から4キロ富士山側に入った、道の駅都留で。
道の駅都留の物資の豊富さが忘れられなかったのです。

11時を過ぎ、まだ客の少ない食堂でチョイスしたのは、湧水ポークのハンバーグをメインにしたランチプレート。
食券販売機もなく、すべてアナログの対面販売で行われる食堂は、活気に満ち、おいしさに期待が募ります。
野菜たっぷりで、地元の食材をこれでもかと盛り込んだプレートを爆食、満足ここに極まれり。

道の駅都留の食堂で。野菜がうまかった!

2泊過ごした自宅を後にして山小舎への帰途に着きます。
20号線沿いのメインルートはよく通っているので別のルートをチョイスします。
奥多摩経由の「北帰行」ならぬ「軽トラ帰行」です。

自宅から青梅街道を目指します。
日曜の朝乍ら通学するジャージ姿の高校生であふれる三多摩地区の住宅地を延々と抜けます。

青梅街道に出て国道16号線と交差する瑞穂町の交差点を抜けて、青梅地区に入ります。
工場や運送会社などが点在する圏央道沿いのエリアを抜け、青梅街道で奥多摩を目指します。
ここまで2時間以上かかりました。

古い街道の風情が残る奥多摩の道をたどります。
東京都下の街道風情です。

やがて奥多摩湖が見えてきます。
東京の水がめといわれるダム湖ですが今年の水位は低いようです。

この日の奥多摩湖

ダム湖の周囲を巡るように、更に奥までの道が続いています。
短いトンネルが続きます。
路線バスが走っています。
奥多摩駅から山梨県の丹波山村まで走る西東京バスです。

奥多摩駅から丹波山村へのバス路線

道の駅たばやまで小休止です。
直売所や食堂を物色します。
鹿肉バーガーのキッチンカーが出ています。
ここでマップを入手し、郷土資料館を見つけたので寄ってみます。

道の駅たばやま
鹿肉バーガーのキッチンチカー
直売所でのお買い物。鮎めしはと饅頭はうまかった

オオカミのはく製が出迎える郷土資料館。
丹波山村はオオカミというか山犬信仰の村でもあるのです。
武田信玄時代からの金山開発、その後の街道整備。
明治以降になってからは東京とつながり発展したが、過疎化の時代になって塩山からのバス路線も廃止となって現代に至った話。
受付の女性を除き、人っ子一人いない館内には、山村がたどった長い歴史と、それを後世に残そうとする地元の意志の確かさを感じました。

丹波山村郷土資料館
オオカミのはく製
猟に使われていた火縄銃

丹波山村で昼食をと思い、マップをもとに2軒ほど食堂を探しましたが、2軒とも休業とのこと。
国道沿いの古民家食堂で日替わり定食にありつきました。
道の駅以外では閑散として観光客の姿も少ない丹波山村でした。

街道沿いの食堂
日替わり定食。汁の味付けが独特

丹波山から山梨方面に、国道411号線(大菩薩ライン)を進むと、大菩薩山塊を迂回する柳沢峠を越えます。
左に大菩薩山塊を見ながら長いくだりを走ると塩山の町に出ます。
甲府はもうすぐです。

現在、山梨側のバスの路線は、塩山から大菩薩登山口まで営業している余です。
丹波山村から大菩薩登山口までは峠越の道を20キロ以上でしょうか。
とても「路線バスの旅」で使えるルートではありません。

柳沢峠の茶店で小休止

令和8年畑 トマトの支柱組立て、ジャガイモの土寄せ

6月になりました。
畑では今年2回目の草刈りをしました。

苗の活着の具合を見ます。
キューリが思いのほか調子いいようです。
ナスは例年通り、乾燥に耐えている状況です。
トマトは去年並みでしょうか、丈が伸びてきたので支柱を2段、3段と組みます。
脇芽も摘み取ります。

支柱を組んだトマトの畝

キューリが実をつけてきました。
下段の葉と芽をカットして主軸の成長を促します。

キューリ

ナスの一番花をカットして主軸の成長を促します。

ナス

前回、芽かきをして3本立てにしたジャガイモが芽を伸ばしています。
土寄せして芋の成長を促します。

ジャガイモの土寄せ

食用ホウズキが逞しく主軸を太くしています。
支柱を立てて保護するとともに、根元の脇芽と余分な枝をカットします。

食用ホウズキ

直播したトウモロコシ、インゲン、枝豆です。

トウモロコシ。成育がバラバラ
インゲンは調子よい
枝豆。無事実をつけるか

扶桑社新書「60歳のトリセツ」

題名が気になって手に取ってみました。
内容に接して気に入りました。

著者は1959年生まれの女性脳科学者。
学究の道だけでなく、コンピューターメーカー勤務の後、(株)感性リサーチなる法人の社長を務める。
男の子の母親でもあります。

本書は60歳を超えた我々にとって、目からうろこであり、前途に希望が持てるような内容なのです。
それも脳科学者が具体例に基づき説いているのですから、我々素人の読者にとっては、バッサリと、世事の禍事、悩み事を快刀乱麻を断つが如く一刀両断してくれるのです。

例えば老いについて、『脳は世界をうんと狭くして、外のことがわからなくなるのである』、『ボケたというけれど、見方を変えたら、脳が優しい魔法をかけてくれたのに他ならない』(p33)と、体の機能の低下にい伴う脳の活動低下は必然なことだと解明する。

反面、60代の頭脳の秀逸さについて、『56歳以上のベテランから見たら、35歳以下なんてみんな半人前に見える。気が利かない、勘が働かない、言ってもわからない、発想力が乏しい指示待ち人間』(p40)と、最高潮に達した60代の頭脳と、その域に達していない若い頭脳を比較する。
答えは『60になったら(気が付かない)周りを大目に見よう』(p41)のが著者が60代に伝える人生のコツなのだ。

著者は60歳になった読者に高らかに宣言する、『(より美しく、より強く、より賢くというより良い生殖のための闘いという)呪縛から解放されて、自分自身の人生を生きるターンがやってきた。闘いに駆り出される前の、14歳の脳に戻っていいのである』P104)と。
著者は14歳の時に心を震わせた、ビートルズとダンスとラジオの世界に60歳を過ぎて再会し、その当事者となってラジオのパーソナリテイとなったりする。

女性である著者はさらっと説く、『60歳といえども、女ごころは永遠なので、自分がお花畑でひらりひらりと飛んでいる女の子くらいにしか思っていないのである』。
わかった!自分の周りの婆さんや、奥さんや、いいトシした娘さんが勘違いしている理由が!
60代だけではなく、女ごころも解明してくれる著者なのである。

60代の物忘れについてのアドバイスもあります。
『脳が忘れるのは、人生に必要がない、と脳が判断したから。脳に従ってのんびり生きてゆこう』(p135)、と。

著者の著作は「妻のトリセツ」「夫のトリセツ」「息子のトリセツ」「母のトリセツ」と続きます。

ヤン・ハヴラサ著「アイヌの秋・日本の先住民族を訪ねて」

1988年未来社刊の本著を国分寺の古書店で見かけて購読した。
未来社はほかにもアイヌや蝦夷地関係の出版がある。

表紙

「アイヌの秋・日本の先住民族を訪ねて」は1930年にプラハで出版された「日本の秋・わが生涯の断片」から北海道紀行に関する部分を翻訳したもの。
著者は1912年に夫人とともに来日し1年間滞在。
その間に各地を旅行した。
その時の様子が本著にまとめられている。

奥付

何より著者によって撮影されたスナップが多数掲載されており、1912年(大正元年)当時の長万部、平取、登別で、暮らすアイヌ人の姿が残された。
彼等は伝統的なアッシ織りの着物に荷を包み、女性たちは口の周りに入れ墨をしている。

山小舎おじさんの生まれ故郷・旭川には、昭和30年代当時、すでに観光化され切った上川アイヌ部落があったが、当時は入れ墨を掘った老齢の女性がまだいた。
純粋なアイヌ人も多かった。

本著作に掲載された写真は、記憶に残るアイヌ人の古の姿が甦るようで貴重なものである。

平取のアイヌ婦人

文筆家として祖国で名を成した著者にとっては、日本およびアイヌ人の運命を予告しまた評価することは自明の理であるかのような表現が目につく。
曰く『ここでは暴力を用いない民族性喪失のプロセスが進行中なのである』(p72)と、長万部のアイヌ部落と日本人集落の本質的な差異のなさ(アイヌ人のアイデンテイテイの喪失)を見抜き、『アイヌをこれまで知りえたすべての民族の中で最良なものとみなす』(p77)というロシア提督の言葉を引用して、彼等の素朴で柔和な人格を評価している。

長万部にて

著者の慧眼は、サハリンと蝦夷のアイヌ人について、琉球人と同じく日本人と同化した存在と断じたうえで、『朝鮮人については固有の文化を持った大民族であり、白人に対する抵抗の覚醒と同時に日本の支配に対しても抵抗しており、日本としては、海外進出よりも北海道開拓へ集中した方が賢明だと思われる』(p91要旨)、とまで見抜いている。

長万部の貧しい婦人

この時代の日本滞在記として、慧眼に満ち、諧謔にも彩られた読み物であるが、アイヌに対する紀行文的な関心という意味で貴重な文献だと思われる。

平取にて

軽トラで東京へ

8月の蓼科山登山の準備に、東京の孫一家と高尾山で足慣らしをするというので、自宅に帰りました。
軽トラで。

軽トラに物資を積んで

軽トラのいいところは物資を大量に積めるところ。
家族のリクエストの福味鶏やアルプス牛、さらに長野産の卵や高原野菜類、山小舎で採ったわらび、さらに集めたりんごや桃などのジュース類、地元産のチーズや生ハム、5月の連休に忘れて行った孫親のシャンプー類まで、冷蔵品からそれ以外まで荷台に積んでいけるのです。

5月の最後とはいえ、夏のような日照りが心配なので、保冷ボックスに保冷剤をしこたま仕込んでいきます。
途中のAコープで肉類を買い込みます。
既に日差しは夏のようです。

初夏の八ヶ岳に見送られる

富士見から国道20号線に出ます。
沿線には道の駅白州があるので寄ります。
地元産の山塩と山塩チップスがお目当てです。
甲州街道の台ケ原宿には、元祖信玄餅の金精軒があります。
生信玄餅などを求めます。

甲州街道下道の道中は続きます。
雪の跡が幾筋か残る富士山がかすみの空にぼんやりと見えます。
韮崎からは甲州街道を避けて、甲府の街中から国際色豊かな山梨学院大の前の道を、塩山まで行きます。

葡萄や桃の果樹園が続く塩山を過ぎ、勝沼で甲州街道に合流し、笹子トンネルを抜けると大月のエリアです。
道の駅都留に寄ってみます。
思いのほか地域色が豊かで、物資が豊富な道の駅です。
リニアの見学センターが近くにあるようです。

初めての道の駅都留

大月からは交通量が増え、信号も増えます。
この先の下道は、大垂水峠越です。
相模湖インターから中央道に進みます。
高速は小仏トンネルで東京への峠越です。

8時半に出て15時近くに自宅に到着しました。
Aコープのほか、道の駅や食堂など数か所の寄り道をしました。
暑かったものの、軽トラは冷房も効き快適でした。

目的の高尾山ハイキングは孫たちが参加して行われました。
6合路と3号路?を進み山頂まで。
山頂は外国人も含めた混雑ぶりでした。
たっぷり汗をかいての登山で全員リフレッシュ。
夕食は自宅にて炭火焼きで打ち上げました。
同行して孫たちの相手をし、炭火焼きの準備と焼き手の我が次男には感謝です。

日曜日の高尾山
山頂の孫たち

霧と寒さの長門牧場祭

5月下旬の土日、長門牧場で牧場祭がありました。

この日の長門牧場

寒々しい日、山小舎ではストーブを炊いています。
長袖の上にジャンパーを羽織り出かけました。

牧場の駐車場はほぼ満車。
人出は広い敷地内にチラホラ。
テントの出店の前には人がいません。
人気のソフトクリーム売り場にも人が並んでいません。
人はどこに?

霧の中に出店が浮かび上がる
いつもは列ができるソフトクリーム売り場

トラクターが乗りあい貨車を引っ張って牧場を一周する、その乗り場に長い列がありました。
売店とカフェのある建物内部にも人がいるのでしょうか。

テントの下で寒さに耐えている、ボスケソチーズ工房と、アトリエフロマージュでチーズを購入。
アトリエで売り子を務めるお兄さんは元気に愛想を振りまいていました。

ボスケソチーズ工房とアトリエフロマージュの出店

乳しぼり体験コーナーやクラフトの出店にもほとんど人がいません。
何せ寒いのです。
目的のチーズ購入を済ませるとそそくさと長門牧場を後にしました。
その後も続々と車の来場がありました。

乳しぼり体験コーナー

わらび採取

姫木別荘地のスキー場跡地でわらびを採りました。

かつては別荘地内に2か所あったスキー場もすべて廃業になりました。
このうち、姫木スキー場と呼ばれた場所は、10年前に来た時点では廃業していました。
その後、ここ数年で廃業になったのが、もう一つのエコーバレースキー場です。

旧姫木スキー場跡地

姫木別荘地のシラカバ通りを軽トラで上ります。
舗装道路が尽き、行き止まりになった場所が旧姫木スキー場の頂上部分です。
斜面を横に歩いてゆくと、わらびが芽を出しているのが目に入ります。

姫木スキー場の斜面

あまり穂先が分かれずに、芽が出たばかりの瑞々しいものを選んで摘み取ります。
ポキッと折れる部分で摘み取ります。

わらびを採る

足元に気を付けながら斜面をたどって25分もするとザルに一杯のわらびが採れます。
群生するのが特徴です。

収穫

持って帰って根元に重曹をかけ、熱湯を注ぎます。
そのまま一晩おきます。

洗って根元に重曹をかける

翌朝、青く染まったアクを捨てて、何度も水を替えます。

そこへ熱湯を注いで一晩おく

小分けして冷凍し、東京へ持って帰ります。
ごく一部を麺つゆで煮て食べてみたところ、まずまずの食感でした。