防寒施工で DIY!

山小舎で暮らし始めた当初、若干のリノベーションを依頼した地元の大工さんが何度も「姫木では寒さ対策を第一に考えないと」と言ってましたっけ。

日本の平均集落が標高900メートル以下に分布しているとしたら、山小舎は1500メートル近くに立地します。
麓の集落の古老が「姫木なんかは人の棲むとこじゃねえ」と言ったとか言わないとか。

毎年冬が近づくと寒さ対策に追われる山小舎おじさんです。
今まで行った対策はというと。
屋根裏がむき出しだった2階の天井に、天井板を敷いた(大工さんに依頼)。
サッシを厚いものに取り換えた(同じ)。
灯油ファンヒーターを購入した、アラジンストーブを(芯を自力で取り替えて)持ってきた。
などです。

山小舎おじさんの自力で行った対策は、居間部分を仕切る(暖気を逃さない)ビニール張り、があります。
これだけでもかなり違います。
真冬は和室の襖も閉めておきます。
2階への吹き抜け部分も塞ぎます。

居間と洗面所の間にビニールを下げる

12月に入り寒気が来ました。
毎年冬が来る前の作業として、水道管に電熱サーモスタットのスイッチを入れに半地下に下りると、半地下の入り口が壊れて開いているのが確認できました。
これじゃあ寒いはずだ。
通気性のいい半地下の造り、もしくは一階部分を柱だけとし2階以上を居住部にする造りは、寒冷地では床が冷えて寒いのです。
山小舎でもせめて半地下の通気を防がなくてはなりません。

半地下の水道管に巻かれた電熱線を通電する
扉が壊れたマッマの半地下入口
内側から見たところ

本格的な対応は来春に行うこととして、とりあえず内側からコンパネで塞ぐことにしました。
コンパネが内側に倒れないように押さえます。
その後は心なしか、室内の寒さが収まったような気がします。(寒さに慣れたのかもしれませんが)

コンパネで内側から塞いでゆく
塞ぎ終わったところ

山小屋仕舞いの際は、水道の水抜を完全に行わなければなりません。
現代の住居では、ボイラー、ガス湯沸かし器、風呂場のカランとシャワー、トイレタンクなど、水道の元栓を抜いても水がたまったままの機器があるので、個々の機械の水抜きもしくは不凍液混入などの対応が必要です。

屋外の水道は11月中に水抜きしました。

雪の山小舎

12月に入り全国的に寒波の予報が吹き荒れた日。
長野県は大雪警報が出ました。
一夜明けてみると一面の銀世界でした。

朝、ベランダから外を見る

リンゴ畑に通った11月中にも雪が降りましたが、あの時はどちらかというと寒さと霜がメインでしたが、12月に入ってからの寒波は本格的な降雪をもたらしました。

玄関先の雪を払う

玄関先の雪を雪かきしました。
さらっとした雪は箒で除けるくらいです。

朝日に輝く山小舎の雪
干し柿が雪の朝日に照らされる

お日様が出てからの山小舎は雪が輝き、木の影が長く伸びていました。

木々の影が雪面に伸びる

この時の雪は山小舎周辺に氷となって残っています。

DVD名画劇場 児玉数夫「やぶにらみ世界娯楽映画史」傑作選その2

児玉数夫という映画評論家は、戦後直後の外国映画輸入会社に在籍し、送られてくる洋画を、公開するかしないか、邦題はどうするか、宣伝方法は、の仕事に携わっていた。
ほかの日本人が先に見て評価が定まった作品を、あとで論じる意味での評論家ではなかった。
映画雑誌記者の淀川長治さんより、一段階前で海外作品に接していた。

そのせいかどうか、後年国内外で名高い作品ばかりではなく、輸入当時の世相や製作背景にリアルタイムで接し、作品には偏見・先入観なく独自の評価を下している。
その記録は様々な著作に残されている。

現代教養文庫の1冊「やぶにらみ世界娯楽映画史戦後編」をめくってみる。
戦後の洋画輸入の最前線で児玉数夫が接した洋画の中から選んだ作品が網羅されている。
娯楽映画史と銘打ってはいるが、芸術派が評価するいわゆる名画も、児玉氏が好む作品ならば選定されているところが氏の映画に対する偏見のなさ。
裏表紙では、日本映画評論界のレジェンドになった淀長さんも推薦文を寄せている。

1年ぶりの傑作選に、3本を選んでみた。

「私は殺される」   1948年   アナトール・リトヴァク監督  パラマウント

ハル・ウオリスという東欧系の本名を持ち、30年代から活躍していた製作者が興したプロダクション作品。
製作はウオリスと監督のアナトール・リトヴァクが共同。

リトヴァクはロシア(ウクライナ)生まれのユダヤ系。
ドイツで映画監督になった後、フランスを経て37年にアメリカに渡り、以降ハリウッドで活躍した。
代表作に「うたかたの恋」(36年)、「凡てこの世も天国も」(40年)、「追想」(56年)など。

戦前戦後のハリウッドが、ユダヤ系のタイクーンやプロデユーサーが支配し(本当の支配者はニューヨークの銀行だが)、ドイツ経由で逃れてきたユダヤ人作家たち(ラング、シオドマーク、カーテイス、オフュルス、プレミンジャー、ワイルダー、ジンネマン、そしてリトヴァク等々)に担われてきたかがわかるスタッフ陣だ。

主演はバーバラ・スタンウイックとバート・ランカスター。
スタンウイックは、ニューヨークのレヴュー劇団・ジーグフェルドの”ガールズ”としてこの世界に入り、ブロードウエイを経てハリウッド入り。
フランク・キャプラの作品に多数出演。
「ステラ・ダラス」(37年)、「大平原」(39年)、「レディ・イヴ」(41年)などの代表作が、この時すでにあった。
44年にはフィルムノワール「深夜の告白」でファムファタルを演じて役柄を広げてもいた。

バーバラ・スタンウイック

バート・ランカスターは大学を中退し、サーカスのブランコのりなどを経て、46年「殺人者」で映画デヴュー。
そのきっかけはハル・ウオリスと知り合ったからだった。
2作目の「真昼の暴動」(47年)が出世作だが、40年代は、タフな訳ありの前科者などを演じることが多かった。

「私は殺される」はスタンウイックとランカスターが同列でトップにクレジットされる。
映画出演5作目のランカスターが、ハリウッドトップ女優のスタンウイックと早くも同列の扱いだ(ウオリスの引きもあるか)。

ヒットしたラジオドラマの映画化。
主に室内を舞台に展開されるサスペンスドラマ。
主演を託されたスタンウイックが、一見複雑で実は純情な令嬢という役柄に期待通りの演技で応えた。
ランカスターは、逆境の好青年から自立に悩む婿養子という、売り物のタフさを発揮できない役柄。

殺人打ち合わせの混線電話を聞いてしまうレオナ

キャラクターは大手製薬会社の令嬢でわがまま放題のレオナにスタンウイック。
わがまま放題ではあるが、根は純情で夫に依存し、父親にコンプレックスがあって、それが心臓疾患の原因となっている。
貧民窟育ちで、大学のダンスパーテイでレオナに見染められ結婚、大会社の副社長に迎えられるが実権はなく、義父からの自立に焦り墓穴を掘るヘンリーにランカスター。
こちらも根は純情でレオナに憎しみはないものの、現状を打破しようと道を踏み外し破滅してゆく。

リトヴァクの演出(あるいはハリウッドスタジオの技量なのか)は、室内場面で暗さや影を生かし、カメラを自在に操ってサスペンスムードを高める。
導入部分のテンポ、場面転換のスピード感と盛り上げるBGM。
これぞハリウッド映画、これぞサスペンス。

話が若干複雑で、それをアメリカ映画らしくマシンガントークのセリフで説明しようとするのでついてゆけない部分もあった。
事件の解明に向けての筋立てに無理感もある。

心臓疾患を抱える主人公レオナが、夫の不在や混線電話に、恐れおののき、焦る。
警察やお抱え医師、会社の秘書、電話交換手に矢継ぎ早に電話するが、警察署に迷子がいたり、医者は不倫相手とデートしていたりと事態が解決せず。
こらえ性がなく、心臓疾患で歩けないレオナは焦りまくり、観客はスリリング。
前半の出来は完璧だった。

さりげなく、大会社社長の娘への過干渉と、娘の性格への影響、飼い殺し状態の娘婿の心理などが背景として描かれている。

ヘンリーの最初のガールフレンドで、8年後に夫(検察官)の動きから、ヘンリーの怪しい動きを知り、本人に面会を求める、地味で家庭的なサリー(アン・リチャーズ)がこの映画の良心であり、一服の清涼剤だった。



「ミズーリ横断」  1951年   ウイリアム・A・ウエルマン監督   MGM

クラーク・ゲーブル晩年の西部劇。監督には男性映画の第一人者・ウエルマンを起用。
ロケを多用、合衆国成立前の西部で暮らす山男たちを描く。

ゲーブル扮する主人公の山男、その息子の回想で語られる山男の半生は、前人未到の西部の山々に、ビーバーやヘラジカを獲物としながら旅団を組んで分け入っての冒険譚だった。
土地の先住民インデアンたちとは、やむを得ぬ戦い以外は、友好をベースとして共存しての暮らし。
共存というより、彼等の領土を通らせてもらい、土地の情報を教えてもらう関係だった。

遺児を抱き妻の墓前にたたずむ山男

各地の山男たちが年に一回、7月に集うベースには、インデアンたちも集まり、店が立つ。
山男にはフランス語を話す白人や、スコットランドのバグパイプを吹き鳴らす白人もいる。
インデアンと行動を共にする白人も。

このベースで山男たちは、飲み、踊り、射撃の腕を争い、喧嘩をし、女にうつつを抜かす。
といっても踊る相手は山男同士だし、射撃では的当てよりも火薬と弾丸をいかに早く詰めるか(当時は連発銃はなかった)だし、女はインデアンしかいなかった。

この作品の出だしには、年に一度の山男たちの集いの楽しさが描かれる。
そこからいろんなことがわかってくる。
ごく初期の西部の山男の目的、出身国が多様な山男の構成、先住民との関係、などなど。

カウボーイも定住入植者も、ならず者が仕切り酒場女がうろつくタウンなども、西部にはまだない時代。
西部は自然の中で生活する能力を持つ、雑多な山男たちの生きる場だった。
その”場末のユートピア”的雰囲気に早速画面に引き込まれる。

敵対するインデアンとの対決

テクニカラー、87分のこの作品には、劇的なヒロイズムも宗教的背景も国家主義的価値観もない。
圧倒的な自然と、そこに溶け込むような人間の営みが描かれている。

狩猟の場を目指し30人と78匹の旅団を率い、美しいインデアン娘を金目のもので買取り、利害関係があるインデアンの襲撃を自力でかわし、目的地では柵で砦を作り、インデアン妻との間に愛息を設けた山男(クラーク・ゲーブル)の自立した行動の一つ一つが、この映画のテーマだ。

本作には、フランス出身でインデアン語を喋るピエールというゲーブルの相棒が出てくるが、これが何と「巴里の女性」のきざ紳士アドルフ・マンジュー。
まるでウオルター・ブレナンのような役どころだが、その役柄の幅の広さとうまさに驚く。

最初は拒否されたインデアン妻との関係も、山男の飾らぬ真心で仲良く改善する。
雪だまりの道を率先して進み、祖父の部族が近くに来れば馬を飛ばして会いにゆくインデアン妻だったが、子をなした後、一行を突け狙うインデイアンの勢力に真っ先に撃たれあっけなく死んでゆく。
それが大自然の摂理の一部だといわんばかりに。

インデイアンの妻の前で、ゆったりと、アイヌのムックリのような楽器を、にやにやしながらかき鳴らすゲーブルの姿が山男そのものでよい。

この時代の、しかもウエルマン作品に、現代のようなエコ思想も、自然回帰思想も、何だったら人種平等思想もないだろうが、原作の持つ力なのか、圧倒的存在感のロケ先の自然の力なのか、人知を超えた世界観が感じられる作品。



「美女と闘牛士」  1951年   バッド・ベテイカー監督   リパブリック

製作は何とジョン・ウエインの独立プロ(第一作)。
配給は「勝手にしやがれ」でジャン=リュック・ゴダールがオマージュをささげた、ハリウッド非メジャースタジオ、リパブリック。
この”逆境”の中で堂々たる大作が生まれた。
ベテイカーは、「血と砂」(22年)で闘牛士に扮するヴァレンチノの演技指導もしたという。

大会場プラザメヒコに登場するジョー

欧米の映画作家が外国を舞台にした映画はたくさんあったろう。
自らが闘牛士だったというベテイカーが舞台に選んだのはメキシコ。
ベテイカーとしては”当然の選択”であり、また”メキシコを描かずして、映画人として先には進めない”心境だったのだか。

ベテイカーのメキシコに対する視線には、彼のメキシコに対する興味と理解とリスペクトがある。
闘牛そのものにも、闘牛士にも、メキシコ人女性にも、文化にも。
映画の各エピソードに共通するのは、ベテイカーが体験したであろうリアルさだ。
それは、劇的な切れ味はなくとも、見るものの心に鉈のようにグサリと突き刺さる。

日本に対する戦後直後の占領軍よろしく、50年代のメキシコを旅行するもったいぶったアメリカ人一行に、若いジョー(ロバート・スタック)がいた。
メキシコの上流階級が集うレストランで、有名な闘牛士マノロ(ギルバート・ローランド:メキシコ人俳優)一行になれなれしく近づき、若い美人アニタ(ジョイ・ペイジ)に声をかける。
ジョーは闘牛を教えてくれとマノロのもとに通う。

アメリカ帰りのアニタは一見、おとなしく洗練されたレデイだが、彼女の田舎でシエンタと呼ばれる子牛相手の闘牛会にジョーを誘ったときにその本質を表す。
自信なさそうなドレス姿から、カウガールよろしくハットとポンチョの仕事着に変貌、そのスタイルが決まる!
それは芯が強く、己の信じた道に命を懸ける、熱きメキシコ女の姿だった。

名闘牛士マノロの妻チェロ(ケテイ・フラッド:メキシコ人女優、リンダ・ダーネルに似ている)の強さも描かれる。
田舎の闘牛会場でジョーがデヴューした際に付き添いで同行したマノロの姿に観客が騒ぐ。
泥酔した観客の挑発に引っ込みがつかなくなったマノロが急遽出場して無事牛を裁く。
夫人の懐妊を知りその年での引退を決めていたマノロの気持ちを知りながら、危険な闘牛への出場を認めたチェロ。
無事終わった時に剣を抜いたチェロは、酔客に剣を突き付けながら「もしマノロに何かあったら、お前を殺すつもりだった」と告げる。
メキシコ女の命を張った情熱と覚悟がここでも描かれる。

男たちは、闘牛の何に惹かれるのか。
金か名誉か歓声か。
メキシコで闘牛の写真を撮りつつそれを探るアメリカ人写真家に語らせる「20年たってもまだわからない」と。
その部屋には、数々の名闘牛士たちの写真、特に事故の時の、が飾られる。

ジョーは田舎の大会でデヴューした後、見守るマノロに向かって「興奮して、怖さを忘れた」と語る。

そのマノロが、ジョーの危機に、我を忘れて飛び出し、人生で初めて牛につき上げられ命を落とす。
自分の行動に迷いはなく、後悔はなかったろう、闘牛士として。
これもメキシコの男。

マノロを死なせたと、全メキシコの非難がグリンゴ(白人に対する蔑称)のジョーに集中する中、最後の大舞台に現れたジョーに対し、チェロは亡き夫の肩掛けを託し、その幸運を祈る。
これもメキシコ女。

ケガをした闘牛士の見舞いの場面がある。
またマノロの事故と死、その妻の喪服姿など、闘牛にまつわる死の影が強調される。

死を賭けて牛に挑む闘牛士の姿と歓喜する群集。
闘牛士に与えられるこの上ない名誉。

闘牛向きの勇敢な牛を選ぶ目利きの文化も描かれる。

メキシコの闘牛を巡る男、女、そして牛までも、そのただなかにいたベテイカーの視点を堪能するドラマ。
全体のムードが悠々迫らない、メキシコの風土のように。

ハリウッド映画としてはとてつもない異色作にして、アメリカ以外を舞台にした傑作でもある。

バッド・ベテイカー

軽トラ流れ旅 12月の松本で味噌、醤油

12月に入っての流れ旅は遠方の山間部は避けて、比較的近場の都市部を目指します。
なぜなら峠道の路面凍結が怖いからです。

姫木の山小舎前はこの通り

松本に出かけました。
少し前のローカルチャンネルで、松本市内の醤油・味噌などの醸造店、ワサビ店、乾物店を回って、老舗の食材を訪ねる番組をやっており、店の名前などをメモしておいたことがありました。
松本へ行くことがあったら、寄ってみようと思っていました。
味噌や醤油は自宅へのお土産にすると喜ばれます。
信州の醸造食品は美味しいのです。

松本への経路は、丸子へ下り三才山トンネルで峠を越えるルートをチョイス。
心配した路面状況は、乾いており心配なし。
冬のように寒い松本市内につきました。

インバウンド越しに見る国宝松本城天守
冬に備えて雪つりされた松

松本城の駐車場も空いています。
底冷えのするお堀端を、まばらなインバウンド客の様子を眺めながら歩きます。
お城から北アルプスの雪景色が見えないのが残念です。

お城から駅方面へ延びる通りで萬年屋へ、まずは味噌を探します。
萬年屋は創業天保3年の味噌屋です。
お城前の大名町店は味噌に限らない品ぞろえをしているようです。

店に入ってみると思った以上の品ぞろえ。
味噌のほかに醤油、漬物、菓子、乾物までそろえており、観光客向けのアンテナショップのようです。

萬年屋大名通店
店内に展示された味噌

次に向かった小口ワサビ店は角を曲がったところにありました。
表通りを曲がると、インバウンドのギラギラ?が消し去られた落ち着いた世界。
店のおばさんにも浮かれた雰囲気はなく、トークもスムーズ。
安曇野わさびを2本買い、保存方法も教えてもらいました。
冷凍保存はダメでそのまま冷蔵がいいとのことでした。

小口ワサビ店
店内の安曇野生わさび

市内の大久保醸造所の醤油が欲しかったので、観光案内所に行ってみました。
若めのお姉さんが二人いて、てきぱきと情報をくれました。
教えてもらった中町通りへ行きました。
セレクトショップのようなところに大久保醤油がありました。

大久保醤油が欲しいというとショップのお姉さんのスイッチが入ったのか、「どこで知った?」から「どういうタイプがいい?」などなど矢継ぎ早のトークが繰り広げられます。
最後には2種類の醤油の特徴と利用方法をメモに書いてくれました。
ついでにランチのおすすめを聞くと、蕎麦なら四柱神社隣のこばやし、洋食なら翁堂かもりよし、と答えてくれました。

大久保醸造所の醤油
ショップのお姉さんが書いてくれたメモ

観光案内所から中町通りへ行く途中に四柱神社にお参りしました。
中心部にある広めの神社の境内には、インバウンド客がチラホラしています。
10円を納めて本殿を下っていると、研修旅行なのか県内からの中学生の男女グループがお参りに上がってくるところでした。
その中の女子が「お賽銭ある?10円はダメだよ、遠縁というから」と友人に声をかけていました。
先におじさんにも教えてよ!あつおじいさんか。

四柱神社
参拝する中学生ら

ランチは中町通近くの翁堂で。
順番を待つ間に、近くの開運堂へ行ってどら焼きなど。
開運堂のどら焼きは県内では洗練された味がします。

翁堂は老舗の洋食屋。
旅行客はもちろん、地元の客で盛況です。
ボルガライスは、揚げたてのカツがサクッとしており、ソースも手抜きのない味です。
1550円は上がったなあ。

翁堂のショーウインド
ボルガライス
開運堂のどら焼き

松本の町の雰囲気は、空襲の経験もなく、細い道が残っていたり、街角に歴史の残滓が染みついています。
良い点でもあり、よそ者にとっては違和感を感じる点でもあります。
良くも悪くもプライドを感じる町です。
信州人の内に秘めた頑固さが県内では一番表層に近い人たちが住んでいるところです。
信州では一番、現代の日本標準にアップデイトした街でもあります。

閉店したパルコの建物

五輪久保のハブキフジ

摘み取りバイトをした立科町五輪久保のリンゴ農家で、フジのB品の箱売りがあったので行ってきました。
例年、12月になるとハブキと呼ばれるB品がコンテナ売りされるのです。

B品は、形がいびつだったり、小玉だったり、色づきが悪かったり・まだらだったり、軸の取れかたが悪かったりしたりんごです。
味は変わらないようです。

農家の玄関先につくと、りんごを入れたコンテナが積まれており、箱を入れ替える台が用意されていました。
予約しておいた二箱を受けとり、代金1万円なりを支払います。
領収証を発行してくれるのは、農家の個人事業主としての正しい出納処理でしょう。

コンテナ二箱分を購入
自前のコンテナに入れ替える

15日の打ち上げには参加できないからと、手製の干芋をほんの数枚お土産に渡すと、奥さんが五輪久保特製のりんごジュースを「2本しかないけど」と言って渡してくれました。
摘み取りが終ると、毎年、バイトの人とともに打ち上げを行っています。
かつては住み込みで青森からの出稼ぎを使っていた時の名残でしょうか。

干芋のお返しにもらったジュース

五輪久保からの帰りに一部のフジを自宅に送りました。
持って行ったもみ殻を詰めた段ボールが二箱でしたが、全体の量の半分にもなりません。
翌日、彩ステーションにもひと箱送りました。
東京でも大好評のようでした。

東京への宅配便。もみ殻を使う

柿酢、大変

柿酢を仕込みました。

材料は、熟した柿。
甘がき渋柿を問いません。
ぐじゅぐじゅの柿を潰して瓶か甕に入れて保存するだけです。
時々かき混ぜながら発酵させ、頃合いを見て漉して更に保存します。
マイルドな何ともいえない酢が出来上がります、うまくいけば。

熟した柿は案外手に入りずらいのです。
柿の樹でも持っていれば何のことはないのですが。
ということで地元系のスーパーで熟し柿の箱売りを見掛けて即ゲット。
柿酢作りに挑戦します。

望月のスーパー越後屋でひと箱799円

柿酢作りはこれまでに2、3度挑戦しました。
1度だけうまくできました。
まろやかな酢ができて、素人づくりとは思えないほど実用的でした。
その後のトライは材料の柿の熟し方が足りなく、発酵する前にカビが出て失敗しました。

保存瓶を消毒し、柿をざっと洗い、ヘタを取って四つに割ります。
そのままどんどん保存瓶に放り込み、麺棒で潰してゆきます。
瓶の口は新聞紙で覆い、通気を良くします。

後は柿自前の菌による発酵を待ちます。
潰した柿の量が瓶の半分くらいだったので、雑菌の繁殖を防ぐためにももうひと箱熟し柿を追加しました。
瓶の中の空気は少ない方がいいと思ったからです。

瓶の中で潰す
新聞紙で蓋

ある日、瓶を見てびっくり。
口にかけたの新聞紙が盛り上がり、液体が盛大にこぼれています。
慌てて瓶を取り出しました。

柿を追加したある日、蓋の新聞紙が盛り上がっているのを発見
新聞紙を取ってみるとこの通り
一部を捨てかき混ぜる。発酵の泡が沸き立つ。柿の天然の色合いが何とも言えない

無事発酵しているのはいいのですが、柿の分量が多く、発酵して新聞紙を盛り上げているのでした。
新聞紙を外し、盛り上がった柿を捨て、量を調節します。
水分が下にたまり、柿の固形物が浮き上がったところを攪拌します。

瓶の外側を拭いて新しい新聞紙で蓋をして再保存です。
吹きこぼれたのは失敗でしたが、発酵は順調に進んでいるようです。

松代大本営平和祈念館

長野市松代には戦時中に掘った大本営と天皇御座所があります。
松代の皆神山などの地下を掘り進め、地下壕を作ったのです(天皇御座所は地上にあります)。

今では戦争遺産として保存されており、一部の地下壕は一般公開されています。

なお、長野県は現在の佐久市望月地区に、陸軍士官学校の校舎が昭和20年6月に移転してもいます。

祈念館の玄関

旧大本営地下壕を抱える松代に、平和祈念館ができたということを新聞で知り、行ってみました。

真田家(幸村の実兄を初代当主として幕末まで続いた)を町の名士と仰ぐ松代は、古い町並みが残る町です。
その一角に目指す祈念館がありました。
古民家をすっかりリノベーションしたという建物です。

土曜日ということもあり、受付には数人の比較的高齢の方々の姿が見えます。
運営するNPO法人のメンバーなのでしょうか。

祈念館のパンフ

2階の展示スペースに上ると、当時の世界情勢や、日本の満州移民、戦時下の長野県内などの解説から始まって、大本営地下壕の全体像や労働者の実情、採掘方法までが細かく展示されていました。

時代背景から、県内の戦時体制まで、各々の解説文が通り一遍のものではなく、NPOメンバーが自力で取りまとめ、執筆していることがよくわかるもので、全文読みごたえがあります。

当時の長野県には、退役軍人をメンバーとする在郷軍人会のような組織があり、戦争遂行や満州移民の際に、国に先行して活躍したこと。
満州への移民数と少年義勇軍?の人数が県としては全国一だったこと。
米軍の本土上陸を想定した訓練に長野県が協力したこと、その際の武器は竹やりやスコップだったこと。
などが展示されています。
戦後に県内で発見された、訓練の計画書や貧弱なスコップの実物などもあります。

祈念館のパンフより

ついてきてくれたNPOメンバーさんが、長野県からの満州移民が全国一だった背景を説明してくれました。
当時は県の主力産業だった製糸産業が世界恐慌によって壊滅したこと。
在郷軍人会からの圧力があったこと。
農家の耕地面積が狭く、次男三男は地元にいてもしょうがなかったこと、などです。
映画「黒川の女たち」でもそのことは語られていました。

祈念館のパンフより

メンバーさんはご自身も相当知識が豊かで、当時の県内の背景、雰囲気なども伝わるように解説してくれました。

大本営地下壕の掘削については、労働者の多くが朝鮮人だったが当時の名簿は焼却されて正確なことはわかっていないこと。
大成建設だったかについてはアメリカの国文書館だったかに名簿が残っており、そのコピーが展示されていました。
いずれにせよタコ部屋並みの労働環境だったようです。
もちろん日本人労働者もいました。

松代の観光パンフより
祈念館でピンバッチを100円で購入

NPO法人の真面目な尽力が感じられる祈念館でした。
松代大本営に関する疑問がかなり解消できる資料と知識が詰まった施設でした。

祈念館を出て「ニュー街道一」へ向かいました。
地元で人気の食堂です。
ここ2回ばかりは満員で入れませんでしたが、この日はカウンターが空いていました。
念願のカツカレーをいただきました。

JA松代選果場
長芋一袋1500円

この日の目的はもう一つ。
松代が名産地の長芋です。
選果場はすでに買い物客で賑わっていました。
B品の袋詰めとごぼうなどを買いました。
6月のアンズに続いて、11月の松代は長芋が「買い」です。

この日の北アルプス

薪仕事2025 軒下に薪を補充

寒くなってきました。
夏でも薪ストーブを焚くことの多い山小舎ですが(湿気退治、煮炊きなど)、冬が近くなると暖房でストーブが活躍します。

ストーブを焚く際に考えなければいけないのが、燃料の補給です。
ストーブをガンガン焚く場合、30分に一度は燃料を補給しなければなりません、もっとか。

燃料は乾いた薪です、就寝前とかある程度部屋があったまった後は、湿った薪や切ったばかりの枝などを投入して、時間を稼ぐこともありますが。
この場合、熱量の低下とススや灰の多さを覚悟しなければなりません。

そこで乾いた薪の置き場所です。
ストーブの近く、いちいち外へ出なくても、少なくともスリッパ履きで出られる場所、に薪の最終保管場所を置きたいものです。
山小舎ではベランダとそれに続く軒下がその場所です。

軒下の薪が少なくなってきました
ベランダのコンテナも空です

1年以上、場所によっては2年間、積み上げておいた薪を、最終保管場所に移動します。

薪の移動には軽トラを使います。
乾燥台の脇に軽トラをつけ、荷台に薪をどんどん放り込みます。
斜面の下から、荷台に薪を山積みしていても、軽トラを四駆にすると問題なく上がってくれます。
雪面でも同様です。

薪を積んだ軽トラを軒下につけ、ベランダや軒下に積み上げます。
最終保管場所に薪が少なくなると不安ですので、冬までにこれを何度も行います。

斜面下の乾燥台から薪を移動しましょう
軽トラに積み込みます
軽トラを軒下に付けます
軒下に薪を積み込み・・・
ベランダのコンテナにも補充します。

令和7年畑 マルチはがし

畑に敷いていたビニールマルチを剥がしました。
11月下旬、たまたまポカポカ陽気の日が続きました。
「今だ!」。
気になっていた畑に出かけました。

夏野菜を植えた畝に黒いビニールマルチが十数列被せてあります。
雑草に覆われ、その雑草も枯れはて、また収穫の際ちぎれたままのマルチが並んでいます。

剥がす前の畑

鍬をもって端から剥がし始めます。
押さえの石をどけます。
鍬をふるって端っこの土を起こしマルチの端っこを掘り出します。
両端が土に埋まったマルチをちぎれないように注意しながら、丸めるようにして剥がしてゆきます。

マルチはがしスタート

この時に問題点が二つあります。
特に土をかぶせて押さえていた両端の部分がちぎれないようにする事、マルチと一緒に丸め込まれる枯れ草をどうするかです。

両端のマルチがちぎれて土の中に残らないように鍬を使って土ごと起こしてゆきます。
丸めてゆくうちに枯れ草がマルチとともに巻き取られてゆくので、時々草を取り除きます。

手を使って丸め取ってゆくと腰が痛くなるので、主に鍬で土ごと掘起し、ある程度マルチが丸まってくると丸まったマルチを転がすように巻き取ってゆきます。
ちぎれた部分はその都度回収します。

2,3本の畝をマルチを残して越冬しようかな?とも思いましたが、ビニールがボロボロになるのは嫌なので全部剥がしました。

全部剥がし終わりました

冬の日差しは、作業をしていると汗が流れるくらいですが、午後になると陽が陰ります。
日の当たらない冬の畑は寒々しいものです。

剥がしたマルチは山にして乾かします。
集めてゴミで出すのは来春でしょうか。

米麹、加工三態

信州は食の天国です。
季節の農産物が極楽の恵みです。
加工品も宝の山です。
特に発酵食品は。

味噌醤油、酒、最近では地ビール、ワイン、シードルなどの発酵系加工食品。
素材が豊富で上質なうえに、何百年もの間培われた製法の伝統があります。
時代遅れと冷遇されてきたこともあったでしょうが、その間も技術を保存してきたことが凄いと思います。

ということで、立科町と上田の醸造店、麹店から米麹を入手しました。
計1.5キロほど。
いつもならば娘に送って終わりなのですが、自分で活用しようと思いました。

塩麴

先ずは塩麴です。
既製品は山小舎の調味料として常備・常用していますが、自作してみます。

分量は麹200グラム、塩60グラム 水200グラムです。

麹と塩を用意

分量をボウルで混ぜ合わせて、煮沸消毒した瓶に詰めます。
詰めた後は抜気しません、むしろペーパータオルなどを挟んで蓋を軽く締めて通気します。

水と併せて混ぜる
瓶に入れて保存

常温保存して時々かき混ぜて、こなれてきたら冷蔵保存します。
煮もの一般の調味料としてコク出しに使います。

醤油麹

塩の代わりに醤油を使う方法もあります。

今回の麹は、立科町芦田宿の醤油屋さんから500グラム入手したので、使う醤油も、そこで売っているイマイ醤油としました。

瓶ぎりぎりまで詰めたので、時々のかき混ぜが不便です。
週一回くらいはボウルに中味を開けて存分に混ぜてから再収納します。
下の方からこなれてきます。

この後、追加したので、瓶一杯の量になった

使い道は塩麴と同様ですが、しょうゆ味の料理や肉料理の漬け込みなどが向いているように思います。

なお、麹調味料づくりに使用する瓶は広口瓶とし、分量は2/3に止めるのが肝要だと思いました。

トウガラシ麹

ネットで麹の加工方法を検索すると出てきました。
鷹の爪を粉にして麹と合わせて漬け込みます。

畑から収穫した鷹の爪だけでは足りないと思い、直売所で2袋も買ってきました。
生の鷹の爪の種を抜いて、細かく砕きます。
しかし生のものは山小舎のミキサーでは粉砕できず、やむなく包丁でみじん切りして、麹と塩と酒と混ぜ込みました。
時間ばかりかかるので、分量の半分は粉トウガラシを使いました。

買ってきた鷹の爪
種を抜くのが大変な手間
粉トウガラシが便利

たくさん出来上がったので、漬け込みには甕を使ってみました。
保存場所が季節柄、低温なこともあり、熟成まで時間がかかりそうです。

混ぜた後ミキサーにかけるが思ったように攪拌できず
何とか切り刻んで甕につけ込む
表面をペーパータオルで塞ぐ(外ふたを被せる)

肉を漬け込んでの辛味焼きや洋風煮込み料理のベースに使う予定です。

三つの加工に1.5キロの麹を使い切りました。