蓼科山登山 予行演習

8月にやって来る孫たちの今年の一大イベントが蓼科山登山になりました。
そこで、孫たちを迎えるジイジとして、この日は予行演習を行いました。

齢70の山小舎おじさんに、入念な準備は不可欠です。

登山靴は防水加工のトレッキングシューズです。
高機能靴下を履きます。
さらに足首、膝、腰、上半身に紐を巻いて固めます。
ヒモトレというやつです。

2年ぶりの蓼科山、頂上へは2回しか行ってません。
しかも2年前に行った9合目の将軍平往復では、帰りに足が動かなくなって、我ながら大変でした。

息子が誕生プレゼントでくれた登山靴
娘が送ってくれた高機能靴下を履き、足キビ、膝をひもで固める

土曜日の10時前に7合目登山口の駐車場に着きます。
予想通り駐車場は満車で、路肩に延々と県外ナンバーの車が停まっています。
少し離れた路肩に軽トラを停めます。

7合目登山口付近には路駐車両が並ぶ

鳥居を潜って登山スタートです。
同じころスタートする登山客も三々五々いますが、早や下山してくる人もいます。

最初は丸太で階段が組まれていた登山道は、岩がゴロゴロするガレ道?となります。
過去に歩いた時の、雨水で掘れた道よりは歩きやすくなりましたが。

登山口で登山客を迎える鳥居
登山道、最初のころ
登山道、中盤

急な斜度の砂利(というか岩)道が続き、休憩場所らしいところや景色のいい場所がほとんどありません。
大きなケルンが積まれていたり、沿道にコケが見られたり、馬返しという場所の名残がわずかに登山客の目に変化をもたらしてくれます。
頂上にある蓼科神社の参道である、信州らしい自然にあふれた山道なのです。

登山客が積んだケルン
沿道にはコケも
ここまでは馬も来たのか?

何度も小休止し、砂利に滑りながら登り続けます。
あわよくば山頂まで、の考えはとうになくなり、ひたすら9合目・将軍平の山小舎の姿を求めて喘ぎながら登ります。

終盤の登山道、ごろ石が滑る
振り返ると女神湖方面の景色が見えた

健康な人なら頂上まで2時間とのことですが、その2時間を過ぎました。
とっくに余裕がなくなった視界の先に、空の青さが見えてきて、休憩する登山客で賑わう将軍平に着きました。

山小舎のある将軍平に着いた

写真を撮るためにこの先の絶壁?が見える場所まで行きます。
脚がガクガクしており頂上までは無理です。
写真を撮って山小舎へ引き返します。

将軍平から山頂への急な岩場

この日の装備品は、ヤッケとペットボトル1本、カレーパンです。
昼飯前に下山するつもりでしたが、すっかりバテています。
カレーパンを食べましたが、しばし休息と給水が必要です。
山小舎に入ってコーヒーとアイスクリームを補給することにしました。

将軍平の山小舎周辺は登山客の休憩場所

ここのコーヒーは注文の都度、豆を挽いてくれます。
水は雨水です。繁忙期なので3人のスタッフが忙しそうです。
30分ほども休んだでしょうか、アイスクリームが体にしみます。
足に疲れはたまっていますが下山しなければなりません。

山ゴアでコーヒー

前回のように、動かなくなった足をごまかしながら、引きずるように歩くほどのピンチはなく、下山時には、ほぼほぼ筋肉が活動停止の状態だったものの、軽トラまで到着しました。
出発から4時間を過ぎていました。

本番では頂上まで登るつもりで準備し、ストックももってゆこうと思います。
この日はたくさんの中高年の登山者がいましたが、ほぼ全員がストックを使っていました。

丸太の玉切り終了

半年ぶりで山小舎にやってきた丸太玉切りしました。

10本ほどの太めの丸太と、同じくらいの細めの丸太をチェーンソーで切り終えました。
平日の昼間、一日当たり1時間程度の作業です。
週に2日か3日の作業で、3週間ほどかかりました。

太いシラカバの丸太に切れ目を入れる

丸太を切る時の、木くずの飛び散りと木の香り。
久しぶりです。
やっぱりこれがないと山小舎暮らしではありません。太い丸太を切るのも大変です。
三分の二ほど切ってから何とか丸太を転がして残り部分に刃を入れます。

40センチから50センチの長さに切っても、切りたての玉は水を含んで重いものです。
直径の大きなものは、玉に切っても持ち上げるのに一苦労します。

地面に埋まっている石に刃があたり、たちまちチェーンソーが切れなくなります。
やすりで研いで使ってみると、切れ味は半分ほど戻るのですが、研ぎ方が偏っているので、刃が斜めに入ってゆきまこうなると、丸太を切断するのも一苦労です。
反対側から刃を入れても、切断面が合致しないのです。
合致したとしても、出来上がりが円筒形にはならないのです。
太い丸太を切る時に、このような刃では役に立ちません。
新しい刃を二連ほど使わざるウェませんでした。

チェーンソーの刃の切れ味と、刃研ぎの大切さを痛感しながら、やっとこさ玉切りを終えました。
軽トラ3台分ほどの玉を庭のヤードへ運んで山積みします。

切った丸太を軽トラに積む

大きなものは、現地に置いておき、くさびとハンマーで四つ割りにする予定です。
そのあとで、法面にある乾燥台に積み込んで、1から2年乾燥させます。

ヤードへ運んだものは、暇を見て割って庭の乾燥台に積んでゆく予定です。

これからの薪割り作業が大変です。

丸太を切り終える

DVD名画劇場 アメリカ時代のフリッツ・ラング① ヒロイン、シルビア・シドニー

フリッツ・ラングは1890年オーストリア=ハンガリー帝国時代のウイーンに生まれた。
1907年にウイーン美術学校に入学、続いて科学技術学校に学んだ。

ちなみに同郷のヒトラーは同じ1907年にウイーン美術学校の入学に失敗している。
ヒトラーに比べて、才能的にも家庭的にも恵まれていたラングは、第一次大戦に出征、負傷したのち入院中に書いたシナリオが認められ、映画界入りした。

映画監督となったラングは、「ドクトル・マブセ」(22年)、「ニーベルンゲン」(24年)、「メトロポリス」(27年)など、サイレント時代の歴史に残るドイツ映画の作品群を発表。
第一次大戦後にあって、「カリガリ博士」(19年)など、表現主義と呼ばれる芸術運動により復興したドイツ映画界の次世代を、FWムルナウとともに担った。

フリッツ・ラング

ゲルマン神話の映画化である「ニーベルンゲン」は、2年間の準備期間と7か月の製作日数をかけた。
ウーファ社とデグラ社という国内の映画会社大手の共同制作による、第一次大戦後のインフレーションにもかかわらずドイツ映画界が総力を挙げて作り出した大作で、ドイツ人の魂の故郷ともいえる物語の映画化は、ドイツ社会に影響を与え、その表現様式がのちにナチス党の祭典様式に取り入れられた。(キネマ旬報社「世界の映画作家34 ドイツ・北欧・ポーランド映画史」p45~47より引用)

「ニーベルンゲン」
「ニーベルンゲン」

「メトロポリス」は、ウーファ社が700万マルクを投じたドイツ映画始まって以来の大作となった。
21世紀の大都市メトロポリスを舞台に、独占資本家と労働者の対立と和解を描く。
ラングは偏執狂的な情熱で、摩天楼、地下工場、人造人間など、近未来都市のセットを造出した。
この作品が発案された背景には、当時成立したドイツ独占資本とアメリカ資本の流入による産業界の活性化による資本主義の究極化への予感があったといわれる。(同上p53~55より引用)

「メトロポリス」
「メトロポリス」

「怪人マブゼ博士」(33年)をナチス政権により公開禁止処分にされたラングは、1934年宣伝相ゲッペルスに呼ばれる。
ゲッペルスは「M」(31年)、「怪人マブゼ博士」と反ナチ的背景を持つ作品を作ったラングを要注意人物視していたが、同時に「ニーベルンゲン」を作ったラングの才能も買っていた。
ゲッペルスはラングに、将来に統合されるドイツ映画界の中心人物として、ナチス政権下で働くように求める。
返事を保留したラングはその日のうちにパリへ去る。
映画界入りしたときから、二人三脚で創作に務めてきた脚本家の妻のテア・フォン・ハルボウには何も告げずに(妻はこの時にはナチス党員だった)。(フィルムアート社「ドイツ映画の偉大な時代」p369~371より引用)

フランスからアメリカに渡ったラングは、MGMにいたデヴィッド・セルズニック(「風と共に去りぬ」のプロデューサー)との個人契約でMGMに迎え入れられたが、処遇が決まらず、セルズニックが独立してMGMを去った後には、契約更新を断られた。

結局、渡米第1作「激怒」のヒットで、50年代後半までハリウッドで映画監督として活動することができた。
50年代末には西ドイツに戻り、自作のリメイク「怪人マブゼ博士」(60年)を撮る。
65年にはゴダールに乞われて「軽蔑」に自身の役?で出演し、教養豊かな老監督ぶりを演じた。

今回は、ラングが渡米直後に撮ったアメリカ映画、第1作と第3作を見る(第2作目の「暗黒街の弾痕」は当ブログにて紹介済み)。

「激怒」    1936年   フリッツ・ラング監督    MGM

結婚衣装のディスプレーの前にたたずむ結婚間近の二人(スペンサー・トレーシーとシルビア・シドニー)。
シルビア一筋のスペンサーと幸福そうなシルビア。

フリッツ・ラングの渡米初期作(「暗黒街の弾痕」と「真人間」)ならば、人の道に背いた(ことのある)恋人たちの、道ならぬ(波乱に満ちた)恋路のプロローグとして設定されたこのシチュエーション。
本作では、主人公は工場勤務から独立し、兄弟らとガソリンスタンドを立ち上げた善良な庶民という設定。

が、しかしいかに善良とはいえ、主人公が、身に覚えのない犯罪の容疑者として、あわや民衆のリンチの危機に瀕する不条理に迷い込むことになるのは、ラング映画の主人公の宿命だった。

フリッツ・ラングのハリウッド第1作は、こうして故なく犯罪に巻き込まれる青年を主人公として始まる。
主人公の無垢で一途な婚約者を演じるのがシルビア・シドニー。
本作から3作品連続してラングは彼女をヒロインに据えることとなる。

田舎の無知で、善良とはいえず、むしろリンチを好む歴史的伝統を隠しようもないアメリカの住民が、無実のスペンサーを誘拐犯人として追い込む。
うわさ、好奇心、無責任、扇動を、楽しむかのように増幅させてゆく住民たちを、畳み込むように描くラング。
まるで、歴史浅く、単純で好戦的なアメリカの国民性を戯画化するかのような演出だ。

犯罪(容疑)者を追い込むリンチの恐怖は、ドイツ時代の「M」に比して恐怖度が少ない。
暗さを強調し、得体のしれぬ恐怖感に満ち満ちた「M」に比べて、本作のリンチ(未遂)シーンはアクションを強調したスリリングなものとなっており、恐怖の原因は先導された群衆に限定されている。
ドイツ時代のナチスの権力の狭隘さを、暗示的に描いた{M」の恐怖のほうが、恐怖の正体を明示しない分だけ不気味なのだ。

『激怒」

更に、本作の群集心理の背景には、自らの選挙対策を最優先し、リンチを放置する州知事の存在や、野次馬的に煽り立てるマスコミの蠢動がある。
こういったアメリカ社会の宿痾を忘れずに描くのも外国出身のラングの真骨頂。
「地獄の英雄」(51年)で、人命の危機を特ダネとして集まったマスコミと物見遊山の人々をこれでもかと描いたのは、オーストリア=ハンガリー帝国出身のユダヤ人監督という点で、ラングの後輩にあたるビリー・ワイルダーだった。

本作の狙いは、扇動された群衆の怖さを描くことだけではない。
群衆による刑務所の放火から生き残ったスペンサーの復讐心理を描くことにむしろ主眼が置かれる。

復讐鬼として世間に存在を隠しながら、弟たちとリンチを扇動した住民を告訴し、裁判で罪を断じようとするスペンサー。
ここら辺、裁判長や保安官を公正で職務に忠実な人物として描いたのは、ドイツ育ちのラングらしい。
果たして、裁判においても、アメリカ社会では必ずしも正義が執行、貫徹されるとは限らないのだが。

最後の最後では、『激怒(FURY)』したはずのスペンサーが、婚約者シルビアとの人間的つながりに目覚め、リンチ扇動者を許すという大団円のハピーエンドとなる。

ラングのハリウッド第1作が成功したのも、このハピーエンドのためなのだろう。
ラングが好むであろう、理路整然とした理屈(と理屈が通らない不条理)の世界はどうなったのか。

『1936年当時、MGMとの契約更新を断られていたラングに「激怒」の監督の依頼をしたのは、この企画をMGMに持ち込んだ、ジョセフ・L・マンキーヴィツ(パラマウントのベルリン支部でドイツ映画に字幕を付ける仕事をしていたことがあった。のちに「三人の妻への手紙」(49年)、「イヴの総て」(50年)でアカデミー監督賞を受賞)だった。

本作の撮影中、ラングは自己流(ドイツ流?)の撮影方法を貫こうとし、現場で軋轢が生じた。
撮影後、ラングは作品のいかなる改編も拒み、MGMを解雇された。
作品はマンキーヴィツにより編集されヒットした。

いずれにせよ作品の成功はドイツの監督にもハリウッド・アクションが撮れるという証明となり、様々な結果を招いた』。(以上、文芸春秋社刊「ハリウッド帝国の興亡・夢工場の1940年代」p72~75より引用)



「真人間」   1938年   フリッツ・ラング監督    パラマウント

フリッツ・ラング渡米第3作。
3作全部のヒロインにシルビア・シドニーを起用、本作はその最終作となった。

シルビアの相手役の主人公はジョージ・ラフト。
前身はギャングだったというハリウッドスターである。
製作者としてパラマウントのタイクーン、アドルフ・ズーカーがクレジットされているが、実際の製作は監督のラングが兼ねている。

リアルなギャングだったラフトが本作では前科者を演じる。
ただし、『更生しようとする前科者が、やむにやまれず犯罪に再度手を染め破滅する』という、犯罪映画にありがちなパターンを、この作品は少しひねって作られている。

従業員250名のデパートが舞台。
社長(ハリー・ケリー)は善人は善人でも、とことん筋の通った人物。
従業員中数十人の前科者を雇用している。
社長が単なる社会貢献から善行を行っているだけの人物ではないことは最後にわかる。

デパートで昔のワル仲間の誘いをはねつけつつ仕事に励んでるラフトには、店員仲間のシルビア・シドニーという両思いのガールフレンドがいる。
2人はエスカレーターで上下にすれ違う時に手を握り合うほどの中だが、恋人という程ではない。

「真人間」

ラフトは自分の前科が広まっていないカルフォルニアで新しい人生を始めようと、社長の紹介状を胸に長距離バスに乗りこむ。
愛するシルビアに見送られて・・・。
シルビアが離れてゆくバスのラフトに向かって叫ぶ、『今夜プロポーズされたならOKしようと思っていた』。
ラフトはトランクを窓から投げ捨て、バスから飛び降りる。
このスピーデイで洒落た展開は、アメリカ映画的な明るさそのもので、犯罪映画っぽくなくていい。

2人は真夜中に、”インフォメーション”と呼ばれる何でも相談所で結婚証明書を取得し、シルビアのアパートにしけこむ。
ユダヤ人の大家夫妻は、最初はラフトを追い出そうとするが、二人が結婚したと知って歓迎する。

アメリカ特有の、街角の結婚届所の存在と、名もなき恋人たちが逃避行の際に行う、届出所の証人の前での結婚。
この、”日陰者の恋人たちの結婚”はラングの前作「暗黒街の弾痕」でも描かれていた。

シルビア・シドニーは『前科を持ち、前途に不安があるが、自分を愛してくれる青年についてゆき、一途な、幸福そうな表情をする』役柄が似合う。
薄幸そうなのではない、客観的には幸福が望めない状況でも、自分が愛する相手と一緒になった女ごころのうれしさを演じられるのだ。

実はシルビアも保釈中の身。
それを隠して結婚したが、やがてラフトが事実を知り、やけになってワル仲間の誘いに乗りデパートの強盗のグループに戻る。
それを知ったシルビアは身を捨てる覚悟で社長に相談する・・・。

夜中にデパートを襲ったラフトのグループの前に社長とシルビアが立ちはだかる。
社長は翌日8時の出社を条件に今回のことは不問に処すとして立ち去る。

一方、シルビアは黒板を背にギャングどもの前で仁王立ち。
如何に今回の犯罪が収支的にも割に合わないかを数字を書いて示してゆき、ギャングどもは犯罪の割の合わなさを理解し、ラフトはシルビアの元に戻る。
「激怒」「暗黒街の弾痕」ではひたすら恋人の後をついてゆくだけの存在だったシルビアが、一人の人間として自立した役を演じる、これは記念すべき作品なのではないか。
そのハイライトが黒板に数字で説いてゆくシルビアのこのシーンなのではないか。

前2作のペシミズムから翻り、ハピーエンドを意識したという結末は、フランク・キャプラ(「スミス都へ行く」(39年)、「群衆」(41年)、「素晴らしき哉、人生」(46年))的”アメリカの善意”の物語を思わせるほど。

フリッツ・ラングらしさは、ヒロインのシルビア・シドニーの憂いに満ちた瞳の奥に潜む影と、それが示唆する現実の恐怖にあるはず?だったが、そのシルビアが凛々しくも黒板にチョークで現実のそろばん勘定を証明するほどに(キャプラ的”アメリカの善意”に)”自立”したのである。

これは暗黒犯罪映画、心理的スリラーを旨とするであろうラングの世界からシルビアが、役者として別の世界にスケールアップしたということなのだろうか。
それともシルビアの当時の愛人BPシュルバーグが重役を務めるパラマウントの都会的社風に、ラングが妥協しての産物なのだろうか。

前述の「ドイツ映画の偉大な時代」から引用した通り、ラングのドイツ脱出は、ゲッペルスからの断われない誘いを受けたその日に、フランスに出国したことになっているが、それは本人の自己申告上のものであり、実際は本人がかなりナチスに自己保身を売り込んでいた(がその保証がなく脱出した)のが事実であるとの考証もある、とのことである。(ウイキペデイアより)

女優シルビア・シドニーの実像のしたたかさとともに、名匠フリッツ・ラングと現実世界の関係もいろいろあったようだ。

シルビア・シドニー

軽トラ流れ旅’26 高山村、須坂の旅

信州に居住し10年目の山小舎おじさん。
これまでに、野沢温泉、渋温泉、奥蓼科温泉、松代温泉など個性派温泉を訪れました。
ふと思ったのは、『高山村の山田温泉の古民家風の立折り湯には、まだ入ってないなア』でした。

或る木曜日、朝8時前に山小舎を軽トラで出発して高山村を目指しました。

高山村 山田温泉

夏を迎えた信州の景色を菅平まで飛ばします。
菅平はスポーツ合宿の真っ盛りでした。
そこから須坂を目指して長い坂を下ります。
そこから高山村への標識に従って、田んぼや果樹園の中を北上します。

高山村の集落を過ぎ、秋川渓谷に沿って登ってゆくと山田温泉です。
旅館と土産物店が静かに並ぶ温泉街の県道112号線沿いに大湯があります。
野沢温泉の大湯、渋温泉の大湯、別所温泉の石湯などと同じく、大湯の建物は歴史を感じさせる外湯です。

山田温泉の外湯・大湯

大湯の前に、秋川渓谷の最深部に湧く七味温泉の無人の立寄り湯を見に行きます。
紅葉館という湯質抜群の旅館が管理する「野天風呂」という湯小屋です。
『休業中』の看板がぶら下がていました。
帰ろうとすると軽トラがやってきて関係者と思しき男性が降り立ちました。
聞いてみると『入れますよ』との返事でした。
この日の目的は大湯なので、深謝して立ち退きました。
ここのお湯もいいお湯です。

七味温泉の外湯。野天風呂。無人、投げ銭方式

元来た道を山田温泉まで戻ります。
夏の日差しの中、観光客がチラホラ見えます。
大湯の建物に入ると、番台には30代とおぼしき女性が座っています。

400円を支払い入湯。
ヒノキ造りの浴室と浴槽は期待通りです。
無人の湯殿でゆったり過ごします。
湯温は熱くもなく、ぬるくもなく。

洗い場のカランは、樋と堰が木製という前代未聞のものでびっくりしました。
椅子と桶を除き、オール木製の浴室でした。

大湯の正面玄関

上がってからロッカーに納めた貴重品を出そうとして鍵を入れますが、鍵が回りません。
先客が取り忘れた硬貨が、開錠を邪魔していたのでした。

拾得物の100円を番台に届けがてら高山村の情報を聞きます。
この日の目的の一つは、高山村の農協で売っている紅玉シードルだったのですが、この日は農協の選果場が休みだったのです。
『村内の藤田屋酒店というところは品ぞろえがいいですよ。村内のカフェには地元の野菜を置いているところもあります。』とのお姉さんの返答。

また山田温泉の旅館についての問いかけにはの問いかけには『宿泊料が高いが、リピーターの多い山田館と、将棋の藤井聡太が対局した藤井荘という旅館が人気ですね』とのことでした。
また高山村はインバウンド客が少なく(混雑していない)とのことでした。
ほかにも子安温泉が建物の改築で休業中など、聞けば聞くほど様々な情報があふれ出てくる方でした。

天田温泉の温泉街

高山村 子安神社、藤田屋酒店

大湯の番台のお姉さんに教えられた酒屋に向かう途中に子安神社がありました。
帰りに寄ってみようと思っていた雰囲気のある神社でした。

高山村、子安神社

軽トラを下りて人気のない境内をうかがうと、全国にある子安神社の中でも最も風格のある神社との由緒書があります。
現在もなお、日々の手入れと信仰がうかがえる神社です。
鳥居を潜って本殿にお参りしますが、賽銭箱がありません。
鍵のかかった本殿内部にあるようです。

本殿

お参りの後、境内で周囲を見渡すと、狛犬の背後に夏の青空と秋川渓谷の山々が広がっていました。
やはり民間信仰の場所はいい立地に建つのだなあ、と風景に見入りました。

風景を境内から望む

番台のお姉さんに教えられた酒店へ寄ります。
この店は県道を走っていても目立ちます。

店内は、地元のワインなどを前面にフィーチャーしたレイアウト。
聞けばいくらでも情報提供してくれる若店主がいます。
選果場で売っている紅玉のシードルのことを聞くと、「農協で作って売っているシードルかな。ほかでは売っていません」といって別の地元産のシードルを出してきます。
紅玉、フジなどの混合とのこと。

『山田温泉から来られた方ですよね?』というので聞くと、酒屋さんに山田温泉から連絡があったとのこと、あのお姉さんが電話したのでしょうか、『紅玉のシードルを探している高齢のおじいさんが行くかもしれない』と。

大湯の番台のお姉さんの地元愛の強さとともに、地域のネットワークの深さというか、強さを感じました。
結局農協さんのシードルは手に入らなかったのですが、此方にあったシードルのほか、地元産で限定流通の白ワインの2024年産と2025年産をいただきました。

購入した村内限定ワイン

須坂市役所食堂

テレビのローカル放送は貴重な情報源です。
日々のローカルニュースのほか県内の食や名産品に関する情報番組を見ていると『これは!』と思う情報にぶち当たります。
それらをノートにメモしておき、行きたい場所や食べたいものをチェックしておきます。
今年になってからのノートに、『須坂市役所食堂』のメモがありました。

テレビ番組の内容は忘れてしまいましたが、今時珍しい市役所食堂の繁盛と工夫がフィーチャーされた番組だったと記憶しています。
今回の旅のランチは須坂市役所食堂にしました。

炎天下の須坂市役所駐車場に軽トラを乗り入れます。
案内を乞い地下の食堂へ。

気になったのは道順を答えてくれた昼休み中の女性職員が、『予約がないと食べられませんよ。メニューはお弁当しかありませんよ。』といったことでした。
どうも雰囲気が違います。

須坂市役所全景

地下一階に下りて食堂を探します。
市役所の地下というと、コンクリートがむき出しの無愛想な作りなのは須坂市役所も同様です。
キョロキョロしていると、立っていた女性が『食堂ですか。予約は?』と聞いてくれます。
予約なしだというと、テーブルで食べている男性グループに『これは予約なしの分?』と確認し、残っている弁当を指さしました。
自販機で食券を買い、所定のケースに入れるとのこと。

地下一階の食堂入口

どうやら食堂は無人化し、メニューは550円の弁当一種類だけ。
それも事前予約した分が主で、一般のフリーな客向けの個数を若干あるだけ。
お茶は自販機のペットボトルを購入、というもの。

食券販売機

窓のない地下の食堂には若い職員のグループが数組と一般の高校生などが三々五々。
かつて食べたことがあった塩尻市役所の食堂を思い出しました。
あそこもメニューは弁当一種類だけ、ただしおじさんが一人立っていて、ご飯を詰めてくれましたっけ。

この日のお弁当

6月15日から現行の体制になったとの張り紙がありました。
来るのが遅かったようです。
もう日本では、役所の食堂に『安かろう、うまくはなくても、だれでも便利に利用できる』スタイルはなくなったようです。
地元調布の市役所食堂もだいぶ前に撤退したのです。
もう須坂市役所に来ることもないでしょう。

断り書き

須坂鈴木養蜂店

これも高山村つながりなのですが、かつて家族で七味温泉の紅葉館に一泊したときに、朝食で出てきたはちみつ(ヨーグルトにかけられていた)の味に感激したことがあります。
入手先は須坂市内の鈴木養蜂店とのこと。
それ以来鈴木養蜂店のはちみつのファンです。

須坂市内の店舗

もう新密が出回った頃か?と須坂市内の同店に寄りました。
店は開いていました、はちみつの新物も並んでいます。
ですがいくら声をかけても反応がありません、いつもいる女性の店番もいません。
仕方なく不在時の電話番号に電話すると主人が『あと5分で戻る』と返事がありました。

如何に人気の少ない須坂の商店街とはいえ、開けっ放しで留守にするとは不用心です。
不良外国人に知れたら一網打尽にされかねません。
この地方では果物の被害はすでに毎年の例でしょうし。

百花と蓮華の新物を買い求めつつ、採蜜が本職の御主人とトークです。
『日本ミツバチはどんな花からも蜜を集めるので味が混ざって美味しくない』
『熊は昔から巣箱を食べにくる、ラジオが一番防ぐ効果がある。毎年の被害は想定内』
『一時期ハチが少なくなって、農家の作物の授粉用に貸し出しができなかったこともあった』
『ズッキーニの授粉は朝早い。ハチがいないと自然受粉は困難』などなど楽しい話が聞けました。

養蜂店前の看板

はちみつ2瓶と湯の花を購入。
いつものようにかりんとうを一袋おまけに入れてくれました。

2026年産の百花はちみつ、菜の花はちみつなど

県内の弘法山古墳が日本最古級か?

7月4日の信濃毎日新聞の記事です。
たまたま買った同紙に気になる記事が載っていました。

松本市の国史跡「弘法山古墳」が発掘調査の結果、日本最古の古墳の一つであることがわかった、とのことです。

2026年7月4日付信濃毎日新聞より

これまでは3世紀末から4世紀初頭にかけての構築で、東日本最古級とされてきたのが、50年程さかのぼるというのです。
大和朝廷設立以前の構築といい、大和朝廷の影響下にあるものではなく、東海地方の影響下に増築されたものだといいます。

信州が石器時代の列島の中心地のひとつであり、黒曜石が発掘され、列島の隅々はおろか、大陸まで流布していたことは歴史上にオーソライズされています。

また、古墳の現存数が全国のトップクラスであることも事実であす。
千曲市にある森将軍塚などは、巨大な前方後円墳できれいに整備公開されており、見てびっくりしたことがあります。
ただし、この古墳の主は特定されておらず、地域名である「森」を、便宜的にその名に冠している状況です。
このように現在の所在地域名を冠した古墳は県内にいくつもあるようです。
全国有数の古墳数を誇りながら、あまりに歴史的解明が進んでいないではありませんか。
日本史における「東国」の、解明の遅れというか蔑視ぶりがうかがえます。

諏訪大社の起源や縄文時代の遺跡を見ても、県内に大和朝廷以前の、また日本書紀神話以前の文化文明があったことは事実です。
そのことが3世紀後半以降の中央集権勢力にとって都合が悪かったのでしょうか。
その流れをくむ、現在の日本の権力構造にとって、日本書紀神話を覆す歴史的事実はオーソライズしたくないのでしょうか。

今回の弘法山古墳の記事もおそらく全国に広まらないままとなる気がしてなりません。

令和8年畑 ジャガイモ収穫

ジャガイモを掘りました。
4月に1キロの種芋を植え、発芽後に間引きを1回、土寄せを1回しました。
無肥料です。
花が咲かないまま、地表部が枯れた7月20日過ぎに収穫しました。

スコップで掘り返してみると、中型の芋が一つ二つ出てきます。
間引きのおかげでしょうか、ピンポン玉ほどの小粒はあまりありません。
かといって中型以上の玉も多くありません。

全部で2キロから3キロの収穫です。
まあまあというべきか、失敗というべきか。
無肥料だとこんなもんでしょうか。
花が咲かないのがまずかったのでしょうか。

日に当てないようにして乾かしてから、自宅に送ったり、夏の来客に提供したりしようと思います。

収穫全量

ピクルスの季節到来!

山小舎界隈での食品加工は、一時のジャム、コンポート一辺倒から、ピクルスへと静かに移行しているようです。
加工素材が高価な果物から、畑で収穫する野菜や、安価な農産物に代わっています。

ショウガのピクルス

ガリのことです。
初夏は新ショウガの季節です。
ネットを見ていたら、ガリの作り方が出ていたので試してみることにしました。

新ショウガをスーパーで購入します。

軽く皮をそいで薄切りにしてゆきます。
切ったものを、これまた軽く塩ゆでします。

ネットのレシピ通りにピクルス液を作ります。
寿司屋のガリの味を想定して、コンブなどを入れ、和風に味付けします。
ショウガをピクルス液に入れて加熱します。

瓶詰めして抜気します。
和食の付け合わせとします。

インゲンのピクルス

畑で大量のインゲンが採れました。
ほぼほぼの量を山小舎おばさんに託して自宅に持ち帰ってもらいましたが、それでも相当な量が手元に残りました。新しいうちにピクルスに加工します。

ネットで手順の確認です。
洗浄の後、塩ゆでです。
硬いインゲンの皮にピクルス液が染みやすくするためと、殺菌のためです。

ピクルス液は洋風に仕上げます。
酢のほかに、ローリエ、ホールの黒コショウ、ニンニク、とうがらしなどを加えて加熱します。

消毒した瓶に、熱々のインゲンを詰めておき、ピクルス液を流し込みます。
抜気して出来上がりです。

オードブルの1品のほか、洋風のソテーやシチューの材料とします。

キューリのピクルス

1週間も畑から離れると、キューリはその巨大な姿を現出させます。
単に姿が太いだけではなく、実の中心部には種が詰まっています。
食用に供さない種は取り除いて加工しなければなりません。
種を除けば、ほかの部分は十分食べられます。

太いキューリを2本用意します。
半分に割ってスプーンで種をかきだします。

保存瓶は中瓶にします。
瓶の丈に合わせてキューリをカットします。
2、3分塩ゆでします。
殺菌のためです。

洋風に仕上げたピクルス液を、瓶に詰めたキューリの上から注ぎます。
ピクルス液の黒いコショウの粒、赤いトウガラシ、ローリエの葉っぱがアクセントです。

ピクルスの定番のキューリはオードブルの主役です。

令和8年畑 収穫本格化!

畑は酷暑の季節を迎えました。
夏野菜の収穫が本格化しました。

ハックルベリーの実がなっている

心配したズッキーニの結実。
見様見真似で人工授粉を施したところが、1本、巨大ズッキーニが成りました。
久しぶりの巨大な実です。
これからは自然受粉してくれないかな。

巨大なキューリとズッキーニ(右)

1週間ぶりの畑には予想通りに巨大なキューリがぶら下がっています。
これらは収穫後、実を半分に割って種をスプーンでかきだした外側を、ぬか漬けやサラダで使います。
味は青臭くて新鮮でおいしいです。

収穫を待つキューリ

トマトは大玉の実の太りがイマイチです。
ミニトマトは例年通りに株の育ちもよく、実の味も濃くできました。

同トマト

インゲンがどの株も育ちがよく、実の成りが順調です。
収穫が凄いことになりました。
山小舎おばさんのお土産に持って帰ってもらいます。
残りはピクルスに加工、煮つけにして食べます。

インゲンの山

そろそろ3回目の除草の時期がやってきました。

トマト
ナス、ピーマンなど

上田映劇で、ロベール・ブレッソン傑作選

NPO法人上田映劇が経営する、大正年間より現存する木造映画館・上田映劇。
支配人は上田高校から日大芸術学部大学院を出てUターン。
営業停止していた上田映劇を再興して今に至る。
昨年には信濃毎日新聞の表彰を受けた当地の文化人。
何より映画館1館(姉妹館トラムライゼと併せて2館)の常時上映を継続しているのが凄い。

上田映劇の玄関
現存木造シアター、上田映劇の雄姿

ミニシアターとして分類される上田映劇では、シネコンでは上映されない新作のほか、再輸入された旧作洋画が主な上映作品。
この再輸入洋画には、ベルモンド傑作選、ルノワール作品、ブニュエル作品、「黄金の七人」、ミムジー・ファーマーの70年代の代表作、などなどがある。
キングレコードなどが、旧作をデジタル素材で再輸入・配給したもので、映画ファンの琴線に触れるプログラムだ。

次回上映のポスター

今回は、ユーロスペースなど二つの業者による配給により、ロベール・ブレッソン傑作選として5作品が公開された。
上田映劇でも上映され、そのうち2作品に接することができた。

ロベールブレッソン傑作選のチラシ
チラシより

「スリ」    1959年     ロベール・ブレッソン監督    フランス

「抵抗」(56年)とともにブレッソンの名を日本にも広めたのが本作。
生涯にわたるブレッソンのスタイルは、本作でも確立、踏襲されている。

現代のパリ。
インテリだが、不景気と自身の社会性のなさから無職の青年がいる。
実家には病弱の母親が一人。
いよいよ生活に困った青年は、調子が良いくらいに社会適応性のある友人にバイト先の紹介を頼む。
ところが青年は、友人の紹介するバイトではなく、スリの世界に入り込み、重大はピンチもないまま、器用なその手先を使ってスリで稼ぎ始める。
一方で、寝たきりの母親はアパートの隣室の娘の介護を受けつつ死んでゆく。
母の死に痛痒を感じないわけではない青年だが、母の面倒を見てくれた娘に愛着を感じる。
やがて警察に捕まり、投獄された青年は、面会に来た娘に愛を告白する・・・。

ブレッソンのスタイルは、後年の説明を極力省いたものと少し異なり、巻頭に「この映画は刑事ものではない(中略)自らの弱さによってスリという自らにふさわしくない冒険に駆り立てられた若者の悪夢である(攻略)」という字幕が入る程度に説明的だ

「刑事ものではない」、と断りは入るが、画面に映る50年代のパリの街頭風景は時代を映し出しているし、刑事らしくない刑事(素人俳優)の登場も、ねらってはいないのだろうが緊張感を画面にもたらす。
劇映画としてスリリングな作品でもあり、何より紛れもない50年代のフランス映画のテイストを感じさせる。

一方で、素人俳優の主人公は、象徴的なセリフと具体的な動作に徹したふるまいで、『行間の芝居』や『伏線』『心理的芝居』からは隔絶した存在である。
泣きの芝居も、怒鳴りも叫びも、アクションシーンもない。
ヘンリー・フォンダとモンゴメリー・クリフトを合わせたような風貌で、どっちつかずの戦後世代のモラトリアム的行動を淡々と行うだけだ。
その具体的な振る舞いが、青年の奥底にある虚無感成り、閉塞感を浮き上がらせる。

母親を介護する謎の女を演ずるマリカ・グリーン(のちに職業女優に転ずる)は、主人公以上にその人物についての背景説明はなく、クールな美貌を無表情に見せるだけで、セリフも更に少ない。
美貌のタイプがブレッソン映画のヒロイン(「白夜」(69年)、「湖のランスロ」(74年)の素人女優にも、「バルタザールどこへ行く」(66年)のアンヌ・ヴィエゼムスキー、「やさしい女」(69年)のドミニク・サンダ;どちらものちに職業女優、にも似ている)に共通しているところが興味深い。

感情表出を排し、動作にのみ専念した演出は、スリの手口の物理的な描写に象徴的にみられる。
スリという動作の非日常性を強調するためでもなく、またスリルを盛り上げるものでもないその機械的で、記録的な描写がブレッソン映画のスタイルなのだろう。

ちらしより

『この世には法律を超越してもいい人間がいる』と内心思っており、刑事にもそう主張する主人公。
西欧思想のエリート主義なのか、あるいはキリスト教思想を源流としたものなのか。
筆者から見ると単なる優柔不断で中途半端なモラトリアム思想にしか見えないが、そういった主人公の精神を人間性として取り上げるのもブレッソンのテーマなのだろう。

もう一つのテーマがキリスト教上の神の救い。
ラストで刑務所で面会する主人公と娘がお互いの愛情に気づき、荘厳なテーマ曲が二人を包む。
出口の見えない虚無に陥っていた主人公に射す一筋の光。
『神の救い』はブレッソン終生のテーマであったようだ。

「少女ムシェット」   1967年   ロベール・ブレッソン監督   フランス・ゴーモン社

製作はゴーモン社のアナトール・ドーマン。
「二十四時間の情事」(59年 アラン・レネ)、「男性・女性」(66年 ジャン=リュック・ゴダール)、「愛のコリーダ」(76年 大島渚)の製作者だ。
ブレッソンとは「バルタザールどこへ行く」(66年)に次いでの仕事となる。

59年制作の「スリ」と比べると、ブレッソン映画の変わらないところと変わったところがあるのに気付く。

変わらないところは、素人俳優の起用(過剰な芝居の排除)、最小限の音楽、ロケの多用(本作はオールロケ?)、突き放した社会描写、キリスト教的背景など。

一方で、本作で見せたバリエーション的変化は、ブレッソン好みの神秘的なヒロインが不在なこと、高踏的・精神的な存在の不在(地方の寒村が舞台なので)といったところか。

本作の主人公ムシェットは村のつまはじき。
ぼろを着て学校には通っているが学友には相手にされていない。
悪ガキには性的嘲笑の対象にされる。
学友に対しては泥だんごをぶつけてうっぷんを晴らす。
頼みの母親は寝たきりで、家事と生まれたばかりの弟の世話は、ムシェットにかかっている。

健気な少女の奮闘物語という設定とは正反対に、ひねくれているムシェットは、学校では教師に逆らって目を付けられ、家では.朝のカフェオレの準備を、牛乳をこぼしながら雑に行い、弟のおむつ替えでは手を抜く。
家族を含めて誰にも一人前に扱ってもらえないムシェットは生活全般が投げやりだ。

村は現代フランスの農村なのだが、走っているトラックは古く、ひょっとして戦前なのかと思わせる。
休日に賑わう遊園地の遊具を見ると、60年代後半の時代設定のようだが。

村で唯一の社交場のカフェに集まり、店員の若い女性に言い寄る村の顔役。
ムシェットの父と兄は、密造酒をカフェに卸して日銭を稼ぎ、帰ってきてはそのままの姿でベッドにもぐりこむ。
ムシェットにとっては夢も希望もない、無知であさましい村の現実だ。

チラシより

或る夜に家出したムシェットは、森の番小屋で一夜を過ごし、癲癇持ちの密猟者に襲われる。
ショックを受けるムシェットだが、人に聞かれると密猟者のことを「私の恋人」と答える。
初めてまともに相手をしてくれた人物だったのだ。

母親が死に、村のおばさんたちはムシェットに同情の言葉をかけ、朝食を出したり、いらなくなったドレスを恵んだりする。
ムシェットが、コーヒーカップを落としたり、しおらしい反応をしないと、「ふしだらな娘」「神に反した行い」だと手のひらを反す。

とっくに他人に期待することなどなくなっていたムシェットは、一人になってドレスを広げる。
ムシェットがドレスを体に当てて坂を何度も転がる。
そのまま池に落ちる。
画面には讃美歌のようなテーマ曲が流れる。
巻頭に続いて2回目のBGMだった。

原作があるとはいえ、貧しく夢のない背景描写が徹底している。
主人公はとても映画の主人公になるような美少女ではないし、周りの大人も誰一人彼女を導く人物ではない。
かといって作為的に悪意のある人物などもおらず、ひたすら現実的で救いのない描写が続く。

映画はムシェットに同情的な描き方はしない。
それどころか、これでもかとムシェットのダメなところ嫌なところを描く。
それでも神の救いはムシェットにあった。
彼女が死んでから。

山小舎に(半年ぶりに)丸太が来た

燃料用の丸太が来ました。
半年ぶりです。

運ばれてきた丸太の山

これまでの約10年間は、別荘地内の伐採業者が、不要の丸太を運んできてくれていました。
無料でした。

その業者が廃業し、代わった業者は別荘地内の空き地の伐採を入札していないため、頼んでもこちらに来る丸太はなかったのです。
購入するといえば別ですが。

それが突然、トラック3杯分の丸太を運んできてくれました。
その業者にとっても、うちの山小舎付近の現場で大規模な伐採があり、その下請けをした関係から、雑木の処理の必要が生じたのでしょう。

到着は早速玉切り開始

シラカバ、マツ、キハダ、桜などの雑木が久しぶりに空き地に積まれました。
丸太があってこその山小舎です。

今回はサービスとのことです。
次回からは手数料がかかるようです。
別荘地内での丸太入手も、費用が掛かるようになってきました。

切った玉は軽トラに積んでヤードへ運ぶ

早速玉切りして、ヤードへ運びます。
とりあえず、燃やした分の薪は補充できそうです。

チェーンソーオイルの値段が爆上がりし、せちがらさが信州の山奥まで浸透してきた昨今ですが、山小舎暮らしは薪づくりがないと始まりません。

新しい軽トラも大活躍