松代大本営平和祈念館

長野市松代には戦時中に掘った大本営と天皇御座所があります。
松代の皆神山などの地下を掘り進め、地下壕を作ったのです(天皇御座所は地上にあります)。

今では戦争遺産として保存されており、一部の地下壕は一般公開されています。

なお、長野県は現在の佐久市望月地区に、陸軍士官学校の校舎が昭和20年6月に移転してもいます。
何かあるのでしょうか。

祈念館の玄関

旧大本営地下壕を抱える松代に、平和祈念館ができたということを新聞で知り、行ってみました。

真田家(幸村の実兄を初代当主として幕末まで続いた)を町の名士と仰ぐ松代は、古い町並みが残る町です。
その一角に目指す祈念館がありました。
古民家をすっかりリノベーションしたという建物です。

土曜日ということもあり、受付には数人の比較的高齢の方々の姿が見えます。
運営するNPO法人のメンバーなのでしょうか。

パンフ

2階の展示スペースに上ると、当時の世界情勢や、日本の満州移民、戦時下の長野県内などの解説から始まって、大本営地下壕の全体像や労働者の実情、採掘方法までが細かく展示されていました。

時代背景から、県内の戦時体制まで、各々の解説文が通り一遍のものではなく、NPOメンバーが自力で取りまとめ、執筆していることがよくわかるもので、全文読みごたえがあります。

当時の長野県には、退役軍人をメンバーとする在郷軍人会のような組織があり、戦争遂行や満州移民の際に、国に先行して活躍したこと。
満州への移民数と少年義勇軍?の人数が県としては全国一だったこと。
米軍の本土上陸を想定した訓練に長野県が協力したこと、その際の武器は竹やりやスコップだったこと。
などが展示されています。
戦後に県内で発見された、訓練の計画書や貧弱なスコップの実物などもあります。

パンフより

ついてきてくれたNPOメンバーさんが、長野県からの満州移民が全国一だった背景を説明してくれました。
当時は県の主力産業だった製糸産業が世界恐慌によって壊滅したこと。
在郷軍人会からの圧力があったこと。
農家の耕地面積が狭く、次男三男は地元にいてもしょうがなかったこと、などです。
映画「黒川の女たち」でもそのことは語られていました。

パンフより

メンバーさんはご自身も相当知識が豊かで、当時の県内の背景、雰囲気なども伝わるように解説してくれました。
さすが地元のNPOです。

大本営地下壕の掘削については、労働者の多くが朝鮮人だったが当時の名簿は焼却されて正確なことはわかっていないこと。
大成建設だったかについてはアメリカの国文書館だったかに残っており、そのコピーが展示されていました。
いずれにせよタコ部屋並みの労働環境だったようです。

ピンバッチを100円で購入

NPO法人の真面目な尽力が感じられる祈念館でした。
松代大本営に関する疑問がかなり解消できる資料と知識が詰まった施設でした。

祈念館を出て「ニュー街道一」へ向かいました。
地元で人気の食堂です。
ここ2回ばかりは満員で入れませんでしたが、この日はカウンターが空いていました。
念願のカツカレーをいただきました。

JA松代選果場
長芋一袋1500円

この日の目的はもう一つ。
松代が名産地の長芋です。
選果場はすでに買い物客で賑わっていました。
B品の袋詰めとごぼうなどを買いました。
6月のアンズに続いて、11月の松代は長芋が「買い」です。

この日の北アルプス

薪仕事2025 軒下に薪を補充

寒くなってきました。
夏でも薪ストーブを焚くことの多い山小舎ですが(湿気退治、煮炊きなど)、冬が近くなると暖房でストーブが活躍します。

ストーブを焚く際に考えなければいけないのが、燃料の補給です。
ストーブをガンガン焚く場合、30分に一度は燃料を補給しなければなりません、もっとか。

燃料は乾いた薪です、就寝前とかある程度部屋があったまった後は、湿った薪や切ったばかりの枝などを投入して、時間を稼ぐこともありますが。
この場合、熱量の低下とススや灰の多さを覚悟しなければなりません。

そこで乾いた薪の置き場所です。
ストーブの近く、いちいち外へ出なくても、少なくともスリッパ履きで出られる場所、に薪の最終保管場所を置きたいものです。
山小舎ではベランダとそれに続く軒下がその場所です。

軒下の薪が少なくなってきました
ベランダのコンテナも空です

1年以上、場所によっては2年間、積み上げておいた薪を、最終保管場所に移動します。

薪の移動には軽トラを使います。
乾燥台の脇に軽トラをつけ、荷台に薪をどんどん放り込みます。
斜面の下から、荷台に薪を山積みしていても、軽トラを四駆にすると問題なく上がってくれます。
雪面でも同様です。

薪を積んだ軽トラを軒下につけ、ベランダや軒下に積み上げます。
最終保管場所に薪が少なくなると不安ですので、冬までにこれを何度も行います。

斜面下の乾燥台から薪を移動しましょう
軽トラに積み込みます
軽トラを軒下に付けます
軒下に薪を積み込み・・・
ベランダのコンテナにも補充します。

令和7年畑 マルチはがし

畑に敷いていたビニールマルチを剥がしました。
11月下旬、たまたまポカポカ陽気の日が続きました。
「今だ!」。
気になっていた畑に出かけました。

夏野菜を植えた畝に黒いビニールマルチが十数列被せてあります。
雑草に覆われ、その雑草も枯れはて、また収穫の際ちぎれたままのマルチが並んでいます。

剥がす前の畑

鍬をもって端から剥がし始めます。
押さえの石をどけます。
鍬をふるって端っこの土を起こしマルチの端っこを掘り出します。
両端が土に埋まったマルチをちぎれないように注意しながら、丸めるようにして剥がしてゆきます。

マルチはがしスタート

この時に問題点が二つあります。
特に土をかぶせて押さえていた両端の部分がちぎれないようにする事、マルチと一緒に丸め込まれる枯れ草をどうするかです。

両端のマルチがちぎれて土の中に残らないように鍬を使って土ごと起こしてゆきます。
丸めてゆくうちに枯れ草がマルチとともに巻き取られてゆくので、時々草を取り除きます。

手を使って丸め取ってゆくと腰が痛くなるので、主に鍬で土ごと掘起し、ある程度マルチが丸まってくると丸まったマルチを転がすように巻き取ってゆきます。
ちぎれた部分はその都度回収します。

2,3本の畝をマルチを残して越冬しようかな?とも思いましたが、ビニールがボロボロになるのは嫌なので全部剥がしました。

全部剥がし終わりました

冬の日差しは、作業をしていると汗が流れるくらいですが、午後になると陽が陰ります。
日の当たらない冬の畑は寒々しいものです。

剥がしたマルチは山にして乾かします。
集めてゴミで出すのは来春でしょうか。

米麹、加工三態

信州は食の天国です。
季節の農産物が極楽の恵みです。
加工品も宝の山です。
特に発酵食品は。

味噌醤油、酒、最近では地ビール、ワイン、シードルなどの発酵系加工食品。
素材が豊富なうえに、何百年もの間培われた製法の伝統があります。
時代遅れと冷遇されてきたこともあったでしょうが、その間も技術を保存してきたことが凄いと思います。

ということで、立科町と上田の醸造店、麹店から米麹を入手しました。
計1.5キロほど。
いつもならば娘に送って終わりなのですが、自分で活用しようと思いました。

塩麴

先ずは塩麴です。
既製品は山小舎の調味料として常備・常用していますが、自作してみます。

分量は麹200グラム、塩60グラム 水200グラムです。

麹と塩を用意

分量をボウルで混ぜ合わせて、煮沸消毒した瓶に詰めます。
詰めた後は抜気しません、むしろペーパータオルなどを挟んで蓋を軽く締めて通気します。

水と併せて混ぜる
瓶に入れて保存

常温保存して時々かき混ぜて、こなれてきたら冷蔵保存します。
煮もの一般の調味料としてコク出しに使います。

醤油麹

塩の代わりに醤油を使う方法もあります。

今回の麹は、立科町芦田宿の醤油屋さんから500グラム入手したので、使う醤油も、そこで売っているイマイ醤油としました。

瓶ぎりぎりまで詰めたので、時々のかき混ぜが不便です。
週一回くらいはボウルに中味を開けて存分に混ぜてから再収納します。
下の方からこなれてきます。

この後、追加したので、瓶一杯の量になった

使い道は塩麴と同様ですが、しょうゆ味の料理や肉料理の漬け込みなどが向いているように思います。

なお、麹調味料づくりに使用する瓶は広口瓶とし、分量は2/3に止めるのが肝要だと思いました。

トウガラシ麹

ネットで麹の加工方法を検索すると出てきました。
鷹の爪を粉にして麹と合わせて漬け込みます。

畑から収穫した鷹の爪だけでは足りないと思い、直売所で2袋も買ってきました。
生の鷹の爪の種を抜いて、細かく砕きます。
しかし生のものは山小舎のミキサーでは粉砕できず、やむなく包丁でみじん切りして、麹と塩と酒と混ぜ込みました。
時間ばかりかかるので、分量の半分は粉トウガラシを使いました。

買ってきた鷹の爪
種を抜くのが大変な手間
粉トウガラシが便利

たくさん出来上がったので、漬け込みには甕を使ってみました。
保存場所が季節柄、低温なこともあり、熟成まで時間がかかりそうです。

混ぜた後ミキサーにかけるが思ったように攪拌できず
何とか切り刻んで甕につけ込む
表面をペーパータオルで塞ぐ(外ふたを被せる)

肉を漬け込んでの辛味焼きや洋風煮込み料理のベースに使う予定です。

三つの加工に1.5キロの麹を使い切りました。

軽トラ流れ旅 羽黒下の仲好食堂

佐久穂町に行ってきました。
東信地方の小海町と佐久市の間の町です。

小海町は高原野菜の野辺山がある南牧村から北上したところの町。
佐久市は新幹線駅のある佐久平から岩村田、中込、臼田、野沢といった地域を含んだ東信地方の大都市。
その間にあるのが佐久穂町です。

群馬県境から八ヶ岳山麓の八千穂高原までが佐久穂町の区域です。
小海線が走っており、八千穂、羽黒下などの駅があります。

山小舎おばさんからのリクエストで、冷凍ブルーベリーが欲しいとのこと。
また、調布の彩ステーションのレギュラーメンバーに羽黒下出身のおばあさんがいて、小生と顔を合わすたびに『野菜が美味しい。楽しみにしている。私も長野出身です、羽黒下です。』と聞いていたのです。

羽黒下と聞いてもわからず、小海線の中込の近くだと聞いて場所がだいたいわかりました。
そして佐久穂町の直売所で地元産のブルーベリーやハスカップの冷凍品を何度か買ったことを思い出しました。
羽黒下とブルーベリーを求めて佐久穂町に出かけました。

山小舎から上田方面に下り、国道18号線を群馬方面へ。
途中で国道141号線(佐久甲州街道)へ折れ、南下して佐久穂町につきました。
直売所へ直行しますが冷凍庫にブルーベリーの姿はありません。
代わりに巨峰とシャインマスカットの粒が冷凍されています。
レジで聞くとブルーベリーは売切れて入荷がないとのことです。

佐久穂町の直売所で冷凍の葡萄をゲット

さっさとブルーベリーは諦めて羽黒下駅を目指します。
141号線から千曲川を渡るとひなびた商店街がありました。
小海線沿いの駅駅の商店街は、中込といい野沢といい岩村田といい、人気と活気がないのがお約束ですが(小海線沿いに限りませんが)、さらにいっそう寂れて、忘れ去られたような商店街でした。

羽黒下駅前の商店街

先ずは駅をチェック。
折から小淵沢方面から列車が到着し、高校生が10人ほど下車してきました。
有人駅ですが駅員さんの姿が見られません(たまたまだと思います)。
高校生たちは迎えの車に乗り込んだり、徒歩で散ってゆきます。

JR小海線の羽黒下駅
広い駅前広場

改めて駅から商店街に沿って歩いてみます。
郵便局、貯木場、酒屋があります。
閉まった旅館があります。
地元名産のヒスイ蕎麦を食べさせる新しめの店がありましたが定休日でした。

駅前の酒屋
駅前の貯木場
廃業した旅館
駅近くにある常夜灯?

閉店してから10年以上たっていそうな商店の列の一角に、暖簾を下げた食堂がありました。
仲好食堂です。
恐る恐る玄関を引いてみると、3組の客がテーブル3脚を占めています。
それなりに活気があります、安心してテーブルに座ります。

仲好食堂外観

その店は70代後半から80代とおぼしき女性がワンオペでやっている食堂でした。
動きはとても遅いのですが、のぞけば見渡せるキッチンでは元気よく中華鍋が振られています。
仕事途中と思しき客層を見ても食堂としての機能は維持されているようです。

食堂内部。メニューが見える

向かいのテーブルにカツ丼が運ばれてきました。
東京風の卵でとじた出来立てのカツ丼は勢いがあって美味そうです。
別のテーブルのおじさんたちは五目のラーメンをすすり込んでいます。
小生がキッチンをのぞいた時に、おばさんが中華鍋を振って作っていたメニューでしょうか。

ようやく手が空いて水が運ばれてきたタイミングでカツ丼を注文。
新聞を取りにゆくと、コップ酒を飲んでいたおじさんが「それ昨日のだ」といって自分が読んでいた今日の信濃毎日をよこしました。

食堂内部。コップ酒のおじさん

瞬く間にカツ丼を完食です。
味噌汁と併せて一般的な食堂に望む最高レベルの味です。
作りなれた感と、活気ある食堂の勢いがありました。
いつの間にか2組が食べ終わって退場しています。
勘定に立ち上がると、コップ酒のおじさんが「早いね」と言ったので「お腹が空いてたもんですから」と答えました。

カツ丼を爆食

今日の新聞をおじさんの指示によりテーブルに置いたまま退場します。
動きは遅いのですが「いらっしゃい」と「ありがとうございました」の声がまだまだ張りのあるワンオペおばさんでした。
当然のように第二波の入店はなく、表の人通りは更にない羽黒下の仲好食堂です。

続く商店街。空いている店舗はほとんどない

折角佐久に来たので、佐久市野沢地区にあるピンコロ地蔵に久しぶりにお参りして帰りました。

ピンコロ地蔵
参道は閉まっていた
商店街のたい焼き

DVD名画劇場 チャールズ・チャップリンの”到達点”

「巴里の女性」  1923年  チャールズ・チャップリン監督  ユナイト

チャップリンが自作の配給会社として、D・W・グリフィス、ダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォードとともに設立したユナイテッドアーテイスツの第一回作品。
チャップリンが監督に専念した初めての作品。
また、1915年以来チャップリン映画のヒロインを務め、私的にもチャップリンと恋愛関係にあったこともあるエドナ・バーヴィアンスが初めて主演を務めた作品でもある。
チャップリンはすでに「キッド」(21年)などで人気の頂点を極めており、のちの代表作の「黄金狂時代」(25年)、「サーカス」(28年)、「街の灯」(31年)、「モダンタイムス」(36年)の製作を控える時代だった。

ユナイテッドアーテイスツを設立したグリフィスら

長年のパートナーであったエドナの女優としての1本立ちを製作の動機にしたというこの作品。
主題はチャップリンらしいヒューマニズム。

貧しい村の若い男女が、親の理解を得られず駆け落ちしようとするが、男の父親が急死し、女だけがパリに旅立つ。
1年後、女は金持ちの愛人(高級娼婦?)として贅沢に暮らしている。
男も老母とともに画家としてパリに移り住み、偶然に女と再会する。
女は男をまだ愛しつつも、金持ちの愛人の誘惑も断ちがたく、また純愛をささげる男との関係も間の悪さが連発して進まない。
そのうち事態は悲劇的に進み・・・。

チャールズ・チャップリン

チャップリンの劇作は、貧しい時代の男女の機微を表現する際にも冴えわたる。
女との結婚をかたくなに否定する父親が、出奔しようとする息子を心配して母親を介してお金を渡すシーンなど、日本映画のような細やかな描写で親の心のを描き切っている。

パリで金持ちの愛人(金持ちにとっては多数の女のうちの一人にすぎない)を捕まえ、虚構の栄華の中で暮らす女にまつわる描写もすごい。
ハリウッドスターのようないでたちの女のスタイル。
出入りするパーテイでは、包帯を巻いたストリッパーを男が巻き取る余興の描写。
愛人業界隈の女たちの嫉妬と足の引っ張り合いを聞かされる側の反応を、当人を写すのではなく、施術中のエステイシャンの反応を写すことで表現する。

人情をわかっているだけではなく、卓越した作劇術を操るチャップリンが凄い。

エドナとマンジュー

そして極め付きがパトロン役のアドルフ・マンジューの起用だろう。
好きなように女を扱い、特権階級を謳歌する1920年代の独身中年男の、悪気のない独善ぶり、自己中ぶり、無責任ぶりをこれ以上ない適役ぶりで演じきる。
その悪気のなさがすでに犯罪的なのだが、本人は無自覚なのか意識的なのか。
周りにするとナチュラルな育ちの良さに見えてしまう。

同じく鼻持ちならない精神の低俗性を体現したエリッヒ・フォン・シュトロハイムの演技に比して、低俗性が下品にならずかえって上品に映るのがマンジューの罪なところだ。
こののちハリウッドのよろめきものでマンジューの起用が続いたという。

20年代のマンジューの活躍を伝える「写真映画100年史第2巻」

上流社会の乱痴気ぶりや、独善紳士マンジューの洗練されたふるまいの描写に力が入りすぎたのか?
これまでチャップリン喜劇のヒロインだったエドナに主演としての力がなかったのか?
チャップリンが否定すべき虚構の乱痴気文化の描写が真に迫りすぎ、本来の、庶民のささやかな幸福追求という主題が途中まで霞んでしまったほどだ。

ラスト、田舎に戻り、亡き彼の母と4人の孤児と幸せそうに暮らす女の姿は、チャップリンのエドナ・バーヴァイアンスに対する祝福に見える。

「巴里の女性」のあとは、ほとんど映画女優としての足跡を残せなかった彼女に対し、チャップリンは生涯週給150ドルの給与を送り、また「巴里の女性」の権利も譲渡したという。

1952年「ライムライト」撮影中のチャップリンを訪ねて、淀川長治がハリウッドを訪問した際、リトルトーキョーでチャップリンの執事をしていた高野寅市に偶然会った淀長さんが、高野を介してエドナと会った。
「私はあの人(チャップリン)の映画以外は出ない、一生。あの人と出会ったことは私の一生の思い出として心に思っていたい。」(1999年 中央公論新社刊 淀川長治、山田宏一著「映画は語る」P261)と淀長さんに話したとのことである。



「独裁者」   1940年  チャールズ・チャップリン監督   ユナイト

有名なラストシーン。
ユダヤ人の床屋がひょんなことから国の独裁者 にすり替わって演説する。
最初はしゃべることないとおどおどしていたが、やがて己の信念を喋り始める。
独裁者に立ち向かえ、自分たちの自由と人権と民主主義を守るのだ。
自分の理想は誰もが幸せになれる社会だ。恋人のハンナよ顔を上げろ、と。

床屋が独裁者に入れ替わって演説に向かう。その表情に注目

全世界の民衆に向かって宣言したのは、チャップリンの信念。
これまでの監督・出演作品でも貫いてきた心情だ。
ただ、これまでの喜劇作品では、この心情を放浪者の主人公に自虐的に仮託してきたり、せいぜい権力者に対する風刺に止めたりしてきた。
正面から、ひょっとしたら一般民衆の嫌う言葉で己の心情を飾らず表明したのは、映画人チャップリンとして初めてだったのではないか。
製作当時.、チャップリンが一番心配したのもこの点だったといわれている。

ヒトラーをカリカチュアしたチャップリンのハナゲモラ語が炸裂する

第二次世界大戦がはじまったばかりの1940年の公開。
当時のドイツとヒトラーは飛ぶ鳥を落とす勢い。
第一次大戦の敗戦国とはいえ、ヨーロッパの大国ドイツの、選挙によって選出されたナチス党と党首ヒトラーを徹底的にオチョクリ、批判したのだから、チャップリンはもちろん周りもこの点をまず懸念した。
現在でいえば中国の習近平を大作映画で有名俳優が正面からカリカチュアライズし非難したようなものか。
こんな主題は、日本ではもちろん欧米でも企画にさえ上がらないだろう。

事実、企画段階の1939年当時、チャップリンは、ユナイトやイギリス当局からヒトラーを揶揄する映画製作について警告されたという。
ドイツのポーランド侵攻後はその心配はなくなったが、敵国とはいえ独裁者を描く喜劇に観客がどう反応するか心配したという。

風船の地球儀と踊る有名なシーン

いつもの喜劇よりじっくりした調子のこの作品で、チャップリンはヒトラーをモデルにした独裁者を徹底的にカリカチュアライズする。
ドイツ語を模した過激な言葉を吐きまくり、吐きまくりすぎて咳き込んだりする。
ジェスチャーも研究していて手の動きがそっくりだ。
過激なセリフでマイクに迫ると、マイクが独裁者を避けるように曲がるギャグもある。
ゲーリングを模した側近のケツに押されて階段を転げ落ち、ゲーリングの過剰な勲章をむしり取る。
タモリのハナゲモラ語や中川家礼二の中国人同士の喧嘩の物まねも真っ青だ。
これを当時イケイケのヨーロッパ大国の指導者に対して行ったのだから、その行動や命がけだ。
敵はヒトラーのみならず、背後から撃たれかねなかったろう。

独裁者の日ごろの多忙な日常を笑いのめす場面では、美人秘書に迫ったり、時間が1分でもあくと肖像画家と彫刻家の前でポーズを取ったりする。
ペンを取り出そうとしてペン立てからペンが抜けないギャグも。
これらのエピソード、ヒトラーというよりハリウッドのタイクーンたちの生態をヒントにしてはいないか?
特に秘書に迫る場面など。

作品中に現れるゲットーでのユダヤ人描写も直截的。
ユダヤ人商店にJEWとペンキで書いて歩く突撃隊員。
勇敢な娘ハンナ(ポーレット・ゴダード)は突撃隊に口答えし、フライパンで殴りつけたりするが、大人たちはひたすら耐え続ける。
ユダヤ人の床屋として突撃隊の迫害におびえるチャップリン。
これまで、貧困や飢餓など恐怖とスリルに対しても、ギャグでやり過ごしたり、権力者をおちょくったりしていたチャップリンが、政治体制の恐怖におびえる演技をしている。

ポーレット・ゴダート。デートを前に床屋に髪をセットしてもらう。うれしそうな床屋の表情

独裁者の圧政に対して庶民は何もできないのはチャップリンが一番良く知っている。
この作品でのチャップリンは、ピンチを自己流で超越するヒーロではなく、無力ぶりを晒して、数人の中に埋もれる凡人を演じて、現実の恐怖を表現している。

また、ヒトラーばかりではなく、その盟友ムソリーニへの風刺ぶりも強烈だ。
威張って歩くその姿や、独裁者同士のマウントの取り合いを持ち前のジャグで笑いのめす。
ムソリーニに扮したジャック・オーキーの演技も傑作で、持ち味のギャグを思いっきり表現している。

ムソリーニ?に扮するジャック・オーキー(左)の演技は傑作。対するヒトラー?の無表情

実在の独裁者たちへの風刺は、メジャーの映画作品としてギリギリの表現だったが、なんといってもラストの演説に込めた、チャップリン人生初の本音の呼びかけと、恋人ハンナへの庶民同士の幸福を祈る気持ちがこの作品の総てだ。

チャップリンはこの作品で”映画人として言うべきことを言った”あと、「殺人狂時代」を経てアメリカ当局からにらまれ、非米活動調査委員会(赤狩り)への召喚を前にヨーロッパへと脱出せざるを得なかった。
大戦当時、ソ連への支援を呼びかける集会で演説したことも原因だったが、ヒトラーへの批判がアメリカなどの現体制への批判に通じることを権力者が感じ取ったが故のチャップリン排除だったのではないか。

チャップリンの宣言は、それがヒトラーに対してのものならば、世の中から容認されたのかもしれないが、権力者一般に対してのものならそれを許せない勢力があったのだろう。
だからこその映画史に燦然と輝く有意義な一作となった。



「殺人狂時代」     1947年   チャールズ・チャップリン監督   ユナイト

「独裁者」の後にチャップリンが訴えたかったのは、大戦の後の無力感、大衆の痛みと疲弊、大衆の犠牲によって経済的な興隆を謳歌する存在への告発だった。

当初は『青髭』をモチーフとした殺人劇の主演にチャップリンをオファーした、オーソン・ウエルズの企画だったという。
出演を断ったチャップリンだったが、後に自分の企画として、200万ドルをかけ「殺人狂時代」の製作を決める。
映画の冒頭には、原案:オーソンウエルズとクレジットされている。

『いうまでもなく、ルイス・B・メイヤー、ダリル・F・ザナック、あるいは彼らの神経質な補佐役たちにアイデアを提出するよう依頼されていたとしたら、チャップリンの偉業はなかった』(「ハリウッド帝国の興亡」P393)。

タイクーンたちの帝国(ハリウッド映画工場)からは、当然ながらこの作品は生まれようがなかった。

舞台は世界恐慌前夜のフランス。
実直、凡庸な銀行出納係のヴェルドウ(チャップリン)が、30年間務めた銀行を不況で首になった後の、虚妄と狂乱の犯罪生活と破滅の物語。

ヴェルドウは、車いすの妻と彼を慕う息子がいながら、生活のために、一人暮らしのオールドミスばかりに取り入って小金をせしめて回る。
パリに置いたペーパーカンパニーを拠点とし、ある時は船長、ある時はインドシナ帰りのビジネスマンを装って、町々に住む一度はコマしたオールドミスたちの間を渡り歩いては、手練手管で株の投資資金を引き出してゆく。
金を引き出した後は、オールドミスたちを殺害し、自宅の焼却炉などで”処分”する。
庭の毛虫を踏まないように気を付け、野良猫に憐れみをかける小市民性がその本性なのだが。

凡庸な小市民のヴェルドウには、列車を乗り継いで町々を綱渡りで移動し、口八丁手八丁のコスプレと出まかせのマシンガントークの才能があるはずはないのだが、そこはチャップリンの演技を楽しむことにする。

対するオールドミス役の女優たち。
ガラッパチで水商売上がり風のガメツイ中年小金持ち女、を演じるマーシャ・レイという女優がすごい。
ワニ口で鳥ガラのような体つき、ガラガラ声という申し分のない下衆なスペックで、ヴェルドウの”偽善”に”オールドミスの世俗性”で対抗し、余りある。

チャップリン映画に恒例の”センチ”な要素としては、街角にたたずむ若い訳あり美人(マリリン・ナッシュ)のエピソードがある。
ヴェルドウは、毒薬を試す相手として彼女をひっかけるが、彼女の身の上話を聞いているうちに感心して、毒入りのワインをひっこめた上に、金を恵んでしまう。
彼女はのちに、成り上がって高級車に乗り、株の暴落で一文無しとなったヴェルデイを見掛け、拾ってごちそうし、名刺を渡すのだが、オールドミス連続殺人で逮捕寸前のヴェルドウはその名刺を破いて、彼女への類を避ける。

この若い女、映画ではベルギー難民で夫を戦病死で失った上に窃盗で刑務所から出てきたばかり、ということになっているが、どう見ても貧窮を背景とした”夜の女”であり、この時代に欧州やアジアではままあったこと。
チャップリンの脚本でもその設定だったが、当時の検閲がそれを許さず、”夜の女”を示唆する表現が避けられたという。
彼女が”成り上がった”あとのエピソードでも、彼女を軍需産業家の愛人と表現することに検閲が入ったという。
観客(筆者など)は成り上がった彼女を見てシンデレラストーリーを夢見てしまったが、オリジナルでは、”夜の女が、その若さと美貌を、気まぐれな財界のおっさんに、愛人の一人としてもてあそばれている”わけなのだ。
そこには”どこまで行っても、庶民は金持ちに踏みにじられる存在”というチャップリン映画の哲学があったのだ。

株も家族も(もちろんオールドミスたちも)失ったヴェルドウは、すべてを達観し、運命を受け入れる。
犯した罪を受け入れるのはもちろん。
銀行失職後の綱渡りの人生には結局何もなかったこと。
その経験から得られたことは、”庶民には届かない大きな世界の動きはすべてビジネス”だったという世のカラクリ。
戦争による被害もビジネスの結果であり、かつ損害(戦死者)の数は勲章の対象となる不条理。
反面、庶民のやむにやまれぬ殺人は犯罪とされ、処罰されること。

「モダンタイムス」で資本主義の非人間性を告発し、「独裁者」で全体主義を告発したチャップリンは、「殺人狂時代」で、資本主義と全体主義をつかさどる権力体制を告発するに至った。
チャップリンの映画人生での到達点であり、映画でここまで直接的に表現したメジャー作品を見たことがない。

「モダンタイムス」と「独裁者」は映画がヒットしたこともあり、アメリカ国内に潜む権力構造は静観していたが、「殺人狂時代」では、在郷軍人会などが上映妨害運動を起こし、国内での上映機会そのものが激減した。
戦時のチャップリンのソ連支援の活動などが、国内の反動勢力の気に食わなかったのだろう。
もっといえば、チャップリンの2度にわたる未成年女性に手を出した末の結婚と離婚、裁判での泥仕合が格好の非難材料を彼らに提供したこともある。

悪名高い(ヨーロッパでは悪い冗談と嘲笑された後、マジの事態だとわかってあきれ果てられた)、赤狩り(非米活動委員会)の召喚を受け、事態が最悪を迎えていることを知り、家族とともにアメリカを脱出することになる。

『チャップリンがいかに見栄っ張りで単純でおセンチで、その他さまざまな知的罪を担っていると批判されようと、それでも彼は、ハリウッドのどの映画作家にもまして、時代の核となる問題を把握し、自分の映画でそれに論評を加え、しかも正しい論評を行うということを、どうにかやってのけたのだ。』(「ハリウッド帝国の工房・夢工場の1940年代」1994年 文芸春秋社刊 P393)。

40年代のハリウッド映画を要覧し、各々の作品のみならず、スタッフ、俳優に正当な論評を加えた同書の著者:オットー・フリードリクの的確にして最上級の評価だろう。

チャップリン自身もまた「殺人狂時代」についてこう語る、『私がこれまで作ったなかで、最も才気あるすぐれた映画』(同書 P399)だと。

晩秋・初冬の風景

11月も終盤を迎えた山小舎周辺は、晩秋から初冬への風景となっています。
姫木では初雪は降りました。
降霜と凍てつきは日常となっています。
木々の葉はすでに散り終わりました。

ある朝の山小舎周辺
姫木構内の雪道

白樺湖畔での紅葉は終わりを迎え、冬の光景となっています。

少し前の白樺湖
同上

りんごバイトで通った佐久側の麓の立科町でも、フジの摘み取りの季節とともに、紅葉の終わりを告げています。

りんご仕事が始まった頃の立科町・津金寺
同上

先だっては、朝の大門街道でスリップによる交通事故を目撃しました。
路面は圧雪でもなく、アイスバーンでもないのですが、8時ころの日陰の路面が、水分が凍結しており、速度超過でカーブに差し掛かった自家用車がスリップしたものと思われます。
反対車線に対向車が2台停まり、事故車は腹を天に向けて横転しておりました。
事故直後のようで、一人が携帯で電話をかけ、車の影に高年女性が一人腹ばいに横たわっているのが見えました。

立科町へりんごバイトで通った際にも、朝の大門街道でハンドルを取られることがありました。

が残っていなくても、路面が黒い場合は凍結していること。
その際は下りでは特に慎重な運転が必要なことを痛感しました。
スタッドレスタイヤでも四輪駆動でも滑る時は滑ります。
対応は減速と慎重な運転の一択だと改めて思いました。

りんごバイト1週間

フジ収穫の季節です。
今年も立科町五輪久保地区のリンゴ農家で摘み取りのアルバイトをしました。

リンゴ農家でのバイト
立科町から望む冬の浅間山

フジの収穫は11月中旬から1週間ちょっと。
雨以外で休みはありません。
山小舎おじさんは4連勤して1日休んだ後、3連勤しました。
定時は8時から17時。
9時に出勤して15時に上がりました。
通勤時間が45分ほどと長く、寒い朝と暗くなる夕方を避けたいためです。

この日は姫木が雪だった

メンバーは10人以上。
ほぼほぼ去年のメンバー通りですが、姫木から新たに1名参加したのと、例年参加の「先生」が中学時代のお友達を4,5人連れてきていました。

66歳になるという「先生」はリンゴ農家の娘の元担任です。
先生と同学年だった主婦たちは県内の佐久地方から集まっています。
日焼け防止の装いも堂に入っており、脚立に登り重い籠を上げ下ろしする様子は安定しています。
都会の同年齢の女性に比してその”戦闘力”は圧倒的です。
日頃、家事だけではなく、畑仕事その他で体を動かしていたことが想像できます。

弁当を詰めて出発
10時と3時にはお茶がある

彼女らはよく働くだけではなく、楽しそうによくしゃべり、お互いの仲が良いだけではなく、我々とも屈託なくコミュニケーションを取ってくれました。
都会の女性のように、無遠慮に自己アピールすることはないのですが、年齢に比して開き直ったふてぶてしさがなく、ふるまいにかわいらしさがあるのです。
日本の昔の女性を思い出しました。
これは、地元の人たちと話す貴重な時間でもありました。

家族で行う選果場
贈答用のA品が並ぶ

お弁当の時間に農家の座敷で、彼女らとしゃべるのが楽しみでした。
また、農家の娘さんが地元の青年と婚約したとの報告があり、嬉いニュースでした。
青年は土曜日に手伝いに来て一緒にお茶を飲み、皆からの質問に答えていました。

バイトのお礼貰ったお土産用B品

無事勤めが終って、お土産のフジB級品をもらいました。
その量が前年の半分以下だったのが残念でした。

町内の津金時の晩秋風景

上田映劇で「ミシェル・ルグラン&ジャック・ドゥミ レトロスペクテイブ」

祝・NPO法人上田映劇 信毎文化事業賞受賞

2025年11月20日の信濃毎日新聞一面より

第30回信毎文化事業賞を上田映劇が受賞した。

33歳の支配人が東京からUターンして、閉館中だった現存木造映画館の上田映劇(フィルム上映可能)を再オープンし、細々と、しかしつぶれずに営業し、文化事業に貢献してきたことが評価された。

映画を愛し、映画館を懐かしみ、ミニシアターに親近感を抱き、地方映画館に愛着を感じ、現存木造映画館を尊重し、フィルム上映を懐かしむ者にとってまことに喜ばしいことだ。
上田映劇が受賞した記事が信濃毎日新聞一面に掲載された。

写真左から2人目が映劇の支配人

「ロシュフォールの恋人たち」を見に、上田映劇の姉妹館トラムライゼを訪れた際、支配人がいたのでおめでとうございますと声をかけた。
ありがとうございますと丁寧な返答があった。


「ロシュフォールの恋人たち」  1966年  ジャック・ドゥミ監督  フランス   トウラムライゼにて上映

ジャック・ドゥミが「シャルブールの雨傘」(63年)に続いて送るミュージカル。
音楽はミシェル・ルグラン、主演は「シェルブール」に続いてのカトリーヌ・ドヌーブと実姉のフランソワーズ・ドルレアック。
共演者も豪華だ。

レトロスペクテイブのちらし

フランスの港町ロシュフォールの金曜の朝、祭りのアトラクションを彩るダンサー一行がトラック2台でやって来る。トラックの運転席から出てくるダンサーたち(ジョージ・チャキリスら)が、軽く映画のテーマソング(ドルレアックとドヌーブの双子姉妹のテーマ)の乗って踊り始めるオープニング。
これから始まる映画の胎動を感じさせるようなオープニングのワクワク感。
さあ楽しいミュージカルが始まるぞ。

英が館前。左のコメントがうれしい

ダンサー一行が踊る。
背景を行く町の人々がリズムを取る。
クレーンカメラが町の広場に面したアパートの一室に移動してゆき、ドルレアックとドヌーブの双子姉妹が子供たちにバレエを教えている場面を捉える。
町の美人双子姉妹は、音楽とダンスの才能に溢れていて、まだ見ぬ恋人とパリに憧れる乙女だ。

2人のテーマソングは、何度か聞いたことがあるナンバーでおそらくこの映画最大のヒットソング。
リズム感に溢れるこのナンバーを、ドルレアックとドヌーブが楽しそうに歌い踊る。
キュートな衣装のすそを翻し、若々しい脚を見映えよく躍動させながら。

町の美人双子姉妹を演じるドルレアック(右)とドヌーブ

「天使の入江」(63年)のコートダジュールからシェルブールへ。
82年の「都会の一部屋」ではナント。
ドゥミの”ご当地港町もの”映画の今回の舞台はロシュフォールだ。

夢のようなミュージカルの世界を描きながら、軍隊の行進場面が再三出て来たり、登場人物の一人が恋人を惨殺した新聞記事のシーンがあるなど、唐突な人生の暗黒面の点描は、ヌーベルバーグ左岸派・ドゥミのこだわりか、フランス映画のエスプリか。

ピアノの前で「双子のテーマ」を歌い踊る

旅芸人のジョージ・チャキリスは「ブーベの恋人」(63年 ルイジ・コメンチーニ監督)のパルチザン役の大根ぶりが嘘のようにイキイキしている。
ダンスの脚の上げ方もキレている。

ドルレアックを一目ぼれさせるハリウッドミュージカルのレジェンド、ジーン・ケリーは、踊りこそ衰えてはいないが、まったく旬を過ぎた存在であり、躍動する若手とのズレ感があった。
ケリーの起用は、ハリウッド・ミュージカルへの、オマージュとも批判ともつかぬドゥミならではのこだわりの結果なのだろうが、効果的だったといえるかどうか。
むしろ金髪が若々しい、ジャック・ペランがフランス製のおとぎ話風ミュージカルにふさわしかった。

双子の母親で広場の一角にあるカフェのマダム役のダニエル・ダリューは、若い時はドヌーブのような存在だったが、ここではすっかり落ち着いたマダムを演じて印象深い。
フランスの女優は中年になって更に一花咲かせる、これは好例だ。

ドヌーブの実姉のフランソワーズ・ドルレアックは「リオの男」(63年)でベルモンドを困らせた、活動的でおしゃまなじゃじゃ馬ぶりが忘れられないが、本作でも恋を夢見る妙齢の若い女性を好演。
171センチの長身を感じさせぬ、ドヌーブとの息の合った足の運びを見せるダンスもよかった。
実生活では、本作の後1本に出演した1967年に、25歳で惜しくも交通事故死する。

お祭りの舞台で踊る姉妹

後の大女優カトリーヌ・ドヌーブを生かしきった二人の監督がいる。
「昼顔」(67年)、「哀しみのトリスターナ」(70年)のルイス・ブニュエルと、彼女のキャリアの転機となった「シェルブールの雨傘」を監督したジャック・ドゥミだ。
ドヌーブ自身は、女優としての自らのキャリアで最大のできごとは?との問いにこう語っている。
『ジャック・ドゥミ監督と出会って「シェルブールも雨傘」に出演したこと。この作品で初めて私自身に目覚めた』(1971年 芳賀書店 山田宏一責任編集 シネアルバム①カトリーヌ・ドヌーブ P104より)。

ドルレアックとドヌーブは、俳優だった両親のもとに生まれた三姉妹の長女と次女で、ドルレアックが父親の、ドヌーブが母親の姓を芸名にした。
ドヌーブがのちに男児を生むことになる、ロジェ・バデイム監督(代表作「素直な悪女」)とパリのディスコで出会ったとき、彼女は17歳で両親姉とともにアパルトマン暮らし、寝室では2段ベッドを姉と共有していた。
当時すでに姉のドルレアックは『フランスのキャサリン・ヘプバーン』と呼ばれる売れっ子、ドヌーブは姉の仕事場についてゆくほど仲が良く、また両親からは姉と同行する場合のみ夜遅くまでの外出を許されていた。
だが、一晩の出会いでドヌーブはバディムと恋に落ち、未婚のまま出産する道を選んだ(出産後、バデイムは自身3度目の結婚をジェーン・フォンダと行っている)。

港もの広場、街角、カフェなどでのロケ撮影が生きている。
ロシュフォールの街々で歌い踊る人々をクレーンを駆使し、俯瞰で捉えるカメラ。
ハリウッド・ミュージカルならばスタジオの大掛かりなセットで撮影されたであろう。
ドゥミのフランス製のミュージカルは、何よりロケがもたらす港町の空気感、街角を行く通行人たちの土地の臭いがいい。
双子姉妹の衣装もおしゃれ。
多すぎる登場人物のエピソードが散漫で、中だるみがあったが、巻頭シーンの高揚感、結末に向かってのフランス映画らしい人間性(男女の恋愛)の謳歌ぶり(現実的な結末も予感させながら)はよかった。

ミシェル・ルグランのスコアは、双子のテーマのほかに、後半を盛り上げるピアノ曲がルグランらしくてよかった。

平日の12:45分の回。
上田映劇の姉妹館トラムライゼの観客は筆者を除き4人。
全員女性だった。

映画館前のウインドウより



「ロバと王女」  1970年  ジャック・ドゥミ監督   フランス      上田映劇にて

ジャック・ドゥミ作品中、本国で最大のヒットとなった作品。
ペロー原作の童話の映画化。
カトリーヌ・ドヌーブ27歳、「シェルブールの雨傘」でスターとなり、「反撥」「昼顔」「哀しみのトリスターナ」でその評価を定着させ、美貌の盛りを迎えていた。

カトリーヌ・ドヌーブ

ドゥミにとっては、「ロシュフォールの恋人たち」などの”ご当地港町シリーズ”から離れ、完全な童話の世界を舞台としたミュージカルに挑んでいる。
童話とはいえ、ロケ撮影を多用する”手作り感”はドゥミらしい。

王様にジャン・マレーを起用。
「美女と野獣」(46年)とジャン・コクトーへのオマージュをささげている。
王子様の母の王妃にミシュリーヌ・プレールを起用しているのも、「ロシュフォールの恋人たち」でのダニエル・ダリューと同様に、古き良きフランス映画へのドゥミからの憧憬が感じられる。

「肉体の悪魔」(46年 クロード・オータン=ララ監督)のミシュリーヌ・プレール

ドヌーブが白馬の馬車でお城を脱出する場面。
扉が開き、白馬が王女を運んで行く。
王女のスローモーションや、フィルムの逆回しは「美女と野獣」の再現だ。
ドゥミのコクトーへの尊敬がある。
何よりジャン・マレーの起用そのものが。

デルフィーヌ・セーリグを重要な妖精役で起用。
このキャステイングはノスタルジックなものではなく、主人公の王女のアドバイス役として”現役感”が必要なもの。「去年マリエンバートで」(61年 アラン・レネ)の”硬派”セーリグは嬉々として演じて居る。
妖精の衣装のスリットから美脚がちらちら見えるのだが、「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」(72年)でブニュエル必須の”ストッキングを脱ぐ”シーンをセーリグが演じることになる、これはその先駆けなのか?

デルフィーヌ・セーリグ

王様と王女の近親相姦的な愛情と、そこからの脱出、自己の発現をテーマにしている。
王女は高貴な生活を捨て、ロバの皮を被って下女の生活に甘んじる。
嬉々として。
王女の魅力を見抜く王子にも母親の王妃(ミシュリーヌ・プレール)が近親的な愛情を注ぐ。
王女の脱出と自立をサポートするのが森にすむリラの妖精(デルフィーヌ・セーリグ)だ。
この二人、なんとエレガントなキャステイングか、フランス映画の大いなる楽しみだ。

『ロバの皮を頭からかぶって、ネグリジェみたいな長い服を着て、森の中や村の広場をすたすた歩いてゆく、よごれたときのドヌーブの萌芽、王女としての盛装したドヌーブよりも、ずっとかわいらしく私には好ましかった。』(シネアルバム①カトリーヌ・ドヌーブ P83 澁澤龍彦「カトリーヌ・ドヌーブその不思議な魅力」より)。

同じく澁澤龍彦は書く、『ロバの皮を身にまとって城を逃げ出さねばならなくなっても、村中の男女に馬鹿にされても、ちっとも悲しそうな顔を見せないドヌーブは、隣国の王子様とめでたく結ばれるようになっても、別段それほどうれしそうな顔を見せないのであるる。いつも、どうでもいいような顔をしている。』(同書P83)

ロバの皮を被ったドヌーブ

ドヌーブの特性を見抜いた澁澤龍彦は更に書く。

『王女様の盛装は美形のドヌーブによく似合うが、それを魅力的に感じるのは、見ているものが、その美しさが剥がされるだろうという予感に慄えているのを感じるからであり、ドヌーブの顔は表面的な冷たさ(美しさ)とは裏腹に瞳の奥の不安定な本質が露呈されてしまう。
それは欲望に目を曇らされて倫理観念を見失い、妄想の海の中を泳ぎ出そうとしている、マゾヒステイックな気質の女を表現するのにまことにふさわしい』(同書P82より抜粋)

ドヌーブは退屈な王女の生活を脱し、自らの欲望を満足させるために、身分を隠した汚い女の生活を送った、嬉々として。
結末は王子様との結婚だが、それは本来の歓びではなかった。
娘に結婚を迫っていた王様は、訳アリだった妖精と結婚していた。
めでたしめでたし。
これはドヌーブそのものを描いたストーリーなのか、ペロー童話の趣旨なのか。

ジャン・マレーとドヌーブ

ミシェル・ルグランのスコアでは、森の家で王子のためにケーキを焼く場面のナンバーが楽しい。
「ロシュフォールの恋人たち」の「双子のテーマ」のような傑作はこの作品にはなかったが。

ジャック・ドゥミはこの後、ドヌーブとマストロヤンニで「モンパリ」(73年)、日本の少女漫画を原作とする「ベルサイユのばら」(78年)などを作ったが、生涯の代表作は「シェルブールの雨傘」と「ロシュフォールの恋人たち」だったのではないか。

ドヌーブは、「リスボン特急」(72年 ジャン=ピエール・メルビル監督)、「終電車」(80年 フランソワ・トリュフォー監督)などフランスを代表する監督作品に出演、「ハッスル」(75年 ロバート・アルドリッチ監督)などハリウッド作品でも活躍し、最晩年まで映画出演を続けている。

この日の観客は筆者を入れて二人だった
寒かったこの日の上田市内

孫の運動会

11月中旬、東京へ一旦帰りました。
息子夫婦との食事会などがあったためです。
たまたま土曜日に孫が通う杉並区の小学校の運動会があったので見てきました。

運動会は9時に始まり、11時半ころに終わるプルグラムです。
各学年の出し物は、徒競走などの競争競技と、遊戯などの表現の各1競技です。

運動会会場全景

楕円形にラインが引かれ、その外側に本部のテント、反対側には児童が待機する椅子が並べられています。
先生に寄るアナウンスはありますが、表現の際のBGM以外に、徒競走やリレーを盛り上げる音楽はありません。
上級生による応援団による応援がありました。

最終円の外側には父兄が並んでいます。
構内への立ち入りの際は、児童経由で入手した学年別に色分けされたシールのようなものを腕なりに巻かなければなりません。
立ちリガ正門に限定されていることもあり、昔のように隣近所のおじさんが立寄るような雰囲気ではありませんでしたが。

ソーラン節やエイサーなどを取り入れた表現は、昔ながらの団体による統一的な動きを追求しており、まだまだ日本の運動会のこころが感じられました。
父兄であれば我が子の動きに感動するでしょう。

2年生による玉ころがし

かつては運動会のメインイベントだった、リレーがありませんでした。
過度な盛り上がりを避けたのかどうか。
また徒競走等競争競技での上位者の順位付けもなく、また男女別の組みわけもなく、走力が同意程度の者同士で組み分けされていました。
まことに平等というか、競争心の抑制が行き渡っていました。

組体操や騎馬戦などがないのは承知していました。
午前中にさっと終わるのもアタリマエです。

5,6年生による表現

我が子を応援し、その成長を喜ぶ父兄の盛り上がりが昔ながらでかえって驚きました。
また団体行動の統一感を尊重している点でも昔ながらであることに安心しました。