令和8年の夏② 孫と蓼科山登山

今年の夏の一大イベントは孫たちとの蓼科山登山です。
これに参加するのは大人4名、子供2名の計6名です。
参加予定だった山小舎おばさんの姉(山小舎おじさんと同年生まれの独身)が参加予定も、坐骨神経痛で急遽不参加となりましたが。

朝8時前にはおにぎりをもって出発。
駐車場は満車でしたが、車列の間に1列停めるスペースがありました。
7合目登山口で記念写真を撮ってスタートします。

しばらくは山小舎おじさんが案内を兼ねて先導。
次男に買ってもらった登山用ストックとキャップが重宝します。
小学3年生の孫に合わせて数えきれないほどの休憩を取ります。
靴擦れがしたといっては手当てをして登ります。
コケが広がったり、キノコが見えるなど高山の風景が楽しませてくれます。

足元不安定な登山道を行く

登山道らしき道を過ぎ、まっすぐに切り立った幅広いスペースを蛇行しながら登ってゆきます。
岩や石が転がっており、砂利のすべり止めに丸太まで転がっているワイルドなスペースです。
ここを思い思いにルートを決めて登れというのが蓼科山登山の流儀です。
斜度も急で、足元が滑ります。
若い人でなければストックがなければ上るのが困難です。

行違う登山者に『頑張ってるね』、『偉いね』などと3年生の孫は声をかけられます。
なるほど蓼科山は目的を持った大人の登山コースなのでした。
目的は百名山踏破だったり、蓼科神社の御参りだったりするのでしょうが。

やっと将軍平に到着。
3年生はぐったりしています。
早めの昼食を山小舎のテラスで摂った一行は元気回復。
その勢いで頂上までの急坂に挑みました。

将軍平から山頂までの崖登り
何度も休憩して山頂を目指す

『ここまで来たら戻ることはできない方進むしかないよ』とママの激励を受けて3年生は覚悟を決めています。
当方も自分のことで精いっぱいです。

頂上では眼下を行く雲を眺め、八ヶ岳連峰の連なりを見ての休息。
夏の蓼科山を楽しみました。
山登りは頂上まで行ってナンボ、と思いました。

標高2530メートルの蓼科山山頂

帰りの道のりがまた大変でした。
いつまでたっても砂利の急坂が続く道にげんなりし、皆の口数が少なく成った頃、待望の7合目の鳥居が目に入りました。
一番体に応えたのが70歳の山小舎おじさんでした。
記念撮影の際に体を反転させようとしてバランスを崩して、孫たちのパパに支えられてしまいました(下山途中で滑って、次男に支えられたことも)。

慎重に崖を下って下山

出発してから8時間!の山行きでした。
蓼科山を満喫、もうしばらくは来なくてもいい(山小舎おじさんは最後の登頂か)と皆が思うほどでした。

途中、心が折れそうになった3年生の孫は『今度は富士山に登りたい』と言ってるそうです。

令和8年の夏① 山小舎に孫来襲

今年の山小舎の夏は、8月初旬の孫たちの来襲から始まりました。

最初に孫二人とその母親、叔父がやってきました。
母親とは山小舎おじさんの娘、叔父とは次男です。

夏休みが始まっており、山小舎にも慣れた小学6年生と3年生の孫は、涼しい山小舎の気候に元気いっぱい、余裕たっぷりで乗り込んできました。

週末に父親と祖母がやって来るまで、孫たちは地元のプールへ行ったり、ジィジの畑へ行ったりして過ごしました。

初日は屋外のBBQをしました。

鶏モモ肉を串に刺したり、スペアリブを漬け込んだりして食材を用意します。
テーブルと椅子をセットします。
御向いさんには実施を事前通告しておきます。

山小舎の前の道路にBBQグッズをセッテイング

外でのBBQは気持ちがいいものです。
煙や炎を気にせず豪快に焼けます。
大型のグリルは通気性があり、炭の火力がよく、食材がからッと焼けます。
食べこぼしやテーブルの汚れなどを気にせず盛大に食べられます。

炭に着火する

反面、食材や調味料、食器などの補充には、母屋との往復を強いられるという欠点もあります。
食器は紙皿、紙コップを利用し、ゴミ箱を設置、飲み物用の保冷ボックスを用意するにしても、です。

それでも戸外のBBQは大成功でした。
気持ちの良さが違います。
夏ならではの楽しみです。

夜になると花火が孫たちの楽しみです。

花火も夏の楽しみ

夏の山小舎飯

季節の山小舎飯シリーズです。
夏の山小舎食卓には、畑で採れた野菜が並び始めます。

この日のメインは小アジの南蛮漬けです。小アジは安くて栄養豊富な食材です
豚のカシラのモヤシ炒め
買った炊き込みご飯にしそを散らします。イワシのソテーと食べます
親子丼は手軽にできるメニューです
インゲンの煮物、奥のトマトが畑の産物です。トマトは塩昆布と和えてシソを散らします

ゴーヤチャンプル。お馴染みのトマトサラダを添えます
朝食です。ミニトマトの手前は直売所にあったスモモです。野草茶とともに

盛夏の風物詩 梅の土用干し、夕顔の干瓢干し

盛夏真っ盛りです。
標高1400メートルの山小舎でも、夏の直射日光の威力は殺人級です!

6月に塩漬けし、赤しそが出回ってから塩もみしてアクを抜いた赤しそを埋酢に入れておいた梅漬けです。
土用干しの行程を経て、梅干しに仕上げます。

土用干しは、梅の実を取り出して真夏の直射日光のもとに3日ほど晒す作業です。
ただでさえ保存性の高い梅漬けを、さらに日干しにより殺菌し、半永久の保存性とするのです。

梅の実をザルに上げる
まだ梅酢につかったままの梅

梅と、梅酢に分け、シソはシソで軽く絞っておきます。
それらをザルに乗せて日に当てます。
塩の結晶ができるほどカラカラに干すのが理想です。

実とシソを干す。今年の実はうまく漬かった
小梅も干す

梅酢はガラス瓶に入れたまま日に当てます。

梅酢

土用干しの終わった梅の実を、改めて梅酢につけ込んで終了です。
もう食べられますが来年まで待ちます。
梅酢が蒸発しても、ここまでくると梅は大丈夫です。

畑で収穫した夕顔の実が転がっています。
このままでも料理にして食べられるのですが干瓢にしてみます。
干瓢は、ちらしずしや巻きずしの具になります。

収穫したままの夕顔

適当な長さに輪切りにします。
皮をむきます。

まず輪切りにして
外皮をむく

包丁で実を剥いてゆきます。
ピラーで剥いたこともありましたが、干した後の出来上がりがあまりに薄く、透き通っていました。
包丁で厚みを持って剥くのがよさそうです。

実を剥いてゆく

途中で皮が途切れても気にしないで剥いてゆきます。
種のある実の真ん中まで来たら剥くのをやめます。

芯は捨てる

物干しざおに剥いた皮をぶら下げて乾燥です。
切れた皮はザルで干します。

出来上がりが楽しみです。

物干しざおにぶら下げる
ザルも使う

令和8年畑 盛夏の中、出荷始まる

7月の畑は収穫が順調です。
東京の山小舎おばさんの元への出荷も始まりました。

出荷開始したころの収穫物

今年の畑の特色は、収穫物が多彩化したことでしょうか。

インゲンが山のように採れた
今年はセロリが育った。早くもほおずきが実った

畑は乾燥が進んでおり、乾燥に強いトマトなどが順調です。

トマトは大量に実を結んだ

反面、水を欲しがるキューリやナスなどの収量が少ないようです。
ズッキーニも受粉がうまくいったときには実を結びます。

待望のズッキーニ(右端)
ナスとピーマン
冬瓜の実がぶら下がっている

軽トラ流れ旅’26 群馬県下仁田へ行ってみた

今回の流れ旅は県外の旅です。
天然の要害、山々に囲まれた長野県は、他県との県境には峻険、深々とした山々が存在しています。

然しながら、山小舎から直線距離で測ると、山梨県へはもちろん、群馬県へも案外近いのです。
姫木で親しくしている友人は、自宅がある埼玉大宮地区への行き来に、下仁田経由のルートを使っているようでした(その方はなるべく高速道路を使わない派です)。

山小舎から佐久方面に下り、野沢地区を抜けて富岡街道と呼ばれる道を上ってゆきます。
思ったより緩やかな登りです、交通量もあまりありません。
前方に妙義山?の凸凹した山容が見え隠れします。

やがて群馬県に入ったのか、沿道に”こんにゃく”の文字が目立ってきます。
山奥の人里といった雰囲気がします。

富岡街道沿いの閉店した店。群馬に到着した!

やがて下仁田の町に到着しました。
まずは上信電鉄下仁田駅へ行きます。

上信電鉄下仁田駅全景
駅前の秩序が維持されるように書かれた看板

高崎から下仁田までの私鉄ローカル線です。
忘れられたような昭和の鉄道です。
JRならとっくに廃線にしているかもしれません。
戦前まで続いた生糸の興隆を、高崎から東京方面に繋げる物流手段だったようです。

駅舎内部。がらんとしていない、人出がかかっている
待機する車両。乗ってみたかった。
ホーム側から駅舎を撮ってみる

駅舎は有人で、整備されています。
停車していた車両も現役感があります。

駅前に出ると、昭和感丸出しながら現役の電気店、旅館などがそこそこ軒を連ねています。
味があります。思ったより寂れてはいません。
ここに来なければ味わえない、群馬県ローカルの歴史と匂いが染みついた景色です。

駅前の風景
駅前の風景

駅の近くのAコープに寄ってみます。
地元の物産を物色し、昼食用にから揚げ弁当ときんぴらサラダを購入します。
Aコープは町内唯一のスーパーに当たるのでしょうか、昼間から賑わっていました。

旅人にとってのマスト、道の駅を探します。
国道を富岡方面へ進むと道の駅下仁田があります。
県外の観光客やトラックドライバーが集まる場所です。

道の駅

観光案内所でマップをもらい、立ち寄り温泉の情報を聞きます。
そのあとは構内の直売所へ。
こんにゃくで町おこしをしている下仁田らしく、いろいろな派生商品があります。
野草茶コーナーまでありました。
並んでいる商品には勢いが感じられます。
この地区で意欲的に活動している人々がいることも。

道の駅には上信電鉄の各駅を素材にしたポスターも掲示されていた

食堂コーナーでソフトクリームを食べていると、三々五々集まってきた家族連れやドライバーたちで満席になってきました。
メニューの充実感を見ても、今時の道の駅が地域の外食産業の中核を担っている様子がわかります。
私もこの道の駅で昼食を摂ることにして、外のテーブルに弁当を広げました。

この日の昼食。下仁田スペシャル

町の中心部に戻って、歴史館という博物館に寄ってみます。
歴史館の中心的な展示は生糸についてです。
カイコを飼って、繭を富岡の製糸工場へ出荷するのが明治以降の下仁田の一大産業だったのです。
富岡の製糸場と合わせて、下仁田の風穴が世界遺産になっています。
風穴にはカイコの卵を低温保管し、適宜出荷する保管場所があったのです。

町立歴史館。館内は撮影禁止

下仁田から信州佐久に至る街道も、中山道の脇街道としてかつては関所などもあり、信州との交易なども盛んだったとのことです。
今の下仁田の町の大きさ、鉄道の存在などを見ても、街道がもたらした歴史の重さを感じます。

下仁田の旅の仕上げは立寄り温泉です。
観光案内所で推薦の、清流荘を探します。
道幅狭い山道に清流荘はありました。
受付で声をかけますが返事はありません。
無為な時間が流れています。

清流荘の看板

無人の露天風呂へ入ります。
取材に来たことがあったのでしょうか、テレビプロデユーサーの推薦の言葉が飾ってあります。
その言葉に従い、低温の源泉につかりますが、冷たすぎて効いたのかどうかわかりませんでした。
鶯の声が間近に聞こえる野趣豊かな露天風呂でした。

立寄り湯は露天ぶろで
これがその看板だ
無為に過ごす露天風呂の湯

カンカン照りの暑さが残る中、富岡街道を取って返して下仁田の旅を終えました。

上田映劇で新作「ヌーヴェルヴァーグ」を見る



「ヌーヴェルヴァーグ」    2025年   リチャード・リンクレイター監督   フランス

山小舎おじさん今年初の新作映画鑑賞。
劇映画となると何年振りか。
新作ってこんなに面白かったのか?
それともたまたま、年代的な感性に合致したのか?

上田映劇のウインドウ。「ヌーヴェルヴァーグ」の同期間に「勝手にしやがれ」が上映される

監督が、50年代末のパリのカイエ・デュ・シネマに巣食う若い映画評論家たちが映画監督としてデヴューしてゆくヌーヴェルヴァーグという時代に興味とあこがれを持ち、素直に映画化している。
監督の素直さ、素人っぽさは、全世界の隅々に生息する映画ファンと共通しているのがこの映画の凄い所であり、愛すべきところだ。

クロード・シャブロルが「美しきセルジュ」でデヴューし、フランソワ・トリュフォーの「大人は判ってくれない」がカンヌ映画祭で評判をとった頃。
黒メガネでタバコを離さないゴダールは、カイエの編集室でタイプを叩いていた。
気になるトリュフォーのカンヌデヴューを確かめにカンヌに車を飛ばす。
旅費は編集室の引き出しにある金庫から失敬した。

「映画の友」1960年4月号掲載の広告

シャブロルとトリュフォーのデヴュー作のおかげで、シャブロル監修、トリュフォー原案の条件でゴダールの長編デヴュー作にプロデューサーが付いた。
生涯一度のチャンス。
素材は新聞記事になった自動車盗難の話。
主演には短編で使ったボクサー上がりの青年(ジャン=ポール・ベルモンド)。
相手役のアメリカ娘には、「聖ジョーン」でデヴューし、トリュフォーが『新しい映画の女神降臨』と絶賛し、カイエの表紙を飾ったジーン・セバーグを、無鉄砲にも希望した。

ベルモンドにはジムのオーナーみたいなおばさんが、『映画に出るなら商業映画に』と苦言を呈するが、べルモンドは『どうなるかわからないが、ゴダールは信用していい』と思っており、縁もゆかりもないセバーグに出演を勧めに行く。

セバーグはハリウッドでの「悲しみよこんにちは」出演の後、結婚したフランス人弁護士とともにパリにいた。

すぐ離婚し、セバーグの評伝(水星社「ジーン・セバーグ」)では精彩なく描かれている、元夫フランソワ・モレイユだが、映画では登場場面も多く、いらだつセバーグを慰めたり、契約中のハリウッドのコロムビア映画との交渉ごとに手腕を発揮するなど頼もしく描かれている。

「映画の友」1958年12月号掲載の記事より。左が実物のフランソワ・モレイユ

「勝手にしやがれ」の撮影開始前にゴダールがスタッフを選定する。
以後コンビを組むことになる撮影のラウール・クタールのキャラがいい。
実際のクタールについては知らないが、インドシナに従軍して映画撮影を覚えたというこの人物は、長身と長い顔をしており、顔合わせではゴダールと撮影の専門的な会話を交わして意気投合する。

現場では『覗くか?』とゴダールに聞き(ゴダールは『いや』と答える)、『回せ』の掛け声には『もう回っている』と答える。
ロケでのゲリラ撮影では、嬉々として車いすに座り(押すのはゴダール)、カモフラージュしたリヤカーにカメラを抱えて潜り込む(リヤカーを押すのはゴダール)。
クタールにとっては、無手勝流のヌーヴェルヴァーグの現場など、インドシナの戦場に比べて何のことはないんだろう。

一方で記録係やメイク係の女性にとってゴダールの現場は全くの素人騒ぎだった。
小道具の位置のズレや、俳優の目線の違いには『これではつながらない』と当たり前の指摘をしても、『このままでいい』と答えるゴダールに絶望する記録係。
メイク係は主演女優セバーグのとりなしで何とかスタッフに残る。
終盤のロケで『もう少しで終わる』とせいせいする彼女。

セバーグは出番のない日も現場に出かけてくるが、ゴダールは決まった脚本は作らず、毎日現場でなにやら書いている姿に苛立つ。
セリフはゴダールの口から出演者にカメラの背後から告げられる。
しまいには、セリフの癖をマネしてゴダールをからかう。

ハリウッド女優として、演技とアドリブで対処し、それなりに現場を楽しんでいるように見えるセバーグだが、あまりの無軌道ぶりにしばしばゴダールと衝突する。
『あなたの映画なんて知らないわ』。
クランクアップの現場で各スタッフはお互いにハグするが、セバーグとゴダールは握手だけだった。

「勝手にしやがれ」のワンシーン。このセバーグのドレスは「ヌーヴェルヴァーグ」で再現される

様々な映画人のそっくりさんが登場する。
ロベルト・ロッセリーニがカイエ編集室を訪れたとき、ヌーヴェルヴァーグ系の映画人が集合する。
ジャック・ドミー、アニエス・ヴァルダ、アランレネもいる、名前が表示されないと誰かはわからないが。
ロッセリーニはホテルに送っていったゴダールとの別れ際に金を無心する。

撮影の終盤、パトリシア(セバーグの役名)の部屋でベルモンドと戯れるシーン。
ベルモンドの独白シーンの撮影では、セバーグがカメラの横に陣取りベルモンドにアドバスする。
この時の女優ゾーイ・ドウイッチはセバーグが蘇ったかと思ったくらいにそっくりだった。
それ以外の場面では、実際のセバーグより背が高く、顔が骨ばっているゾーイは、シャロン・ストーンにしか見えなかったが。

セバーグとベルモンドの同志的友情が、撮影期間を通して高まってゆく様も見てとれる。
セバーグが40歳で不慮の死を遂げたとき、葬儀に参列したのもベルモンドだった。

ゴダールが見学に訪れる、ロベール・ブレッソンの「スリ」の撮影現場。
ブレッソンのそっくりさんの目玉と背広の模様もよかったが、メイクされている主演俳優が、実際とそっくりで驚いた。

「ヌーヴェルヴァーグ」チラシ表紙

どのシーンも興味津々。
どこかで見聞きしたシーンやエピソードが再現されている。
知らなかったエピソードも。
それも映画ファンの視点で。

画面から初々しさが消えないのは、出演者がゾーイ・ドウイッチ以外は職業俳優ではないからか。
それとも監督がファンの視点で、ヌーヴェルヴァーグの時代を再現することにワクワクしているからだろうか。

「ヌーヴェルヴァーグ」チラシ裏面

ゴダールを演じるギョーム・マルベックという人。
独特の愛嬌があり、動きもいい。
実際のゴダールは、自意識過剰で頭でっかちのクセありすぎの人物だったのだろうが。
そこで私からの質問が一つ。
ゴダールは映画を見るときも黒メガネをかけていたのだろうか?この作品でのように。

ゴダールについて、本人の難解な言葉や、研究書のわかりずらい文字を見るより、まず最初にこの映画を見たらどうだろう。
ヌーヴェルヴァーグの時代に、血の通った偏屈な監督がいて、すったもんだの挙句、時代に残る映画が生まれたという事実が、温かい目で語られているのを見て、これ以上ない入門となるだろう。

この日の上田映劇はまるでゴダール祭り
ベルモンドとセバーグが案内してくれるような、上田映劇の館内

  

蓼科山登山 予行演習

8月にやって来る孫たちの今年の一大イベントが蓼科山登山になりました。
そこで、孫たちを迎えるジイジとして、この日は予行演習を行いました。

蓼科山は八ヶ岳連峰の北端に位置し、標高2520メートル、日本百名山に数えられる人気の山です。
現在は、標高2000メートル近くの7合目登山口まで車道が通じており、全国からのハイカーのほか、県内の小学生の登山遠足にも利用されています。

2年ぶりの蓼科山となる齢70の山小舎おじさんに、入念な準備は不可欠です。

登山靴は防水加工のトレッキングシューズです。
高機能靴下を履きます。
さらに足首、膝、腰、上半身に紐を巻いて固めます。
ヒモトレというやつです。

2年ぶりの蓼科山、頂上へは2回しか行ってません。
しかも2年前に行った9合目の将軍平往復では、帰りに足が動かなくなって、我ながら大変でした。

息子が誕生プレゼントでくれた登山靴
娘が送ってくれた高機能靴下を履き、足首、膝をひもで固める

土曜日の10時前に7合目登山口の駐車場に着きます。
予想通り駐車場は満車で、路肩に延々と県外ナンバーの車が停まっています。
少し離れた路肩に軽トラを停めます。

7合目登山口付近には路駐車両が並ぶ

鳥居を潜って登山スタートです。
同じころスタートする登山客も三々五々いますが、早や下山してくる人もいます。

最初は丸太で階段が組まれていた登山道は、岩がゴロゴロするガレ道?となります。
過去に歩いた時の、雨水で掘れた道よりは歩きやすくなりましたが。

登山口で登山客を迎える鳥居
登山道、最初のころ
登山道、中盤

急な斜度の砂利(というか岩)道が続き、休憩場所らしいところや景色のいい場所がほとんどありません。
大きなケルンが積まれていたり、沿道にコケが見られたり、馬返しという場所の名残がわずかに登山客の目に変化をもたらしてくれます。
頂上にある蓼科神社の参道であるところの、信州らしい自然にあふれた山道なのです。

登山客が積んだケルン
沿道にはコケも
ここまでは馬も来たのか?

何度も小休止し、砂利に滑りながら登り続けます。
あわよくば山頂まで、の考えはとうになくなり、ひたすら9合目・将軍平の山小屋の姿を求めて喘ぎながら登ります。

終盤の登山道、ごろ石が滑る
振り返ると女神湖方面の景色が見えた

健康な人なら頂上まで2時間とのことですが、その2時間を過ぎました。
とっくに余裕がなくなった視界の先に、空の青さが見えてきて、休憩する登山客で賑わう将軍平に着きました。

山小舎のある将軍平に着いた

写真を撮るためにこの先の絶壁?が見える場所まで行きます。
脚がガクガクしており頂上までは無理です。
写真を撮って、将軍平へ引き返します。

将軍平から山頂への急な岩場

この日の装備品は、ヤッケとペットボトル1本、カレーパンです。
昼飯前に下山するつもりでしたが、すっかりバテています。
カレーパンを食べましたが、しばし休息と給水が必要です。
将軍平の山小屋に入ってコーヒーとアイスクリームを補給することにしました。

将軍平の山小舎周辺は登山客の休憩場所

ここのコーヒーは注文の都度、豆を挽いてくれます。
水は雨水です。
繁忙期なので3人のスタッフが忙しそうです。
30分ほども休んだでしょうか、アイスクリームが体にしみます。
足に疲れはたまっていますが下山しなければなりません。

山小屋でコーヒー

前回のように、動かなくなった足をごまかしながら引きずるように歩くほどのピンチはなく、下山時には、ほぼほぼ筋肉が活動停止の状態だったものの、軽トラまで到着しました。
出発から4時間を過ぎていました。

本番では頂上まで登るつもりで準備し、ストックももってゆこうと思います。
この日はたくさんの中高年の登山者がいましたが、ほぼ全員がストックを使っていました。

丸太の玉切り終了

半年ぶりで山小舎にやってきた丸太の玉切りをしました。

10本ほどの太めの丸太と、同じくらいの細めの丸太をチェーンソーで切り終えました。
平日の昼間、一日当たり1時間程度の作業です。
週に2日か3日の作業で、3週間ほどかかりました。

太いシラカバの丸太に切れ目を入れる

丸太を切る時の、木くずの飛び散りと木の香り。
久しぶりです。
やっぱりこれがないと山小舎暮らしではありません。

太い丸太を切るのも大変です。
転がった丸太を、そのまま一刀両断はできません。
三分の二ほど切ってから何とか丸太を転がして残り部分に刃を入れます。

40センチから50センチの長さに切っても、切りたての玉は水を含んで重いものです。
直径の大きなものは、玉に切っても持ち上げるのに一苦労します。

切った玉とチェーンソー

地面に埋まっている石に刃があたると、たちまちチェーンソーが切れなくなります。
やすりで研いで使ってみると、切れ味は半分ほど戻るのですが、研ぎ方がどうしても偏ってしまうので、刃が斜めに進んでしまいます。

こうなると、丸太を切断するのも一苦労です。
丸太を転がして反対側から刃を入れたあとで、切断面が合致しないのです。
合致したとしても、出来上がりが円筒形にはならないのです。

太い丸太を切る時に、このような刃では役に立ちません。
新しい刃を二連ほど取り出して付け替えざるをえませんでした。

切れ味が偏っているとこうなる

チェーンソーの刃の切れ味と、刃研ぎの大切さを痛感しながら、やっとこさ玉切りを終えました。
軽トラ3台分ほどの玉を庭のヤードへ運んで山積みします。

切った丸太を軽トラに積む

大きなものは、現地に置いておき、くさびとハンマーで四つ割りにする予定です。
そのあとで、法面にある乾燥台に積み込んで、1から2年乾燥させます。

ヤードへ運んだものは、暇を見て割って庭の乾燥台に積んでゆく予定です。

これからの薪割り作業が大変です。

丸太を切り終える

DVD名画劇場 アメリカ時代のフリッツ・ラング① ヒロイン、シルビア・シドニー

フリッツ・ラングは1890年オーストリア=ハンガリー帝国時代のウイーンに生まれた。
1907年にウイーン美術学校に入学、続いて科学技術学校に学んだ。

ちなみに同郷のヒトラーは同じ1907年にウイーン美術学校の入学に失敗している。
ヒトラーに比べて、才能的にも家庭的にも恵まれていたラングは、第一次大戦に出征、負傷したのち入院中に書いたシナリオが認められ、映画界入りした。

映画監督となったラングは、「ドクトル・マブセ」(22年)、「ニーベルンゲン」(24年)、「メトロポリス」(27年)など、サイレント時代の歴史に残るドイツ映画の作品群を発表。
第一次大戦後にあって、「カリガリ博士」(19年)など、表現主義と呼ばれる芸術運動により復興したドイツ映画界の次の世代を、FWムルナウとともに担った。

フリッツ・ラング

ゲルマン神話の映画化である「ニーベルンゲン」は、2年間の準備期間と7か月の製作日数をかけて製作された。
ウーファ社とデグラ社という国内の映画会社大手の共同制作による、第一次大戦後のインフレーションにもかかわらずドイツ映画界が総力を挙げて作り出した大作で、ドイツ人の魂の故郷ともいえる物語の映画化は、ドイツ社会に影響を与え、その表現様式がのちにナチス党の祭典様式に取り入れられた。(キネマ旬報社「世界の映画作家34 ドイツ・北欧・ポーランド映画史」p45~47より引用)

「ニーベルンゲン」
「ニーベルンゲン」

「メトロポリス」は、ウーファ社が700万マルクを投じたドイツ映画始まって以来の大作となった。
21世紀の大都市メトロポリスを舞台に、独占資本家と労働者の対立と和解を描く。
ラングは偏執狂的な情熱で、摩天楼、地下工場、人造人間など、近未来都市のセットを造出した。
この作品が発案された背景には、当時成立したドイツ独占資本とアメリカ資本の流入による資本主義社会の究極化への予感があったといわれる。(同上p53~55より引用)

「メトロポリス」
「メトロポリス」

「怪人マブゼ博士」(33年)をナチス政権により公開禁止処分にされたラングは、1934年宣伝相ゲッペルスに呼ばれる。
ゲッペルスは「M」(31年)、「怪人マブゼ博士」と反ナチ的背景を持つ作品を作ったラングを要注意人物視していたが、同時に「ニーベルンゲン」を作った才能を買ってもいた。
ゲッペルスはラングに、将来に統合されるドイツ映画界の中心人物として、ナチス政権下で働くように求める。
返事を保留したラングはその日のうちにパリへ去る、映画界入りしたときから、二人三脚で創作に務めてきた脚本家の妻テア・フォン・ハルボウには何も告げずに。(妻はこの時にはナチス党員だった)。(フィルムアート社「ドイツ映画の偉大な時代」p369~371より引用)

フランスからアメリカに渡ったラングは、MGMにいたデヴィッド・セルズニック(「風と共に去りぬ」のプロデューサー)との個人契約でMGMに迎え入れられたが、処遇が決まらず、セルズニックが独立してMGMを去った後には、契約更新を断られた。

結局、渡米第1作「激怒」のヒットで、50年代後半までハリウッドで映画監督として活動することができた。
50年代末には西ドイツに戻り、自作のリメイク「怪人マブゼ博士」(60年)を撮る。
65年にはゴダールに乞われて「軽蔑」に自身の役?で出演し、教養豊かな老監督ぶりを演じた。

今回は、ラングが渡米直後に撮ったアメリカ映画、第1作と第3作を見る(第2作目の「暗黒街の弾痕」は当ブログにて紹介済み)。

「激怒」    1936年   フリッツ・ラング監督    MGM

結婚衣装のディスプレーの前にたたずむ結婚間近の二人(スペンサー・トレーシーとシルビア・シドニー)。
シルビア一筋のスペンサーと幸福そうなシルビア。

フリッツ・ラングの渡米初期作(「暗黒街の弾痕」と「真人間」)ならば、人の道に背いた(ことのある)恋人たちの、道ならぬ(波乱に満ちた)恋路のプロローグとして設定されたこのシチュエーション。
本作では、主人公は工場勤務から独立し、兄弟らとガソリンスタンドを立ち上げた善良な庶民という設定。

が、しかしいかに善良とはいえ、主人公が、身に覚えのない犯罪の容疑者として、あわや民衆のリンチの危機に瀕する不条理に迷い込むことになるのは、ラング映画の主人公の宿命だった。

フリッツ・ラングのハリウッド第1作は、こうして故なく犯罪に巻き込まれる青年を主人公として始まる。
主人公の無垢で一途な婚約者を演じるのがシルビア・シドニー。
本作から3作品連続してラングは彼女をヒロインに据えることとなる。

田舎の無知で、善良とはいえず、むしろリンチを好む歴史的伝統を隠しようもないアメリカの住民が、無実のスペンサーを誘拐犯人として追い込む。
うわさ、好奇心、無責任、扇動を、楽しむかのように増幅させてゆく住民たちを、畳み込むように描くラング。
まるで、歴史浅く、単純で好戦的なアメリカの国民性を戯画化するかのような演出だ。

犯罪(容疑)者を追い込むリンチの恐怖は、ドイツ時代の「M」に比して恐怖度が少ない。
暗さを強調し、得体のしれぬ恐怖感に満ち満ちた「M」に比べて、本作のリンチ(未遂)シーンはアクションを強調したスリリングなものとなっており、恐怖の原因は扇動された群衆に限定されている。
ドイツ時代のナチスの権力の狭隘さを暗示的に描いた{M」の恐怖のほうが、不気味なのだ。

「激怒」

更に、本作の群集心理の背景には、自らの選挙対策を最優先し、リンチを放置する州知事の存在や、野次馬的に煽り立てるマスコミの蠢動がある。
こういったアメリカ社会の宿痾を忘れずに描くのも外国出身のラングの真骨頂。

「地獄の英雄」(51年)で、人命の危機を特ダネとして集まったマスコミと物見遊山の人々をこれでもかと描いたのは、オーストリア=ハンガリー帝国出身のユダヤ人監督という点で、ラングの後輩にあたるビリー・ワイルダーだった。

本作の狙いは、扇動された群衆の怖さを描くことだけではない。
群衆による刑務所の放火から生き残ったスペンサーの復讐心理を描くことにむしろ主眼が置かれる。

復讐鬼として世間に存在を隠しながら、弟たちとリンチを扇動した住民を告訴し、裁判で罪を断じようとするスペンサー。
ここら辺、裁判長や保安官を公正で職務に忠実な人物として描いたのは、ドイツ育ちのラングらしい。
果たして、裁判においても、アメリカ社会では必ずしも正義が執行、貫徹されるとは限らないのだが。

最後の最後では、『激怒(FURY)』したはずのスペンサーが、婚約者シルビアとの人間的つながりに目覚め、リンチ扇動者を許すという大団円のハピーエンドとなる。

ラングのハリウッド第1作が成功したのも、このハピーエンドのためなのだろう。
ラングが好むであろう、理路整然とした理屈(と理屈が通らない不条理)の世界はどうなったのか。

『1936年当時、MGMとの契約更新を断られていたラングに「激怒」の監督の依頼をしたのは、この企画をMGMに持ち込んだ、ジョセフ・L・マンキーヴィツ(パラマウントのベルリン支部でドイツ映画に字幕を付ける仕事をしていたことがあった。のちに「三人の妻への手紙」(49年)、「イヴの総て」(50年)でアカデミー監督賞を受賞)だった。

本作の撮影中、ラングは自己流(ドイツ流?)の撮影方法を貫こうとし、現場で軋轢が生じた。
撮影後、ラングは作品のいかなる改編も拒み、MGMを解雇された。
作品はマンキーヴィツにより編集されヒットした。

いずれにせよ作品の成功はドイツの監督にもハリウッド・アクションが撮れるという証明となり、様々な結果を招いた』。(以上、文芸春秋社刊「ハリウッド帝国の興亡・夢工場の1940年代」p72~75より引用)



「真人間」   1938年   フリッツ・ラング監督    パラマウント

フリッツ・ラング渡米第3作。
3作全部のヒロインにシルビア・シドニーを起用、本作はその最終作となった。

シルビアの相手役の主人公はジョージ・ラフト。
前身はギャングだったというハリウッドスターである。
製作者としてパラマウントのタイクーン、アドルフ・ズーカーがクレジットされているが、実際の製作は監督のラングが兼ねている。

リアルなギャングだったラフトが本作では前科者を演じる。
ただし、『更生しようとする前科者が、やむにやまれず犯罪に再度手を染め破滅する』という、犯罪映画にありがちなパターンを、この作品は少しひねって作られている。

従業員250名のデパートが舞台。
社長(ハリー・ケリー)は善人は善人でも、とことん筋の通った人物。
従業員中数十人の前科者を雇用している。
社長が単なる社会貢献から善行を行っているだけの人物ではないことは最後にわかる。

デパートで昔のワル仲間の誘いをはねつけつつ仕事に励んでるラフトには、店員仲間のシルビア・シドニーという両思いのガールフレンドがいる。
2人はエスカレーターで上下にすれ違う時に手を握り合うほどの中だが、恋人という程ではない。

「真人間」

ラフトは自分の前科が広まっていないカルフォルニアで新しい人生を始めようと、社長の紹介状を胸に長距離バスに乗りこむ。
愛するシルビアに見送られて・・・。
シルビアが離れてゆくバスのラフトに向かって叫ぶ、『今夜プロポーズされたならOKしようと思っていた』。
ラフトはトランクを窓から投げ捨て、バスから飛び降りる。
このスピーデイで洒落た展開は、アメリカ映画的な明るさそのもので、犯罪映画っぽくなくていい。

2人は真夜中に、”インフォメーション”と呼ばれる何でも相談所で結婚証明書を取得し、シルビアのアパートにしけこむ。
ユダヤ人の大家夫妻は、最初はラフトを追い出そうとするが、二人が結婚したと知って歓迎する。

アメリカ特有の、街角の結婚届所の存在と、名もなき恋人たちが逃避行の際に行う、届出所の証人の前での結婚。
この、”日陰者の恋人たちの結婚”はラングの前作「暗黒街の弾痕」でも描かれていた。

シルビア・シドニーは『前科を持ち、前途に不安があるが、自分を愛してくれる青年についてゆき、一途な、幸福そうな表情をする』役柄が似合う。
薄幸そうなのではない、客観的には幸福が望めない状況でも、自分が愛する相手と一緒になった女ごころのうれしさを演じられるのだ。

実はシルビアも保釈中の身。
それを隠して結婚したが、やがてラフトが事実を知り、やけになってワル仲間の誘いに乗りデパートの強盗のグループに戻る。
それを知ったシルビアは身を捨てる覚悟で社長に相談する・・・。

夜中にデパートを襲ったラフトのグループの前に社長とシルビアが立ちはだかる。
社長は翌日8時の出社を条件に今回のことは不問に処すとして立ち去る。

一方、シルビアは黒板を背にギャングどもの前で仁王立ち。
如何に今回の犯罪が収支的にも割に合わないかを数字を書いて示してゆき、ギャングどもは犯罪の割の合わなさを理解し、ラフトはシルビアの元に戻る。
「激怒」「暗黒街の弾痕」ではひたすら恋人の後をついてゆくだけの存在だったシルビアが、一人の人間として自立した役を演じる、これは記念すべき作品なのではないか。
そのハイライトが黒板に数字で説いてゆくシルビアのこのシーンなのではないか。

前2作のペシミズムから翻り、ハピーエンドを意識したという結末は、フランク・キャプラ(「スミス都へ行く」(39年)、「群衆」(41年)、「素晴らしき哉、人生」(46年))的”アメリカの善意”の物語を思わせるほど。

フリッツ・ラングらしさは、ヒロインのシルビア・シドニーの憂いに満ちた瞳の奥に潜む影と、それが示唆する現実の恐怖にあるはず?だったが、そのシルビアが凛々しくも黒板にチョークで現実のそろばん勘定を証明するほどに(キャプラ的”アメリカの善意”に)”自立”したのである。

これは暗黒犯罪映画、心理的スリラーを旨とするであろうラングの世界からシルビアが、役者として別の世界にスケールアップしたということなのだろうか。
それともシルビアの当時の愛人BPシュルバーグが重役を務めるパラマウント映画の都会的社風に、ラングが妥協しての産物なのだろうか。

前述の、フィルムアート社刊「ドイツ映画の偉大な時代」から引用した通り、ラングのドイツ脱出は、ゲッペルスからの断われない誘いを受けたその日に、フランスに出国したことになっているが、それは本人の自己申告上のものであり、実際は本人がかなりナチスに自己保身を売り込んでいた(がその保証がなく脱出した)のが事実であるとの考証もある。(ウイキペデイアより)

女優シルビア・シドニーの実像のしたたかさとともに、名匠フリッツ・ラングと現実世界の関係もいろいろあったようだ。

シルビア・シドニー