ロバート・ミッチャム
この俳優は1940年代以降のハリウッド映画のタフガイとして活躍した。
「天使の顔」(1952年 オットー・プレミンジャー監督)では救急隊員役として、ヒロインであるジーン・シモンズの相手役だった。
50年代に入って、役柄を広げたのか、適役を演じることのなったのか、「狩人の夜」(1955年)と「恐怖の岬」(1961年)の2本の映画に出演した。
どちらもタフガイというヒーローではなく、敵役である。
これらの作品でミッチャムは、定型の悪役ではなく、怪演技ともいうべきサイコパスぶりを披露し、彼本来の資質を開花させるとともに、映画史に残る悪役のひとつの型を作った。
ロバート・ミッチャム
「狩人の夜」 1955年 チャールズ・ロートン監督 ユナイト
映画史に残るカルト作品。
この作品の功績は、原作を発掘し、製作にこぎつけた製作者のポール・グレゴリーと監督のチャールズ・ロートンに第一義的には譲るものの、独特の世界観を作品にもたらした撮影のスタンリー・コルテスとともに、配役のロバート・ミッチャムのサイコパスな演技に負うところが多い。
オリジナルポスターにはミッチャムにすがるネグリジェ姿のシェリー・ウインタースが
大恐慌下の30年代のウエストバージニア州の田舎町。
銀行強盗の末に息子に1万ドルの隠し場所を託して刑死した父親(若き日の「スパイ大作戦」、ピーター・グレイブス)。
獄中でこの話を知り、牧師に身を偽って残された家族に接近するパウエル(ロバート・ミッチャム)。
未亡人(薄幸の女性役が似合っていた頃のシェリー・ウインタース)と偽りの結婚をし、幼い兄妹から金の隠し場所を聞き出そうとする。
物を盗んだり、人を殺すことを何とも思わないパウエルは、ストリップ小屋での観劇中に自動車盗難で警察に捕まる境遇がよく似合う。
左手の指の甲にHATE、右手にLOVEと入れ墨をしており、これだけでも十分サイコ野郎なのに、その手を絡ませて善悪の戦いと善の勝利を田舎の善民に説き喝采を受けるその牧師姿は、単なる悪の具現化を超越した怪物性を際立たせる。
これ以上ない悪であり、俗物であり、サイコパスなのだ。
ロバート・ミッチャムの個性とパウエルの怪物性が融合し、この先の悪夢をもたらす。
カルト映画史に燦然と輝くサイコヒーロー、パウエル
パウエルの正体を見破り殺された未亡人(ご丁寧に、湖底に自動車とともに沈んだシェリー・ウインタースを映画は美しいもののように丁寧に描写する)。
いろいよ金のありかを巡って虐待を繰り返すパウエルから逃れ、母を殺された兄妹は小舟に乗って川を下る。
兄の方は最初からパウエルを信用していない。
農夫を殺し馬を奪ったパウエルは、彼のテーマソングである讃美歌を歌いながら、兄妹を追跡する。
作品に、寓話性と十分な悪夢をもたらすカメラが川を行く兄妹を捉える。
プラネタリウムのように不自然に光る夜の星と三日月。
明らかに太めのひもで作ったクモの巣。
不自然にカメラの前に置かれたカエル、ウサギの背景に兄妹の船が流れる。
川に沿った土手を白馬にまたがってゆくパウエルはシルエットで捉えられる。
この悪夢に彩られた童話のワンシーンのようなカットが作品の一つのハイライトでもある。
そういえばこの男、獄中での登場シーンは二段ベッドからさかさまに現れたし、兄弟の家へ現れる際はシルエットでの登場だった。
ショック効果というよりは、この男の異常性を表現してのものであろう。
疲れ果てた兄妹がたどりついたのは、孤児3人を育てる老婦人(リリアン・ギッシュ)のもと。
農場の生産物を孤児とともに売って自立する老婦人。
この御仁もキリスト教信者。
孤児たちに愛を注ぐが、家を出て帰らない実の息子には未練を持っている、生身の人間でもある。
彼女は現れたパウエルの偽牧師ぶりを見破り、その異常性に対しては銃をもって対抗する。
パウエルの襲来に毅然と銃を構えるリリアン・ギッシュの雄姿
孤児のうち最年長の娘がパウエルに雑誌とアイスで誘惑される。
これを知った老婦人は娘をかき抱き悪人に誘惑される愚を説く。
このシーンのリリアン・ギッシュの存在感に圧倒される。
これがサイレント時代にグリフィス作品でヒロインを務めてきた女優の力量なのか。
テクニカルな面の目立つこの作品のカメラも、固定したフルサイズの長回しでギッシュの演技に敬意をしめす。
作品のテーマの一つでもある、ロバート・ミッチャムとの「善悪対決」でも勝負前から決着がついたかのようだ。
ギッシュはパウエルに利用された年長の娘を諄々と諭す
一度追い返されたパウエル(もうロバート・ミッチャムそのものといったほうがいいか)が夜になって再びやって来る。
例によって讃美歌を口ずさみながら。
それを聞いた老婦人も思わずその一節を口ずさむ、寝ずの番で銃を携えながら。
善悪の共通点はキリスト教にあるということか。
悪は一瞬にして駆逐され、みじめにパトカーに押し込まれる。
映画はあれだけ偽牧師を絶賛した田舎の善民たちが一転して、彼を吊るせと押し寄せるさまを捉える。
老婦人の年長の孤児が最後まで、自分を女としてかまってくれたパウエルを、いい人だったとつぶやく様も。
圧倒的な善であるリリアン・ギッシュが、小物のサイコパス、ロバート・ミッチャムを一瞬で叩き潰した、というのが映画のテーマの一つ。
もう一つのテーマは、善も悪も表裏一体、生身の人間同士だということ。
生身の大衆はまた、即物的だし、簡単に騙されて反省もしないということ。
俳優として名高い監督のチャールズ・ロートン。
この作品が公開時にはヒットせず、理解されるまで20年以上かかったこともあり、監督作品はこの1作だけだった。
実はロリコンだったというチャールズ・ロートンと、ねっとりとしたカメラのスタンリー・コルテス、麻薬で逮捕歴のあるロバート・ミッチャム。
3人のサイコ野郎の本質に近いものが集結した極め付きのカルト作品だった。
「恐怖の岬」 1962年 J・リー・トンプソン監督 ユニバーサル
ロバート・ミッチャムという俳優、タフガイの役でも、どうしょうもないクズの役でも、たたずまいが変わらない。
それがいいのかどうかはわからないが、役柄を問わず、”そこにいるのはもれなくロバート・ミッチャム”という存在なのだ。
この作品は60年代の入ってからのもので、暴力描写や性的(なものをうかがわせる)描写がより直截的なものになっており、ミッチャムのサイコな凶悪ぶりもより激しく表現されている。
思わせぶりな神秘性は全くなく、わかりやすいサスペンスに徹した画面作り。
そこには、”現実”の救いのなさのみが醸し出される。
自分の婦女暴行事件の証人となった弁護士のサム(グレゴリー・ペック)を8年間の入獄中、逆恨みして、出獄後にサム一家にストーキングし、自らのサデイズム趣向に基づいた復讐を図るケイデイ(ロバート・ミッチャム)。
サム一家の住む町に現れ、サムが弁護士として働いている裁判所に歩を進めるミッチャムの”崩れた”風体は、いつものロバート・ミッチャムの”ヨタッた”姿そのもの。
それが演技なのか地なのか?
家族でボーリングに興じるサム一家に近づくケイデイ。手前が娘のナンシー
60年代に入ったアメリカの町は一見すると繁栄に彩られており、サム一家の邸宅は広大な庭に囲まれ、黒人メイドを使っている。
しかし、映画は、来るべき70年代の挫折と断絶を予見させるがごとく、サム一家の暗い危うさを見逃がさない。
一人娘のナンシーのショートパンツ姿は、「ロリータ」(62年 スタンリー・キューブリック監督)のスー・リオンを思い出させる。
母親は、ナンシーの下校を車で迎えに来ているにもかかわらず、着飾って買い物に興じ、車から離れて娘を危機に陥らせるし、最終局面のケープ・フィアーでのハウスボート上でケイデイに迫られ、恐怖とも歓びともつかぬうめき声をあげる。
二人とも隙だらけで、来るべき時代の危機に無警戒なのだ。
ケープ・フィアーのハウスボートでサムの妻に迫るケイデイ
町の酒場には夜の女がいて、その女は生まれ故郷から流れてきた女で、ケイデイの誘いに応え自室に招いた挙句、彼のサデイズムの洗礼を受けて恐怖のあまり、あわてて町から長距離バスで去る。
警察からの捜査協力依頼を拒否して。
このエピソードはケイデイの常軌を逸した変態ぶりを描くとともに、60年代にはアメリカ社会の底辺に一般的だった、”町々を流れ歩く売春婦”の存在を描いてもいる。
「裸のキッス」(64年 サミュエル・フラー監督)は、”カツラを自ら吹き飛ばし、スキンヘッドとなった女が客の男を殴り倒す”、という冒頭シーンが有名だが、その女は洋酒のセールスウーマンを装った売春婦が町に流れてきたという設定だった。
60年代にはアメリカの病巣がかなりの部分で出そろっていたということだ。
そうした60年代のアメリカ社会の腐敗の萌芽とそれが招く暗さ、人々の危うさがこの作品の基調でもあった。
当時の近未来に対する予想もできない恐怖を象徴的に表したのがケイデイというキャラクター。
恐怖や悪に対抗する価値観としての宗教性はすでにない。
悪に対するのは法律だけ。
正義を担保するべき警察力も法律に縛られていて、悪を超絶的に発揮するサイコパスに対しては無力だ。
サイコパスに対する常識・理屈の無力を描いたという点では時代を先取りした作品だ。
サイコパスに対する一般人の無防備、トンチンカンぶりを徹底して描いた点も先進的だ。
パナマ帽と葉巻がケイデイのトレードマーク
法律や合法的手段ではケイテイに対抗できないと悟った後のサムがいい。
それまで、どこか他人事のように構えていたサムが、”極悪非道なクラントン一味と実力で雌雄を決しようとするワイアット・アープ”のように覚悟を決める。
実力(暴力)で決着をつけることを決めた後のグレゴリー・ペックは、最低限の支援を警察に求め、家族の協力のもと一人でケイデイに挑む。
ペックが黙々と独力で実力を行使する役は、「日曜日には鼠を殺せ」(64年 フレッド・ジンネマン監督)での、”自らの信念に基づきスペイン内戦後の祖国に戻るため、一人ピレネー山脈を越える元戦士”の役を思い出させる。
最後の最後で実力行使に出るサム
ロバート・ミッチャムの演技は、「狩人の夜」よりもさらに深化し、60年代のアメリカ社会の病巣を先取りするサイコパスぶりを発揮。
そのキャラクターは、凶暴性、変態性に加え、法律にも強い理屈が加わっての最強ぶりだった。
ペックとの最終決戦の場・ケープフィアーに現れ、ペックの妻が残るハウスボートのドアを開けて姿を現す場面は、”キング・オブ・クズ野郎”の最終降臨シーンとして映画史に残りそうな出来栄えだった。
ペックと親友の警察署長にマーチン・バルサム。
私立探偵にテリー・サバラス。
60年代アメリカ中流家庭夫人の虚飾と小市民性と隠れた背徳を演じて印象的だったのはポリー・バーゲン。
本当の”サイコパス”は60年代のアメリカ社会そのものだったのかもしれない。