黒曜水とカラマツの紅葉

今年になって飲み水、炊事の水をなるべく湧水を使うようにしています。
なめらかでおいしいのです。

姫木から鷹山を通って和田峠の麓、男女倉という場所に湧く黒曜水です。
この日は畑作業からの帰りに、遠回りして中山道経由、男女倉へ寄りました。

男女倉に湧く黒曜水
水場を見守る地元の「ゴミ無し地藏」

平日でも常に2,3組が訪れる水場です。
この日は八王子ナンバーの車が停まっていました。

どの人も、ポリタンクや大五郎などの空ペットボトルをたくさん持参しています。
慣れた人は長靴を履いて足の水濡れに備えます。
土日は詰めかける人が多く、とても寄る気にはなりません。

無心に水をくむ人々
山小舎用のポリタンクとペットボトル
よっこいしょと軽トラに積み込む

男女倉から見渡すと、すでに晩秋に差し掛かった山々の紅葉が見られます。

水場から眺めた秋の山
鷹山線から見た蓼科山
沿線のカラマツ林も紅葉盛り

ポリタンクと2リットル入りのペットボトル10本ほどを満タンにして、クマが目撃されたという鷹山線を走って山小舎へ帰ります。
山小舎の来訪者に陰の一番人気の湧水です。

令和7年畑 ヤーコン収穫と畑整理

11月になりました。
畑にはこれから収穫のヤーコンと、枯れた夏野菜を支える支柱、ネットと枯れてなお勢力を誇る雑草が、幽霊のように残るのみです。

ヤーコンの収穫に向かいました。
ヤーコンはスーパーフードといわれる地下の芋のほかに、葉っぱを乾かしてお茶にするために作りました。
が、この間の霜で葉が枯れていました!

葉っぱが枯れたヤーコン

別の畑で収穫した葉が少々ありましたが、今年のヤーコン茶(新茶)はほぼあきらめましょう。

芋を掘ってみると手では起こせないほどの根を持った樹が2本あり、スコップで起こしてみると素人農園とは思えないほどの巨大な芋が数本出てきました。

ヤーコンの地下部を掘る

大収穫です。
うれしいのですが、同時に保存方法を考えないとすぐ痛みますし、利用方法を考えないともったいないことになります。
とりあえず、彩ステーションにひと箱送ることにします。

ヤーコン芋大収穫

畑を回ってみると、ルバーブが生きています。
ジャムにするために茎を収穫します。

ルバーブ

畑の撤収に入ります。まず枯れている夏野菜の樹を抜いて倒します。
ネットを撤去し、支柱を抜いてまとめます。
枯れた雑草も、根があって丈が伸びたものは草刈り機で刈っておきます。

夏野菜とネットと支柱を撤去した畑

後はマルチを剥がすだけにしておきます。
次回はマルチを剥がしてゴミ袋に詰めて撤去します。
そのあとは一度ゴミ焚きをして今年の作業は終了です。

玉ねぎは去年から作付け中断中です。

ビーツが生きていた

2025 山小舎来客第六弾! (リンゴ狩り編)

11月の三連休に孫一家が来ました。
目的は毎年恒例のリンゴ狩りです。
今年はいつもの小諸ではなく、伊那地方の松川町へ行きました。

中央自動車道の岡谷インターへ出て下り方面へ、駒ケ根の次が松川インターです。
インターを降りて10分ほど走ればリンゴ農家が続くエリアに到着です。

シナノゴールドをもぐ

数年前にも来たことがある宮澤農園でリンゴ狩りです。
フジはまだなので、秋映、シナノゴールドなどを中心に収穫です。
籠二つが一杯になりました。

真っ赤な秋映も収穫

昼食は駒ケ根の明治亭でソースカツ丼。
デザートは飯島町の信州の里菓工房で名産の栗のモンブラン。
立寄り湯を浴びて帰りました。

宮澤農園のりんご狩りマップ

連日美味しい季節のものと、温泉。働く方々にはご褒美。
小学生には思い出。
十分に英気をもらった一行は満足して東京へ帰ってゆきました。

DVD名画劇場 ”ゲルニカ・モナムール” アラン・レネと戦争の記憶

アラン・レネ

1922年フランス生まれ。
幼少から映画に興味を持つ。
俳優を目指しパリに向かうがのちに映画編集を学ぶために高等映画学院に入学、ジャン・グレミヨンに影響を受ける。
短編映画を撮りはじめ、「ゲルニカ」(50年)、「夜と霧」(55年)などに結実。

59年には『フランス人である我々が、日本人が体験した原爆被害をどこまで知ることができるのか』をテーマに、ヌーヴォー・ロマン派の作家マルグリッド・デユラスに脚本(テクスト)執筆を依頼し、長編第一作「二十四時間の情事」を日仏合作で製作。

ヌーベルバーグの潮流に乗っての長編デヴューでもあったが、ゴダール、トリュフォーらのカイエ・デユ・シネマ派とは異なり、テクスト(脚本=文学性)を重要視し、『社会参加の意識が強く、自分たちの左翼的意見を隠そうとはしないし(後略)』(マルセル・マルタン著「フランス映画1943ー現代」1978年合同出版刊 P94)という「セーヌ左岸派」に属した。

代表作に「去年マリエンバートで」(61年)、「戦争は終わった」(66年)。
70年代以降も2014年の遺作発表まで旺盛な制作意欲を見せる。

アランレネの初期作から、反ファシズム・反戦を製作動機とした「夜と霧」「二十四時間の情事」を見る。
レネの原点は、スペイン市民戦争のファシズムによる弾圧を糾弾したピカソの力作「ゲルニカ」をモチーフにした初期の短編作品にあった。

アラン・レネ

「夜と霧」  1955年  アラン・レネ監督   フランス(アルゴスフィルム)

戦後10年、アウシュビッツ収容所解放から10年後に作られた作品。
ドイツによるユダヤ人絶滅収容所の全貌を初めてまとめた映画とされる。

10年後のアウシュビッツ(現地名:オシビエンチム)の夏草に覆われた風景のカラー画面から始まる。

ドイツ国内のナチス党の政権樹立から、ユダヤ人の排斥・強制収容、そして収容所の実像へと時系列に時代を追ってゆく。
家を追われ、貨物列車で移送されてゆくユダヤ人たちの姿は、北米で資産放棄の上、僻地のキャンプに強制収容された日系人を思い起こさせる。

ドイツの戦時収容所にはユダヤ人だけでなく、ドイツ人の政治犯、刑事犯も収容されていたこと。
所内には楽隊や動物園、保育園などがあったこと。
粗暴な看守に対抗する抵抗組織があったこと。
看守用の売春施設(女囚が売春婦)や監獄まであったこと、が語られる。
この時点までは収容所が、刑務所だったり捕虜収容所的な色彩を持っていたということだ。

1942年に親衛隊長ヒムラーがアウシュビッツを視察し『生産的に処分せよ』と指示してから、アウシュビッツが絶滅収容所になった。
ガス室と大規模な火葬施設が作られた。
のちに火葬施設が不足し、死体はバーナーで焼かれたり、野焼きされた。
死体の毛髪は毛布に、遺灰は肥料に転用された。

1945年には収容人数を10万人規模に拡大するとともに、囚人を労働力として活用すべく、ジーメンスなどの国内企業が進出した。
そして連合軍の進出により解放された。

映画は『この責任はだれにあるのか。今も戦争は終わっていない。』と語って終わる。
連合軍の解放場面に問題の解決感は漂わない。
『900万人の霊がさ迷う』とのナレーションも。
この数字は事実誤認とはいえ、フランス映画らしい真実追及の客観性に満ちた作品である。

製作はアナトール・ドーマン。
独立プロ:アルゴスフィルムを立ち上げ、後に「男性・女性」(66年 ジャンリュックゴダール監督)「バルタザールどこへ行く」(66年 ロベールブレッソン監督)などの意欲作をプロヂュースし、「愛のコリーダ」(76年 大島渚監督)「パリ・テキサス」(84年 ヴィムベンダース監督)までを作った。

テクストを書いたジャン・ケロールは収容所から生還した作家。
その言葉は作品のナレーションとして語られる。



「二十四時間の情事」  1959年  アラン・レネ監督  日仏合作(大映=アルゴスフィルム)

この作品はいくつもの切り口を持っている。

・監督アラン・レネの「ゲルニカ」「夜と霧」から続く『戦争の傷跡を告発する』作品の系統から。
・大映とアルゴスフィルム(永田雅一!とアナトールドーマン!)のダイナミックこの上ない邂逅と企画実現の経緯から。
・欧州戦争の癒えぬ残像にヒロシマを重ねた脚本のマルグリッド・デュラスの着眼点から。
・欧州と広島という難しい二つの悲劇を奇蹟的に結合させた主演のエマニュエル・リヴァの存在から。

それらの切り口のいずれもが化学反応を起こしたハレーションゆえに、この奇蹟的な映画が誕生したことがわかる。

映画はケロイドの腕が自らの体を撫でまわすシーンと、汗にまみれた男女の腕がお互いの体を撫でまわすシーンのモンタージュから始まる。
短編映画「ゲルニカ」でピカソの絵画を撫でまわすように撮ったアラン・レネの真骨頂だ。
病院の廊下や、原爆資料館の展示物を撫でるようにとらえる移動撮影がモンタージュされる。

反戦映画のロケで広島を訪れているフランス人女優(エマニュエル・リヴァ)と日本人建築家(岡田英次)が出合う。
いや出会いは描写されない。
二人が汗みどろになって抱き合っている場面が二人の出会いのスタートだ。
翌朝、ベッドでコーヒーを飲んだり、一緒にシャワーを浴びるシーンもあり、デユラスの脚本は男女関係の描写が生々しい。

ホテルの部屋で、翌日の朝

男女の出会いに理屈も何もない、出会った以上は生々しい関係こそ不可欠。
これはフランス映画らしさであり、脚本のマルグリッド・デュラスらしさでもある。
のちに自伝的小説「愛人ラマン」を発表する、仏印サイゴン生まれのデユラスらしく、フランス女性がアジア人の現地人と性愛関係を結ぶ設定はこなれている。

エマニュエル・リヴァのナレーションでデユラスの脚本が語られてゆくことのこの上ない心地よさ。
デユラスのセリフを忠実に、まじめに再現してゆくエマニュエル・リヴァ(と岡田英次)の信頼感というにふさわしい演技。

ロケ地まで女を追った男

東洋人と相対する白人女優ということで、心配があったが、岡田英次と対するときのエマニュエル・リヴァには、若干の戸惑いはあったものの、時には好奇心に彩られた信頼感にあふれ、上から目線の蔑みなどはなく、自らの演技に徹しているのがよくわかる。

妻のいない自室に女を招く男

二人は二度の逢瀬(彼女の宿泊先と彼の自室)を経て、離日の時を迎えるが、それまでの空き時間、広島の町を愛する彼女とともに過ごす、繁華街の「テイールーム・どーむ」という名のカフェで。

このカフェ(バーというか洋酒居酒屋というか)での二人のやり取り(リヴァのほとんど独演)がこの映画のハイライトだ。
広島にとどまれと迫る男。
男に惹かれながらも、戦争中の心の傷が癒されない女。
彼女にとってその身がパリにあろうとも、広島に在ろうとも安らぎとはならないのだ。

テイールーム・どーむにて

女は18歳の時、ヌヴェールという地方都市でドイツ兵と恋に落ちた。
生まれて初めての恋に『死んでもいい』と思った。
ヌヴェールに解放軍がやって来るその日に恋人は、待ち合わせのローヌ河畔で狙撃され、彼女の腕の中で死んでいった。
彼女はドイツ兵と通じたことで髪の毛を刈られ、また家族によって地下室に閉じ込められた。
現在のパリの家族にもあかしていない傷だった。

ヌヴェールで初めての恋に喜びを隠せない女

ヌヴェールでの傷を告白し、目の前の男との愛に悩む女。
テイールーム・どーむで女の苦悩が語られる。
その顔に照明は当たらない。
女が男の腕に崩れ落ちたとき、男の腕に当たっていた照明が女の顔を捉える。

まさにこの映画の核心を表すような、暗さを基調にした照明は大映スタッフのなせる業なのか。
「夜の河」(56年 吉村公三郎監督)で山本富士子の京都のお茶屋でのラブシーンを徹底したバックライトで表現した、大映京都の職人・岡本健一の照明を思い出す。

テイールーム・どーむにて、自らの傷を打ち明ける女

また、テイールーム・どーむでのシーンに、日本の歌謡曲や盆踊りの音がかぶさる。
特に歌謡曲が流れ、女のヨーロッパでの忘れられない傷が語られる場面は、時空を超えた異化効果に満ちた場面となった。
まったく異なる文化、地域が画面で融合する。
背景にはアラン・レネの『撮影地日本に対する前向きな好奇心』があったのだろう。
これがデユラスの脚本にあったのだとしたらその創作力に感服する

ヒロシマとヌヴェールを対比させ、融合させる試みを持った作品。
ヒロシマに対する表面的な理解(これについては、女に向けて『君は広島で何も見ていない』と男に語らせている)に対して、ヌヴェールで女が生涯の傷を追う描写の数々の深刻さ、残酷さが格段にリアルで、そこにフランスと日本の認識の断絶が表れてもいるが。

女と男は語り合ううちに、忘れることに恐怖しつつも、ヌヴェールを忘れてゆき、男に対し『あなたの名はヒロシマね』という。
男は『君の名はヌヴェール』と言って映画は終わる。
戦争と、恋と、故郷に傷ついた女性にとってこれは救いの言葉なのだろうか。

広島駅の待合室にて

長編第一作が日仏合作映画というアラン・レネ。
己のスタイルを崩さず、かといって脚本のヂュラスへのリスペクトも維持し、またロケ地日本への好奇心と尊重もある作品を作った。
山場のテイールーム・どーむでの男女の芝居の演出も上手かった。
これにはスタッフの協力もあるが、スタッフの協力を引き出すのも才能だろう。

エマニュエル・リヴァはロケで広島に滞在中に自らのカメラで広島の町をスナップしていた。
のち(2008年)にその写真集が日仏で出版された。
当時の広島の街角や市井の人の日常が写っている内容だったが、彼女の被写体に向けての親しみと好奇心にあふれたものだった。

また、はるか昔に見た本作は、大映マークで始まる日本配給版で、大映マークの後にはお馴染みの『製作 永田雅一』と縦書きのクレジットがあった。
アラン・レネ作品にしては、と激しい違和感を感じた事を思い出すが、居間にして思うのは、大映スタッフの全面協力がなければなしえなかった企画であったろうということである。


(おまけ) 1982年3月のアウシュビッツ

山小舎おじさんがアウシュビッツを訪れたのは、バックパッカー旅も1周年を迎えたころ、今から43年前のことでした。

西ベルリンのポーランド大使館(領事館?)で50マルク(5000円ほど)でポーランドの10日間だったか1週間だった加のビザを入手。
西ベルリンから列車でポーランドのポズニナへ入りました。

アウシュビッツ(現地名:オシビエンチム)はローカル列車しか止まらないため、最寄りのカトビツェという中都市まで行きました。
カトビツェの町は、石炭ストーブを燃やしたススの臭いが漂っており、かつての北海道の冬を思い出させました。

当時のポーランドはバックパッカーには塩対応でした。
まず安宿(国営旅行会社直営の宿、ユースホステルなど)が見つかりずらい上に、たどりついても宿泊を断られることがありました。
また、街行く人はうつむいて早足に通り過ぎてゆくイメージです。
話しかけてくるのは、ドルと現地通貨を交換したがる闇両替の男くらいでした。
当時のポーランド・ズロチの闇レートはドルと交換すると使えきれないくらいズロチをもらえました。
また、観光案内所以外に英語が通じる場所がない印象です。
レストランではメニューはあるものの、あれはないこれはないで、出てくるのはビーツの真っ赤なスープ(そこに餃子が浮かんでいることも)だけのことが多くありました。

カトビツエから、窓が汚れ、なんだったら割れたままの普通列車でオシビエンチムの駅へ。
そこから路線バスで収容所跡へ行きました。
下りる停留所がわからずキョロキョロしていると、乗客の女性がここだよと教えてくれました。

収容所跡は整備させれた博物館のようになっており、観光客がチラホラいました。
卒業旅行で来ている、富山県滑川出身の慶応大学生と知り合いました。

”アルバイト・マハト・フライ”という、囚人に労働を喚起する収容所の標語が、よくみる写真そのままにゲートに掲げられていました。

靴やメガネなど囚人の遺品がほこりにまみれてガラス越しに積み重ねられていましたが、女性から刈られたであろう遺髪の山の金髪が記憶に残っています。

2段ベッドが連なる収容室の中央には、むき出しの水洗トイレがありました。
収容室の床はタイル張りだったと思います。
囚人の尊厳は否定しつつも、清潔に留意し、尊厳以外の部分は合理的に運営しようとするところにドイツ人らしさを感じました。
「夜と霧」に出てくるトイレは穴が開いただけのものが並んでいましたが、そういった場所もあったのでしょう。

ガス室と火葬施設ですが、レンガ造りのガス室はともかく、同じくレンガ造りで一人ずつ焼くスタイルの火葬施設が2基だけ並んでおりました。
これじゃ大量に焼けないな、と思ったものでした。
「夜と霧」では大規模な火葬施設と野焼きの場面がありました。

広大な収容所跡を巡っているとたった一人になることが多くありました。
既に戦後37年を経過し、地元のポーランドにはほぼ縁がなく、しかし膨大な費用が掛かる(費用負担はだれが?)であろう収容所の背景はいったい?

マルグリッド・デュラスが「二十四時間の情事」のテクストで冒頭に喝破したように『アウシュビッツの何も知らず、何も見ていない』のです。
ましてや戦争を知らない世代の東洋からの旅人においては。

茫漠たる思いに駆られながら売店で、”アルバイト・マハト・フライ”を掲げた門の絵葉書を買って送った記憶があります。
ここへ来た記念としてのみの意味として。

アウシュビッツを見た後、クラコフ、ワルシャワと移動しました。
ワルシャワでは、ユダヤ人ゲットー跡とされる場所に行ってみました。
そこには巨大な壁のようなモニュメントが建っており、周辺は数階建てのアパートが整然と並ぶ団地になっておりました。
ソ連軍の到着を目前にしたワルシャワ市民が占領軍に対して立ち上がった、ワルシャワ蜂起の記録フィルムが見たくて旧市街にある博物館にも行きましたが、英語が通じないうえに休館でした。

2025 山小舎来客第六弾!(準備編)

今年最後の来客は毎年恒例のリンゴ狩りです。
孫一家が来ます。
1週間以上前から準備開始です。

最初にあんこを煮ます。
孫だけではなく、女性陣があんみつを好みます。
自家製あんこに、茅野名産の生寒天、山小舎名物のフルーツコンポートを中心に、アイスクリーム、黒蜜などをトッピング。
コンポートのシロップでまとめます。
今回の小豆は県内産です。

県内産小豆を前夜から浸水させて、翌日二度茹でこぼし、びっくり水を加えながら煮てゆく
小豆が柔らかくなったら味付け。隠し味に黒砂糖、塩、しょうゆ、塩麴。硬くなるまで煮詰める

肉料理は当日の炭火焼きのほかに、スペアリブと豚バラの角煮を用意します。
スペアリブは山小舎さんのチャツネを中心に味付け。
角煮は紹興酒で煮て八角で中華風にアクセント。
煮卵意を添えます。

スペアリブ
豚角煮

台所や洗面台、トイレ、ふろ場などはハイターなどでぬめりと汚れを取っておきます。

ハイターと流し台
ハイターまみれ

床、畳は掃除機をかけた後、拭き掃除です。
今回は100円ショップで700円のモップを用意。
拭き掃除が格段に効率アップしました。
部屋の隅の埃やクモの巣払いも欠かせません。

床の拭き掃除
畳の拭き掃除
埃取り

寒さ本番

11月も近くなり寒さが本格化してきました。
山小舎は防寒の準備です。

長野県中央部の姫木別荘地は、標高が高いこともあり、冬の寒さ対策が重要です。
住居は真冬の零下10度以下を想定して作られています。

日本家屋の山小舎では特に寒冷対策は重要です。
主な暖房は薪ストーブですが、補助暖房に灯油ストーブを2基用意しています。

11月初旬の孫たちの来訪前に灯油ストーブを1基取り出しました。
ストーブを2階からおろし、フィルターを掃除するとともに、燃料タンクから灯油の供給を受ける部分をチェックします。
残っている古い灯油を吸い取ります。

灯油ストーブの準備
フィルターの掃除
古い灯油を吸い取る

一部が吹き抜けになっている1階の天井部分を塞ぎます。
これでかなりの暖房効率が上がります。
半地下の扉も完全に閉めておかねばなりません。

天井を塞ぐ
下から見た天井
階段の踊り場もできるだけ塞いでおく

真冬になると、居間と階段及び洗面所の間をビニールで遮断し、さらに和室の襖を締めます。

冷えきった家の中が暖まるのは、真冬だと薪ストーブと灯油ストーブをガンガン焚いて、2~3時間かかります。

みぞれが降った山小舎周辺

姫木管理事務所バイト終了

4月から続いていた別荘地管理事務所のバイト期間がこの10月末で終わります。

山小舎おじさんの、貴重なコミュニケーションと情報交換と全身運動の機会でもあったこのバイト。
一足早くおじさんの全日程を終了しました。

春先の落ち葉集め、側溝のゴミさらいから始まり、初夏・盛夏を迎えての草苅り、草刈りが終ってからは新しい落ち葉飛ばし、倒木処理などが主な仕事です。
広大な敷地と、伸び切った立木、巡る季節を通して別荘地の管理は大事な仕事です。
特に草刈りなどはバイトのマンパワーに頼る仕事となっています。

10月下旬のこの日の仕事は舗装道路上の落ち葉を、ブロワーと呼ばれる機械で吹き飛ばす作業です。
路上には滾々と落葉樹の葉が落ちています。
落ち葉の中にはカラマツの細い葉もあり路面に付着します。
小石などもあります。
それらを風力で吹き飛ばすのです。

軽トラにブロワーを積んで出発

第一義的には舗装路面上をきれいにするのですが、吹き飛ばした先から風雨によって再度路面に出てこないように、更には側溝にやたら吹き飛ばして来年の落ち葉さらいの作業の負担にならないように、吹き飛ばし先を考えます。

落葉松の落ち葉が積もった路路面をきれいにする

草刈り機のように、跳ね飛ばした小石がガラスなどに当たると傷がつくようなことはありませんが、人家や車があると気を付けます。

落葉松の落ち葉は重い

秋晴れが冴えわたったバイト最終日ですが、霜が降りたこの日、風がさすがに冷たく、股引を履き、ヤッケを羽織った作業つなぎ姿がちょうどいい塩梅でした。
暑さをどうしようかと悩んでいた夏が遠い昔のようです。

きれいになった路面

職員さんとバイト仲間たちとは来春までのお別れです。

DVD名画劇場 特集「妄執、異形の人々」 (第5集) テリー・サザーン、ラス・メイヤーの世界

「カジノロワイヤル」  1967年  ジョン・ヒューストン他監督  コロムビア

ハリウッドで長年、ジョーン・ベネットなどスターの代理人や「赤い河」(1948年)、「七年目の浮気」(1955年)などの製作を行ってきたチャールズ・フェルドマンが、そのキャリアの最後に、ユナイト製「007」シリーズ(1962年「ドクター・ノオ」でスタート)とは別系統で作った、イアン・フレミング原作のジェームス・ボンドものの一作。

ショーン・コネリー主演のユナイト製「007」シリーズのパロデイやら、映画史の楽屋落ち、東西冷戦の冷やかしまでがてんこ盛りで、ボンドを誘惑する女性陣のお色気衣装も楽しめる。
ピーター・セラーズの「ピンクパンサー」的なオトボケ演技や、今を時めく(もう終わったか)ウッデイ・アレンのお笑い芸人時代の自虐ネタも存分にちりばめられている。

引退して悠々自適のジェームス・ボンド(デヴィッド・ニブン)が世界征服を企む悪の組織スメルシュの首領ドクター・ノアをせん滅すべく立ち上がる。
ボンドの前には様々な美女(デボラ・カー、新人ジャクリーン・ビセットら)が立ちはだかる。
一方、ボンドを助ける美女たち(「007は二度死ぬ」から連続出演?のウルスラ・アンドレス、ジョアンア・ブテイット、バーバラ・ブーシェら)も百花繚乱。

マタ・ボンドが西ベルリンに潜入する。ジョアンナ・プテイット
ボンド役のデヴィッド・ニブンとバーバラ・ブーシェ

ゲストスターのもったいなさも、この作品のてんこ盛り的な荒唐無稽の表れ。
カジノ王役で出演し、賭博場でなぜかマジックを見せてご満悦なオーソン・ウエルズ。
チョイ役で、ウイリアム・ホールデン、ジョン・ヒューストン、ジョージ・ラフト、ジャン・ポール・ベルモンドが使い捨て風のキャステイング。
これらの配役に全く必然性と関連性がないのもいい。
スターらに手当たり次第に出演打診し、OKの返答の順番に、1日か2日で撮ったのか?

エピソードごとの関連性もなく、ストーリーの展開に必然性もない。
5人ほどの監督(ヒューストンのほか、ロバート・パリッシュ、ヴァル・ゲスト、ケン・ヒューズ、ジョセフ・マグラス、と監督の選出にも一貫性なし)に各パートを任せ、全体の責任を持つ演出者は置かなかったのだろう。
結果として、個々のエピソード、場面に見るべき点はあったものの、それらに統一感はなく、”混沌”と”支離滅裂”に貫かれた作品が出来上がった。
デヴィッド・ニブンを狂言回しに、セラーズとアレンの芸、女優陣のお色気、パロデイで場をつないでゆく。

ピーター・セラーズを誘惑する若きジャクリーン・ビセット

冷戦下のベルリン。
東西の壁を挟んで”、片や”ブルーエンジェル(「嘆きの天使」)”名のキャバレーネオンが怪しく輝き、その足元で売春婦が蠢く西側。
カメラがパンすると、壁際に兵士と鉄条網、全体を覆う赤いライテイングに重苦しいBGMが流れる東側が映しだされる。
鉄のカーテンの硬直ぶりと資本主義の堕落ぶりを揶揄するハリウッド”鉄板”の東西冷戦描写だが、そのあからさまぶりが、わかりやすくて面白い。
ロンドンからタクシーでやってきた、女スパイのマタ・ボンドが潜入する西ベルリンのキャバレーの建物内部は「カリガリ博士」をカリカチュアした(オマージュではない)アヴァンギャルド風書割セットという徹底ぶり。
当時の東側体制とドイツ文化は、ハリウッド映画にとって風刺の対象だったことがわかる。

往年のスター、デボラ・カーとオーソン・ウエルズはそれぞれ自らのパロデイを演じている。
スコットランド出身のカーは、ボンドを誘惑しつつもその魅力に陥落して修道院に隠居する貴族役。
映画の末尾で、清楚な修道女姿で登場し、ボンドに寄付を乞う。
「白い砂」などで、その代表的イメージにもなった修道女姿のパロデイを自ら演じる。

オーソンは巨魁の黒幕役という、近年の自らの役柄に沿った姿で登場。
唐突にマジックを披露するが、マジックはオーソン、プライベートでの趣味だった。

こうしてかつての主演スターが自らのパロデイもしくはプライベートな芸を披露。
ここまでくると彼らにとっての最後の売り物は、過去の名作で着た衣装くらいではなかろうか。

カジノでのオーソン・ウエルズ。ウルスラ・アンドレスも見える

60年代の終わりに当たって、映画はかつてのように人気スターの主演で商売できる時代を終えていた。
で、次の時代の売り物は何か?
悲惨な現実社会を等身大に描くことか、ナンセンス・パロデイに逃げることか、ヒッピー・ドラッグなど別の価値観に向かうことか。

ナンセンスとパロデイの線を目指した本作だが、どうしたことかそのズレ感が痛々しい。
だが本作に価値があるとしたら、堂々とズレに徹したその鈍感ぶりにある。
大スターのありがたみをぶち壊した功罪もあるが、時代の流れか。

バート・バカラックのテーマ音楽がゴキゲンにタイトルバックから流れ、脚本のテリー・サザーンのブラック感覚は60年代のサブカルチャームードにマッチした。

本作の後、映画は吹っ切れたように徹底した現実描写や、徹底した戯画化や、徹底したサブカルチャーに向かうことができたのではないか。



「キャンディ」  1969年  クリスチャン・マルカン監督   米・仏・伊合作

監督のマルカンはフランスの俳優で監督は2作目。
テリー・サザーン原作の映画化権を買取り、友人のマーロン・ブランドに出演を依頼、その影響でリチャード・バートンらビックネームの出演を実現、ABCフィルムズから資金を引く出すことに成功した。

原作者のテリー・サザーンは、「博士の異常な愛情」(64年)、「カジノロワイヤル」(67年)、「イージーライダー」(69年)、「マジッククリスチャン」(70年)などの脚本で知られるブラックユーモア感あふれる作家である。
「キャンディ」は、だれよりもサザーン印あふれる作品だった。
主演のスエーデンの若手女優エヴァ・オーリンのふわふわムード溢れる存在感が何より際立ってはいたが。

インチキ詩人の講演を聞く高校でのキャンデイ

ミニスカート全盛時代のアメリカのハイスクール。
その他の女子高校生に交じって登場するエヴァ・オーリンのマシュマロのようなキュートさ。
講演に招かれたインチキ俗物詩人のリチャード・バートンならずとも、魂を吸い取られてしまいそうだ。

キャンデイ・クリスチャン(オーリン)の家には庭師(リンゴ・スター)がいる。
家に入ってはいけないと命じられているが、地下のビリヤード台の上でキャンデイを犯してしまう。
かねてより惹かれていたようだ。

ニューヨークへ向かう飛行場で、空てい部隊の飛行機に助けられたキャンデイ一行。
彼女の愛くるしい姿を見て、部隊長のゴリゴリの国粋軍人ウオルター・マッソーが色気づいて(里心がついたというのか)しまう。

ニューヨークに着いたキャンデイは、けがをした父親をヒスパニック系の名医(ジェームス・コバーン)に診せる。名医には看護婦の愛人軍団がついている。
名医に口説かれたキャンデイは愛人にひがまれ、妨害される。

シャルル・アズナブール扮するせむしの浮浪者に犯されそうになり、ヒッチハイクで逃げ込んだトレーラーには、ラスボス、マーロン・ブランドのヨガのグルがいる。
もちろんインチキ修行者だ。

キャンデイことエヴァ・オーリン

60年代アメリカを象徴する、芸術家、軍人、医療者、ホームレス、スピ系のインチキぶりを暴くのは原作者テリー・サザーンの得意とするところ。
その暴き方も、毒が効いている。

軍人は『アカとヒッピーたちを叩き潰す』と念仏のように唱え続け、名医はその手術を観客の前でエンターテイメントの如くショーアップするが、肝心な部分は助手に任せる。
ヨガのグルは魂のレベルアップを説きながら腹が減るとジャンクフードを貪り食う。

全部に共通するのは、一皮めくるとただのスケベなおっさんという、その一点だ。

社会の権威者らに毒づく一方で、さりげなくアメリカ社会の現状も揶揄する。
名医がヒスパニック系で差別を逃れるため名前を変えており、かつ病院の掃除婦をしている実母を邪険にしていたり。
メキシコ人や日本人を差別するアメリカ人をからかったり。
ニューヨークのギャング社会の女に対する凶暴さを生々しく表現したり。

それにしても、マルカン監督と親しいというブランドの怪演はいいとして、リンゴやアズナブールはどういう経緯で出演したのか。
ギャラは歩合制だったらしいが出演して後悔はなかったのか。
気になる所だ。

キャンデイは、まさに現代の生き地獄をさ迷うイノセントな聖女の如く、完璧なプロポーションで迷える男たちに施しを与える。
エヴァ・オーリンはキャンデイを具現化した存在だった。

テリー・サザーンは18世紀の小説「カンディード」をモチーフに「キャンデイ」を書いたといわれる。
青年カンデイードの”地獄巡り”とその果ての悟りを描いた18世紀の物語は、美少女キャンデイに置き換えられて20世紀に蘇った。

「カンデイード」は、モンド映画を世に広めたイタリアのグァルティエロ・ヤコペッテイにより映画化もされている。
「ヤコペッテイの大残酷」(1974年 原題:MONDO CANDIDO)として。

こういった共通点をたどると、「キャンデイ」はアメリカ版モンド映画なのかもしれない。


「ワイルド・パーテイ」   1970年   ラス・メイヤー監督 20世紀FOX

ドラッグカルチャー世代感満載の70年代ムービー。
製作監督はインデイペンデント界の雄ラス・メイヤー。
巨乳好みのエロムービーの巨匠で、初のメジャー配給作品だ。
製作にはFOXの支配者ダリル・F・ザナックが当然一枚かんでいる。

「哀愁の花びら」(67年 マーク・ロブスン監督)の続編ではない、とのコメントが流れて映画は始まる。
芸能界の舞台裏を描いた同作の続編として企画された「ワイルド・パーテイ」だが女性の原作者から、原作との関連を拒否されたといういわくつきの作品。
原題は「BEYOND THE VALLY OF THE DOLLS」で、「哀愁の花びら」の原題「VALLY OF THE DOLLS」をモロに意識しているのだが。

安っぽいガールズバンド(白人二人は巨乳)がマネージャーとともに、西海岸に流れてくる。
ドラッグとセックスとヒッピーの西海岸に。

メンバーの一人が叔母さんの遺産を継ぐとか継がないとか。
黒人のメンバーに同じく黒人のボーイフレンドができたとか。
エッジが効いているバイセクシャルなプロデユーサーの推しでメジャーデヴューし、テレビ出演するほどの売れっ子になるとか。
パーテイにたむろするジゴロとねんごろになったメンバーが、ボーイフレンドだったマネージャーを振ったとか。
振られたマネージャーがポルノ女優とデキるとか。
どうでもいいエピソードが展開する。

毎晩繰り広げられるパーテイ

エピソードをつなぐカッテイングの早さ、ところどころに光る構図の鋭さ。
大戦中の記録映画からのキャリアを誇るメイヤー監督の感覚が随所にみられる。
カッテイングの合間合間に、巨乳やヌードを挟むところも抜け目ない。
ポルノ女優がバンドのマネージャーに仁王立ちして別れを宣言する堂々たる仰角の構図は、監督の女性に対する憧憬、信仰が表れているようで感慨深い。

芸能界の虚構をテーマとしながら、だらだら続くエピソードの羅列が一変するのがラストの残劇描写。
両刀使いのプロデユーサーが、自身のセキュシュアリテイーか、アイデンテイテイかをジゴロに侮辱されてから一変し、狂気のバイセクシャル女装マンと化す。

女装マンは、”伝説の剣”でジゴロの首を刎ね、眠っている女性の口にピストルを突っ込み引き金を引く。
同年に起こったシャロン・テート邸での惨殺事件に影響されたともいわれるこのシークエンスは、のちのバイオレンス描写に影響を与えたらしい。
シャロン・テートが「哀愁の花びら」の主演の一人だったことも不吉な縁だ。

楽屋落ち、スターのプライバシーへのからかいが”芸”の一つでもあるハリウッド文化が、実際の惨殺事件ですらパロデイの材料とし始めたということか。

ヒッピーに顔をしかめる大人がいる、黒人が付き合うのは黒人だけ、ヒスパニックや東洋人の影はほとんどない時代の西海岸。
ドラッグとセックスは欠かせない業界人の世界。
ついでにドイツ人とナチスに対するからかいも欠かさない。

出演者全員が無名で、この作品を出世作として世に出ているわけでもない。
これぞラス・メイヤーのインデイペンデント魂か。
安っぽい描写の中にも時々ぴかっと光る映画人魂があった。

ラス・メイヤー

短大生のガイド付き電車で別所温泉・北向観音御開帳へ

別所線の短大生ボランテイアガイド

始めて上田電鉄に乗りました。

上田電鉄は上田駅から別所温泉へつながる約30分の私鉄です。
その昔は、上田城のお濠に駅から、真田町などを経由して市内を循環、郊外へは丸子町や別所温泉への路線を走っていたそうです。
今残るのは別所線の一路線のみ。
沿線には長野大学、上田女子短期大学などがあり塩田平を通って別所温泉までを結んでいます。

ある日の信濃毎日新聞に、上田女子短大生による、別所線のボランテイア車掌の乗務が再開されるとの記事が載っていました。

10月、11月の休日の何本かのダイヤで実施されるとのことです。
ある10月の土曜日、10:23上田駅発のボランテイア車掌乗務便に乗ってみました。

新幹線の停車駅でもある上田駅
上田電鉄別所線乗り場

早めに上田駅について、別所線の乗り口へ行き、一日フリー乗車券を買って出発を待ちます。
10:23発の列車2両は早めに入線しています。
はかま姿の女子短大生二人が乗り込みます。
慌てて後に続きます。
車内は8割ほどの乗車率です。

一日フリー乗車券
車両

列車がスタートし、女子短大生のアナウンスが始まります。
車内にはボランテイア目当てのお客さんはほとんど見当たりません。
はかま姿の女子短大生と記念撮影する人は、山小舎おじさんを含めて2人しかいません。
多くの乗客は別所温泉北向観音の御開帳を目指しているのでした。

車内
沿線マップ

ボランテイアさんの案内は、停車駅ごとに歴史、名物などを予定の原稿を読み上げて、もう一人が手書きの駅名と名産の写真を順番に提示するもので、乗客とのやり取りや、その他の出し物はなく、非常に素人っぽいものでした。
彼女らが本物の素人女子短大生なのですからしょうがないのですが。

千曲川鉄橋を渡る。2019年の台風ではこの鉄橋1脚が崩落した
塩田平の風景

写真撮影の際はひとこと断わってから行い、SNSへのアップはしないようにとの事前アナウンスがありました。
3枚ほど彼女らの写真を撮ったのですが、前言により掲載できません。
残念。

短大生手製のちらし

県内には、長野市から湯田中温泉を結ぶ長野電鉄、松本から上高地方面に延びる松本電鉄の私鉄があります(第三セクターは除く)。
いつか乗車したいと思っています。

北向観音御開帳と別所温泉

別所温泉駅構内
趣のある別所温泉駅外観

ということで別所温泉駅に到着。
歩いて温泉街を目指します。
数年前に軽トラで訪れた別所温泉、そのころから変わっていません。
御開帳があるという北向観音を目指します。
自家用車の車列が駐車場を目指して伸びています。

北向観音門前横丁
横丁から北向観音への階段を望む

北向観音前の門前横丁を通り、階段を上ると境内です。
人で埋まっています。
有料で御開帳される本尊を拝もうとする人たちです。
1時間待ちだそうです。

北向観音境内にて
無料参拝の列に並ぶ
有料で御開帳の列に並ぶ人々

無料の列に並んでさっさとお参りします。
本堂?に上がると両側に山伏スタイルの修行者が数人並んでいました。
ご本尊は拝めませんでしたが、お参りが済んでから回向柱にタッチします。
善光寺の御開帳の時と同じく、略式の御開帳参拝スタイルです。

御本尊のありがたみをつなぐ回向柱
境内にある愛染カツラ
右往左往する群集を見守るお地蔵様

御参りをすまし門前横丁を流します。
御開帳記念の温泉まんじゅうを1パック買ってみます。

折角別所温泉に来たのだから、温泉に浸かります。
一番近くの大師湯という銭湯式の立寄り湯に入ります、300円。
歴史さえ感じる、いいお湯でしたが浴室と浴槽が狭く、5人も入ればいっぱいなほどの狭さでした。

大師の湯

温泉を出てから、門前横丁に戻ってジェラードを食べます。
既にアイスには向かない季節となっていますが、温泉上がりには欠かせません。
小布施の栗という種類のジェラードを頂きました。

ジェラード

昼どきですがぴったりくる食堂が見当たりません。
上田まで帰って駅蕎麦でも食べようかと別所温泉駅まで来ました。
次の電車がほぼ1時間先なので、次の駅まで歩こうか?と道にでたら直売所らしき建物がありました。
中にはお惣菜やらおにぎりやらが並んでいます。
それらを買って駅で食べることにしました。

この日の昼食

上田電鉄別所線の旅でした。

秋の実りを加工する

実りの季節。
直売所などに出品される秋の実りを仕入れては加工しています。

青トマトのピクルス

最近はおしゃれな酒のアテを目指して、ピクルスを作っています。
材料はキューリ、ビーツなどが多いのすが、信州の直売所では秋に青いトマトが出回るので、作ってみました。

青トマトがあったのでゲット

酢と水に砂糖、塩、ワインを加えたピクルス液を沸かして、黒コショーの粒、とうがらし、ローリエを入れます。
割とドライに仕上げるのが好みです。
青トマトの実は煮沸消毒のため、ピクルス液に入れて煮ますが、煮込みすぎて実が柔らかくなりすぎないようにします。

ピクルス液を作る
瓶詰めして完成

ナツメを干す

ナツメが安かった!

秋になるとナツメが出回ります。
デーツというやつです。
外国の産地では干したものが大量に出回ります。

生でも熟すと食べられるようですが、干してみます。
洗ってから乾かします。
天気が悪いとストーブのそばに置きます。
1週間ほど干したら、一度蒸して再度乾燥させるようです。
果たしてうまくできるか?

第一段階は洗って干す

干芋

秋の山小舎の定番です。
山小舎おばさんも東京で出来上がりを待っているのが干芋です。

直売所やスーパーで丸々としたサツマイモを探します。
丈が長すぎると蒸し器に収まらないのでそこそこの長さで。

買ってくると、洗って蒸かします。
蒸しあがった芋の皮をむいて5ミリから1センチの厚さにカット。
干します。
晴れた日には1日中天日に当てます。
出来上がった干芋の甘さは特別です。

サツマイモを蒸して
皮をむきカット
後は干すだけ

蒸しあがったサツマイモは、実が黄金色だったり、白っぽかったりします。
蒸し方もあるのでしょうが、芋自体の種類や育ち方があるのでしょう。
最上質の出来上がりは、黄金色で底光りがするような干芋です。
干芋は冷蔵で取っておいて、山小舎おばさんに贈呈です。

干し柿

此方も毎年恒例です。
大粒の渋柿で作ると見栄えが良い干し柿ができますが、いい値段がします。
今年は小粒の渋柿でスタートします。
柿の仕入れ代は6個で350円です。

渋柿の皮を剥いたら消毒

干し柿は吊るすまでの仕込みが肝心です。
皮を剥いたら90度の熱湯につけて表面を消毒します。
ひもで結んで早速乾燥開始です。
夜にかかった場合はストーブの近くの物干しざおにかけておきます。
翌日からは外に吊るします。晴

天時は日に当てて、夜は軒下に吊るします。
最初のころはカビ防止のため35度の焼酎をスプレーしておきます。
柔らかくなったら皮を破らない程度に揉んでおきます。
寒さが本番になるころには出来上がりです。

カビに注意して干す。初日は室内干し

ラ・フランスのコンポート

孫がいちごのジャムや桃のコンポートが大好きです。
たくさん作っておきます。
素材の香りと風味が残るのが加工品の有難さです。

直売所に梨が出てくると加工に適した品を探します。
コンポートに向いているのは洋梨です。
今回はラ・フランスがあったのでゲット。
まだ硬い状態で加工開始です。

ラ・フランスが安かった

皮をむいてカット。
並行してシロップを煮てゆきます。
水に砂糖、白ワイン、レモン汁を適量。
手製のコンポートはついつい甘さ控えめになりがちですが、常温保存するので砂糖は必要な分量入れます。

硬いうちに加工します

保存瓶は十分煮沸しておき、梨自体もシロップともども加温消毒します。
温かいうちに瓶に詰めたら、再び熱湯で抜気します。

シロップで煮込んで・・・