県内の弘法山古墳が日本最古級か?

7月4日の信濃毎日新聞の記事です。
たまたま買った同紙に気になる記事が載っていました。

松本市の国史跡「弘法山古墳」が発掘調査の結果、日本最古の古墳の一つであることがわかった、とのことです。

2026年7月4日付信濃毎日新聞より

これまでは3世紀末から4世紀初頭にかけての構築で、東日本最古級とされてきたのが、50年程さかのぼるというのです。
大和朝廷設立以前の構築といい、大和朝廷の影響下にあるものではなく、東海地方の影響下に増築されたものだといいます。

信州が石器時代の列島の中心地のひとつであり、黒曜石が発掘され、列島の隅々はおろか、大陸まで流布していたことは歴史上にオーソライズしています。

また、古墳の現存数が全国のトップクラスであることも事実であす。
千曲市にある森将軍塚などは、巨大な前方後円墳できれいに整備公開されており、見てびっくりしたことがあります。
ただし古墳の主は特定されておらず、地域名である「森」を、便宜的にその名に冠している状況です。
このように現在の住所を冠した古墳は県内にいくつもあるようです。全国有数の古墳数を誇りながら、あまりに歴史的解明が進んでいないではありませんか。
日本史における「東国」の、解明の遅れというか蔑視ぶりがうかがえます。

諏訪大社の起源や縄文時代の遺跡を見ても、県内に大和朝廷以前の、また日本書紀神話以前の文化文明があったことは事実です。
そのことが3世紀後半以降の中央集権勢力にとって都合が悪かったのでしょうか。
その流れをくむ、日本の権力構造にとって、日本書紀神話を覆す歴史的事実はオーソライズしたくないのでしょうか。

今回の弘法山古墳の記事もおそらく全国に広まらないままとなる気がしてなりません。

令和8年畑 ジャガイモ収穫

ジャガイモを掘りました。
4月に1キロの種芋を植え、発芽後に間引きを1回、土寄せを1回しました。
無肥料です。
花が咲かないまま、地表部が枯れた7月20日過ぎに収穫しました。

スコップで掘り返してみると、中型の芋が一つ二つ出てきます。
間引きのおかげでしょうか、ピンポン玉ほどの小粒はあまりありません。
かといって中型以上の玉も多くありません。

全部で2キロから3キロの収穫です。
まあまあというべきか、失敗というべきか。
無肥料だとこんなもんでしょうか。
花が咲かないのがまずかったのでしょうか。

日に当てないようにして乾かしてから、自宅に送ったり、夏の来客に提供したりしようと思います。

収穫全量

ピクルスの季節到来!

山小舎界隈での食品加工は、一時のジャム、コンポート一辺倒から、ピクルスへと静かに移行しているようです。
加工素材が高価な果物から、畑で収穫する野菜や、安価な農産物に代わっています。

ショウガのピクルス

ガリのことです。
初夏は新ショウガの季節です。
ネットを見ていたら、ガリの作り方が出ていたので試してみることにしました。

新ショウガをスーパーで購入します。

軽く皮をそいで薄切りにしてゆきます。
切ったものを、これまた軽く塩ゆでします。

ネットのレシピ通りにピクルス液を作ります。
寿司屋のガリの味を想定して、コンブなどを入れ、和風に味付けします。
ショウガをピクルス液に入れて加熱します。

瓶詰めして抜気します。
和食の付け合わせとします。

インゲンのピクルス

畑で大量のインゲンが採れました。
ほぼほぼの量を山小舎おばさんに託して自宅に持ち帰ってもらいましたが、それでも相当な量が手元に残りました。新しいうちにピクルスに加工します。

ネットで手順の確認です。
洗浄の後、塩ゆでです。
硬いインゲンの皮にピクルス液が染みやすくするためと、殺菌のためです。

ピクルス液は洋風に仕上げます。
酢のほかに、ローリエ、ホールの黒コショウ、ニンニク、とうがらしなどを加えて加熱します。

消毒した瓶に、熱々のインゲンを詰めておき、ピクルス液を流し込みます。
抜気して出来上がりです。

オードブルの1品のほか、洋風のソテーやシチューの材料とします。

キューリのピクルス

1週間も畑から離れると、キューリはその巨大な姿を現出させます。
単に姿が太いだけではなく、実の中心部には種が詰まっています。
食用に供さない種は取り除いて加工しなければなりません。
種を除けば、ほかの部分は十分食べられます。

太いキューリを2本用意します。
半分に割ってスプーンで種をかきだします。

保存瓶は中瓶にします。
瓶の丈に合わせてキューリをカットします。
2、3分塩ゆでします。
殺菌のためです。

洋風に仕上げたピクルス液を、瓶に詰めたキューリの上から注ぎます。
ピクルス液の黒いコショウの粒、赤いトウガラシ、ローリエの葉っぱがアクセントです。

ピクルスの定番のキューリはオードブルの主役です。

令和8年畑 収穫本格化!

畑は酷暑の季節を迎えました。
夏野菜の収穫が本格化しました。

ハックルベリーの実がなっている

心配したズッキーニの結実。
見様見真似で人工授粉を施したところが、1本、巨大ズッキーニが成りました。
久しぶりの巨大な実です。
これからは自然受粉してくれないかな。

巨大なキューリとズッキーニ(右)

1週間ぶりの畑には予想通りに巨大なキューリがぶら下がっています。
これらは収穫後、実を半分に割って種をスプーンでかきだした外側を、ぬか漬けやサラダで使います。
味は青臭くて新鮮でおいしいです。

収穫を待つキューリ

トマトは大玉の実の太りがイマイチです。
ミニトマトは例年通りに株の育ちもよく、実の味も濃くできました。

同トマト

インゲンがどの株も育ちがよく、実の成りが順調です。
収穫が凄いことになりました。
山小舎おばさんのお土産に持って帰ってもらいます。
残りはピクルスに加工、煮つけにして食べます。

インゲンの山

そろそろ3回目の除草の時期がやってきました。

トマト
ナス、ピーマンなど

上田映劇で、ロベール・ブレッソン傑作選

NPO法人上田映劇が経営する、大正年間より現存する木造映画館・上田映劇。
支配人は上田高校から日大芸術学部大学院を出てUターン。
営業停止していた上田映劇を再興して今に至る。
昨年には信濃毎日新聞の表彰を受けた当地の文化人。
何より映画館1館(姉妹館トラムライゼと併せて2館)の常時上映を継続しているのが凄い。

上田映劇の玄関
現存木造シアター、上田映劇の雄姿

ミニシアターとして分類される上田映劇では、シネコンでは上映されない新作のほか、再輸入された旧作洋画が主な上映作品。
この再輸入洋画には、ベルモンド傑作選、ルノワール作品、ブニュエル作品、「黄金の七人」、ミムジー・ファーマーの70年代の代表作、などなどがある。
キングレコードなどが、旧作をデジタル素材で再輸入・配給したもので、映画ファンの琴線に触れるプログラムだ。

次回上映のポスター

今回は、ユーロスペースなど二つの業者による配給により、ロベール・ブレッソン傑作選として5作品が公開された。
上田映劇でも上映され、そのうち2作品に接することができた。

ロベールブレッソン傑作選のチラシ
チラシより

「スリ」    1959年     ロベール・ブレッソン監督    フランス

「抵抗」(56年)とともにブレッソンの名を日本にも広めたのが本作。
生涯にわたるブレッソンのスタイルは、本作でも確立、踏襲されている。

現代のパリ。
インテリだが、不景気と自身の社会性のなさから無職の青年がいる。
実家には病弱の母親が一人。
いよいよ生活に困った青年は、調子が良いくらいに社会適応性のある友人にバイト先の紹介を頼む。
ところが青年は、友人の紹介するバイトではなく、スリの世界に入り込み、重大はピンチもないまま、器用なその手先を使ってスリで稼ぎ始める。
一方で、寝たきりの母親はアパートの隣室の娘の介護を受けつつ死んでゆく。
母の死に痛痒を感じないわけではない青年だが、母の面倒を見てくれた娘に愛着を感じる。
やがて警察に捕まり、投獄された青年は、面会に来た娘に愛を告白する・・・。

ブレッソンのスタイルは、後年の説明を極力省いたものと少し異なり、巻頭に「この映画は刑事ものではない(中略)自らの弱さによってスリという自らにふさわしくない冒険に駆り立てられた若者の悪夢である(攻略)」という字幕が入る程度に説明的だ

「刑事ものではない」、と断りは入るが、画面に映る50年代のパリの街頭風景は時代を映し出しているし、刑事らしくない刑事(素人俳優)の登場も、ねらってはいないのだろうが緊張感を画面にもたらす。
劇映画としてスリリングな作品でもあり、何より紛れもない50年代のフランス映画のテイストを感じさせる。

一方で、素人俳優の主人公は、象徴的なセリフと具体的な動作に徹したふるまいで、『行間の芝居』や『伏線』『心理的芝居』からは隔絶した存在である。
泣きの芝居も、怒鳴りも叫びも、アクションシーンもない。
ヘンリー・フォンダとモンゴメリー・クリフトを合わせたような風貌で、どっちつかずの戦後世代のモラトリアム的行動を淡々と行うだけだ。
その具体的な振る舞いが、青年の奥底にある虚無感成り、閉塞感を浮き上がらせる。

母親を介護する謎の女を演ずるマリカ・グリーン(のちに職業女優に転ずる)は、主人公以上にその人物についての背景説明はなく、クールな美貌を無表情に見せるだけで、セリフも更に少ない。
美貌のタイプがブレッソン映画のヒロイン(「白夜」(69年)、「湖のランスロ」(74年)の素人女優にも、「バルタザールどこへ行く」(66年)のアンヌ・ヴィエゼムスキー、「やさしい女」(69年)のドミニク・サンダ;どちらものちに職業女優、にも似ている)に共通しているところが興味深い。

感情表出を排し、動作にのみ専念した演出は、スリの手口の物理的な描写に象徴的にみられる。
スリという動作の非日常性を強調するためでもなく、またスリルを盛り上げるものでもないその機械的で、記録的な描写がブレッソン映画のスタイルなのだろう。

ちらしより

『この世には法律を超越してもいい人間がいる』と内心思っており、刑事にもそう主張する主人公。
西欧思想のエリート主義なのか、あるいはキリスト教思想を源流としたものなのか。
筆者から見ると単なる優柔不断で中途半端なモラトリアム思想にしか見えないが、そういった主人公の精神を人間性として取り上げるのもブレッソンのテーマなのだろう。

もう一つのテーマがキリスト教上の神の救い。
ラストで刑務所で面会する主人公と娘がお互いの愛情に気づき、荘厳なテーマ曲が二人を包む。
出口の見えない虚無に陥っていた主人公に射す一筋の光。
『神の救い』はブレッソン終生のテーマであったようだ。

「少女ムシェット」   1967年   ロベール・ブレッソン監督   フランス・ゴーモン社

製作はゴーモン社のアナトール・ドーマン。
「二十四時間の情事」(59年 アラン・レネ)、「男性・女性」(66年 ジャン=リュック・ゴダール)、「愛のコリーダ」(76年 大島渚)の製作者だ。
ブレッソンとは「バルタザールどこへ行く」(66年)に次いでの仕事となる。

59年制作の「スリ」と比べると、ブレッソン映画の変わらないところと変わったところがあるのに気付く。

変わらないところは、素人俳優の起用(過剰な芝居の排除)、最小限の音楽、ロケの多用(本作はオールロケ?)、突き放した社会描写、キリスト教的背景など。

一方で、本作で見せたバリエーション的変化は、ブレッソン好みの神秘的なヒロインが不在なこと、高踏的・精神的な存在の不在(地方の寒村が舞台なので)といったところか。

本作の主人公ムシェットは村のつまはじき。
ぼろを着て学校には通っているが学友には相手にされていない。
悪ガキには性的嘲笑の対象にされる。
学友に対しては泥だんごをぶつけてうっぷんを晴らす。
頼みの母親は寝たきりで、家事と生まれたばかりの弟の世話は、ムシェットにかかっている。

健気な少女の奮闘物語という設定とは正反対に、ひねくれているムシェットは、学校では教師に逆らって目を付けられ、家では.朝のカフェオレの準備を、牛乳をこぼしながら雑に行い、弟のおむつ替えでは手を抜く。
家族を含めて誰にも一人前に扱ってもらえないムシェットは生活全般が投げやりだ。

村は現代フランスの農村なのだが、走っているトラックは古く、ひょっとして戦前なのかと思わせる。
休日に賑わう遊園地の遊具を見ると、60年代後半の時代設定のようだが。

村で唯一の社交場のカフェに集まり、店員の若い女性に言い寄る村の顔役。
ムシェットの父と兄は、密造酒をカフェに卸して日銭を稼ぎ、帰ってきてはそのままの姿でベッドにもぐりこむ。
ムシェットにとっては夢も希望もない、無知であさましい村の現実だ。

チラシより

或る夜に家出したムシェットは、森の番小屋で一夜を過ごし、癲癇持ちの密猟者に襲われる。
ショックを受けるムシェットだが、人に聞かれると密猟者のことを「私の恋人」と答える。
初めてまともに相手をしてくれた人物だったのだ。

母親が死に、村のおばさんたちはムシェットに同情の言葉をかけ、朝食を出したり、いらなくなったドレスを恵んだりする。
ムシェットが、コーヒーカップを落としたり、しおらしい反応をしないと、「ふしだらな娘」「神に反した行い」だと手のひらを反す。

とっくに他人に期待することなどなくなっていたムシェットは、一人になってドレスを広げる。
ムシェットがドレスを体に当てて坂を何度も転がる。
そのまま池に落ちる。
画面には讃美歌のようなテーマ曲が流れる。
巻頭に続いて2回目のBGMだった。

原作があるとはいえ、貧しく夢のない背景描写が徹底している。
主人公はとても映画の主人公になるような美少女ではないし、周りの大人も誰一人彼女を導く人物ではない。
かといって作為的に悪意のある人物などもおらず、ひたすら現実的で救いのない描写が続く。

映画はムシェットに同情的な描き方はしない。
それどころか、これでもかとムシェットのダメなところ嫌なところを描く。
それでも神の救いはムシェットにあった。
彼女が死んでから。

山小舎に(半年ぶりに)丸太が来た

燃料用の丸太が来ました。
半年ぶりです。

運ばれてきた丸太の山

これまでの約10年間は、別荘地内の伐採業者が、不要の丸太を運んできてくれていました。
無料でした。

その業者が廃業し、代わった業者は別荘地内の空き地の伐採を入札していないため、頼んでもこちらに来る丸太はなかったのです。
購入するといえば別ですが。

それが突然、トラック3杯分の丸太を運んできてくれました。
その業者にとっても、うちの山小舎付近の現場で大規模な伐採があり、その下請けをした関係から、雑木の処理の必要が生じたのでしょう。

到着は早速玉切り開始

シラカバ、マツ、キハダ、桜などの雑木が久しぶりに空き地に積まれました。
丸太があってこその山小舎です。

今回はサービスとのことです。
次回からは手数料がかかるようです。
別荘地内での丸太入手も、費用が掛かるようになってきました。

切った玉は軽トラに積んでヤードへ運ぶ

早速玉切りして、ヤードへ運びます。
とりあえず、燃やした分の薪は補充できそうです。

チェーンソーオイルの値段が爆上がりし、せちがらさが信州の山奥まで浸透してきた昨今ですが、山小舎暮らしは薪づくりがないと始まりません。

新しい軽トラも大活躍

裏の川の増水に対処

6月下旬から78月にかけて雨が続きました。
裏の川の流れが発生しました。

山小舎の浄化槽工事があった側の、法面を下った場所です。
国有林との境が小川になっています。
普段は流れがありません。
大雨が数日続くと、場合によっては轟々と音を立てて流れが発生します。

流れが発生した裏の川

山小舎では地面の流失を防ぐためにも、数年前に自力で土留めを作りました。

今日は流れをスムースにしようと、小川から落ち葉などをさらうことにします。
流れは収まってきています。

数年前に作った土留め

レーキをもって川に下ります。
流れは氾濫まではしていません。
小川の岸は原型通りに流路を形成しています。

ところどころにたまっている落ち葉を岸に引き上げます。
ゴミがあれば取り除きます。

たまった落ち葉
レーキで落ち葉やごみを掬う

倒木や枝が流れを阻害していることもあるので取り除きます。
川の上を横切っている倒木はチェーンソーでカットします、まだまだ薪で使えそうなので玉切りして運ぼうと思います。

倒木もある
ナラの倒木
倒木は玉切りして運ぶ

今度流れが復活するのは、秋の台風シーズンでしょうか。

七夕飾りで DIY!

7月7日が近づいたある日、思い立って七夕飾りを作ることにしました。

作るのは、自らの幼い日のころと、子供たちが幼かった時以来でしょうか。
自らも齢70となり、来し方行き先も定まりつつある中、大事にすべきものごとの順番がわかってきた、のでしょうか。
かつて身近で経験した、風習や行事などが特別に懐かしく、大事なものに感じられるのです。

先ずは材料集めです。

竹を切ってきます。
麓へ下りて走っているとちょっとした竹藪がいくらでもあります。
手ごろな1本を失敬します。
短冊用の折り紙は、孫に用意したものが山小舎にあります。

竹を用意する

折り紙で鎖を作ります。
なるべくカラフルに、金銀の折り紙も使って。

折り紙を切って鎖づくりの準備
カラフルな鎖が出来上がる

短冊は折り紙を切って。
糸をセロテープで貼って出来上がりです。

短冊に切った折り紙に願い事を書く

子供でもいれば、ボンボンや天の川などの飾りを買ってきて賑やかにするところです。
新聞紙で天の川を作ったことがありましたが、作り方は忘れました。
野菜を模した飾り物なども売っていましたっけ。
短冊に事い語を書いてぶら下げます。

竹に鎖をセットする

まだまだ寂しい七夕飾りですが、何十年かぶりでの七夕飾りです。

短冊をぶら下げて出来上がり

生まれ故郷の北海道には竹がないので、柳で代用していました。
子供のころは浴衣を着て、提灯をぶら下げ、近所を回ってろうそくを集めたことを思い出します。
北海道の七夕は月遅れの8月7日でした。

軽トラ流れ旅’26 あゝ野麦峠

7月に入っての流れ旅。
岐阜との県境にある野麦峠へ行ってきました。

野麦峠はかつて、松本や諏訪と飛騨を結ぶ主な峠道でした。
小説と映画の「あゝ野麦峠」の舞台です。
飛騨地方の娘たちが岡谷の製糸工場へ雇われていったときの通り道です。

深い山を分け入るルートで、現在では車道が開通していますが、通行量はほとんどありません。
長野と岐阜の行き来は、ここより北にある安房峠と安房トンネルが一手に引き受けているようです。

工女たちが通った古の峠道を見たくて、朝の時前、野麦峠に向けて出発しました。

中山道・奈良井宿

山小舎から野麦峠へは、まず、塩尻へ下りて国道19号線を南下します。
塩尻の町を過ぎ、郊外の葡萄畑が広がる景色を過ぎると、道は山へ分け入ってゆきます。

国道19号線を行く

中山道(国道19号線)の宿場の一つに奈良井宿に通りかかります。
明治以前の景観が保存されている宿場です。

中山道奈良井宿

狭い間口の家が、つながるように並んでいます。
格子戸や窓を持った家々です。
その景観は時代劇映画のセットのようです。
現在は、住居のほか、宿だったり蕎麦屋カフェだったり、漆器を売るお土産屋などとして利用されています。

奈良井宿の景観

見事な景観ですが、江戸時代から変わらず保全されていたわけではなく、昭和の末期に、景観保全の補助金が出るようになってから、外観を改築・整備したとのことです。
各戸の申請を国が審査して補助金が下りるまで2年くらいかかったそうですが。

営業している建物が多い

田圃が作れず、木材など山の産物があるだけの土地なので、たまたま近年まで多くの景観が残っていたこともあったのでしょう。
今ではインバウンドも含む観光地となっています。

店の前で立ち止まるインバウンド

木祖村、松本奈川を通って野麦峠へ

奈良井宿の観光を終え、駐車場のおじさんに野麦峠までのルートを聞きます。
「野麦峠?お助け小屋に行くの?」と言って詳しいルートを教えてくれます。
「今日はどこまで行くの?岐阜の方へ下りちゃったら?乗鞍に行くの?スーパー林道通るんだね?」と地元情報満載の受け答えです。

ここから先は、道路標識があまりないルートです。
おじさんに教わった通り、国道から県道に入ります。

木曽川の源流の村をキャッチフレーズにしている木祖村を通ります。
地元のスーパーがあったので寄ります。

スーパーで買った助六寿司
葉っぱに包んだあんこ餅。4つで230円ほど

海苔巻きとお稲荷さんのパックとタケノコに煮物を買います。
木の葉でくるんだ珍しいお餅があったので買ってみます。

ぐっと交通量の減った県道を行くと、境峠というなだらかな峠道を越えて松本市奈川地区に入ります。
山に囲まれたひっそりとした地区です。
奈川からは野麦峠までの1本道に入ります。
両側から山が迫り、対向車もなくひっそりと湿った山道が続きます。

やがてロードサイドに、石をアーチ形に組んだトンネルのようなものが見えました。
軽トラを止めて案内板を見ると、冬の野麦峠越えの旅人を凍死から守る室とのこと。
かつての峠越えの厳しさがうかがえます。

峠道の石室

帰りはこの道を引き返すのか?と暗い気持ちになっていると峠に到着しました。
ここからは岐阜県です。
広めの駐車場とトイレがあります。
あゝ野麦峠のモチーフを模した像が建っています。
少し離れたところに「お助け小屋」があります。

峠に建つ像
お助け小屋全景

古民家のような造りのお助け小屋は、広い座敷と食堂、展示室を持った木造の建物です。
展示室には映画「あゝ野麦峠」の資料、出演者の色紙などが展示されています。
野麦峠を行き来して黎明期の日本資本主義を支えた工女たちを題材にした絵画も展示されています。

展示室
山本監督らのサインも
展示室の絵画とマネキン

折角なのでほかに誰もいない食堂で蕎麦を注文。
食堂に展示されている映画のロケ風景を模した水彩画などを見乍らいただきました。

食堂の正面に明治時代の女性の写真が飾っているので食堂のおばさんに聞きました。
彼女こそが「ああ野麦峠」のモデルとなり、映画では大竹しのぶが演じた政井みねという工女さんなのでした。

食堂にかかる、政井みねさんの写真
お助け小屋のそば。具には地元の漬物が乗っている

お助け小屋から10分程度で登れる展望台へ行きました。
政井みねさんが故郷の飛騨を、亡くなる前に一目遠望したという場所だそうです。
観音像が立っています。

展望台の観音像
展望台から望む飛騨の山々

乗用車とバイクが常に数台入れ代わり立ち代わり停車している駐車場を出て元来た道をたどりました。
来た時の登りよりはずっと楽に行けました。

乗鞍高原温泉の濁り湯

野麦峠からの帰り道は松本経由のルートにしました。
奈川に下りてから北上し、松本郊外に出て山形村、塩尻を経て帰るのです。
その前にまだ行ったことのない乗鞍高原に、少し遠回りして寄ることにします。

奈川地区から乗鞍高原へ

ダム湖を見てトンネルをくぐると乗鞍への分岐点に出ます。
山に分け入る道ですが、野麦峠への道よりはずいぶん開けています。

上高地へ向かう沢渡や、駒ケ岳登山口のように、マイカー乗り入れを禁止しシャトルバスで登山客を運ぶスタイルの乗鞍高原。
広い駐車場に軽トラを止めます。
県外ナンバーの自家用車や自転車で遠乗りした人などの姿が見えます。

観光センターで情報入手
雪が残る乗鞍岳

湯けむり館という立寄り湯に寄ります。
白濁したお湯の硫黄臭さがいつまでも体に残りました。
ぬるくていつまでも入っていられるお湯でした。
白骨温泉に似ていました。

立寄り湯へ



映画「あゝ野麦峠」

手許に1979年制作の映画「あゝ野麦峠」のパンフレットがある。
山本薩夫監督、大竹しのぶ主演の東宝配給作品だ。

映画のパンフレット。裏表紙には当時の若い大竹しのぶの姿

クランクインを野麦峠ロケで行い、東宝撮影所内に岡谷の製糸工場を再現したとのこと。

糸とり作業を演じる、手前から大竹しのぶ、原田美枝子、友里千賀子

冬の峠越のシーンでは岐阜県側の地元の中学生も参加したとのことである。

峠越のロケシーン

大門そば打ち教室

山小舎から上田方面に下ったところにある長和町大門地区。
そこの農協集会所でそば打ち教室が開かれています。

去年はバイト仲間が親子で参加していました。
その話を聞いて、今年、思い切って顔を出しました。
5月のことです。

毎月第一と第三水曜日の13時から開かれます。
いきなり、開催日に現地へ向かいました。
正式には役場で申し込むそうですが、現地の主宰者たちは受け入れてくれました。
参加者名簿に記入し、会費1000円を払います。

教室内の講習会風景

突然の参加者に対して、事前の座学も見学もなく、いきなり資材を用意してそば打ちの実践が教授されました。

そば打ちの台や鉢、そば切包丁までを用意します。
そば粉500グラムと小麦粉200グラム、打ち粉も用意します。

わけもわからぬまま、粉をふるい、混ぜます。
混ぜ方にも手の動かし方があります。
混ざったら水を入れて混ぜます。
だんご状のものが細かくなってから、こねてゆきます。
水加減のチェックが入ります。
先生の指導に、問答無用でハイと従って進みます。

そば粉と小麦粉を合わせる

コネの作業に入ります。
中の空気を押し出すような菊練りから、ロート方に先をとがらす練り方を経て、鏡餅のように整形して寝かせます。

水を入れて練る(菊練りをしている)

鉢をどけて練り球を取り出し、のしの行程に入ります。
まずは手のひらで丸く薄く延ばしてゆきます。
それからのし棒で伸ばします。
のし棒の行程は複雑すぎてまだ頭に入っていません。
短い棒で厚いところを薄く延ばし、長い棒で仕上げ伸ばしをするのです。
先生が模範を示した後、マネをするような感じで行います。

そば打ちの段位を持っている先生方がマンツーマンで教えてくれます。
地元の方です。
今まで5回参加しましたが、まだ全行程が頭に入っていません。
しかし、打ったそばは、事実上は先生が打ったようなものなので、美味しいのです。
そば打ち教室に参加すると、8人前ほどの手打ちそばがお土産でいただける形になります。
山小舎に来た彩レデイースにも出し、自宅へのお土産にもしましたが、どちらも大好評でした。

ゆであがった手打ち蕎麦

そば打ちの行程に戻ります。
四角く薄く延ばしたら、粉を打ちながら四つに畳んで切ります。
ちゃんと伸ばすと畳んでもくっつかずに切れて麺になります。
打った分は持って帰ります。

四角く伸ばす(長い棒で角を出している)
切る

丸っきりの初心者は私ぐらいで、ほかの方は自力で思い思いに打っています。
そば打ちの練習を兼ねて、夕食用のそば打ちに来ているのでしょうか。

参加者が多い時は第二弾の講習者もいます。
全講習が終ると反省会と称するお茶樹があります。
地元の方がメインで、なかに移住者や別荘住民が参加しての楽しい情報交換の場となります。

そば打ち教室の幟