中公文庫「されど魔窟の映画館・浅草最後の映写」荒島晃宏著

珍しく新刊書店で手に取ってそのまま購入した中公文庫です。
最近は文庫本も高くて、買うのはもっぱら古本屋ですが、この本は面白そうでした。

本書表紙

かつて浅草六区と呼ばれた場所にあった邦画3本立てとピンク映画。
その映画館の最後の日々で映写技師を務めた著者の著書です。

著者は、自由が丘武蔵野館という名画座の映写技師でしたが、同館の閉館とともに無職となり、ハローワークでの職探しと失業保険の給付ののちに、浅草六区に4つの劇場を有する中映株式会社という興行会社に就職することになりました。

著者紹介

もともとは映画専門学校を卒業し、アニメの脚本家として1本立ちしていましたが、投資の失敗の借金返済のため、定期収入のある職を探していたのでした。

「文化的教養と興味を持つ若者が、生活力はないものの、何とか興味の対象との妥協をしつつ、実社会の片隅で生きる場所を見つけてゆく」的な展開に惹かれて頁を繰ってゆきます。

浅草六区の映画館配置図

浅草の3本立て映画館での映写技師の仕事の様子がつづられます。

その時代、映写機の進歩もあり、1作品通しての上映ができるようになっていた。
それまでは約20分の1巻のフィルムの映写が終わると、間髪を入れず隣の映写機にセットしていた2巻目のフィルムを映写しなければならず、映写が終わった巻の巻き取りもあった。
またフィルム切れやピンボケ、フレーム調整などのため技師は上映中は映写室にいなければならなかった。
が、浅草では1作品のフィルムを全巻つないで1台の映写機にセットすると技師は映写室を離れ、映画館の入り口に立って自動販売機への補充や、モギリ、館内のクレーム対応などに従事するのだった。

当時の35ミリ映写機の雄姿

2週間後に仕事ぶりを認められた著者は、邦画3本立ての浅草名画座から、ピンク映画専門館の浅草新劇への配置転換の辞令を受ける。
新劇開館は海外にも名の知れたハッテン場でもあった。
当然それなりの方々が入場してきて、いろいろなことを行う。
発見次第、注意したり清掃したりするのが新劇場スタッフの主な役目でもあった。
ハッテン場の映画館は興行収入もよく、中映株式会社の屋台骨を支えてもいた。

職員仲間のフィルムのつなぎ風景のイラスト

山小舎おじさんも50代くらいの会社員時代に浅草名画座へ通ったことがあります。
競馬の場外馬券売り場の向いにあった邦画3本立ての劇場で、最初は入りずらく、入ってもまたギャンブル場のような無愛想な虚無感が漂っており、三々五々席を埋めていた来場者は、場外馬券の帰りのようなおじさんばかりで、時々叫び声などが響いてもいました。

浅草名画座正面

慣れてくると、館内の音声も織り込み済みで画面に集中できるようになり、「江戸川乱歩全集・恐怖奇形人間」(1969年 石井輝男監督 東映)、「日本暗殺秘録」(1969年 中島貞夫監督 東映)、「激動の昭和史・沖縄決戦」(1971年 岡本喜八監督 東宝)など、ここならではの作品を見ることができた。

また、併映作品には東映任侠ものや実録ものが多く、「仁義なき戦い・代理戦争」(1973年 深作欣二監督 東映)の後半を見て、忘れていた本作での鉄砲玉、小倉一郎のエピソードに触れることもできた。
広島にあった原爆スラムで後遺症に苦しむクズ屋の母親と、障害者の妹を抱える小倉一郎がやくざの鉄砲玉として利用され自滅してゆく過程を、気弱な若者像の苦悩として描いており、原爆スラムのあばら家の中で、叩いてもブラウン管のザーザーが直らないテレビの描写など、差別された貧困の表現が印象的だった。

なお、各作品とも上映プリントがきれいで鑑賞時に何の苦痛も感じなかったのも印象的でした。

浅草名画座のチラシ

実は山小舎おじさん、浅草名画座のホームページで支配人とメールのやり取りも行いました。
詳しくは忘れましたが、此方の問いかけに「最近の上映プリントの状態は良いことが多い、特に東映は新しいプリントを自主的に焼いてくれる」とか「プリントを借りたくてもできない作品がある。時期によっては松竹が寅さんものの旧作を貸出停止にしたりする」などと支配人が返事をくれたことを覚えています。
この支配人は、本書の著者の荒島さんではありませんが、気さくで好意的な人でした。

浅草新劇場の上映案内

さて、本書に戻りましょう。
劇場のホームページを立ち上げたり、作品解説を載せたチラシを作ったり、また地域の無料ペーパーにコラムを書いたり、と著者は劇場とかかわってゆきます。

2012年、中映株式会社が映画興行から撤退し、全4館が閉鎖されます。
著者は最後の上映に立ち会います。

それに合わせて短編劇映画の製作を行い、デジタル機材(一部8ミリフィルムを使用)で撮影します。
主役2人のほか、ネットなどで募集したエキストラを使っての最終上映会の様子が著書のクライマックスとなっています。

著者制作作品のエキストラが最終上映に集まる

35ミリフィルム映写の実際の記録でもあり、絶滅した浅草での映画興行の実態の最後の記録でもある本書です。
著者の荒島さんは、現在は澁谷シネマヴェーラで映写技師をしているそうです。

裏表紙

小さすぎる旅 小田急線で江の島詣で

「みんなの居場所」彩ステーションを、地元調布柴崎で主宰する山小舎おばさんから、小田急線の株主優待券をもらいました。
山小舎おばさんは、彩ステーションの利用者からもらったとのこと。
小田急線全線有効(下車した時点で無効)の切符が2枚です。
今回は狛江駅から片瀬江ノ島まで使い、江ノ島観光をすることにします。

株主優待券を手にいざ出発

朝9時に自宅を出発。
狛江駅を目指して自転車で走ります。
いつものルートを端折っていったところ、着いたのは一つ新宿寄りの喜多見駅。
初めての駅でした。

朝9時、小田急線喜多見駅に着く

このまま喜多見から、本厚木行きの普通列車に乗車します。
小田急線の駅は京王線と違い、駅舎も大きく、ホームも広い印象です。
踏切はほとんどなく線路は高架上を走り、またホームにはたいがい乗車扉が設置されています。

本厚木行き各駅電車に乗車

喜多見から狛江。
多摩川を渡って登戸、向ヶ丘遊園。
このあたりは駅前が再開発されており、周辺には高層マンションが建っています。
かつての街はずれの風情はありません。
向ヶ丘遊園というと、20年前はロケット型の回転遊具があたりを睥睨して吊り下がっているのが付近の道路から見えましたが、今ではその片鱗もありません。

小田急線は、鶴川街道に沿って走り、新百合ヶ丘、町田、相模大野を過ぎます。
車窓には丘陵地に点在する住宅や高層マンション群、駅周辺の商業施設群が広がります。
相模大野で小田急江ノ島線に乗り換えます。

相模大野から藤沢まで、江ノ島線で海に向かって南下します。
大和を過ぎると沿線に工場や緑地が目立ってきます。
東京へのベッドタウンの景色から神奈川県ローカルの景色への様変わりです。

藤沢で列車の向きが変わります。
スイッチバックというか、電車が反対方向へ進むため乗り換えて片瀬江ノ島に向かいます。
海が近い雰囲気が漂います。
車中には急に中国系の観光客の姿が増えました。

片瀬江ノ島駅の竜宮城のような造りは昔のままでした。
20年以上前に家族と海水浴に来たことがありますが、江の島へ渡るのは初めてです。

片瀬江ノ島駅に着く

弁天橋という江の島と本土?を結ぶ橋を渡ります。
その昔、江ノ島へ渡るには干潮時には歩いて、満潮時には小舟か担がれて渡ったそうです。
現代の弁天橋を歩くのは半分以上が中国人です。

弁天橋から江の島を望む

島に渡り、最初の鳥居をくぐると仲見世が続いています。
サザエやハマグリの磯焼きの香りをイメージしていたのですが、今時の仲見世はソフトクリームや女性向けの小物など、様々な店が並んでいます。

仲見世への入り口に立つ鳥居

江の島はそれ自体が信仰の島であり、辺津宮、中津宮、奥津宮という三社にそれぞれ海の女神さまが祀れれており、島中を上ったり下りたりしながらお参りする場所です。
それぞれの参道には、団子屋、土産物屋、食堂などが点在しており、休憩や食事には困りません。
また、急な登りの場所ではエスカレーターが整備されて100円ほどで利用もできます。

まずは辺津宮へお参り
次いで中津宮へ
中津宮横の弁財天

お上りさんの山小舎おじさんは、1時間半の鈍行電車の旅と江の島での登りに疲れて、早めの昼食を摂ることに。
慌てて入った食堂のアジ・シラス丼は美味しかったです。

茶店でアジ・シラス定食

中津宮に参拝し、奥津宮へ向かうべく島の奥へ進みます。
石段の上り下りの両側に古い茶店が並び、相模湾が見え隠れします。
これが古い江の島の風情なのか、と思いながら奥津宮に参拝します。

奥津宮へ至る道中の景色
相模湾が見える参道に並ぶ茶店
奥津宮でも御参り

さらに下ると眼前に稚児浜という岩場が出現し、江ノ島神社の元となった洞窟へと続きます。

稚児の浜遠景

洞窟へ入場すると、背の低いトンネルの両サイドに、石仏が並び、最深部には修験者による信仰の跡が残っています。

岩屋の入り口
洞窟内の石仏
洞窟の最深部は江ノ島神社の発祥の地

帰りは島を周遊するルートで、辺津宮の鳥居までショートカット。仲見世を歩いて片瀬江ノ島駅まで帰りました。

時間があったので藤沢駅で途中下車(片瀬から藤沢まではスイカを利用)。
湘南の雰囲気を探しつつ、駅前を歩きました。

湘南の都・藤沢駅前の賑わい

駅正面の小田急デパートには「湘南GATE」の文字があり、江ノ電藤沢駅の改札口まで続いています。
デパート建物は江ノ電の所有のようです。
「江ノ電」の存在に湘南を感じることができました。

デパート内のカフェで地元のマダムたちに交じってしばしの休憩。
地下の食品売り場をのぞき、お土産の鳩サブレーを買って帰りました。
鳩サブレーも湘南そのものでした。

江ノ電が所有するビルには「湘南GATE」の表示
ご存じ湘南の銘菓・鳩サブレー

ママチャリ迷走記2025 野川を下って合流地点へ

国分寺市から世田谷区までの間を走る国分寺崖線と呼ばれる崖。
多摩川に並行して走っており、多摩川の河岸段丘なのか、はたまた本州の中央構造線を形作るホッサマグナのようなものなのか。
後者だとすれば、何百年に何センチかの地殻変動の真っ最中でもありましょう。

この国分寺崖線のがけ下に沿って流れる野川は、国分寺駅前の殿ヶ谷戸公園内の池を出発点に、世田谷の二子多摩川で多摩川に合流するまで、小金井、調布、世田谷区などを流域として流れる。

この日は、愛車のママチャリを駆って、調布の神代団地付近から二子多摩川の合流地点まで、野川沿線を走ってみることにしました。

調布大町付近の野川
神代団地を過ぎる

川の両サイドには散歩やサイクリングにちょうどいい舗道が整備されている野川。
この日は好天に恵まれ、歩道には望遠レンズ付きのカメラを持った高齢者の姿が何人か見られました。

舗道の脇には住宅が立ち並ぶ野川ですが、空き地にはベンチが置かれ日向ぼっこにちょうどいい公園になっている場所もあります。

住宅地の風景が続く野川沿いですが、世田谷区の成城に入るとビジターセンターがありました。
入場してみると、野川そのものや国分寺崖線の紹介のほかに、世田谷区が力を入れている空き家の活用に関する情報提供と呼びかけの掲示が目に入りました。

世田谷区成城にあるビジターセンター

昨今の国レベルでの課題にもなっている空き家の活用を具体例の紹介を通して情報共有し、また新たな参加を呼び掛けているのです。
さすが世田谷区だと思いました。
テーマの設定が最先端です。

ビジターセンターではあ木遣り用の実例報告
地域共生の呼びかけも

世田谷区の取り組みに感心しながら先を進みます。
そこに現われたのが次太夫掘公園というところ。
江戸時代に野川の水を用水として利用すべく掘割を作った場所とのことです。

次太夫堀公園入り口の案内図

広い敷地が公園として保存されており、水田や畑が作られています。
昔の農家が数軒保存されており、かまどや機織り機、いろり、農機具などが現役で使用されながら保存されています。

田圃として使われている土地
小学生が遠足に来ていた

ここを舞台にして、木挽き会、藍染め会、機織り会、稲作会などが活動しており、ボランテイアの区民がリーダーとなっているとのこと。
現役感に満ちた空間となっています。

公園内に保存されている古民家の一つ
木挽き会が行っている玉切り

古民家の入り口に貼られたオオカミの魔除けは、青梅の御岳山からもらってくるとのこと。
軒先には鏡開きで割った餅が干してあります。
いずれにせよ本格的な古民家の活用です。
ボランテイアのプロフェッショナルな活動実績はもちろん、区の財政的にも十分な援助がなければできません。
感心しました。

農家の入り口の魔除け
軒先の鏡開き
畑の葉物

野川に戻り走っていると工場のような建物が川の両サイドにありました。
外環道の東名高速との合流工事現場のようでした。
外環道が練馬の大泉でストップして早何十年。
中央道、東名道とつながるのはいつなのか、地上が無理なら地下でつなぐのか。
この先どう完成するのかはわかりませんが、工事は行われているようです。

外環道工事

そうこうするうちに前方に二子多摩川の高層ビル群が見えてきました。
やがて多摩川の土手に到着。
対岸は川崎の溝の口です。

工事のため実際の合流地点を見ることはできませんでしたが、二子多摩川を目的地として今日のママチャリ迷走を終えました。

二子多摩川の高層ビル
野川の合流点近く

小さすぎる旅 西武多摩川線

調布の自宅からゆく「小さすぎる旅」の第一回です。
西武多摩川線に乗って沿線を見てみようと思います。

ママチャリ迷走記で訪れた、新小金井西口商店街のある新小金井駅は西武多摩川線の駅です。
始発のJR中央線武蔵境から終点の是政まで8キロの路線です。
他の西武線につながってはいません。
大正時代に多摩川の砂利を運ぶために作られた線路が前身とのことです。
今は、府中市是政にある競艇場へ客を運ぶための路線でもあります。

多摩川の砂利採取は昭和の時代に禁止されました。
往時を誇った砂利業者も、知っている限りでは調布の鶴川街道わきに工場が1つ残るのみ。
そこも仕入れ先は北朝鮮だと聞いたことがあります。

かつては川魚業、渡し船、観光などで栄えた清流多摩川。
そこでの砂利採取は、映画「あにいもうと」(1953年 成瀬巳喜男監督 大映)に描かれていました。
「あに」役の森雅之が気性の荒い昔気質の砂利人夫を演じていて、撮影当時の多摩川周辺の風景が見られました。
川の土手沿いにラムネや氷などを売るよしず張りの茶店が建っていて、気の荒い川筋衆の縄張りが息づいている風景が画面から窺えました。

いまの多摩川は、清流とアユ料理に遊ぶ人を運んだ京王閣は、占領軍のダンスホールを経て競輪場となり、砂利を運んだ西武多摩川線は競艇場へ人を運ぶ路線となって生きながらえています。

山小舎おじさんの40年ほど前の実体験でも、当時の踏切を残していた中央線武蔵境駅には、ジャンバー姿の一見してわかるギャンブル客が、多摩川線に乗り換えるためにたむろしているような雰囲気がありました。

今の武蔵境駅は駅前にイトーヨーカドーと高層マンションが屹立し、立体交差となった駅ビルにはこぎれいな飲食店が並ぶ駅です。
西武多摩川線への乗り換え通路を見ても、ジャンパー姿のギャンブラーは見当たりません。

武蔵堺駅南口の風景
駅構内
西部多摩川線への案内

是政行きへの電車に乗ります。

西武多摩川線の車両

武蔵境駅出発後、しばし中央本線と並行して走った多摩川線は、左へカーブを切ります。
やがて国分寺崖線を断ち切って下り、多摩川の河岸段丘を何段か下ってゆきます。
沿線の風景は、住宅地から、旧陸軍調布飛行場であった現関東村、陸軍施設から米軍のゴルフ場に接収された歴史を持つ現野川公園、そして国道20号線、中央自動車道へと過ぎてゆきます。

8キロの旅程を終え、終点の是政に着きました。
下車して周辺を散策。
往時の砂利採取現場の名残を漁ってみます。
是政橋が対岸の稲城市とを結ぶ多摩川の土手にも上がってみましたが、当然ながら砂利採取の名残はありません。
ついでに渡し船も、遊覧ボートも、茶店も何もありません、当然ですが。

是政駅ホーム
是政駅付近の風景
多摩川にかかる是政橋の袂にて
是政駅終点の風景

殺伐というか、無聊というか、寂寥というか。
かつて栄えた産業がすっぽりと抜け去った後の廃墟感が漂う空間に、新しいマンションが場違いな雰囲気に包まれつつも建ち並んでいます。

競馬場前駅へ歩く。物流会社の背後に高層住宅

もう一つの多摩川線のハイライト、競艇場へは一駅歩いて向かうことにします。

レースを開催していない競艇場では場外舟券売り場として開場しており、無料で入場できました。
レース開催時の入場料は100円とのことです。

競艇場の入り口

競艇場が見渡せる2階席はサンルームのような温かさ。
そこそこの入場者がいます。
居心地がいいので小一時間過ごしました。

2階の観覧席
観覧席には三々五々の人出が

当たればデカいが、なかなか当たらない。
ついついはまり込んで身上崩してしまうといわれる競艇。
もともと伝統あるスポーツでも何でもない競艇を公営ギャンブルとして、元A級戦犯の笹川良一に胴元を独占させた経緯や如何。
何十年か前にテレビで盛んに流された「戸締り用心火の用心。お父さんお母さんを大切にしよう」のCMには船舶協会会長の笹川が自ら出演していたっけ。

「投票所」ってなんなんだ

テレビに映る笹川の悪党面がすべてを物語るような競艇というギャンブル。
笹川の顔を見てしまった世代には一生の間忘れられない負のイメージをもたらしてくれた、笹川と彼が胴元を務める競艇。

そして彼の「犠牲者」たるギャンブラーたち。
しかし、この日競艇場の2階に鎮座ましますギャンブラーたちは案外堂々としています。
金銭的見返りが極小なので、そこに経済的に満ち足りた奢りと余裕はみじんもありませんが、だれが何を言おうと俺は自分の好きなことをやっている、という自負がその存在からにじみ出ています。
暗く寒い競艇場も片隅に立つ警備員の、誰かの助けを待っているかのようなおどおどした表情はありません。

ギャンブル依存は金銭的リターンを求めてのことではない、という話を聞いたことがあります。
競艇場に集まる方々は別の意味での生きがいを味わいにここに集まっているのでしょうか。
そうだとしたらこの時代、やりたいことを見つけた方々はそれでいいんじゃないでしょうか。
人生の勝ち組として。

笹川良一には全くその気はなかったでしょうが、ある種の方々に生きがいを場を提供できたのであれば、案外その生涯の悪行の何億分の一かは帳消しにできて死んでいったのかもしれません。

競艇場前駅のプラットホームにて

うすら寒い武蔵境に着いて多摩川線の小さすぎる旅を終えました。

ママチャリ迷走記2025 新小金井西口商店街

年末年始のあわただしさが過ぎた1月中旬、調布の自宅で過ごす山小舎おじさんは、ママチャリに乗るのが日課です。
好きなコースは、国分寺から小平を通って武蔵境へ戻るルート。
その途中で新小金井を通ることがあります。

スバルとICUがある一帯へ出ます。
ICU(国際キリスト教大学)はコロナ前はよく構内を通りました。
今は通りずらい雰囲気です。

通称・緑のトンネルを抜けて
中島飛行機の流れをくむスバル
ICU正門

ルーテル学院の前を通ります。
近い将来、社会福祉学部の学生募集を停止するそうです。
牧師さん養成の学科は残るとのこと。

ルーテル大学生門

中近東文化センターという建物があります。
ネーミングに興味を惹かれるのですが入ったことはありません。
この日は開館だというので見学しました。

昭和天皇の弟である三笠宮が、戦後中近東の研究をしていたとのことで、その収集品や、中近東における日本の調査隊の報告、収集品などを展示する博物館です。

中近東文化センターは開館していた

生前の三笠宮のインタヴュー映像が放映されており、西洋文化への関心が旧約聖書を原語で読むことへつながり、旧約聖書のエピソードの原典が中近東にあることを知った、とのこと。

幕末から現在にかけて、中近東との交流、シリア、トルコなどでの発掘調査などでの日本と現地の交流が続いていることを知りました。

文化センターを出てママチャリで北上。
やがて連雀通りという、三鷹から小金井にいたる東西の主要道路を越えると西武多摩川線の新小金井駅周辺です。

連雀通り

小金井市には、JR武蔵小金井、JR東小金井、西武多摩川線新小金井の3駅があります。
一番ローカルで、忘れられたような駅が新小金井です。
駅横の童話チックな踏切を渡ると新小金井ワールドです。

思わずわたりたくなる、新小金井駅脇の踏切

ますます童話チックな駅舎の前には西口商店街が広がっています。

かわいらしい駅舎
西口商店街のアーチ。時計は止まっている

ママチャリで懐かしくも、さびれて人懐っこい商店街を流します。
チェーン店も大型店舗もない、オール個人経営の商店街には、団子屋、魚屋、肉屋、パン屋、電気屋、中華屋、古本屋などが揃っています。
すべて路面店で対面販売の安心のラインナップです。

西口商店街入り口。車止めの向こうに個性的な電気店

この日はまず古本屋の店先を物色。
1枚300円のDVDボックスから2枚をゲット。
高千穂ひづるの凛々しい女剣士姿が見られる「新諸国物語・笛吹童子/紅孔雀」です。
最近経営者が変わり、品ぞろえと店の雰囲気がよくなった期待の古書店です。

古書店尾花屋
店頭にはDVDボックスが。思わずチェックしたくなります
この日のお買い上げ、計600円

昼食は隣の中華食堂へ。
手書きメニューに惹かれて、タンメンと肉まんを注文。
味は日本人の作った中華っぽいもので期待とは違いましたが、居心地の良い店でした。

古書店隣の中華屋へ
野菜たっぷりタンメンと
天然酵母で作った肉まんを注文。写真撮影了解済み

角の団子屋で、看板娘?のおばあさんから、今川焼を買い食いしようと思っていましたが、満腹なので取りやめ。
残念です。

ここも商店街名物の団子屋
奥には看板娘?が控える
こういった店も

最近開発ラッシュで、チェーン店やファストフード店で賑やかな東小金井駅前を通って帰路に着きました。
これからも立寄りたい新小金井西口商店街でした。

孫たちと登る1月の高尾山

1月のある休日、孫一家の誘いで高尾山に行ってきました。

孫一家は初めての山歩き。
孫の母親である娘は幼少時に山小舎おじさんや弟らと高尾山や小仏城山、陣馬山などに行ってます。

風は冷たいものの良く晴れた日。
京王線高尾山口駅に集合。
電車が着くたびにどっとハイカーが吐き出される改札口です。

この日の高尾山口駅

上の孫はともかく、小学1年生の孫は果たして山歩きに耐えられるのか。
心配をよそに登る気満々の様子で登場です。

到着した孫がダッシュ!

高尾山の登山ルートは、ケーブルカーやリフトのほかに、全面舗装のメインルートを多くの人が使いますが、ほぼ天然の登山道が2本ほど伸びています。
それらはケーブルカーの山頂駅や、その上の薬王院などで合流、分散しており様々なルートで山頂を目指すことができます。

6号路という天然ルートで、ケーブルカー駅を目指すことにします。
植林とはいえ、さっそく山のフレッシュな冷気に触れた一行は早くも生き生きと嬉しそうです。

6号路で山頂を目指す
琵琶滝で御参り

ひと汗かいてケーブルカー駅周辺の賑やかな場所に着きました。
ハイカーの数が断然増えます。
茶店や土産物屋が顔を見せ、サル園などもある場所です。

一休みした後は薬王院を目指します。
天狗を祀る高尾山の信仰の場所は、観光スポットでもあります。
線香の煙もうもうとする本堂前は薬王院の名物です。

薬師堂の参道を行く
薬師堂本堂へお参り

さあ、山頂はもうすぐです。

水洗トイレが無料で使える高尾山の山頂。
行楽客で座る場所を探すのも大変です。
ペット連れ、外国人の姿も多く見かけます。
混んでいる割にギスギスしていないのは、環境がいいせいでしょうか。
富士山の姿がよく見えます。

山頂に到着
おにぎりとカップラーメンの昼食
冬の富士山の姿にパワーをもらう

帰りは4号路という天然の道をとおり、リフトを使って下りました。
リフレッシュできた1日でした。
孫たちも山歩きを好きになってくれそうです。

帰りはリフトで

あけましておめでとうございます。

2025年あけましておめでとうございます。

12月中旬に山小屋仕舞いをし、春までの冬ごもりに東京の自宅に戻っています。

家族らとのクリスマス会、年越しをバタバタと過ごしました。

2025年1月の山小舎の夜明け

年々、季節感が薄らぐ日本の年の瀬、正月を感じています。
正月などの年中行事に限らず、クリスマスなどの外来行事(商業的行事)でも、季節感というか高揚感が薄れたように感じられます。

これも社会の経済的盛り上がりの喪失の結果なのでしょうか?
それとも社会の成熟のなせる業なのでしょうか?
それとも当方の感性の減退のせいなのでしょうか?

新年の山小舎

正月3日からは、孫一家と雪遊びのため山小舎で2泊します。
寒そうです。

軽トラ流れ旅 冬の菅平高原を越えて須坂、松代へ

今年最後の軽トラ旅です。

既に12月も中旬を迎えようとしている信州は、寒気に覆われ、山小舎周辺は真っ白に凍てついています。
軽トラの出発前には、暖気運転とフロントガラスの凍結解除が必要です。
万が一のために運転席にゴム長靴を用意します。

アイスバーンの姫木別荘地構内を下り、国道152号線に出ます。
凍結防止剤(塩化アルシウム)の散布で雪が溶け、アスファルトが露出している国道では、麓から乾いたボデーの乗用車が颯爽と登ってきます。
対向して下る軽トラのフロントガラスは、ワイパー部分以外は雪が凍りつき、屋根と荷台は真っ白です。

上田市内を抜け、真田地区を通って、菅平を目指します。
三々五々、車は走っています。
カフェやペンションが営業シーズンを終えている菅平高原の中心部を抜け、須坂との境の峠を越えるとスキー場が見えます。
駐車場に車を止め、ゲレンデをパチリ。
菅平のスキー場はシーズンインの様子です。

12月の菅平高原中心部
菅平のスキー場

心配した須坂への峠道は路面が溶けていました。
雪が除雪されているうえに、凍結防止剤の散布でスタッドレスタイヤであれば通行は十分可能でした。
若干、シャーベット状の雪が路面に残っており、また日陰の路面で一部凍結が見られたかなあ、という状況でした。近年の国道の整備は、大雪の際の除雪と、寒気を迎える際の凍結防止剤の散布が徹底されており、ドカ雪の直後などでなければ(スタッドレスタイヤを履いていれば)かなり通行しやすくなっている印象です。

峠付近の路面

無事峠を下りて須坂市内に入ります。
この日の目的は市内の鈴木養蜂店。
家族で高山村の七味温泉紅葉館を訪れた際、朝食に出たはちみつのおいしさに感動。
由来を聞いたところ、鈴木養蜂店のはちみつと知り、帰りに須坂に寄って求めたのがきっかけです。

須坂市内の商店街

須坂市内の歴史ある町並みの一角に鈴木養蜂店があります。
店の方に、七味温泉での由来などを話して、家族からのリクエストの百花はちみつをセレクトしていると、ストーブをつけながら椅子をすすめてくれ、はちみつドリンクを出してくれました。

鈴木養蜂店

三代目という店主の蜜の採取場所は、須坂周辺、小布施、飯山など。
空気と環境のいい場所で採取していることがわかります。
なお、最近では熊が心配だとのこと。

店内のレイアウト

話してくれたのは、店主の従弟だという女性ですが、百花はちみつをセレクトする際に、結晶が固まったものではなく、トロッとしたものを勧めてくれたり、端数の代金をおまけしてくれたり、サービスでかりんとうとドリンクを袋に入れてくれました。

自宅へのお土産。かりんとうとドリンクはオマケでもらったもの

対面販売の有難さ、当店のはちみつを求めて須坂まで来たストーリーを語っての効用を感じての、心温まるひと時でした。
折からみぞれが降ってきた曇天の須坂を離れ、まだぎりぎり午前中でしたが帰路を急ぎます。

南に下り、今は長野市内となった松代町へ向かいます。
昼食と選果場での野菜物色のためです。

松代の選果場は、初夏にはアンズの、この季節ではリンゴと長芋の売り出しで有名です。
幟を立てて長芋などを売りだし、平日ながら近隣の消費者が買い出しに集まっています。

松代の選果場

立派な長芋が1本で1000円前後。
巨大な白菜や、極太の長ネギの束が手に入るのも信州の直売所のすばらしさ。
チャンスとばかり買い求めます。
もうすぐの山小舎じまいの際に、自宅に持って帰るのです。

白菜、長ネギ、長芋、里芋を購入

思わぬにぎわいの選果場を後に、昼食に向かいます。
松代中心部のニュー街道一という食堂です。
数年前に一度寄ったことがありました。
美味しかったので松代に行った際には寄るようにしましたが、貸切だったり、休業中でその後は一度も入れませんでした。

松代の食堂・ニュー街道一

この日は待望の営業中。
期待して入店します。
カウンターが満席だったので、小上がりへ。
隣の親子はボリューム満点のカツカレーとチャーハンを食べています。
後から来た二人連れは、一番早いメニューは?と聞いてラーメンをオーダー。
先に来たこちらより早く食べ始めています。

店の前に軽トラを止めて入店

山小舎おじさんは思い出のあんかけ焼きそばを注文。
揚げたタイプの麺にたっぷりのあんをかけたもの。
記憶よりかなりボリュームたっぷりです。

辛子酢をかけてモリモリゆきます。
そろそろ食べ飽きようとする頃、大皿の焼きそばがなくなりました。
相席の夫婦は、カレーとラーメンのセットを注文しています。

運んできたおかみさんに、写真撮っていいか?と聞いたところ、一瞬間があり、アップしないでね、とのこと。
数年前に断わって写真を撮った際には、マスターが写真なんか撮ってどうするんだろうね、とつぶやいていましたっけ。

この間に、SNSでアップされて不本意なことがったのでしょうか。
そういうわけであんかけ焼きそばの写真は、撮りましたが掲載しません。

小上がりの壁いっぱいには地元放送局のアナウンサーやらのサインで一杯で、平日でも近隣のお客で満席の店内でした。
チャーハンやカレーもおいしそうでした。
帰りしなは年配のマスターが、ありがとうございます、と一人一人に挨拶していました。

帰りのルートは一般的には千曲川沿いに国道18号線を南下しますが、交通量が多く、信号も多い道です。
行きの菅平高原で道路状況も分かっていたので、松代から真田へ抜ける最短の地蔵峠越の道で帰りました。
路面は全く心配ありませんでした。

今シーズンの軽トラ旅は終了です。
来年はどこへ行きましょうか。

信州ソウルフード放浪記VOL.42 ラーメン大学

ラーメン大学というチェーン店があります。
ロードサイドに建つ、どこにでもありそうなラーメン店の外観です。
道産子ラーメン、札幌ラーメンなどと名乗り、全国にフランチャイズ店を展開し、店では店舗のオーナーが忙しそうに働いているものの、いつの間にか閉店していたりするあれと同じ外観の店です。
このラーメン大学が長野県発祥のチェーン店だということを最近知りました。

「信州おでかけガイド2024-2025」より

1965年上田で創業とのことで、「味噌ラーメンを中心にバラエテイ豊かなラインナップで長野県民を虜にする」とあります。(「信州おでかけガイド2024-2025」より)

これはしまった。
長年信州に滞在しながら今年まで通り過ぎていた!

まだまだ奥の深い信州ソウルフードの世界に、畏敬の念に近い驚きにおののきつつ、上田にあるラーメン大学バイパス店に向かいました。

上田を通る国道18号線は、軽井沢から長野へ向かう主要国道ですが、上田市の中心部を迂回して坂城、千曲方面へ抜けています。
さらにその外側を走るのが上田バイパスで、文字通り18号線のバイパスとなっています。
沿線には大規模なスーパーやホームセンターなどが点在します。
バイパス沿いの住宅も混じる一角に、目指すラーメン大学上田バイパス店はありました。

上田バイパス店の外観

入口に立つキャラクター人形に歴史を感じます。
ラーメン店らしく親しみのある外観です。

入店するとこれが案外落ち着いた雰囲気。
ファミリー客大歓迎のテンホウ(長野県民御用達の中華チェーン店。ソフトクリーム150円がキッズに人気)のような「ヤッツケ感」はありません。
そうかといって、最近のラーメン屋のような「元気」と「若さ」が売りの「ヤンチャ感」でもありません。
仕事途中の大人が寄って落ち着いて食べられる感じです。
店員さんの目配り、サービスも、行き届いている感じです。

キャラクター人形が迎える

平日とはいえ店内は、ボックス席が満席に近く、県民に広く定着している印象。

人気の味噌ラーメンと半チャーハンのセットを注文しました。

味噌ラーメンの具は定番のチャーシュー、メンマ(昔はシナ竹といった)だけではなく、玉ねぎ、もやしなども入っており、それらが単なるトッピングではなく、だしと混然一体となって煮込まれているところに、手作り感、充実感が感じられます。
食べていて「これは県民に愛されてるなあ」と感じました。
提供する側と食べる側の「信頼関係」ということでは、もう一つの信州ソウルラーメンである、ハルピンラーメンと同じオリジナリテイを感じます。

味噌ラーメン

個人の食堂ならともかく、大衆チェーン店で地元客との長年の「信頼関係」を維持しているクオリテイがラーメン大学の強みなのだ、と思いました。

チャーハンも、半チャーハンとしては多めの量と、町中華そのものの味に満足しました。
その量からは、田舎の食堂のお約束でもある「お客には腹いっぱいになってもらおう」という心意気を。
またその味からは、「内容的にも妥協せず、レベルを維持しよう」という、町中華店としての理念を感じます。

半チャーハン

ランチのセレクトに間違いのないチェーン店です。

新たな丸太が到来! 極寒の薪割り

12月に入っての戸外作業はするものではないことを痛感しながら、雪の中で薪割りを再開します。

根雪を予感させる、さらさらの白銀の世界です。
薪に付着した雪は、溶けかかっているわけでも、手でサラサラと払い落とせるわけでもなく、凍りついています。
思わず、話に聞いたシベリア抑留での冬の森林伐採作業が頭をよぎります。

雪の中で始動を待つ薪割り機と玉の山

冬の日差しが雪面にキラキラ反射するなか、わが薪割り機が排気ガスを噴射して始動します。
まったく頼りがいのある機械です。

己の水分で凍り、くっついた玉を、蹴っ飛ばしてから薪割り機に乗せます。
割った薪を、軽トラの荷台に放り投げます。

サラサラの冷たい雪の中で奮闘する薪割り機

作業の段取りは、軍手の上に厚手のゴム手を履きます(手袋を「履く」というのは北海道弁です)。
軍手だけで雪中作業をすると手が濡れてとんでもなく冷たくなり、作業を継続できません。
また、足元の長靴は事前にストーブのそばで温めておきます。
玄関などに置きっぱなしにした長靴は、たとえ濡れたりしてはいなくても、冷え切って足先を強烈に凍らせるからです。

雪の作業で必要なゴム手。指先が破れている
長靴をストーブのそばで温める

シベリア抑留はともかく、子供のころ旭川で遊んだ冬の日の防寒事情が、60年ぶりに思い出されます。

さて、軽トラの荷台に積んだ薪をどうしましょうか。
本来ならこのまま斜面下の乾燥台に運びたいのですが、雪の斜面で軽トラを使うとしたら、下りはともかく、登る時のスタックが当然予想されます。
でも、人力で雪の積もった斜面下に運ぶとしたら、絶望的な労力が必要です。

ここで北国育ちの山小舎おじさんのカンが発動します。
「今日の雪の状態、積雪量、斜面の角度、軽トラ四駆の能力を勘案すると、軽トラの使用は可能。スタックしたら、車輪に板か毛布をかませて脱出しよう。」
ということで軽トラを雪の斜面に突入させました。

軽トラで斜面下の台に薪を運ぶ

案ずるより産むがやすし。
登る際に多少蛇行はしたものの、スタッドレスの四駆がしっかり雪を噛み、無事軽トラは役目を果たし、山小舎おじさんを感激させました。

無事雪の斜面を登り切った軽トラのタイヤの跡

さあこのまま薪割り作業で突っ走るぞ、と意気込んだその時。
それまで黙々と木材に刃を割り込ませていた薪割り機が、へなへなとストップしました。
硬い場所や節の部分に当たった時に、エンストするのはよくありますが、そうではないときのエンストは初めてです。
エンジンをかけようと、チョークやアクセルを駆使しても発動しません。

「はい、今年の薪割り作業終了!」。
山小舎おじさんの心の中でファンファーレが鳴り響きました。
甘味な安心感を伴った体の叫びです。

「休憩して、それでもエンジンが作動しなかったら、薪割り機を返そう。」。
休憩後もエンジンは動かず、機械を管理事務所に返しました。

雪の中の薪割り作業

あっさり今シーズンの薪割りが終わりました。
冬を迎えてからの作業の困難さ、無理さ加減を改めて痛感。
苦しく、冷たい中で、機械のご機嫌を取りながらの作業からの解放を体は喜びつつも、仕事が残った中途半端さも感じざるを得ませんでした。

しかし、まだ最後の仕事として、割り残した玉の山を、隣地から山小舎の敷地内に運ぶ作業が残っています。