山小舎周りの草苅り

草刈り機も今年の始動は済んでいます。
畑の草刈りで使いました。

山小舎周りの雑草が目立ってきたので、草刈り機を使おうと思いました。
畑と違い、凹凸に飛んだ地形で、雑草も柔らかいので、草刈り機の刃をヒモに取り替えようと思いました。

草刈り機のヘッドの刃を取り外し、ヒモ用のアダプターに付け替えます。
部品を駆使して何とか稼働するように付け替えられました。

草刈り機のヘッドをヒモ用に替える

ヒモの場合は、刃と違って格段にきめ細かく刈ってゆけます。

ただ、ヒモは刃と違って、細かな石などを吹き飛ばすので、窓ガラスの近く、特に左後方のガラスには注意します。ベランダ近くを刈る時には出力を下げます。
そうじゃない場所では出力を上げて、強めの草も刈れるようにします。

窓際は注意して刈る

切れた草があたりに飛び散りますが、放っておきます。
晴れれば乾くし、雨が降れば流れ去ります。
玄関先だけは箒で掃いておきます。

細かな段差などにも対応した草刈りができる

石段の角だったりもヒモが届くところの草は刈ってくれるのがいいです。
山小舎周辺が格段にきれいになりました。

「手入れした感」の山小舎周辺

チェーンソー始動!

今年もチェーンソーが始動しました。

物置の燃料・オイル置き場を開けて準備

一冬休んでいたチェーンソー。
去年も伐採や玉切りで大車輪の活躍でした。

雪が降ってからも稼働していたチェーンソーです。
数か月ぶりに取り出してみると、木くずが付着して、使い終わったままのような状態でした。
仕事仕舞いの際に、燃料は燃やし尽くしてしまったはずですが、分解掃除はしていなかったのです。
寒くてそれどころではなかったようです。

今年買ったガソリンで混合燃料を作ります。
オイルを入れて燃料を充填。
始動をかけます・・・。
が、なかなかかかりません。

ガソリンとエンジンオイルを準備
混合燃料を作る

燃料をポンプで送り込み、チョークを開けてもダメです。
しばらく休ませることにしました。

数分後に始動をかけてみると手ごたえが。
やっとかかりました。
しばらくは煙が出たり、アクセルをふかすとエンストしたりしましたが、大丈夫です。

オイルと燃料を充填

今年はいつもの伐採業者が休業中とのことで丸太がやってきていません。
今後の供給に不安が残りますが、ひとまず手許の玉や枝の処理があります。
去年、玉に切った後、庭に上げておいたものが一山あります。
これを処理します。

チェーンを新しいものに取り替える

カラマツやシラカバなどの玉を割ります。

斧ではすんなりいかないのがわかっているので、チェーンソーで切れ目を入れます。
切れ目にくさびを打ち込んでハンマーで叩きます。
これで割れるものもあれば、ひびが入るだけのもののあります。
ひびさえ入ればそこに斧を打ち込んで割れます。

チェーーソーで切れ目を入れくさびを打ち込む
ハンマーでくさびを打ち込む
斧も使って割る

割れたものを乾燥台に積み込んで玉処理の終了です。
早くて1年後、2年後くらいから薪として使えます。

乾燥台に積み込む

DVD名画劇場 詩人ジャン・コクトー

ジャン・コクトー

1889年フランス生まれ。
20歳の時に詩集を自費出版する。
ニジンスキーらバレエ関連人脈との出会い、モジリアーニらモンパルナスの画家との交流、シュルレアリストらと対立などの20年代を過ごす。
以降、映画、舞台、小説、脚本、評論などの活動を行う。

コクトーが映画に関わった契機の一つとして、30年代のトーキー初期に演劇界から、マルセル・パニョルとサッシャ・ギトリという二人が映画製作に乗り出した歴史があった。
コクトー自身は32年に「詩人の血」の脚本・監督で映画デヴューしている。
コクトーにとって、トーキー技術を獲得し日の出の勢いの映画は、芸術表現としても商業活動としても時代の先端を行くもので、その出会いは必然だったのだろう。

1943年にはジャン・ドラノワ監督の「悲恋」の原作・脚本で、44年にはロベール・ブレッソン監督の「ブローニュの森の貴婦人たち」の台詞で映画とかかわった。
そして46年には自らの初の商業映画監督作として「美女と野獣」を発表する。

コクトーは「美女と野獣」の製作に当たり、当時の人気スターで、彼が愛するジャン・マレーのために構想を練り、「画家フェルメールの光の使い方」で撮ることをカメラマンのアンリ・アルカンに要求し、美女と野獣の豪華な衣装と神秘的な古城の舞台装置を画家でファッションデザイナーのクリスチャン・ベラール、衣装担当のピエール・カルダンに委嘱した。
終戦直後の時代の観客を美しい別世界へ誘うことを制作動機として。

「美女と野獣」はフランス国内で大ヒットするとともに、46年度のルイ・デリュック賞を受賞し、コクトーの代表作となっただけでなく、次作以降の「双頭の鷲」(48年)、「恐るべき親たち」(48年)、「オルフェ」(50年)などとともにコクトー映画というジャンルを作り出した。

「美女と野獣」は、1948年1月、戦後初めてのフランス映画として日本で公開され、荒廃した当時の観客に大きな影響をもたらした。

コクトーの映画製作上のバックボーンは、20年代のアバンギャルド時代に培われた感性だったといわれる。

コクトーは俳優のジャン・マレーと終生の愛情で結ばれており、映画製作においてもマレーを主人公としたのだった。

「美女と野獣」  1946年  ジャン・コクトー監督  フランス

デイズニーアニメとしても再映画化され、一般名詞化さえしている名作のこれが映像化の原典。
もともとの出典はギリシャ神話をモチーフにした童話とのこと。

コクトー自ら出演するタイトルバック。
黒板に自ら主演者名・タイトルを板書し、『さあ童話の始まりです。開けゴマ…』と自筆のプロローグで物語は始まる。

「美女と野獣」オリジナルポスター

主人公は破産した船主一家の末娘・ベル。
二人のわがままな姉たちに仕え、エプロン姿で床などを拭いている。
シンデレラのような設定だ。
ただしシンデレラと違うのは、ベルには言い寄る男(ジャン・マレー)がいること。
いきなり画面に現れ、ベルにキスを迫る男。
カメラは男を避けるベルと、その豊かな胸元をさりげなくとらえる。

男(ジャン・マレー)の突然の求婚を避けるベル

ベル役に抜擢されたジョゼット・デエはこのとき実年齢32歳。
子役時代から舞台踊り子になり、18歳で舞台の大御所の愛人だったというから根っからのフランス女にして女優。
玄人そのものの経歴なのだが、くせのない美人顔もさることながら、身のこなしのあでやかさ、大事な場面での成熟した色気で、コクトーの起用に応える。

古城で野獣の供応を受ける着飾ったベル

「おとぎ話」に徹したこの作品は、ベルの実家の親兄弟の大げさな衣装や大げさな演技、また俗物性豊かで類型的な人物描写にその寓話性が強調される。

ただしこの映画の真骨頂は、ベルの父親が野獣の暮らす古城へ迷い込んでからの場面に訪れる。
壁やテーブルから腕が生え、燭台を支え、顔が暖炉の一部になっている。
これは古城の召使たちを表現したものらしい。

行く先々で自然に開く扉。
呪文を唱えると客を古城に案内する白馬。
「おとぎ話」らしい映画的表現だ。

古城で一晩過ごしたベルの父親が、ベルとの約束を思い出し、庭のばらを一輪もいだ瞬間、古城の主の野獣が現れ、見るものを驚かす。
野獣は理不尽にも、父親の身代わりをよこすか、それとも彼自身の死を迫るという唐突な展開!
「おとぎ話」的急転回である。
話を聞いたベルは父親の代わりに古城へ向かう、野獣がよこした白馬に乗って。

ベルが白馬に乗って古城に向かう場面。
黒いマントに身を包んだベルが白馬に横すわりに乗り込む。
白馬が歩み始めると敷地の柵が自然と開く。
黒いマントを馬上に垂らして横すわりで行くヨーロッパ婦人のシルエットは、ベルイマンの「処女の泉」を思い出させる。
霧にけぶったヨーロッパの森の静寂、幻想的な神秘性、その中で決然と己を運命にゆだねる娘の凛々しさ。
BGMはこの場面の勇敢さをたたえるかのように勇ましい。

コクトーの幻想的な場面創出はほかにもある。
たとえば古城の廊下をベルが歩くシーンでは、風を受けた長いレースカーテンがはためく長い廊下を、ドレス姿で舞うように歩を進めるベルをスローモーション。
古城の一室を抜けると、ベルの黒い地味なドレスが白い華やかなものに変ってゆくシーンもある。

ちょっとしたリアクションでベルが魅せる、手の動き、体のねじりがもたらす女性のしな。
バレエにもパントマイムにも似たその動きがもたらす何ともいえぬアクセント。

息も絶え絶えの野獣に手のひらで掬った水を飲ませるベル

ジャン・マレー(2役目)が扮する野獣のマスク越しの目の演技がいい。
野獣のマスクが、素の表情による演技を抑制し、野獣の目が持つただならぬ繊細さが際立つ。

ベルの驚いた眼差しが野獣を傷つけ、彼女の愛に満ちた眼差しが野獣を救う。
コクトーが崇拝するジャン・マレーに捧げた芸術家の魂だ。

ジョゼット・デエは、ラストで人間の王子(ジャン・マレー3役目)に戻った野獣を見つめる。
その目は、それまでに誰にも見せなかった、色っぽい流し目で、まさに恋を駆け引きする女の目だった。
これがコクトーの意図したものだとすると、開巻直ぐのマレーに迫られる胸元豊かなカットとの整合がつく。
ベルはただの孝行娘というだけではなく、恋を楽しむ健康的で肉感的な女性そのものだったのだ。
「おとぎ話」のヒロインを逸脱しかねない人間性をコクトーは描いたのか。

野獣は単なる高圧的な暴君ではなく、唐突で自己中心的だが、とてつもなく繊細で傷つきやすく、美的感覚に優れた存在だった。
コクトーが自身に、そしてジャン・マレーに重ねる理想像がそこにはある。

戦前のフランス映画というと、相手役を正面から見つめ、朗々と名セリフを吐く主人公のイメージがある。
対して、コクトーの主人公(野獣)は伏し目がちに愛をささやくイメージである。
そして愛をささやかれた美女は、最後にその流し目で主人公の愛に応えるのだ。

子供っぽく、繊細で純粋で明るさもある作品。

いわゆるフランス映画の黄金時代、クレール、フェデー、デュビビエらの流れとは別系統に、こういった芸術家の意匠あふれる作品が生まれるのがフランス映画の奥深さだ。

終戦直後の1946年に待っていたかのようにこういった作品を作るコクトーには敬意しかない。

「双頭の鷲」  1947年  ジャン・コクトー監督   フランス

コクトーの商業映画第2弾。
脚本もコクトー。

「双頭の鷲」オリジナルポスター

19世紀のヨーロッパの王国。
10年前に国王が暗殺され、王妃(エドウィジュ・フィエール)が後を継いでいる。
王妃は国民に慕われているが、反政府のアナキストや、それらを陰で操る警視総監一派が暗躍している。

王妃は国王の死以降、公の場ではベールをかぶったままで過ごし、舞踏会などにも顔を出さないことが多い。
心許すのは黒人の召使だけ。
その王妃が新任の朗読係と王宮の別宅へやってくる場面から映画は始まる。

王妃が欠席する盛り上がらない舞踏会、敵なのか味方なのかわからない新任の朗読係。
自室で死んだ国王と夕餉の食卓を囲む王妃の部屋に、けがをした若者・スタニスラフ(ジャン・マレー)がなだれ込む。
彼は反体制派のアナキスト詩人で、王妃の暗殺を企てていた。
そして何より死んだ国王に瓜二つだった。

王妃の自室に現れた傷だらけの暗殺者

馬で野山を駆け回り、射撃の腕も確かな王妃だが、スタニスラフを見た瞬間、反撃せず思わずその傷をナフキンで拭う。
突然現れた賊に、「武闘派」の王妃として毅然とふるまいながら、内心の動揺は隠せない。
やがて王妃はスタニスラフに国王の残した服を着せ、新しい朗読係としてそばに置き始める。
スタニスラフの存在は周囲に知れ始める。
スタニスラフは陰でクーデターを企む警視総監が放った刺客だった。
警視総監の戦略ミスは、王妃とアナキストの若き詩人が出合った瞬間に恋に落ちたことだった。

王妃とアナキスト詩人の恋、とはまるで学生演劇のようなシチュエーション。
それを臆面もなく、脚色・演出するのがコクトー。
期待通りの演技を見せるのがジャン・マレー。
このコンビは最高だ。
マレーの登場シーンにはコクトーの思い入れとこだわりが炸裂している。

ヒロインはフランス演劇界の重鎮。
若き日の舞台「椿姫」からベテランになっての本作など、品性ある熟年美人の貫禄を見せる。
演劇での実績、品性ある真の強さ。
「美女と野獣」のジョゼット・デエとの共通性を感じる。
コクトーの女優の好みなのだろうか。

「フロウ氏の犯罪」(1936年)出演時の若きエドウイジュ・フィエール

スタニスラフと出会って王妃は過去を振り返る。
国王が死んでからは孤独と暗殺の恐怖の、死を覚悟した10年間だったと。
そして彼女は自覚する。
愛するスタニスラフと出会ってからは、死を賭けてでも己の信ずる道を行くことを。

エドウイジュ・フィエールとジャン・マレー

「二人(王妃とスタニスラフ)の共通の敵は警察」、「二人は追いつめられた(ただの)男と女」、「二人は対等な関係」、と二人は確かめ合う。
二人は「双頭の鷲」として天国に行っても対等に愛し合おうと誓う。

ベールを脱いだ王妃は、警視総監との対決を決意し、軍服に身を固めて近衛軍とともに都へ進軍する覚悟を決める。スタニスラフとの愛も隠さない。
軍事力で進軍を阻まれたり、あるいはスタニスラフとの関係が国民に受け入れられ無かったら、死ぬまでだ。
不義密通で死罪を言い渡され毅然と引かれてゆく心中ものの吹っ切れた潔さに通ずる。
そこまでいかなくても、夫に死に別れた普通の夫人がいい意味で別な人生を歩み始める、という真理にもつながる。

二人はしかし現生での栄達には至らず、スタニスラフの服毒と王妃の道連れへと結末する。
愛する二人は永遠の愛を得る。

『政治は愛の前に無力だ』ラストのモノローグがこの作品を物語っている。

「オルフェ」  1950年  ジャン・コクトー監督  フランス

「美女と野獣」から4年を経て、すっかり商業映画らしい出だし。
町はずれのカフェに集う若き詩人たち。
カメラがパンしてゆくとジャン・マレーがいる。
コクトー満を持してのジャン・マレー登場シーン、ではない。
ジャン・マレーは、大向こうを張る主役でも、ピカピカの王子様役でもなく、狂言回しのような醒めた現代人の役だ。

「オルフェ」オリジナルポスター

ギリシャ神話「オルフェウス」を現代に翻訳したコクトーの脚本。
死の世界と地上の世界を行き来して物語は進む。

先のカフェに、若い売れっ子詩人を連れて、黒ずくめの女王(マリア・カザレス)が現れる。
オートバイの二人組が現れて詩人をひき殺す。
黒い車に死体を乗せて、ついでに居合わせたこれも詩人のオルフェ(ジャン・マレー)を呼び込んで、車は走り去る。
着いた建物で、女王とオートバイの二人組は鏡をすり抜けてどこかへ去る。
おいてゆかれたオルフェは困惑し、自宅に帰ってからも妻のユリデイス(マリー・デア)の心配も上の空、自分が見てきた世界が忘れられない。

マリア・カザレス

オルフェを自宅に送り届けた、死の国の運転手ウルトビース(フランソワ・ペリエ)がユリデイスを慰める。
コーヒーで接待しようとしてお湯を吹きこぼしてしまうユリデイスの仕草に、ウルトビースの好意を受け止める人妻の心情が表れる。

一方でオルフェは死の国の女王が忘れられない。
ガレージにこもってカーラジオから流れる死の国からの信号の受信に没頭し、懐妊したユリデイスのことも、彼女の友人の助言も無視する。
女王もオルフェを愛しており死の国への到着を待つ。
女王はオルフェを誘い出そうと、ユリデイスを死の国に連れてくることにする。

自転車で出かけて、例のオートバイ二人組に跳ね飛ばされて死んだユリデイスを追って、オルフェはウルトビースに頼み込み死の国へ向かう。
手袋をはめ、鏡を通り抜けて死の国へ入る。
ウルトビースはオルフェに「死の国で会いたいのは、ユリデイスか女王か」と問われ、逡巡した挙句、両方だ」と答えるが、見抜かれている。

死の国では査問会が開かれている。
女王、ウルトビースら死の国の使者たちが使命を果たしているか、違反を犯していないか。
女王とウルトビースは地上での越権行為の疑いをもたれている。
越権行為とは、女王がオルフェを愛して呼び寄せようとしたり、またウルトビースがユリデイスに対する好意を原因としてオルフェを死の国に案内したことだった。
査問会はオルフェに対し、ユリデイスの姿を決して見ないことを条件に地上への復活を認める。

さて自宅に帰ってきた二人だったが、ついてきたウルトビースの手助け無くては一瞬も暮らせない。
決してユリデイスを見てはいけないのだから。
オルフェの心には女王への愛着が占めている。
果たして二人の運命は・・・、そして愛に悩む死の国の女王はどうなるのか・・・。

日本版ポスター

「美女と野獣」「双頭の鷲」の豪華絢爛なコスチュームプレイは、マリア・カザレスの衣装の豪華さはあるものの、舞台は50年当時の現代。
もっとも、コクトーが本当の舞台としたのは「死の国」であり、「死の国」と現代を結ぶ「鏡」に象徴される境目である。

死の国の女王であっても現代の詩人を愛し、死の国の運転手であっても心優しい人妻に好意を持つ。
女王は、査問会の厳罰を受ける覚悟で、愛する詩人の現世的幸せを実現させる。
これは、自然な人間性を賛美するコクトーらしさであり、また人間の尊厳に対するコクトーの己の存在をかけたリスペクトである。

鏡を通り抜けたり、フィルムの逆回しによる生き返りを表現したり、幻想シーンの演出はこれまでのコクトー作品のように思いきっている。

この作品ではまたコクトーの余裕を感じることができる。
例えばオルフェが警察署へ向かう何気ない場面で路上で遊ぶ少女をフレームに一瞬出入りさせたり、ユリデイスの友人に長い黒髪を何気なく振り上げさせる「しな」をつけたり、死の国へ向かう途中の冥界に「鏡売りの男」を登場させたり、コクトーらしい「遊び」の演出があったことである。

マリア・カザレスの黒いマントを引きずる場面の物々しさ、オルフェの死を願う場面でのカザレスの目(瞼に絵で描いた目を貼り付けている)、ユリデイスを死の国に連れてきたときに黒いドレスから白に変る場面(「美女と野獣」でベルが古城の部屋に入る時にドレスが変わる場面と同様)。
カザレスの起用はコクトーにとって、強く、毅然として尊厳に満ちた女性像の到達地点なのだろう。

ユリデイス役のマリー・デア。
シュトロハイムと共演した40年代のサスペンス作品では、おとり捜査に協力する女子大生役で出演し、活発な演技を見せたことがった。
題名は忘れてしまったが、軟弱な変態役のシュトロハイムともども印象に残った。
活発な女子大生役だったマリーさんが、貞淑で理性的な若妻役に成長して元気な姿を見せていたのもうれしかった。

軽トラ流れ旅2025 中央構造線・板山露頭と高遠・弘明寺、遠照寺の旅

今年になって初めて、高遠の弘明寺へ行きました。
再訪です。

茅野から杖突峠を越え、高遠に至る峠道を行きます。
両側を山に囲まれた谷の地形。
集落が途切れ途切れに続きます。

杖突街道沿いの山村

日本の原風景というか、過疎の風景というか。
杖突街道は諏訪側から高遠、伊那方面を結ぶ国道で、自家用車、トラックなどの交通量もそこそこありますが、どの車も先を急ぐばかりで沿線の集落など一顧だにしないのが普通です。

杖突街道に面した集落

いつもはこの杖突街道を高遠までまっしぐら、その時の用事に任せて高遠から長谷へ寄ったり、伊那へ直行したり。この日は、杖突街道の東側を山室川沿いに下る法華道にある弘明寺へ行こうと思ったのです。

街道唯一の直売所は最近閉まったまま

杖突街道を下ったあたりを小豆沢トンネル方面に左折したときに、中央構造線板山露頭という場所がありました。
断層のズレが露呈した場所です。
人気のない鹿よけゲートの柵の向こうに、露頭はあるようです。
「ご自由にお入りください」と書かれたゲートを開け、駐車場(草原)まで軽トラを進め、その後は歩いてすぐ、小高い場所にむき出しの断層がありました。
専門家が見れば「あっ」という場所なのでしょうが、そこはただのむき出しの山襞のようでもありました。

中央構造線板山露頭の案内板
鹿よけゲートを開けて中へ
案内板
露頭が見えてきた
露頭の正面

中央構造線がこのあたりを横切っています。九州から関東まで列島を東西に横断する断層です。
弘明寺は中央構造線の磁力を得て、境内にそのパワーがあふれています。
去年訪れて御朱印を頂き、またエネルギー溢れるというイチョウの木に抱きついてきました。
住職の奥さんらしき女性の尽きぬ話題に時間も忘れたものでした。

奥さん?はイチョウの花を庭で掃いておりました。
御参りしたいというと、掃除を休んで本堂を開けてくれました。
線香をあげつつお話を聞きます。

高遠の弘明寺本堂

戦国時代に織田勢に攻められたとき、武田方の高遠の殿様を裏切れなかった弘明寺の住職は、織田への協力を拒否して寺を焼かれたこと。
その際に本尊は川の対岸に避難したこと。
寺の廊下の天井には玉を加えた龍の水墨画があるので見せてくれたこと。

この地区はかつて水害で集団移住した後に、移住者が入ってきて今では移住者の方が多いこと。

鬼門封じや家内完全のお札は画鋲で貼ってはいけないこと。
などなど。

家内安全のお札

今年は、御朱印ではなく家内安全のお札を頂きました。
これは家の中心部、大黒柱などに貼るとよいそうです。
さっそく帰ってそうしました。

この先、長谷村方面への道の途中に、ぼたんで有名なお寺があると教えてくれました。
その遠照寺というお寺の前を通ると牡丹祭をやっていました。

高遠遠照寺駐車場

高遠町山室地区にある遠照寺。
ぼたん祭に合わせて駐車場には満車に近い状態。
外から境内の賑わいがうかがえます。
入場料500円を払って境内へ。
受付のおばさんがしきりと山門脇の巨木に雷が落ちて、木が裂けたと教えてくれます。
じきに伐採するそうですが樹齢数百年の木です。
もったいないものです。

山門から境内を望む。右の巨木に落雷した
落雷で割けた木肌

境内は和傘が吊ってあって、ぼたんの鉢が所狭しと並んでいます。
なんといても歴史というか落ち着きを感じるお寺です。
高遠に島流しされていた大奥の絵島の分骨された墓もあるそうです。

ぼたん祭
ぼたん祭の様子

お昼の時間が過ぎました。
高遠の町を過ぎ、伊那市に入って今日のランチは久しぶりにソースカツ丼のたけだです。
久しぶりのたけだは、13時を過ぎるころとはいえ、並ばずに入れました。
店内は拍子抜けするほど閑散としており、3組のお客です。
いつものようにあか抜けないサービスとベーコンが入ったぬるめのみそ汁。
ソースの味がこれまでのフルーテイで食べ飽きないものとちょっと変わったような気がしましたが、いつものようにかっ込んで今年最初のソースカツ丼を完食。

伊那のソースカツ丼屋たけだへ
ソースカツ丼

伊那に来たからには、グリーンファーム直売所によって、それから南蓑輪町のファーマーズショップあじーなに寄りました。
あじーなでは加工用のいちごが売っており、完熟のB品イチゴ大箱を買って帰りました。
翌日いちごジャムに加工しました。
この夏の来客のお土産用です。

南箕輪村の直売所あじーな
加工用の大箱いちごを買う

わらび採り

今年もあちこちにわらびが顔を出しました。
自宅に山小舎前のわらびの写メを送ると、山小舎おばさんから「採っておいて」と返事が来ました。
彩ステーションで使うようです。

この先が採取現場

スキー場跡の採取場へ行きました。
プラプラ歩いていると、ケースに一杯採れました。
穂先が二つに分かれたばかりのもの、芽が出たばかりのもの、と色々です。

まずまずの収穫

片手で持ち歩くのが重く感じるくらい採りました。

持って帰って水洗い。
いつまでも穂先の砕けたようなものが出てきます。
ネットで改めて調べると、穂先を取って処理するとありました。
穂先をちぎって改めて水洗いします。

ホースで水洗い

あく抜きは重曹をまぶし、お湯をかけて一晩おきました。
重しもかけました。

樽に入れて重曹をふりかけ
お湯を注ぐ
軽く重しをして

水は青くなりましたが、インクを溶かしたような鮮やかな青ではありませんでした。
何度か水洗いしてあく抜きは完了。

一晩置きました

山小舎おばさんに引き渡すまで、一週間ほど水に漬けて保存です。
水は毎日取り換え、涼しい場所で保存します。

このまま保存します

令和7年畑 ネット張り

キューリや夕顔の畝に、ツルが絡まるようにネットを張りました。

すでにアーチ形の支柱を立てておいた畝に、アーチに被せるようにネットを張ってゆきました。
ネットは山小舎にたくさん余っている、鹿よけにも使える太いものです。
今年はキューリが、乾燥にも負けず、うまく採れますように。

キューリの畝にネットを張る
夕顔などの畝にも
冬瓜の苗

トマトの畝にもアーチ形の支柱を立ててゆき、横に支柱を渡しました。
例年のやり方で支柱を組み、伸びるトマトを支えます。
ミニトマトの苗は盛んに脇芽を出し始めています。
大玉トマトも枯れたものはありません。

トマトの列に支柱を組む。まず1段目

サツマイモの苗を10本買ったので、空いている畝に植えました。
根付くまで枯れずに育ってほしいものです。

サツマイモの苗10本

これまでの気候は、ちょうどいい間隔で雨が降り、酷暑が続くこともないので苗にはちょうどいい塩梅です。
キャベツもしおれていません。
ビーツやシソなどの種も発芽したようです。

直播の枝豆が芽を出した
こちらはインゲン

これからは山小舎でポット蒔きしているトウモロコシの定植、ナスなどの支柱の強化、畝間の除草、枝豆直播の第二段、などを行おうと思います。

落花生の苗は無事活着
ルバーブのトウ立ちはますます高い

DVD名画劇場 戦前ドイツ映画の栄光 レニ・リーフェンシュタールの仕事〈後編〉

ベルリンオリンピックとレニ・リューフェンシュタール

第11回オリンピック・ベルリン大会は1936年に開催された。

当時はナチス党がドイツの政権を握り、首相はヒトラーだった。
ドイツ国内のユダヤ人迫害は始まっており、国際社会(アメリカのオリンピック協会やユダヤ系の有力選手ら)は、ベルリン大会のボイコットも示唆しながらドイツのユダヤ人政策に抗議した中での開催だった。

ドイツはオリンピックを国威発揚の場ととらえ、ヒトラーはベルリン大会の準備を、ドイツ政府のスポーツ・レクレーション委員会幹事を務めてきたカール・デイーム博士に委任した。
博士は前回のロサンゼルスオリンピックを参考にさらに最先端の技術を用いた。
新式の得点表示器、トラック競技の写真判定装置、フェンシングの電気審判器などだった。

また、博士は4000人の選手村の設置も監督し、フィンランドの選手用にサウナ、日本選手団のために畳、アメリカ用にアメリカ式マットレスなどを用意した。

大会の規模、技術的進歩、大衆化などで、近代オリンピックのエポックメイキングとなったのがベルリン大会だった。
映画という媒体に記録され、拡散したことでも画期的な大会となった。

ドイツ政府は、ベルリン大会の記録映画の撮影をレニ・リューフェンシュタールに委嘱し、そのための映画会社(オリンピック映画会社)の設立を認めた。
リーフェンシュタールは、オリンピック映画会社を通じて予算獲得など映画製作を行った形を取ったが、同社の予算は全額がドイツ政府の出資によるものであり、製作準備、撮影なども政府の特別の便宜に基づいていた。

『彼女(リーフェンシュタールは)できるだけ様々な視点から、できるだけ多くの撮影を試みなくてはならなかった。』(「ドイツ映画の偉大な時代』1981年クルト・リース著 フィルムアート社刊 P475より)

「レニ・リーフェンシュタール」リブロポート社刊
同・奥付き

リーフェンシュタールは、撮影に臨んで競技日程、場所などを把握し、綿密なスケジュールを立てた。
メインクルーに6人のプロカメラマンを用意し、ほかに10人のアマチュアカメラマンを観客席に放って観客らの反応を捉えた。
トラック沿いにカタパルト式の移動レールを設置してランナーをカメラでとらえ、風船にカメラを乗せて飛ばした。また、飛込競技を捉えるために水中カメラを開発した。
前もってIOCから、撮影上の様々な規制を受けながらも、フィールドに穴を掘り、選手の感情を捉えるべく肉薄したり、ドラマチックな盛り上げの再現のために実際の選手と役員に競技を再現させたりした。

『彼女(リーフェンシュタール)は、いつも黒いコート姿のアシスタントたちに囲まれて、その白いコートを際立たせていた』(「レニ・リーフェンシュタール 芸術と政治のはざまに』1981年 グレン・B・インフィールド著 リブリポート社刊 P222より)

「ドイツ映画の偉大な時代」フィルムアート社刊
同・奥付き

編集に18か月をかけ、400,000メートルの撮影済みフィルムを、前後編合わせて約6000メートルにまとめて、「オリンピア」は1938年2月に完成した。

「オリンピア第一部・民族の祭典」  1938年  レニ・リューフェンシュタール監督  ドイツ

前後編に分かれて編集された「オリンピア」の前編。
開会式と陸上競技が収められる。

開会式に至る映画のプロローグ。
「意志の勝利」ではユンカースの飛行から、メルセデスオープンカーのパレードまで会場に至るプロローグを流れるようにまとめ上げたリーフェンシュタールは、オリンピックの開会に合わせて、古代ギリシャの彫像から、競技に挑む若者、神に踊りをささげる女性にオーバーラップさせ、成果の点灯からベルリンまでのランナーを象徴的に演出する。
ベルリン大会から始まった、ギリシャ・オリンピアから開催地までの聖火ランナー。
地図上でルートを追い、町々の様子を捉える。
夕暮れの海岸を一人走り続けるランナーは神々に火を届けようとする神話の一場面のようだ。
大会の主宰者・ドイツと記録者・リーフェンシュタールの意志と狙いが一致した場面だ。
ドイツにおけるベルリンオリンピックは当時の政権の権勢発揚だけではなく、国の歴史と尊厳をかけての催しだたことがわかる。

海岸を走る聖火ランナー

聖火ランナーがベルリンのスタジアムに到着した場面。
塔上のファンファーレはともかく、聖火ランナーの背後からスタジアムの門と満員の場内を捉えるカメラは、臨場感がたっぷりに観客らの高揚感が捉えられている。
この場面は撮り直しではないだろうからリーフェンシュタールら撮影クルーの周到な準備と、当日の果敢な撮影が行われたことがわかる。

選手入場はトップのギリシャをはじめ、オーストリア、イタリアなどの友好国がナチス式の敬礼で行進。
意外なのはフランスの選手もナチス式の敬礼だったこと。
軍隊帽をかぶった日本選手団は一般式の敬礼だった。

演出するリーフェンシュタール

いよいよ競技開始。
映画は、円盤投げ、ハンマー投げ、やり投げ、高跳びなどのフィールド競技やトラックの各種目を順々に捉えてゆく。
この時代のオリンピック陸上種目の上位選手は北欧、西欧、北米の白人選手だったことがわかる。
ドイツ、イタリア、イギリス、アメリカ、カナダなどの白人選手が活躍し、スタンドは盛り上がる。
欧米にとって平和で活気ある時代だったことだろう。
日本選手も友好国ドイツの大会だからか大規模な選手団を派遣しており、中距離走や跳躍競技に有力選手が出場している。

フィールドに穴を掘って撮影

日本選手がらみの「撮り直し」場面は、棒高跳びの場面で使われる。
優勝決定まで8時間を経過し、日没後に決着を迎えた棒高跳び。
西田選手と大江選手が2位、3位に入賞、優勝はアメリカの選手となるが、優勝を争った西田とアメリカ選手の跳躍前の様子と、暗闇での跳躍場面、決着後の握手などは撮り直された映像だった。
この「撮り直し」、のちの日本でのリーフェンシュタールらと西田選手らの幸福感に満ちた再会の写真を見ても、必ずしも選手らに負担ばかりを負わせたものではなく、むしろ彼らをして映画の「出演者」としての達成感や充実感のようなものをもたらしたのではないかと思われる。
リーフェンシュタールの「演出者」としての満足感はもちろんのことだったはずだ。

棒高跳びの撮り直しシーン

「民族の祭典」において、別の意味でリーフェンシュタールの興味を引き、完成した作品で多くを割いたのは、当時100メートルの世界記録者、オーエンスの躍動する肉体と、意外だがマラソンの孫の死力を尽くした極限の姿で、特にオーエンスについては競技の様子はもちろん、その前の緊張感やオフのリラックスした姿などが時間をかけて捉えられている。
当時のナチス政府は、黒人などを差別する政策だったが、リーフェンシュタールはヒトラーの好みより芸術家としての自分の好みを優先したことになる。

当時の様子として、走高跳が男女とも鋏飛びであったこと、短距離走ではスタートブロックは使われず、トラックに穴を掘って足場にしていたこと、やり投げのフォームは現在とほとんど変わっていなかったこと、マラソンではjタウを脱ぎ上半身裸で走る選手がいたこと、棒高跳びの着地点が平板な砂だったこと、などなど興味深い歴史的記録でもあった。

当時の観客が見れば、遠い異国のオリンピックという興味のほかにも、手に汗握る競技のスリルと盛り上がりを堪能したのだろうと思われる。

「オリンピア第二部・美の祭典」  1938年  レニ・リューフェンシュタール監督  ドイツ

前編と同時に撮影・編集された「オリンピア」後編は、陸上競技以外の模様が収められている。
といってもスタジアムで行われた十種競技(トラック、フィールドの代表競技の総合種目)がそれなりの尺で収められおり、ベルリンオリンピックの、何よりリーフェンシュタールの関心が圧倒的にスタジアムの陸上競技にあったことがわかる。

「美の祭典」としてまとめられた競技には、球技、水泳、馬術、自転車などがあるが、「民族の祭典」の描写よりどこか淡々としている。
むしろリーフェンシュタールの関心は作品の中にわかりやすいほどに表われており、それは飛び込み、馬術などにおける人間の(特に男性の)肉体美と躍動、危険なスリルなどである。

撮影するリーフェンシュタール

「美の祭典」は選手村の朝のシーンから始まる。
水面に反射する光、木洩れ日、鳥のさえずり。
夢のような田園のごとき選手村の朝。
裸で湖水に飛び込み、サウナで汗を流す男子選手たち。
フィンランド選手団をモチーフとしたようだが、どうみてもスケッチ的な描写ではなく、ねっとりとした己の美学に基づいて演出されたこのシーン。
ゲルマン神話的なリーフェンシュタールの、そして当時のドイツ権力者たちの理想に基づく場面だ。
「民族の祭典」では、古代ギリシャ神話を題材とした導入シーンを持ってきたリーフェンシュタールが、ここでも自分のこだわりに忠実なプロローグシーンを作りだしている。

「美の祭典」にはスタジアム競技がほぼ出てこないからか、観戦するヒトラーなど権力者たちは写っていない。
そこにいるのは馬術競技の審判・運営の軍服姿のドイツ軍人だったり、ヨット競技でのドイツ軍艦のスタートの号砲だったり水兵の姿だったりする。
彼等は必ずしもナチスではなく、国防軍だったりするのだろうが、競技の現場で目立つ軍服姿は時世を嫌が上でも感じさせる。
リーフェンシュタールは得意げに、また必要以上に軍人の姿を強調している。

リーフェンシュタールが好んだのが飛込競技で、これでもかと繰り返される。
太陽をバックにシルエットに塗りつぶされて空中を舞う選手のシルエット。
当時の飛び込みは空中姿勢が重要だったようで、筋肉隆々の選手たちが、空中姿勢を誇りながら、派手なしぶきを立ててザッパーンと飛び込む。
現在はいかに静かに入水するかを競うのであろうが、当時のスタイルの方がリーフェンシュタールの好みにアピールしたことが想像できる。

飛び込みのワンシーン

馬術のワイルドさが現在からは想像もつかないことも衝撃的だ。
谷に向かって障害が置かれたコースに次々と落馬する選手たち。
そもそも障害のコースが今のように整備された馬場でなく、野原や林を縫って設定されている。
障害には大きな池も設定されてもおり、人馬ともどもずぶ濡れになる。
騎手が振り落とされ、馬が怖がって動かず、馬ごと転倒する。
その荒っぽさがリーフェンシュタールの琴線に触れたのであろうか、馬術競技の尺も長い。

「日本版」には存在するという水泳女子200メートルの前畑選手の場面はない。
本作品が「オリジナルドイツ語版」だからだろう。

『政府の目的は、ナチ・ドイツとヒトラーのためのプロパガンダ製作にあった。そしてリーフェンシュタールは、意識的にせよ無意識にせよ、この目的を申し分なく見事に達成したのだった』(「レニ・リーフェンシュタール 芸術と政治のはざまに』1981年 グレン・B・インフィールド著 リブリポート社刊 P263より)

春の山小舎リフレッシュ! 玄関、長靴、スリッパ、マットを掃除、洗濯、天日干し

5月とは思えないまぶしい日差しはまるで初夏のようです。
初夏の風物詩・春ゼミの鳴き声が聞こえてきました。
野原ではわらびも芽を出しています。

春ゼミが鳴き始めた姫木の森

山小舎大掃除にぴったりの日です。
この日は毎日利用する玄関の、特に長靴、スリッパとその置き場あたりをきれいにしました。

まずはスリッパです。
2、3年前にすっかり買い替えた来客用のスリッパを2回に分けて洗濯機に放り込みます。
無香料の粉せっけんでぐるぐる回し、脱水したら並べて干します。
今日のような陽気はスリッパ洗いにぴったりです。

洗ったスリッパを干す
洗ったスリッパを並べて干す

スリッパを収容していたケースを取り出し、重曹液で拭いて天日に干します。
1年ぶりのリフレッシュです。
ケースがあった場所(玄関の踏み台の端っこ)をたっぷり拭き掃除して、風を通します。
この冬、玄関には小鳥の乾燥した死骸があったりしました。
冬を越した山小舎は春を迎えてリフレッシュしなければいけません。

スリッパ収納ケースを拭いて、干す

玄関のたたきには長靴とその収納ケースが置かれています。
プラスチックのケースを取り出して外でホースの水をかけます。
長靴は破れたものは捨てて、使えるものは日干しします。
ゴム長靴は、草苅りの仕事などをしていると1年で破れることが多いのです。
また、冬には絶対必要なアイテムでもあるので常備しなければなりません。

洗った長靴収納ケース
長靴を干す

脱衣場の棕櫚のマットも洗いましょう。
酸素系漂白剤にマット全体を漬けておきます。
しばらく置いてから引揚げ、ホースの水とたわしで流します。
茶色の水が出ました。
先代オーナー時代からの備品のマットは、おそらく初めての洗浄だったと思います。
キレイになった後はタップリと天日に干しておきます。

脱所のマットをオキシ洗浄
オキシ漬けしたマットを流水で流す

玄関のたたきからホーキで、ゴミや虫の死骸を掃きだします。
ついでにぞうきんでたたきの部分も拭きます。
どろどろになったぞうきんを庭のバケツに投げ込み、ホースで洗います。

すっかりキレイになりました、玄関はすぐに泥や砂利がたまりますが。

拭いた後の玄関の壁とたたき

さわやかというか、まぶしく暑いくらいの標高1400メートル以上の高原。
この日のミニ大掃除が終わりました。

令和7年畑 水やりと支柱立て

苗を植え終わった畑に行きました。
一番草も刈って、ひと冬の垢を落とした畑です。
夏の旺盛な繁茂の前の隙間だらけの姿です。

この日、一足早い猛暑の中、どの苗も懸命に根付くように頑張っています。
一度も水やりしないトマトも元気です。

キャベツ、レタスの苗、シソ、バジル、ビーツなどの種まきした畝に水をやります。
種を蒔いた上に、乾燥防止に枯れ草などを被せていますが、枯れ草ごとカラカラに乾いています。

手前のキャベツ、レタスに水やり

ナス、キューリ、ピーマン、夕顔、などなどに潅水します。
葉っぱが垂れ下がっていた夕顔、ズッキーニなどには恵みの水だったでしょうか。
ナスやゴーヤも水は大好きなのです。

畑のそばの側溝の水量が少なくなってきたので、次回は山小舎から水を運ぶことにしましょう。

ポリタンクを潅水に使う

潅水の後は支柱を立てる作業です。
トマト、キューリ、ゴーヤ、夕顔、ヘチマ、冬瓜などの畝にアーチ形の支柱を立ててゆきます。
その前にナス、ピーマンなどの苗のあんどんを外し、支柱を1本立てて苗を支えておきます。
ツルが出るものもとりあえず支柱を1本立てておきます。

トマトの畝にアーチ形の支柱をかける
夕顔、冬瓜などの畝にも支柱

もう少しすると、アーチにネットをかけたり、横棒をつけたりしますが、本日はここまで。

いよいよ夏を迎える準備の畑です。

軽トラ流れ旅2025(ショート) 山梨県白州へ、道の駅と塩沢温泉

かねてから行きたかったホッサマグナの湯へ行ってみました。

まずは、富士見へ出て国道20号線を目指します。
富士見町の中心部にあるAコープをのぞいてみます。
割と大きな店舗で、地元産の福味鶏からアルプス牛までそろっています。
地元産の山菜と、長野産の風さやかというお米を購入しました。
5キロ3800円ほどでした。

富士見町中心部から国道20号線に出て南下します。
塩沢温泉は甲州街道・蔦木宿の手前、山梨県境より少し手前です。
時間があるので、そのまま南下し、二つほどの道の駅を巡ってみることにします。

国道沿いに南下すると、道の駅蔦木宿があります。
ひょっとして限定の手打ちそばが残ってないか?と寄ってみました。アウトでした。

そのまま南下して山梨県に入ります。
道の駅白州に行ってみます。

道の駅白州

ここの食堂で昼ごはん。
湧水をペットボトル2本に組んで、隣接する地元スーパーをのぞきます。
食品フェアをやっていたので、県内の甲州街道台ケ原宿の酒蔵・七賢の純米酒粕や甲州ハイボールなどを買います。酒粕は、みそ汁や煮込み料理のコク出しに重宝するのです。
ハイボールは来客用です。
道の駅はいつもながら賑わっていました。

蕎麦、からあげ丼セット
名物の山塩ソフト
天然水氷には人が並んでいた

国道を北上してホッサマグナの湯・塩沢温泉に戻ります。
初めての温泉ですが気になっていました。
列島を分断する大地溝線上にある、地球の磁力に溢れてそうなネーミングに惹かれました。

国道20号線脇の看板

850円と安くない入浴料です。
地元民と富士見町民は420円でした。
そうそう、塩沢温泉は山梨県の温泉だったのです。
国道20号線は何キロも前に長野県に入っていますが、温泉は山梨県の領域だったのです。

温泉は源泉が冷たいのですが、ぬるめの湯と熱めの湯の浴槽があります。
ぬるめの湯に首まで漬かって、仕上げは熱めの湯でにしました。
例によって長湯はしなかったのですが、効きました。
後で体が軽くなったというか、芯まで伝わったような感じがしました。

最近の恒例として、温泉オリジナルのタオルを買って帰りました。
再訪したい温泉がまた見つかりました。

オリジナルのタオル