ラピュタ阿佐ヶ谷の特集上映 番外編 木下恵介の「永遠の人」



「永遠の人」  1961年  木下恵介監督  松竹大船  ラピュタ阿佐ヶ谷・35ミリ上映

阿蘇の麓の農村を舞台に、日中戦争がはじまった昭和7年(1932年)から戦中、戦後、昭和35年(1960年)までを5つの章に分けて描いたドラマ。

登場人物は庄屋の跡取り・仲代達矢、庄屋の作男の娘・高峰秀子を中心に、高峰と相思相愛の小作人の息子・佐田啓二、その妻になる・乙羽信子、仲代に高峰が犯された時に身ごもった長男・田村正和らが、2世代3世代にわたってお互いの確執、愛情、憎悪、そして許しを描く人間大河ドラマ。
すべてを見守る阿蘇の雄大な自然が舞台設定。

オリジナルポスター

上海事変から足に戦傷を負って庄屋の息子・仲代が帰ってきた。
馬車で凱旋し、盛大な歓迎会が繰り広げられる。
そこで下働きをする小作人の娘・高峰を見染める仲代。
娘は出征中の佐田と恋仲だったことを知りつつ仲代は高峰を襲う。
ひねくれた性格の仲代には、少年時代から優秀だった佐田への嫉妬もあった。
犯された後、身投げしようとして佐田の兄に滝つぼから救出される高峰。

無事帰ってきた佐田が真っ先に高峰のもとに向かい、事情を知る。
内心軽蔑していた仲代に恋人が犯されたわけだが相手は庄屋の息子。
ならばと駆け落ちしようと高峰を誘うが、約束の場所に佐田は現れず、一人で出奔する。
高峰は乞われて庄屋に嫁ぎ仲代と夫婦となる。

夫婦には長男の田村正和のほかに弟と妹ができ、不自由なく生活している。
長男に何かと冷たく当たる高峰と、長男を可愛がる仲代といういびつな家族関係が家庭に影を落とす。
夫婦の不仲と長男の不遇を見て育つ弟と妹。
学校で問題行動を起こしてばかりの長男だったが、高校になり自分の出生の秘密を知る。
人生に絶望した長男は阿蘇の火口に身を投げる。

村に戻った佐田は妻・乙羽信子と暮らしてるが、佐田は妻に心を開こうとはしない。
庄屋に手伝いで通い始めた乙羽は、夫の心が高峰にあると嫉妬する。
高峰の心も佐田にあると思っている仲代は、突然、乙羽に迫るが高峰に気づかれ「けだもの」とののしられる。
乙羽は追い出される。

プレスシート

時がたち、高峰の娘が佐田の息子(石浜朗)と駆け落ちする。
駆け落ちを独断で黙認した高峰。
激怒する仲代。
既に次男は東京での学生運動で逮捕状が出ている。
唯一の希望であった娘の出奔で、仲代と高峰の仲は決定的な崩壊を迎えるが、高峰はこの期に及んでも仲代を決して許さず、仲代も自分を許さない妻へのゆがんだ征服欲を解こうとしない。
田圃の中に建つかやぶき屋根の大きな屋敷とそれを見守る阿蘇の自然が変わらないように。

追われる身となった次男が阿蘇にバスでやって来る。
逃亡資金を渡し乍ら高峰が会いにゆく。
次男は「昔、村に一揆があった時に、うちの先祖は一揆衆を裏切っり、虐殺された大勢の死体を埋めた場所に住んできた」と庄屋の一族の業を説く。
また「お母さんがお父さんを許さない限り、僕もお母さんを許しませんからね」と言って去る。

駆け落ちした娘らが赤ん坊を連れて、死の床に就いている佐田に会いに来た。
高峰も駆け付ける。
佐田が仲代に謝りたいというのを聞いて高峰は田んぼの中を仲代のもとに駆け付ける。
彼女は生まれて初めて仲代に謝り、佐田の元へ同行してほしいと頼むが、仲代はかたくなに心を開こうとはしない。
「もういい」と一人で飛び出す高峰に仲代の声がかかる、二人で田んぼの中を佐田の元へ急ぐ姿にエンドマークがかかる。

プレスシート

ラストこそハッピーエンドに近いが、それまでは人間同士の不寛容と憎悪に塗りこめられたような筋立て。
そこにフラメンコギターで熊本弁の歌詞をフィーチャーした木下忠司(恵介監督の甥)の音楽がかぶさる。
異化効果を狙ったのか、人間の心理をドキュメンタルに描くことだけを第一義としない木下映画のカラーなのか。

人間同士の不寛容と憎悪を、仲代と高峰の夫婦関係に限定せず、それこそ歴史上の業から、子供たちへの影響が輪廻となって一族に繰り返されるまで、時間軸、空間軸を広げて描く、木下脚本の筆力は本作でも本領を発揮。

高峰は単なる弱者、被害者ではなく、金持ちの庄屋の奥様として居座る姿にいびつな復讐心と功利的な心理が現れている。
映画の途中から、何十年も心を開こうとしない妻を持つ仲代が可哀そうに見えてくるほどだ。

かつて駆け落ちをしようとして土壇場で逃げる佐田についても単なる被害者ではない弱さが付加されている。
彼も満たされぬ自分の思いを妻の乙羽にぶつけ彼女を傷つける弱い男なのだ。
ただ佐田は死の床で、孫の訪問を受け入れ、高峰に感謝し、仲代にわびようとする。
主な登場人物で初めて自分から心を解放したのが死の床の佐田ではあった。

映画は全く幸せそうな若夫婦(石浜朗ら)を描写し、一族とその人間関係からの解放を謳っている。
後には、老境に差し掛かり、人生の残滓を迎えている戦前世代の直接融和と心の解放が課題として残されるが、それについてもハッピーエンドを示して終わる。

木下恵介としては畢竟の実験的大作「笛吹川」が期待ほどヒットせず、9か月のブランクを経て制作したのが本作。
本作は幸いヒットして面目を保ったようだ。
残酷なほどの冷徹で執拗な視点、実験的で斬新な手法(フラメンコの使用など)は木下映画そのものだった。

特集パンフの作品解説より

ラピュタ阿佐ヶ谷の「松竹女性映画珠玉編」の1本として上映された本作でした。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集上映より 松竹映画のヒロインたち①高千穂ひづる

高千穂ひづる

手許に高千穂ひづるの「胡蝶奮戦・スター達と過ごした日々」という自伝がある。

1931年(昭和5年)兵庫県生まれ。
実父は巨人軍からパリーグ審判部長を経て野球殿堂入りした二出川延明。
宝塚娘役時代の同期に寿美花代、1期後に有馬稲子。

1954年宝塚を退団し松竹入社。
主に京都撮影所で時代劇に出演。
翌年東映に移籍するがここでも時代劇娘役が多かった。
東千代之介、中村錦之助ら同世代との共演の「笛吹童子」「紅孔雀」が大ヒット。
親しみのある日本的な丸顔で人気を博し、初代東映城の三人娘といわれた(あと二人は千原しのぶと田代百合子)。

三人娘の千原忍、田代百合子と。後ろは東千代介、中村錦之助

1956年、山本富士子、大木実とともに俳優集団『すがおグループ』を立ち上げ、「女だけの街」(57年 内川清一郎監督)を製作するが、東映所属の身での行動が反発を招き(『五社協定』の時代だった)半年間干される。
東映の大川社長に詫びを入れて映画界に復帰、同時に松竹に移籍となる。

松竹復帰の第1作は有馬稲子と共演の「抱かれた花嫁」(57年 番匠義彰監督)。
以降、野村芳太郎、中村登ら中堅監督と組んでの作品などで、松竹メロドラマのヒロイン、助演での起用が多くなる。

1961年、「ゼロの焦点」、「背徳のメス」(両作品とも61年 野村芳太郎監督)の演技でブルーリボン助演女優賞受賞。

1962年、松竹と本数契約になり、翌年フリーに。
フリー後は東映での「監獄博徒」(64年 小沢茂弘監督)で入れ墨片肌脱ぎの女ヤクザを演じたり、大映の「座頭市血笑旅」(64年 三隅研次監督)で勝新の相手役を務めるなどする。

生涯149本の映画出演。
宝塚から映画界入りという芸能エリートコースを歩んで、映画観客数のピークを迎えた1950年代の松竹、東映で活躍。
『五社協定』時代には俳優集団を立ち上げ壁にぶち当たったことも。
映画界が斜陽を迎えてからは、フリーの映画女優として、またテレビのホームドラマのママ役として長く活躍。
出演した作品は「旗本退屈男」から「新諸国物語」、内田吐夢監督作品。
さらには松竹ヌーベルバーグ、東映任侠映画、「女賭博師」、クレージーものまでと幅広い。

自伝目次
自伝奥付



「ろまん化粧」  1958年  穂積利昌監督  松竹大船  ラピュタ阿佐ヶ谷・35ミリ上映

高千穂ひづる、松竹復帰して2年目の作品。
彼女が主題歌も歌っている。

高千穂のフィルモグラフィを見ると、松竹復帰前後に『すがおグループ』の製作で「女だけの街」、「淑女夜河を渡る」(57年 内川清一郎監督)や独立プロの「異母兄弟」(57年 家城巳代治監督)に出演している。
また、57年から58年にかけの出演作は、時代劇が多いなか、「張り込み」(58年)で野村芳太郎監督と出会ったことが特筆される。

ラピュタ阿佐ヶ谷・の特集パンフ表紙

昭和30年代前半の松竹映画には珍しく、同時代の都会で働く女性を主人公にしている。
その場合、下町の老舗蕎麦屋の看板娘の働きぶりを描くのであれば松竹映画らしいのだが、本作は都会の最先端というか虚業ともいうべき美容産業の社報編集長が主人公である。
果たしてこの役が、宝塚から東映城のお姫様へとトラバーユしてきた日本人形のような高千穂ひづるにフィットしているのかどうか。

オリジナルポスター

カラースタンダード画面に記録された昭和30年代初期の東京の風景が懐かしい。
東京に住んでいなくとも、テレビで見たり、たまさかの上京時に感じる、東京の輝き、エネルギー、豊かさが蘇ってくる。
北海道には蒸気機関車が現役だった時代。
東海道線には新幹線こそなかったが、肌色の車体のジーゼル特急こだまのメジャー感は本州に渡ってから目にすることのできるもの。
田舎者が東京に感じるドキドキ感が画面から放射されている。

東京そのものの記録に歴史的意味があったとすれば、ドラマ部分で現れる、当時最先端の美容室や、土足で上がるアパート、ロック風の流しがいる馴染みのバー、などには、古さしか感じられない。
松竹映画らしくもなく、無理があった。

プレスシート

美容会社の社報編集長役の高千穂は、キャリアウーマン風の最新ファッションに身を包み、社長(宮城千賀子)の秘書的役割をも果たしつつ、てきぱきと動く。

同じく都会に働く虚業のキャリアウーマンを描く東宝映画に「その場所に女ありて」(62年 鈴木英夫監督)があったが、主人公の司葉子は、同僚とくわえたばこで麻雀も辞さず、同性の先輩同僚は自分のことを『オレ』と言っていた。
ライバル会社の社員・宝田明とのワンナイトラブも本気なのか、枕営業の一環なのか、気まぐれなのか、クールなものだった。

一方で、松竹の描くキャリアウーマンの世界と高千穂ひづるの個性は、東宝作品のそれとはまったく別ものだった。
それは、あくまで品行方正で古風な女性像だった。
彼女の周りには、モデル崩れからパパ活をする女性(泉京子)などもいるが、あくまでも『例外』的な存在として描かれ、また現実感に乏しい。
社内不倫から身を持ち崩してゆく女性(杉田弘子)も描かれるが昼メロの主人公のように類型的である。

高千穂はワンナイトの過ちも犯すが、相手は年下の弟のような存在(石浜朗)であり、これまた必然性に乏しくも唐突である。
ならばと、彼女に内心好意を持つ新聞記者(南原浩治)からのプロポーズで大団円を迎えるかというと、彼女が一夜の過ちを理由にそれを断るのだからなにをかいわんや。
この人間描写のリアル感のなさ、生活感ゼロ、の展開は松竹映画の限界を示すものなのか、穂積監督の個性なのかは判断に苦しむところ。

50年代の「ろまん化粧」と60年代に入ってからの「その場所に女ありて」では時代の相違もあるのだろうがそれだけではないような気がする。

やもめの新聞記者と主人公のロマンスも、うまくはまればグレゴリー・ペックとオードリー・ヘプバーンの時のような、立場の違う者同士の出会い、になったのだろうが、そこまで描く意図もなかったようだった。

収穫は、木下恵介作品などで、絵にかいたような坊ちゃんを演じる石浜朗のアプレな人格崩壊ぶり。
東大仏文中退の役柄だが、女にだらしがなく、もともとまじめに働く気がない青年の役で、突然感情をあらわにするところなどに、就職難の時代背景と人格の壊れっぷりが出ている。
石浜がこういった役柄を広げてゆけば、強面の役者などより数段怖い狂気に満ちたヤクザを中年になって演じられたかもしれないと思ったりした。

高千穂ひづるは好感が持てる個性を発揮しているし、宝塚時代の大先輩で会社の上司役の(大年増として化ける前の)宮城千賀子もいい感じだったが、見どころは昭和30年代の東京の情景と宝塚OG二人の存在、石浜朗の怪演だけだったか?
いや、一番に30年代を感じさせた、高千穂ひづるという女優そのものの存在を見るにふさわしい作品ではあったかも。

特集パンフの作紛紹介



からたち日記」  1959年  五所平之助監督  松竹配給・歌舞伎座製作  ラピュタ阿佐ヶ谷・35ミリ上映

黒白ワイド。
120分の上映時間は、二本立て番組のメイン作品だったということ。
併映は60分ほどのシスター映画と呼ばれる添え物作品だったのだろう。

監督の五所平之助は、大店の旦那の妾腹の子として誕生、母は新富町の芸者だった。
松竹鎌田撮影所に入所し、島津保次郎に師事。
1925年監督デヴュー。
日本初のトーキー「マダムと女房」(31年)を監督した大御所。

撮影は、東宝をレッドパージされたのち、「人間の条件」などで手腕を発揮し『天皇』と呼ばれていた宮島義勇。
脚本は、溝口健二に弟子入りしたのち自らの独立プロダクションで監督作品も発表していた新藤兼人。
松竹映画の製作では実現しようもない、根性の入ったスタッフによる、歌舞伎座プロ作品。

題名は当時の人気歌手・島倉千代子のヒット曲から頂き、本人も2場面ながら主人公に絡む役で出演しているものの、島倉千代子とのそれ以上の関係性はない。
原作は「芸者」(増田小夜著)といい、信州の寒村の子守から諏訪の置屋に売られ、戦前戦後の時代を、自分の愛情は報われないまま過ごした女の自叙伝であった。

オリジナルポスター

主演は高千穂ひづる。
彼女の映画人生前半の集大成であり、代表作ともいえる作品だった。

主人公のツルは、信州塩尻近くで子守時代を過ごし、諏訪の置屋に買われて下働き時代を経て半玉となる。
芸妓としての男遍歴とはかない恋、そして身近な愛情さえも失ってゆく半生を、戦中戦後の時代背景とともに描く、女版大河ドラマ。
舞台は女の人肉市場:花街であり、交錯するのは殺伐とした世間のつかの間に花咲く真情でもあった。

プレスシート

戦前のツルの極貧だが、つつましくも健気な生活が描かれる。
あばら屋を訪ねて実母に会うも、再婚して子だくさんの母(菅井きん)からは声もかけられない。
置屋に買われてからは、家のおかみさんと先輩の芸者たちに次々と用事を言いつけられてはクルクルとこなす日々。
先輩芸者(田代百合子)に誘われて裏庭の木に登り、諏訪湖を眺めてはつかの間の安息を得る。

水揚げされた顔役(山形勲)の妾になり、軍需工場に動員されたときに、ハンサムな監督員(田村高広)に女工たちが熱を上げるのを見て、ツルも退屈まぎれに彼を誘惑する。
雨の日に傘を忘れるふりをして彼が通りかかるのを待つが、自分の傘をツルに与えて去る男。
半玉上がりのプロとして面白半分に素人男性を誘惑したツルだったが段々本気になってゆく。

男が出征してゆく当日。
汽車の出る時間にロンパリが現れ、ツルを相手に酒を飲み始める。
気が気でないツルは時間になると我を忘れて駅へ駆けつけようとする。
察していたロンパリはツルを引きずり回す。
必死ではねのけて外へ出たツルだが、踏切で出てゆく汽車を見送るしかなかった。

プレスシート

故郷に残った唯一の身内である弟を連れ二人で暮らす。
戦後には、朝鮮人(殿山泰司)が闇で作る石鹸を仕入れ、闇市で売って糊口をしのぐ。
闇市を縄張りにするヤクザには『弟のためにパンパンをしないで稼いでいる、見逃がしてくれ』と話しをつける。
弟は病気になり、姉には迷惑かけられないと病院の屋上から飛び降りる。
もぬけの殻になったツルは信州に戻って、一族の貧しい墓の並びの土を手で掘って弟の骨箱を埋める。

こう書くと悲惨なエピソードばかりだが、五所平之助が作り出すムードは殺伐とはしていない。
どこかしらユーモワが漂うような、ひょうひょうとしたタッチは同監督の「煙突の見える町」(53年)を思い出す。
あの映画も貧しい下町暮らしの中、田中絹代が夫との同衾の予定日をカレンダーに記して嬉しそうにしたり、襖一つ隔てた貸間の若い下宿人たち(高峰秀子と芥川比呂氏)が何となく仲良くなるところなど、不思議なゆとり感のある作品だった。

ラピュタの特集パンフより

戦前の花街の風景描写にも味があった。
人力車が芸者を迎えるだけの画面に横溢する時代感。
明治時代の錦絵を見ているかのようなタッチは、花街を描いた戦後の諸作品にあったろうか。
病気で死んでゆく先輩芸者、置屋の女将と芸者のど突き合いなどの定番の場面はあったが、殺伐とした悲惨さだけが残らないのは、戦前からの花柳界を知っているであろう五所監督が持っている感覚なのか。

田村高広との場面の五所監督

高千穂ひづるの自伝「胡蝶奮戦」では、179Pから196Pに渡って「からたち日記」の思い出が綴られている。

・書いたのが新藤兼人さんで、監督が五所平之助先生、キャメラが宮島義勇さん。こりゃすごいなあって思って。これを私がやるんだと思ったら、俄然やる気が湧いてきちゃって。
・(場面場面のヘアースタイルについて)先生と打ち合わせをして、美容師さんに頼んでやっていました。でも先生に見せに行くと、『そんなこと僕は言ってない』って返事が返って来るのね。五所先生が不思議な監督で理解しにくい方だなあって思ったけれど、大監督程そういうところがあるんじゃないかしら。
・(撮影現場では)でもやり始めは、宮島さんの絵コンテを(先生は)待っているのね。で、あれ?って思いまして。これ、宮島さんがいないとどうなるのかなあ、と。五所先生と宮島さんの関係はそれほど大切でした。
・東映時代に仲良しだった田代百合子さんが松竹に移っていたので、私、五所先生にお願いして田代さんに出演してもらったんです。夜、大きな木の上の方に上って二人並んで諏訪の街の夜景を眺めるシーンがあるんだけど、あれが危なかったの。(以下、枝が折れそうだったので、スタッフに念を押し、手直しさせたエピソードが続く)
・映画って、俳優がとんでもない芸をしなくちゃならないときがありましてね、「からたち日記」では、「金のシャチホコ」って芸を私がやる場面があってこれが大変でした。(以下、お座敷で、着物の裾を足に絡めて逆立ちする場面があり、逆立ちの練習をし、開き直って臨んだ撮影では、一発オーケーになったエピソードが続く)
・半玉になって水揚げされるっていうところ。明け方になって一人で家に帰ってゆくシーンがありました。ここも随分テストしましたね。先生が私の横にいらして小さな声で、『あのね、足と足の間に紙を1枚はさんで落とさないように歩いてごらん』だって。この時思いましたね。演技っていうのは、心も大事だけれど、技とか技術なのよ。
・田村さんとの思い出はたくさんあります。なんといっても松竹時代、私の恋人役を一番多くやっていただいたのは田村さんでしたから。田村さんと高橋貞二さんと私で、苗字のイニシャルをとってTクラブというグループを作らないかって話があって誘われたんだけど入りませんでした。あの頃は私、映画会社にいろいろ抵抗してやっと松竹へ復帰して、与えられた作品を一所懸命やろうって考えていたんだろうと思います。

五所監督と高千穂

長々と引用したが、庶民的で飾らず女性的な、といっても宝塚時代から表舞台で活躍してきた女性の芯の強さとプロフェッショナルな気風を感じさせる自伝である。

自宅の庭のフェンス修復で DIY!

隣家との間の庭のフェンスにはツタを絡ませています。
伸びたツタを剪定していると、木製のフェンスが傷んで腐っているのを発見しました。
既に設置から20年以上経過したフェンスです。
取り換えが必要です。

ツタが生い茂った庭

先ずはフェンスに這わせているツタを根元から切ってゆきます。
現れたフェンスを取り除きます。
ボロボロの腐った木材です。
LLサイズのゴミ袋タップリ3袋の木材ゴミとなってフェンスが撤去されました。

ツタをカットし木製フェンスを撤去する

ホームセンターに行って新しい木製フェンスを探します。
今度は高さが60センチのものにします。
木製フェンスを抱える、幅4センチほどの四角柱の垂木を選びます。
垂木は長さにカットして、紙やすりで表面を削ってから防腐塗装をします。

垂木にやすりをかける
防腐塗装をする
乾かす

塗装が乾いたら組み立てます。
垂木を、もともと庭に設置されている金具のフェンスに拘束具で固定します。
そして木製フェンスを取り付けてゆきます。
垂木と木製フェンスは針金でも固定します。

垂木とフェンスを組み立てて固定する

20何年ぶりに隣家との間のフェンスが新しくなりました。

3月の山小舎

山小舎を開ける冬の4か月間にあっても、毎月山小舎を訪問している山小舎夫婦です。
3月の訪問は春分の日の三連休に行ってきました。

2月のころとは異なり、雪もすっかり消えた姫木別荘地。
そこまでの国道沿いも大門峠も、雪どころか、土埃が待っている状態。
もちろん白樺湖の湖面もすっかり溶けて春モードでした。

山小舎周辺は雪解け

八ケ岳や蓼科山の上の方には雪が残っています。
遠方に見えるアルプスの山々はもちろんです。

北アルプスを望む安曇野へ

今回の山小舎訪問は、温泉と信州のうまいものを味わうことを目的とし、中日の遠出の目的地は安曇野としました。

安曇野の蕎麦屋。天ぷらの塔にびっくり。このほかに煮物がつく

北アルプスの雪を頂いた山頂を望みながら、安曇野でそばを食べ、おやきや和菓子のお土産を買いました。

山小舎は水道の凍結やトラブルもなく快適でした。
次回は4月の山小舎開きに訪問です。

神保町シアター『俳優・渥美清』特集より 「拝啓天皇陛下様」

「拝啓天皇陛下様」  1963年  野村芳太郎監督  松竹  神保町シアター・35ミリフィルム上映

開巻、メインキャストとスタッフのみのクレジットが流れる。
一芝居あってから、その他スタッフとキャストが紹介される。

同じく野村監督の「張り込み」(58年)では、開巻から30分ほどに渡り、宮口精二と大木実の刑事たちが、夜行列車に乗り込み(宮口精二は座席に座るや否やズボンを脱いでステテコ姿になり)、名古屋、大阪と一晩二晩をかけて、各地の警察署に挨拶をし、佐賀に到着するまでを描写した後に、ようやくメインタイトルとキャスト、スタッフの紹介画面となったものだった。
本作のタイトル場面でも野村監督らしさが出ている。

神保町シアターロビーのレイアウトより。オリジナルポスター

主人公・ヤマショウ(渥美清)が入隊する軍隊の営舎での消灯ラッパ、起床ラッパ、野戦訓練での突撃ラッパのシーンでは、それらの歌詞(変え歌なのか、当て字のようなものか)が画面いっぱいに文字で表される。
消灯ラッパの替え歌?は、軍隊経験のある筆者の父親も時々口ずさんでいたから一般的なものだったのだろうし、軍隊経験者には忘れられないものなのだろう。
戦友と呼ばれる人との関係とともに。

読み書きが不自由で、まともな家庭環境や職場環境を経ていなかったヤマショウは軍隊に入り、三食付きの環境に感謝、感動する。
同日入隊のムネさん(長門裕之)を何かと頼りにし、手助けを惜しまない。
何かとビンタをくれた二年兵(西村晃)が除隊の時に、仕返しをしようと計画するが、ヤマショウの心ねの優しさが邪魔をして果たせず、相撲を取ってしまう。

ヤマショウの人間性に、中隊長(加藤嘉)は何かと目にかけ、規則違反の営倉入りをした際には、その独房で正座してさむさに鼻をすすりながら相対する。
また、中隊長はヤマショウが二年兵になった時に、代用教員上がりの初年兵(藤山寛美)に字の読み書きを教えることを命じる。

二年兵となると威張りくさり、外出許可持にはムネさんとともに兵隊さん半額の遊郭に入り浸り、女郎さんに一丁前の文句を言うヤマショウだが、天皇陛下への忠誠は断固揺るがない。

中支戦線では、戦死した兵隊が『天皇陛下万歳』といわずに死んだことに憤慨し、戦争が終わりそうになると自分の居場所である軍隊がなくなることを心配して天皇陛下あてにかな釘流の手紙を書こうとしてムネさんに止められる。

戦後もヤマショウは逞しく生き続ける。
開拓団や工事現場で働き、自力で食材を調達して生きてゆく。
たまにムネさんに出会えば、生き別れの兄弟の如く喜び合う。
ムネさんは作家として戦中・戦後を生き、結婚してバラックのアパートに妻(左幸子)と住んでいる。

ヤマショウはムネさんと同じアパートの子連れの未亡人(高千穂ひづる)と結婚したがるが、闇買出しを率いる三国人の妾になっている未亡人は歯牙にもかけない。

やがて縁あって別の未亡人(中村メイコ)と結婚が決まったヤマショウだが、泥酔した挙句トラックにひかれて死ぬ。
字幕には『拝啓天皇陛下様 最後の赤子が戦死しました』と映し出される。

戦後の引揚者住宅で、憧れの未亡人(高千穂ひづる)と

この作品を見ていて思い出す映画がある。
一つは「兵隊やくざ」シリーズ。
無鉄砲で軍隊が天国の主人公・大宮貴三郎と、彼が唯一いうことを聞く上等兵の関係が、ヤマショウとムネさんと同じである。
また、どちらも光文社文庫から原作(「貴三郎一代」:「兵隊やくざ」の原作、「拝啓天皇陛下様」:原作と映画化は同名)が出版されていることも共通点の一つだ。

もう一つ思い出すのは「裸の大将」(58年 堀川弘通監督)。
知的障碍者の人間性と彼を通して見える社会、という共通点がある。
「拝啓天皇陛下様」には実際の山下清がワンカットだけ登場している。
セリフもある。

陣暴行シアターロビーのレイアウトより

神保町シアターで終映後、前列の杖を持ったご高齢がこちらに向き直って『続編の方がよかった』とつぶやくように語りかけてきた。
続編は渥美清が軍馬の厩舎員となる別ストーリーの話で、久我美子、宮城まり子などが出るらしい。
『宮城まり子が知恵遅れのこの役で、渥美清と似通ってっますよね』とのこと。
『兵隊やくざとも似てますよね。田村マサカズの言うところだけは聞くような』と合づちを打つと、『田村タカヒロね。(主人公との関係性は)似てますね。』との返答。
ロビーへ出るまで話が途切れなかった。

同好の士が集いながらお互いに『話しかけるなオーラ』でバリアを掛け合っていることが多い映画館ロビー。
10年以上も前に渋谷シネマヴェーラのロビーで、ファンと思しきご同輩に話しかけて怪訝な顔をされたことを思い出す。
その時の特集は「東宝青春映画の輝き」(だったっけ?)。
恩地日出夫監督の「あこがれ」(66年)、「めぐりあい」(68年)が見られることに勝手に舞い上がってしまった自分がいた。

別の日のラピュタ阿佐ヶ谷の上映前のロビーでは、中村錦之助のファンクラブだという中年男子と雑談となり、自費で錦之助作品のニュープリントして上映した話などをうかがったこともあった。

この日、終映後に振り向きざまに話しかけてきた『先輩』は、かつての自分のように映画作品に触発され、どうしても発したかったパッションがあったのだろう。
『先輩』より同好の士と目されて光栄至極である。

特集パンフ
作品解説

自宅の網戸修復で DIY!

自宅の二階ベランダの網戸がベロンと剥がれています。
夏前に修繕します。

破れた網戸

まずはホームセンターで資材と道具を購入します。
資材としては、網と端を押さえるゴム。
道具としては、ゴムを押さえるローラーと専用のカッターです。
専用の道具があると初めての作業でもうまくゆきます。

剥がれた網戸をゴムごと外します。
埃とともに外れてゆきます。
古いゴムは劣化しているので廃棄します。

網をあてがい、仮止めして長さで切ります。
テンションを取りながら、新しいゴムをあてがい、専用のローラーでゴムを押し込んでゆきます。
この時にたわみや、ゆがみができなければ張替え作業は成功です。

網を仮り止めする
ゴムで止めてゆく。専用のローラーが仕事をしてくれる
ゴムで押さえる際にはゆがみやたわみが出ないようにする

網の余計な部分をカッターで切り離します。
専用のカッターがあればうまくできます。

網の余分な部分をカッターでカット

網戸の張替えができました。

出来上がり

自宅の庭木剪定でDIY!

自宅に庭木を剪定しました。

ほったらかしのままだった庭。
モクレンやナンジャモンジャの木、梅の切り株などが雑然と植わっています。
冬枯れの今が剪定の時期です。

家人より伐採の指示があったモクレンとナンジャモンジャを切ります。
のこぎりで切るのは大変です。
木に刃がはさまります。
その上、切り株が長く残ってしまいます。
表の立木は幹が太すぎて剪定すらできません。

のこぎりで伐採した後のモクレンの切り株
玄関前の立木

バッテリー式ハンデイソーを買うことにしました。
近くの販売店で、本体とバッテリーを購入します。
バッテリーを充電し、チェーンソーオイルを充填して試運転します。
のこぎりとは比べものにならない性能が期待できます。

ハンデイソー本体
バッテリーと充電器
オイルの忘れずに用意する

まずは伐採したモクレンの切り株を地上すれすれの位置でカットします。
昔切った梅の切り株や、夏に伸びすぎる庭木を切ってゆきます。
手切りとは比べ物にならない仕事の早さです。

モクレンの切り株もこの通り
古い梅の切り株も根元からバッサリ
ついでにほかの場所も手入れする

ハンデイそーは、無理な使い方をすると、エンストしたり、チェーンが緩んだり外れたりします。
エンジン式チェーンソーと同じ原理の機械ですので慌てないで対応します。

1日置いて、玄関わきの太い庭木の選定です。
毎年、電線にかかりそうなくらい伸びた枝を枝切ばさみで剪定している木です。
ハンデイソーで幹ごとバッサリと対処できそうです。
脚立を持ってきて、隣家に声掛けし車を移動してもらいます。

玄関前の立木には脚立を用意

太い幹2か所をカットします。
体に当たるとダメージがありそうな太くて重い幹です。
切った後の処理も手間がかかります。
山小舎のようにそこらへんに放っておくわけにもいきません。

太い幹ごとバッサリ
散らばった葉っぱやおがくずを掃除
剪定後の立木

木が死なない程度に選定したつもりですが果たしてこの夏はどうなっているでしょう。

ママチャリ迷走記2026 鍋谷横丁から妙法寺まで

さて東京でママチャリで迷走している山小舎おじさん。
この日は路線バスで通った鍋谷横丁が忘れられずママチャリで再訪しました。

青梅街道沿いに展開する昭和っぽい商店街の鍋谷横丁。
環状7号線と青梅街道が交差する高円寺陸橋から、新宿方面に行ったところにあります。

調布の自宅を出発した山小屋おじさんは春の風に吹かれつつ、五日市街道に出てひたすらママチャリで東上しました。
吉祥寺から中野行きのバスルートの踏襲です。

環状8号線で五日市街道に出る
善福寺川を越えて五日市街道を東上する

やがて五日市街道は青梅街道に合流(交差か?)します。
あたりはすっかり賑やかな街です。

青梅街道に出る
青梅街道を走り環状7号線を越える

レトロなアーケードが見えてきました。
地下鉄駅を中心とした商店街が鍋谷横丁です。

飲食店が軒を連ねる一角があります。
下町にあるような昭和な飲食店が並んでいます。
昼間からやっている焼きトン屋、街に溶け込んでいるエスニックの人々。
混とんとした東京の近未来図です。

鍋谷横丁の一角
昼間から煙が立ち上る
エスニック濃度は濃い
お寺の仏舎利もエスニック!

交差点を渡ると鍋谷横丁の古くからの路面店が残っています。
町の歴史の案内板を見ると、横丁が江戸時代からあり、妙法寺というお寺の参道だったことがわかります。
長野の善光寺のおひざ元に、飲み屋街と赤線が広がっていたように、伊勢神宮の参道が”精進落とし”の場であったように、鍋谷横丁が”聖と賤”が交差する場であったことがうかがえます。

この際、妙法寺まで参道をたどってみましょう。
帰る方向でもあるし。

妙法寺参道方面

鍋谷横丁から環7方面へ向かいます。
参道は整備されているわけではなく、街に溶け込んでいるため正確なルートはわかりません。

神田川にぶち当たったので川沿いに西へ向かいます。
そのうち立正佼成会の大聖堂が見えてきました。

途中にそびえる立正佼成会大聖堂の威容

環状7号線に出たので妙法寺の場所を確認すると北方向に戻るとあります。
戻ってみると『和田帝釈天通り』というアーケードがありました。
東京にはいろいろなところがあるものです。
通りに入ってみるとささやかですが味のあるお寺がありました。
この商店街が妙法寺参道だったようです。

和田彫り帝釈天は参道沿いにある

妙法寺はすぐです。
閑散とした商店街を過ぎると、静寂に包まれた仏閣がありました。
広大な敷地を持つ妙法寺です。
人気の少ない境内で御参りします。
いい雰囲気のお寺なのに人気が少ないのは、単に観光地化されていないからだと思われます。

妙法寺に到着
山門をくぐり本堂にお参り
広い境内の妙法寺

45年前にインドの旧カルカッタを訪れたときに、持参した「地球の歩き方」の情報に、カルカッタで活動する『日本山妙法寺』の記載がありました。
行ってみると、インドのほかの公共機関と同様に、お寺は囲いと施錠で人払いされており、中に入ることはできませんでした。
日本人僧侶などの姿も見えませんでした。
『日本山妙法寺』が環7沿いの日蓮宗妙法寺の支所なのか、あるいは何か関係があるのかはわかりません。

帰り道は遠いのですがのんびりと自転車を漕いで春のママチャリ旅を終えました。

ひな祭りのちらし寿司

今年も3月3日になりました。
ひな祭りです。
孫娘にちらし寿司を作って持ってゆきました。

ちらしずしのキモは具の炊き上がり具合です。
シイタケ、干瓢のほか油揚げ、ニンジン、ゴボウなどの具材をちょうどよく味付けして炊き上げることです。

前夜に干しシイタケを水に漬けておきます。
翌日、その戻し汁で具材を炊いてゆきます、昆布を加えてもいいでしょう。
砂糖、酒、みりん、しょうゆで味付けします。
隠し味に、塩麴を加えます。
濃い目に仕上げるのがコツです。

長めに炊いて具材に味を染み込ませます。
その間に酢飯を作ります。

お米が炊き上がったら、寿司桶に移します

研いでから1時間ほど浸水させたお米に、コンブ一切れと酒を少々入れて炊き上げます。
炊きあがったら寿司桶にあけ、すし酢をかけながらほぐしてゆきます。
すし酢は甘めにします。
酢に砂糖を溶かし込んで作りますが、隠し味に塩麴とダシの素を加えてすし酢とします。
照りが出ておいしそうなすし飯になります。

すし酢を混ぜて冷まします

粗熱が取れたら具材を混ぜ込みます。
汁気を軽く絞りつつ、具材をすし飯の上にちらし、ヘラで切るように混ぜてゆきます。

軽く煮汁を絞った具材を混ぜ込みます
パックに詰めて

ちらし寿司本体の完成です。

錦糸卵をちらし、でんぶを散らします。
食べる寸前に海苔の細切りもちらします。

今回のちらしずしも孫たちに好評でした。

この日はお稲荷さんも作りました

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集上映より 任侠映画のヒロインたち ⑥ 松原智恵子

松原智恵子は1945年岐阜県池田町生まれ。
実家は名古屋で銭湯を経営するが1959年の伊勢湾台風で父親を失う。

高校時代に日活の『ミス16歳コンテスト』に中部代表で出場したのをきっかけに日活入社。
1961年に映画デヴュー。吉永小百合、和泉雅子とともに『日活3人娘』と呼ばれた。
舟木一夫や西郷輝彦の歌謡映画のヒロインを務め、日活がニューアクションと呼ばれる路線に企画変更すると、渡哲也主演の「無頼シリーズ」などで相手役を務めた。

日活時代の松原智恵子

1971年、日活の一般映画製作中止を機に退社。
主にテレビに活動の場を移す。
その後も、ヴァンプやおばさん役に崩れることなく正統派の熟年役として現役続行中。


「昭和残侠伝 吼ろ唐獅子」  1971年  佐伯清監督  東映東京作品  ラピュタ阿佐ヶ谷・35ミリフィルム上映

「昭和残侠伝」シリーズ全8作の7番目の作品。
全共闘世代に支持を受け、東映の任侠映画で最も収益を上げたシリーズだといわれる。

このシリーズのコンセプトは、ヤクザの仁義、筋、男のプライド、そういった精神に対する礼賛であり、企画を推進しているのは、東映に出入りしていた俊藤浩滋であった。

おそらく上映当時も、観客のほとんどはヤクザのプライドなど、絵に描いた餅であると信じてはいなかった。
ヤクザが、必要悪としての側面は持ちつつも、どんなに世事に汚く、道理に反した、世の中のクズであるかは万人にとって自明の理だった。

オリジナルポスターその1

東映の任侠映画が一時的とはいえ、日本映画史に残るエポックメーキング足りえたのは、高倉健というスターが存在したからだった。
時代劇映画全盛時代に東映が全国トップの興行収入を上げたのは、千恵蔵・右太衛門という歌舞伎出身の2大スターが豪華絢爛なチャンバラ絵巻を繰り広げ、全国津々浦々の日本人に夢を与えたからであり、任侠映画がつかの間の全盛を迎えたのは、1970年前後の大学紛争後の虚無感漂う大衆のルサンチマンをしばし解放せしめる象徴・高倉健(藤純子も?)がいたからだった。

ただし時代劇映画全盛時代の東映が、千恵蔵・右太衛門ありきだったのに対し、任侠映画の出発点は俊藤浩滋という企画者だった(彼をホイホイと持ち上げる、岡田茂という『不良性感度の高い』映画が好きな、製作責任者がいたこともある)。
俊藤(藤純子の実父)がヤクザの実物たちとともに東映撮影所に持ち込んだものは、仁義、義理、筋などの任侠道といわれる価値観だったが、それらは彼らの自己正当化には役に立っても、世間的には通じるものではなかった。
世間は、ヤクザが、強きになびき弱きをくじくゲスの感性の持ち主であること、勝手きわまる心持と即物的価値観の礼賛者であることは知りすぎるほど知っていた。

たまたま任侠映画の主役高倉健の10年に1人のスター性があったことから任侠映画は観客に迎え入れられた。
そして「昭和残侠伝」シリーズも8作目を迎えることとなった。
あと1作でシリーズ終焉となることを知ってか知らずか・・・。

プレスシート

ということで「昭和残侠伝 吼ろ唐獅子」を見る。
高倉健扮する渡世人が、ヤクザの正義感たる『仁義を通す』『筋を通す』『落とし前をつける』を連発して、腐った親分と、親分の妻と駆け落ちした子分の間を右往左往する、という筋立て。

さすがに無理筋だろう、健さん。
男女間の駆け落ちに人情をかけるためにやくざの価値観は使えないだろう、と思いつつ画面を追う。
ところが、というか、やはりというか、健さんは硬直的に『仁義』『筋』『落とし前』を繰り返すばかり。

シリーズの重要なわき役、池辺良が最後は健さんに同行して殴り込みというお馴染みの筋立て。
そこに鶴田浩二が出てきて訳知り顔で正義のヤクザを演じる。
正義のヤクザは健さん一人でいいのではないか。
池辺良だって堅気だったのをやむにやまれずドスを握った段階で、健さんの味方の戦力となったのだし・・・。

シリーズのコンセプト、任侠映画の精神的支柱の虚構が、硬直化したその姿を露わにしている。
わずかに残った映画的説得性が健さんの醸し出すスターのオーラとスポーツのような殺陣の爽快感だが、そこにも繰り返されたであろう疲れとマンネリがにじみ出ている。

プレスシート

ヒロインは松原智恵子。

日活時代の「東京流れ者」(66年 鈴木清順監督)では、『流れ者には女はいらねえんだ』『女と一緒じゃ歩けねえんだ』と、棒読みのセリフを繰り出す若き渡哲也の向こうを張って、まるで相手の心情には頓着しないかのようにアイドル的表情を崩さなかった松原智恵子の東映初出演(クレジットには(日活)とあったから日活在籍時代の最後の出演作であろうか)。
同じく日活の「無頼」シリーズでは、堅気のお嬢さん役ながら渡の殺陣の現場にウロチョロし、『大丈夫?』と傷の具合を勝手に心配するヒロイン役が妙に似合っていた。

日活時代はどんな状況下にあっても、清純派としての構えを崩さなかった松原智恵子の本作の役は、健さんのかつての思い人にして、その8年後に鶴田浩二の奥さんとなっていた姐さん。
着物姿には凛とした気風が漂っていたが、任侠映画末期の硬直した雰囲気の中では、持ち前の”天然なかわいらしさ”の出しようがなかった。

『親にもらった大事な肌を墨で汚して(中略)つもり重ねた不幸の数をなんと詫びよかお袋に、背中(せな)で哭いてる唐獅子牡丹』。
殴り込みの前の池辺良との道行のシーンにかぶさる主題歌を詠うのはもちろん健さん。
仁義でがんじがらめのはずのヤクザが、人情にほだされまくりの、自虐ネタ満載の、おまけにマザコン丸出しの歌詞(これが本音か?)。
ほかの役者が歌っていれば、”なに甘えてんじゃあワレ”と逆切れしたくなる内容だが、高倉健だから許された。

池袋文芸坐のマキノ雅弘特集でのこと。
「侠骨一代」(67年)のラストの殴り込みシーン。
背中を切り付けられた健さんの着流しから、汗にまみれた入れ墨が現れる。
殴り込みが終って、荒い呼吸の中、右手から離れないドスを自らの左手で振りほどく。
高倉健の凄絶な迫力と色気。
映画が終って場内が明るくなる中、椅子から立ち上がれない女性客がいた。
マキノ演出も見事だったが、高倉健の類まれなるスター性に観客は魅了された。

シリーズ第1作からの監督佐伯清は、伊丹万作に師事した戦前からの職人派。
ヤクザ礼賛などに同調するはずもないが、このシリーズでは、ココロ入らぬ様式だけの作画がかえって受けたのか。
その虚構の再現ぶりは監督とヤクザの距離感を表すとともに、高倉健という虚構の異様ぶりも際立たせ、映画という”仮初の刹那”を求める観客を引き付けたのだった。

オリジナルポスターその2