八ヶ岳南山麓の標高1300メートルあたりを巻いて走る道路があります。
八ヶ岳高原ラインといいます。
小淵沢から清里を結ぶ、山梨県の県道11号線の別称です。
久しぶりにこの道を通って清里、野辺山、小海を回ってきました。
八ヶ岳エコーラインから高原ラインへ
山小舎から大門街道を茅野へ下ります。
途中、八ヶ岳エコーラインにぶつかるので、原村方面に右折します。
原村に入る直前に、八ヶ岳農業実践大学方面に左折します。
ここの売店に寄ってみます。
農業大学をさらに八ヶ岳に向かって走ると、美濃戸口と呼ばれる場所があります。
八ヶ岳連峰の主峰の一つ、赤岳への登山口です。
美濃戸口を入ったところに駐車場もあり、赤岳などへの登山ルートがあるので一度登ってみたいものです。
山梨県へ入り、県道11号線(八ヶ岳高原ライン)へ
美濃戸口から、長野県内を県道484号線で、八ヶ岳山麓を南下、富士見町に入ります。
両側に富士見高原と呼ばれるレジャー施設が続きます。
山梨県に入り、県道11号線にぶつかるので左折。
ここからが八ヶ岳高原ラインです。
別荘やレジャー施設は影を潜め、雑木林が両サイドに広がる道を進みます。
原生林の道、といった感じのいい道です。
天気が悪いと霧に包まれる標高1300メートルの道です。
この日は晴天で、行きかう車、バイクでひっきりなしでした。
ペンションブームの清里は今
やがて高原ラインは清里に至ります。
かつてペンションブームで栄えた、清里駅周辺は、昨今の事情を勘案しても、ひっそりとしていました。
ペンションブームが終わったことと、鉄道客の減少のせいでしょうか。
付近の国道141号線沿いの施設が、自家用車で混雑しているのを見ると、時代の移ろいを感じざるを得ません。
清里地区の美し森。
ここいら辺は、都市部の自治体や大学などの保養施設のメッカでもあります。
山小舎おじさんも20年ほど前は、毎冬、自宅のある調布市が持っている「少年自然の家」へ、家族でよくスキーに来ていました。
調布の学校に通っていた子供たちは、夏の林間学校などでよく来ていたようです。
小金井市や明治大学の施設が近所にあります。
南牧村美術民俗資料館
国道141号線(佐久甲州街道)を野辺山方面に走ると、右手に南牧村美術民俗資料館という建物がありました。
寄ってみました。
館内は民俗資料館と美術館に分かれています。
おじさんは民俗資料館のほうに興味がありました。
展示内容は、先史時代の遺跡や石器から、近代の農具や生活道具など。
地域の動植物のはく製、標本など。
いわば各地にある博物館、資料館の定番です。
展示物の中でやっぱり気になるのが、昔の写真です。
南牧村は野辺山といったほうが有名ですが、戦後の開拓時代の写真などは雄弁に地域の歴史を物語っています。
展示物を開設するパネルが毛筆で書かれていたので、学芸員の女性に聞いてみました。
地域の高齢の筆自慢がものしたのかな?と聞くと、そうではなく女性書道家によるものとのこと。
そのほかにも、標高2000メートルにある露天風呂に2時間歩いて入ってきた話、高原野菜を生産する農家の事情など、女性の学芸員は、世間話をするように、南牧村の情報をたくさん話してくれました。
たっぷり話ができて、南牧村が好きになった山小舎おじさんでした。
海ノ口と海尻
国道141号線を小海方面へ北上します。
高原野菜が広がる開けた地形が狭まり、急坂を降りてゆくと、海ノ口という地域です。
このあたり、野辺山の観光ポイントも多く、高原、牧場といったハイカラなイメージの世界から、昔ながらの鄙びた歴史の世界へと一変します。
大昔、浅間山の噴火でせき止められた千曲川がこのあたりで湖を形成していたとのことです。
湖の入口が海ノ口で、出口が海尻と呼ばれ、地名が今でも残っています。
海尻地区の国道沿いに、古い神社がありました。
諏訪神社でした。
墓地が隣接していたので、「もともと神社とお寺が一体となっていた場所が、明治時代の廃仏毀釈で神社として残ったのかな?」と思っていたら、国道の少し先に立派なお寺がありました。
海尻山医王院という天台宗のお寺で、門構えにあたりを払う威厳があります。
裏山に海尻城という、戦国時代の山城の跡があるとのこと。
お寺自体も佐久33番観音霊場の19番札所とのこと。
国道を挟んで、医王院の反対側に位置する集落の家々にも歴史を感じます。
番外・道端の古墳
八ヶ岳南麓を回り、野辺山、小海など八ヶ岳の東側を北上。
八ヶ岳北側山麓を西へ回って山小屋へ帰りました。
帰り道、佐久市望月地区から白樺湖方面へと向かう峠道のふもと。
ふもとの集落の一角に古墳がありました。
大規模な古墳ではなく、民家の片隅に取り残されたような風情です。
標識がなければそれとはわからず、保存状態も成り行き任せ。
いつの時代の誰のものなのかも判然としません。
県内では、前方後円墳の巨大なものでも、その由来は皆目不明で、便宜的に地名を冠した○○将軍塚、などと呼ばれています。
畿内の「由緒ある」古墳群と異なり、地方のその時代の歴史は何の記録もない「暗黒時代」なのです。
記録が残っていないだけで、いわゆる古墳時代から、この信州には人間の歴史が、あちこちに色濃く刻印されているのでしょう。
何せ、浅間山が噴火して、千曲川をせき止めたのは西暦800年代のことで、それに由来する地名の、海ノ口、海尻が今に残っているのですから。