今回はマレーネ・デートリッヒの初期の3作品を見た。
女優デートリッヒを世界的に有名にした作品群で、監督はいずれの作品もジョセフ・フォン・スタンバーグ。
この時期、デートリッヒの個人史も激動していた。
まずはスタンバーグ監督の紹介。
オーストリア=ハンガリー帝国出身のユダヤ人で、両親とともに渡米後、さまざまな職を経たのち、1本の自主映画を製作。
その後、米映画最初のギャング物といわれる「暗黒街」(1927年)がヒットし、一躍スター監督となった。
ドイツで製作された「嘆きの天使」(1930年)の監督として招かれ、主役にデートリッヒを発掘。
パラマウントに招かれデートリッヒとともに渡米。
以降1935年までデートリッヒとのコンビで映画史に残る作品群を発表した。
「嘆きの天使」制作時、デートリッヒはすでに20代後半。
キャバレー歌手などを経て、舞台を中心に活動し、映画にも数本出ていた。
映画出演を機に監督助手と結婚し、一女の母親でもあった。
「嘆きの天使」 1930年 ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督 ドイツ
主人公の堅物教師がキャバレーの歌姫に魅入られて結婚。
ドサ周りの挙句落ちぶれて死ぬまでの物語。
歌姫役がなかなか決まらなかった。
スタンバーグはたまたまベルリンの舞台でデートリッヒを見て、歌姫ローラローラの配役を決めたという。
役を持ち掛けたスタンバーグに対するデートリッヒの反応は、私は写真写りがよくないんですよ、という冷ややかなものだったという。
ウーファ撮影所の当時最先端の技術を誇るスタッフ、ドイツ一の演技力を誇るエミール・ヤニングス(主人公の堅物教師役)、新進気鋭のスタンバーグ監督がそろったなかの最後のピース、退廃の歌姫・ローラローラの配役、が埋まった。
撮影が始まると、デートリッヒは妻、母として家事、育児をこなしながら撮影所に通った。
作品中、主人公の堅物教師と結婚して数年後、ドサ周り中のローラローラが普段着姿で家事をする場面がある。
普段着姿のがっしりした体形のデートリッヒはまさに堅実なドイツの主婦以外の何物でもなく見えた。
ただ、ひとたびローラローラの衣装に身を包んだデートリッヒは、煽情的なポーズをいとわず、退廃的な歌詞を、まだ若く高い声に乗せて歌った。
それは舞台を眺める堅物教師や、ギムナジウムの悪ガキどもに限らず、スクリーンの前の全世界の観客の目をくぎ付けにした。
今に至る伝説の女優マレーネ・デートリッヒ誕生の瞬間だった。
それにしても、場末の町の片隅の安キャバレーの舞台づくりよ!
当時のドイツ片田舎の場末の匂いと喧騒と退廃が今によみがえるよう。
その舞台では歌うローラローラの周りを女が取り囲み、客の指名を待つかのように、ビールを回し飲みしている。
当時のドイツの庶民の享楽を十分に想像させる舞台設定だ。
ローラローラはストッキングとガーターもあらわに椅子にそっくり返り、あるいはホットパンツのような格好で歩き回って客を煽情する。
堅物教師がいなくなった後の舞台シーンでは、椅子の背もたれをまたぐように足を開いて歌う。
このポーズは「キャバレー」(1972年)のライザ・ミネリにまで引き継がれている、場末の歌姫の〈決め〉のポーズでもある。
決して確信的な悪女ではなく、堅気の人間とは生まれた世界が異なり、金しか信じられるものがない芸人をデートリッヒは演じ切る。
安キャバレーの舞台、楽屋のセットは猥雑さにあふれ、そこに至る夜の下町のセットは、表現主義時代からのドイツ映画の伝統にを感じさせるように重厚で、陰影に満ちている。
これが戦前のウーファ撮影所のスタッフの技量であろうか。
「嘆きの天使」が後世に残したものはデートリッヒの誕生のほかに、ドイツの映画製作所の水準の高さがあった。
「モロッコ」 1930年 ジョセフ・フォン・スタンバーク監督 パラマウント
パラマウントは、「嘆きの天使」のアメリカ公開を1931年1月まで延期させ、その間にデートリッヒ、スタンバークによるハリウッド第一作「モロッコ」を撮影し、公開させた。
「嘆きの天使」の悪女ぶりを、「モロッコ」により弱めさせ、デートリッヒのイメージをアメリカ中産階級向けにアレンジするためという。
デートリッヒ個人は、夫と娘を残しての渡米を悩むが、むしろ夫が渡米を進めての決断だったという。
デートリッヒはスクリーン上のイメージと異なり、渡米後もたびたびベルリンへ帰ったりまた帰ろうとした。
娘をアメリカに連れて一緒に暮らし、夫や実母、実姉をアメリカに連れてゆこうとした。
「モロッコ」はパラマウントが、MGMのグレタ・ガルボに対抗してデートリッヒを売り出そうとしての第一作。
相手役に当代一の色男、ゲーリー・クーパーを持ってきたわけでもある。
このクーパー、田舎の消防団一の男前、といった感じで、ヨーロッパの歴史を背負うデートリッヒには文化的に対抗のしようもないが、これがアメリカ映画、文句を言ってもしょうがない。
スタンバーグのタッチなのか脚本のせいなのか、エキゾチックな舞台設定を生かし切ることなく、現地の欧米人たちの恋愛関係のドロドロにのみを粘っこく描いて映画が進む。
そういった中で、流れ者の歌姫、デートリッヒのステージシーンは一服の清涼。
この作品ではタキシードの男装姿を披露。
歌姫が男装で歌う、という、ひとつの〈定番〉の先鞭をつける。
ラストでハイヒールを脱いだデートリッヒが、クーパーらの外人部隊の後を追うが、フランスではこのシーンに失笑が起こったという。
熱い砂漠をはだしで歩けるか!ということだろうが、デートリッヒは単独ではなく、部隊について歩く女たち、いわゆる後衛部隊に合流していき、女たちが連れている山羊の手綱を持って歩き始めたのだった。
この後衛部隊、軍隊にはつきもので、日本軍にも民間の業者が女とともに同行し、駐屯地で慰安所などを開業した。
軍隊は何といっても当該国随一の官僚組織であり企業なので予算は潤沢、倒産の心配もなく、確実な取引先だったのだから各業者がぶら下がり群がるのは当然だった。
この時代にもそういったものがあったということだろう。
ロバに荷を積み、山羊を引っ張りながらよたよたついてゆく女たちの姿が哀れだが、何とも言えぬリアルな異国情緒を誘う場面でもある。
「モロッコ」撮影後、デートリッヒは家族の待つベルリンへ帰宅。
娘を連れてハリウッドへ戻る。
夫はドイツに残った。
「上海特急」 1932年 ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督 パラマウント
ハリウッドで娘と暮らしながらデートリッヒが撮った作品。
ハリウッド第3作。
舞台を混乱の中国に移してのエキゾチック路線。
デートリッヒの役柄も植民地を流れる訳あり玄人女。
謎めいて冷ややかな外見だが、内心は愛する男に純情を貫く役柄。
今回はステージシーンはなし。
戦前の中国。
北京から上海への特急列車の一等室が舞台。
植民地に巣食う列強の出身者の乗客の中に、デートリッヒ扮する流れ者の白人女とさらに謎めいた中国女(アンナ・メイ・ウオン)が加わる。
彼らが革命軍が策動する中国内戦に巻き込まれ、デートリッヒはかつて愛した英国人医師と偶然再会し・・・。
ステージシーンがない分、贅を凝らしたファッションでスタンバーグはデートリッヒを映す。
巻頭のアイ・ヴェールをかけた艶姿。
恋人との再会ではその軍帽を取って斜めにかぶって見せる。
ファッションを見せるだけではなく、スリリングなシーンでは大股で歩き、愛人を助けようと行動する。
肩幅の広い姿で、大股に動く場面では、「嘆きの天使」での普段着で家事を行う場面同様、ドイツ女性としてのデートリッヒの素に近いものが見える?
この作品の後、デートリッヒは夫に手紙を書き、娘とともにベルリンに一時帰国する旨連絡する。
夫は帰国するのは危険だと返事する。
デートリッヒが、愛するドイツ、ベルリンへ帰ることができたのは(公には)1960年になってからだったという。