2011年3月11日から丸10年がたちました。
当時のことはいつまでたっても忘れることはできません。
山小舎おじさんは54歳のサラリーマンでした。
午後2時過ぎの強烈な地震。
東京では見た目の被害こそなかったものの、交通がマヒしました。
今思えばけったいな話ですが、あの大地震にあっても、会社はアクションを起こしませんでした。
17時半の定時になって、おじさんは退社しました。
三々五々、退社したり帰宅する人が出始めた田町界隈を三田方面に抜け、恵比寿駅方面を目指して歩きました。
山手線、地下鉄線は止まっています。
恵比寿駅が近づくにつれ、道路が渋滞し始めました。
路線バスが満員のまま渋滞にはまっていました。
駅に着くと駅舎は閉鎖され、周辺にはバスやタクシーを待つ長い列ができています。
携帯電話はつながらず、電話ボックスには長い列ができています。
3月上旬の夕方は東京でも寒くて凍えます。
呆然としゃがんでいる人もいます。
せめて駅舎を開放できないものか、と思いました。
代官山、中目黒といった地域を斜めに抜け、三軒茶屋に出ました。
246号線沿いの歩道は川崎、横浜方面へと徒歩帰宅する人で埋まっています。
自動車道路は渋滞でピクリとも動いていません。
夜8時になったので、三軒茶屋の定食屋で夕食を食べました。
幸いなことに東京では停電も断水もしておらず、商店はほぼ営業しており、中には店先に「トイレ使ってください」などと貼り紙するところもあって助かりました。
食事、食料の調達も問題ありませんでした。
三軒茶屋から世田谷通りへ折れて、千歳船橋から環状8号線を渡って、5時間かけて、調布の自宅に帰りました。
世田谷通りからは徒歩の通行人数も減って、千歳船橋では電話ボックスから自宅に電話することができました。
京王線の仙川界隈にたどり着く頃は足も引きずる状態でした。
走っている京王線を見て、11時に仙川から一駅の最寄り駅まで電車に乗りました。
途中でタクシーにも手を挙げたのですが、環8をジャンジャン流れていたタクシーは全く止まってはくれませんでした。
翌週からは通常出社しましたが、しばらくは首都圏のガソリンスタンドに、給油を待つ車列ができていました。
茨城などへ出向くと、ブルーシートで覆われた民家の屋根や、傾いた電信柱、通行止めになった橋、などを見ました。
しばらくは、例えば宴会で隣になった他社のサラリーマングループとエールを交換し合ったり、何となく「オールジャパン」の雰囲気が東京にもありました。
ところで、山小舎おじさんは、震災前の2004年から3年半、仙台に単身赴任していたことがあります。
休日には仙台近郊の、荒浜、閖上、宮城県北部の志津川、気仙沼などへ行きました。
海水浴客でにぎわう荒浜、海岸の松林と入江の魚市場の風景の閖上、魚竜館で化石を見た歌津、箱でサンマを買い自宅へ送った気仙沼の場外市場、みななくなってしまいました。
否、なくなったのではなくて様相が一変してしまいました。
山小舎おじさんの思い出の景色などどうでもいいのですが、そこに住み、生き残った人たちにとって、景色の喪失、様相の一変、とはどういうことだったのでしょう。
たまさか、震災前に3年半ほど住んでいたものにとっても、自分なりの「景色」を根底から否定、轢断するかのような、当時の津波の映像など見たくない、と今でも思うのです。
ましてや、当事者の方々にとってはどれほどのことなのか・・・としか言えません。