晩秋・初冬の風景

11月も終盤を迎えた山小舎周辺は、晩秋から初冬への風景となっています。
姫木では初雪は降りました。
降霜と凍てつきは日常となっています。
木々の葉はすでに散り終わりました。

ある朝の山小舎周辺
姫木構内の雪道

白樺湖畔での紅葉は終わりを迎え、冬の光景となっています。

少し前の白樺湖
同上

りんごバイトで通った佐久側の麓の立科町でも、フジの摘み取りの季節とともに、紅葉の終わりを告げています。

りんご仕事が始まった頃の立科町・津金寺
同上

先だっては、朝の大門街道でスリップによる交通事故を目撃しました。
路面は圧雪でもなく、アイスバーンでもないのですが、8時ころの日陰の路面が、水分が凍結しており、速度超過でカーブに差し掛かった自家用車がスリップしたものと思われます。
反対車線に対向車が2台停まり、事故車は腹を天に向けて横転しておりました。
事故直後のようで、一人が携帯で電話をかけ、車の影に高年女性が一人腹ばいに横たわっているのが見えました。

立科町へりんごバイトで通った際にも、朝の大門街道でハンドルを取られることがありました。

が残っていなくても、路面が黒い場合は凍結していること。
その際は下りでは特に慎重な運転が必要なことを痛感しました。
スタッドレスタイヤでも四輪駆動でも滑る時は滑ります。
対応は減速と慎重な運転の一択だと改めて思いました。

りんごバイト1週間

フジ収穫の季節です。
今年も立科町五輪久保地区のリンゴ農家で摘み取りのアルバイトをしました。

リンゴ農家でのバイト
立科町から望む冬の浅間山

フジの収穫は11月中旬から1週間ちょっと。
雨以外で休みはありません。
山小舎おじさんは4連勤して1日休んだ後、3連勤しました。
定時は8時から17時。
9時に出勤して15時に上がりました。
通勤時間が45分ほどと長く、寒い朝と暗くなる夕方を避けたいためです。

この日は姫木が雪だった

メンバーは10人以上。
ほぼほぼ去年のメンバー通りですが、姫木から新たに1名参加したのと、例年参加の「先生」が中学時代のお友達を4,5人連れてきていました。

66歳になるという「先生」はリンゴ農家の娘の元担任です。
先生と同学年だった主婦たちは県内の佐久地方から集まっています。
日焼け防止の装いも堂に入っており、脚立に登り重い籠を上げ下ろしする様子は安定しています。
都会の同年齢の女性に比してその”戦闘力”は圧倒的です。
日頃、家事だけではなく、畑仕事その他で体を動かしていたことが想像できます。

弁当を詰めて出発
10時と3時にはお茶がある

彼女らはよく働くだけではなく、楽しそうによくしゃべり、お互いの仲が良いだけではなく、我々とも屈託なくコミュニケーションを取ってくれました。
都会の女性のように、無遠慮に自己アピールすることはないのですが、年齢に比して開き直ったふてぶてしさがなく、ふるまいにかわいらしさがあるのです。
日本の昔の女性を思い出しました。
これは、地元の人たちと話す貴重な時間でもありました。

家族で行う選果場
贈答用のA品が並ぶ

お弁当の時間に農家の座敷で、彼女らとしゃべるのが楽しみでした。
また、農家の娘さんが地元の青年と婚約したとの報告があり、嬉いニュースでした。
青年は土曜日に手伝いに来て一緒にお茶を飲み、皆からの質問に答えていました。

バイトのお礼貰ったお土産用B品

無事勤めが終って、お土産のフジB級品をもらいました。
その量が前年の半分以下だったのが残念でした。

町内の津金時の晩秋風景

上田映劇で「ミシェル・ルグラン&ジャック・ドゥミ レトロスペクテイブ」

祝・NPO法人上田映劇 信毎文化事業賞受賞

2025年11月20日の信濃毎日新聞一面より

第30回信毎文化事業賞を上田映劇が受賞した。

33歳の支配人が東京からUターンして、閉館中だった現存木造映画館の上田映劇(フィルム上映可能)を再オープンし、細々と、しかしつぶれずに営業し、文化事業に貢献してきたことが評価された。

映画を愛し、映画館を懐かしみ、ミニシアターに親近感を抱き、地方映画館に愛着を感じ、現存木造映画館を尊重し、フィルム上映を懐かしむ者にとってまことに喜ばしいことだ。
上田映劇が受賞した記事が信濃毎日新聞一面に掲載された。

写真左から2人目が映劇の支配人

「ロシュフォールの恋人たち」を見に、上田映劇の姉妹館トラムライゼを訪れた際、支配人がいたのでおめでとうございますと声をかけた。
ありがとうございますと丁寧な返答があった。


「ロシュフォールの恋人たち」  1966年  ジャック・ドゥミ監督  フランス   トウラムライゼにて上映

ジャック・ドゥミが「シャルブールの雨傘」(63年)に続いて送るミュージカル。
音楽はミシェル・ルグラン、主演は「シェルブール」に続いてのカトリーヌ・ドヌーブと実姉のフランソワーズ・ドルレアック。
共演者も豪華だ。

レトロスペクテイブのちらし

フランスの港町ロシュフォールの金曜の朝、祭りのアトラクションを彩るダンサー一行がトラック2台でやって来る。トラックの運転席から出てくるダンサーたち(ジョージ・チャキリスら)が、軽く映画のテーマソング(ドルレアックとドヌーブの双子姉妹のテーマ)の乗って踊り始めるオープニング。
これから始まる映画の胎動を感じさせるようなオープニングのワクワク感。
さあ楽しいミュージカルが始まるぞ。

英が館前。左のコメントがうれしい

ダンサー一行が踊る。
背景を行く町の人々がリズムを取る。
クレーンカメラが町の広場に面したアパートの一室に移動してゆき、ドルレアックとドヌーブの双子姉妹が子供たちにバレエを教えている場面を捉える。
町の美人双子姉妹は、音楽とダンスの才能に溢れていて、まだ見ぬ恋人とパリに憧れる乙女だ。

2人のテーマソングは、何度か聞いたことがあるナンバーでおそらくこの映画最大のヒットソング。
リズム感に溢れるこのナンバーを、ドルレアックとドヌーブが楽しそうに歌い踊る。
キュートな衣装のすそを翻し、若々しい脚を見映えよく躍動させながら。

町の美人双子姉妹を演じるドルレアック(右)とドヌーブ

「天使の入江」(63年)のコートダジュールからシェルブールへ。
82年の「都会の一部屋」ではナント。
ドゥミの”ご当地港町もの”映画の今回の舞台はロシュフォールだ。

夢のようなミュージカルの世界を描きながら、軍隊の行進場面が再三出て来たり、登場人物の一人が恋人を惨殺した新聞記事のシーンがあるなど、唐突な人生の暗黒面の点描は、ヌーベルバーグ左岸派・ドゥミのこだわりか、フランス映画のエスプリか。

ピアノの前で「双子のテーマ」を歌い踊る

旅芸人のジョージ・チャキリスは「ブーベの恋人」(63年 ルイジ・コメンチーニ監督)のパルチザン役の大根ぶりが嘘のようにイキイキしている。
ダンスの脚の上げ方もキレている。

ドルレアックを一目ぼれさせるハリウッドミュージカルのレジェンド、ジーン・ケリーは、踊りこそ衰えてはいないが、まったく旬を過ぎた存在であり、躍動する若手とのズレ感があった。
ケリーの起用は、ハリウッド・ミュージカルへの、オマージュとも批判ともつかぬドゥミならではのこだわりの結果なのだろうが、効果的だったといえるかどうか。
むしろ金髪が若々しい、ジャック・ペランがフランス製のおとぎ話風ミュージカルにふさわしかった。

双子の母親で広場の一角にあるカフェのマダム役のダニエル・ダリューは、若い時はドヌーブのような存在だったが、ここではすっかり落ち着いたマダムを演じて印象深い。
フランスの女優は中年になって更に一花咲かせる、これは好例だ。

ドヌーブの実姉のフランソワーズ・ドルレアックは「リオの男」(63年)でベルモンドを困らせた、活動的でおしゃまなじゃじゃ馬ぶりが忘れられないが、本作でも恋を夢見る妙齢の若い女性を好演。
171センチの長身を感じさせぬ、ドヌーブとの息の合った足の運びを見せるダンスもよかった。
実生活では、本作の後1本に出演した1967年に、25歳で惜しくも交通事故死する。

お祭りの舞台で踊る姉妹

後の大女優カトリーヌ・ドヌーブを生かしきった二人の監督がいる。
「昼顔」(67年)、「哀しみのトリスターナ」(70年)のルイス・ブニュエルと、彼女のキャリアの転機となった「シェルブールの雨傘」を監督したジャック・ドゥミだ。
ドヌーブ自身は、女優としての自らのキャリアで最大のできごとは?との問いにこう語っている。
『ジャック・ドゥミ監督と出会って「シェルブールも雨傘」に出演したこと。この作品で初めて私自身に目覚めた』(1971年 芳賀書店 山田宏一責任編集 シネアルバム①カトリーヌ・ドヌーブ P104より)。

ドルレアックとドヌーブは、俳優だった両親のもとに生まれた三姉妹の長女と次女で、ドルレアックが父親の、ドヌーブが母親の姓を芸名にした。
ドヌーブがのちに男児を生むことになる、ロジェ・バデイム監督(代表作「素直な悪女」)とパリのディスコで出会ったとき、彼女は17歳で両親姉とともにアパルトマン暮らし、寝室では2段ベッドを姉と共有していた。
当時すでに姉のドルレアックは『フランスのキャサリン・ヘプバーン』と呼ばれる売れっ子、ドヌーブは姉の仕事場についてゆくほど仲が良く、また両親からは姉と同行する場合のみ夜遅くまでの外出を許されていた。
だが、一晩の出会いでドヌーブはバディムと恋に落ち、未婚のまま出産する道を選んだ(出産後、バデイムは自身3度目の結婚をジェーン・フォンダと行っている)。

港もの広場、街角、カフェなどでのロケ撮影が生きている。
ロシュフォールの街々で歌い踊る人々をクレーンを駆使し、俯瞰で捉えるカメラ。
ハリウッド・ミュージカルならばスタジオの大掛かりなセットで撮影されたであろう。
ドゥミのフランス製のミュージカルは、何よりロケがもたらす港町の空気感、街角を行く通行人たちの土地の臭いがいい。
双子姉妹の衣装もおしゃれ。
多すぎる登場人物のエピソードが散漫で、中だるみがあったが、巻頭シーンの高揚感、結末に向かってのフランス映画らしい人間性(男女の恋愛)の謳歌ぶり(現実的な結末も予感させながら)はよかった。

ミシェル・ルグランのスコアは、双子のテーマのほかに、後半を盛り上げるピアノ曲がルグランらしくてよかった。

平日の12:45分の回。
上田映劇の姉妹館トラムライゼの観客は筆者を除き4人。
全員女性だった。

映画館前のウインドウより



「ロバと王女」  1970年  ジャック・ドゥミ監督   フランス      上田映劇にて

ジャック・ドゥミ作品中、本国で最大のヒットとなった作品。
ペロー原作の童話の映画化。
カトリーヌ・ドヌーブ27歳、「シェルブールの雨傘」でスターとなり、「反撥」「昼顔」「哀しみのトリスターナ」でその評価を定着させ、美貌の盛りを迎えていた。

カトリーヌ・ドヌーブ

ドゥミにとっては、「ロシュフォールの恋人たち」などの”ご当地港町シリーズ”から離れ、完全な童話の世界を舞台としたミュージカルに挑んでいる。
童話とはいえ、ロケ撮影を多用する”手作り感”はドゥミらしい。

王様にジャン・マレーを起用。
「美女と野獣」(46年)とジャン・コクトーへのオマージュをささげている。
王子様の母の王妃にミシュリーヌ・プレールを起用しているのも、「ロシュフォールの恋人たち」でのダニエル・ダリューと同様に、古き良きフランス映画へのドゥミからの憧憬が感じられる。

「肉体の悪魔」(46年 クロード・オータン=ララ監督)のミシュリーヌ・プレール

ドヌーブが白馬の馬車でお城を脱出する場面。
扉が開き、白馬が王女を運んで行く。
王女のスローモーションや、フィルムの逆回しは「美女と野獣」の再現だ。
ドゥミのコクトーへの尊敬がある。
何よりジャン・マレーの起用そのものが。

デルフィーヌ・セーリグを重要な妖精役で起用。
このキャステイングはノスタルジックなものではなく、主人公の王女のアドバイス役として”現役感”が必要なもの。「去年マリエンバートで」(61年 アラン・レネ)の”硬派”セーリグは嬉々として演じて居る。
妖精の衣装のスリットから美脚がちらちら見えるのだが、「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」(72年)でブニュエル必須の”ストッキングを脱ぐ”シーンをセーリグが演じることになる、これはその先駆けなのか?

デルフィーヌ・セーリグ

王様と王女の近親相姦的な愛情と、そこからの脱出、自己の発現をテーマにしている。
王女は高貴な生活を捨て、ロバの皮を被って下女の生活に甘んじる。
嬉々として。
王女の魅力を見抜く王子にも母親の王妃(ミシュリーヌ・プレール)が近親的な愛情を注ぐ。
王女の脱出と自立をサポートするのが森にすむリラの妖精(デルフィーヌ・セーリグ)だ。
この二人、なんとエレガントなキャステイングか、フランス映画の大いなる楽しみだ。

『ロバの皮を頭からかぶって、ネグリジェみたいな長い服を着て、森の中や村の広場をすたすた歩いてゆく、よごれたときのドヌーブの萌芽、王女としての盛装したドヌーブよりも、ずっとかわいらしく私には好ましかった。』(シネアルバム①カトリーヌ・ドヌーブ P83 澁澤龍彦「カトリーヌ・ドヌーブその不思議な魅力」より)。

同じく澁澤龍彦は書く、『ロバの皮を身にまとって城を逃げ出さねばならなくなっても、村中の男女に馬鹿にされても、ちっとも悲しそうな顔を見せないドヌーブは、隣国の王子様とめでたく結ばれるようになっても、別段それほどうれしそうな顔を見せないのであるる。いつも、どうでもいいような顔をしている。』(同書P83)

ロバの皮を被ったドヌーブ

ドヌーブの特性を見抜いた澁澤龍彦は更に書く。

『王女様の盛装は美形のドヌーブによく似合うが、それを魅力的に感じるのは、見ているものが、その美しさが剥がされるだろうという予感に慄えているのを感じるからであり、ドヌーブの顔は表面的な冷たさ(美しさ)とは裏腹に瞳の奥の不安定な本質が露呈されてしまう。
それは欲望に目を曇らされて倫理観念を見失い、妄想の海の中を泳ぎ出そうとしている、マゾヒステイックな気質の女を表現するのにまことにふさわしい』(同書P82より抜粋)

ドヌーブは退屈な王女の生活を脱し、自らの欲望を満足させるために、身分を隠した汚い女の生活を送った、嬉々として。
結末は王子様との結婚だが、それは本来の歓びではなかった。
娘に結婚を迫っていた王様は、訳アリだった妖精と結婚していた。
めでたしめでたし。
これはドヌーブそのものを描いたストーリーなのか、ペロー童話の趣旨なのか。

ジャン・マレーとドヌーブ

ミシェル・ルグランのスコアでは、森の家で王子のためにケーキを焼く場面のナンバーが楽しい。
「ロシュフォールの恋人たち」の「双子のテーマ」のような傑作はこの作品にはなかったが。

ジャック・ドゥミはこの後、ドヌーブとマストロヤンニで「モンパリ」(73年)、日本の少女漫画を原作とする「ベルサイユのばら」(78年)などを作ったが、生涯の代表作は「シェルブールの雨傘」と「ロシュフォールの恋人たち」だったのではないか。

ドヌーブは、「リスボン特急」(72年 ジャン=ピエール・メルビル監督)、「終電車」(80年 フランソワ・トリュフォー監督)などフランスを代表する監督作品に出演、「ハッスル」(75年 ロバート・アルドリッチ監督)などハリウッド作品でも活躍し、最晩年まで映画出演を続けている。

この日の観客は筆者を入れて二人だった
寒かったこの日の上田市内

孫の運動会

11月中旬、東京へ一旦帰りました。
息子夫婦との食事会などがあったためです。
たまたま土曜日に孫が通う杉並区の小学校の運動会があったので見てきました。

運動会は9時に始まり、11時半ころに終わるプルグラムです。
各学年の出し物は、徒競走などの競争競技と、遊戯などの表現の各1競技です。

運動会会場全景

楕円形にラインが引かれ、その外側に本部のテント、反対側には児童が待機する椅子が並べられています。
先生に寄るアナウンスはありますが、表現の際のBGM以外に、徒競走やリレーを盛り上げる音楽はありません。
上級生による応援団による応援がありました。

最終円の外側には父兄が並んでいます。
構内への立ち入りの際は、児童経由で入手した学年別に色分けされたシールのようなものを腕なりに巻かなければなりません。
立ちリガ正門に限定されていることもあり、昔のように隣近所のおじさんが立寄るような雰囲気ではありませんでしたが。

ソーラン節やエイサーなどを取り入れた表現は、昔ながらの団体による統一的な動きを追求しており、まだまだ日本の運動会のこころが感じられました。
父兄であれば我が子の動きに感動するでしょう。

2年生による玉ころがし

かつては運動会のメインイベントだった、リレーがありませんでした。
過度な盛り上がりを避けたのかどうか。
また徒競走等競争競技での上位者の順位付けもなく、また男女別の組みわけもなく、走力が同意程度の者同士で組み分けされていました。
まことに平等というか、競争心の抑制が行き渡っていました。

組体操や騎馬戦などがないのは承知していました。
午前中にさっと終わるのもアタリマエです。

5,6年生による表現

我が子を応援し、その成長を喜ぶ父兄の盛り上がりが昔ながらでかえって驚きました。
また団体行動の統一感を尊重している点でも昔ながらであることに安心しました。

諏訪のフジモリ姓

諏訪地方に多い姓は藤森だ。

自動車のご当地ナンバー・「諏訪」のテリトリーは岡谷、下諏訪、上諏訪、茅野、原村、富士見といった市町村。
その地域を走るとフジモリの名の看板が目につく。

カメラのフジモリ、藤森建設、藤森眼科、藤森塗料店などなど。
商売のために看板を掲げる藤森さんだけでもこれだけいるのだから、勤め人の藤森さんはこの数倍から何十倍もいるのだろうと想像がつく。

茅野市内のビーナスライン沿いのカメラ店
山梨県小淵沢にも

縄文土器の権威である藤森さん、地元の公民館などを設計した建築家の藤森さんもいる。
諏訪の博物館には考古学の藤森さんの実績を展示したコーナーがある。

八ケ岳山ろくに縄文土器を発掘研究した藤森栄一
建築士藤森照信が設計した茅野市高部公民館
同じく神長官守矢家の裏手に立つ乗り物

全国的に有名なのが芸人の藤森慎吾。
出身地諏訪市の観光大使を務め、最近ではJA信州のイメージキャラクターとして、県内のAコープで流れるCM映像に出ている。

Aコープピアミドリ店前の藤森慎吾
元祖長野県出身芸能人・峰竜太が隣にいる

軽トラ流れ旅 戸隠は忍者の里だった

山小舎に去年から祀っている、戸隠神社九頭竜社の家内安全のお札。
これを納めて新しいお札をいただきに戸隠神社へ行きました。
毎年参拝しては、家内安全と足腰の無事を祈っている神社です。

山小舎からは下道で2時間超の行程。
今回はいつもの善行寺ルートではなく、長野市から鬼無里ぬ向かう道から入るルートでした。

山間に貼りつくように集落が点在する道を上り下ります。
過疎とか限界集落とかが語られる昨今ですが、長野県らしい、日本らしいい風景ではありませんか。

長野市から戸隠に至る山間部の集落風景
渋すぎるバス停
公民館の文字が右から左に
廃屋となった建物

戸隠の里は秋晴れでした。
中社と呼ばれる戸隠神社の中心の社屋周辺には観光客が群れています。
それを横目にパワースポット・奥社に向かいます。

戸隠高原の里風景

参道にクマが出没した奥社は、心配していたほどの混雑もなく、インバウンドの喧騒もありませんでした。
そういえば、さしものインバウンドも中国人も、食べ歩きやごみ捨てなどの姿を見ることがない奥社参道です。
さしもの中国人も、奥社のパワーの前に品行方正にならざるを得ないのでしょうか。

奥社参道には熊注意の看板
参道中ほどの山門。ここら辺にクマが出た
パワースポットの杉並木

何とか休みなしで2キロの参道を上り切り、お参りとお札納ができました。
古いお札の納め場所は中社にあるとのことでしたが、奥社の宮司さんは受け取ってくれました。

奥社のお宮
無事にお札をいただく
ご褒美に蕎麦ソフト

無事に今回の目的を達成。
奥社の向いにある郷土資料館と忍者資料館を訪ねてみます。

戸隠と忍者。戸隠は戸隠流忍法発祥の地だったのです。
そういえばあったな、戸隠(とがくれ)流忍法。
伊賀の服部が徳川の御庭番だったとすれば、戸隠流は武田方についたり、上杉についたり、弱小の地・信州らしい身の処し方を強いられたようです。

民俗館を訪ねる

人気のない忍者資料館に入ってみてさらにびっくり。
そこに展示されているのは、奥義書やら手裏剣などの実物。
昭和になってから後継者らによって実演された忍法の現場写真の数々。
くノ一だというおばさんの写真も。

忍者資料館の展示物
手裏剣の数々
忍法の実践
すいとんの術
くノ一の実物写真

伊賀の里という場所に行ったことがありますが、からくりを仕込んだ屋敷があったり、若い女の子の忍者がパフォーマンスをするような場所でがっかりしたことがあります。
対する、戸隠の忍者資料館は、リアルというか歴史を感じるというか。
さすが質実剛健な信州魂。
忍者の世界もそうなのね。

資料館内部

手裏剣の的当てができる「手裏剣道場」。
バイトのお兄さんに、実物と同じ重さだという手裏剣を持たせてもらい、戸隠流忍者について聞きました。
若いのに郷土の忍者について勉強していることがわかりました。

手裏剣同場にはバイトのお兄さんが立っていた
戸隠山連峰

帰途は戸隠から南下して小川村を通ります。
雪を頂いた北アルプスが見えました。

北アルプス

昼食は新蕎麦を食べたくて道の駅信州新町へ。
相変わらず賑わっている道の駅でした。

新蕎麦セット
道の駅信州新町で蕎麦を打つ職人

黒曜水とカラマツの紅葉

今年になって飲み水、炊事の水をなるべく湧水を使うようにしています。
なめらかでおいしいのです。

姫木から鷹山を通って和田峠の麓、男女倉という場所に湧く黒曜水です。
この日は畑作業からの帰りに、遠回りして中山道経由、男女倉へ寄りました。

男女倉に湧く黒曜水
水場を見守る地元の「ゴミ無し地藏」

平日でも常に2,3組が訪れる水場です。
この日は八王子ナンバーの車が停まっていました。

どの人も、ポリタンクや大五郎などの空ペットボトルをたくさん持参しています。
慣れた人は長靴を履いて足の水濡れに備えます。
土日は詰めかける人が多く、とても寄る気にはなりません。

無心に水をくむ人々
山小舎用のポリタンクとペットボトル
よっこいしょと軽トラに積み込む

男女倉から見渡すと、すでに晩秋に差し掛かった山々の紅葉が見られます。

水場から眺めた秋の山
鷹山線から見た蓼科山
沿線のカラマツ林も紅葉盛り

ポリタンクと2リットル入りのペットボトル10本ほどを満タンにして、クマが目撃されたという鷹山線を走って山小舎へ帰ります。
山小舎の来訪者に陰の一番人気の湧水です。

令和7年畑 ヤーコン収穫と畑整理

11月になりました。
畑にはこれから収穫のヤーコンと、枯れた夏野菜を支える支柱、ネットと枯れてなお勢力を誇る雑草が、幽霊のように残るのみです。

ヤーコンの収穫に向かいました。
ヤーコンはスーパーフードといわれる地下の芋のほかに、葉っぱを乾かしてお茶にするために作りました。
が、この間の霜で葉が枯れていました!

葉っぱが枯れたヤーコン

別の畑で収穫した葉が少々ありましたが、今年のヤーコン茶(新茶)はほぼあきらめましょう。

芋を掘ってみると手では起こせないほどの根を持った樹が2本あり、スコップで起こしてみると素人農園とは思えないほどの巨大な芋が数本出てきました。

ヤーコンの地下部を掘る

大収穫です。
うれしいのですが、同時に保存方法を考えないとすぐ痛みますし、利用方法を考えないともったいないことになります。
とりあえず、彩ステーションにひと箱送ることにします。

ヤーコン芋大収穫

畑を回ってみると、ルバーブが生きています。
ジャムにするために茎を収穫します。

ルバーブ

畑の撤収に入ります。まず枯れている夏野菜の樹を抜いて倒します。
ネットを撤去し、支柱を抜いてまとめます。
枯れた雑草も、根があって丈が伸びたものは草刈り機で刈っておきます。

夏野菜とネットと支柱を撤去した畑

後はマルチを剥がすだけにしておきます。
次回はマルチを剥がしてゴミ袋に詰めて撤去します。
そのあとは一度ゴミ焚きをして今年の作業は終了です。

玉ねぎは去年から作付け中断中です。

ビーツが生きていた

2025 山小舎来客第六弾! (リンゴ狩り編)

11月の三連休に孫一家が来ました。
目的は毎年恒例のリンゴ狩りです。
今年はいつもの小諸ではなく、伊那地方の松川町へ行きました。

中央自動車道の岡谷インターへ出て下り方面へ、駒ケ根の次が松川インターです。
インターを降りて10分ほど走ればリンゴ農家が続くエリアに到着です。

シナノゴールドをもぐ

数年前にも来たことがある宮澤農園でリンゴ狩りです。
フジはまだなので、秋映、シナノゴールドなどを中心に収穫です。
籠二つが一杯になりました。

真っ赤な秋映も収穫

昼食は駒ケ根の明治亭でソースカツ丼。
デザートは飯島町の信州の里菓工房で名産の栗のモンブラン。
立寄り湯を浴びて帰りました。

宮澤農園のりんご狩りマップ

連日美味しい季節のものと、温泉。働く方々にはご褒美。
小学生には思い出。
十分に英気をもらった一行は満足して東京へ帰ってゆきました。

DVD名画劇場 ”ゲルニカ・モナムール” アラン・レネと戦争の記憶

アラン・レネ

1922年フランス生まれ。
幼少から映画に興味を持つ。
俳優を目指しパリに向かうがのちに映画編集を学ぶために高等映画学院に入学、ジャン・グレミヨンに影響を受ける。
短編映画を撮りはじめ、「ゲルニカ」(50年)、「夜と霧」(55年)などに結実。

59年には『フランス人である我々が、日本人が体験した原爆被害をどこまで知ることができるのか』をテーマに、ヌーヴォー・ロマン派の作家マルグリッド・デユラスに脚本(テクスト)執筆を依頼し、長編第一作「二十四時間の情事」を日仏合作で製作。

ヌーベルバーグの潮流に乗っての長編デヴューでもあったが、ゴダール、トリュフォーらの「カイエ・デユ・シネマ派」とは異なり、テクスト(脚本=文学性)を重要視し、『社会参加の意識が強く、自分たちの左翼的意見を隠そうとはしないし(後略)』(マルセル・マルタン著「フランス映画1943ー現代」1978年合同出版刊 P94)と称される「セーヌ左岸派」に属した。

代表作に「去年マリエンバートで」(61年)、「戦争は終わった」(66年)。
70年代以降も2014年の遺作発表まで旺盛な制作意欲を見せる。

アラン・レネの初期作から、反ファシズム・反戦を製作動機とした「夜と霧」「二十四時間の情事」を見る。
レネの原点は、スペイン市民戦争のファシズムによる弾圧を糾弾したピカソの力作「ゲルニカ」をモチーフにした初期の短編作品にあった。

アラン・レネ

「夜と霧」  1955年  アラン・レネ監督   フランス(アルゴスフィルム)

戦後10年、アウシュビッツ収容所解放から10年後に作られた作品。
ドイツによるユダヤ人絶滅収容所の全貌を初めてまとめた映画とされる。

10年後のアウシュビッツ(現地名:オシビエンチム)の夏草に覆われた風景のカラー画面から始まる。

ドイツ国内のナチス党の政権樹立から、ユダヤ人の排斥・強制収容、そして収容所の実像へと時系列に時代を追ってゆく。
家を追われ、貨物列車で移送されてゆくユダヤ人たちの姿は、北米で資産放棄の上、僻地のキャンプに強制収容された日系人を思い起こさせる。

ドイツの戦時収容所にはユダヤ人だけでなく、ドイツ人の政治犯、刑事犯も収容されていたこと。
所内には楽隊や動物園、保育園などがあったこと。
粗暴な看守に対抗する抵抗組織があったこと。
看守用の売春施設(女囚が売春婦)や監獄まであったこと、が語られる。
この時点までは収容所が、刑務所だったり捕虜収容所的な色彩を持っていたということだ。

1942年に親衛隊長ヒムラーがアウシュビッツを視察し『生産的に処分せよ』と指示してから、アウシュビッツが絶滅収容所になった。
ガス室と大規模な火葬施設が作られた。
のちに火葬施設が不足し、死体はバーナーで焼かれたり、野焼きされた。
死体の毛髪は毛布に、遺灰は肥料に転用された。

1945年には収容人数を10万人規模に拡大するとともに、囚人を労働力として活用すべく、ジーメンスなどの国内企業が進出した。
そして連合軍の進出により解放された。

映画は『この責任はだれにあるのか。今も戦争は終わっていない。』と語って終わる。
連合軍の解放場面に問題の解決感は漂わない。
『900万人の霊がさ迷う』とのナレーションも。
この数字は事実誤認とはいえ、フランス映画らしい真実追及の客観性に満ちた作品である。

製作はアナトール・ドーマン。
独立プロ:アルゴスフィルムを立ち上げ、後に「男性・女性」(66年 ジャン=リュック・ゴダール監督)、「バルタザールどこへ行く」(66年 ロベール・ブレッソン監督)などの意欲作をプロヂュースし、「愛のコリーダ」(76年 大島渚監督)「パリ・テキサス」(84年 ヴィム・ベンダース監督)までを作った。

テクストを書いたジャン・ケロールは収容所から生還した作家。
その言葉は作品のナレーションとして語られる。



「二十四時間の情事」  1959年  アラン・レネ監督  日仏合作(大映=アルゴスフィルム)

この作品はいくつもの切り口を持っている。

・監督アラン・レネの「ゲルニカ」「夜と霧」から続く『戦争の傷跡を告発する』作品の系統から。
・大映とアルゴスフィルム(永田雅一!とアナトールドーマン!)のダイナミックこの上ない邂逅と企画実現の経緯から。
・欧州戦争の癒えぬ残像にヒロシマを重ねた脚本のマルグリッド・デュラスの着眼点から。
・欧州と広島という難しい二つの悲劇を奇蹟的に結合させた主演のエマニュエル・リヴァの存在から。

それらの切り口のいずれもが化学反応を起こしたハレーションゆえに、この奇蹟的な映画が誕生したことがわかる。

映画はケロイドの腕が自らの体を撫でまわすシーンと、汗にまみれた男女の腕がお互いの体を撫でまわすシーンのモンタージュから始まる。
短編映画「ゲルニカ」でピカソの絵画を撫でまわすように撮ったアラン・レネの真骨頂だ。
病院の廊下や、原爆資料館の展示物を撫でるようにとらえる移動撮影がモンタージュされる。

反戦映画のロケで広島を訪れているフランス人女優(エマニュエル・リヴァ)と日本人建築家(岡田英次)が出合う。
いや出会いは描写されない。
二人が汗みどろになって抱き合っている場面が二人の出会いのスタートだ。
翌朝、ベッドでコーヒーを飲んだり、一緒にシャワーを浴びるシーンもあり、デユラスの脚本は男女関係の描写が生々しい。

ホテルの部屋で、翌日の朝

男女の出会いに理屈も何もない、出会った以上は生々しい関係こそ不可欠。
これはフランス映画らしさであり、脚本のマルグリッド・デュラスらしさでもある。
のちに自伝的小説「愛人ラマン」を発表する、仏印サイゴン生まれのデユラスらしく、フランス女性がアジア人の現地人と性愛関係を結ぶ設定はこなれている。

エマニュエル・リヴァのナレーションでデユラスの脚本が語られてゆくことのこの上ない心地よさ。
デユラスのセリフを忠実に、まじめに再現してゆくエマニュエル・リヴァ(と岡田英次)の信頼感というにふさわしい演技。

ロケ地まで女を追った男

東洋人と相対する白人女優ということで、心配があったが、岡田英次と対するときのエマニュエル・リヴァには、若干の戸惑いはあったものの、時には好奇心に彩られた信頼感にあふれ、上から目線の蔑みなどはなく、自らの演技に徹しているのがよくわかる。

妻のいない自室に女を招く男

二人は二度の逢瀬(彼女の宿泊先と彼の自室)を経て、離日の時を迎えるが、それまでの空き時間、広島の町を愛する彼女とともに過ごす、繁華街の「テイールーム・どーむ」という名のカフェで。

このカフェ(バーというか洋酒居酒屋というか)での二人のやり取り(リヴァのほとんど独演)がこの映画のハイライトだ。
広島にとどまれと迫る男。
男に惹かれながらも、戦争中の心の傷が癒されない女。
彼女にとってその身がパリにあろうとも、広島に在ろうとも安らぎとはならないのだ。

テイールーム・どーむにて

女は18歳の時、ヌヴェールという地方都市でドイツ兵と恋に落ちた。
生まれて初めての恋に『死んでもいい』と思った。
ヌヴェールに解放軍がやって来るその日に恋人は、待ち合わせのローヌ河畔で狙撃され、彼女の腕の中で死んでいった。
彼女はドイツ兵と通じたことで髪の毛を刈られ、また家族によって地下室に閉じ込められた。
現在のパリの家族にもあかしていない傷だった。

ヌヴェールで初めての恋に喜びを隠せない女

ヌヴェールでの傷を告白し、目の前の男との愛に悩む女。
テイールーム・どーむで女の苦悩が語られる。
その顔に照明は当たらない。
女が男の腕に崩れ落ちたとき、男の腕に当たっていた照明が女の顔を捉える。

まさにこの映画の核心を表すような、暗さを基調にした照明は大映スタッフのなせる業なのか。
「夜の河」(56年 吉村公三郎監督)で山本富士子の京都のお茶屋でのラブシーンを徹底したバックライトで表現した、大映京都の職人・岡本健一の照明を思い出す。

テイールーム・どーむにて、自らの傷を打ち明ける女

また、テイールーム・どーむでのシーンに、日本の歌謡曲や盆踊りの音がかぶさる。
特に歌謡曲が流れ、女のヨーロッパでの忘れられない傷が語られる場面は、時空を超えた異化効果に満ちた場面となった。
まったく異なる文化、地域が画面で融合する。
背景にはアラン・レネの『撮影地日本に対する前向きな好奇心』があったのだろう。
これがデユラスの脚本にあったのだとしたらその創作力に感服する

ヒロシマとヌヴェールを対比させ、融合させる試みを持った作品。
ヒロシマに対する表面的な理解(これについては、女に向けて『君は広島で何も見ていない』と男に語らせている)に対して、ヌヴェールで女が生涯の傷を追う描写の数々の深刻さ、残酷さが格段にリアルで、そこにフランスと日本の認識の断絶が表れてもいるが。

女と男は語り合ううちに、忘れることに恐怖しつつも、ヌヴェールを忘れてゆき、男に対し『あなたの名はヒロシマね』という。
男は『君の名はヌヴェール』と言って映画は終わる。
戦争と、恋と、故郷に傷ついた女性にとってこれは救いの言葉なのだろうか。

広島駅の待合室にて

長編第一作が日仏合作映画というアラン・レネ。
己のスタイルを崩さず、かといって脚本のヂュラスへのリスペクトも維持し、またロケ地日本への好奇心と尊重もある作品を作った。
山場のテイールーム・どーむでの男女の芝居の演出も上手かった。
これにはスタッフの協力もあるが、スタッフの協力を引き出すのも才能だろう。

エマニュエル・リヴァはロケで広島に滞在中に自らのカメラで広島の町をスナップしていた。
のち(2008年)にその写真集が日仏で出版された。
当時の広島の街角や市井の人の日常が写っている内容だったが、彼女の被写体に向けての親しみと好奇心にあふれたものだった。

また、はるか昔に見た本作は、大映マークで始まる日本配給版で、大映マークの後にはお馴染みの『製作 永田雅一』と縦書きのクレジットがあった。
アラン・レネ作品にしては、と激しい違和感を感じた事を思い出すが、今にして思うのは、大映スタッフの全面協力がなければなしえなかった企画であったろうということである。


(おまけ) 1982年3月のアウシュビッツ

山小舎おじさんがアウシュビッツを訪れたのは、バックパッカー旅も1周年を迎えたころ、今から43年前のことでした。

西ベルリンのポーランド大使館(領事館?)で50マルク(5000円ほど)でポーランドの10日間だったか1週間だった加のビザを入手。
西ベルリンから列車でポーランドのポズニナへ入りました。

アウシュビッツ(現地名:オシビエンチム)はローカル列車しか止まらないため、最寄りのカトビツェという中都市まで行きました。
カトビツェの町は、石炭ストーブを燃やしたススの臭いが漂っており、かつての北海道の冬を思い出させました。

当時のポーランドはバックパッカーには塩対応でした。
まず安宿(国営旅行会社直営の宿、ユースホステルなど)が見つかりずらい上に、たどりついても宿泊を断られることがありました。
また、街行く人はうつむいて早足に通り過ぎてゆくイメージです。
話しかけてくるのは、ドルと現地通貨を交換したがる闇両替の男くらいでした。
当時のポーランド・ズロチの闇レートはドルと交換すると使えきれないくらいズロチをもらえました。
また、観光案内所以外に英語が通じる場所がない印象です。
レストランではメニューはあるものの、あれはないこれはないで、出てくるのはビーツの真っ赤なスープ(そこに餃子が浮かんでいることも)だけのことが多くありました。

カトビツエから、窓が汚れ、なんだったら割れたままの普通列車でオシビエンチムの駅へ。
そこから路線バスで収容所跡へ行きました。
下りる停留所がわからずキョロキョロしていると、乗客の女性がここだよと教えてくれました。

収容所跡は整備させれた博物館のようになっており、観光客がチラホラいました。
卒業旅行で来ている、富山県滑川出身の慶応大学生と知り合いました。

”アルバイト・マハト・フライ”という、囚人に労働を喚起する収容所の標語が、よくみる写真そのままにゲートに掲げられていました。

靴やメガネなど囚人の遺品がほこりにまみれてガラス越しに積み重ねられていましたが、女性から刈られたであろう遺髪の山の金髪が記憶に残っています。

2段ベッドが連なる収容室の中央には、むき出しの水洗トイレがありました。
収容室の床はタイル張りだったと思います。
囚人の尊厳は否定しつつも、清潔に留意し、尊厳以外の部分は合理的に運営しようとするところにドイツ人らしさを感じました。
「夜と霧」に出てくるトイレは穴が開いただけのものが並んでいましたが、そういった場所もあったのでしょう。

ガス室と火葬施設ですが、レンガ造りのガス室はともかく、同じくレンガ造りで一人ずつ焼くスタイルの火葬施設が2基だけ並んでおりました。
これじゃ大量に焼けないな、と思ったものでした。
「夜と霧」では大規模な火葬施設と野焼きの場面がありました。

広大な収容所跡を巡っているとたった一人になることが多くありました。
既に戦後37年を経過し、地元のポーランドにはほぼ縁がなく、しかし膨大な費用が掛かる(費用負担はだれが?)であろう収容所の背景はいったい?

マルグリッド・デュラスが「二十四時間の情事」のテクストで冒頭に喝破したように『アウシュビッツの何も知らず、何も見ていない』のです。
ましてや戦争を知らない世代の東洋からの旅人にあっては。

茫漠たる思いに駆られながら売店で、”アルバイト・マハト・フライ”を掲げた門の絵葉書を買って送った記憶があります。
ここへ来た記念としてのみの意味として。

アウシュビッツを見た後、クラコフ、ワルシャワと移動しました。
ワルシャワでは、ユダヤ人ゲットー跡とされる場所に行ってみました。
そこには巨大な壁のようなモニュメントが建っており、周辺は数階建てのアパートが整然と並ぶ団地になっておりました。
ソ連軍の到着を目前にしたワルシャワ市民が占領軍に対して立ち上がった、ワルシャワ蜂起の記録フィルムが見たくて旧市街にある博物館にも行きましたが、英語が通じないうえに休館でした。