DVD名画劇場 淀長さんベスト121より「チート」と早川雪州

KAWADE夢ムック「サヨナラ特集淀川長治」より

1999年河出書房新社刊の淀川長治追悼ムック本が手許にある。
ご本人の生い立ち以来の口絵写真に始まって、双葉十三郎、蓮実重彦/山田宏一との対談、本人エッセイ、講演録、果ては吉行淳之介や北野武との対談までを採録した稀覯本というかマニアックな内容なのだが、目次の一つに「映画百年これだけは見ておきたい私が愛する100本の映画」という項目がある。

表紙

『すべてが貴重品。映画の教科書ばかりですよ…』と銘打ったもので、初出は94年7月号の文芸春秋とのこと。
100本というオーダーに平気で121本出すところも淀長さんの面目躍如。
古今東西の名画が並んだ。

ベスト121の一覧

私など、小学校から中学、高校と「日曜洋画劇場」で、50年代からのハリウッド名画の数々をその独特の解説とともに学ばせていただいた我等が淀長さんご推薦の100本である。

淀長さんこと淀川長治さんは、戦後すぐの時代から「映画の友」の編集者として、映画の解説、紹介の分野で文字通り日本の最先端を歩み続けた人で、来日した映画製作者、監督、スターらへのインタヴューや、2回のハリウッド訪問の記録に接するにつけ、その映画愛、人間愛に感銘を受けざるを得ない。
『私はまだ嫌いな人に会ったことはない』(淀長さんの金言)のだ。

ハリウッド訪問時の淀長さん。セシル・B・デミルと

手許にあるDVDから淀長さんベスト121に選ばれた作品を選んで見た。

「チート」  1915年  セシル・B・デミル監督  パラマウント

淀長さんベスト121の第4位は「チート」(第4位といってもベスト4ということではなく、ベスト121の映画を年代順に並べた4番目ということ)。

古めかしいサイレント映画と思いきや、古臭さよりも映画的活力、先進的技法、早川雪州のギラギラした野心が画面を横溢し、そうしたエネルギーが全く古びていない作品。

コンセプトは、アメリカ現代人の危うさと、その救い。
主人公らは中産階級のアメリカ人夫婦。
夫人の浪費の危機、株取引に依存する夫の危うさが描かれる。
一方、ビルマの象牙王・アラカワという社交界のパトロンがいて、金力と性的魅力で世の婦人たちを狙っている。
そうとも知らずに浪費を続け、赤十字慈善事業の寄付金にまで手を付ける無知で見栄っ張りな夫人。
株価に頼って虚業の世界で生きている夫は妻の浪費の心配以前に、株価が心配だ。

主人公夫婦が覗き見る経済的、貞操的、犯罪的地獄の入り口に口を開けているのが「東の野蛮人」ことアラカワであり、若く、エネルギッシュな早川雪州が演じて、アメリカ人の主人公夫婦役の俳優女優を完全に食っている。

夫人は破滅寸前まで見栄っ張りを貫き、アラカワの毒牙にかかり、焼き鏝を押されてしまう。
貞操だけは守り抜く。
夫は妻の危機を察し、すんでのところで介入、アラカワを射殺した妻の肩代わりとして逮捕される。
裁判でも罪を着ようとする夫だが妻が真実をぶちまけ逆転無罪となる。
アラカワは民衆によるリンチを受けず、法の下の正義によって裁かれる。

物語のベースにあるのは、人種的・文化的偏見であるから、アラカワなる人物は、強欲で悪辣で好色でついでにサデイステイックな存在として描かれており、主人公夫婦のはまった「地獄の入り口」の象徴であり、白人の仲間としての人間ではない。
アラカワと共に登場する日本趣味の小道具、畳・仏像・線香、などは中国文化とごっちゃになった『ハリウッド式東洋趣味』ではなく、正確な日本趣味であるが、それは彼らが日本に興味があるからではなく、早川が導入したのかどうか、いずれにせよ、たまたまのものであろう。
映画の精神は、字幕にも出てくる『東は東、西は西。両者は出会うことはない』なのだから。
排日主義、黄禍論というより、異邦人に関心を持つ精神的、文化論的余裕も想像力もないのであろう、アメリカ社会もハリウッドも。

金融資本主義の危うさ、浪費の危うさ、パーテイに象徴される華美で見栄っ張りな習慣の危うさをピューリタン的精神で批判しつつ、法に基づく正義を謳った作品。
アラカワに象徴される異文化、異邦人はあくまで映画的興味の範囲内だったが、終わってみるとアラカワこと早川雪州しか印象に残らない作品となった。

わかりやすくテンポの良いスジ運び。
シルエットを生かした絵づくりなどデミルの演出は的確だった。

有名な、アラカワによる白人女性への焼き鏝あてのシーンは、本筋に怪しくグロテスクに彩を添える、デミル的な効果を狙ったもので、その俗物的な狙いは十分に効果を発揮した。
むしろ効果を発揮しすぎて、観客の特に女性は、雪州のぞくぞくするセックスアピールとしてとらえたようだった。

いずれにせよ、雪州の存在は、ルドルフ・ヴァレンチノのように異人種の怪しい性的な魅力の象徴だったようだ。
ヴァレンチノがアラブ人に扮し、白人娘と結ばれぬ恋に落ちたサイレント映画でも、二人の結ばれぬ愛について『東は東、西は西』と字幕が出ていた。(当時はアラブ人は、アジア人同様に『東』の存在だった)。

(おまけ)「人間の記録87 早川雪州 武者修行世界を行く」1999年 日本図書センター刊より

手許に「チート」の主演、早川雪州の自伝があるので読んでみた。
思っていたより数十倍面白い。

表紙

明治23年に房総半島の海岸部の村に代々村長をつとめた家に生まれ、海軍兵学校を目指すが耳の炎症で不合格に、それならばと渡米してシカゴ大学で法律を学び始める。
父親の死去に伴い帰国しようとロサンゼルスに向かうが、その時にたまたま入った日本人向けの芝居小屋でひらめき、徳富蘆花の「不如帰」を脚色して自ら主演、これが評判になる。

芝居に目覚め、アメリカ人向けに「タイフーン」という芝居を打ったところ、ニューヨークの映画会社社長トーマス・インクの目に留まり映画化。
「タイフーン」はパラマウントが配給しヒット、同社(正確にはトーマス・インクのプロダクション)と4年の契約を結ぶ。
パラマウント時代の代表作は「チート」のほか、メキシコで撮影した「ジャガーの爪」(17年)など。

パラマウントとの契約終了後は独立プロを作って映画製作をしたが、排日のアメリカからフランスに渡り、戦中戦後はパリで過ごした。
その後はアメリカ、日本を往復し、舞台、映画で活躍した。

目次

雪州の自伝が面白いのは海外に渡ってからのエピソードの破天荒さだ。
渡米第一夜のサンフランシスコで地元のチンピラに絡まれ柔道技で撃退したり、俳優として売れてからは、たかってくるチンピラたちを恐れずにふるまったりのエピソードがつづられる。
まさに大正期に世界を股にかけて探検したり、無銭旅行をした幾多の同輩たちの痛快な旅行記を読んでいるかのような気持ちにさせてくれる。
この時代に世界に打って出た日本人青年の、無鉄砲さ、開き直り、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、の精神が脈々と波打っている。
そういう時代だったのだ。

ハリウッド時代には禁酒法もものかわ、自宅の豪邸で何百人も招待しての乱痴気騒ぎをした記述もある。
また、スター周辺には「金堀リ女」と呼ばれるものがいて因縁をつけて結婚を迫ることも。
チャップリンやミッキー・ルーニーが何度も結婚するのはそういった女に引っかかったから、とか。
独立プロで「赤い鉛筆」を撮影したときには、合同で製作した会社の社長が200万ドルの生命保険を雪州にかけ、セットの事故を装って殺されそうになったことも。
本当かどうかはともかく、ハリウッドらしい、浮世離れしたエピソード。
危機一髪で切り抜ける雪州の、大正時代の日本男児的面目躍如ぶりも素晴らしい。

雪州と妻

「戦場にかける橋」(57年 デヴィッド・リーン監督)では3か月間セイロンでロケし、男ばかりで女っ気が全くなく、現地の女性らを招待するがやってきたのは子供ばかり。
スタッフらがノイローゼになり自費で奥さんらを呼び寄せた話。

「緑の館」(59年 メル・ファーラー監督)ではアマゾンの酋長を演じ4週間の現地ロケ。
もう少しでクランクアップというある日、着物を着、扇子を開いて日本娘に扮したオードリー・ヘプバーンがキャデラックで慰問にやってきた話。
やはり映画関係の話が面白い。

後半には仏教と禅に傾倒し、精神と肉体の関連を話したり、俳優の相談に乗ったりした話が出てくる。
そういえば国際的に売れた後の大島渚が雪州を素材にして「ハリウッド・ゼン」という映画を企画していたことを思い出す。
もっとも主役は坂本龍一かジョン・ローンだったろうから、全盛期の雪州の妖気と色気の再現は無理だったろう。

令和7年畑 ルバーブ、パクチー採種

畑の作物から久しぶりに採種をしました。
採種したのは、ルバーブとパクチーです。

ルバーブは去年植えた苗が年を越してトウ立し、種ができました。
トウが枯れてきたので採種しておきました。

ルバーブの種を畑から持ち帰る

パクチーは数年以上も前に蒔いたものが毎年、自然発芽してきますが、そのうち早々に花が咲き、種を結んで枯れてきたものから採種しておきました。

持ち帰ったパクチーの種

そのまま山小舎に持ち帰ってきました。
時間がある時に種を取り出しました。

種だけをより分けます。
チャック付きビーニーるの小袋に日付と名前を書いて来年まで保存します。

DVD名画劇場 メリナ・メルクーリ「日曜はダメよ」

メルクーリとダッシン

メリナ・メルクーリはギリシャに政治家一家の娘として生まれ、舞台女優のキャリアを積んでいたが、アメリカ人監督のジュールス・ダッシンと知り合い恋に落ちる。
二人とも既婚者で、ダッシンには子供もいた。

ニューヨークにユダヤ人移民の子として生まれたダッシンは、映画監督として「真昼の暴動」(47年)、「裸の町」(48年)などドキュメンタリータッチの作風で売り出していたが、マッカーシズムの犠牲者としてヨーロッパに亡命的な移住を余儀なくされていた。
数年のブランクを経て、フランスで「男の争い」(55年)を撮り、カンヌ映画祭で監督賞を受賞した。
メルクーリと出会ったのはそのころだった。

メルクーリとダッシン

意気投合した二人は「宿命」(57年)、「掟」(58年)を独立プロデユーサーと組んで作り上げた。
のちに「日曜はダメよ」の原案となるアイデアをダッシンが思いつき、ユナイトのヨーロッパ支社長に出資と配給を取りつけてできたのが本作である。

ダッシンは(「日曜はダメよ」について)語る。
『他人に自分の考えをそっくり押し付けようとする男の話』
『万事うまく行っているところにずかずか入ってゆき、何でもかんでも捻じ曲げてしまう男なんだ。その彼が一人の女に出会う。彼女はギリシャ人で、男はアメリカ人だ』
『悪い奴じゃない。ただ危険なほどナイーブなんだ。ボーイスカウト、つまりとてつもなく単純なんだ。彼女はとても幸せで、彼にはそれが我慢ならない。彼女が幸せなはずはないと思っているんだ』。
(メリナ・メルクーリ著「ギリシャわが愛」1975年合同出版社刊P177、178より)。

ギリシャのピレウス港を舞台にした物語はこうして始まった。

メリナ・メルクーリ著「ギリシャわが愛」1975年合同出版社刊
同・目次

「日曜はダメよ」  1960年  ジュールス・ダッシン監督  ギリシャ

ピレウスの娼婦イリアを演じるメリナ・メルクーリ。
目が大きく、スタイルがよく、自分の魅力がわかっている。
育ちの良さが隠せない、生まれながらのヒロイン。
たばこの吸いすぎとウーゾ(ギリシャのスピリッツ)の飲みすぎで声がガラガラ。

ダッシンの演技は、ニューヨーク時代にイディッシュ語の舞台で鍛えた歩き方が、踊るようだ。
アメリカ人らしい直情的な反射神経もある。
ただし、常に尖っていて「文明人」らしい余裕はない。

イリアとホーマー

ダッシン扮するアメリカ人哲学者ホーマーが体験するギリシャは、例えばブーズーキという弦楽器の演奏が流れるタベルナ(酒場)では、ウーゾ以外のものを注文されるのを嫌がり、興が乗ってくるとおっさんがソロで踊り出す。
そのおっさんは踊りに拍手されると侮辱されたと感じる。
なぜならソロの踊りは全く自分のためだけの踊りだからだ。

タベルナではウーゾのグラスを空けると、グラスを床でたたき割る。
ホーマーがアメリカで流行っている精神分析をひけらかし、ギリシャ人に「(その気持ちは)母への憎しみが潜在的にあることが原因だ」などと言おうものなら、「母親は聖母だ!」と反論と反撃のパンチを浴びる。

ホーマーはギリシャの習慣と精神にいちいちびっくりし、大げさな反応を示すが、映画は勝手にアメリカ文化(精神分析、アンチアルコール、キリスト教原理主義的な倫理観、科学信仰、西欧文化への偏重など)を押し付けるホーマーの場違い感を強調する。

イリアを中心に、美しいものを愛で、義務感よりも楽しみを生きがいとするピレウスの港町で働く男たちは、時として、イリアをヒロインとしたミュージカルのバックダンサー兼コーラスの如く描かれる。
その幸福感は、見ているものが「実際のギリシャ社会はそんなものじゃないだろう」と、醒める思いをするほど予定調和的に美化されてもいる。
それらの予定調和感は、ダッシンがそこまで深くギリシャを理解していないことの表れだろうし、また敢えてギリシャ社会の現実をそこまで深く描こうとしなかったからでもあろう。

この作品にとってのギリシャは、イリアという娼婦に象徴されている。
それはとてつもなく魅力的で困惑的ながら、誇り高く、それでいて恐ろしく無知で、直感的で、『進歩性』のないギリシャそのものである。

彼女はギリシャ悲劇を円形劇場で観劇して、涙を流しまた爆笑するが、その悲劇的結末を自分流に解釈するのだ。
「主人公たちは和解して海岸へ行く』と。
これがホーマーには理解できない、最後まで。
そしてピレウスの港に軍艦がやって来ると矢も楯もなくワクワクし水兵たちを迎えに駆け出したくなるのだ。
彼女を「教化」しようと散々試みたホーマーを軽く裏切って。

イリアと愛する男

ダッシンの脚本は、おせっかいなアメリカ人のギリシャ文化への出会いと、相互無理解と、アメリカ人による「教化」の失敗を描きつつ、ギリシャ文化への愛着は、深い理解は保留しつつも、メルクーリの太陽のような存在に託して思いっきり打ち出している。

メルクーリが登場する部分は、ほぼ彼女の自由にさせている。
たびたび登場する、タベルナでのブーズーキのメロデイ。
男たちはイリアを中心に嬉しそうだ。
そして日曜日はイリアの自宅で(日曜はイリアの休業日)男たちが集まり、イリアを賛美する。

ユナイト配給のハリウッド資本映画乍ら、ギリシャ語が飛び交い、ホーマーの英語はイリアが通訳する。
ホーマーのイリアへの「教化」は失敗するが、「アメリカの失敗とギリシャの勝利」と単純には描いていない。
船でギリシャを去るホーマーを見送りに、イリアを中心にピレウスの男たちが船上でじゃれ合う姿に、いつまでも変わらぬギリシャへの憧憬にも似た肯定感があふれているのだった。

メルクーリが劇中で「プレイバック撮影」(セットに流す音楽に合わせて歌い、演技する撮影方法)で歌う主題歌は世界でヒットし、今ではポピュラー。
彼女はカンヌ映画祭で最優秀女優賞を獲得した。

(おまけ)作品の舞台ピレウスとギリシャについての思い

ピレウスはギリシャ一の港で、諸外国からの航路やエーゲ海の島々への航路の窓口となっている。
1981年に、エジプトからイタリア船に乗ってついたところがピレウスでした。
夜中についたので、港の施設のベンチで夜を明かしました。

ピレウスからアテネまでは近代的な地下鉄が通じており30分ほどで着いた記憶があります。
地下鉄の座席に親子の乞食(子供は眼を患っていた)がいたことも。

アテネのシンタグマ広場で各国からのバックパッカーとともに雑魚寝の野宿をして、日本大使館で日本からの手紙を受け取り、パルテノン神殿などを見た後、ギリシャの島でも一つくらい見ておこうかと再びピレウスを訪れました。

確かイドラ島というところへ行ったのですが、青函連絡船くらいの大きなフェリーの甲板で半日くらい過ごしました。
たまたま日本の貨物船とすれ違い、気が付くと貨物船の日章旗に手を振っていました。
着いた島はビーチが白人観光客の巣のようになっており、彼等は何もせずじーっと日に当たり続けているのでした。

ギリシャの旅を終え、ヒッチハイクでヨーロッパを北上したのですが、ギリシャでヒッチハイクするのは一苦労でした。
アテネから車列は続くのですが止まってくれる車はないのです。
折から旅仲間となったユーゴスラビア人とヒッチハイクを試みたのですが、夜になり、地元の食堂に入った後、そこら辺の藪の中で野宿したこともありました。
ようやくつかまった車はドイツからギリシャに来た若者が帰る途中のバンでした。

2025 山小舎来客第三弾!

今年の山小舎は来客の当たり年です。
先月来客した二組は初の山小舎来訪でしたが、この度の一団は三回目の常連客です。

一団は、山小舎おばさんの活動の本拠地、調布柴崎の彩ステーションのサポーターたちです。
山小舎では彩ガールズとか彩レデイースと呼んでいます。

颯爽と到着した一行

平均年齢は70代中盤を過ぎてはいるものの、彩ステーションの日ごろの活動にボランテイアで参加し、頼もしく手助けしていただいてます。
特に料理が得意で、韓国にキムチ漬けを習いに行ったこともあるYさんと、彩ではYさんのフォロー役ながら自らは山歩きが趣味で、かつて糸魚川から静岡まで「塩の道」を踏破したこともあるというOさんは強力なメンバーです。

寝部屋には布団を準備
座布団を日に当てておく

山小舎おばさんの運転でやってきた一行は、八ヶ岳エコーライン沿いの蕎麦屋でランチの後、八ヶ岳実践農業大学で景色を愛でながらソフトクリーム。
さらに山麓のハーブ専門店や、富士見高原リゾート内のパン屋などで買い物。
茅野市郊外の縄文の湯で汗を流して山小舎に夕方到着しました。

山小舎での歓迎準備は、前日までの買い出し、仕込みから始まります。
前日中にはサイドデイッシュの豚角煮中華風の下茹で、あんみつ用の小豆の浸水をしておきました。
炭火焼き用食材の仕込み(カット、くし刺しなど)、サラダ用野菜の水洗い、小豆をあんこに煮るなど、は当日の朝からの仕事です。
畑に行って新鮮な野菜を収穫しようとも思いましたが暑いのでそれは中止。
到着の1時間前には炭おこしと、ストーブの上での焼き芋を始めます。

畑のインゲンの胡麻和えと焼き芋
糠漬け
焼き物メニュー

2日間煮込んだ豚角煮を器によそい、肉以外の焼き物(トウモロコシ、シイタケ、ズッキーニ、アスパラなど)をザルに用意します。
サラダの材料の水を切って、ゆで卵を作り、キューリを塩もみ、ビーツのピクルスの瓶を開けておきます。
糠漬けを出して切っておきます。

ビーツのピクルス入りレタスサラダ
塩にぎり
豚角煮と串焼き

5時頃到着したレデイースは旅の疲れと胃の疲れもものかわ。
席に着くなり、豚角煮をとりわけはじめ、飲み物で乾杯し始めました。
これにはうれしい誤算の山小舎おじさん。
負けじと乾杯に参加し、それからは一瀉千里の炭火焼き大会です。

レバーから炭火焼き開始

山小舎の天然のクーラーのようなきれいな空気の中、レデイースの食欲はいや増すばかり。
特にアルプス牛サーロイン薄切り(30%オフ)を大鹿村の山塩で焼いたものは大好評でした。

「サラダのトマトが美味しい」とか「山塩はマイルド」とか「サラダのビーツは土臭くない」とか「鶏レバーが大きい」とか、ワイワイしゃべりながら、リアクションが飛び交いました。
準備した側としてはうれしい反応です。

来年の山小舎での再会を期しながら、一泊の来訪を終えた彩レデイース一行でした。

帰った後は寝具の洗濯

軽トラ流れ旅2025 「中央構造線」上を行く 大鹿村に山塩を求めて

農村歌舞伎と山塩で有名な大鹿村に行ってきました。

大鹿村は、伊那谷と南アルプスの間を走る国道152号線・秋葉街道沿いにある村です。
山間にある大鹿村に通じているのは、南北に走る秋葉街道と、伊那谷の松川町から山を越える道が2本あるだけです。

山小舎から大鹿村を目指すには、いつもの杖突街道で高遠へ出て、秋葉街道を南下します。
秋葉街道の途中には長谷村、分杭峠があります。
九州から東西に列島を横断し、諏訪湖へと続く中央構造線上にある分杭峠は、「ゼロ磁場」としてスピリチュアルな名所となっています。

軽トラ流れ旅では、まず恒例の杖突峠を越えて、高遠に行きました。
そこの直売所をのぞき、タマリーという液肥を買い求めます。
この液肥は野菜の根の張りに効果的なのです。
まお。この日はお米の入荷はないとのことでした。

高遠から国道152号線・秋葉街道を南下します。
まもなく道の駅・南アルプスむら長谷が見えてきます。
なおも進むと右手に巨大な美和湖というダム湖が見え隠れします。
交通量は少なくなります。
左手には広々とした河川敷が広がり、採石場などが建っています。
このあたりでは砕石採砂が許されているのか、または河川工事の最中なのか。

交通量のほとんどない山道を登ってゆくと、伊那谷の駒ケ根への分岐点の中沢峠を越え、いよいよ分杭峠です。

分杭峠が近づくにつれ関連商法の店が出てくる
磁場ゼロを売り物にしたショップ

ゼロ磁場ということで全国から「気」による癒しを求めるファンを集める分杭峠。
駐車場がないので、長谷村からのシャトルバスがシーズン中は運行しているとのこと。
狭い秋葉街道沿いの分杭峠を越えるとそこは大鹿村の領域です。

分杭峠
大鹿村へ入る

中央構造線沿いのこのあたりには、地層の断絶が露呈した「露頭」があちこちにあります。
分杭峠近くにも北川露頭という場所がありました。

北川露頭

案内板

北川露頭を見て街道を下ってゆきます。
何となく集落になってきたなと思うと大鹿村の中心部です。
まずは山塩を求めて、「塩の里」によってみます。
道の駅のように、直売所と食堂が併設している施設です。

露頭近くの神社
神社近くの廃屋

人気のない塩の里でしたが、山塩は売っていました。
山塩とは岩塩でも、昔海だった場所で採れる塩でもなく、中央構造線の岩盤の間に流れ込む海水が温泉と混じって噴出したものを煮詰めて作ったものだそうです。

塩の里
これが山塩だ

直売所ではそのほかに蕎麦の乾麺と味噌を買いました。
近くの山塩館という温泉は立寄り湯はしていないとのことで、食事をすべく道の駅・歌舞伎の里大鹿を目指しますが、その前に春の歌舞伎が行われる神社と、中央構造線博物館を見ることにしました。

映画「大鹿村騒動記」の舞台にになった食堂
春の大鹿歌舞伎が行われる神社境内

大鹿村の郷土博物館・ろくべん館と中央構造線博物館は隣接しています。
ろくべん館は入場無料。
ここの展示を見て知ったのですが、大鹿村は昭和36年に村の中央部を流れる川の氾濫と、大西山の山崩れで多数の死者を出す大災害に見舞われていたのです。
ろくべん館から程近くの一部が露呈した山は大西山だったのです。

その当時のニュース映像などを見るにつけ、山間の災害の大変さが痛感されます。
大西山の山崩れは、中央構造線に構造的原因があり、そこに大雨で地盤が緩んだためとのことでした。
今に続く、河川工事のダンプの列や川沿いの砂利、砂の山々は60年前の自然災害の復旧ですが、根本的には中央構造線上の村の宿命のように見えました。

ろくべん館の展示内容より
大鹿歌舞伎の展示
かつての基幹産業、林業の展示..
中央構造線博物館、石・石・石の展示内容
博物館から望む大西山の山崩れ跡

道の駅で昼食です。
どれもボリューミーで魅力的なメニューですが、蕎麦とカツ煮のセットにしました。
田舎の食堂のお約束はご飯の盛がいいことと、腹いっぱいのボリューム感です。
お腹も気持ちも満足です。

道の駅
道の駅の食堂メニュー
カツ煮定食そばセット。1100円

直売所を一回りして、山塩ジェラードブルーベリー乗せをデザートに食べて大鹿村を後にしました。

DVD名画劇場 イタリア映画前史 「カビリア」

サイレント時代のイタリア映画

「世界の映画作家32秋の号 イギリス映画史・イタリア映画史」(1976年 キネマ旬報社刊)の「イタリア映画史(吉村信次郎編)1・チネマトグラフォ誕生~4・イタリア史劇の黄金時代」までを読んで、サイレント時代までのイタリア映画史のトピックをまとめてみた。

・映画の始まりは、フランスのリュミエール兄弟が特許を取り、観衆の前で上映したシネマトグラフからだといわれている。
シネマトグラフはイタリアにも輸入され、見世物「チネマトグラフィ」として大いに観客を集めた。

・1905年にトリノにイタリア初の映画スタジオが完成。
「ローマの占領」という劇映画が発表される。
当時トリノはイタリア映画界の中心で、12館のチネマトグラフィ上映館があったという。
また、大衆に人気のある文豪ガブリエル・ダンヌンツイオの映画への参加により、映画の一般化、社会化が進んだ。

・1908年に発表された「ポンペイ最後の日」は、イタリア国内のみならず海外でも成功し、イタリア映画を名実ともに飛躍させた。
これまでチネマトグラフィの題材は、実写が多かったものの、歴史上の人物を主人公とした劇映画の製作は、その後のイタリア映画の題材となった。
史劇はイタリア統一運動を経たイタリア人のナショナリズムをくすぐる題材であり、またイタリア映画の特色として世界に認識された。

・1911年にトリノで開かれた万国博覧会は、フィアットと並ぶ世界的産業となったイタリア映画のお披露目ともなった。
1912年には上映時間2時間、製作費2万リラの超大作「クオバデイス」が製作された。
サイレント時代の最大のヒット作となる「カビリア」が製作されたのはその2年後となる。

「世界の映画作家32 イタリア映画史」に目を通すと、チネマトグラフィの時代からイタリアでは映画が盛んで、一時は国内の映画撮影所が、フランス、ドイツやハリウッドの撮影所の手本となったことや、史劇映画が世界各国で定評を得ていたことが分かる。
その土壌の上に、ネオレアリスモや、ヴィスコンテイ、フェリーニ、ベルトルッチらの華々しい芸術が生まれ、またマカロニウエスタンやモンド映画、ホラー映画などが毒々しく花を咲かせたことがわかる。

「カビリア」   1914年   ジョヴァンニ・パストローネ監督  イタリア

製作者兼監督のパストローネは、これまでの総ての映画を凌駕するような超大作を1912年に企画。
自らもルーブル美術館のカルタゴ展示室をはじめとした多くの博物館や文献を参考に時代を考証。
出演者の選定では、重要な黒人奴隷のマチステ役に素人の港湾労働者を選び、数か月にわたってカメラ慣れさせた。
また、原作者に文豪ガブリエレ・ダンヌンツイオの名を借り作品の知名度アップを狙った。

カルタゴの神殿の大セット

紀元前のローマ対カルタゴの戦争を題材に、エトナ火山の噴火、ハンニバル軍のアルプス越え、シラクサ港のローマ軍艦の炎上、など大スペクタクルをちりばめた作品で、製作費5万リラ、製作期間1年、上映時間2時間の当時としては破格の大作となった。

アルプス、チュニジア、シチリアなどでロケを敢行。
ミニチュア撮影、移動車やクレーンを使った撮影などの新機軸を活用し効果を上げた。

王宮のセット。象の彫刻は「イントレランス」のバビロンの神殿のセットに影響を与えたか?

紀元前の戦い、特に相手の城壁を攻略する武器には、梯子段、櫓(滑車で移動できる高さ数メートルの木造の櫓。兵士が乗って城壁を攻撃しまた城壁を越えるための兵器)、投石器などが数々の映画で再現されている。

「カビリア」では梯子段と投石器が見られて、ハリウッド映画の「イントレランス」(16年 D・W・グリフィス)、「十字軍」(39年 セシル・B・デミル)で見られた櫓は出てこなかった。
また、「カビリア」では、兵士たちが自らの体と盾を使って組体操のように積み上がり、上段に登った兵士が城壁を越えるという場面があった。
城壁攻略としては、地味で原始的な方法で、ハリウッド映画などでは見られないものだったが、当時の再現としてリアルだった。

また、ハンニバルのアルプス越えの場面では、アルプスに何百人のエキストラを使ってロケし、歴史的場面が再現されている。
象も使われており、史実の再現が忠実になされている。
動物の使用では、宮殿で姫が豹やハトをペットにしている場面がみられる。
ハリウッドの歴史スペクタクルでも豹などの使用がみられるが、これも史実なのであろう。

豹をペットにする王族

物語の狂言回し的な役割がローマのファビオとマチステのコンビで、敵対するカルタゴをかく乱し、ヒロイン(というかイタリアを象徴する女神的存在)のカビリアをカルタゴの邪宗や奴隷の危機から救うのだが、のちのヴィクター・マチュアのようなマッチョ型史劇俳優の出発点のようなマチステが印象的だ。
のちにマチステ主演のシリーズが作られたという。

マチステは黒人の設定だが、カルタゴなどの宮殿で姫に使える女官には黒人の設定が見られる。
ヨーロッパにも黒人奴隷の歴史があったということなのだろう。
今のヨーロッパに、近年の黒人移民は多数いるが、紀元前からの黒人奴隷の痕跡はあるのだろうか?
中世にはキリスト教勢力による日本人奴隷のヨーロッパ導入もあったが、その人種的痕跡はほぼ見られないことから、近年に至るまで厳然たる人種的隔離があったのだろうか。

マチステのマッチョぶりはのちの史劇にも影響したか?

映画技法的には固定カメラの前で俳優が芝居する方法によってはいるが、何か所かカメラがゆっくり移動する場面があった。
この臨場感が増す撮影手法はパストローネ監督が始めたものだという。

また、カルタゴ軍から隠れているファビオとマチステを、宿屋の主人が密告する場面では、画面の奥でバックライトによりシルエットとなっている人物たちが、だんだん手前にやって来るに従い、ライトが当たってやり取りがあらわになるまでをワンカットで表現していた。
これなどは近年においても活用される手法であるが、この時代のサイレント映画で鮮やかに表現されていた。

D・W・グリフィスは「カビリア」のプリントを1本買って何十回と見て、のちの「イントレランス」のヒントとしたといわれる。
「イントレランス」の巨大なバビロン神殿のセット、何百人ものエキストラ、激しい城壁攻略場面などでは「カビリア」の影響というか、スケールをアップさせたその再現が見られる。

両者の間の決定的な違いは、「イントレランス」に宗教的、文化的背景からくる強迫観念的ともいうべき緊張感が途切れないのに対し、「カビリア」では南欧的風土に根差した、おおらかさ、明るさがあることだ。
「イントレランス」における隠れたテーマがグリフィス自身の『狂気』だとしたら、「カビリア」におけるそれは、パストローネの野心としての『歴史的大作の製作』なのだから、それでいいのだが。

もう一人のヒロイン・ソフォニスバを演じる女優イタリア・マンツイニ(左)

ミニチュア撮影による噴火や軍艦炎上の再現、砂漠やアルプスでの大掛かりなロケ、大セットによる宮殿や神殿の再現によるスペクタクル効果は、「イントレランス」出現までは当代随一だったと思われる。
加えて主人公コンビの凸凹ぶり、ヒロイン・カビリアの清順さ、など配役と演技面の面白さ。
カルタゴに対するローマの勝利を描きながらも、イタリアの歴史感を押し付けないおおらかで平明なトーン。
イタリア映画の特色が表れた歴史的サイレント大作だった。

今年初の丸太

山小舎の暖房は薪ストーブです。
毎年、別荘内の伐採を請け負う業者が、いらない丸太を持ってきてくれます。

いらない丸太とは、カラマツ、シラカバなどの丸太です。
それらは薪としては売り物にはならず、ごみとして処分しなければなりません。
捨てる場所(山小舎)があれば助かるのです。

とはいえ、ごみ同様の丸太でも、ダンプ式のトラックに積んで山舎まで運ばねばならず、人出と費用は掛かっています。
山小舎としては暖房としての丸太を、業者の好意で頂けるのはありがたいことなのです。

ちなみに薪を買おうとすれば、ナラ材のもので一巻数百円から900円もします。
冬場は薪一巻などは2,3時間でなくなってしまいます。

今年はこれまで丸太を持ってきてくれた業者が廃業し、どうなるかと思っていました。
新しい業者が持ってきてくれましたが、やはり丸太の廃棄には困っているのです。
カラマツに立派な丸太がトラック2台分いただけました。

今年も、玉切り、薪割り、積込みといつも通りの薪仕事が始まります。

令和7年畑 初出荷

7月初旬の畑です。
既に結実を始めたキューリ、ズッキーニが実を巨大化させてきました。
トマトの管理作業、ナスなどの水やりの後に収穫してみます。
結構な量になりました。

ズッキーニの実が巨大化してきました

花が咲いているインゲンの木を調べてみると、さやが成り始めていました。
摘み取ってみるとそこそこの量になりそうです。

トマトが結実し始めました

段ボールを持ってきていたので、収穫した野菜を詰めてみるとちょうどいい量です。
予定外でしたが、山小舎おばさん主宰の彩ステーションに出荷することにしました。

糠の追肥をもらって成長するトウモロコシ

今年は成育が早いような気がします。
気温が高いからでしょうか。
このまま、水枯れなどが起こらなければ今後は順調に収穫、出荷できることでしょう。

ナスもやっと元気に
出荷するの野菜を段ボールに詰める。熱くて中味の撮影を失念する

軽トラ丸洗い

今年で9シーズン目に入った、愛車の軽トラを洗車しました。

普段の買い物、農作業、薪の運搬、流れ旅など、田舎暮らしは車がなければどうにもなりません。
軽トラはなくてはならぬ暮らしのパートナーです。

幸い故障することもなく、遠くまで、あるいは薪を積んで坂を上り、また伐採した木を引きずり倒すなど、酷使に耐え黙って働いてくれます。
倒木を軽トラの屋根に当て傷つけたこともありました。

また、荷台にはゴムマットを敷いて、材木などの衝撃を和らげていたのですが、ボロボロになりつつあるゴムの隙間に、泥や木くずなどが詰まり、常時荷台が汚れている状態でした。

晴れた日にホースを伸ばして水をかけて洗いました。

荷台のゴムマットを外した状況
ホースを伸ばして洗車開始

先ず荷台のゴムを外します。
荷台にホースで水をかけながらたわしで汚れを落とします。

ついでにフロントガラスやボデーにもシャンプーします。
初めてのことですが、ドアを開けて運転席、助手席の床のマットを外して泥を洗い流します。

ボデーシャンプーも同時に
車内も洗っちゃう

ボデーの水垢や染みついたものまでは取れませんが、水を被って軽トラもリフレッシュできたように思います。
荷台は薪などを積むときまで、ゴムマットは敷かずにおこうと思います。

荷台はすっきり
ついでにウオッシャー液も補充しておく

DVD名画劇場 イタリアンネオレアリスモの作家たち その7 モギー、カステラーニ、コメンチーニ

バラ色のネオレアリスモ

1950年代に入り、ネオレアリスモのかつての推進者たちはそれぞれ独自の映画表現へと向かっていった。

すなわち、ヴィスコンテイは「夏の嵐」(54年)で、19世紀のイタリア統一運動の中で愛に生きる貴族の女性をドラマチックに描き、以降の彼の作風となる『貴族、王族、ブルジョアの葛藤と黄昏を豪華絢爛に描く』方向への転換を行った。

ロッセリーニは「ストロンボリ」(50年)、「ヨーロッパ1951年」(51年)を発表。
主演には「無防備都市」「戦火のかなた」に感動してロッセリーニのもとに走ったイングリッド・バーグマンを起用して、イタリアや欧州の戦後の現実の中で、コミュニケーションの困難をきたすアメリカ女性の姿を描いた。
一方、「神の道化師フランチェスコ」(50年)ではロッセリーニのもう一つの資質である宗教的なものへの希求を示した。

デ・シーカは「ミラノの奇蹟」(51年)で貧困の主人公たちが箒で空を飛ぶというファンタジーを描いた後、「終着駅」(53年)では、ハリウッドの製作者デヴィッド・O・セルズニックとの合作で、モンゴメリー・クリフトとジェニファー・ジョーンズを起用してのラヴロマンスを描き、商業主義へと舵を切った。

上記3監督が作風に変容を見せ始めた50年代は、またレナード・カステラーニやルイジ・コメンチーニら新鋭監督が、喜劇的作風の「2ペンスの希望」(52年)、「パンと恋と夢」(53年)などを発表、『バラ色のネオレアリスモ』と呼ばれた。
これらの作品は50年代以降に発表されることになる「イタリア式喜劇」の出発点となった。
「イタリア式喜劇」は、50年代以降のイタリアの高度経済成長期に現れた利己的で小心者の庶民やブルジョアをブラックユーモアで描く悲喜劇の作品群で、以降のイタリア映画の主流の一つとなった。

(以上は、集英社新書2023年刊 古賀太著「永遠の映画大国イタリア名画120年史」第三章ネオレアリズモの登場より要旨抜粋しました)

「明日では遅すぎる」  1950年  レオニード・モギー監督  イタリア

監督のモギーは、1899年オデッサ生まれのユダヤ人で、フランス、イタリア、アメリカなどで映画監督として活躍した。
本作はイタリア映画であるが、モギー自身はネオレアリスモの流れをくむ映画人ではない。
彼の代表作の一つは1935年にフランスで発表した「格子なき牢獄」で、女子感化院の非人間性を描いた作品。
収容される少女役のコリンヌ・リュシエールは日本でも人気が出たが、ドイツによるフランス占領期にドイツ軍将校の愛人となったことにより戦後は投獄され、獄中で亡くなった。

「格子なき牢獄」のコリンヌ・リュシエール

本作「明日では遅すぎる」は、「格子なき牢獄」等での手腕を買われての起用だと思われ、モギー監督は手堅くその起用に応えている。

舞台はイタリア。
リアルタイムの設定と思われ、1950年の中高生の物語。
同じアパートに住む、フランコとミゼッラ(アンナ・マリア・ピエランジェリ)は同じ学校の同学年。
この学校は男女共学だがクラスは別で、教師もそれぞれぞれ性別の先生が教えている。
先生役にヴィットリオ・デ・シーカとロイス・マックスウエル。

女先生(ロイス・マックスウエル)とピエランジェリ

生意気盛りのフランコは年上の女を映画に誘ったり、友達連中と学校の女子をカメラテストの名目で誘ってキスを奪って喜んでいる。
フランコのことが気になるミゼッラは年上女とフランコの話をアパートの廊下から立ち聞きしたり、女性雑誌の「男の気の引き方」特集を読んだりする。

やがて夏のサマーキャンプがお城で行われ、厳しい女校長と進歩的な両先生(デ・シーカとマックスウエル)が監督する。
生徒たちは細かな校則違反で女校長をいちいち怒らせる。
フランコとミゼッラは,、発表会で吟遊詩人とお姫様を演じてから、互いの気持ちに素直になっており惹かれ合っている。

生徒の気持ちを尊重する両先生と校長の対立。
女先生は校長によって追放される。
女先生を駅へ送った生徒たちが嵐にあって夕食に遅れ、フランコとミゼッラは納屋に逃れる。

納屋では焚火を炊き、服を乾かし、嵐が去るまで藁の中で休む二人。
キスも交わしている。
まるで「潮騒」のようなシチュエーションだ。
この時代の両思いの10代の最大限の愛の表現として、イタリアと日本の共通点が面白い。

戦後を迎えて、青少年の性も無視できなくなった時代に、最大限進歩的に青少年の性を扱った作品。
ややもするとキワモノ的な興味を誘いかねない所を、清純そのもののヒロイン(ピエランジェリ)と、二枚目俳優(デ・シーカ)、正統派美人女優(マックスウエル)の起用によって正統派映画の作風となっている。

進歩的な両先生の言動が今見ると偽善的に見えるほど、教条的なキライはあるが、現実を直視する姿勢はネオレアリスモの精神を継承しているといえよう。

ヒロイン役でデヴューした、アンナ・マリア・ピエランジェリは本作がベヴェネチア映画祭で受賞したこともあり、MGMにスカウトされてアメリカに渡り、『ピア・アンジェリ』として売り出した。

ハリウッドでは「三つの恋の物語」(53年)、「葡萄の季節」(57年)などに主演。
ジェームス・デイーンとの恋愛が有名だったが、歌手と結婚。
離婚して61年にはイタリアに戻り「ソドムとゴモラ」(61年)などに出るがスターダムには乗り切れず。
71年ビバリーヒルズの友人宅で睡眠薬自殺を遂げた。

モギー監督が「発見」した、リシュエールとピエランジェリという仏伊の二人の清純派スターは道半ばにしての夭折していった。

なお、ピエランジェリのハリウッド移籍は、50年代から活発になったイタリア映画とハリウッドの交流(ハリウッドスターのイタリア映画への起用、合作など)の先駆けとなる出来事だったのではないか。

「三つの恋の物語」(53年)。21歳になる年のピア
「葡萄の季節」(57年)でミシェル・モルガンと

「2ペンスの希望」  1952年  レナード・カステラーニ監督  イタリア

舞台はナポリ郊外のべスピオス火山の麓の町。
最寄りの鉄道駅からは馬車が町まで通る田舎町。
その町へ主人公のアントニオが復員してきた。
志願兵ではないので恩給は出ない、その日から無職の22歳だ。
息子が帰ってきて大騒ぎし、近所で飼っているウサギを盗んで御馳走を煮る母親役の女性が、女優とは思えない存在感で『イタリアの母』を演じる。

町の無職者たちは教会の柵を背に無為に過ごす。
そのアントニオに笑いかける娘がいた。
花火師の娘カルメラだった。
ピラピラのワンピースを翻し、走り回るカルメラ。
洗濯物を干しながら歌い、父親に弁当を届けに山すそを走り抜ける。

アントニオは、ソーダの瓶詰や馬車の助手をして稼ぐが、母親が弟たちを使って午前中に雇い主から前借してゆくので、ばかばかしくなる。
ナポリへ行っても無職では滞在さえできない。

花火屋の親父の仕事を手伝うカルメラ

駅からの連絡交通が馬車からバスに代わる時、ナポリでおんぼろバスを買いアントニオが運転手になろうとする。
それを聞いたカルメラは親に隠れて運転手用の帽子を縫う。
バスは馬車仲間と共同で運行する予定だったが、初日に仲間割れでおじゃんとなる。

アントニオはカルメラの父親の助手になれば、と考えるが頑固で昔気質な父親は頑として受け入れない。
カルメラがアントニオに会いに夜出かけてると知れば、娘の脚をベッドに鎖で縛りつけもする。

親父にベッドにつながれても歌うカルメラ

カルメラは自棄になり、親父の花火倉庫に火をつけ爆発させる。
アントニオはナポリの映画館のフィルム運びなどをして何とか生きるが、カルメラはナポリに女がいると勘鋭く追及したり、アントニオは共産主義だと口走ったりして足を引っ張る。

若い二人のぎこちない迷走と、ストレートな愛情を縦の糸とすると、横の糸は旧態依然の田舎の大人たちである。
ネオレアリズモの作品群は、封建的な網元や、マフィアに支配される後進性や、宗教に縛られる因習を描いてきたが、そこには『田舎の人間は、資本家やマフィアの被害者である』というテーゼが存在していたように思う。
作家たちの左翼思想にもその要因はあったのだろうが。

片や「2ペンスの希望」の田舎の大人たちには全く救いがない。
カルメラの父の頑迷さは最後までそのままだったし、アントニオの母親の狡さ、俗物性は最後まで貫かれた。
まるで『大人たちは、社会の被害者として保護されるほど甘くないし、人間性には全く期待できない』と、この作品の作り手たちは断じているようだ。

映画はエピソードごとにテンポよくまとめられ、まるでスクリューボールコメデイのように進む。
何しろ次から次へと事件が起こり、何とか生きようとするアントニオを巻き込み、前進を阻止し、やる気をそぐ。
カルメラは無邪気に混乱の原因を作り出し、アントニオや家族の気持ちに関係なく彼について回ろうとする。
カルメラの一途な無鉄砲さに、ハリウッドの伝説的スクリューボールコメデイ「赤ちゃん教育」(1938年 ハワード・ホークス監督)でのキャサリン・ヘプバーンの破壊的がむしゃらさを思い出し、思わず笑いがこみ上げる。

2人そろって町の人々の視線の中、カルメラの親父の元へ行くが、親父は「2人でどこへでも行け」とけんもほろろ。
貧乏人のくせに、気に入らない相手との結婚を許さないこの頑固親父の心理は、カソリックを原因とする因習からくるものなのだろうか、それともただのわからず屋だからだろうか。

二人で生きてゆくと覚悟を決めたアントニオはカルメラのワンピースを脱がせて親父に投げ返す。
アントニオの開き直った清々しさを見た町の人々が寄ってきて二人を応援する、洋服屋は掛け売りしてやる。
何もないが若さと愛情だけはある二人を祝福するように。

カルメラとアントニオ

最後の最後に映画的ハピーエンドが訪れるが、それまでのコメデイ仕立てながら辛辣な現実描写に徹した、レナード・カステラーニ監督の痛快な傑作。
イタリアの映画館ではこのラストシーンに観客から拍手が起きたという。

カルメラ役のマリア・フィオーレの抜擢と演出にもカステラーニ監督のひらめきが光る。
彼女はこの作品では、ほとんど唯一の美形女優でありながら、ひたすら野を駆け回り、家事手伝いに精を出すのだったが、よく見ると若いころのステファニア・サンドレッリのような清らかな美貌。
野に咲く花のような生命感と、精霊のような純粋さがあった。

アントニオの母親、カルメラの父親、町の人々には素人と見まがう年季の入った俳優、女優を起用。
その欠けた歯並びと、しわだらけの風貌、因習にまみれた俗物的な言葉の数々は強烈な印象をもたらす。

結婚資金ができ、中年の男と結婚したアントニオの姉が、ささやかな結婚式を終えた後、教会から婚家へ向かうのだが、結婚相手とその母親が腕を組んでさっさと歩いゆき、新婦たる姉はその後に仕方なくついてゆくという、幸福感も何もない、これからの姉の人生の絶望感を表すような場面も何ともいえずわびしかった・・・。
加えて、田舎の寂れた町と荒涼とした風土を前面に出してのほぼ全編のロケ撮影。

『バラ色のネオレアリスモ』として、その楽観的姿勢が批判されたこともあるカステラーニだが、世界的にヒットしたこの作品は、第5回カンヌ映画祭のグランプリをオーソン・ウエルズの「オセロ」と分け合った。

「パンと恋と夢」  1953年  ルイジ・コメンチーニ監督  イタリア

「2ペンスの希望」と並び、『バラ色のネオレアリズモ』と呼ばれる1作。

戦後10年近くたち、イタリア映画のテーマは戦争そのもの、直後の現実をストレートに描くことから、同じく戦後の貧困などの現実を基底としつつも、映画のエンデイングに前途に希望をもたらすような作品が出てきた。
本作もまた、ヴィトリオ・デ・シーカ、ジーナ・ロロブリジータという陽性の両スターを前面に押し出した商業性を意識した作品で、興行的にもヒットし、またベルリン映画祭で銀熊賞を受賞している。

マリアは弟が飼っていた小鳥を署長にプレゼントする

南イタリアの寒村に警察署長(デ・シーカ)が赴任してくる。
村人はよそ者や男女関係には異様に興味を示し、うわさはあっという間に広まる。
村一番の美人ながら「山猫」と呼ばれるマリア(ロロブリジータ)は、父親を亡くし、母と妹弟らと暮らすじゃじゃ馬娘。
村のおじさんたちは、マリアにちょっかいを出してははねつけられる。
若い巡査はマリアへの恋心を伝えられず、おどおどしている。

白髪が混じりながらも独身を貫く署長も、マリアの若さがまんざらでもないが、片や熟女の助産婦アンナレ(マリザ・ベルリーニ)の落ち着いた大人ぶりにも鼻の下を伸ばす。

戦争と無知な村人たちの犠牲者でもあるマリアは、一張羅のワンピースを翻しながら、ロバに横乗りし、生きるためにスモモを盗んで売り、行商が持ってきたドレスを巡って女同士の喧嘩も辞さない。
実直で、聖職者にしては珍しく裏のない村の司祭は、彼女に金銭的な援助をしている、賽銭から。
署長も目立たぬよう500リラを彼女に与えようとするが、5000リラ札と間違えた上に、彼女の母の手に渡ってしまう。
母親は巡礼のおかげ、聖アントニオの奇蹟が起きたと喜ぶが、マリアは署長からの援助に我慢できず5000リラの札を破り捨てる。

助産婦として村に赴任して7年のアンナレは、村中の出産に駆け回りながら、実はローマに残した婚外の一人息子の成長を生きがいにしている。

女性二人の間を行き来する署長は、いい年をしてプライベートではギターを爪弾き、水着女性のグラビア雑誌を開いてくつろぐ独身ぶり。
年配のメイドはそういう署長をからかうように言葉を挟む。

行商屋の洋服を巡って諍いを起こしたマリア

地方喜劇の脚本家出身というコメンチーニ監督のタッチは、まさに大衆演劇のそれであった。
テレビでやっていた松竹新喜劇の舞台になぞらえれば、純粋培養の世間ずれしていない二枚目役がデ・シーカ扮する署長、彼を取り巻く中年女芸人(老メイド)やら、まじめな二枚目女優(助産婦)がかき回し役だ。
彼等が寄ってたかって弄り回す若いカップルが、マリアと若い巡査となる。

「パンと恋と夢」を松竹新喜劇ととらえれば成程ピタッとはまる。
決定的な悪人は登場せず、貧困が原因の嘘やいさかいも最後の大団円で溶けて流れる。
気の利いた、男女の機微をくすぐるような、大衆受けするセリフもある。
現実を必要以上にリアルに表現しない姿勢も大衆演劇風。

一方で、戦後のイタリアの貧困が全国民に重くのしかかっていたこの時代。
登場人物の背景に、戦争による犠牲、宗教的因習、来るべき階級差などを描き込みながらも、庶民たちの楽天性、逞しさを前面に押し出した本作は、『バラ色』一辺倒ではないが、左翼教条主義的でもない作品となった。