令和6年畑 マルチング!

畑作業が急ピッチです。
二日に分けてマルチングをしました。

夏野菜の苗を定植する畝にはマルチをします。
雑草を押さえ、地温を高め、余分な雨による水分を防ぐためです。

ガッテン農法で作った畝は4,5年目になるでしょうか。
夏野菜を無農薬、無肥料で育ててくれる畝で、毎年マルチは欠かせません。

畑作業そのものは8年目になりました。
マルチングの仕方も少しは慣れました。

まずは、畝を整形し、雑草を取って、微生物液のえひめAIの希釈液を畝に散布しておきます。
次いでビニールマルチを取り出し畝にセッテイング。
マルチの端っこをピンで押さえておいて、ピンごと土を被せて固定します。

少しずつマルチを引っ張り出しながら両端を止めてゆきます。
マルチの引っ張り出し方は、マルチが巻かれているロールに支柱などを通し、支柱の片方を手で、もう片方を鍬などで支えつつロールを転がしてゆくようにしています。

この時マルチを緩ませないことと、風が入ってめくれ上がらないようにすることが大事です。
2メートル程度ずつマルチのロールを転がし、足でたわまないように踏みつけ、伸ばしながら両端に鍬で土をかぶせてゆきます。
石などがあれば端っこの押さえに利用します。

手順に従ってマルチを敷いてゆく
一列完成

こうして十数列の畝にマルチングしました。
マルチが終わった畝には手元の苗を定植してゆきます。
夕顔、ハックルベリー、かぼちゃ、ズッキーニ、つるむらさきなどを定植しました。

ハックルベリー(手前)とスッキーニ(奥)
夕顔

畝間には、除草した後の塊(雑草と根っこと、根っこに着いた土)をほぐしてばらまいておきます。
その後の雑草発生の押さえ、畝間の乾燥防止、踏み固めによる土の硬化の防止になります。

マルチング終了。畝間には枯れた除草後の塊をほぐして敷く

夏野菜の苗は山小舎周辺では今が盛りと出回っています。
畑の作業をしながら、立科、望月、赤坂などの地区の直売所を回り、苗を買い集めはじめています。

トマト、ナス、キューリ、ピーマンなども早急に定植する予定です。

マルチが終わったガッテン農法園を鹿よけのフェンス越しに見る

信州ソウルフード放浪記VOL.37 望月ふじたの味噌カツ丼

佐久市に望月という地区があります。

中山道26番目の宿場で、今では寂れているものの商店街の名残や大規模な消防署、免許センター、バスターミナル、旧制女学校からの歴史を持つ高校、などがある地域の中心地でもあります。

平安時代から望月御牧といわれる馬の御用牧場があり、中世には騎馬隊を有した武将が望月城に居城していました。戦争末期の1945年6月には、なんと陸軍士官学校が神奈川県座間から移転してきたそうです。
もっとも学舎などは整備されず、女学校や小学校の校舎を利用し、民家に寄宿していた内に終戦となりました。

馬については、今でも秋に望月地区で競馬(ギャンブルではない)が行われていることからもその歴史の長さがうかがえます。
また、映画「犬神家の一族」第一作に登場する那須ホテル(金田一探偵が逗留しようと、女中役の坂口良子に道を尋ねた旅館)のロケ場所となった旅館が望月にありました。
現在は廃業していますが、別な人が宿泊施設としてリニューアルする計画があるようです。

立科町から佐久市の佐久平や岩村田に抜ける国道沿いに望月地区はあります。
山小舎おじさんにとっては、苗の時期は望月農協に買いに行ったり、望月宿を歩いたり、望月宿の中ほどにある歴史民俗資料館をのぞいたりする地区でもあります。

望月地区の名物料理が味噌カツです。
この日は、夏野菜の苗を買いに望月農協に行ったついでに、集落内にある食堂ふじたに寄ってみました。

望月の集落内にある食堂ふじたの看板

何度か訪れたことのあるふじたですが、休業や貸切で入れませんでした。
この日は土曜日の13時前。
14時から昼休みが慣習で、店によっては13時30分を過ぎると新規入店やオーダーができないなど、いろんなことがあるのが県内の食堂です。
時間に気を付けて訪れた甲斐あって、この日は「営業中」でした。

暖簾が掛かったエントランス。食べ終わって出てきたときに撮影したため「本日終了」の看板が出ている

入店すると愛想のいいおばさんが出迎えてくれます。
厨房では忙しそうに鍋が振られています。

客席は壁に向かったカウンターのほかは座敷です。
広い座敷には数脚の食卓のほか、椅子付きのテーブルも2脚あります。
何より壁にかかった縁起物の数々がにぎやかです。
見事な田舎の昭和の座敷の光景が展開しています。

メニューをめくると味噌カツ丼の力強いチラシが

お約束の味噌カツ丼を注文。
出てきたものは、はサラダやがんもの煮物をカツと一緒にあつらえたどんぶり。
ちょっと意外な盛り合わせでしたが、温泉卵にワサビ入りドレッシングを和えたサラダは美味しく、味噌カツといい取り合わせでした。

ふじたの味噌カツ丼。ワインのタンブラーで供される麦茶がいい味出している

何より手作り風の味が安心します。
味噌汁の味も家庭風でいいし。

カツ自体は伊那のソースカツ丼と比べると、厚さ、柔らかさ、大きさなどで落ちますが、味噌味は甘すぎずマアマア。
店の雰囲気も、ライダーなど観光客が普段から多いのか、風通しがよく、開放感がありました。

カツ丼に限らず麺類から定食まで幅広いメニューが揃っています。
駐車場が狭く、昼の営業時間が限られますが、それも含めての地元の食堂。
家庭風の味を残していってほしい店です。

令和6年畑 畝間の除草、畝の土寄せ

雪が降ったり、雨が降ったり、肌寒くてストーブをガンガン焚いたりする5月の山小舎。

そうはいっても春真っ盛りの畑。
出遅れた作業を取り戻します。

ガッテン農法で立てている畝は何シーズン目になりましょうか。
今年も引き続きお世話になります。

作物によっては同じ畝で同じ野菜を連作することにもなります。
無農薬はもちろん、基本的に無肥料です。
今年の夏も乾燥が心配です。

冬を越えたガッテン農法の畑。畝間には雑草

手入れ前のガッテン農法の畝。
冬を越した畝間は雑草で覆われ、畝そのものにもチラホラ雑草が芽を出し始めています。

畝間を除草し、畝に土寄せしましょう。

雑草を剥がし、畝に土寄せ

人力での除草は力仕事です。
根っこごと起こした雑草は日に当てて乾かします。
苗の定植後は、畝間に戻し、乾燥防止の覆いに使おうと思います。

次いで、畝に土寄せします。

12列終了

12列ほどの畝と畝周りの、除草と整備が終わりました。

ピカピカのスギナを採取

ついでに新物のスギナを摘み取ります。
干して野草茶の材料にします。

まさかの雪!

5月9日に雪が降りました。

5月9日朝の光景

朝起きたらまさかの光景が目の前に広がっていました。

今は5月です。
GWには夏のような日差しがあったばかりです。

ここ2,3日は肌寒く、雨がちな天気でしたが、振れ幅が大きすぎます。

さすがにべちゃべちゃのみぞれのような雪です。
おそらく麓の集落では雪ではなくて雨が降っているのでしょう。
雪は標高1500メートル限定のことだと思います。
それにしても・・・。

灯油ストーブも動員

昼前に陽が射し始めました。
あっという間に雪は溶け去りました。

今年の気候っていったい・・・。

同じ日の昼前。別の季節のようだ

DVD名画劇場 戦前オーストリア映画のパッション

戦前のドイツとオーストリアは映画の都だった。
ドイツにはウーファ撮影所があったし、オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウイーンにはサッシャという映画会社があった。

1930年代、(33年に)ナチス党が政権を取ったドイツ本国に比べ、同盟国とはいえオーストリアでは芸術の自由が幾分か残っていた。

この時代を知る日本の映画評論家に筈見恒夫、南部圭之介がいる。

南部圭之介著の「続・欧米映画史」と、筈見恒夫が監修した「写真 映画百年史全5巻」が手許にある。
どちらも戦前のドイツ映画、オーストリア映画の豊饒な世界についてたくさんの稿を割いている。

戦後になり、現代になって映画の世界はアメリカの独り勝ち。
一部のマニアにフランス映画などが志向されているような状況となっている。
否、映画に国籍はすでになく、資本、スタッフ、キャスト、撮影地が各国を複層して製作されるようになっている。

が、戦前にドイツ、オーストリアに於いて、当時のハリウッドに比す内容、規模の映画を巡るワールドが展開されていたことは歴史上の事実だった。
後年の各国の諸作品へのジャンル的、手法的な影響を多く残した点でも特筆される。
筈見恒夫、南部圭之介らの著作には当時の日本の映画評論家がいかにドイツ、オーストリア映画に注目し、関心を持ち、評価していたかが表れている。

「続・欧米映画史」。表紙の写真は「未完成交響楽」の名場面
「同」奥付
「写真映画百年史第3巻」表紙
「同」38,39Pには、1930年代のオーストリア映画を解説

1930年代のオーストリア映画から代表作3本を見てみよう。

「未完成交響楽」  1933年  ウイリー・フォルスト監督  オーストリア

南部圭之介の「続・欧米映画史」(全213ページ)では、本作について6ページ以上を割いて紹介評論している。

本作品についての著者の気持ちは、『「会議は踊る」とともにこの時代に夢多い青春を送った男や女にとっては「会議は踊る」と同じように忘れえない名画であった』(同著49P)という一文に表れている。

また、『ハンス・ヤーライのシューベルトは、私共のような遠い東洋の果ての人間に、シューベルトのイメージを固定してしまうほどの強烈な印象であったし、マルタ・エゲルトのカロリーネ姫は、茶目っ気の明るさの中に忘れがたい女の情念と貴族の娘としての品位を持ち合わせていた』(同49P)と主演のハンス・ヤーライとマルタ・エゲルトを称賛している。

カロリーネがシューベルトから音楽レッスンを受ける

シューベルトを主人公に、貴族の令嬢との悲恋を描いた本作は、シューベルトの伝記をゆがめたと、本国のオーストリアとドイツでは不評だったとのこと。

DVDで見ると、第二次大戦まで5年の製作時代ではありながら、全体を覆うおおらかでのびやかな空気感、折々に見られるユーモラスな表現、たっぷり流れるシューベルトの名曲たち、に彩られた幸福そのものの映画だった。

ハンガリーの田舎の酒場で、村娘の姿のカロリーネ

シューベルトの世間ずれしていない朴念仁ぶりは、小学教師として算数を教えながら頭に浮かぶメロデイーを黒板に書いてしまったり、大事な公爵邸の演奏会に着ていく服がなく親切な質屋の娘に質流れの礼服を借りてゆくが質札をつけたままで公爵邸の塑像に引っ掛けたり、などの描写に描かれる。
それらのエピソードを悠々と描く、スタッフたちのすばらしさ。

麦畑でのラブシーン

貧乏時代のシューベルトを助ける質屋の娘(ルイーゼ・ウルリッヒ)の庶民的で明るいお転婆ぶりも全く古びていない。

ヒロイン、カロリーネを演ずるマルタ・エゲルトは、ハンガリーの令嬢として夜会服を着こなし滑るように登場し(カメラは遠めの移動ショットであでやかなその姿を捉える)、シューベルトを家庭教師として迎えた場面では「夜曲」を歌いこなし、屋敷の外の酒場に忍んでは村娘の格好でジプシーの演奏をバックに民俗舞踊を踊りまくる。
見かけのあでやかさにとどまらない芸達者ぶりに感嘆する。

酒場を抜け出し薄暮の麦畑を走るカロリーネ。
カメラは目線の高さの移動ショットでカロリーネを追う。
やがて忘れ物のスカーフをもって追いついた朴念仁のシューベルトにキスを誘うカロリーネ。
美しいラブシーン。

小学校でシューベルトに算数を教わりながら、気が付いたら黒板に書き写された「野ばら」を歌う少年たちに.ウイーン少年合唱団を配役。
BGMの演奏は世界のウイーンフィルハーモニー。
流れる名曲は「菩提樹」「未完成」「夜曲」「アヴェ・マリア」など。

貴族たちの音楽会の描写はきらびやかに、ハンガリーの田舎の居酒屋の描写は土臭く、ウイーンの都会の描写は庶民の困窮した生活感を、それぞれ的確に描き出したフォルスト監督とウイーンのサッシャ撮影所の力量は見事。
どの時代の観客も好感を持つであろう作品。

「たそがれの維納」  1934年 ウイリー・フォルスト監督  オーストリア

「未完成交響楽」のフォルスト監督作品。
前作のようなのびのびした開放感や、裏表のない人間賛歌はここにはない。
ドイツではナチス党が政権を握り、大戦まで4年ほどとなった世相を反映しているのか、ウイーンの上流社会の暗黒面が反映しているのか、重苦しく苦々しい雰囲気が映画を覆っている。

ところどころ監督の特性かオーストリア文化のなせる業か、独特のユーモアが見られるのは「未完成交響楽」と同様で、ヒロインのボルデイ(パウラ・ヴェゼリー)のキャラクターに濃厚に醸し出される。

プレイボーイの画家(アドルフ・ウオールブリュック)との初デートでは、「こんなはずないわ」「うそだわ」「思ってもいないくせに」と画家の口説き文句をはぐらかし、酒をぐいぐい飲むボルデイ嬢。
そのおおらかで、男慣れしていない素人娘のふるまいをパウラ・ヴェゼリーが熱演。
「未完成交響楽」でシューベルトに心を寄せる質屋の娘のおてんばキャラと共通するキャラクターである。

ボルデイ嬢はまた、画家にアトリエに呼び付けられ、勝手に「サモワールが湧き、チャイコフスキーが流れるアトリエ・・・」と妄想するが、行ってみると現実は全く違っており、勝手に唖然とするくだりも、彼女のキャラの個性が現れていておかしい。

プレイボーイの画家(アドルフ・ウオールブリュック)が純真な小娘・ボルデイ(パウラ・ヴェゼリー)に惹かれてゆく

実直なボルデイと違って、画家が出入りする上流社会は裏表ばかりの世界。
舞踏会はそれは豪華でにっぎやか。

画家とボルデイが流れるようにダンスし、壁越しにカメラが移動撮影で追うカットがあった。
マックス・オュフルスの「輪舞」(50年)、「たそがれの女心」(53年)での、カメラが延々と移動し、主人公たちの周りをくるくると回る(ように見える)流麗なダンスシーンを思い出した。

撮影のフランツ・プラナーは「未完成交響楽」も手掛け、戦前にハリウッド入りし、のちに「ローマの休日」(52年)、「ティファニーで朝食を」(61年)の撮影を担当したというから、さもありなん。

流麗な撮影手法に、のちのマックス・オュユルスへの深い影響を感じる本作だが、その影響は配役にも及んでいる。
画家役のアドルフ・ウオールブリュックが「輪舞」、「歴史は女で作られる」(56年)と、のちのオフュルス作品に続けて出ているのだ。
うーん。
歴史は女で作られるというけれど、オフュルス映画の歴史はオーストリアで作られていた!のか。

ラストに向かってボルデイ嬢の逞しさ、実直さ、一さが存分に発揮される。
プレイボーイの画家を本気にさせ、その命を救ったオーストリア女性の真心、根性とでもいうべきものが描かれる。

ボルデイは愛する画家の命の危機に、教授に手当てを頼み込む

上流社会の愛欲にまみれた人間関係を背景に、急転回に翻弄される人間たちの様子は、ハリウッド映画のよくできたドラマのよう。
舞踏会の目くるめく描写はマックス・オフュルスに影響を与え、その作品で完成を見た。

邦題のみのこととはいえ、「たそがれの女心」と、『たそがれ』という言葉でつながっている本作は、戦前のオーストリア映画である本作と、後年の名監督マックス・オユュルスのつながりを偶然とはいえ象徴しているかのようだ。

「ブルグ劇場」  1937年  ウイリー・フォルスト監督  オーストリア

伝統あるオーストリア王立のブルグ劇場の座付き役者ミッテラー(ウエルナー・クラウス)は、公演が終わると出待ちのファンを巻いて一人帰るのが日課。
殺風景な部屋でプロンプター(舞台のそででセリフを伝える役)の中年男と猫と暮らす味気ない日々。
女性と社交界には興味を示さず、キャバレー通いもとうの昔にやめた。

ある日、珍しく春の光に誘われてプロンプターと散歩していると教会があり、気まぐれに中に入ると敬虔に祈りをささげる乙女レニ(ホルテンセ・ラキー)に遭遇し、何十年ぶりかの恋に落ちる。
レニはミッテラー御用達の仕立屋の娘で、仕立屋に下宿している演劇志望の若者を愛している。

一方、王立劇場は、役者にとってコネがなければ専属契約はままならず、また上流社会のパトロンがガッチリ食い込んでいる世界である。
連日のようにボックス席に現れ、ミッテラーのファンを公言する男爵夫人(オルガ・チェーホワ)が、ミッテラーのお忍びの馬車で待ち伏せたり、男爵邸のパーテイに招待したりするがミッテラーは関心を持たない。

ミッテラーはレニにアプローチし続けるが、レニの頭にあるのは愛する演劇青年のこと。
ある日、レニはミッテラーの部屋で男爵夫人の招待状を見つけ、盗んで、青年あてに送付する。
有頂天でパーテイに参加する青年。
ミッテラーならぬ見知らぬ青年が現れるも、その場のトークで切り抜ける男爵夫人。
なんやかんやで劇場の重鎮たちに認知された青年は劇場と専属契約を交わすが、背景には男爵夫人のコネがあると噂になり・・・。

ウエルナー・クラウス(右)とホルテンセ・ラキー

歴史ある劇場の裏側の硬直したコネと権威の世界。
劇場の一枚看板とはいえ、乾ききった老俳優の私生活。
愛する若者を一途に思うだけで突っ走る乙女。
野心の塊で、利用できるものは利用して出世を望む演劇青年。
劇場と俳優たちの背後にいて付かず離れず、艶然と陰で采配を振るう男爵夫人。

これらの登場人物たちが交錯するドラマ。
単に老人が乙女に恋するだけの話ではない。

主人公ミッテラーの描写は「嘆きの天使」のギムナジウム教授の四角四面の生活ぶりを思わせる。
ゲルマン民族の几帳面さ、融通のなさそのものだ。

「嘆きの天使」では謹厳実直なゲルマン紳士が零落し、みじめな様子が強調される。
一方本作では、同じく勘違いした老人が若い女性に振られる物語でありながら、老人への尊厳を忘れていない。
老人が勘違いするエピソードは深刻というよりほのぼのとしたタッチで描かれる。

このあたり、ほかの作品にも共通するフォルスト監督のユーモアというか、オーストリア映画の余裕というか。
俳優たちの動きはきびきびしており、そこにユーモアが加わると何かコントのようにも見えるが、これがフランス映画でもハリウッド映画でもない、ゲルマン流の味なのだろう。

名優ウエルナー・クラウスの本領は終盤も終盤に発揮される。
身の丈に合わない栄達から、男爵夫人とのスキャンダルの責任を取っての失墜となり、自殺を考えた若者を、幕が下りた劇場の舞台でさとし、叱咤し、激励する場面の力感あふれる独演。

この作品の主題は単に老人の零落ぶりを描くだけではなく、必然的な世代交代への前向きな姿勢、それも老人が持てる力を振り絞って若い世代にげきを飛ばす、その老年のパッションを描くことにあった。

また、硬直し、権威と虚構にまみれ、上流社会の玩具と化した演劇世界への批判的姿勢を描くことも忘れていない。上流社会の化身でいながら、抗いようのない魅力を漂わせる男爵夫人の描き方も、貴族社会が残っていた当時のウイーンならでは。

主演格の両女優については。
レニ役のホルテンセ・ラキーは金髪、丸顔、口紅ばっちりと、ハリウッド女優を意識したかのようなメイク。
ゲルマン女性の逞しさより、ダニエル・ダリューのような愛らしさを意識している。
役の幅が限定的なので可愛い(だけの)役作りとなったものか。

男爵夫人役のオルガ・チェーホフは名が示すようにスラブ系の出身(一説には文豪チェーホフの一門)。
貴族の貫禄を気品をもって美しく演じた。
ポーレット・ゴダードかモーリン・オサリバン(「類猿人ターザン」のジェーン役)に似ていたが、比べものないほどの気品があった。

GW 孫ら到来

今年の連休も孫たちがやってきました。

共稼ぎの娘一家にとっては、GWの山小舎滞在を楽しみに、働きまた通学していたようです。
また、山小舎おばさんが92歳の大ばあさんを連れてやってきました。
大人5人、子供2人の山小舎暮らしの開始です。

富士見町の八ヶ岳アルパカ牧場にて

孫らは3泊の滞在。
日中はお気に入りの長門牧場で動物にエサをやり、ソフトクリームを食べたり。
原村の八ヶ岳自然文化園やアルパカ牧場へ行ったり。
山小舎の前で遊んだりしていました。

また5月2日、3日が山小舎おばさん、おじさんの誕生日なので手製のケーキにいちごのデコレーションを乗せて祝ってくれました。

ママが焼いてきたスポンジにいちごとクリームでデコレートする
誕生ケーキの出来上がり

夕食は名物の炭火焼きのほか、上田市内のイタリアンへ行ったり、山小舎おじさんが用意したスペアリブや煮込みのメニューを食べました。
朝食はいつもの野菜スープに目玉焼きなど。
上の孫は赤飯、ぼた餅を喜んでくれました。

食後のトランプ遊びも、下の孫が大体ルールを覚え、全員で楽しくできました。

来客を迎える立場の山小舎おじさんとしては非常に忙しい日々でしたが、おかげで掃除や整理整頓ができ、また若い人の滞在で山小舎に活気をもらえました。
事後のシーツ類の洗濯、布団干し、掃除などの仕事はありますが。

次回の到来は夏休み。
1週間ほど滞在したいと娘は張り切っています・・・。

来客用のタオルケットを洗濯

来客を迎える準備

GWに娘一家が来ます。
迎える準備をします。

来客の前に行うのは、山小舎内外の掃除、食材の準備、料理、などです。

今年のシーズン最初の来客なので、冬の間の埃払いも含めて掃除を念入りに行います。
掃除機賭けの後、座敷、板の間を雑巾がけします。
トイレ、ふろ場も念入りに洗剤で洗います。
トイレの便器もできるだけ分解して洗ってみました。
足ふき、便座シートも洗って干しておきます。
洗面台、流しをピカピカにします。

玄関の砂を掃きだし、泥を拭きます。
冬のグッズ(雪かき、橇、スコップなど)を片付けます。
玄関前の落ち葉も目立つところは掃きだします。

並行して料理の準備です。
メインは炭火焼きですが、3泊する一家のために何品か用意しておきます。

下の孫の好きなスペアリブをストーブで煮ておきます。
親たちの好きな牛筋煮込みも煮込んでおきます。
花豆を買ってあったので煮ておきます。

スペアリブの煮込み
牛筋の居酒屋風煮込み

上の孫が好きな、赤飯とぼた餅にチャレンジします。
小豆を炊いて、柔らかくなったら一部を煮汁とともに分けておきます。
残りはあんこに煮ます。

花豆は硬く煮えてしまった

もち米を小豆と煮汁で炊いて赤飯にします。
炊きあがったらおひつに入れておきます。

小豆とゆで汁で炊いた赤飯
あんこを煮る

別にもち米を炊き、半搗きにしてあんこを被せてぼた餅の完成です。

ぼた餅

いずれのメニューも好評でした。
次回も頑張ろうと思います。

戸隠神社 足腰健康守 

この冬に家族で戸隠神社へ行き、山小舎おばさんが奥社で足腰のお守りをもらって帰りました。
しばらくすると携帯に付けていたお守りのひもがぷっつりと切れました。
お守りが守ってくれたのか、不吉なことがあるのか、ちょっと心配になりました。

自宅から山小舎へ戻った山小舎おじさんは、再び戸隠神社へ行ってお守りをもらいなおすことにしました。

4月のGWのある日、軽トラで戸隠に向かいました。
長野市内をかすめ善行寺から戸隠への道をたどります。

急坂を上がりしばらく行くと飯綱高原という場所に出ます。
大座法師池のほとりに蕎麦屋や茶店が並び、キャンプ場などもあるリゾート地です。

飯綱高原の大座法師池

法師池昼になったので軽トラを止め蕎麦屋に入りました。
満員で食べ終わるまで1時間ほどかかりましたが、手打ちの二八蕎麦を一気にすすりこみました。
待たせたお詫びなのか、野菜の天ぷらが2つサービスについていました。

蕎麦屋で食べた二八蕎麦

飯綱高原から戸隠まではさらにひとっ走り。
戸隠の集落では桜が満開でした。
戸隠神社中社の鳥居の周りには観光客がたくさんいました。

戸隠神社中社の大鳥居

奥社の駐車場に着きました。
そこから鳥居をくぐり参道を歩きます。

約2キロの参道は冬の間には見ることができないほどの参拝客が歩いていました。
今はやりのインバウンド客の姿もありましたが、圧倒的に多いのは日本人の参拝客。
家族連れやカップルが思い思いに歩いています。

ここまで来てせかせか歩く人の姿はなく、いいムードが流れています。
由緒ある神社への参拝の前の心身を整える過程を楽しんでいるかのような人の流れです。

戸隠神社奥社の大鳥居の混雑
奥社参道途中の随神門は参道の中ほど
隋神門を過ぎると奥社へと続く杉並木が現れる

お守りをもらいに来た山小舎おじさんは、いつものマイペースな歩きではなく、おじさんにしては速いペースで一生懸命歩きました。
ノンストップで奥社に着き、拝礼の列に並びました。
汗を拭きます。
奥社、九頭龍社と拝礼し、社務所に並びます。

奥社で参拝

折角来たので、九頭龍社のお札、お守りももらいました。
目的の戸隠神社足腰健康守りももらって目的達成です。

目的の足腰健康守

夕方に近くなり寒気が押し寄せてきた戸隠の里を下って山小舎へ帰りました。

戸隠エリアは魅力的な場所です。
次回は中社参拝、戸隠地質化石博物館、民俗資料館、女人結界碑などの見学を行いたいと思いました。

バイト開始!

今年も姫木別荘地管理事務所のアルバイトが始まりました。
山小舎おじさんは連休直前からの参加です。

半年ぶりにつなぎ作業服を引っ張りだしました。
4月なので寒さを心配し、つなぎの下には半袖シャツの上に薄めの長袖を着て出かけました。
その日は、日差しが強く暑いほどでしたので、午後は長そでを脱ぎ、半そでの上につなぎという夏のスタイルにしました。

冬の間吊るされていたつなぎ作業服を干してバイトの準備

バイト仲間は例年通りのメンバーがそろっていました。
平均年齢がまた一つ上がりました。
30代が一人いるものの、70代が3人、60代が2人のメンバーでした。

久しぶりに会う方々の元気な顔を見ながら、路肩や側溝の落ち葉を掻きだし、集めて積み込みました。今年初の作業にしては体が動きました。
1日働くと腰が痛くなりますが、汗をかき、なまった体の内部が一巡しすっきりするのが何ともいえません。

今年から支給されたセット。草刈り時の前掛け、メガネ、軍手、ゴム手、帽子など

春先は落ち葉集め、初夏になると草刈りがバイトの仕事です。
これから10月まで週2回ほどのペースで参加しようと思います。

何よりこちら側の都合が優先なので、家族が山小舎に来たり、旅行に行ったり、自宅に帰ったりすることがあるとバイトは休みます。
それでもいい勤務形態なのが気に入っています。

無言館 成人式

塩田平に建つ無言館は、戦没画学生たちの絵画や遺品を展示保管する民間施設です。
毎年GWのころに「成人式」を行うというので行ってみました。

無言館で成人の誓を立てたいと希望する若い人であれば参加できる式が毎年行われています。

上田市の塩田平の小高い山林の中に無言館はありました。
令和6年4月29日。
4月というより初夏の気候です。
新緑の雑木林に囲まれた場所です。
既に駐車場はかなりの車で埋まっています。

無言館駐車場わきの雑木林

入り口に向けて歩いてゆくと、テントが幾張かと椅子が見えました。
受付もあります。

「成人式はこれからですか。一般なんですが」と係の人に聞くと、「一般の方は成人式に参加できません。見学もできません。美術館は開館しています、此方から入場してください。美術館の窓口は出口にあります。」と丁寧に答えてくれました。
残念ながら成人式の様子はうかがえないようです。

無言館入り口。成人式会場が準備されている

無言館はNHK日曜夜の「日曜美術館」という番組で紹介されていたり、県内ローカルニュースで「成人式」のことが報道されていました。
いつかは行こうと思っていました。

館内はそこそこの人出。
戦没した画学生らの作品がかけられ、ガラスケースには遺品が展示されています。
絵の脇には作者の紹介文が添えられています。
見ると20歳そこそこの学生のほか、30歳前後の妻子ある人も多いのに気づきました。
奥さんや恋人、妹などを描いた絵も目に付きます。

油絵が多いのですが日本画の遺品もありました。
展示されている日本画のレベルの高さには伝統を感じました。

子供や若者の見学者も多い館内です。
山小舎おじさんにとっては、戦没時に20歳代前半の画学生達は自分の父親と同年代になります。
自分の父親が20歳前半で残した遺品だと思えば他人事には思えないものがあります。
それらの遺品に、傷んだ状態で、直接(ガラス越しではなく)接することができました。
時間の経過と故人の個性を実感できるようでした。

館内からは戦没が学生らの無念の気配は感じましたが、それは個人的な感慨を前面に出したものではなく、時間の経過もあるのでしょうが、すでに諦観に近いものに昇華されておりました。
戦争が、「個人の体験」から「歴史」となりつつあるようでした。
戦争体験を語る人たちがほとんどいなくなっている時代だからでしょう。

こうして作品が残り、展示されているのは彼らが学生が特別な才能を持つ「エリート」だったからであり、そのすそ野には何万倍もの無名の戦没者がいます。

10年ほど前のサラリーマン時代の仙台赴任の折、休みに訪れた山形県新庄市の郷土資料館で、無名兵士の軍人手帖が、ほかの戦争関連の資料とともに置かれていて、思わず手に取ってめくったことがありました。
思ったよりも固くて薄い紙質でした。

無言館の裏側

美術館を出て駐車場に戻る間に、戸外に設営された「成人式」会場を通りました。
テント内では地元の方々が山菜の天ぷらを揚げ、赤飯の折がテーブルにセットされ、新成人(18歳から30歳くらいまでの希望者)をまっていました。