ことしも丸子公園下の依田川に鯉のぼりが川を渡ってかかりました。
2列の鯉のぼりが川の上を泳いでいます。
桜が終わり、新緑の季節が始まります。
遠く、雪を頂いた浅間連峰をバックにした丸子の町を望んでいます。
60代、第二の人生、田舎・時々都会暮らし
ことしも丸子公園下の依田川に鯉のぼりが川を渡ってかかりました。
2列の鯉のぼりが川の上を泳いでいます。
桜が終わり、新緑の季節が始まります。
遠く、雪を頂いた浅間連峰をバックにした丸子の町を望んでいます。
ことしもジャガイモ定植の時期が着ました。
毎年、4月20日前後からが山小舎地方のジャガイモ定植時期です。
ことし選んだ品種は、男爵が5キロ、北海コガネ、十勝コガネ、PVPが各1キロ。
探していたデストロイヤーという品種には出会えませんでした。
植え付けは、例年の半分程度にしました。
昨年の収量がよくなく、粗放栽培の限界を感じたので、今年は少し集約的にやってみようと思ったからです。
去年ジャガイモを植えた圃場は土地が乾いて締まりやすく、また耕耘を浅くしか行わなかったのでした。
また、完全に無施肥で行いました。
その結果、玉の数、大きさ共に満足行く結果にはなりませんでした。
その経験を踏まえ、今年のジャガイモ植え付けの圃場は、ガッテン式畝立てを行った場所としました。
ガッテン式の畝は数列だけでしたので、そこには男爵以外の品種を植えました。
男爵を植える畝は、新たに立てましたが、その際にはスコップで土を起こして(ただしひっくり返さず)、深い部分に空気を通すようにしました。
また、定植前には畝にボカシ堆肥を撒き(初期成育促進のため)、えひめAI酵素の希釈液を散布しました(土壌微生物育成促進のため)。
マルチはしませんでした。
買ってから1か月近くたつ種芋は、すっかり発芽していました。
全部で8キロほどの種芋を植えると、フェンスで囲まれた(狭い方の)圃場が植え付け完了となりました。
まだまだ圃場の面積はあります。
去年の菊芋の堀残しから芽が出ていました。
今年は菊芋の新規植え付けはなしにしようと思います。
上諏訪の商店街から少し外れた住宅街に食堂まといがあります。
本ブログでも一度紹介しました。
コロナで休業だった時期もありましたが、最近は平常営業中の様子。
ボリューミーな揚げ物定食が忘れられず、再び訪れました。
雨模様の平日。
12時を前に店の前へ。
駐車場が満車なので並んでいる常連さんと思しき作業上着姿の4人連れに聞いてみると、お寺の駐車場のも駐車可能とのこと。
そちらへ軽トラを入れて、店の前で順番待ちをします。
4人連れはメニューを見ながら待っています。
品定めが終わった頃を見計らい、メニューを廻してもらいながら、おすすめを聞きました。
「アベック丼が人気ですね。ソースカツとエビフライが乗っています。」との返事をいただきました。
15分くらい待って入店。
その間にも新たなお客さんが並びます。
おすすめのアベック丼を頼みます。
ホールを仕切るのはかつての高齢のおばさんではなく、30代くらいの明るいお姉さんでした。
出てきたアベック丼は期待以上。
1000円でこのパフォーマンスはなかなかありません。
分厚いカツが3枚に、ぷりぷりのエビフライがどんぶりご飯の上に乗っています。
朝飯抜きで準備してきた山小舎おじさんですが、食べ終わると満腹。
味噌汁が熱々なのもグッドでした。
フライ、焼き肉の定食、麺類、丼物、カレーなど、われわれが食堂に期待する全メニューを網羅し、そのどれもが満足のゆく味とボリュームのまとい食堂。
また来ましょう。
黒澤明の「酔いどれ天使」と「野良犬」を見た。
黒澤は戦時中の1943年に「姿三四郎」で監督デビュー。
「酔いどれ天使」と「野良犬」は1948年から1949年にかけて発表した作品で、それぞれ、黒澤監督の初期の代表作であるとともに、盟友三船敏郎と組んでの一作目と三作目でもあった。
「酔いどれ天使」 1948年 黒澤明監督 東宝
記念すべき黒澤×三船のコンビ第一作。
同じく主演には黒澤組の番頭格・志村喬。
脇で山本礼三郎、千石規子、木暮実千代などが強烈で達者な演技を示す。
戦後直後の闇市。
どぶのような沼のほとりに闇市と、キャバレーと診療所が集まっている。
診療所の飲んだくれだが一本気の医師(志村)と、闇市を取り仕切るやくざ(三船)。
やくざの情婦(木暮)。
闇市の飲み屋の妻(千石)。
そこへ刑務所を出たやくざの親分(山本)が現れる。
三船演じる若いヤクザ。
戦争に生き残ったが、身寄りは空襲で全滅、家もなく、もとより子どものころから軍国主義教育で育ち、戦後の価値観にもなじめず、自暴自棄で闇市に生きる場所を求める・・・というこれまでの半生が透けて見える。
威勢よく肩で風を切ってはいるが、実はヤクザになり切れぬ人間性と不器用さが内在している。
そのことは劇中で千石扮する飲み屋のおかみに見抜かれる。
時代背景としての闇市、やくざ、キャバ嬢などがやるせない虚無感をもって描かれる。
戦中を過ごした黒澤の心情がそこに現れる。
個人の思いなどではどうしょうもなかった戦中戦後の混乱と価値観の転換に対する諦観なのか。
新人だった三船の存在は光っている。
自らも航空隊の生き残りとして外地で戦った経験を持つ三船のほほのこけた顔つき、ギラギラしたまなざしが、闇市のセット等よりもよほど戦後のイラつきを的確に表している。
木暮の情婦ぶりもいい。
若い木暮実千代がどぎついメークと安っぽいドレスに身を包み、場末のキャバレー嬢を演じる。
まるで清純派のアイドルが無理やり安っぽく派手なメークをしたようなアンバランスな魅力にどっきりする。
三船の情婦だった木暮が親分の情婦に乗り換え、弱った三船を見捨てる。
同じくイノセントな戦争の犠牲者同志の裏切り合いという絶望的な状況を三船とともに演じる。
木暮実千代の若さと美貌が哀しく戦後時代の側面を表す。
志村の酔いどれ医者のキャラクターは定型的であり、「正義、正論」を好む黒澤らしい。
志村のもとに通い、肺病から回復する女学生(初々しい久我美子)とともに黒澤が信ずる正義・正論の象徴として描かれる。
ラストの三船と山本のやくざ同士の殺し合い。
ペンキにまみれ、もがくような争い。
やくざと暴力を決して肯定はしない黒澤の意志が徹底している。
東映やくざ映画のように暴力による解決をカタルシスとして描くようなことはしない。
沼のほとりで夜ごと奏でるギター。
やくざの親分が弾くギター。
キャバレーのシーンでは黒澤監督が作詞したオリジナル曲がブギの女王・笠置シズ子によって歌われる。
音楽に親和性の持つ黒澤監督の本領が随所に発揮される。
「酔いどれ天使」とは、一見志村医師のことかと思いきや、三船のことだった。
いやどちらも天使なのだろう。
「野良犬」 1949年 黒澤明監督 新東宝
さあ黒澤明初期の傑作「野良犬」だ。
当時、黒澤が本拠としていた東宝撮影所では争議が行われており、最終的には組合側が撮影所を占拠。
撮影できる状況ではなく、組合員のスタッフ、俳優は劇団を組んで巡業し闘争費用を賄ったという。
組合シンパの黒澤も応援演説や、劇団巡業に参加したとのこと。
争議はGHQの介入により組合側の敗退で終結し、のちに会社側による大規模な人員整理を伴った。
東宝撮影所は機能不全となり、組合脱退者で作られた新東宝のスタジオなどで細々と撮影が行われた。
この時期、黒澤明は新東宝で「野良犬」を、大映で「羅生門」を撮影している。
「野良犬」が傑作なのは、まず作品に一本の芯が通っていること。
拳銃をスられた刑事が失くした拳銃を追うのが主軸となって映画が進み、そのスリルが観客を引っ張ってゆく。
様々な挿話、描写、キャラクターが登場するがすべて主軸のストーリーに収れんしてゆく。
また、冒頭にナレーションによって事の起こりが説明される。
これは観客を主軸のストーリーに集中させる無駄のない手法である。
断定的なナレーションによる導入はこの作品を無駄のないストーリーテリングとした。
三船は「酔いどれ天使」の時より落ち着き、俳優らしい表情を見せる。
デビュー作「銀嶺の果て」(1947年 谷口千吉監督)の得体のしれない凶暴なだけの存在からは俳優としてかなり成長している。
野性味は並行して減少したが。
共演の志村喬。
ベテラン刑事役でくだけた演技も見せる。
注目の千石規子は拳銃密売グループの女役。
警察の取調室では安っぽいワンピースの胸元を広げ、足を投げ出して不貞腐れた女を好演。
ほかにも、岸輝子、河村惣吉、伊藤雄之助、高堂國典、東野英次郎、菅井一郎、千秋実、飯田蝶子らが集結し、重要なわき役からちょい役までを務める。
この贅沢な配役は東宝争議で作品数が減少し、俳優陣の出番の少なくなった時期だったからか?
俳優陣は若く、やせている。
三船と犯人役の木村功は必死に走り回り、「三等重役」の河村惣吉はスリ課のベテラン刑事を存在感たっぷりに、岸輝子はまさかの女スリ役を嫌みたっぷりに、菅井一郎はスケベな安ホテル支配人を軽薄に演じる。
それぞれが全盛期?の達者な演技。
これが見られるだけでもぜいたくで貴重な時間である。
そして犯人につながる重要な踊り子の役に当時16歳の淡路恵子。
かなりのセリフと演技をこなし、大物感を漂わせる。
彼女も木村同様戦争の犠牲者であり、若い淡路恵子はその哀しさも表現している。
淡路をスカウトした黒澤明の慧眼。
黒澤明はやはり映画の神様に愛された映画人だった。
戦争の混乱と、人生を翻弄された人々。
復員の途中で荷物をスられた二人(三船と木村)が片や刑事に、片や犯罪者に、と道が分かれる。
三船の逆境に負けない正義感が作品の主軸を貫くのだが、一方で木村に代表される若き犠牲者たちへの視線も忘れないのは、戦争の時代を潜り抜けてきた黒澤のヒューマニズムか。
物語の構成、スピード感、俳優の精一杯の演技、時代背景。
どれをとって第一級の出来でしかもわかりやすい。
全世界に通用する作品。
(おまけ)
1981年から2年にかけて4か月ほどパリに滞在した山小舎おじさん。
アルバイトが休みの日は「パリスコープ」という情報誌を片手に映画を見て歩いた。
パリでは古今東西の映画が町中の映画館などで上映されており、映画ファンにとっては夢のような場所だった。
「パリスコープ」の映画紹介欄は、映画の題名を原語表記もしてあった。
「野良犬」ならばフランス語の題名に並んで「NORAINU」の表記があった。
また、「パリスコープ」を毎週見ているとの、同じ作品が途切れずに毎週上映されているのに気が付いた。
覚えているのは「道」、「炎のランナー」、「注目すべき人々との出会い」など。
それらが当時パリで常に観客を集めている映画なのだった。
その中で「野良犬」もよく見る題名だった。
やはり世界で通用するエンタテイメントだと思った。
畑の大家さんから管理機を借りて、畑を耕しました。
春になり、畑は雑草が芽吹いてきたり、あるいは硬く固まった状態です。
ガッテン農法式で畝を立てた部分は、若干のガサの落ち込みがありますが、雑草はまばらで、畝を整形すれば使えそうです。
雑草をひっくり返し、固まった土をほぐすため管理機をかけることにしました。
ラダーレールと虎紐とガソリン携行缶を積んで大家さんのうちに向かいます。
山小舎開きの日に伺ったのですが、留守だった大家さんです。
この日は奥さんが在宅、半年ぶりのご挨拶をします。
いつもと変わらぬざっくばらんな奥さんでした。
裏に回って納屋から管理機を出します。
管理機は置き場所が変わっていましたが、いつも通りに動いてくれました。
積込みもいつも通りにできました。
畑について管理機のエンジンをかけます。
雑草を起こすだけの場所は縦に一回だけかけます。
植え付け予定の場所は縦横二回かけます。
耕耘している間に野鳥がやってきて耕した土に止まります。
土の匂いが空まで届いたのでしょうか?
こうやって一度耕耘しておけば、畝を立てる際にもかなり楽になります。
硬く締まった土は管理機ではだめで、スコップを入れて空気を通さなければなりません。
また、柔らかな土の場所でも、あとで鍬を使って畝立てをしなけっればなりません。
ことしも畑の季節が到来しました。
次回の作業はジャガイモ用の畝立てです。
諏訪湖畔の諏訪市美術館へ行ってきました。
「旅する視線展」が開かれているのをチラシで知ったからです。
片倉館が建つ敷地内に諏訪市美術館はあります。
片倉館は製糸業で.財を成した片倉財閥が戦前に建てた洋風建築で、本館と温泉施設を持ちます。
製糸工場の女工さんたちの厚生施設として建てられたという洋風の千人風呂は現在では地元、観光客に解放されており、750円で入浴できます。
どっしりした館内には食堂、休憩室などがあり一見の価値があります。
これら施設と同じ敷地内に建つ諏訪市美術館は、和風の外観を持つ建物です。
歴史を感じる点では片倉館と対をなし、風景的にマッチもしています。
美術館に入館します。初めての入館です。
1階の展示室には、地元出身の彫刻家のコレクションが並んでいます。
写真撮影OKとのことです。
2階が目指す「旅する視点」の展示でした。
「旅」をメインテーマとした絵画作品などが展示されていました。
地元出身の作家の作品が半分はあります。
チラシにあった「漁港」という作品も見ることができました。
「漁港」には1943年当時の風俗が画化の視点を通して描かれており、当時の日本に点在したであろう、辺境の漁村の空気感がよく出ていました。
写実的というか、わかりやすい点描の中に「時代」と旅の郷愁が保存されているようでした。
その他の作品も立派な作品ぞろいでしたが、芸術家の解釈、主観が前面に出ているものも多かった印象でした。
山小舎おじさんは「旅する視点」展に勝手に民俗的色彩を期待していました。
民俗学者の宮本常一が日本各地で撮った写真のような。
そういった写実的な作品もありましたが、当然ながら美術作品では作家の解釈、主観が入りますので、民俗学とは違いました。
芸術家の解釈、主観は別な意味で興味深いものがあります。
これからは各地の美術館を訪ねるのも楽しみになった山小舎おじさんでした。
信州では鰻が昔からの御馳走とのこと。
4月のある日、家族が毎月恒例の山小舎訪問に訪れました。
家族の来訪時には、山小舎での炭火焼きのほか、外出先での信州名物料理を食べるのが楽しみの一つです。
鰻は諏訪地方の名物の一つで、家族らとはこれまでも、岡谷、上諏訪、下諏訪の鰻屋によく行きました。
今回は下諏訪町にある林家というところへ行きました。
店へ着くと先客が一組待っていました。
30分ほど待って入店。
2階のテーブル席へ案内されました。
鰻重をいただきました。
諏訪地域の鰻は、関東風の柔らかい焼き方と、関西風のパリッとして甘辛い焼き方の二通りがあります。
岡谷を中心にした関西風の外カリ、中フワの甘辛い鰻も美味しいのですが、下諏訪の林家の鰻は関西風ではなく、一度蒸してから焼く関東風でした。
ごはんが美味しく、量的にも満足なのが信州スタイル。
肝吸いや漬物も一味違います。
いつものように大満足の信州の鰻でした
ハリウッドの「最高傑作」をひとつだけ選ぶということが可能なら、「市民ケーン」を選ぶのが順当なのではあるまいか。(1986年オットー・フリードリック著「ハリウッド帝国の興亡」訳書P133)。
と評される「市民ケーン」。
若き日のオーソン・ウエルズがRKOスタジオと契約して発表した当時(1941年)の問題作である。
この作品では、ウエルズが主催していたマーキュリー劇団の盟友ジョセフ・コットンが共演している。
また、48年には英米合作で「第三の男」が発表されており、再びオーソン・ウエルズとジョセフ・コットンの共演が実現している。
「市民ケーン」 1941年 オーソン・ウエルズ監督 RKO
親元を離れ育ち、大人になってから莫大な遺産を相続したケーン(オーソン・ウエルズ)が主人公。
先ず新聞社を買収してマスコミ業に乗り出す。
独自の(偏った)論陣を張り自己を主張。
財力に物を言わせて片っ端から新聞社、ラジオ放送局を買収してゆく。
経営者となってからは、労働者側からはファシストと呼ばれ、資本側からはコミュニストとそしられる。
自らの新聞を使って世論をもてあそび、追従者を翻弄、恫喝して陰湿な権力をもてあそぶ。
州知事選挙にも出馬するが、ここでは政治の世界の悪辣さにガツンとやられたりもする。
孤独なケーンは女性関係も危うく、良家の子女との最初の結婚は全くうまくゆかない。
つぎに下積みのオペラ歌手を見染めて結婚。
才能のない妻を自ら建てた劇場で主演させ、自らの新聞で絶賛する。
大学時代からの友人で、最初の新聞社買収の時にスカウトしたリーランド(ジョセフ・コットン)は、ケーンの妻の絶賛記事を書かずにケーンからクビになる。
自分のためには長年の盟友もあっさり切るケーン。
ロサンゼルス郊外にザナドウと呼ばれる御殿を作る。
その中には御殿のほかに動物園まであった。
晩年のケーンはザナドウに閉じこもり、妻はパズルに明け暮れ時間を潰した。
やがて妻は出てゆき、ケーンは「ローズバット」という言葉を残して死ぬ。
係る新聞王の一生をドキュメンタリーにまとめようとした映画班が、ケーンの最後の言葉「ローズバット」にこの人物の謎を解くカギがある?として、ケーンの生前の関係者に当たってゆく、というのがこの映画の基本設定。
そこに過去の回想シーンが挟まってゆく構成で映画が進む。
新聞王と呼ばれ、映画女優マリオン・デイビスを愛人にしたウイリアム・ハーストをモデルにしている。
ウエルズとコットンを除き、スター性はないが確かな演技力を示す出演者(ほとんどがラストで映画初出演とクレジットされている)をカメラは長回しでとらえる。
同時に3人以上が動きながら芝居する場面を、クレーンカメラで移動撮影する。
入念なリハーサルと老練なカメラワーク(セットの造りと俳優の演技力も)が必要な撮影方法で、うまくはまると流れるような時間的、空間的な効果を生む。
意欲的な撮影者グレッグ・トーランドは見事にこなし、ウエルズの演出意図に応える。
トーランドはまた、パンフォーカス撮影を多用する。
子供時代、ケーンが後見人に連れられて親元を離れるときの場面。
雪遊びしているケーンが家へと近づく、それを室内から窓越しにとらえる。
室外の子役と室内の大人にそれぞれしっかりとピントが合い、ワンショットでとらえる。
一つの場面の緊張感が持続し、観客に場面の重要性を強調せしめる。
ハーストの実際とは細部では異なる(映画では妻が出て行ったが、実際は愛人であるマリオン・デイビスはハーストの死後も裏切ることはなかったなど)。
また、実際のハーストがケーンのように骨董品の収集に狂奔するような幼児性のある人物だったのか、あるいは若き日に友人とともに買収先の新聞社に颯爽と乗り込み、記事を書き始めるような才気ばしった人物だったのか、はわからない。
ハーストそのものなどより、自分たちの才能の方にウエルズたちの興味はあったようだ。
「市民ケーン」に集結したウエルズ、コットンらは、若く、才気走った自分たちを、自らに酔うがごとく誇示している、と言ったら言い過ぎか。
ハーストのカリスマ性、権力欲がウエルズの個性と重なる、というのはこの作品についてよく言われるところ。
当時23歳のウエルズにハリウッドの映画会社RKOの社長ジョージ・シェイファーが、10万ドルで年1本、みずから製作、監督、脚本、主演でオファーして実現した作品。
権力者ハーストをモデルにしたこの作品は、内容についてRKOの正式な承認を得る前にテストと称して撮影されたという(「ハリウッド帝国の興亡」P137)。
試写が行われるとハースト及びそのお抱え評論家が動き出し、最終的にハーストの「友人」であるMGMのタイクーン、ルイス・B・メイヤーが「市民ケーンの」ネガと全プリントの廃棄を条件に842,000ドル支払う、という提案を行ったが、RKOのシェイファーは拒否した(「ハリウッド帝国の興亡」P139)という。
果たして「ローズバット」の意味や如何ということだが、映画では子供のころ雪遊びをしたそりの名前だった、との結論であった。
異論は多々あるようだが。
オーソン・ウエルズがRKOで自らの采配により映画を製作したのは、次作「偉大なアンバーソン家の人々」が最後となった。
「第三の男」 1948年 キャロル・リード監督 英米合作(ユナイト配給)
「市民ケーン」で共演したマーキュリー劇団の両雄が再び共演。
舞台は終戦後、敗戦国オーストリアの首都として連合国四か国管理下のウイーン。
瓦礫の街、闇経済に頼らなければ生きてゆけない人々。
戦後なお新たな悪の支配におびえている。
飛び交うドイツ語。
親友ハリー・ライムを訪ねてきた通俗作家ホリー(ジョセフ・コットン)の目を通して描かれるウイーンの光と影。
ハリウッド映画と違い、イギリス人監督のキャロル・リードは住民にドイツ語をガンガンしゃべらせ、理解できない不安な心理をホリーと観客に共有させる。
影を強調した夜のシーンの撮影も得体のしれぬ終戦後の闇と不安を強調。
死んだと聞かされたハリー。
ふに落ちないホリーは独自に調べ始める。
アメリカ人の無自覚で不作法な楽天性にいら立つ現地イギリス軍の少佐にトレバー・ハワード。
この作品がメジャー仕様なのはハワードの引き締まった表情を見てもわかる。
(同年に作られた純イギリス映画「黄金の竜」でのトレバー・ハワードは、同じようにイギリスのエージェント役だったが、北アフリカロケを謳歌し、新人の17歳アヌーク・エーメとのキスシーンにうつつを抜かしたのか、年相応のたるんだ顔つきだったが。)
チェコの偽造パスポートを持ち、混乱のウイーンで舞台女優を務める謎の女マリアにアリダ・ヴァリ。
イタリア人女優で、この絶妙なキャステイングに応える演技と存在感を示す。
アメリカ人女優ではとても出せなかったであろう、敗戦に混乱する根無し草の虚無感と強さを表現する。
この映画のハイライトは何といっても、コットンとウエルズの再会シーン。
ピーカンの空の元、待ち合わせの観覧車に向かうコットンをあおりでとらえるカメラ。
マントが翻り、それまでの無知な通俗作家の面影はすでにない。
向こうからやってくるウエルズ。
細身で足早、若い。
これまで画面の通底を支えるように低く響いていたテーマ曲が高らかに鳴り響く。
若き名優二人の颯爽としたふるまい。
格好いい。
それまでの暗く、絶望的だった映画の展開が一挙に晴れ渡ったような瞬間だった。
「市民ケーン」のウエルズは自己顕示欲が強く、クセと嫌みがあったが、リード監督の演出の元のウエルズはすっきりとしてその演技力がストレートに伝わってくる。
イギリスのアレクサンダー・コルダとキャロル・リード、ハリウッドのデヴィッド・O・セルズニックの3人による共同製作。
ウエルズのキャステイングに難色を示したセルズニックに対し、監督で製作者のリードが起用を強く主張したとのこと。
この作品の成功はオーソン・ウエルズの起用に多く起因している。
そういえば、生きているハリーが一瞬ホリーの前に現れるカット。
ライトに照らし出されるオーソン・ウエルズの顔つきと顔の角度は、「市民ケーン」での州知事選挙看板のウエルズのカットと同じ顔つきと角度だった。
製作陣がウエルズと「市民ケーン」に興味と関心を持っていることが隠しようもなく現れている。
また、それをユーモアというかウイットというか、イギリス人らしく余裕をもって表現したリード監督の才気を感じる。
ラストシーン、ハリーの埋葬を終え、ホリーが並木道でマリアを待つ。
一瞥もくれずに通りすぎるマリアをワンカットでとらえる。
ハリウッド映画ではありえないラスト。
原作は二人で腕を組んで去ってゆく、だったという。
この辛口のラストシーンにもリード、コルダのイギリス側の製作意図を感じるのは山小舎おじさんだけか。
「セルズニックの映画」にならずに、敗戦国のシビアさが背景にしっかり描けたこと、ハリー・ライムがアプレな悪人ながら魅力的に描けたこと、などはキャロル・リードとアレクサンダー・コルダの業績なのではなかったか。
4月に入り信州も畑の季節到来です。
寒い日は気温が氷点下になる時もあります。
こんな寒い日に植えられても野菜も大変だろう?と思うような日もあります。
八ヶ岳の山頂は雪が残っています。
一方で、畑の雑草は着実に成長しており、ナズナ、タンポポなどは花を咲かせており、季節は進んでいます。
ことしの山小舎おじさんの畑ライフ。
省力、省栄養、無農薬、無害獣をモットーに今年も頑張る予定です。
無肥料、無農薬、不耕起のガッテン農法を取り入れて4年目になります。
ガッテン農法式で起こした畝は計15畝ほどにもなります。
一度起こしたら再耕は不要といわれる畝です。
実が成る夏野菜は、例年通りこれらの畝に植えます。
ガッテン式の畝立てをしていない場所もたくさんあります。
鹿よけのネットで囲まれた場所、ネットなしの場所、そもそも畑として利用していない場所も。
ネットに囲まれた場所には、害獣防止のため、鹿が好む作物を植えましょう。
インゲン、キヌサヤ、枝豆、大豆、トラ豆などの豆類、かぼちゃ、ジャガイモ、サツマイモなど。
ネットなしの場所には鹿が好まない作物を植えましょう。
菊芋、里芋、ヤーコン、ウコン、長ネギにエゴマ、ほうずきなど。
山小舎おじさんの力と根気がなく、やむなく耕作放棄している場所は、春先に管理機をかけ、雑草を起こしておきましょう。
夏ころには草刈りも何度か必要になるでしょう。
集落設置のフェンスに覆われた場所は、ほぼ全面をガッテン式畝立て済みです。
夏野菜、キャベツ、ハーブなどを植えましょう。
今年はビーツにも挑戦したいと思っています。
さて4月も中旬になろうとする畑。
畑の準備に並行して植え付けを開始しました。
キヌサヤの苗を買ってきて植えました。
キャベツ50株とレタス少々を定植しました。
トレイで発芽させて売っているキャベツの苗。
山小舎おじさんのような、素人さんの畑にはトレイからポットに移して、もう少し大きく育てた後に植えた方がよいのかもしれません。
ですが、朝晩の寒暖差が激しく、温室もない山小舎で春先の育苗は難しいので、このまま定植しました。
定植前には苗にえひめAIの希釈液を吸わせておきます。
事前にマルチで地温を高めておいた畝に植えてゆきます。
トレイは小さいので手で苗を取り出すことは困難です。
小さいフォークを使ってトレイから苗を掘り出します。
苗をマルチの穴に置いたあと、苗に体重をかけて鎮圧します。
苗と土壌を密着させ、自力で給水させるためです。
これまでのキャベツ栽培は、乾燥のため初期の生育が悪かったり、育っても長雨でカビが発生したりしました。
初期の育成促進のために、植え付け前の畝に去年から自作しておいたボカシ肥料を入れてみました。
しばらくは畑に行くたびに水やりもしようと思います。
果たして今年のキャベツの生育はいかに。
週末の家族の来訪を待つ山小舎おじさん。
家族に人気のごちそう、煮豚を作ることにしました。
茅野のAコープ・ピアみどりで信州豚のバラブロックを買ってきます。
Aコープの信州豚は焼いてよし、煮てよしの優れもの。
炭火で焼くと肉の歯ごたえがちょうどよく、油の甘さがたまりません。
煮ると下茹でがいらないくらいにアクが少なく煮汁に濁りが出ません。
山小舎で作るカレーはもっぱら信州豚のコマ切れです。
値段も高くありません。
豚バラブロックを水から煮ます。
来客用なので一応下茹でします。
茹でこぼした後、水を取替て煮込み始めます。
長ネギ、ショーガに玉ねぎ、にんじんを臭み取りに入れることにします。
酒、黒コショーを加えます。
2、3時間、薪ストーブで煮たら1日目終了。
ここで一晩おき、固まった油を除きます。
翌日再びストーブで煮込みながら味付けします。
砂糖、しょうゆ、みりんに自家製チャツネ、隠し味の味噌、塩麴などを加えてさらに煮込みます。
段々いい色になってきます。
汁が煮詰まらないようにします。
ここで茹で卵を入れて煮卵にします。
卵に色がついたら出来上がり。
冷やして油を取り除きつつ、来客への提供を待ちます。