ある日、古本屋の店先にあった古い「キネマ旬報」を手に取った。
100円だった。
当時の映画事情が懐しかったので買っておいた。
表紙は当時封切りの「ダイナマイトどんどん」。
岡本喜八監督の晩年の快作である。
折込の目次の裏が広告になっている。
名作洋画の題名が並んでいる。(その中には1971年公開の「ジョニーは戦場へ行った」などの最近作も含まれる)
それはレンタル用の16ミリフィルムの広告だった。
いつの間にか時代は変わってしまっているが、この当時、ハード素材としてのビデオも一般には普及しておらず、DVDは開発されていなかった。
映画はデータを変換するデジタル処理によってではなく、フィルムを映写機にかけて、光学的に見るものだった。
映画館では35ミリフィルムをかけていたが、職場のレクレーションや、学生の上映会の素材として、16ミリ版の映画フィルムは需要があったのである。
16ミリ用映写機を扱う技術講習会のようなものも当時あった。
また、当時の16ミリフィルムの流通は、テレビ上映用に16ミリにダビングしていたことと関係があるのかもしれない。
さて、「キネマ旬報」という雑誌。
日本最古の映画雑誌で、日本で上映される邦画・洋画の全情報、業界の動向、作品批評、映画史研究の連載、などで編集されている。
同誌が毎年発表するその年の映画ベストテンは、国内で最も権威あるものとされ、新聞記事にもなる。
ファン雑誌を卒業した、ちょっとヒネた高校生や大学生の映画マニアが手に取る雑誌で、山小舎おじさんが高校生になるころ住んでいた函館の本屋には、1971年のその当時、置いていなかったりもした。
1978年10月号の編集長は黒井和男。
前任(正確には2代前)の白井和夫編集長時代には、無頼のルポライター竹中労が「日本映画縦断」と称して、伊藤太輔監督など先人へのインタビューを中心にした膨大な連載を始めていた。
その前には「映画紅衛兵運動」と題する、映画館などでの上映状況改善を目的とした読者による問題提起の連続掲載もあった。
映画人の間での論争もよく紙面を飾っており、いわば「尖った」ことを厭わない紙面づくりだった。
白井編集長の更迭?により、「日本映画縦断」などの連載は途中打ち切りとなり、「キネマ旬報」は穏便な路線にかじを切っていた。
1978年の「キネマ旬報」。
改めて、上映作品や業界の動向などの情報を広く網羅していることに気づく。
興行成績や、各地のトピックなどをフォローし、文化映画やTVアニメ、映画館やテレビなどの上映情報も欠かしてはいない。
業界誌であり、記録、資料としての役割も備えた媒体であることを再認識できる。
メインの映画評論に関しては、飯島正「ヌーベルバーグの映画体系」、渡辺武信「日活アクションの華麗な世界」など、後に単行本化された連載陣を有し、
品田雄吉、飯田心美、金坂健二、斎藤正治、今野雄二などが作品批評を執筆。
当時の代表的な映画評論家たちで、またキネマ旬報映画ベストテン選出メンバーたちの名前が並ぶ。
読者の映画評というコーナーがあった。
20歳前後の若い読者が気鋭の文章をつづっている。
若さと観念が隙間なくぎっしり組み合わされたかのような文章に、時代が強く感じられる。
当時の文化的知性の先鋭に憧れ、模倣し、食らいつくかのような気負った若さが、同時代の山小舎おじさんには懐かしい。
読者のフルネーム、年齢、住所が掲載されている点には、トンデモないと感じるより、失われた「いい時代」を思ってしまうのは、おじさんが古い人間のせいか。
当時の映画評論家の文章、読者の投稿文、を見るにつけ、この時代の「キネマ旬報」がいかに文字を信じ、文字で表現しようとしていたかが伝わってくる。
文字が表現の王道だった時代。
選ばれた人に許された文字表現を世に問う世界。
活字による自己表現を許されたエリートたちの誇りと矜持。
活字が詰まった、批評欄を見るにつけ、時代の変遷を感じざるを得ない。
1978年の「キネマ旬報」はまた、小林信彦、赤瀬川原平、小林亜星らによる連載によって商業化、一般化も図っている。
イラスト付きなのは、来るべき「文字表現絶対時代の崩壊」を先取りしているからなのか。
また、別の観点から時代の隔絶を感じさせるのが「番組予定表」。
この時代の映画文化の学びの場であった、各地の名画座の上映情報を掲載したページである。
東京だけでも、文芸座、並木座、昭和館、佳作座、大塚名画座、上板東映、パール座、などの名前が見られる。
繁華街と主要駅周辺に、2本立て3本立ての映画館があった時代。
名画座と呼ばれたそれらの映画館は、復活した文芸座を除き現在全滅。(上記番組表の中では、文芸座と早稲田松竹が残存している)
山小舎おじさんの若き日も、上京の折には、情報誌「ぴあ」を片手に名画座巡りをしました。
池袋文芸座の満員でたばこの煙が漂う館内。
上映されていたルキノ・ヴィスコンティ監督の「ベニスに死す」(1971年)は、巻頭から場面が飛び飛び、画面は雨降り、カラーは退色、の三重苦のプリントでしたが、この作品が観られることだけで満足でした。
銀座並木座で観た「雪国」(1957年 豊田四郎監督)。
狭くフラットな館内は、後方席からの鑑賞には不向きな造りで、画面の三分の一程が前の人の頭で見えませんでした。
「西の京一会館、東の文芸座」と当時うたわれた、名画座の聖地、京都市左京区の京一会館へも行ったことがありました。
京福電車、一乗寺駅を下りた商店街のはずれ。
寂れた建付けと便所臭ただよう館内。
その日は、当時であっても上映機会は稀だった、マキノ雅弘監督の東宝版「次郎長三国志」(1952年~)が4本立てくらいでかかっておりました。
興行価値はともかく、日本娯楽映画の原点ともいえる作品を敢然と上映する姿勢に、さすがは名画座西の雄、と感じたものでした。
さて、この号の訃報情報に、中平康監督、大蔵貢社長の名前がありました。
日活の一時代の立役者でもあった中平監督についてはそのチーフ助監督を務めた西村昭五郎監督が巻頭の「フロントページ」欄に追悼の小文を載せています。
一方、新東宝社長としてエログロ路線を導き、今でも新東宝カルトムービーの「発起人」として賛否両論ある大蔵貢については、巻末の「映画界の動き・短信」欄に10行ほどの経歴記載があるだけでした。
新東宝、カルトムービー、ピンク映画など、ニッチな世界に日が当たるのは、その後10年、20年と待たなければならないようでした。