マキノ光男が死に、岡田茂が撮影所合理化の責任を取って大泉撮影所長に左遷されていた1963年の東映京都撮影所。折から映画界全体の地盤沈下が顕著で、観客動員数と映画会社の収益は減少を続け、1960年には邦画各社合計で168本も作られていた時代劇は、1962年には77本にまで激減していた。
この間の、東映時代劇に関する状況の変化を「あかんやつら・東映京都撮影所血風録」から要約して引用する。
『東映にあっては、千恵蔵、右太衛門の両御大を筆頭に、大友柳太郎、東千代之介の人気が低下し、彼等の主演作品が当たらなくなっていた。
また、両御大に代わって東映の看板を背負っていた中村錦之助は、60年代に入って文芸大作路線に転じていたが、作品の出来はともかく、年を追って観客動員を減らしてゆき、錦之助と並ぶスターの大川橋蔵は、大島渚や加藤泰と組んでの新機軸が、まったくといっていいほど観客の支持を得ることができなかった。
こうして東映のスターシステムは崩壊し、すべては観客を喜ばせるためという東映時代劇の美学も消え失せた。』
『1963年、京都撮影所の企画部次長となった渡邊達人は、「集団抗争時代劇」というスタイルを考え出した。
これまでの明朗・軽妙の情の世界から、リアルな任務遂行の理の世界を描き、スターの魅力に頼らず、華麗に舞い踊る殺陣ではなく、生々しい殺し合いとしての殺陣を描く、というコンセプトのもと、天尾完次プロデューサー、結束信二、鈴木尚之、笠原和夫ら若手脚本家、長谷川安人、工藤栄一、山内鉄也といった若手監督を登用した。』
長谷川安人監督について
ここに、ワイズ出版の「日本カルト映画全集2・十七人の忍者」がある。
集団抗争時代劇の第一作といわれる同作品をテーマにしたムックである。
内容は同作のシナリオをメインに、長谷川監督へのインタヴュー、関係者の談話などで構成されている。
長谷川安人監督について「東横映画に入るまでの自分史・長谷川安人」から以下に要約・引用する。


『大正大将11年広島県比婆郡生まれ。
4歳の時に一家で朝鮮に移住し各地を転々とする。
高等工業時代に、映画の撮影所に入ろうと、単身東京へ出る。
屋台で隣りの席にいた朝鮮時代の小学校の同級生と遭遇し、部屋代を半分負担して彼と同居。
その彼の姉が新興キネマのスクリプターをしており、彼女のつてで同大泉撮影所に撮影助手として入社。
1年後、撮影所内で何気なくはじいた石ころが女のすねに当たり、女は騒ぎ立て、逆上した長谷川は女の脚を叩く。
女は撮影所長お気に入りの女優候補で、謝らなかった長谷川は新興キネマをやめる決心をする。』
『釜山から汽車の乗って、新京の満州映画協会を目指し、製作部長のマキノ光男の自宅を訪ねた。
奥さんは自宅に泊めてくれ、翌朝会ったマキノは「まあええわ。徴兵までの娑婆や」といって満映啓民部(ニュース映画製作)に入れてくれた。
仕事で満州東北部の興安領を回り、北満の白系露人、オロチョンの狩猟等に接した。
その後、縁あって北京の華北電影公司へ移り、山西省の山々や、蒙古へ記録映画の撮影で赴いた。
長橋善語というマキノ家の番頭だった人が所長だった。
朝鮮で育ち、満映と北京時代の経験は長谷川の精神性に大きく影響した。』
『徴兵に際し、現地入隊ではなく現隊入隊を選び本籍地の広島で入隊した。
重慶近くの山中で終戦を知った。
親しくしていた見習士官から拳銃をもらって脱走した。
揚子江を下って南シナ海へ出、インド洋から紅海、地中海を目指すつもりだったが、昭和22年には札幌郊外の牧場で季節労働者をしていた。
折から、新興キネマ太秦撮影所で、マキノ光男を中心にした満映帰りの映画人たちが東横映画をスタートさせていた。.
札幌の長谷川に長橋善語から便りが来た。
「お前も頭がシャンとしたら京都に来い」』
長谷川監督の人生前半史があまりに面白く破天荒でスケールが大で、氏の人となりが横溢していると思ったので長々と引用した。
東映で助監督になってから以降は、同著のインタビューから以下に抜粋・要約する。

『東映時代には助監督として、渡辺邦夫、松田定次らにつく。
どちらも看板番組を任される大御所監督だが、古い習慣を拒否したり、監督に尋ねられたことに正論で返すなどして、両大御所の組をクビになったり、監督昇進の機会を逃したりする。
ジプシー助監督として、吉村公三郎、成瀬巳喜男、丸根賛太郎、中川信夫ら外部からの監督にもつく。
なんと、大島渚の「天草四郎時貞」にもつく。
この作品は、清新な話題の若い監督に自分の新たな面を引き出してもらおうとした大川橋蔵が、大島起用を会社に対して押し切ってのものだったが、東映系の映画館主たちは初めから橋蔵と大島の取り合わせには反対だった。
出来上がりやその色合いの見当がつかないからと。
スタッフたちは半ば公然と「こらあかんで」と言っていた。
会社や橋蔵の望む天草四郎像と大島がねらうものが、まったく違うことはスタッフならば察しはついていたからだった。

1963年「柳生武芸帳・片目水月の剣」で監督デヴュー。
近衛十四郎主演のシリーズ6作目。
阿蘇山ろくで馬100頭を集めてロケしたり、天守閣を三角に作るセットを組んだりした。』
ラピュタ阿佐ヶ谷では、東映時代劇特集の1本として「十七人の忍者」が上映された。

「十七人の忍者」 1963年 長谷川安人監督 東映
脚本は、1960年に2年で8本の契約を東映と結んでいた新鋭の池上金男。
現場の総指揮は、渡邊達人企画部次長の任を受け集団時代劇の牽引役となった天尾完次プロデューサー。

東映の三角マークがモノクロの画面に音もなく映し出される。
大げさな表情は封印し、ひたすら静の演技に終始する大友柳太郎。
食らいつくように目を剥く里見浩太朗。
諦念したように冷たい表情の東千代之介。
普段着の伊賀もの17人が揃い、頭領からの命を受け目的地の駿府へと散る。
目的は公儀への謀反を企てる駿府大納言以下の諸藩連判状を奪取し、謀反実行の前に幕府により内密に平定させること。
この日のために日常を世を忍ぶ仮の姿で送ってきた最後の伊賀もの17人。
鍛えてきた忍法を発揮する晴れの舞台であるが、高揚感、華々しさはない。
あるのは、索漠とした寂しさ、わびしさ。
任務の向こうに確実に待っている死を予感してのものか、あるいは滅びゆく隠密、伊賀ものの定めが醸し出すのか。
隠密、忍び、伊賀もの、としての掟は、頭領の命令によって死ぬこと。
頭領は配下が使命を果たすことのみ考え、そのために知力・体力の限りを尽くす。

3組に分かれた伊賀ものたちは駿府城に着き、それぞれに城内侵入を試みるが、駿府とて幕府による隠密の策動は承知のこと、伊賀ものに対抗すべく根来忍者の頭領(近衛十四郎)を軍師として城内の警備に当たらせている。
悲壮感に満ち、己の定めを粛々と受けれるがごとき伊賀ものたちに対し、根来の頭領はひたすら激しく、表情豊かなリアクション。
普段は最下層の武士ゆえ、城内の家臣たちに蔑まれている根来衆の怨念と反抗心をむき出しにして伊賀ものを迎え撃とうと待ちかまえる。
使命を果たすことに加え、自分たち根来衆の名声獲得と地位向上の野心に満ちている。
一方の駿府城の家臣たちは、根来の頭領の指示に従って防衛ラインを築きつつも、内心では根来への不信と軽蔑を隠そうともしない。
これが身分の差というべきものなのだろう。
また、ここに駿府城と根来の油断とスキがあった。
対する伊賀ものたちは完全に捨て身である。

駿府城の鉄壁の防御に17人の人員をいたずらに消耗し、頭領まで生け捕られた伊賀ものは、くノ一(三島ゆり子)もいれて残り5人。
頭領から「お前が指揮を取れ」と命ぜられた若き里見浩太朗が、自らも迷いながら作戦を決断してゆく。
すべては連判状奪取というただ一つの使命のため。
内心では年若い里見の指示を快く思っていなかった東千代之介も、里見の目的達成への無私の努力を見て、忍者としての掟に従い、捨て駒として死んでゆく。

最後のチャンスに、お濠を渡り、城壁をよじ登り、道具を駆使して城内へ侵入する行程を時間をかけて描く。
侵入用に彼らが持つ道具の「重さ」が感じられる。
画面の緊張感は最後まで途切れない。
何より役者たちが(ということはスタッフたちも)一生懸命やっているのがわかる。
伊賀忍者にとって幕府からの使命は、身分制度を背景にもした一族の存亡にも関わる絶対的なもの。
それを果たすためには、私情を排して集団で当たる。
ある意味野生の掟に近い、実力のみ、弱肉強食の世界。
作品は、その無機質な世界観を根底に、技術的、策術的な忍法のディテイルを丁寧に盛り込んでいった。
集団抗争時代劇は本作のヒットによってスタートを切った。

監督の長谷川は言う(「日本カルト映画全集2・十七人の忍者」より)。
・劇中の乾門は、彦根市と井伊家にお願いに行って、彦根城の石垣にぴったりはまる門のセットを作った。
橋の手前から見ると、濠、橋、門、城壁、松の樹々と全体が立派に映えたのでうれしかった。
・スタッフには、セットごとにカットのアングルと人の動き、用意する小道具などを描いて渡した。
皆に僕と同じ思いをして作業をしたかったから。
・濠の中の水中シーンも皆が乗ってやってくれた「おう、やろうやろう」と。
・配役は意識的に吟味した、わき役だが重要な役に千代之介を配したのもそのため。

スタッフ、配役に恵まれ、アイデアを十分に盛り込み緊張感に溢れる力作、快作となった。
妥協を嫌う長谷川監督の気質がよく表れた作品だと思う。
プログラムピクチャーであっても、監督をはじめとしたスタッフの創意が貫かれている点では立派な「作家の映画」が出来上がることを示している。
役者たちの決然とした表情は、全盛を誇った東映時代劇の凋落を目の当たりにした、これから映画界で働き盛りを迎えなければならない者たちが、まさに難攻不落な未知の領域に挑もうとするときの、不安に満ちながらも決然としたもののようにも見えた。