フィルムノワールという映画のジャンルがあります。
直訳すると暗黒映画ということになります。
イメージ的には、1940年代のモノクロスタンダードサイズのアメリカ映画で、犯罪的だったり退廃的だったりする登場人物が、必然的にもしくは自業自得として犯罪行為を行い、これまた必然的に破滅へと向かう物語です。
当時流行した探偵・犯罪小説家だった、レイモンド・チャンドラー、ダシール・ハメット、ジェームス・M・ケインなどの原作物の映画化が多く見られます。
派手にマシンガンを撃ち合うギャングものというよりは、ひっそりと裏街道に潜む市井の人物が、仲間の犯罪集団や悪女の誘惑にあらがえず、自滅してゆくという宿命的なドラマが特徴です。
年末年始にわたり、渋谷シネマヴェーラという名画座で、「フィルム・ノワールⅢ」という特集があり、何本か観ることができました。
「殺人者」1946年 ロバート・シオドマーク監督
スターになる前のバート・ランカスターとエヴァ・ガードナーの主演作です。
監督はドイツからの亡命者・シオドマーク。
代表作は、ドロシー・マクガイアが盲目の少女を演じるスリラー「らせん階段」(1945年)でしょうか。
夜や闇の撮影が上手いイメージの映画です。
ガードナー扮する悪女に振り回されるこれまた悪人のランカスターが自滅してゆく物語。
悪女はもちろん、悪人ながら主人公のランカスターにもほとんど感情移入を許さない乾いたタッチの作品です。
この作品のエヴァ・ガードナーのスチールを見てから、気になっていた映画でした。
後の大女優は、若々しいものの、すでに貫禄が感じられました。
「ガラスの鍵」1942年 原作:ダシール・ハメット
元祖「奥様は魔女」(1942年)のヴェロニカ・レイクを観たかったのです。
レイクはコメデイーを含め、様々な役柄に扮しており、また共演のアラン・ラッドとコンビで売り出されていたようです。
本作はノワール調は控えめで、レイクも完全な悪女ではありません。
むしろスピーデイーな身のこなしのラッドの颯爽ぶりを見る作品なのかもしれません。
レイクは様々なファッションに身を包んで登場します。
「郵便配達は二度ベルを鳴らす」1946年 原作:ジェームス・M・ケイン
完璧な美女だが下品さを隠し切れない悪女、ラナ・ターナー。
悪女と会った瞬間に自分と同類であることを知り、宿命的に破滅してゆく半端者、ジョン・ガーフィールド。
場末のドライブインを舞台に救いのないノワールな世界が繰り広げられる。
3度目の映画化だが特に悪女役は、ラナ・ターナーを置いて他にありえないと思わせる適役。
原作の退廃性、犯罪性、をすべて彼女が体現している。
撮影がどうこうより、ストーリーがどうこうより、ラナ・ターナーの存在そのものがノワールな記念碑的な作品だと思います。
「ハイ・シエラ」1941年 ラオール・ウォルシュ監督
ノワールとかなんとかの枠を超えた傑作だと思います。
登場人物が全員、犯罪者であったり日陰者だったりするところは「ノワール」です。
必ずしも退廃的ではない日陰者たちの性格描写にも力がはいっており、様々な伏線を巡らせながら、ラストの破滅に向かってテンポよくドラマが進みます。
最終的には犯罪者でありながら人間性に優れた主人公と、日陰者でありながら主人公の人間性に惹かれるヒロインの、破滅への道行きにドラマが収斂。
「暗黒街の弾痕」「夜の人々」「拳銃魔」など、いわゆる『ボーイ&キーチもの』と呼ばれる一連の作品の基調をなす、イノセントな犯罪カップルの破滅への逃避行がこの作品のハイライトです。
ハイウエイをぶっ飛ばしてのパトカーとのカーチェイスのほか、長距離バスでの逃避行シーン。
これに簡易結婚式場での結婚シーンが加われば、「夜の人々」「拳銃魔」とシチュエーションが重なります。
ヒロインのキャラクターの健気さ(不幸な環境、しっかり者、家事もこなす)は「夜の人々」のヒロイン像と重なります。
そう、前3作と異なり、観客の感情移入を許す主人公像がこの作品にはありました。
主人公役はこれが出世作となった、ハンフリー・ボガート。ヒロイン役はのちの「エデンの東」(1955年)でジェームス・デイーンの実母の女郎屋の女主をやった、アイダ・ルピノです。