DVD名画劇場 戦前オーストリア映画のパッション

戦前のドイツとオーストリアは映画の都だった。
ドイツにはウーファ撮影所があったし、オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウイーンにはサッシャという映画会社があった。

1930年代、(33年に)ナチス党が政権を取ったドイツ本国に比べ、同盟国とはいえオーストリアでは芸術の自由が幾分か残っていた。

この時代を知る日本の映画評論家に筈見恒夫、南部圭之介がいる。

南部圭之介著の「続・欧米映画史」と、筈見恒夫が監修した「写真 映画百年史全5巻」が手許にある。
どちらも戦前のドイツ映画、オーストリア映画の豊饒な世界についてたくさんの稿を割いている。

戦後になり、現代になって映画の世界はアメリカの独り勝ち。
一部のマニアにフランス映画などが志向されているような状況となっている。
否、映画に国籍はすでになく、資本、スタッフ、キャスト、撮影地が各国を複層して製作されるようになっている。

が、戦前にドイツ、オーストリアに於いて、当時のハリウッドに比す内容、規模の映画を巡るワールドが展開されていたことは歴史上の事実だった。
後年の各国の諸作品へのジャンル的、手法的な影響を多く残した点でも特筆される。
筈見恒夫、南部圭之介らの著作には当時の日本の映画評論家がいかにドイツ、オーストリア映画に注目し、関心を持ち、評価していたかが表れている。

「続・欧米映画史」。表紙の写真は「未完成交響楽」の名場面
「同」奥付
「写真映画百年史第3巻」表紙
「同」38,39Pには、1930年代のオーストリア映画を解説

1930年代のオーストリア映画から代表作3本を見てみよう。

「未完成交響楽」  1933年  ウイリー・フォルスト監督  オーストリア

南部圭之介の「続・欧米映画史」(全213ページ)では、本作について6ページ以上を割いて紹介評論している。

本作品についての著者の気持ちは、『「会議は踊る」とともにこの時代に夢多い青春を送った男や女にとっては「会議は踊る」と同じように忘れえない名画であった』(同著49P)という一文に表れている。

また、『ハンス・ヤーライのシューベルトは、私共のような遠い東洋の果ての人間に、シューベルトのイメージを固定してしまうほどの強烈な印象であったし、マルタ・エゲルトのカロリーネ姫は、茶目っ気の明るさの中に忘れがたい女の情念と貴族の娘としての品位を持ち合わせていた』(同49P)と主演のハンス・ヤーライとマルタ・エゲルトを称賛している。

カロリーネがシューベルトから音楽レッスンを受ける

シューベルトを主人公に、貴族の令嬢との悲恋を描いた本作は、シューベルトの伝記をゆがめたと、本国のオーストリアとドイツでは不評だったとのこと。

DVDで見ると、第二次大戦まで5年の製作時代ではありながら、全体を覆うおおらかでのびやかな空気感、折々に見られるユーモラスな表現、たっぷり流れるシューベルトの名曲たち、に彩られた幸福そのものの映画だった。

ハンガリーの田舎の酒場で、村娘の姿のカロリーネ

シューベルトの世間ずれしていない朴念仁ぶりは、小学教師として算数を教えながら頭に浮かぶメロデイーを黒板に書いてしまったり、大事な公爵邸の演奏会に着ていく服がなく親切な質屋の娘に質流れの礼服を借りてゆくが質札をつけたままで公爵邸の塑像に引っ掛けたり、などの描写に描かれる。
それらのエピソードを悠々と描く、スタッフたちのすばらしさ。

麦畑でのラブシーン

貧乏時代のシューベルトを助ける質屋の娘(ルイーゼ・ウルリッヒ)の庶民的で明るいお転婆ぶりも全く古びていない。

ヒロイン、カロリーネを演ずるマルタ・エゲルトは、ハンガリーの令嬢として夜会服を着こなし滑るように登場し(カメラは遠めの移動ショットであでやかなその姿を捉える)、シューベルトを家庭教師として迎えた場面では「夜曲」を歌いこなし、屋敷の外の酒場に忍んでは村娘の格好でジプシーの演奏をバックに民俗舞踊を踊りまくる。
見かけのあでやかさにとどまらない芸達者ぶりに感嘆する。

酒場を抜け出し薄暮の麦畑を走るカロリーネ。
カメラは目線の高さの移動ショットでカロリーネを追う。
やがて忘れ物のスカーフをもって追いついた朴念仁のシューベルトにキスを誘うカロリーネ。
美しいラブシーン。

小学校でシューベルトに算数を教わりながら、気が付いたら黒板に書き写された「野ばら」を歌う少年たちに.ウイーン少年合唱団を配役。
BGMの演奏は世界のウイーンフィルハーモニー。
流れる名曲は「菩提樹」「未完成」「夜曲」「アヴェ・マリア」など。

貴族たちの音楽会の描写はきらびやかに、ハンガリーの田舎の居酒屋の描写は土臭く、ウイーンの都会の描写は庶民の困窮した生活感を、それぞれ的確に描き出したフォルスト監督とウイーンのサッシャ撮影所の力量は見事。
どの時代の観客も好感を持つであろう作品。

「たそがれの維納」  1934年 ウイリー・フォルスト監督  オーストリア

「未完成交響楽」のフォルスト監督作品。
前作のようなのびのびした開放感や、裏表のない人間賛歌はここにはない。
ドイツではナチス党が政権を握り、大戦まで4年ほどとなった世相を反映しているのか、ウイーンの上流社会の暗黒面が反映しているのか、重苦しく苦々しい雰囲気が映画を覆っている。

ところどころ監督の特性かオーストリア文化のなせる業か、独特のユーモアが見られるのは「未完成交響楽」と同様で、ヒロインのボルデイ(パウラ・ヴェゼリー)のキャラクターに濃厚に醸し出される。

プレイボーイの画家(アドルフ・ウオールブリュック)との初デートでは、「こんなはずないわ」「うそだわ」「思ってもいないくせに」と画家の口説き文句をはぐらかし、酒をぐいぐい飲むボルデイ嬢。
そのおおらかで、男慣れしていない素人娘のふるまいをパウラ・ヴェゼリーが熱演。
「未完成交響楽」でシューベルトに心を寄せる質屋の娘のおてんばキャラと共通するキャラクターである。

ボルデイ嬢はまた、画家にアトリエに呼び付けられ、勝手に「サモワールが湧き、チャイコフスキーが流れるアトリエ・・・」と妄想するが、行ってみると現実は全く違っており、勝手に唖然とするくだりも、彼女のキャラの個性が現れていておかしい。

プレオボーイの画家(アドルフ・ウオールブリュック)が純真な小娘・ボルデイ(パウラ・ヴェゼリー)に惹かれてゆく

実直なボルデイと違って、画家が出入りする上流社会は裏表ばかりの世界。
舞踏会はそれは豪華でにっぎやか。

画家とボルデイが流れるようにダンスし、壁越しにカメラが移動撮影で追うカットがあった。
マックス・オュフルスの「輪舞」(50年)、「たそがれの女心」(53年)での、カメラが延々と移動し、主人公たちの周りをくるくると回る(ように見える)流麗なダンスシーンを思い出した。

撮影のフランツ・プラナーは「未完成交響楽」も手掛け、戦前にハリウッド入りし、のちに「ローマの休日」(52年)、「ティファニーで朝食を」(61年)の撮影を担当したというから、さもありなん。

流麗な撮影手法に、のちのマックス・オュユルスへの深い影響を感じる本作だが、その影響は配役にも及んでいる。
画家役のアドルフ・ウオールブリュックが「輪舞」、「歴史は女で作られる」(56年)と、のちのオフュルス作品に続けて出ているのだ。
うーん。
歴史は女で作られるというけれど、オフュルス映画の歴史はオーストリアで作られていた!のか。

ラストに向かってボルデイ嬢の逞しさ、実直さ、一さが存分に発揮される。
プレイボーイの画家を本気にさせ、その命を救ったオーストリア女性の真心、根性とでもいうべきものが描かれる。

ボルデイは愛する画家の命の危機に、教授に手当てを頼み込む

上流社会の愛欲にまみれた人間関係を背景に、急転回に翻弄される人間たちの様子は、ハリウッド映画のよくできたドラマのよう。
舞踏会の目くるめく描写はマックス・オフュルスに影響を与え、その作品で完成を見た。

邦題のみのこととはいえ、「たそがれの女心」と、『たそがれ』という言葉でつながっている本作は、戦前のオーストリア映画である本作と、後年の名監督マックス・オユュルスのつながりを偶然とはいえ象徴しているかのようだ。

「ブルグ劇場」  1937年  ウイリー・フォルスト監督  オーストリア

伝統あるオーストリア王立のブルグ劇場の座付き役者ミッテラー(ウエルナー・クラウス)は、公演が終わると出待ちのファンを巻いて一人帰るのが日課。
殺風景な部屋でプロンプター(舞台のそででセリフを伝える役)の中年男と猫と暮らす味気ない日々。
女性と社交界には興味を示さず、キャバレー通いもとうの昔にやめた。

ある日、珍しく春の光に誘われてプロンプターと散歩していると教会があり、気まぐれに中に入ると敬虔に祈りをささげる乙女レニ(ホルテンセ・ラキー)に遭遇し、何十年ぶりかの恋に落ちる。
レニはミッテラー御用達の仕立屋の娘で、仕立屋に下宿している演劇志望の若者を愛している。

一方、王立劇場は、役者にとってコネがなければ専属契約はままならず、また上流社会のパトロンがガッチリ食い込んでいる世界である。
連日のようにボックス席に現れ、ミッテラーのファンを公言する男爵夫人(オルガ・チェーホワ)が、ミッテラーのお忍びの馬車で待ち伏せたり、男爵邸のパーテイに招待したりするがミッテラーは関心を持たない。

ミッテラーはレニにアプローチし続けるが、レニの頭にあるのは愛する演劇青年のこと。
ある日、レニはミッテラーの部屋で男爵夫人の招待状を見つけ、盗んで、青年あてに送付する。
有頂天でパーテイに参加する青年。
ミッテラーならぬ見知らぬ青年が現れるも、その場のトークで切り抜ける男爵夫人。
なんやかんやで劇場の重鎮たちに認知された青年は劇場と専属契約を交わすが、背景には男爵夫人のコネがあると噂になり・・・。

ウエルナー・クラウス(右)とホルテンセ・ラキー

歴史ある劇場の裏側の硬直したコネと権威の世界。
劇場の一枚看板とはいえ、乾ききった老俳優の私生活。
愛する若者を一途に思うだけで突っ走る乙女。
野心の塊で、利用できるものは利用して出世を望む演劇青年。
劇場と俳優たちの背後にいて付かず離れず、艶然と陰で采配を振るう男爵夫人。

これらの登場人物たちが交錯するドラマ。
単に老人が乙女に恋するだけの話ではない。

主人公ミッテラーの描写は「嘆きの天使」のギムナジウム教授の四角四面の生活ぶりを思わせる。
ゲルマン民族の几帳面さ、融通のなさそのものだ。

「嘆きの天使」では謹厳実直なゲルマン紳士が零落し、みじめな様子が強調される。
一方本作では、同じく勘違いした老人が若い女性に振られる物語でありながら、老人への尊厳を忘れていない。
老人が勘違いするエピソードは深刻というよりほのぼのとしたタッチで描かれる。

このあたり、ほかの作品にも共通するフォルスト監督のユーモアというか、オーストリア映画の余裕というか。
俳優たちの動きはきびきびしており、そこにユーモアが加わると何かコントのようにも見えるが、これがフランス映画でもハリウッド映画でもない、ゲルマン流の味なのだろう。

名優ウエルナー・クラウスの本領は終盤も終盤に発揮される。
身の丈に合わない栄達から、男爵夫人とのスキャンダルの責任を取っての失墜となり、自殺を考えた若者を、幕が下りた劇場の舞台でさとし、叱咤し、激励する場面の力感あふれる独演。

この作品の主題は単に老人の零落ぶりを描くだけではなく、必然的な世代交代への前向きな姿勢、それも老人が持てる力を振り絞って若い世代にげきを飛ばす、その老年のパッションを描くことにあった。

また、硬直し、権威と虚構にまみれ、上流社会の玩具と化した演劇世界への批判的姿勢を描くことも忘れていない。上流社会の化身でいながら、抗いようのない魅力を漂わせる男爵夫人の描き方も、貴族社会が残っていた当時のウイーンならでは。

主演角の両女優については。
レニ役のホルテンセ・ラキーは金髪、丸顔、口紅ばっちりと、ハリウッド女優を意識したかのようなメイク。
ゲルマン女性の逞しさより、ダニエル・ダリューのような愛らしさを意識している。
役の幅が限定的なので可愛い(だけの)役作りとなったものか。

男爵夫人役のオルガ・チェーホフは名が示すようにスラブ系の出身(一説には文豪チェーホフの一門)。
貴族の貫禄を気品をもって美しく演じた。
ポーレット・ゴダードかモーリン・オサリバン(「類猿人ターザン」のジェーン役)に似ていたが、比べものないほどの気品があった。

投稿者: 定年おじさん

1956年北海道生まれ。2017年に会社を退職。縁あって、長野の山小屋で単身暮らしを開始。畑作り、薪割り、保存食づくり、山小屋のメンテナンスが日課。田舎暮らしの中で、60歳代の生きがい、生計、家族関係などの問題について考える。60歳代になって人生に新しい地平は広がるのか?ご同輩世代、若い世代の参加(ご意見、ご考察のコメント)を待つ。

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