田舎暮らし 「別荘」か「集落」か その2

その後の北海道の地震。
札幌の親せきによると、9月7日の夜8時には通電したとのこと。
この間、水道、ガスは通じていたものの、2日間の停電は、おそらく戦後初めての体験のはず。
親せきの家は、防災グッズなどの備えはなかったが、道内ではむしろ普通だったのではないか。
北海道出身者の定年おじさんの実感である。
同様な地震や停電が首都圏で起きたとしたらどうであろう。住民の防災意識と備えが頼みである。

さて、田舎暮らしをする上での「別荘」と「集落」の比較その2である。
その利点と欠点を、定年おじさんの経験上から述べる。

別荘地の光と影

1.光の部分

別荘住民はお客さん。つまり商売上の買い手そのもの。
別荘を建て、おとなしく暮らし、遅れなく代金を払ってくれれば、売り手に文句は言われない。

買い手を都市住民としているから、よそ者同士である住民同士の関係も都会的。新参者も入り込みやすく、おおむねお互いの生活レベルは近い。
近所付合いをしたくなければしなくても済む。
バーベキューや花火、ゴミ焚きなど敷地内での振る舞いも、別荘地管理規則などに明文化されたことを逸脱しなければ自由である。
ゴミの処理など住民サービスは公平にやってくれる。

買い手としての責務を果たす限りは、住民の権利は都会並みに保証され、生活上の義務は明文化された最小範囲にとどめられるのが、別荘住民に与えられた利点といえる。

2.影の部分

では別荘暮らしが完全に都会生活の延長か、というとそうでもない。

基本的にはイーブンな住民同士の関係だが、そこは人間社会なので、居住年数の長い住民がイニシアチブを握るのは仕方のないところ。
しかも、元都市市民とはいえ、別荘暮らしが長くなると、住民の生活範囲はだんだん狭くなる。「世界」が別荘地内とその周辺に限定されてくるのだ。
かつ、基本的に暇なので、狭い人間関係の間を、当該人間に限定した噂話が駆け巡ることになる。
都会的人間関係をイメージして移住したところが、狭い人間関係に閉じ込められることにもなりかねない。

なお、別荘住民のイメージはリタイヤした金持ちというところだが、実際はリタイヤ後の現金収入に汲々としなければならない人も多いし、つてを頼んで別荘地に流れ着いた人もいる。
性質が全員円満なわけでは、もちろんない。
別荘地とて現実社会の一面でしかないのは、当たり前だが忘れないでおきたい。

集落の現実

1.いいところ

では、別荘地ではなく、集落に移住する場合はどうだろう。

現実的な選択で、空き家に住むとして、リフォーム代はかかっても、新築の別荘暮らしより初期費用は少なくて済む。ランニングコストも別荘価格より安く済むかもしれない。
集落の立地は、別荘地より都市部に近いから、買い物や公的機関の利用にはより便利だ。中学校までは町村内で通える。

また、都市ガスや下水道などのインフラは別荘地より整っているのが通例。
畑も隣接しているから、せいぜい軽トラで数分もすれば通える。
一般的に、映画やショッピングなど都会的娯楽以外の生活は、自宅周辺で賄えるのが集落での生活だ。

そして、最大の利点は、住民同士の生活互助的な共同体が残っていることだろう。
暮らし全般に関して情報を共有し、防災に対しては共同して対応し、祭りなど文化的な伝統行事を伝承する、為の制度的、精神的な組織体のことだ。
例えば、災害が起こったとして、その後の避難生活を一番安心して暮らせるのは、田舎の共同体が残っている地域だろうと思われる。

2.集落特有の事情

あなたが田舎暮らしをしようと、気に入った集落に空き家を求めたとして、簡単に家や畑を買ったり借りたりできるだろうか。多分、人的な紹介がないと無理だろう。

最近は地元の自治体が、移住促進や空き家補助などの施策を行っているので、若い人は考えてもいいかもしれない。

基本的には、しかるべき人などの紹介があるなど、貸し手にとっての必然性がないと、新参者に家や畑を貸さないのが田舎の人である。
いわば縁がない人には貸さないのだ。

また、最大の問題点は、共同体の一員になれるかどうかである。

移住者について、地元の人に尋ねると、「最初はよく来てくれたと感謝するが、そのうちにこんなはずではなかったとなる例が多い」と聞いたことがある。

「こんなはずではなかった」とは、移住者が集落の共同体員として期待外れだったということだ。
今時、日本の田舎とて、表面的には排他的ではない。自分たちの高齢化、過疎化を十分認識し、本気で若い移住者を求めている。

それがしばらくすると、こんなはずではなかった、となる。共同体の暗黙の了解事項、義務を、移住者がないがしろにしたとしたら、共同体員としては期待外れであろう。移住者が、近所から届けられる野菜を負担に感じて邪険に扱えば近所はがっかりするかもしれない。

こじれれば、共同体からの排除、ひいては公平なはずの公的サービスからの排除という事態を招くかもしれない。そうなると移住者は居ずらくなって去ってゆく。

公平に見て、田舎の過疎化は待ったなしの状況で、移住者の選り好みなどしていられないのだから、贅沢言うなとも思う。
が一方、これまで受け継がれてきた価値観を最優先しなくなったとしたら、共同体ではなくなるだろうし、そうなると日本の集落の制度的、精神的な存続はどうなる?とも思う。
日本の集落は、その存続がある限り、共同体としての精神的な背景も併せて存続し続けるものなのかもしれない。

 

投稿者: 定年おじさん

1956年北海道生まれ。2017年に会社を退職。縁あって、長野の山小屋で単身暮らしを開始。畑作り、薪割り、保存食づくり、山小屋のメンテナンスが日課。田舎暮らしの中で、60歳代の生きがい、生計、家族関係などの問題について考える。60歳代になって人生に新しい地平は広がるのか?ご同輩世代、若い世代の参加(ご意見、ご考察のコメント)を待つ。

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