リンゴ園から帰り、「奇跡のリンゴ」を読み直す

リンゴ園に行ってきました。
松川町にあるリンゴ園です。
中央道の松川インターを下車したあたりに数々のリンゴ園があります。

11月初旬、山小屋におじさんの孫たちがやってきました。
滞在中の1日、伊那方面に繰り出し、ソースカツ丼などを食べた後、足を延ばしてリンゴ狩りしてきました。

人生初のリンゴ狩りに大興奮

長野で暮らし始めて、リンゴが実る風景は秋の風物詩となりましたが、初めてその風景を見たときは驚いたものです。
真っ赤なリンゴが文字通りたわわに実った景色はインパクト十分でした。

この日孫たちと訪れた宮澤農園というリンゴ園。
陽光、王林、富士などが手を伸ばせば届く範囲で実る風景に家族は興奮しまくりでした。

陽光などを手でもいで収穫したほか、シナノゴールドなどのリンゴや洋ナシなど、農園でとれたものを買い求めました。試食で味わうリンゴたちはどれもコクがあっておいしかったのです。

低農薬をうたうその農園は、小さな子供4人を持つ元気なおかみさんが来園者に応対していました。
園内には鶏舎が建っており、元気そうな鶏が走り回っていました。

人の背丈ほどにリンゴの木を小さく育てる、わい化栽培(矮小化栽培の略?)ではなく、収穫には脚立が必要なほどの丈の従来通り?の栽培方法でした。

いい雰囲気のリンゴ園でしたので、ついでにおかみさんに聞いてみました。

おじさん「奇跡のリンゴってありますよね。リンゴは無農薬では無理なんですか?」

おかみさん「木村さんですか?青森と長野では違いますけど、無農薬では無理です。近所にも迷惑かかりますし」

「奇跡のリンゴ」と聞いて間髪を入れずに、木村さんと帰ってきました。
リンゴ農家同士のこととはいえ、「奇跡のリンゴ」とその作り手の木村さんの知名度を感じました。

おかみさんの反応からは、「奇跡のリンゴ」に対する否定や揶揄は感じ取れなかったものの、自分たちの常識との隔絶の意識は感じられました。

おじさんがなぜ「奇跡のリンゴ」の事を専門家であるリンゴ農家に聞いてみたかというと(単に余計なことを聞くのが悪い癖というだけではなく)、一世を風靡した無農薬リンゴが「ガセ」なのでは?という話を仄聞していたからです。

ということで、思い立って山小屋の書棚にある「奇跡のリンゴ」を再読してみました。

「奇跡のリンゴ」を再読してみた

同書は2008年に幻冬舎から発刊されました。
著者はノンフィクションライターの石川拓治。
無農薬リンゴの生みの親、木村秋則の経歴、リンゴ栽培への取組、現在の心境をメインに、リンゴ栽培の歴史や現状を構成した作品です。

このノンフィクションの骨子でもある木村さんの経歴というのが実に面白いのです。
機械に興味を持ち、効率を重んじた若き日から、農家を次いで発揮される実践力がこの人のベースにあります。
更に一貫しているのは思い込み(一貫性ともいう)の強さと独特の人間的魅力です。
転機となったのが、自然農法のバイブル「わら一本の革命」(福岡正信著)で、それまでの合理的営農から、無農薬リンゴへと、一転突っ走るきっかけになったそうです。

同時にこのノンフィクションでは、いわばストーリーの背景であるところの、リンゴ栽培の歴史を丁寧にひも解いています。

曰く、今のリンゴは原種に近いリンゴが品種改良されたもので、無農薬、無肥料で育てられた原種のリンゴとは別物であること。

曰く、新種のリンゴは害虫、病気に弱く、被害にあうと全滅の可能性があったこと。

曰く、新種リンゴの栽培を商業ベースに乗せているのは、開発された農薬が、害虫と病気を防いでいること。

ノンフィクション中の白眉は、無農薬リンゴを目指してからの数年間の木村さんの取り組みです。そのこと自体がよほど「奇跡的」ともいえる取り組みは、害虫を手で駆除したり、酢をあらゆる濃度で噴霧するなどです。
そのためにはあらゆる犠牲を払い、田んぼや自家用車を手放し、弘前のキャバレーでバイトまでしています。

転機は万策尽きて山中で自殺を試みるときに訪れます。

たどり着いた山中でたわわに実ったリンゴの木を発見する。
よく見たらドングリの木だったが、感心して根元の土を掘ってみたらふかふかだった。
自然のバランスがとれているとはかような状態のことかと思い至り、リンゴ園の環境全体を、山のドングリの木の環境に近づけるべく努力してついにリンゴが実り始める。

読んでみて、改めて木村さんという人の人間的魅力を感じます。
思い込んだらどうにもならないであろう頑固さも。

最終的にたどり着いたリンゴ農家としての奥深さにも感心します。
リンゴの木を見ただけでどこに害虫がいるかわかるという、いわば神眼の境地に至ることができたのは、ご本人の素質と努力の継続以外の何物でもないでしょう。

実は作物の栽培に於いて、土づくりが最も大切だというのは常識です。
このノンフィクションの弱さは、木村さんが無農薬リンゴの栽培に開眼した理由として、土づくり以上のものを提示できなかったことです。

と言ってそこまでの行程の徹底ぶり、最終的に到達した境地の奥深さは余人にまねのできるものではありませんが。

世の中には「植物とお話しできる」という人もいる。
農家で名人と言われた人は、虫の飛び方や風の吹き方で数か月先まで気象を予報したり、ほかの田んぼの稲の穂先を見て触ってその田んぼでどういうことがあったか、農業者がどう対応したかを言い当てたそうだ。(新潮選書「日本農業への正しい絶望法」16ページより)

そこまでいかなくても毎年毎年、何町歩もの田畑を天変地異のない限り、一定レベルの作物を予定通り作付けし収穫することのできる農家は各地に健在である。

「奇跡のリンゴ」の木村さんは、多分名人級に近い農家なのでしょう。
そして無農薬(に近い)リンゴ栽培農家としてマスコミの目に引っ掛かった。
なぜなら野菜と違いリンゴはそれこそ商業的無農薬栽培は不可能だから。
だからこそ、マスコミ的には「おいしい」素材だから。

マスコミ一流のフィーチャーによって「売出され」、売れた。
木村さんのリンゴが無農薬かどうかはわからない。
世に広まる「無農薬リンゴ」のイメージ流布に関して何らかの責任があるのだとしたら、それはマスコミにも多々あるんじゃないかな?

リンゴで思い出すこと

リンゴと言えば山小屋おじさんは2,3のエピソードを思い出します。

・1982年に26歳の山小屋おじさんは旧西ドイツからベルリンに向かいヒッチハイクしていました。
その車中からの風景です。
旧東ドイツの平原にはポツンポツンと農家が建っていました。
ささやかな農家の敷地には各々1本、リンゴに木が植わっていました。
ドイツには1日1個のリンゴは医者いらず、とのことわざがあるとか。
リンゴの木と暮らす農家の風景に、昔からのドイツの農村を見るような気がしました。

・その後、ポーランドへ行きました。
東西の壁が厳然としてあった頃の東欧です。
人々はうつむき加減に街を歩いていました。
2月、都市部には野外マーケットが出ていました。
雪の中です。
出品はほとんどリンゴでした。
人々が欲しているであろう、肉や乳製品、日用品は見事に売っていませんでした。
申し訳なさそうに置いてあるリンゴも、すでに日本では見られない小ぶりなすっぱそうなものでした。
一つ食べておけばよかったと今では思います。

・一連の旅では、旧西ドイツも歩きました。
都市の旧市街広場にはマーケットが開かれていました。
物資も豊富で、日本と同じ大型のリンゴが山積みされています。
一人旅の叔父さんは、1個売ってくれと手に取りました。
売り子のお兄さんは、よせやいというジェスチャーとともに持っていけ、とそのリンゴをくれました。

 

 

投稿者: 定年おじさん

1956年北海道生まれ。2017年に会社を退職。縁あって、長野の山小屋で単身暮らしを開始。畑作り、薪割り、保存食づくり、山小屋のメンテナンスが日課。田舎暮らしの中で、60歳代の生きがい、生計、家族関係などの問題について考える。60歳代になって人生に新しい地平は広がるのか?ご同輩世代、若い世代の参加(ご意見、ご考察のコメント)を待つ。

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