「風立ちぬ」、富士見高原療養所

「風立ちぬ」といえば山小舎おじさんの世代は堀辰雄の小説(読んではいないが…)。
それから松田聖子の歌(大瀧詠一作曲)。
百恵・友和コンビによる映画化もあった。

旧富士見高原療養所

堀辰雄の小説は長野県富士見村にあった療養所を舞台に、婚約者との死別を描いたものであった。

松田聖子の歌の歌詞には、『高原のテラスで手紙・・・。一人で生きてゆけそうね・・・。さよならさよなら・・・』などとあり、高原の結核療養所で暮らす彼女が婚約者に別れ(死別)を示唆する内容ともとれることから、堀辰雄の同名小説をモチーフにした歌なのかもしれない。

また、山口百恵、三浦友和のコンビで同名の映画があった。
これは堀辰雄の原作の映画化だった。

堀辰雄「風立ちぬ」の舞台となった富士見高原療養所は、今は富士見高原病院となって、長野県富士見町のほぼ同じ場所で続いている。
病院には旧療養所時代の資料を展示した資料室があるので行ってきた。

町の中心部に立つ現富士見高原病院

富士見町の中心部に高原病院の新館が建っている。
入院病棟がある旧館の端の二部屋が資料室になっている。
新館の受付で資料室の見学を申し込み、3階へ上がって担当のお姉さんに案内してもらい入室する。
ちなみにマスクが必要だったので急遽自販機で購入した。

資料室には他の見学者はいなかったが、陳列する資料を見てゆくと病院の歴史を彩る様々な人材の体験と記憶の残像が、ぬぐいきれずに残っていることを実感するのだった。

高原病院旧館

療養所の始まりは一人の気鋭の医学博士の理想からだった。
スイスでサナトリウムを見ていた、長野出身で詩歌を愛する初代院長は理想の療養所を国内に作り上げた。

療養所の沿革を残す石碑が立っている

日光を取り入れるバルコニー付きの病室、栄養豊富な給食、ベールを被ったシスターのような看護婦の制服。
入院費用は庶民にはとても手の出ないものだったという。

入院患者には堀辰雄のほか、竹久夢二、横溝正史など有名人がいた。
入院原簿が展示されており、竹久の欄には死亡とある。

療養所資料館の看板が旧館の外壁にあった(ここから入室はできない)

結核療養所というと、町のはずれに木造の入院棟が建ち、木枠の窓が寂しく連なっているイメージがある。
昭和も中期までの印象であろうか。
そのころは地方でも中核都市の郊外には結核療養所があったように思う。

結核が死の病ではなくなって以降、療養所は病院などに転用されていった。
多くの大衆向け療養所の存在に比して、富士見療養所は著名人の患者が集まるモデル療養所だったようだ。

新館の受付で申し込んでから3階の資料館に入る。内部は撮影できない

旧療養所の面影はすでにないが、病院新館の前庭には高原の森をイメージするかのような木々が残り、往時の療養所周辺の風景を思わせるのだった。

現病院の前庭には高原の風景が・・・

投稿者: 定年おじさん

1956年北海道生まれ。2017年に会社を退職。縁あって、長野の山小屋で単身暮らしを開始。畑作り、薪割り、保存食づくり、山小屋のメンテナンスが日課。田舎暮らしの中で、60歳代の生きがい、生計、家族関係などの問題について考える。60歳代になって人生に新しい地平は広がるのか?ご同輩世代、若い世代の参加(ご意見、ご考察のコメント)を待つ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です