調布卸売センターを歩く

調布卸売センターという場所があります。
昔は武蔵野市場といいました。

セリが行われる市場は、東京では青果なら大田市場、鮮魚は築地市場が有名です。
本当の市場というか、中央市場というか、鮮魚だったら漁港にあって上がってくる魚をセリで売ったり、青果だったら農協から運ばれてくる箱詰めの野菜を扱っているのが、本当の市場だと思います。

武蔵野市場はそういった市場ではなく、都心に仕入れに行けない業者のための市場です。
鮮魚も野菜もバラで売ってくれます。小売りもしてくれます。
築地で言うと「場外」市場に相当します。
市場というよりマーケットというべき場所なのかもしれません。
三多摩地区では、八王子、府中などにこういった市場があります。

調布にあるのが、武蔵野市場です。
かつては鮮魚、干物、乾物、紙器、駄菓子、青果、精肉、などの店を擁し、食堂が付随した場所でした。
一帯の飲食店、小売店などが仕入れに来る場所だったようです。
小売りにも対応していました。

市場の建物の周りには、同じく卸売が目的の金物店なども集まっていました。
調布という場所柄かキムチ専門店もありました。

そういった昔ながらの卸売商店が歯が抜けたように減っていき、武蔵野市場が活気を失っていた時期がありました。
「武蔵野市場ってまだやってるの?」と思っていました。
夏まつりの出店用に、冷凍焼き鳥の箱や、景品用の駄菓子を仕入れるときにだけ利用していました。

そして気が付くと、武蔵野市場は「深大にぎわいの里」と愛称を冠したスペースとなっていて、文字通り賑わいを取り戻していました。

建物の一角にできた、産直所「野菜畑」の存在が大きいと思われます。
調布はもともと農村ですから、畑の収穫物には不自由しません。
あちこちの農家の庭先に野菜スタンドがあり、ほぼ1年中、野菜の供給には困らない地域です。

近年の産直ブームに乗って、地場野菜の大規模な直売所を設ける発想は時期を得ていました。
「野菜畑」の発想は、地場野菜にのみこだわらず、端境期であれば全国から野菜を仕入れ、地元に産しない作物についても並べ、味噌、ワイン、乾物などの加工品も全国から仕入れています。
時期によっての商品ラインアップの濃淡を極力抑え、品ぞろえをなにより重視する昨今のマーケテイングが忠実に守られています。

ということで、センター内の直売所「野菜畑」も、そのコンセプトは、「地場野菜を目玉に並べた全国うまいもの物産展」の様相を呈しています。
これが今どきの直売所のトレンドなのです。

これが当たり、緊急事態宣言後の調布卸売センターも、直売所「野菜畑」だけはにぎわっています。

市場内には現在でも様々な商店が営業しています。

土曜日になると炭火をおこし来客に肉を焼いてサービスしていたアンデス食品です。
今も炭火焼をやっているのかどうか。

鮮魚店は午前中で閉まってしまいます。
店員のおじさんに注文し、奥の経理係へ持って行って精算するのが市場のスタイルです。
鮮度はいいです。

乾物屋さんです。

かつては駄菓子屋などが多くのスペースを占めていましたが、空きスペースが目立つようになっています。

パン屋、カフェなどの新しい食堂が増えています。

この先、調布卸売センターがどう発展してゆくのか楽しみです。

 

緊急事態宣言2日後の調布市内

政府から緊急事態宣言というものがなされました。
新型コロナ肺炎の蔓延にかかる政府の措置です。

全国が対象なのではなく7都道府県が対象とのこと。
あまり実効性がないような気がします。
それでも日本人は空気を読むので、不要不急の外出はなくなり、疫病は終焉に向かうのでしょうか?

山小屋おじさんも今シーズンの山小屋開きを4月初旬に予定していましたが、家庭の事情により、何よりも世の中の流れにより、延期して現在に至っております。
山小屋周辺の人々からは、4/9より仕事が始まるがいつ帰ってくる?などと電話が入りましたが、日取りが確定しないままとなっております。

今年は畑は予定通りにはいきそうもありません。
すべてがイレギュラーな年になりそうです。
山小屋元年の2017年も、6月からの畑のスタートでしたから、そういうつもりでのんびり構えることにします。

さて、緊急事態宣言下の東京。
調布駅前に買い物に出かけついでに世の中の様子を見てきました。

自宅付近のグラウンドの様子です。
小中学校が休校になってから、ここに集まる子供たちの歓声と躍動にあふれる場所でした。
緊急事態宣言後は早朝からの歓声が聞こえなくなりました。
元気に運動している子供はいますが、宣言前の半分くらいの人数でしょうか。

コロナの蔓延には関係なく、畑は春を迎えています。
レタス系が最盛期を迎えています。
キャベツの苗も大きくなりました。
直売所もいつも通りです。

野川の河川敷は桜が終わり、本格的な春の風景になっています。

調布駅前広場です。
元旦でも近頃はこんなに閑散とはしていないでしょう。
雪が降ったか、台風前の時のような人出です。
人数もさることながら、のんびりというか、暗いというか、独特の閉そく感が街から感じられます。

パルコの地下食品館では、人出は少なくはありませんでした。
むしろ、鮮魚や加工品、総菜、生菓子などに掘り出し物、特売がありました。
販路が限られ、高級品、し好品、生鮮品などについては業者も販売に苦慮していることがうかがえます。
消費者にとってはある意味、買い物のチャンスでもあります。
普段は手が出ない、マグロのカマやフランクフルト、イチゴのタルトなどが手ごろな値段で売られており、買ってしまいました。
自宅の炊事担当のおじさんにはメニューを開拓し、デザートをつけることができるチャンスとなりました。

スクランブル交差点の人通りは、平時の半分から3分の1でしょうか。

天神通り商店街も平日昼間とはいえ人通りが少ないです。

食堂はテイクアウトに力を入れていますが、食品街では総菜が割引で並んでいる状況ですので果たしてどうなのか。

こうなりゃ神頼みだ!
天神様、世の中をよろしくお願いします。

「アメリカの鏡・日本」という本を読んでみた

国分寺の古書店・七七舎の店頭、百円コーナーで見つけて買った本です。
新書でこの本の抄訳が出ていて、買ったものの読んではいませんでしたので、今度こそ読んでみました。

1995年刊の全400ページほどのハードカバーです。
原著は1948年にアメリカ人女性のヘレン・ミアーズという人が書いています。
著者は1900年まれで、1920年代から中国と日本に滞在・研究し、その後、アメリカの大学で日本社会について講義、1946年にGHQの諮問機関「労働政策11人委員会」のメンバーとして来日した人物です。

日本における同書の翻訳は、1948年に試みられたがGHQによって却下され、その後1953年に出版はされたものの注目されなかったという経緯を持つそうです。

テーマは「アメリカの行動と原則が一致しているか」

占領下の日本に降り立った著者が、日本社会の研究者として、アメリカなどによるこれまでの対日政策と占領政策が「正しい」ものかどうかを省みたのがこの本です。

アメリカ人が正しいとする価値観があります。
その価値観を「アメリカン・ウェー」と名付けます。

「アメリカン・ウェー」とは、
政治的にいうと、
・政府批判の権利が認められた社会
・容認できない政策を変えさせる権利が認められた社会
・少数派の権利が認められた社会、です。

経済的には、
・個人の能力を最大限に発揮できる機会を持つ社会
・生活水準の向上を目指す意識。だそうです。

著者は「アメリカン・ウェー」そのものはともかく、その価値観を他民族に押し付けるのであれば、アメリカ人自身が言動一致していなければ、他民族は従わないだろうと説きます。

天然資源の豊かなアメリカと、資源が不足しあまつさえ戦争で破壊された日本とでは出発点がまるっきり違うこと、そして日本占領の基本問題もそこにあると指摘します。
「アメリカン・ウェー」の無意識の押し付けと、押し付けられる側への無理解です。

歴史上の日本の立ち位置

さて昨今、日本の側に立ち、列強との不公平を強調し、日本の「正しさ」を訴えたり、日本を戦争に駆り立てたのは列強の陰謀だとする論調は、国内で目立っています。

著者はアメリカ人の研究者として歴史上の観点から日本の立ち位置について説いています。
その視点は、公平で、冷徹な世界のバランスを明らかにしてくれます。
日本は「正義の国」「被害者」などではなく、世界のパワーバランスの中で踊り、踊らされた脆弱な(貧乏な)島国であったことも明らかにされます。

まず、戦時中のアメリカ国内における「日本人は好戦的」「日本は世界制覇を目指している」といったプロパガンダを論破しています。
すなわち歴史的に鎖国していた日本を武力を背景に、不平等条約を強いて強引に開国させたのはアメリカであったこと。

また、開国後の日本が、日清・日露戦争などで躍進し、列強並みの扱いを受けていた時点でも、日本は列強から受けた教育に忠実な「優等生」ではあっても、決して「大国」などではなく、実際の立ち位置は「将棋の駒」に過ぎなかったこと。
つまり、日英同盟などの政治的な後ろ盾と、列強による物資支援(貿易)がなければ独立国として成り立たない存在であり続けたこと。

日露戦争後に、日本は、韓国を併合し、また海外に利権を求めていったが、これらの行為はかつて日本が列強から受けた「教育」の通りに行った「合法的」なものであり、列強がまさに行ってきたふるまいそのものであったこと。
つまり、韓国や満州に対する日本の覇権行為を列強が避難するのは自己矛盾だったこと。
おまけに、政治的には日本を非難しつつも、戦争の1年前まで戦略物資を日本に売り続けたのが列強だったこと。

太平洋戦争の意味

アメリカは「日本のアメリカ征服を阻止する」ことを謳っていたものの、本当の戦争目的は「日本征服」であったとするのが著者の説いたところです。

理由は、戦争の終盤を待たずに日本は戦闘能力を失い、また終戦工作を行っていたにもかかわらず、アメリカは日本よりはるかの巨大な予算を投下し、また非人道的な手段を用いて戦闘を継続していたことなどです。

極めつけは、終戦の破壊された日本に、アメリカ基準の贅沢な占領コストを負担させていることを明らかにしています。
ちなみに占領期間9け月の費用45億円を日本政府が負担していますが、これは1940年の日本の戦争費用23億円を倍近く上回るものでした。

結論

国際社会のルールとは暴力とどん欲を合法化したようなもの、と著者は説いています。

キリスト教の理念に基づいたスペイン、ポルトガルの大航海時代から、太平洋戦争までの列強の行動基準に比して、アメリカがプロパガンダした「好戦的で狂信的な日本民族と神道イズム」などはどう考えても歴史上の事実に反する、とも述べています。

アメリカが日本を「人類に対する罪」で断罪するのは正義ではない、とも述べています。

この本は、アメリカという、帝国、覇権、列強、国際スタンダードを代表する国家の実像を、対日戦争と占領を通して見つめ、総括した快作だと思います。

堂々たる進歩的、理知的、科学的、自省的な著書です。
日本人受けを狙ったわけではなく、歴史と社会を学んだ学者の自国向けの見解だから重みがあります。

当時にはアメリカにも一定程度の流れがあった、左翼的、理想主義的な晴れ晴れとした空気も行間に感じられます。

日本が犯した罪とは「国費」を人権の上に置き、「国家の存亡にかかわる利益」を武力で守ろうとしたこと、だと述べています。

歴史が進み、今日現在では、国家どころか、グローバル企業がTPP、FTAなど「合法」の名において、帝国主義も裸足で逃げ出すような人権蹂躙を行おうとしています。

1948年に著した著書には、当時のアメリカ人の知性と理念と自省の魂が溢れています。
それから70年以上。
こういった高邁な理念はどこへ行ってしまったのでしょうか。

2019年版山小舎アルバムを作りました

2019年版ということは2017年版もあるのです。

山小舎初年の2017年に、山小舎の経緯、地理、地域の特色、山小屋暮らしの内容、などをテーマ別にアルバムにまとめていました。
その年に撮った写真を中心に、現地で集めたパンフレットや、山小屋に残っていた開闢以来の資料などをアレンジして並べたものです。


東京の自宅に置いて、お客さんに見せたりしていました。

その後も折に触れ写真を撮り続けていましたので、家人の勧めもあり、2019年に撮った写真で最新版の山小舎アルバムをまとめることにしました。

まとめるにあたり、まずは写真の取捨選択と出力を行いました。
2019年の日付の写真を別ファイルに集めて取捨選択するのですが、細かな画像を見てのことなので時間がかかるとともに、どうしても多めに選択するものですから、300枚以上を選択してしまい、印刷が大変でした。

印刷はカラープリンターで行いましたが、インク代がばかにならないうえに、プリンターがデータ過剰でストップしてしまいました。
コンビニで印刷すると1枚30円もかかってしまうので、しまうまプリントというところにデータを送ってプリントを送ってもらいました。
これだと1枚6円で済みますが、手続きを娘にやってもらわなければなりませんでした。

しかも300枚以上も手元に集まった写真ですが、結局はアルバムの枚数の都合で半分も使えませんでした。
同じ事象に数枚もの写真を使っても多くは凡長になることもあり、1事象:2,3枚の写真で充分なのです。
次回制作時の参考にしたいと思います。

編集方針ですが、最初は2017年版と同様に、テーマ別の編集を考えていました。
しかし膨大ともいえる写真をそろえているうちに、ほかに記録があることに気づきました。

たとえば山小屋で毎日つけていた(ワード、エクセルで入力していた)日記や、畑作業の備忘録、畑の作付け図、朝市の記録、ブログの題名の一覧、などのデータです。
これらを使えないか?と考えたときに、日記を出力して時系列に並べ、関連する写真をレイアウトしたらどうか?と思いつきました。
作付け図や備忘録は縮小して出力し、アレンジに使えます。

ということで2019年版は、時系列に事象を並べて作成しました。
月ごとに4ページの割り付けとし、日記の切り抜きをタイトル代わりに写真を張り付けてゆきました。
写真には必要に応じてネームをつけました。
朝市については別に2ページを用意して構成しました。
2017年版とは違った切り口のアルバムができました。

歳のせいか完成まで1週間以上もかかりました。
人物が写った写真が少ないのが反省点です。
来年は家族の写真をうんと撮っておこうと思います。
また、作者(山小屋おじさん)の年齢からくるエネルギー不足がアルバム全体からにじみ出ていないかが心配ですので、見ていただいた方々からの批評を待ちたいと思っています。

アルバム2冊は当面、柴崎の彩ステーションに置いて来訪者の閲覧に供したいと思います。

令和2年3月29日の雪

東京に雪が降って1週間たちました。
3月29日の雪の日を記録しておこうと思います。

シーズンごとに何回かはある東京地方の雪の天気予報。

雪に弱い東京では、実際に雪が降ったら電車のダイヤは狂うは、バスは来ないは、自家用車は滑るは、で都市機能がマヒしてしまいます。
そこで毎度テレビでは強めの予報を出して、注意を喚起します。
そのためか、雪の天気予報ははずれることが多いのです。

ところが3月29日日曜日の朝。
起きてみると外は真っ白でした。
珍しく雪の天気予報が当たりました。

家の隣の畑に植えられた木々。
家のベランダ。
玄関前の道路。
自家用車に積もった雪。

桜の開花があった後の雪でした。

子供たちなら雪遊びをしたいところですが、ボタン雪もいいところのべちゃべちゃの雪。
ジャンバーにつくと雨のようにしみますし、髪にかかるとたちまち濡れネズミ。

雪国の住民が見ると、夏タイヤでも走れるくらいにみぞれがうっすら積もっているだけの状況でも、東京の住民から見ると、これでも豪雪に1歩も家を出られない厳しい状況、に映るんです。

春先の関東地方の気まぐれな降雪でした。

この雪。
歴史的なコロナ感染に苦しむ首都圏への天の恵みの雪か、天の悲しみの雪なのか。

日中には気温で融けた雪でしたがそれなりにうすら寒い1日でした。

今年の桜

令和2年の桜の季節が終わろうとしています。
コロナ騒ぎがご時世の世の中。
桜は例年通りに咲きました。
途中、季節外れの雪が積もったりして。
そして今は桜吹雪となっています。

3月下旬の調布市柴崎。
通称「国有地」脇の桜です。

4月初旬の国際基督教大学正門通り沿いの桜です。
葉桜になっています。
一般人入構お断りの張り紙が正門に貼ってありました。
貼り紙のせいか、コロナのせいか、構内に一般人と思しき人影はありませんでした。

神代中学グラウンド沿いの桜です。
桜吹雪となって散り始めています。
温暖化のせいか、近年は入学式までは花が持たなくなっています。

野川沿いの桜です。
調布の桜の名所の一つとなっています。
野川は国分寺崖線に沿って流れ、世田谷区で多摩川に合流する街の川です。
沿岸の市民の散歩コースとなっています。

今年もよい年でありますように、と願いたいところです・・・。

調布柴崎の彩ステーションと休校中の子供たち その2

家内がやっている地元の彩ステーションの続報です。

その後も彩ステーションは、休校中の子供たちの受け入れ場所として機能しています。
また、普段なら、ワークショップや勉強会などの催し物が行われるホールでは、市内の若いお母さんたちの「手作り市」の場所となっています。

「手作り市」は、小学生向けの防災頭巾、上履き入れ、お道具入れ、マスク、ランチョンマットなどを手作りし、販売しているグループです。
大規模な展示即売会が会場の都合で中止となったため、彩ステーションに場所提供の依頼があったものです。

ご時世柄、マスクがよく売れています。
大人用は毎日完売でした。
入口の「マスクあります」の張り紙を見て飛び込みのお客さんや、口コミでやってくるお客さんも多数あります。

また、新1年生を持つ親御さんなどに、防災頭巾などが喜ばれているようです。

マスクを作る時間は、大人用で1時間に3枚がせいぜいだそうです。
1枚400円として、材料費を考えると決して割のいい仕事ではありませんが、「手作り市」の若いお母さんたちは前向きに頑張っています。

一方、休校中の子供たちも、三々五々集まってきます。

この日は昼食にカレーを自分たちで作って食べていました。子供が好きで、子供扱いの上手なお兄さんが来てくれたり、ベテランの塾の先生が来てくれたりと、子供の面倒を見るボランテイアも集まってきました。

長期戦の様相を呈してきた、コロナ時世。
地域の力で立ち向かってゆきたいものです。

春の小金井、国分寺を歩く

春本番と思しき最高気温19度の1日、小金井と国分寺を歩きました。

自転車で調布の自宅をスタート。
東八道路の野崎八幡交差点に出ます。

東八道路の歩道には自転車走行スペースがあります。

早々に武蔵境方面へ折れ、さらに左折して国際基督教大学方面へ向かいます。

校庭の真ん中に桜の巨木がそびえる三鷹第二小学校も休校中です。

野菜の無人スタンドです。
三鷹は一般野菜のほかキウイなどが名産です。

畑の中をショートカットで抜ける道があります。
おじさんは「緑のトンネル」と呼んでいます。

緑のトンネルを抜けると、国際基督教大学の正門です。
正門内の桜並木は開花準備中でしょうか。

大学構内を斜めに抜け、裏門から構外へ出ます。

西武多摩川線の踏切を渡ります。
菜の花が満開でした。

このあたり、西武多摩川線の新小金井駅周辺になります。
渋い商店街があります。
駅前でロケをやっていました。

さらに西進。
JR東小金井駅周辺を通過します。

JR武蔵小金井駅を目指します。
高架下には、学生用の下宿が建っていました。

武蔵小金井駅方面へと続く、農工大通り沿いに、花に囲まれた神社があります。
八重垣稲荷神社です。

鳥居の近くにある寒緋桜が満開を過ぎています。
鳥居をくぐってお参りします。
狐のボードが道案内してくれる境内は植物に囲まれた異空間です。
まだ春先なので花々が最盛期ではありませんが、桜が満開の時期のにぎやかさが想像できる境内です。
頻繁に表れる案内板(自筆)に神主さんの人柄が現れています。
素通りできない神社です。

JR武蔵小金井駅方面へ農工大商店街を通ります。

蛇の目通り商店街という極渋の商店街がありました。
スナック、居酒屋が残る、裏通りの雰囲気たっぷりの商店街でした。

JR武蔵小金井駅前です。
右手に、かつては開かずの踏切をまたいでいた小金井街道が走っています。

駅前は何本かのタワーマンションに囲まれたショッピングモールや音楽ホールが集まっています。
今風のタウンが形作られています。

中央線に沿って国分寺を目指します。

JR国分寺北口の商店街に、七七舎という古本屋があります。
かつては高齢の女性が経営してましたが、若いカップルに店主が代わりました。
隣の団子屋を買い取って店を増築。
品ぞろえが格段に良くなりました。
店頭の100円コーナーにも掘り出し物があります。

今回は、テキヤ行商人の聞き書きと、岩波写真文庫を何冊か買いました。

昼食は同じく北口にある定食屋でニラレバ定食です。
だるまや食堂。
量が多くがっつり食べられます。
スタッフはオール日本人で、ホールには時々高校生ほどの女の子が出ています。昭和か?ここは!
まだまだ繁盛しているのでしばらくは生き残ってくれることでしょう。

同じく北口にある、だんごの輪島でデザート用の団子を買います。
ボクシングの輪島功一が始めた団子屋として地元で有名です。

喫茶田園。
90歳くらいのママさんがやっています。
4,5年前は良く寄りました。
ママさん元気だろうか?

国分寺駅北口は現在も区画整理中です。

駅正面はどんどん変わってゆきますが、だるまや食堂や、喫茶田園、だんごの輪島は残ってほしいです。

早春の自転車散歩でした。

三多摩の「闇」を行くVOL.4 京王閣競輪場へ行ってみた

行ってみたら、新型コロナウイルスの影響で、競輪は無観客興行にて行われていた!

競輪場の正面ゲート。
三々五々お客さんがやってくるが、張り紙を見て帰ってゆく。

山小屋おじさんは、正門前の警備員に聞いてみた。
入場料は?ときくと、50円とのこと。
京王閣の中に資料館はないのか?との問いには「競輪資料館があったがすでに閉館している」とのことだった。

多摩川の清流に遊び、鮎を愛でた行楽地・京王閣の歴史は、競輪場となった現在地には残っていないようだった。

川崎側から多摩川越しに京王閣を見る。

正門のすぐ隣にはお城のような質屋が建っていた。

京王閣入場をあきらめ、付近の商店街へ。

飲み屋は軒並み閉まっている。

店店の間にいわくありげな路地が残っていた。

焼鳥屋の店先には大きなアカミミガメが二匹飼われていた。ペットが育ったものか、多摩川に捨てられたペットが強大化したものか?

たい焼きやで一匹買い食い。
150円。
愛想のいいおばあさんが対応してくれた。
年代のものたい焼き器を撮らせてくれた。

肉屋でメンチカツを家族の夕食用に購入。
ショーウインドウを撮らせてくれた。

競輪開催日にはゲートが閉じられるという遊歩道。
用水路のふたを閉じたものであろう。

残り時間は多摩川付近の住民の生活の跡を巡ってみる。

現多摩川原橋から京王相模原線鉄橋の付近にあった渡しの跡。
菅の渡しなどと呼ばれ、渡し船がの運行が、昭和48年まで残っていたそう。
南武線の稲田堤駅から京王閣競輪場へのショートカットとして利用されていたとのこと。

これは矢野口側の渡し口付近に建つ観音像。

大映撮影所の北隣。
ハケを一段上がったところに大映村と呼ばれる一角があったそう。
撮影所のスタッフの家族寮、独身寮などが団地のように集まっていたとのこと。
今は鉄筋アパートが建っていて、入居者はいるようだが人気がない一角になっている。かつての花形産業、映画の栄枯盛衰を物語る。

駆け足で巡る三多摩の先人の暮らし。
今回は「闇」というより「幻」だったでしょうか。

ちくま新書「愛と憎しみの新宿・半径一キロの日本近代史」を読んで

表題の本をブックオフの100円コーナーで買いました。
正確には110円でした。

タイトルを見て面白そうだと思い、目次を眺め、本文をめくってみて相性が合うと思った本を買っています。
最近は寄る年波か、字が細かくびっしり印刷されている本は体が拒否します。
一方、相性が合いそうな本に対するカンは歳とともに冴えてきているような・・・。

1952年、新宿ド真ん中の洗濯屋に生まれ、青年期まで家業を手伝っていた著者による1960年から70年代の昭和史です。

全共闘運動に参加し、当時の最先端カルチャーの、ジャズ喫茶や、紀伊国屋書店、アートシアター、ゴールデン街などに接してきた著者の人生前史でもあります。

1656年、北海道生まれの山小屋おじさんにとって、全共闘終焉である安田講堂落城の光景をテレビニュースで見たのは小学生の時でしたから、4歳上の著者がせいぜい高校1年生くらいの時です。
その著者がなぜ全共闘運動か?
理由は新宿高校時代に活動していたからだそうです。

同時にアートシアターでATGやゴダールを見、ジャズ喫茶で山下洋輔、ゴールデン街をのぞき見、とは都会の高校生はずいぶんませていたのだと羨ましく、またこそばゆく思いました。

この本で語られる著者の高校時代は、政治活動と自宅の洗濯屋の手伝いの合間に、新宿の路地の汚い中華屋でうまい麺を食べ、山谷の争議団に顔を出し、若松孝二のATG映画に同世代の心境を実感する日々です。

今どき、全共闘、アートシアター、ジャズ喫茶などといっても、若い人にはまるでアピールしません。
そんなことは著者も百も承知でしょう。

山小屋おじさんとて、4歳年上の都会育ちの著者の心情風景がぴったりくるわけではありません。
おおむね同世代とはいえ、都心育ちの著者と田舎育ちのおじさんでは、当時も今もその違いは決定的なのはしょうがありません。
著者の語る、都会育ちの高校生の「最先端」の心情風景は、おじさんにとっては今でも現実感のない、くすぐったく、ふわふわしたものでしかありません。

それでも語らずにはおれない熱さが文中からほとばしっているのがこの本です。
書きたい題材を書きたいように書いた時の臨場感ともいうべきものをこの本から感じるのは、年代が近いおじさんだからなのでしょうか。

おじさんはこの本を読んで、登場する70年代の名所を巡ってブログにしようと思っていました。
この度のコロナ騒ぎで、新宿の奥深くに分け入る時期でもないと思い、本の紹介だけにしました。

興味ある方は読んでみてください。