深大寺だるま市

三多摩の春の風物詩の一つ、深大寺だるま市が今年も3月3日、4日に催されました。

1500年以上の歴史を三多摩に刻む深大寺。
例年3月3日、4日に、「厄除元三大師大祭」という深大寺最大の年中行事が行われ、それに伴い境内に全国のだるま屋が集まって市をなしたのが、だるま市の始まりだそうです。
今では全国三大だるま市の一つに数えられるそうです。

今年は新型肺炎の影響で、大祭の出し物の一つの「お練り行列」が中止とのアナウンスが境内に流れる中、だるま市に行ってきました。

このだるま市、地元の小中学生には重要な年中行事で、うちの子供たちもその当時には学校が終わってから友達と待ち合わせて行ってました。
おじさんは実はちゃんと行くのが、今回が初めてです。

ということで、参道入り口の風景。新型肺炎のブームと、冬寒い小雨の影響か、閑散とした雰囲気が早くも漂っています。

参道には屋台が並んでいます。
それこそ全国からテキ屋が集まってきたかのような勢いです。
テキ屋にとっても最重要スケジュールの一つなのでしょう、このだるま市は。

しかしながら歩く人が少ない!

山門をくぐった境内にも屋台が密集しています。
というか、本格的なだるま屋の屋台は境内でこそ開かれているようです。
お寺とだるま市の共存共栄の関係の歴史がうかがえます。

境内にはさすがに人出もまあまああります。

古いだるまの納め場所もあります。

だるまの目入れ、にはマスク姿のお坊さんが並んでいます。

おじさんはそれこそ何年か、何十年か前に買っただるまを収め、新たに小型のだるまを買いました。

高崎から来たという夫婦がやっている屋台で買いました。
だるま屋の大将は「こんなご時世だから、人出は例年の3分の1」と言ってました。
まあ、こんな年もあるということでしょう。

帰ってから筆ペンで片眼を入れました。
1年間、仏壇の前で一家の幸運を祈ってもらうことにします。

小金井のパン屋・カンデル

武蔵小金井駅からほど近く、住宅地の一角にカンデルというパン屋がある。

個人住宅の敷地に小屋を建てて店舗としているパン屋だ。
釜とキッチンは小屋の裏手にあるらしい。

フランスのアルザス地方でパン職人の修業をしたという女性が焼いている。
月、水、金のみの営業。
昼休みも1時間取っている。
2012年に開業してから生き残っており、地域に根付いた店となっている。

ここのフランスパンは、今まで日本で食べたフランスパンの中では一番おいしいと、山小屋おじさんは思っている。

本場のフランスパン-バケットは、外側が香ばしく、中がモチッとして、小麦の香りがする。
ほかに飲み物があればと昼食の一食分になるようなパンだった。

フランス人がバケットを抱えて歩いている?のは伊達ではなく、十分「実用」に耐えうる食品なのだ、と思った。
その代わり1日たつとカチンカチンになった。
山小屋おじさん40年近く前の、パリ滞在時の思い出だ。

原料が違うのか、焼き方が違うのか、消費者の好みの問題か、日本で売っているバケットは、外側も含めてふにゃふにゃのものが多かった。
固めに焼かれたものでも、中のモッチリ感や香ばしさが足りなかった。

カンデルのバケットはフランスのバケットそのままではないが、かなり特徴を残している。
何よりその香ばしさがよい。

バケットだけではなく、菓子パンのカンデルちゃんをはじめとする代わり種もいくつかそろえている。
クリスマスシーズンにはシュトーレンなども店頭に並ぶ。

開店当初の何年間かは、店の売り子さんがアルザス地方の民族衣装をユニフォームにしていたことも思い出される。

これからも小金井を訪れた際には寄ってみたいパン屋さんである。

三多摩の「闇」を行くVOL.3 三鷹の特飲街と調布のRAA施設

特飲街。
特殊飲食街の略だろうか、警察用語です。
いわゆる赤線街のこと。

昭和33年以前に警察公認の売春宿があった場所。
といっても江戸時代からの伝統だった身請け(人身売買)制度による、廓を舞台にした売春は明治の時代に非合法化されており、昭和の時代のそれは、客と女性による自由恋愛に部屋を貸す、という理屈で業者が公認されており、そのような店が集まっている場所が特飲街(赤線)と呼ばれた。

東京都内に相当数の特飲街がありました。
単にそういった店が集まった特飲街のほかに、神楽坂、赤坂、日本橋、浅草などのいわゆる「三業地」があり、旦那衆や権力者が遊ぶ場所となっていました。
当時の東京はいわゆる「悪所」に不自由しない町だったのです。

三鷹の八丁通り特飲街

三鷹にも特飲街がありました。
駅北口の八丁通りあたりです。

今でも八丁通りの交差点に近く、それらしい建物が残っています。
2階の手すりの造作や仰々しい塀が、それらしい歴史を物語っています。
この建物、裏手にも塀を巡らし、勝手口を設けています。

この建物から通りを挟んだ向かい側には今なお飲み屋街となっている一角が残っています。
特飲街時代から綿々と水商売が受け継がれてきた一角なのでしょう。

八丁通りに面して計測機械製作の横河電機があります。
大正時代からのメーカーで、戦時中は軍需工場として成長しました。
工員さんたちは、飲食街のお得意さんだったことでしょう。

付近にもう一軒、それらしい雰囲気の家が残っていました。

三鷹の八丁通り特飲街は、戦後直後は占領軍慰安のための施設だったという話があります。

敗戦直後に日本政府が占領軍のために、特殊慰安施設協会(RAA)という組織を作り、都内を中心に慰安所を指定設置したことがあります。
RAAはレクレーション・アンド・アミューズメント・アソシエーションの略です。

八丁通り特飲街がRAAに慰安所として指定されたとのことですが、はっきりとしたことはわかりません。

調布の日本楽器工場跡に「調布園」があった?

かつて調布には陸軍飛行場があり、終戦後には進駐軍が駐屯し、米軍住宅なども建てられ、そこは米軍基地となりました。

基地の近くにRAAの施設があったとのうわさもあります。
その場所は日本楽器工場の跡地です。
調布園と呼ばれた施設だったそうです。

現在その場所はサレジオ修道会の教会などになっています。軍需工場が、特殊慰安施設を経てキリスト教団に払い下げられる。
占領下日本では、「いかにも」な流れです。
この「流れ」には単なる慰安施設の有無などよりもよっぽど深い「闇」の世界が垣間見えます。

現在のサレジオ協会構内です。
鎖国時代の日本に来訪し、弾圧により改宗し、日本人として死んだ、キアラ神父の墓が移設されています。
本来ならば改宗者として不名誉で有らばこそ、現在でも教団にこうして称えられていることの背景や如何。
この流れも立派な「闇」です。

なお、RAA施設「調布園」については存在しなかったとの説もあります。
京王閣に米軍用ダンスホールがあったこと、「調布園」についての文献、証言がなかったことによるようです。

特飲街についての記録はともかく、RAA関係の施設については正確な記録に乏しいようです。
敗戦国の負の遺産としてその扱いはしょうがないのかもしれません。
まさに歴史の「闇」です。

三多摩の「闇」を行くVOL.2 競馬場、競艇場のある町

我が町調布が属する三多摩地域。
三多摩とは、旧武蔵国多摩郡のうち、南多摩、西多摩、北多摩の三郡のことをいいます。
調布や府中は旧北多摩郡に所属します。

おじさんが調布に住んで30年以上。
いろいろと地元の歴史に接してきました。
今回は地域の歴史の中でおじさんが興味を惹かれる「闇」の部分を歩いてみました。

府中競馬場とその周辺

調布の隣町・府中には競馬場があります。
地元では府中競馬場で通っていますが、正式には東京競馬場といいます。

全国に10か所ある中央競馬場のトップに位置する競馬場です。
目黒にあった東京競馬場を、戦前に府中が誘致して立地したとのことです。

賭博が現在は法律で禁止されている日本で、例外的な法律に基づき行われている公営ギャンブルの代表格が競馬です。
法律的には競馬は「公営ギャンブル」とはいわず「公営競技」と呼ばれます。
つまり競馬は賭博ではなく競技だとの位置づけです。

元はと言えば幕末に居留外国人が始めた競馬を黙認したのが日本における競馬の始まりとされています。

府中競馬場を見に行きます。
あたりを睥睨する周囲の壁と巨大な陣容。


東門です。

京王線府中競馬場駅より空中回廊が正門につながっています。

正門はまるでどこかの迎賓館の門のようです。

正門わきにある古くからの飲み屋街です。
競馬の開催日ではないとはいえ、飲み屋街というには陣容的に寂れすぎていると思います。
テキ屋の流れを汲む人たちの屋台から派生した店舗なのでしょうか。

現代のギャンブラーたちはこんなところではずれ馬券の憂さは晴らさないのでしょうか?
それともはずれギャンブラーの憂さ晴らしの場所は、浅草や錦糸町の場外馬券売り場近くの飲み屋街になっているのでしょうか。

府中競馬場の立地は、武蔵国一といわれる大國魂神社の裏手で、付近には卸売市場やビール工場などがあります。
付近では、京王線の本線・支線のほか、JR南武線、武蔵野線などが交差します。

聖賤入り交じり、人間社会の必要悪が密集した場所です。
そのようなもともと人間臭い場所に、「クリーンさ」を強調するようにそびえる競馬場の姿は、周辺から浮きまくる巨大な宗教施設のように見えるのはおじさんだけでしょうか。

多摩川競艇場とその周辺

府中競馬場から自転車だと10分ほども走ると多摩川競艇場があります。

元は砂利採取場だった場所だそうです。

競艇も法律で「公営競技」とされる公認ギャンブルのうちの一つです。

A級戦犯でありながら裁判なしで無罪放免された笹川良一が主宰した船舶振興会(現日本財団)が胴元を務めるギャンブルの会場の一つです。

競艇はほかの「公営競技」(競輪、競馬、オートレース)が競技としての歴史を戦前から持っているのに対し、唯一戦後になってギャンブルが公認された競技だそうです。

競艇はほかのギャンブルに比して射幸心をあおる度合いが高く、依存すると悲惨な結果になることで批判されていました。

公営ギャンブルの売り上げが全盛期に比して凋落傾向なのですが、競馬同様にテレビコマーシャルでイメージ回復に努めているようです。

多摩川競艇場へのルートは、西部多摩川線のほか京王線などから無料バスが運行されています。
かつては西部多摩川線が接続するJR武蔵境駅などに一目でそれとわかるギャンブラーのおじさん方がいましたっけ。

この日は競艇が開催されていましたが正門前は盛り上がっているようには見えませんでした。

正門前には2軒ほど飲み屋が営業していました。
屋台ではなく食堂と言っていい店でした。

正門から少し離れた西武多摩川競艇場駅付近にも飲み屋がありました。
入口には「会員制」との札が貼ってありました。

寂れた飲み屋の姿は、公営ギャンブルのひとつの終焉を物語るのか?それとも場外売り場、ネット参加など多様化するギャンブルの姿を反映するものなのでしょうか?

調布の農家で大根抜き大会

令和2年の2月の晴日。
調布の農家で大根引き抜き大会がありました。

先日、小松菜の収穫をさせていただいた農家です。
出荷用の大根を収穫した後を自由に引き抜かせてもらいました。

コーディネーターは小松菜収穫大会の時と同じお姉さん。
フリーカメラマンの傍ら地域活動も行っている人です。
山小屋おじさんの奥さんの知り合いです。

当日は連休の最終日。
子供連れのファミリーが大挙して参加しました。

畑に残っている大根は太くなりすぎたり、二股になったり、あるいは生育不足の細いものばかりですが、初めて大根を抜く子供たちは大喜びでした。

プロの農家の畑は土がこなれていて大根もすっと抜けました。

一人当たり4から5本の大根のお持ち帰り。

残り物をコンテナ2箱もいただいた山小屋おじさん。
切干大根にでもしましょうか。

深大寺周辺を歩く

調布市は、調布町と神代村が合併して誕生しました。

甲州街道の宿場に端を発し、多摩川の川筋に位置し、戦時中には陸軍飛行場を擁していた調布町とは異なり、多摩川の河岸段丘を何段か上った場所に位置する神代村は、武蔵野台地の南端に位置する純畑作地帯でした。

神代村が有する数少ない歴史的遺産が深大寺です。
今回は深大寺周辺を歩きました。

青渭神社

深大寺の北東に位置する古社です。
旧武蔵国多摩郡にある3つの青渭神社のうちの一つで、延喜式に記載されており、設立年は不明です。

地元では青浪様と呼ばれる水の神様です。
バス通りを挟んだ向かい側には都立農業高校の農園が谷戸の地形に沿って広がっており、園内にはワサビ田もあります。
神社は、鮮烈な湧水が滾々と湧く場所を守る神様だったのでしょう。

現在、人々は青渭神社ではなく深大寺に初詣に向かうので、忘れられた神様になりかかっているのが残念です。

深大寺境内

山門をくぐると深大寺境内です。
平安時代の733年に開基と伝えられる天台宗の別格本山です。

武蔵野台地南端のハケの地形を利用して開山しており湧水にも恵まれています。

本堂には毎年たくさんの人が初詣に訪れます。
普段の日も観光客が多く、路線バスが京王線つつじが丘駅から運行されています。

本堂とは別のお堂ではこの日も檀家衆などを集めてお経が詠まれていました。

国宝の釈迦如来像を祀るお堂です。
白鳳時代の仏像が安置されています。

大みそかには周辺の檀家衆が鐘を突きます。

深大寺周辺の参道

参道は、蕎麦や団子を出す茶店でにぎわっています。

鬼太郎茶屋はかつては時雨茶屋という屋号の店でした。
店の二階の座敷で、門前の池を見下ろして蕎麦を食うのもおつでした。

大みそかの夜から三が日はこのあたり人でごった返します。
地元の子供たちは中学生くらいになると友達同士で大みそかの夜に深大寺へ集まります。

神大寺城跡

古い本には神代城ともあります。
成立は不明で、歴史上に現れるのは16世紀になってからとのこと。
現水生植物公園を見下ろす高台に位置します。

江戸城をにらむ前進基地として場所の利があったのかもしれません。
徳川時代が万全になってからは廃城となったのでしょう。

現在どれくらい発掘が進んでいるのか?
現在はテニスクラブ(松岡修造が通っていた)と住宅地に占められています。

高田馬場から神楽坂を歩き市ヶ谷まで(下)

さて、早稲田の食堂・キッチンオトボケにてカツカレーを食べた山小屋おじさん。
満腹の腹を抱えて、早稲田通りをさらに西進。
神楽坂方面に向かいます。

古本屋の姿もなくなり、学生街の雰囲気から落ち着いた街並みに変わります。

捨て猫?を斡旋する店でしょうか。
様々な猫ちゃんの写真が貰い手を探しています。

しばらく歩くと早稲田通りが、右手にカーブしてゆきます。カーブする通りを進むと神楽坂界隈です。

神楽坂は大正時代に興隆した三業地(置屋、茶屋、料理屋が集まる場所)です。
大商店の旦那や政治家などが、芸者を呼んで飲み食いし、気が向けば泊ってゆける施設が集まった場所だったのです。

芸者が所属するところが置屋、旦那衆が芸者を呼んで飲み食いするところがお茶屋、お茶屋に料理を仕出しするところが料理屋となります。

神楽坂は表通りが商店街。
一歩裏手へ入ると石畳の路に面して、かつてのお茶屋、置屋が佇む風情が残っています。
かつてのお茶屋などは、カフェやレストラン、甘味屋などにリニューアルして観光客を呼び込んでいるようです。

神楽坂の商店街です。
早稲田通りの両側に路面店が続いています。
八百屋、雑貨屋、肉屋など生活に必要な品々を扱う個人商店が残っています。

商店街の雰囲気は「地に足がついた」というよりは、ちょっと浮ついた雰囲気です。
もともとの出発が三業地にくっついた出店なのでその雰囲気が残っているのでしょう。

食堂にも一工夫あり、おいしそうなメニューがラインナップされています。

お茶屋さん(三業地のそれではなく、茶葉を売る店)も残っています。
この店は土日には店頭でほうじ茶を炒っています。

団子屋さんです。

飯田橋の駅の近くには、地元民御用達のエリアもあります。

地元民御用達の飲み屋街入口。

食堂の値段も手ごろになります。

数年前までピンク映画館だったところ。
この手の映画館も希少価値になりました。

飯田橋ギンレイホールという古くからの名画座が残っています。

名物、一升チャーハンとジャンボ餃子を出す中華食堂。
チャーハン5,800円、餃子9,600円。
完食しても無料とはなりませんが、残しても持ち帰れます。

飯田橋駅を左に見て外堀を渡ります。
江戸城の牛込見附という、見張り台の石垣跡です。

外堀の内側には、青森会館がありアンテナショップ・北彩館が営業しています。
リンゴジュース、地酒、ヒバ製品などを常においています。運よくリンゴの特売などが開かれていれば、産地直送の青森リンゴが手に入ることがあります。

飯田橋から市ヶ谷に向けて、外堀沿いの堤防の上を歩きます。
右手には外堀と、外堀に並行して走る総武線の電車が見えます。
もうすぐここは花見の季節となります。

高田馬場から市ヶ谷までの半日散歩でした。

高田馬場から神楽坂へと歩き、市ヶ谷まで(上)

高田馬場から神楽坂へ抜けるコースはかれこれ10年くらい歩いている。
神楽坂についた後は、九段下へ抜けたり、東京神宮から神保町方面へ行ったり、靖国通りを歩いて市ヶ谷まで行ったり。

ことの最初は早稲田通りの古本屋に魅せられたから。

今でこそ、食べ物やが目立つ早稲田通りだが、昔は学生向けの雑多でカジュアルな古本屋が多く、また掘り出し物も多かった印象がある。

さて、令和二年の冬の晴れ間、高田馬場から早稲田通りをスタートした。

高田馬場駅周辺には学生向けの看板が多い。
早稲田界隈ならではの猥雑さか。
他の大学がどんどん無味無臭になっている中、早稲田のバンカラ精神には頑張ってほしい?

早稲田松竹。
いわゆる名画座の生き残り。
断片的なプログラムにはなるが、歴史的な名監督たる溝口健二、ゴダール、イエジー・スコリモフスキーなど作品も2本立て入れ替えなしで上映される。
フィルム上映も可能。
昔は界隈に高田馬場パール座という名画座も残っていた。

早稲田松竹隣の空き地。
30年ほど前だったろうか、冬にここに建っていた純喫茶店に入ったことがある。
すでに廃墟のようなたたずまいで、よろよろしたマスターがこちらの来店に合わせて灯油ストーブを点けてくれたっけ。

喫茶店の裏手には、バンカラ精神の権化のような木造アパートとも、旧制高校の学寮ともつかぬ建物が建っていたっけ。
今はなくなっている。

交差点を渡り、右手にインド大使館を過ぎる。

ここの団子はうまい。

辻には子守地蔵尊のお宮がある。
お祭りも行われているようだ。

地蔵尊を過ぎると古本屋エリアに入る。

まずはここ、古書現世。
サブカルから歴史ものまで品ぞろえが魅力的だった。
廃業したのか?ネット販売で食っているのか?今日も閉店だった。

ぽつぽつと古本屋が現れる。

店頭のゾッキ本棚。
一般的に100円コーナーが多いゾッキ本棚だが、ここでは1冊50円がある。
20円も!

おじさんが、閉店した古本屋を惜しんでいる間に時代は進んでいる。
通りを歩く学生にも外国人の姿が目立つ時代になった。
通りに面して建つのは、中国人向けの日本語教室なのであろうか?

虹書房。
表の20円本コーナーもいいが、戦史、沖縄史、原発、満洲史、アイヌ史、新左翼史・・・と魅力的なコレクションが書棚を彩る古書店。
専門書ばかりではなく、読みやすい書籍もそろっていて、神保町の同様な店より入りやすい。
現存する早稲田の古書店では一番に勧めたい。
店主もまだまだお元気な年代。

現在は、入試期間中で大学構内は立ち入り禁止。
春休みということもあり、構内至近距離の牛丼屋も休業中。

卒論製本屋もあった。

馬場下交差点からは穴八幡神社が見える。

今日の昼食はキッチンオトボケ。
揚げ物系の食堂。
ここのカツカレーはおじさんの好物。

春休みの影響か?近年の若者の嗜好の変化か?いつも満員の食堂がパラパラの入りなのが気になった。
ビルマ人と思しき従業員たちも手持無沙汰のようだった。

(続く)

三多摩の「闇」を行くVOL.1 調布の多摩川沿いを歩く

冬晴れの一日、自転車で調布の多摩川沿いを歩いてみました。

なぜ多摩川沿いかというと、調布にいわゆる部落があると聞いて行ってみたかったからです。

部落というワードに反応するのは、商店街、闇市跡、盛り場、下町などのキーワードに反応する昭和なおじさんの癖です。

おじさんの10歳も上の世代にとっては、それらのワードは現実そのもので、当たり前の世界だったでしょう。

それから10年、「もはや戦後ではない」と経済白書で謳われた昭和31年生まれのおじさんにとっては、受取り方がちょっと違ってきます。
おじさんの世代にとってそれらのワードは、歴史上のものとして紀行文を通して接する対象であるとともに、一方では多少の現実感もともなう微妙な言葉なのです。

ということで、調布市上石原界隈へ行ってみました。

件の多摩川沿いには幟はためくキムチ屋があることは知っていました。
その店の裏側には細すぎる道がグネグネと続く住宅地でした。

不定形な土地の区割りと言い、道路の細さといい、ここが部落であることは一目瞭然でした。

調布というと北多摩郡の時代から、特徴のない近郊農村のイメージですが、この一帯には、昭和の光景と人間の匂いが色濃く残っていました。

このあたり、火葬場もなく、獣皮を扱う伝統もなかったようなので、典型的な被差別部落のイメージがわきません。
どういった人が住んでいたのか?
多摩川を漁場とする漁民、渡し船の船頭、砂利の採掘者、甲州街道布田宿の下働き的な人々、といった、士農工商(常民)外の仕事を司る人々が暮らす場所だったのか?

行き止まりの路地の脇から鶏の声も聞こえていました。

雑品屋、葬儀屋などが多摩川に面して並んでいます。

古くからのいわゆる部落であり、その後は在日の人々も移り住んだ地区なのでしょう。

といっても、すぐ近くにはゴルフ練習場、マンション、分譲住宅などが迫っており、調布に残された「昭和の聖地」も、ゆくゆくはどこにでもある無国籍な光景に飲まれてゆく運命なのかもしれません。
それが「令和の風景」なのでしょうか。

部落から鶴川街道を挟んだ反対側には、砂利・砂の工場があります。
かつては盛んだった多摩川の砂利・砂採掘の名残だと思われます。
砂利・砂は、とっくに多摩川では採掘禁止となっています。
とするとこの工場、北朝鮮などから輸入した砂利の一時受け入れ先なでしょうか?

室生犀星原作の映画「あにいもうと」(1953年)の主人公達の父親が多摩川沿いの引退した砂利採掘人夫だったことが思い出されます。

多摩川沿いを少し南下した辺り、現京王テニスクラブの敷地も昔は部落があった場所だそうです。
近くには大映撮影所がある地域です。

多摩川に流れ着いた観音様を祀ったお宮です。

京王閣競輪場です。
このあたり、戦前の頃は東京市郊外の景勝地として、舟遊びや鮎料理で人を集めた場所でした。
涼を求めた人を集め、演芸場や遊園地を擁していたという京王閣は、今では競輪場となっています。

調布の多摩川沿いは、路地の民が住み、人々をギャンブルに誘い込み、映画という河原芸を発信する場所だったようです。

今日は競輪はお休み。
付近の飲食店は閉店中とはいいながらおとなしい雰囲気です。

近年のギャンブル場はすさんだ雰囲気をうまく隠しています。
一方で、ここ多摩川沿いの旧南多摩郡は、競馬場、競艇場、競輪場が並んでいる地域であることは記憶しておくべきでしょう。

ということで調布の多摩川沿いの旅を終わります。

三鷹と太宰治

三鷹駅南口からすぐのところに、太宰治文学サロンという施設があります。

太宰の年表や人物関係図、三鷹の借家の模型などが並び、年配の案内委員の方がいます。

ヒョイと寄ってみました。

案内員の方と、太宰が玉川上水に入水自殺した地点や、借家の場所などの雑談をするうちにそれらの場所を回ってみようと思いました。

太宰が住んでいた三鷹市連雀町の借家があった場所です。

向かいに井心亭という日本家屋があります。

井心亭には、太宰の借家の庭にあったという百日紅が移植されています。

太宰が愛人?と入水自殺した玉川上水の入水ポイントとみなされるあたりです。
三鷹駅からすぐ近くです。
太宰が通った酒屋、うなぎ屋なども近くにありました。
太宰の生活圏の真っただ中で入水したのですね。

太宰と愛人?がつながれたまま発見された玉川上水の新橋付近です。
発見まで6日かかったそうです。
現在の玉川上水は大人二人がつながって流されるほどの水量はありません。

太宰の墓です。

三鷹市内の禅林寺という大きなお寺の墓地にあります。

斜め前には森鴎外の墓石があります。

故郷、青森の生家を追われ、三鷹で破滅的な文筆生活を送っていた太宰のつかの間の安定を共にした夫人が、太宰の希望通り、縁もないこのお寺に頼んで供養してもらったとのことです。

太宰の命日に墓前で行われていた桜桃忌は、現在は行われていないそうです。

太宰が通った駅前のうなぎ屋跡には案内板が建っています。

毎月第4日曜日(3月から11月)には、予約不要、参加費無料で三鷹駅から太宰ゆかりのコースを、2時間40分かけての定例ガイドが行われています。