2025 山小舎来客第五弾!(富士見編)

山小舎に投宿した学友一行。
彼等の地元の地酒や、貴重な漬物類など、高価なお土産を頂きました。

また、山小舎の食材、アルコールなどは割り勘となり、年金生活の山小舎おじさんには助かりました。
さらに来年の浄化槽設置の寄付金までいただきました!
寄付金は、彩ステーション、娘一家に次いで3例目、延べ7人となりました。
勝手な申し入れながら、ご対応ありがとうございます。

一夜明けた山小舎。
6時半に二日酔いの目を開けて下へ降りると、すでにほぼ全員が起きています。
外に散歩に出ている人もいます。

パン、コーヒーに目玉焼き、野菜スープ、昨日のサラダ、ヨーグルト(ジャムとブルーベリー乗せ)、桃、プルーンなど、夏の山小舎の朝食メニューです。
その前に野草茶を煮だして試飲してもらいました。

すでに活動意欲満々のメンバーですが、麓の町は暑いので標高の高い近辺で、午前中はゆっくりすることになりました。
白樺湖から女神湖、車山を回る一団と、姫木周辺を散策する人、山小舎で待機、と3つのグループに分かれて午前中を過ごしました。
昼食は昨日の残りのおにぎりと、焼き鳥、ほかに焼きそばを2玉作りました。
皆食欲があります。

午後は下諏訪温泉の児湯に入ってから、富士見の別荘へ向かいました。
富士見高原リゾートには、参加メンバーのお父さんが建てた別荘があるのです。
ここで一行を見送る予定だった山小舎おじさんも、学生時代のノリよろしくお邪魔して参加ました。

一行は2台で出発。
山小舎おじさんの乗った車は、温泉の後、下諏訪から20号線で小淵沢まで行き、小淵沢インター近くのドラッグストアでビールなどを買いながら、長野側の富士見高原リゾート内の別荘地へ向かいました。
もう一台は夕食の食材を調達して別荘で合流です。

原生林に点在する富士見高原の別荘地は、国産材で別荘を建てることが条件だったそうです。
まずは堂々とした外観。
中へ入ると、居間は吹き抜け構造で、暖気がいきわたるように配置された3部屋が二階にあります。
広さもあり、普段手入れもされている様子がうかがえます。
皆は、勝手知ったるとばかり雨戸をあけ、網戸にして換気、布団なども用意しています。

富士見高原リゾート内の別荘へ
部屋の中から外を見る
テーブルでくつろぐ

今は、メンバーのお兄さんが管理しているという別荘。
親族やその友人のみの利用とはいえ、別荘利用の注意やルールが細かく張り紙され、使用料一人1000円を徴収とのこと。
使用料を入れるボックスには、使用者の日付などを記録する台紙もありました。

「利用規定」は別荘所有者にとって参考になる

これらの管理方法は山小舎にとっても非常に参考となりました。

富士見の夜はキムチ鍋と昨日食べられなかったアルプス牛のソテーなどで過ぎてゆきました。
ガスコンロや土鍋、炭や七輪まで完備している別荘は居住性十分でした。

翌日は朝食の後、出発の9時まで希望者で別荘地から山道をハイキング。
鹿の道と呼ばれるハイキングコースを歩きました。
網笠山と呼ばれる八ヶ岳最南端のピークが眺望できる地点まで登り、戻ってきました。
南側には富士見パノラマリゾートと入笠山が見えます。

鹿の道を上る
霧に包まれた網網笠山
パノラマリゾート方面を遠望

この日、一行のうち2人が帰り、残る3人は上田方面へ向かって信州の3日目を過ごしていました。
真田の時代の櫓が残る上田城は、博物館ともども見ごたえがあったとのこと。

来年も皆健康で再会できることを祈ってお別れしました。

2025 山小舎来客第五弾!(準備編)

8月の最終週、今年の山小舎ゲストの末尾を飾る一団がやってきました。
学生時代のサークル仲間の5人です。
昨年四十数年ぶりに山小舎で再会した4人ともう1人です。
今回は全員が飲めるように1泊のスケジューリングです。

日程が決まってからは準備に入りました。
8月は頭に娘一家を中心に1週間の来客。
中旬には道東旅行、と予定が目白押しでした。
ゲストを迎えるには準備期間が必要でしたが、8月の半分は娘一家らのゲスト対応、及び旅行で過ぎてゆきました。

本日も晴天なり。準備開始。
そとでの炭火焼きにはゴミ箱設置がマスト

学友たちの訪問にも気を入れて準備しなければなりません。
食事はいつもの炭火焼きがメインですが、地元の食材で前菜をワンプレート用意することにしました。
「地元の食材」には野菜のほかに、チーズ、ハムなどの加工品もあります。
この間に、地元の人から紹介されたり、ローカルニュースで見て、店を訪問し、味わった食材を集めます。
季節柄、トウモロコシ、アスパラなどの野菜も欠かせません。

畑のズッキーニを炭火焼きしてエゴマ油と山塩をかけたもの、伊那の直売所で買ったトウモロコシの炭火焼き、シイタケ焼き、春日のチーズラボのカマンベールのクラッカー乗せ、姫木の生ハムを高遠のメロンに巻いたもの、丸子の直売所で仕入れたデストロイヤーのホイル焼きバター乗せ、などを、銘々の紙皿に円形に配置します。
前菜のメニューです。
これをつまんでもらっている間に焼き鳥から焼き始める予定です。

ジャンポンドヒメキの生ハムに初トライ
地元産のメロンに巻いてみる
前菜プレートが出来上がる。焼きシシトウのだし浸しは作り忘れる
焼き物

前日からアルプス牛のスジ肉を煮て、野菜とともに味付けしておきます。
当日は温めつつ豆腐を投入して深皿で提供します。

当日は午前中から、鶏ももと砂肝を切り分けて串にさしておきます。
午後からは、佐久の銘柄米・ミルキークイーンを4合炊いて塩結びにしておきます。
ブロッコリーと玉ねぎとビーツのピクルスとゆで卵をそれぞれ和えたサラダも作ります。

外にテーブルと椅子とグリルを配置して炭をおこしておきます。
4時に到着というので、そのころには炭火焼きを開始できるようにします。

牛スジ煮。完食

飲み物は、クラフトビール、高山村のシードル、ワイン、地酒は千曲錦の冷酒。
信州ウイスキー。
別の来客が持ってきたビールもあります。

書いていても疲れました。

4時に予定通り一行が到着。
懐かしい再会の挨拶もそこそこに歓迎の食事の開始です。

焼き鳥から焼き始めましたが、信州豚を焼く前にストップがかかりました。
皆、寄る年波のせいなのか、遠慮深いのか、30代の食欲とは違います。

それでも炭火のあるうちにと焼いた信州豚肩ロースも2パック完食。
ラストのアルプス牛は焼く前に今度こそストップとなりました。
串焼きも10本近く残り、翌日の昼食用となりました。

暗くなってからは舞台を山小舎内に移し、地酒、ウイスキーと乾き物で、汲めど尽きせぬ話題とともに第一夜は過ぎたのでした。

当日のメニュー。書いておかないと忘れる。漬物とデザートは出し忘れたり作らなかったり

30何年ぶりの再会

短い人で30何年振り、長い人では40何年振りの再会となりました。

当ブログを開設して以来、知人あての年賀状などにブログのアドレスを書いておりました。
学生時代やサラリーマン時代の知人からは、「ご本人の写真も載せてください」などの反応があったりしました。
また、映画や薪割りなどのテーマの時に、まったく知らない方からコメントを頂いたこともありました。
定期的にコメントをいただく方は、学生時代に山小舎おじさんが所属していた、映画研究会の同窓メンバーの二人でした。

今年の10月にコメント欄を通して、同窓メンバーから「山小屋へ来たい」との連絡がありました。
思ってもみない嬉しい知らせでした。
同行するのは同窓のメンバー計4人。
卒業後に何度か会った人もいましたが、卒業後40年以上会っていなかった人もいました。

来訪の日に向けて準備が始まりました。
昼間の来訪ですが、食事は山小舎最大のごちそう・炭火焼きしかありません。
福味鶏、信州豚、アルプス牛、信州ハムウインナーなどの焼き物を揃えます。
鶏は串にさしておき、レバーは水にさらして血抜きします。
野菜系ではシイタケ、かぼちゃ、焼き芋、じゃがバターなど。
新米を炊いておにぎりを握り、レタスサラダには自家製ドレッシングを添えて、キューリの自家製ピクルス、野沢菜漬けも。
飲み物は、ツルヤオリジナルのクラフトビール、高山村産のシードル、アルプスワインのコンコード新酒、諏訪舞姫酒造の美山錦ひやおろしです。
運転してくるであろう一人には申し訳ないのですが、ここは譲れません。
アルコールのない炭火焼きはありえないのです。

串焼きの鶏、砂ぎも
レタスサラダと特製ドレッシング

実は、勘違いして来訪が1日前だと思い込んでおりました。
そのため、食材はそのままスライドしてして使用。
一旦冷えたおにぎりは味噌を塗っての焼きおにぎりとすることになりました。
焼き芋とじゃがバタはアルミホイルのままストーブにのっけて温め直します。

新米の塩にぎり
焼き芋とじゃがバタ

車のドアを閉める音がしたので外へ出ました。
実に30年以上ぶりとなる再会の面々がいました。
学生時代の同窓者が山小舎を訪れるのは、これが2回目ですが、最初の人とは当方不在で会えませんでした。
よくここまで来てくれたと驚くやらうれしいやらです。

再会の挨拶もそこそこに、炭火焼きの開始です。
彼等の泊りは富士見町の別荘。
運転者の手前、アルコールはなしのつもりだったようですが、ここはこちらのわがままで飲んでもらうことにします。
運転の人にはノンアルコールで、申し訳ない!

来訪した4人は日ごろ行き来しているとのこと。
既に全員が引退し、悠々自適の身。
残る心配は自身の健康と、当面の活動。
その活動の一環として、同窓仲間の付き合いがあるようなのです。

炭火焼きを囲んでの話題も同窓者の近況から開始。
山小舎おじさんが気になっていたメンバーの近況を聞いたり、彼らが知りたがっているメンバーの近況を知っている限り伝えたり。
映画研究会時代や学生時代の一生忘れられないエピソードを思い出したり。

山小舎おじさんは、この日の来訪者たちの一応先輩でもあったことから、学生当時はわがまま放題を通しており、彼等はそのいわば「被害者」でもあったので、この日は40何年前の非礼をお詫びすることからスタート。
全員が65歳以上で、現役も引退した者同士、改めてフラットな付き合いをお願いしたい気持ちでした。

昼間から煙もうもうの山小舎に、思わず換気扇を廻す一幕もあり、シードル、ワイン、日本酒と杯も進みます。
気が付くと4時も近づき、これから富士見へ向かう一行は山小舎を後にしました。

用意したお土産は、いつもの自家製ジャムとリンゴ3種類、長芋ハーフカット、自家製干芋です。
リンゴと長芋は秋の信州特産品、旬を迎えた味をぜひ食べてもらいたかったのです。

東京での同窓会での再会、暖かい季節に山小舎での宿泊再会を約しました。

30年以上の実社会でのそれぞれの経験、年輪、時間の経過を感じた再会でした。
山小舎のゲストの種別として、山小舎おばさん関係、孫一家のママ友関係がありますが、学生時代の友人関係がそこに加わりました。

なお、掲載写真に来訪者を写したものも使いたかったのですが、プライバシー保護のアプリを使ったことがないため、未掲載とします。
できるようになったら掲載します。

彩レディース来襲の後

彩レディースが帰ってゆきました。
嵐のような一泊でした。

翌日からご使用になったシーツ、布団カバー、枕カバー、タオルケットを洗って干します。
タオルケットはもとより、シーツ類もよほどの好天じゃないとパリッと乾きません。
外の風に当てた後はストーブのそばで乾かします。
まだまだ朝晩はストーブが欠かせません。

とはいえ5月下旬の山小舎は晴れた日は春ゼミが鳴き、新緑に輝く時期です。
育苗ポットにトウモロコシとインゲン、枝豆の種を蒔きました。
夜間や雨の日は室内に入れて保温していると芽が出てきました。

次に帰京するのは6月上旬、娘夫婦の誕生会です。
それまで英気を養い、畑仕事をし、丸太を切って割って、別荘管理事務所のバイトをします。
もう一回くらいわらびでも採りましょうか。
ハイキングもいいでしょう。
蓼科山の大河原峠コースも歩いてみましょう。

新緑の山小舎周辺
トウモロコシ、インゲン、枝豆の芽出し

彩レディースのお土産です。
道の駅黒曜で買ったという日本酒2本とウイスキーです。
いつも過分な施しをありがとうございます。

彩レデイースからもらったお土産の日本酒とウイスキー

レディース来襲!

今年も彩レディースがやってきました。

去年やってきた際には〈彩ガールズ〉とさせていただきましたが、平均年齢80歳に近い方々を仮にも〈ガールズ〉と表現するのは失礼なので今年から〈レディース〉とさせていただきます。

レディースは、山小舎おばさんが東京調布で主宰している、彩ステーションのサポーターとして、毎週の食事の準備を手伝ってくれたり、物心両面で活動を支えてくれる地域の有志です。
普段忙しい山小舎おばさんの気分転換にと、銀座の食べ歩きや、箱根の小旅行に連れ出してくれる方々でもあります。

来場の前日までに改めて布団干し

今年は総勢4名が一泊で山小舎にやってきました。
今年の主目的は山菜採りとのことです。
山小舎おばさんの運転で、中央道相模湖付近の事故渋滞にもめげずやってきました。

Aコープでは牛肉が半額だった。自宅へのお土産分も含めて買い出し

第一日目は富士見町のにしむらという蕎麦屋でランチ。
山小舎に着いた後、山小舎おじさん手製のぼた餅でウエルカム。
一休みの後、旧姫木スキー場跡に出かけて、わらび採取。
ほどほどに採った後、一行は道の駅ながとにあるやすらぎの湯へ。
その間、山小舎おじさんは夕食の準備。Aコープに出かけて、あつらえておいた食材の仕込み。
また、布団をとっておきます。
掃除、布団干しは前日までに済ませました。

あんこともち米を炊き、手製のおはぎを作ってレデイースを待つ
目的のわらび採り。ほどほどに採取

夕食はいつもの室内炭火焼き。
アルプス牛、信州豚等の炭火焼きに一同舌鼓。
サイドデイッシュには自家製ぬか漬け、レタスサラダ、ウドの酢味噌和えなど。
ご飯は炊きあがった後、おひつに入れておきました。
デザートには一行の手土産のショートケーキ。
存分に召し上がったレディースたちでした。

翌朝は5時過ぎの早朝から起床されて賑やかな御一行。
7時半ごろに朝食。
メニューは山小舎特製のベーコン野菜スープに目玉焼き、信州ハム、昨日のご飯で握ったお結びなど。

山小屋を出発。
おじさんも軽トラで同行です。

Aコープでお土産を購入。
原村へ寄って、割き織体験の工房へ。
ここで横糸の張方から織り方までを習いながら小さめのコースターを自作。
ついで国道20号線沿いの道の駅蔦木宿のレタス祭で地元野菜をゲット。
ランチは小淵沢のカフェにて。

ものすごいスケジュールでしたが、レディースは疲れなかったのでしょうか?

ガールズ来襲!

東京からガールズがやってきました。

山小舎おばさんが東京で主宰している彩ステーションのサポーターたち4人が山小舎を1泊で訪れたのです。
全員70代かそれ以上。
皆さん彩ステーション周辺に在住ですが、出身地、経歴とも多彩なバリバリおばさんたちです。

6月下旬の暑い日、山小舎おばさんの運転でやってきた一行。

まずは諏訪湖ほとりの鰻屋で、山小舎おじさんと待ち合わせ。
信州に来たからにはと、鰻に舌鼓を打ちました。

2時間半ほどの長旅から解放された一行は空腹を鰻で満たしてまずは満足。
そのあとは車で諏訪湖を一周しました。

下諏訪の松倉で鰻重の昼食

長旅の直後に車で観光は実は好評ではなかったようで、湖畔にある片倉館に着いた時にはほっとした表情のガールズたち。
山小舎おばさんの先導で片倉館の千人風呂へとご案内しました。

湯上りにはコーヒー牛乳を全員所望。
そこは昭和世代全開です。

諏訪湖畔の片倉館千人風呂での風呂上り

次いで、高島城を見ながら丸高味噌の味噌蔵兼直売所へ向かいましたが定休日。
それではと、造り酒屋の蔵が並ぶ甲州街道沿いへ出て、真澄の蔵ショップへ向かいました。
雰囲気のある蔵造りのショップは都会人の購買意欲を刺激したのか、ガールズは甘酒、日本酒などお土産を購入。

この後、諏訪へ来たからにはと、諏訪大社上社本宮へも、もうひと頑張りのご案内。
去年建ったばかりの御柱を見て、拝殿で御参り。
諏訪信仰と大社の歴史については、僭越ながら山小舎おじさんが軽くレクチャーしつつのご案内。
ガールズたちは興味深く聞いていました。

諏訪大社上社本宮の拝殿前で

長旅と温泉の疲れがガールズたちを覆い尽くしたころ、夕食用の買い物をして山小舎へ着きました。

夕食は山小舎恒例の炭火焼きです。
暖かいので窓を全開し、室内で炭火焼きです。
地元自慢のアルプス牛などの炭火焼きにガールズたちは満足。
飲めるガールズが一人しかいないので、もっぱら山小舎おじさんが飲みを担当し夜は更けてゆきました。

翌日は帰る時間まで思い思いに過ごすガールズ。
山小舎の周りで山菜を取ったり、東京では珍しい植物を採取するガールズもいました。

翌朝の山小舎朝飯。これに特製のスープが付く

1泊の中味の濃いツアー。
それなりの年齢のガールズたちは疲れたことでしょう。

準備や接待でそれなりに大変だった山小舎おじさんですが、おかげさまで鰻などをごちそうになりました。
ありがとうございます。
よろしかったらまたお越しください。

「フレッド・ブラッシー自伝」

銀髪鬼と呼ばれたプロレスラーの自伝を読んだ。

プロレスラー、ブラッシー

プロレスという仕事がある。
アメリカで発生したプロフェッショナルレスリングのことだが、およそスポーツとしてのレスリングとはかけ離れたもので、アマレス的なアスリートの要素から、演技的なエンターテインメントの要素までを含んだ仕事である。

日本でも有名なブラッシーというプロレスラーがいた。
1918年、オーストリア=ハンガリー帝国からの移民の子供として生まれ、海軍除隊後、地元でプロレスラーになった。

売り出し中の若き日のブラッシー

南部のアトランタで売り出し、以後、ロサンゼルス地区を中心にヒール(悪役)として一世を風靡。
日本にもたびたび遠征した。
現役引退後は、現WWEのプロモーションでマネージャーとして活躍した。

プロレスという仕事

プロレスラーは大会会場を巡業して歩く。
ある期間、一定の場所を一定のメンバーで回る。
プロモーターと呼ばれる興行主画がんだスケジュールの元、与えられたキャラクターを演じ、観客を集め興奮させるのが仕事だ。

それは、身体能力に恵まれ、アスリートとして、またパフォーマーとしての特別な才能を有する者だけが所属を許される職業集団。
そこで行われるパフォーマンスは、「試合」ではなく、「興行」と呼ばれる(日本では慣習上「試合」と呼ばれているが)。

スポーツ系でいえば大相撲の世界に近い。
また、旅芸人、サーカス団に近い。
大相撲は八百長を忌避する、サーカスもインチキではできない、それでも真剣勝負のアマチュスポーツの「試合」とはなぜか色合い画異なる「興行」の世界である。

本書で、ブラッシーからプロレスラーとして高評価を得ているのが、日本でも有名なザ・デストロイヤー。
アマレスの全米チャンピオンの実力を持ちながら、覆面を被り独特のキャラを確立。
リング上では激しいファイトをいとわないが、業界のルールは決して破らない。
大学出で知性と常識に富んでいる。

一方で、厳しい評価を受けているのが、プロレスファンなら知っているバデイ・ロジャースとジョニー・バレンタイン。
特にロジャースは世界チャンピオンとなるくらいの人気者ではあったが、ブラッシーに言わせると、「相手の体のことを考えずに技を出す」自分勝手な奴。
バレンタインンの度を越した悪戯っぷりもダメだったらしい。

ブラッシーはヒール(悪役)となって以来、ファンに21回も刺されたという。
会場に乗り付けた車は、興行の間にファンに壊されたという。

私生活では2回の離婚。
セントルイスに家族を置いて、アラバマで巡業していた期間は、家族に会えるのは年に何回か。
巡業先で女は欠かさなかったという。
プロスラーはもてるのだ。
たいてい離婚もしている。

自伝では、ファンに刺されたことや、車を壊されたことを、むしろ誇らしげに書いてある。
ファンをヒートアップさせるのがプロレスラーとして有能であることの証明だ。

観客には決して自分からは手は出さないが、昔はリングに上がってくる素人の力自慢の相手もしたという。
ケガしない程度に痛めつけて、プロレスラー強しを証明しなければならないのも仕事の一つ。
ブラッシーも事故にならない程度に、こうしたイカレたファンを痛めつけたこともあったという。
今なら訴訟モノだが。

ブラッシーはテレビショーに出たときも、台本なしでのパフォーマンスを繰り広げ、〈アングル〉なしでMCの上着を引き裂いたりしたという。
〈アングル〉(事前の打ち合わせ)があろうがなかろうが、プロレスラーは自分のキャラに生きなければならない。
〈アングル〉があればそれに従い、なければ相手の出方に応じていかようにも対応できなければならない。

アドリブにも長じ、いかなる場でも、自分のカラーに染めることできるブラッシーはプロレスラーの鏡といえる。
テレビスタジオという、視聴者にとっては〈現実〉そのものの空間を、一瞬にして〈プロレス〉という異空間に変換させ得る力を持つ者がプロレスラー。
そういった意味でも、プロレスラーは現代の〈マレビト〉なのだ。

テレビショーでMCの上着を引き裂く

ブラッシーと日本

ブラッシーは力道山の生前に初めての日本遠征。
テレビでブラッシーの噛みつきによる流血試合を見た老人がショック死。
ブラッシーは、謝罪するどころか報道陣の前でやすりで刃を研いで見せた。

力道山との血の抗争。ブラッシーのプロに徹した表情を見よ

1965年には日本で見染めたミヤコという女性を口説きに口説いて結婚。
自身が死ぬまで添い遂げる。
ミヤコとの結婚後は、巡業先に同行させ、あんなに好きだった浮気もしなかったという。
この部分はプライベートなブラッシーの人間性。

日本人ミヤコさんとの結婚は終生続いた

力道山の死後も日本には何度か遠征。
ジャイアント馬場やアントニオ猪木と戦っている。

このころのテレビ中継を思い出す。
体格差のある馬場にも果敢にネックブリーカードロップを決めていたし、若かった猪木にも決して主導権を譲らない、老獪でねちっこいファイトぶりだった。

猪木が当時保持していたUNヘビー級王座にも挑戦している。
ブラッシーの日本における評価が、本国同様に高かったのがわかる。

一方、ブラッシーの猪木に対する評価は低く、のちにモハメド・アリのマネージャーとして来日し、猪木との異種格闘技戦に臨んだ後、猪木のことを「私がボクサー側についたこと以上に、あの夜のうちに彼(猪木のこと)がこの業界(プロレス界)をどれだけ傷つけたかりかいしていたのだろうか」(本書334ページ)と述べている。

猪木との異種格闘技では、アリのマネージャーを務めた

ジャイアント馬場のアメリカ修業時代

ブラッシーがプロレスラーとして評価していた日本人がジャイアント馬場。
馬場はその修業時代の1964年に、ブラッシーのWWA世界王座にロサンゼルスで挑戦している。

1964年、馬場とのロサンゼルスに於けるタイトルマッチのパンフレット

この時の馬場は、NWAのルー・テーズ、WWWFのブルーノ・サンマルチノにも連続挑戦していた。
プロレスでは、タイトルに挑戦するためには、一定の地区で巡業を行い、プロモーターの信用を得て、人気と評価をあげてから、が手順。
いきなりのゲスト出場で、ご当地会場のメインエベントで世界タイトルに挑戦するのは異例。
その後も、その手のレスラーは、アンドレ・ザ・ジャイアントがいたくらい。

力道山の死亡の報を受けた馬場に対し、当時のマネージャー・グレート東郷が、手取り年27万ドルの条件でアメリカ残留をオファーした。
一流レスラーの年収が10万ドルといわれた時代。
日本人のアメリカンドリーム第一号はジャイアント馬場だった。

馬場は、ブラッシーが嫌ったバデイ・ロジャースが世界チャンピオン時代に何度も挑戦している。
本来世界チャンピオンとは、全米のテリトリーを回り、当地のプロモーターが押す地元のチャンピオンとタイトルマッチをしなければならない。
ところがバデイ・ロジャースは挑戦者とテリトリーを選ぶチャンピオンだった。

馬場は、そのロジャースに気に入られ、巡業に同行し、挑戦者として遇された。
馬場が、いかにプロレスラーの何たるかをわきまえた存在だったということがわかる。

強いだけではなく、強烈な個性でチャンピオンとの対極性をアピールしつつ、決してチャンピオンの存在を根底的にはおびやかさない常識性を持った存在として。
馬場はまさにロジャースの相手役としてお眼鏡にかなったのだった。
それはプロレス人生における馬場の評価と信用にも結びついた。

プロレスの神髄を知るブラッシーの馬場と猪木に対する評価の違いは興味深い。
おそらくそのあたりにプロレスとは何かの答えの一つがあるのだろう。

「ノマド」が流行っている

「ノマドランド」というアメリカ映画が、2021年のアカデミー賞の作品賞、監督賞などを受賞したとのことです。
そのニュースを聞いて、ある新書を思い出しました。

ちなみにノマドとは遊牧民という意味で、転じてフリーランスなど定位置にとどまって仕事をしない働き方を、ノマドワーカーなどと呼んでおり、「ノマド」は最近はやりの言葉になっています。
背景には現代社会の煮詰まった現状からの無意識の逸脱指向があるのかもしれません。

「女ノマド、一人砂漠に生きる」 常見藤代著 集英社新書

2003年から2012年にかけて、エジプト東部の砂漠に住む、遊牧民(ホシュマン族)の56歳の女性の下に通い、数日から1か月程度の滞在を繰り返した女性ノンフィクション写真家のルポルタージュです。

読みやすい文章で、作者の「頼りない」心情も素直に描写された読みものとなっており、写真も豊富です。
何より単身の女性であることを生かした著者が、外からはうかがうことが困難な遊牧民の特に女性の生活や心情に立ち入った写真や描写が貴重です。

昔と違い、遊牧民の間にも携帯電話が普及する時代になっています。
また、気象の変化で1997年を最後に雨の降らない現地では、遊牧民たちの多くはすでに紅海沿岸の都会周辺の定住地に住んでいます。
筆者も「取材」の際には、紅海沿岸の都市部のホテルから自動車でサイーダという名前の「女ノマド」のいる現地へ向かっています。

目次第1ページ

「女ノマド」サイーダは、ラクダや山羊、羊を従え、小麦粉を焼いたものを主食に砂漠で暮らしています。
主食の小麦粉は沿岸の都市部に住む息子が定期的に持って来たり、もしくは砂漠を通りかかった車に頼んで買ってきてもらったりします。
水は貴重なので皿を洗った後の洗い水も飲むそうです。

草のある場所を求めて放牧して歩きます。
携帯電話を持たないサイーダの正確な現在地は誰にもわかりません。
息子は砂漠を横断する自動車たちの情報などにより母親の現在地を推量して定期訪問するとのことです。

最初は著者をお客さんとして迎えたサイーダも、慣れるにしたがって砂漠の生活に適し切れない著者に厳しく当たることもあったとのこと。

現地の地図

定住地の遊牧民は「遊牧の時代は自由があった、生活は今よりずっと快適だった。いまは一か所にいるだけ、体は疲れないが心が疲れる」と言ったそうです。
「昔は一人で放牧して、一人で砂漠に寝て、一人で死んでいった。そして心はいつも穏やかだった」とも。

滅びようとする遊牧民の魂とその生活の様子を等身大に描いた貴重なルポなのではないでしょうか。
著者との個人的な関係を物語る、親し気なまなざしの「女ノマド」の顔写真が掲載されているだけでも、この新書の価値があるように思います。

著者の紹介

「アラビア遊牧民」 本多勝一著 講談社文庫

「女ノマド、一人砂漠に生きる」を読んでもう一冊の遊牧民本を思い出しました。
1965年の20日間、サウジアラビア内陸部の砂漠に生きる遊牧民・ベドウイン族のキャンプで過ごしたルポルタージュ「アラビア遊牧民」です。
著者は朝日新聞記者の本多勝一。
著者にとってエスキモー、ニューギニア高地人と続いた極限に生きる生活実態のルポの第三弾です。

目次

行き当たりばったりで「女ノマド」にたどり着いた前者と異なり、「人種別、生活様式別の人間の生活実態の調査」というテーマに沿った計画の元、当時も今も外国人には門戸が狭いサウジアラビアを舞台に、誇り高い孤高の存在といわれたベドウイン族を対象としたフィールドワークになっています。

読者にとっては、「鎖国」サウジへの入国経緯などにも興味津々なのですが、そこにはさらっと触れられているだけです。
主眼はあくまで対象のベドウイン族の生活の実態です。
実に細かくサンプリングされています。

また、砂漠の太陽の美しさ、ラクダという動物の狡猾さ、などについては著者の心情を見事な美文で表現しています。
とにかく20日間のフィールドワークでこれほどまとまった成果が得られるのか、と思うほど見事に整理された内容です。

やがて、当初は「親切で慎み深い」と思っていたベドウインに対し、20日間の滞在の後には「どんな廃物であろうが、焼き捨ててでもヤツらなんぞにやるもんか」と思うほどに、印象が逆転してしまいます。

これを著者は、彼らの親切は砂漠のおきてに基づく慣習によるもので、根本には彼らの略奪文化に基づくがめつさ、のため、と分析しています。
むしろ世界的に見ればそういったがめつさの方が普遍的であり、日本的な謙譲の方が特異なのだ、とも。

サウジアラビアの地図。アブヒダードが現地

あとがきには、「ベドウインは興味深い人々だったし、再訪の希望は(著者にとって好意的な印象だった)エスキモーやニューギニア以上に強い」とあります。

遊牧民に対する印象が「再逆転」したそのココロは?
著者の客観的な分析手法をナナメ上に越えてゆく、遊牧民文化のぶっ飛びぶりに、冷静に戻った時の冒険心が刺激されたことによるものなのか?
それとも、55年前の日本人にも遊牧民(ノマド)に対しては潜在的な憧れの心理があったということなのでしょうか。

3.11から10年

2011年3月11日から丸10年がたちました。
当時のことはいつまでたっても忘れることはできません。

山小舎おじさんは54歳のサラリーマンでした。
午後2時過ぎの強烈な地震。
東京では見た目の被害こそなかったものの、交通がマヒしました。

今思えばけったいな話ですが、あの大地震にあっても、会社はアクションを起こしませんでした。
17時半の定時になって、おじさんは退社しました。

三々五々、退社したり帰宅する人が出始めた田町界隈を三田方面に抜け、恵比寿駅方面を目指して歩きました。
山手線、地下鉄線は止まっています。

恵比寿駅が近づくにつれ、道路が渋滞し始めました。
路線バスが満員のまま渋滞にはまっていました。

駅に着くと駅舎は閉鎖され、周辺にはバスやタクシーを待つ長い列ができています。
携帯電話はつながらず、電話ボックスには長い列ができています。
3月上旬の夕方は東京でも寒くて凍えます。
呆然としゃがんでいる人もいます。
せめて駅舎を開放できないものか、と思いました。

代官山、中目黒といった地域を斜めに抜け、三軒茶屋に出ました。
246号線沿いの歩道は川崎、横浜方面へと徒歩帰宅する人で埋まっています。
自動車道路は渋滞でピクリとも動いていません。
夜8時になったので、三軒茶屋の定食屋で夕食を食べました。

幸いなことに東京では停電も断水もしておらず、商店はほぼ営業しており、中には店先に「トイレ使ってください」などと貼り紙するところもあって助かりました。
食事、食料の調達も問題ありませんでした。

三軒茶屋から世田谷通りへ折れて、千歳船橋から環状8号線を渡って、5時間かけて、調布の自宅に帰りました。
世田谷通りからは徒歩の通行人数も減って、千歳船橋では電話ボックスから自宅に電話することができました。

京王線の仙川界隈にたどり着く頃は足も引きずる状態でした。
走っている京王線を見て、11時に仙川から一駅の最寄り駅まで電車に乗りました。
途中でタクシーにも手を挙げたのですが、環8をジャンジャン流れていたタクシーは全く止まってはくれませんでした。

翌週からは通常出社しましたが、しばらくは首都圏のガソリンスタンドに、給油を待つ車列ができていました。

茨城などへ出向くと、ブルーシートで覆われた民家の屋根や、傾いた電信柱、通行止めになった橋、などを見ました。

しばらくは、例えば宴会で隣になった他社のサラリーマングループとエールを交換し合ったり、何となく「オールジャパン」の雰囲気が東京にもありました。

ところで、山小舎おじさんは、震災前の2004年から3年半、仙台に単身赴任していたことがあります。
休日には仙台近郊の、荒浜、閖上、宮城県北部の志津川、気仙沼などへ行きました。

海水浴客でにぎわう荒浜、海岸の松林と入江の魚市場の風景の閖上、魚竜館で化石を見た歌津、箱でサンマを買い自宅へ送った気仙沼の場外市場、みななくなってしまいました。
否、なくなったのではなくて様相が一変してしまいました。

山小舎おじさんの思い出の景色などどうでもいいのですが、そこに住み、生き残った人たちにとって、景色の喪失、様相の一変、とはどういうことだったのでしょう。

たまさか、震災前に3年半ほど住んでいたものにとっても、自分なりの「景色」を根底から否定、轢断するかのような、当時の津波の映像など見たくない、と今でも思うのです。
ましてや、当事者の方々にとってはどれほどのことなのか・・・としか言えません。

旅行記を読む ユーラシア篇

旅行記を読むのが好きな山小舎おじさんです。

ちょっと前に「ヒマラヤ自転車旅行記」という本を読んで、それまで読んだ旅行記を思い出しました。
ユーラシアを舞台にした旅行記で忘れられないものを挙げてみました。

「ヒマラヤ自転車旅行記」B・セルビー著 東京書籍

47歳、子供3人を育て上げたイギリス人女性が自転車でパキスタンのカラチから、ギルギットを経て、インドに入りカシミールに入り、戻ってインドからネパールを横断、シッキムまでの旅行記です。

1980年代の旅です。
1970年代の第一次バックパックブームの後の時代で、ヒッピーブームも終わっていました。
とはいえ、西ヨーロッパ人にとってはパキスタン、インドは遥か彼方の文化果つるところ。マイナー地帯もいいとこです。
そこへ挑むのは、西洋社会では変わり者と言っていいでしょう。
しかも47歳の女性というのがすごい。
思い込んだら突き進む馬力は白人らしいし、自転車の整備や部品の手配、飲み水の消毒剤の携帯や、宿泊場所を各国の事情に合わせてなるべく事前に手配してゆくという用意周到さも白人らしい。

パキスタンのラワルピンディーからギルギットへの道・カラコルムハイウエー(といっても絶壁を削った砂利道)は、1982年に、不肖山小舎おじさんもバスで通りました。
47歳の著者が自転車で通った1年後です。
もう1年早かったら47歳の白人女性の自転車を、26歳の山小舎おじさんが乗ったバスが追い越していたかもしれません。

「シルクロードを全速力」 D・マーフィ 現代教養文庫

1963年にヨーロッパからインドまでを自転車旅行したアイルランド女性の旅行記。
ヒッピーブームもバックパッカーブームもなかった60年代のユーラシア紀行として貴重でもある。

1983年の「ユーラシア自転車旅行記」と比べて共通点と異なる点があります。
共通点としてはどちらの女性も現地人からメンサヒブと呼ばれることです。
貴婦人とか女主人とかの意味で、植民地人が白人の女性に使った称号の名残でしょう。
また、女だてらの自転車冒険旅行に対する尊敬の念からのことかもしれません。

自転車の機材、宿泊場所に対する用意周到さも共通しています。
1963年の冒険者はピストルさえ携行し、あまつさえバルカン半島を走行中に使用さえしています。オオカミに対してですが。

1983年の白人女性冒険家は、ピストルは携行していません。
当時のユーラシアは(特にインド、パキスタン、ネパールは)旅行している限りでは命の危険はむしろ北米、中南米などよりは安全な場所であることが認知されていたことによるのでしょう。
むしろ、白人旅行者は現地人からは金だけを落としてもらう対象として見られていたきらいがあります。
そうでなければ麻薬を吸いに来たアウトサイダーのイメージでした。
現地人もかなりすれてきており、興味があるのは彼らが持っている金だけ、といった風情になっていました。

その点、1960年代の旅行記「シルクロードを全速力」は、主人公の白人も現地人もまだまだフレッシュで、読者も一緒に冒険しているかのような、ハラハラ感に満ちた旅行記になっています。
空路を嫌い、フランスのダンケルクからバルカン半島を通っての行程。
不潔だ、野蛮だいう前に異文化世界に飛び込む勇敢さには、ヒッピー出現以前の正統派冒険旅行者の潔さを感じます。

イランの行程では、おじさんにも懐かしい地名が出てきます。
おじさんがソ連の侵攻で行けなかったアフガニスタンのカブールやバーミアンの描写もあります。

現在、旅行記は巷にあふれています。
世界中で旅行記に著されていない場所はもうないくらいの勢いです。
よほど珍しい場所でなければ、また不自然なほどキャラの立った著者でなければ旅行記を出せないような状況です。
その点、「シルクロードを全速力」は正統派の旅行記として貴重です。
誰もが今となってはうらやむものの、同じ時代に生きていたとしても決して行わなかったであろう、冒険旅行を行った著者の淡々とした事実の記録です。

「脱出記」S・ラウッツ著 ソニーマガジンズ刊

これは貴重な記録です。
旅行記ではありません。
第二次大戦でソ連の捕虜となり収容所送りとなったポーランド将校が、収容所を脱走し、6500キロを踏破してインドまでたどり着いた記録です。

ポーランド将校がなぜソ連の捕虜になるのか?
ご存知のようにポーランドがソ連の衛生国になるのは戦後の話で、それまではドイツからもソ連からもいじめられるのがポーランドだったからです。
特にソ連にとって戦後の衛生国化を見越したポーランド政策は、国力の弱小化が戦前からテーマでした。
国のエリート層である将校クラスの粛清はその一環だったのです。

シベリアの収容所を6人の仲間と一緒に脱走した主人公は、バイカル湖を越え、モンゴルに入り、ゴビ砂漠、チベットからヒマラヤ山脈を越えて、インド領シッキムへと到達します。
その間仲間を3人失います。
バイカル湖付近では17歳ほどのポーランド人少女が一向に加わりますが、その少女は、ゴビ砂漠で疲労と栄養失調から行き倒れとなります。

本筋は脱走記なのですが、旅行記として読んでみてもこれ以上の冒険旅行は聞いたことがないくらいです。

ソ連領を越え、モンゴルに入ってからは放牧民から施しを得つつ、ゴビ砂漠では食べるものがたまにいる蛇しかなく仲間を失い、チベットでは再び住民に施しを得つつの旅。
雪のヒマラヤ越えでは、登山家でもしないと思われる雪渓や崖を越えます。
こんなところには誰もいないだろうという崖の中腹に、放牧民の越冬場所がある記録などは紀行文としても貴重なのではないでしょうか。

モンゴルに入った時点で投降するという選択肢もあったでしょうが、最後まで頑固に初志貫徹するところに白人のメンタリティを感じます。

最後のヒマラヤ越えの時に、雪男?とみられる2匹の動物を3時間にわたり数百メートル離れた場所から観察する描写があります。
わざわざこの脱出記に書き加えたのですから事実だったのでしょう。

いずれにしても稀有な記録です。

「カシュガルの道」S・ジョインソン著 西村書店刊

題名にひかれて購入しました。小説です。
1923年に伝道のためにカシュガルに赴いたイギリス人姉妹の物語。

その子孫が現代のロンドンで、自らの先祖の1920年代のシルクロード最深部での伝道を通しての人間性の秘密に向き合う、といったストーリー。
どうせ100円で買ったゾッキ本、面白くなかったらやめようと思って読み始めて、2ページ目、1923年のカシュガルの道端での現地人少女の出産の描写で度肝を抜かれ、そのままこの小説に引き込まれました。

本書のテーマは、先祖の秘密を暴く行程ですが、自我と妄執が絡み合った白人ならではの業の深さを感じる秘密自体はともかく、舞台となるカシュガルの描写は、紗がかかったセピアの写真のようでもあり、現地の埃を感じるようでもあり(カシュガルに行ったことはありませんが)、なんともいえないものがありました。

「チベット旅行記」河口慧海著 講談社学術文庫

シルクロード、チベット関連の旅行記というと本著にとどめを刺すのではないでしょうか。
日本人僧侶が外国人入国禁止の当時のチベットに入るため、羊をおともにヒマラヤを越えてゆく話です。
携帯食料は麦焦がし、現代の防寒着もなく雪山を越えてゆきます。
襲い来るチベット犬を杖で払い、放牧民の庇護に助けられます。

現在のネパールからチベットに入りますが、カイラス湖を通ってラサに至る詳細の行程は現在でも明らかになっていないそうです。

チベット語を学び、僧侶として道中で修業し、情報を集めたうえでの入国です。滞在中はチベット人で通し、日本人であることが見破られそうになった時点で再度秘密裏に出国しています。

この本のハイライトは雪のヒマラヤ山中で道に迷い、羊とともに死を覚悟する場面でしょうか。
まさに冒険旅行記の神髄にして白眉です。
1901年のことでした。